「韓国併合」100 年と向きあう(4) 朝鮮の解放と分断 長谷川 了一 朝鮮全土が植民地から解放された ものになった。この時、アメリカ軍の最前線は 1945 年 8 月 9 日、ソ連は同年 2 月に結ばれ まだ沖縄にあった。そこで、米大統領トルーマ たヤルタ協定にもとづいて対日戦争に踏み切 ンは「北緯 38 度線以北の日本軍はソ連軍が武 り、ソ連軍は満州・朝鮮に向かって進撃を開始 装解除し、以南はアメリカ軍が担当すること」 した。圧倒的に優勢なソ連軍を前に、朝鮮駐留 を提案し、ソ連はこれを受諾した。こうして北 日本軍が後退を続けたが、その最中の 8 月 15 朝鮮にはソ連軍が、南朝鮮にはアメリカ軍が進 日に日本政府はポツダム宣言を受諾して連合 駐した。 国に降伏した。こうして、朝鮮全土が日本の植 米軍が朝鮮人の自主的建国を解体 民地支配から解放された。 日本が敗北を迎えた 8 月 15 日、朝鮮では早 日本降伏の報が伝わると、平壌(ピョンヤン) くもソウルで呂運亨(ヨウンヒョン)を委員長とす では午後には太極旗(大韓帝国の国旗、現在の る「朝鮮建国準備委員会」が結成された。朝鮮 大韓民国はこれを継承して国旗としている)が の人々は、自ら新しい国づくりをするため、各 あふれ、人々は万歳を叫びながらデモ行進をは 地に人民委員会や建国準備委員会支部などさ じめていた。翌 16 日、ソウル市内は朝から解 まざまな名称を付けた自主的な機関を、わずか 放を祝う群衆で沸き立った。目抜き通りには太 半月で 145 もつくった。9 月 6 日には、約千人 極旗が掲揚され、「解放万歳」「独立万歳」を の代表が参加して、ソウルで建国準備委員会の 呼号するデモ行進が各所で行われた。朝鮮総督 全国人民代表会議が開かれた。呂運亨を議長と 府は、在留日本人に対する朝鮮人の報復を恐れ したこの会議は、4 カ条の政綱と 27 項目の当 たが、危害を加えられた日本人はきわめて少な 面の施政方針を発表し、朝鮮人民共和国の樹立 かった。現在、8 月 15 日は、大韓民国では「光 を宣言した。 復節」(光復とは奪われた主権の回復の意)、 アメリカはこの朝鮮人の自主的再建の動き 朝鮮民主主義人民共和国では「解放記念日」に を公然と妨害しはじめた。9 月 7 日、太平洋ア 定められ、両国の重要な祝日となっている。 メリカ陸軍最高司令官マッカーサーは、南朝鮮 北はソ連軍、南は米軍が進駐 にアメリカ軍の軍政を敷くと宣言、軍政に違反 対日戦争のソ連軍の主戦場は満州であった するものには死刑を含む厳罰をもってのぞむ が、第一極東方面軍第 25 軍は豆満江を渡河し 旨の布告を発した。9 月 9 日、アメリカ軍は仁 て朝鮮に入り、ソ連太平洋艦隊の艦砲射撃の援 川に上陸し、南朝鮮をたちまち軍政下においた。 護のもとに、12 日には雄基、羅津の両港を占領 こうして南朝鮮では、自由と独立を主張した朝 し、清津方面に南進を続けていた。戦況はソ連 鮮人は、アメリカ軍とアメリカに追従する勢力 軍による朝鮮単独占領の勢いをうかがわせる によって残酷に迫害されはじめた。米軍政府は 12 月 19 日、突如ソウルの人民共和国政庁を急 することを決定した。だが、これを北朝鮮とソ 襲し、朝鮮人民共和国政府の解体を宣告した。 連が拒否したため、アメリカは南朝鮮だけで選 ソ連軍も自主的建国を抑圧 挙を実施する案を国連に採択させた。「単独選 一方、ソ連占領下の北朝鮮では、建国準備委 挙」が実施されれば分断が固定化されると心配 員会はやがて各道単位の人民委員会に改編さ した人々は、平壌で全朝鮮政党社会団体連席会 れ、10 月 8 日には各道人民委員会を統轄する 議を開いた。済州島はじめ、南朝鮮各地で単独 北朝鮮五道行政局の設置が決められた。この五 選挙に反対する武装蜂起が起こった。米軍政府 道行政局は、キリスト教民族主義者の曺晩植(チ は、飛行機、戦車、機関銃で武装した軍隊を動 ョマンシク)を委員長とし、 委員には同数の民族主 員し、これらの動きを弾圧しながら、48 年 5 義者と共産主義者が配され、11 月 19 日、ソ連 月 10 日、単独選挙を強行した。この紛争の間 占領軍司令部の承認を得て正式に発足した。だ に 478 人の民衆が軍と警察、右翼青年団体によ が、 12 月になると曺晩植がソ連に協力的でない って殺されている。こうして米軍が主導した との理由で行政局委員長の地位を追われ、それ 「自由選挙」によって、解放 3 周年目にあたる に代わったのは北朝鮮共産党の責任者の金日 48 年 8 月 15 日に李承晩(イスンマン)を大統領 成(キムイルソン)であった。ソ連占領軍は金日成 とする大韓民国が成立した。 を押し立てて、統一戦線による建国をめざして 北には朝鮮民主主義人民共和国が いた朝鮮人の自主的な動きを、ソ連型の一党独 同年 8 月 25 日、北朝鮮でも国会にあたる最 裁政権づくりに変質させたのである。こうして、 高人民会議の代議員を選出する選挙が実施さ 1945 年末には、南北朝鮮の自主的な建国運動 れた。南の単独選挙と違うのは、それが朝鮮全 はともに米ソ占領軍の圧力によって発展の芽 域を対象としていたことである。そして、南北 を摘み取られようとしていた。 双方の代議員 572 名で構成された最高人民会 「冷戦」の中でつくられた大韓民国 議が開催され、9 月 9 日、朝鮮民主主義人民共 1947 年、米大統領トルーマンは社会主義を 和国の建国を宣布した。首相には金日成が就任 めざしていたソ連を「封じ込める」政策を開始 した。共和国は成立時の手続き面では、南北統 した。これに対してソ連は、東欧の諸国家をソ 一政府としての体裁が整えられたが、その支配 連型の国家に変質させるために強力に介入し 権は 38 度線以南に及ぶべくもなかった。こう た。「冷戦」の開始である。45 年末から本格化 して、朝鮮半島に社会体制を異にする、激しく した朝鮮建国運動の破壊は、この米ソの「冷戦」 対立し合う 2 つの国家が生れた。 の構図のもっとも早い現れであった。したがっ こうして朝鮮は、世界的な冷戦体制と国内の て「冷戦」の進行とともに、朝鮮の分断はます 対立によって統一国家を打ち立てることがで ます解消しがたいものになっていった。 きないまま、南北に引き裂かれてしまった。 米ソ共同委員会が不調に終わると、国際連合 は人口比例による総選挙で朝鮮に政府を樹立 南北間の対立と冷戦体制の深まりは、朝鮮を 新たな戦争へと引き込んでいった。(つづく)
© Copyright 2024 Paperzz