外交政策を 外交政策を巡る共和党内の 共和党内の「派閥」 派閥」対立 ―ブッシュ父政権 ブッシュ父政権の 父政権の対中政策を 対中政策を中心に 中心に― 東京大学大学院法学政治学研究科 修士課程二年 三石 浩貴 平成 17 年 2 月 28 日提出 要 旨 米外交を巡っては、国益追求を最優先に位置付ける「現実主義者」と、理念や道徳 性を重視すべきとする「道徳主義者」との間の論争が、長きにわたり展開されてきた。 かかる対立の構図は、ニクソンとカーターなどの政権間に見られたため、しばしば党 派的対立の文脈で捉えられる。しかし、共和党内にも“外交における道徳性の追求” を試み、「現実主義」外交を批判した者は少なからず存在した。それが、ヘルムズ上 院議員に代表される保守派であった。また、「現実主義」外交を展開したニクソン、 フォード、ブッシュ父(以下、『ブッシュ』と表記)の各政権は、内政分野で穏健的 な路線を採り、保守派の反発を呼んだ。つまり、両派の外交を巡る対立と、内政を舞 台とした確執の間には、何らかの関連性があったものと考えられる。それでは、共和 党保守派はどのような主張を展開し、「現実主義」外交の如何なる点に反発したのだ ろうか。また、そこに「穏健派」対「保守派」という内政上の“派閥”対立は、どの ように絡んでいたのか。本稿は、今日の米外交を考察する上でも示唆に富むこれらの 問いに対する答えを模索すべく、ブッシュ政権の対中政策(特に天安門事件後)に対 する保守派の反発を事例として取り上げ、検討を加えていく。 事例選択の理由は、(1)ブッシュ政権期が、既に衰退傾向にあった共和党穏健派 の敗北を決定付けた時期であるとみなすことができる点(換言すれば、1992 年大統領 選挙でのブッシュ敗退が、結果的に保守派の基盤を固め、1994 年中間選挙での大躍進、 ひいては現在の保守優位をもたらしたと考えられる点)、 (2)対中政策は、1940 年代 後半から今日に至るまで、台湾から人権・兵器拡散・貿易問題に至る多様な争点を提 供し続け、いわば共和党政治の一部を構成してきたといえる点、(3)党内保守派の ブッシュ政権の対中政策への反発が天安門事件を契機として激化した点にある。以上 の点から、本事例を扱うことは、現在の共和党の在り方を考察する上でも示唆すると ころが大きいと思われる。 ニクソン政権期以降の米中関係史を扱った先行研究の大半は、ブッシュ政権期の対 中政策に対する米国内の反発にも触れている。しかし、それらはいずれも、外交権限 を巡る組織間対立(行政府対立法府)の側面、或いは党派的対立(共和党対民主党) の側面から論じたものであり、政党(共和党)内対立を軸に据えたものではなかった。 一方、本稿は、共和党史の観点から、政党内の「外交政策を巡る対立」と「“派閥” 対立」という内外政にまたがる「二つの対立」が、どのように関連し合っていたか論 ずるものである(従って本稿は、米中関係史ないし米国の対中政策の全体像を扱うこ とを目的とするものではない)。 本稿は、上に示した問題関心に基づき、保守派の穏健派に対する反発の流れを整理 した後に、ブッシュ政権側による対中関与政策を正当化するための説明、同政権の融 和的対中姿勢に異議を唱えた保守派の発言及び関連法案への投票態度ないし法案提 出への関与の度合いといった要素に着目し、まず対立軸の所在の把握に努める。その 上で、それらブッシュ政権の対中政策に反発した保守派が内政では如何なる姿勢を見 せていたのか、また、保守主義運動家ら内政における保守勢力が、ブッシュ政権の対 外政策の如何なる点に反発を示したのか検討することにより、内政と外交の連関性に ついても明らかにすることを試みる。議論の展開の詳細は以下の通りである。 第一章では、保守派の象徴的人物であるヘルムズ上院議員を取り上げ、同議員が党 内穏健派に対して示してきた反発の歴史を叙述するとともに、共和党史におけるブッ シュ政権の位置付けを確認する。具体的には、第一節で、ヘルムズの思想及び世界観 に着目する。同人の著作等から、それは、信仰、道徳性、個人の財産所有権を尊重す る一方、人工中絶、民間経済活動への政府の介入を嫌悪し、特に福祉への不信と共産 主義への憎悪が混然一体となったものであったことが判明する。さらに、ヘルムズが 歴代穏健派政権の外交政策に反発してきた背景には、そうした思想及び世界観が大き く影響しているものと論ずる。その際、レーガンを支持し続けたヘルムズとその他保 守主義運動家(特にニューライト)との関わりについても概観する。第二節では、ブ ッシュの歴代穏健派大統領との紐帯、前任者であるレーガンの保守的路線からの逸脱 を現す諸方針を示した上で、ブッシュ政権は穏健的路線を継承した政権であると位置 付け、その対中姿勢も「ニクソン=キッシンジャー路線」への回帰を示すものであっ たと性格付ける。 第二章においては、第一の事例として、第 101 議会期を対象とし、天安門事件発生 直後の穏健・保守両派の反応、また、事件後最初の争点となった中国人留学生のビザ 更新問題を巡る党内の議論を取り上げる。第一節では、まず、ブッシュ政権がとった 融和的対中姿勢と、それに異議を唱える共和党保守派と民主党リベラル派の「提携」 に焦点を当てる。その上で、穏健・保守両派の主張を対比させる形で、対立点が何を 巡るものであったか考察する。続く第二節では、「中国移民緊急緩和法案(ペロシ法 案)」を巡る共和党内の議論を分析する。第二章での検討を通じ、同法案は大統領拒 否権の行使を受け廃案に至るも、ヘルムズら保守派と一部中道・穏健派からなる少数 の共和党上院議員が、民主党の大半の議員と共に賛成票を投じ、大統領と立場を異に していたことが判明する。 第三章では、第一節で、第二の事例として、第 102 議会期において審議の対象とな った、対中最恵国待遇(MFN)供与への条件付与を目的とした二法案「1991 年米中 法案」及び「1992 年米中法案」に対する共和党議員の姿勢を考察する。第一節では、 それらの法案の立法過程においては、大統領拒否権の行使、ヘルムズら保守派を中心 とする一部共和党議員の民主党議員への同調といった点で、「ペロシ法案」の場合と 同様のパターンが見られる点が指摘される。続く第二節では、ブッシュ政権期におけ る保守派議員の対中政策関連法案への投票態度及び関与の度合い(法案提出数から判 断)を検討する。次に、それら対中強硬姿勢を崩さなかった議員が示した、ブッシュ 政権の穏健的かつ世俗的な内政路線(増税・環境規制・社会的弱者の優遇・銃規制・ 反キリスト教的芸術の容認等)に対する反発、保守主義運動家による同政権の現状維 持志向の強い対外政策(旧ソ連各共和国の独立不支持、湾岸戦争直後の反フセイン体 制派武装蜂起への不介入等)への批判についても考察し、「内政と外交の連関性」が 如何なる形で見られたのか分析を試みる。 終章では、第一に、共和党保守派の外交政策に関する主張は、 「道徳性追求」を「国 益追求」に優先させるべきとする、米外交に伝統的にみられてきた「道徳主義者」の 系譜に属するものであったことが確認される。第二に、「内政と外交の連関性」とい う視点から、ブッシュ政権の対中政策に対して反発し続けたヘルムズら保守派は、同 政権の穏健的・世俗的内政路線に対しても、頑迷に抵抗を示してきた点があらためて 指摘される。それらの点から、(1)社会保守的価値(信仰の自由の追求、人工中絶 への反対等)の対中政策、ひいては外交政策全般への反映の試みに象徴される、ヘル ムズら保守派の内外政を一体視する傾向、(2)ニューライト運動家など“内政にお ける保守”もブッシュ外交批判に加わった点は、保守派の内外政にわたる反発には強 い一貫性があったと結論付ける。 終章では最後に、本論文の含意として以下の点を付している。 第 104 議会(1995~96 年)で共和党が多数党に転じ、特に第二期クリントン政権が対 中関与路線を打ち出して以降、同党保守派が対中強硬姿勢を一層激化させたことはよ く知られている。新保守主義者や宗教保守が反中的潮流に合流したのも、この時期で ある。こうした共和党保守派の姿勢に「クリントン批判」という要素が含まれている ことは否定し難いが、同一政党のブッシュ政権(ひいてはニクソン、フォード両政権) の融和的対中政策に対しても、既に保守派の反発が堅固なものとなっていた点は、本 稿が論じた通りである。このように、保守派の姿勢が単に党派的理由のみに起因する ものとはいえない点、また、単に「冷戦後の新たな敵探し」として「中国叩き」が浮 上した訳ではない点を理解する上でも、ブッシュ共和党政権の対中政策に対して示し た同党保守派の反発の様相を検討することは、有意義といえる。 また、(1)今日の共和党における保守派の優位、(2)ブッシュの子息であるG・ W・ブッシュ現大統領が外交政策を語る際に理念主義的レトリックを多用する現状、 (3)2004 年大統領選挙で社会保守的価値(同性婚及び中絶への反対等)が争点とな った事実を鑑みるに、現実主義的な外交姿勢をとりつつ穏健的・世俗的な国内政策を 断行したブッシュ政権に対する保守派の反発は、極めて示唆的である。 ※ 本稿は、平成 16 年 12 月 24 日に東京大学大学院法学政治学研究科に提出した修士 課程(専修コース)リサーチ・ペーパーを加筆修正したものである。 目 序 章 次 はじめに 第一章 共和党保守派とブッシュ政権 序 1 12 12 第一節 保守派の穏健派に対する反発―ヘルムズの例 14 第一項 穏健派への反発 14 保守派としての一貫性 14 穏健派高官の指名承認拒否 14 反デタント:キッシンジャー外交への反発 15 1976・1980 年大統領選挙でのレーガン支持 16 第二項 保守的思想の外交への反映 17 反共モラリズム 17 反中姿勢とその背景1:反共・親台 19 反中姿勢とその背景2:人権と安保 20 第二節 共和党史におけるブッシュ政権の位置付け 第一項 ブッシュと保守派 23 23 1988 年大統領選挙 23 ブッシュに対する保守派の不信 23 第二項 ブッシュ政権人事:レーガン路線との決別 24 内政:穏健派の重用と保守派の疎外 24 外交:「リアリスト」の起用と保守派の追放 25 第三項 ブッシュの対中姿勢 27 ブッシュ政権発足時の政治環境 27 ブッシュ訪中と人権問題 28 第三節 第二章 小 結 天安門事件を受けた共和党内の対立 序 31 38 38 第一節 天安門事件後の共和党穏健・保守両派の動向 第一項 ブッシュ政権の反応 39 39 非難声明と制裁措置 39 対中関与路線の継続 40 第二項 事件当初の議会の反応 44 共和党保守派と民主党リベラル派の「提携」 44 対中非難決議 45 第二節 中国人留学生ビザ問題を巡る共和党内の対立 第一項 ペロシ法案(H.R.2712) 48 48 下院:ペロシ法案と共和党保守派 48 上院:大統領拒否権と政権によるロビイング 50 第二項 対中 MFN と人権 52 上院:ミッチェル法案と共和党保守派 52 奴隷労働問題とヘルムズ 53 第三節 小 結 第三章 共和党保守派の反発の様相-対中 MFN から外交・内政全般まで 序 55 60 60 第一節 対中 MFN 供与を巡る議論と共和党保守派の反乱 第一項 1991 年米中法案(H.R. 2212) 61 61 下院:1991 年米中法案を支持した共和党議員 61 上院:1991 年米中法案への共和党保守派の同調 63 大統領拒否権行使と共和党議員の反応 65 第二項 1992 年米中法案(H.R.5318) 1992 年米中法案を支持した共和党議員 67 大統領拒否権行使と共和党議員の反応 68 第三項 共和党保守派と対中 MFN 69 ヘルムズと対中 MFN 69 内政保守による対中 MFN 批判 70 第二節 共和党保守派の対中政策及び内政・外交全般への姿勢 73 第一項 共和党議員の対中姿勢とその背景 73 対中政策関連法案への投票態度(上院) 73 対中政策関連法案への関与の度合い 74 第二項 対中政策以外の分野における保守派の姿勢 章 75 軍事行動 76 対ソ・対ロ政策 76 内政分野 78 保守派の内政分野主要法案への投票態度 78 第三節 終 67 小 結 結 81 論 88 参考文献一覧 96 総文字数:83,508 字(注・目次・図表・参考文献一覧を除く) 序 章 はじめに 問題関心及び本稿の目的 米国においては、外交政策のアプローチを巡り、国益と道徳のいずれを重視すべ きかとの議論が長きにわたり展開されてきた。前者を追求する者は、安全保障や国 民の安全を最重視するとともに、外交政策にイデオロギーや道徳的要素を持ち込む ことに対して否定的であるi。一方、後者を促進する者は、概して人権や民主主義の 擁護などの「米国的価値」を普遍的なものと捉えるイデオロギーに立脚し、外交は そうした価値の実現を追求するための「宣教(mission)」であると考えるii。一般的 に、前者の主唱者は「現実主義者(realist)」、後者の考えを持つ者は「道徳主義者 (moralist)」ないし「理念主義者(idealist)」と呼ばれる。 国益の見地から対外関係を構築することを主張し、外交政策に欧州的な勢力均衡 の概念を導入した最初の合衆国大統領は共和党のT・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)である。他方、民主党のウィルソン大統領(Woodrow Wilson)は、それ に対抗する形で、権謀術数の秘密外交や勢力均衡による秩序形成を否定し、外交に おける正義の実現を説いたiii。しかし、ゲルブ(Leslie H. Gelb)とローゼンタール (Justine A. Rosenthal)によれば、共和党のニクソン(Richard M. Nixon)、民主党の カーター(Jimmy Carter)の両政権が登場するまで、 「リアリズム」と「モラリズム」 の対立の構図に焦点が当てられることはなかったというiv。 ニクソン及びフォード(Gerald R. Ford)両共和党政権で外交政策を主導したキッ シンジャー(Henry A. Kissinger)の外交アプローチvを非道徳的であるとして非難し た者としてまず想起されるのは、民主党陣営に属する人物であろう。それは、議会 における人権外交の創始者であると同時に新保守主義の始祖の一人として知られ るジャクソン上院議員(Henry M. Jackson, ワシントン州)であり、その人権外交を 米外交政策の中心に位置付けたカーターであったvi。こうした図式が、 「リアリズム の共和党とモラリズムの民主党」という印象を創出したと言っても過言ではない。 しかし、上に見たような外交分野における対立を、党派的対立の文脈のみで説明 することは不可能である。というのも、キッシンジャー外交に抵抗を示した者の中 には、共和党保守派も含まれていたからである(派閥名の定義付けは後に行う)。 その代表的人物としては、保守主義興隆の潮流に乗って 1980 年大統領選挙で当選 を果たしたレーガン(Ronald Reagan)や、レーガンを支持したヘルムズ上院議員 (Jesse A. Helms, ノースカロライナ州)らが挙げられよう。彼らの外交観は、1950 年代以降の保守主義運動の展開で主導的な役割を果たしてきたバックリー(William F. Buckley, Jr.)の言葉を借りれば、 「対外政策を共産主義に対する道義的な反対の上 に基礎付ける」というものであったvii。共和党保守派にとり、ニクソン=キッシン ジャーが始動した中国承認プロセスや対ソ・デタントは、容共的な裏切り行為にほ かならなかったのである。従って、共和党保守派は、同一政党の政権下であっても、 彼らが非道徳的とみなす外交政策がとられる度に反発を示すことになる。 とはいえ、この共和党内における外交政策を巡る対立が、外交アプローチに対す る見解の相異のみに起因するものだったとも断じ難い。それは、こうした対立には、 長年にわたり穏健派と保守派との間で展開されてきた「党内派閥対立」の要素も含 まれていたと考えられるからである。両派の対立が頂点に達したのは 1964 年大統 領選挙戦であり、ゴールドウォーター陣営によるN・ロックフェラー(Nelson A. Rockefeller)ら穏健派に対する熾烈な攻撃は、共和党内の思想的分断の深刻化を物 語るものであったviii。さらに、ニクソン、フォード、ブッシュ父(George H. W. Bush =以下、『ブッシュ』と表記)ら、いわゆる「現実主義的」な外交路線をとった大 統領は、経済政策においても連邦政府の介入を容認し、社会的争点でも穏健的な姿 勢をとったことから、保守派の強い反発を招いてきた。 以上に見たように、外交政策を巡る対立と、国内政治上の確執との間には、何ら かのつながりがあると考えられるのである。そこでまず湧き上がるのが、共和党保 守派は、穏健派の外交政策のどのような点に反発したのか、両派の対立軸はどこに あったのかとの問いである。次に、そこに内政上の「派閥対立」はどのように絡ん でいたのか、即ち、内政と外交の連関性はどこにあったのかとの疑問が浮上するの であるix。 本稿では、これらの問いに対する答えを模索すべく、共和党保守派と穏健派の確 執の歴史を、それぞれヘルムズ上院議員及びブッシュ大統領を例にとり整理した上 で、主に天安門事件後におけるブッシュ政権の対中政策を巡る議論に焦点を当て、 分析を行う。その際、ブッシュ政権側による対中政策に関する説明、同政権の融和 的対中姿勢に異議を唱えた保守派の発言及び関連法案への投票態度、法案提出への 参加の度合いといった諸要素を検討し、両派の対立軸の把握に努める手法をとる。 また、保守主義運動家のような内政における保守は、ブッシュ政権の対中政策な いし対外政策をどのように捉えていたのか、あるいは、共和党保守派は如何なる価 値観をどのようにして対中政策に反映させようとしたのだろうか。これらの点を明 確にすることができれば、共和党内の対立の文脈における「内政と外交の連関性」 の所在を把握し得るものと考えられる。その際、対中強硬姿勢を堅持した議員の対 中政策以外の分野への姿勢について検討することも肝要となろう。さらには、「内 政と外交の連関性」に強い一貫性が存することを明らかにする上で、内政の保守思 想と外交における道徳性の追求との間に発想的な連関性を見出すことも、本稿が取 り組むべき課題ということになろう。 なお、以上に述べた通り、本稿はブッシュ政権期における米中関係そのものの展 開を扱うものではなく、むしろ米国内政治の観点から共和党保守派の外交観や、主 に対中政策を巡る共和党内の穏健派と保守派の対立に焦点を当てるものであるこ とを、予めお断りしておきたい。 用語の定義 本論に移る前に、上に示した「保守派」 「穏健派」xなど、本稿で使用する用語の 意味合いについて、現代共和党史の概観を兼ねつつ、明確にしておく必要があろう。 本稿では、レイ(Nicol C. Rae)が示した、 「西欧の政党内派閥に見られるような、 統制のとれた党内連合的な性格を欠く」米国政党における「政党内派閥(intra-party faction)」の概念を踏まえつつxi、以下に示す先行研究による共和党内の思想分布を 援用し、 「穏健派」 「保守派」等の分類を行うこととする。また、議員の政策姿勢に 見られる保守ないし穏健の度合いの評価については、無党派の政治専門誌として定 評のある「ナショナル・ジャーナル(National Journal)」誌の年鑑(The Almanac of American Politics)による採点(score ratings)を利用する。同採点は、連邦議員の投 票態度について、社会(人工中絶、宗教等)、経済(減税、『小さな政府』等)、外 交の争点領域毎の保守的ないしリベラル的な度合いをパーセンテージで表したも のである。 米国の保守主義について佐々木毅は、「それぞれの時点で焦点となった個別的、 具体的な政策と結びついて出てきた」ものであるため、「その内情は極めて複雑で あった」と指摘している。その上で、佐々木は米国の保守主義を「共和党エスタブ リッシュメント」、 「オールドライト」、 「新保守主義者」、 「ニューライト」、 「キリス ト教ニューライト」の五類型に分類した。この分類に従うならば、本稿でいう「共 和党穏健派」は概ね佐々木が言う「共和党エスタブリッシュメント」を指し、同じ く「共和党保守派」は「オールドライト」ないし「ニューライト」に該当する。佐々 木によれば、共和党エスタブリッシュメントは、財界を基盤とする北東部エスタブ リッシュメントで、自由放任経済の絶対視も福祉国家の否定もせず、人工中絶など の社会的争点でも確固たる主張を持たない、リベラルに近い立場をとる。また、彼 らは外交分野でも国際主義的で、デタントの進展に関心を寄せるなど、イデオロギ ー的というよりも実際的であったxii。 それに対し、保守主義運動を主導し、1964 年大統領選挙で大統領候補となったゴ ールドウォーター上院議員(Barry M. Goldwater, アリゾナ州)に代表されるオール ドライトは、東部エスタブリッシュメントに警戒感を抱き、減税や「小さな政府」 の実現を追求し、福祉国家を「個人の尊厳への攻撃」として批判する自由放任経済 至上主義者である。彼らの思想は経済的自由主義と倫理的・宗教的伝統主義とが一 体化したものであり、外交面では反共主義を特色とした。このグループには、サー モンド(Strom Thurmond, サウスカロライナ州)上院議員、 『ナショナル・レビュー (National Review)』誌創刊者のバックリーなども含まれる。 ゴールドウォーターの選挙運動を母胎とするニューライトは、その卓越した組織 力にも支えられ、1970 年代以降に最も顕著な活動を展開する一派となった。生命、 性、家族など社会文化的領域での価値を争点として取り上げたニューライトは、人 工中絶や同性愛への反対を通じてキリスト教ニューライト(宗教保守)とほぼ一体 化していった。彼らは共和党に対してよりもイデオロギーに忠実であり、外交面で も反共主義に依拠した。その代表格はヘルムズ上院議員であり、『人工中絶と国民 の良心(Abortion and the Conscience of the Nation)』を著したレーガンであった。ニ ューライト運動の中枢を成したのは、ダイレクトメールによる資金調達活動を展開 したヴィゲリー(Richard Viguerie)、 「コンサーバティヴ・コーカス」のフィリップス (Howard Phillips)、「自由議会存続のための委員会(Committee for the Survial of a Free Congress)」のウァイリック(Paul Weyrich)、ヘリテージ財団のフュールナー (Edwin J. Feulner, Jr.)、「イーグル・フォーラム」のシュラフリー(Phyllis Schlafly) らであるxiii。 以上、思想を軸として共和党内の派閥を見てきたが、次に思想以外の軸について 考えてみたい。久保文明が指摘する通り、内政の保守は概して外交「タカ派」であ り、反共イデオロギーを強く抱く傾向があるxiv。他方、その逆のパターンとして、 外交「タカ派」が内政の保守とならない場合も多少ながら存在する。C・スミス下 院議員(Christopher H. Smith, ニュージャージー州)や、ギルマン下院議員(Benjamin A. Gilman, ニューヨーク州)などの例がそれである。海外における中絶を伴う人口 政策や宗教抑圧に対して厳しい姿勢で臨むスミスは、中絶反対という単一争点で保 守的姿勢をとる一方、銃規制や労働者の権利に関しては、しばしば民主党の側に立 つxv。またギルマンは、社会的争点でリベラルな立場に立つものの、中ソに対して は強硬姿勢をとり続けてきたxvi。他方、ドール上院院内総務(Bob Dole, カンザス 州)やマイケル下院共和党院内総務(Bob Michel, イリノイ州)は、内外政を通じて 保守的傾向が強かったにもかかわらず、党への忠誠心から、穏健的なブッシュ大統 領を擁護する立場をとった。 これらの議員の党内における立場と対中姿勢との関連性を説明する場合、共和党 内 派 閥 分 布 の 説 明 に お い て レ イ が 示 し た 、「 純 粋 主 義 者 ( purists ) 対 専 門 家 (professionals)」の対立軸が有益となろう。同様の理由で、ライクリー(James A. Reichley)による、 「進歩主義者」、 「穏健主義者」、 「愛党主義者」、 「原理主義者」の 四類型も、共和党内の派閥の分類に際して参考となる。レイは、保守対リベラルの 思想的対立を縦軸とし、党への忠誠心を優先する者と(党に対するよりも)自身の 信条に忠実であることを優先する者との違いを横軸とするグラフを用いることに より、ライクリーの四類型を以下のように図式化している(図1)xvii。 以下に示した対立軸を援用して共和党内の派閥分布を試みた場合、ブッシュ政権 の対中姿勢に反発し続けた保守的傾向の強い議員は「原理主義者」に属することに なる。便宜的に、本稿ではこのグループを「保守派」と呼ぶこととしたい。一方、 保守的でありながらブッシュ政権を擁護した議員は「愛党主義者」となる。また、 穏健的ながら対中強硬姿勢をとった者は、「進歩主義者」に分類される。これに対 し、ニクソン、フォード、ブッシュなど佐々木毅が示した「共和党エスタブリッシ ュメント」の路線を踏襲した大統領は、「穏健派」ということになる。 図1 共和党内の「派閥」 リベラル (liberal) 進歩主義者 (progressives) 穏健主義者 (moderates) 純粋主義者 (purist) 専門家 ( professional 原理主義者 (fundamentalists) 愛党主義者 (stalwarts) 保 守 (conservative) 事例選択の理由 続いて、特に天安門事件後におけるブッシュ政権の対中政策を巡る共和党内の路 線対立を事例として取り上げた理由について触れておこう。この点については、な ぜ共和党史、それもブッシュ政権期か、なぜ対中政策か、なぜ天安門事件か-の三 点に分けて論ずる必要があろう。 (1) 何故「共和党史」、「ブッシュ政権期」か 周知の通り、現在の共和党は大統領府及び上下両院を制覇し、州レベルでも優 位に立つなど、共和党優位の時代を築きつつあるかのようにも見受けられる。本 稿は、今日の共和党優位をもたらした要因の一つとして、「ブッシュ政権に対す る共和党内保守派の反発及び離反」があったものとする立場をとる。それという のも、共和党史におけるブッシュ政権(1989~1993 年)の位置付けという観点か らすれば、同政権期は、1980 年代までに顕著になっていた共和党穏健派の衰退を 決定付けた時期であったということができるからであるxviii。保守派のブッシュ批 判の高揚が、既に台頭しつつあった保守派にとっての弾みとなり、1994 年中間選 挙での大躍進を経て、現在の保守優位をもたらしたと見ることも可能であろうxix。 その意味で、ブッシュ政権期における共和党内の派閥間対立を扱うことは、今日 の米国政治を考察する上でも有意義であると思われる。また、「共和党保守派に よる行政府の対中政策に対する反発」を扱う上で、民主党政権ではなく、同一政 党のブッシュ政権をその対象として取り上げるからこそ、党内対立の様相を明確 にすることが可能となる点も付け加えておきたい。 (2) 何故「対中政策」か 米国の対中政策は、共和党穏健派と同保守派の対立が最も持続的に見られてき た外交分野の一つであり、かなりの程度で共和党政治の一要素を成してきたとい っても過言ではない。事実、第二次世界大戦後の歴代共和党政権は、対中政策は 党内保守派の反応に配慮しつつ運営する必要性があることを認識していた。特に フォード大統領は、党内保守派に配慮し、任期中の対中国交正常化を断念したほ どである。そのため、内政と外交の連関性を模索する本稿にとり、「対中政策」 は格好の題材と言えるのである。 なお、共和党保守派は、特定の争点を巡り、継続的に対中強硬姿勢を示してき た。まず、1949 年の共産中国の出現から 1972 年のニクソン訪中までの時期で争 点となったのは、中国の国家承認及び国連代表権問題であったxx。ニクソン訪中 以降は、対中国交正常化とそれに伴う台湾の地位の変更に焦点が当てられ、1980 年代後半には、新たな争点として人権及び兵器拡散問題が浮上した。特に、宗教 抑圧や中絶を伴う人口政策など中国の人権問題の浮上は、米国では 1970 年代に 信仰や中絶などが既に争点化されるに至っていたため、共和党保守派(特に社会 保守)の強い関心を引くようになる。そして、それらの案件は 1989 年 6 月の天 安門事件を受けて噴出し、一層強い非難を招くこととなる。 (3) 何故「天安門事件」か 上で論じたように、共和党保守派の対中強硬姿勢は天安門事件以前から持続的 に存在するものであり、同事件を転換期として過度に強調することには、連続性 を見落とす危険が内包されているともいえる。しかし同時に、天安門事件を契機 として、ブッシュ政権の対中政策への批判や、同政権に強硬な対中姿勢をとるよ う求める声が高まりを見せたのも事実である。ブッシュ政権は、天安門事件の直 後、共和党保守派と民主党リベラル派が事実上「連携」し、対中強硬姿勢をとる よう圧力を加えてきたことを認識していた(後述)。従って、マン(James Mann) が指摘するように、天安門事件を契機として行政府が中国の国内問題(人権)に 無関心を装うことは不可能になったのでありxxi、天安門事件が米国の対中政策に おける一大転機となったという見方は、概ね間違ったものではないといえよう。 以上の三点から、天安門事件後におけるブッシュ政権の対中政策を巡る共和党内 の対立を扱うことには、「内政と外交との連関性」の解明を試みる上でも現在の米 国政治への理解を深める上でも有意義であると、筆者は考えるに至った。 先行研究との関係 次に、先行研究と本稿との関係について論じておきたい。ブッシュ政権期の対中 政策を巡る米国内の議論を扱う先行研究は少なくない。しかし、その大半は、こう した議論を、外交権限を巡る組織間対立(行政府対立法府)の側面、或いは党派的 対立(共和党対民主党)の側面から論じたものが多い。ブッシュ政権期を射程に入 れた米中関係を扱った先行研究としては、ニクソン政権期からブッシュ政権期まで を取り上げた Harry Harding, A Fragile Relationship: The United States And China Since 1972 (Washington, D.C.: Brookings Institution Press, 1992) 、同じくニクソン政権期か らクリントン政権期(Bill Clinton)までを対象とした、ジェームズ・マン『米中奔 流』(共同通信社、1999 年);Patrick Tyler, A Great Wall: 6 Presidents and China: An Investigative History (New York: PublicAffairs, 1999) 、天安門事件以降に焦点を当てた David M. Lampton, Same Bed, Different Dreams: Managing U.S.-China Relations, 1989-2000 (Berkeley: University of California Press, 2001); Robert L. Suettinger, Beyond Tiananmen: The Politics of U.S.-China Relations, 1989-2000 (Washington, D.C.: Brookings Institution Press, 2003) が有名である。これらの研究の中では、ランプトン (David M. Lampton)が、ヘルムズ、C・スミスの 2 共和党議員の背景にも焦点を 当てている点で貴重である。 さらに、スキッドモア(David Skidmore)及びゲイツ(William Gates)は、米国 内におけるブッシュ政権期の対中政策を巡る議論に対し、組織間対立(行政府対立 法府)、党派的対立(共和党対民主党)に加え、思想的対立(リベラル対保守)、商 業的対立(国際ビジネス利権対国家主義的ビジネス利権)の要素を加え、多角的な 対立軸(cross-cutting cleavages)を念頭に置いた分析を行っている。その上で彼ら は、ブッシュ政権の対中政策に反発する諸勢力は各自が有する利害関心が相互に相 容れないものである場合が多かったため、ブッシュ政権はそうした対抗勢力の分裂 を利用することにより、対中政策の大幅な変更を回避できたと結論付けているxxii。 しかし、それらの研究は、米国内における対中政策を巡る議論に関する記述では 共和党保守派によるブッシュ政権の対中政策に対する反発について触れている箇 所も散見されるものの、共和党内の対立自体を軸に据えて論じたものではなかった。 無論、上に挙げた先行研究が着目してきた、組織的対立や党派的対立の側面に焦 点を当てることに重要性があることは言うまでもない。実際に、ブッシュ大統領は 自らの外交権限に対する議会からの挑戦を認識しており、対中政策で議会が主導権 を掌握しようとするのを決して許容しなかった。また、民主党議会指導部やクリン トン陣営が、ブッシュ政権の対中姿勢を柔弱と非難し、1992 年大統領選挙での攻撃 材料に利用したことも事実である。しかし本稿は、共和党史の観点から、「外交政 策を巡る対立」と「穏健派への保守派の反発」という、内外政にまたがる党内対立 の流れの中に天安門事件後の路線対立を位置付け、内政と外交の連関性を明らかに することを試みる。こうした視点は、先行研究には見られなかったものといえよう。 本稿の構成 最後に、本章の構成については以下の通りである。まず第一章では、第二章及び 第三章で事例を検討するための前提として、共和党保守派の同党穏健派に対する反 発の流れ及び共和党史におけるブッシュ政権の位置付けを確認する。具体的には、 保守派の思考及び主張を、保守派の代表的人物であるヘルムズ上院議員を例にとり 叙述する。また、ブッシュ政権の穏健・保守両派との距離、過去の共和党政権との 類似性ないし連続性の濃淡を把握した上で、第二章以降の議論を念頭に、ブッシュ 政権発足時の対中姿勢についても整理する。 事例検証を行う第二章及び第三章では、天安門事件を受けてブッシュ政権はどの ような議論を展開したのか、また、それに対し、共和党保守派はどのようにしてブ ッシュ政権の対中政策に反意を示したのか見ていく。さらに、保守派はブッシュ政 権の対中政策のどのような点について批判を加えたのか、記者会見録や議会公聴会 での両者の発言、議会に提出された諸法案等を通じ、対立軸の所在を明らかにする。 なお、第二章では、第 101 議会において天安門事件後最初の争点となった中国人 留学生のビザ更新問題、ブッシュ政権の融和的対中姿勢に焦点を当て、第三章では、 前半部分で第 102 議会における対中最恵国待遇(MFN)供与延長問題を巡る議論を 扱う。後半部分では、第 101 及び第 102 両議会における保守派議員の対中政策関連 法案に対する投票態度及びコミットメントの度合いを検討した上で、それら反中的 姿勢を崩さなかった議員の内政における態度、内政保守の対外政策に対する姿勢に ついても考察し、 「内政と外交の連関性」がどのような形で見られたのか分析する。 注 i ここでいう「国益」とは、モーゲンソー(Hans J. Morgenthau)が言うところの「力(パワ ー)によって定義される利益(インタレスト)の概念」を指す。モーゲンソーによれば、そ れは「経済、倫理、美学、宗教とは別の、行動と理解の独立した領域として政治を設定する」 ものである。モーゲンソーは、その他にリアリストが対外政策で重視する要素として、合理 性及び連続性、勢力均衡を挙げており、さらに、 「政治的結果」が考慮されずに「道義原則」 が「国家行動に適用」されることに対して批判を加えてもいる。ハンス・J・モーゲンソー (現代平和研究会訳) 『国際政治-権力と平和』 (福村出版、2000 年・新装版第 3 刷)、4-5, 8, 頁。 ii 斎藤 真『アメリカ外交の論理と現実』(東京大学出版会、1962 年)、45-49, 174-177 頁。 iii ヘンリー・A・キッシンジャー(岡崎久彦監訳) 『外交(上)』 (日本経済新聞社、1996 年)、 34-58 頁。 「ウィルソン主義(Wilsonian)」研究については以下。Daniel Patrick Moynihan, “Was Woodrow Wilson Right?: Morality and American Foreign Policy,” Commentary (May 1974), pp.25-31; Walter Russell Mead, Special Providence: American Foreign Policy and How it Changed the World (New York: Alfred A. Knopf, 2001); Tony Smith, America’s Mission: The United States and the Worldwide Struggle for Democracy in the Twentieth Century (Princeton: Princeton University Press, 1994). iv レスリー・H・ゲルブ、ジャスティン・A・ローゼンタール「外交における道徳的要因の 増大―道徳主義が主権を浸食する?」『論座』(2003 年 7 月号)、261 頁。 v キッシンジャーの元側近のロッドマン(Peter Rodman)によれば、キッシンジャーは「イデ オロギー的なるもの」に不信感を抱いていた。Robert Gordon Kaufman, Henry M. Jackson: A Life in Politics (Seattle and London: University of Washington Press, 2000), p.292 より引用。 キッシンジ ャー自身も、地政学的考慮に道徳を差し挟むことに疑念を示している。David P. Forsythe, “Human Rights in U.S. Foreign Policy: Retrospect and Prospect,” Political Science Quarterly, Vol.105, No.3 (Fall 1990), p.438. また、アイザックソン(Walter Isaacson)によれば、ニクソンもキッシ ンジャーと同様に「レアルポリティークの実践者」であり、 「外交政策は、感傷主義ではなく 国力の評価に基づいて生み出されるべき」との信念の持ち主であった。ウォルター・アイザ ックソン(別宮貞徳監訳) 『キッシンジャー 世界をデザインした男(上)』 (NHK 出版、1994 年)、215 頁より引用。さらに、キッシンジャーによれば、ニクソンは米国の「国益に従って 舵を取ろうとし」、「セオドア・ルーズベルトのように勢力均衡が安定を生み出すと考えて」 いたという。キッシンジャー『外交(下) 』、363 頁より引用。 vi ジャクソン、カーターは共に民主党に属し、道徳主義的かつ理念主義的な人権外交を主導 したが、両者の「人権」に対する姿勢は異なるものであった。1970 年代前半、対ソ最恵国待 遇(MFN)付与にソ連からのユダヤ系市民の出国を条件として課した「ジャクソン・バニク 修正条項」の可決に尽力したジャクソンは、共産主義国家における人権侵害を問題視する一 方、反共・親米の独裁政権による人権侵害については、これを大目に見る立場をとった。こ のため、ジャクソンらいわゆるネオコンは、イランのパーレビやニカラグアのソモサなど反 共親米の独裁体制による人権侵害を非難するカーター政権を、 「より抑圧的な左翼の全体主義 体制による人権侵害を軽視している」と批判した。Kaufman, Henry M. Jackson, pp.369-370. vii 古矢 旬『アメリカニズム-「普遍国家」のナショナリズム』 (東京大学出版会、2002 年)、 244-245 頁より引用。 viii 以降、ロックフェラーは共和党穏健派の象徴的人物と見なされ、党内保守派の嫌悪の対象 となる。さらに遡れば、共和党穏健派とは、第二次世界大戦期から戦後にかけての時期にお いて、ロッジ上院議員(Henry Cabot Lodge, Jr., マサチューセッツ州)、デューイ・ニューヨー ク州知事(Thomas E. Dewey)、アイゼンハワー大統領(Dwight D. Eisenhower)ら主に東部を 中心とする比較的リベラルなグループを指し、後者は、タフト上院議員(Robert A. Taft, オハ イオ州)など中西部以西に多く見られた保守的な政治家を指した。実際、1948 年にはデュー イとタフトが、1952 年にはアイゼンハワーとタフトがそれぞれの「派閥」を代表し、共和党 大統領候補の指名獲得争いを展開している。Nicol C. Rae, The Decline and Fall of the Liberal Republicans from 1952 to the Present (New York: Oxford University Press, 1989), pp.25-39; 46-77. なお、アイゼンハワーはテキサス州生まれのカンザス州育ちであったが、その思想的立場か ら、一般的に「東部エスタブリッシュメント」陣営に分類される。 ix 筆者が「内政と外交の連関性」に着目した動機は、以下に負うところが大きい。久保文明 「国内政治の変容と外交政策-とくに東アジアとの関連で」久保・赤木完爾編『現代東アジ アと日本6 アメリカと東アジア』 (慶應義塾大学出版会、2004 年)、25-54 頁。 x 混乱を避けるため、本稿では「穏健派」との呼称を一貫して用いることとするが、 「リベラ ル」という言葉自体が “L-word” などと揶揄され忌避されるようになった 1970 年代までは、 現在でいうところの共和党「穏健派」も「リベラル派」と称されていた。これに関し、保守 派コラムニストのサファイア(William Safire)は、1978 年出版の『新政治用語辞典』の増補 改訂版で、「リベラル」の最近用法について加筆し、「中絶、麻薬、巨大規模支出の浪費の政 府」といった新しい含意に触れている。内田 満「思想の言葉「文化的裂け目」の中の「リベ ラル」」『思想』No. 821(1992 年 11 月号)、4 頁。 xi レイは、The Decline and Fall of the Liberal Republicans from 1952 to the Present の中で、英国 の政党を研究したローズ(Richard Rose)による、「派閥(faction)」と「分派(tendencies) 」 の定義を紹介している。ローズによれば、西欧の政党における「派閥」は「統制がとれ、結 束力がある、自覚的に組織された集団」である一方、「分派」は「同一姿勢を示す者の集団」 に過ぎず、自覚的に組織化されたものでなく、集団として存続していくことが期待されてす らいない場合もあるという。その上でレイは、米国の政党の「派閥」は、西欧の政党におけ る「分派」に近いと結論付けている。Rae, The Decline and Fall of the Liberal Republicans from 1952 to the Present, pp.5-6. つまり、米国の政党における派閥とは、同様の政策姿勢を示す者に よる、非永続的かつ緩い集合体ということになる。 xii 佐々木毅『現代アメリカの保守主義』 (岩波書店、1993 年)、13-14 頁。 「東部エスタブリッ シュメント」という呼称は、1960 年代以前には北東部が共和党の地盤であり、党内の比較的 穏健な政治家(ニューヨーク州をはじめとする北東部諸州の知事)が全国政党(national party) でも主要な地位を占めていたことに由来する。Rae, The Decline and Fall of the Liberal Republicans from 1952 to the Present, pp.16-17, 25-45. なお、1960 年代以降も、共和党穏健派と 称される議員・知事は北東部にほぼ集中している。 xiii 佐々木『現代アメリカの保守主義』、7-9, 14-23 頁。ニューライト運動体の支援を受けた議 員は、上院のアームストロング(Bill Armstrong, コロラド州)、ガーン(Jake Garn, ユタ州)、 G・ハンフリー(Gordon J. Humphrey, ニューハンプシャー州)、カステン(Robert Kasten, ウ ィスコンシン州) 、クェール(Dan Quayle, インディアナ州)、W・スコット(William Scott, バ ージニア州)、シムズ(Steven Symms, アイダホ州)、ワロップ(Malcom Wallop, ワイオミン グ州)ら、下院のエドワーズ(Mickey Edwards, オクラホマ州) 、ギングリッチ(Newt Gingrich, ジョージア州)、ハイド(Henry Hyde, イリノイ州)、G・ソロモン(Gerald B. H. Solomon, ニ ューヨーク州)などであった。Richard A. Viguerie, The New Right: We're Ready to Lead (Falls Church, VA: The Viguerie Company, 1981), pp.15, 57-58, 75, 109; James A. Reichley, Conservatives in an Age of Change: The Nixon and Ford Administrations (Washongton, D.C.: Brookings Institution Press, 1982), p.352; Andrew Rosenthal, “Conservatives Looking to Quayle As Their Top Ally in White House,” New York Times, November 17, 1988. Page. A1. その流れを汲むのが、1989 年頃から共和 党を下院で多数党にするというギングリッチの戦略を支持したロット(Trent Lott, ミシシッ ピ州)やマック(Connie Mack, フロリダ州) 、また、G・ハンフリーの議席を継いで上院議員 となり、2000 年大統領選挙ではH・フィリップスが設立した「米国納税者党(U.S. Taxpayers Party)」からの出馬を一時目指したB・スミス(Bob Smith, ニューハンプシャー州)、そして、 レーガン政権でホワイトハウスのスタッフを務め、レーガンの政策路線を支持したコックス (Chrictopher Cox, カリフォルニア州)及びローラバッカー(Dana Rohrabacher, 前同)両下院 議員らである。吉原欽一『現代アメリカの政治権力構造―岐路に立つ共和党とアメリカ政治 のダイナミズム』 (日本評論社、2000 年) 、71 頁;Michael Barone and Grant Ujifusa, The Almanac of American Politics 1994 (Washington, D.C.: National Journal, 1993), p.791; Stuart Rothenberg, “Sen. Smith's 2000 Bid: Shaping Up as Much Ado About Nothing,” Roll Call, July 15, 1999; “The New Republicans in the House,” Washington Post, December 26, 1988, Page A23. なお、「新保守主義者 (ネオコン)」については、議会内にも勢力を持たず、内政分野への関与もほぼ見られないた め、本稿では取り上げない。 xiv 久保文明「G.H.W.ブッシュ政権の国内政策と共和党の変容-米国における政党内イデオロ ギー闘争の一例として」 (2004 年 12 月) 、『レヴァイアサン』掲載予定、16 頁。 xv Philip Shenon, “Single-Minded Crusader Who Is Blocking Dues to U.N.,” New York Times, November 15, 1999, Section A; Page 18. xvi Biography of Hon. Benjamin Gilman (http://www.thegilmangroup.com/gilman.htm [accessed August 3, 2004]); Barone and Ujifusa, The Almanac of American Politics 1994, p.911. xvii Reichley, Conservatives in an Age of Change cited in Rae, The Decline and Fall of the Liberal Republicans from 1952 to the Present, pp.7-8. 一方、クープマン(Douglas L. Koopman)は、ニク ソン=フォード両政権期の共和党を対象としたライクリーの四類型は、その後の保守派内に おけるリバタリアンや宗教右派といった新たな派閥の誕生などを受け、もはや旧式なものと な っ た と 指 摘 す る 。 Douglas L. Koopman, Hostile Takeover: The House Republican Party, 1980-1995 (Lanham, Md.: Rowman and Littlefield, 1996), pp.2-3, 66-68. これについてはレイも、 ライクリーによる研究以降の時期における穏健派の著しい衰退を理由に、同四類型は過去の ものとなったと断じている。Rae, The Decline and Fall of the Liberal Republicans from 1952 to the Present, p.8.しかしながら、思想的対立に加え、党への忠誠度をもう一つの対立軸として据え たライクリーの手法そのものは、本稿にとっては極めて有効であると筆者は考える。 xviii 内政の観点から、1990 年のブッシュによる増税を近年の共和党の変容を考える上での転 換点とし、1992 年大統領選挙でのブッシュの敗北を党内穏健派の敗北をも意味するのとして 示唆する見方は以下。久保文明「G.H.W.ブッシュ政権の国内政策と共和党の変容」 。また、1960 年代半ば以降の共和党穏健派の衰退と保守派の台頭については、以下を参照。Rae, The Decline and Fall of the Liberal Republicans from 1952 to the Present, chapter 3-6. xix 全米税制改革協議会(ATR)のノーキスト(Grover G. Norquist)は、 「ブッシュ政権の失敗 はかえって共和党を、ただ多数派を取る保守の党としてではなく、全面的に保守的で小さな 政府を支持し、原理原則に固執することによって力を増す政党としての基盤を固めることと なった」との見方を示している。グローバー・ノーキスト(久保文明・吉原欽一訳)『「保守 革命」がアメリカを変える』(中央公論社、1996 年)、194 頁。 xx 冷戦期において、国民政府(台湾)は自由世界の一象徴となり、 「台湾問題」には感情的な 要素が付随することとなった。 「自由中国」を支えるために米台間には太いパイプが形成され、 ニクソン訪中時には、米国はいずれの国よりも深く台湾にコミットしていた。滝田賢治『太 平洋国家アメリカへの道-その歴史的形成過程-』(有信堂、1996 年)、222 頁。なお、この 時期の米中関係、米国内の対中政策を巡る議論を扱った代表的なものとしては、以下。Gordon H. Chang, Friends and Enemies: The United States, China, and the Soviet Union, 1948-1972 (Stanford, CA: Stanford University Press, 1990); Stanley D. Bachrack, The Committee of One Million: "China Lobby" Politics, 1953-1971 (New York: Columbia University Press, 1976). xxi ジェームズ・マン(鈴木主税訳) 『米中奔流』 (共同通信社、1999 年)、355 頁。 xxii David Skidmore and William Gates, “After Tiananmen: The Struggle Over U.S. Policy Toward China in the Bush Administration,” Presidential Studies Quarterly, Vol.27, Issue 3 (Summer, 1997): pp.514-539.
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