ジョセフ・トッティス牧師 ヨハネ第一 4:7−21 1ヨハネ 4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛の ある者はみな神から生まれ、神を知っています。 使徒ヨハネは、互いに愛し合うようにと繰り返し教えています。 では、少し復習しましょう。 1ヨハネ 2:10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。 1ヨハネ 3:10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わ ない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。 1ヨハネ 3:11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えで す。 1ヨハネ 3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛して いるからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。 1ヨハネ 3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって 私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 1ヨハネ 3:17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者 に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。 1ヨハネ 3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられた とおりに、私たちが互いに愛し合うことです。 ヨハネは少しくどいほどに同じことを言っています。なぜ、「互いに愛し合いなさい」と何度も繰り 返しているのでしょうか。 自分がしたくないことは、私たちはすぐに忘れてしまう、ということを神様が知っておられるからだ と、私は思います。 例えば、「互いに愛し合う」ことなどです。 JOY(喜び)は、第一にイエス、次に人のこと、最後に自分のことを考えることで得られます。しか し、正直なところ、ほとんどの人は、そんなことをしたいとは思わないでしょう。 それは、私たちの罪の性質が、自己中心で、人に要求ばかりするものだからです。 しかし、それは悲しみにしかつながりません。 さて、考えてみましょう。英語では、「love」(愛)という単語を日本語の「大好き」くらいの感覚 で何にでも使います。 ピザを愛してる。(大好き) 飼い犬を愛してる。(大好き) ビデオ・ゲームを愛してる。(大好き) 友だちを愛してる。(大好き) ダン牧師を愛してる。(大好き) 家族を愛してる。(大好き) エイミーを愛してる。(大好き) 神様を愛してる。(大好き) その度合いに区別はありません。しかし、使徒ヨハネがここで使った、日本語で「愛する」と訳され ているギリシャ語の単語は、多くの人がご存知のとおり、「アガペ」です。 では、この「アガペ」は、他の愛とどのように違っているのでしょう。まず、アガペの愛は、自己犠 牲的な愛です。 英語のloveや日本語の愛と違って、「アガペ」という単語は、聖書の中で恋愛や性的な愛には使われ ません。また、友情や兄弟愛についても使われません。アガペの愛は、その性質と特徴において、独 自のものなのです。 アガペは神からのものであり、神ご自身の本質が愛です。 1ヨハネ 4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 神は私たちをアガペしてくださるだけでなく、神ご自身がアガペなのです。 神がなさることは、すべて神の愛からあふれでています。 神が愛してくださるのは、愛が神の本質だからであり、神ご自身のあらわれだからです。 神は、私たちのような愛に値しない者を愛してくださいます。それは、私たちが愛されるべき者であ るからではなく、神の本質がそうさせるからです。そして、神はご自身の本質と性質に忠実であられ るのです。 1ヨハネ 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてください ました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 「その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。」という個所を見落とさないでくだ さい。 アガペは、私たち人間にとっては自然に備わるものではありません。なぜなら、堕落した人間が、こ のような愛を生み出すことはできないからです。 神が愛してくださるように愛するためには、そのアガペの愛の源であられる「その方によって」生き なければなりません。 信仰によってイエスを受け入れると、私たちは御霊に満たされます。その御霊によって、私たちは御 霊の実(ガラテヤ5:22)であるアガペの愛を生み出すことができるようになるのです。 神のみが、このような自己犠牲的な愛を私たちのうちにもたらすことができます。そのような愛が私 たちのうちにあることで、私たちが神の子であることがわかるのです。 1ヨハネ 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの 供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 神の愛を受けるに値するようなことを私たちは何もしていません。私たちが神を知るよりずっと前 に、すでに神は私たちを愛してくださっていたのです。 ローマ 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったこと により、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 私たちが最悪の状態だったときに、神は私たちを愛していてくださったのです。 エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 エペソ 2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 神はご自身の愛で私たちを救ってくださいました。私たちが受けるに値しない愛が、カルバリの十字 架で、私たちの罪の代価を支払ってくれたのです。 1ヨハネ 3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって 私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 神が愛してくださったように、私たちも互いを愛し合うべきです。 エペソ 5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。 エペソ 5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身 を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。 互いに愛し合うのを妨げる要因は何でしょう。 傷ついた経験があるからでしょうか。それはよくわかります。 エイミーと出会うずいぶん前、私が21歳のとき、ある女の子を好きになりました。 しかし、彼女は私に嘘をついて、何度も浮気をしました。私はずいぶん傷ついて、また誰かを愛する ことが怖くなりました。 そして、27歳のときにクリスチャンになりました。 そしてある日、この昔のガールフレンドのことを思い出し、つらい思い出も思い出しました。 私は主に祈って尋ねました。なぜ私はあんな経験をしたのか、あれは何だったのか、と。 そして、主は語ってくださいました。(このことを私は決して忘れません。) 主は言われました。「彼女が嘘をついたとき、どんな気持ちだったか覚えていますか。」 「はい、主よ。覚えています。本当につらかったです。」 「浮気をされてどんな気持ちだったか覚えていますか。」 「はい、主よ。私は深く傷つきました。」 「彼女があなたと別れようとしたとき、どんな気持ちだったか覚えていますか。」 「はい、主よ。覚えています。すごく悲しかったです。」 そして、主はこう言われました。「あなたが私をそのように扱えば、私も同じように感じるのです よ。」 イザヤ 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。し かし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 私たちは皆、主の心を傷つけたことがあります。私たちは皆、聖霊を悲しませたことがあるのです。 私は何度も失敗したことがあります。 それでも、神は私を愛し続けてくださいます。そして、何度でも赦してくださいます。 これが、神のアガペの愛です。 それを知りながら、神が私の心に注いでくださった愛で、他の人を同じように愛さずにいられるで しょうか。 1ヨハネ 4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた 互いに愛し合うべきです。 あの人を愛したり赦したりすることはできない、と思う人がいますか。 あなた自身の罪と汚れを主に思い出させていただきましょう。 そうすることによって、自分自身がどのような者かを知るためです。 神が私たちに与えてくださった恵みと愛を思えば、神の愛を他の人に示さないことを正当化できな いでしょう。 Ⅰヨハネ 4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神 は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 私たちが互いに愛するとき、神の愛が具現されます。 神につながる人たちが生き方の中で神の愛をあらわすなら、周りの人は、神の愛、恵み、赦しを、 直接感じとることができます。 また、私たちが神の愛を人にあらわすとき、神の愛が私たちのうちに完成されるのです。 マタイ 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 でも、どうやってできるのでしょう。それは、互いに愛し合うことによってです。 1ヨハネ 4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにお り、神も私たちのうちにおられることがわかります。 御霊がうちにおられるとどうやってわかるのでしょう。 御霊の実とはどのようなものでしょう。それはアガペの愛ではありませんか。(ガラテヤ5:22) 私たちのうちにどれほど神の愛があるかは、私たちが他の人を愛する度合いによって測ることがで きます。 エイミーを愛するのは難しくありません。それは簡単です。 でも、他の人のことはどうでしょう。 マタイ 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りな さい。 マタイ 5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人 でも、同じことをしているではありませんか。 マタイ 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたので しょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 言い換えれば、世間で軽 されるような人でも、自分を愛してくれる人は愛するし、挨拶してくれる 人には挨拶もします。私たちも同じことをしているなら、その人たちとかわりないということです。 1ヨハネ 4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをして います。 1ヨハネ 4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も 神のうちにいます。 この「イエスが神の御子」という言い方が理解しにくいのは、人間が父親と子の関係を肉体的なも のと理解しているからです。 しかし、神の性質について理解しなければならないことがあります。 ヨハネ 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりませ ん。」 ですから、人間の父親と子のような感覚で、イエスが神の子であるというのとは違うことをご理解 ください。神は、結婚して息子を持ったのではありません。 神は、マリヤと結ばれて子どもを作ったのではありません。 イエスが神の御子であるというのは、イエスは人間のかたちのうちにあらわされた神だという意味 です。(ヨハネ1:1,4) イエスは聖霊によってマリヤのうちに宿った神の御子です。 ルカ 1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいま す。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 イエスがユダヤ人の指導者たちの前に連れて行かれたとき、大祭司は彼を尋問し、問いに答えるよ う命じました。 「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答え を言いなさい。」マタイ 26:63 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。(マタイ 26:64) イエスは、キリストであり、神の御子であり、完全に人間であると同時に完全に神です。以前学んだ とおり、このことを告白することは、神との正しい関係を持つのに不可欠です。 1ヨハネ 4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうち にいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。 1ヨハネ 4:17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たち が、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリス トと同じような者であるからです。 1ヨハネ 4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が 伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。 私たちが神の子となるとき、奇跡が起こります。 天国で永遠に生きるという約束をいただくだけでなく、この世での約束もいただくのです。 どういう意味?と思いますか。それはこういうことです。 神の子として、私たちは確信できることがあります。それは、神の完全で良いご計画にそぐわない ことは、神が私たちの身に起こされないということです。 私が神につながって、神を信頼しているなら、何も怖がる必要がないということです。 私たちはどういうときに恐れるでしょう。それは、疑いがあるときではありませんか。 一方、信じていて確信があるときは、恐れはありません。 私たちが疑いを持つとき、恐れが出てくるのです。 主が与えてくださる愛に満ちた確信を私たちが捨てて、自分の知恵や他の人の知恵に頼るなら、こ のようなことが起こります。 申命記 28:66 あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさ えおぼつかなくなる。 ヤコブはこのように言いました。 ヤコブ 1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とが めることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。 ヤコブ 1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大 波のようです。 疑い(または不信仰)は、ストレス、不安、恐れ、といったかたちであらわれます。 今日は母の日ですから、子どもに対する母親の愛を少し考えてみましょう。 母親は自分の子を守るためなら、ためらわず、疑いも恐れもなく、自分の命を投げ出すのではないで しょうか。 わが子に危険が迫っていることを察知した瞬間に、母親の完全な愛が、すべての恐れを消してしまい ます。 ヨハネ 15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていま せん。 全き愛は恐れを締め出します。 私たちが神の愛の中で「安心」しているとき、私たちには恐れがありません。 しかし、逆も真なりです。 私たちが神の愛に「不安」を感じていると、恐れが生じます。 恐れを乗り越えるには、恐れに立ち向かうことだと教えられますが、そうではありません。 神の愛にどっぷり浸かることが解決法です。 自分の人生を神の全能の御手に委ねるなら、神が許されない限り私たちに何も起こらないと、わかり ます。そして、神が許されるできごとは、みことばにあるとおり、すべてを働かせて益としてくださ るのです。(ローマ8:28) そのことを忘れると、恐れが洪水のように押し寄せてくるでしょう。 恐れを軽視することはできません。現実の問題であり、なかなか立ち向かうのが難しいのは、よくわ かります。 しかし、ここに恐れを乗り越えるカギがあります。 心配になり、疑いや恐れがわいてきたら、神のみことばが言っていることを思い出し、そこから平安 を得ましょう。 神の完全な愛は、カルバリの十字架にあらわされていることを思い出してください。 そして、3日目にキリストはよみがえられました。主は確かによみがえられた!(イースター) 主は死も墓も打ち破られました。ですから、あなたの恐れも打ち破ることができるお方です。 主にあなたの人生を明け渡し、信頼しましょう。そして、神の平安であなたの心を満たしていただき ましょう。 1ヨハネ 4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。 1ヨハネ 4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄 弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 ヨハネが愛について語り終わったかと思ったら、まだ続きがありました。 教会の歴史の中で、私たちは気の利くそつがない人でなければならないという考えが入ってしまいま した。誰の気も害さないようにしなければならないと。しかし正直なところ、聖書のどこにそんなこ とが書いてあるのかと私は疑問に思います。 そのような人は、柔和ややさしさを弱さや放任と取り違えています。 聖書は、「愛をもって真理を語り」なさいと教えています。(エペ4:15) けれども、真実は痛いこともあります。 箴言 27:5 あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。 箴言 27:6 憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。 ここでヨハネは、愛をもって真理を語っています。 1ヨハネ 4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄 弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 神を愛していると言いながら、兄弟を憎んでいるなら、神のみことばが、あなたはうそつきだと言っ ています。 これは「厳しい愛」です。 イエスはこれが難しいことを知っておられました。私たちに対して罪を犯した人を愛するとなると、 なおさらです。 そこで、主は私たちに次のように教えられました。私も含め、多くのクリスチャンがもっとこの教え に忠実であればよいのにと思います。 マタイ 18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさ い。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。 マタイ 18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふた りか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。 マタイ 18:17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言 うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。 イエスが言われたことをあなたがすべてしたにもかかわらず、相手が愛をもって和解することを拒む なら、 その人は教会によって戒めを受け、最終的には兄弟として扱われなくなります。 だからと言って、相手を憎んだり、赦さないままでいて良いということではありません。 あなたは、愛をもって和解するためにできるかぎりのことをしたということが大事です。 もし、相手があなたを傷つけて罪を犯したことを謝らなかったとしても、私たちは赦すべきなので す。イエスがこう言われたからです。 マタイ 6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 マタイ 6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。 これは厳しいみことばです。「これは自分の行いによるという意味なのか」という疑問がわいてく る個所です。 神が赦してくださるかは、私が人を赦すのによるのか。それなら、自分の行いによって赦されるの か。もし赦してほしければ、人を赦さないという選択はないということか。 とてもよい質問です。これは、神学的に難しい問題です。 赦しの重要性を理解することが不可欠だと思います。 私たちは赦さなければなりません。ペテロが言ったように回数の問題ではありません。 「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょう か。」 (マタイ18:21) ペテロは、「七度まででしょうか。」と言った自分は恵み深いほうだと思ったでしょう。 同じことで同じ人を7度も赦すことが可能だと思う自分を誇りに思ったかもしれません。 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言いま す。(マタイ18:22) 490回! それは、回数の問題ではないということです。むしろ、聖霊の導きによって選択するかという問題 です。 イエスが繰り返し強調されたことは、私たちは多くを赦されたのだから、いつまでも他の人を赦さ ずに恨みを抱いたりしていてよいのか、ということです。 マタイ 6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 マタイ 6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりませ ん。 私は、イエス・キリストのことばを修正したりしません。それに従い、イエスが言われたように赦し たいと思います。 もちろん、それは私の性質に逆らうものです。私の性質は、仕返ししたいと思うからです。 けれども、イエスは私たちを愛してくださいます。そして、私たちが怒りや恨みを抱かず、人を赦す ことが私たち自身にとって大切だということを、主はご存知です。ですから、赦すことは自分のため でもあります。 残念なことに、多くの人が赦せないという気持ちを持ち続けることで、自分自身を精神的にも肉体 的にも苦しめています。 自分が赦されるために赦すというのが十分な理由でないなら、 そうしたいと思わなくても、みことばに従うためだけにそうしてはどうでしょう。 でも、イエスが言われたからという理由だけで赦すのなら、偽善ではないかと思いますか。 肉においては、もちろんそうでしょう。 しかし、霊においては、まったくそうではありません。 サムエルは言いました。「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、」サムエル第一15:22 御霊にある従順は、私たちの肉の感情にまさるということをご理解ください。 ですから、偽善者のように「感じた」としても、実際には、主に従っているのです。 でも、「赦したいと思わない」と言われるでしょうか。 思うとか感じるとかはあまり関係ないのです。 赦すかどうかは決断です。感情は、神様に変えていただけばよいのです。 ただ、主のみことばを信じ、そうできるように助けていただいて、主に従えばよいのです。 「私はあの人たちを赦すと決めました。もうむしかえしたりしません。他の人に言いふらしたりも しません。いつまでも根に持ちません。」と心に決めて宣言してください。 そう決断して、前に進んでください。 心から赦すと言われるように、赦しには感情が入っていないといけないのでは、と思われがちです が、 そんなことはありません。それは選択の問題です。 赦そうと決断するのです。 自分の肉ではなく、主に従うことを選択するのです。 イエスは、ご自身がしたことのないことを私たちにしなさいと言っておられるのではありません。 イエスを迫害した人たちについて、十字架上で何と祈られたでしょうか。 ルカ 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしてい るのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。 それは、イエス様だから簡単だ、神様だから、と思われるでしょうか。 では、初めての殉教者ステパノはどうでしょう。石打ちにあって殺されるとき、迫害した人たちのこ とを同じように祈りました。(使徒7:20) これは不可能なことではありません。イエスが私たちにしなさいと言われることについては、必ず助 けてくださいます。 赦しなさいと言っておられるのは、相手の人のためというより、むしろあなた自身のためです。 恨みはあなたを破滅させます。自分自身のために、そんなものは手放しなさい。 誰かのことを怒っているなら、 決断しましょう。 その恨みを心から追い出しましょう。 今、主が教えてくださったように祈りましょう。 マタイ 6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しまし た。 1ヨハネ 4:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けてい ます。
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