紛争解決の日本語教育 -「文化」を通じての外国語教育と国際関係論の

紛争解決の日本語教育
-「文化」を通じての外国語教育と国際関係論の「連携」-
TEACHING JAPANESE THROUGH CONFLICT
RESOLUTION: CONNECTIONS BETWEEN FOREIGN
LANGUAGE EDUCATION AND INTERNATIONAL
RELATIONS VIA CULTURE
堀内 仁
ブラウン大学
1.はじめに
近年、他の外国語教育同様、日本語教育においても、従来のように「言語」や
「コミュニケーション」だけでなく、それらの成立の背後にある「文化」を指導
する必要性やその指導法についての関心が高まってきている。とりわけ、米国の
日本語教育界では、全米外国語学習基準(以下、スタンダーズ)を巡る活発な議
論がなされている。
本稿では、スタンダーズの理念を効果的に実現可能にすると思われる日本語教
育の一つの方向性として、「紛争解決」という概念が重要であることについて論
じる。また、そうした「紛争解決」の日本語教育が日本語教育界全体に寄与する
可能性についても触れる。
本稿の構成は、以下の通りである。まず、スタンダーズの理念を効果的に実現
可能にする条件について述べる(第二節)。次に、その条件を満たすために、国
際関係論と日本語教育との「連携」の必要であることについて述べる。特に、国
際関係論と日本語教育の「連携」には「文化」が必要であること、日本語教育と
「連携」を結んだ国際関係論の考察対象として「地域」が必要であること、及び、
国際関係論と日本語教育の「連携」を支える「文化」は学習者の母文化との「比
較」が必要であることを論じる(第三節)。更に、国際関係論と日本語教育との
「連携」を強化するために、「紛争解決」という具体的「内容」を与え、「紛争
解決」の日本語教育モデルを提案する(第四節)。最後に、同モデルの観点から、
現状の日本語教育について批判的に検討し、今後の日本語教育に関する提言を行
う(第五節)。
2.スタンダーズ志向の日本語教育の条件
まず、スタンダーズ(National Standards Collaborative Project 1999)の理念を最
大限に活かすために、筆者が考える日本語教育の条件とは以下のようなものであ
る。
(1)a.
スタンダーズの全目標を達成し関係付けること。
178
b.
以上の条件を満たすために、妥当な文化・言語教育のアプローチを選
択すること。
以下、(1)の条件について説明する。
2.1 スタンダーズの全目標の達成し、関係付けること
第一に、以下のようなスタンダーズの目標である5C はそれぞれ達成され、か
つ、関係付けられねばならない。
(2)スタンダーズの目標(5C)
a. 言語伝達・意思疎通 Communication:英語以外の言語で意思伝達する。
b. 文化 Culture:他の文化の知識を獲得し、理解する。
c. 連携 Connections:他の教科と関係を持ち、情報を獲得する。
d. 比較対照 Comparisons:言語と文化の性質に関する洞察を深める。
e. 地域社会・グローバル社会 Communities:国内外の多言語コミュニテ
ィーに参加する。 1
(2)の目標を真の意味でそれぞれ達成するには、各目標の下位基準(standards)を
満たす必要があるが、本稿ではそれら下位基準のそれぞれについて検討する余裕
はない。ここでは、各目標の関係付けについて考えよう。
まず、目標の中でも中核をなすと思われるものは、疑いもなく(2a)の「言語
伝達・意思疎通」であろう。というのも、それなしに、外国語学習基準とは言え
ないからである。
しかし、だからと言って、スタンダーズの他の四目標(2b-e)が二次的なもの
であると考えてはならない。スタンダーズでは、(2)の各目標のいずれも他の
目標と切り離せないことが強調され、各目標を囲む五つの輪が鎖状に繋がれたイ
メージで人間言語の豊かさが示されている(National Standards Collaborative
Project 1999: p31-32)。また、こうした5C 相互の結び付きは、外国語教育のカ
リキュラム自体を豊かにすると同時に(當作 2006: p43)、外国語教育が他の隣
接領域との結び付きにより成り立つことを示していると見ることもできるだろう。
但し、スタンダーズの(2b-e)のうち、(2b)の「文化」が最も(2a)の「言
語伝達・意思疎通」との結び付きが強く、実際の外国語教育の内容に最も大きく
影響を与えると考えてよいかと思われる。というのも、文化という概念自体が他
の目標にも暗に陽に示されているし(當作 2005)、スタンダーズという特定の
プロジェクトを離れても、文化教育がポスト・コミュニカティブ時代の外国語教
育・日本語教育の焦点になっているからである(Kramsch 1993、ネウストプニー
1995、細川 2002、等)。特に、文化という概念が他の目標にも暗に陽に示され
ていると言うポイントは重要で、(2b)の「文化」が(2a)の「言語伝達・意思
1
本稿では、當作(2006)に従い、スタンダーズの5Cの訳語を与える。スタンダーズの翻訳とし
ては、国際交流基金日本語国際センター(聖田京子訳、1999)がある。
179
疎通」と他の三目標(2c-e)とを結び付ける「糊」の役目を果たしていると見る
こともできるだろう。
ここで、(2b)の「文化」がスタンダーズの目標間の「糊」の役目を果たすこ
とと、(2c)の「連携」という目標が外国語教育と他教科との「糊」の役目を担
うということは区別しておきたい。とりわけ重要なポイントは、後者の(2c)の
「連携」が担う「糊」の役目により、前者の(2b)の「文化」が担う「糊」の役
目が色付けられるということである。このことは、例えば、理系教科と外国語教
育との連携と、文系教科と外国語教育との連携を比較すれば明らかである。自然
観や科学観といった哲学的内容等を含まない限り、前者の連携では、「文化」に
関する知識は直接的に科目と関係付けにくいが、後者の連携では、「文化」に関
する知識が直接・間接的に科目と関係付けやすいと言えよう。更に、後者の連携
においても、関係付けられる科目に応じて(もっといえば、その科目で取り上げ
られるテーマやトピックに応じても)、「文化」に関する知識の焦点も異なって
くると考えられる。
2.2 妥当な文化・言語教育のアプローチを選択すること
以上のことから、スタンダーズは文化重視の外国語教育の枠組みであると言え
るだろうから、文化・言語教育一般にとって最も妥当なアプローチを採用すべき
である。本稿では、特定のアプローチの選択には至らないものの、特にスタンダ
ーズの文化観を反映するアプローチについて考える。
先に、スタンダーズの各目標の下位基準については詳述を控える旨を述べたが、
以下のような(2b)の「文化」の二つの下位基準はスタンダーズの文化観を反映
するものなので、議論を避けて通るわけにはいかない。
(3)「文化」の下位基準
a. 基準 2.1:学習対象となる文化の行動・実行様式(practices)とパースペ
クティブ (perspectives)の関係の理解を示す。
b. 基準 2.2:学習対象となる文化の所産(products)とパースペクティブ
の関係の理解を示す。
これら下位基準は、いずれも三つの文化的概念である3P(practices, products,
perspectives)の間で、パースペクティブと他の二者(文化の所産、及び、文化の
行動・実行様式)とのそれぞれの関係付けを規定したものである。 2
つまり、これら下位基準が目指すのは、単なる表面的事実として文化的知識の
獲得だけでなく、そうした事実を説明する文化的背景(=パースペクティブ)に
関する知識をも獲得することである。こうした文化観は目新しいものとは言えな
いが、文化の所産とパースペクテイブとの関係、及び、文化の行動・実行様式と
パースペクテイブとの関係をどのように捉え、実際に何をどう教えるのかという
2
牧野(2003)では、文化の所産productsと文化の行動・実行様式practicesの関係付けも考慮すべき
であると述べられている。
180
問題に対して、見解の一致には至っていないというのが現状であろう。しかしな
がら、先行研究が指摘してきたように、以下のような注意事項を念頭において、
文化教育を体系化していくことが必要であると思われる。
(4)文化教育に関する注意事項
a. 規範的な教え方に対する憂慮
b. 文化の多様性や変化に対する配慮の欠如
c. 中間文化や第三の文化に対する配慮の欠如
d. 他教科と文化の関連付けの欠如
e. 「個の文化」の視点の欠如 3
まず、(4a)の「規範的な教え方に対する憂慮」とは、(3)で重要視されて
いる文化的背景(=パースペクティブ)をあたかも「規範」として教える態度に
対する警告である。例えば、佐藤(2007b)では、日本語教科書の『なかま』に
出てくる日本人の相槌や謙遜に関する規範的説明及びその規範を強化するための
練習問題について批判的な見解を示している。もちろん、規範的に教えられた文
化的背景にも文化の所産や文化の行動・実行様式との関係を説明する力はあるだ
ろうが、その力故に文化的偏見やステレオタイプを学習者に植え付けてしまう可
能性は否めない。
また、その規範的説明が必ずしも真とは限らない場合があることは、次の注意
事項である(4b)「文化の多様性や変化に対する配慮の欠如」からも明らかであ
る。即ち、(4b)は文化の基本的性質である多様性や変化という側面を無視して
教える態度に関する警告であるが、規範的な説明は均質的・恒久的な文化的背景
を前提にしやすいからである。その上、(4b)は、文化の多様性や変化といった
動的な性質を静的に捉えようとする文化観や文化教育への警告でもある。
文化の動的な性質を捉えていない文化教育への警告としては、(4c)の「中間
文化や第三の文化に対する配慮の欠如」も含まれる。特に(4c)の場合、母文化
と目標文化との接触に伴い、異文化理解の途上で発展する「中間文化」や異文化
理解の結果として生じる「第三の文化」といった、母文化とも目標文化とも異な
るハイブリッド文化形成における多様性や変化という側面を無視して教える態度
への警告と言える。 4
さて、「中間文化」にせよ「第三の文化」にせよ、異文化理解の過程は異文化
を学習者個人の文化として内在化させようとする試みであると言い換えることが
できるかもしれない。細川(2002)は「ことばも文化も個人の中にあり、ともに
その能力として存在する」という立場に立ち(同書、p252)、特にことばによる
3
(4)の注意事項のうち、特に(4a, b)はKubota (2003)、(4c, d)はKramsch (1993: 205-206)、
(4e)は細川(2002)を参考のこと。
4
「中間文化」「第三の文化」といった用語はそれぞれ、Kramsch (1993)のinterculturality、
third placesといった概念に対応する。これらの概念は、言語接触における「中間言語」や「ピジ
ン化、クリオール化」等とも関連している(Schumann 1978)。
181
コミュニケーションとの関係において、「社会における他者との協働的関係を取
り結ぶための個人における認識の方法や様式」を「個の文化」と呼んでいる。本
稿でも、文化の諸性質の一つとして文化は内在化されると仮定するが、注意事項
(4e)「「個の文化」の視点の欠如」は、文化を外在的なものとしてのみ捉え、
教えようとする態度に関する警告である。
以上では、文化をどう教えるかに関する注意事項であったが、(4d)「他教科
と文化の関連付けの欠如」は、文化の何を教えるかという問題(松本 1997)に
関する警告である。従来の外国語教育では、文法・語彙あるいはコミュニケーシ
ョン機能などの言語項目が外国語教育の「内容」とされてきたが、文化重視の外
国語教育では、「文化」が言語項目に代わる「内容」と見做され、内容重視のア
プローチが効果的であると考えられている(當作 2005)。しかし、外国語教育
の内容として文化を考えると、現実問題として文化のどの部分、どの側面を、ど
の程度、その内容として盛り込んでいくのか、容易には決め難いであろう。そこ
で、Kramsch(1993)が提案するようにある教科を通じて文化・言語を教えてい
くなら、その教科を通じて見えてくる文化を外国語教育の「内容」と見做すこと
ができるだろう。
以上、スタンダーズの文化の下位基準(3)及び、文化教育一般に関する注意
事項(4)について論じてきたが、それらを踏まえて、本稿が提案する妥当な文
化・言語教育のアプローチは以下のような条件を満たすべきであると考える。
(5)妥当な言語・文化教育の条件
a. 文化的事実の背後にある文化的背景の理解を促すこと。
b. 記述的な態度で文化を見る目を養うこと。
c. 文化を動的なプロセスとして捉え、その多様性や変化に配慮すること。
d. 母文化から目標文化を見る視点を、その逆の視点に変えていくよう努力
すると同時に、学習者個人のユニークな文化的アイデンティティーを養
うこと。
e. 特定の学科やテーマを通じて文化を見ること。
(5a)は(3a, b)に、(5b)は(4a)に、(5c)は(4b)に、(5d)は(4c, e)
に、(5 e)は(4d)に、それぞれ対応する。 5
3.日本語教育と国際関係論の「連携」
これまで、スタンダーズの理念を反映する日本語教育の条件について考えてき
たが、その一つは、スタンダーズの目標間の関係付けであった。とりわけ、「文
化」という目標が「言語伝達・意思疎通」という目標とその他三つの目標を結び
つける「糊」の役割を果たしており、「連携」という目標が外国語教育と他教科
5
Horiuchi(2007)で提案した文化触変論モデルに基づく文化・言語教育は基本的に(5)の諸条件
を満たすと考えられるが、本稿では更に 2.1 節で論じた条件を加えることで、更にスタンダーズ
の体系を反映する文化・言語教育の枠組みが示される。
182
との「糊」の役目を担い、それにより、「文化」が担う「糊」の役目が色付けら
れると論じた。
もう一つの条件は、文化・言語教育に関するものであったが、特に(5e)の
「特定の学科やテーマを通じて文化を見ること」という条件は、「連携」という
目標の重要性を示しているように思われる。
本節では、日本語教育と国際関係論との「連携」について論じ、その「連携」
によりスタンダーズの目標間の関係付けが強化されると主張する。特に、本節の
議論の中心は、米国において国際関係が外国語教育の動機付けとなってきたこと、
そして、国際関係論及び外国語教育の分野で異文化理解の必要性が強調されてき
たことである(但し、外国語教育の分野での異文化理解の必要性に関しては、外
国語教育の流れがコミュニケーション志向になってきたときから、かなり自明な
ことではあるし、本稿で取り上げる余裕はない)。更に、「比較対照」「地域社
会・グローバル社会」という目標と国際関係論との関係について論じる。
3.1
米国における外国語・外国文化学習の必要性
では、まず、米国において国際関係が外国語学習の動機付けになってきたとい
う点について説明する。この点について、Omaggio (1986: 10-19)Kramsch
(1993: 247-253)では、東西冷戦の緊張緩和を目的とした 1975 年のヘルシンキ
協定において、米国及び他の調印国が「外国語及び外国文明の研究を奨励する」
ことに合意し、その後大統領諮問委員会が結成され、間接的に ACTFL の到達度
ガイドライン(ACTFL Proficiency Guidelines)の開発や、カリキュラムを越えた
外国語教育(Language Across the Curriculum)の実験的導入(Earlham College
1980-1984; St. Olaf College 1989)を促したことなどが述べられている。
特に最近では、9.11 同時テロ以降、世界の他の地域に関する米国市民の知識不
足が深刻に受け止められ、それに対応して、2006 年 1 月 5 日ブッシュ大統領が
幼稚園から大学院レベルまでの外国語教育を強化する「国家安全保障言語構想
(National Security Language Initiative: NSLI)」を発表し、重点言語として、アラ
ビア語、中国語、ロシア語、日本語、韓国語と、ヒンズー語を含むインド系言語
とペルシャ語を含むイラン系言語を指定した(船守 2006)。また、同じく 9.11
を契機に、MLA でも臨時委員会が設けられ高等教育レベルでの外国語教育改革
が検討されているようである(MLA Ad Hoc Committee on Foreign Languages
2007)。このように米国の安全保障が外国語学習を促した例としては、他にもス
プートニック・ショック以後ロシア語教育が盛んになった事実などが指摘できる
(片岡他 2001)。
以上のように、米国では特に、国家の危機管理及び安全保障の観点から、国際
関係の変化に応じて、外国語や外国文化学習が奨励されるという事実が指摘でき
る。もちろん、他にも外国語の学習動機(例えば、ビジネス、研究、文化的魅力、
等)があり得るが、以上の事実から、国際関係が米国では外国語の学習動機にな
ると言ってよいのではないだろうか。
183
3.2 国際関係論における文化学習の必要性
次に、国際関係論で異文化理解の必要性が高まっているという点について論じ
る。筆者はこの点について、既に他の論文(Horiuchi 2007a, b)で説明している
ので、特に詳しくは触れないが、一般的に言えることは、冷戦後の国際関係の変
化あるいはグローバリゼーションの進行に伴い、もはや従来の(特に、現実主義
の)国際関係論のように、「国家」を主体として考察するだけでは十分ではなく、
国境を越えるモノ・ヒト・情報等を考慮していかなければならないということで
ある(平野 2000、入江 1998、初瀬・野田編 2007)。当然、モノ・ヒト・情報の交
流が増えることで、それらに付随する文化的情報も増えるわけで、それを理解す
ることなしに今日の国際関係を理解することもできないと言うわけである。
また、現在の国際関係論(及び国際社会一般)において、ハンチントンの「文
明の衝突」論(Huntington 1993)やナイの「ソフト・パワー」論(Nye Jr. 2004)
が与えた影響は小さくない。前者は、冷戦後の世界において、紛争の根源は政治
思想や経済ではなく文化であり、文明間の境目が将来の戦線になると論じた説で
ある。この説が真だとすると、国境を越える主体が増える今日の国際関係におい
ては、益々異文化理解の重要性が求められるということになる。とりわけ、後で
論じるように、「紛争解決」という観点から異文化理解が重要であると言えるの
ではないだろうか。
一方、後者の「ソフト・パワー」論は、外交において、従来の軍事力や経済戦
略のように、他者の欲求を無視するハードパワーに頼るのではなく、自分が望む
ことを他者にも望んでもらうといった「惹き付ける力」としてのソフトパワー
(例えば、人気を集めるポップカルチャーや、多くの人の支持を集める政治的価
値観等)を利用することの重要性を論じたものである。この論の影響は、特に実
際の国際社会及び外交政策等に影響を及ぼしている。例えば、日本では、近年、
ソフトパワーに基づく外交政策やコンテンツ産業の振興について関心が高まって
いる(文化外交の推進に関する懇談会 2005、岸 2004、中村 2004、等)。 6 今
後、ソフトパワー論を後ろ盾とする文化外交又は「パブリックディプロマシー」
が推進されれば益々、文化交流も活発になり、それに伴い、異文化学習の機会が
増えるであろう。
尚、以上のような国際関係論における異文化理解の必要性の高まりに応じて、
「国際文化論」のような独立の専門領域も開発されつつあり(平野 2000)、外
交交渉や平和維持活動等の下位分野でも文化が重視されるようになった(Avruch
1998、Rubinstein 1993)。
3.3 「比較対照」「地域社会・グローバル社会」の位置づ
け
6
外務省「文化交流」[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/rinen/index.html]や文部科学省の
国際文化交流懇談会報告書「今後の国際文化交流の推進について」
[http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/15/03/030316.htm]等も参照のこと。
184
さて、以上のような、国際関係論、外国語教育、文化の三者の密接な関係に基
づき、「文化」を通じての国際関係論と外国語教育(における「言語伝達・意思
疎通」という目標)との「連携」の可能性を目指すのが本稿の目的であるが、第
二節で論じたスタンダーズの目標間の関係付けという条件を満たすために、他の
目標である「比較対照」「地域社会・グローバル社会」の位置づけを考えねばな
らない。
まず、「比較対照」については、外国語教育や異文化理解において必要不可欠
である。なぜなら、学習者は母語・母文化の視点からのみ、目標言語・目標文化
に近づけるからである。但し、注意すべきことは、比較対照とは何のために必要
なのかという点である。スタンダーズの目標である「比較対照」の下位基準では、
言語・文化の比較の結果、言語・文化一般を理解することが奨励されており、誤
解を生みやすい。単に、母語・母文化と目標言語・目標文化の違いを明らかにし、
言語・文化を一般化するだけなら、特に外国語教育の中で行われる必要はなく、
例えば、言語学や文化人類学等の分野で分析的に行われればいいであろう。外国
語教育で行われるべき比較対照は、母語・母文化と目標言語・目標文化の違いを
意識することから始まるであろうが、究極的には、母語・母文化の視点から目標
言語・目標文化との違いを見るという視座を、目標言語・目標文化の視点から母
語・母文化との違いを見るという視座に変えていくことにより、言語・文化一般
の理解することではないだろうか。そして、結果として得られた言語・文化一般
の理解が学習者個人の文化観を広げることにつながる。第二節で論じた「中間文
化」「第三の文化」「個の文化」との関連では、母語・母文化の視点から目標言
語・目標文化との違いを見るという視座を、目標言語・目標文化の視点から母語・
母文化との違いを見るという視座に変えていく過程で「中間文化」が現れ、その
結果、言語・文化一般の理解することで「第三の文化」を習得することになり、
その「第三の文化」が学習者個人の文化観として内在化されるという意味で、
「個の文化」となるのである。
次に、「地域社会・グローバル社会」であるが、「国内外の多言語コミュニ
ティーに参加する」という目標こそ、実は国際関係論と密接に関係する。なぜな
ら、それは能動的に(広義の)国際関係を変えていこうとする活動としての「国
際交流」に他ならないからである(平野 2000、戦後日本国際文化交流研究会
2005)。これは、留学のように学習者が国境を越える場合はもちろん、情報技術
の発達に伴い、国内にいながらにして目標言語話者のコミュニティーに参加する
ことも、学習者が国内で旅行者や短期・長期滞在者や移民等の目標言語話者のコ
ミュニティーに参加することさえも含む。
この国際交流として国内外の多言語コミュニティーに参加するという態度は非
常に重要である。特に、「学校内外で学習対象の言語を使う」という下位基準は、
表向きには外国語教育と当該目標との関連を述べているように見えるが、とりわ
け、学校外で目標言語を使う場合、単に学習者が習った外国語を練習したいとい
う目的だけでは、コミュニケーションが成立するはずがない。やはり、相手の文
化である目標文化を理解し、自らの世界観を能動的・意識的に変えていこうとす
185
る姿勢で相手側に接していかなければ、相手側のコミュニケーションへの積極的
参加を期待できないであろう。
4.紛争解決と文化
以上では、「文化」を通じて日本語教育と国際関係論が「連携」することによ
り、スタンダーズの目標(=5C)が関係付けられることを論じた。本稿では、
そうした関係付けにおいて、日本語教育と国際関係論の「連携」を可能にする日
本語教育と国際関係論との「連携」を可能にする「文化」の内容としての「紛争
解決」を提案する。
まず、「紛争解決」という用語が法学、心理学、ビジネス、国際関係論など
様々な分野で使われていることからも分かるように、一般に「紛争」という概念
は、例えば、戦争からソフトクリームかサンデーかの選択まで(Ting-Toomey
1985: 71)のように、複数の人間の間のコミュニケーションや個人の内面的心理
状態(葛藤)をも含む幅広いものと言えるだろう。本稿では、厳密な定義はでき
ないが、この幅広い「紛争」概念を反映すると思われる、「自分の願望が達成さ
れない、あるいは相手との利害の不一致を自分が感じている状況」(鈴木 2004:
23)という定義を暫定的に採用する。
以下、本節では、このように広く定義された「紛争」概念に従い、「連携」し
た日本語教育と国際関係論の内容としての「紛争解決」の妥当性を論じ、本稿で
提案する「紛争解決」の日本語教育モデルを提示する。
4.1 外国語教育と国際関係論における「紛争」
「連携」した外国語教育と国際関係論の内容としての「紛争解決」の妥当性を
示す第一の根拠は、外国語教育でも国際関係論でも「紛争」は最重要概念の一つ
である、という事実である。先に述べたように、「紛争」は人間生活のあらゆる
側面に密着した非常に幅広い概念であるから、当然外国語教育や国際関係論にも
関与する。
国際関係論は、そもそも、地域紛争や国家間の紛争・戦争、テロリズム、イデ
オロギーの対立、経済・貿易摩擦、外交交渉等を研究対象とするので、「紛争」
概念が最重要概念の一つであることに疑問の余地はないであろう。
一方、外国語教育に関しては、それが人間のコミュニケーションを対象とする
ものであるが、従来は「紛争」概念からは程遠い理想的・友好的かつ円滑なコミ
ュニケーションを目指すものだったと言えるように思われる。例えば、熊谷(印
刷中)の批判的教科書分析では、日本語教科書『げんき』において、「理想の留
学生」メアリーが「何と言ったらいいのかわからず困ったり、相手とコミュニケ
ーションをするにあたり、交渉(あるいは、駆け引き)をしなければならないと
いった場面は、教科書のどこにも出てこない」こと、「登場するキャラクター全
員が円滑な人間関係のもとで、仲良く生活している」こと、「全ての相互行為は、
スムーズで協力的に演じられている」こと、「意見の対立や食い違いなどが起こ
186
るという状況設定は皆無である」こと、更に「勘違いや無理解ということが全く
起こらない」ことなどが指摘されている。
こうした批判の前提は、外国語教育において、現実的なコミュニケーションが
反映されていないということである。同様の批判は、ネウストプニー(1995:
186)の接触場面研究の動機付けにもなっており、「外国人はどのような場面で
日本語を使っているか、そのときどのようなコミュニケーションの問題がおこる
か」ということから出発して初めて効果的な日本語教育が可能になると考えられ
ており、鎌田(2003)のように接触場面を教材化しようとの試みもなされている。
このように、外国語教育においても、現実のコミュニケーションを反映しなけ
ればならないとの認識が高まっており、その意味で外国語教育に「紛争」概念を
も取り込む必要があるだろう。 7 というより、むしろ、理想的・友好的かつ円滑
なコミュニケーションに近づくためにも、現実に起こる「紛争」を回避したり、
解決したりする能力の養成が外国語教育には求められているのではないだろうか。
ことさら、外国語教育が国際関係論との「連携」を行う場合には、「紛争」を最
重要概念の一つと見做すべきであろう。
4.2 「紛争」の根源としての「文化」
次に、「連携」した外国語教育と国際関係論の内容としての「紛争解決」の妥
当性を示す第二の根拠は、「紛争」の原因の一つとして「文化」が挙げられると
いう点である。もちろん、同じ文化を共有すると思われる二者間でも「紛争」は
起こるし、個人の内部にさえ起こるのであるから、その原因全てを「文化」に帰
することはできない。しかしながら、外国語教育や国際関係論では、異文化の接
触を扱わなくてはならないのだから、「紛争」の原因を常に抱えているというこ
とになる。この点において、「紛争解決」とは、概略、「紛争」の背後に絡まっ
ている文化的要因を分析し、その縺れをほぐすことであると言ってもよいだろう。
「紛争」の原因としての「文化」についての研究は、異文化コミュニケーショ
ン(Ting-Toomey 1985、Tenhover 1994、久米・長谷川 2007、鳥飼 2004、等)、
ビジネス(Tung 1984)、国際関係論(Huntington 1993、Avruch 1998、Rubinstein
1993、Cohen 1997、武者小路 1967)交渉学(御手洗 2003、鈴木 2004)等の分野
ではとりわけ関心が高まっているようである。また、日本語教育の分野でも、研
究書ではないが、Kataoka with Kusumoto(1991)では、日本人とアメリカ人との
接触場面における問題とその処理に関するエピソードが集められ、練習問題の形
で、その問題の背後にある文化的要因が説明されている。ここで、これらの研究
や分析を紹介する余裕はないが、「紛争」特に交渉等では、以下のような文化的
概念を使って説明されることがある。
(6)交渉に関わる文化的概念
a. 日本文化 vs 西洋文化
7
紛争解決の日本語教育への応用といった取り組みは、鈴木有香氏により行われているものを除
き、まだ活発には行われていないようである(2008 私信)。
187
集団主義 vs 個人主義、タテ社会 vs 平等主義、高文脈 vs 低文脈、
あわせ vs えらび
b. 日本との交渉に特有なもの
甘え、腹芸、根回し、稟議制
これらの概念の多くは、交渉や紛争解決のみならず、日本人の様々なコミュニケ
ーション行動を特徴付けるものとして、広く使われている。
4.3 「紛争」のメリット
最後に、「連携」した外国語教育と国際関係論の内容としての「紛争解決」の
妥当性を示す第三の根拠は、「紛争」そのものに肯定的側面も備わっているとい
う事実である。
「紛争」と言えば、コミュニケーションの破綻や個人内部での葛藤であるから、
否定的なイメージとつながり、これを外国語教育の内容にすることについて抵抗
があるかもしれないが、交渉学では、このプロセスを経験することで以下のよう
なメリットもあると考えられているようである。
(7)「紛争」のメリット(鈴木 2004: 26)
a. 自分をよく知り、相手をより深く理解できる。
b. 人間関係を強める。
c. コンフリクトについて話し合うことで、組織のメンバーが問題に気づき、
対処できる。
d. 組織内変化とモラルの向上が促される。
e. 新しい気づき、アイデアを得ることができる。
f. 自分の発想やアイデアに自信が持てる。
g. 相手の発想やアイデアやその価値に信頼が持てる。
h. 自分のコミュニケーションスキルを向上させる機会
i. 個人の心理的発達、成長を促す。
j. 相手をエンパワーする。
k. 楽しさを刺激する。
また、国際文化論の観点から、平野(2000: 30-31)は、ハンチントンの「文明
の衝突」論に言及して、個人の内部で異文化摩擦を経験した者こそ(つまり、重
層的な文化的アイデンティティーを獲得した者こそ)、他者との異文化摩擦に対
し賢明に対処する能力を備えていると考え、そのような能力によりハンチントン
が描くような大規模な抗争を防ぐことができると主張している。 8
8
有田(2006)では、日中関係の悪化といった論争上にある問題をテーマとしてレポートを書か
せる作業を通じて、中国人学習者が個人内部で異文化摩擦を経験する過程が記されている。
188
4.4 「紛争解決」の日本語教育モデル
以上の議論に基づき、本稿では以下のような日本語教育モデルを提案する。
(8)紛争解決の日本語教育モデル
学習者個人
母語、母文化
|
「比較対照」
|
目標文化:「文化」
|
紛争解決:内容
目標言語:「言語伝達・意思疎通」
「連携」
国際関係論
|
「地域社会・グローバル社会」
上のモデル(8)は、日本語教育(とりわけ、「言語伝達・意思伝達」)と国際
関係論との「連携」が中心となり、両者において紛争解決といった内容を通じて
「文化」を理解する力を養うのだが、その際、学習者個人の母語や母文化と「比
較対照」を通じて個の文化としての第三の文化を獲得していくこと、また一方で、
日本語・日本文化学習を通じて、「地域社会・グローバル社会」といった日本の
コミュニティーにおいて、学習者が能動的に国際関係を変えていこうとする国際
交流に貢献できることを示している。
モデル(8)は、主にスタンダーズの5C の関係付けを反映するものであるが、
妥当な言語・文化教育の条件(5)との関連では、以下のように捉えることがで
きる。まず、「文化的事実の背後にある文化的背景の理解を促すこと(=5a)」
という条件は、当該モデルに基づき、紛争解決という内容を通じて母語・母文化
との「比較対照」を行い学習者個人の文化として内在化していくプロセスによっ
て満たされる。また、そうしたプロセスは、「記述的な態度で文化を見る目を養
うこと(=5b)」、「文化を動的なプロセスとして捉え、その多様性や変化に配
慮すること(=5c)」、「母文化から目標文化を見る視点を、その逆の視点に変
えていくよう努力すると同時に、学習者個人のユニークな文化的アイデンティテ
ィーを養うこと(=5d)」といった条件を満たすことにより達成される。最後に、
国際関係論との「連携」及び紛争解決という内容の選択により、「特定の学科や
テーマを通じて文化を見ること(=5e)」という条件も満たされる。
5.現状と展望
189
さて、最後に本稿で提案する日本語教育モデルの観点から、現状の日本語教育
に関して検討し、今後どのように当該日本語教育モデルが実際の日本語教育現場
や日本語教育研究に貢献できるか考えよう。
5.1 言語が先か文化が先か
まず、第一に、現行の日本語教育では、文化重視のアプローチへの関心が高ま
っているにも関わらず、「言語第一、文化第二」という考え方も根強く残ってい
るように思われる。例えば、ヤコブセン(2007: 52)は、「実際問題としては、
日本語ほど英語と構造上異なった言語を対象とした場合、4年間という通常の大
学レベルの語学コースでは、文法構造、語彙、表記法といった、狭い意味での言
語技能に関わる項目を教えるだけでも精一杯というのが現状であり、その上文化
を教えるとすれば、その範囲に厳密な制限を加える必要がある」とし、初級レベ
ルでは文法や語彙構造に反映されているような文化的な要素(敬語、授受動詞、
親族名等と関わる社会的な決まり)にとどめ、より高度な文化(文学、歴史、宗
教等)は専門分野の授業に任せるか、上級レベルのコースに入ってからにして、
「言語技能を高めるという基本的な目標に支障を来さない程度にすべきである」
と述べている。
こうした考えに共感を示す教師も少なくないと思われるし、筆者自身もこのジ
レンマに悩まされている。ただ、こうした考えの根底には、言語技能と文化の知
識は別物であり、後者の知識が前者の技能の養成を促進するとは思えない、とい
う見方や、教師として言語技能の養成に関する知識はあっても文化知識の養成に
関するトレーニングは受けていないという教授能力の限界から来る不安が横たわ
っているように思われる。
この問題は、文化の知識がどの程度言語技能の養成を促進し、その場合の文化
の知識とはどのようなものかという疑問への答えが実証的研究を通じて明らかに
ならない限り、根本的に解決しないと思われるが、本稿の日本語教育モデルでは、
文化に関する知識が「紛争解決」といった特定の内容を通じて得られるものであ
ると同時に、言語技能もこの特定の内容を通じて養成されるものである。したが
って、言語も文化も並行して学ばれることになる。基本的には、細川(2002)の
「言語文化統合主義」と同様の立場であると思われるが、理論的細部については
今後の研究課題である。
その他にも、「文化第一、言語第二」といった可能性を追求できるかもしれな
いが、この場合、文化の知識こそが言語能力の養成を促進する(文化の知識なし
に言語能力は養成できない)ということが実証的研究を通じて明らかにされない
限り、実現できないだろう。さもなければ、外国語教育の一次的な目標が文化知
識の養成ということになってしまう。 9
9
當作(2007)では、「文化第一、言語第二」を強調していたが、具体的なアプローチについて
の言及はなかった。
190
また、言語文化統合主義の変種としては、牧野(1996)のように一般的な空間
概念を通じて文化が文法や語彙構造にいかに反映されているかという言語学的ア
プローチもあるが、本稿では重視すべき内容が「言語」ではなく「紛争解決」で
ある。
5.2 規範的か記述的か
既に触れたところではあるが、現行の日本語教育では、文化を教える際、規範
的な態度になりやすいと言えるだろう。何故規範的な態度が悪いかといえば、結
局それが日本文化に関するステレオタイプや偏見を生み出し、事実からかけ離れ
てしまったり、多様性や変化に対応できなくなるからである。例えば、英語圏で
使われる日本語教科書には、言語項目やコミュニケーションスタイル等の文化的
背景を説明するために英語で書かれた「規範的な」短い説明が見られるが(例え
ば、『なかま』『ようこそ』『中級の日本語』等)、海外で教える場合は特に、
こうした限られた文化説明に基づいて、学習者が日本文化に対する文書的イメー
ジを形成するケースが多いと思われる。平野(2000: 24-25)は、ケネス・ボール
ディングのイメージ研究に基づき、日常生活のイメージや科学的イメージが現実
や実験によって検証され、比較的容易に修正されるのに対し、活字・映像などを
通じて作られる文書的イメージは、その対象が事実から遠隔にあるために事実か
ら乖離しやすいと指摘し、特に国外に出ることの少ない人々は文書的イメージに
よってのみ外の人々をイメージし、そのイメージによってステレオタイプ(紋切
り型)や偏見を作り出すと述べている。
文化を規範的に教えることや、ステレオタイプ形成の問題点は本稿以外でも
色々指摘されているが、それに対する方向性としては、「記述的」、「批判的」、
あるいは「動的(つまり、プロセスとして)」なアプローチの必要性が指摘され
ている(Kubota 2003)。具体的な言語・文化教授法については、今後の研究を
待たねばならないが、本稿の日本語教育モデルでは、「紛争解決」を日本語教育
の内容とすることで、それ自身が動的なプロセスとして教えられると考えられる。
例えば、教室活動に、交渉といった紛争解決プロセスそのものを取り込むことで、
疑似体験を通じて、コミュニケーションとその文化的背景を理解していくことが
できると思われる。その取り込み方にも色々な可能性が考えられるが、現時点で
の筆者の立場は、例えば、根回しのような日本的交渉スタイルを教室活動に取り
入れる可能性である。通常の日本語コースでも使えるし、特にビジネス日本語等
のクラスには必要不可欠とも言える。その他にも、異文化コミュニケーションや
交渉学で理論化された方法を教室活動に取り入れる可能性もあるが、今後の研究
課題である。 10
また、「記述的」ということに関しては、教授法というよりむしろ日本語教育
研究に求められる態度かもしれない。先にも触れた接触場面研究は、とりわけ記
10
交渉学については、御手洗(2003)や鈴木(2004)等を参照。異文化コミュニケーションにつ
いては、Ting-Toomey, Stella(1985)やBennett, Bennett, and Allen (2003)等を参照。
191
述的な研究態度を要求するが、今後、外国人と日本人との「紛争解決」において
実際どのような問題があるのかに関する包括的な記述的研究が待たれる。 11
5.3 連携は可能か
本稿では、日本語教育と国際関係論との「連携」を提案したのだが、特にアメ
リカの大学の日本語プログラムでは、筆者の知る限り、この種の連携はカリフォ
ルニア大学サンディエゴ校等を除き(牛田 2007)、ごく少数であると思われる。
牛田は、大学院の国際関係論のプログラムにおけるスタンダーズベースの日本語
教育の試みを紹介しているが、本稿の提案するような「文化」を通じての「連
携」ではなく、必要に迫られて国際関係論的なテーマを内容としたにとどまって
いるように思われる。本稿が提案する「連携」はあくまでスタンダーズの目標を
関係付け、しかもその「連携」がスタンダーズを特徴付ける文化重視のアプロー
チを促進するものである。その意味で、牛田の試みは「文化」(及び、「比較対
照」「地域社会・グローバル社会」)との関係付けを欠くものと言えるだろう。
また、大川(2004: 129)では、ハワイ州のスタンダードが取り上げられてい
るが、そこには「連携」と「地域社会・グローバル社会」とが一つにまとめられ
ており、「日本語を用いて他の教科分野の知識を習得・補強する」という下位基
準は難しいので採用されなかったと報告している。
以上のように、筆者の知る限り、スタンダーズの枠組みでの本格的な「連携」
は未だ実現していないように思われる。しかしながら、本稿が提案するような体
系的な「連携」が今後望まれていることは、ヤコブセン(2007: 53)が「たとえ
大学 1 年生から毎年日本語コースを履修したとしても、日本語による専門分野の
講義が理解でき、その内容についてディスカッションができるところまで日本語
力を延ばすことの困難さ」にも関わらず、「本大学にいながらにして対象言語で
学べる専門コースへの要求がこれから益々高まることが予想される」と述べてい
ることからもうかがえるのである。
更に、本稿で提案する体系的な「連携」は日本語教育側にメリットがあるだけ
でなく、当然国際関係論を中心とする学際的プログラム全体にメリットがあり、
少なくとも(幅広い意味での)国際的な交渉や平和維持活動等の実践的なトレー
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11
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が、文化に関わるものは、自己賞賛の回避という点に関する指摘にとどまり、今後この種の研究
では、もう一歩文化に踏み込んだ研究が必要ではないかと思われる。
192
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