永岩小学校閉校記念誌[PDF:9MB]

CONTENTS
あいさつ
中津市長・議会議長・教育長・耶馬溪支所長
永岩小学校校長・永岩小学校 PTA 会長
永岩小学校ふれあい活動実行委員会会長
沿革と記録
永岩の四季・航空写真・歴史年表・トピックス
卒業生名簿・歴代教職員名簿・記念写真
寄稿
「三十年の思い出」
「豊かな自然と地域と時間に感謝」
「山村留学生を受け入れて学校に活気が・・」
「古里の歴史を繋いで」
「私達の川原口」
学校あれこれ
永岩小には思い出がいっぱい
あんなことこんなこと
スポーツ少年団・地域と一緒
お礼
保護者より・あとがき
春
夏
秋
冬
●
1●
祝 創立 100 周年記念 耶馬溪町立永岩小学校 1981(S56).2.18 撮影
地域のひとも集まってくれた 2014(H26).2.20 撮影
●
2●
永岩小学校の沿革と関連年表 Think Globally, Act Locally
元号
明治
明治
本校 分校
94 年 46 年
本校
15 年
※
※
※
分校 ※
12 年
※
本校
22 年
※
和暦
4年
5年
年
1871 年
1872 年
明治
6 年 1873 年
明治 7 年 1874 年
明治
7 年 1874 年
明治
9 年 1876 年
明治 10 年 1877 年
明治 11 年 1878 年
明治 11 年 1878 年
明治 12 年 1879 年
明治 13 年 1880 年
明治 19 年 1886 年
明治
明治
明治
明治
明治
明治
明治
明治
明治
明治
明治
明治
明治
明治
明治
20 年
20 年
22 年
22 年
22 年
23 年
25 年
27 年
29 年
33 年
34 年
35 年
36 年
37 年
40 年
1887 年
1887 年
1889 年
1889 年
1889 年
1890 年
1892 年
1894 年
1896 年
1900 年
1901 年
1902 年
1903 年
1904 年
1907 年
明治 42 年 1909 年
明治 42 年 1909 年
明治 43 年 1910 年
明治 43 年 1910 年
分校 ※
34 年
※
※
本校
57 年
※
明治 44 年 1911 年
大正
1 年 1912 年
大正
3 年 1914 年
大正 6 年 1917 年
大正
6 年 1917 年
大正
7 年 1918 年
大正 10 年 1921 年
大正 11 年 1922 年
大正 11 年 1922 年
大正 12 年 1923 年
大正 12 年 1923 年
昭和
1 年 1926 年
昭和
2 年 1927 年
昭和
4 年 1929 年
昭和
6 年 1931 年
昭和 11 年 1936 年
昭和 12 年 1937 年
昭和 16 年 1941 年
昭和 16 年 1941 年
昭和 16 年 1941 年
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
20 年
22 年
22 年
22 年
23 年
25 年
26 年
26 年
28 年
28 年
29 年
29 年
29 年
32 年
32 年
34 年
35 年
35 年
35 年
36 年
36 年
37 年
39 年
39 年
月
日
廃藩置県。下毛郡は小倉県となる。文部省設置。
学制発布。区ごとに各一校設置する計画を規定。小学校の設置に注力。太陽暦採用。
2月
9月
1月
4月
10 月
3月
2月
9月
6月
7月
7月
4月
3月
4月
9月
12 月
9月
2月
7月
4月
4月
12 月
1945 年
8月
1947 年
3月
1947 年
4月
1947 年 4 月
1948 年 3 月
1950 年
6月
1951 年
1951 年
4月
1953 年
1953 年
1954 年
1954 年 3 月
1954 年
3月
1957 年 4 月
1957 年 5 月
1959 年 12 月
1960 年 1 月
1960 年
1960 年 12 月
1961 年 1 月
1961 年 2 月
1962 年 2 月
1964 年 2 月
1964 年
徴兵令発布(日本国民男子の兵役にかかわる定め)。地租改正(土地に対する私的所有権が確立、所有者に納税義務)。
川原口小学校として創立(川原口村 73 番地)。
10 日 津民小学校の前身、大野校として創設。一名頌聲校と称す(津民村大野 773 番地)。
府県廃合。小倉県廃止、下毛郡は一時福岡県となり、のち大分県に編入。
西南戦争(西郷隆盛を盟主にして起こった士族(武士)による武力反乱。徴兵を主体とした政府軍が勝利)。
郡区町村編制法(大小区制を廃止、旧来の郡町村制に戻し各村に戸長を置く)。
川原口村簡易小学校と改称。
教育令。学区制を廃止し、町村を基礎に小学校設置。
川原口村簡易小学校学務委員細川法俊辞退により川原口戸長川原口静治が公選によって選任。年給は 10 円。
小学校令(第 1 次)公布。小学校が尋常小学校(修業年限 :4 年)と高等小学校の 2 段階となる。また授業料を徴収しない
簡易科の設置を認可。
簡易科川原口小学校(川原口簡易小学校)。児童数 71 人(男 39、女 32)。12 月 9 日津民光重訓導に命ず。
大野校(頌聲校)は簡易科大野小学校(大野簡易学校)と改称、児童数 152 人(男 79、女 73)。
大日本帝国憲法公布。徴兵令(国民の兵役義務を定めた日本の法令)。
1 日 町村制度施行により、城井村・津民村・山移村・柿山村・下郷村が発足。
津民村立尋常小学校永岩分校と改称。
30 日 教育勅語発布(大日本帝国における政府の教育方針を示す文書。修身・道徳教育の根本規範と捉えられた)。
大野簡易学校、津民尋常小学校と改称。
日清戦争(〜 1895。朝鮮半島をめぐる大日本帝国と大清国の戦争)。
津民尋常小学校に併合。津民尋常小学校永岩分校と改称。
尋常小学校を 4 年に統一。4 年の義務制実施。尋常小学校の授業料を原則廃止。
津民村立永岩尋常小学校として分離独立。教育者、中畑寛治。
28 日 大分県知事、永岩尋常小学校設備猶予の件認可す。教育者、槇八郎。
永岩尋常小学校、新校舎建築。
8 日 日露戦争(〜 1905、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を主戦場として発生した戦争)。
尋常小学校を 6 年、義務教育年限を 6 年に延長。高等小旧 1・2 年を尋常小 5・6 年とし、高等小旧 3・4 年を高等小の新 1・
2 年とした。
伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺される 。
20 日 大分県知事、永岩尋常小学校校舎改築の件認可す。
10 日 大分県知事、永岩尋常小学校に農業補習科の附設の件認可す。
大逆事件(社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたとして大逆罪で検挙され、異例の速さで公判、処刑された
事件)。
31 日 津民光重訓導兼校長となる(〜大正 6 年 3 月 31 日)。
明治天皇崩御、「大正」と改元。
第一次世界大戦(〜 1918 年)。
1 日 中畑寛治訓導兼校長となる(〜大正 12 年 3 月 31 日)。
ロシア革命(史上初の社会主義国家樹立につながった武装蜂起)。各村に青年団が結成された。
シベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)。米価暴騰、米騒動おこる。
皇太子裕仁、摂政に就任。
全国水平社結成。
ソビエト社会主義共和国連邦の樹立。
7 日 津民尋常小学校と合併。津民尋常小学校永岩分校となる。尋常科 1 学年〜 4 学年。
1 日 関東大震災(日本災害史上最大級の被害。190 万人が被災、10 万 5 千人余が死亡あるいは行方不明になったとされる)。
大正天皇崩御。「昭和」と改元。
兵役法(徴兵令を全部改定。日本国民の男子に兵役の義務を課す)。
世界恐慌(ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌)。
18 日 柳条湖事件(満州事変 : 関東軍(大日本帝国陸軍)による満洲全土の占領 :15 年戦争のはじまり)。
26 日 二・二六事件 ( 陸軍皇道派青年将校が 1483 名の兵を率い“昭和維新”と称して政府中枢を襲ったクーデター未遂事件 )。
盧溝橋事件(日中戦争のはじまり)。
1 日 国民学校令公布。小学校消滅。尋常小学校は国民学校初等科、高等小学校は国民学校高等科。皇国民の基礎的鍛錬を目的
とした教育内容に改変。
1 日 津民村国民学校永岩分校と改称。
8 日 アメリカとイギリス 2 国に対して宣戦布告(真珠湾攻撃。太平洋戦争のはじまり)。
(戦争の激化とともに、学童疎開、勤労動員、学徒動員などにより、教育の正常な機能はほとんど停止)
15 日 太平洋戦争敗戦(15 年戦争の終結)。学校機能は麻痺、教科書の一部は墨で黒く塗られた。
教育基本法と学校教育法が制定・公布。
学制改革(六・三制の実施)により国民学校初等科は小学校に、高等科は新制中学校に改組。
津民村立津民小学校永岩分校と改称。5月3日 日本国憲法施行。
PTA 公民館を建設、寄贈して講堂とする。
25 日 朝鮮戦争勃発、警察予備隊(現・陸上自衛隊)発足。公務員レッドパージ。
サンフランシスコ講和条約・(旧)日米安全保障条約締結。
1 日 津民村・山移村・下郷村三か村合併により、中耶馬溪村が発足。中耶馬溪村立津民小学校永岩分校と改称。
耶馬溪村(城井村)を中耶馬溪村に編入し、同時に中耶馬溪村から耶馬溪村に改称。耶馬溪村立津民小学校永岩分校と改称。
奄美群島がアメリカから返還。
アメリカの水爆実験 ( ビキニ環礁 ) で第五福竜丸 ( 漁船 ) が被爆する。自衛隊発足。
現在の新校舎、旧職員室を建設。
31 日 深耶馬溪村を編入し、五か村合併の耶馬溪村となる。
1 日 耶馬溪村立永岩小学校として独立。
1 日 独立式典挙行。
旧職員室廃棄、校地を拡張、旧講堂を移し改築本館とする。
30 日 県指定へき地教育研究発表会く算数)を開催。
(新)日米安全保障条約発効、安保反対闘争起こる。このころベトナム戦争はじまる。
永岩小学校に簡易水道設置。
25 日 へき地集会所、新運動場をつくる。職員住宅の移転、落成式挙行。
13 日 文部省指定へき地教育発表会(算数)を開催。
永岩小学校、運動場北側拡張工事。
20 日 粉乳給食開始。
東海道新幹線・名神高速道路・首都高速道路相次ぎ開通、東京オリンピック開催。
●
3●
永岩小学校の沿革と関連年表 Think Globally, Act Locally
※
※
※
※
元号 和暦
年
昭和 40 年 1965 年
昭和 40 年 1965 年
昭和
昭和
昭和
昭和
41 年
43 年
44 年
45 年
1966 年
1968 年
1969 年
1970 年
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
45 年
46 年
46 年
47 年
47 年
47 年
48 年
48 年
50 年
50 年
51 年
1970 年
1971 年
1971 年
1972 年
1972 年
1972 年
1973 年
1973 年
1975 年
1975 年
1976 年
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
昭和
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
平成
53 年
54 年
55 年
56 年
58 年
59 年
60 年
60 年
61 年
61 年
62 年
63 年
63 年
元年
元年
元年
元年
元年
元年
2年
2年
3年
3年
3年
4年
6年
6年
7年
7年
9年
9年
10 年
11 年
12 年
12 年
13 年
13 年
14 年
14 年
15 年
15 年
16 年
17 年
17 年
17 年
18 年
18 年
19 年
20 年
21 年
21 年
23 年
23 年
24 年
25 年
25 年
25 年
26 年
26 年
26 年
1978 年
1979 年
1980 年
1981 年
1983 年
1984 年
1985 年
1985 年
1986 年
1986 年
1987 年
1988 年
1988 年
1989 年
1989 年
1989 年
1989 年
1989 年
1989 年
1990 年
1990 年
1991 年
1991 年
1991 年
1992 年
1994 年
1994 年
1995 年
1995 年
1997 年
1997 年
1998 年
1999 年
2000 年
2000 年
2001 年
2001 年
2002 年
2002 年
2003 年
2003 年
2004 年
2005 年
2005 年
2005 年
2006 年
2006 年
2007 年
2008 年
2009 年
2009 年
2011 年
2011 年
2012 年
2013 年
2013 年
2013 年
2014 年
2014 年
2014 年
月
4月
日
1 日 町制施行により耶馬溪村が耶馬溪町となる。耶馬溪町立永岩小学校と改称。
町制施行記念式挙行。耶馬溪中学校落成。県立耶馬溪高校独立。深耶馬溪中学校落成。
9 月 23 日
2月
3月
2月
8月
12 月
9月
11 月
10 月
11 月
8月
1月
4月
8月
1月
3月
6月
11 月
12 月
3月
12 月
10 月
11 月
8月
4月
5月
3月
11 月
9月
11 日
11 月
12 月
12 月
1月
3月
12 月
1月
1日
8月
8月
3月
11 日
1月
1月
3月
6月
1月
3 月 30 日
3 月 31 日
文化大革命(中国における社会主義化運動 ) はじまる。
下郷・津民小学校落成。
アポロ11号月面着陸。
日本万国博覧会(大阪万博)開催。よど号ハイジャック事件(共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空便ハイジャック
事件)。
永岩小学校校歌制定。
永岩小学校にジャングルジム、はんと棒、運梯設置。
耶鉄廃止(野路 - 守実)。
2 月永岩小学校にブランコ、すべり台設置。3 月資料室新築。
札幌オリンピック、あさま山荘事件、沖縄県復帰、中華人民共和国と国交正常化(台湾断交)。
特別養護老人ホームやすらぎ荘開設。
第1次オイルショック。インフレによる狂乱物価。(第四次中東戦争による原油価格の急騰)。
サニーホール完成。
永岩小学校に体育倉庫新築。
沖縄海洋博開催。
ロッキード事件。アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、世界的な大規模汚職事件。、「総理の犯罪」の異名で
知られる汚職事件。
運動場バックネット設置。
水道設置。
保健室、炊事場の増改築。
職員住宅、灯油保管庫新築。
教室間切り改築乃び校舎東側サッシ窓取り付け。
校舎西側サッシ窓取り付け。
図書室、玄関サッシ窓取り付け。
耶馬渓ダム竣工(着工 1979 年~)。
校舎の屋根瓦ふきかえ(約半分)。
チェルノブイリ原子力発電所事故 。
児童便所改築。
8 月水道ポンプ取り替え。9 月運動場排水工事。
青函トンネル開通。瀬戸大橋開通。リクルート事件。
昭和天皇崩御。「平成」に改元。消費税施行(3%)。
校舎の屋根瓦ふきかえく残り部分)、校舎壁ふきつけ(教室分)、炊事場及び二階サッシ窓に取り替えと壁板張り替え。
3 月講堂窓金網取り付け、4 月講堂天井板修理。
天安門事件(中国政府が民主化デモを武力鎮圧・虐殺する)。
便所外のサッシ戸取り付け、講堂屋根瓦ふきかえ、壁板塗り替え、樋かけ替え。
講堂蛍光灯取り替え( 6 基 12 本に増設)。
校舎手洗場設置(ユニット 2 台)。
ドイツ再統一(東ドイツが西ドイツに編入されて統一される)。
湾岸戦争(イラクとアメリカ率いる多国籍軍の争い)。バブル崩壊(失われた 10 年 ( 失われた 20 年 ) へ)。
3 月校舎屋根葺き替えく残り半分)、11 月講堂屋根瓦葺き替え。
ソ連崩壊 - 構成国が独立して独立国家共同体 (CIS) を形成する。
講堂ステージ横控え室増築。
耶馬溪アクアパークがオープン(日本初の公営水上スキー施設)。
パソコン(一式)設置。
地下鉄サリン事件−オウム真理教によるテロ。
教室・廊下の塗装。
消費税率引き上げ(5%)
8月、職員トイレ改修。9月、山村留学生受け入れ。
永岩小学校ふれあい活動実行委員会発足。永岩校区全戸による小学校 PTA 活動をサポートする組織が構築される。
学校側県道側溝改良。
4 月新型パソコン 1台パソコンデスク設置、10 月水道ポンプ取り替え。
貯水タンク小屋新築、床補修工事(講堂・ 1 年教室・保健室)。
1 月インターネット導入、6 月土手改修工事、ノートパソコン 1 台・スキャナー設置。
アメリカ同時多発テロ事件−航空機テロ。対テロ戦争のはじまり(2011 年 5 月ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害確認)。
ゆとり教育の実質的な開始 。完全週 5 日制の導入。2002 FIFA ワールドカップ 日韓開催。
ステンレス低鉄棒設置。
イラク戦争−イラクとアメリカ率いる多国籍軍の争い。自衛隊イラク派遣 。
インターネット光フアイバー導入。
エアコン設置く図書室・保健室・パソコン室)、ぶらんこ設置、江藤湖藤太文庫寄贈。
防犯べル設置。
耶馬溪町が中津市に編入(下毛郡 4 町村と中津市の合併)。中津市立永岩小学校に校名変更。
LAN 配線工事。
ライブドア・ショック。株式市場の暴落。
2 月家庭科室床張り替え、3 月すペり台設置。8 月溜めます工事、サッシ引き戸設置、トイレ引き戸設置。
2 月、焼却炉撤去。9 月、児童用トイレ簡易水洗設置。
運動場山側観覧席改修工事。
体育倉庫屋根修理(スレート)。
教員免許更新制の導入。
東日本大震災。大地震により巨大津波が発生して観測史上最大の被害。福島第一原子力発電所事故 ( メルトダウン ) が発生。
学習指導要領の改定にともない脱ゆとり教育の導入。総授業時数、教科書のページ数の増加。
城の自由研究コンテスト「長岩城の研究」で全国二位の日本城郭協会賞受賞(東京で受賞式)。
城の自由研究コンテスト「長岩城の研究」で全国一位の文部科学大臣賞受賞(東京で受賞式)。
永岩小学校閉校の意思表示を保護者会で決定。
ふれあい活動実行委員会を拡大して永岩の今後を考える会を新たに発足。閉校後の校舎活用に向けた準備を始める。
城の自由研究コンテスト「長岩城の研究」で史上初の審査員特別賞受賞(東京で受賞式)。
閉校式典挙行。
永岩小学校閉校。
●
4●
トピックス!長岩城全国表彰(レポーター江口校長)
日本城郭協会より3度の受賞、
全校生徒で東京の表彰式に行き
ました。
平成 24 年1月 15 日第 10 回
の表彰式では「日本城郭協会賞」
を受賞。日本2位に輝きました。
その翌年平成 25 年1月 13 日
第 11 回小学生中学生「城の自由
研究コンテスト」で「文部科学大
臣賞」を受賞。日本第1位となる
ことができ永岩小学校に輝かし
い歴史を刻むことができました。
その翌年も応募を重ね、平成
26 年1月 13 日第 12 回の「城
の自由研究コンテスト」でも受
賞することができました。
新たな賞である「審査員特別賞」
という賞を受賞することができ
ました。この年は保護者も地域の
方も教職員と一緒に授賞式に出
席しました。また、タイムリーな
事に大河ドラマ「軍師官兵衛」が
NHKで放映すると決まった年
に文部科学大臣賞を取るという
ことも何か歴史の因縁を感ぜざ
るを得ません。この作品制作の助
言にあたっていただいた板迫高
徳様には厚く御礼申し上げます。
●
5●
ご 挨 拶
貝 正 勝
中津市長 新
中 津 市 立 永 岩 小 学 校 の 閉 校 に あ た り、
一言ご挨拶を申し上げます。
本 校 は、 明 治 七 年 の 創 立 以 来、 一 四 〇
年 の 永 き に わ た り、 教 育 施 設 と し て の 役
割 に と ど ま ら ず、 地 域 の 文 化 や コ ミ ュ ニ
ティの拠点としてその歴史を積み重ねて
ま い り ま し た。 ま た、 本 校 は 校 歌 の 中 で
「山のふるさと」・「虹のふるさと」と唄わ
れ る よ う に、 豊 か な 自 然 環 境 の 下 で、 思
い や り に 満 ち た、 た く ま し い 子 ど も た ち
あ っ た こ と を 踏 ま え、 地 域 の 活 性 化 と 振
教 育・ 文 化・ 生 活 の 中 核 的 な 公 共 施 設 で
を は じ め と す る 各 賞 を 受 賞 す る な ど、 地
おいて、最高賞である「文部科学大臣賞」
ん、 橘 克 典 さ ん、 村 上 歓 人 さ ん に は、 永
本校最後の卒業生となられた枝光優作さ
永 岩 小 学 校 は、 三 月 を も っ て、 そ の 永
い 歴 史 に 幕 を 閉 じ る こ と に な り ま す が、
様方と一緒に考えてまいります。 興 発 展 に つ な が る 有 効 活 用 を、 地 域 の 皆
を育んできました。
最 近 で は、 地 域 の シ ン ボ ル で あ る 長 岩
城 を テ ー マ に、 公 益 財 団 法 人 日 本 城 郭 協
域への理解や深い愛着を育む教育活動の
岩小学校での素晴らしい思い出と誇りを
会 主 催 の「 城 の 自 由 研 究 コ ン テ ス ト 」 に
実 践 に お い て、 輝 か し い 成 果 を 挙 げ ら れ
胸 に 新 た な 中 学 校 生 活 を、 本 校 最 後 の 在
ま た、 地 域 全 体 で P T A 会 員 に な る な
ど、 こ れ ま で 物 心 両 面 に わ た り 本 校 を 支
く感謝申し上げる次第でございます。
育 ん で く だ さ っ た こ と に よ る も の と、 深
お 一 人 お ひ と り が 温 か い 眼 差 し を 向 け、
よ り、 子 ど も た ち に 対 し て、 地 域 の 皆 様
にあたってこられた先生方の熱意はもと
す と と も に、 引 き 続 き、 地 域 の 子 ど も た
た地域の方々に衷心より感謝申し上げま
結 び に な り ま す が、 こ れ ま で ご 尽 力 を
賜りました校長先生及び教職員の皆様並
いと思います。
習や太鼓活動などに頑張っていただきた
を 自 信 と 誇 り に し て、 新 し い 学 校 で の 学
むらかみあつと
えてくださった地域の皆様に取りまして
ちを温かく育んでいただきますことをお
たちばなとしひで
えだみつゆうさく
ま し た。 こ う し た、 学 年 を 超 え、 全 校児
校生である橘利英さんと村上温人さんに
むらかみかんと
童が一丸となった素晴らしい取り組みは、
は、 永 岩 小 学 校 で 学 ん だ 素 晴 ら し い 経 験
たちばなかつのり
永 岩 小 学 校 な ら で は の も の で あ り、 指 導
も、 慣 れ 親 し ん だ 永 岩 小 学 校 が 閉 校 と な
願い申し上げ、私のご挨拶といたします。
びに永い間、永岩小学校を支えてくださっ
り ま す こ と は、 感 慨 も ひ と し お の こ と と
拝 察 い た し ま す。 今 後 は、 本 校 が 地 域 の
6●
●
閉校に寄せて
池 田 勝 一
中津市議会議長
中 津 市 立 永 岩 小 学 校 の 閉 校 に 当 た り、
市議会を代表して一言ご挨拶申し上げま
す。
本 校 は、 明 治 七 年 川 原 口 小 学 校 と し て
創 立 さ れ て 以 来、 時 代 が 移 り 変 わ る 中 幾
多 の 校 名 変 更 等 を 繰 り 返 し、 昭 和 三 十 二
年 に 独 立、 昭 和 四 十 年 に 耶 馬 溪 町 立 永 岩
小 学 校 と 改 名 し、 平 成 十 七 年 の 合 併 に よ
り、 中 津 市 立 永 岩 小 学 校 に 改 称 さ れ 現 在
に至っております。
た本校に対する惜別の情はひとしおのこ
豊 か な 自 然 の 中、 地 域 の 皆 様 の ご 支 援 に
る「文部科学大臣賞」の栄冠に輝くなど、
城の自由研究コンテスト」で第一位とな
う か 皆 様 方 に お か れ ま し て は、 本 校 の 勇
生 き 続 け る も の と 確 信 し て お り ま す。 ど
はじめ多くの関係者の方々の間で脈々と
し か し な が ら、 一 四 〇 年 の 永 き に わ た
り 築 か れ て き た 本 校 の 伝 統 は、 皆 様 方 を
とと思います。
よ り、 色 々 な 活 動 を 通 じ 人 間 形 成 の 確 立
姿 を 深 く 心 に 刻 ま れ る と と も に、 本 校 の
平成二十四年度には、地元「長岩城址」
を題材にして、「第十一回小学生・中学生
に 向 け た 取 り 組 み を 実 施 し、 耶 馬 溪 地 域
伝統と精神を永く後世へ伝えていただき
たいと思います。
の小学校教育の充実に努めて参りました。
ま た、 本 校 は 歴 代 の 校 長 先 生 を は じ め
教職員並びに卒業生の皆さんのたゆみな
係各位の物心両面にわたる暖かいご支援
胸に、希望に満ちた新しい道を一歩一歩、
そして本校の卒業生であるという誇りを
ま た、 本 校 最 後 の 卒 業 生 と な ら れ た 皆
さ ん に は、 本 校 で の 貴 重 な 経 験 を 糧 に、
に よ り、 多 く の 卒 業 生 を 送 り 出 し て き ま
力強く進まれることを心から期待してお
い ご 努 力 と、 P T A や 地 域 の 方 々 な ど 関
した。
時 代 の 趨 勢 と は い え、 楽 し い 小 学 生 時 代
た れ ま す こ と は 誠 に 残 念 で な り ま せ ん。
した関係者の方々に対し深く敬意を表し
る に あ た り、 格 段 の ご 尽 力 を い た だ き ま
終 わ り に な り ま す が、 校 長 先 生 や 教 職
員、 P T A 会 長 を は じ め、 有 終 の 美 を 飾
ります。
を 過 ご し た 思 い 出 深 い 母 校 の 閉 校 に、 同
まして、私のご挨拶と致します。
こ の よ う な 中、 平 成 二 十 六 年 三 月 末 を
持って本校の輝かしい歴史に終止符が打
窓生の方々の胸中はいかばかりかと拝察
す る 次 第 で あ り ま す。 ま た、 地 域 の 方 々
に お か れ ま し て も、 永 年 慣 れ 親 し ん で き
7●
●
閉校に寄せて
廣 畑 功
教育長
中 津 市 立 永 岩 小 学 校 の 閉 校 に あ た り、
一言ご挨拶を申し上げます。
中 津 の 偉 人、 福 沢 諭 吉 先 生 の 影 響 が み
ら れ る 学 制 が 明 治 五 年 に 発 布 さ れ、 そ の
二年後の明治七年には川原口小学校とし
て 創 立、 長 い 歴 史 の 中、 校 名 を 改 称 し な
が ら 現 在 の 永 岩 小 学 校 に 至 り ま し た。 当
初の教育の環境は現在とは全く異なる状
況 で あ っ た と 想 像 さ れ ま す が、 こ れ ま で
数 多 く の 卒 業 生 を 送 り 出 し、 皆 さ ん が 各
地で活躍されています。
耶 馬 溪 地 域 は、 山 間 の 郷 と し て 開 け た
農 山 村 で あ り、 そ の 歴 史 は 古 く、 学 校 南
方 向 の 山 頂 に は、 日 本 有 数 の 山 城 で あ っ
た 長 岩 城 址 が 今 も 残 り、 山 裾 を 流 れ る モ
チノキ川流域にはサンショウウオも生息
し て い る と 聞 い て い ま す。 中 で も、 長 岩
城 は、 中 世 山 城 と し て は 大 規 模 で、 そ の
構 造 が 比 較 的 良 好 に 現 存 し、 鉄 砲 挟 間 の
あ る 砲 座 や、 他 に 類 例 が な い 長 大 な 石 築
地は貴重な遺構です。
近年、急速に過疎、少子高齢化が進む中、
耶 馬 溪 地 域 の 小 学 校 に お い て も、 児 童 数
減少傾向にあり学校運営が厳しくなって
き ま し た。 そ の よ う な 中 で、 保 護 者、 地
域 住 民 の 方 々 と 話 し 合 い を 繰 り 返 し、 平
成二十五年十二月の中津市議会において
永岩小学校の閉校が決定されました。
こ の 度、 永 岩 小 学 校 を 閉 校 し、 残 る 児
童の方は津民小学校に転入するようにな
り ま し た が、 永 岩 地 区 に は、 地 域 世 帯 全
戸がPTA会員となって学校を支える体
制 を 作 る な ど、 地 域 全 体 で 子 ど も を 育 て
る土壌があります。そのような環境の中、
永岩小学校の子どもたちは長岩城址につ
いての研究で「城の自由研究コンテスト」
で「 日 本 城 郭 協 会 賞 」「 文 部 科 学 大 臣 賞 」
「審査員特別賞」と三年連続すばらしい
賞を受賞し有終の美を飾りました。また、
中高生たちは神楽の練習に励み伝統文化
を受け継ごうとしています。このように、
地 域 を 愛 し、 地 域 を 大 切 に す る 子 ど も た
ち が 育 っ て い ま す。 こ れ か ら も 地 域 の 子
どもを共にたくましく育てていきたいと
思います。
教 育 は 国 家、 社 会 の 礎 を な す も の で あ
り、 知・ 徳・ 体 の 調 和 を 図 り な が ら、 創
造 的 で 個 性 豊 か な 人 間 性 を 持 ち、 人 格 の
完 成・ 個 人 の 完 成 を 目 指 し、 自 立 し た 人
間 に 育 て る 役 割 と、 国 家 の 構 成 員 と し て
の 人 間 を 育 て る 役 割 が あ り ま す。 中 津 市
としても人権尊重と平和社会実現の願い
を基調にし、「一人ひとりを大切にする教
育」「自立した社会の一員として生きる基
礎を育てる教育」の確立に向けた取り組
みが大切であると思っています。
学 校 は 地 域 の 中 心 に あ り ま し た が、 今
後は創造性と活力あふれる中核施設とし
て新たな発展を皆さんとの議論の中で導
きだしていただきたいと思います。
地 域 の 方 々 が 手 を 取 り 合 っ て、 伝 統 や
地 域 文 化 を 大 切 に し、 心 豊 か な 子 ど も を
育 て、 新 し い 永 岩 地 区 の 歴 史 を 築 い て い
かれることを願ってご挨拶と致します。
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●
閉校に寄せて
向 博 信
中津市耶馬溪支所長
永 岩 小 学 校 の 閉 校 に あ た り、 一 言 ご 挨
拶を申し上げます。
永 岩 小 学 校 は、 明 治 七 年 に 川 原 口 小 学
校 と し て 開 校 し て 以 来、 一 四 〇 年 の 永 い
歴 史 を 刻 み、 今 日 ま で に 数 多 く の 卒 業 生
を送り出してきました。
し か し、 少 子 高 齢 化、 過 疎 化 に 歯 止 め
を か け る こ と が で き ず、 や む な く 閉 校 と
な り、 大 変 寂 し く な り ま す が、 こ れ ま で
ご 尽 力 を 賜 り ま し た 教 職 員 の 方 々、 保 護
者 や 地 域 の 方 々 に、 厚 く 御 礼 申 し 上 げ ま
す。
昨 今 で は、「 城 の 自 由 研 究 コ ン テ ス ト 」
に お い て、「 日 本 城 郭 協 会 賞 」「 文 部 科 学
大臣賞」「審査員特別賞」と、三年連続し
て 栄 え あ る 賞 を 受 賞 し ま し た。 子 ど も た
ち の 熱 心 さ は も と よ り、 ご 指 導 い た だ い
た先生方や、子どもたちと積極的に関わっ
てくださった地域の皆様のご協力の賜物
で あ り、 子 ど も た ち の 生 涯 忘 れ る こ と の
できない思い出になったことと思います。 又、 運 動 会 な ど、 永 岩 小 学 校 を 中 心 と
し た 行 事 が 開 催 さ れ る 時 は、 社 会 人 と な
り校区外に住んでいる卒業生も帰ってき
て 参 加 さ れ て お り、 そ の 姿 に 地 域 の 絆 と
郷土愛を深く感じたところです。
「永岩の今後を考える会」の皆様からい
ただいております校舎活用の提案にもあ
り ま す が、 今 後 も こ の 校 舎 を、 地 域 住 民
の 親 睦 の 場、 文 化 交 流 の 場 と し て の 活 用
方法を地域の皆様方と私達行政が一緒に
考 え、 取 り 組 ん で ま い り た い と 考 え て い
ます。
最 後 に、 今 回 の 閉 校 に あ た り、 ご 理 解
とご協力を賜りました関係各位に深く感
謝 申 し 上 げ、 永 岩 地 区 の 皆 様 の ご 健 康 と
ご 多 幸、 そ し て 永 岩 地 区 の 伝 統・ 文 化 の
益 々 の 発 展 を 祈 念 し、 ご 挨 拶 と い た し ま
す。
9●
●
永岩小学校
閉校によせて
江 口 博 孝
永岩小学校 校長
最後の三年間をこの永岩小学校で過ご
せたことは私にとってかけがえのない三
年 間 に な り ま し た。 純 真 な 児 童、 暖 か い
地 域 や 保 護 者 の 皆 さ ん、 大 変 心 が 癒 さ れ
ま し た。 そ ん な 三 年 間 で し た の で 自 分 の
校長としての役目をどれだけ果たせたの
か、 や る べ き こ と は や れ た の か、 自 問 し
ても満足のいく答えはないように思って
い ま す。 た だ、 精 一 杯 や っ て き ま し た。
特に最後の三年目はわからないままに全
国へき地教育研究連盟の九州ブロック長
を 引 き 受 け、 東 京 や 名 古 屋 に 計 五 回 も 出
張 に 行 き ま し た。 遥 か 彼 方 の 地 で 壇 上 に
登り挨拶をしたことも今ではよい思い出
と な っ て い ま す。 よ く 調 べ る と 永 岩 小 学
校 は 昭 和 三 十 五 年、 県 の へ き 地 教 育 研 究
発 表 を 実 施 し、 翌 年 は 全 国 へ き 地 教 育 研
究 発 表 会 会 場 と な っ て い ま す。 不 思 議 な
縁を感ぜざるを得ません。
ま た、 長 岩 城 の 研 究 で 三 年 連 続 賞 を い
ただきに東京に全校児童と一緒に行った
ことは忘れられない思い出となりました。
長岩城については耶馬溪中学校の教頭を
しているときに初めて知りましたが今ほ
ど 深 く 知 り ま せ ん で し た。 永 岩 小 学 校 に
来 て 初 め て 深 く 知 る よ う に な り ま し た。
本当に地域の宝であり、日本の宝だと思っ
て い ま す。 折 し も N H K の 大 河 ド ラ マ に
黒田官兵衛が登場し長岩城も脚光を浴び
ることとなり登山者も増えるのではない
かと思っています。
さ て、 永 岩 小 学 校 の 歴 史 は 明 治 七 年
(一八七四年)二月に川原口小学校とし
て 開 校 し、 そ の 十 四 年 後 の 明 治 二 十 一 年
(一八八八年)分校になっています。その
後 よ う や く 昭 和 三 十 二 年( 一 九 五 七 年 )
に多くの皆様のご声援と地域の長年の悲
願だった本校として津民小学校から分
離 独 立 を 勝 ち 取 っ た 歴 史 が あ り ま す。 そ
の間のご苦労は長く勤務されました土居
角 子 先 生 か ら 伺 い ま し た。 土 居 先 生 は 昭
和二十二年~昭和五十二年まで教職生活
三十一年間のうちの実に二十七年間を永
岩 小 学 校 で 勤 務 さ れ ま し た。 本 当 に 思 い
が沢山積もっているのではないか思って
い ま す。 ま た、 学 校 用 務 員 と し て 勤 め た
宮野トヨミ様は平成十七年まで三十二年
間用務員として学校の美化や補助員とし
て努められ多くのことを知り尽くしてい
る 一 人 で す。 そ の よ う な 多 く の 方 の 思 い
出がいっぱい積もった永岩小学校が無く
なるのは大変寂しい限りですが少子高齢
化の現実になすすべもなくやむなく閉校
に な り ま す。 永 岩 小 学 校 で 過 ご さ れ た 多
く の 教 職 員 や 児 童、 保 護 者、 地 域 の 方 に
お礼を申し上げ挨拶に代えさせていただ
きます。(えぐちひろたか)
10 ●
●
すべてに感謝
枝 光 竜 一
会、 わ く わ く 大 会、 色 々 な 行 事 を 地 域 の
皆 さ ん と 協 力 し て 行 え た こ と、 何 時 も 暖
か い お 言 葉 を か け て 頂 い た こ と は、 大 変
嬉 し く、 こ の 絆 は 今 後 も 大 切 に し て い き
た い と 思 っ て い ま す、 ま た、 こ の 永 岩 小
学校に着任された校長先生諸先生方には、
これまで永岩の子どもたちに教育とご指
導 を 頂 き ま し た こ と、 深 く 感 謝 申 し 上 げ
ま す。 最 後 に、 こ の 地 域 に 輝 き を 放 っ て
き た 永 岩 小 学 校、 長 い 間 お 疲 れ さ ま で し
た。(えだみつりゅういち)
11 ●
●
永岩小学校PTA会長
こ の た び、 永 岩 小 学 校 は 創 立 一 四 〇 年
という長い歴史に幕を降ろす事となりま
し た。 こ れ ま で、 本 校 の 活 動 等 に お き ま
し て、 皆 様 方 に は 格 別 な ご 配 慮 を 賜 り ま
し た こ と を 深 く 感 謝 申 し 上 げ ま す。 昨 年
の 春、 閉 校 を 決 意 し て か ら、 今 年 度 で 私
の息子も卒業し小学校生活も終わるとい
う こ と で、 未 熟 な が ら、 P T A 会 長 を 努
め さ せ て 頂 き ま し た. こ の よ う な 大 役 を
無 事 果 た す こ と が 出 来 た の も、 皆 様 の お
力 添 え が あ っ て の こ と だ と 思 い ま す。 心
からお礼を申し上げます。
永 岩 小 学 校 と 言 え ば、 趣 の あ る 木 造 校
舎、周りを山々に囲まれ綺麗な川が流れ、
見える物すべてが心の奥に何か問いかけ
て く る 様 な 素 晴 ら し い 環 境 に あ り、 長 い
間地域の皆さんの象徴になっていました。
この小学校を閉校しなければいけないの
は、 地 域 の 皆 さ ん を 含 め、 卒 業 し て 行 か
れた方々にとても残念なことと思われま
す。
私 に と っ て、 こ の 永 岩 小 学 校 の 思 い 出
と は、 や は り 記 億 に 新 し い 出 来 事 で 言 う
と、 子 ど も た ち が「 城 の 自 由 研 究 コ ン テ
ス ト 」 に 応 募 し、 三 年 連 続、 優 秀 な 成 績
で 入 賞 と な り、 う ち 一 回 は 文 部 科 学 大 臣
賞 と い う 輝 か し い 賞 を 頂 い た こ と で す。
子 ど も た ち が、 三 回 も 東 京 へ 授 賞 式 に 出
席 す る こ と が 出 来 た の は、 誇 り に 思 い ま
す。 他 の 学 校 で は、 体 験 出 来 な い 様 な こ
と、永岩小学校だからこそ出来た経験は、
子 ど も た ち に と っ て も、 大 き な 自 信 に 繋
が る 事 と 思 い ま す。 こ の よ う な 経 験 を さ
せ て 頂 い た の も、 先 生 方、 そ し て 長 岩 城
址保存会の皆様や、地域の皆様のご支援、
ご 協 力 が あ っ た か ら こ そ な の で、 子 ど も
た ち に は、 感 謝 の 気 持 ち を 忘 れ ず に こ れ
か ら も、 い ろ い ろ な 場 面 で 人 と の 絆 を 大
切にしてほしいと思っています。
私 は、 十 数 年 前 に 妻 の 実 家 に 移 り 住
む 事 に な っ て か ら、 子 ど も が 誕 生 し、
成長とともに保護者の皆さんや地域の
皆 さ ん と 交 流 の 場 が 増 え、 仲 良 く さ せ
て 頂 い た こ と と、 運 動 会、 ふ れ あ い 集
長岩城の測量
地域の中心
みんなの集まる場所
廣 章 一
中、 永 岩 は 四 年 生、 五 年 生、 六 年 生 の 四
名 の チ ー ム で 出 場 し、 そ の チ ー ム が 一 着
でゴールした時の感動を今でも忘れられ
ません。
永 岩 小 学 校 は 地 域 の 中 心 で し た の で、
学 校 が な く な る こ と は 卒 業 生、 ま た 地 域
の皆さんもさびしいこととは思いますが、
時代の流れの中しかたありません。
これからもこの校舎を中心に地域の皆
さんが集う場所であればいいと思います。
(すえひろしょういち)
12 ●
●
ふれあい活動実行委員会会長 末
明 治 七 年、 川 原 口 小 学 校 と し て 開 校 以
来 今 日 ま で、 地 域 の 中 心 的 な 存 在 で あ っ
た 永 岩 小 学 校 も、 子 ど も の 減 少 と い う 時
代 の 流 れ の 中 で、 一 四 〇 年 の 歴 史 に 幕 を
おろします。
永 岩 小 学 校 は、 県 内 で も め ず ら し い 木
造 校 舎 で、 廊 下 は 長 年 の ワ ッ ク ス が け で
テ カ テ カ に ひ か り、 建 具 は 木 の 建 具 で、
た い へ ん 温 み の あ る 校 舎 で、 屋 根 は 瓦 葺
き、 私 も 四 期 の 工 事 に 携 わ ら せ て い た だ
きました、思い入れの深い校舎です。
私は昭和四十年に入学し四十六年に卒
業 し ま し た。 当 時 は 校 区 の ほ と ん ど の 家
庭 に 子 ど も が い ま し た の で、 私 の 同 級 生
も 七 名、 全 校 生 徒 も 五 十 名 程 い ま し た。
道 路 も で こ ぼ こ 道 で、 車 も 今 み た い に 普
及 し て い な か っ た の で、 中 津 市 内 に 行 く
こ と な く、 毎 日 の よ う に 山 や 田 ん ぼ を か
け ま わ り、 夏 に な る と 川 に 泳 ぎ に い き 魚
取 り を し た り、 冬 に な る と 雪 す べ り を し
た り、 永 岩 の 自 然 を 十 分 楽 し ん だ 思 い 出
が あ り ま す。 時 代 は か わ り、 私 の 一 番 上
の 子 が こ の 小 学 校 に 入 学 し、 四 人 の 子 が
卒 業 す る ま で の 十 六 年 間、 P T A 会 員 と
し て か か わ っ て き ま し た。 私 の 時 と ち が
い 毎 年 一 〇 名 前 後 の 全 校 児 童 数 で、 町 内
で も 一 番 の 小 規 模 校 で し た が、 地 域 の 皆
さんの物心両面にわたる協力のおかげを
もち、学校行事が盛大にできました。
小 規 模 校 で し た の で、 ソ フ ト ボ ー ル、
サッカーの団体競技に出場できませんで
したが、卓球大会、水泳大会には出場し、
優 秀 な 成 績 を 残 し て き ま し た。 中 で も 水
泳 大 会 の リ レ ー で、 他 校 が 六 年 生 だ け の
こんなひとたちもあつまってくる !! こどもと一緒に応援合戦!
三十年の思い出
二 軒 の 家 庭 が 留 学 を 受 け 入 れ ま し た。 留
学を受け入れるのは大変だったと思いま
す が、 学 校 を 残 し た い 一 心 で 受 け 入 れ た
二軒の家庭には頭が下がります。
学校がなくなることはさびしいけれど、
一緒に勤めた校長先生をはじめ先生方や
子 ど も た ち、 保 護 者 の 皆 さ ん、 学 校 を 支
えて頂いた地域の皆さんに感謝の気持ち
で 一 杯 で す。 仕 事 は 下 働 き で し た が、 私
のような者の思い出を載せるというので
書かせて頂きました。(みやのとよみ:永
岩小学校用務員として三十二年間勤務)
13 ●
●
宮 野 トヨミ
宮野のおばちゃんを一輪車にのせてゴ~ル!
!
紹 介 さ れ ま し た。 運 動 会 は 稲 刈 り の 日 を
延 ば し て で も、 子 ど も が い な く て も、 学
校の運動会に地域のみんなが参加しまし
た。 児 童 が 減 り、 保 護 者 が 減 り、 学 校 の
いろんな行事が保護者だけでは難しくな
りつつあった時、「ふれあい活動実行委員
会 」 を 立 ち 上 げ ま し た。 そ れ 以 来、 ふ れ
あい活動実行委員会は永岩小学校にはな
く て は な ら な い 存 在 に な り、 一 年 を 通 じ
て小学校の行事を後押ししてくれました。
ま た、 児 童 が 減 っ て い く 中 で、 統 合 の 話
が 出 る よ う に な り ま し た。 学 校 を な く さ
ないために思いついたのが山村留学です。
2005年もたった一人の入学式。この前の年は入学生がなかったのでみんなとても歓びました。
元用務員
一年だけ勤め
ようと思って
勤め始めたのに
三十年余り勤め
ることになり
ま し た。 昭 和
四十九年に勤め
始 め、 最 初 は P
T A 雇 い で し た。 五 十 六 年 か ら 正 式 に 町
か ら 雇 わ れ ま し た。 仕 え た 校 長 先 生、 教
頭 先 生、 亡 く な っ た 先 生 も い ま す が、 先
生 方 皆 さ ん に よ く し て い た だ き、 三 十 年
も 続 け ら れ ま し た。 児 童 数 は 少 な か っ た
が、 子 ど も た ち は 素 直 で い い 子 ば か り、
P T A の 皆 さ ん も 学 校 に 協 力 的 で、 慌 て
ん 坊 で お っ ち ょ こ ち ょ い の 私 で す が、 皆
さんによくして頂いたので勤めることが
できました。
三 十 年 の 思 い 出 は 沢 山 あ り ま す が、 入
学 式 や 卒 業 式 は、 来 賓、 保 護 者 だ け で な
く 地 域 の 人 が 沢 山 来 る 入 学 式、 卒 業 式 で
し た。 地 域 み ん な で 祝 福 す る 入 学 式、 卒
業 式 で し た。 一 人 だ け の 入 学 式、 一 人 だ
け の 卒 業 式 の 時 も あ り、 新 聞 や テ レ ビ で
児童と一緒に 豊かな自然と
地域と時間に感謝
卒業生 津 留 美 邦
在校時、とても大きく広く感
じた永岩小学校。這い回った天
井 裏・ 床 下・ 石 垣・ 倉 庫 の 中。
殆ど変わらずに残されている一
つひとつを今見ると懐かしい気
持ちでいっぱいになります。
介入せず、遠くから見守ってく
れ て い る よ う で し た。 だ か ら
少々危険な遊びをしていても余
程のことをしない限り、あまり
怒られることはありませんでし
た。時々私はこの地で培って頂
いた「涵養力」のおかげで「自
分が自分らしくなれた」と感じ
る時があります。
それは、どの子にも声かけを
してくれ、一人ひとりに分け隔
てなく関わってくれた地域の皆
やかな時間の流れに満ちた地域
ばせ、育んでくれた永岩小学校
ちに多くのことを気付かせ、学
さんのおかげであります。私た
があったからだと考えます。
に心から感謝申しあげます。
(つ
るよしくに 真坂小学校教頭)
14 ●
●
私の同級生は十二名で、当時
撮った記念写真の一人ひとりの
顔は明るく、生き生きと輝いて
います。それは豊かな自然と穏
かくれんぼに鬼ごっこ、ソフ
トボール、木の上に家を作った
り、魚つりをしたり、鳥をとる
罠をかけたり、学年に関係なく
一緒に遊んだものです。そのよ
うな場の中心に永岩小学校がい
つもあり、そこには心から楽し
める信頼感と連帯感がありまし
た。
当時の大人はあまり子どもに
永岩小学校正面玄関
古里の歴史を繋いで
居 角 子
ありました。
町から転任してこられた先生
方も教育に対する思いは熱心で、
一丸となって子どもたちの幸せ
のために尽くして下さいました。
中 で も『 へ き 地 』 教 育 の 充 実 に
向けた研究では大きな成果を上
げ、 県 の 指 定 校 に な り ま し た。
ち ょ う ど そ の 時、 中 村 集 落 の 故
田中又治さんの兄さんである稲
浦龍一先生が県の教育長をな
さ っ て お り、 先 生 は『 永 岩 を 独
立校に』と大変お骨折り下さり、
何度も学校視察を繰り返し、やっ
と審査に合格して、晴れて『本校』
永 岩 小 学 校 と な り ま し た。 稲 浦
先生には大変なご苦労をおかけ
したことをはっきり覚えており
ます。
昭和三十二年独立すると同時
に、 校 長・ 教 頭 が 着 任 と な り、
大きく大きく夢が開かれました。
へき地教育の充実がなされる中、
文 部 省 の 研 究 指 定 を 受 け、 複 式
授業の充実や教科書作成に係わ
り、 三 年 間 は 夢 中 で 過 ご し て き
ま し た。 お か げ さ ま で 遠 く は 新
潟まで研究会に出席させて頂き
ま し た。 そ ん な 中、 永 岩 校 の 子
ど も た ち は 着 実 に 力 を つ け、 の
びのびと育ってくれました。
現在の子どもたちも大変優秀
で、 長 岩 城 の 研 究 を 続 け 全 国 表
彰 を 受 け、 東 京 ま で 発 表 に 行 き
ま し た。 誠 に 輝 か し い こ と で あ
ります。
し か し、 近 年 の 過 疎 化 と と も
に、 と う と う 新 入 児 も 居 な く な
り、 こ の 度 閉 校 と な る こ と は 本
当 に 寂 し い 限 り で す。 今 ま で 地
域 を 盛 り 上 げ、 学 校 の 発 展 の た
めにご尽力してこられた関係者、
卒 業 生、 地 域 の 方 々 に も 残 念 な
思いが募っていることでしよう。
これからは永岩校の歴史とと
も に、 自 然 豊 か な 古 里『 長 岩 』
を心の誇りとして繋いでいきた
い と 思 い ま す。( ど い す み こ …
永 岩 分 校・ 永 岩 小 学 校 に 奉 職
二十六年)
15 ●
●
元教諭 土
「歴史の古里、我らが母校」と
校 歌 に も 唱 わ れ て い る 扇 山 は、
四百年の歴史を持つ九州一の山
城・ 長 岩 城 址 で す。 そ ん な 誇 り
高 き 山 を 毎 日 眺 め な が ら、 元 気
に遊び学んできた永岩校は私の
母 校 で あ る と 同 時 に、 二 十 数 年
間感動を与えてくれた職場でも
あります。
若い人の仕事の関係などで児
童 数 が 安 定 せ ず、 津 民 小 学 校 永
岩分校としての時代が長く続き
ま し た。 会 議 や 学 校 行 事 が あ る
都度本校まで児童を引率して歩
いていかなければなりませんで
し た。 物 資 の 少 な い 戦 後 ま も な
く は、 履 き 物 も な く 草 履 で 泥 ま
みれになりながら歩いたことも
校庭から見た扇山(中央の山の上に長岩城本丸址がある)
永岩
独立
耶馬溪村立永岩小学校として歩みだすことになります。独立前後のことを詳し
く知る土居角子先生に思い出とメッセージを寄稿していただきました。土居先
生は、戦後間もなく永岩校の教諭となり、永岩に26年も奉職されました。退
官後も皆から「先生」と親しみを込めて呼ばれ、山村留学生のホストファミリー
となったこともあります。一年前、永岩小学校の閉校を決めようと思っている
と伝えた時、おそらく最も親身に受け止めてくれた一人が土居先生だったと思
います。夫の篤さんは長岩城址保存会会長を歴任され、夫婦で仲良く田舎暮ら
しを楽しんでいます。
1957年(昭和 32)永岩分校は津民小学校から分離独立し、この年
山村留学生を受け入れて
学校に活気が・・
園 明 男
しく今まで通りという取組みが多かった
ようです。
何 か の 刺 激 を 与 え て 子 ど も、 学 校 を 活
気 づ け る 大 切 さ を 保 護 者、 地 域、 学 校 も
考 え て い ま し た。 そ こ で 都 会 の 子 ど も に
山 村 の 生 活 体 験 を し て も ら い、 そ の 中 か
ら山村留学を希望する子どももいるので
は と、 夏 休 み に「 山 村 生 活 体 験 学 習 」 を
開 き ま し た。 福 岡 県 か ら た く さ ん の 子 ど
もが参加して遊びやふれ合いを通して交
流 し ま し た。 そ の 子 ど も の 中 か ら 一 人 の
女の子がここ永岩小学校に山村留学を希
望 し ま し た。 女 の 子 の 両 親、 保 護 者、 地
域、 学 校 と 話 し 合 い 実 現 す る こ と に な り
ま し た。 皆 様 の 努 力 で 初 め て「 永 岩 小 山
村 留 学 制 度 」 が で き あ が っ た の で す。 教
育長さんをはじめ行政と地域で半年暮ら
す家も決まり福岡から引っ越してきまし
た。 特 に、 子 ど も が 過 ご す 家 の 方 に は ご
苦 労 を お か け し、 感 謝 の 気 持 ち で 一 杯 で
した。
子どもたちも温かく迎え入れてすぐに
仲 良 し に な り ま し た。 都 会 の 子 ど も の 考
えや行動も次第に理解され、今までなかっ
た言動がみられるようになり子どもが変
わることで学校にも大変活気が出てきた
と感じるようになりました。
留学生も大変頑張って楽しいことばか
り で な く、 辛 さ や 寂 し さ を 乗 り 越 え て い
く た く ま し さ を 身 に つ け た と 思 い ま す。
卒業式では地域の人たちも大勢参加して
祝 福 し て く れ ま し た。 二 年 目 に ま た 福 岡
か ら 兄 弟 の 二 人 が 山 村 留 学 し て、 学 校、
地域が一段と活気づきました。
困難なことがありましたが学校だけで
なく行政も地域も協力し合っていくこと
の大切さを私自身大きく学んだ気がしま
す。
学 校 は 閉 校 し ま す が、 み ん な で 温 か く
見 守 っ て 欲 し い と 思 い ま す。 最 後 に な り
ま し た が「 永 岩 小 学 校 あ り が と う。」( な
かぞのあきお)
16 ●
●
元校長 中
本年三月を
もって歴史ある
永岩小学校の閉
校 を 聞 き、 二 年
間大変お世話に
なった学校が消
えていくのは残
念でこれほど寂しい事はありません。
わ ず か 二 年 間 で は あ り ま し た が、 在 職
三十八年間中で最も思い出深く忘れるこ
と の で き な い 学 校 で し た。 私 は 学 校 下 の
職 員 住 宅 で 生 活 を し ま し た が、 皆 さ ん に
親 切 に し て い た だ き、 と て も 有 り 難 か っ
た で す。 夏 は 大 変 涼 し く て こ れ ほ ど 過 ご
し や す い こ と は な い の で す が、 冬 は 一 転
して積雪があって厳冬を味わいました。
さ て、 私 が 平 成 十 年 度 に 着 任 し た と き
は、 生 徒 数 も 少 な く 複 式 学 級 が 二 つ も あ
りました。
しかしながら子どもたちは明るく元気
で伸び伸びと生活し勉強や運動に大変頑
張 っ て い ま し た。 学 校 行 事 な ど に は い つ
も一緒に行動し仲良く助け合って過ごし
て い ま し た。 し か し、 一 年 中 い つ も の メ
ンバーで暮らすわけですから新鮮な気持
ちも薄くマンネリ感を打破することは難
1997年度
(平成9)
山村留学生も一緒に卒業
卒業生名簿
こ れ 以 前 の 記 録 は 不 明 で す。 ま た 分 校
期 の 名 簿 は 正 確 を 欠 い て い ま す。 間 違 い
もあるかと思います。ご容赦ください。
【津民尋常小学校永岩分校期 】
東 マサヨ
川原口 スヱ子
岩 花 トシコ
鶴 岡 ハルキ
昭和6 1931年度
森 木 速
宮 本 學
東 喜久夫
宮 野 タマヱ
上 川 ヒサ子
本 田 サツキ
相 原 キミヱ
田 中 スヱ子
坪 根 シゲヨ
昭和8 1933年度
松 崎 進
屋根内 不二夫
木 下 吉 彦
倉 谷 光 夫
相 原 鐵 郎
東 勲
不 動 フミ子
今 川 キミヱ
相 原 滋 子
本 田 アイ子
川原口 吉 子
東 アヤノ
昭和9 1934年度
末 廣 國 光
木 下 義 臣
相 良 實
尾 家 一二三
今 川 武
坪 根 政 富
土 居 アサ子
橘 都
土 居 フデ子
坪 根 文 香
宮 本 美代子
田 中 道 子
本 田 アヤ子
板 迫 とよ子
昭和 1935年度
屋根内 高 夫
木 元 春 夫
倉 谷 保 美
橘 茂
木 下 義 孝
宮 野 勉
遠々内 廣 木
今 川 豊 樹
橘 市 郎
倉 谷 マサコ
土 居 フミヱ
東 スミヱ
不 動 タミヱ
倉 谷 ツタヱ
昭和 1936年度
末 廣 孝 夫
東 勇
松 崎 久 夫
土 居 篤
山 田 豊 香
木 下 豊 子
木 元 雪 子
川 本 秀 子
東 ミユキ
上 川 テルヱ
今 川 サカヱ
本 田 タミヱ
屋根内 フジ子
昭和 1937年度
屋根内 強
木 下 正 則
東 稔
相 良 幸 利
東 宗 次
鶴 岡 佐智子
相 原 ヨシ子
橘 ユキコ
板 迫 テル子
上 川 シゲノ
末 廣 春 子
不 動 トラ子
17 ●
●
昭和5 1930年度
今 川 進
津 留 郁 生
相 原 笹 男
遠々内 自 英
橘 勝
上 川 ヤヱコ
宮 野 シズヨ
屋根内 サダヱ
上 川 サキヨ
木 下 ヤチヨ
末 廣 トシコ
昭和3 1928年度
岩 花 武 男
相 原 朝 雄
橘 利 久
松 崎 保
松 崎 チヨノ
上 川 綾 子
遠々内 雪 野
昭和7 1932年度
橘 美智男
山 田 親 夫
津 留 哲 夫
相 原 進
中 野 トヨノ
岩 花 ミドリ
宮 野 久 子
11
12
昭和2 1927年度
板 迫 隆 夫
松 崎 武
相 原 辰 馬
山 田 輝 行
田 中 巖
岩 花 勝 己
坪 根 守
今 川 角 治
不 動 素 直
東 竹 郎
相 良 ヤヱ子
昭和4 1929年度
不 動 要
橘 博 正
安 坂 近 夫
木 元 庸 男
松 崎 房 雄
橘 マスヱ
橘 マサコ
10
宮 本 ヤスヱ
松 崎 清 子
宮 野 ミヨ子
木 元 春 子
木 下 和 子
不 動 アヤ子
東 吉 子
【津民村国民学校永岩分校期】
昭和 1941年度
松 崎 忠 幸
東 茂
相 原 睦 美
土 居 勝 正
遠々内 保 美
宮 野 廣 美
屋根内 ナル子
手 嶋 年 惠
板 迫 シゲ子
倉 谷 イトノ
山 田 テル子
津 留 スマヱ
坪 根 淸 子
上 川 美津子
昭和 1942年度
松 崎 一 之
本 田 直 正
土 居 鶴 子
木 元 貞 子
東 幸 子
昭和
1943年度
末 廣 重 幸
森 木 豊 彦
倉 谷 健太郎
宮 野 武 彦
東 貞 次
松 崎 愛 子
昭和 1944年度
山 田 廣
遠々内 公 明
上 川 増 水
東 一 志
屋根内 康 博
本 田 直
相 良 スミ子
今 川 節 子
本 田 政 子
土 居 ミツ子
宮 野 スミヨ
木 元 久 子
今 川 美代子
昭和 1945年度
松 崎 信 義
相 良 勤
上 川 昭 八
川 本 勝 敏
土 居 正 弘
東 光 子
橘 弘 子
津 留 美智子
坪 根 玉 子
木 下 恵美子
板 迫 三津代
板 迫 安 子
屋根内 喜志子
赤 嶺 良 一
昭和
1946年度
東 義 臣
屋根内 一 三
上 川 秋 義
東 豊 見
入 江 雅 人
東 英 計
東 末 子
土 居 ミサヲ
東 絹 子
松 崎 三重子
【津民小学校永岩分校期】
昭和 1947年度
今 川 萬
遠々内 和 彦
津 留 泰 人
木 元 福 男
相 良 高 喜
村 上 良 憲
松 崎 隆
木 元 幸 雄
松 崎 公 子
木 下 怜 子
坪 根 勝 子
昭和 1948年度
橘 静 夫
本 田 巌
山 口 光 男
木 下 藤 司
松 崎 幸 夫
宮 野 重 信
今 川 千枝子
松 崎 タミ子
山 田 和 子
岩 花 美知子
津 留 厚 子
倉 谷 千 年
18 ●
●
昭和 1938年度
板 迫 マス子
岩 花 ツボミ
津 留 国 人
東 春 美
本 田 静 雲
松 崎 マサミ
宮 野 文 雄
昭和 1939年度
山 田 吉 昭
津 留 一比古
遠々内 夏 夫
上 川 三千五郎
今 川 冨士男
橘 功
坪 根 露 子
今 川 ユス子
本 田 ユリ子
土 居 ナ ツ
木 下 角 子
川原口 朋 子
昭和 1940年度
本 田 義 幸
東 公 夫
津 留 典 行
上 川 登美彦
板 迫 義 信
末 廣 智
宮 野 宜 之
相 良 止
松 崎 知恵子
相 原 マスヨ
22
23
19
20
21
16
17
18
13
14
15
昭和 1949年度
宮 野 敏 行
中 野 勝 義
上 川 潛
東 九十九
本 田 十三生
坪 根 博
宮 野 秀 代
村 上 ツタ子
土 居 美名子
今 川 キミ子
土 居 次 子
津 留 奎 子
昭和 1950年度
上 川 信 水
今 川 正 行
前 田 豊 一
松 崎 征四郎
岩 花 初 美
土 居 鉄 二
本 田 一 則
本 田 清 丸
木 下 十三年
末 廣 勝 也
屋根内 勝 美
中 谷 文 應
相 良 ヨリ子
今 川 水 子
木 元 高 子
宮 野 道 子
松 崎 一 重
相 原 アツ子
昭和 1951年度
渡 辺 國 次
木 下 太
今 川 水津広
川 本 静 子
松 崎 鈴 枝
松 崎 敬 子
倉 谷 弘 子
松 琴 紀代子
山 口 ハツ子
昭和 1952年度
相 良 克 憲
松 崎 雅 洋
上 川 正 則
木 元 一 人
津 留 公 止
本 田 弘 己
尾 家 憲 作
坪 根 陽 子
今 川 タツ子
中 野 幸 子
土 居 ミズ子
宮 野 キヨミ
橘 靖 子
東 幸 子
東 一 紀
昭和 1953年度
宮 野 和 浩
宮 野 俊 信
橘 光 輝
倉 谷 新
村 上 良 忍
末 廣 辰 也
倉 谷 ミユキ
安 坂 恵 子
津 留 タキ子
松 崎 早 苗
岩 花 淳 子
本 田 貞 子
木 下 孝 子
川 本 紀 子
東 豊 子
土 居 英 昭
昭和 1954年度
川原口 柳 一
松 琴 素 道
坪 根 公 司
中 野 博 文
橘 博 紀
宮 本 九美子
今 川 廣 子
屋根内 徳 子
今 川 ツヤ子
昭和 1955年度
遠々内 石 根
本 田 行 男
相 良 四十六
田 中 栄 一
倉 谷 忠 之
東 日出之
松 崎 修
木 元 角 夫
森 木 良 輔
津 留 十九年
松 崎 一 男
宮 野 トシ子
宮 野 まゆみ
前 田 サヨ子
上 川 栄
岩 花 和 子
山 口 洋 子
板 迫 典 子
東 則 子
橘 龍 子
昭和 1956年度
倉 谷 和 勝
岩 花 玉 男
橘 義 徳
屋根内 昭 子
松 崎 知佐子
遠々内 眞 弓
今 川 水津子
板 迫 葉 子
松 琴 守 代
【耶馬溪村立永岩小学校期】
昭和 1957年度
今 川 武 次
橘 照 義
倉 谷 栄 次
中 野 利 彦
宮 本 寛 丸
本 田 松 子
橘 敏 子
川 本 節 子
木 下 瑞 子
宮 野 美佐子
土 居 ハマ子
昭和 1958年度
田 中 幸 二
屋根内 矩 良
津 留 文 明
相 良 好 信
東 秋 雄
末 廣 信 雄
川原口 克 彦
安 坂 スミヱ
19 ●
●
29
30
31
32
33
27
28
24
25
26
宮 野 ハヤミ
不 動 節 子
松 崎 サクエ
屋根内 文 子
岡 英 子
木 下 美恵子
板 迫 和 代
宮 本 光 子
昭和 1959年度
末 廣 朝 照
松 崎 浄 司
橘 政 利
倉 谷 典 宏
松 崎 道 憲
橘 典 子
橘 靜 子
相 原 光 子
森 木 年 惠
川 本 敏 子
安 坂 吉 子
昭和 1960年度
松 崎 譲
田 中 長 三
津 留 憲 二
屋根内 教 利
岡 好 博
不 動 愼一郎
末 延 正 己
前 田 美智子
倉 谷 末 子
安 坂 富 代
宮 野 京 子
宮 野 フキ子
土 居 かつ子
板 迫 幸 世
昭和 1961年度
岩 花 繁 夫
松 崎 峯 芳
橘 美津則
橘 乙 三
上 川 良 則
相 原 一 乗
森 木 登
松 崎 准 司
東 邦 明
木 下 ふじ子
本 田 ムツ子
松 崎 佐代子
倉 谷 初 子
中 野 美佐子
屋根内 照 子
橘 明 子
昭和 1962年度
岩 花 二 郎
岡 紀 彦
木 下 義 徳
松 崎 和 芳
津 留 憲 章
倉 谷 ゑつ子
東 やよい
前 田 清 香
木 元 純 子
橘 ひとみ
昭和 1963年度
安 坂 吉 一
不 動 美治呂
宮 野 久 典
橘 保 章
屋根内 美紀夫
土 居 誠 一
末 廣 早 苗
田 中 ツヤ子
東 京 子
遠々内 玉 江
板 迫 花 子
屋根内 千鶴子
東 ひでみ
橘 次 子
安 坂 たつ子
昭和 1964年度
松 崎 春 雄
橘 一 明
森 木 辰 彦
相 原 政 己
宮 野 弘
倉 谷 明 美
橘 文 代
相 良 政 代
【耶馬渓町立永岩小学校期】
昭和 1965年度
松 崎 勝 美
不 動 己之介
倉 谷 正
橘 重 成
田 中 大 義
木 下 公 法
屋根内 律 子
松 崎 由 美
板 迫 清 子
橘 喜代美
宮 野 玲 子
中 野 恵 子
昭和 1966年度
前 田 清 二
津 留 美 邦
津 留 洋 典
東 保
倉 谷 利 美
土 居 悦 子
東 喜美枝
安 坂 静 代
相 原 いづみ
松 崎 満 子
遠々内 美枝子
岡 奈良子
昭和 1967年度
上 川 正
相 原 眞 郷
不 動 高 徳
川 本 豊 浩
橘 チエミ
相 良 眞紀子
上 川 えつ子
屋根内 淳 子
今 川 須美子
田 中 豊 美
屋根内 眞津子
昭和 1968年度
宮 野 和 久
屋根内 正 直
安 坂 吉 正
橘 恵 三
本 田 学
東 洋二郎
橘 周 司
橘 美佐江
松 崎 恵
20 ●
●
41
42
43
39
40
36
37
38
34
35
木 下 友 子
昭和 1969年度
津 留 友 則
東 和 久
屋根内 義 和
倉 谷 茂 秀
今 川 富 康
上 川 清 之
上 川 千代文
川 本 清 登
宮 野 良 充
遠々内 よりみ
相 原 幸 子
不 動 明 美
昭和 1970年度
宮 野 信 之
相 良 陽 一
松 崎 武 志
倉 谷 弘 之
津 留 富 子
岡 信 子
東 玲 子
昭和 1971年度
橘 公 明
末 廣 章 一
相 良 和 利
東 信 彦
相 良 二 男
相 原 孝 子
今 川 恵 美
昭和 1972年度
遠々内 和 久
東 浩 一
板 迫 隆 治
橘 芳 浩
上 川 博 美
昭和 1973年度
末 廣 賢 二
川 本 一 水
東 栄 一
木 下 正 登
宮 野 由 美
松 崎 秀 美
津 留 このみ
昭和 1974年度
屋根内 博 文
昭和 1975年度
松 崎 宏 厚
木 下 浩
東 真 一
村 上 由香思
屋根内 照 美
相 良 睦 美
上 川 美 紀
木 元 黎 子
相 原 寿 子
昭和 1976年度
川 本 ひとみ
川 本 未 央
東 ゆかり
昭和
1977年度
松 崎 祐 治
相 原 幸 生
末 廣 寿 美
昭和 1978年度
津 留 義 晴
木 元 義 孝
松 崎 京 助
宮 野 正 光
昭和 1979年度
土 居 秀 則
中 野 義 之
東 直 美
木 下 香 苗
川 本 結 華
宮 野 敬 子
昭和 1980年度
津 留 博 幸
川 本 智 之
山 口 光 昭
屋根内 義 博
相 原 正 臣
松 崎 勇
村 上 史 葉
東 敏 博
本 田 良 恵
昭和 1981年度
中 野 靖 之
倉 谷 亜紀子
末 廣 美 香
松 崎 千都代
津 留 さおり
松 崎 佳 子
木 元 しのぶ
昭和 1982年度
森 木 英 治
倉 谷 和 幸
岩 花 立 児
尾 家 邦 子
松 崎 勝 子
山 口 静 香
本 田 育 美
橘 律 子
昭和 1983年度
松 崎 嘉 征
相 原 陽 子
昭和 1984年度
松 崎 一 晴
倉 谷 達 弥
尾 家 福 美
昭和 1985年度
松 崎 一 志
森 木 和 茂
中 野 理 恵
安 坂 晴 美
昭和 1986年度
松 崎 尚 子
昭和 1987年度
屋根内 孝 義
岩 花 正 和
昭和 1988年度
(
卒業生なし)
平成元 1989年度
宮 野 尊 央
安 坂 美 穂
不 動 由 香
21 ●
●
58
59
60
61
62
63
53
54
55
56
57
48
49
50
51
52
44
45
46
47
平成2 1990年度
田 中 真奈美
平成3 1991年度
宮 野 智 由
安 坂 可奈子
平成4 1992年度
田 中 茂
不 動 芳 香
板 迫 園 子
平成5 1993年度
板 迫 美由紀
平成6 1994年度
宮 野 真 里
平成 2002年度
末 廣 徹
鉾 立 祐 己
平成 2001年度
(
卒業生なし)
平成 2000年度
末 廣 雄 大
平成 2013年度
枝 光 優 作
橘 克 典
村 上 歓 人
平成 2012年度
村 上 大 樹
平成 2011年度
板 迫 奎 吾
平成 2003年度
遠々内 一 歩
鉾 立 麻 里
平成 2004年度
(
卒業生なし)
【中津市立永岩小学校期】
平成 2005年度
遠々内 愛 実
永 元 達 也
平成 2006年度
板 迫 大 志
平成 2007年度
末 廣 千 春
平成 2008年度
鉾 立 有 紗
平成
2009年度
(
卒業生なし)
【永岩小学校二年生修了】
平成 2013年度
橘 利 英
村 上 温 人
【昭和2年~ 年( 1927
~ 1946
)】
分校期( 年間)卒業 219名
【昭和 年学制改革以降( 1947
~)】
分校期( 年間)卒業 132名
本校期( 年間)卒業 280名
閉校後津民小学校に編入 2名
以上
22 ●
●
21
20
57 10
平成7 1995年度
橘 直 幸
平成8 1996年度
(
卒業生なし)
平成9 1997年度
橘 泰 樹
東 紗矢佳
下 條 朝 美
平成 1998年度
田 中 美寿々
末 廣 彩
平成
1999年度
東 龍一郎
平成 2010年度
遠々内 大 知
2010年度わくわく大会
(駅伝大会)
に200名以上の参加
23
24
25
25
22
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
10
11
児童数の推移
1887
1923
1924
1925
1926
1927
1928
1929
1930
1931
1932
1933
1934
1935
1936
1937
1938
1939
1940
1941
1942
1943
1944
1945
1946
1947
1948
1949
1950
1951
1952
1953
1954
1955
1956
1957
1958
1959
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
2010
2011
2012
2013
0
●
23 ●
10
20
30
40
50
60
70
80
90
#!!"
昭和6 1
931年度
屋根内 トシヱ 古 野 敏 太 昭和5 1
930年度
松 本 ヨ シ 山 崎 利 秋 昭和4 1
929年度
岡 本 市 郎 土 居 タマ子 昭和3 1
928年度
土 居 タマ子 井 倉 昭 昭和2 1
927年度
土 居 タマ子 浜 田 一 夫 昭和元 1
926年度
土 居 タマ子 山 崎 利 秋 1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・年
3 4
・年
1 2
・年
3 4
・年
1 2
・年
3 4
・ 5
・年
1 2
・年
3 4
・ 5
・年
昭和
1
940年度
真 辺 キヨ子 城 戸 重 敏 昭和
1
939年度
真 辺 キヨ子 増 永 博 昭和
1
938年度
田 上 律 子 増 永 博 昭和
1
937年度
田 上 律 子 増 永 博 昭和
1
936年度
田 上 律 子 増 永 博 昭和
1
935年度
田 上 律 子 増 永 博 1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
昭和
1
946年度
松 本 加登美 秋 吉 一 實 昭和
1
945年度
村 本 常 子 松 本 加登美 昭和
1
944年度
村 本 常 子 藤 永 克 己 1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
歴代教職員名簿
明治 1901年度
中 畑 寛 治 教育者
昭和7 1
932年度
朝 田 当 志 射 場 重 屋 1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
【永岩尋常小学校期】
明治
1
902年度
槇 八 郎 明治
1
911年度
津 民 光 重 訓導
【津民尋常小学校永岩分校期】
大正6 1
917年度
中 畑 寛 治 訓導
大正
1
924年度
木 下 トキエ 山 崎 利 秋 大正
1
923年度
山 崎 利 秋 木 下 トキエ 1 2年
・
3 4
・ 5
・年
1 4
・年
2 3
・年
校
・長
校
・長
明治 1880年度
川原口 静 治 学務委員
明治 1879年度
細 川 法 俊 学務委員
【川原口小学校期】
教育者
昭和8 1
933年度
朝 田 当 志 増 永 博 1 2
・ 3
・年
4 5
・ 6
・年
1 2
・年
3 4
・年
【津民村国民学校永岩分校期】
昭和
1
943年度
深 蔵 ハツ子 城 戸 重 敏 昭和
1
942年度
手 島 ヒサ子 山 本 正 己 昭和
1
941年度
田 上 律 子 山 本 正 己 1 2 3
・
・年
4 5
・ 6
・年
1 2 3
・
・年
4 5
・ 6
・年
1 2 3
・
・年
4 5
・ 6
・年
1
947年度
【津民小学校永岩分校期】
昭和
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
1
948年度
木 下 角 子
矢 形 スミヱ
宮 野 時 雄
昭和
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
1
949年度
木 下 角 子
矢 形 スミヱ
宮 野 時 雄
昭和
1
950年度
木 下 角 子
矢 形 スミヱ
宮 野 時 雄
昭和
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
1 2
・年
3 4
・年
1
951年度
木 下 角 子
矢 形 スミヱ
宮 野 時 雄
昭和
土 居 角 子
松 琴 介 人
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
昭和9 1
934年度
朝 田 当 志 増 永 博 大正
1
925年度
向 山 ヨシノ 山 崎 利 秋 24 ●
●
19
20
21
22
23
24
25
26
10
11
12
13
14
15
16
17
18
12
13
34
35
44
12
13
14
昭和
1
955年度
土 居 角 子 野 田 弘 孝 松 琴 介 人 昭和
1
954年度
土 居 角 子 吉 森 直 己 松 琴 介 人 昭和
1
953年度
土 居 角 子 吉 森 直 己 松 琴 介 人 1
昭和
952年度
土 居 角 子 吉 森 直 己 松 琴 介 人 力 徳 正
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
5 6
・年
昭和
1
956年度
松 琴 介 人 小 畑 和 敏 土 居 角 子 校長
校長
教頭
【耶馬溪村立永岩小学校期】
昭和
1
957年度
奥 実 信 武 内 善 尚 小 畑 和 敏
土 居 角 子
昭和
1
958年度
山 本 宗 夫 武 内 善 尚
土 居 角 子
小 畑 和 敏
昭和
1
959年度
井 上 義 郎 末 延 琢 磨 矢 野 ケサヨ 井手上 五 月 昭和
1
960年度
井 上 義 郎 末 延 琢 磨 矢 野 ケサヨ 土 居 角 子 昭和
1
961年度
井 上 義 郎 末 延 琢 磨 土 居 角 子 矢 野 ケサヨ 昭和
1
962年度
井 上 義 郎 末 延 琢 磨 矢 野 ケサヨ 土 居 角 子 昭和
1
963年度
井 上 義 郎 末 延 琢 磨 土 居 角 子 相 良 仲 光 昭和
1
964年度
真 玉 新 末 延 琢 磨 教頭
校長
教頭
校長
教頭
校長
教頭
校長
教頭
校長
教頭
校長
教頭
相 良 仲 光
土 居 角 子
相 原 光 子
用務員
校長
教頭
用務員
校長
教頭
校長
教頭
校長
教頭
【耶馬渓町立永岩小学校期】
昭和
1
965年度
真 玉 新 長谷川 秀 尚 原 鉄 也 土 居 角 子 相 良 仲 光 角 渕 照 子 梶 原 巧 昭和
1
966年度
真 玉 新 長谷川 秀 尚 上 原 典 子 角 渕 照 子 原 鉄 也 野 田 トヨ子 昭和
1
967年度
真 玉 新 長谷川 秀 尚 平 井 和 義 逸 見 寿美子 原 鉄 也 上 原 典 子 角 渕 照 子 屋根内 照 子 昭和
1
968年度
真 玉 新 小 野 利 文 甲 斐 義 治 逸 見 寿美子
平 井 和 義
上 原 典 子
屋根内 照 子
昭和
1
969年度
相 良 友 吉 小 野 利 文 逸 見 寿美子 平 井 和 義 立 石 由美子 昭和
1
970年度
末 延 琢 磨 福 沢 稲 男 土 居 角 子 材 前 四日生 溝 口 信 彦 東 ひでみ 昭和
1
971年度
末 延 琢 磨 中 島 定 敏 土 居 角 子 溝 口 信 彦 材 前 四日生 倉 谷 ゑつ子 昭和
1
972年度
末 延 琢 磨 中 島 定 敏 土 居 角 子 楢 原 満 子 大 霜 明 子 原 鉄 也 中 野 スギヨ 用務員
校長
教頭3 4
・年
1 2
・年
5 6
・年
助教 用
・ 務員
校長
教頭
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
用務員
校長
教頭
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
用務員
校長
教頭
1 2
・年
3 4
・年
5年
6年
用務員
25 ●
●
44
45
46
47
40
41
42
43
34
35
36
37
38
39
27
28
29
30
31
32
33
昭和
1
973年度
末 延 琢 磨 中 島 定 敏 土 居 角 子 楢 原 満 子 大 霜 明 子 原 鉄 也 中 野 スギヨ 昭和
1
974年度
中 野 克 己 木 戸 巽 楢 原 満 子 土 居 角 子 原 鉄 也 宮 野 トヨミ 昭和
1
975年度
山 口 忠 義 木 戸 巽 土 居 角 子 中 村 年 子 松 崎 典 孝 永 松 完 宮 野 トヨミ 昭和
1
976年度
山 口 忠 義 加 来 定 雄 中 村 年 子 土 居 角 子 角 屋 勲 佐々木 照 義 松 崎 典 孝 宮 野 トヨミ 校長
教頭
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
用務員
校長
教頭
1 2
・年
3 4
・年
5 6
・年
用務員
校長
教頭
1年
2 3
・年
4 5
・年
6年
用務員
校長
教頭
1年
2年
3年
4 5
・年
6年
用務員
昭和
1
977年度
山 口 忠 義 加 来 定 雄 中 村 年 子 土 居 角 子 松 崎 典 孝 角 屋 勲 宮 野 トヨミ 昭和
1
978年度
小 野 利 文 加 来 定 雄 立 石 笑 子 安 部 久美子 吉 田 久美子 角 屋 勲 中 山 洋 子 宮 野 トヨミ 昭和
1
979年度
武 本 勝 喜 平 尾 博 康 安 部 久美子 吉 田 久美子 上 野 義 典 篠 原 博 中 山 洋 子 宮 野 トヨミ 昭和
1
980年度
武 本 勝 喜 廣 沢 一 夫 安 部 久美子 栗 田 典 年 上 野 義 典 中 山 洋 子 宮 野 トヨミ 校長
教頭
1年
2 3
・年
4 5
・年
6年
用務員
校長
教頭
1 2
・年
3年
4年
5 6
・年
養教
用務員
校長
2年 教
・ 頭 1年
3 4
・年
5年
6年
養教
用務員
校長
3年 教
・ 頭 1 2
・年
4年
5 6
・年
養教
用務員
昭和
1
981年度
長谷川 秀 尚 廣 沢 一 夫 祝 出 由美子 上 野 義 典 栗 田 典 年 佐 竹 洋 美 宮 野 トヨミ 昭和
1
982年度
長谷川 秀 尚 下 司 友 美 祝 出 由美子 藤 本 裕 一 井 上 行 満 佐 竹 洋 美 宮 野 トヨミ 昭和
1
983年度
馬 場 秀 夫 御座岡 直 己 祝 出 由美子 井 上 行 満 佐 竹 洋 美 宮 野 トヨミ 昭和
1
984年度
馬 場 秀 夫 中屋敷 久米吉 井 上 行 満 是 永 敬 城 原 田 たかね 宮 野 トヨミ 昭和
1
985年度
窪 田 典 夫 中屋敷 久米吉 校長
5年 教
・頭
1 2
・年
3 4
・年
6年
養教
用務員
校長
5年 教
・ 頭 1 2
・年
3 4
・年
6年
養教
用務員
校長
4年 教
・ 頭 2 3
・年
5 6
・年
養教
用務員
教
・ 頭 校長
教頭 1
・年
3 4
・年
5 6
・年
養教
用務員
校長
4年
清 尾 綾 子
是 永 敬 城
高 倉 郁 子
宮 野 トヨミ
昭和
1
986年度
窪 田 典 夫 福 田 スミエ 清 尾 綾 子 是 永 敬 城 新 野 祥 子 高 倉 郁 子 宮 野 トヨミ 昭和
1
987年度
自 見 卓 也 福 田 スミエ 清 尾 綾 子 緑 秀一郎 杉 山 友 昭 藤 富 茂 枝 宮 野 トヨミ 昭和
1
988年度
片 山 政 昭 上 野 博 輔 久 恒 由 美 杉 山 友 昭 馬 場 早 苗 藤 富 茂 枝 宮 野 トヨミ 平成元 1
989年度
片 山 政 昭 上 野 博 輔 馬 場 早 苗 久 恒 由 美 1 2
・年
5 6
・年
養教
用務員
校長
教頭 3年
1 2
・年
5 6
・年
養教
養教(産休)
用務員
校長
教頭
1年
2 3
・年
4 6
・年
養教
用務員
校長
教頭
1 2
・年
3 4
・年
5年
養教
用務員
校長
教頭
1 2
・年
3年
26 ●
●
61
62
63
56
57
58
59
60
52
53
54
55
48
49
50
51
桒 原 浩 實
杉 山 友 昭
梶 原 博 美
藤 富 茂 枝
宮 野 トヨミ
平成2 1
990年度
植 原 英 二 尾 台 敬 直 久 恒 由 美 馬 場 早 苗 廣 沢 誠 児 桒 原 浩 實 藤 富 茂 枝 宮 野 トヨミ 平成3 1
991年度
植 原 英 二 森 山 アヤ子 久 恒 由 美 花 崎 淳 桒 原 浩 實 廣 沢 誠 児 一 松 三根代 宮 野 トヨミ 平成4 1
992年度
外 園 雅 美 諌 山 泰 彦 久 恒 由 美 横 溝 貴 子 原 田 健 三 廣 沢 誠 児 一 松 三根代 宮 野 トヨミ 4 5
・年
6年
臨講
養教
用務員
校長
教頭
1 2
・年
3 4
・年
5年
6年
養教
用務員
校長
教頭
2 3
・年
4 5
・年
6年
養教
用務員
校長
教頭
1年
3 4
・年
5 6
・年
養教
用務員
平成9 1
997年度
中 園 明 男 西 俊 二 古 門 里 寧 大 森 加洋子 井 上 正 則 今 永 弥 生 宮 野 トヨミ 校長
教頭
1年 臨
・講
2 4
・年
5 6
・年
養教
用務員
平成5 1993年度
小 林 正 剛 諌 山 泰 彦 田 畑 陽 子 緑 秀一郎 原 田 健 三 花 崎 三根代 宮 野 トヨミ 平成
1
998年度
中 園 明 男 植 田 隆 梶 原 学 上 家 一 恵 大 森 加洋子 福 田 尚 美 今 永 弥 生 宮 野 トヨミ 校長
教頭
2 3
・ 年臨講
4 5
・年
養教
用務員
校長
教頭
1年
2 3
・年
4 6
・年
養教
用務員
平成6 1
994年度
前 田 幸 臣 校長
原 田 健 三 教頭
・講
田 畑 陽 子 1年 臨
・年
広 池 裕 子 2 3
・年
緑 秀一郎 5 6
久 恒 由 美 (休職)
石 津 瑞 恵 養教
宮 野 トヨミ 用務員
平成7 1
995年度
水 谷 良 之 大 保 舜 介 片 桐 奈 美 井 上 正 則 緑 秀一郎 石 津 瑞 恵 宮 野 トヨミ 平成8 1
996年度
水 谷 良 之 大 保 舜 介 井 上 恵 理 井 上 正 則 石 津 瑞 恵 宮 野 トヨミ 平成
1
999年度
秋 山 收 植 田 隆 原 利 和 福 田 尚 美 今 永 弥 生 宮 野 トヨミ 平成
2
000年度
岩 藤 千 晴 小 野 富 博 片 宗 晶 子 福 田 尚 美 宮 野 トヨミ 校長
教頭
1年
3 4
・年
5 6
・年
養教
用務員
校長
教頭
1年
2年 臨
・講
4 5
・年
6年
養教
用務員
校長
教頭
2 3
・ 年町単
5 6
・年
養教
用務員
教
・頭
校長
1年 教
・頭
3 4
・年
6年
用務員
平成
2
001年度 梅 津 和 彦 校長
中 野 聖 子 2年
福 田 尚 美 片 宗 晶 子 宮 野 トヨミ 平成
2
002年度
彦 エ 和 世 中 野 聖 子 片 宗 晶 子 福 田 尚 美 松 永 喬 小 野 由 里 宮 野 トヨミ 平成
2
003年度
彦 エ 和 世 金 丸 隆 福 田 尚 美 本 多 悦 子 松 永 喬 小 野 由 里 宮 野 トヨミ 平成
2
004年度
安 部 みな子 本 多 悦 子 松 永 喬 宮 野 トヨミ 1年
4 5
・年
用務員
校長
教頭
1年
2 3
・年
5 6
・年
臨時養教
用務員
校長
教頭
1年
2 3
・年
4 6
・年
臨時養教
臨時用務員
校長
2 3
・年
4 5
・年
臨時用務員
校長
教頭
1年
3 4
・年
5 6
・年
【中津市立永岩小学校期】
平成
2
005年度
安 部 みな子 友 松 正 裕 小野田 耕 三 好 喜久美 本 多 悦 子 久 保 智津美 27 ●
●
14
15
16
17
10
11
12
13
小座本 聖 子
田 中 美 佳
宮 野 トヨミ
平成
2
006年度
安 部 みな子 友 松 正 裕 神 崎 和 代 吉 良 幹 子 西 野 明 恵 小野田 耕 久 保 智津美 田 中 美 佳 川 本 成 男 臨講
嘱託事務
用務員
校長
教頭
1年
2年
4年 臨
・講
5 6
・年
養教
嘱託事務
用務員
校長
教頭
1年
2 3
・年
5 6
・年
養教
嘱託事務
用務員
校長
教頭
1年
2 3
・年
4 6
・年
臨講
臨講
臨講
臨時養教
嘱託事務
用務員
2
平成
009年度
安 部 みな子 小野田 耕 中 島 眞珠美 福 田 尚 美 山 本 真 実 安 坂 吉 一 平成
2
010年度
吉 武 由 美 小 林 悦 子 小野田 耕 山 本 真 実 安 坂 吉 一 平成
2
011年度
江 口 博 孝 小 林 悦 子 小野田 耕 山 本 真 実 安 坂 吉 一 平成
2
012年度
江 口 博 孝 小 林 悦 子 小野田 耕 来 海 ひろえ 尾 川 勝 美 平成
2
013年度
江 口 博 孝 小 林 悦 子 小野田 耕 来 海 ひろえ 尾 川 勝 美 校長
2 3
・年
4 5
・年
臨講
嘱託事務
用務員
校長
3 4
・年
5 6
・年
嘱託事務
用務員
校長
4年
5 6
・年
嘱託事務
用務員
校長
1年
5 6
・年
嘱託事務
用務員
校長
2年
6年
嘱託事務
用務員
[ Thanks
]
Ross Arington
畠 山 美智代 德 田 一 美
NET
学校司書
ICT 支援員
たいへんおせわになりました
奉職された教職員の皆様、
= Native English Teacher
NET
= Information and
I CT
Communication
Technology
平成
2
007年度
磯 田 英 一 友 松 正 裕 神 崎 和 代 吉 良 幹 子 小野田 耕 久 保 智津美 山 本 真 実 川 本 成 男 平成
2
008年度
中 山 賢 一 友 松 正 裕 中 島 眞珠美 小野田 耕 吉 良 幹 子 佐 藤 桜 子 四 辻 郁 恵 安 東 綾 子 菊 浪 紘 子 山 本 真 実 川 本 成 男 28 ●
●
21
22
23
24
25
18
19
20
1983年 赤瓦の校舎
記念写真
分校時代 1949・1952・1953
本校時代 1957 〜 2014
2014年 2月
●
29 ●
授業風景
1950年代 昭和
年頃
新 し い 校 舎 を 造 る 工 事 の 間、 3・4 年 生
は小屋の原の民家を借りて授業をしてい
た。また、当時の複式学級の授業の様子
もうかがわれる。
28
小屋の原の仮校舎。今川義夫さん宅を借りて
(1953年、昭和28年頃)
小屋の原の仮教室。 吉森先生
1・2年生複式学級。 土居先生
新校舎建設 1954 年
昭和 29 年、永岩校の新校舎が完成し、永岩独立に向けて
大きな前進となった。校庭を改修する際には川原を整地す
るような状態であった(左の写真)。撮影した川本高之助
氏は写真の裏に「すさまじい石の山。見事に完成。うたた
感無量」と記している。当時のご苦労と歓びがうかがわれ
る。
石だらけの校庭の整地
新校舎完成直後の永岩校。1954年昭和29年
新しい教室の机と黒板
●
31 ●
学校 あれ これ
春
梅ちぎり
今日は本番、運動会
ん?何のポーズ? ( 苗さしのあとで )
桜咲き、3年ぶりの新入生。
あかん、にげられん。
(あせるカエル)
キツツキのひな
夏
スリルたっぷり、
六郷満山めぐり。
久住山登山。山頂だ~
夏は川が一番。
飛び込め~
香々地の海も最高!
プール?
…いやお風呂。
学校の裏山で虫取り。
もう昼休みは終わってるよ。
国蝶オオムラサキ
タマムシ
モグラ
秋
イモまんじゅうを制作中。
( お年寄りにプレゼント )
砂場で流水実験
1番だと思う人は、
手をあげてください。
( ふれあい集会 )
江口校長先生と理科の勉強
冬
あとちょっとで、ゴール。
がんばれ!
朝のかんぷまさつ、寒い~。
でも、♪チャ~ラ~、ヘッチャラ~♪
砂場に大穴ほりました。
ヤッホー!
みんなで雪遊び。
派手な色の
クモ
新種かも…
えさ台にヒヨドリ
あんなこと
こんなこと
名シーン
1 年生、入場。
ごらん、あれが石積みやぐらだ!
( でも、バテバテで、だれも見ていない。)
6 年生は学習中。2 年生は昼寝中。
大人気!二人のダンス
サンショウウオ 発見
長岩城調査の帰り道でゲット
校門で、真剣に校歌を歌う。
( ケーブルテレビの撮影中。)
花の種をつけた風船を空に…。
あの種、どこまでとんだかな。
来海さんと大樹くんの真剣勝負
小野田先生と国語の勉強
扇山の古城ヶ鼻から永岩小が見える
山本さんが学校から手をふってくれました。
利君を救え!
図工。木の枝でいすを制作中。
もうすぐ完成です。
こんにゃくの作り方を教えて
もらいました。
囲碁教室
スポーツ少年団
スポーツ少年団
1981年九州少年サッカー県予選で一回戦を勝ち抜き特別賞
ソフトボール
放課後の練習
大きい学校に
負けたくない !!
親も子も全校あげて
がんばりました。
1996年水泳大会
2007年水泳大会男子リレーの部に4年生も出て優勝
2006年スポ少卓球大会で永岩同士の決勝戦
2008年全九州大会に出場 低学年の部で個人戦3位
ま で が 国 境 か 分 か ら な い よ う に、 ど
ア メ リ カ の よ う だ、 と い っ た。 ど こ
のテキサスでも連想したのか、広い、
を う ん だ。 山 に 入 っ た 人 が、 西 部 劇
あ る。 雨 が 杉 の 成 長 を 促 し、 杉 が 金
一 雨 百 万 両、 と、 う そ ぶ い た こ と が
と、 こ ぼ し て い る の を 聞 い た 人 が、
雨の年、雨ばかりで仕事ができない、
山 が 住 民 の 生 活 を 支 え て き た。 あ る
都 合 よ く。 労 働 は き つ い が、 豊 か な
さ、 冬 の 雪 の 多 さ は、 樹 木 の 成 長 に
まで、学校が維持されたともいえる。
た。 だ か ら こ そ、 生 徒 数 5 人 に な る
地区行事も住民総参加でなされてき
域 が 一 致 し て い る の で、 学 校 行 事 も
校 に な る。 大 字 川 原 口 地 区 と 校 区 全
を 経 て、 平 成 2 6 年 3 月、 つ い に 廃
馬 溪 村、 耶 馬 溪 村、 同 町、 中 津 市 立
明 治 7 年、 小 倉 県 川 原 口 村 に 開 校
の 小 学 校 は、 大 分 県 津 民 村、 中 耶
長岩城と雁股城
腹に据えかねたか、
宗麟が小人物か。
る。 日 記 で 悪 口 を 書 く と は、 よ ほ ど
浮き出た西目の悪党』と書かれてい
う。 日 記 に は 長 岩 の こ と を『 下 毛 に
究をしていることを聞いたからだろ
浮 か ん だ。 永 岩 小 学 校 が 長 岩 城 の 研
大 友 宗 麟( ソ ウ リ ン ) の 日 記 が 頭 に
上だなあ、と、思ったとき、なぜか、
ちのところだ」長岩城のちょうど真
見 た こ と が あ る。 あ そ こ が「 お れ た
の 中 間 に 落 ち る の を、 中 津 方 面 か ら
秋 分 の 頃、 真 っ 赤 な 大 太 鼓 を 掲 げ
た よ う な 夕 日 が、 雁 股 山 と 小 屋 ヶ 岳
ということだ。そこが川原口である。
奥 に 見 え る と い う こ と は、 山 が 高 い
に 特 長 的 な 山 々 が 連 な っ て 見 え る。
側 が 管 理 し、 ベ ン チ も 案 内 板 も 整 備
股 の 山 頂 が 県 境 な の で、 城 は 福 岡 県
時 の 間 に か、 語 ら れ な く な っ た。 雁
か つ て は 同 時 に 語 ら れ て い た が、 何
向 か い 合 わ せ の、 ツ イ ン の 山 城 で、
である。長岩と雁股は見通しのいい、
る。 い や、 あ っ た の で あ る。 雁 股 城
岩 城 と は 別 に、 も う 一 つ、 堅 城 が あ
の か。 実 は、 こ こ、 川 原 口 に は、 長
の 辺 に あ る の か。 価 値 は な ん だ っ た
う、 そ の 土 地 の 位 置 の 重 要 性 は、 ど
に あ れ ほ ど の 城 を 築 く、 川 原 口 と い
あ る ほ ど、 城 の 価 値 は 高 い。 川 原 口
要 さ で も あ る。 位 置 が 重 要 で あ れ ば
ま る。 そ し て、 そ の 土 地 の 位 置 の 重
る の か。 城 は、 前 と 後 の 力 関 係 で き
れ ほ ど の、 ど の よ う な 力 が 働 い て い
か け ね ば な ら な い の か。 後 ろ に、 ど
う な 圧 力 を か け て い る の か、 ま た、
れ ば い い、 そ の 城 が、 前 方 に ど の よ
は な い。 今 の 沖 縄 や、 グ ア ム を 考 え
た。 城 は や み く も に 築 か れ る も の で
毛 利 の 山 城 タ イ プ で す ね 」 と、 い っ
長 岩 城 の 話 を し た ら、 即 座 に「 あ、
物 館 の 館 長 さ ん に お 会 い し た と き、
だ。 だ か ら 堅 城 で あ る。 愛 媛 県 の 博
い。 こ の 城 は、 と ん で も な い 険 し さ
楽 だ と 思 っ た と し た ら、 と ん で も な
前 の、 扇 山 に あ る。 だ か ら、 研 究 は
別 賞 を い た だ い た。 城 は 学 校 の 目 の
で 文 部 科 学 大 臣 賞、 今 年 は 審 査 員 特
入 賞、 最 初 の 年 は 二 位、 昨 年 は 一 位
自 尊 心 が 強 い。 月 天( げ っ て ん ) は
しても、他人の意向だけで動かない。
自 分 が 納 得 し な い と 危 険 だ。 貧 乏 は
いことが多い。作業を命令されても、
の 場 で、 自 分 で 考 え な け れ ば な ら な
山 の 中 で は、 一 人 一 人 が、 そ の 時 そ
コ 社 会 を 生 み 出 し た か も し れ な い。
た、 厳 し い 暮 ら し が、 こ の よ う な ヨ
る の で あ る。 険 し い 山 々 に か こ ま れ
る の だ が、 川 原 口 は、 特 に 強 く 感 じ
の 雰 囲 気 は、 田 舎 な ら ど こ で も 感 じ
こ と か。 そ こ に 上 下 感 覚 は 薄 い。 こ
分 で、 し っ か り 組 ん で い る、 と い う
人 は な い な り に、 老 若 男 女、 そ の 持
力 な ど、 あ る 人 は あ る な り に、 な い
わ さ れ て い る 形 で、 金 や、 体 力、 能
切 れ が、 縦 や 横 に、 し っ か り 組 み 合
の 世 を 言 葉 で 括 っ て、 長 さ の 違 う 棒
地 区 だ っ た。 講 と い う 字 が あ る。 人
時 も、 な に か、 特 別 な 雰 囲 気 の あ る
宗 麟 か ら、 悪 党 呼 ば わ り さ れ た 川
原 口 は、 津 民 村 の 時 も、 耶 馬 溪 町 の
ヨコ社会
る。これはもう大変だ。
処 か ら?。 世 界 の 歴 史 を も 参 考 に す
み る。 砲 座 も あ る の だ か ら 火 薬 は 何
土 か ら 考 え て い く、 日 本 の 歴 史 か ら
の、 中 世 の、 政 治、 経 済、 生 活、 風
い。 当 時 の、 そ う、 4 0 0 年 以 上 前
で、 い く ら 見 て も、 分 か る わ け が な
原 口 は た だ 者 で は な い。 現 在 の 目 線
この二つの堅城に囲まれていた川
福 岡 県 は 関 知 し な い。 考 え て み れ ば
「私達の川原口」
こ ま で が 川 原 口 か、 分 か ら な い と い
し て い る が、 大 分 県 か ら は 消 え て し
山 々 で 林 地 は 広 く、 ま た 夏 の 雨 の 多
な っ て い て、 地 形 は 険 し い。 大 き い
大字内には、犬ヶ岳から、雁股山 カ
(
リマタ ま
) で、 1 0 0 0 メ ー ト ル 前
後 の 山 々 が、 い く つ も い く つ も 重
村 上 良 憲
う の で あ る。 三 光 あ た り か ら、 築 城
多いが、誇り高い。
西目の悪党
近 く ま で の 間、 海 の 方 か ら、 西 北 の
ま っ た。 も ち ろ ん、 長 岩 の こ と は、
永 岩 小 学 校 は『 九 州 最 大 の 山 城、
長 岩 城 』 の 研 究 で、 三 年 連 続 の 全 国
山 を の ぞ む と、 山 な み の 最 も 奥 の 方
ふたこぶらくだの背のような山が雁股山 のこぎり岩から右の方に小屋ヶ岳 奥に遠く犬ヶ岳
が 増 え る の は、 社 会 の 不 安 定 要 因 に
て 動 く 人 や、 自 分 で 考 え て、 動 く 人
励 む こ と で あ る。 土 地 を 自 由 に 離 れ
し、 上 の 命 じ る ま ま に 使 役、 兵 役 に
地 を 移 動 せ ず、 権 力 者 に 利 益 を 提 供
る に は、 親 も 子 も 孫 も 代 々、 そ の 土
に つ か わ れ た。 こ ん な 社 会 が 安 定 す
民 は 領 民 と し て、 使 役、 兵 役 に 自 由
宗麟の時代、日本の土地の多くは、
一 部 権 力 者 の 所 有 物 だ っ た の で、 住
支配者はいらない
大切な位置
である。
う ご く の を 嫌 う か ら こ そ、 悪 党 な の
支 配 者 は い ら な い。 人 に 命 令 さ れ て
後 の 話 だ。 悪 党 は リ ー ダ ー が い て も
ある。江戸は家康が居城してからで、
流 通 ラ イ ン だ っ た。 悪 党 ラ イ ン で も
州 は 豊 前、 こ れ が 日 本 の 根 幹 を な す
北陸から琵琶湖 ビ
( ワコ を
) 経て、京。
淀 川 を 通 っ て 大 阪、 瀬 戸 内 か ら、 九
人 の よ う な、 自 由 業 者 な ど に 多 い。
こ と で は い け な い。 己 は 常 に 正 し く
ト な ん て、 そ れ は ノ ー ノ ー、 そ ん な
夫 タ
( ダビト)ならくのみ」とあるが、
天 に 昇 ら ん と す る 人 は、 共 に タ ダ ビ
誰 か よ く 定 む べ け ん や、 共 に こ れ 凡
ば我非、我是すれば彼非、是非の理、
タ テ 論 の 人 は 善 悪 感 が 強 い。 聖 徳
太 子 の 十 七 条 憲 法 に は、「 彼 是 す れ
強の騎馬軍団になった。
下 の 明 智 光 秀 に 討 た れ た。 殿 と 呼 ば
こ と に よ っ て お こ る の だ。 こ れ は 商
力層のタテ論理を破る人々が増えた
え て、 安 全 の 観 点 か ら、 中 央 部 の 札
北 海 道 開 拓 の と き、 侵 略 の 脅 威 も 考
物は、玄関に置きっぱなしにしない。
行
(橋 で
) あ る。 八 屋 が 玄 関 口 な ら、
次 の 間 が 川 原 口 か。 誰 だ っ て 大 切 な
からこそツインに堅城があったので
で は な い か と 思 わ れ て な ら な い。 だ
円をひかえた大切な位置にあったの
の 街 道 の ま ん 前 だ。 川 原 口 は 九 州 一
そ こ が 川 原 口 で あ る。 長 岩 城 は、 そ
くとき、丈夫な扉の雁股を開けると、
おう、と応える場面はテレビなどで、
えい、とやって、部下が、おう、おう、
面 白 い 話 を 聞 い た。 武 士 た ち が 出
陣 す る と き、 大 将 が、 え い、 え い、
「えい、えい、えい」
そ、川原口を悪党と書けるのか。
リ シ タ ン で、 大 善 人 の 宗 麟 だ か ら こ
い と 上 に 行 け な い か ら だ。 大 変 な キ
立 派 で な け れ ば な ら な い。 善 人 で 無
せ な か っ た 信 玄 は、 部 下 達 が 戦 国 最
な る。 上 下 関 係 を 厳 し く し て、 人 を
地 図 で み て も、 豊 前 の ス イ ー ト ス
ポ ッ ト は、 八 屋 宇
( の島 か
) ら今井
業の発展と流通組織の発達が大き
幌 を 中 心 に 決 め た そ う で あ る。 利 便
はないか。
よ く 観 る の だ が、 悪 党 で 知 ら れ た 村
支 配 し な け れ ば な ら な い。 タ テ 論 理
い。 商 業 が 発 展 す れ ば 人 の 動 き が 大
は 後 の 話 だ。 豊 前 海 に 開 い た 八 屋 の
が 人 の 道 で あ る。 戦 国 時 代 と は、 権
きくなる。より大きく自由を求める。
玄 関 か ら、 九 州 に 入 っ て、 奥 地 に 行
る。 自 由 と 平 等 に 目 覚 め つ つ あ る ヨ
れている状況や環境をも教えてくれ
う ご か な い。 情 報 は 自 分 た ち の 置 か
い と 担 げ な い。 平 等 で な い と 物 資 は
天秤は左右の荷物の重さが同じでな
田 信 長 は、 ザ ビ エ ル の 話 を 聞 い て、
下を武力で支配する」としていた織
針の様な物まで継ぎ足している。
「天
はとがっていく。それでも足りずに、
う の だ か ら。 上 に 上 に と 教 会 の 屋 根
下 論 で あ る。 な に し ろ 天 に 昇 る と い
タ ン で あ る。 こ れ は も う 徹 底 し た 上
ち ょ う ど、 こ の 戦 国 の こ ろ、 も う
一 つ の タ テ 論 理 が 広 ま っ た。 キ リ シ
2014年早春。
い、 え い、 え い、 と 行 こ う か。 以 上
真 似 る こ と も 無 い。 皆 で 一 緒 に、 え
誰 に つ い て い く こ と も な い し、 誰 を
識 が 薄 い か ら だ そ う だ。 川 原 口 は、
な い と い う の で あ る。 海 賊 は 上 下 意
えい、えい、とやり、おう、おう、は、
で 一 緒 に、 刀 を 振 り 上 げ て、 え い、
(むらかみよしのり)
上 水 軍 は、 少 し 違 っ て い て、 み ん な
コ 集 団 と、 タ テ 支 配 者 と の、 入 り 混
城 の 上 に 天 守 閣 を 造 っ た。 人 の 上 よ
流 通 に は、 情 報 の 入 手 が 必 修 だ。 物
タテ論と悪党
じ っ た 混 乱 と せ め ぎ あ い が、 下 克 上
り、 も っ と 上 に な り た か っ た の だ ろ
資の流通は天秤 テ
( ンビン の
) 論理
で成り立つ。地位や権力はいらない。
ゲ
( コクジョウ で
) あ り、 戦 国 時 代
を 演 出 し た の で あ る。 タ テ 理 論 側 か
う。 武 田 信 玄 は、 人 は 石 垣、 人 は 城
永岩小学校の閉校をひかえて。 川原口の住人 村上良憲
の 秩 序 を 乱 す 悪 党 で あ る。 悪 党 は 山
と い っ て い る。 信 長 は 恐 れ ら れ、 配
ら 見 て、 支 配 し に く い 集 団 こ そ、 世
地 の 人 や、 流 通 を 扱 う 人、 芸 人 や 職
イオン三光あたりから見た津民の山々
地域と一緒
子ども会主催のどんど焼きは日ごろお世
話になっている地域の皆さんへのお礼の
気持ちを込めて始まった。伝統の駅伝大
会は校区全集落を駆け抜ける。最近の授
業参観には保護者よりも地域のおばちゃ
んたちのほうが多かったりする。
永岩小学校はいつも地域と一緒にあった。
どんど焼き
駅伝大会
(1996年・昭和61年)
みんな走る!
複式学級について
どじょうすくいの講習会?
永岩小学校は設立当初から、一貫して複式、複々
式の授業形態をとっていた。いや、とらざるをえ
なかったというべきか。分校時代から戦後の新し
い教育制度の中で独立してからも、複式学級が完
全になくなることはなかった。
中津市になって小学校の統廃合の話がなされた
とき、複式学級が子どもたちに与えるマイナス面
がいくつも指摘された。好んで複式を選んでいた
わけでもないが、そのときは、永岩の創立当初か
らの存在意味や価値が完全に否定されたように感
じ憤りを覚えたものだ。
しかしながら、長い間の複式学級の経験が、学
校と子どもたちと地域住民の絆を網の目のように
紡いでいたともいえる。ことあるごとに請願書や陳
情書を提出し、ある時は町長室にみんなで押しかけ
て、この小さな小学校と子どもたちを守り続けてき
た。この川原口の住民たちはただ者ではない。
閉校を決めた 2013 年度、永岩小学校で初めて
複式学級が消滅していた。2年生2人と6年生3
人の2学年2学級。永岩に複式学級がなくなった
から閉校を決めたのだと言ってみたいような気も
する。
2014年早春 2年生教室
いつか子どもたちが見ていた永岩の景色を、明
るい教室の窓からあなたも眺めてみませんか。
現 保護者より
今年度で「永岩小学校 閉校」と思います
と、胸がつまってきます。そして、たくさん
の思い出が蘇ってきます。残念でなりません
が、寂しがってばかりもいられませんね。
新しい学校生活にも我が子と共に前向きに
進みたいと思います。まだ、ちょっと不安で
。
すが …
地域の皆さん、先生方、大変お世話になり
ました。
子どもたちをこの学校に通わせられて、幸
せでした。
村上 和代
私 は、こ の 春 閉 校 す る 永 岩 小 学 校 を 卒
業 す る 息 子 の 父 親 で す。私 も、今 か ら 数
十 年 前 こ の 小 学 校 で 六 年 間 学 び ま し た。
今 思 え ば、色 々 な 思 い 出 が よ み が え っ て
来ます。この記念誌 を手にした卒 業生が、
これを開く事によってその当時の自分に
タイムスリップ出来たなら幸いです。
色 々 と ご 支 援、ご 協 力 有 り 難 う ご ざ い
ました。
橘 芳浩
私 が 行 っ て い た 小 学 校 は も う
あ り ま せ ん。思 い 出 が 沢 山 あ っ
た け ど、学 校 を 見 る こ と は 出 来
ま せ ん。だ か ら、永 岩 小 学 校 は
私の学校みたいになくなってほ
し く な い の で す。子 供 た ち に 寂
しい思いをしてほしくないので
の校舎に感謝です。
達 を 見 守 り、送 り 出 し て き た、こ
い ま す。こ れ ま で 何 人 も の 子 ど も
れ あ う こ と も 出 来 て、特 別 な 思 い も あ り ま
ま で 歩 い て い る と、地 域 の 皆 さ ん た ち と ふ
し て か ら の 六 年 間、毎 朝、子 ど も 達 と 学 校
る こ と な ど、思 い も し ま せ ん で し た。入 学
ま た、我 が 子 が こ の 永 岩 小 学 校 に 入 学 す
橘 由美子
す。学 校 を 保 っ て い く の は 大 変
かもしれませんが。
永岩小学校閉校を決意してから、
例年通り行っている行事すべてが
私 も か つ て は こ の 永 岩 小 学 校 に
す。
と 思 う と、複
これで最後なんだ …
雑 な 気 持 ち で、な ご り 惜 し く も 思
は あ り ま し た が 通 学 し、今 と な っ
転 校 し て 来 て、ほ ん の 数 ヶ 月 間 で
こ こ に 学 校 が な け れ ば、こ う い っ た ご 縁
もなかったと思います。
ては、母校でもあります。
今 ま で、あ り が と う ご ざ い ま し た。い ろ
い ろ お 世 話 に な り ま し た。た く さ ん の 方 々
に 温 か く 見 守 ら れ、支 え ら れ て、ま た、学
枝光 律子
校の行事等に快くご協力頂けたこと感謝申
し上げます。
あとがき
いよいよ閉校となって初めて実感する喪失感や葛藤が多くの関係者
の皆様の胸の内にあると思います。未来に残すべきものは何かと考え、
永岩の過去と未来と現在を繋ぐことができるような記念誌をつくりた
いと願って始めた作業でしたが、なかなか思うようにいかず力の及ば
ないことばかりでした。卒業されていかれた先輩方と未来の子どもた
ちから、今、閉校を決めた私たちが問われているような気がします。
今後どんな活動ができるかわかりませんが、閉じられた宝箱をもう一
度こじ開けるつもりで、「永岩の今後を考える会」を立ち上げ、閉校
記念事業と並行して閉校後の校舎の活用について協議を続けてきまし
た。地域に深く根をおろしたくさんの出会いを紡いでくれた永岩小学
校に感謝の気持ちでいっぱいです。学校は閉じられても永岩小学校の
心の扉は開いていますので、今後ともご助言とご協力をよろしくお願
いします。
さまざまな事情で編集作業が遅れ年度末間際になって慌てて発行し
た次第ですが、地域の皆様から貴重な写真の提供とあじわい深い寄稿
をいただき、永岩らしい記念誌になったと思います。発行に当たり、
閉校記念事業賛助金のご協力をいただきました多くの関係者の皆様に
篤く御礼申し上げます。そして何より、長い間永岩小学校PTA賛助
会員として小学校と保護者の活動を物心両面から強力に支えてくれた
川原口地区全戸の皆様に、甚深の謝意を申し上げ、結びの言葉といた
します。ありがとうございました。
皆さまのご健在を念じております。
2014年3月
記念誌編集係 村上 由香思
永岩小学校記念誌 2014
2014年(平成 )3月 日 発行
30
印刷所 高橋印刷所
大分県中津市耶馬溪町大字川原口782
発行所 永岩小学校
永岩の今後を考える会
発行者 永岩小学校ふれあい活動実行委員会
編 集 永岩小学校PTA
26
2
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