松下たえ子

■リレー随想⑤
山のあなたの空遠く
年上郷生まれ︒千葉大学︑
●まつした・たえこ
昭和
慶応義塾大学でドイツ文学専攻
後︑ドイツに滞在︒ベルリン自
由大学文学博士︒洗足学園大学︑
ベルリン自由大学などで専任講
人としてよりも︑ヘルマン・ヘッセを発見した編集者と
回︶
ここではないどこかへの憧れ︒でも決して到達できな
して記憶されている程度です︒文学の受容史上︑ある作
︵高
師歴任後︑平成2年より本年
いのが憧れです︒そんな憧れを題材とした文学作品は星
品が本国ではなく外国で有名になるというのは珍しくは
月まで︑成蹊大学教授︒
の数ほどあるけれど︑カール・ブッセの﹁山のあなた﹂
でした︒﹁このセンチメンタルな詩がなんで﹂という気
ないけれど︑わたしは長い間︑この﹁山のあなた﹂の日
漢詩をのぞくと︑外国語の詩がこれほど親しまれたの
持ちがいつもありました︒それがある時から少し理解で
は翻訳詩であるにもかかわらず︑日本人の心を掴んだ数
も珍しく︑落語に使われたり︑パロディーが書かれたり
きるように思われてきました︒
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憧れの擬人化︑分かりやすい絵画的な展開といった原
が自分の人生を回想した詩と思っていました︒ところが
それまでわたしは﹁山のあなた﹂は︑中年を過ぎた詩人
それは詩人カール・ブッセについて調べていた時です︒
詩のイメージを︑︵当時は斬新だった︶日本語のメロデ
の作品です︒
の詩﹄にすでに収録されています︒ということは一〇代
年︶に出版された最初の詩集﹃僕には分からない 青年
そうではなくて︑
この詩はブッセが二〇歳の時
︵一八九二
今ではほとんど誰も知りません︒ブッセは文学通には詩
ところで﹁山のあなた﹂もブッセも︑本国ドイツでは
せん︒
ィに載せた上田敏の翻訳の妙技に︑感嘆の念を禁じえま
れてきました︒
と︑ほとんど日本語の詩であるかのような読まれ方をさ
本での熱い受け入れられ方がもうひとつピンと来ません
松下たえ子
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少ない例と言えましょう︒
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リレー随想⑤
せん︒﹁山のあなた﹂はブッセの体験から生まれたとい
は高山というものをまだ見たことがなかったかもしれま
の田舎に生まれ︑ギムナジウム︵中高等学校︶卒業後ベ
うよりも︑彼の心の動きを作品のなかにとどめたもので
ブッセはプロイセンのポーゼン︵現在はポーランド︶
ルリンに出て︑勉学の傍ら文筆活動も始めました︒
歳の時で︑新時代の到来に大きな期待が寄せられていま
する若者の憂い︒上田敏がポオル・ヴェルレエヌ紹介の
山の彼方をめざして突き進むのではなく︑挫折し逡巡
あると言えます︒
した︒ドイツ各地から首都ベルリンに人が押し寄せ︑こ
一文を書いたのは一八九六年︑二三歳の時でした︒﹃海
ドイツがヴィルヘルム時代に入ったのはブッセが一八
とにブッセの故郷であるポーゼン地方の若者は大挙して
潮音﹄を編んだのは一九〇五年ですが︑そこには新しい
世紀をひたむきに走ろうとする気運には背を向けた若い
ベルリンを目指しました︒
地図を見れば分かりますが︑この故郷からベルリンま
ヨーロッパの詩人と︑若い日本の訳者の心が共鳴してい
フォークダンスを踊っています︒照りつける太陽︑スピ
出すと︑飯高祭の真昼︑グラウンドに大きな輪になって
覆っていたのは憧れよりも倦怠感でした︒その頃を思い
山国に育ったわたしですが︑高校時代のわたしの心を
われ︑社会的な﹁若さ﹂を持続してきたのでしょうか︒
の基調音で︑この詩を歓迎した日本の社会は時代こそ変
憧れの不到達性に苦しみ戯れる若さこそ
﹁山のあなた﹂
るのです︒
ではみな平地です︒﹁山のあなた﹂を書いた時︑ブッセ
山のあなた
カール・ブッセ ︵上田敏 訳︶
山のあなたの空遠く
﹁幸﹂住むと人のいふ︒
と
噫︑われひとと尋めゆきて︑
老病死がぐっと近づいた今︑なぜかわたしの心はあの
ーカーから流れ続けるオクラハマミキサ︒永遠の退屈︒
山のあなたになほ遠く
青春の日々よりずっと明るいのです︒憧れとその不到達
涙さしぐみ︑かへりきぬ︒
﹁幸﹂住むと人のいふ︒
性や倦怠から遠く離れて︒
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