Daikan Yoh Success Story 陽岱鋼、28年の軌跡

アジアンフェスタ 2014特集
Daikan Yoh Success Story
台湾で生まれた英雄
1987年生まれの 28歳――。飽くなき情熱と感謝の心、そし
て家族の愛が、陽岱鋼の成長を支えた。その足取り、サクセス
陽岱鋼、
28 年の軌跡
ストーリーを、懐かしい写真とともに振り返りたい。
「過去に
日本で実績を残された台湾出身の先輩方に比べたら、僕はま
だまだです」
。そう。このストーリーは、まだ続きがある。
2球団から 1位指名を受け、北海道へ
2005年10月に開催されたドラフト会議で、日本ハム、ソフトバンクの 2球
誕生、スポーツ一家の三男として
団から高校生ドラフト 1巡目指名を受け、抽選の結果、日本ハムが交渉権を
獲得 。
「スカウトの人が来ていたのは知っていたんですけど、最初は僕じ
1987年1月17日、台湾・台東市に生を受ける。両
ゃなくてチームのエースピッチ
親と兄2人、妹1人の6人家族。
「兄貴に誘われて。見
ャーを見に来ていると思ってい
ていて『面白そうだな』と思って」と野球を始め、小
ました。この年の高校生ドラフト
学3年時から少年野球チームに加入。長男・耀勲は
は辻内、平田(大阪桐蔭)
、鶴(近大
2006年から 13年までソフトバンクに在籍し、今年
レギュラー定着3年目、父親となった翌年にリーグ優勝。
期待の若手からチームに不可欠な存在へと成長した
附)
、岡田(履正社)の「ナニワの四
からアメリカに渡ってパイレーツとマイナー契約を
天王」を筆頭に高校生大豊作の年
結ぶ。次男・耀華は岱鋼とおなじ福岡第一高から福
「1番・中堅手」としてリーグ優勝に貢献
と言われた。
岡経済大を経て日本の独立リーグでプレー。妹・詩
慧はバスケットボールの台湾女子代表。
栗山英樹新監督の下、夏場以降から1番打者に定着。チーム唯一となる全
ドラフト会議では、間
違いで「交渉権獲得球
団は福岡ソフトバンク」
と発表されてしまうハ
プニングもあった
幼少期の陽仲壽(右、2009年
に岱鋼と改名)
。長男・耀勲
(左)
、次男・耀華(中)とと
もに野球漬けの毎日を送る
1987年 0歳
誕生
2002年 15歳
野球留学、日本へ
写真:日刊スポーツ出版社
2005年 18歳
日本ハム入団
試合フルイニング出場を果たし、最終的に打率.287、7本塁打、55打点、17
盗塁をマークした。また、持ち前のパンチ力を発揮するとともに、前年の
右翼手から不動の中堅手へと転向して自身初のゴールデングラブも受賞。
写真:共同ニュース
2007年 20歳
プロ初出場
この陽の活躍もあって、チームは3年ぶり6度目のリーグ優勝を達成。自
身初めて主力として味わった歓喜に、ビールかけで笑顔が弾けた。
2012年 25歳
兄弟対決実現、主力としてリーグ V
2014年 27歳
現在
高卒2年目でのプロデビュー
怪我を乗り越え、最下位からの逆襲へ
プロ 1年目は 2軍で 91試合に出場し、チーム最多の
プロ9年目。5月終了時点で計11本塁打とハイペースで
9本塁打を記録。2年目の 2007年4月20日のソフト
アーチを量産。6月9日の中日戦で三塁走者として本塁
バンク戦(東京ドーム)に「7番・三塁手」でプロ初出
に滑り込んだ際に左ひざを裂傷して11針を縫うアクシ
場初スタメン。初打席は空振り三振。同年4月25日
デントに見舞われて約1 ヵ月の戦線離脱を強いられたが、
のロッテ戦(札幌ドーム)の 3回に久保投手からプ
7月9日の楽天戦(コボスタ宮城)で復帰するといきなり
ロ初安打となるライト線2塁打。この年、1軍で 55
の決勝タイムリー。
「チームのことを最優先にして戦い
試合に出場して打率.239、0本塁打、10打点を記録。
たいです。去年最下位だったので、そこから逆襲、最下
翌08年4月29日のロッテ戦(千葉マリン)で成瀬か
位からの優勝を目指して頑張りたい」と燃える。
らプロ初本塁打を放った。
2012年8月8日に耀勲との兄弟対決がついに
実現。この年のCSファイナルステージでも再
対決して注目を集めた
福岡第一高校時代。当時から抜群の身体能力で注目を集める。
「4番・
遊撃手」として高校通算39本塁打を記録した
野球留学、居場所を見つけた高1 の夏
待ちに待った兄との直接対決
「小さい頃から日本のことが好きで、日本人のチームと
2012年8月8日のソフトバンク戦(帯広)で兄・耀勲
対戦したときに『こいつらうまいなぁ』と思って刺激を
とプロ初の兄弟対決。初球をセンター前に弾き返し
受けた」と中学卒業後に日本の高校へと野球留学。
「高
た。
「ずっと前から対戦するときは『初球を打とう』
校3年間で一番覚えていて、一番うれしかったのは、高
と決めていた。いつになるか、いつになるかと7年
校1年の夏に3試合連続でホームランを打ったこと。あ
ぐらい待ちましたね。8月8日は“パパ”で、台湾で
れで周りから認められるようになって、実際にその後
は父の日なんですけど、僕もその前の年にお父さん
から 4番を任されるようになった。チームのみんなか
ら信頼されるようになったことが一番うれしかった。
になったので娘に格好いいパパの姿を見せられた。
08年までは主に遊撃手、三塁手でプレーし、
09年に外野手
にコンバート。私生活では08年12月に婚姻届を提出した
僕自身、今までの野球人生の中で一番記憶に残って
いるシーンです。
お立ち台での「サンキューで~す!」はお馴染み。盗塁王に輝いた
2013年からさらなる進化を目指して挑戦を続ける