目次 - 千葉市空襲と戦争を語る会

目次
大倉トクさん証言(17 歳、高等女学校専攻科、旧千葉市和泉町) ................................... 87
中台勇さん証言(7 歳、国民学校 2 年生、旧千葉郡津田沼町) ........................................ 90
栗田秀章さん証言(11 歳、国民学校 6 年生、千葉市検見川町)....................................... 92
市原繁さん証言(10 歳、国民学校 4 年生、千葉市検見川) .............................................. 95
田中昭二さん証言(16 歳、工場労働者、千葉市検見川町) .............................................. 97
土屋智英さん証言(4 歳、千葉市亀井町) ......................................................................... 99
原朗さん証言(14 歳、中学校 2 年生、千葉市道場南町) ............................................... 101
吉野晴義さん証言(17 歳、学徒通年動員、千葉市栄町) ............................................... 108
長谷川満男さん証言(16 歳、今井町青年学校、日立航空機工場徴用、旧千葉郡生浜町塩田)
.............................................................................................................................................110
関武雄さん証言(24-25 歳、東京浅草郵便局、千葉市椿森町)........................................113
松本隆子さん証言(5 歳半、終戦時のみ東京都板橋区大山、大半は千葉市)..................115
匿名(女性)証言(10 歳、国民学校 3 年生、家は千葉市蘇我 1 丁目、疎開先は県内)..... 120
平野守男さん証言(15 歳、
、工業学校 4 年生、千葉市道場北) ........................................... 122
大塚和子さん証言(15 歳、高等女学校 4 年生、千葉市新町) ........................................ 124
柴田春光さん証言(12 歳、国民学校 6 年生、旧千葉郡塩田町) .................................... 127
大倉トクさん証言(17 歳、高等女学校専攻科、旧千葉市和泉町)
私たちの家族は旧千葉市和泉町高根(現在、千葉市若葉区高根町)に住んで
いた。当時の家族構成は、両親、長兄、次兄、私、弟の 5 人である。父は大宮
神社の神職をしていたが、農地・山林も所有していた。両親は雑貨屋を経営し
ていた。終戦当時、私は千葉県立千葉高等女学校を 3 月に卒業しており、専攻
科の学生であった。この女学校は母の母校でもある。長兄は視力がよくなかっ
たので丙種合格で徴兵が遅れていた。結婚して 25-26 歳頃、佐倉連隊に入営し、
キスカ島に派遣されたが、戦闘で負傷して北海道の病院に収容された。父は心
配して長兄を見舞っている。爆弾の破片が体に残ったらしい。次兄は、学徒出
陣で三重県伊勢航空隊から通信将校として朝鮮に派遣されていた。ポツダム宣
言受諾の情報を察知し、敗戦の前日に飛行機で内地に戻った。その際、紙幣、
書類、日本刀等一切の物を川に捨てたという。二人の兄は運良く敗戦になる前
に日本へ戻れた。父は二人の軍人のために日本刀を買って送ってやったのであ
る。
さて、私は 1931 年に女学校に入学したが、翌 1937 年には、日支事変(日中
戦争)が勃発した。学校は身なりについて厳しい規則があった。スカートの裾
は床から 30cm 以内、髪の毛は束ね先から 10cm 以上(3 年生以上対象)となっ
ていた。教師が定規で抜き打ちに髪の毛の検査をした。これに対抗するのは、
バンドを上に持っていくことであった。私物検査はなかった。制服は紺色のセ
ーラー服、白線が 2 本入ったスカート(兄の入学した千葉中学は 1 本の白線で
あった)と黒いスカーフであった。式典では白いスカーフとなった。学徒動員
後は、上着とズボンの上下つなぎの制服を買って通学した。夏は学校で水着に
着替えて出洲の海で海水浴して、水着で帰校した。冬は海岸で寒稽古があった。
学校の奉安殿は校門を 10 歩ほど入った右側に置かれていた。登下校時は最敬礼
(無言)が求められていた。当時千葉市亥鼻にあった千葉県護国神社(戦後、
護国神社は千葉市弁天町に移転した)の忠霊塔建設の際、女学校生徒が動員さ
れ基礎の穴掘りに勤労奉仕させられた。1941 年 12 月 8 日、太平洋戦争が勃発
すると、翌年から毎月 8 日は大詔奉戴日として、女学校生徒約 1000 人が千葉神
社に朝 6 時に集合させられた。そこで、出征兵士の武運長久と戦争の必勝を祈
願した。当時「欲しがりません、勝つまでは!」が合言葉であった。千葉神社
に朝 6 時に到着するためには、家を 4 時に出発しなければならなかった。およ
そ 10km を歩くしかなかった。暗いときは母が途中までついて来てくれた。3
年生のとき、千葉市の出洲から成田山新勝寺まで体力向上と称して行進させら
れたが、疲れた。英語は敵性語と言うことで、2 年生の終わりの頃、廃止された。
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英語の担当女教師は他の教科を担当することになった。
授業らしいのは 2 年生の半ばまでであり、私の学校が千葉県で第一に学徒動
員が始まった。このように女学校生活は戦争一色であった。私に与えられた日
立航空機の工場の仕事は、戦闘機に主翼の先端部板金作業だった。裁断された
アルミニウムの板を台の上に載せて木槌で丸みをたたき出し、あわせて歪を正
すのである。これにドリルで穴を開ける仕事は別の工程であった。私達には動
力を使う仕事はなかった。1 日にいくら作ったかは覚えていないが、私達は「私
達にこんなことをやらせるようでは、戦争に勝てないね」と小さな声で囁きあ
った。軍需工場に動員されても、私達に昼食は与えられず、弁当は家から持参
した。もちろん、手当ては支給されなかった。
3 年になって、この仕事を学校でやらせるべく、千葉高女の体育館と講堂が改
造されて、手動グラインダーとはさむ機械が取り付けられた。私が 5 年生のと
きは学校工場で勤労奉仕していたのは、5 年生だけだった。4 年生は横浜の軍需
工場に動員されていた。1-3 年生は学校にいなかったようだ。詳細はわからない。
戦争が激しくなると、原料の供給が続かなくなり、仕事がなくなってきた。
6 月 10 日の本格的空襲の前にも、午前 11 時ごろ、学校工場で働いている私
達に艦載機が 2-3 度機銃掃射を浴びせた。ダダダダッツと撃ちこむ 1 回当たり
の機銃弾数 10 数発であった。友だちは、パイロットの「顔が見えた」、
「米国人
だった」と報告した。私もパイロットの顔が見えた。学校では、機銃掃射の対
策としてテーブルの下や階段の下に退避するよう指導されていた。艦載機は東
京湾方面から飛来した。当時の艦載機は、低空から侵入して急に現れるので、
千葉市の出洲から「上がって来る」と言っていた。艦載機が来ると防空頭巾と
救急袋を身につけ避難した。作業着の胸には氏名、住所、血液型を示す布が縫
い付けてあった。
6 月 10 日朝は母校も爆弾攻撃を受けて、二人の女学生が犠牲になったが、私
はそのとき家にいた。その日は、学校に登校しなかった。
7 月 7 日の空襲で学校も被害を受けたと聞いて、防空頭巾と救急袋を身につけ、
東金街道を歩いて登校しようとした。東金街道から水源塔が左に見えるところ
まで来ると、道路に 506 体の遺体が横たわっていた。私は足元も死者に「ごめ
んなさい」と謝りながら、そこを急いで通過した。中心街に入ると、焼け野原
だった。火事場の臭いが立ち込めていた。自転車やリヤカーの金属部分は焦げ
ても跡形があるが、木造家屋などは焼失していた。友だちは、出洲港には死体
が山積みされて焼却されたと言っていた。都川にかかる大和橋付近の知人の山
谷石材店まで行って、学校は焼失したことを知って、中心街に入らずそのまま
家に戻った。
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この他にも時期は不明だが、爆弾事件があった。夜間 10 時ごろ、B29 が私の
住んでいる高根を通過中、1 発の爆弾を投下した。当時の話では、北谷津地区の
家が、明かりを漏らしたから、そこに爆弾が投下されたのだと言われていた。
これはためにする話であろう。B29 の帰還中、残った爆弾は気まぐれに投下さ
れていたと聞いた。爆弾は私の家から約 400m 離れた我が家の所有山林に落ち
て、直径 10 数 m の大きなスリバチ状の穴があいた。人々はこの山を「爆弾山」
と呼んだ。長兄はヒュルヒュルと言う音を聞き分けて「爆弾だ!」叫んで布団
に潜った。家に爆弾の破片(5cm 程度の大きさ)が二つ飛び込んだ。両親は眠
っていた。空襲警報がない空襲であった。戦後、爆弾山の爆心付近の杉材を伐
採しようとしたが、木材に爆弾の破片が無数に突き刺さっていたので、鋸の歯
が立たずに結局、被爆杉は木材製品とならずに処分されてしまった。
1945 年 8 月 15 日、私は夏休みで自宅にいた。父が、重大放送があるから、
私に聞きなさいと言ったが、よくわからなかった。父は「日本は戦争に負けた。
困ったね」とつぶやいた。
戦後、専攻科生徒は終戦を持って卒業とみなされることになって、卒業式も
なく学校を離れた。家族は、私が就職することに消極的であった。だから、私
は結婚するまで家事を手伝った。戦後、二人に兄は軍人恩給の手続きをしなか
った。父が生還できたのだから請求するなと言ったからである。父は威厳があ
った。
進駐軍が九十九里から上陸してくると聞いた。進駐軍部隊は東金街道を東か
ら侵攻して、私の店に立ち寄った。店の近くの窪地(現在、泉病院の付近にな
る土地)になっている土地に幌付大型トラック 20-30 台が集結した。200-300
人のアメリカ兵は、ほとんど初めて見る体の大きい黒人兵であった。私は彼ら
を見て、こんな大きな男を相手に戦争が勝てるはずがないと思った。兵隊たち
は店の物を欲しいのだが、父は英語が通じないので、
「もっていけ」を意味する
身振りをしたので、兵隊たちは金を払わずに持ち去った。父は、米兵が立ち寄
る店に娘を置いておくと危険だと考えて、所有する山の分け入ったところに小
屋を建てて、私と近所の娘を隠すことにした。私達は朝食を取ると昼の弁当と
本など持って小屋に行き、夕方家に戻る生活を 3 ヶ月続けた。結局、何も起こ
らなかった。
戦争は 2 度と起こって欲しくない。
(編集委員注)爆弾山
大倉さんの旧姓は浅川さんで、千葉市緑区の住宅地図(140 ページ)には大宮
神社と多くの浅川姓の家がある。県立泉高校の北側に「爆弾山」がある。
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中台勇さん証言(7 歳、国民学校 2 年生、旧千葉郡津田沼町)
戦争末期、私の家族構成は両親、祖母、妹(1 歳)と私の 5 人家族であった。
しかし、父は、1941 年佐倉第 56 連隊に徴兵され、満州の第 2638 自動車部隊に
派遣されていた。父の部隊は満州を転々としていたということだが、満州のど
こにいたかは知らない。徴兵の前の父は、津田沼海岸平坦部を利用した民間の
伊藤飛行場に整備士として働いていた。父が満州から送ってきた写真は厚い防
寒着姿であった。帰国後、小便がツララになると聞いた。父は、二等兵で入隊
し、上等兵で除隊した。父は、1946-7 年頃に舞鶴港に引き揚げてきたらしい。
留守家には突然の帰国であった。私が学校から帰ったときに、父が帰宅してい
た。母が私に「お父さんですよ」と言われても、2 年ぶりに会う親子の突然の対
面は顔がよくわからなかった。父は負傷もせず、病気にもならず元気に帰国し
たことは幸いであった。
父が出征中は、子どもらは祖母に育てられた。母は近所の農家から野菜を仕
入れて、背負い籠に野菜をいっぱい(約 10-20kg)詰めて、京成電車で東京小岩あ
たりまで行商していた。朝早く家を出発して私も時々一緒に行った。稼ぎの額
は知らないが、ささやかな収入だったと思う。家には伯父さんが作ってくれた
広さ 2 畳分の防空壕があった。警戒警報、空襲警報が発令されるたびに防空壕
に入った。当時の津田沼は空襲の目標になるものはほとんどなかったので、わ
れわれは命拾いした。
津田沼国民学校は谷津、久久田、鷺沼町が合併した町に藤崎を加えた広域地
域にある学校である。国民学校は男子に勇ましいこと、勇猛であること、強く
なることを求めていた。毎朝は 8 時に教室に入ると、まず黒板の上に飾られて
いる天皇と皇后の写真(ご真影)に対して最敬礼し、そして方向を窓に向けて
東京の宮城(天皇の住まい)に向かって遥拝した。それから、君が代を斉唱し
たが、オルガンはなかった。教師は女性であった。教室での行事が終わると、
全生徒が校庭に整列させられ、校長先生から朝礼の言葉が聞かされた。この女
教師は、教室に入ると数人の生徒に「ただいまの朝礼で、校長先生は何を言わ
れたか」と質問した。生徒は聞いていない者、忘れていた者、表現がうまく出
来なった者に対して、
「校長室に行って、聞いてきなさい」と指示するのである。
生徒は校長先生を大変偉い人だと思っていたから、聞きに行けない。女教師は
このような方法で生徒を朝礼に集中するように教育していた。授業は国語、算
数があったが、生徒に配る教科書はなかった。先生が、1 冊持っているだけだっ
た。生徒は B4 大の石板が配られて、上で文字の練習をした。登校時は風呂敷に
石板を入れていた。登校・下校時は、地域ごとに 6 年生が引率する集団登下校
であった。
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私の家は貧しいので通常、弁当は持参できなかった。一部の農家出身の子供
は米の弁当を持ってきたので教室で食べていた。私は、昼休み時間は校庭の井
戸に行って井戸水を飲んで満腹感を感じていた。弁当は芋があるときはまだよ
かった。米の弁当はめったになかったが、その時のおかずは梅干 1 個であった。
家の夕飯はすいとん(メリケン粉をつなぎにつかう団子)、大豆の殻、葉っぱ、
イモの葉を味噌で味付けしたものであった。父方の実家は千葉郡幕張町屋敷の
農家であったので伯父がときどき食糧を届けてくれた。ありがたかった。父の
兄は農家の長男であったので徴兵されなかった。
1944 年、近くで B29 から爆弾が投下された場所を学校で見に行くこととなっ
た。京成実籾駅近くの線路に至近弾が落ちた現場は、レールが飴のように曲が
っていた。次は同じ実籾駅付近の山林に落ちた現場は直系 7-8m、深さ約4mも
ある大きな穴が見えた。学校でこのような行事を組んだのは、生徒に敵愾心を
持たせるためであったと思う。生徒には、同時に戦争・空襲の恐怖心も呼び起
こしたと思う。この頃、機銃掃射も体験した。私はパイロットの顔が見えた。
友人の誘いで、P51 の機銃掃射を受けた民家を好奇心で見に行ったところ、機
銃弾の入り口は直径 2cm 程度だが、壁の裏側は直径 10cm の大きな穴が開いて
いた。こんな機銃が体を貫通することを想像すると恐怖を感じた。また、学校
に不発弾の焼夷弾が陳列されており、不発弾を見つけたら触らないで、先ず学
校に届けるようにと注意された。1944 年か 1945 年頃、津田沼の海岸で撃墜さ
れた B29 を撃墜の翌日見に行った。機体は大破していた。二人の乗員の死体を
見た。アメリカ人を間近に見たのはこれが始めてである。金髪で赤ら顔のアメ
リカ人の乗員は鬼畜米英の様相だった。視察に来ていた将校は乗馬姿で、兵隊
は自転車であった。子どものガキ大将が将校に得意げに説明した。兵隊はわれ
われに話しかけてきた。子どもたちは、大人がいない時、竹の棒で「こんやつ
らが爆弾を落としやがった」と口々に叫び、死体を打った。P51 戦闘機の機銃
掃射を避ける方法は、戦闘機の進行方向に逃げないで、脇に逃げることを教え
られた。海岸で遊んでいるときも、P51 はやって来た。子どもは、そのつど澪
(みお、浜で深いところ)に潜ったが、アメリカ兵は子どもらを撃たなかった
ようだ。1945 年にドイツが降伏すると米軍は、B29 より大量のチラシを撒きだ
した。チラシは上質の厚手の紙であった。
「ドイツは降伏した。だから、
・・・」
と言う趣旨の漢字・カタカナ交じりのチラシであった。学校は躍起になって、
チラシは拾ったら、
「チラシの内容は嘘だから」すぐに学校に届けるように注意
した。私は、先生に気に入られるように 10 枚ぐらい集めて届けた。言論の統制
であった。
近くに朝鮮人が住んでいた。彼らは、密造酒を作っているといわれていたが、
その酒は日本人も呑んでいた。色々な理由で、日本人は朝鮮人を差別していた。
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私は、日本人であるというぼんやりした誇りを持っているだけで、当時差別は
当然だと思っていた。朝鮮人の金(日本名金田さん)は怒ったとき「チョウセ
ンチョウセンばかにするな、同じ飯くってどこちがう」と抗議していた。現在、
差別は根拠がなく、作られたものだということがわかっている。
7 月 7 日に千葉空襲は、津田沼町からよく見えた。津田沼の消防団が出動して、
翌朝帰ってくるのを目撃した。千葉では、海に逃げた人はやられたが、山に逃
げた人は助かったと言う噂が流れた。空襲で、千葉市中央地区は焼け野原にな
り。京成電車の千葉駅(現千葉市中央公園)の駅舎も焼失し、プラットフォー
ムだけが残っていた。
8 月 15 日は夏休みであった。自宅でいわゆる玉音放送を聞いた。大人たちが
泣きだした。大人は「日本は戦争にまけたよう」と言ったが、私は戦争に負け
ているという実感がなく、なんで負けたのだ。ただ、悔しいと思った。その後
の夏休み登校日に、いつもの安田校長が朝礼に立たず、手塚教頭が代理で「こ
れからの勉強は今までの勉強を否定するようなことになる」と言う趣旨の挨拶
をした。妙なことを話していると感じた。戦後、教科書は墨塗りであった。外
地に抑留されている日本軍人たちに激励の手紙を書く指導が学校でなされたが、
返事もこない、政府からも連絡もなかった。戦後、進駐軍は館山か上陸して、
すぐに津田沼にも来た。大人の話では、登戸から木更津までの「行政道路」を
走行する自動車の所要時間を測定するために、ジープを疾走させていた。1952
年日本がサンフランシスコで単独講話条約が調印されるとき、NHK の浅沼アナ
ウンサーが冷静に日本の独立を報道していたことを記憶している。
戦争は 2 度と繰り返してはならない。戦争はやるほうも、やられるほうも悲
惨である。日本が戦争に負けてよかった。もし、勝っていたら、いまごろ軍部
の意見が強まって、国民が何もいえない状況になっていただろう。若い世代に
対しては、戦争の実相を教えたい。我々にはその責務があると思う。現在、私
はハングルや日韓の歴史を勉強して当時を振り返ると日本政府が間違いを犯し
たことがよく理解できる。これからは、日韓友好のために力を注ぎたい。
栗田秀章さん証言(11 歳、国民学校 6 年生、千葉市検見川町)
私は、1944 年の夏休み、5 年生の時、東京深川の国民学校から千葉市検見川
に疎開した。父は 1943 年頃になると「東京は危ない」と言い子どもの疎開を勧
めていた。母も「逃げたほうがいい」と言っていた。その頃、政府も東京の空襲
を想定しており、児童の疎開が始まった。集団疎開と縁故疎開があった。私の
場合は母の実家が検見川にあったので、縁故疎開した。私だけでなく、母と二
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人の弟合わせて 4 人一緒に疎開した。この疎開のおかげで、私達は 1945 年 3
月 10 日の東京大空襲に会わずにすんだ。父は東京深川の軍需工場となった栗田
木工所の経営者であったので召集が免除されていたらしい。父の工場は機関銃
弾を収納する木製の弾薬箱を製造していた。従業員数は 5-6 人の零細企業であ
った。父は元宮大工であった。
5 年生の夏休みまで、東京深川千石国民学校に通学していた。学校の教科で、
国語は戦争のことが前面に出ていた。音楽はピアノやオルガン演奏で「勝って
来るぞと勇ましく」とか「海行かば」等の軍歌を教えていた。先生は女性であ
った。体育では、5 年生以上の高学年の男子はゲートルを足に巻いて、木銃(長
さ 120cm、樫の木)を使った演習があった。靴はなく草履で演習した。木銃で校
庭に「鬼畜米英」とか「ルーズベルト」とか書いた紙をぶら下げてある藁人形
を突かせた。女子は長刀で演習した。また、木銃を両手に掲げて匍匐前進(ほ
ふくぜんしん、伏せ姿勢のまま、両肘で前進すること)をさせられた。服の肘
に穴が開いた。この演習は週に 2 回あった。朝礼やビンタの記憶はない。学校
給食はないので、各自弁当を持ってくるが、弁当を持って来られない生徒が 1
クラスの 4-5 名いた。彼らはみんなから少しずつもらっていた。私の場合は、
トウモロコシ、大麦、小麦、沢庵であった。
検見川国民学校に転向して変化したことは、千葉では軍歌を教えなかった。
音楽の先生がいなかった。東京大学のグラウンドは芋畑になっており、1 区画を
検見川国民学校が耕作していた。仕事は耕作、除草で、1 週間に数回動員された。
夏休みには軍馬の餌としての牧草作りがあった。ススキのような牧草を集めて
乾燥させるのである。
検見川国民学校には憲兵が常駐していた。体育館か工作室かに鉄鋼関係の工
場があった。何をしていたのかわからない。憲兵がいたから近づけなかった。
千葉検見川の家では防空壕が掘られていた。畳二枚程度の広さで、床は土間
であるが、腰掛ける板が渡してあった。壕の上部に板が張られ、覆土されてい
た。
母は検見川で畑を借りて、芋、トマト、カボチャ等の農作物を栽培した。農
作物の行商はしなかったが、母の着物は換金された。蛋白質は検見川浜に行け
ば赤貝等貝類が豊富にあり、海苔もとれたが、自家消費していた。配給米は全
く不足した。
1945 年 7 月 6 日の夜、千葉市の大空襲が始まった。私は寝ていたが、空襲警
報と千葉の空が赤く見えるので目が覚めた。家族で家の防空壕に入った。子ど
もの好奇心から外を見たくなって、壕の外に出ると、千葉市中心街の上空は真
っ赤であった。空が全部真っ赤に見えた。怖いので、高いところから見ようと
は思わなかった。空襲警報が何時解除されたかわからないが、夜明けになって
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ようやく家に戻った。家は焼けていなかった。
一方、千葉市中心部空襲と時を同じくして、4-5 機の B29 の編隊はウォーン
という轟音を発しながら、検見川上空を低空で通過して、千葉市花園にある千
葉工業学校の新築校舎に焼夷弾を投下した。木造校舎を全焼させた。翌日、千
葉工業学校を見に行くと、柱も全部焼けていた。基礎が瓦礫のようになって残
っていた。工作機械は焼け爛れていた。
戦後になって、好奇心から京成電車に乗って千葉駅終点まで行ってみた。駅
舎と駅の周りの民家は全部焼けていた。千葉銀行の石造りの建物は残ったが、
内部は焼けていたようだ。奈良屋デパートも焼けており、残骸を見せていた。
千葉市亀岡町の給水搭まで見通せた。道路は片付けられていたが、その瓦礫の
中に 6 角形の焼夷弾が何百と散在していた。大人からは焼夷弾は危険だから触
らないようにと注意されていた。
1944 年ごろ、漁に出ていた帆船が艦載機に襲撃されて 3 人が足や腕に負傷し
た事件があった。
1945 年 8 月 15 日は自宅にいたが、ラジオがなかったのでの天皇の戦争終結
放送を聞いていない。親が「戦争に負けたよ」と言ったが、内心は「戦争が終
わってよかった。焼け出される心配がなくなったから」と思っていた。私はそ
う思った。父の軍需工場は東京大空襲で全焼し、戦後軍需工場は閉鎖されたの
で、父は百姓の経験があったので、検見川で農業を始めた。その後、寺や神社
の修復の仕事が父のところに入ってきたので、宮大工に戻った。
戦後、検見川小学校の奉安殿はこっそり壊された。教室の宮城 2 重橋の写真
もなくなった。学校は 6 年生に、ABC の大文字、小文字、筆記体を教えた。私
は外国語に興味があったが、英会話を教えるものではなかった。学校では、進
駐軍対策をとったのであろう。先生はしょんぼりしていたが、生徒の前でこれ
までの教育は間違っていたという自己批判をしなかった。生徒もそれ以上考え
なかった。
秋になって、進駐軍がジープ 10-20 台で千葉街道を東京方面から走ってきた。
ほぼ毎日やってきた。彼らはにこにこして手を振りながら通過していった。停
車しなかったので、アメリカの兵隊を近くで見なかったが、赤ら顔だった。
戦争がいけないということは戦後の新制中学の民主教育で教わった。深川千
石国民学校の同級生は全員疎開していたので無事だった。叔父は中国中支で戦
死した。戦後、父の工場や昔の家を訪ねたが、状況がすっかり変わっていた。
戦争は再びしないほうがよい。戦争をしたところで、結果がまるく収まらない。
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市原繁さん証言(10 歳、国民学校 4 年生、千葉市検見川)
私の当時の家族構成は母と妹と私の 3 人暮らしであった。私の家は、現在も
同じ場所にある。庭に防空壕が掘られていた。大きさは畳 2 枚分で上に板が張
ってあった。家に井戸はあったが、両隣の家も利用していた。父は 1943 年に仙
台連隊の船舶工兵隊に召集されていた。父母は連れ子再婚であった。再婚後、
千葉市の海岸埋め立て造成地の日立航空機工場に徴用されていたが、召集とな
った。父は、そのとき 30 歳台であった。母は私を連れて、蒸気機関車の列車で
仙台を経由して石巻市へ別れの挨拶に向かった。面会の場所は旅館であった。
女中さんが気を利かして「僕、こちらで遊ぼう」と連れ出され、父母がどんな
別れをしたのかわからない。きっと、泣いたと思うが、私が戻ったときは平静
になっていた。父は、私に何を言ったのか記憶していない。北ボルネオに派遣
された。それ以後、戦地の父から、連絡はなかったようだ。
1948 年、父は事前の連絡もなく帰国してきた。父の引揚はなぜか他人より 1
年ぐらい遅かった。近所の人が「お父さんが帰ってきたよ」と教えてくれた。
父は、背嚢を背負い、ボロボロの軍服を着て、戦闘帽を被り、ゲートル姿であ
った。顔はげっそり痩せていた。家族は嬉しかったと思う。私にとっては、実
の父ではなかったが、やはり父の帰国は嬉しかった。母は仏壇で日蓮宗のお経
を上げて感謝していた。お祝いは米と芋半分ずつの食事であった。父は栄養失
調で、マラリヤに罹っていた。戦地は食糧が不足し、サルやねずみを食べたら
しい。帰国後、父は高熱を出し、寒いと言って震えだした。毛布と布団を重ね
て寝かした。当時は薬もない、自宅療養であった。父は、戦地でマラリヤに罹
っていたらしいが、戦地で発病していたら生還できなかったと思う。今考える
と、父は幸運であった。数日後、父は元気を取り戻した。父の姉が横浜で酒場
を営んでいたので、父はそこへ船橋漁港の魚介類、検見川港の蟹、トリ貝、赤
貝等を仕入れて運搬して生計をたてた。
千葉市の空襲は 1945 年 7 月 6 日から 7 日にかけて起こった。7 月 6 日の深夜、
空襲警報になり、私は母に起こされて、家族 3 人で防空壕に入った。千葉市の
中心街への大空襲とは別に、千葉市花園(検見川の隣の町内)にある千葉工業
学校へも焼夷弾空襲があった。木造学校は全焼するが、その際、火の粉が家ま
で飛来した。大人たちは、千葉市の中心部が大空襲を受けて、花園にも焼夷弾
が投下されているのだから、検見川もやがて空襲を受けるに違いないと判断し
たらしく、隣組の 3 軒が相談して防空壕から検見川漁港へ脱出することになっ
た。検見川漁港から千葉市中心街は海の彼方にあるので、遮る物はなく大火災
が見えた。子どもの目でみると、両手をやや広げた範囲が炎で染まっていた。
すでに、B29 は立ち去った様子であった。結局、検見川への空襲はなかった。
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戦後、千葉市へ京成電車で終点まで乗った。終点は現千葉市中央公園の場所
である。駅舎は焼失し、線路とプラットフォームだけだった。周辺の木造建築
は焼け野原であった。映画を上映していた演芸館もなくなっていた。石造りの
千葉銀行(現ホテルサンガーデン)や川崎銀行(現中央区役所)は焼け残って
いた。1km は見通せた。看板が焼失してなかった。道路は片付けられていたが、
まだ、コンクリートの破片が積まれていた。千葉市花園の千葉工業学校の空襲
の背景として、旋盤等工作機械が戦争遂行の部品作りに使用されていたから攻
撃されたと言われていた。花園は当時、畑の広がる土地であったが、1945 年3
月 10 日の東京大空襲で焼け出された人が大勢、疎開して来ていた。
1944 年頃から千葉市検見川への空襲は焼夷弾でなく、P51 戦闘機やグラマン
艦載機による機銃掃射があった。米機は木更津方面から4-5機編隊で東京湾
上空を低空で北上して来た。帆掛船で漁をしていた 2 人の漁師が機銃掃射でな
くなった。1 人の人の名前は秋元さんで、これは同級生から聞いた。ある日、
検見川と稲毛の浜の中間地点で外人の死体が浜に打ち上げられる事件があった。
子どもらが誘い合って浜に着いた頃は、すでに 10 人ぐらいの人だかりであった。
大人は「竹槍で突け」とか罵っていたが、大柄の外人は既に死亡し、腹が異常
に膨らんでいた。こどもらは死体に手を出さなかった。不思議なことはほとん
ど裸だった。やがて、憲兵が来て見物人を追い散らし、死体をどこかへ持ち去
った。撃墜あるいは墜落した米機の搭乗員だと言うことであった。
検見川国民学校の教育は軍国主義であった。2 年生の国語の教科書に「広瀬
中佐」が沈む軍艦と運命を共にした武勇伝があった。学芸会があり 1 年生の音
楽の女先生はオルガンで「浦島太郎」の歌を弾いてくれた。私は、亀をいじめ
る役目であった。いやなことは、登下校は隊列を組んで行進せねばならなかっ
た。学校に着くと正門の左にあった奉安殿の前で、挙手敬礼をし、教室に入る
と壁にかけてある二重橋の宮城写真に対して挙手敬礼をさせられた。誰が植え
たのか、わからないが校庭に「お手植えの松」があった。
「偉い人が植えたから
大事にしなさい」と教えられていた。男性で血気盛んな教師が 2 名いた。学校
にいる間も筋の入った海軍帽子を被っていた。その教師は、生徒に落ち度があ
ると「連帯責任」を取らせる体罰を加えた。クラス生徒全員を廊下に立たせて、
「足を開け」と号令を掛け、教師が一人一人の顔に往復ビンタをした。教室の
掃除した後に少しでも“ごみ”があれば、それを口実にしたから、ほぼ毎日往
復ビンタを食らった。子どもらは、しかたないものと受け止めていたようだ。
この教師は、戦後に千葉市幕張の中学校の校長に栄転した。戦後は、戦時中の
教育が間違っていたと言う反省がなされないまま、教育が継続した。戦時中は
そんな教育で仕方なかったと言う空気だった。私が新制中学校に入学するとき、
校舎はあったが、机と椅子が用意されなかったので、小学校から自分が使った
96
机と椅子を運び込んだ。
天皇による敗戦放送は自宅で聞いた。隣組ではラジオは 2 台しかなかった。
子どもには理解できない内容であった。大人は「戦争は終わった。日本は戦争
に負けたよ。」としょげていた。「アメリカ軍が攻めてくると危ないから外に出
るな」と言った。
母は、家族を養うために本家の 5 畝(1 反の半分)の畑を耕していた。たん
ぱく質は海に行って貝類を取ってきたので十分であった。1945 年 9 月か 10 月
ごろ、進駐軍が東京から検見川にトラック 5-6 台に分乗してやって来た。彼ら
は海が見える景色のいい検見川で休憩したのであろう。子どもらはアメリカの
兵隊を恐る恐る物陰から見た。米兵がニコニコしてキャンデーやチョコレート
を見せて子どもを手招きした。1 人がもらうと、他の子どもたちも現れてもら
っていた。もう、鬼畜米英ではなかった。当時の日本の子どもはみすぼらしか
っただろう。銭湯の脱衣箱にシラミが這っており、子どもは頭にシラミを飼っ
ていた。
戦後、戦中の教科書を使わなかった。わら半紙に印刷した教科書を使った。
国語は「源氏物語」であった。中身は子どもに理解できなく、びっくりした。
民主主義の話はなかった。戦争は 2 度とやってはいけない。みんなが不幸にな
るだけだ。
田中昭二さん証言(16 歳、工場労働者、千葉市検見川町)
終戦時、私の家族構成は両親と姉、私と弟の 5 人家族であった。父はすでに
40 歳台にあり、兵役は免除されていた。父は、建設関係の仕事をしており、大
正時代に検見川送信所の建設に携わった。その証拠の写真額が隣の火災で紛失
した。残念だった。検見川送信所はすでに使われていないが、歴史的建築物を
保存しようとする市民運動がある。
検見川尋常学校 4 年生の時、私は先生の推薦で、下級生を集団で登下校させ
る任務を仰せつかった。防空頭巾をいつも携帯させた。ときどき、登下校中に
「敵機が来たぞう」と叫び、模擬演習をした。その号令で小学校生は木の陰や
畑の隅に退避するのである。学校では国史の時間に神武天皇から昭和天皇の名
前を丸暗記させられた。君が代や「勝ってくるぞと勇ましく」の歌を音楽で教
えられた。体育は竹やりで突きの練習をさせられた。しかし、私の先生は優し
かった。1945 年春、私は検見川尋常学校高等科を卒業していた。2 年生の時、
月曜日から土曜日まで、千葉市稲毛の加藤製作所という軍需工場に勤労動員さ
れ、朝 8 時から 午後 4 時まで働いた。仕事の全容は軍事機密だが、鋳型に溶
97
けた鋳物を注ぎ込んだ。たぶん、飛行機のエンジンであったと思う。1 年中工
場にいたので、勉強したことはない。夏休みもなかった。しかも、勤労動員に
は給料もなく、昼食も作業服も支給されなかった。検見川から稲毛まで徒歩で
通った。当時の人は、これぐらいの距離は歩いた。5 人ぐらいの小隊でゲート
ルと下駄または草履スタイルで歩いた。当時、小学校高等科は検見川町にしか
なく、高等科の動員は私達だけだった。当工場には高女からは動員されていな
かった。工場側は鉄原料が不足しているので、
「道に釘を見つけたら 1 本でも持
って来い」としつこく言っていた。しかし、工場の監督は厳重でなく、軍国主
義の標語もなかったようだ。
高等科卒業を前にして、父が「兵隊になってみろ」と勧めたので、陸軍少年
飛行学校に志願した。第 1 次試験は合格したが、第 2 次試験の合否をおって通
知するといいながら、結果があいまいになっていた。仕方なく、三菱化工船橋
工場に就職した。私は 60-70 人の工員の班長にさせられた。若い工員は木更津
や君津の出身で工場の寮に泊まっていた。旋盤操作を訓練した。30 円程度の月
給と食堂で昼食があった。
1945 年 6 月頃、この工場で艦載機の機銃掃射を体験した。船橋の上空に艦載
機が 10 機程度旋回しており、急降下して、工場も人間も見境なく、機銃掃射を
始めた。私は工場の崖下にある防空壕に避難し無事だった。この壕は 30 人ぐら
い収容できる大きさのものが二つあった。私は班長なので、全員が防空壕に入
ってから入るのである。それが班長の責任であった。目の前に機銃がバッツ、
バッツ、バッツと走った。間一髪であった。この空襲では死傷者はなくほっと
した。私は好奇心から 3 発の銃弾を保管していたが、無くしてしまった。
これより前に、1945 年 3 月 10 日に東京大空襲を見た。検見川町の自宅から
東京はよく見えた。23 箇所から火の手が上がった。私は千葉生まれであるが、
本籍は東京都荒川区南千住にあったから、浅草に住んでいた祖母が気になって
いた。翌日、会社を休んで父親と東京に向かった。しかし、省線電車は市川駅
でストップした。線路伝いに浅草まで歩いた。祖母の家は焼けていた。近くの
学校に死体があるから検分できると教わった。しかし、該当者はいなかった。
次に叔母の家を確認するために上野まで歩いた。そこで、叔母の家に避難して
いた祖母に会えた。荒川の土手を歩いたが、木造の建築は全て焼き払われてい
た。死体は道路に散在していたが、ほとんど黒焦げ死体であった。学校に並べ
てあった死体は、顔で識別するか、着物の胸に縫いつけてある住所氏名がわか
るものだけだった。私は死体をいっぱい見たが、中でも悲しい死体は、若い母
が赤ん坊を防火用水につけて熱から守っていたが、自ら力尽きて二人とも死ん
だのである。赤ん坊は焼けていないが、母親は黒焦げであった。手を合わせて
そこを立ち去った。この光景は忘れることができない。その夜は東京葛西の祖
98
母の家に泊めてもらった。ここも焼夷弾が投下されたが、屋根に落ちたので地
上に叩き落して火災を防いだ。
次の空襲は、1945 年 7 月 7 日の千葉空襲であった。検見川町からも火災は見
えた。すごい火事である。なにもできなかった。私は、千葉市花園の千葉工業
学校の校舎全焼の空襲は知らなかった。多分、船橋の工場に勤務していた関係
で情報が届かなかったと思う。
1945 年 8 月 15 日、私は工場にいたが、いわゆる「玉音放送」は聞かされな
かった。工場にラジオがなかったかもしれない。家に着いてから、父が「戦争
は終わった、日本は戦争に負けた。」と私に説明した。戦争が終わって変化した
のは、空襲警報や光を外に漏らさないための灯火管制が必要なくなった。8 月
16 日だけ工場に行ったが、工場は辞職した。工場から支給されて物はなかった。
建設業の家業を継いだ。千葉西民主商工会事務所の基礎工事は私の仕事である。
平和だから建設の仕事ができる。
戦後、弟と妹が生まれて、7 人家族になった。私の親戚で戦死したものはい
ない。幸運だと思う。戦争は反対だ。人殺しはいけない。アジア太平洋戦争が
間違っていたことは、日本共産党に機関紙「赤旗」で勉強した。
土屋智英さん証言(4 歳、千葉市亀井町)
私は戦争中幼いので記憶は十分ではないが、母と空襲に限ってはよく覚えて
いる。私の家族は両親と祖母、姉二人、私と弟の 7 人であった。私が物心つく
ころには、父は出征していた。父は召集で中国に派遣され、その後南方に派遣
されていた。父のことは余り聞かされていない。
1945 年 7 月6日の深夜、千葉市大空襲があった。空襲警報とともに私は起こ
された。母は、父に代わって家族に指示を与えた。
「母は残って荷物をまとめる。
家族は祖母に従って農事試験場の崖にある防空壕に避難しなさい。母は後で行
く」と。小さい弟はまだ眠りこけているので、二番目の姉が弟を背負った。私
は防空頭巾を頭に被り、母を残して、家族で一緒に防空壕に向かった。避難路
は、現在の鶴沢小学校が当時は、まだ水田で中央にいずれも幅 2m 位の小川と
農道が走っていた。ここを約 10 分かけて逃げた。防空壕は、現在は都町の交叉
点から斜めに知事公舎に上る道があるが、この道の両側の崖に防空壕が幾つか
掘られていた。一つの防空壕には複数の家族を収容できる広さ(6 畳間が縦に二
つぐらい)があった。夏の暑さもあって、避難者は外の様子を見たり、爆音が
聞こえると壕内に戻ったりしていた。しかし、すぐに合流するといった母が来
ないのは気になっていた。やがて、空襲が終わり、夜明けになり、防空壕を出
99
て我が家に戻ったが、母は不在だった。私たちは家から防空壕の間の水田に向
かい必死になって母を探した。そこには、倒れている人たちがいた。死体は担
架もなく、土木作業に使うモッコで運び出していた。母は右腕を負傷して倒れ
ていた。意識はしっかりしていた。母は看護婦の資格のある人だったので、自
分の負傷の程度を知っていた。母は千葉医科専門学校(現千葉大学医学部)に
連れて行かれたが、千葉市大空襲は市街地の病院を焼き払ったので、患者は千
葉医専病院に殺到していた。母は医師に右上腕から切断してくれと頼んだ。気
丈な母であった。
家に戻ると、台所がなくなっていた。また、爆風によるものか、ガラスが壊
れていた。家には焼夷弾が命中せず、火災は免れた。我が家は関東大震災後の
建物で、瓦を葺かずトタン屋根にしていた。祖父が千葉市蓮池にあった料亭の
別荘として建築したものであった。市街地で被災した親戚が我が家を頼ってき
たので、家族は 10 人ぐらい増えた。母や祖母は困った人々を喜んで受け入れた。
おかげで、子どもたちは食べ物が奪い合いの競争状態になった。負傷した母に
代わって、祖母が大家族の面倒を見た。母と祖母は嫁と姑の関係であったが、
母が祖母を尊敬していたので、母の負傷や大家族の出現があっても良い関係が
保たれていた。
終戦のよく春、父が軍服、戦闘帽、背嚢、ゲートル姿で帰国した。子どもた
ちは「お父さんが帰ってきた!」と言いながら、父に飛びついていた。母は父
の前に飛び出さなかった。母は空襲で負傷したにもかかわらず、油断して怪我
をしたと自分を責めていたので、父の帰国時には父を物陰に隠れるようにして
迎えた。母は、いつか父の帰国を祝うために隠していた白米ご飯を大家族も含
めてご馳走した。このご飯のおいしかったことは忘れられない。母は右腕切断
手術後ただちに左手で字を書く練習を始めていた。その後、左手で家事一切を
やっていた。ジャガイモも左手で押し付けて皮を向いた、縫い物も足でおさえ
て針を使った。右腕を失ったことに対する弱音を絶対言わなかった。母幸子は
80 歳で脳溢血により亡くなった。母の残したものの中に手帳やノートの記録が
見つかった。父は、戦争中の話は余りしなかったが、戦地でマラリヤ罹患と腕
に負傷したことで前線に回されることなく無事生還できた。
戦時中及び戦後に我が家を助けてくれた叔父さんがいた。彼が、シベリア出
兵で戦地にいたとき、留守家族の原因不明の心中事件が起こった。叔父は気が
狂う程に大きなショックを受けたが、祖母と父は彼を支えた。叔父は、千葉市
貝塚町に畑を借り受け、サツマイモ、大根、そら豆等を栽培して家族に供給し
てくれた。亀井町から貝塚町の畑まで 30 分の道程をリヤカーで往復した。子ど
もたちも、よくついて行った。母は叔父に本当に感謝していた。
戦後、祖母が生計の糧になるように、千葉市貝塚町の近くの車坂の街道端で
100
駄菓子の露天商を始めた。祖母もしっかりした人だった。右腕を失った母に面
倒を掛けまいと、手間のかかる子どもを連れて、東京浅草まで買出しに行った。
私は、満員列車の網棚に乗せられた。
私は、小さい頃、
「僕が大きくなったらお母さんの手を取り戻してやる」と母
の手をもぎ取ったアメリカに対する復讐心で燃えていたらしい。当時は、戦争
を憎しみだけから見ていたが、勉強する過程で、戦争は愚かなことだと気づい
た。
戦後、焼失した本町小学校では、現寒川小学校に間借りし、2 部授業が強いら
れていたが、私が入学したのは木造校舎が新築されてからであった。
私が千葉市葛城中学校で級長を勤めた時、私のクラス仲間はみんな元気で素
晴らしかった。ある時、クラス生徒の名簿を見る機会があった。クラスの中に
片親の子ども、両親を亡くした子どもがいた。両親を亡くした子どもは小沢君
であった。彼は、学校ではいつも頑張っていたが、彼の自宅を訪問した時に、
彼が弟や妹の面倒を見ていた姿を見た。私は、それ以来自分の生き方として、
キリスト教のミッションスクールに進み、社会福祉の仕事に就きたいと考える
ようになった。現在、社会福祉士・介護支援専門員の仕事をしながら、日本キ
リスト教団千葉教会に属している。
戦争を繰り返してはならない。
原朗さん証言(14 歳、中学校 2 年生、千葉市道場南町)
1
はじめに
昨年(2008 年)、私は77歳になり喜寿を迎えた。こんなに長生きするとは
思ってもみなかった。満州事変(1931 年)の年に生まれ、現在、年金の恩恵に
浴して、平穏な生活ができて幸いだと思う。
これまでの過去を振り返ると、1945年の第2次世界大戦の終結(日本の
敗戦)は日本の一大転換の時にあたり、私の人生にとっても同様であった。耐
乏生活と戦争の非常時や軍国主義から開放された節目にあたり、それを機に自
由と民主主義への移行等、めまぐるしい変化があったからである。戦時の体験
者が、徐々に世を去りつつある昨今、戦争の愚を繰り返さないため、その異常
な体験を後世に伝えることは、意味ある大事なことと思う。この体験集が広く
読まれ、その内容が語り継がれることを願っている。
2 私の体験した戦時の学生時代
第2次世界大戦の終戦時、私は中学生(県立千葉工業学校電気科)の 1 人だ
った。戦前・戦中の教育は、非常時の軍国主義のもと、入学後、短期間で「軍
101
人勅諭」と「戦陣訓」の暗記を強制され、競って覚えようとした。
「国には忠誠、
お上(天皇の名において上司,上官、先生等)には絶対服従」と教えられ、洗
脳される。中学校内では、先生が権力を握り、スパルタ式のビンタ教育が当た
り前。学校配属将校の指導のもと、将来、厳しい軍隊生活に入隊を前提の準備
教育。当時は戦時の食料難、物資や情報の不足と統制、国家の仕組みと方針に
強制的に組み込まれる。夜間の空襲から睡眠不足になった大人たちは、欲求不
満の捌け口として、抵抗できない学生や子供の弱さにつけこみ、教育と躾(し
つけ)の名のもとに、サデイスチックに暴力をふるったのではないか。我慢と
忍耐の教育なのだろうか。
学生時代、クラスやグループの誰かが規律違反などを犯すと、連体責任とし
て2列に並ばせられて、二人がお互いの頬をはれあがるまで平手でなぐりあう
体罰は、なんのためか分からない。朝礼時に、ある学生を「鬼殺し」とあだ名
の教頭が繰り返し突き倒したみせしめの蛮行は、教育者の風上にも置けない異
常性格者の恥ずべき行為にも思えた。
軍隊で既述のようなしごきを受けた日本兵が、中国や東南アジアの国々に進
駐した。その地で現地の人々に蛮行をはたらき、日本の悪名を残して残念であ
る。一部の世界に知られた高尚な日本独特の武士道精神はいずこに消えてしま
ったのだろうか。
「生きて捕囚の辱めを受けず」と戦場で自殺をひいた戦陣訓の作成責任者東
条英機は A 級戦犯として処刑された。数百万の人々を死に追いやった戦争の最
高責任者としては当然の報いである。不幸な戦没者の霊を悼むところである。
かずかずの思い出したくない戦争中の体験のなかで、多少ともその後に役立
った健康法がひとつある。中学生になった時、紐が両側についたタワシを渡さ
れる。真冬でも朝礼時、上半身裸になり肌をマッサージした荒業は、好かれな
い行事ではあったが、風邪の防止のためと知る。栄養の十分でなかった時代を
生き抜く知恵と理解する。その健康法にならい後年の一時期、冷水摩擦をして
冬を過ごし、風邪をひかないですんだことがある。
平和な現在から当時を回顧すると、まさに異常な行動が当たり前の時代で、
方針や指導に合わせるのを義務とした仕組み。個人の自由な考えは全く無視さ
れた。晩年にいたって思えば、そのような過酷な教育を受けたおかげか、その
後の人生で遭遇する問題に耐える忍耐と要領をかなり身につけたのではないだ
ろうか。
戦争中の学生生活で楽しかった思い出は、春秋の農繁期に学徒動員の一環と
して、出征農家の農作業の手伝いに行った時。農作業が面白のではなく、午前
と午後におやつをいただけたほか、昼食に白米のご飯がたべられる楽しみであ
った。都会では食料が配給制になっており、米不足からコウリャンや大豆、さ
102
つま芋(沖縄百号の水っぽいくて大きいまずい芋)などが配給になる。田舎の
農家では自家生産のお米を食べ、犬猫も残りご飯を食べていて驚く。当時、腹
がへると雑草でも食べられれば食べたく思うほど飢えていたのだ。
父の経営する会社は田舎から「母ちゃん農業」で出稼ぎに来ている従業員が
いた。農繁期の土・日曜日の学校休みに手伝いに行くと、帰りに自転車の荷台
に山ほどの野菜などの農産物をお土産にいただけた。食料難時代にあっては、
食料は宝物のよう。農業が楽しくなり、本気で百姓になりたいと思った。食料
不足の時代は、農業が最高の人気業種だった。
学校では戦時の一時期、授業は半日で午後は実習、伐採、炭焼き、学校菜園
の仕事など、いろいろと動員され働かせられた。その合間に、出征兵士や学徒
を駅に送る。空襲があれば防空壕に避難し、上空を見上げて敵機の飛来の見物。
変化ある学生生活を体験した。
終戦直後の数年、クラス担任になられた浅井吉弥先生は、人格者だった。卒
業までの数年間、愛情ある厳しさと誠意をもって教育してくださったのが、救
いだった。卒業後、先生が 90 歳代で亡くなるまで、クラス会でお会いし、戦時
の暗い学生生活を帳消しにしてくださった。軍国主義にそまっていた日本にも、
尊敬できる恩師がおられたのである。
3 家庭生活
私は、家庭にあって祖父母、父母、姉(兄弟6人)の計10人の大家族の中
で暮らしていた。家庭内での躾(しつけ)は厳しく、そこで、人生の生き方の
基本を植えつけられる。兄弟喧嘩から、人付き合いのルールや要領を学ぶ。一
人や二人の核家族にはない家族の営みや家訓を学ぶ。居間には仏壇と神棚があ
り、日々、宗教的な雰囲気がある。戦争が終わり、家庭内での宗教的行事は希
薄になる。若者たちは、現代の日本では無宗教が普通。お金中心の幸せ追求か
ら、不公平感や欲求不満が生じて問題が起きる。若い時に、質素でシンプルな
生活を体験したのは、その後の人生に良かったのではないだろうか。
父は燃料(練炭・棒炭)加工の小さな会社を経営し、家族を支えた。食料を
はじめ生活必需品は配給制のため、それらの調達は厳しい。だが、父の事業は
景気が良く、購入希望者に整理券を配る長蛇の列ができるほどだった。おかげ
で一般の平均的生活と比較すれば、幸いにも暮らしは比較的に良かったと思う。
お金があれば闇(ヤミ)で物資の調達が可能な時代だったからである。真面目
に生きようとすれば、栄養失調になりかねない。
当時の出産は、ほとんどすべて産婆が家に来て、赤ん坊をとりあげた。タラ
イにお湯を満たし、生まれた子が産声をあげると安堵した。国は「富国強兵」
を国策とし、男は兵隊、女は銃後の守りとして多産を奨励した。どこも、兄弟
姉妹の多い世代だった。だが、大家族であると食事時が込み合い、黙って急い
103
で食べることをせかされ食事を味会う余裕はない。将来の軍隊生活での早食い
の練習にはなったかも。もっとも、シンプルな食事が普通で、ご馳走は特別の
日しかなかった。飽食の核家族とは対照的な家庭の風景である。
4 当時の防衛事情と動き
その当時、千葉市は軍都として周囲にいくつかの軍関係の基地や施設があっ
た。鉄道第一連隊、歩兵学校、高射砲学校、戦車学校、気球連隊など、軍都と
して知られていた。終戦の前年、サイパン島の玉砕から連合国の本土爆撃が本
格的に始まる。いつかは、人口約 10 万人の県都千葉市も空襲に遭うのではない
かと恐れ、心配していた。
満州事変、日華事変を経て、真珠湾の奇襲攻撃が1941年12月8日に起
こり、戦時に突入した。戦時防衛体制として隣組が組織される。大政翼賛会な
る全国組織が形成され、国体の護持と軍国主義に協力するようお膳立てがなさ
れる。治安維持法により国策に合わない言動は容赦なく取り締まりの対象にな
る。市民の恐怖政治は憲兵と警察で維持される。
赤紙1枚で成人男子は招集され、前線に送られた。お国のために戦死すれば
靖国神社に祀られるという触れ込みで、兵士の命が国の盾となる。天皇のため
に命を捧げることが、最大の栄誉とみなされる。事実は戦場で戦死した兵隊よ
り、軍部のまずい戦略と物資補給を断たたれ、南方のジャングルに送られた兵
士は、病死や餓死で犬死したのが大多数である。遺骨箱が遺族に渡されても実
態は遺骨に似せた物を入れてあり空しい。事実は、戦地やジャングルでの遺骨
回収は事実上困難だったからである。
内地では沖縄の戦争の悲劇のほか、グアムやサイパンの玉砕から、米軍の飛
行基地ができた。1944年末からB29爆撃機の爆弾や焼夷弾攻撃が始まる。
迎え撃つ高射砲やゼロ戦闘機では1万メートルの高度を飛ぶ敵機にとどかない。
私は、ジェット推進(B29が本土上空に飛来した時、速度を増すため、ボデ
イの下部からロケット状の噴射装置)を見た。音レーダーを設備した米国の最
新航空機は、日本のプロベラ機の敵ではない。開戦数年にして大量の飛行機、
軍艦などを生産した米国などの連合軍は、破壊されて物資の乏しい日本軍とで
は勝負にならない。日本の軍部は、
「井戸の中の蛙」で世界を知らず、時代遅れ
の「竹やり戦術」を強いて笑止千万だった。兵士は日露戦争で使用した38銃
(1938年製)を持たされ、連発式銃をもつ米兵に対し、カミカゼ攻撃をし
かける。戦地では玉砕戦法で挑み、その悲報のニュースに涙する。本土の防衛
は防空頭巾(ずきん)、防火用水、バケツリレー、火消しはたき、窓ガラスの紙
張り(十字、X状)に頼る心細さでは戦争に勝てるあてもない。
「一億玉砕」の
スローガンと精神力、神頼みの防衛では近代戦には勝てなかったのである。
5 千葉の空襲と戦災
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戦後に知ったが、日華事変で日本が重慶の無差別爆撃をしたのが前例となり、
米軍の都市無差別攻撃が始まったとのこと。千葉市の第1回の空襲は6月10
日午前7時45分から1分間の攻撃だった(米軍資料)。B29 爆撃機27機が飛
来し、軍事工場と市街地の一部の爆弾攻撃であったが、工場には被害なし(米
軍資料)とある一方、工場の一部被害が千葉市では記録。住宅地にも戦闘機P
51による機銃掃射(道場北町ほか)があった。
目標からはずれた中心街(新宿・富士見・新田・新町等)にあった千葉師範
学校女子部、県立千葉高等女学校、機関庫(現在の JR 千葉駅近辺)から京成千
葉駅(ツインビル近辺)に至る線路に爆弾が多数落下した。大音響とともに、
直径10メートル・深さ数メートルの大穴が京成電車の線路上にいくつもあく。
落下地点に近い蛸壺防空壕に避難した関東中学校(西千葉の現千葉大の西側
にあった)学生の一人が即死しているのを目撃した。頭の上半分が吹き飛ばさ
れ、薄黄色の豆腐状の脳がむき出していた。学生カバンを背負った死体のあわ
れな姿が脳裏に焼きつく。その時、その場にたまたま居あわせ、彼の人生は瞬
間的に終わりとなる運命の悲劇であった。戦争の惨事を見慣れると、次第に感
性が麻痺し、無感動になり恐ろしい。その空襲の被害は、市役所の調査によれ
ば死傷者391名、被災戸数415戸だった。
約1カ月後の七夕空襲は、第2回目の千葉市の中心住宅地への無差別焼夷弾
攻撃の空襲。その深夜の夜襲で、わが家は戦災に遭い事態は一変した。
その夜、空襲警報で庭に作った防空壕にひとまず避難した。家の前の道路に
多数の避難民が郊外に逃げてゆく足音に異常を感じる。私もリヤカーに多少の
荷物をのせて逃げる。すでに焼夷弾が落ち、あたりは明るい。ふと隣家の軒先
に立つ盲目の祖父が目にとまる。数珠を腕に合掌していた。とっさに私が手を
ひき、東方の農事試験場(現知事公舎)の近くに避難する。朝になり、ひもじ
かったら近くの焼け残った店で、ふかしたジャガイモをふるまわれ、ひとつい
ただく。その好意が忘れられない。
朝になり家の焼け跡に戻ると、石炭の原料が燃え、石油缶の米が炭になって
おり、うらめしかった。名門原家の虫食いの家系図の保存場所を知っていたが、
持ち出しそこねて焼けたのが今になってかけがえがないもので、惜しまれる。
1週間後に疎開を計画し、準備していた物資はすべて消失され、生活のどん
底におちいった。終戦直前であり、首都東京を始め全国各地で大被害が相次ぐ。
敗戦直前の政府は無策で混乱状態にあったのか、なにもしてくれない。
戦争の被害のおかげで、一夜あけてホームレス。親戚縁者の善意にすがるほ
か、他人からのボランティアの助けを期待できなかった。幸い家族はだれも無
傷だったのが不幸中の幸い。当時、私は幼かったので、さほど深刻な不安や悩
みを感じなかったが、一家を支える父母の苦労は大変だったのではないだろう
105
か。
爆撃機の射手は多分、ゲーム感覚で焼夷弾発射のボタンを押し、職務を全う
したと思ったであろう。その結果、多数の家が消失し、死傷者が出るのを知り
ながら、罪悪感を覚えることなく、英雄きどりで無事に基地に戻れたことを喜
び,誇りに思ったことだろう。
「一人を殺すと殺人。多数を殺せば英雄」とは、戦争の理解しがたい真実であ
る。
なお、千葉市戦災の記録によると、B29爆撃機129機がテニアン島から
飛び立ち、7日午前1時39分から3時5分まで焼夷弾889.5トンによる
攻撃をした(米軍資料による)。その結果、「中心市街の大部分(7割)を焼き
つくし、死の町と化する惨状を呈し・・・・死傷者1,204名、被災戸数9,
489戸」と、千葉市空襲写真記録(千葉市市民課、平成10年7月発行)に
記録されている。この事実から東京大空襲は類焼で広がり、消防機能がなくな
り、火災による退路を絶たれた人々の悲劇で、千葉市の場合は郊外に逃げて比
較的少数の死者ですんだものと言える。
6 戦争から平和へ
海に囲まれ、徳川時代の日本は、幕府の政策により比較的平和な時代を過し、
天下泰平だった。各種の芸術、文化の華が開き、読み書きのできる人々が海に
囲まれた安全な日本諸島に暮らす。明治の文明開化から時代は変わり、富国強
兵の国策と海外との交易を奨励するようになる。1億の民がせまい日本列島に
居住し、海外移民もはじまった。
日本も当初は自ら朝鮮や台湾などの植民地を有していたにもかかわらず、ア
ジアを欧米の植民地から解放するという口実で、アジアの兄貴分として振舞う。
だが、情報や物資の不足、困窮、戦力と士気の低下、原爆の被害を受け、開闢
以来、はじめて降伏するはめに立ち至る。歴史で教えられていた神風は吹かな
かった。国敗れて、戦勝国からの慈悲によりララ物資などの食料援助等を頂戴
し、復興を助けられ、自由と民主主義を導入されて国が新しく再建された。
「負
けるが勝ち」とは、戦後の日本やドイツの経済的復興をみれば明らかと言える
のではないか。
村上春樹氏がエルサレム賞の受賞スピーチ(「文芸春秋」2009年3月号に
掲載)で、
「卵のような脆弱な個人と、壁のような戦争のシステムによりもたら
される無差別の大量死が戦争」との比喩で演説した。これは2008年12月
にイスラエルのガザ攻撃があり犠牲者が生じ、イスラエルとパレスチナの衝突
の現実を暗示したもの。文学者の彼がその機会をとらえ、イスラエル首相やユ
ダヤの要人たちの前で堂々と語り頼もしい。アウシュビッツの悲劇を体験した
ユダヤ人の首都エルサレムで、2009年1月に開催の公式行事で演説。苦虫
106
のネタニヤフ首相などを除き、参列者多数の共感を得たのだった。
戦争は個人の意思ではどうにもならない運命のいたずらかもしれないが、あ
きらめずにねばり強く後世の平和の実現に努めるのが、生きている人の務めで
はないだろうか。
戦争の悲劇は、これまで世界中の多くの人々が体験してきた。不幸なことに
平和な時代の現在でも、世界でいまだにテロや戦乱が繰り返され、争いが絶え
ない。人間とは英知ある動物ではあるが、愚かな野獣の一面もあわせ持つ。歴
史に学び、平和を求めて許しあい、愛し合って人類の文化を築きたく、お互い
が小さな貢献をして生きて欲しい。
平和憲法は世界の理想ゆえ、守りたい。月間雑誌「サライ」(2006 年 8 月 17
日号」の「天皇の無私が、戦後の日本を築いた」
(半藤一利・作家、元文芸集住
編集長)によれば、昭和天皇がマッカーサー司令官を 11 回も訪問して、新憲法
下での選挙や安全保障、講和問題、食料援助など、肝心要のことを話し、マッ
カーサーはそれをことごとく採用した。・・・だから、戦後日本という機軸は、
マッカーサーと天皇の合作だと思う。私は、その交渉で不戦の9条が実現した
と推論する。この憲法は、敗戦の教訓からの実現で世界の理想の憲法である。
「国敗れて山河あり」といわれるが、戦争が終わり65年近く平和を享受し
てきた。経済的にも戦後の一時期を除き、恵まれた生活を送れた。戦争で生き
残れた私たちにとり、戦後の人生は余禄の生涯にちがいない。生き残れて誠に
ありがたいことだった。
激動の半世紀は、戦争と平和、戦後の窮乏と混乱、一夜にして軍国主義から
民主主義への転換、貧困から豊穣、破壊から建設への歴史と人生の現実ドラマ
だった。私たち昭和一桁から二桁の世代は、ふたつの相反する極地を経験した。
あの悲惨な戦争や、戦後の欠乏・混乱の時代を知っているからこそ、現在の自
由のありがたみが分かるといえよう。
7 平和への結びの言葉
私はこれまで、聖書に出会い、人生の送り方、人との付き合い方を学んでき
た。
聖書には、
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」、
「剣をとる者はみな、剣に
より滅びる」、「平和をつくり出す人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれ
るであろう」というキリストの言葉がある。まさに至言である。(「平和の今、
戦時を回想」、千葉市中央区亀岡町在住2009年5月21日)
107
吉野晴義さん証言(17 歳、学徒通年動員、千葉市栄町)
私は、半世紀の間、戦争のことをなるべく思いださないようにして来たので、
記憶が断片的である。私は、夷隅郡古沢村で生まれた。父が仕事の関係で、千
葉市栄町 28 番地に 1 軒の家を持っていた。ここは旧国鉄千葉駅に近くであった。
私は、1945 年 3 月、千葉中学校を卒業した。卒業式はゲートルと地下足袋姿で
あった。千葉中学校 4 年生時代に学徒動員が始まったようだ。千葉中学校は、
千葉鉄道管理局への動員が割り当てられていた。仕事先は千葉鉄道機関区、佐
倉鉄道機関区、成田鉄道機関区、新小岩鉄道機関区、その他の鉄道施設であっ
た。駅の業務は小荷物要員であった。中学校は 5 クラスあったので、分散した
からこの時の学生同士の情報はわからない。私は、佐倉に配属された。私は卒
業しても、学徒動員は継続された。仕事は戦闘帽をかぶり、蒸気機関車の石炭
を貨車から降ろし、シャベルで放り投げたり、もっ子を使ったりして石炭倉庫
へ運び入れることである。1 日作業すれば石炭の埃で真っ黒になる。作業終了後、
機関区の風呂に入った。風呂は職員用であったが、動員学生も入れてもらえた
ばかりか、職員と背中を流し合う関係になった。そのことが楽しみになった。
若い職員は徴兵されていたので、年配職員が作業していた。
1945 年 6 月 10 日、千葉に爆弾空襲があった。日曜日の朝 8 時ごろ、B29 編
隊の「ウウーン」と言うすごい音がしたと思ったら、爆弾が近くの千葉師範学
校女子部の建物に命中した。爆風で我が家の障子の桟が折れた。直ぐに、上か
ら爆風で巻き上げられた、石、砂塊、土塊、瓦礫がトタン屋根にバラバラと音
を立てて落下した。その時、空襲警報がなったようだが、記憶がない。空襲時、
家の庭先にいたようである。間もなく、死傷者が近くの医院に次々と運ばれて
きた。
後で、聞いたことだが、旧市原郡五井や姉ヶ崎から千葉中学校に通う中学生
がいた。彼らの動員先は千葉機関区であった。6 月 10 日日曜日、彼らが千葉に
向かって出勤中、空襲警報になり、列車は本千葉駅で停止してしまった。彼ら
は仕事場に急ぐ為に線路伝いに機関区に向かって歩いた。そこへ、B29 の爆弾
空襲があった。数人の中学生は思わず伏せたが、至近弾の炸裂により、2 人の頭
部に爆弾破片が命中した。倒れた中学生は頭蓋貫通で脳漿が出ていたが、同僚
の学生が、その頭を抑えて背負って医院に運び込んだ。即死であった。当時は、
学生が遊ぶことも出来ず、語り合うことも出来ない状態に置かれていた。6 月
10 日の空襲後も、佐倉の機関区への動員は続けられたと思う。
1945 年 7 月 6 日夜 8 時に空襲警報になった時、家には父と叔母と私がいた。
焼夷弾空襲なので、逃げることになった。父は、全員が固まっていると全員が
犠牲になることを避けるために、3 人を分散することにした。父は、私に「晴義
108
(はるよし)お前は 1 人で逃げろ」と指示した。父と叔母は旧千葉駅の地下通
路に逃げた。逃げるときに見た光景は、栄町、要町、院内町、吾妻町から県庁
まで火の海であった。この日の空襲は旧千葉駅の北側に陸軍鉄道連隊が駐屯し
ていたが、その大土手山に先ず焼夷弾が投下され、火災で明るくなった千葉の
街をめがけて大々的な空襲になった。私は、駅を通り過ぎ、万葉軒(高台)の
傍のよし川周辺の田んぼに逃げた。つぎつぎと大勢の人々が高台へ避難してき
た。その中で、身重の婦人が産気づいた。兵隊が「誰か産婆の経験のある方はい
ませんか」と叫んでいた。その後のことはわからないが、緊張した場面であっ
た。院内町に続く田んぼの先に千葉刑務所が見えた。私はゲートルと地下足袋
姿であった。私は洗面器を持って家を出た。この洗面器は、鉄兜ほどの強度は
なくとも上から降ってくる瓦礫を防ぐことはできたが、主たる目的は空襲によ
って衣服に着火しないように水を掛けるためであったろう。空襲が一段落して、
我にかえったとき、腕時計は 1 時 15 分を指して、止まっていた。螺子を巻いた。
間もなく夜が明けた。千葉の街はみんな燃えてしまったと思った。田んぼを水
浸しになって歩いて、燻(くすぶり)り続ける街へ出た。駅前を通りかかると、
父と叔母にばったり会った。お互いの無事を喜び、抱き合ったように覚えてい
る。これは神のご加護だと思った。駅は焼け残ったが、我が家は全焼していた。
焼け跡は燃えるものは全部燃えたので灰が残った。7 月 7 日の夜は、都川大和橋
付近にある知人宅にお世話になったが、二日目からは、夷隅郡の実家に帰った。
街で焼け残った建物は千葉銀行本店と川崎銀行でいずれも石造り建物であった。
千葉中学校は約 250 人が入学したが、陸軍幼年学校、予科練、特別幹部候補
生等に道を変更した者もいて、卒業した者は約 200 人ぐらいであった。
8 月 15 日に終戦を告げるラジオを聴いた記憶がない。終戦は父から聞いたよ
うだ。
私は、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、短期大学を通じて教師生活を 50
年続けたが、
「一人一人を育てる」学級経営を貫いた。私の中学校のクラスで千
葉空襲を体験したのは私と吉田昭三さんだけになってしまったようだ。
私は戦争に反対である。戦争は人殺しである。若い人には、人の心を思いや
る心の深さ、「人情」を持って欲しい。どんな職業でも一生がんばって欲しい。
(編集委員注)
吉野さんは、インタビュー開始時「私は、半世紀の間、戦争のことをなるべ
く思いださないようにして来た」と言われたので、編集委員としては、ご迷惑
をおかけしているかと心配したが、最後までお話していただいた。言いたくな
いことだけど、若い世代に伝えなければならないと考えていただきました。千
葉師範学校女子部の犠牲になった教師や生徒らの慰霊碑が千葉駅前大通にひっ
そりと建立されている。この碑の若い女性が飛んでいる姿は松戸の聖徳大学教
109
授の利根山光人さんの作である。
長谷川満男さん証言(16 歳、今井町青年学校、日立航空機工場徴用、旧千葉
郡生浜町塩田)
私の父は、千葉市千葉寺町の出身(屋号は道山)であるが、分家であった。
終戦前、甥っ子の両親が亡くなり、残された甥っ子 1 人では生活が心細いので、
わが家族が甥っ子の生浜町塩田の家に一緒に住んでいた。家族構成は、両親と
息子が 5 人いた。私が長男で、17 歳であった。
私は、千葉市生浜小学校高等科を卒業した後、千葉市今井町にあった青年学
校に通った。この青年学校とは、午前中は、英語以外の国語、数学、柔道、剣
道等の学科を勉強したが、午後は日立航空機に行って航空機製作のフライス盤、
ボール盤、旋盤操作及び板金の技術研修を受けた。この青年学校跡地が現在、
白旗の市営住宅である。ここから、海岸埋立地の日立航空機工場は眼下に見え
た。3 番目の弟は、飛行兵に志願していたが、部隊配属になる前に終戦となった。
父は、千葉医科専門学校のボイラー技師であった。当時の千葉医専病院は東
洋一の大きさを誇っていた。父は、若い時に、甲種合格で海軍横須賀海兵団に
召集されたことがある。このとき、海軍戦艦「長門」に乗り込んでいたが、日
米開戦の状態ではなかったから、戦闘はなかったので、無事除隊することがで
きた。
「長門」に乗艦していた時、父の部隊は世界を航海し、行く先で上陸して
見聞を広げることができた。この上陸は平和的であり、相手国と交流すらでき
たようである。父は、アメリカのサンフランシス港に上陸し、戦前のアメリカ
の姿を見ることができた。中国では、揚子江を遡り、重慶に上陸した。この揚
子江航海は、小型の戦艦に乗り換えたと思われる。当時日本の植民地であった
朝鮮は仁川(じんせん)にも上陸した。
父は、1937 年日中戦争、1941 年日米開戦に対して批判的な態度であった。
特に、日米開戦時には、
「日本はアメリカとの戦争に勝てない。アメリカと戦争
やっちゃだめだ。戦争は 1 年しか継続できない。陸軍の連中はわかっていない」
と公言していた。父はアメリカの国力を知っており、精神力で勝てる相手では
ないと確信していた。
そんな父にも、1944 年 11 月に 2 回目の召集令状が届いた。海軍横須賀海兵
団に応召したが、乗艦する任務はなく、愛知県豊川の海軍工廠に派遣され、高
射砲陣地の構築に従事した。当時日本軍の高射砲は 8000m 上空まで届くのが限
度であった。1万メートルの高高度を飛行する B29 を撃ち落とすことはできな
かった。また、砲弾の薬莢部分が真鍮でなく、鉄製であったために、発砲後、
110
薬莢が後方に容易に排出されず、連続的に使用できなかった。
私は、青年学校 2 年生のときは、すでに授業はなく、航空機製造の 24 時間作
業の 12 時間シフト組み込まれていた。朝組と夜組みは 1 週間ごとに替わった。
冬は寒くて仮眠もできなかった。仮眠といえども布団などはない。私は、日立
航空機の発動機工場に配属された。工場にはドイツの戦闘機メッサーシュミッ
トの緑色塗装の実物が展示されていた。当時は、日独伊 3 国はファシズム枢軸
国として同盟していた。飛行機のエンジンは、敵国の英語を使用できないので、
発動機と呼んだ。千葉では、
「天風」を栃木県の中島航空機は「栄」と言う名前
の発動機を製造していた。千葉にも「栄」が運ばれていた。終戦時は、材料も
不足していたので、自動車のエンジンを航空機に転用する試みもあった。私が、
旋盤で作ったのは中が中空の円筒形「ほうきん」と言う部品であった。熱膨張
を考えて、この部品は本来、真鍮でなければならないのに鉄製であった。工場
には海軍の士官も配属されていたが、殴られることはなかった。
軍需工場への徴用に、30 円ぐらいの給与が支給されたが、金で買えるものは
少なく、食べ物が不足し、いつもひもじかった。たとえば、夜勤で支給される
食事は、小さなパンが二つと小さな芋が二つであった。このパンの材料は、ピ
ーナツのひょうたん型の外殻を粉にし、イモの澱粉滓を混ぜたもので消化でき
るものでもなく、全く味がなかった。その味付けに芋が出された。これでは、
まともな労働ができなかったが、工場側は戦場の苦労を水準にして「戦地を思
え」と言う回答であった。海が近くても、勝手に貝の養殖海域に入ることがで
きなかった。
千葉でも、空襲の危険が迫ってきたので、日立航空機の工作機械を分散疎開
し始めた。工作機械は、業者が輸送を担当した。私らは疎開先へ通った。一つ
目の疎開先は、千葉県長生郡茂原の長生中学校であった。私たちは、ここの45年生に機械の使い方を教えた。この学校にいたとき、同僚とグローブを使っ
てキャッチボールをしてひと時を楽しんでいた。これを軍人に告げ口されたた
めに、21 歳の若い海軍士官に直立不動の姿を要求され、
「奥歯を噛め」と言われ
るや否や、キャッチボールの相手と共に、踵がついた皮のスリッパで頬を強打
された。奥歯が半分折れた。顔無残にも腫れ上がった。二つ目の疎開先は、千
葉市検見川の無線局近くの壕で戦争が激しくなり、秩父の山の中へ疎開する予
定であったが、終戦を迎えた。
1945 年 6 月 9 日、早朝家を出て、女性が車掌をしている列車に乗って、茂原
駅向かった。その時、ラジオが「敵爆撃機が九十九里方面に接近中」と警戒警
報を知らせていた。仕事を終えて、家路に向かったが、列車は千葉市大巌寺付
近で停止した。やむなく、そこから線路沿いに歩いて帰った。翌朝、蘇我あた
りに来ると、町の姿は一変していた。爆弾を受けた建物は木っ端微塵に壊され
111
ていた。これが蘇我 1 丁目の空襲であった。土蔵が残っていた。人間の体の一
部らしきものが、あちこちに引っかかっていた。爆弾の穴が約 5 個見えた。い
ずれも、直径約 10m もあった。すでに爆弾の穴には水が溜まっていた。この辺
は地下水位が高く、少し掘れば水が出た。だから、私の家の4-5 人収容の防空
壕も掘らずに、杭を立て、板を張って、土を被せる簡易な方式であった。
P51 戦闘機の2機編隊による空襲もあった。キーンと言う音がすれば、たち
まち姿が現れた。人、家、馬、牛、工場は目標であった。海岸に行くと、機銃
の薬莢がたくさん落ちていた。海岸にいた人を目標にしたに違いない。最初は、
P51 が来ると、防空壕に入ったが、だんだん慣れてきて、怖くなくなった。隙
間から、敵機を見ていた。千葉寺に数名の兵隊が駐屯していたので、P51 の攻
撃対象になり、藁葺き屋根の千葉寺観音を銃撃したから、炎上した。本堂は7
月6日の大空襲で焼失した。
1945 年 8 月 15 日、天皇の敗戦放送があった時、私は班長や同僚と検見川無
線局近くにいた。放送後、軍人でない班長は「日本は戦争に負けた」とつぶや
いた。私は、戦争が終わってほっとした心境であった。私の作業班は解散とな
った。
戦後、青年学校は自然消滅したので、青年学校終了という学歴は得られなか
った。私は、家の田んぼを使って農業を始めたが、肥料がなかった。肥料は植
物の落ち葉などに人糞、馬糞、牛糞を混ぜて、堆肥作りからはじめた。農耕に
馬が重宝されたが、私に家には馬はいなかった。戦争で馬が何十万等も戦地に
徴用されたが、再び帰って来なかった。
1948 年に、千葉地方裁判所の仕事があることを知って、受験した。私は小学
校高等科の学歴しかなかったので、裁判所の受験は不利であったが、行政職 2
の雇として採用された。1949 年、千葉市千城園で結核療養した。1951 年復職
したが、結局 1955 年に退職した。健康診断書を見せると、だれも雇用してくれ
なかった。その後、私は覚悟を決めて、世のために千葉県桜が丘擁護学校や千
葉市肢体不自由児協会で社会福祉の介助ボランティアを無報酬で続けた。その
後、成田空港建設が始まり、裁判所の知り合いから、裁判所執行官のもとにあ
る外郭団体に採用され、強制執行に当たらされた。久しぶりに収入を得ること
ができたが、危険な仕事であった。これらの仕事と別に掛け金を納めたので、
かろうじて年金が支給されるようになった。私は、要領の悪い人間であるが、
戦中・戦後を生き抜くことが出来た。今は、妻の介助をしながら、裁判所退職
職員の総会参加を楽しみにしている。年金者組合の例会には参加できないが、
機関紙に俳句を毎月投稿している。
私の叔母は 88 歳で健在だが、夫はフィリピンで戦死したので、私の従兄弟に
当たるその子どもは、可哀そうに当時 3 歳で父親を知らずに育てられた。
112
戦争は繰り返してはならない。戦争は惨めである。家族が不幸になるだけだ。
若い人たちはしっかりして欲しい。
(編集委員注)
戦艦長門:竣工当時世界最大の 41cm 主砲と高速な機動力を持つ戦艦で、太平
洋戦争開戦時は連合艦隊旗艦として連合艦隊司令長官 山本五十六大将が座乗
していた。太平洋戦争中は大和、武蔵に次ぐ主力艦として温存され、終戦まで
稼動可能な状態で生き残った唯一の日本戦艦である。長門は 1919 年 11 月 9 日
に進水する。1920 年 11 月 15 日竣工。建造費は当時の価格で 4,390 万円に上っ
た。(Wikipedia フリー百科事典より引用)
ほうきん(砲金)
:銅と錫(すず)、あるいは銅と錫・亜鉛との合金。青銅の一種。
鋳造性がよく、強くて耐食性に富み、軸受けなどに用いる。古く錫 10 パーセン
ト程度のものが大砲の鋳造に使用されたところからの名。ガンメタ
ル。(Wikipediaフリー百科事典より引用)
海軍工廠(かいぐんこうしょう):海軍の艦船・兵器・弾薬などの製造・修理・
購入・実験などをする施設。旧日本海軍では、横須賀・呉・佐世保・舞鶴の各
軍港に設置されていた。(Wikipedia フリー百科事典より引用)
関武雄さん証言(24-25 歳、東京浅草郵便局、千葉市椿森町)
昭和十九年十一月二十四日、第一回東京大空襲。昭和二十年三月九日、第二
回東京大空襲。当時、私は浅草郵便局に勤務して居た。千葉市椿森町(現在の
千葉都市モノレール「干葉公園駅」近くに居住している)の自宅から通勤して
いた。空襲の夜は自宅に居た。翌朝出勤、千葉からの電車は市川駅止まりとな
り、市川から浅草局まで歩いた。途中、白髭橋まで来た時、橋の上に焼死体が
裸人形の様にごろごろと横たわり、隅田川には真黒な死体が浮いていた。焼け
跡のそちこちから煙が立のぼり一夜にして、この惨状。死体を跨ぐようにして
郵便局にたどり着いた。郵便局は宿直員の必死の防火作業で幸い無事であった。
宿直員の話によると、空襲の夜は、さながら火災地獄で、火は風を呼び、渦を
巻き、炎は道路をなめて走り、子供を背負った母親が逃げて行く、子供の背中
に火がつき炎をしょって逃げて行く様、あちこちで逃げきれず倒れる様は地獄
絵そのものであっただろう。
私は、その日は宿直で翌朝帰るという隔日勤務がしばらく続き、その間も敵
の艦載機による空襲が何回かあった。近代戦争は、戦場の第一線も、銃後の国
民も危険度、苦しみは同じだ。むしろ銃後の悲惨さは第一線以上ではないかと
思う。毎日の生活はノミ、シラミ、ダニに悩まされ、灯火管制の中で食事も乏
113
しく、雑炊も米粒が混じればよい方で、さつま芋、とうもろこし、ふすま、か
ぼちゃ等が主なもので、皆、栄養失調、子供等も痩せて元気なく、私も夜盲症
となり灯火管制下夜は苦労した。
昭和二十年七月六日夜は千葉市が空襲された。この日私は郵便局で宿直勤務
であった。ラジオで情報を聞き家の事が心配であった。朝、急ぎ帰ろうとした
が、電車は津田沼止りで、線路づたいに歩き、家づくにつれ家族のことが心配
になった。鉄道第一聯隊の土手のすぐ外にある我家、敵の目標下である。果た
せるかな、我家は焼失して、あたりに人影もなかった。家族母(七十歳)、妻(三
六歳)、子供(六歳、四歳、二歳)神に祈る心持、先ず防空壕の中をのぞき込み
誰も居ないのでホッとした。行方を探したら焼け残りの親戚に無事避難してい
た。家内は、七〇歳の足腰の悪い母をつれて二歳の子を背負い、六歳と四歳の
子を両手につなぎ、夜中焼夷弾で火の海となった道をくぐりぬけ、鉄道隊の練
兵場の池や葦や篠竹が生茂った崖をころげ落ち、其処で空襲が終るのを待って
四粁位ある親戚まで歩き、大きな怪我もなく皆無事たどり着いたと聞き、妻の
苦労に本当に感謝した。親戚も多勢ですので早急に焼け跡の防空壕を利用しバ
ラックを建てようと考えて勤務の合間に焼トタン、木、板、釘等集め、素人の
私が焼け釘を延ばしながらやっと六畳位のバラックを建てた。屋根の傾斜で部
屋の半分腰をかがめないと歩けないような家である。真夏の炎天下で苦労した。
自分ながらよくやったと思う。家族を呼びバラック生活を始めた。別の防空壕
に衣類、食器等多少入れてあったので何とか生活ができた。そして八月六日広
島に原子爆弾、九日には長崎にも原子爆弾が投下され、敗戦が決定的となり十
五日には終戦となりました。
虚脱状態の毎日が過ぎ、秋の気配と共に颱風が来襲してきた。焼トタンが飛
ばされないよう屋根の上に石を何個か置いていたが、風雨にゆさぶられ、重み
で漏斗の様になり、雨水が床から防空壕へドッと流れ込み水浸しになる等苦労
が続いた。家内は食糧の調達のため、なけなしの衣類を農家に持って行き、米
や野菜と交換してもらった。私も家内の生家が、農家であったので千葉県匝瑳
郡(そうさぐん)光町尾垂という所で横芝駅から十キロ程の道を歩いて行った。
御厚意に甘え大形のリュックサックに米や芋や野菜等欲張って四十キロ位あっ
たと思う。最初は百米位歩き一休み、次は五、六十米歩いては休み、次第に疲
れて駅近くになると十歩で休み五歩で休みと疲れ果てやっと駅にたどり着いた。
駅は買出の人で混雑していた。やがて列車が到着、客車、貨物車混合の列車い
ずれも満員でしたが、私の前に無蓋車が止り、一人では荷物を持ってとても乗
れない高さであったが、先に乗っていた人の助けを借りてやっと乗車出来た。
我家に帰った時はへとへとであった。今でも当時のことは鮮明に思い出される。
昭和二十二年三月旧歩兵学校跡に戦災者のための県営住宅が建ち抽選で入居出
114
来ることになった。天井もなく、壁もさわるとポロポロ落ちるバラックであっ
たが、一年七カ月の間焼け跡に建てたバラック、腰をかがめて歩いた生活から
解放されたので当時は御殿に来た様な喜びであった。思えばこの戦争による苦
しい体験は私の人生の貴重な体験であったと思う。
昭和六年九月満州事変勃発、昭和十二年盧溝橋事件と徐々に軍事色が強くな
り、ついに昭和十六年真珠湾攻撃で世界大戦に発展した。苦しみの多い長い年
月である。現在の日本は物が溢れ、科学の発達により生活も豊かになった。
戦争は二度と繰返されてはならないことは勿論であるが、戦争を知らない若
者が豊かさに溺れ、物を大切にしない、自分本位の考え方、道徳心の欠如等も
目立つ。今後の日本は精神文化に力を注ぎ、心豊かな人物を育成すべきだと思
う。
(編集委員注)
この手記は、2004 年に全日本年金者組合千葉市稲毛支部が発行したパンフレッ
トに記載されていたものである。本人の了解をもとにここに掲載している。も
う少し、具体的なこともお聞きしたかったが、ご本人は施設に入居されており、
質問・回答も容易でない。よって、やむなく転載扱いである。
松本隆子さん証言(5 歳半、終戦時のみ東京都板橋区大山、大半は千葉市)
罹災時の私の家族構成は、父母と私、3 歳の妹と 1 歳の弟である。父は、国鉄
職員で 34 歳であったが、肺を患った後だったので、徴兵検査では丙種合格とな
り、出征しなかった。
千葉市は、6 月 10 日の朝と 7 月 6 日夜から 7 日朝にかけての 2 回空襲を受け、
私は 5 歳 6 ヶ月で、この両方を体験させられた。その恐ろしさ、家の燃え上が
る炎とその熱さ、焼跡の臭
い、「退避、敵機来襲」と
いう叫び声、サイレンの鳴
る音等が幼かった私の脳
裡に鮮烈に焼き付いてい
る。これは、かなり長い間、
今でいえば心的外傷とな
り残った。その体験を1メ
ートル少しの子どもの目
の高さから見たものを思
い出すままに語るだけの
115
ものである。
両親が結婚し、父の実家(旧東京市板橋区成増町)で新生活を始め、私は2
年後に生まれた。そこで、2歳半まで過ごしたが、その家は高台にあったため、
1941 年 8 月頃、井戸水が枯れたことが契機になり、千葉市新田町 194 に転居し
た。東京では、配給米が外米であったが、産米県である千葉県は内地米が配給
されていると聞いたこともあり、母の実家も小石川から一足先に千葉市民にな
っていたことなどがあり、父は気が進まなかったが、千葉への転居を決心した
と後に話していた。
この家は房総東西線の線路沿いにあり、井上病院との間にあった。そのため
戦局が厳しくなると軍の命令により市内の鉄道線路から 100 メートル以内にあ
る建物は使用目的の如何を問わず取り壊すので、2 週間以内に立ち退けとの通告
を受けたと言う。市内が空襲されたとき鉄道施設への類焼されるのを防ぐため
と言う理由であったらしい。私は、この家が壊されていくのをじっと見ていた。
柱にロープをかけて大勢の人が引っ張っていた様子をよく覚えている。辺りの
家も次々と撤去されていた。ここに 1945 年 5 月頃まで住んでいた。井上病院が
後ろにあり、病院には車寄せのコンクリートの道があり、玄関のところは陸屋
根になっていた。子どもの目で見たら大きな病院であった。副院長の花岡先生
に往診していただいていた。
家の前を千葉高女の女学生が通学し、女学生は、幼い私によく声をかけてく
れた。その中の一人と、1949 年に小学 4 年生から 6 年生までの学級の担任教師
として再会したのである。
1945 年 6 月 10 日の空襲は、朝 7 時半頃にサイレンが鳴った。薄曇りの日だ
ったようである。父は当時国鉄の職員であった。職員で在葉の者は、曜日の如
何を問わず警報が鳴ったら事務所に集合することになっていたそうである。父
は、「行ってくる」と言って出かけて行った。100 メートル位行ったが、何か胸騒
ぎがして引き返した。玄関に入りかけた時、
「敵機来襲、敵機来襲」、
「空襲、空
襲」と危機迫る叫び声が聞こえたので、家族に「防空壕に入れ」と叫んだと言
う。母と私と弟は壕に入ったが、妹は逃げ遅れて、廊下で恐怖のために泣いて
いた。父は妹を抱きかかえて防空壕に飛び込んだ。と同時に 250kg 爆弾が近く
で炸裂した。父は爆風で壕の反対側に叩きつけられた。爆弾の大音響が頭上に
覆いかぶさるように、これでもかと迫って来たと記している。このときの恐ろ
しさ、轟音は防空頭巾をいつの間にか被せられていた私も覚えているものすご
いものであった。どのくらいの時間が経ったのか覚えていない。目をつむって
母親にしがみついていた。
この防空壕(1 畳の広さ、深さ 1.4m、松丸太構造)は 6 月 8 日(8 日は毎月、
真珠湾開戦記念日で休日であった)に庭に穴を掘って、千葉市新町 215 にある
116
家に引っ越してすぐ 1 日で作ったもので、屋根をつけ土を被せたが、入口は穴
のあいた状態のままであった。時間も材料もなく入口の蓋がつけられずに終わ
ったと記してある。
しかし、空襲が終わり、外に出ようとしたが、出口の上に何か重いものが乗
っていて、下から押し上げてもびくともしなかった。父は、壕の中から外に向
かって「助けてくれ」と叫んだ。聞き覚えのある町会の役員は「他人どころじ
ゃないんだ、自分達が逃げるんで精一杯なんだ、諦めてくれ」と冷酷な返事で
あった。父は、常日頃静かな人であったが、この時ばかりは激怒した。
「なんて
野郎だ、畜生!」と記録に書いている。なんとか外に脱出した。出口を塞いだ
のは自分の家の壁や建材であった。防空壕から出ると家は一変していた。私の
家と隣の家の間に爆弾が落ちたと父は言った。二つの家は完全に破壊され、炎
上していた。火災は近くの工場のドラム缶に入った重油が爆発・炎上したため
に類焼したようである。台所と風呂場側の壁が吹き飛ばされ、風呂桶と竈(か
まど)がむき出しになっていた。ついさっきまで、母が洗っていたお釜は炎の
中に傾いていた。5 歳の子どもに事態の重大さを思い知らすには十分すぎた。こ
の光景はとても悲しかった。防空壕のおかげで家族は無事だった。家が炎の中
にあり、熱くて庭にはいられなかった。避難した。
突然の空襲だったので、母も子どもも裸足であった。空襲直後の地面は熱く
て裸足で歩けない。途中で、そのような状況の中でも親切に下駄をくださる人
がいたのである。爆弾で死んだ遺体があちこちに見られた。電線に髪の毛や肉
片がぶら下がっていた。一升瓶の細い注ぎ口の方が高熱でグニャリと曲がって
いた。近所の母子がこの日に犠牲になった。その母はお琴の先生で、子どもは
私と仲よしの男の子である。父の記録には、爆弾が防空壕まで、あと 2m 近け
れば私たちも吹き飛ばされていただろうと書いてある。
1945 年 7 月 6 日の空襲は、夜始まった。私が起きている時間だった。父は町
内会の役割を済ませ、貰ったばかりの毛布などを防空壕に入れたりするので、
母と私たちに「先に逃げろ」と言った。玄関に下駄が並んでいたが、履こうに
も足がガクガク震えて鼻緒に指が入らないのである。6 月 10 日の空襲からひと
月も経っていないのである。母と 4 人で真っ暗な道をひたすら逃げた。「退避、
敵機来襲」と言う声とともに、照明弾が投下されると、昼間のように明るくな
った。
「まっぴかり」になった。逃げ惑う人の群れが見えた。夜間照らされると、
人間はなにか大きい物陰に隠れようとするものである。私たちも工場の大きな
扉の前の人の群れの中に隠れようとした。他の避難民もそうしてあちこちに寄
り集まっていた。危険を感じ、そこから離れた。それから相当の距離を歩いた
と思う。ときどき後ろを振り返ると、今までいた所は、火の海であった。疲れ
た私たちは農家の庇を借りて座っていた。父は、後から家族を追いかけたが、
117
葭川に架かる橋近くの分かれ道で、右か左か迷ったが、右を選び幸運にも家族
は再会できた。父は、ここも危ないと言い、空から焼夷弾が落ちる中を逃げ延
びた。その夜は、亥鼻の牧の家(かつて高級料亭であった)に収容された。屋
根の下で寝られるのは幸せだった。大勢の人たちでいっぱいであったが、1 家族
に 1 枚の座布団が配られた。しかし、一晩だけだった。翌朝、軍の将校が来て、
司令官がお泊りになるから、お前らは出ていけと言うのである。焼け跡を歩い
ていたら、しっかりした防空壕が見つかり、そこで 7 月 7 日の夜を明かした。
この防空壕は暑いうえに蚊が多くて大変だった。翌朝、そこに救援物資だと落
花生を配布してくれる人が現れ、私たちにも父の戦闘帽に一杯を 5 人分として
入れてくれた。これを鮮明に覚えている。
父は東京板橋区大山にある伯父の管理する長屋に住むところを求めた。当時
は、電話も自由にならない時代に連絡も容易ではなかったと思う。伯父から一
軒あると回答を得て、家族は 7 月 8 日夕刻に入居した。父は職場に戻った。連
日出張で、ここでは母と 4 人で過ごした。防空壕がなかったので、警報のサイ
レンが鳴っても、8 月に大きな地震があっても 3 尺の押入れの中に入り、襖を閉
め真っ暗にして、4 人は抱き合って震えていた。
1945 年 8 月 15 日の天皇による「玉音放送」を私は聞かなかった。5 歳の子
どもの私は覚えがない。母は、サイレンが鳴ってもこわくないこと、戦争が終
わったこと、もう爆弾は落ちてこないこと等を優しく話してくれた。サイレン
は戦後もどこかの工場のものかどうか鳴っていた。聞こえると私は脅え、母に
抱きついていた。
父は、勤務先の国鉄に罹災者救済の一つとして、住居の確保を懇願した。10
月になると直属の上司と共に適当な物件を見つけて来いと命じられ探したのが、
旧日立航空機工場の蘇我の元女子寮だった。これを国鉄が買収し官舎としてく
れ、一番に入居できたそうである。12 月だった。これでようやく私たちの住居
は安定した。戦中、戦後ともに食糧は不足していた。戦後は、空襲こそなくな
ったが、食糧を確保するのが大変だった。休日には、父は八街、飯岡あたりま
で芋や雑穀などを求め、買い出し列車に乗って出かけて行った。次の休日まで
に食べ尽くしてしまったようで、その苦労は並大抵ではなかったと思う。配給
はあったが、パイナップルの缶詰や、サツマイモ、サトイモ、トウモロコシの
粉等であった。
戦争終結の翌年(1946 年)、私は千葉市蘇我国民学校に入学した。1 クラス 50
人位いた。蘇我は、引揚者の家族が大勢移り住んできた。これも日立航空機工
場の寮だったかどうか分からないが、今の白旗地区の高台に共安荘等と呼ばれ
る寮が何棟もあり、子どもの数も多かったと思う。
学校も混乱期にあり、今思えば秩序がなかった。楽しい思い出などほとんど
118
ない。入学して間もないのに、当時の担任の先生が時刻を過ぎても現れず、私
は昇降口の外の土間にランドセルを背負ったまま落書きをしたりして待ってい
た。待ち疲れてそのまま家に帰ってしまい母に叱られて連れ戻された時の情景
も鮮明に覚えている。
もうひとつは、私の弁当が盗られてしまったことがあった。先生に訴えたら、
先生は、クラスの子どもたちに事実を伝え「知りませんか」と問いかけた。ま
さにその時、一人の男の子の机から弁当がガタンと言う音と共に落ちたのであ
る。なぜか今でもその子のフルネームを覚えている。額が出っ張り、お腹は膨
らみ、いかにも栄養失調状態の子であった。お弁当が出てきてほっとしたもの
の、その子が可哀そうでならなかった。私の家も貧乏で親は食べなくても子ど
もだけはと持たせてくれた弁当だったが、私は子ども心に、その子が食べてし
まった後だったらよかったのにと思ったのだった。悲しい思い出である。
ひとついい思い出は、私が書いた「しゃぼん玉」と言う作文がよく出来たの
で全校生徒 1800 人の前で朗読することになった。校庭の朝礼台の上に登って大
きな声で朗読した。降りた後も、子どもの列に戻らず、先生と同じように先生
と並んで大勢の子どもたちの方を向いて立っていられたことの得意気な姿と嬉
しさは忘れられないことである。1 年生の時の思い出である。その頃、元日立航
空機の軍需工場跡に遊びに行くとジュラルミン板の破片が散乱していた。持ち
帰って下敷きにしたりした覚えがある。
爆弾は落ちてこなくなったが、焦土と化した市街地や人々の生活の荒廃ぶり
は子どもの目にも暗澹たる光景を焼き付けた。食糧に事欠き、衣料品も年に何
回かの衣料切符や古い品物を持っていかないと手に入らなかった。駅や公園な
どには、浮浪児が溢れ、進駐軍の米兵に物乞いする姿が忘れられずにいる。そ
の米兵には派手な格好をした日本の若い女性が腕をからませていた。人通りの
多い道路脇には傷痍軍人が白い服を着て、戦地で腕や足を失った姿で立ち、金
を入れる箱を置いて恵みを乞うていた姿も子どもの私には異様な姿で怖かった。
「戦争とは暴力の極限で、非情そのものである」と父は孫たちに残した記録
の中で言っている。戦争放棄を条文にした憲法も今、物議を醸している。人間
が生きている存在として尊重されず、戦いの道具とされ戦地に駆り出されたの
である。愚かな戦争には終止符を打った筈である。同じ過ちを繰り返してはな
らない。犠牲になるのは、いつも一番弱いものである。今も、世界を見渡せば、
この愚かな行為はあちこちで見られる。私たちが、この身で体験した、見て来
たことである。
父は、私たちに戦争の話は避けていた。ところが、私の娘が学校の宿題で、
おじいさん・おばあさんに戦争の話を聞いて作文にまとめなさいと言われ、父
に依頼した。父は戦争のことを初めて話し、その後晩年になってから孫たちに、
119
こんな爺さんがいたことを残しておきたいという気持ちから、生き方を原稿用
紙に書き始めたと言っていた。
今年 2009 年、戦後 64 年になる。当時 5 歳だった私も 69 歳である。その頃、
辛酸をなめた大人は、もう 80 歳以上になる。戦争を語れる人はごく少なくなっ
ている。34 歳だった父も 86 歳で 13 年前に逝った。ふとしたきっかけで、千葉
大空襲体験者から聞き取り調査を定年後の生き方の中に位置づけ、あちこち尋
ね回っている伊藤章夫氏に出会い、私も今まで他人に話したことがなかったが、
氏の目指す 100 人の証言者の一人となったのである。
現在、病を患い、薬の副作用で臥床する身となっている。外出時には人手が
要るので活動はできないが、この些細な話が何かの役に立てれば喜びである。
私は、戦争に絶対反対である。
(編集委員注)
松本隆子さんの父君漆崎春隆さんが、戦争中の出来事など 16 の話を「金色の
舞」(1990 年自費出版)にまとめられている。実は、父君が命の保障されない
大手術入院されておられたときに、松本隆子さんが父親の生きておられる内に
一冊の本にしようと思い立ち製本の手配をされたものである。うち、
「被弾」の
章に空襲の出来事が詳細にリアルに記録されている。他の章にも戦時中の世相
が書かれており、とても参考になる。ぜひ一読を勧めたい。また、松本さんは、
空襲罹災証明書(複写)や戦後 1946 年の 1 年生の「ヨミカタ」が大きな紙で印
刷されたものを各家庭で裁断して綴じた粗末な教科書や国債券等貴重な物件を
大切に保存されている。
匿名(女性)証言(10 歳、国民学校 3 年生、家は千葉市蘇我 1 丁目、疎開先は
県内)
当時の家族構成は、祖父母、両親、叔父叔母など4人、子どもは長女の私を
含めて 3 人で、11 人の大世帯であった。家業は農業であった。父は 40 歳を過
ぎていたが、兵役に行っていない。伯父さんの一人はレイテ島で戦死している。
もう一人の伯父は、戦地から一時帰国した時で空襲時に千葉市にいた。家の防
空壕は立派であった。広さは 6 畳間の大きさで、床は畳が敷いてあった。布団
や食器類もあり、小さな仏壇もあった。空襲になると、家の仏壇から位牌を取
り出してここに安置していた。蘇我は地下水位が高いので、深く掘ることがで
きず、少し掘って後は木の柱や梁、壁を設け、外側に土を被せたものであった。
入口は、砂が詰められた 2 重の鉄の扉が設置された。終戦の年 1945 年になると
空襲警報はほぼ毎日発令されていた。しかし、そのほとんどは、米軍機が上空
120
あるいは近傍を通過するだけであった。
蘇我国民学校は高台にあった。ほぼ毎日空襲警報が発令されたが、その都度、
学校は終了し、生徒は家にかえさ帰された。いったん家に帰ると、学校に戻ら
なくてよかった。ある日、授業中に小使いさん(用務員)が、授業中の教師に
「空襲警報です」と伝え回った。その日の空襲警報は、学校責任者が把握して
いなかったのだ。ただちに授業は解散され、子どもたちは家路を急いだ。その
時、艦載機が 1 機、私の目前に現れて、機銃を掃射した。私は、戦争に行って
帰国した伯父が、
「飛行機はまっすぐ飛ぶから、機銃掃射の時は横へ 1m ぶれれ
ば助かる」と言っていたのを思い出し、横へ逃げて伏せた。バリバリと言う機
関銃の音と共に私のそばを銃弾がダッダッダッダッと砂や石を飛ばして抜けて
行った。お釜の木の蓋に機銃が当たると、重い蓋が吹っ飛んでいった。そのま
ま艦載機は去っていた。6 人ぐらいで下校していた生徒は全員無事であった。小
さな子どもは「とうちゃん、迎えに来てよ!」と泣いていた。私は、この機銃
掃射の体験は初めてであり、最後であった。とても怖かった。数機の艦載機の
編隊は、先頭機が主翼を振ると、他の飛行機が雁の編隊のように並ぶのであっ
た。
学校では、教育勅語を読んだことは記憶しているが、天皇の名前を覚えさせ
られた記憶はない。
1945 年 6 月 10 日の空襲は、朝 7 時半ごろ空襲警報になり、その後 30 分ぐら
いは何も起こらなかったので、大人はいったん外へ出て、食事のあと片づけ等
を始めた矢先、8 時ごろに爆発音が聞こえて開始された。子どもたちは防空壕に
いたから、安全であったが、大人たちは外にいたから心配であった。防空壕の
外にでようとした時、頑丈に見えた鉄の扉がなくなっていた。外は、砂埃で視
界はゼロであった。しばらく空気が晴れてくると、家の障子や襖、ガラス戸な
どは飛ばされており、天井はぶら下がっていて。恐ろしい光景であった。しか
し、炎は出なかった。そして、私は瓦礫の中で大人たちを探した。大人たちは、
全員無事だった。大人が言うには、母屋にいたが、前の貸家が爆風を和らげた
ので助かったそうである。近所の人たちも無事であった。火災も発生しなかっ
た。
空襲後、何時間たったか分からないが、兵隊、警察官に連行される受刑者
(20-30 人位)の集団が空襲の被災地に向かい駈けて行った。その後、彼らは死
体、負傷者を戸板に乗せて千葉へ搬送していた。受刑者は編みがさを被せられ、
こちらから顔が見えなかった。受刑者は二人ずつ警官と捕縄でつながれている
ようだった。受刑者が被災地救援に駆り出されたのである。
空襲後も、壊れた家に住んでいた。ところが、7 月 6 日の夜間、千葉市市街地
に焼夷弾空襲があった。私は、鉄の扉を失った防空壕から千葉市中心部の真っ
121
赤に焼けた光景を見ていた。爆撃機からヒラヒラするものが落ちて来て、途中
で明るくなり地上に落ちて行った。翌朝、市街地から逃げてくる集団があった。
ある若い女性が、母に「背中の子どもは生きていますか」と尋ねた。母は背中
の子どもの様子を見て「もう死んでいます」と答え、母は家から新しいねんね
こを持ってきて、死んだ子どもの背中から掛けてあげた。若い女性は街が焼け
た時、寒川の海に逃げたために着物はびっしょり濡れていた。その時、背中の
子どもが溺死したのであろう。女性は「ありがとうございます」と言って、子
どもを背負ったまま去っていたと言う話を母から聞いた。
父は、千葉市の 2 回にわたる空襲に危険を感じて、母と子どもたちを母の実
家の方面(そこがどこか今も分からない)に疎開させた。終戦は疎開先で迎え
た。戦後、すぐに父が家族をトラックで迎えに来た。千葉に帰りたい復員の兵
隊たちが、トラックに乗せてほしいと頼まれ、トラックに兵隊を乗せた。
戦時中の食糧難は戦後も継続した。私の家は農家であったから、都会から大
勢買い出しに来た。物々交換が買い出しの決まりであったが、中には畑に勝手
に入って、トマトやトウモロコシを盗む人もいた。米は統制されており、その
買い出しは違法とされていたので、警察の手入れにかかると没収された。私は
戦後、蘇我から千葉商業学校に通学していたとき、買い出しの集団と同じ電車
になった。本千葉駅に着く前に駅で手入れがあると言う情報が入ると、米を持
っている人は窓からよし川に投げ込んでいた。警官に没収されることを嫌った
行為である。川に投げ込んだ米をどのように回収したか知らない。
私は、戦争に反対である。戦争は全てのものを壊滅させる。戦争は人間まで
変えてしまう。
平野守男さん証言(15 歳、、工業学校 4 年生、千葉市道場北)
当時私の家族は、父が国鉄職員(千葉鉄道機関区勤務)であったので、1943
年 42 歳で軍属としてビルマ(泰緬(たいめん)鉄道建設だと思われる)へ派遣
されており、母と私 15 歳、弟 13 歳、妹 10 歳の3人弟妹、あわせて 4 人で生活
していた。私は、1942 年 4 月に県立千葉工業学校に入学した。堤信一さんとは
同じ町内の出身で機械科の同級生である。1944 年 4 月に 3 年生になった時、県
内で初めて学徒動員された。それは、私たちの学校が技術の実業校であったか
らである。動員先は、木更津の海軍軍需工場八重原工場である。そこで、有名
なゼロ式戦闘機のエンジン(栄と言う名前が付いている)の解体・修理であった。
その後、他の学校も各軍需工場に動員されている。
1945 年(昭和 20 年)7月7日千葉市は太平洋戦争によるアメリカのB29 爆
122
撃機約100 機の空襲で、自宅周辺は焼け野原となった。私の家は裏が田圃で、
家から約1キロ先の総武線の線路まで一軒の家もなく、汽車が通るのがよく見
えていた。現在、田圃は全部埋め立てられ、住宅が密集している。妹は 7 日当
日の朝、母の実家である八街に疎開して不在であった。
7 日の夜、空襲警報が発令され、庭に設置した防空壕に防空頭巾をかぶり、近
所の人 7~8 名と一緒に避難していた。壕の大きさは、広さは2畳ぐらいで、深
さ 1m に掘り、回りを板で囲み、天井は約 20cm の砂を被せてあった。時間は何
時頃か記憶にないが、突然爆弾が落ちたような音がした。風車が回るような不
気味な音である。壕から出てみると 5~6m先の家が焔に包まれ、あっと言う間
に周辺が火の海となった。母と子女達は腰をぬかし、動くことができない、私
は大声で母と子女達を励まし、早く田圃へ逃げろと叫び避難させた。たまたま
私の家には 1~2 発の焼夷弾が落ちただけだったので、隣の国鉄職員の遠山留吉
さんと一緒に消火した。庭に落ちた焼夷弾は不発のようで、ほとんど炎が上が
っていなかった。近所は燃えており、燃えながら倒れてくるものを物干し竿で
払って延焼を防いだ。後日聞いた話では、この不発焼夷弾(6角形、直径 10cm、
長さ 50cm 程度であった)から燃料を抜きとって利用した人がいたそうである。
しばらく様子を見ていると私の家と隣の家は類焼を避けられそうな気がしたの
で、頭からバケツで水をかぶり、物干し竿で燃える家がこちらに倒れないよう
必死に防火に努めた。周辺が火の海なのでバケツ水をかぶってもすぐ乾いてし
まい、10 数回水をかぶりながら防火に努め、何とか類焼をまぬがれ隣家と2軒
残った。私は長男で、父はいない、15 歳の身で隣のおじさんと消火に努め、類
焼をまぬかれ感無量だった。あたりを見ると私の家から医大まで焼け野原でし
た。明け方になって母達(どこに逃げたのかは不明であるが、1km 先の線路敷地
らしい)が無事帰ってきたが、逃げる途中火傷を負った人、焼夷弾の直撃を受
け重傷を負った人など、生き地獄をさまよっているようだったと話をしていた。
幸い、隣家と 2 軒残りましたので、近所の皆さん 30 人程家に泊め、当座を過ご
して、皆それぞれ仮小屋、防空壕で暮らした。家が残ったことに対して、母は
「お前のおかげで家が残った」と感謝してくれた。私は、父が不在の長男とし
て何とか家を守りたいと一生懸命に防火に努めた。焼け残った家に近所の人を
泊めてあげたので、ここでも感謝された。約 1 ヶ月後終戦となり、ほっとした。
この家は 1983 年に半分を建て替え、半分は 2004 年に建て替えた。
1945 年 8 月 15 日終戦となり、私たちは、学校に復帰した。母校の検見川校舎
は戦災で焼失していたので、稲毛・津田沼の仮校舎を転々としながら、1946 年
3 月に 4 年で卒業した。実際に勉強した期間は 2 年半であった。だから、卒業は
しても、実力は不足していたと思う。
父は 1947 年に帰ってきたが、左腕に火傷の生々しい傷跡があった。ビルマで
123
火事に会い、一瞬にして火に煽られ火傷したとのことであった。帰国してから
は、マラリヤで 1 ヶ月間熱を出して苦労した。2 度とこのような悲惨が起こらな
いよう、恒久の平和を願うものである。「千葉空襲の悪夢」より(2009 年 6 月、
79 歳)
大塚和子さん証言(15 歳、高等女学校 4 年生、千葉市新町)
終戦当時、私の家族構成は、両親と私の 3 人である。父は、国鉄職員であっ
た。小学校時代で戦争に関する思い出のひとつに千葉における南京陥落(注)
の提灯行列がある。また、1940 年の皇紀 2600 年(注)の記念行事や花電車を
見るために両親と東京に行ったことを覚えている。
1945 年 6 月 10 日の空襲は、朝 7 時半過ぎに、空襲警報より前に敵機が来て、
そして爆弾が投下されたように思う。B29 は蘇我空襲の後、千葉高女、千葉復
活教会、千葉病院、私の家のあったところ、鉄道機関区の順に攻撃している。
この爆弾の道は約 150m(注)でとても狭い。攻撃されたところと攻撃されなかっ
た所の差はスイッチひとつの差である。千葉女子師範の位置はそれより東へ約
150m ずれる。
千葉高女(千葉県立高等女学校)は日曜日だったが、特別の仕事のため、日
曜日も登校していた学生がいた。私は空襲当日、登校していない。二人が爆弾
で亡くなった。一人の学生は校舎の梁の下敷きで圧死し、二人目の学生は爆弾
破片で内臓に重傷を受けて亡くなった。二人の犠牲は、公務の死と扱われ勲章
が授与されている。しかし、犠牲に意味が与えられても、本当はどんなに悔し
かっただろう。
千葉病院は木造平屋のコの字型の建築であったように覚えている。中央には
築山があった。私には兵舎のような建築に見えた。子どもの頃、病院で遊ぶと
叱られたので、以来病院の中を見たことがないが、コの字型の両側は病棟であ
ったと思う。爆弾の直撃で千葉病院は全
壊した。外部からもベッドにしがみつい
ている遺体も見えた。割烹着姿の付添者
の遺体も見えた。築山も破壊されていた。
爆撃の凄さから収容者、付添者及び医療
関係職員も大勢犠牲になったと思われ
る。しばらく、遺体は病院の裏の空き地
に安置されたが、死体は重ねられていた。
死体と死体の間に布団が敷かれていた。夕方に死体はトラックで引き取られて
124
いった。桜木霊園で火葬されたと思う。
私に家は庭に家財用の小さな防空壕があり、千葉病院の裏の空き地を畑とし
て利用していたが、畑の中に大家さんと共通の人間用の防空壕があった。しか
し、爆弾の落ちた時、母と私は家の中にいて怪我はしなかったが、爆風で真っ
暗の中お互いに呼び合って手と手が触れた時、そこにあった 1 枚の座布団を二
人で頭に載せ合った。後で考えると爆弾が破裂した後なのに。でも、その時は
真剣であった。その後、母と二人で防空壕に飛び込む時、千葉病院の壁が揺れ
ているのを見た。空襲警報が解除されて、壕から出た時は全部倒れていた。私
の家の並びに井上病院の院長宅があった。院長夫人、女中、書生の 3 人が爆弾
で亡くなった。院長は外出中であったので助かった。井上病院は爆弾の道から
約 150m 東側にずれており、爆弾空襲を受けていない。
私の家の後ろから鉄道機関区(現在、新千葉 1 丁目)に至る場所でも爆弾が
落ちた。常に行っていた風呂屋は木っ端みじんになっていた。防空壕で直撃を
受けて親子そろって亡くなった人もいた。
私は、無事であったが、爆弾の恐ろしさで、その日はしばらく手が震えて救
援のおにぎりも食べられなかった。この爆弾空襲で国鉄は機関区付近で運行が
できなくなり、京成電車が振替運転したが、京成新千葉駅から国鉄本千葉駅ま
で歩く人もいた。この付近の爆撃の惨状を見物しながら歩くので、長い列がで
きた。その中から、遠方に行っていた父が飛んできた時は嬉しかった。
7 月 6 日夜、B29 による焼夷弾空襲があった。当時の千葉市は軍都であり、
千葉駅より北側には軍の施設が多くあった。夜間は、灯火管制で千葉市街も暗
黒であったはずだ。突然、軍の施設から探照灯の光が B29 機をとらえたが、逆
に米軍機の攻撃を誘う結果となり、軍の施設から焼夷弾空襲が開始された。夜
間の焼夷弾空襲は、発生する火災により街を照らすので、いっそう攻撃が容易
になる。風も出て来た。千葉高女にも火がチョロチョロついているのを見なが
ら逃げた。防空壕から出て、千葉高女の前の道を西に向かったが、この後、南
の寒川・出洲方面に逃げた人と、北の登戸方面に逃げた人で明暗を分けた。寒
川方面は焼け抜けた地域であったので、艦載機の機銃掃射が待っていた。登戸
方面は焼けていなかったので暗黒であったから機銃掃射はなかった。兵隊が軍
馬を連れて避難してきた。
私の家は、6 月 10 日に爆弾空襲を受けた地域だから米軍は焼夷弾攻撃をしな
かったのだと思う。だから、私に家の周辺は焼夷弾が落とされなかった。しか
し、街が炎上しているために火の粉が降ってきたが、井上病院に研修できてい
る医学生たちが、父を助けて水をかけてくれたので、幸運にも私たちの家は焼
けなかった。この医学生たちは朝鮮出身であったと聞く。感謝している。私は
機銃を直接受けたことはないが、家の木製茶箱に、衣類を入れていた。この茶
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箱に爆弾の破片が貫いていた。入口と出口は直径 3cm 程度の穴が開いたが、中
の衣類はぐちゃぐちゃになっていた。これが人体に貫通すればどうなるか、爆
弾の破壊力を見た。
千葉高女の家永さんは負傷して逃げられなかったが、お父さんが体を張って
守ったと聞いている。
私は、戦争がいやだ。子どもたちは、わけもわからず怖和がる事のみで、戦
争は惨めである。戦後、両親を失って引き揚げた子どもは引き取り手がない者
もいた。私は、戦後医療機関に勤務し、社会保険労務士の仕事もした。お茶も
嗜んだ。今は平和に暮らている。
(編集委員注)
南京陥落とは 1937(昭和 12)年 12 月 13 日、日本軍が日中戦争(中国侵略
戦争)の過程で南京市を攻略した日のことである。世界史上南京大虐殺事件と
して知られる。
(編集委員注)
皇紀 2600 年とは、1941 年太平洋戦争開始の前年に国威を高め、戦意を上げ
るために神国日本を国民に印象つけようとした国策である。現在は、当時から
2600 年前に日本に天皇国家が存在してなかったことは証明されている。
(編集委員注)
千葉高女は現在、千葉県立千葉女子高等学校と名称を変えて千葉市稲毛区に
立地している。千葉高女の移転後に千葉市新宿小学校が設置されている。同校
の校庭に千葉高女がここに存在した証に「松籟」碑が建立されているが、空襲
で生徒が亡くなったことは記されていない。千葉復活教会はもとの位置に再建
されている。千葉病院は戦後、廃止された。千葉病院があったところは、現在、
藤スカイパークになっている。鉄道機関区跡は JR 千葉支社敷地となり、その
一角に動輪の碑が建立されている。同碑は空襲で職員動員学徒ら 23 名が犠牲に
なったと述べている。
(編集委員注)
ゼンリン住宅地図の千葉県千葉市中央区(2008 年 2 月発行)では、爆弾が投下
された千葉高女(新宿 2 丁目)・千葉病院(新田町)・証言者宅(新町)は図版
26 の座標 C と D 目盛の間にある。この爆弾の道は約 150m でとても狭い。機
関区(新千葉 1 丁目)は上記地域の延長の図版 19 の座標 C と D 目盛の間にあ
る。その先に不発弾が撤去された登戸がある。これらの地域はおよそ直線で
150m の幅の中にある。
(括弧内住所は現在のものである)新田町・新町は図版
26 の座標 C と D 目盛の間にある。
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柴田春光さん証言(12 歳、国民学校 6 年生、旧千葉郡塩田町)
私たちは、横浜市中央区神奈川通り 9 丁目に住んでいたが、大都市への空襲
激化を想定して、1944 年 5 月に千葉市塩田に家族ぐるみ縁故疎開で引っ越した
(編集委員注:横浜大空襲は 5 月 29 日である)。千葉郡塩田町には伯母の家が
あった。家族構成は、両親、私、妹 3 人である。父は、日本鋼管に勤務してい
たが、鶴見製鉄所に徴用されていた。千葉に引っ越す前に、35 歳の父に赤紙(召
集令状)が届いた。横須賀海兵団で身体検査を受けたが、以前に肋膜炎を患っ
たことがあったので、不合格となった。
横浜の神奈川国民学校の 5 年生の頃、担任の先生の弟さんがシンガポールで
戦死した。その遺骨を私の学校の前で迎えた。遺骨の箱には本当に遺骨があっ
たかどうか知らない。この学校で、教育勅語や神武天皇以来昭和天皇までの天
皇の名前を覚えさせられた。
千葉の生浜(おいはま)国民学校に転校すると、私の言葉が標準語だから、
「生
意気だ」と難癖をつけられるいじめに会った。学校がいやになって、1 か月ぐら
い学校を休んでいると、先生が迎えに来た。いじめの原因になった標準語は地
元の言葉に会わせるようにした。千葉市の蘇我地先の埋め立て地域に日立航空
機軍需工場があったが、工場への空襲被害を最小限にする為に航空機部品を学
校の教室に保管した。当時、生浜国民学校の各学年には男子組と女子組が一つ
ずつあり、全校で 12 組あった。全ての教室に部品が保管されたので、学校で授
業はできなくなり、近くの塩田神社と満徳寺を借りて授業が続けられた。また、
学校への空襲を想定して、学校周辺に 5 か所に防空溝を掘らされた。防空溝と
は深さ約 0.5m で 10 人ぐらいが伏せる程度で、上に覆いがなかった。全生徒が
入る規模ではなかった。
1945 年 5 月のある日の午前 10 時ごろ、学校にいて空襲警報になり、生徒は
帰宅させられた。学校からの帰路、東方向(椎名崎)に小型戦闘機の 20-30 機
編隊がこちらに向かって来る姿を目撃した。間もなく、機銃掃射が始まった。
子どもたちは田んぼの灌漑水路の中に伏せた。戦闘機は子どもたちを追いかけ
ることはせず去ったので、子どもは全員無事であった。しかし、軍馬関係の馬
糧倉庫の干し草に命中した銃弾で発火した。そのために、隣接していた私たち
の家(農家の蔵)に延焼し、私たちは家を失った。パイロットは軍馬の世話を
する軍服すがたの兵隊を標的にしたのかも知れない。この攻撃では機関砲が用
いられたと思う。弾の大きさの機銃より大きかった。戦闘機は P51 と思われる。
戦闘機は 50m 位の低空を飛行してきたので、パイロットの顔が見えた。
家の火災後、塩田で別の家を借りて住むことができた。
6 月 10 日朝、7 時 54 分(福正寺墓地に空襲碑から引用)に空襲が始まった。
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塩田にある私の家は蘇我 1 丁目の爆弾被災地まで約 2km 離れていたが、防空壕
の中で地震のような強い振動を感じた。この防空壕は重い大谷石で造られてお
り、その石がぐらぐら揺れ、生き埋めになるかと思ったぐらいだ。防空壕から
出ると、蘇我 1 丁目の方面は爆発の土埃りが街を覆い尽くしていた。一部の赤
い炎が見えた。そこには、伯父さん家族が生活していつ。父は心配で、すぐ被
災地に向かったが、街道から近づけられず、線路沿いを歩いて被災地に入った。
まわりは爆弾の穴と破壊され瓦礫となった家であった。街の形が一変したので、
父も伯父の家を探すまでに時間を要した。伯父の家の場所はわかったが、家族
がいない。瓦礫の家を覆っている土砂を手探りで探すにも時間を要した。つい
に 7 人の家族の遺体が発見された。7 人とは、祖母、伯父夫婦、子ども 4 人であ
る。7 人は即死した。空襲の前に養子に出した子どもが一人いたので一家全滅に
はならなかった。現場の状況から判断すると、家族は爆風で圧死したのでなく、
土砂で生き埋めになり窒息死したと思われる。当時は医師が来て死亡原因を調
べるゆとりはなかった。聞くところによると、伯父の家には家具を入れる防空
壕と人間が入る防空壕が並んで掘られていた。家具を入れていた防空壕の底か
ら地下水が湧いてきたので、家具と人間の防空壕を変えた後に空襲にあったの
で、残念なことであった。
当日、被災地現場に行ったのは父だけだったが、私も 6 月中に伯父に家の後
片付け手伝いに行った。爆弾による大きな穴がたくさんあった。死後、何日か
経った遺体 30-40 体が消防署の敷地積まれている現場を見た。遺体は腐敗して、
すごい悪臭を放っていた。トラック(民間トラックが徴用されていた)に積み
込まれていた。桜木町の霊園に運ばれて火葬されたらしい。伯父の家の隣家の
ケヤキの枝に遺体の一部が引っ掻かっており、悪臭を放っていた。近くの家で
は、空襲後 1 カ月が経過して、地面の下から悪臭がするので掘り返すと腐敗し
た死体が出て来ることもあった。
7 月 6 日の焼夷弾空襲は、主として千葉市街地を火の海にした。この空襲で塩
田にも焼夷弾が投下され、2-3 軒が焼けた。私たちは、この時、生実(おゆみ)
池に逃げた。この日は、我が家は無事であった。
8 月 15 日、天皇の放送は、蘇我 1 丁目の家政学校のラジオに約 30 人が集ま
って聞いた。この日は、晴れてカンカン照りの暑い日だった。そのころ、私は
ラジオの空襲警報等を聞いて地域に伝える役割が与えられていた。蘇我 1 丁目
の空襲でラジオが焼失していたから、天皇の放送も私が代表して聞きに来てい
た。しかし、私はこの放送の内容を理解できなかった。戦争が終わったらしい。
大人たちは、泣いている人もいたが、多くはほっとした表情であった。私も、
おっかない戦争が終わると思うとほっとした。
戦争が終わって、蘇我 1 丁目の被災地では本格的な復旧作業が開始された。
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先ず、爆弾穴を爆弾がえぐり起こした土砂で埋め戻した。田んぼ穴も埋め戻さ
れた。その間、大きな田んぼの大きな穴は子ども遊び場となった。ザリガニを
とったり、泳いだりした。9 月には焼け残った廃材でバラックが建てられた。学
校では授業が再開された。ある日、先生が生徒に、
「尊敬する人は誰か」と尋ね
た。私は「おばあさんです」と回答した。先生は「なぜか」と質問し、私は「大
変お世話になったからです」と答えた。その先生は「尊敬する人とは、マッカ
ーサー元帥のような人だ」と説明した。
伯父の家族が、全滅したので、これを私たちが相続するなり、農家を継いだ。
だから、私は今、爆弾で破壊され全滅した伯父に家の敷地に住んでいる。
私は戦争に反対である。子どもに大きな恐怖心を与える。爆弾が落ちて来る
時に発生す「ヒュー、ヒュー、ヒュー」と言う音がとても怖い。二度と子ども
に戦争を体験させたくない。
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