アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ

日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要
No.43(2008)pp.23 − 42
アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ(Old Order Anabaptist)の
地域展開と文化的特徴について
― Hutterites, Mennonites, Amish, Brethren を事例として ―
永 野 征 男
The Cultural Transformation of Old Order Anabaptist, North America
― Case Study of Hutterites, Mennonites, Amish, Brethren ―
Yukio NAGANO
(Received September 30, 2007)
The four groups in this paper ― Hutterites, Mennonites, Amish, and Brethren ― trace their lineage to the Anabaptists
of sixteenth-century Europe. The Anabaptist movement emerged in southern Germany and Switzerland in the wake of
the Protestant Reformation in 1517. The first Anabaptists were young radicals who were chafing at the pace of the Reformation. They wanted religious reforms to move faster and to break more sharply with established Catholic patterns. In
1525 in Zurich, Switzerland, impatient students of the Protestant pastor Ulrich Zwingli baptized each other as adults, This
defiant act laid the foundation for an independent church, free of state control, and issued a bold challenge to Catholic,
Protestant, and civil authorities alike.
Keywords : Anabaptist, Old Order, Religious Group
在した社会学者などから,わずかな報告がなされてい
はじめに
る 1)。しかし,地理学としては,宗教集団に関わるこれ
筆者が本課題を研究するに至った経緯は,1980 年代の
ら地域での宗教地理学,文化地理学的調査がほとんどな
初頭から,アメリカ合衆国東部メガロポリスにおける都
い 2)。そこで筆者は,この地域(ランカスター市域)の
市化の最前線地帯(いわゆる Edge City)の研究と関連し
研究報告を 1984 年以降に発表してきた 3)。
ている。当時,ペンシルベニア州立ミラスビル大学(ラ
拙著では,歴史的な移民の経緯と,彼らの生活基盤で
ンカスター)に滞在した折,この地域がいわゆるペンシ
ある農業形態に関することが主であり,さらに現地での
ルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)呼ばれる人々
今日的な課題としては,アメリカ人の国内観光地化
(アーミシュ文化の見学)への危惧を指摘した。2001 年
の中心的な居住地であることを知った。
つまり,再洗礼派に属するアーミシュ(Amish)が広
には,その続編ともいえる報文として,メガロポリス化
く居住し,この集団は都市化の激しい状況下にもかかわ
が彼らの土地を侵食し,地価の上昇にともなう農業の継
らず,300 年前のヨーロッパにおける文化を維持し,移
続が難しくなってきたこと,その結果として農業外の小
民当初からの特色ある社会構造を持続する点に,多くの
ビジネスへと転向する実態を発表した 4)。
アメリカ人と同様に高い関心をもつようになった。アメ
しかし,それら報告をまとめる中で,彼らの信仰に基
リカが「多民族・多文化社会」と評される中にあって,
づく生活上のさまざまな規制を抜きにして,さらなる研
彼らの近代文明と対岐するかのような,独特の生活様相
究の深化はあり得ないことに気づいた。また,いわゆる
を継続していることに対し,歴史・文化地理学的な視点,
アーミシュと類似した服装や生活信条をもつ集団に対し
あるいは地誌的な観点からの調査の必要性を強く感じた
ても,調査すべきであると考えた。筆者もランカスター
のである。
においては,混在して居住する他の集団について,認識
わが国においては,1950 年代から宗教学者や現地に滞
が欠如していたことを悟った。
日本大学文理学部地理学教室 :
〒 156−8550 東京都世田谷区桜上水 3−25−40
Department of Geography, College of Humanities and Sciences, Nihon
University: 3−25−40 Sakurajosui Setagaya−ku, Tokyo, 156−8550 Japan
─ 23 ─
( 23 )
永 野 征 男
この間,わが国で 1990 年中頃から注目すべきアーミ
シュ関連図書が,相次いで刊行された。言語学者の池田
5)
智は ,専門的立場から文化の特殊性(反文明社会)に
6)
着目し,また杉原利治・大藪千穂は ,社会学者である
年間に,Andy Weaver Amish が分裂している。これは,
農場の拡大や科学技術の進展に対する意見の相違が原因
と思われる。この 1950 年代は,他にも数グループの分
離が判明している。
D.B.Kraybill の訳本を刊行するなど,いずれも多少の写
元来,アーミシュのグループ名は,指導者のアンマン
(Jakob Ammann)に起因する。彼は,スイスのベルン地
真を挿入した概説書に相当するものであった。
一方,地理学の立場からは,合衆国へのヨーロッパか
方のエレンバッハ(Erlenbach)に生まれ,一族は 1690
らの移民について,民族ごとの入植先に関心を示してき
年頃に再洗礼派として糾弾を受けている。当時,この一
た。とくに,各民族の移住目的を生かした定住地の選定
帯で同派による儀式が盛んに行われていたことから,信
と,各地での風土差による土地利用形態が明らかにされ
者であった可能性が高い。
社会学者のホテッツラー(J.A.Hotetler)が 7),アンマ
た。そこで,ヨーロッパにおいて宗教上の迫害を受け,
新大陸へ逃れた宗教グループの定住先についても,注目
ンがスイスのカルバン派教会からの改宗者であるという
しなければならないと考えた(図 1 )。
証拠を呈示したように,改宗者という個人的な背景は,
なかでも,彼らの生活基盤が旧体制の原始的農業であ
るために土地と密接に関係し,また共同体社会を維持す
彼が高い理想と強いリーダーシップを備えていた人物で
あったことが分かる。
アンマンは,1692 年にアルザス地方の町に移り,排斥
るための要因の中には,地理学からのアプローチが多く
された人々とともに信仰上の改革を実践した。1713 年,
残されていた。
本論文をまとめるにあたり,果たして“広義”のアー
町当局が再洗礼派の運動に反対したことから,多くの
ミシュといった見方が適当か否かは,今後の検討事項と
アーミシュはこの土地を去り,アンマンの消息も不明と
し,とりあえず地域的展開過程や生活文化の面で,類似
なった。1730 年の記録によると,ベルン近郊に住むアン
する他の集団と明確に区分することが重要であると考え
マンの娘によって,父親の死去が報じられたとある。し
た。そして,それらグループの歴史性が理解できても,
かし,今日,アーミシュの多くは,アンマン自身を詳し
現実のアメリカ国民としての生き方には,集団ごとに類
く知らないように,彼の出生地についても関心はない。
先述のような合衆国内での分裂は地域社会を動かし,
似点と相違点が見え隠れしていた。
したがって,この点の分析により,“狭義”のアーミ
グループの指導者の考えが広まるにつれて,内部での異
シュ(とくに,Old Order と称される伝統文化を維持す
論も飛び出し,議論は活発化した。1960 年代に入ると,
るグループ)の実態が明らかとなる。そこで,本論文で
このような動きは一旦終息したようにみえたが,決して
は,16 世紀にヨーロッパで再洗礼派(Anabaptist)に属し
消えたのではなかった。アーミシュ共同体においては,
た 4 つのグループ,ハテライト(Hutterites)
,メノナイ
電話の使用やトラクターによる農作業などの是非が,精
ト(Mennonites),アーミシュ(Amish)
,ブレザレン
神的な生活の維持を脅かすかのごとく進行した。
しかし,アーミシュの考える改革は,物質的な論理で
(Brethren)を研究対象とした。
進むものでもなく,家族という共同作業をする集団の論
1 代表的な Old Order Amish の移住
理が優先してきた。1966 年時点のランカスターでは,認
近年においてもこのグループからは,1955 年からの 5
められていない大型農業機械を導入した地区があった。
彼らは New Order Amish と呼ばれ,分裂して 100 家族以
上での新たなる居住地を形成した。このグループなど
は,新しい技術を受け入れる一方で,伝統的な規制を決
して否定するものではなかった。つまり,農作業にトラ
主流グループ
373,000 人
クターは使っても,家族の移動手段には馬車を使い,家
Old Order グループ
113,000
ではドイツ語による礼拝を継続してきた。この種の分裂
した小集団は,アーミシュコミュニティの構成図などに
記されないことも多い。1960 年代後半以降になると,ラ
ンカスターでは伝統的グループから多くの分裂がみられ
中間グループ
52,000
た。その中の数グループは,進歩的な Beachy Amish と
図 1 合衆国内における再洗礼派
(Anabaptist)
の区分
(1990 年)
( 24 )
の交流を深めていった(図 10)
。
─ 24 ─
アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ(Old Order Anabaptist)の地域展開と文化的特徴について
1960 年代のもう一つの動きは,宗教論争が激しくな
とする人々は,新たな習慣の方が優れていないだろう
るにつれ,居住地をラテンアメリカに移す人々がいた。
か,と疑うことも多いが,変更することについては慎重
古くは 1920 年代に,メキシコへ移住したグループもあっ
である。これは,彼らが変化を拒否しているのではない。
たが,失敗に終わっている。1951 年には,ホンジュラス
改革することが人間を成長させ,不変の生活を導くとは
へ,1967 年になるとコスタリカへも移住した。農業生産
考えないし,科学的な発見やデジタル化が,生活をより
を基本とする彼らは,移住先の土地条件と気候に苦し
高次元に引き上げるとは考えていない。彼らには,田舎
み,またスペイン語の習得に,さらには移住先の貧困に
での速い乗物が異常に見え,大きなものは耐えがたく見
も苦労した。北アメリカに在住当時のアーミシュは,隣
え,また新しいものを不必要なものと捉える,思慮深い
人のアメリカ人に比べて質素であったが,ホンジュラス
人々なのである。
古い秩序を守ろうとする人々は,さまざまな風習を信
において馬と土地を所有していたため,裕福とみなされ
じる。第一は,信仰を通して神の存在と,かつ天国と地
ることもあった。
そして,彼らは 1970 年頃から,しだいにホンジュラ
獄の存在を信じている。したがって,聖書は科学的な検
スで孤児の救済や,1974 年には地域に学校施設を寄付す
証よりも信頼できると考えている。第二には,世代を超
るようになった。この土地での特色は,Old Order と
えた古くからの知恵を敬い,言葉で伝承されるものが,
New Order の両者が居住していたこと,そして両者間の
文字の記録よりも高いと捉えている。たとえば,天気に
交流はほとんどなかった。
ついての伝承,ハーブ茶を飲む風習,セラピストに相談
1977 年になると,一部の家族は北米にもどり,翌年
する前に友人と話すことが多い。事実,これらの経験や
には,Old Order Amish のすべてがカナダのオンタリオ
知恵の中には,近代に発見されたことよりも信頼がおけ
州に移住した。New Order Amish の中には,オハイオ州
るケースもある。第三に,物事を繰り返し継続させるこ
にもどった家族もおり,残ったグループが後に Beachy
とに意義を感じている。この繰り返しが,世代を超えた
Amish と合併している。
信頼につながると考えている。
ホンジュラス以外では,パラグアイに移住したグルー
したがって,新たな手法への変更を考えるよりも,何
プもあった。彼らは,すでに多くのメノナイトが居住す
故に変えた方が良いのか,ということを時間をかけて議
るこの国のカコ(Chaco)地方に入植した。ここでの生
論する。もちろん,最新の情報についても熟知している
活は,肉牛,ナツメヤシ,果物類の生産を行ない,1977
が,彼らは過去の時代に証明された方法を好んできた。
年に最高の収穫量をあげたが,精神面の安定性に欠け,
1978 年には少数を残して北米へ戻った。現在,ここに
2−2 外部社会からの変化要因への対応
アーミシュの居住地を訪れるアメリカ人は,好奇心の
残るアーミシュは自動車を使わず,英語・スペイン語で
固まりである。ストレスの多い現代社会を生きる人々に
礼拝集会を行っている。
合衆国内における Old Order Amish の人口は増加して
とって,古い姿をとどめるアーミシュ共同体が優雅に見
いる。1971 年から 1991 年までの 17 年間に,彼らの教区
える。彼らの中に,アメリカ人の過去の人間関係を見出
は 102%の増加を示し,人口数でも約 2 倍に増えている。
し,その一方では彼らに同情心をもつ。文明に逆行する
アーミシュの家族は,1 年に一か所の割合で新しいコ
余りの純粋さに,ポストモダン的な今日においては,彼
ミュニティを作り,地域的には東海岸やフロリダにまで
らの真の幸せに疑いも持っている。同時に,アメリカ人
拡大している。そして,国内の 22 州とオンタリオ州に
の失われた生活へのヒントを,彼らの中に見出そうとし
Old Order Amish が分布するようになった。とくに人口
ている。そして,しだいに古い姿の共同体社会を尊敬す
の 28%がオハイオ州,24%がペンシルベニア州,17%は
る感覚を持ちはじめていると思われる。ポストモダンの
インディアナ州と,これら 3 州へ集中する傾向がみられ
状況下にあっては,古い慣習をもつこれら小集団が,一
る。新たな居住者の受け入れ先としては,ニューヨーク,
種の皮肉的な存在になっている。
古い秩序(しきたり)は,集団行動を調整する暗黙の
ミシガン,ウィスコンシンの各州が目立つ。
了解事項でもある。その中には,しっかりと確立したも
2 Old Order であることの意義
のから不確定なものまである。彼らのしきたりが,柔軟
2−1 古くからの秩序を守る習慣
になったといっても,基準の変化や中味がボケてしまっ
長い歴史と秩序ある文化の核心は,伝統的な習慣(知
たわけではない。彼らは年次集会などの時点で,定期的
恵)に対し尊敬の念を抱く点にある。古い秩序を守ろう
に見直すことを前提に,しきたりを変えても問題が生じ
─ 25 ─
( 25 )
永 野 征 男
ないときには,慎重な修正を施してきた。したがって,
しかなかった。しかし,同委員会が解散した1961年以降,
長い期間を通して変わらない習慣もあれば変化するもの
ブレザレンは 1940 年当時の規約に戻し,組合参加その
もある。
ものを禁止した。
たとえば,マスメディアを拒絶するために,ラジオ・
テレビ・写真類は,俗世の価値観と直に連がるものとし
2−2−2 服装の変化について
彼らの服装は,1881 年以来まったく変化していない。
て禁忌してきた。違反者が出たときには,物品は処分さ
れ,その後の行動も監視される。ラジオに関しては,
外見上の特色や規制に関しては,すでに詳細な報告をし
1925 年まで再検討もなく禁止措置が続いたが,1943・46
たので,ここでは省くことにする。さて,1940 年代以降
年に再確認の対象となった。しかし,使用は認められな
の注目すべき点は,数名が金色の腕時計や,短く切った
かった。1975 年には,地方放送用のラジオを組み込んだ
ティーパードヘアをしたことである。女性の中には,
バイクや農業機器についての議論があり,仕事上の必要
ギ ャ ザ ー 無 し の ド レ ス, 肌 色 の 靴 下, 縁 取 り の な い
度に応じて許可された。その後も違反者が絶えないこと
ショールなどを取り入れる傾向もみられた。しかし,年
から,この許可条項は取り消され,議題になることもな
次集会でそれらは激しい注意を受け,とくに公的な場所
くなった。現在は 1994 年の決定により,雇用先との関
で仲間意識を保つ上に相応しくないとして,強い禁止措
係から,ラジオ放送を必要とする時に限り認可されてい
置が取られた。
る。 同 様 な こ と は, コ ン ピ ュ ー タ に も あ り, す で に
Old Order 独特の服装は,個人のアイデンティティの
1980 年代から所持していた者もあったが,これらも仕
証明に役立ち,グループ内部と外部の区分を明らかにし
事限定で認められた(表 1 )
。
てきた。規定の洋服を着用することは,他のアメリカ人
のように,毎日,異なる洋服で装う心配もなく,頻繁に
2−2−1 労働組合への参加問題について
服飾品の買物に出ることも不要となる。
1940 年代から 1960 年代にかけて表面化したことは,
しかし,彼らも着用する上では,多少の違いを考案し
労働組合への参加問題であった。たとえば,ブレザレン
ている。外部の人にとっては,グループごとの帽子の幅,
では,雇用先が半強制的に参加させることから,組合参
洋服の丈,ポケットのつけ方など,わずかな変化に気づ
加を罪悪とみなしていた。したがって,組合員としての
かない。もちろん,個人を目立たせるようなアクセサ
行動は控え,年間会費のみを納める者がいた。1953 年の
リー類や化粧は明確に禁じられてきた(図 2 )。
グループ内の議論では,これも拒絶されたために,外部
2−3 伝統を重んじる精神構造
企業がブレザレンを雇用することも難しくなった。
その後の教会側の対応は,労働関係委員会を立ち上
Old Order にとっては,学歴やアメリカ社会に精通し
げ,全米の二大労組と議論を重ね合意点を見出してい
る。それは,組合の年会費と同額の公共チャリティに賛
同した場合は,組合費支払者として認定し,教会側発行
のカードが組合員証としての役割をもった。もちろん所
属する組合を退会したい時には,単純に雇用先を辞める
表 1 4 グループにおける近代技術に関する許可状況
(Y:許可/ N:禁止)
品名
ラジオ
ハテライト アーミシュ メノナイト ブレザレン
N(1)
N
N
N
テレビ
N(1)
N
N
N
コンピュータ
Y
N
N
Y
カメラ
?
N
N
Y
自転車(個人)
N
N
N
Y
電話(個人)
N
N
Y
Y
電化製品
Y
N
Y
Y
トラクター
Y
N(2)
Y
Y
注(1)…教育現場では許可 (2)…集落によっては許可
資料:D.B.Kraybill( 2001)を改変
( 26 )
─ 26 ─
図 2 アーミシュにおける洋服等のスタイル
アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ(Old Order Anabaptist)の地域展開と文化的特徴について
ていなくても,共同体の中での日常生活に問題がない。
代わりに,内部的には違いも存在した。とくにハテライ
たとえば,ハテライトは農業面で数千エーカーの土地を
トの習慣は,他のグループと異なっていた。
馬耕してきた。また,年間売上げが 100 万ドルを超える
Old Order とは,道徳的な権威を大事に,伝統的なこ
アーミシュやブレザレンの経営者が,必ずしも経営上の
とや規律の正しさを高く評価してきたことが,典型的な
専門的知識を習得しているわけではなかった。また,女
特徴とも云える。伝統的な習慣や知恵は,科学論などよ
性たちの飾り気のない気品と素朴さは,共同体の中で見
りもはるかに影響を与えてきた。この権威は,
「Ordnung
い出されたものであり,決して,表現方法や芸術的な創
(規則や規律)」と同じ内容である。そのために,現代の
造力が,伝統文化から与えられたものではない。
科学進歩にともなう道徳論に異議を唱えることもある。
かつて彼らの実態を外部メディアは,無感覚な姿と集
団の暗さを前面に押し出すことにより,酷評ばかりして
そうしたとき,彼らは反体制グループというレッテルを
貼られる。
きた。しかし,彼らにもユーモア,笑い,陽気さは充分
道徳的な権威とは,宗教儀式によって過去の英知と風
すぎるほどあり,日曜日夕方の歌の集会や知人の結婚式
紀を呼びおこし,人々の心の中に再認識させる。した
で交友を深め,バレーボールやソフトボールに興じてき
がって,外部から非難されようとも,伝統的な儀式を継
た。女性たちが得意とするキルティングの集いは,仕事
続することが,重要な意味をもつのである。
と遊びを結びつけたものであり,野外での狩猟,釣り,
ハイキングなども盛んに行われている(写 1 )
。
また,彼らは風紀と社会構造に合致する場合のみ,科
学を受け入れた。伝統的というのは,あくまでも程度の
一方で,宗教的な集団といえども,完璧な人間性を有
問題であり,支持できるいくつかの伝統と,共通の基準
するわけではない。ときとして,貪欲,妬み,復讐が頭
がしっかりしている。外見上の特色である服装や,個人
を持ち上げる。つまり,アルコール中毒,性的虐待,家
的選択の禁止などの宗教的な標識は,Old Order のアイ
庭内暴力は否定できない。
デンティティを固める際に,重要な要素でもあった。
これらの集団のことを,アメリカ国内には衰えて忘れ
そこで,伝統に重きをおく具体的な主張は,以下のよ
去られる集団という見方がある。つまり,現代社会の風
うにまとめることができる。これらは,言語で書きとめ
習に反抗し,科学技術に背を向ける彼らは,いずれ消滅
られたものではなく,伝承によって共同体内部で語り告
してしまうだろうという考え方である。しかし,今日,
げられてきた主張である。
これらの集団は後述するように発展し,すべての世代で
ⅰ)個人とは現実において最上のものではない。共同社
人口を倍増させている。ここで取り上げる 4 グループ
会の目標は,個人を超えることにある。
についても,いかに現代を生き続けるかではなく,いか
ⅱ)過去は未来と同じくらい重要であり,伝統は変化を
に栄えるかという命題をもっていると考えるべきであろ
超えることで価値がある。伝統の維持は,前進に勝るも
う。
のである。
メディアの写真の多くは,黒い服装で馬車に乗る姿を
ⅲ)新しいこと,大きいこと,遠いことは必ずしも良い
紹介し,これが彼らの生活の目印となり,均一的な印象
ことではない。
を形成してきた。もちろん,彼らの中には共通性をもつ
ⅳ)共同体への恭順は,秩序と統一をもたらす。共同体
の統一を維持することは,もっとも価値あることであ
る。
ⅴ)労働は消費よりやりがいがあることであり,土地と
の結びつきは,国家のそれに勝る。
これらは,彼らの体験,つまり厳しい圧力に耐え続け
た上でのことである。もちろん,高い理想には妬みなど
のズレがあることも事実である。しかし,彼らの主張は
明快であり,共同体の英知を望みさえすれば,神からの
祝福を受けて天国へ行けると信じている。
3 Old Order グループの個性ある特徴
写1
女性グループが作るキルト。高価格で取引きされる伝
統工芸品。
1998 年の夏,世界の主なテレビ局がペンシルベニア
州ランカスター(Lancaster)に集まった。これは,麻薬
─ 27 ─
( 27 )
永 野 征 男
を販売して逮捕されたアーミシュの二人の青年に対する
8)
考えても,共同体の結束を破ることなく,科学技術を取
取材であった。雑誌「タイム」や「ニューヨーカー」 も
り入れている。そこには内部・外部からの圧力に対して,
特集するほどであった。この青年たちは,Old Order に
つねに境界を再検討していることに注目したい。さら
所属し,いつもは目立たずに都市の外辺で静かな生活を
に,彼らは人間社会の本質に対して,基本的な問題を提
送っていた。
起してきた。それは,われわれの興味の対象というより,
いわゆるアメリカ人が目覚めるときには,そこには世
むしろ教訓的である。共同体でのさまざまな試みは,現
界でも例外といえるほどの両刃の剣をもっている。一つ
代社会の文化について,とくに自然への対処に関して,
は,もっとも個人主義的,強い権利志向,楽観的,信心
新しい問題を提起しているようである。
深いことであり,建国以来それを貫いてきた。しかし,
さて,本報告の視点は文化的な側面からの分析を行う
もう一方には,薬物使用・犯罪・訴訟などに関心が高い
ものである。4 つの集団の象徴的な行動を通して,彼ら
国民でもある。
の意義を考え,また儀式化されている事柄が,組織と世
これらは,アメリカの特色を示すことがらであるが,
界観にどのような理解力を与えるのかを考えたい。
さらなる例外がある。それは,文化的に明確に区分でき
改めて,これらのグループは,16 世紀のアナバプティ
る集団が国内にいるということである。彼らは,個人・
スト教徒である。1517 年のプロテスタント宗教改革時
正義・自由という範疇でくくることができない,信仰に
に,改革の進度に反発した若手の過激派であった。彼ら
基づく共同体を維持し,教会への従順,禁欲,教会の権
は,改革が急速に進み,返ってカソリックの規範が確立
限について熱く語るグループである。二つ目には,彼ら
することを望んだ。なかでも,幼児洗礼を受けた成人に,
が政治に興味を示さず,集団責任の重要性のみを求めて
再洗礼を課したことから再洗礼派と呼ばれた。成人洗礼
いる。三つ目には,自給自足の社会をもち,個人的な楽
は,16 世紀のヨーロッパでは重大な罪であった。幼児洗
しみや余暇のための派手な消費を戒め,つねに共同体の
礼を受けることで,キリスト教徒の一員としての資格が
ために奉仕している。つまり,彼らはアメリカ人のいう
与えられ,自動的に市民権も認められた。したがって,
“例外的な存在”とも異なる。
彼らの主張は単に洗礼の時期に関わる問題というより
本報告では,合衆国内の約 50 種のアナバプティスト
も,教会の権威に関連するものでもあった。
の中から,代表的な 4 つのグループを選んだ。アナバ
さらに,彼らは聖書に深く触れることを望んだ。その
プティストは,1525 年のスイスと南ドイツで起きた急進
ために,彼らの行動が教会組織を破壊する行為であると
的な宗教改革にまで遡る。改革の結果,ハテライトはメ
いう解釈から,ヨーロッパ各地で火刑や溺死させられる
ノナイト,アーミシュ,ブレザレンに分かれた。世界中
ほどの迫害を受けた。この動きは,北部ドイツからオラ
にアナバプティストは 100 万人を数え,合衆国には 48 グ
ンダ周辺に拡大したために,再洗礼派として発見される
ループ(約 50 万人)の信徒がいるといわれる。その中に
ことの少ない遠方へと逃れた(図 3 )
。
は,アメリカ主流の文化を受け入れ,近代科学の技術を
3−1 共通の信念について
用い,高等教育を経て専門職に就いている者もいる。
その中で事例の 4 グループは,例外中の例外として
彼らの中にあって,古くからの秩序は「Ordnung」に
栄えた理由に魅せられるものがある。彼らは宗教上の伝
よって保たれてきた。ドイツ語のルールと伝統を意味す
統をともに維持し,外観的には類似しているように見え
るこの語句は,各集団の独自性を伝えるための規則であ
るが,非常に異なる集団でもある。
る。これに違反すると破門もしくは除名された。
ブレザレンは,自家用車,コンピュータを使用するが,
アーミシュ,メノナイトは拒絶している。後者の 2 つ
のグループは,外界との接し方が似ている。総じて,合
衆国でのアーミシュとハテライトの研究は多くみられる
が,メノナイトとブレザレンについては少ない。
21 世紀の初頭,これら伝統的な共同体は,何ゆえに
消滅しなかったのであろうか。何が彼らの独自の文化を
守ることを可能にしたのであろうか。彼らは多くの変化
を体験する中で,外界との間に絶えず境界線を上手く引
いてきた。たとえば,電話やコンピュータ,車の使用を
( 28 )
─ 28 ─
図 3 再洗礼派 4 グループのヨーロッパにおける変遷過程
アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ(Old Order Anabaptist)の地域展開と文化的特徴について
Old Order 各集団の文化は「Gelassenheit」に基づいて
内部における境界は,家というまとまりがある。それ
いる。これは独断的な個人主義を排した広い概念として
はつねに教会によってチェックされ,とくに子供につい
捉えられている。神への忍従,他人への思いやり,質素,
ては,現代の文化と大きくズレるため慎重になる。子供
素朴などを主旨とし,現代の価値観に通じるものがあ
時代の世界観は,一生刻み込まれるからである。そこで,
る。そこには,地域社会が第一の社会単位であると規定
グループ内の重要な責務は,年長者・両親・教会を尊敬
し,個人の権利や野望とは一線を画す考え方である。地
することであると教え込まれる。不従順な子供には,身
域社会での,生活上のしきたりが具体的に示され,伝統
体的な罰を与える。
子供時代に権威へ対する従順さを学ばせることは,共
や集会,指導者に服従することの美徳も意味する。
彼らの中では,初期のアナパブティストがヨーロッパ
同体内で大人になるために重大なことである。また,グ
各地で迫害を受けたこと,つまり殉教者の死が究極のも
ループ社会の適応性を身につけさせるには,若い時から
のであるとして評価し,この Gelassenheit の原則を地域
の説得がもっとも効果的である。アーミシュの子供たち
社会の規範としてきた。このことを,人々の全生活にあ
も同様に,個人主義や自己表現力が発達する前に,平静
てはめることには疑義もあるが,その糸は Old Order と
で協調性のある大人になることを学ぶ。
いう布地にしっかりと縫いつけられている。つまり,信
メノナイトやアーミシュの子供に対する宗教教育に
仰へ服従する義務は,個人の行動を抑制し,文化的価値
は,明確なものがない。ハテライトは,ドイツ語教育を
を形成し,宗教儀式,象徴的な表現を規定し,そして社
施すが,日曜学校や後述の私学でも宗教教育は行われて
会組織をリードすることであった。
いない。その代わりに子供は家族・教会・集団生活に参
子供たちは,大家族の中で育つと服従することを憶え
加することで,信仰や価値観を学ぶ(写 3 )。
外部との接触については,基本的に外部世界との分離
る。玩具ひとつにしても,全員の物であることを学ぶ。
また競うこともなく親や先生に従う。そこでは,不服従
を強調しつつ,隣人と上手くつき合いたいと考えてい
が神に反抗することに等しいと教えられる。
る。それは日常的な行為や,災害を受けた時に何らかの
一方,周りの社会との明確な境界線については,世界
影響が現れる。また農産物や土地の売買などにも関係す
が自分たちの信念を蝕もうとしている,と信じている。
る。ビジネスに就く者は,毎日のように外部と接してい
メノナイトやアーミシュが使う馬車は,外界との分離の
る。なかでも,ハテライトはもっとも外部関係を重視し
象徴であり,メノナイトを除くすべての男性の鬚を蓄え
てきた。グループから外れる者については,牧師が監督
るといった習慣は,グループに縄張り的な境界線をつけ
し,外部からの来訪者はあまり歓迎されない。幸いにも
る(写 2 )。
ハテライトの居住区は,外部世界と接触するのに遠すぎ
る位置にある。
このように,Old Order は外部との接触に用心深い。
なかでも度々紹介するように,ハテライトは外部の組織
に加わらないし,アーミシュの土建業者にしても,建設
関連組織との関わりをもつが,加盟することはない。農
業を主体(基本)とすることが,なおさら関心を少なく
する。ブレザレンは例外で,ビジネス面では様々な組織
写2
メノナイトが使用するバギー。交通法規に合致するよ
うに後部に赤色停止板あり。車輪にゴムタイヤ不使用。
写3
─ 29 ─
馬耕の風景。馬にスキを引かせ、操作は子供たちの仕事。
( 29 )
永 野 征 男
(赤十字,レスキュー,ボランティア,災害救援サービ
とを意味する。アーミシュとメノナイトの社会構造が似
スなど)に加わり,その中でとくに彼らが注視されるこ
ていても,どちらかというとアーミシュの方が,規制内
ともない。しかし,宗教的な活動となると一線を画する。
容や外部との分離などの面で厳格な組織である。ブレザ
広い宗教的な結びつきを避けている。
レンは,もっとも柔軟な組織体系をもち,確かに Old
Old Order にとって,集団の外で許容できる行為とは
Order の一員であるが,彼らの社会組織は緩やかに作ら
何であるのか,何が安全であるのか,これからも終わる
れている。ライフスタイルも多様化し,個人の行動にも
ことのない議論を続けることになろう。
多くの自由がある。
グループごとの規制項目が,つねに完全に保たれてい
3−2 各集団のアイデンティティ
ると考えることは単純すぎる。居住地が離れているハテ
ともかく,4 つのグループは良く似ている。それはも
ライトでは車の使用が認められ,ブレザレンの外部社会
ともと同じものという,研究者たちの答えに帰するので
の結びつきは,儀式の際に激しく規制されている。それ
あろうか。分析すればするほど,多くの違いにぶつかり,
ぞれのグループの社会的なシステムは,コントロールポ
単純な“皆同じ”理論にはならない。各グループはそれ
イントをもっている。したがって,強い規制による強い
ぞれの道を歩み,それぞれの歴史を有している。
分離は容易なことではない。先述のハテライトの居住地
それは,
「隔絶」
・
「統制」の二つの面から概念化できる。
の分離などは,極端な規制の一つであると考えられる。
前者は,少数派社会とより大きな社会との社会的距離の
また,ハテライトとブレザレンは,農業生産面で近代技
度合いを暗示している。大きな社会では,主流の文化と
術を利用するため,表面的には似ているように見える
の相互作用があり,小さい社会では隔絶というレベルが
が,社会規制の点からは両端に位置している。ブレザレ
ある。そのコンセプトとしては,文化(言語・価値観・
ンには個人所有の自由があり,一方,ハテライトには一
規範)と社会構造を取りまくものとの隔たりの度合いを
切の所有権がない(図 4 )
。
財産所有の面で 4 つのグループは大きく異なる。メ
表している。
後者の統制という要素は,個人の表現力を調節する程
ノナイトとアーミシュは,他の家族と馬車で交流できる
度を表している。統制が強いと選択の幅は制限され,個
地域内に住みたいと考え,大都会での生活に魅力を感じ
人を閉じ込める。一方,弱い段階では個人の自由を実現
ない。外部への依存もグループで異なり,ハテライトの
させる。その意味では,統制が緩いとグループ外からの
生活スタイルは,集落内で完成したものではあるが,外
隔絶が一層求められる。これら二つの要素は,Old Or-
部に手を伸ばすことも可能である。また,ブレザレンは
der とアメリカ主流文化との違いを良く表している。
もっとも外部組織に依存している。
一般的に二つの要素は,互いに隔絶を進めるため刺激
さらに社会や職業を規制する内容が異なる。ハテライ
し合っている。この相互作用は,統制のより強いことが,
トはリーダーが激しい役割を規定する。ブレザレンにし
隔絶にとってより強度な境界を維持する必要性を引き起
ても,職業の選択に規制がないわけではない。外部との
こす。この二つの連携が,異なるコミュニティをもたら
接触に必要な自動車に関しても,ブレザレンの移動の規
し,互いのつながりの強弱となって現れる。たとえば,
ハテライトのように両者が強く結びつくと,厳格なコ
ミュニティ構造を作り出し,一方,ブレザレン社会の寛
容さは,より柔軟な二つの関係に起因する。メノナイト
とアーミシュの生活構造は,伝統的に厳格なハテライト
と,緩いブレザレンの中間に位置している。グループに
よって社会生活の厳格さに違いがあるとしても,我々の
現代社会との緩いつながりに比べれば,相対的にしっか
りとしたものを維持している。
多少の細かな説明を加えるならば,ハテライトのよう
に厳格なコミュニティにあっては,みずからを外部と
はっきり区別している。そのためには内部の組織化を成
熟させ,生涯を通じて仲間をサポートする体制が完成し
図 4 Old Order グループの社会的組織の特性
ている。厳格というのは,個人の行動を規制しているこ
D.B.Kraybill による
( 30 )
─ 30 ─
アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ(Old Order Anabaptist)の地域展開と文化的特徴について
模は自動車の普及に関係し,他のグループはタクシーの
住区は社会的な変化に近ずき過ぎるため,返って外界か
使用頻度の範囲と関係する。
らの分離を明瞭にする必要が生じる。いずれにしても,
それぞれの伝統的なコミュニティがもつ宗教的遺産は,
3−3 伝統的アイデンティティの維持方法
彼らのアイデンティティ構築と維持にとって重要である
これらコミュニティは,いかにして伝統的・旧体制的
ことには間違いない(表 2 )
。
なアイデンティティを維持してきたのだろうか。その答
ドイツ人のアナバプティストたちは,1880 年代の分裂
えは単純ではないように思える。本来,この種のコミュ
の中にあって,祖先の信仰を守ろうとした殉教者であ
ニティティは,個々の歴史に基づき,偶然性をもちなが
る。このことは,今日でも歴史的な信仰を維持するため
ら構築されるものである。それにも関らず文化的な特色
の責務を負うと考えられている。もしも,彼らが迫害に
は微妙に差があり,共通の課題はすべてのグループに関
よって屈折したり,世俗的に流されていたら,信仰の歴
係している。
史的な面は永遠に失われていただろう。
まず,グループ特有の宗教的な財産が,風習というア
Old Order のグループ内にあっても,アイデンティ
イデンティティを形づくり,また類似する宗派との関係
ティを否定することで分かれた集団も多い。しかし,そ
もその要因となっている。同時に,より大きな社会との
の集団が変わらず古い秩序を守り続け,Old Order を名
協力や闘争がそれらに加わる。また,都市化現象と近代
乗る理由は,祖先よりも伝統を重んじるためであった。
科学の進展が影響している。具体的には,都市化の圧力
アーミシュが,1693 年にスイスのメノナイトから分かれ
による地価高騰が,アーミシュと農業との関係を侵食
たときは,保守的なグループであった。彼らは合衆国に
し,また車の登場が仲間との関係を急速に変化させた。
移住したとき,みずからをグループの根幹として頑なに
このように,グループのアイデンティティは,内的・外
伝統に根づき,決して新しく分裂したグループではない
的な社会の状況に影響を受けてきた。
と主張したことからも分かる。
伝統的なアイデンティティを形成する要素をまとめる
と,(ⅰ)歴史的な経緯(ⅱ)集団内部の関係(ⅲ)象徴
4 具体例としてのハテライトグループ
的な意味,などを含んでいる。アイデンティティの構築
このグループの歴史は,1528 年にモラビアの再洗礼派
は,たえず変化する社会経済状況に直面する中での,文
から,小さい集団が領地を分離したことにはじまる。指
化的交渉のダイナミックな過程であるといえる。
導者ヤコブ・ハッターから付けられたグループ名は,迫
また,それぞれのグループ特有の宗教的遺産が,記憶
害・移住の体験を有していた。1870 年代には,約 1,200
を形成し,自己認識を形づくることになる。これらの記
名の信者がダコタ州に定住した。この土地には,他の集
憶である伝説・歌といったものは,世代を超えて継承さ
団も共同生活を営んでいたが,しだいにメノナイトに吸
れる。4 つのグループは,ヨーロッパにおける彼らの歴
収されていった。その中でも少数派のハテライトだけ
史の中で,重大な迫害を経験している。教会の説教で語
は,伝統を重んじるグループを維持し続けた。
彼らは,Schmiedleut,Dariusleut,Lehrerleut( leut と
られる殉教者の物語は,集合記憶に鮮明に残っている。
逆にそれほどの迫害の記憶をもたない宗派は,外部に不
は人々という意味)に枝分かれをした。いずれの名称も
信感をもつことも少ない。この違いが,彼らの社会的変
リーダー名から付けられ,とくに Schmiedleut のグルー
化に適応する際の差となって表れる。そして,現在の居
プは 9),科学技術の面で外部との接触することに熱心で
あったが,全グループとも同一にみえた。ハテライトは
1870 年代の北米に,425 の居住区を形成した。とくに南
表 2 4 グループにおける宗教関連事項の差異
(○…有 ×…無 △…不明確)
事項
ハテライト アーミシュ メノナイト ブレザレン
洗足式
×
○
○
○
ドイツ語使用
○
○
○
×
儀式でのキス
×
○
○
○
浸礼
×
×
×
○
懇親会
×
×
×
○
集会用建物
○
×
○
○
個有のいましめ
△
○
△
ダコタ,モンタナを中心に拡大し,カナダのアルバータ,
マニトバなどにも展開した(図 5 )
。
×
資料:D.B.Kraybill( 2001)他
─ 31 ─
図 5 北アメリカにおけるハテライトグループの変遷
( 31 )
永 野 征 男
4−1 共同体の実態
になるとドイツ人学校に通い,そこでは基本的なモラル
彼らは農業に大きく依存し,数千エーカーの土地をプ
と宗教の重要性,さらにドイツ語を学ぶ。
レーリー地帯に所有していた。農家は道路に接すること
その授業後に,非ハテライトのイギリス人教師によっ
なく,そのことが第三者との交流を一層閉鎖的にしてい
て英語教育が行われる。つまり,それまでの 16 世紀の
た。一つの居住区の大きさは,約 90 家族であるが,時
ハテライト聖詩から,突然に現代世界の言葉に変わる。
代とともに拡大している。一家族には 5 ∼ 6 名の子供
ここが,子供にとって初めての英語との出会いの場であ
がおり,私学である彼らの 8 学年の学校で学び,洗礼
る。非ハテライトの教師の指導内容は,教室内で見張る
は 18 ∼ 25 歳に受けた。言語は,英語とよく似た Hut-
長老の厳しい眼の中で行われ,進化論や生殖のような話
trish と呼ばれるオーストリアの地方語を学校で教育さ
題は触れない。
れた。さらにラテン語とドイツの古語を学習した。これ
子供は 15 歳でこの学校を卒業する。この年齢は新た
ら独特な言語の使用が,長老と直接話すことを可能にし
なる大きな出発点であり,この時に木製の鍵つきの個人
てきた。
机が与えられる。そして,17 歳までの間に仕事の分担が
農業の実態は,5 千∼ 1 万エーカーの農地に畜産を含
めた経営形態をとり,耕作や運搬作業の際にはトラク
決まる。一般的には,18 ∼ 25 歳の若者は,礼拝のため
の準備をしたり,日曜の午後洗礼の設営にあたる。
ターを用い,コンピュータによる管理もみられる。各居
結婚は,成人前の最後の試練である。集落が離れてい
住区には,機械修理や電機関係の専門店まであり,サ
る場合は手紙で,同一の集落内では社交的なイベント時
ポート体制が確立している。家庭にはレンジ・冷蔵庫な
にお互いを知るようになる。男性は両親や牧師を介し
どの電化製品が備えられているが,すべての行動は伝統
て,双方の集落の長老の了解を取りつけ,最終的には女
的な宗教心に因っている。
性の両親の許可を求める。このように教会と家族が主役
彼らの共同体の望ましい姿は,お互いが目標のために
を演じる。挙式は,新郎の集落で日曜の朝に行われ,数
利己的な考えを放棄することで達成できると考えられて
組が一緒の場合もある。結婚後,男性は教会での最終会
きた。そこで,完全なる自己放棄のために,崇高な主張
議の場に出席でき,女性は夫の新しい集落において,女
を熱狂的に支持する方法をとっている。利己心を捨てる
性サブカルチャーに参加できるようになる。
ということは,かなりハードな主張であるが,そうする
女性は結婚によって 2 つの姓を持つことになる。先
ことで共同社会の成果を享受できると信じている。自己
の Schmiedleut グル―プでは,70 %が 4 つの姓(Hofer,
放棄は,共同体の中で多くの人から監視され,子供時代
Waldner,Wipf,Wollman)に集約された。もっともハテ
から完全にメンバーとしての風習を教え込まれる。3 歳
ライトの 90 %は,約 10 の姓が占めている 10)(表 3 )。集
に達すると,Klein Schul と呼ばれる保育所に入り,権威
落単位でみると,居住者の 42 %が 15 歳以下で,わずか
者に敬意を払うことを学び,協力する姿勢を教えられ
3 %が 65 歳以上の高齢者である。25 歳以下に限定する
る。従わない子供は,木の枝や紐で体罰を受ける。6 歳
と,居住者の 61 %を占めている。このような若年層に
偏した社会構造のために,彼らの施策は年金や老人病対
策よりも,学校教育に重点が置かれる。もっとも,高齢
表 3 ハテライト各グループにおける家族名の分布
者は居住区内で手厚い介護を受けている(図 6 )。
ファミリー姓の
ハテライト内の各グループ
具体例
Dariusleut
Lehrerleut Schmiedleut
Hofer
32
16
26
Waldner(Weldner)
4
19
28
Wipf( Wiph)
3
19
9
Stahl
17
0
4
Wurz(Wurtz)
10
9
3
Kleinsasser
0
14
5
Tschetter
15
0
2
Maendel( Mandel)
0
6
7
Walter
11
0
0
Entz
0
13
0
Six other names
8
4
16
100%
100%
100%
(全体数) (269)
(222)
(322)
4−2 ハテライト人口の動向
1870 年代,彼らの居住区は全米にわずか 3 か所であっ
た。21 世紀の初めまでに急速な拡がりをみせ,425 か所
に拡大した 11)。1980 年代には,毎年 7 か所が増えるなど,
出生率の高いことを表している。20 世紀初頭に,一家族
あたり 10 人の成人した子供をもつハテライトは,人類
史上もっとも成長率の高い人々であったが,近年はその
出生率も下がりつつある(図 6 )。
1990 年の南ダコタ州での調査報告によると,45 歳以上
の女性は,平均 8 人の子供をもち,さらに他の調査で
資料:ハテライト電話帳(2000)を主として
( 32 )
は 5 ∼ 6 人というデータもある。統計的には,1950 年
─ 32 ─
アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ(Old Order Anabaptist)の地域展開と文化的特徴について
によって長年の生活をともにした家族も離れるが,この
移動に関して個人に選択権はない。
4−3 集落内での教義
彼らが新しい居住区を作るときは,そこの市民や商業
関係者から抗議を受けることもある。放火事件に発展し
た例もあるし,カナダの事例のように所有地制限を受け
ることもあった。しかし,いずれも行政当局が仲裁に
入った。子供の公立校への通学に関しても,彼らがバス
通学を拒絶したことで,居住区内に小規模な公立校が開
校された。後には,みずからが建設した 8 学年の私学
で学ぶことになる。税制面では,合衆国でもカナダでも
図6
所得税などの一般的な納税義務を負っている。
北アメリカにおけるハテライト人口の推移
(1900 ∼ 2000)
ハテライトの牧師は,この集団の教義を教え,古くか
資料:J・Hostetler
(1997)による
らの形態を守る義務を負っている。それは大変な重労働
であることは,平日の夕方と日曜礼拝のたびに,数百年
から 1990 年にかけて,23%の低下を示した。
前にヨーロッパで書かれた経典を人々に説くからであ
産児制限をタブー視してきた彼らが,何故の出生率の
る。学校の教師も,同じように道徳や言語に対して,か
低下であろうか。そこには,人力による農作業の低下に
なりの責任をもっている。それぞれの集落には,牧師=
より,肉体労働の必要性が軽減してきたこと,また子供
聖職者,代議員,妻帯者,受洗礼者,非洗礼者という 5
のための新しい土地の購入が困難になってきたこと,さ
つの階層がある。ハテライトの社会では,この地位と年
らには出産した病院での専門医からの助言に原因がある
齢と性別によって組織化されている。それらが良く分か
と考えられている。医者は女性たちの健康上のことを理
るのは,聖式時の座席の位置である。
由に制限することを勧め,女性たちも晩年結婚をするこ
最後に,集団での懲罰と離反について触れる必要があ
とで制限するようになった。居住区の中では,これらを
ろう。懲罰の方法は,ハテライト内の 3 つのグループ
産児制限とは受け取らず,健康上の理由だけが,表向き
で異なる。共通的な事象では,隠れてラジオを使用した
に使われている(表 4 )
。
場合,礼拝時に公開告白をさせられ,説教中は起立する
ハテライトの一集落単位は約 100 名とされ,130 ∼ 150
という屈辱を味わう。そして 2 週間の追放が決まる。麻
名規模に達すると新たな居住地を考えた。その間隔は
薬やアルコール,銃の所有に至っては,長期の追放が
15 年ごとのペースであったが,人口増加率の低下によ
待っている。追放の形態には 4 種類があり,教会の入
り,近年は 20 年間隔といわれる。
口に座らされ,礼拝時に全員から見られる処分,地下室
居住区の新設には,移住者が十分な生活ができるだけ
で一人で食事を続ける処分,期間中に特別な仕事が与え
の資金を援助する。その金額は,数百万ドルにも達する
られる処分,保育所で寝起きをする処分などがある。追
ために,集落内では長期にわたり資金を貯める。長老は
放期間が終了するときには,礼拝に類した儀式で,懺悔
家族構成が平均化するように,年齢,技能で分けた二つ
をした後に社会復帰ができる。
の名簿を用意し,くじ引きで移動者を決めることもあ
グループからの離反は,10 代後半あたりから,また結
る。そこでは人生の中で劇的な一瞬を迎える。新居住区
婚した二人の中で生じる。その数は平均して若者人口の
5 %以下といわれる。数か月から 1 年余の外部世界での
表 4 ハテライトと南ダコタ州民との出生比(1950 ∼ 1990)
年 次
1950
1970
1990
出生比(人口 1,000 人当り)
ハテライト
45.9 人
43.0
35.2
生活を経て,再び戻ってくるケースが多い。離反者に関
しては,近年,増加しているという外部の報告もある。
成人の場合のように,宗教上の理由から離反した者は戻
南ダコタ州
23.4 人
14.7
12.1
ることも少ないが,若者のように外界を眺めるだけの場
合は戻る率も高い。離反者は,個人的・財政的な自立を
資料:南ダコタ州のセンサスによる。
州内のハテライト 18 地区(Schmildleut)
目指す今日のアメリカ文化に接し,ハテライトの習慣と
異なる文化の中で生き残る努力をしなければならない。
─ 33 ─
( 33 )
永 野 征 男
表 5 合衆国におけるメノナイトの分布(1990 年)
5 具体例としてのメノナイトグループ
Pennsylvania
5−1 グループの誕生と分裂
これら教徒は,16 世紀ヨーロッパにおけるアナバプ
ティストにまで遡る。その名称は,指導者であったメノ
シモンズ(Menno Simons)に由来している。彼は 1536
年にカトリックから再洗礼派に改宗した。18 世紀になる
と,信徒のスイスと南ドイツの人々が,ペンシルベニア
州へ移住してきた。高い農業技術を有する彼らは,さら
にメリーランド,バージニア,オハイオ,イリノイ,イ
ンディアナの各州へ,またカナダのオンタリオ州へも拡
大した
9,650 人
Ontario
New York
Virginia
Missouri
Ohio
Wisconsin
Indiana
Kentucky
Iowa
Michigan
6,900
1,800
1,550
1,000
800
800
700
400
300
100
24,000
合計
12)
。
資料:D.B.Kraybill( 2001)
メノナイトは約 40 派に分かれ,今日,北米に 2,000 以
上の居住区があるといわれる。アメリカ社会に同化した
グループの中には,単科大学の経営や,専門職に就く人
り南北戦争後のアメリカでは,工業化の進行により農地
もいた。一方,伝統的なメノナイトのグループは,高等
は工場へと変化し,それが教会の在り方にも影響した。
教育や技術を拒絶し,地方で独特な生活を維持してい
アメリカ文化の目指す日曜学校,伝道集会,礼拝時の英
る。これら Old Order Mennonites は,大きく二つに区
語使用,外国への布教活動などに,異議を唱える人たち
分できる。その境界は,自動車を所有するか否かである。
がしだいに結集しはじめた。
車を使用するグループはさらに小さいグループに分かれ
ていった。ここでは,伝統的を維持する Old Order に限
5−2 北アメリカにおける展開
定して記述することにしたい(図 7 )。
当時,ペンシルベニア州に入ってきたメノナイトは,
彼らは,1872 ∼ 1913 年にかけて,教会内部で改革を
Pennsylvania German,Pennsylvania Dutch と呼ばれる方
進めようとする他のグループに反抗した。その数は,メ
言を使っていた。それにより,伝統的なグループである
ノナイトの中の 10 %に過ぎないといわれ,主流となる
ことを示し,従順で平凡な生活様式を象徴するように
グループと,伝統を守るグループが含まれた。そして,
なった。前進的なメノナイトは,19 世紀から外界との交
早くも合衆国においては 1860 年代にインディアナ州で
流をはかり,公立校で英語を習得した若者は,礼拝で英
Old Order のグループが反対運動を行った。1872 年には
語を使い日曜学校の開設を進めた(図 8 )。
オハイオ州に拡大し,カナダ(1889 年)
,ペンシルベニ
伝統的なグループは,日曜学校そのものが,いくつか
ア州(1893 年),バージニア州(1901 年)にまで広がっ
の宗派による世俗的な施設であることを忌み嫌い,その
た(表 5 )。必ずしも集団での行動ではなかったが,そ
ようなプロジェクトに参加しなかった。日曜学校につい
こには当時の時代背景を無視できないものがある。つま
ては,特殊で合理化された産業的な教育モデルを象徴す
るものとして嫌った。この抽象的な教育に対して,伝統
を重んじるグループは,神への畏敬の念を明確に教育す
ることを望んだ。また,プロテスタントの場合は,高尚
な聖職者を壇上にあげたが,彼らは聖職者と信徒は対等
関係にあると捉え,礼拝の中でも体験や感動を力説する
ことについても,個人主義的なものを感じていた。いず
図7
合衆国におけるメノナイトグループの分布(1999 年)
資料:Groffdale Confereuce Calender of Meetings
( 34 )
─ 34 ─
図 8 北アメリカにおけるメノナイトグループの変遷
アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ(Old Order Anabaptist)の地域展開と文化的特徴について
彼らの居住地の近隣には,非メノナイトも居住するた
れこれらの状況が自分たちの信仰の基礎,つまり地域社
めに,地域社会というユニット上の特色よりも,集会や
会を破壊するようになることを恐れた。
その中で,20 世紀初頭にメノナイト内部で大きな論争
会議に参加することで,組織が保たれてきた。その会議
が起きた。インディアナ州(1907 年)
,ペンシルベニア
は 3 つに区分され,メノナイトはその内のどこかに属
州(1927 年),カナダのオンタリオ州(1939 年)で,電
している。たとえば,最大の会議 Groffdale は,ペンシ
気と電話の使用に関する激論があった。この間にも,進
ルベニア州に本部があり,他はオンタリオ,バージニア
歩的な人たちが自動車を購入すればするほど,伝統的グ
州に本拠を置いている。この会議集団によって慣習に差
ループは馬車で移動した。ペンシルベニア州では,進歩
がみられる。この 3 つの会議体(職員数は各 140 名)は,
派も世間から Old Order であると分かるように,“Black-
57 教区に分かれている。
13)
bumper” と呼ばれるような,車のメッキ部分を黒く塗
メノナイトの一般家庭での子供数は,8 人前後が平均
ることを奨励した。このグループは,近代的な技術の導
であり,10 %の家庭で 12 人以上の子供がいる。そして,
入や,礼拝に英語を使うことを実践した。そして 20 世
コミュニティの 50 %が 18 歳未満である。教区での集会
紀 の 中 頃,Old Order Mennonites は 二 つ に 分 か れ た。
は日曜日の朝に行われ,教区はアーミシュのように明確
Team Mennonites と呼ばれる伝統派のグループは,1890
になっていないが,自宅にもっとも近い礼拝に参加す
年代に他のメノナイトが文化的な変化を求めたことに反
る。その範囲は,一つの集会を通り越し,他の集会への
発し,さらに 1920 年代の分裂時にも,伝統を守ること
参加が禁じられている。当日の午後は,親族や友人との
に固執した。そこで,「二重の伝統派」
(もっとも古い,
親交に費やす重要な時間帯でもある。ときには友人宅で
という意味)ということになる(写 4 )
。
夕食を楽しむこともある。メノナイトは,独自の会報や
雑誌をもたない。しかし,アーミシュなどに広く流通す
5−3 組織体の特徴
る週刊新聞を読むこともある。
メノナイトは,ハテライトと異なり,私有財産制を
組織体は,司教・牧師・牧師補佐の役職からなる。司
とっている。彼らはアメリカ人の隣人の中で生活してい
教は,洗礼の志願者を指導したり,Ordnung を説明した
る。またアーミシュと異なり,農場ではトラクターを使
り,地域の福利を処理するなどの権限をもち,牧師は日
い,多くの家には電気と電話が設置されている。服装は
曜礼拝や集会をリードする。これら指導層は俸給を受け
飾り気の無いものを着用するが,アーミシュほど特殊な
取らず,食物や贈物程度を受け取る。
ものではない。男性は他のグループのようにアゴひげを
蓄えない。
組織体にとって,唯一の公的施設は学校である。他の
伝統的なグループ同様に,子供へのしつけは早期から始
今日,このメノナイトは,全米に 2.4 万人が居住する
まる。神への従順と尊敬を力説し,両親は明確に子供の
といわれ,その 70 %がペンシルベニア,オンタリオ州
行動指針,たとえばメディアへ近づくことの禁止,教会
に集中している。人口学者の中には,彼らの人口が 15
での適切な訓練を受けることなどを示す。ペンシルベニ
年ごとに 2 倍になると予測する人もいる。1968 年から
ア州では一つの教区に 200 人以上の子供がおり,その内
1998 年の 30 年間において,母集団であるペンシルベニ
の 95 %が教会に関わっている。全体でも 80 %の子供が
ア州のメノナイトの 45 %が,他の州に移動している。
所属している。
20 世紀前半において,メノナイトの子供は地方の公
立学校へ通った。しかし,先述のように 1950 年代に公
立校は大規模な統合が実施され,両親の知らない教師に
よる教育や,未知の土地へスクールバス輸送されること
に彼らは反対した。政府との激論が続く中で,アーミ
シュと提携したメノナイト私立校が増加した。
政府は 1972 年に,彼らの 8 学年制の学校を認めた。
学校運営は伝統的なグループの親の手に,場所は居住区
の 1 マイル以内に建てられた。通常では 1 部屋(オンタ
リオ州では 2 部屋もある)の教室に 1 ∼ 8 学年が学び,
写4
集落内に設置された公衆電話ボックス。
電話中の姿は外部から見えないように塀がある。
数名の父親がカリキュラムの管理と教師の選定を行う。
教師に女性が選ばれ,彼女たちの教育上の技術習得は,
─ 35 ─
( 35 )
永 野 征 男
ミーティングやアーミシュが出版する教育用の雑誌,経
最後にメノナイトの職業の変容について記述すること
験豊かな先輩から学びとる。具体的なカリキュラムは,
にする。他のグループでも職業は変化しつつある。小ビ
読書・書き方・数学・歴史・地理であり,科学は教えな
ジネスのために離農する者もいるし,青年たちは農地を
い。先述したように,14 歳で卒業後は,17 ∼ 19 歳の間
購入できるまで店舗で働くこともある。農業経営者で
に行う洗礼まで空白の時間がある。その時に反逆的な若
あっても,収入を補うために,また冬期の副業としての
者が現れることも多いことから,近年では洗礼の時期を
仕事をもつ。他業種としては,木工・機械関係がもっと
18 歳までに短縮している。
も多い。グループとしては,科学技術の変化に対して警
戒心を強めるが,多くの制限規則の中で受け入れられて
5−4 メノナイトの外観上の特色
いる。
メノナイトの生き方は,謙虚さと従順の美徳を引き立
これら,外部社会の変化が彼らを引き離そうとしてい
てることにある。そこで,家・衣類・馬車などの所有物
るのではない。単に文化という棚を移動するに過ぎな
は,質素で慎ましいものとなる。装身具や化粧品は禁止
い。調整できる棚は実用的であり,象徴的なものである。
され,腕時計も認められていない。それらは自己顕示に
たとえば,非メノナイトが使っている自動エサ供給機や
つながるからである。カメラも写真が個人を目立たせ,
自動搾乳機は,大きさは制限されるものの,設置されて
自尊心を生むので好ましくないとされる。楽器類はあら
いる。この 10 年間で彼らは多くの変化を容認してきた。
ゆる場所で禁止(小さくて控え目なハーモニカが許容範
先の Ordnung は,変化を規制するスロットルである。
囲)されている。
その内容のいくつかは,詳細に書き記されたりしている
戒律は,服装に明確なものを与え,共通の服装が共同
が,広く柔軟な解釈を取ってきている。その口述の解釈
体の境界をなす。結婚後には黒色の地味な洋服を着用
は,文字で書かれたものよりも,より多くの融通が利く
し,ベルト,ネクタイ,世俗的な服装品は禁止される。
といえよう。
女性は,衣服の上にケープとエプロンをつけることが義
務づけられ,頭には耳にかかるキャップをつける。アー
6 具体的事例としてのアーミシュグループ
ミシュとは異なり,短いワンピース,スラックス,薄い
6−1 Old Order Amish の成立
アーミシュの集団は,今回取り上げた Old Order の中
布地類は許される。
彼らは,ハテライトと異なり,慣れた技術を選択して
で最大の人口数をもち,世界中からの注目を引くグルー
利用してきた。自動車は個人主義,かつスピード社会の
象徴として捉えている。リーダーたちは,車の発達に
よって,彼らの行動範囲が家の周辺から遠方へ広がるこ
とを恐れている。そして,車を拒絶することが,より大
きな社会と明確な分離を示すと考えている。車の所有は
禁じられていても,遠方の親族に会うときや仕事で出か
ける際に,また公共の交通機関で旅行するときの乗車は
認められ,また近隣のタクシーを利用することもある。
モーターのついた全ての乗り物を禁止しているが,小
さいモーターのボートは許可されている。また,緊急時
を除いて,飛行機利用は禁じられている。
同じことは農業機械に関しても云える。農耕用トラク
ターは鉄製の車輪付きが認められ,草刈り機でも同様で
ある。ゴムタイヤを禁止する理由は,そうすることで車
的な移動手段に使われることを恐れたからである。1990
年代の後半に,フォークリフトにゴムタイヤを履かせる
商店経営者が現れ,このベルトの付いたタイヤ論争が再
燃した。今日では,農家の 4 分の 3 がゴムタイヤ付の
トラクターを使っている。ただし,そこには輸送目的な
どの詳細な制限項目がある。
( 36 )
─ 36 ─
図9
アーミシュ初期のヨーロッパにおける展開地域
パラチネート,ロレーヌ,アルザス地方が中心。
アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ(Old Order Anabaptist)の地域展開と文化的特徴について
表 6 州ごとの Old Onder Amish 人口(2000 年)
プである。映画「目撃者」によって,その姿は世界に広
がり,雑誌「ボーグ」はその風土と質素な彼らの服装を
州名
集会数
取り上げた。また雑誌「グラマー」は,集団から離れた
Ohio
Pennsylvania
Indiana
Wisconsin
Michigan
Missouri
New York
Kentucky
Iowa
Illinois
Ontario
Minnesota
Tennessee
Dalaware
Kansas
Maryland
Oklahoma
Montana
Virginia
その他(7州)
計
328
278
219
69
58
40
34
33
32
29
22
13
11
8
8
6
5
3
2
7
1,204
女性の話題を連載した。いくらメディアから注目されて
も,彼らの静かな生活には変化がなかった。
アーミシュはメノナイトと似ているが,ハテライトと
は大きく異なるように,彼らは私有財産と土地を所有し
ている。居住区は農村部の小さい集落に,隣人の非アー
ミシュと混在して生活している。現在,彼らは極端なほ
どの科学技術の禁止策をとってきたことから,Old Order Mennonitesに似ている。両者は,1525 ∼1693年まで,
つまりスイスと南ドイツの再洗礼派が分裂するまで,同
じ歴史をたどってきた(図 9 )
。
指導者であるヤコブアンマンは,教会を再生させる方
策を探り,年間に 2 回の聖餐式を開催することを提唱
した。これはスイス的な考え方であったのに対して,さ
らにオランダ再洗礼派を見習い,彼は礼拝時の洗足を勧
めた。すべてに精神的な厳格さを求めつづけ,毎日の生
活に激しい鍛練を指導した。これらの内容は“Shunning”
成人教会員数 子供を含む総数
24,600
20,850
16,425
5,175
4,350
3,000
2,550
2,475
2,400
2,175
1,650
975
825
600
600
450
375
225
150
525
90,375
と呼ばれ,このことがのちに他の再洗礼派と分裂する決
49,200
41,700
32,850
10,350
8,700
6,000
5,100
4,950
4,800
4,350
3,300
1,950
1,650
1,200
1,200
900
750
450
300
1,050
180,750
資料:Raber による
定的なものとなる。そして,アンマンのグループである
アーミシュが誕生する。他の人々はメノナイトと呼ば
れ,1693 年以降,まったく異なるアイデンティティを持
5,000 人であったが,今日では 18 万人に達している。そ
つことになる(図 10)
。
の 4 分の 3 は,オンタリオ,ペンシルベニア,インディ
アーミシュは北米に 2 回に分けて移住してきた。初
アナ州に居住している(表 6 )。
めは 1700 年代の中頃,つぎは 1800 年代の初めである。
地方の一つの教区は,25 ∼ 40 家族で構成され,全米
いずれもペンシルベニア州に定住したが,しだいに中部
では 1,200 の居住地に分かれている。グループとしては,
に拡大した。今日でも,彼らはミシシッピー川の以西に
全国組織や年次大会のようなものは無く,緩やかな連合
はほとんど居住していない。ちなみに,ヨーロッパに
残ったアーミシュは 1937 年に解散している。
先述したように,Old Order という呼称は,19 世紀の
後半に現れた。工業化の進展に影響を受け,いくつかの
居住地で進歩的なグループ(Amish-Mennonites)が誕生
した。その結果,伝統を重んじるグループは Old Order
Amish と呼ばれ,前者はしだいにメノナイトに吸収され
た。
20 世紀末で,北米に伝統を守るグループは,25 州に約
図 11 北アメリカにおけるアーミシュ人口の推移
(1900 ∼ 2000 年)資料:The Mennonite Yearbook
図 10 北アメリカにおけるアーミシュグループの変遷
─ 37 ─
( 37 )
永 野 征 男
体を形成している。その人口は約 20 年ごとに 2 倍に成
が,ごくわずかなケースである。学校の運営は,3 ∼ 5
長し,1991 ∼ 96 年の 5 年間で 13.5 万人から 16.5 万人へ
名の牧師からなる委員会でカリキュラムや教師の雇用が
と急増し,新たに 199 教区が増えている(図 11)
。
決められる。教師には 25 ∼ 35 ドル/日が支給され,子
供の授業料は 250 ドル/年と,公立校の 16 分の 1 ほど
6−2 居住地ごとの差異
である。彼らは通学することのない公立校に対しても,
アーミシュのアイデンティティは,共通の服と馬車に
教育関連の税金だけは支払っている。
現れる。しかし,それら表面的な中に,居住地ごとに様々
聖書を読むことからスタートする授業は,宗教そのも
な違いがある。つまり宗派の文化には,副次的文化が存
のを教えることもなく,英語とドイツ語で主要 5 教科
在するという,分離のシンボルが現れている。また,特
が教えられる。教師に選ばれるのは,若い独身の女性で
殊に見える彼らの外観には,現代社会との明確な区分が
ある。教授法などは,アーミシュ発行の教師向けの月刊
ある。象徴的な事象には,ⅰ)馬車を使う。ⅱ)野外作
14)
が使われ,教科書は公立校の
誌(Blackboard Bulletin)
業は馬とラバ。ⅲ)質素な洋服。ⅳ)あごひげ。ⅴ)帽
ものを自分たちの印刷所で再版して利用する。1 学年は
子の形。ⅵ)ペンシルベニアダッチの使用。ⅶ)家での
3 ・ 4 名の生徒数で,教師は一度に 2 学年を教える。他
礼拝。ⅷ)8 学年制の私立学校。ⅸ)電話拒否。ⅹ)テレ
の学年には課題を与える。ここでの授業は,アーミシュ
ビ・コンピュータの不所持。などの制限がある。
社会で成功するための準備段階である 15)
(写 5 )
。
子供たちは早い時期から,大人を観察し,両親の教育
彼らの婚礼は,秋の収穫期の直後,10 ∼ 12 月にかけ
を通して学ぶことが多い。女性たちの服装は,公式の時
て行われる。日程は火・木曜日が選ばれ,大きな教区に
に頭にかぶりものをし,ドレスにケープを着ける。布地
なると 1 年間に 150 回もの挙式がある。新婦宅で行われ
の色は緑・茶・青色が許可されているが,プリント柄は
る式には,平均 350 人もの招待客が集まり,朝 8 時から
禁止である。子供たちは,ほぼ同じようなものを着用し
夜まで祝いの催事は続く。その風習は居住区によっても
ている。
異なる。若者は 1 ∼ 2 年ほどの交際から結婚に踏み切り,
前出のように,外観的にはすべてのアーミシュが共通
離婚は追放の対象となる。挙式は家族ばかりか,親戚・
の象徴を有するように見えるが,居住地によって多少の
友人にとっても最大の行事であり,関係者は式場の整
差異をもつ。たとえば,農作業面で搾乳機,機械による
備・掃除,周辺の道路整備までを数週間前から準備する。
干し草の管理,馬車の色(一般的には黒・灰色)に白・
多数の来客のために,鶏のロースト,マッシュポテト,
黄色の使用,ガス冷蔵庫,などが異なる。したがって,
野菜類の昼食は,いくつかのテーブルに用意され,各自
表舞台に現れる共通のアイデンティティの陰に,居住地
が取り分けることになる。式では花・指輪・楽器などは
の特色が影響している。
使わず,婚儀は歌,祈り,説教からなる。司教が行う説
教の後に二人は握手をするが,接吻はしない。新婦は自
6−3 家庭・学校教育の特徴
分で青または紫の生地でウエディングドレスを作り,新
アーミシュ一家族の子供の平均値は 7 人で,10 人以上
郎は黒いコートとベストを着用する。
は稀である。その結果,人口の 50 %が 18 歳以下である。
結婚後は実家の近隣に住むことが多く,とくに高齢者は
昼食後は,ゲーム・軽食・合唱などに興じ,その間に
若者は交際相手を見つけることもある。結婚後は翌春か
隣接して小規模な家屋を建てる。一つの教区は,家族を
超えた宗教的な単位であり,道路と小河川で境界をなし
ている。そのサイズは,人口密度によっても差があるが,
小さい所では徒歩で集会に出席できる範囲である。
教区内での出産には,病院や出産センターを利用し,
仕事・遊び・礼拝は一緒に行う。地区の中には,行政の
出張所,役人などは存在しないし,形式的な組織もない。
こ れ ま で に も 説 明 してきたように,学校に関 わ る
1972 年の最高裁判決によって,私立の 8 学年制学校が
存在している。全米に 1,200 校ある彼らの私学 9)は,1 ク
ラス 25 ∼ 35 名学級であり,一人の教師が全学年を教え
写5
るワンルーム複式学級である。公立校へ通う場合もある
( 38 )
─ 38 ─
アーミシュ私立学校。ワンルーム 8 学年合同の授業を
実施。
アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ(Old Order Anabaptist)の地域展開と文化的特徴について
この国のレジャー(とくに小旅行)の動向は,1946・
ら新家庭をスタートさせる。新婚旅行には出かけない
が,冬期間に親戚の家を訪問することがある
16)
47 年のインフレ後,経済の立ち直りの中で,安定した
。
6−4 近年における変化
中流階層を増加させた。そして,ショッピングモールの
農場が都市化・郊外化によって値上がるために,農業
開設やフリーウエイの開通により,郊外地域のスプロー
継続の困難な人々は,1970 年代から新しい産業に移りは
ル化が進んだ。それに比べてアーミシュはかけ離れた存
じめ,家具・靴・金属製品などの卸売店舗が増えてきた。
在であった。アーミシュの生活信条は機械がもたらす文
新しい産業は,まず家屋に隣接する「在宅タイプ」とし
明の進行に対して,伝統的なスタイルにこだわり続け
て,手工芸品・パン屋・花屋などの観光客相手の店舗が
た。
目立つ。次に,農場の端に建てられた「製造業」であり,
通常 5 ∼ 10 人を雇用し,家具・農業機械・物置などを
7−1 アーミシュと行政当局との葛藤
製造している。3 番目のタイプとしては「建設労働」とし
しかし,大戦後のアメリカでの生活上の圧力は,彼ら
て現場へ出かけるものである。ここでは,いくつかの教
に重くのしかかった。とくに,1950 年の朝鮮戦争により
区が仕事用の電動工具の使用を認めている。
1952 年には選抜徴兵制度が実施され,2 年間にわたり兵
近年の転業にもかかわらず,アーミシュの失業は少な
隊以外の職業,つまり病院勤務などに就いた。この徴兵
い。小ビジネスへの高まりは,彼らの伝統的慣習に対す
に関する議論は,アーミシュをメディアの標的にした。
る一つの試金石でもある。新たに財産が増えることによ
一貫して平和主義をとる彼らは,この大きな流れに反抗
り,また外界との接触が増すにつれて変化すると思われ
することが大変に難しかった。
1960 年代に入ると,アーミシュが居住する郡当局と,
るアーミシュの生活は,今後とも注目をしなければなら
この問題について議論することが増えた。彼らは教区か
ない。
伝統を有するアーミシュが,残存するだけではなく,
ら一人の代表者を選び,その代表団が交渉の席に着い
現代社会の中で上手に生活する手段は何であろうか。そ
た。ランカスターでは,1969 年に法的な和解条件が成立
の一つは,彼らが伝統的な慣習を忘れることなく,現代
し,アーミシュの若者は農業労働者として雇用された。
社会の誘惑を拒絶できることにある。宗教的なことだけ
兵役以外で彼らと政府との争点は,これまでにも度々
で伝統を維持できたとしても,他のグループの変容する
触れた学校教育にあった。自らの手によって教育する方
姿は説明できない。つまり,彼らは生物学的な成長,社
針は,1960 年代にかけて増えてきた。アーミシュは早く
会的な制約,文化的な歩みより,といった三つの要素を
から日曜学校でドイツ語教育をしてきたが,1955 年のペ
基本としている。
ンシルベニア州との和解により,私学教育が進んだ。8
20 世紀を通して,アーミシュはしだいに現代の薬や
学年教育が終了した後は,週に一回の職業学校に通うこ
医療サービスを受け,助産婦にも頼りはじめた。これら
とが約束され,基礎的な技術訓練を受け,平日の労働日
は幼児死亡率を減らし,永久の成長をもたらす。子供は
誌の提出が義務付けられた。これらの方法は,アーミ
農業生産にとって財産であり,神からの恩恵であると考
シュと政府の両者を満足させるものであった。
オンタリオ州では 1967 年に,アイオワ州で 1947 年に
えている。しかし,子供を持つだけではなく,彼らに共
同体に入ることを説得しなければならない。教会に引き
公立校の統合が進んだときに私学が認められた。
つける何かを教えなければならない。現在でも,若者の
そして,1971 年,ウィスコンシン州の最高裁がアーミ
5 分の 4 が教会に属していることは,今後ともアーミ
シュの私的な学校を拒絶する理由はない,という判決を
シュが安定した成長を確実とする証しであろう。
下した。このことは,単にアーミシュを守ったばかりか,
アメリカ社会における信仰の自由を求める運動をも強化
7 第二次大戦後における Old Order の変化
した。しかし,すべてのアーミシュが,自分たちの学校
大戦後,合衆国では多くの国民が国内での休暇を指向
しはじめた。それにともなって,レジャー産業は顧客の
で教育を受けるのではなく,州内の公立校へ通わせる家
庭もあった。
確保に専念し,ペンシルベニア州の商務省も広告を多用
した。その中ではアーミシュや馬車が写し出され,その
7−2 観光地化の現状
タイトルも“ペンシルべニアの質素で平凡な人々”とつ
アーミシュの生活に大きく影響するものに,観光地化
けられた。アーミシュという名称表示こそないが,古い
現象があることは,拙著においても詳しく述べた。しか
慣習をもつ一つのグループが取り上げられている。
し,その詳細はこれまで未調査のままであった。社会学
─ 39 ─
( 39 )
永 野 征 男
者のクライベル(D.B.Kraybell)によると,観光地化は
環境問題の抑制といった多様な内容を含む“ゆりかごか
彼らの生活態度を強化し,エネルギーを与えているとし
ら墓場まで”の方向を目指すようになった。
ている。
その中にあって,アーミシュの求める共同体内の相互
事実,アーミシュに対するアメリカ人の関心は,同情
補助の考えは,大きく異なっていた。1950 年代中頃には,
心を募らせたり,権利を迫害するものではなく,むしろ,
彼らと政府は社会サービスの面で対決し,行政側が彼ら
州政府の移住計画を思いとどまらせている。多くの物質
の方向性を侵すような施策を抑止した。アーミシュに
文明の恩恵を受け,急速に発展する社会に困惑気味のア
とって,現代化が進むにつれ福祉施策が多様化すること
メリカ人にとって,アーミシュの宗教活動の姿は注目に
は,一つの小さい社会現象であると考えていた。
1955 年になると,政府は雇用農業労働者の身分保障
値するものである。
初めに,この地域社会に注目したのは,1967 年に専門
を実施した。アーミシュも 20 歳以上になると,農業に
誌(Geographical Magazine)がインディアナ州のアーミ
携わる者は,社会保障の納税義務を生じたが,それに反
シュ旅行を報道している。その 1 年後には同誌にペン
対した。そこで税務署は,彼らの預金口座から引き落と
シルベニア,オハイオ州が取り上げられた。これらの地
すことにしたが,アーミシュは口座の封鎖処置で対抗し
区では,レストランなどの観光事業が進出し,しだいに
た。1958 年になると,130 戸以上の農家から強制的に農
アイオワ,イリノイ州内の居住地周辺に及んだ。そのた
地を取り上げることもあった。1961 年には,未納であっ
めに,一部の居住者は地域を封鎖し,観光客の来訪を拒
たペンシルベニア州の農民が逮捕された。裁判所は短期
絶したこともあった。
間で解放したが,両者の緊張は高まった。彼らの損害賠
喧噪を嫌うアーミシュの中には,転住したものもあっ
たが,写真撮影や質問などにも応じるように努力してき
償の訴えには,非アーミシュも加わった抗議行動によ
り,社会保障税は凍結された。
た。今日では,女性たちによって手工芸品やキルト製品
そして,1966 年に連邦議会は,この税区分を医療保険
を観光客に販売する店舗まで現れたが,来訪者によるプ
制度改正の中に組み込むことにした。1988 年になると,
ライバシーの侵害と生活の崩壊を危惧し,たびたびの抗
雇用主がアーミシュの場合には,雇用されるアーミシュ
議をしている。
に納税義務がなく,非アーミシュの場合は支払義務が生
たとえば,1955 年の「20 世紀 FOX」や,1984 年にはラ
じた。
ンカスターを舞台とした「パラマウント」の映画撮影に
同様なことは,1970 年の職業安全健康条例の適用に際
ともなう反対運動が起きている。この時には,アーミ
してもみられた。建築関連の仕事に雇用されるアーミ
シュ代表が連邦議会にまで抗議行動を起こし,州当局も
シュは,条例によりヘルメットの着用が義務づけられ
今後のメディアを含む商業資本に対して,アーミシュが
た。しかし,彼らはそれを拒否し,常用の麦わら帽子を
主題となることを禁止した。
着用しつづけたために,政府は 1972 年にその義務を免
観光地化が早期に見られたランカスターでは,1946 年
除している。
合衆国からカナダに移住したアーミシュにおいても,
に地元ホテル業者がツアーを開始し,1950 年にはニュー
ヨークからのツアーも始められた。1955 年には,彼らの
社会保障問題が生じた。早くも 1953 年にオンタリオ州
居住地に観光バスで入り込むことを禁止する州政府の指
で,カナダ政府は年金のための税を口座から引き落とす
針が発表され,その後はイミテーションとして造られた
ことを決めた。そこで彼らは,被雇用から税のかからな
農場・家屋が有料で公開されるようになった。現在,ラ
い自営業に切り替えることで免れた。したがって,アー
ンカスターの入込客数は,年間 100 万人を突破している。
ミシュ=ビジネスは,つねに多人数の共同経営者から成
立している。
7−3 労働環境への対応
ここでのビジネスとは,客層に非アーミシュを含めた
合衆国における 20 世紀の一つの社会的な特徴には,
いわゆるガレージ産業の類である。食料雑貨・印刷・家
社会福祉制度の向上がある。もともとは,ルーズベルト
具などが主であり,農地の高騰によって農業経営が難し
大統領(F.D.Roosevelts)によるさまざまな試みが底辺に
くなった彼らにとって,恰好の収入源となった。店舗経
あった。失業者・貧困者・高齢者などに対する福祉の充
営以外では,塗装工・木材伐採・大工などがある。特殊
実は 1940 ∼ 50 年代に確立し,その後は退職者やマイノ
な職業としては,インディアナ州のゴム産業をあげるこ
リティーに対する施策が取り入れられた。しかし,時代
とができる。1988 年のデータであるが,43 %が工場に勤
とともに最低限の生活保障や,大学生への授業料補助,
務し,農業従事者の 37 %より多い。ランカスターでは,
( 40 )
─ 40 ─
アメリカ合衆国における伝統的な宗教グループ(Old Order Anabaptist)の地域展開と文化的特徴について
店舗経営が観光地化によって多くみられ,逆に工場労働
化的譲歩”は,外部者からは理解しがたい内容となる。
たとえば,ハテライトは公共教育を受け入れている。
者は少ない。
さて,農業を主産業としてきたアーミシュにとって,
しかし,その場合でも学校の立地する場所が,外界の影
これらビジネスは,彼らの社会に有害なものであろう
響を受けないと判断された場合のみ許される。また電話
か。先のクライスビルによると,産業の進行が彼らの中
使用は,信徒間の連絡のみに使うという条件がある。さ
に個人主義を進行させ,また労働環境が人々の考え方を
らに,ハテライトが早くから認めていた自動食洗機は,
変化させはしないかと危惧している。今日,カナダの
他のグループでは慎重にスローな受入れを検討してい
アーミシュは,この国の社会保障番号を受け入れた。
る。その理由は,女性の余暇が増えることへの危惧であ
る。
8 むすび
本論文で取り上げた 4 つのグループは,19 世紀の末か
伝統的な生活環境を維持しようとする地域社会では,
ら,現代をどのように評価するかによって,そのアイデ
そこには両立しないことがら(ときには脅威)と比べる
ンティティを変化させてきた。その多くは,現代的な事
ことで,その時々の社会変化に順応している。比較する
象,とくに今世紀のポストモダニズムの影響から,今日
ことは,みずからの特有な慣習が作りだす集団のアイデ
の世界とは異なる方向を見出している。つまり 20 世紀
ンティティを評価するのにも役立つ。比較するからこ
のはじめ,近代化による産業発達は,将来に向けた限り
そ,彼ら特有の馬車の使用,方言,服装などが注目され
ない可能性を生み出し,個人の権利の主張,優れた技術
る。この比較により,個々のグループは独自の社会変化
力による勝者,そして伝統からの脱却などが,成功への
システムを持続させてきている。
足がかりであると評されてきた。したがって,これらグ
あるグループは,彼らの欠陥を補うために,特有の慣
習を強調したとする。たとえば,アーミシュには大きな
ループにあっては,みずからの方向性を疑うこともあっ
たであろう。
協議体を持たず,集会での司教の役割が重要であり,ハ
しかし,そのことは必ずしも彼らのすべてにあてはま
テライトにおいては,居住地の隔たりが生産様式の共有
らない。たとえば,近代技術としては化学肥料や殺虫剤
を可能にしてきた。このように個々のグループは特有の
を使い,また業者,銀行員とも交流するなど,現代の便
慣習をもち,独自のアイデンティティを持続している。
利さは充分に活用してきたからである。伝統的な慣習を
農作業に使うトラクターにしても,グループごとに役割
重視する彼らは,このような現代性に対して,まず人間
が異なる。電気の使用に関しても,集団の中で全体のバ
の理性の限界に疑義を持っていたと考えられる。つまり
ランスを考えた上で検討されている。
伝統を重視することは,まず高い教育や科学よりも,真
グループによっては,技術進歩を脅威に感じているか
実を後世に伝えたいという思いがあり,二つ目には,行
もしれない。それを克服する一つの方法としては,他の
政が真の幸せをもたらすとは考えず,グループのコミュ
グループと同一歩調をとることである。これまでも,グ
ニティこそが,個人の安全と満足を生み出すものと信じ
ループ内では許容範囲の調整を続けてきた。そうした中
ている。さらには,信仰心が高ければ相互依存も可能で
で,みずからのアイデンティティを創り上げてきたと云
あると考え,文化に対する主張がぶつかり合うたびに,
える。したがって,文明の受け入れ方は似ていても,グ
執拗な抗議をくり返してきた経緯がある。
本報告では,Old Order の各グループを比較するため
ループ独自の方法により,または比較によって決定して
きたため,結果としてグループの変化に違いが生じた。
に,その全てに該当する 4 つの集団を対象としてきた。
慣習の大きな変更をともなう議論においては,経済上
しかし,具体的な事例からはブレザレンを省略した。そ
の理由や,伝統的な規範との整合が重要になる。なかで
れは先述のように,彼らが早くから主流のアメリカ文化
も近代科学を導入すると,利便さと効率が魅力的なだけ
を受け入れたこと,また,現時点では研究上の実態の把
に,伝統的な考え方は脅かされる。したがって,古いし
握に至っていないからである。今後は,この集団の居住
きたりを取り除くことなく,便利さも活かすことを併せ
区における調査を継続する予定である。
て,文化の境界線を引き直すことになる。いわゆる“文
─ 41 ─
( 41 )
永 野 征 男
謝 辞
本研究は,1983 年以降における日本大学の海外学術研究助
成金による調査報告である。30 数年にわたる調査により,地
理学における海外での地域調査の難しさの一端が,多少とも
分かった感がある。また地域社会の解明にあたり,その地域
を構成する住民・集団・民族を理解することが,あらゆる地
域現象の解明にとって最重要課題であるということを再認識
した。
ほぼ単一民族からなる国内での調査を,簡単であるとは考
えないが,地理学が隣接科学(地域研究・地域論)と肩を並
べるためにも,この種の視点がさらに充実することを期待し
たい。
現地の調査,および最新情報の提供は,ペンシルベニア州
ランカスターに位置する州立ミラスビル大学地理学教室,と
くに,Gary Hovinen ,Mario Hiraoka 両先生に大変お世話に
なった。ここに記して感謝したい。また,この拙文を 2007
年 8 月に退職された野上道男先生に献呈いたします。
脚 註
1)吉野清人(1965)
:アメリカの保守的少数派―アーミシュ
とハッターライト―,哲学年報第 17 輯
大原長和(1965):アーミシュ家族の構造と機能,『家族
の法社会学』所収,pp.332−352
坂井信生(1973):『アーミシュの文化と社会』ヨルダン社
坂井信生(1977):『アーミシュ研究』教文館
2)山本正三・村山祐司(1982):カナダにおける小宗教集
団の集落発展および農業経営―マニトバ州のメノナイト
集団とハテライト集団を事例として―,地域研究 23−1,
pp.7−18
田中 博(1975 ):神と人間と土地,地理 20−8,pp.7−14
田中 博(1980 ):カナダ多民族国家の一員―フッタラ
イトキリスト者財産共同体―,地域文化 7 号,pp.24−41
3)永野征男(1984):アメリカ合衆国における小宗教集団
アーミシュの地域的展開,日本大学文理学部自然科学研
究所紀要 第 19 号,pp.17−28
永野征男(1987):アメリカ合衆国における少数民族,
教育じほう(都立教育研究所)1897−3
永野征男(1992):エスニック社会アメリカ,横浜市民
講座報告書 1992 年度版
永野征男(1997):ペンシルベニア・ダッチ―その風土
と生活―,恵泉アカデミア(恵泉女学園大学人文学会)
第 2 号,pp.79−98
4)永野征男(2001)
:ペンシルベニア・ダッチ(アーミシュ)
地域における近年の社会変容,日本大学文理学部自然科学
研究所紀要 第 36 号,pp.1−14
5)池田 智(1995):
『アーミシュの人びと』サイマル出版会
6)D.B. Kraybill 著,杉原利治・大藪千穂訳(1996):『アー
ミシュの謎』論創社.
7)J.A. Hosteller(1989): Amish Roots. The Johns Hopkins
Univ.
8)Labi( 1998): Amiss Among the Amish. Time 29 June
Remnick(1998): Bad Seeds. New Yorker 20 July
9)ハテライト内のグループは,1990 年代初期に Schmiedleut
は「Wipf」と「Kleinsasser」
(ともにリーダー名)の二つに
分裂した。
10)資 料 と し て は,Hutterite Telephone and Address Book
(2000 年)を用いている。
11)ハテライトのデータは明確ではないが,1999 年時点の集
落数は 425 であり,一つの集落は 90 ∼ 100 名で構成され
ていた。したがって,全体で 39,000 ∼ 43,000 名と推定で
きる。
12)メノナイトの北米への流入は,スイス・南ドイツからペ
ンシルベニア,オンタリオ(カナダ)州へ 1786 年に始まっ
た。
13)この名称は,Weaverland メノナイト教区で用いられた。
このグループは後に「Horning Mennonites」と呼ばれた。
現在ではバンパーを黒く塗ることもなく,車体の色のみ
に黒が使われる。
14)Black Bulletin(1959 ∼): Pathway publishers, Monthly
periodical Published for Old Order Amish and Mennonite
teachers
15)S.E.Fisher & R.K. Stahl(1986)
: TheAmishSchool. People's Place Book No.6
16)S. Scott(1988): The Amish Wedding. People's Place
Book No.8
主な参考文献
・D.B.Kraybill & C.D.Bowman(2001): On the backroad to
Heaven. The Johns Hopkins Univ.
・D.B.Kraybill & S.M.Nolt(1955): Amish Enterprise. The
Johns Hopkins Univ.
・A.S.Glick(1994)
: The Fortunate Years − Amish Life − .
Good Books
・L. Drieder & D.B.Kraybill( 1994): Mennonite
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Peacemaking. Herald Press
・W.N.Hoffman(1989): Going Dutch. Spring Garden Publication
・R.Fesley(1981): German in Pennsylvania. Geographical
Magazine. 1981-Dec.
・W.K.Crowley(1987): Old Order Amish Settlement Diffusion and Growth. AAAG. 68−2
─ 42 ─