第2章 賃貸編 第5節 賃貸物件の心理的瑕疵 問1 自殺による損害の範囲 【問】アパートの居室の風呂場の浴槽内で、借主が入居から2年後に自殺した。貸主 は、風呂場の浴槽やリビング・ダイニングの壁紙を交換し、お祓いをした上で、賃 貸募集を行ったが1年間は借り手が見つからず、その後、相場賃料月額8万円の半 額である月額4万円で5年間借りられるのであれば、借りたいという者が現れたの で、その者と、期間5年、賃料月額4万円とする賃貸借契約を締結した。なお、こ のアパートは、都心部にあり、最寄り駅から徒歩7分、主に単身者が居住する1L DKのアパートである。 【小問1】貸室内の修繕費用等について 借主は風呂場の浴槽内で自殺したが、貸主は、リビング・ダイニングの壁紙も 全て交換して、お払いをした。貸主が、借主の連帯保証人に対して、原状回復費 用として、浴槽の交換費用、リビング・ダイニングの壁紙の交換費用や、お祓い に要した費用を請求した場合に、これらの費用は認められるか。 【小問2】逸失利益について 貸主は、自殺が起きたことによって、1年間は賃料収入が得られず、さらに4 年間は賃料収入が半減したが、これらの逸失利益について、連帯保証人に対して、 その全額の損害賠償請求が認められるか。 【小問3】隣室の逸失利益について この自殺事件後、隣室の入居者が退去した後、賃貸募集を行ったが、隣室につ いても1年間入居者が見つからなかった。この隣室の賃料の減収についても、貸 主は、連帯保証人に対して損害賠償請求が出来るか。 【答】 1【小問1】貸室内の修繕費用等について 上記事例では、浴槽の交換費用、お祓いの費用は認められる可能性が高いと言え るが、リビング・ダイニングの壁紙の交換費用までは、請求出来ないと考えた方が よい。 2【小問2】逸失利益について 本事例においても、賃貸できなかった1年間分の賃料額と、2年間分の賃料の5 0%程度を損害として認めてもらえる可能性があるものの、さらに2年分の賃料の 減額分については、自殺と相当因果関係のある損害としては認められる可能性は低 いものと考える。 3【小問3】隣室の逸失利益について 本件でも、自殺があった貸室の隣室について、借主が見つからない期間があった としても、借主の相続人や連帯保証人に対して逸失利益の賠償を求めることは認め られないものと思われる。 【解説】 1【小問1】貸室内の修繕費用等について 1) 上記事例では、浴槽の交換費用、お祓いの費用は認められる可能性が高いと言 えるが、リビング・ダイニングの壁紙の交換費用までは、請求出来ないと考えた 方がよい。 2) 浴室内での自殺の場合に、正に現場となった浴室には強い心理的瑕疵が生じる が、悪臭が他の居室に及ぶ等の特別な事情がない限り、自殺の現場となっていな い居室についてまで、当然に心理的瑕疵が生じるとまでは認めてもらえないから である。 3) なお、東京地裁平成23年1月27日判決((一般)不動産適正取引推進機構 RETIO84-114)は、上記事例と同種の事案について、居室のクロス張 り替え費用・クリーニング費用を自殺と因果関係のある損害として認めたが、そ の控訴審では、悪臭が存在したことの立証が不十分であるとして、浴室内に限っ て補修・お祓いの費用を損害として認め、クロス張り替え費用・クリーニング費 用までは認めないとの見解が示された(和解により終了)。 4) 借主は、自殺によって部屋に心理的な瑕疵を生じさせないよう注意して建物を 使用する義務(善管注意義務)を負っている。 5) 従って、借主が建物内で自殺することは、借主の故意過失によって、建物に心 理的瑕疵を生じさせる行為であり、借主は貸主に対して善管注意義務違反(債務 不履行責任)による損害賠償義務を負うことになる。 6) さらに、連帯保証人は、貸主に対して、連帯保証人として同内容の損害賠償義 務を負うことになる。 2【小問2】逸失利益について 1) アパートの貸室内で借主が自殺した案件について、自殺発生後1年間は新たに 賃貸できず、さらにその後相場家賃の半額で2年間程度賃貸せざるを得ないとし て、1年分の賃料収入額及び、2年分の賃料収入の50%相当額について、借主 の相続人や連帯保証人等に対して賠償を命じた裁判例がある(東京地裁平成19 年8月10日判決。東京地裁平成26年8月5日判決。(一般)不動産適正取引 推進機構RETIO98-138)。 2) これらの裁判例は、都心部の単身者向けアパートに関する例であり、比較的短 期間での人の入れ替わりが多い点や、隣人間のつきあい等は比較的希薄な状況に あること、建物賃貸借契約の契約期間が2年ごとに更新する内容であること等の 事情を考慮し、心理的瑕疵が一定期間(通常の賃貸期間2年)の経過によって希 薄化し、また、一定期間他の入居者が居住することをもって、心理的瑕疵が解消 されると判断している。 3) なお、逸失利益について、自殺後最初の2年間については、相場賃料の50% 相当、さらに2年間は、月額1万円の限度で、自殺と相当因果関係のある賃料減 額分であると認めて算定した裁判例もある(東京地裁平成22年1月6日判決R ETIO84-116)。この判例においても、結局賃料の減額による損害を合 計4年間しか認めていない。 4) さらに、裁判においては、今後発生するであろう将来の逸失利益の賠償を求め る場合は、ライプニッツ係数を用いて中間利息を控除する方法で計算されてい る。 【注】中間利息とは、例えば、今後4年間の賃料減額による損害賠償を認める場合 にも、半年先、1年先、2年先・・・と言うように、将来もらえるはずの賃料を 事前に一括して支払うことになるので、先払いを受けることで利息(中間利息と 呼ばれる)相当分が損害賠償を受ける貸主に発生するため、その中間利息相当分 を差し引いて支払い額を決めるのが裁判実務である。この中間利息を差し引き正 味支払い額を計算するための係数をライプニッツ係数という。 5) 競売における鑑定事例では、自殺等の心理的瑕疵のある物件について、約30 %前後の評価減を認める例が多く、賃料の合理的な減額幅を算定する際に、30 %程度に止める判断もあり得る。そのため、上記①の裁判例がそのまま相場とし て定着するかどうかは、なお、裁判例の集積を待つ必要がある。 3【小問3】隣室の逸失利益について 1) 自殺が起きた貸室の隣室について、なかなか入居者が決まらなかった場合に、 その期間の逸失利益を自殺と相当因果関係のある損害として認めることについ ては、裁判例は消極的である。 2) その理由は、自殺が起きた貸室そのものを賃借する場合に比べて、その隣室を 賃借する場合は、社会通念上、嫌悪すべき歴史的事情とされる程度がかなり低い ものと考えられることや、単身者向けの都心部のアパートであれば、人の入れ替 わりが比較的多く、近所付き合いも希薄な場合も多いこと等を考慮すると、特に 世間の耳目を集めるような自殺事件ではない限り、隣室を貸す際に、貸主や仲介 業者において、自殺の事実があったことを説明すべき義務を負うとは言えないと 判示した裁判例(前掲東京地裁平成19年8月10日判決)もある。 問2 自殺の説明義務の期間 【問】アパート内の以下の場所で自殺があった場合、以下の小問はどのようになる か? 【小問1】貸室内での自殺の説明期間 貸室内で自殺があった後に、賃料を半額にして2年間賃貸した。その後新たに別 の借主に賃貸する際には、貸主や仲介業者は、過去自殺があった事実について、借 主に説明・告知すべき義務を負うか。 【小問2】共用廊下での自殺による影響の範囲 都心部にある単身者向けの賃貸アパートの共用廊下で借主が自殺した。この廊下 のあるフロアには、自殺した場所を通行する貸室が3室ある。これらの貸室を賃貸 する際に、貸主や仲介業者は自殺についての説明義務・告知義務を負うか。また、 貸主は、自殺した借主の相続人や連帯保証人に対して、どの程度の損害賠償を請求 することが可能か。 【小問3】賃貸ビルの屋上からの飛び降り自殺 賃貸ビルの屋上から、当該ビル内で店舗を経営する者の家族の1人が飛び降り自 殺をした。この場合、このビルの1室を店舗として賃貸する際に、貸主や仲介業者 は説明義務・告知義務負うか。 【答】 【小問1】貸室内での自殺 1 当該自殺が特に世間に耳目を集めるものではなく、その後入居した者が、こだ わりなく相当期間使用した後であれば、当該建物の心理的瑕疵はかなり薄れたも のと考えてよく、貸主や仲介業者は、過去の自殺についての法律上の説明義務・ 告知義務は負わないと考えてよい。 ただし、実務上トラブルを避けるためには、事情を説明したうえで、それでも なお借りてくれる者に貸したほうがよい。 2 貸室内での自殺等による心理的瑕疵については、裁判例は、①当該物件の所在 ・入居者の属性等から、入居者の入れ替わりの頻度や、近所付き合いの濃淡に関 する事情、②自殺事故発生後の経過年数、③自殺事故が世間の耳目を集めるもの だったか等の事情を考慮し、心理的瑕疵が時間の経過とともに希薄化していくこ とを前提に、賃貸時に告知・説明すべき心理的瑕疵が存在したか否かを判断して いる。 3 賃貸事例では、2年~3年程度で心理的瑕疵はかなり希薄化し、告知・説明義 務を認めなかった裁判例もあるが、一方で、売買事例では、自殺事故発生後6年 以上が経過してもなお、売主や仲介業者の告知・説明義務を認めた裁判例もある。 4 そのため、告知・説明義務の有無については、経過年数のみで判断するのでは なく、上記①ないし③の事情を考慮して慎重に判断すべきである。 なお、自殺事故発生後、別の借主が賃借し、相当期間問題なく借りた場合には、 物件を借りる際に嫌悪すべき歴史的背景としての心理的瑕疵は社会通念上かな り希薄化したもの言えるので、告知・説明義務の対象にはならないと判断してよ いと思われる。 5 実務上の判断 1) 上記のように説明しても、結局現場の担当者は正確な判断ができない。 2) 従って、実務上は「担当者が説明すべきか否か迷ったら説明義務ありとして 処理する(説明する)」ことをアドバイスしている。 3) このような基準だと説明する期間は相当長くなる。しかし、仲介の実務に携 わる者は、トラブル発生を避けなければならない。 4) 迷ったら、説明し、それで借りない、買わないというのであれば仲介しない 方が良い。迷いながら結局自殺のあったことを説明せず、トラブルが発生すれ ばその損害は甚大である。 【小問2】アパートの共用廊下での自殺 1 自殺した場所が居室内ではないとしても、共用廊下は、貸室の借主が日常的に 通行利用する場所であり、そのような場所で自殺があった事実は、社会通念上、 一般人が嫌悪すべき事情といえるので、当該廊下を通行する必要がある貸室を賃 貸する際には、貸主及び仲介業者は、自殺があった事実を告知すべき義務を負う ものと考える(アパートの貸室の玄関前の共用スペースで自殺があった事例に関 する東京地裁平成26年5月13日判決参照。(一般)不動産適正取引推進機構 RETIONO.97-112)。 2 貸主が請求できる損害の範囲については、上記説明義務・告知義務を履行する ことによって、賃料が下がることによる逸失利益が考えられるが、客観的な損害 額の算定は難しい。 3 なお、上記裁判例は、都心に近い利便のよい単身者向けワンルームマンション の事案であるが、一室あたり月額4万7000円の賃料に対して、1か月あたり 1万5000円(賃料の約31.9%相当)の減額分とし、共用廊下の自殺現場 となった部屋に面していた3部屋の賃料に付き、2年間のみ当該自殺と相当因果 関係のある損害として認めた。 4 ただ、この事例は、自殺のあったのち3年間募集したが実際入居者はいなかっ たという事案であるにもかかわらず、賃料の一部しか減額を認めず、期間も2年 間に限定している。 【小問3】賃貸ビルの屋上からの飛び降り自殺 1 賃貸ビルの1階・2階を居酒屋として使用する者に対して、貸主や仲介業者が 1年半前に起きた屋上からの飛び降り自殺の事実を告知・説明すべき義務を負わ ないと判断した裁判例がある(東京地裁平成18年4月7日判決)。 2 その理由は、貸室内で起きたものではないので、賃貸目的物そのものの瑕疵と は言えないこと、自殺事故発生から1年半が経過していたことから、社会通念上、 賃貸目的物にまつわる嫌悪すべき歴史的背景等に起因する心理的欠陥に該当す るものとまでは認め難いというものであった。 3 裁判例では、売買の事案について、約2年1か月前に旧所有者の親族が飛び降 り自殺をした物件を取得した宅建業者である売主について、転売する際に、この 自殺についての説明義務を肯定した例があり、その際に損害認定の理由として、 賃料の減額が見込まれることが挙げられている(東京地裁平成20年4月28日 (一般)不動産適正取引推進機構RETIO72-98)。 したがって、飛び降り自殺があった物件の一室を賃貸する場合についても、貸 主や仲介業者に説明義務・告知義務が認められる可能性もある。 4 本問についても言えることは、「担当者が説明すべきか否か迷ったら説明義務 ありとして処理(説明)」しておけば、このような裁判は避けられたことである。 【まとめ】 1 自殺による告知義務のトラブル、貸主の遺族・連帯保証人に対する損害賠償の 判例を分類すると、次のような傾向がみられる。 1) 自殺の告知については、長い期間、告知義務があるとされる。 2) その反面、貸主が遺族・連帯保証人に対し損害賠償を請求すると、自殺によ る家賃減収(損害の発生期間)は短く認定されてしまう。 2 このような傾向になるのは、以下の理由からである。 1) そもそも、自殺の告知について告知義務が長く認定されるのは、裁判所が「自 殺を知っているのに黙って貸した」と訴える被害者(借主)の主張を受け、被 害者救済に傾き、自殺を知っているのに黙った貸した貸主・仲介業者の責任を 重く見るからである。 2) 逆に、貸主が自殺した入居者の遺族・連帯保証人に対し損害賠償を請求する と、賃料の減額による損害額もその期間も長く認めないのは以下の理由によ る。 ① 借主側は余り支払能力がない遺族が多いこと(実際には相続放棄をする例 が多い)。 ② 保証人は無償かつ義理で連帯保証人になっているから、余り多額の負担を 連帯保証人に負わせるのは公平ではないこと。 ③ 貸主は、賃貸営業を行って利益を得ているのだから、自殺という事件のリ スク(損失)も負担すべきだという考量。 3 したがって、注意すべきは、例えば上記の判例のように、貸主の請求する損害 発生の期間が2年に限られたからといって、その貸主は2年後の新たな入居者に 自殺の事実を告げなくても良いということにはならない点である。言い換えると 貸主の告知義務の期間と、損害賠償として家賃の減額が認定される期間とは別に 考えなければならない。
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