第10巻第1号 2009年10月 - 15年戦争と日本の医学医療研究会

Vol. 10 No.1ISSN 1346 – 0463
October, 2009
Journal of Research Society for
15 years War and Japanese Medical Science and Service
15年戦争と日本の医学医療
15年戦争と日本の医学医療
研究会会誌
第10巻・第
10巻・第1
巻・第1号
2009
2009年10月
10月
目
次
京大病理学教室史における 731 部隊の背景・・・・・・・・・・・・・・・・
ナチ時代の医師の犯罪と医師たちの戦後・・・・・・・・・・・・・・・・・
第2次大戦と東京大学医学部卒業生をめぐって―関連書籍の解説―・・・・
『日本関東憲兵隊報告集』の資料紹介とその分析(その 3)・・・・・・・・
杉山
山本
加我
一戸
武敏
啓一
君孝
富士雄
1
11
21
26
「ノモンハン戦争学術研討会」等への参加報告 2009 年 6 月 18 日~21 日・・・ 一戸 富士雄
報告「ハイラル要塞遺跡」訪問記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・村口 至
日本関東軍軍医たちが見詰めたノモンハン戦場の惨状と戦傷兵の後遺症・・
一戸 富士雄
35
39
41
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
44
Contents
Background of Unit 731 in the History of Department of Pathology, Kyoto University
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
SUGIYAMA Taketoshi 1
Medical war crimes in the Nazi era and Nazi doctors after the war・・・・・・・・・・ ・
YAMAMOTO Keiichi11
World War 2 Background of Unit 731 in the History of ・・・・・・・・・・・・・・
KAGA Kimitaka
21
On the materials of KANTO KENPEI TAI. Japanese military police body in “Manchuria”
ICHINOHE Fujio 26
ICHINOHE Fujio,
35
Participant report in the Nomonhan war scientific symposium June,18-21,2009
The visiting report of the ruins of HAILAR fortress・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・MURAGUCHI Itaru 39
The terrible scenes on the Nomonhan battle field and after effects caused by a war among the wounded soldiers
ICHNOHE Fujio
41
Editorial Note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
44
15年戦争と日本の医学医療研究会
15年戦争と日本の医学医療研究会
Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
第 26 回研究会記念講演
京大病理学教室史における
731部隊の背景
杉山武敏
神戸大学名誉教授・京大元教授(病理学)
The Background of Unit 731 in the History of Department of Pathology, Kyoto University
SUGIYAMA Taketoshi
Former Professor of Kyoto University, Emeritus Professor of Kobe University, Pathologist
キーワード Keywords: 石井四郎 Shiro Ishii, 石井部隊 Ishii corps、731 部隊 Unit 731、清野謙次 Kenji Kiyono、
、
岡本耕造 Kozo Okamoto、生体実験 Medical experimentation on living persons
亜鉛など、多くの金属や脂肪酸、コレステリン、燐
脂質、胆赤素、リン酸、ブドウ糖、リン脂質の組織
化学的方法を確立し、その成果を『顕微鏡的組織化
学』にまとめて、昭和 30 年に出版された。
糖尿病、高血圧の実験的研究:この組織化学研究
糖尿病、高血圧の実験的研究
の中で、
(1)オキシン、ジチゾン、アロキサン、ア
ントラニール酸などの亜鉛結合試薬が膵臓のランゲ
ルハンス氏島(ラ氏島)の亜鉛と結合し、その毒性
で細胞を破壊して糖尿病を起こすこと、
(2)VitB2
などの無毒の亜鉛結合試薬は細胞を破壊せず、しか
も後続に与えた毒性亜鉛結合試薬の作用を防止する
ことを示した。そして(3)動物体内では、尿酸、
VitB2 からアロキサンが、トリプトファンからオキ
シンが自然な代謝産物として生ずることから、ヒト
の場合でも「体内に生じた毒性の強い亜鉛結合物質
によってラ氏島が破壊され、糖尿病が起こるのでは
ないか」という「糖尿病亜鉛説」
(昭和 24 年)を提
唱した。さらに、神戸大学時代には、このようにし
て起こした兎やラットの実験糖尿病が素因として子
孫に伝わる証拠を示して、疾病素因の子孫への伝達
を主張した。高血圧の累代効果の研究の中から、今
日、世界で注目されている「自然発症高血圧ラット
SHR」の純系ラットが確立された。生体染色の研究
から始まって高血圧自然発症ラット(SHR)の確立
に至る仕事は一連の成果であった。
岡本教授の激しい研究魂:岡本教授は、早朝から
岡本教授の激しい研究魂
深夜まで年 365 日、年始や大晦日も研究を離れるこ
とがなかった。戦後の最悪の研究環境の中で千尾近
いウサギ、ラットを飼育して実験し、神戸大、東北
大、京都大時代を通じ、その研究の激しさは、多く
の弟子に影響を与えた。神戸大学では、若者と教室
に泊まり込んで、研究をともにし、また、神戸大学
での研究を終えてから、京都大学で夜になってから
はじめに:私は、岡本耕造先生の弟子のひとりで
はじめに
あったことから、この問題に特別の関心を持ってい
た。今回、
『京都大学医学部病理学教室百年史』を編
集執筆する機会があり、教室史の中で石井部隊との
関係を考えてみた。私自身戦争を体験した戦中派の
人間であり、当時の国民の心理を今振り返る時期に
もあるし、京都大学助手時代に病理学教室を訪ねて
きていた石井四郎中将を 2- 3 回目撃した最後の世代
でもある。という意味で、私自身が新しい資料を発
掘提供できるということではないが、教室内部から
見た記録を残しておく責務があると考えて、筆をと
ることにした。
岡本先生の研究:岡本耕造先生は富山県の生まれ
岡本先生の研究
で、第四高等学校を経て、京都帝国大学医学部を昭
和6年に卒業された。卒業後、清野先生の弟子とし
て病理学教室に入り、病理専門家としての道を歩ま
れた。清野先生から最初に与えられた仕事は生体染
色の機構に関する研究で、生きた細胞を色素で染め
た時に取り込まれた色素が細胞内で色を失う機構に
関する研究であった。この研究は『細胞及組織ノ酸
化還元機能ニ関スル研究』の題名で昭和 7 年日本微
生物学病理学雑誌、第 26 巻 10 号、1135 頁に掲載
されている。論文の末尾に「爾後ノ実験ハ、余ノ入
営ニヨリ休止セザルヲ得ザリシハ、甚ダ不本意二存
スル所ナリ」とあるように、
昭和 7 年 2 月 1 日付で、
金沢の歩兵第 7 連隊幹部候補生として、軍の召集を
受け、12 月に復職されている。「健康なものだから
甲種合格で、逃げるわけにはいかなかった」と平素
いっておられた。以後、昭和 12 年まで鉄の組織化
学を進め、次いで 13 年に石井部隊参加後、戦後、
神戸大学教授時代を含めて、銅、銀、金、パラジウ
ム、マグネシウム、カルシウム、アルミニウム、コ
バルト、カドミウム、水銀、アンチモン、ビスマス、
連絡先:〒606-8036 京都市左京区修学院関根坊町 4-8
address: 4-8 Kaikonbo-cho,Shugakuin,Sakyo-ku,Kyoto 606-8036,Japan
TEL/FAX 078-723-3910
E-mail address: [email protected]
-1-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
別の研究生を指導した。研究に没入しているうちに
長女を亡くされ、後に、おなじ年頃の秘書を見てそ
のことを嘆いておられた。この研究の激しさは、石
井部隊で昭和 13 年から 20 年の終戦まで無為に過ご
した時間を取り戻す意味と、養家から勘当を受けた
逆境を超える意味があったが、もう一つの理由は、
戦後石井部隊から解放され、自由な研究ができたか
らだと思う。先生はやや複雑な家庭環境を持ってお
られた。当時の多くの優秀な士がそうであったよう
に、明治 41 年にお生まれの後、養子として士族の
岡本雄三郎家に移籍され、結婚後、さらに産婦人科
医である京都帝国大学医学部の第一期生岡本重保医
師のもとに養子入籍されたが、家業である産婦人科
を継ぐのを嫌い、病理学教室に入局され、さらに軍
に入られた。このことによって養家から勘当を受け、
関係断絶を宣告されていた。平時の研究への劇しさ
は、学園紛争時には逆に学生院生から厳しい攻撃の
対象にもなり、永くしこりも残った。また、石井部
隊の経歴は社会的にたたかれ、学士院賞はじめ多く
の賞を受けられたが当然の文化勲章を受けられるこ
とはなかった。近畿大学教授医学部長として勤務の
あと、平成5年2月、84 歳で亡くなった。
ハルビンへの追悼と衝撃の旅:岡本先生が亡くな
ハルビンへの追悼と衝撃の旅:
った年に、ちょうど、日中合同組織化学会議が瀋陽
で開催されたのを機に、私は石井部隊跡を訪ねた。
岡本先生の高血圧ラットは中国でも有名で、分譲の
希望が多く、訪問者も多かったが、やはりハルビン
を訪問されることはなかった。したがって、先生に
代り、731 への追悼の旅をという気持ちもあり、瀋
陽から汽車で、広大な満州平野の落日を西に見なが
ら、夜になってハルビンについた。翌日は快晴で、
松花江を船で巡り、そのあと 731 部隊跡を訪問した。
20 分ほどのタクシーで、旧部隊本部の建物の前に着
いた。破壊された動力棟の2本の高い煙突と、構内
のレールが目に入った。本部を右に回ると「侵華日
軍七三一部隊罪証陳列館」があったので、中に入る
と、様々な写真と実物展示があった。何よりも衝撃
を受けたのは、凍傷実験を遂行したとして非難され
た吉村寿人技師、ペスト死体の解剖で名を上げた石
川太刀雄丸技師とともにそこに見られた犯罪人とし
ての恩師「岡本耕造技師」の写真展示であった。1
時間ほど展示物を見た後、「我々の京都大学がなぜ
731 部隊の発祥の場になったかを突き詰めたい」と
メモ帳に残し、陳列館を出た。外は、暗い過去とは
全く異なる、明るいハルビンであった。
運命の 731 部隊行き:この旅で、私は、岡本先生
部隊行き:
の一生の厳しい現実に大きな衝撃を受けた。岡本教
授は、平素、731 部隊関係のことを話されることは
なかった。いろいろ社会的に話題や攻撃の対象にな
っても、自らの過去を釈明されることはなかった。
今回、
『京都大学医学部病理学教室百年史』の編集を
しながら、731 部隊が教室や岡本先生にとって何で
あったかを書き残そうとし、これには反対論もあっ
たが、その作業のうちに、常石教授による岡本先生
への電話インタビューに対しての「清野先生に中国
に行くように言われたが、そんなことをすれば、養
-2-
October, 2009
子に行った先との折り合いが悪くなることは目に見
えており、何度も断ったが、結局行くことになった。
しかしそのため養家を出されてしまい、苦労した」
(常石敬一『医学者たちの組織犯罪』
、朝日新聞社、
1994、230 頁)という回答に遭遇した。岡本先生は、
師に当たる清野先生と当時の戸田正三医学部長の強
い説得で、やむなく 731 部隊に参加されたのであっ
た。養家との関係断絶は事実、戦後 30 年近く経た昭
和 47 年の学士院賞受賞まで続いた。当時、関係修復
の結果、故郷の家の相続などの問題で多少あわてて
おられた記憶がある。
京都大学病理学教室: 京都大学は、明治2年に
蘭化学者ハラタマによって大阪に開設された大阪舎
密局(しゃみは Chemie の意味)に起源を持つ。これ
が、幾度の変遷の後、明治 22 年に京都に移されて旧
制第三高等学校となり、明治 30 年の勅令 209 号によ
って、東京の帝国大学(明治 19 年)に次ぐ第2の総
合大学、京都帝国大学となった。京都大学は、地理
的に政府とは距離があって、「自由」が校風になっ
た。病理学教室は明治 28 年東京帝国大学を卒業、明
治 33 年にドイツ留学を終えた 30 歳の藤浪鑑(あき
ら)教授によって開講された。昭和 6 年に定年後、9
年に腎不全で亡くなるまで 30 数年にわたって医学研
究の範を示した。その在職中に遂行された業績はは
なはだ多く、多くの門下を養成して我が国の病理学
の確立に貢献した。研究業績の主要なものは、広島
県で片山病として知られた日本住血吸虫症の感染経
路の解明と石灰散布による予防法の確立で、大正7
年には片山地区の農民の日本住血虫症の感染率を
18%から 1%まで低下させ、帝国学士院賞を受け、
ついで、大正 13 年には他府県でも本法を適用して同
病を我が国から根絶した。また、藤浪肉腫という、
鶏肉腫の研究では、わが国のがん研究の先鞭を切り、
最近になってその遺伝子が解明された。
清野謙次教授:藤浪教授の後をうけた清野謙次教
清野謙次教授
授は傑出した精力的な人物であった。名門の出で、
祖父の清野一学は沼津藩医であったが家運は傾き、
父清野勇は弟と家出をして苦学の末、弟の勉は哲学
者となり、兄の勇は東大医学部一期生として卒業、
岡山医学校、ついで大阪府立医学校の校長・病院長
を歴任、その長男であった謙次は中学時代以来、東
大の考古学者坪井正五郎教授に発掘資料を送るなど
して真剣に考古学を目指したが、父勇はこれを許さ
ず、協議の末、京大医学部に入り、趣味で考古学を
はじめることとした。卒業後、病理学を専攻、
「病変
の観察は生きた細胞で行うべし」と考えて、生体を
染めて観察する「生体染色法」を導入した。この研
究で、全身の結合織や肝臓などに色素を取り込む細
胞が広く存在することを発見、これを「組織球性細
胞」と名付けて系統的に研究し、その結果を『生体
染色研究の現況』
(大正 10 年)として出版、翌年 37
歳で帝国学士院賞を受賞した。この学説は留学先の
アショッフ教授の『網内系学説』
(大正 13 年)の確
立に影響を与え、病理学の根幹学説の一つとして広
い分野に影響を与えた。清野は受賞後の大正 11 年
ごろから病理学の研究をやめて、少年時代からの趣
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
性脳炎の調査を清野教授に提案し、これが学部教授
会で取り上げられて、その調査に主導的な役割を果
たすことになった。この調査の動機について、石井
は、清野教授の通夜の席で次のように述べている
(『随筆遺稿』昭和 31 年)。
「大学院学生時代に眠り
病が起りまして、各大学が行っているのに京都大学
だけがねむっていると京都大学が眠り大学になるか
ら、一つ京都大学は奮発して、この眠り病の本態を
突止めて頂きたい、とこう申し上げました。先生膝
を打って賛成して下されて、あの大編成が出来て、
丸亀に本拠を置き、香川県の二豊郡に本拠を置いて
一切の資料、お墓の屍体迄集めてこの研究に従事し、
それから細菌班とウイルス班に分けまして、渡辺遍
さん(注:のちに 731 部隊技師となる)と共に、朝
から晩までシャンベランを漉しまして、遂に動物試
験に成功して、東京に於ける学会に発表して、あら
ゆる反駁をそこに受けたのでありますが、とうとう
まあウイルスであるということが承認されまして、
日新医学の抜刷になったのは御存知の通りでありま
す」と述べている。この調査について、木村廉教授
は、後に座談会でその概要を述べている(日新医学
23 巻下、2326 頁)。要約すると「大正 13 年 8 月 3
日に京都を出発、丸亀の衛戍病院に本拠を置き、翌
年 3 月まで調査した。猿 27、家兎 40、モルモット、
ラット等のげっ歯類も使用した。脳炎患者の脳脊髄
液 20、血清 1、病屍の脳脊髄液 1、病屍の脳乳剤 5、
計 27 検体を使用、後頭部を穿刺する山岡法や角膜内
接種法で検体の病原性を、体温上昇、四肢まひ、嗜
眠、眼瞼下垂、体重減少などを指標にチェックした。
患者の脳脊髄液では、猿では 20 検体中 16 例で陽性
所見を得、病原性は継代接種で増強するものもあっ
た。細菌を検出する検体もあったために、検体をシ
ャンベランやライヘルト濾過器で濾過して陽性を確
認した。また、病理検査では、血管周囲の細胞浸潤
と神経貪食現象が見られ、最終的に濾過性病原体に
よる脳炎と結論した」
。この大正 13 年 7-9 月に流行
した脳炎は、世界的流行はみられず、香川県に圧倒
的に多く、ついで岡山、兵庫と特定の地域に突発的
な流行をきたした脳炎であった。この調査は後の石
井部隊結成に大きな意味を持ったとされる。(1)調
査隊結成に石井が果たした役割は無視できないもの
で、陸軍で石井が新組織結成に執念を燃やすきっか
けになった、(2)猿を用いた感染機構の生体実験の
体験を積んだ、
(3)墓の死体を掘り返して病変や検
体を調べる体験をし、また感染症解明における病理
解剖の重要性を体験した、
(4)木村廉教授、渡辺遍
技師と連帯関係ができ、木村廉教授は、猿での生体
実験法が評価され、わが国微生物学会での地位を確
立した、(5)石井は予算を過大に使い込んだが、金
が人を動かすことを学んだ。(6)戸田医学部長、荒
木寅三郎総長に何度も掛け合って事業予算を獲得す
る体験を積んだ、(7)その過程で、荒木寅三郎総長
の娘清子を見染め、求婚の末に結婚、社会的な信頼
と活動の地盤を得た。この 7 番目の項目は、石井の
学界、軍における発言権を不動のものにしたと考え
られる。
味であった日本人の起源を探る人類学発掘作業に没
頭、津雲、吉胡、稲荷山、太田ほか、全国 20 数か所
に及ぶ貝塚や千島列島などで 1400 体に及ぶ縄紋人
などの骨を発掘、骨計測で解析し、アイヌ人と縄紋
人とは骨が異なることを指摘し、アイヌ人とは異な
る均一人種が日本にいたとし、これを「日本原人」
と呼び、
『日本原人論』
(大正 13 年)なる書を出版し、
東大の小金井良精考古学教授の縄紋人アイヌ説に反
論し、わが民族の固有性を重視し、日本人の歴史観
を支える天孫族とのつながりに期待を持たせた。
清野学説の現代における評価:清野は、
「組織球」
清野学説の現代における評価
は、肝臓や脾臓の洞血管壁を構成する内皮性貪食細
胞である「網状織内皮細胞」に由来する「血液単球」
が血管外に出て組織に現れたものであるとし、
「組織
球」と「網状織内皮細胞」は本質的に移行し得る一
連の新細胞系統で、血液細胞とは別の系統の細胞で
あると考えた。しかし、1965 年に「血液単球」の血
液幹細胞由来が証明され、清野の「組織球性細胞」
学説の一角が崩れ、さらに、1970 年にオランダのフ
ァンファースが「組織球」の「単核性食細胞系学説」
を提唱、清野・アショッフの組織球、網内系細胞の
概念は否定された。また、人類学的な研究成果に関
する「日本原人論」については、発掘人骨の DNA
解析が進み、日本列島は、古来、広く縄紋人の占拠
する島であったが、弥生時代以降、渡来人が九州と
本土を中心に稲作とともに土着の縄紋人と混血して
本土日本人を形成し、東北・北海道と琉球を中心に
縄紋人とその遺伝子が色濃く残ったとする学説が現
在支配的となっている。以上のように、両分野とも、
現代の新しい科学技術の前に清野学説は欠陥が露呈
した。しかし、両分野における清野の貢献とも、
「組
織球」の命名、多数の縄紋人骨の発掘という2点に
ついては、その名を歴史にとどめており、また、生
体染色が、細胞機能を推し量る解析病理学への道を
つけ、病理学のその後の方向付けに影響を与えた点
で評価を消し去ることはできない。
清野教授と石井四郎と香川県の脳炎調査:森鴎外
清野教授と石井四郎と香川県の脳炎調査:
以来、軍医が留学して学問をする時代であった。し
かし、清野自身がアショッフのもとの留学していた
時に第一次大戦が勃発して、ドイツは敵国になり、
帰国を余儀なくされた。その後、軍医たちはしばら
くドイツに留学できず、国内の細菌学教室には、国
内留学の陸軍や海軍の軍医が殺到、石井四郎もその
一人であった。たまたま、大正 10 年微生物学の松
下禎二教授が代議士になり辞任し、適当な後任が得
られず、清野は、病理学助教授から急遽微生物教授
に出向を命じられ、海外での短期の微生物学研修を
条件にそれを受けた。しかし、大正 12 年、病理学
第二講座の速水猛教授が直腸癌で亡くなり、清野は
急遽病理学教授として帰任することになり、しばら
くは両講座を併任し、その後、昭和 3 年に病理専任
となった。石井は大正 9 年に京大卒業後、近衛歩兵
連隊、軍医中佐となり、大正 13 年に、清野は両教室
併任時代に微生物学教室の大学院生として石井を受
けいれたのである。石井は身の丈 180cmの野心的
な好漢で、当時、香川県に猛威をふるっていた嗜眠
-3-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
石井の海外視察:石井は、香川の脳炎の実地調査
石井の海外視察:
を終えて、大学院を終了、その研究で医学博士の学
位をとり、しばらく京都衛戍病院に勤務していたが、
昭和3年に病理学教授となった清野の勧めで、自費
で海外情勢を調査に出かけた。この旅行では、シン
ガポール、セイロン、エジプト、ギリシャ、トルコ、
イタリア、フランス、スイス、ドイツ、オーストリ
ア、ハンガリー、チェコスロバキア、ベルギー、オ
ランダ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、
フィンランド、ポーランド、ソ連、エストニア、ラ
トビア、東プロイセン、カナダ、アメリカの 25 カ国
を訪問し、各国の細菌戦の準備状態を調査したとさ
れる。石井はこの海外旅行で何を見てきたか。外国
語に堪能でない一介の外国人軍医が、紹介もなく軍
や民間の研究機関、大学を訪問して機密性の高い細
菌戦の状態を、スパイの嫌疑をかけられることなく
本当に調査できたのか疑問が多い。本人は後にも先
にも、この訪問に関する手記や報告書を残していな
い。ただ一つ、清野の通夜の席で、次のように述べ
ている。
「英・米・仏・露、ロシア迄入りまして永く
この観点で見たのでありますが、どうも日本にとっ
ても、一つも手をつけない大きなデフェクトがある
という事がわかりました。即ち日本に於いては非常
に日本が偉いと、日清、日露、日独、済南、シベリ
ア、こういう事変を通じてぐんぐん興隆の一途を進
んで、日本の中におる我々は、日本中が一等国であ
ると自負していましたが、この観点から世界の内面
に入って考えると丸で逆であったのであります」
。我
が国の国際的評価の低いのに落胆した内容である。
また、石井が最もあこがれていたロックフェラー研
究所を訪問した形跡がないことが知られている(青
木)
。この点、海外在留経験を持つ内藤良一軍医中佐
はロックフェラー研究所に黄熱病ウイルスの入手を
掛け合って断られた記録を残している(青木)
。また、
こうも述べている「日本へ帰って来て、内閣の諸公
と軍の首脳に報告しょうと思いまして、
(清野)先生
を訪ねました。そりやいいところを掴んだと、掴め
ないとこを掴むのがいいんだと」。
「然し乍ら連戦連
勝の日本、万世一系の天皇を上にいただいて隆々た
る日本の何人もこれを耳にする人はございませんで
した。誰も相手にしません。しかし既に、第一、民
族の潰されたのが御存知の通りアメリカインディア
ンであります。第二の潰された、殆ど潰された民族
はモンゴリアンであります。第三番目にジャツプで
あります。先生はこの着想を非常に喜ばれました。
これは一つの大きな掴み所だから、これをものにし
て将来を計劃するのが一番いいということでありま
す。それでも、非常に有頂天になっている日本とし
て一番難しい事でありました」。わが国が潰されかけ
ているのに、だれも自分の意見を聞いてくれない。
石井が海外でも、帰国後も、余り相手にされなかっ
た様子がよく出ている。
軍医学校防疫研究室
軍医学校防疫研究室(防研)の開設:
防疫研究室(防研)の開設:帰国後、石
(防研)の開設:
井は「我が国の国防には欠陥がある。国際的に禁止
されている細菌戦の準備が必要」と強く主張した。
「陸軍軍医学校の教官に補せられたのを幸にして、
-4-
October, 2009
(清野)先生と相談し、又長与先生(東大総長)に
も相談し、それから荒木(京大総長で義父でもある)
にも相談しましたが皆、この着眼は、でた杭は必ず
たたかれることがあるんだから、或は然らんという
考えでございました」
。誰もが石井の意見をとり上げ
てくれない中で、あらゆる学界の権威の力を使って、
細菌戦への研究を実現しようとする、まさに世論の
逆を行く常識破りの「個人的着想」を最高学府の権
威の支援で強引に進めた様子が読み取れる。そして
軍医学校の小泉教官の協力の下に、昭和7年8月に
軍医学校内に石井を首班とし、5名の軍医を配属す
る防疫研究室(防研)が開設された。この研究室は
翌年の昭和8年8月には、軍医7人、要員 35 人の大
所帯になり、その業務については、主任である石井
軍医正に一切が委ねられた。この軍医教官の中には、
石井と同じく木村廉教授の指導を受けた増田知貞軍
医大佐も含まれていた。
人体実験は東郷部隊で始まった:石井は増田軍医
人体実験は東郷部隊で始まった:
大佐とともに防研発足直後から満州に出張し、ハル
ビン南東約 70 キロの背陰河(ペイインホー)に研究
施設の場所を定め、昭和8年には民家を立ち退かせ
て施設を建設し、石井自ら東郷太郎の偽名を用いて、
極秘の研究集団「東郷部隊(加茂部隊とも称した)」
を組織し、設立当初から捕虜を材料にした炭疽菌接
種などの人体実験を行った。昭和 13 年に同施設を視
察した参謀本部の遠藤三郎中佐は被験者を檻に監禁
し菌を生体に植えて病勢の変化を観察していたと残
酷な研究ぶりを戦後に述べている(常石)。また、
当時の隊員によれば、人体実験は感染実験にとどま
らず、飢餓状態で湯と水だけでどれぐらい生きるか
を見る実験、馬の血で人間の血を入れ替える実験、
高圧電流で人がどのように死ぬか、青酸化合物でヒ
トはどのように殺せるか、などの様々な人体実験を
試み、ここだけで約 200 名ばかりの捕虜を人体実験
に使用したという(常石)。この国際法規に違反す
る捕虜使用の人体実験の早々の導入に、石井自身の
嗜好と残虐性を見る。その後、昭和 9 年 8 月に 16
名の中国人捕虜の脱走事件がおこり、この研究所の
機密保持が困難になり、全員軍医学校へ引き上げて
いる。この東郷部隊の段階で、石井は、
(1)研究の
機密性、
(2)業務の全権委譲、
(3)捕虜を実験に自
由に使える(特移扱)の仕組み、
(4)十分な予算背
景と組織、
(5)軍中枢部の信頼、の5つの、人体実
験への仕組みを完全に手に入れている。日清戦争、
日露戦争、第一次大戦では、捕虜の人道的配慮では
範を示したとされる我が陸軍が、この時点で軍事機
密のベールの陰で道義の道を完全に放棄した原因は
何であったか。それは、石井の人種差別観、残虐性、
医師研究者としての人格的欠陥でなかったか、この
点はあまり議論されていないが、少年時代、軍隊時
代の石井の「秀才」、「奇行」、「気狂い軍医」ぶりは
議論されている(青木)。これらを覆い隠したのは、
説得のうまさ、軍の機密機構、石井の背後にある大
学人への信頼であった可能性がある。多分、京都大
学の荒木寅三郎総長を含む最高学府の人脈に始まっ
て、長与東大総長も巻き込む人脈背景が、石井四郎
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
心的な役割を果たした。ミドリ十字を設立、血液製
剤 人工血液を生産、AIDS,肝炎の感染問題を起
こした。内藤は、欧米式の技術開発や応用に長けて
いた。戦後は石井とうまくいかなかったようである。
以上2名は、京都大学出身の軍医で、大学の先輩後
輩と軍の上下関係と木村廉教授に指導を仰いだ点で、
石井の腹心の部下として、石井の路線を忠実に支え
たと考えられる。北野政次軍医中将
北野政次軍医中将は、大正
9 年東
北野政次軍医中将
大医学部卒、近衛第四連隊、大正 12 年東大伝研、一
等軍医。昭和 7 年に軍医学校教官となり、731 部隊
発足時、満州医大微生物学教授となり、関東軍顧問
を務める。軍医少将に昇進し昭和 17 年に 2 代目の
731 部隊長に就任、笠原班の笠原四郎技師とともに
流行性出血熱(孫呉熟)に関する研究を実施した。
笠原はリケッチアやウイルスの研究を進めた陸軍技
師で、戦後は北里研究所の病理部長になる。
大学から石井部隊に送られた技師たち:石井の
大学から石井部隊に送られた技師たち
731 部隊への研究者集めは、昭和 8 年に開始され、
大学医学部の若手教員を対象に行われた。その第一
陣は京都帝国大学からの 8 人で、吉村寿人が昭和5
年卒、石川太刀雄丸、岡本耕造、田部井和、斎藤幸
一郎が昭和 6 年卒、林一郎が昭和8年卒、湊正男が
昭和 10 年卒、田中英雄は京大医動物学講師であった。
彼らは、昭和 13 年 3 月 10 日に陸軍技師として採用
され、辞令上の肩書は「陸軍技師、関東軍防疫給水
部部員」であった。石川太刀雄丸と同じく、昭和 6
年卒の岡本耕造は講師昇任の後、昭和 8 年卒の林一
郎は助手の地位から、731 部隊に送られた。石川は
昭和 19 年 7 月まで勤勉に 731 部隊で病理班長を務
めて帰国、農安地区の 57 例のペスト解剖例の標本を
持ち帰って、金沢大学教授に収まり、終戦後、その
材料を米軍に提供して、戦争責任の免責に重要な役
割を果たし、林一郎は、731 部隊を嫌ってまもなく
逃げ帰ったが、石井は激怒して「殺してやる」と探
しまわったという。戦後、長崎大教授、奇形学を専
攻。昭和 14 年卒の妹尾佐知丸は学生時代から清野
を慕って病理学教室に入局、その時、すでに、清野
は後述の清野事件で退職、路頭に迷うが、森茂樹門
下から、三重医大学、ついで 16 年に満州へ召集、
一時的に 731 部隊に所属したが、19 年に本土決戦の
ために帰国の後、終戦、岡山大学教授・医学部長と
してすごした。一方、清野と同窓で、清野と文筆趣
味をあわせ持ち、随想集『断絃』(昭和 9 年)、
『寒
椿』
(同 11 年)などを残している川上漸は藤浪の弟
子として京大病理に入り、慶大病理教授になるが、
昭和 13 年 3 月に他と時を同じくして石井部隊に入
っている(森村氏の口絵写真参照)
。戦病死されたと
聞く。清野は考古学の弟子も多かったが、少ない病
理学の弟子のほとんどを石井部隊に送ったことにな
る。清野がなぜ、石井部隊をこれほどまでに重視し、
多くの弟子を石井部隊に送り込んだか。いくつかの
理由があげられる。
(1)弟子として石井の能力を高
く評価していた、
(2)軍の巨大研究施設を評価して
いた、
(3)当時の戦時体制優先、
(4)石井から多額
の謝礼をもらっていた、などが考えられる。石井が
激しい勧誘のための宣伝活動を行っていたことはよ
を軍中枢に過信させたと見るべきである。東郷部隊
は小規模であったが、この時点で 731 部隊の人体実
験路線は確立されたとみてよい。ただ、東郷部隊は、
あくまでも組織としては試行的ものであり、将来の
施設ではこの低レベルで「殺人」だけを目的とする
ような実験内容を「学術的研究」に補完することを
石井自身も考えていたであろう。昭和7年に後進の
増田軍医を、同 12 年には内藤軍医を海外留学に送
り出して技術を獲得させ、その一方で、大学から優
秀な人材を受け入れるために動き、そのために「魅
力のある」巨大研究施設の提供を軍中枢に働きかけ
ている。
関東軍防疫部:昭和
11 年には非公式であった「東
関東軍防疫部
郷部隊」は関東軍の配下に入り、「関東軍防疫部」
と呼ばれるようになり、急性伝染病の防疫に関する
調査研究と細菌戦準備が主な目的となり、ハルビン
地区での昭和 13 年以降の拡充が決定された。また、
細菌兵器開発に要する費用は、議会へ報告を必要と
しない関東軍特別予算に繰り入れられ、年あたり現
在の90億円相当を、議会の監視なく受けていた。
このようにして、石井は着々と自らの路線を築いて
行った。その結果、「ハルビンの平房に(ロックフ
ェラー・インスティチュート)を、又南支に中山大
学を中心に、その外、逐次研究室を作って行って、
遂に 324 の研究所を作った」のである。
「この結果、
伝染病並にその伝染病死の率が下り、大蔵省は非常
に喜んで、これではまだ継続出来るという結論にな
り、ハルビンに大きな、丸ビルの 14 倍半ある研究所
を作って頂き、中に電車もあり、飛行機も、一切の
オール綜合大学の研究所が出来て、ここで真剣に研
究をし」、「人体実験の宿願」を遂げることになっ
た。「関東軍防疫部」は昭和 15 年以降「関東軍防疫
水部」と名称を変更した。
石井部隊に貢献した軍医たち:石井以外に、その
石井部隊に貢献した軍医たち:
右腕として貢献した幹部軍医に次の3人があげられ
る。いずれも、石井のブレインとして 731 部隊を支
えた軍医たちである。増田知貞軍医大佐
増田知貞軍医大佐は、陸軍衛
増田知貞軍医大佐
生部学生として京大医学部へ進み、大正 15 年に卒
業後、陸軍軍医学校生、大学院生として微生物学教
室に入り、木村廉教授の指導を受ける。陸軍軍医学
校教官として石井と「東郷部隊」を設立、その後 2
年間、独仏の軍医学校へ留学。帰国後、陸軍省医務
局員となり、731 部隊に 2 年、その後、中支防疫給
水部(栄 1644 部隊)に配属、人体実験や兵器への
応用を担当する。石井についで、昭和 16 年に2代
目部隊長を務め、以後、軍医学校防疫研究室にあっ
て関東軍防疫給水部の業務を指導。石井の「片腕」
といわれる。戦後、米軍の逮捕を恐れていたが、昭
和 27 年に交通事故で死亡。内藤良一軍医中佐
内藤良一軍医中佐は石
内藤良一軍医中佐
井のもう一人の「片腕」
。昭和 6 年京大医学部卒、
陸軍軍医学校生、京大微生大学院、軍医大尉となり、
2 年間コッホ研究所で細菌学、ペンシルバニア大学
で血液の凍結乾燥術を習得、帰国後、軍医学校教官
になる。731 部隊に常駐せず、軍医学校の防疫研究
室(防研)で細菌戦研究を構想、石井を支援した。
戦後、英語が堪能で、通訳をして米軍免罪交渉に中
-5-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
く知られている。石井に部隊に案内された時に「学
者を送ると約束するまではお前を降ろさない」とハ
ルビン上空を何度も旋回したと森茂樹教授が語って
いたという。清野が、そして当時の戸田正三医学部
長が、医学部をあげて人材を送ったのは、この研究
施設を研究者にとって最高のポジションを持つ研究
施設と見ていたからであろうという考えを常石氏は
述べている。石井は自由に使える高額の謝礼を顧問
たちに与えていた可能性がある。岡本教授も戦後、
そのことを疑っておられたと聞く。学部長も顧問た
ちも、みな石井に軽く煽てられただろう。当時の軍
が多額の学者勧誘資金を準備していなかった筈がな
い。一方、清野教授は細菌学の経験は浅く、細菌を
増やしたり、保存したり、兵器としての細菌毒素の
研究指導をしたりは、技術的にもできない門外漢で
あった。これらができるのは、細菌学者か細菌学の
技師たちである。細菌学に知識のない病理学の清野
教授の石井部隊への関与は、部隊にとってどのよう
な意味があっただろうか。それは、細菌感染による
発症過程を観察する人体実験を捕虜に課す誘惑を石
井四郎に与えたに違いない。参加した技師たちは、
研究者としての自発性を持ち得なった。石井部隊で
は、軍医たちが軸になって細菌の兵器化、人体実験
を進めたのであって、学者たちは盲目的に指示に従
い、また、大学は組織を動かして、また高額の顧問
謝礼への返礼として盲目的に石井を鼓舞し、人材を
送り、部隊に学術・技術面で協力したと考えられる。
東大伝研ほか、多くの大学と 731 部隊の関係も深か
ったようで、これは、細菌学会あげて石井部隊に協
力していたためと考えられる。昭和 17 年当時の細
菌学会の集合写真(常石)の最前列には、軍服姿の
石井四郎と北野政次がうつっていることからも、彼
らと細菌学者の密接な関係は明らかである。
清野事件による清野の失脚:清野は、自ら書を嗜
清野事件による清野の失脚
み、書を集め、古典の筆写を趣味とした。書写され
た書物は、万葉、風土記など日本のものから、孝経、
孟子、敦煌写本など中国の古典に至るまで相当数に
上る。写本はみな裝本され、交遊のあった名家に揮
毫を求めて鑑賞を樂しんだ。昭和 9 年の藤浪教授の
逝去のあと 2 年をかけて完成した『藤浪先生遺影集』
、
『藤浪先生追悼録』と4巻の『追悼絵巻物』と 1 編
の『孝経』は、手の込んだ朱の書き入れがなされて
「藤浪先生追悼録」と墨書された桐の箱に入れられ
て保存された。この書写趣味と天性の蒐集癖によっ
て、清野は写経と蒐集に情熱を注ぐようになり、恩
師への追悼を介して次に述べる「清野事件」につな
がった。清野教授は、その地位と堂々たる風貌から
京都の寺院に自由に出入りして経典を閲覧していた
が、昭和 13 年 6 月 30 日、疑いを持った神護寺側の
通報から、帰宅途上に刑事の尋問を受け、カバンの
中から経典数十点の窃盗が発覚、教室と自宅の捜査
により、京都市内の 22 寺社の経典 630 巻、さらに
教授室の捜査で 1360 点の無断帯出が発見され、トラ
ックに押収された。押収物件の中にはすでに表具さ
れ、いずれの寺社の所蔵か不明のものがあったと新
聞は伝えている。藤浪教授の葬儀後の心の動揺と趣
-6-
October, 2009
味の嵩じた結果による「自他の見境が失われた不思
議な心境の中での結果」と自ら述懐している。直ち
に休職処分ののち、7 月 10 日京都刑務所に収監、6
か月に及ぶ囚われの身となる。その間、人類学での
友人でもあった京都大学濱田耕作(青陵)総長の辞
職表明、総長選挙途中での文部省の選挙の中止命令、
総長選挙取りやめ、1週後の 7 月 25 日濱田総長の心
労による急死に至る京大開学以来のスキャンダル事
件に発展した。清野は、翌昭和 14 年 8 月 1 日付をも
って教室から去り、同年 3 月に石井四郎の 731 部隊
に派遣したばかりの弟子たちとの連絡も絶え、以後
の大学との関係、技術指導は、石井、増田、内藤の
3人の軍医、微生物学の木村廉教授が主役を果たし
たと考えられる。石井は、戦後、清野と再会してい
る。清野の通夜の席で、石井は「清野先生の構想は
どこを叩いてもそれに応ずる反応があったのであり
まして、今はよくこれをまとめて国家に奉納して、
そして最後の日本の防禦、破滅の防禦、生々発展、
再建にする(役立てる?)ようにと、わざわざ茨城
県から出ていらっしゃいまして、私のうちにお泊り
になって、このことを始終案じておられたことであ
ります」と述べて、意気盛んであった過去を労わり
合ったことがわかっている。
時代の空気:清野が
731 部隊の医学顧問として石
時代の空気
井に与えた精神的、人的支援は、清野教授の通夜の
席での石井の発言『清野随筆遺稿』から十分に読み
取れる。清野は辞職後、東京で活発に「太平洋協会」
の嘱託として活動し、優良民族を劣った民族と混在
させて共存繁栄させる「大東亜共栄圏」推進を人類
学者として主張し(『日本人種変遷史』昭和 19 年、
71 頁)、「(民族共栄の中で)優良民族に保護を加
えて、その人口を増加せしめ、その開発を促進する
可きである」と主張している(同 72 頁)。もちろん、
「民族の優劣は骨の計測など人類学的に判断できる
ものではないが、個々の民族に得手、不得手分野が
あり、それを補い合うのが大東亜共栄圏の思想であ
る」と説く。当時、よく使われた戦争を正当化する
言葉に「八紘一宇」という言葉があった。「天の下
では全ての民族は平等」の意味である。これが当時
の国民の戦争への正義感の支えであった。昭和 7 年
から昭和 16 年にかけて、わが国は、満州事変から、
昭和 12 年 12 月 17 日南京占領を経て、昭和 14 年 9
月 19 日に南京で汪兆銘の新中央政権が樹立され、派
遣軍総司令官に西尾寿造大将が任命され、人民と第
三国人に対して「新支那建設」のための善政を誓う
声明を出している。さらにこの時期を超えて、昭和
16 年の対米開戦の真珠湾攻撃にいたるわが軍の優
勢で沸いていた時代でもあった。戦争中も戦いに負
けたのちも、大義のための戦いと考えて耐えていた
国民も、平房だけで 3000 人の捕虜を人体実験で犠牲
にし、404 名を終戦時にガスで抹殺したうえに焼却
し(太田ほか)、証拠隠滅し、戦後の米軍との交渉
ですべてを免罪にした石井部隊の残忍さと身勝手さ
に大きな衝撃を受けた。
実戦での細菌の使用と評価:昭
12 年に日中戦争
実戦での細菌の使用と評価
は拡大し、昭 14 年 5 月ノモンハン事変で 8 月ハルハ
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
河支流にチフス、パラチフス、コレラ菌、馬鼻疽菌
を撒布、石井は 10 月関東軍より感謝状、功四級金鵄
勲章と陸軍技術有功賞を授章、昭 15 年の 5 月 23 日
の『朝日新聞』に表彰記事がある。10 月寧波(ニン
ポー)で「ペストノミ」を航空機から低空散布、106
名が死亡、昭 16 年、常徳(チャントー)作戦では「ペ
ストノミ」36 ㎏を低空散布、100 名の死者を出す。
昭 17 年に、浙江省衢州(くしゅう、チューヂョウ)
で「ペストノミ」の雨下投下では 2000 名の犠牲者を
出したという。同年 8 月の浙贛(せっかん、ズエガ
ン)作戦では、731 部隊と南京栄部隊(1644 部隊)
が参加、玉山、金華、浦江の諸都市において、ペス
ト菌、コレラ菌、パラチフス菌等を撒布した。ペス
ト菌は「ペストノミ」により、また他の細菌は、水
や住居の汚染、饅頭に入れる方法で伝播された。こ
の時はパラチフス菌と炭疸菌だけでも 130 ㎏が用意
されたが、感染地区に入った日本軍にも死者 1700
人が出たという。昭 18 年 7 月、
石川太刀雄丸が帰国、
昭和 15 年 6 月に行った農安(ノンアン)地区でのペ
スト解剖例 57 体持ち帰る。安達(アンダー)実験場
での細菌弾の効力に関する人体実験が頻繁に行われ
た。風船爆弾への搭載やサイパンやグアム硫黄島で
の決戦での使用を計画したが、東條英機や天皇の反
対で実現しなかった。「ペストノミ」は確かに、新
兵器であったが、その未熟さゆえに、味方への危険
も大きかった。先に述べたように、石井は、東郷部
隊の成立で、捕虜を使う人体実験への仕組みを入手
したが、多くの大学の研究者を手に入れることによ
って、
「科学技術」を導入することができた。このよ
うな、非人道的な個人的発想を、
「科学技術」によっ
て実現した例にオウム真理教のサリン事件の例があ
る。両者の違いは、オウムが宗教的狂信者と科学者
の結合であったが、石井部隊の場合は国家が背景に
ある公的な組織で、いずれも社会の目には見えない
ところで進められた。ナチスも細菌戦の研究はして
いたが、ニュールンベルク裁判では裁かれなかった。
最後まで訴追の対象となったのは、
「捕虜を使った人
体実験」であった。現在も、石井部隊への非難が絶
えないのは、
「捕虜を使った人体実験」のためであり、
その規模の大きさは歴史上類例を見ない。しかも、
それがすべて米軍によって免罪になった点である。
人体実験を独断で取り入れた石井四郎がいなければ、
また彼だけでも罪を償っておれば、わが国民がこれ
ほどみじめな気持にならなくてすんだものと思う。
戦後、免責の過程でまとめられた「19 人の医者によ
る人体実験のレポート」、「石川レポート」
、「病理標
本」は米国から返却されたまま行方が不明という(青
木)
。歴史的検証には不可欠であるが、あまりに生々
しく公開ができない代物かも知れない。しからば、
人体実験は具体的にどのようになされたのか。岡本
教授は、平素、病理解剖の検閲や総括は必ずされた
が、病理解剖を自らなされなかった。その点から、
731 部隊では、病理解剖を介助人に任せて自らはさ
れなかったのではないかと我々は永く考えてきたが、
最近、次の記述が見つかり、病理解剖の義務を回避
できる状態ではなかったことが判明した。それは
-7-
1948 年 7 月に帝銀事件での捜査会議に報告された警
視庁捜査 1 課係長であった甲斐文助警部の次のメモ
である。昭和 13 年に京大から 731 部隊に加わった病
理学者の岡本耕造(証言者は岡本構造となっている
が前後から意図して変えたのではなさそう)の証言
として、次のように述べているという。
「岡本の言に
依れば研究の場合は一度に捕虜 15 名くらいを試験
台に供し病死の前に発病後 3 日目 4 日目と云う具合
に其の病状を研究する為に、殺して死体を解剖に附
したと云う。死体は何れも窒息死であった為恐らく
青酸加里を以って毒殺したものと思うが毒殺の下手
人は誰であるか判らぬと云う。それは死体だけを研
究の為廻されていたからである」(甲斐文助メモ、
http://www.scn-net.ne.jp/~tsunesan/page%201.ht
ml )。これは 731 部隊における「人体実験」について
の、岡本先生自身による証言であり、当時の軍幹部
の方針や命令には抵抗できなかった状況を示してお
り、病原菌の植え付けにより発病後時間を区切って
殺害された遺体が、実験群ごとに解剖に回ってきた
ことを示している。帝銀事件では、青酸化合物を使
い慣れた犯人として、石井部隊員の関与が疑われ、
石井もそれを認めたために徹底した尋問がなされた
が、途中で GHQ から尋問中止命令が出た。その頃の
証言である。
まとめ:ここで、石井部隊の何が問題であったか、
整理をしておきたい。まず、731 部隊は石井の個人
的発想の具現であった。陸軍も大学関係者も、石井
四郎の非人道的な性格の本質を見抜いていなかった。
その導入過程で、大学の最高権威が石井の人物と計
画を軍に暗黙に保証した。石井の主導で、早期から
残酷な人体実験が導入され、その路線は、最高度の
機密、捕虜の「特移扱」
、潤沢な予算、大学の保証に
よって守られ、発展した。その後、多くの細菌学者、
大学関係者が、この計画に協力した。戦時の国民総
動員下の軍への盲従の中で、参加を強制された学者
たちは、研究者として主導権を持ち得ない中で実験
に協力させられた。大学は、その権威と協力で、過
去に例を見ない規模の「捕虜を用いる人体実験」を
正当化したことになる。人道的には、この大規模な
人体実験を主導した石井四郎を免責した米国の戦後
処理には誤りがあったと思う。われわれ大学人とし
ても、資料や記憶が失われないうちに、二度とこの
ようなことが起きないように、歴史の検証をしてお
くことが望ましい。なお、本論は病理学教室史から
考察したが、微生物学教室が主舞台であったという
反論もある。
参考資料
本稿は、平成 21 年 3 月 20 日、京大会館で行われ
た 15 年戦争と日本の医学医療研究会主催の第 26 回
研究会での講演内容を補足執筆したもので、731 部
隊の時系列を病理教室史と対比するにあたって、主
に次の資料、ことに、常石、太田、近藤、青木各氏
の資料を参考にさせていただいた。特に必要と思わ
れる部分には、引用もとを文中に入れた。
1.清野教授通夜の席での石井発言『随筆遺稿』
、昭和
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
8.杉山武敏、松田道行編『京都大学病理学教室百年
史』
、同刊行会(代表:翠川修)、平成 20 年
31 年
2.森村誠一『悪魔の飽食』第三部、角川文庫、昭和
58 年
3.常石敬一『731 部隊』講談社現代新書、平成 7 年
4.常石敬一『医学者たちの組織犯罪』朝日文庫、平
成 11 年
5.太田昌克『731 免責の系譜』平文社、平成 11 年
6.近藤昭二『鑑定書:日本の国家意思による細菌戦
の隠蔽』平成 11 年 2 月 5 日
(http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/2
23.html)
7.青木富貴子 『731』新潮社、平成 17 年
年
明 30
明 32
西暦
病理関係
October, 2009
著者プロフィル
昭和 7 年生まれ。昭和 32 年京大医学部卒、33 年
京大医学部助手(病理学教室、米国留学)
、41 年愛
知がんセンター研究所病理部室長、43 年シカゴ大準
教授(ベンメイ癌研究所)
、46 年神戸大教授(病理
学教室)、62 年同医学部長、平成元年京大教授(病
理学教室)、7 年滋賀県立成人病センター総長、12
年同研究所長、14 年退職。主たる研究領域:病理学、
実験白血病、化学発癌。
付表:京都大学病理学教室の歴史と 731 部隊
石井部隊関係
世界情勢他
明 42
明 44
1897 京都帝国大学設立
1899 京都帝国大学医科大学
開校
1900 病理学教室開講、藤浪鑑
教授着任
1904 片山病は日本住血吸虫
症
1909 藤浪肉腫
1911
明 45
大3
大5
大7
大9
大 10
1912
1914
1916
1918
1920
1921
大 11
1922
大 12
1923
大 13
大 14
1924
1925
大 15
1926
昭2
昭3
6 月石井医学博士、荒木寅三郎京大総長の娘と結婚。
1927
1928 清野病理教授専任、微性 石井海外研究員として海外視察
物木村廉教授
増田、京大大学院生として、微生物学教室で細菌学専攻
1929 『生体染色の研究』
1930 新館完成、藤浪教授退官 石井、欧米視察を終へ、軍医学校防疫部防疫学教室に入
り、軍へ細菌戦を働き掛け。
内藤京大卒、増田、陸軍軍医学校で細菌学教官に就任。 9 月満州事変/柳
1931
条 湖 事件/15 年
戦争勃発
1932
1月石井細菌培養缶を発明。8 月軍医学校に防疫研究室 3 月満州国建国
(防研)設置、石井首班・要員 35 名、東郷部隊準備、石井・
増田、満州に一か月間出張、背陰河(ペイインホー)に「東
郷部隊」を設立、増田 12 月から約 2 年間、フランスとドイツ
の軍医学校へ留学。
1933 『生体染色綜説総論』
炭疽菌人体実験の事実(栗原義雄、遠藤三郎証言、常石に
よる)、石井学者公募開始。石井式濾水機完成。
明 33
明 37
昭4
昭5
昭6
昭7
昭8
2 月日露戦争開
戦
ハーグ 陸戦 規則
(1911 年批准)
清野留学
『生体染色の研究』
微生物学講座設置
清野病理学会宿題講演
石井四郎医学部卒業
清 野 微 生 物 教 授 着 任 、 石井 2 等軍医、軍医中佐
『生体染色の現況』
清野帝国学士院賞受賞
(37 歳)、石器時代人骨発
掘調査
速水猛教授死去、清野病
理教授併任
『日本原人の研究』
石井大学院生として微生物学教室、香川県の脳炎調査
火災で病理本館焼失
ジュネーブ生物化
学兵器禁止議定
書
石井大学院終了、京都衛戍病院。増田京大卒。
-8-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
昭9
昭 10
1934 藤浪教授逝去
1935
8 月東郷部隊から捕虜 16 名脱走。内藤微生物大学院。
東郷部隊は、軍医学校から関東軍の配下に入る。
昭 11
1936
軍令で防疫機関「関東軍防疫部」となり、平房に「大防疫施
設」を建設計画、「防疫」の実験を行い、極秘施設とする。軍
令「陸甲第七号」関東軍非常軍事総予算に繰リ入れ。
昭 12
1937
昭 13
1938
昭 14
1939
昭 15
1940
昭 16
1941
昭 17
1942
昭 18
1943
昭 19
1944 木村廉医学部長
昭 20
昭 21
昭 22
昭 23
昭 25
昭 26
昭 27
昭 31
昭 32
昭 33
昭 34
日中戦争拡大、内藤、独コッホ研と米ペンシルバニア大へ 12 月南京入城。
留学(~1939)。増田細菌弾を研究。
清 野 事 件 、 杉 山 教 授 着 関東軍防疫班設置、春に岡本教授、石川太刀雄丸ほか、陸
任、清野 7 月 9 日休職“生 軍技師、軍属として学者の徴用。
体染色の研究”
防疫研究所完成。内藤1月に黄熱病ウイルス入手を試み
る。軍医学校へ戻る。石井 5 月ノモンハン事変で出動,8 月
ハルハ河支流にチフス,パラチフス,コレラ菌、馬鼻疽菌を
撒布。10 月関東軍より感謝状、勲章陸軍技術賞。
森茂樹教授着任
5 月 23 日の『朝日新聞』に表彰記事。8 月関東軍防疫部→
関東軍防疫給水部と名称変更、10 月寧波(ニンポー)で「ペ
ストノミ」を航空機から低空散布。106 名死亡。
結核研究所設立
石井陸軍少将。常徳(チャントー)作戦「ペストノミ」を低空散 太平洋戦争勃発
布。
北野政次軍医中将 731 部隊長に着任。青酸ガスの人体実
験。内藤シンガポール南方軍防疫給水部。浙江省衢州(くし
ゅう、チューヂョウ)での雨下投下。浙贛(せっかん、ズエガ
ン)作戦、コレラ菌、日本軍に感染者 1700 人。
清野『太平洋民俗学』
内藤、軍医中佐、軍医学校教官、7 月、石川太刀雄丸帰
国、金大教授、農安(ノンアン)地区ペスト解剖例 57 体持ち
帰る。安達(アンダー)実験場での細菌弾の人体実験。
サイパンやグアム戦での使用を計画、実現せず。風船爆
弾、牛痘ウイルス攻撃計画、東條英機も認めず。
1945 原爆調査団の遭難、杉山 8 月 9 日ソ連参戦、9‐12 日 731 部隊解体、8 月終戦。9 月
教授逝去
GHQ サンダース調査開始、新妻中佐、金子少佐、増田大
佐、田中淳雄少佐尋問、内藤が通訳。11 月「サンダースレ
ポート」完成。米軍最初から新妻中佐に免責を持ちかける。
10 月増田尋問。
1946
1 月以降、トンプソンによる石井、北野の帰国と尋問、5 月「ト ニュールンベルク
ンプソンレポート」。年末ソ連の尋問要求。
裁判、人体実験。
1947 鈴江教授着任,京都帝国 ニール・スミス、内藤の再尋問で生体実験を確認「スミス報
大学を京都大学と改称 告」。4 月フェルは内藤、金子、増田、5 月石井尋問、6 月 20
日「細菌戦研究についての新情報の要約」なる「フェルレポ
ート」、「19 人の医者による人体実験のレポート」、「穀物へ
の攻撃に関する研究」、6 月「石川レポートと病理標本」。12
月ヒルとヴィクターは 12 月 12 日付で「細菌戦調査の概要報
告」。米軍筋からすべて免責。
1948 天 野 重 安 『 血 液 学 の 基
礎』
1950
内藤ブラッドバンク設立。朝鮮戦争。
1951 新制京都大学医学部発 トンプソン中佐自殺
足
1952
増田交通事故死。10月日本学術会議第4部会の「細菌兵
器使用禁止に関するジュネーブ条約批准を国会に申し入れ
る件」の提案を第7部会(医学部会)の北岡正見、木村廉、
戸田正三会員が反対。
1956 森茂樹教授退官、岡本耕 清野謙次死去
造教授、ウイルス研究所
設立
1957 微生物学田部井和教授
1958 天野・市川・岩方、ウイル 石井病理学教室に時々来訪。
ス粒子証明
1959
10 月石井四郎喉頭癌で死去。
-9-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
昭 35
昭 36
昭 37
昭 44
昭 47
昭 49
1960
1961 鈴江教授退官
1962 翠川教授着任
1969 学園紛争、田部井教授退
官
1972 岡本教授退官
1974 濱島教授着任
昭 56
昭 57
昭 58
昭 62
昭 64
1981
1982
1983
1987 濱島教授退官
1989 翠川教授退官、杉山着任
森村誠一『悪魔の飽食』
内藤良一死去
教科書検定問題
サンダース死亡。
陸軍医学校跡で 35 体の人骨発掘、100 体とも言う。
平3
平4
平5
平6
平7
1991 日合教授着任
1992
1993 京大大学院研究科昇格
1994
1995 杉山退官
ナチスの人体実験
岡本教授死去
731 被害訴訟
平 16
平 17
平 18
平 19
平 20
2004 国立大学法人京都大学
2005
2006
2007
2008
October, 2009
東京大学安田講
堂攻防
常石「陸軍軍医学校防疫研究報告第一部」発見
- 10 -
松本サリン事件
地下鉄サリン事
件
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
第 26 回研究会記念講演
ナチ時代の医師の犯罪と医師たちの戦後
山本啓一
山本医学鑑定研究所、龍谷大学非常勤講師
Medical war crimes in the Nazi era and Nazi doctors after the war
YAMAMOTO Keiichi
Yamamoto Igakukantei Kenkyusho, Ryukoku University Part-time Lecturer
キーワード Keywords: ニュルンベルク医師裁判 Nuremberg Doctors’ Trial、人体実験 Medical Experiments on
Concentration Camp Inmates、身体冷却実験 Freezing Experiment、肝炎実験 Hepatitis Experiment、安楽死殺人
“Euthanasia”
;Direct Medical Killing、T4 行動 Operation T4、戦後の安楽死裁判 Post-war Euthanasia Trials、ド
イツ医師会 German Medical Association、ミチャーリヒ Mitscherlich、ハイデ Heyde、ヴェルシュアーVerschuer
1. 始めに
ドイツ帝国は第一次世界大戦に敗れ、帝政が崩壊
してワイマル共和国が誕生した。それに続くのがナ
チ支配の第三帝国である。1933 年 1 月、ヒトラーが
政権を獲得した時、多数の医師が歓呼の声を上げた
という。同年 3 月の第 8 回帝国議会開会に際して、
ワイマル共和国高級医務官僚シュタウダーは、ヒト
ラーに、「ドイツの医師前衛部隊は、あらゆる身分、
職業、階級からなる真の民族共同体を作るという帝
国政府の断固たる決意に喜んで賛意を表し、民族の
健康の奉仕者としての義務を忠実に果たすことを誓
いつつ、祖国のこの大きな課題に喜んで奉仕いたし
ます」と打電している。その年のドイツ内科学会(4
月 18 日)や外科学会(4 月 19 日)では、
「総統誕生
日」
(4 月 20 日)を記念して、ヒトラーに忠誠を誓
う演説が行われている(文献 1、以下数字のみ)。ナチの
医師団体、国家社会主義医師同盟、は 1929 年 8 月に
結成されていたが(1)、医師のナチ党員比率は 45%
と高く、親衛隊加入率も 9%と、教師の 0.4%と比べ
ると極めて高率であった(2)。官僚国家に忠実で国
家主義者であったドイツの医師の大多数は、第一次
世界大戦時、既に、兵士を手荒く治療して患者の権
利無視には慣れていたので、ナチ支配以前から、来
るべきナチ支配に協力する準備ができていたと推察
される(1)。
第二次世界大戦を引き起こした第三帝国は、敗戦
で崩壊した。
2. ニュルンベルク医師裁判
ニュルンベルク国際軍事裁判終了後、同地で、ア
メリカ軍による裁判が行われた。これは、1945 年 12
月 20 日にベルリンで認証された、
「戦争犯罪、平和
あるいは人道に対する犯罪、を犯した人物の処罰に
関する連合国管理理事会法第 10 号」に基づくもので、
ニュルンベルク継続裁判と呼ばれる。法律家、企業、
親衛隊経済行政局などに対する全 12 裁判であるが、
その第 1 号が医師裁判(1946 年 11 月 21 日開廷)
で、
ナチ時代に医師によって犯された犯罪(
「安楽死」や
人体実験など)が裁かれた。医師裁判の被告 23 人中、
医師は 20 人であった。準備期間が短かったことなど
から、今日から見ると、被告人の選択にいくらか恣
意があるとされるが、被告席に並んだ人物の選択に
誤りがあったというのではない(2)。罪状の重点は
人体実験など強制収容所で犯された犯罪におかれ、
「安楽死」関係は後景に退いている。
2-1. 人体実験関係
ドイツにおいても、人体実験には動物実験が先行
しなければならず、人体実験は、動物実験との関連
のもとにおいてのみ許されるとされていた(3)。と
ころが、ナチ時代では、人体実験は倫理の枠を逸脱
し、医学実験は新たな知見発見のためなら、見境な
くその衝動に委ねられるようになった。強制収容所
は、医学者にとって、倫理、刑法の規制のない研究
の場となった(2)。
弁護人は、人体実験に関しては、戦時中という特
殊事情が考慮されなければならないと主張した。防
衛のための医学実験は、戦場における兵士の傷病の
治療や予防に役立つというのである。また、被験者
の選択も、自発的に同意した者か、死刑囚であり、
問題なかったと反論した。さらに、人体実験には、
ドイツに限られないが、長い伝統があって、古代に
まで遡ることができると主張した(2)。
この、長い伝統という主張は簡単には退けられず、
裁判所も、被告人たちをサディストであると決めつ
けることはできなかった。さらに、被告人たちが行
った実験は、真面目な、科学的な目的設定に基づい
て行われた実験であるとの弁護もあった。それで、
裁判所は、判決を下すための倫理的な基本原則を確
立する必要があった。その結果まとめられたのが、
ニュルンベルクコードである(2)。
以下、いくつかの実験に関して述べる。
連絡先:〒606-8335 京都市左京区岡崎天王町 52-202
address: 52-202 Tenno-cho,Okazaki,Sakyo-ku,606-8335,Japan
E-mail address: [email protected]
- 11 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
図1
低圧(超高度)実験(ダッハウ収容所、図 1)には、
ラッシャー(空軍軍医大尉)らが関与し,超高度飛
行の人体に及ぼす影響の解明が目的とされた。低圧
室が用いられ、1942 年 4 月の中間報告では、地上 12
キロという高空の想定の下、低圧室内の被検者の反
応が記載されている(4)。
身体冷却実験(ダッハウ)では、飛行機の海面不
時着時のような海難事故が想定されている。ラッシ
ャーはこれにも関与し、ホルツレーナー(キール大
学生理学教授)も加わった(4)。この実験は、ゴー
ルバントにより、専門誌に発表されている(5)。身
体冷却時の身体現象に関する知見は、動物実験や海
難事故被救助者などから得られたとされ、ホルツレ
ーナーとラッシャーの名前も挙げられている。また、
ホルツレーナーとその共同実験者によって、特に重
要な経験的事実が明らかにされたとされている。一
つは、身体冷却時に生じる反射的な筋強剛で、この
存在は生存(仮死)を意味し、まだ救助の可能性が
あるという。二つ目は、救助後、体表面と体深部間
に起こりうる不都合な熱交換で、例えば、体表温度
が 24 度、体の深部温度が 32 度の場合、温度が平衡
に達して、深部温が 28 度にまで低下してしまうとい
- 12 -
October, 2009
う可能性である。この
体深部温の低下が、海
難事故などの被救助者
のいわゆる「遅発」死
の原因であるという。
親衛隊長官ヒムラー
はこれらの実験に大き
な関心を持ち、自ら総
裁を務める親衛隊組織
「アーネンエルベ」基
金を通じて援助を行っ
たが(6)、アメリカ軍の
ダッハウ解放の数日前、
犯跡隠滅のため、ラッ
シャーを殺害させてい
る(7)。
海水の飲用水化実験
は、飛行機の地中海着
水時などの渇きの問題
解決が目的とされた。
最初は被検者の自発的
意思に基づいて行われ
たとされるが、最終的
にはダッハウの囚人が
使われた(8)。発疹チフ
スはソ連領で活動して
いたナチや軍にとって
重大問題で(9)、そのワ
クチン実験が 1941 年頃
に、主にブーヘンワル
ト(図 1)で行われた。
この実験は、この収容
所の医師ディングシュ
ーラーの業務日誌など
から露見した(4)。これには、ムルゴウスキー(医
師、武装親衛隊衛生研究所所長、ニュルンベルク裁
判被告人、以下 N と称する)、ローゼ(ロバート・コ
ッホ研究所熱帯医学部門長、N)なども関与し、被検
者は数百人かと思われる。死者数は不明である(8)。
スルフォンアミド治療実験は、女性収容所だったラ
ヴェンスブリュック収容所(図 1)で、ポーランドの
ユダヤ人女性が対象になった。傷つけられた筋肉に
ガス壊疽菌が接種された後、薬物の効果が調べられ
た。ゲープハルト(ヒムラーの侍医、ホーエンリー
ヘン治療施設長;N)らが関与したが、彼は、実験終
了後の 1943 年 5 月、実験結果をベルリンの軍医アカ
デミー(出席者約 200 人)で報告している。死刑囚
を被験者として用いたと報告されたが、収容所名や
実際の被験者に関する言及はなかった(8)。化膿性
炎の一種であるフレグモーネを人体に生じさせ、
様々な物質の治療効果を調べる実験が、スルフォン
アミド治療実験とほぼ同時期に、ダッハウで行われ
た(8)。イペリットやフォスゲンなどの毒ガスに対
する実験もザクセンハウゼン(図 1)で行われている。
毒ガス実験による死者数は明らかではないが、非常
な苦痛を伴う実験であった(4、8)。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
肝炎実験(4、10)
:肝炎は伝染性疾患の可能性が
高いとされていたが、当時はまだ確認されていなか
った。1930 年代スカンジナビアで大流行し、ドイツ
でも散発的な流行があったが、これらが、1940 年代
初期の大流行につながる。戦争は、肝炎拡大に好条
件を提供した。戦争開始と共に、兵隊や一般人の患
者数は増加し、1941 年から 43 年にかけて、ドイツ
兵だけで 5 百万から 6 百万人が罹患した。このよう
な状況のため、1942 年に、肝炎研究は戦時重要研究
に格上げされた。
人体実験の場として、以下のような拠点が知られ
ている。地中海のクレタ島で、1941 年、ロストック
大学内科教授マイタラー(1898-1967)は、黄疸発症
前の血液を媒介として人から人への感染実験を行い、
「臨床週報」に報告している。報告時、被検者に関
する記載はなかったが、イギリス人捕虜に対する人
体実験であったと推察される。ブレスラウでは、1941
年、同大学内科教授グートツァイト(1893-1957)や
その助手であったフォークト(1909-1974)によって
行われた。報告時、具体的な記載がなかったある被
験者群は、同大学精神科教授ヴィリンガー
(1887-1961)のクリニークの患者と推察された(彼
は 1961 年、T4 行動(後述)の鑑定人であったとの
疑いで尋問され、その数日後、オーストリアの山中
で転落死した。自殺の可能性も推測されたが、断定
には至らなかった)。3 番目が、1942 年から 45 年に
かけて、ベルリンなどで行われた実験で、前述のグ
ートツァイト、フォークトと共に、衛生隊士官ドー
メン(1906-?)が加わっている。「帝国医師-SS 警
察」グラヴィッツ(1899-1945、自殺)は、ヒトラー
の侍医ブラント(カール・ブラント、N)の依頼に応
じて、ヒムラーに、ドーメンがザクセンハウゼンで、
できるだけ若い囚人 8 人を被験者として肝炎予防実
験を実施できるよう書面で請願した。ドーメンに対
する人体実験疑惑はこの書面に基づくが、書面に関
する疑問はニュルンベルクの尋問では解明されなか
った。ニュルンベルクでは、証人たちは、人体実験
は計画されたが実施はされなかったと主張し、人体
実験の責任を自殺したグラヴィッツに転嫁しようと
した。
ヒムラーは、前記請願を認めたが、若い囚人 8 人
が実際に被験者になったかどうか不明である。また、
ドーメンはアウシュビッツに出かけたとされている
が、その詳細も不明のままである。ただ、1943 年 8
月に、11 人の少年がアウシュビッツからザクセンハ
ウゼンに移され、厳重に隔離されている。ザクセン
ハウゼンの囚人マイヤーによれば、ドーメンは実験
のため、同収容所を 6 回訪れ、4 回目に、前記少年
たちの一人の腸内にゾンデで接種し、6 回目に(日
時は不明であるが、5 回目の訪問が 1944 年 10 月の
終わり頃であるから、それ以後である)肝穿刺を実
施したとされている。少年たちの到着から肝穿刺ま
で 1 年ほどの間隔があるが、その間、ドーメンには、
人体実験に関する医の倫理上の立場と上司グートツ
ァイトからの圧力の板挟みによる葛藤があったらし
い。しかし、肝穿刺が実施されたとすれば、最後に
は上司の圧力に屈したことになる。ドーメンは 1950
年に、
「流行性肝炎の実験的研究」という題で発表し
ている.その時、人体への接種は、グートツァイト
とドーメン自身に対する接種のみであったと報告し
ているが、これは上述の記載と矛盾している。1960
年代初めのザクセンハウゼン裁判で、検察は前述の
マイヤー証言を提出したが、ドーメンは、18 頁にわ
たる態度表明書を提出し、起訴どころか捜査も行わ
れなかった。ドーメンに関する、それ以上の詳細は
不明である。
2-2.「安楽死」関係
2.「安楽死」関係
この責任を問われたのは、ブラック(1904-1948、
N)とブラント(カール・ブラント、1904-1948、N)
の二人だけで、二人とも、自らは手を汚さない、い
わゆるデスク犯人(8)である。実行犯たちは、後述
するように、別の裁判で裁かれた。
安楽死殺人へ導いた最初の大きな一歩が、1933 年
の遺伝病子孫予防法である。この法律によって、遺
伝病患者は、新設の遺伝健康裁判所に届け出られな
ければならなくなっていた。それに基づいて、手術
が実施されるべきかどうかが判断されたのである
(統計のある 1934 年から 36 年では、申請の約 90%
が手術すべきであると判定された(11))。1934 年か
ら、30 万人以上に対して不妊手術が実施されたが、
原因別では、先天性精神薄弱者が最も多く約 50%を
占めた(11)。1934 年から 1936 年における手術死亡
者は 437 人であった(11)。1939 年には、子供の安楽
死殺人が始まった。医師、助産婦は障害児出生の場
合、報告義務を課されたが、その報告に基づいて、3
人の鑑定人が、安楽死させるかどうかを判断した。
犠牲者は、治療の体裁づくりのため病院などにしば
らく置かれ、後、薬で殺害された(2)。これらが、
1939 年 9 月の、不治疾患の患者の殺害を目的とした
T4 行動(Aktion T4)の前段階である。T4 行動に関
しては、ヒトラーがブラント(前述)と帝国指導者
ボウラー(1899-1945、自殺)宛に、医師への全権委
任に関する秘密指令(12)を出している。この指令は
10 月末に出されたが、実際は 9 月 1 日に遡る秘密指
令で、
「患者の病気を医学的判断に基づいて不治と判
断した場合、人道的考慮に基づいて安楽死が認めら
れるように医師たちを選んで、その権限を拡大する
仕事が帝国指導者ボウラーと医学博士ブラントに委
託される」という内容である。
安楽死殺人は、2 つの時期に分けることができる
(8)。第 1 波が、前記 T4 行動で、1941 年 8 月まで続
いた。鑑定によって「安楽死」犠牲者とされた者は、
中間施設を経由して、6 つの施設(killing center)
(図 1)の内の一つに送られ、
薬物注射で殺害された。
後には、一酸化炭素ガスも使用された。犠牲者は全
部で 7 万人である。施設は尤もらしい死因を遺族に
報告したが、骨壷が 2 回送られてきたり、虫垂が手
術で除去されているはずなのに虫垂炎が死因とされ
たりするなどのミスがあった。秘密保持も不完全で、
施設付近の住民の抗議行動を招いた(2)。この行動
は一旦中止となった。第 2 波では、対象者の範囲が
拡大された。この第 2 波が、1942 年のワンゼー会議
- 13 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
のユダヤ人問題の最終的解決にもつながっている。
この年、T4 本部は 100 人以上の専門家を最終的解決
のため東方に派遣した。ポーランド総督領(図 1)
のユダヤ人殺害を目的としたラインハルト作戦では、
絶滅収容所で大量殺害が行われたが、これら収容所
の内のいくつかの初代司令官は T4 本部から派遣さ
れ、給料も T4 持ちであった。従って、T4 行動とヨ
ーロッパのユダヤ人大量殺害は不可分の関係にあっ
た(8)。
弁護人は、
「安楽死」によって、患者は癒しがたい
苦痛から解放されると主張した。また、ヒトラーの
秘密指令は、科学的な仕事はナチイデオロギーとは
無縁であると理解されなければならないと主張した
が、説得力はなかった(2)。
3. ニュルンベルク医師裁判と医師会(2)
当時、医師たちには、裁判がどのような影響を及
ぼすか分からなかったので、組織として何らかの対
抗手段を講じておく必要があると考えた。ドイツ医
師会はまだ結成されていなかったが、地域医師会連
合は、裁判観察委員会を作って、ニュルンベルクに
送り込み、裁判の経過を追いながら、記録を医学専
門紙に発表しようとしたのである。委員長には、ナ
チ時代に投獄されたこともある、ハイデルベルク大
学のまだ若い講師ミチャーリヒ(1908-1982)が依頼
された。彼は、受諾に当たって、
「全医科大学が自分
の派遣に同意すること」という条件を出した。この
条件は受諾されたが、医科大学側には、
「ミチャーリ
ヒが発表する資料は、我々が裁判から期待している
ことの証明となるだろう」との期待があった。実際、
ゲッチンゲン大学は、
「裁判で責任を問われて有罪判
決を受けるのは、自己責任で行動した僅かの医師だ
けで、その他の医師は、責任を問われるべきでもな
く非難されるべきでもないことが明らかになるだろ
う」と確信していた。しかし、ミチャーリヒには、
そのような確信は持てず、自分の課題は、
「医師たち
に、彼等の行為は医の倫理から見てどうであったか
ということを考えさせることだ」と考えていた。彼
は、医学生ミールケ(1922-1959)や他の医師たちと
出発した。日中は出廷し、夜間は資料整理に当てた
が、彼は、裁判は、寛容かつ公平であったと評価し
ている。
裁判は、1947 年 8 月 20 日、7 人に死刑、7 人に終
身刑、2 人に有期自由刑、7 人に無罪判決が下されて
終了した.死刑は執行されたが、有期刑の二人は、
裁判終了後 3 年半から 4 年半の間に恩赦を受け、終
身刑受刑者も次第次第に放免された。
ミチャーリヒの中間報告「人間侮蔑の指示」は、
まだ裁判継続中の 1947 年に出版された。本来この報
告は、
「ドイツ医学週報」に出る予定だったのだが、
同誌編集局の掲載拒否に遭い、薄い小冊子による出
版となったのである。小冊子の発行数 2 万 5 千は、
「ドイツ医学週報」の発行数であった。
「ドイツ医学
週報」は小冊子出版に一言も触れず、日刊紙の反響
も弱かった。医師の間には出回ったが、好意的な反
応はなく、逆にミチャーリヒは攻撃された。彼は後
に、
「反抗的な講師であるとして私を攻撃してきたの
- 14 -
October, 2009
が、ベルリンの外科教授ザウアーブルッホ
(1875-1951)である。彼と、ゲッチンゲンの内科医
ラインは、裁判記録の報告にすぎない私の報告を、
偽造であると攻撃した。同僚からも、祖国の裏切り
者と攻撃されただけでなく、仕事上でも中傷や誹謗
を受けた。権威者たちの態度もそれに近かった」と
振り返っている。また、ベルリンの薬理学者ホイブ
ナーは、ナチ時代の自分の役割を隠そうとして、文
章の一部(1943 年 5 月に、ゲープハルトによる前述
の人体実験が報告されたベルリンの軍医アカデミー
に出席したという箇所)を削除するよう仮処分に訴
えた。
委員会の最終報告「人間性無視の科学」は、1949
年に、1 万部出版された。その時、医師会幹部は、
「人
間性と医師倫理の掟を破ったのは、親衛隊の医師か、
医務官僚など、医師のほんの僅かな部分にすぎない
ことが今や証明された。9 万人のドイツの医師のう
ち罪を犯したのは 350 人だ。これに対して、ドイツ
の医師の多数は、ヒポクラテスの誓いを忠実に守り、
犯罪行為など承知せず、それらと関係を持たなかっ
た。裁判の経過は、医師層としての関与が全くなか
ったことを証明した」という趣旨の前書きを記した。
この 350 という数字は、ミールケが 1948 年のシュツ
ットガルト医師大会で報告した、
「医学犯罪に直接関
わった医師は驚くほど少なく、ドイツの医師 9 万人
のうち、高く見積もっても 300 人から 400 人である」
の引用である。ミールケが、この数字をどのように
導き出したかは明らかではないが、この数字は、前
述の医師会幹部の前書きが示すように、圧倒的多数
の無罪の医師と、犯罪に関わったと同定できる 300
人から 400 人の医師とを、はっきり対照させる役割
を果たした。この数字は、ニュルンベルク裁判の被
告人数を基準にすれば決して小さくはない。しかし、
医師が職業群としてナチに関わったなど、医学界と
ナチ政権との間に多くの一致点があったという観点
は、この数字を巡る論争で遮られてしまった。医師
会の観点からは、まさに望むところであった。
ミチャーリヒは、最初の出版経験から、ドイツ人
全体、特に医師の間に、ナチの過去と対決する用意
がある、というような幻想はもう抱いていなかった
が、最終報告は、それを排除しようという圧力に抵
抗できなかった。本は読者に届かなかったのである。
ミチャーリヒは 1960 年に、
「1947 年の中間報告の場
合と違って効果は皆目なかった。本はどこでも知ら
れることなく、批評はおろか、読者からの手紙もな
かった。その後 10 年間に私が出会った人で本の存在
を知っている人は皆無であった。本はまるで出版さ
れなかったかのようであった」と書いている。本が
どうなったかは、今日まで不明のままである。彼は、
「医師会が計画的に配布を妨げた。医師会首脳が書
店から買い取った。それで、本は出版直後に書店か
ら消えてしまい、望ましくない読者の手には渡らな
かった」と推測する。他方、医師会は、医師が興味
を感じなかったから行き渡らなかったのだ、と反駁
している。ただ、この本を巡っては面白い話がある。
1949 年にドイツ医師会が世界医師会に加盟を申請
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
した時、世界医師会がドイツ側に、加盟条件として
有罪の告白を要求したところ、このミチャーリヒの
本が、ドイツではナチの過去との対決が強く行われ
ている指標として評価され、ドイツ医師会は有罪の
告白をすることなく、1951 年に国際組織に復帰でき
た。
彼の最終報告が反響を巻き起こしたのは、1960 年、
フィッシャー社から新書版「人間性無視の医学」と
して出版された時である(和訳がある)。これは、1996
年までに 11 万 9 千部売れた。この新版で、彼は、問
題の 350 にふれて、
「およそ 9 万のドイツの医師によ
って 350 の医学犯罪が犯された。これは犯罪の規模
を考えるとかなりの数である。しかし、それらは問
題の核心ではない。350 人は直接の犯罪者である。
何らかの装置があって、それが医師たちを犯罪者に
変える機会をもたらした」と書いている。
ミチャーリヒの医師としてのキャリアは、まだや
っと始まったばかりだったのに、ニュルンベルク医
師裁判によって終わってしまった。60 年代に、夫人
との共著「喪なわれた悲哀」
(和訳がある)で有名と
なり、ナチの過去との論争で重要な役割を果たし、
精神分析の指導者にはなったが、大学医学部の教授
には就任できなかった。1966 年にフランクフルト大
学教授に招聘されたが、心理学部であって、医学部
ではなかった。1973 年、内科学会で開会の祝辞を述
べることになった時、医学者たちが攻撃し、学会会
長が「貴方がしゃべったら、内科医たちはそろって
退席すると言っている」と告げざるをえなくなった
ほど、ドイツ医学会では最も憎まれ続けた人物の一
人であった。
4. 戦後の「安楽死」裁判(ほぼ 13 に依拠、ごく小部分の
み 4、12)
ニュルンベルクでは、デスク犯人が裁かれ、実行
者が裁かれたのはそれ以後の裁判である。
終戦後最初の 1 年に裁かれた者は重罰を受けた
(死刑判決 21 人)
。被告人は、ドイツの法廷であれ、
連合軍の法廷であれ、補助者ではなく、実行者と認
定され、重罰を覚悟しなければならなかった。しか
し、ミチャーリヒの本が消えてしまった 40 年代末頃
には、加害医師たちに対する刑事訴追も終わり、安
楽死に関わった医師が殺人罪で罰せられることはな
かった。そのシグナルとなったのが、1949 年、ハン
ブルク地裁の、子供の「安楽死」に関与した 19 人の
医師に対する公判廷開催拒否であった。
医師たちの間でも、子供の「安楽死」に関わった
医師の行為は、道徳的に正しいかどうか明確ではな
かった。ハンブルク医師会は、1949 年、医師たちか
ら免許を剥奪するかどうかの決定で、
「安楽死の問題
は、法的にも、医倫理の面でも未解決である、結局
は、世界観の問題である」と述べていた。しかし、
1961 年には、
「1941 年から 43 年の行為で有罪とされ
た医師の行為は、帝国医師規則によれば重大な違反
ではない。事件から 20 年も経過しているから、免許
取り消し提案はできない」との声明を出した。
50 年代になると、被告人に大抵の場合、
「禁止の
錯誤」が認められた。これは、被告人には自分の犯
した行為が違法とは認識されていなかった、という
法的判断である。また、子供の「安楽死」事件では、
特に、子供に精いっぱいのことだけをしようとした、
という被告人の告白が受け入れられた。「禁止の錯
誤」と並んで採用されたのが、「義務の衝突」
、つま
り、上司の命令に反抗できなかったという考え方で
ある.さらに、ドイツ刑法では、殺人罪(この場合、
故殺ではなくて謀殺)成立には、動機低劣という条
件も必要である。それで、裁判所は、
「安楽死」関係
裁判では、動機や仕事上の野心や被告の人格構造ま
で調べた。それで、具体的な犯罪は視野から外れて
しまい、被告人には無実弁明のためのあらゆる門戸
が開かれた。
従って、50 年代には、重大な刑事責任を問われる
恐れはなくなり、有罪判決を受けた者も恩赦を受け
た。医学犯罪に関わった者も、よほどのことがない
限り、注意を引くことはなくなった。好例が、囚人
女性に残酷な不妊化実験を行ったことで知られる産
婦人科医クラウベルク(1898-1967)
(4)である。彼
は、抑留先のソ連から 1955 年にドイツに戻ったが、
アウシュビッツで行った不妊化実験を隠さなかった。
それどころか、自分の方法を自慢し、名刺を作らせ、
新聞の差し込み広告で秘書を募集した。しかし、世
論の圧力で、ようやくその年の 11 月に勾留され、医
師免許を失い、1957 年、未決勾留中に死亡した。当
時のある新聞は、
「クラウベルクは第三帝国のシンボ
ルの一つだった。彼のやり方をナチのシンボルと呼
ぶことをためらうような医師が、戦後のシンボルと
見られないよう希望する」と書いた。
しかし、社会の風潮は、そのような希望の方向と
は逆方向に進み、偽名を使って姿を隠した方が得策
と考えていた医師たちも表に出てきた。一例が、ハ
ルトハイム(図 1)で「安楽死」に関わったレンノで
ある。彼は、偽名で開業していたが、医師会は調査
もしなかった。1954 年に、シェリング社の共同研究
者が、公布された恩赦法に基づいて名前を戻すよう
彼に持ちかけた時、彼は役所に、
「親衛隊員は勾留さ
れる危険があったので、自分は名前を変えた」と告
げたが、役所はそれを問題にせず受け入れた。彼は、
一旦、逮捕されたが、公判手続きは行われなかった。
犯罪医師を大目に見る風潮に終止符を打ったのが、
1959 年 11 月、医師ハイデのフランクフルト検察庁
への出頭である。彼は、1902 年生まれで、ヴュルツ
ブルクの精神科教授の時、前記ブラックやブラント
と共に、T4 行動に最初から関わり、暫定的な責任者
にもなった重要人物である(12)。
彼は、終戦の翌月米軍に捕まり、抑留所を転々と
した後、ドイツの司法当局に引き渡された。ニュル
ンベルク医師裁判の証人として、未決勾留からニュ
ルンベルクに送られたが、その帰途、貨物自動車か
ら飛び下りてシュレスウィヒ・ホルシュタイン州に
逃亡、サワデという偽名の証明書を購入した。逃亡
先に、ナチ犯罪者の避難場所ともいえる同州を選ん
だのは賢明で、そこでは、元ナチ党員はどこよりも
大目に見てもらうことが期待できた。州政府が、内
務大臣以外は全部元ナチという時もあったほどであ
- 15 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
る。1949 年末、彼は、サワデ名で州体育学校のスポ
ーツ医となった。しかし、素性に感付いていた人も
いて、特に医師の間では素性は知られていた。1959
年まで、彼は、神経医として、保健局や裁判所に、7
千件の神経学の鑑定を行った。
素性が暴露されそうになったのは 1954 年で、キー
ルのある神経医が、サワデが自分の鑑定意見と反対
の立場を取ったのを怒って、州の社会裁判所長に、
サワデの素性には疑わしいところがあると手紙で通
報した時である。ところが、州の法務、保健行政の
上層部は、サワデがハイデであることを承知の上で
鑑定依頼していたので、正体が明かされることを好
まなかった。この手紙の件では、州上層部間で相談
が行われ、結局は、前記裁判所長が、
「評判の高い医
師に重大な処置を取るのは自分の仕事ではない」と
付け足して、その神経医に手紙を返した。サワデは、
鑑定の傍ら州内を講演して回ったが、この無名の人
物が学識の豊さを伺わせる講演をし、しかも、ハン
ブルクの国際的に有名な学者とも話ができることを
誰も不思議には思わなかった。
サワデ出頭のきっかけは、彼が、キール大学病院
長と、夜毎はめをはずして騒ぐ学生組合員との争い
に巻き込まれたことであった。病院長には、司法当
局は学生に甘いように見え、次第次第に当局に不信
感を持つようになったので、州政府が乗り出し、州
大臣に鎮めるよう依頼した。怒った病院長は、大臣
に、州司法当局は信頼できないと告げ、サワデ問題
を例に挙げた。これがきっかけで、サワデに対する
捜査が開始され、彼の出頭となった。
広い範囲の者がサワデの素性を知りながら黙って
いたということは、ハイデ/サワデという二重生活
に劣らず非難の対象となった。それで、彼の出頭の
1 か月後、州議会は調査委員会を設立、委員会は「彼
の素性を関知していた者の大部分に、必要な国家意
識が欠けていた。国家建設に努めているあらゆる人
や組織は、この事件を契機として、新たに明らかに
なった国家意識の間隙を埋める努力をする必要があ
る」という結論を出した。捜査担当予定者とされて
いた検事も含め、20 人弱が関知者と認定されたが、
誰も重大な責任を問われることはなかった。
1962 年 5 月、フランクフルト検察庁バウアー検事
らは、ハイデは T4 行動の指導者で、上級鑑定人とし
て少なくとも 10 万人を殺害したとする、800 頁余り
の告訴状を提出した。裁判は 7 か月程度の予定だっ
たが、裁判自体、行われるかどうか怪しくなってき
た。ハイデの弁護人は、被告人は出廷しないと述べ、
ある雑誌は、ハイデは綿密な逃亡計画を立てていた
が失敗したと報じた。彼は別の収容所に送られ、あ
らゆる自殺防止対策が取られたが、公判開廷直前の
1964 年 2 月 13 日に、独房で、ベルトを用いて縊死
しているのが発見された。
「自分は無実だ。見せ物裁
判の犠牲になりたくない」という遺書があり、反省
は窺えなかった。
ハイデの死亡を受けて、ハンブルクエコー紙は、
「ほっとした人も多かったのではなかろうか。裁判
によって揺れるだろうと噂されていたいくつかの大
- 16 -
October, 2009
学教授の椅子も安泰のままだろう。教授たちは騒が
れることなく、定年まで居続けるだろう」とコメン
トした。この評価は正しかったが、この事件は、ナ
チ時代の医学に対して続いていた沈黙の終わりをも
たらし、特に、
「安楽死」に関わった医師は、沈黙状
態が終了してしまうことを覚悟しなければならなく
なった。ハイデ出頭がきっかけで、バウアー検事を
中心としたグループが、ナチ時代の医学犯罪、特に
安楽死殺人を明らかにする仕事を始めたからである。
最も重要な動きは、安楽死に関わったとして、1961
年から 62 年の間に逮捕されていた 3 人の医師(ブン
ケ、ウルリヒ、エンドルワイト)に対する裁判手続
きであった。彼等はほぼ同年配(逮捕時、47-48 才)
で、大学時代友人であったが、戦争開始と共に、繰
り上げで医師免許を受け、1940 年、ハイデによって
T4 行動に集められた。自発的参加という面もあった
が、ハイデとの話し合いも、彼がヒトラーの全権委
任状を得ているということと、出世への希望という
点から重要であった。3 人とも 50 年代には、名前を
隠すことなく地方で開業し、名医として知られるよ
うなっていた。逮捕はされたが、彼等は、地元が何
とかしてくれるだろうとその協力を当てにすること
ができた。実際、その通りで、5 千人の州民がブン
ケのために嘆願署名を社会保健省に提出した。エン
ドルワイトは州の保険医連盟や医師会の幹部であっ
たが、医師、牧師、政治家、スポーツ連盟などの有
力者が、彼の免許停止を防ごうと努力した。それで、
3 人とも勾留は免れた。
4 番目の被告人が、安楽死施設ゾンネンシャイン
(図 1)の医師ボルムだった。1941 年以後は T4 本部
に勤務していたが、ハイデに関する調査で、ボルム
に対する疑惑が浮上し、1962 年、ある病院の内科医
長の時に逮捕された(勾留は免れた)
。ただ、彼の罪
状は他の 3 人よりも重いと判明し、さらに調査が必
要となって、3 人の裁判とは別になった。
3 人に対する裁判で、裁判所は、T4 行動における
大量殺害は、熟慮されたうえ、計画的しかも悪意を
もって実行されたことから、殺人罪の構成要件は満
たされていると判断した。さらに、医師たちは自由
意思に基づいて参加し、秘密裏かつ隠ぺい工作もし
ていることから、厳罰が予想された。しかし、判決
では、前述の禁止の錯誤が適用された。判決はさら
に、被告人たちは、ヒトラーからの全権委任状や、
ビンディングとホッヘの共著「生きるに値しない生
命を抹殺する自由化」から、むしろ行為の正当性を
確認していたと判断した.行為の違法性は承知しな
がら、より高い見地から正当であると信じて行動し
た確信犯であるとは判断されなかったのである。ま
た、被告人たちは病人の殺害に個人的な利益を持た
ず、一酸化炭素による殺害だから苦痛を与えないと
も判断された。1967 年に無罪判決が言い渡された時、
法廷は拍手喝采に包まれた。
60 年代には、過去の暴露によって、過去に対する
沈黙が乱されるようにはなったが、大多数の人々は、
医師たちを加害者として暴露させたくはなかったよ
うである。加害医師に対して寛容であることは、当
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
然、当時の被害者を無視することを意味する。70 年
代早期、ドイツの精神病院や障害者施設において支
配的であった雰囲気は、ナチ時代の雰囲気と同じで、
違うのは、ただ患者が殺害されないだけであった。
連邦通常裁判所は 1970 年 8 月 7 日、3 人に対する無
罪判決を破棄して、審理を差し戻した。ボルム裁判
も始まった。3 人の被告人たちは、健康状態がかな
り悪化したと申し立て、
「被告人たちは出廷不可能」
という証明書が、医師から提出されたので、裁判は
とうとう中止になった。それでも、被告人たちは開
業を続けていた。
ボルムも、その間あらゆる免責手段を利用して、
1972 年に無罪放免となった。連邦通常裁が 1974 年
にその判決を確認した時、一連の著名人が、大統領
宛公開書簡を 6 月 10 日フランクフルトの新聞に出し
た。それは、
「ボルムは何千人もの病人の殺害に決定
的な役割を果たした。アウシュビッツのように、彼
は、シャワーと偽って、病人たちをガス室に導き、
遺族には死因を偽造した。彼は、ヒポクラテスの誓
いをしており、禁止の錯誤とは相容れない。3 月 22
日の南ドイツ新聞が指摘するように、この判決はド
イツの裁判官が下した最も途方もない判決の一つで、
連邦通常裁刑事第二部は、あらゆる正義感を追い払
ったに違いない」という内容であった。この著名人
の中には医師はいなかった。
70 年代終わり頃からのナチ時代の喚起や、ドイツ
医師会の態度変化(後述)の後押しのもと、遺族が
かけ続けた圧力が原動力となって、1986 年 1 月 29
日、3 人に対する再審が始まった。エンドルワイト
は健康状態悪化と称して出廷しなかった。残る二人
も健康障害を主張、その結果、裁判期日は週 1 回 3
時間とゆっくりしたものになった。裁判では、
「安楽
死」被害者の状態は、精神的に生きているとは言え
ない終末期にあったかどうかが焦点となった。ウル
リヒは、患者の状態を具体的に述べ、患者は終末期
であったと主張、さらに「我々は、名高い学者たち
に欺かれた、独裁政権の小さな車輪に過ぎなかった」
という趣旨の告白をした。翌年 5 月 18 日の判決は、
殺害幇助でそれぞれ 4 年、減刑事情として、被告人
たちは権威を信じ過ぎた犠牲者であったこと、終戦
後まじめに医業に励んでいたことなどが考慮された。
今回、禁止の錯誤は適用されなかった。二人とも控
訴、連邦通常裁判所は、それぞれ 1 年ずつ減刑した。
彼等は、刑期終了前に釈放された。
5. 戦後の医師会(ほぼ 2、14 に依拠;小部分のみ 9、15)
終戦時、医師たちは将来に対して楽観的だったよ
うである。いずれにせよ、医師はなくてはならない
存在だ。医師の犯罪者は小部分で、安楽死や強制収
容所の医学犯罪に関わった者だけだという意識があ
ったようである。それでも、医学とナチとの間に密
接な結びつきがあったことは、事情通なら誰でも知
っていた。
医師組織は、まずは何をおいても、患者の信頼確
保が大事と考えた。医師は伝統的に高い権威を持っ
ていたが、それを維持するためには、ナチ時代に医
師が果たした役割が明らかにされることは、どんな
状況であれ、回避されなければならなかった。占領
軍には、占領地の健康管理に配慮する必要があった
が、そのような事情も医師に有利に作用した。1946
年には、ナチ組織の破壊と元ナチ党員を重要なポス
トから追放するために、非ナチ化審査機関が作られ、
その審査に基づいて非ナチ化された元党員も復帰し
た。元突撃隊員や元親衛隊員が医師会長になったの
もそのような事情の反映である。
医師の組織自体は、戦後ずっと、ナチ時代の過去
との対決を避けてきたが、70 年代の終わりには、よ
うやく状況が変わってきて、ナチ時代が喚起される
ようになった。1978 年、連邦医師会会長だったセウ
ェリングは、シュピーゲル誌上で、過去の行為の責
任を問われ引退を余儀なくされた。1943 年、彼があ
る施設の医師であった時に、患者を別の施設に送っ
て死亡させたという事例である。親衛隊員であった
という報道もされた。しかしながら、引退の公的な
理由は、開業による収入の控除問題であったとされ、
過去との関わりは大きな役割は果たさなかった。彼
は 1993 年に、世界医師会会長の地位を狙ったが外国
からの猛反発で果たせなかった。
80 年代の早期から、医師、医学史家、ジャーナリ
ストたち何人かは、ナチの医学犯罪を広くテーマに
しようと努力した。これらの人々の多くは、1980 年
の「健康の日」にベルリンに集まって、第 83 回ドイ
ツ医師大会に対する反対集会を開催した。テーマは、
「医学とナチ、タブーとされた過去、伝統は破れな
いか?」であったが、これに対してドイツ医師会新
聞は、
「ユダヤ人移住者(亡命者)がベルリンに招か
れている。医師会にうさんくささを与えようとする
策略だ」との記事で応えた。
1985 年には、ドイツ医師会新聞でさえ、終戦時を
想起する必要を感じた。しかし、その回想も、これ
まで 40 年間妥当とされてきた枠から外れるもので
はなかった。
1986 年、ケルンの、連邦医師会のある通りの名が、
ナチ時代に迫害された医師名に変えられた(連邦医
師会は改名には反対であった)
。この年 2 月、ハナウ
スケアーベルは、医学誌ランセットに、論文「ナチ
ホロコーストから核ホロコーストへ、学ぶべき教訓
は何か」を書き、医師層にはナチとの過去を想起す
る道徳的な義務があると強調、ナチ時代の医学史か
ら、1933 年に医師会の自己画一化が円滑に行われた
ことを指摘した。この論文に、医師会幹部ヴィルマ
ーは興奮し、インタビューを装った「過去は克服さ
れている」という意見表明で、ハナウスケアーベル
はドイツの医師全体を限度を超えて攻撃していると
主張した。さらに彼は、ハナウスケアーベルは終戦
後にも医師の犯罪行為を節度なく暴露したと非難、
ハナウスケアーベルは、所属する医師会から除名さ
れた。
第 90 回ドイツ医師大会で、戦後 42 年にして始め
てナチ時代の医学が議論され、ヴィルマーは医師会
内部の批判者の主張に一歩近付いた。彼は、犯罪に
関わった医師はごく少数という主張は譲らなかった
が、医師会が、ナチの権力掌握直後に、ナチ新政権
- 17 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
に協力したことは認めた。これに続いて、ドイツ医
師会新聞で、
「過去の克服は医師全体を傷つけてはな
らない」とのタイトルのもと、ヴィルマーの新たな
態度に関する手紙による討論があった。16 人の著明
な医学史家も意見を表明しようとしたが、その場は、
医師会新聞には与えられず(翌 1988 年に与えられ
た)
、ツァイト紙に発表せざるをえなかった。その後、
1988 年ベルリン医師会は、声明「1938 年 11 月 9 日
によせて」を出し、翌年、
「人間の価値、1918 年か
ら 1945 年のドイツ医学」を出版した。また、ベルリ
ン医師会の「医学とナチ」作業グループは、92 回ド
イツ医師会(ベルリン)に、ワイマール、ナチ時代
の医学をテーマとした展示を行うよう、医師会に勧
告、展示は実行された。
しかしながら、ナチ時代に医師が果たした役割に
関する解明や総括はまだまだ不十分と考えられてい
る。例えば、強制収容所のシステム全体に組み込ま
れてしまった親衛隊医師の数はもはや確認できない。
また、部隊付き医師が対ソ絶滅戦争においてどのよ
うな役割を果たしたかなども充分には解明されてい
ない(9、15)。
6. ある医学者の戦後(ほぼ 16 に依拠;小部分のみ 17、18)
終戦後、大学や研究所の医学者たちは、研究水準
を回復させる必要やユダヤ人同僚が残した穴を埋め
る必要があった。ミチャーリヒの言う「犯罪者製造
装置」の一つは医学界の代表者たちであるが、彼等
の多くは 1949 年頃には、研究所や大学の元の地位に
復帰していた。ハンブルク大学の例を挙げると、1945
年には、ナチとの関わりの深い人物を追放しようと
短期間ではあるが努力がされた。この時の犠牲者の
一人が、精神科教授ビュルガープリンツであったが、
2 年後には復帰している。その間に、
「占領軍は医学
部を徹底的に掃除する気がない」ことが明らかにな
った。この掃除をただ一人要求したのは、ナチから
解放されイギリス軍によって学長に任命されていた
デグビッツであるが、彼も 1948 年夏に辞任し、アメ
リカに渡った。イギリス軍占領地の学長会議は、亡
命者やナチによる迫害者を優先的に招聘する方針を
立てていたが、無視された。1949 年 10 月には、医
学部の全ての正教授が復活し、1952 年までには、講
師も全て復職したが、その中には、元親衛隊員や人
体実験に関与した者もいた。
一般の医学部教授よりも問題を抱えていたのは、
失格の烙印を押された領域、民族衛生学分野の人た
ちである。この分野の最重要中心地の一つが、1927
年に設立されたベルリン、ダーレムのカイザーウイ
ルヘルム人類学、人間遺伝学、優生学研究所で、フ
ィッシャー(1874-1967、初代所長)
、ヴェルシュア
ー ( 1896-1969 、 二 代 目 所 長 )、 ナ ハ ツ ハ イ ム
(1890-1979)、レンツ(1887-1976)と、指導的な民族
衛生学者が集まっていた。ヴェルシュアーはこの研
究所の部長を経験した後、フランクフルトに移り、
1942 年、所長となって復帰した。彼は、国家主義的、
反民主主義的、貴族的、権威主義的な人物で、外見
からは伝統的なドイツの教授に見えた。告白教会に
所属し、ナチ加入は 1941 年と、比較的遅かった。
- 18 -
October, 2009
終戦時、彼は研究所の大量の資料を自動車で自分の
故郷に運ばせ、キャリアーが継続できる機会を待ち
受けた。ナハツハイムやレンツが招聘されたこと、
さらには、かつての同僚から、
「遺伝生物学者として
将来受け入れたい」と伝えられていたことから、彼
も、復活できるという希望を持っていた。
彼のナチ時代および彼自身の果たした役割に対す
る考え方は、抽象的で曖昧であった。彼には、ナチ
ズムは、ドイツ全体、科学全体を襲った嵐のように
思われた。そして、そのような事態に責任があるの
は、人ではなく、技術化され脱人間化された時代に
あると考えた。彼は、特に、近代人がキリスト教か
ら離反したことが根本的な悪であるとの認識に基づ
き、政治的な禁欲が必要で、学問は象牙の塔へ回帰
しなければならないと考えた。他方、彼自身、ナチ
時代には政治的な禁欲状態であったどころではなく、
ナチ国家の形成に積極的に関わったことは事実であ
ったと認め、誤りだったと考えていた。しかしなが
ら、自分の学問の乱用された部分を正すなど誤りか
ら教訓を引き出す必要は認めたものの、彼が今まで
代表し主張してきた原則を変えなければならないと
までは考えなかった。このような考えと、キリスト
教的な価値観への移行によって、ヴェルシュアーは、
過去は克服されたと考え、しかも、そのようにして
浄められた学問は、充分将来に対応できる学問であ
ると考えた。さらに、人種問題に関するナチの誤っ
た学問の訂正が、ユダヤ人によってではなく、ドイ
ツ人科学者によってなされることに、占領軍は関心
を抱くはずであると考えていた。
1946 年、彼は、フランクフルトへの招請候補のト
ップであったが、一大事態が起きた。カイザーウイ
ルヘルム協会の暫定代表者ハヴェマンが彼の招聘に
激しく反対し、管轄のアメリカ軍少佐に、
「ヴェルシ
ュアーの責任は重大である。彼はメンゲレ
(1911-1979)のような親衛隊員を働かせ、自らもナチ
の人種理論と人種政策を限りなく支持し正当化し、
科学者の間ではファシズムの有名かつ積極的な活動
者であった」と文書で告発したのである。彼に対す
る最も重大な非難は、アウシュビッツ収容所医師で
あったメンゲレとの関係で、メンゲレと密接なコン
タクトがあったか、少なくとも、彼の犯罪行為を知
っていたという非難である。実際その通りで、ヴェ
ルシュアーの否定は全くの虚偽であったが、彼等の
関係を証明する文書がなくなってしまっていた。
ヴェルシュアー自身は陰謀の犠牲者であると思い
込んだが、協会の委員会の結論は彼に不利であった。
ヴェルシュアーはいくつかの点を除けばナチに極め
て近く、彼は、ナチ権力者の喝采や好意を得ようと
自己の学問的認識を犠牲にしたと非難された。また、
メンゲレの行為を知っていたに違いないとも判断さ
れ、ヴェルシュアーの行為は、人間としての論理、
科学としての論理が自明の事として要求するものに
違反しているとされた。フランクフルトへの招聘は
ならなかったが、それ以上の事態は生じなかった。
1946 年末、彼は、非ナチ証明書を得た(有罪ではな
いがシンパと判定され、罰金 600 マルクを科せられ
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
た。西方占領地域では、約6百万件の審査が行われ、
無罪は約 4 百万件、
シンパは約百万件であった(17))。
学会復帰には、先の委員会の非難効力を失効させな
ければならない。それで、彼は以前の同僚たちに、2
回目の鑑定委員会設立を依頼し、この委員会は間も
なく、前回とほぼ逆の報告書を出した。その間に、
時代の風向きが明らかに変わっていたのである。た
だし、研究所とナチ政権のつながりや、彼がメンゲ
レの行為を知っていたことを示す証拠など、彼に不
利な材料は見つからないままであった。その他、ヴ
ェルシュアーのいくつかの発言は非難された。しか
し、委員会は、彼のイメージにはいくつかの汚点が
あることは認めながらも、最終的に免責証明を出し
た。これと、長年の間彼が維持してきた研究所の資
料、さらには社会の気分が、ついに彼を解放した。
1951 年夏、彼は、ミュンスターに招聘された。
研究面では、1936 年から 40 年にかけて行ってい
た双生児癌患者に関する研究を再開し、彼等を改め
て探し出して病気の経過を記録した。50 年代半ば以
降には、ミュンスター地区住民 3 万人以上について
遺伝生物学調査を行った。この調査では、遺伝カー
ドという表現は不愉快な記憶を招く可能性があるの
で使わないようにした、と同僚に告げたという。た
だ、この研究計画は、民族の遺伝調査を国の庇護の
下に実施するという点において、ナチ時代との連続
性がはっきりしている。
ただ、学問的に無価値とされた分野から新たな応
用領域を開拓することや、正当性を見出すことは簡
単ではなく、1959 年の著作「人類遺伝学」は、ナハ
ツハイムに酷評されている。ヴェルシュアーは、戦
前アメリカの優生学者からの評価も高く、ロックフ
ェラー財団からもかなりの資金援助を受けていたが
(18)、今や、国際的にも孤立し、発言力のなさを認
めざるを得なかった。
ヴェルシュアーは、戦後の新たな状況に、少なく
とも外面的には適応でき、指導的な民族衛生学者か
ら、人類遺伝学者に転身した。さらに、彼は過去か
ら、教訓を学んだようであった。連邦保健省が不妊
法を計画していて、彼もその一員であった遺伝学作
業グループに意見を求めることになっていた。この
グループは不妊法に否定的な立場で、
「この法律は、
裁判所の決定に基づくとはいえ、医師の行為の基本
原則に違反し、責任のない人間の生命を奪うことを
医師に要求することになる」と警告した。これは、
ナチ時代、不妊法に熱狂的に賛同していた彼にとっ
て一大転回であった。1964 年に名誉教授になった後、
1966 年出版の「優生学」で、彼は、選抜優生学に別
れを告げ、個人医学の原則に到達した。今では、神
の前の責任が、科学者としての唯一の尺度になった。
彼は、生きる価値のない生命の殺害や妊娠中絶に反
対し、ついには、古典的優生学に反対の立場に立つ
に至った。1968 年 2 月の講演「責任ある人類遺伝学
の観点」では、
「過去この領域で経験した困難な経験
から、次のように言いたい。優生学的な処置がどこ
で考慮されようが、それに対しては、警告がなされ
るべきである。その警告板に、私は、人間の価値、
人間の権利、隣人愛、神の下での責任と書きたい」
と結ばれている。
このように、たしかに、彼は状況にうまく適合で
きたが、全てがうまく行ったわけではない。比較的
若い同僚たちが、彼を第一線の研究から排斥しよう
とする動きは止めることができなかった。名誉教授
になった時、編集に関わっていた雑誌のタイトルが、
「人類遺伝学体質研究誌」から「遺伝学」に代わり、
新しい考え方で編集を委託された比較的若い人類遺
伝学者たちはそろって、彼との共同作業を拒否した。
新しい編集方針は学問全体の遅ればせながらの現代
化であり、つまるところ、20 世紀早期の遺伝学との
決別であることが、彼には理解できなかった。大学
では、この決別には時間がかかったので、60 年代の
医学生は彼の講義を聞く機会もあったかと思われる。
教壇から講義はしなくても、教科書を通じた影響は
まだ長く続いたと言える。
7.終わりに
7.終わりに
ナチドイツ時代に医師によって犯された犯罪、医
師裁判、さらに、医師たちの戦後を概観した。日本
における類似状況との対比に参考にして頂ければ幸
いである。
文献
1.Bastian T. Furchtbare Ärzte, Medizinische Verbrechen
im Dritten Reich. Beck’sche Reihe,2001(山本啓一訳、
恐ろしい医師たち、かもがわ出版、2005)
(以下、恐
ろしい医師たち)、ヒトラーの協力者としての医師
(和訳章名)、45-50.
2.Freimüller,T. Mediziner. Operation Volkskörper. In
Hitlers Eliten nach 1945 (Frei N. Hrsg.) DTV, 2001 (以
下、Mediziner)、ニュルンベルク医師裁判と医師の
自己解釈(和訳章名)
、13-28.
3.Kater A.H. Die Krise der Ärzte und der Medizin im
Dritten Reich. In Der Wert des Menschen (Pross C.et al.
Red.)Edition Hentrich Berlin,1989,357-352.
4.恐ろしい医師たち、医学実験、95-114.
5.Gohrbandt E. Auskühlung. Zentralblatt für Chirurgie,
1943,Nr44,1553-1557.
6.Bedürftig F. Drittes Reich und Zweiter Weltkrieg, Piper,
2002, 12-13.
7.Benz W. Geschichte des Dritten Reiches.DTV, 2003、
136.
8.Eckart,W. Der Nürnberger Ärzteprozess. In Der
National-Sozialismus vor Gericht (Ueberschar G.R.
Hrsg.) Fischer Taschenbuch Verlag, 1999、73-85.
9.Kudlien
F.
Begingen
Wehrmachtsärzte
im
Russlandkrieg Verbrechen gegen die Menschlichkeit. In
Der Wert des Menschen,1989,333-352.
10.Leyendecker B.et al. Deutsche Hepatitis Forschung
im zweiten Weltkrieg. In Der Wert des Menschen,
1989,261-293.
11.Friedlander H. The Origins of Nazi Genocide. The
University of North Carolina Press, 1995,23-38.
12. 恐ろしい医師たち、
「T4」行動、65-76.
13.Mediziner、裁かれたナチ安楽死、47-59.
14.Mediziner、医師と回想の復帰、59-64.
- 19 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
15. 恐 ろ し い 医 師 た ち 、 ニ ュ ル ン ベ ル ク 裁 判 、
117-125.
16.Mediziner、学習過程:医学と、人種衛生学から
の告別、28-47.
17.Bedürftig F. Drittes Reich und Zweiter Weltkrieg,
Piper, 2002, 142-143.
18.Black E. Nazi Nexus. Dialog Press, 2009,52-61.
October, 2009
著者プロフィール
1939 年大阪府泉大津市生まれ、1965 年京都大学医学
部卒業
山本医学鑑定研究所、龍谷大学非常勤講師
専門 法医学
訳書 「恐ろしい医師たち、ナチ時代の医師の犯罪」
(2005 年、かもがわ出版)など
図 1 は、
「恐ろしい医師たち」の図 4 を修正したもの
である.
- 20 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
第 25 回研究会記念講演
第2次大戦と
東京大学医学部卒業生をめぐって
― 関連書籍の解説 -
加我君孝
東京医療センター・臨床研究(感覚器)センター長、東京大学名誉教授
Graduates of Faculty of Medicine, University of Tokyo and the Second World War.
― Introduction of their experiences in the books ―
KAGA Kimitaka
Director, National Institute of Sensory Organs, National Tokyo Medical Center
Former Professor of University of Tokyo, Emeritus Professor of University of Tokyo,
Former Director, International Research Center for Medical Education, University of Tokyo
キーワード Keywords:医学部卒業生 Graduates of Faculty of Medicine、東京大学 University of Tokyo、
第 2 次世界大戦 The Second World War、731 部隊 Unit 731、原爆 Atomic bomb
Ⅰ.はじめに
第 2 次大戦中、東京大学医学部の卒業生は、他大
学同様に陸軍あるいは海軍の軍医として戦地に派遣
され、多くの戦死者が生まれた。終戦により生還し
て研究者、教育者、臨床医として活躍した卒業生も
少なくない。その経験は必ずしも書物として残って
いるものは意外にも少ない。ここでは比較的手に入
りやすいものを紹介し、参考に供したい。なお、歴
史的には軍医の先駆と言えるのは森林太郎(鷗外)
で、陸軍の軍医として日清戦争と日露戦争に派遣さ
れ、その体験を記録に残している。
Ⅱ.戦没した卒業生の記録
1.
「春来たり花は咲けども」非売品 2001年発行
2001年発行
(図 1)
平成 29 年卒業の二宮
陸雄先生(1929~2007)
は、戦没した東大医学部
卒業生の記録を御遺族と
連絡をとりながら長い間
にわたって収集した。亡
くなった卒業生の出身地、
亡くなった場所、本人お
よび家族の手紙、写真な
どを集め、520 ページの
大冊を記録として残した。
図1
この本によって、卒業生
が北は千島、シベリア、中国、朝鮮、南は硫黄島、
トラック島、フィリピン・レイテ島、沖縄、国内に
あっては広島、長崎など、ほとんどの国内外の地で
戦没したことがわかる。戦後原爆の 2 次被爆の後遺
症で亡くなった人もいることがわかる。
この本のタイトルは、昭和 19 年に戦死した戦没学
生の母親・大島きく氏の詠んだ短歌「春来たり花は
咲けども戦にい出しあ子はまみえずなりぬ」の一部
である。
図2
二宮陸雄先生は戦没卒業生の記念碑を設立する運
動を同級生と取り組み、平成 13 年 5 月 27 日、東大
キャンパスの弥生門を出てすぐ右の民家の塀の前に、
青銅製の記念碑を建立して記念式典を行った(図 2)
。
連絡先:〒152-8902 東京都目黒区東が丘 2-5-1 東京医療センター・臨床研究(感覚器)センター
address: 2-5-1 Higashigaoka, Meguro-Ku, Tokyo 152-8902 Japan
TEL/FAX:03-3411-1712(直通)
E-mail: [email protected]
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
入隊以後、昭和 21 年 5 月に復員、召集解除に至る 2
年 7 ヶ月の間、陸軍軍医として兵役に服した回想記
である。
本書は姫路で受けた軍医となるための教育とそこ
で初めて出会った人々との思い出、そして上海での
パラチフスの発生と治療、上海から高雄を経て広東
へ向かい、米軍を阻止するための湘桂作戦の体験、
そして海南島への転戦、マラリア、シラミ、栄養失
調、兵站のない行軍。再び広東へ。敗戦とともに捕
虜。そして帰国までの約 1000 日の体験。堀江医師に
とって生涯脳裏に焼きついて離れず、本書を執筆す
ることになったという。その理由に、①青春を戦争
で押しつぶされたことへの哀感、②200 万人以上の
生命を失い、その代償が敗戦という憤懣、③国民に
耐貧生活を強いて 100 万人以上支那への派遣と軍需
物資の投入、そして敗戦という空虚さと要約してい
る。本書は医学部卒業生で軍医となった体験の記録
として第一級のものである。表紙の絵は桂林の風景。
ただし参列した現役の教授は小生も含めわずか 3 名
であった。二宮陸雄先生は医学部構内に建立を希望
したが実現しなかった。この問題を取り上げた教授
会で、2 名の教授が戦争責任と東南アジアから来る
留学生の感情を害すると述べたためにうやむやにな
った。新棟の鉄門記念講堂の近くの場所に移動する
案も有力視されたが、この件は課題として継承され
なかった。
本書は、戦没した医学部卒業生に関する労作で、
かつヒューマンな思想で貫かれた最も優れた内容を
持つ資料であるが、残念ながら多く読まれていると
は言えない。医学部の授業に取り上げたのはおそら
く小生だけではないか。
2.「東京大学の学徒動員・学徒出陣」東京大学出
版会 1997 年(図 3)
東京大学全体の学徒と学徒出陣戦没学生を中心に
した第 2 次大戦の資料である。統計的なデータが中
心なので、その背景を読み取ることが大切である。
戦没者の学生の最大のピークが全学部とも昭和 19
~20 年にあることがわかる。
図5
図3
図6
5.「一臨床医として生きて 現代日本の医療を問
う」安藝基雄著 岩波書店 1994 年(図 6)
本書の著者は虎の門病院神経内科の部長として活
躍したクリスチャンの神経内科医であった。小生も
数度その姿を拝見したことがあり、眼光鋭く威厳の
ある方であった。
本書は全 9 章からなる。自分の人生を振り返り現
在の日本の医療について批判したものである。第 2
章の“大学医学部にて”では入学の年に真珠湾攻撃
とともに戦争が始まり、短い期間に卒業試験が終わ
り相模陸軍病院にて初期教育を受けたのち、大阪の
第 8 連隊に入るまで、第 3 章は関東軍付きの軍医と
して満州へ派遣された。日ソ開戦、そしてソ連軍に
より武装解除され捕虜となった。シベリア流刑囚と
して収容所に入れられ、
「働かざる者食うべからず」
の社会主義の原則の下、過酷な労働生活を送った。
出征以来 5 年ぶりに復員し家族と再会したが、家は
東京大空襲で焼失したあとであった。
本書はシベリアでの体験を医師の立場で書いた貴
重な記録である。
図4
3.
「海軍軍医 川崎和雄とその母 ふみ」風祭元著
非売品 2006 年(図4)
東京大学医学部を昭和 18 年に卒業した川崎和雄
は、海軍軍医として戦地に赴き、マーシャル諸島の
ひとつであるペリリュー島で戦死した。その親類に
あたる元帝京大学教授の風祭元先生が回想した小冊
子の記録である。その母ふみとは西武の創始者堤康
次郎の奥さんであった人である。このような個人的
な冊子はまだまだたくさん存在し目に触れないだけ
であると思われるが、もし東大医学図書館に寄贈さ
れてあれば読むことができるが、ほとんど存在しな
いので残念である。本稿で紹介した本は小生が個人
的に集めたものがほとんどで、医学図書館から借り
たわけではない。
4.「湘桂作戦に従軍した一軍医の回想」堀江祐司
著 堀江医院発行 非売品 1988 年(図 5)
昭和 18 年、東京大学医学部専門部を戦時の方針で
6 ヶ月繰り上げて卒業し、陸軍短期現役軍医候補生
として、1 ヶ月後には姫路市にある中部第 46 部隊に
Ⅲ.第 2 次大戦の回想あるいは体験記
1.
「医の倫理を問う」秋元寿恵夫著 勁草書房 1983
年(図7)
- 22 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
3.「東京大学医学部百年史」の中の「東京大空襲
の記録」 東京大学医学部 1967 年 非売品
東京大学出版会発行
昭和 20 年 3 月 10 日は米軍の B29 による東京大空
襲によって投下された爆弾によって下町を中心に火
災のために約 83,400 人の都民が亡くなった日であ
る。東大周辺の湯島、西片、根津の木造民家が火災
で焼失した。東大はレンガ造りのため火災は免れた
が、龍岡門の近くにあった木造の外来棟が焼失した。
この日のことは東京大学医学部百年史にその日の前
後のことが詳細に書かれている。整形外科の同窓会
誌にも記載がある。小生が編集長を担当している“東
大病院だより”でも戦後 60 年の記録として特集記事
を写真入りで掲載した。残念なことに東京大学全体
で 60 年の節目に東京大空襲を取り上げたのは東大
病院だよりだけであった。東京大学の教師の関心も
薄くなったからなのであろう。
小生が東京大学医学図書館の 4 階の古い雑誌や書
籍を調べていた時に比較的新しい装丁の本書を何気
なく取って最初の 1 ページを読んだだけで強く魅か
れた。戦況も悪化した時期に、若き免疫研究者の秋
元寿恵夫先生が教授の緒方富雄先生から海外の研究
所に行ってみないかとすすめられ、ジャカルタのパ
スツール研究所か満洲の関東軍の医学研究所のどち
らかを選ぶことになり、読書が好きな秋元青年は後
者を選んだ、というところから始まる。現地で迎え
に来た先輩からどうしてこんなところに来たのか聞
かれる。知らずに来たこの研究所は 731 部隊の人体
実験を行っていたところであったからである。本書
は敗戦と同時に研究所を燃やし、内地に脱出すると
ころまでの詳細な体験が書かれている。
秋元寿恵夫先生は戦後、臨床検査技師に国家資格
を与えるようにと制度作りに奮闘した陰の功労者で
ある。東大精神科の教授であった秋元波留夫先生は
兄にあたる。本書はオンデマンド出版で現在も手に
入れることができる。
図7
図8
2.「聴覚生理学の道」勝木保次著 紀伊国屋書房
1967 年(図8)
勝木保次先生は昭和 6 年卒業で、小生と同じく耳
鼻咽喉科学教室に入局し 4 年過ごし、その後橋田邦
彦教授の生理学教室に入り基礎医学者を目指し、声
や聴覚の生理学的なテーマの研究を行う。ところが
すぐに招集され、北支那、南支那、ビルマと本土に
帰ってはすぐに次の任地へ召集されて転戦し、軍医
として働いた。その戦争体験は本書の中に約数ペー
ジにさりげなく書かれている。
勝木先生の偉大さは終戦により 40 歳で生理学教
室に戻るとともに爆発的なエネルギーで中枢の聴覚
生理学に挑戦し、それから“世界の聴覚生理の勝木”
になったことである。小生は学生時代東大闘争の渦
中にあったが、いつもこの戦いでは第 2 次大戦と違
って殺されることはないと思っていた。いつ死ぬか
しれぬ戦地で軍医として赴任し、そのハンディを何
するものと言わんばかりに活躍した神経生理学者に
は、他に脳生理学の時実利彦教授や味覚の生理学で
知られる佐藤昌康教授がいた。2 人とも回想録があ
ると聞くが小生はまだ持っていない。
4.原爆の地、戦後の GHQ 占領下の医学者
「日本残酷物語 現代編1」平凡社 1960 年
GHQ 占領下では、わが国には実権はなく米国にあ
った。その中で GHQ の警告にもかかわらず学問の良
心のもとに原爆の被爆者の研究を継続した学者がい
た。
第 3 外科の都築正男教授は GHQ の要請で広島の原
爆症の研究を GHQ とともに行った。病理の三宅仁先
生、第 3 内科の血液学の中尾喜久先生もそうである。
しかし途中で GHQ から横やりが入り研究が妨害され
るようになったが、研究を続けた。その態度は GHQ
より公職と教職から追放される口実となった。臓器
の標本を庭の土の中に埋めて隠した。東大医学部標
本室には広島と長崎の被爆者の臓器が展示されてい
る。それがこのような経緯のものかどうかはわから
ない。日本の学術雑誌はサンフランシスコ講和条約
が結ばれるまで原爆症関係の論文を発表することが
出来なかった。
5.「回想 橋田邦彦」東大生理学教室編 1953 年
発行
橋田邦彦は東大生理学教室の教授であったが、仏
教の禅にも詳しく、仏典の講読会もしたほどである。
昭和 15 年~昭和 18 年、文部大臣も兼任した。戦後
学徒出陣の責任を問われ、GHQ から呼び出され、
出頭する朝の昭和 20 年 9 月 14 日自決した。本書は
そのお弟子さんたちの回想記である。鏑木清方が橋
田邦彦の肖像を描いている。私服の端正な姿を描い
た絵で東大医学図書館の所蔵である。前述の勝木保
次先生や東大耳鼻科の三代目の教授の颯田(さった )
琴次先生らが座談会で橋田邦彦研究室のことと戦後
の東大医学部の雰囲気を回想している。
6.
「東京大学医学部生化学教室創立百周年記念誌」
(非売品)東京大学生化学教室記念会発行 1997 年
本書は生化学教室の記念誌であるが、寄せられた
随筆が年代的に並べられているため、102 ページか
ら 115 ページは、のちに教授として活躍した台弘、
- 23 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
艦長が自分の部屋や歩くところをクレゾールで消毒
するので止めさせたところ、生意気と言われ別のも
っと小さな戦艦に乗るように命ぜられた。次の戦艦
でも批判的な言動をしたためにその次の戦艦へ異動
を命じられた。しかし、異動のたびに前の空母も戦
艦も撃沈された話をはじめ、学生時代のこと、陸上
勤務で本土に戻ったその列車が広島の原爆の直前に
通り過ぎたことなど貴重な証言が多数記録されてい
る。現在の学生に伝える言葉としてウィリアム・オ
スラーの「患者と共に始まり、患者と共にあり、患
者と共に終る」の他、
「見えぬ人々よりの支援を忘れ
ない」こと、
「威張るな、自分自身で新しいものを作
り出せ」などを述べている。このビデオでは戦時中
の自分のヘルメットをはじめとして持ち物も紹介し
ている。
緒方規雄、三浦義彰、阿南功一、中尾真らによって、
戦前・戦中・戦後の生化学教室で学んだ若い研究者
の戦争の影響による研究活動の実態がよく描かれて
いる。
「太平洋戦争直前にはすべてが不足がちで、特
に試薬の質が悪く、停電、水があがらなくなるなど
すでに起きた後に戦争がすすむと陸海軍がいろいろ
な研究の委託があった。戦闘機の操縦者の夜間視力
を向上させる薬、海軍の食糧を減らすための栄養調
査、腸内ガス研究 etc・・。
東京大空襲で夜が明けると避難して来た人々で構
内が一杯になりトイレが足りなく困ったことが忘れ
られない。1944 年にはドイツからジェット機が輸入
され飛ぶようになっており、そのパイロットのため
の兵食と腸内ガスの関係が研究された。戦後は器具
も薬品も食糧も不足の時代で、このようなどん底の
時代から生化学研究が復活していくその様子がよく
わかる重要な記録である。
9.
「看護のあゆみー明治・大正・昭和を通して―」
東京大学医学部附属病院看護部発行 非売品
1991
1991 年
昭和 16 年 12 月の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦
争は、翌年の昭和 17 年には東京に空襲が襲いかかる
ようになった。
昭和 18 年 8 月には防空訓練が行われ、
都築外科で東大病院に防空壕を掘った。昭和 20 年 3
月 10 日の東京大空襲で看護寮と歯科・物療内科の建
物が焼失した。東大病院には被災者が次々運ばれて
くるが治療に当たる医師が軍に招集されて講師以上
の高齢の医師しかいない、薬がない、食糧がない。
医学生も病棟配置になって手伝った。患者も看護婦
も自分で食糧を調達した。
戦後は進駐軍が東大に駐留する話があり、もし来
たら青酸カリを飲むなど本気で話し合ったという。
食糧はなく、燃料もなく困難を極めた。その後 GHQ
の看護課から看護サービスや看護婦教育について指
令を出し、三交代制、看護記録カリキュラム、総婦
長制度など現在の看護体制の基礎ができた。
以上のように看護の歴史の立場からの重要な記録
である。
7.「99
「99 歳精神科医の挑戦」秋元波留夫著 岩波書
店(図9)
秋元波留夫は失行症の
研究の後東京大学の精神
神経科学教室の教授とし
て活躍した。
「医の倫理を
問う」の著者、秋元寿恵
夫の兄である。弟とは異
なり、国立精神神経セン
ター病院の前身の武蔵療
養所の所長として多くの
戦争精神病の患者を診療
した。第 5 章“勝利なき
戦い”に 15 年戦争と精神
図9
障害者の受難として、戦
争は多くの精神障害軍人を生み、都立の精神病院の
松沢病院と同様に多数の患者を収容し治療した。し
かし、戦争が色濃くなるとともに食糧難となり、死
亡者が増加した。入院死亡者は昭和 15 年 1 名であっ
たのが、戦争が始まった 16 年は 26 名、18 年 32 名、
19 年 106 人、20 年 166 人、戦争が終わった 21 年 103
人、24 年 33 人。松沢病院も食糧を調達できず同様
であった。著者の秋元波留夫は 100 歳で亡くなった
が、精神障害者のためのより良い医療と反戦平和主
義の立場を貫いた偉大な東大医学部卒業生の一人で
あった。講演でもしばしば弟の寿恵夫の 731 部隊の
研究所体験のことを語った。
8.卒業生インタビュー “諸橋芳夫先生”
「太平洋戦争および医学生に伝えたいこと」東大チ
ャンネル#424
ャンネル#424 東京大学制作 1997 年
諸橋芳夫先生のインタビューのビデオ記録である。
昭和 9 年の東大創立 120 周年記念に制作されたもの
で小生がインタビューをした。
昭和 17 年卒業し、47 年間国保旭中央病院長と全
国自治体病院協議会長であった。太平洋戦争のため
に卒業が半年繰り上げになり、昭和 17 年 9 月に卒業
し、海軍軍医となった。空母「翔鶴」に乗り組んだ。
- 24 -
図 10
図 11
Ⅳ.医学教育の視点から書かれた解説書
1.東京大学公開講座 67.
「東大医学部の過去・現
67.
在・未来」加我君孝 東大出版会 1998 年 (図 10)
2 . 医の原点 第 1 集 「サイエンスとアート」
“東京大学医学部のルーツとその後の展開”
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
p67~
p67~90 加我君孝 金原出版 2002 年(図 11)
2つとも小生の書いたもので前者は市民に向かっ
て書かれ、後者は医学生に向かって書いたものであ
る。120 年の歴史の解説である。戦争中は教練とし
て軍事訓練が御殿下グラウンドで行われ、その写真
が安田講堂を背景に掲載されている。戦後、第 2 次
大戦によって多くの学徒を亡くしたことに対して反
省を述べた南原繁総長のことも掲載されている。な
お、この 2 つの他をおいて第 2 次大戦と東大医学部
卒業生について医学生のために教育的に書かれた本
は出版されてはいない。
3.「風と共に去りぬ」の初めての上映
「風と共に去りぬ」の初めての上映
加我君孝 UP 262 号 東大出版会 2002 年(図 12)
映画「風と共に去りぬ」がわが国で初の上映がな
されたのは戦時中の昭和 19 年、東大法学部の大教室
であった。それまで白黒映画しか観たことがなかっ
た東大の学生は壮大な
カラー映画のアメリカ
南北戦争を舞台にした
ビビアン・リーとクラー
ク・ゲーブルの主演の映
画を観て「こんな映画を
作る力量のアメリカの
ことをあらかじめ知っ
ていたら、戦争などすべ
きでなかった」と思った
という。この映画が完成
したのは昭和 14 年で、
図 12
初めて上映されたのは
戦後の昭和 27 年である。しかしこの映画は日本が占
領していた上海やフィリピンでは上映されていた。
溝口健二監督は上海で観た。東大で上映されたもの
は、こっそりフィリピンから持ち込んだもので、そ
の上映の時のことを小生が当時の医学部の学生であ
った現在埼玉県で開業している先生に詳しくインタ
ビューし紹介している。
4.「東京大学医学部耳鼻咽喉科学教室創立 100 年
記念歴史アルバム」2000 年 東京大学耳鼻咽喉科学
2009 年 10 月
教室発行 非売品(図
13)
非売品
本書は初代の岡田和一郎教授から 7 代目の小生ま
で 100 年の歴史をたくさんの写真を用いた貴重なア
ルバムである。15 年戦
争の始まりの頃から戦
中の教室の写真、出征
する教室員を東大病院
の前で歓送する写真、
軍の機密研究の命令書、
御殿下グラウンドの教
練、戦後の物資乏しき
時代の写真等貴重な写
真が載っている。本書
のほとんどの写真は小
生が集め、解説を書い
たものである。第 2 次
図 13
大戦のところは後世に
残すために特別力を入れて書いた。
Ⅴ.おわりに
「ゆめの世に生まれしいとし子の露とちりぬるゆ
めぞかなしき」を紹介しておわりにかえたい。この
短歌は最初に紹介した「春来たり花は咲けども」の
本文中に紹介されている昭和 20 年に戦死した、昭和
13 年東大医学部卒の伊丹昇先生の母親である伊丹
なよ子氏が詠んだものである。
真実は記述されて初めて歴史として残り、存在し
続けることを強調して終わることにする。
著者プロフィル
昭和 46 年東京大学卒業、平成 4 年~19 年東京大
学医学部耳鼻咽喉科学教室教授、平成 12 年~19 年
東京大学医学教育国際協力研究センター長、平成 19
年 4 月より東京大学医学教育国際協力研究センター
名誉センター長、平成 19 年 5 月より東京大学名誉教
授、現在東京医療センター・臨床研究(感覚器)セ
ンター長、平成 20 年より獨協医科大学特任教授.日
本耳鼻咽喉科学会理事、日本耳科学会前理事長.日
本学術会議連携会員
- 25 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
『陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部』の分析(その三)
陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部』の分析(その三)
研究報告中の「ペスト」関連研究論文について
莇 昭三
城北病院
“Rikugun Gun-igakko Boeki Kenkyu Hokoku-IIbu”-(3)
Papers related to Rat,Xenopsylla and Pasteurella pestis
AZAMI Shozo
Johoku Hospital
キーワード Keywords:731 部隊Unit 731、陸軍軍医学校 Japanese Army Docter School、防疫研究室研究報告2
部Report Vol-2,Laboratory of Prevention of Epidemics、鼠 Rat、蚤 Xenopsylla、ペスト菌 Pasteurella pestis
(一)研究の目的
「陸軍軍医学校防疫研究報告」Ⅱ部(不二出版)
の内容の概略及びそれらの研究と論文作成に関与し
た医師・医学者(陸軍嘱託)の分析を、これまで発
表してきた([註]参照)
。
今回はその研究報告に掲載されている全 790 篇の
論文中の「ペスト菌」関連の論文(鼠と蚤とペスト
菌関連論文)を分析し、それらの研究と当時の日本
陸軍の細菌戦との関係を詳細に検討することを目的
とした。
15 年戦争中に日本軍は、細菌戦用の病原菌として
チフス菌、コレラ菌、鼻疽菌、炭疽菌、ペスト菌等
を使用したと言われているが、最終的には 731 部隊
はその主力をペスト菌及び炭疽菌の散布に重点をお
いていたと推測できる 1)。
「P 攻撃用武器たる P 菌感染蚤輸送容器製造に当
り、先ず以て考慮すべき重要なる条件は生きたる運
動自由なる蚤が斯くの如き容器の間隙より遁走せざ
ることなり。
・・空気の連絡を絶たずして・・蚤の遁
走を防止する・・を留意せざるべからず・・」
(2 部
論文 165 号)と書かれている如く、1940 年以降は「研
究報告」も「P 菌感染蚤」の増産、運搬、有効な撒
布が重要な研究課題となっていたのであろう。
この 731 部隊でのペスト菌関連研究の実態は「フ
ェルレポート」や「ヒルレポート」等々で少しは明ら
かになってはいるが、今日も其の詳細はわからない。
しかし当時のペスト菌等の研究内容が「陸軍軍医学
校防疫研究報告 2 部」に掲載させているので、その
分析を通じて当時の細菌戦のための「P 菌感染蚤」
等の研究実態を推測することを目的とした。
(Pはペスト菌、P蚤はペスト菌感染蚤、P鼠はペ
スト菌感染鼠、P 攻撃武器はペスト菌関連細菌戦用
武器をそれぞれ示す)
[註]
*「『陸軍軍医学校防疫研究報告』Ⅱ部(その一)―
その概略について」は、第 18 回「15 年戦争と日本
の医学医療研究会」研究例会(2006 年 3 月)で発表
し、同時にその概要を第 107 回日本医史学会総会で
口演した(
「日本医史学雑誌」52 巻 1 号・2006 年 3
月・に掲載)。
*「『陸軍軍医学校防疫研究報告』Ⅱ部(その二)―
研究に加担した医学者(嘱託)
」たち」は第 22 回「15
年戦争と日本の医学医療研究会」研究例会(2007 年
7 月)で発表し、その内容は「15 年戦争と日本の医
学医療研究会会誌」第 8 巻1号・2007 年 10 月)に
掲載した。尚また、その概要を第 109 回日本医史学
会総会で口演した(「日本医史学雑誌」54 巻 2 号・
2008 年 6 月に掲載)。
*本論文「
『陸軍軍医学校防疫研究報告』Ⅱ部(その
三)―鼠と蚤とペスト菌の関連論文の分析」は、第
26 回「15 年戦争と日本の医学医療研究会」研究例会
(2009 年 3 月)でその研究の一部を発表し、同時に
その概要を第 110 回日本医史学会総会で口演した
(「日本医史学雑誌」55 巻 2 号掲載・2009 年 6 月)。
今回のこの論文はその内容を詳細に記述したもので
ある。
(二)結果
(1)「ペスト菌」関連の論文数とその内容
「Ⅱ部」全体 790 篇の研究論文中の「ペスト菌」
関連の論文は表一のように 82 篇(10.3%)である。
細菌戦論(ペスト関連)2 篇、鼠関連 3 篇、蚤関連
28 篇、ペスト菌 39 篇、ペスト流行と疫学 10 篇とな
る。
尚、同「研究報告Ⅱ部」の論文の引用文献欄には
「陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅰ部」からの引用とい
う記述のあるものがある。しかしこの「Ⅰ部」の論
文は十数編の論文を除いては私たちは未だ「確認」
することができない。おそらく「Ⅰ部」は「Ⅱ部」
よりより軍事機密性が高く、終戦直後に処分された
からなのであろうか?
この引用されているⅠ部の論文の「Ⅰ部・引用文
献番号」 は 1,2,3,7,8,10,15,18,64,73,
連絡先:〒920-0923 金澤市桜町 2-2 莇昭三
Address:2-2,Sakura-machi、Kanazawa、Ishikawa 〒920-0923 Japan
E-mail:s[email protected]
- 26 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
医大派遣中に研究が開始
されたとしても、その殆ど
論文内容の分類
論文数 著者名
小計数
は高橋正彦軍医が「ペスト
細菌戦論(ペスト関連)
2 翻訳(内藤軍医等)
2篇
細菌戦論
班班長」として「平房」に
鼠(飼育器、成長曲線)
3 竹脇(東大)、広島理科大動物
3篇
鼠(
在職中に完成された論文
教室、小酒井望(軍医)
と見てよいようである。
けおびすねずみのみ
28篇
[註2]野口圭一軍医
けおびすねずみのみの生態
14 村国茂(軍医)
野口圭一軍医は主とし
けおびすねずみのみの生態及
10 小酒井望(軍医)
てペスト菌の凍結真空乾
び寄生発疹熱リケッチ
燥法関連の研究論文を 14
ー等
篇投稿している。最初の論
けおびすねずみのみの生態
2 防疫研究室(板倉純ら)
殺蚤剤
2 村国茂(軍医)
文投稿は 1942 年 1 月 12
ペスト菌
39篇
日(軍医大尉)であり、最
ペスト菌培養
3 井上(軍医)
、細谷(東大)
終論文のそれは 1944 年 2
ペスト菌の変異
10 高橋(軍医)
月 16 日(軍医少佐)であ
ペスト菌の免疫
9 高橋(軍医)
る。彼は 731 部隊平房本部
ぺスト診断、治療法
3 高橋(軍医)
、防疫研究室
の組織表の第一部「研究
ペスト菌凍結真空乾燥
14 野口(軍医)
部」の「野口班(リケッチ
ペスト流行と疫学
10篇
ャー)班長」となっている
農安のペスト流行
7 高橋(軍医)
、菱沼、
4)
。彼は何時その職務に就
支那のペスト流行史
1 上田(軍医)
任したかは不明であるが、
日本のペストの疫学
1 天野(軍医)
恐らく高橋軍医と同様の
ハワイペストの疫学
1 高橋(軍医)
時期にすでに平房にいた
総合計
82篇
ことが推測できる。したが
って彼の論文も平房在任
74,93,143 であり、合計して 13 篇である。この論
中に作成されたと思われる。
文番号から、Ⅰ部にはおそらく 150 篇ぐらいの論文
(2)各研究対象別の論文の内容とその特徴
は存在したのであろうと推測できる。この引用され
1)「細菌戦」関連外国文献の抄読の論文
た 13 篇の論文の表題を分類すると、細菌の「凍結乾
*論文 73 号(内藤良一訳)のHolmut Klotz の「細
燥保存」関連が 9 篇、
「けおびすねずみの生態」関連
菌兵器」
(1936 年)では「細菌戦は可能である」
「風
が 2 篇、
「飢餓蚤」と「撒布蚤」関連が 2 篇となって
向き等の気象条件に左右される」
「
味方に危害をあた
いる。
える臨時武器である」とし、使用する菌としては炭
[註1]高橋正彦軍医
疽菌芽胞、ペスト菌を上げている。そしてその「使
上記の論文の中で、平房の 731 部隊の第一部(「細
用法として 1・硝子容器投下、2・落下傘による不発
菌研究」の第 5 班「ペスト班」の班長の高橋正彦軍
弾様式(炭疽菌芽胞、ペスト菌)、3・細菌滴下法(炭
医名の論文が 30 篇存在する。其の最初の論文は昭
疽菌芽胞)を記述している。
和 17 年 6 月 26 日受付のジャワにおける 1911 年の
*内藤良一訳の論文 129 号「細菌兵器、戦争に於け
ペスト流行の分析、最後の論文は昭和 18 年 5 月 19
る 生 物 の 使 用 」( 昭 和 16 年 3 月 ) は Leon A.
日受付のペスト免疫血清の感染防禦実験の報告で
Fox(U.S.Army
Medical Cerpa) の原著の翻訳である。
ある。
「米国軍医雑誌に掲載
高橋正彦は多くの日本で出版されている文献では、 冒頭に内藤は「論文紹介」で、
された本論文以外に
1939
年
2
月までに細菌戦の文献
731 部隊平房本部の組織表の第一部「研究部」の「高
は米国では存在しない」と述べ、この文献は「細菌
橋班(ペスト)班長」となっている。辛培林著の「細
戦に関して各国が引用している基本文献である」と
菌戦」によれば高橋正彦軍医は満州医大で勉学し、
紹介している。その内容は、まず細菌戦用の媒体と
医学博士、1938 年に 731 部隊に移動したとある 2)。
して腸チフス、パラチフス、赤痢、コレラ、発疹チ
吉村寿人等が京都大学から 731 部隊に派遣されたの
フス、ペスト、腺ペスト、天然痘、接触性伝染病(炭
3)
は 1938 年 3 月であるから 、おそらく同時期に高橋
脱疽・性病等)、ボツリヌス(細菌産生毒素)が考え
正彦軍医も 731 部隊本部に勤務し、この時期に編成
られると紹介。各論として「腸伝染病」は最近の衛
された「第一部研究班」の班長―ペスト班の班長―
生対応の進歩で文化国民には通用しない、
「呼吸器伝
となったとみてよい。
染病」の汚染には他の生活条件がそれを左右する、
この高橋正彦軍医名の「二部研究報告」への掲載
昆虫媒介疾患はペストであるが「言うは易く実行は
の 30 の論文をみると、最初の論文の受付は 1942 年
困難」でペスト感染鼠の使用程度であり、発疹チフ
6 月 26 日、最後のそれは 1943 年 5 月 19 日となって
スはその防渇は可能であるとしている。其の他の伝
いる。(最初は「軍医大尉」
、そして 1942 年 11 月か
染病も使用は困難であり効果も少なく、産生毒素の
らの論文は「軍医少佐」となっている)したがって
使用も弾丸として使用は不適であると指摘し、結論
これらの論文のほとんどは、軍医学校在職中と満州
として「・・茲に於いて化学兵器使用の有無の問題
(表一)
「ペスト菌」関連の論文
- 27 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
並に細菌戦適用の有無の問題は、平和主義者達の感
傷的な反抗よりも寧ろ其の実行性如何に依る事は明
瞭である。一方余は病原体が戦争に適当であるか否
かの問題は甚だ疑問だと考える。現在実際的に克服
し難き操作的困難の為に病原体を効果ある戦争武器
として使用せられるに至っていない事は確かであ
る」と著者の「結論」を記述している。
つまり 1939 年当時ではアメリカ軍は細菌戦の効
果について否定的であることを記述したものであり
(唯一肯定的評価は「ペスト菌」の散布か?)、石井
四郎や内藤良一は Leon A. Fox 等の細菌戦に関する
このような見解を念頭において実験をし始めたこと
が想像できる。
2)鼠関連研究論文
①研究内容の要点
この主題では3篇の研究報告がある。蚤の寄生主
である鼠の飼育法について検討している。812 号で
は 鼠 一 匹 の 飼 育 に必 要 な飼 育 器 の 最 小 の 大き さ
(縦・横・深さがほぼ 20cm)を検討し、851 号は宇
都宮、埼玉県下で飼育されている白鼠の成長方程式
を解明し、883 号では 1000 匹の大黒鼠の輸送の場合
の飼料、共食状況、死亡数等について言及している。
②研究成果とその活用
1940 年ころから 731 部隊では細菌戦用病原菌とし
て「ペスト蚤」が最重点の研究課題と位置づけられ
た(165 号論文)。したがって日本国内でも重要な戦
略的課題として鼠の生産が埼玉県を中心に取り組ま
れ 5)、また 1944 年ころからは中国戦線に展開してい
た各地の防疫給水部の兵士も鼠捕獲、飼育が日課と
なっていた 6)。
1943 年(昭和 18)4 月 17 日の金原節三の「業務
日誌」⑦によれば陸軍参謀本部で「ホ号作戦打合」
が行われたことが書かれている。
・・
「餅の輸送の場
合、船便による時は船待(神戸港で 4 日間)の関係
上相当の飼料を要するのみならず、これがため 3 割
の損耗を生ず」
・・
「葡萄糖を使用し餅の節約となる。
約 8 分の一の数が可能なり」・・「その粟の卵の保存
法を研究」
「砂ねずみ(蒙古)」等々とメモ書きされ
ている。当時は「餅」は鼠の隠語であり、
「粟」は蚤
の隠語であるが、陸軍省本部および大本営ではこの
ように真剣に鼠の増産、収集、その輸送が重要な「戦
略課題」として論議されていたことを示している。
このような当時の陸軍参謀本部の戦略課題から上記
の研究もとりくまれたものと思われる。
また 359 号では四層の鼠飼育箱が研究されている
が、鼠に寄生して増殖したノミの分離収集に活用さ
れたと推測できる。また 618 号では鼠の雌の飼料に
卵胞ホルモンを添加すると寄生蚤の増殖に効率的で
あると指摘しているが、この研究結果も蚤の増産に
利用されたと思われる。
3)蚤関連論文
①研究対象
研究対象の蚤は主として「けおびずねずみのみ」
(Xenopsylla cheopis Rothschild)である。研究者は陸
軍軍医大尉村国茂が中心でその論文は 16 篇、小酒井
望軍医中尉のそれが 10 篇、板倉純一軍医等その他が
- 28 -
October, 2009
2篇となっている。この主題についての最初の論文
提出は昭和 15 年 4 月であり、最後のそれは昭和 19
年 3 月となっている。
[註]日本に多いのは「くまねずみ」、
「どぶねずみ」
であるが、
「けおびずねずみ」
(「トンドネズミ」
)も
存在する。これに寄生する蚤が「けおびずねずみの
み」と言われ、その成虫はやや小さく 1.5~2mm程
度である。
②研究内容
・蚤の生態研究から、水平及び垂直飛翔移動距離を
調べ、それぞれ約 9cm、2~9cm としている(215、
218 号)
。また成虫の背光性、背地性、登坂性、負の
向熱性(269 号)
、好褐色性(12 号)等を指摘してい
る。
・蚤の吸血の意義を検討し、雌の産卵と受精卵の発
育には吸血が必要であるが(188 号)、吸血以外で人
口飼育が可能かどうかも調べ、脱繊維山羊血で代替
できるが、それで 3 代まで飼育可能であるが次第に
繁殖率が悪くなり、終に絶滅した(344 号)という。
・一方雌鼠の飼料に卵胞ホルモンを添加しておくと
蚤の増殖は飛躍的に増大すると指摘している(618
号)
。
・蚤の寿命の研究では、夏は 20~30 日、秋は 15~
20 日であり、一般的には羽化後 15 日前後で大半が
死滅する(188、245 号)としている。
・蚤の好適温度は 22 度 C 前後、好適湿度は 76%で
あることを明らかにし(32 号)
、繁殖、孵化は 27~
30 度 C、湿度 90%で最大であり、前蛹期、蛹期とも
に温度の低下でその期間は延長する(536 号、517
号)としている。
・異常環境での蚤の生存状態の研究
絶食状態では最大生存日は 15~30 日(32 号)
、ま
たその絶食蚤でも湿度の低下とともに生存日数は減
少、温度の低下とともに生存日数は増加すると(576
号)述べている。
気圧との関係では、成虫の高空での生態研究(547
号)により、100mmHg 前後の低圧が続いても、生存
力は常圧下と変化なしとしている。また低温暴露の
実験から零下 10 度で 1 時間、零下1度で 24 時間が
限界であるとしている(476 号)
。また絶食状態では、
室温では 10 日間で 100%斃死する(32 号)と。
(P 蚤は湿度が高ければ、低圧に強く、零下 10 度で
も短時間は生存可能、絶食状態でも 10 日は生存する
ということを明らかにしたものー飛行機からの撒布
可能と)
。
・59 号ではペスト蚤の増殖のための鼠飼育法を記述
している。この増殖法はドラム缶を4層のそれぞれ
網目の大きさの異なる金網で区分したもので、最上
層に鼠を飼育し、産卵した蚤の卵が下層に落下する
ように工夫されたものである。つまりペストノミ大
量生産のための研究である。
・尚「発疹熱」に関する論文が 4 篇ある。これは当
時蚤の飼育に当った防疫研究室の職員間に発疹熱が
流行したことから
(昭和 18 年 7 月・小酒井-617 号)、
その病原微生物の追求の過程でこれらの論文が生ま
れたと思われる。それは研究対象の蚤体内のリケッ
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
チャーの検索(627 号、628 号、687 号)
、更にリケ
ッチャーの蚤への感染状況の研究(627 号))と感染
蚤と非感染蚤の生存日数を研究している。
・殺蚤にはクレゾール液及び 50 度 C 温水 30 秒間が
必要、としている(158 号)
。
[註]
*「研究報告Ⅰ部」の「73 号」では、「同一数の蚤
を運搬する際の容器の大きさ」の研究で、一定数の
蚤の運搬には小なる容器を多数にしたほうが、大の
容器に入れるより蚤の死滅率が少ない、つまり多数
の小なる容器に入れて運搬した方がよい(Ⅰ-7 号)
と指摘している。
*また「撒布蚤の各種環境に於ける生存期間に関す
る研究(Ⅰ部-73 号・平澤正欣)では、地上に撒布
された蚤がどのような環境のもとでもっとも長生き
するかを検討し、雑草、平坦地、レンガ、水田、砂
等約 28 種類の場所に撒布して実験している。蚤がも
っとも長生きできた場所は「平坦地面」で 33 日、次
が雑草、レンガとなっている。日光の照射に弱く、
急激な温度上昇に弱いと指摘している 8」。
③研究成果の応用
以上のような研究成果は次のように細菌兵器製造
と関係しているようである。
・蚤の大きさから飼育容器の網目の大きさを決定。
また蚤の生態を利用した蚤分離・収集器を考案(従
来は麻酔薬を使用して分離収集していた)している。
それはまた石井式陶磁爆弾の構造考案にも示唆を与
えているようである。
・蚤の増殖のための飼育条件(温度 22 度 C、湿度
76%、鼠の飼料へのホルモン添加等)
、
吸血原としての鼠以外の代替飼育方法(山羊血)等
を研究している。しかしヤギ乳等での蚤の飼育を研
究しているが失敗している。(「大塚文郎備忘録」に
よれば鼠の代わりに犬の使用が試みられていること
が参謀本部で報告されてもいる 9))
・更に蚤の寿命を夏 20~30 日間、秋は 15~20 日間
と確認している(吸血なしに 15 日間程度しか生きら
れない)
。従って P 蚤として使用する場合には四六
時中鼠の飼育を継続し、蚤を補給する必要があるこ
との確認である。従ってまた蚤の生産のため絶えず
大量の鼠が必要となっていたのであろう。
・異常環境と蚤の生存実験―蚤は室温で絶食状態で
は約 10~15 日前後で 100%斃する。マイナス 10 度
では1時間、マイナス1度では 24 時間の生存が限界。
しかし低圧には強い。従って「Pのみ」を細菌爆弾
に装填した場合にはその効力は約 10 日間程度であ
ったのであろう。従って「P 蚤」作戦では絶えず新
しい「Pのみ」を作り、それを砲弾や投下物に充填
する必要があったのであろう(長期保存は無理)
。
また零度以下の気温では蚤は死亡しやすいので、
高空からの撒布は合理的でないこと。また「Pのみ」
は高温でも死滅する、つまり爆弾炸裂での高温では
「Pのみ」自体が死滅する。従って鋼鉄爆弾以外の
磁器製爆弾の開発となったーペスト菌ベクターとし
ての蚤の、運動が自由で、しかも空気の流通する容
器として、対角長径 0.55mm以下の溝網目が必要と
いう研究もここで利用されたと思われる。
4)ペスト菌関連論文
前述したようにペスト菌関連の研究は高橋正彦軍
医が中心となっている。
①研究内容
*ペスト菌用培地の研究
「大量培養培地の乾燥状態での保存の研究は石井
部隊長の依頼により・・」
(88 号)と特記され、ペ
スト菌大量、迅速培養の研究が行われており、当時
特に重視されていたことがわかる。結果として、培
地への米糠成分の添加(88 号)
、硫黄等の添加(130
号)及び新たな選択培地(ピオクタニン、ピロニン、
メチールグリン、亜硫酸ソーダ、ビタミン B1、葡萄
糖、乳糖等の添加培地)が提言されている(323 号)。
*ペスト菌の変形菌及びその免疫原性の検討
グリセリン分解性変異菌、血清アレキシン耐性欠
如菌、非粘稠菌(エンベロープを持たない菌)、R型
変異菌(普通のペスト菌は S 型)等のいくつかの変
異菌の存在を示し、更にそれらのそれぞれの免疫原
性の検討を行っている。
この変形菌の免疫学的研究として、死菌免疫でも
生菌免疫でも R 型変形菌の免疫原性は S 型菌より弱
いとしている(462 号)。
また死菌抗原免疫では E 型菌(普通の粘稠性菌)
と N 型菌(非粘稠性菌)では免疫抗原性に差異がな
く(455 号)
、生菌抗原免疫では E 型、N 型に関係な
く、その抗原性は菌株によって差異があると述べて
いる(455 号)
。
菌培養の際の温度とその菌の免疫抗原性について
は、
死菌免疫では 37 度 C 培養菌の免疫原性が高く、
生菌免疫では 37 度 C、20 度 C、4度 C 培養菌では、
その免疫原性に変化がなかったとしている(456 号)
。
またペスト菌をバクテリオファージして作った菌
体物質は極めて高い免疫抗原性をもつことも明らか
にしている(473 号)。
*ペスト菌の免疫機序に関する研究
生菌ワクチンは死菌ワクチンより抗原性が高く、
死亡率を減少させる(412 号)
。海猽の実験では、生
菌免疫では腹腔内の感染菌は減少し、死菌免疫では
二次敗血症を阻止し、これらを比較検討して感染防
御力は生菌免疫が強い(422、432 号)と。また、ワ
クチンを皮下接種した場合には、生菌免疫は菌の体
内進入を阻止、一方死菌免疫は体内菌の発育を阻止
する、しかし移行型もあり判定しにくい面もある
(421 号)と述べている。これらの病変阻止能力は、
殺菌的より組織免疫機能の強化によるものであり、
生菌免疫は2日目で発生、7日目で最高となり、2
~3週間で最高となる(433 号)
。またその感染防御
力は接種の菌量の大小にも左右される(443 号)
。又
生ワクチンとして有効な菌株は、一定の毒力を有す
ることが条件である(442 号)と。
*ワクチンの投与に関する研究
ワクチンの投与法の検討(402 号)―海猽を使用
して経皮感染、経鼻感染、経眼感染、経口感染、経
腸感染それぞれに対する経皮免疫、経鼻免疫、経眼
免疫、経口免疫、経腸免疫の効果を検討し、最終的
- 29 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
凍結真空乾燥したものを開封して注水しても菌の
に皮下接種法を推奨し、生ワクチンは1回接種、死
生存に問題なく、4~1 度C、10 ヶ月保存で免疫原性
菌ワクチンは2回接種を提言している。またペスト
に変化はなかった(262 号)
。また真空乾燥菌を溶解
生ワクチンの効果は、接種後2週間で効果が出、3
する場合のメジウムは 5~10%の蔗糖液がよく、そ
~4 ヶ月で効果最高、5~6ヶ月で漸減(366 号)と。
の培養温度は 30~37 度Cがよい。
*ペストの診断と皮内反応
一般に細菌は累代培養すると免疫性、被凝集性は
ペスト皮膚反応(ペスト弱毒菌株を 60 度 C、60
減弱するが、凍結真空乾燥した菌は形態、増殖性、
分加熱、死滅後のものを抗原として使用)は感染し
免疫原性、毒力等に変化はなかった(631 号)
。更に
た人の 100%に出現するので、血清診断より診断価
凍結真空乾燥菌は 1~4 度Cで 10 ヶ月保存可能であ
値が高い。またその反応はワクチンの接種回数によ
り、その免疫原性にも変化がないことがわかった
り陽性率が高くなる(381 号)
。
(789 号)。更に凍結真空乾燥菌を再培養した後に再
[註]論文 381 号には、
「予防接種を受けたる「ペス
度真空乾燥をする、これを 10 代に及んでも性状に変
ト室勤務者」
(「凡そ一ヶ月1回の割合にて 20 回以上
化はなかった(643 号)と。
にわたり予防接種をなせるものなり」)及び全然ペス
③研究成果とその活用
ト予防接種を受けたることなきものについて皮膚反
・ペスト菌の保存及び遠隔地でのペスト菌の速成培養
応を検査せり」と記述されている。つまりこの論文
・遠隔地でのワクチン作成のための生菌の保存、運
から推測すると、当時ペスト関連研究に従事した兵
搬に利用
隊や雇員は毎月予防接種を強制されていたことが伺
(凍結真空乾燥菌は 1~4 度Cで 10 ヶ月保存可能、
える。毎月1回の予防注射投与の根拠は論文 433 号
免疫原性に変化なし(789 号)
)
で免疫力が最高となるのは「投与後 2,3 週間」とい
・
「P蚤」製造関連者の免疫賦与及び作戦時の味方兵
うことが明らかとなったからであろう。
の防護のための生菌ワクチンの確保
(註)また 381 号論文には、1940 年の「農安ペスト
6)ペストの診断と治療
流行」時の患者が実験対照となっているが、同時に
診断と治療に関しては以下のような項目の研究論
「抗原性と菌量との関係」、
「各種抗原をもってせる
文がある。
成績」、
「ペスト・インムノーゲン接種者につき二、
・皮内反応についてー血清診断より優位であること
三の抗原をもってせる検査成績」等のデータがある
・ペスト皮膚反応―ペスト菌を生理的食塩水で希釈
が、これらの実験の実験対象者はどのような人を選
し、60 度C60 分加熱処理したものを抗原として使用。
定したのか?「特移扱」とされた者だったのか?と
この反応は感染者に 100%陽性となったと(381 号)
関心が持たれる。
(この被検者の中に「特移者」がいるのか?)
②研究成果の応用
・ペストワクチンー生菌ワクチン、死菌ワクチンに
・ペスト菌の大量増産のための培養方法の決定
ついてその効果を比較
・生菌及び死菌免疫に使用するための、高い免疫原
・ペスト治療における血清治療、健馬血清の効果(877 号)
性菌の条件の決定
・ペスト菌作業者及び一般兵士のペスト罹患防止の
7)ペストの流行史、疫学
ための予防接種法の決定(皮内注射―生菌ワクチ
*農安のペスト流行について
ン1回法、死菌ワクチン 2 回法等々)
1940 年 6 月中旬に農安市で発生し、1940 年 6 月下
・ペスト罹患の診断法の提言
旬に「新京」
(現長春)地区で猛威を振るったペスト
5)「弱毒ペスト菌」の凍結真空乾燥法の研究
流行の調査記録である。同年 10 月 5 日付で関東軍司
この研究は野口圭一軍医が主であり、14 篇がそれ
令部が防疫のために「関東軍命令」(31)が出され、
である。
石井部隊が本格的にこの流行の防疫に出動している
①研究の目的
が、その記録でもあり、7 篇の論文(6 篇は高橋正彦
死菌接種免疫では強毒菌の感染には効果が少なく、 論文)がある。
生菌免疫では強毒菌にも免疫が得られる。しかし、
これらの論文で、この流行は鼠ペストに由来する
その「生菌ワクチン」は保存力が弱く、遠隔地での使
人ペストであり、
「鼠―蚤―ペスト流行」の因果関係
用に不便。従って菌を保存し、運搬可能にし、遠隔
が述べられている(514 号)
。更に、殺鼠、殺蚤の重
地での生菌を使用するための方法を検討し、その具
要性が指摘され、具体的な方法が延べられている
体的方法として「凍結真空乾燥法」が検討された(208、 (538 号)。
216、313 号)と思われる。
・農安ペスト流行で、異なった地域、時期に採取し
②其の方法と凍結真空乾燥菌の性状
たペスト菌を検討し、生物学的、血清学的に同一種
凍結真空乾燥法としては、乾燥温度は零下 20~40
であった(537 号)としている。
度C、真空度は 0.05~0.5mmHg が良い。管のメヂウ
・殺鼠剤はかえって蚤を遊離させて危険、鼠は穴で
ムとしては真空がよく、窒素、水素、炭酸ガスが次
殺戮すること
によく、空気は不良であった。また直射日光に暴露
[註]
すると生菌数は減少することがわかった(464 号)。
上述の「新京ペスト流行」を、解学詩 10)及び S・ハ
凍結真空乾燥菌の菌数は、日数により対数曲線的
リス 11)は日本軍の謀略であるとしている。しかし常
に減少する、更に乾燥不十分なものは保存で菌は減
石敬一は「戦場の疫学」でそれを否定している。私
少することが分かった。
も常石の意見に同意したい。
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
[引用文献]
引用文献]
1)松村高夫編「論争 731 部隊」
、297 頁、晩声社、1997
年,
2)歩平、辛培林、「細菌戦」、108 頁、黒竜江人民出
版社、2002 年 4 月
金成民、「日本軍細菌戦」、202 頁、黒竜江人民出
版社、2008 年44
3)吉村寿人、
「喜寿回顧」、30 頁、吉村先生喜寿記念
行事会、1984 年 11 月
4)歩平、辛培林、「細菌戦」、116 頁、黒竜江人民出
版社、2002 年 4 月
5)埼玉県立庄和高校地理歴史研究部、遠藤光司「高
校生が追うネズミ村と 731 部隊」教育史料出版会、
1996・7.
6)溝渕俊美編「平房燃ゆ」
(自家出版)
7)「金原節三業務日誌摘録」(18)(防衛庁図書館)、
46 頁。
8)常石敬一「戦場の疫学」
、202 頁、海鳴社、2005 年
11 月。
9)「大塚文郎備忘録」、その六(防衛庁図書館)、65
頁。
10)解学詩、
「戦争と疫病」
、本の友社、1997 年 8 月。
11)S・ハリス(近藤昭二訳)「死の工場」、柏書房、
1999 年
(三)考案
以上のような「陸軍軍医学校防疫研究報告 2 部」
の鼠、蚤、ペスト菌関連の研究の意味と、それ等と
日本陸軍の「731 部隊」との関係、及び当時の日本
軍(陸軍参謀本部)の細菌戦等への関連を考案して
みる。
(1)「研究報告Ⅱ部」の「ペスト菌」関連研究は、平房
「731 部隊」の研究と完全に一体的なものであった。
*「陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部」の論文数は
全部で 790 篇である。其のうち「ペスト菌」関連研
究論文は 83 篇と全体の 10.3%を占め、
「石井式衛生
濾水器」関連論文に次いで比重が高い。このことは
この主題の研究が当時の陸軍医学校防疫研究室の重
要な研究課題であったことを示唆している。
*サンダース・レポートによれば、防疫研究室の
幹部であった井月三郎元軍医大佐及び井上隆朝元軍
医大佐は「軍医学校では敵が生物兵器を使用した場
合の防御に関するもののみであった」と述べている
1)
。またその後のトンプソン・レポートでも石井、北
野は生物兵器の研究・開発は平房だけでおこなわれ、
軍医学校では一切行われていないと供述している 2)。
しかしこれらの証言は、二つの矛盾した事実を含
んでいる。
一つは、もし仮に「生物兵器の研究・開発は平房だ
け」だとすれば、上述してきた「ペストの増殖とペ
スト蚤の大量生産」関連の研究が、陸軍軍医学校防
疫研究室の研究論文として発表されていることと矛
盾することとなる。
「P 攻撃用武器たる P 菌感染蚤の
輸送」
(165 号論文)と明記されているように、当時
陸軍軍医学校でも細菌戦のための具体的な研究が積
極的に行われていたことを示しているからである。
つまり平房だけではなく、東京の陸軍軍医学校でも
行われていたとしなければならないからである。
もう一つは、もし仮に「生物兵器の研究・開発は平
房だけ」だとすれば、上述してきた「ペストの増殖
とペスト蚤の大量生産」等のP菌武器関連の研究は
すべて平房で行われ、それがたまたま「陸軍軍医学
校防疫研究報告」に纏められたとしなければならな
いこととなる。つまり「陸軍軍医学校防疫研究報告」
は「731 部隊」での研究報告の一部を掲載したもの
としなければならないからである。
前述したようにペスト菌関連の研究論文の主要な
研究者の高橋正彦軍医自身が 1938 年頃から既に平
房の第 5 班・ペスト班班長であり、また野口圭一軍
医も野口班(リケッチャ)班長であり、二人の論文
の提出年月日から推測すると、彼らの論文はすべて
自らが 731 部隊員であった時期の論文であり、従っ
て陸軍軍医学校と平房との研究は完全に一体的に行
われてといた断定せざるをえない。
*また先に「陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部」以外
に「陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅰ部」が存在するこ
とを述べたが、その研究論文の表題からの推測であ
るが、
「731 部隊」の一連の研究はより機密度に高い
ものを「1部」として別に収録した可能性が伺われ
る。したがって、当時 731 部隊や軍医学校では研究
論文は、秘密事項なし、
「秘」、
「軍事機密」と三種類
に区別されていた可能性を推測できる。更にペスト
菌の DT50 などの実験と結果はより特別扱いにされ、
発表されなかった可能性も伺われる。
(2)1940
(2)1940 年代から「P
年代から「P 蚤」の研究が重視
日本軍の細菌戦の始まりは、一般的には 1939 年 8
月のノモンハン事件でのハルハ河へのチフス菌散布
(菌液)3),4)とされている。
1940 年 5 月には、ハルピンの 731 部隊から「奈良
部隊」が南京に派遣され 5)、1644 部隊と合流し、寧
波、衢州、金華、その後玉山、温州、台州、麗水を
細菌戦攻撃をしたとされている 6),7)。この衢州への攻
撃は「井本日記」8)によればペスト菌使用の最初であ
ったという。このことを裏付けるように篠塚良雄も
1940 年 7 月に「731 部隊の 200 名の隊員は各種の細
菌を南京行きの列車、軍用列車で運んだ・・」
「細菌
を帯びたノミを南京に運んだ・・」と述べている 9)。
一方、
「石井の言葉に依れば、部隊に於ける研究の
結果、細菌爆弾の投下が効果の少ないものであるこ
とが判明しました。その理由は空気の抵抗力や過度
の高温のため赤痢菌、チフス、パラチフス、コレラ、
ペストの如き抵抗力の弱い細菌が殆ど 100%死滅す
るからである。
・・予期されたような大きな規模で伝
染病を広めなかった・・」
「・・石井は更に細菌を裸
で投下するよりも細菌に感染した媒介虫、例えば蚤
を投下する方が遥かに効果的である・・ペスト菌は
蚤の体内に棲息した儘蚤と共に無事に地上に落下す
る・・」-これは 1941 年 2 月に石井四郎が関東軍司
令部で関東軍軍医部長梶塚隆二中将に報告した言葉
である 10)。
この石井の発言からみると、この時期 1941
年頃までは細菌の飛行機からの撒布、細菌をそのま
ま詰め込んだ細菌爆弾等を使用していたが、その後
- 31 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
は裸で投下しても無意味であり、ペストについては
ペスト蚤として撒布する戦略に変更したとみること
ができる。
したがって細菌戦研究は 1940 年代から鼠と蚤の
研究が殊更に重視され、
「防疫研究報告Ⅱ部」の論文
をみてもこの時期から鼠の増産と運搬、蚤の生態の
研究と育成増殖、運搬、P蚤製造、そして陶器爆弾
装填の研究がはじまったことを示している。
蚤の具体的な生産方法として「・・18 リットルの
ブリキ缶、半分ほどおが屑を入れ、
・・ネズミを籠に
いれて固定し・・3 日目にはノミに血を吸われて死
んでいる・・一定期間後ノミの蒐集・・月に 1,2
度行なっていた・・缶の中に白い布を貼ると・・ノ
ミは興奮し・・ビーカーに入る・・全部入った頃に
ビーカーを上下に振ると丸く固まる・・それを他の
採集器に移す・・」11)と述べられている。
また「爆弾実験は導爆線で爆発する磁器製爆弾「宇
治」を使って行われた。ノミは爆弾に充填する前に
砂と混ぜ合わされた。・・ノミの約 80%は生きてい
た。10 人にうち 8 人がノミに刺され感染し、8 人の
うち 6 人が死亡した。
・・」12)と。
(3)「ホ号打合」・大本営の細菌戦計画―1944
(3)「ホ号打合」・大本営の細菌戦計画―1944 年から
全戦線で鼠捕獲作戦
1943 年 4 月 17 日に参謀本部(大本営)で「ホ号
打合」(ホ号作戦)が行われている。
「餅の輸送の場合、船便による時は船待(神戸 4 日)
の関係上相当の飼料を要するのみならず、これがた
め3割の消耗を生ず」
(金原節三業務日誌摘録 13))と
731 部隊への鼠輸送が真剣に論議され始めたことを
金原節三参謀は業務日誌に記録している。
更にその後 1944 年 7 月以降はしばしば大本営の部
局で石井少将の参加のもとで細菌戦の論議が行われ、
P 蚤製造の合理化として鼠に代えて犬の使用やサイ
パンへの細菌攻撃準備などが論議されている 14),15),16)。
[註]餅―ネズミの大本営での隠語、粟―蚤の隠語
「研究報告」論文 838 号はこの鼠の輸送時の消耗率
の研究である。飼育された鼠や造られた「P のみ」
は一定の寿命(約 10~15 日間)があるため一般的な
砲弾や武器のように蓄積して保有は出来なかった。
従って細菌戦のためには各現地でペスト菌を培養し、
鼠を集め、蚤を増産し、P 蚤を製造し、その時々に
砲弾に装填する必要があったものと思われる。
そのため「・・この部隊(1644 部隊)でも 731 部
隊と同様、埼玉の農家にネズミの飼育を委託してお
り、
・・上海経由で運んできたネズミで大量のペスト
ノミをつくっていた」17)り、また 9420 部隊員(シン
ガポール)でも「昭和 19 年私は帰国命令を受けて、
埼玉に白ネズミを買い付けに行き、5 万匹ほど買っ
てトラックで医学校まで運びました。
・・飛行機でシ
ンガポールまで運びました。飛行機には1機に 4500
匹積むことができました」18)と述べている。更に 8604
部隊では「1944 年 10 月に入り、・・3 人でネズミ輸
送の命令を受けました、
・・10 月 24 日に立川飛行場
に到着・・一機に 5000 匹ぐらい、三機で 1 万 5000
匹を運びました・・結局シンガポールに着いたとき
には三分の一は死んでいました・・。その一部はジ
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October, 2009
ョホールパルのタンボイ精神病院の梅岡部隊に・・
また一部は飛行機でジャワのバンドンの分遣隊に運
んでいきました」と 19)。
このように日本から大量の鼠が細菌戦実施のため
の戦略物資としてハルピンからシンガポールにいた
る各地の「防疫給水部」に急送されていたのである。
1943 年頃からは、このような日本からの鼠の輸送
でも不足であったため、各地の「防疫給水部」では
現地での組織的な鼠の調達と、隊員の組織的な「鼠
捕獲作戦」が強引に展開されたようである。例えば
孫呉の 673 部隊は白鼠、二十日鼠、モルモットの飼
育、捕獲、及び蚤の繁殖に徹底的に従事させられて
いるのがそれである 20)。
更に 1945 年 3 月、石井が再度 731 部隊長となって
から 9 月迄に齧歯類 300 万匹の確保を命じている 21)。
そのため 1945 年 6~7 月には第 643 支部(牡丹江)
の兵隊は殆ど全員鼠捕りに動員された 22)。1943 年 4
月、南支那防疫給水部では毎月、
「餅」1 万匹の飼育
で「粟」月 10 キロ生産可能と報告している(「ロ号
打合せ)
(金原節三日記)23」。
「ホ号作戦」展開のために、このように各地で鼠
の現地調達、飼育が始まったのである。
「・・北支那
防疫給水部の各支部(張家口、太原、天津、石門)
に行き、
・・ネズミ(華北全体の各支部出張所で買い
取ったネズミ)を籠に入れ運んでいたのです・・」
24)
という記述もこのような状況を示している。また、
731 部隊・林口支部では「19 年当初より作命に基づ
く野鼠捕獲作戦に出動奮闘・・」
「昭和 19 年 11 月よ
り 20 年 2 月まで野鼠捕獲作戦に出動」25)であり、同
孫呉支部でも昭和 19 年 11 月より 20 年 2 月まで野鼠
捕獲作戦に出動し、同ハイラル支部、同牡丹江支部
も「作命に基づく野鼠捕獲作戦」に出動している。
そしてやがて 1945 年 4 月、731 部隊は全支部長会議
を開催、石井四郎は 1 トン~2 トンのノミ製造のた
めにネズミ捕獲を指示した。この命令で、4~7 月に
かけて林口支部で 2 万 6 千匹のネズミを捕獲、1945
年の前半で黒龍江省だけで 5 万 6 千匹が 731 部隊に
納められた 26)とされている。
このようにペストノミの産生には大量の鼠が必要
であった。1944 年 4 月の陸軍省局長会報では石井は
従来はペスト菌 1 キロ生産のためには 1 万 2500 匹の
鼠が必要であったが、その後の研究でその 2 割程度
でペストノミが産生できるようになったと報告して
いるのもそれを示している。研究報告論文 344 号は、
蚤の増産のための鼠の代わりの「人工吸血用液」や
「山羊血」を実験している。この実験は上述のよう
な「P ノミ」大量作成のための鼠の代替のための重
要で研究であったのであろう。
[註]
・「大塚文郎備忘録」(防衛研究所図書館)
(その一、
54 頁)には、1944 年 10 月 19 日に参謀本部より石井
少将にホ号作戦の報告を要求したことが記述されて
いる。
・
「大塚文郎備忘録」
(その三、28 頁)にはホ号作戦
の記述があり、武漢地区に兵力を集中することが記
述されている。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
・
「大塚文郎備忘録」
(その六、65~66 頁)には、
「ホ
号関係」として・・「田中少佐の研究、餅の使用 12
分の 1 となる、丸太 500 名、局長餅を犬にしては如
何、犬の使用実施あり、石油罐を培養罐に代へ在
り・・」、
「ウジ弾・・ペスト菌・・一立米四ミリの
濃度を必要とする・・」、「脾脱疽 気道感染は疑問
なりしも効果あり、ウジ弾・・」と。
・
「大塚文郎備忘録」
(その八、56~57 頁)には、1944
年 7 月 22 日付で石井少将、杉山大将、局長等の参加
で「ホ号の使用・・」
「新うじ弾・・」「・・サイパ
ン、大○島の日時・・」
、局長「効果は現在として如
何」
・・・と論議されている。サイパン等への細菌戦
攻撃の具体策を論議しているようである。
(4)731部隊平房遺跡の「北洼
(4)731部隊平房遺跡の「北洼地焚尸炉」
現在のハルピン・平房の「731 部隊遺跡」の構内
に「北洼地焚尸炉」が高い煙突と共に遺されている。
この炉は当時死亡した 731 部隊員専用の焼却炉であ
ったという。その理由は伝染性疾患で死亡した兵士
を火葬するために造られたとされている。 「報告
2 部」の 14 篇に及ぶ野口圭一軍医のワクチン研究論
文やペスト菌関係者の毎月のワクチン接種の状況
(381 号)
及び関係者の蚤由来の発疹熱の発病(627,
628,687 号)などから推測すると、当時細菌戦開
発の過程で多くの「731 部隊員」が「感染」し「戦
死」したことが推定できる。そのことから考えて特
別の炉が必要であった可能性がある。このことは又
「ペスト蚤」を手段とした細菌戦を展開するために
は味方軍の防御のためにも効果的なワクチンの研究
が欠かせなかったのであろう。
(四) 結論
1、
「陸軍軍医学校防疫研究報告Ⅱ部」のペスト菌関
連研究を分析すると、この防疫研究室の研究の実態
は平房731部隊と一体となった細菌戦の研究であ
ったことがうかがわれる。
2、特に 1940 年ころから、攻撃用細菌ペストについ
ての基礎実験及び攻撃用武器としての P 蚤の研究、
その製造及び味方の防禦法の研究が重視されたよう
である。しかし P 蚤攻撃の実戦での評価は明らかで
なかった。
3、戦争末期、大本営は狂気じみた「ホ号作戦(細
菌戦)」を指示し、そのために「陸軍軍医学校防疫研
究」のペスト菌関連研究は重視され、同時に 731 部
隊関連のすべての部隊に滑稽とも思われるような
「鼠捕獲」作戦が指示されていた。
[註]
更に敗戦間際、1944 年 7 月 21 日の大本営の臨時
局長会議では、石井四郎も出席して「ホ号作戦」と
してサイパン等の攻撃が真剣に論議されている 27),28)。
また細菌を使用した風船爆弾についての論議(フェ
ルレポート)や、米国サンデイゴ軍港への特攻隊員
のペストノミばら撒き計画(作戦命令セ号・夜桜特
攻隊)29),30)も注目される。
[引用文献]
引用文献]
1)常石敬一、
「医学者たちの組織犯罪」、38 頁、朝日
新聞社、1994、5
2)日本軍による細菌戦の歴史事実を明らかにする会
「細菌戦が中国人民にもたらしたもの」、71 頁、
明石書店、1998・7
3)朝日新聞、1989 年 8 月 24 日号
4)「細菌戦用兵器の準備及び使用の廉で起訴された
元日本軍軍人の事件に関する公判書類」(以下「ハバ
ロウスク公判書類」)
5)中央档案館編、江田いづみ等訳「細菌作戦」
、p87, 同
文館、1992 年 12 月
6)森正孝「細菌戦のはなし」
、89 頁、明石書房、1998.
11.10
7)相沢尚夫、
「細菌戦部隊ハバロフスク裁判」、
30 頁、
海燕書房、1982・7
8)森正孝「細菌戦のはなし」
、186 頁、
明石書房、1998.
11.10
9)中国黒竜江人民出版社編「老兵の告白」、32 頁、
中国黒竜江人民出版社(2003.7)
10)「ハバロウスク公判書類」
、136 頁
11)721 研究会「細菌戦部隊」、64 頁、晩声社、1996,
9月
12)松村高夫編「論争 731 部隊」、293 頁、晩声社、
1997 年,
13)「金原節三業務日誌摘録」
(18)、46 頁。
14)「大塚文郎備忘録」
(その一)54 頁
15) 「大塚文郎備忘録」
(その六)65~66 頁
16)「大塚文郎備忘録」
(その八)56~57 頁
17)721 研究会「細菌戦部隊」、212 頁、晩声社、1996,
9月
18)中国黒竜江人民出版社編「老兵の告白」、大塚良
明、74 頁、中国黒竜江人民出版社(2003.7)
19)721 研究会「細菌戦部隊」、239 頁、晩声社、1996,
9月
20)相沢尚夫、「細菌戦部隊ハバロフスク裁判」、82
頁、海燕書房、1982・7
21)同上、487 頁
22)同上、508 頁
23)渡辺登、山辺愁喜子編「日本軍の細菌戦・毒ガス
戦」
、216 頁、明石書房、1996.5.31
24)721 研究会「細菌戦部隊」、173 頁、晩声社、1996,
9月
25)溝渕俊美編「平房燃ゆ」
、76 頁~81 頁、
(自家出
版)
26)中国黒竜江人民出版社編「老兵の告白」、157 頁、
中国黒竜江人民出版社(2003.7)
27)「大塚文郎備忘録」その八
28)「大塚文郎備忘録」その一
29)渡辺登、山辺愁喜子編「日本軍の細菌戦・毒ガス
戦」
、194 頁、明石書房、1996.5.31
30)溝渕俊美編「平房燃ゆ」
、(自家出版)
著者プロフィール
1927 年石川県生まれ、金沢大学医学部卒業。
城北病院名誉院長。
「15 年戦争と日本の医学医療研究会」名誉幹事長。
専門:内科・医事法・医史学。
著書:医療学概論(草書房 1992 年)
、戦争と医療(か
もがわ出版 2000 年)
- 33 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
『日本関東憲兵隊報告集』の
資料紹介とその分析(その 3)
一戸 富士雄
On the materials of KANTO KENPEI TAI
Japanese military police body in “Manchuria”
ICHINOHE Fujio
キーワード keyword: 憲兵隊資料 material of military police、ノモンハン事件 Nomonhan war in “Manchuria”、戦
場の惨状 terrible scenes on the battle field、兵士たちの声 voices of soldiers、戦傷兵の後遺症 after effects caused by
a war among the wounded soldiers
1. ノモンハン事件における関東軍の歴史的惨敗
1939(昭和 14)年 5 月から 9 月にかけての「北辺
ノ些事」1)と関東軍自ら称したノモンハン事件におい
て、
“最強・最精鋭”と謳われた関東軍は歴史的惨敗
を喫した。
このノモンハン事件における主力師団である第
23 師団(師団長小松原道太郎中将)
、ならびにその
隷下の主な連隊の“損耗数・損耗率”は、実に惨憺
たるものであった。
第 23 師団部隊別損耗表 2) (人・%)
出動人数
損耗総計 損耗率
師団総計
15,975
12,230
歩兵 64 連隊
4,615
3,176
歩兵 71 連隊
4,551
4,254
歩兵 72 連隊
3,014
2,367
野砲兵 13 連隊
1,747
1,328
工兵 23 連隊
338
288
通信隊
180
121
衛生隊
334
182
(ただし、6 月 20 日―9 月 15 日)
76
69
94
79
76
85
67
55
なお、損耗数とは、戦死者・戦傷者・生死不明者・
戦傷者の合計を指す。
第 23 師団に次いで甚大な損害を受けたのは、第 7
師団だった。
損耗率からみると、第 23 師団の各連隊・諸隊ならび
に第 7 師団の 2 ケ連隊は、
「殲滅」どころか「潰滅」
「全滅」状況であったことは明瞭である。
かつまた、この数値とて、信用に足りうるもので
はない。かなり客観的で公正な戦史との評価の高い
アルヴィン・D・クックスの大著『ノモンハン』に
よれば、ノモンハン事件の戦死者数は 8,629 名、戦
傷者数は 9,087 名としている。5)また、第 6 軍軍医部
調製の「第 2 次ノモンハン事件部隊損耗状況調査表」
によれば、戦死者数は 7,696 名、戦傷者数は 8,647
名、行方不明者数 1,021 名、戦病者数 2,350 名とし
ている。6)(ただし、6 月 19 日以前の第一次ノモン
ハン事件の損害数は除いているので、ノモンハン事
件全期間の「損耗者数」ではない)
。
ところが戦後の 1967 年 10 月 12 日、靖国神社のノ
モンハン事変戦没者慰霊祭の際、ノモンハン事件戦
死者は 1 万 8,235 人と神社側は発表した。それが真
実とすれば、この 1 万人の食い違いの意味は実に重
い。戦後 22 年(つまりノモンハン事件後 28 年)を
経てようやく明らかにしたことは、戦時中の国民に
その大惨敗の事実を隠蔽する欺瞞政策が隠せなくな
ったからではないだろうか。それにしても 1 万人も
の戦死者数を意図的に隠し消去してきた国家の冷酷
さを、改めて問わねばならない。
いち早くこの関東軍司令部発表の戦傷者数に、重
大な疑念を提示していた兵士たちがいた。彼らはノ
モンハン戦場で残酷な惨状を目の当たりにして、そ
の程度の損害でないことを実感していたからだった。
「ハイラル方面殊ニ官公署ニハ未ダ事変戦死者ノ
(ママ)
第7師団の主な部隊別損耗表 3)(人・%)
出動人員
損耗総計
損耗率
旧遺骨ガ随分沢山安 配 シテアリマス。戦死傷合セ
テ 1 万 8 千ト発表サレマシタガ事実ハ仲々ソンナ事
デハアリマセン。一時ニ還送セシメバ防諜上ノ害モ
アリ、夜間秘カニ或ハ交代スル部隊ノ手ニ依ッテ人
ノ目ニモ触レズニ凱旋デス。家郷デハセメテ骨デモ
ト待チ焦レテヰル老父母ガアリマセウニ・・・。戦
争トハ仲々悲惨デス。国ニ命ヲ捧ゲ乍ラ死刑囚ノ骸
ノ様ニ人目ニ避ケネバナラヌノデス」
(昭和 15・4、
ハイラル陸軍病院H・S発、
(琿春)佗美部隊M・R
宛)7)
「彼ノ地デ戦死者ガ軍人ダケデ実ニ 1 万 8 千余名、
満州国軍人モ数知レザル状態」(昭和 14・10、牡丹
師団総計
10,308
3,703
36
歩兵 26 連隊
1,720
1,572
91
歩兵 28 連隊
1,770
1,289
73
(ただし、7 月 3 日―9 月 15 日。なお、第 7 師団の
損耗数には生死不明者は含まれていない)
防衛庁(現防衛省)の『戦史叢書』によれば、
日本軍では、30%の打撃を被ると「一時戦闘力を失
い」、また 50%の損害を出すと「殲滅的な打撃を受
けたこと」を意味していると判断していた。4)上記の
- 34 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
8)
江省 S・S 発、福島県 S・Y 宛)
2. ノモンハン事件体験兵士の手紙に対する憲兵隊の
徹底した通信検閲
関東憲兵隊はノモンハン事件での日本軍惨敗の事
実が明らかになると、その真実を一般国民や他部隊
兵士に伝えられることを極度に恐れ通信の徹底した
防遏体制をしいた。具体的な事例として、牡丹江地
方検閲部は、先ず「軍自体ニ於ケル検閲強化ニ伴ヒ
軍人軍属中ニハ之レガ部隊検閲ヲ回避スル傾向アリ、
地方郵便ヲ利用シ参戦状況ヲ徒ニ誇張的ニ通信シ」
9)
ている事態を警戒して、次いで「前月ニ引続キ(中
略)ノモンハン付近ニ参戦セル部隊ノ現地帰還ニ伴
フ(中略)戦地ヨリノ宣伝文携行有無等ノ検閲ノ焦
点ヲ指向シ」10)と取り締まりの徹底化を図った。
その事を敏感に察知したある軍属は、
「此ノ頃防諜
ニ就イテ大変喧シク、出ス分出ル分手紙ヲ全部開封
シテ検閲シテカラデナイト文通デキマセン。ノモン
ハン事件ノ時カラデス。大変日本軍モヤラレタカラ
ネ。此ノ様ナ事ヲ書イテハ没収デス」
(昭和 14・10、
牡丹江Y・M発、兵庫県K・K宛)11)と書き、本人
の懸念通りに憲兵隊に没収の目にあっていた。
特に、ノモンハン・ハイラル・満州里など「ノモ
ンハン事件関係地ノ通信」は、徹底的に検閲し没収
されることが多かった。私が確認した範囲では、検
閲対象件数は、1939(昭和 14)年 7 月は 208 通、8
月は 181 通,9 月は 200 通であった(残念ながら 6・
10・11 月分については資料そのものが未確認なので
不明である)。ただし、上記の「ノモンハン事件関係
地」以外の地域(例えばチチハル・ハルピン・新京・
大連など)からの通信のなかにもノモンハン事件で
の惨敗を報じたものもあり、私がその通信内容を確
認しえた件数は 38 通あった(1939 年 6 月―翌 1940
年 5 月)
。その中には、各地の陸軍病院関係のそれが
18 通あり、軍医や看護婦、さらには入院兵士の目を
通して、傷病兵の具体的な精神状況を知りえて、参
考にすることができた。
なお、防衛省防衛研究所所蔵の資料 12)によれば、
「患者、後送及収容ニ就テ」の項で、ハイラル第一・
第二陸軍病院の月別収容患者数を次の様に記してい
る(昭和 14 年)。
5月
6月
7月
8月
9月
49 名
136 名
4,377 名
4,857 名
1,052 名
合計
10,471 名
この合計数は入院戦傷兵の数で、しかもハイラル
の2陸軍病院の患者合計数にすぎない(因みに全「満
州」の陸軍病院数は 18 もある)。
先に紹介したクックス資料の戦傷者合計 9,087 名、
また第6軍軍医部調査のそれは 8,647 名である。こ
れらの数字に比して、ハイラルの 2 つの陸軍病院だ
- 35 -
けで 1 万 0,471 名という戦傷入院者数はあまりにも
違いすぎる。先述の戦死者数問題と同様、戦傷者総
数の正確な数字の確定は、特に重要である。なぜな
ら戦死者と戦傷者の”量“の問題は、歴史的惨敗と
いう“質”
(内実)の問題と深く関連しているからで
ある。
3. 凄惨をきわめたノモンハン戦場
ノモンハン事件は、死闘を余儀なくされた最前線
の将兵たちにとって実に残酷、苛烈をきわめていた。
冷厳・酷薄の将軍と評され、強引・強硬な指揮ぶり
を発揮していた小松原第 23 師団長でさえ、その極限
状況を目の当たりにして「受傷者ノ呻キヲ聞キ惨状
(ママ)
ヲ目撃ス。手ノツケ様ナシ。恰モ活地 極 ノ如シ」、
「重傷者ノ呻声、何故ニ自分等ヲ残シテ行クヤノ叫
(ママ)
声処々ニ聞ユ。残忍悽セイ云ハン方ナシ」
(『小松原
将軍日記』13)昭和 14 年 8 月 30 日の項)と、戦場崩
壊の惨烈さを記していた。
最前線で絶望的な死闘を連日続けていた兵士たち
は、その苛烈きわまりないこの“惨劇”の事態を止
むにやまれず、親・兄弟・友人らに伝えざるを得な
かった。その具体的な実例を、関東憲兵隊によって
検閲没収の憂き目にあった手紙を通して、次に見て
いきたい。
「将軍廟到着ト同時ニ 23 師団司令部ヲ訪フ。同師
団ハ殆ド全滅ノ態ニテ(中略)
。O 大尉泣カンバカリ
ノ表情ニテ連隊ノ苦戦ノ状況ヲ語ル。
(中略)連隊全
員ニテ 200 余名ノ生□者ナリト云フ」
(昭和 14・9、
ハイラル安井部隊F・H発、東京市F・K宛)14)
「結局皇軍未曾有ノ大敗ニ終リマシタ(中略)。再
起不能ト想像サレル程ノ惨サ」(昭和 14・10、牡丹
江田畑部隊K・S発、茨城県K・M宛)15)
「砲弾ハ砂塵ト黒煙ヲ上ゲテ其ノ中ニ戦友ノ足、
手或ハ頭ガ雑巾ノ様ニナッテ上ガッテ行ク」(昭和
14・8、ハイラル酒井部隊I・T発、大連市N・H宛)
16)
「戦友ガ吹キ飛バサレ、1 発デ 1 ヶ分隊吹キ揚ゲ
ラレ頭ヤ手ヤ足ガバラバラニナッタ。10 間(注・約
18m)モノ高サニ舞揚ル」
(昭和 14・10、ハイラル仁
科部隊Y・T発、和歌山県Y・T宛)
17)
「何ト可哀想ニ大出血ノ為2人共死ンデイル。1
人ハ胸1人ハ頭カラグチャグチャニナッテ目モアテ
ラレヌ有様。又「パン」ト云フ音ト一緒ニ人間ガ何
処カヘ飛ンデ行ッテシマウ」(昭和 14・10、ハイラ
ル□・K発、高知県M・Y宛)18)
「傷ツイタ戦友ヲ背負イ(中略)、其ノ内負傷者ハ
水々ト叫ブ、或ハ腰ガ痛イト悲泣スル」
(昭和 14・9、
ハイラルS・J発、埼玉県T・T宛)19)
「何処デ戦□シタノカ、外ノ部隊ノ負傷兵ガ片足
ヲ引キズリナガラ助ケテ呉レト草ノ上デハイツツ絹
ヲサク様ナ声デ叫ブ。□端ニハ巻脚絆ヲハイタ片足
ガゴロリ、鉄帽ハ砲弾デ 3 間(注・約 5.4m)モ離
レテ血ミドロニナッテ、銃ハ戦車ニヒカレタセンベ
イノ様」
(同上)19)
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
「敵ノ砲弾ノタメニ戦友2人ハ手足バラバラニナ
ッテ砂ト共ニ吹キ飛バサレテ仕舞ッタ」
(昭和 14・9、
新京陸軍病院S・M発、延吉I・Y宛)20)
これらの悲痛の叫びに満ちた手紙を通して、次の
点が確認できる。
第 1 に、敗戦の厳然とした事実を直視しているこ
とである。この事件(事実上の戦争)の惨敗の責任
を負わなければならない関東軍司令部の参謀たちの
間には、例えばその主導的役割を果たしていた辻政
信の『ノモンハン』のように、
「一勝一敗論」で糊塗
しようとする風潮が強かった。したがって軍の厳重
な報道管制のもとでの新聞発表に対し、
「我々ガ読ム
ト噴飯スルバカリダ。然シ敗戦ノ真相ヲ発表スル訳
ニモユカヌ。又国民ノ志気ニ関係スルカライイ加減
ナ□ヲ書キ立テテ□□ノダ」
(前述のハイラル安井部
14)
隊F・H) と鋭く見抜き批判している手紙が、何
通かある。何よりも彼ら最前線の将兵たちは、まさ
に凄絶悲惨きわまりない「地獄の底」を這いずり逃
げてきただけに、そのすさまじい戦場の現実を終生
凝視続けざるを得なかったのである。
第 2 に、この戦場での苛烈・凄惨さは、かって体
験したことのない“惨劇”であっただけに、その受
けた精神的衝撃はすさまじかった。それだけにその
衝撃を自分の心におしとどめることはできず、敢え
て軍紀に抗してまでも、親しい者たちへ伝え訴えた
かったのである。
第 3 に、その夥しい戦死者の中に身近な同郷出身
の「戦友」が多くいたことについての特別な思いの
問題である。日本の軍隊、なかでも歩兵部隊は主と
して同郷出身の郷土部隊として編成されていた。時
には同じ中隊に小学校の同級生や同じ村・集落出身
者という幼馴染がいたケースも珍しくなかった。そ
れだけにこうした戦友の戦死に特別の感慨はひとし
おで、その戦友とその遺族の無念・絶望の苦しみを
慮り、そして同僚としての慙愧・悔恨の念が強い。
その辛い現実に直面したときのショックは想像以上
に深いものがあり、時には終生トラウマとして残る
場合もある。
以上これらの諸点は、後で述べる戦場の兵士や戦
将兵・帰還兵のさまざまの心理を考える際の、大前
提となる基礎条件となっている。
4. 兵士たちの戦場心理
帝国陸軍は明治天皇の『軍人勅諭』を、その軍人
精神涵養の最大の要に据えた。『軍人勅諭』の「一、
軍人は忠節を尽すを本分とすべし」の項の中で、
「義
は山獄よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」
と命じた。それより天皇に命を捧げる「殉国」の使
命観が徹底的に信念化され、そして戦場に臨んだ多
くの兵士たちはその“建て前”を実践していって、
累々たる屍の山を築いていった。事実、ソ連軍第1
軍集団司令官ジューコフは、スターリンの問いに答
えて、
「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年
将校は狂信的な頑強さで戦う」と言ったといわれる。
『軍人勅諭』思想の行き着く先は、狂信的な「玉砕」
- 36 -
October, 2009
に外ならなかった。
しかし同時にノモンハン戦場での関東軍兵士の行
動全てが、その『軍人勅諭』通りにはいかなかった。
其の事実を関東憲兵隊通信検閲資料(没収の手紙)
から確認したい。そこには、最前線戦場での極限状
況の下で、一人の人間としてのぎりぎりの苦悩に満
ちた決断があったのである。
「コンナ体デ帰ロウトハ思ハナカッタ。毎日毎日
(ママ)
何十人ト犠牲者ガ送 サ レルノデ心細クナッテヰ
タ」(昭和 14・10、チチハル陸軍病院S・Y発、稲
井部隊Y伍長宛)21)。なおこの手紙は、憲兵隊では
「戦意喪失ニ関スル事項」に分類されている。
「人間モ誰ヤラ分カラン程コゲタ。全ク見エヌ程
デシタ。遠カラズ自分モ此ノ様ナ運命ニナルノカ知
レン。
(中略)引返シタクナリマス」
(昭和 14・8、
チチハル三上部隊H・M発、承徳K・M宛)22)
( マ マ )
「敵ノ地上部隊ハ非常ニ物凄イノナンノッテ驚ク
外ハナイデス。
(中略)ソレヲ見テ命カラガラ何モ持
タズニ小銃一ツヲ持ッテ逃ゲテ来タソウデス」
(昭和
14・8、ハイラル岡本部隊S・T発、東京市T・K宛)
23)
「第一線ノ野戦病院ハ戦車飛行機ニヤラレテ、
(中
略)軍医ト衛生兵ガ自動車ニ乗ッテ逃ゲタト云フ事
デス」
(昭和 14・8、ハイラル伊勢部隊H・D発、鹿
児島県H・M宛)24)。
皇軍兵士の戦意喪失・戦死への恐怖・戦場離脱・
敵前逃亡は『軍人勅諭』で厳しく禁じている帝国軍
人としての「操を破りて不覚を取り汚名を受くるな
かれ」の戒めに、明白な軍紀違反という重大犯罪に
外ならない。
この戦死への恐怖について、ノモンハン事件の前
年教育総監部は将校教育資料『戦場心理と精神教育』
25)
を作成し、この資料で次の様に解説している。
「恐
怖は、主として生命に危険に伴ふて一般的に起こる
情緒であり、戦場に於いて、恐らく誰もが経験する
感情である」と、兵士の戦場心理の一般的な前提と
して規定している。さらに「恐怖は、自己保存の本
能中須要なる地位を占むる本能であり、主として危
険を避けて自己の安全を図らんとするものである」
とまで断定している。
にもかかわらず、教育総監部は、兵士にとって自
己の生命保存という人間の根源問題であるだけに、
その高度の打開・超克観念として「皇軍精神による
必勝の信念の陶冶」を特別に強調をした。その際、
諸外国兵が感ずる恐怖に対して日本独特の“伝統的
遺伝的な民族的な武勇の資質”の現代的継承、それ
に皇軍としての天皇への絶対的な“滅私奉公”の尽
忠精神がその重要な鍵とされている。いかにも天皇
制国家の末端兵士としての“殉国”論である。
ノモンハン戦場ではその論理の破綻が始まりつつ
あることが、この憲兵隊検閲資料から窺い知ること
ができる。
なお、ノモンハン事件後、大本営陸軍部の命によ
る浦辺彰歩兵少佐らの調査報告書『戦場心理調査ニ
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
12)
基ク所見』 によれば、戦場の兵士たちの志気低下・
不安動揺・恐怖心について、次に様に指摘している。
第一・攻撃「戦車・火砲・飛行機等ノ急襲を受ケ、
(中略)志気ノ著シキ低下ヲ招来セル事例尠シトセ
ズ」、第二・防禦状態「「今度ハ自分等ガ覗カレテ居
ル」ト云フ底知レヌ不安ヲ感ズルモノアリテ抑鬱ノ
心的動揺状態ヲ呈セルガ如ク認メラル」、第七・恐怖
心ノ発生分布「各部隊ハ自己ノ受ケタル大ナル衝撃
ニ対シ大ナル恐怖心ヲ有スルモノナル」と、これら
の事実を率直に認めている。このことからも、通信
検閲の手紙の内要が大本営の調査報告書によっても
裏付けられていることがわかる。
コトニハルピンノ病院□如キハノモンハンノ戦□患
者□満員。外科病院ハ勿論一杯デ内科病院迄外科患
者ガ入院シテ居ル様ナ状況」
(昭和 14・9、大連陸軍
病院(発信人不詳)、宮城県 S 宛)28)
「チチハル陸軍病院ニハ手足ノナイ者、片目・片
足、片足、又人間ト思ハレナイ様ナ顔ニナッタ者ガ
ウヨウヨシテ居マス。全ク戦争ノ悲惨ナノヲ今更乍
ラ感ゼラレマス」
(昭和 14・10、チチハル I・I 発、
ハルピン市 K・S 宛)29)
「相変ラズ何処ノ病院モノモンハンノ敗残兵ガ満
員デネ。バラックノ隅ッコニ押込メラレテ居マスヨ」
(昭和 14・10、熊本陸軍病院 H・K 発、東安 H・M 宛)
30)
5. 戦場兵たちの後遺症
ノモンハン事件における戦傷兵の人数は、先述し
た様に第6軍軍医部によれば、8,647 名(ただし第 1
次ノモンハン事件を除く)となっている。このノモ
ンハン事件の特徴としてノモンハン事件研究第1委
員会は、次の表を示して過去の経験したことのない
「砲創」の割合のすさまじさを指摘している(戦死
者の割合もほぼ同様)
。
ノモンハン事件ニ於ケル創種別区分此一覧表(%)
銃創
砲創
其ノ他
ノモンハン事件
入院患者
35.9
53.0
11.1
死体
37.3
51.2
11.5
日露戦争
主要戦闘
旅順要塞攻撃
81.0
60.5
13.7
22.9
5.3
16.6
26)
この表から、いかにソ蒙軍の火砲が圧倒的な威力
を示していたかがわかる。戦史叢書『関東軍<1>』の
記述によれば、ノモンハン戦場の地形はハルハ河を
はさんでソ蒙軍陣地が日本軍側よりかなり高台にあ
り、したがって日本軍の軍事行動が見下ろされ終始
ソ蒙軍から正確・熾烈な砲爆撃を受けていた。そし
てさらにソ蒙軍の砲兵火力はきわめて豊富であり、
また射程並びに運動性などの火砲の性能は日本軍の
それよりはるかに優秀であった。そのため日本軍の
戦死者・戦傷者の人数は夥しく、かつ受傷創の割合
で「砲創」がきわめて高かった。その割合は、過去
の代表例としての日露戦争の「主要戦闘」の 3.9 倍、
なかでも激戦として有名な「旅順要塞攻撃」の 2.3
倍に達していることからも、ノモンハン事件での戦
死傷者数の甚大さとその特質がよくわかる。なお、
そのすさまじい“活地獄”の惨状については、先述
した兵士たちの手紙によく描かれている通りである。
そして戦傷兵の陸軍病院での状況について、通信
検閲の手紙の中に次の様な記述がある。
「大砲ニヨッテ足ヤ手ヲ失ッタ兵ガ□□□病院ノ
廊下サヘ埋メテヰル」
(昭和 14・8、満州里志坂部隊
I・S 発、長崎県 I・K 宛)27)
「満州ノ病院ト言フ病院ハ皆戦傷患者デ一杯デス。
- 37 -
夥しい戦傷兵を収容・治療するために全満州の陸
軍のみならず、熊本でも収容されていることを述べ
ているが、そこでは戦傷兵は「ノモンハンノ敗残兵」
と蔑称され、本格的な病室においてでなく「バラッ
クノ隅ッコニ押込メラレテ居」る差別的処遇を受け
ていた現実があった。
「ノモンハン崩れ」「敗残兵」
の蔑称は、後述する大量の日本人捕虜の出現と、そ
の中から意図的に帰国を拒否した未帰還者の問題と
もからんだ、そうした背景の中から生じたものと思
われる。こうした処遇・雰囲気は戦傷兵たちの精神
を陰鬱にさせていったと考えられる。彼らの精神的
後遺症の重大な背景の一つに、その点を軽視しては
ならない。
戦傷兵の後遺症についての例がこの通信検閲の手
紙に見えないのは、これらが入院間もない手紙が多
いからである。退院後長い間苦しむことになる戦傷
兵の後遺症の実態については、頭部損傷・外傷の後
遺症の治療を専門的に担当した臨時東京第3陸軍病
院、ならびにそのリハビリテーション施設である傷
痍軍人下総療養所についての研究成果が大いに参考
になる。その研究書『頭部戦傷・外傷後遺症の研究』
31)
の主論文というべき小沼十寸穂「頭部戦傷後遺障
碍に就いて」は、先ず「戦傷の原因」の項の中で、
損傷局所について①被蓋部損傷、②脳神経損傷、③
脳髄損傷のこれらと、起因としての頭部戦傷(外傷)
との因果関係を論じ、さらにその結果発症する特有
の障礙(精神機能、運動、知覚感覚、植物神経機能、
小脳損傷などの各障礙)を具体的に解析している。
例えば「知覚感覚障礙」における症状例としては「耳
鳴りは蝉鳴様のもの最も多く、眩暈は先心性のもの
大多数にして、急遽起首時、激動時、日射時、入浴
時等に訴ふ。頭重、頭内朦朧感乃至茫然感、創痛、
頭鳴等を訴ふもの多き」32)とその多様な症状を示し
ている。
結論として、頭部戦傷に脳髄損傷が多いことから、
「(イ)違和乃至機能障礙の為に屏居する事多く、職
業を回避するもの多数なること、或いは経済的困窮
にかられて無謀なる勤労をなし速やかに職業能力を
枯渇せしむる惧あること。
(ロ)症状に変動を生じ易
く、違和其の他に対して常に医療を要求すること多
きこと(ハ)少なくとも広義の痴呆存し、処世上一
身乃至家庭の処理の方図に欠く処あるもの多し等之
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
なり」33)と、頭部戦傷兵士の深刻な後遺症に憂慮し、
国の援護を強く求めている。
この論文の筆者小沼は臨時東京第 3 陸軍病院の医
官として、1938 年 2 月より 1941 年 10 月迄の 3 年 9
ヶ月間の経験からこの論文を草したものである。つ
まりこの期間ノモンハン戦場や在満各地の陸軍病院
から移送されてきた頭部損傷兵の検診・治療・リハ
ビリを担当し、退院後の戦傷兵を追跡してきたこの
道の専門的な軍医であった。したがってこの小沼の
分析は当然、ノモンハン事件の頭部戦傷兵の後遺症
そのものでもある。その意味で彼ら戦傷兵の生涯は
多くの場合社会的日陰者として、戦後も悲惨な人生
を送らざるを得なかった。
なお、先述の頭部戦傷(外傷による)患者の後遺
症とは別に、戦争神経症を含む精神疾患の戦病兵を
収容する施設として、1938 年 2 月に開設されたのが
国府台陸軍病院である。すさまじい戦場での激闘と
深く関連する心因性疾患、其の中でも戦争(場)神
経症については、国府台陸軍病院関係者の筆になる
論考『うずもれた大戦の犠牲者――国府台陸軍病
院・精神科の貴重な病歴分析と資料――』34)はきわ
めて有益な文献である。収録されている時期はノモ
ンハン事件時も含まれており、戦争後遺症を考える
際の大きなテーマであるが、ここでは紙幅の関係上
省略した。
6. 生き残った帰還兵たちのトラウマ
関東軍兵隊は通信検閲の結果を、
「ノモンハン事件
関係地の通信」の外に、
「防諜上要注意通信」、
「軍紀
並思想上要注意通信」などの各項目に分類してまと
めている。それらの中に、自分の属する連隊や中隊
などの全滅・潰滅状況をごく少ない生存者のひとり
として記しているのが、いくつかある。例えば、
「連隊ハ上級将校全部戦死傷、連隊全員ニテ 200
余名ノ生□者ナリト云ウ」
(昭和 14・9、ハイラル安
井部隊 F・H 発、東京市 F・K 宛)35)
「我々ノ同年兵モ大部分ハ死ンデ仕舞ッテ、生キ
テイル者ハ今入院シテヰル僅カナモノ丈サ」(昭和
14・9、新京陸軍病院 S・M 発、明月溝宮本部隊 M・C
宛)36)
「此ノ戦闘ニ於テ連隊長伊勢大佐戦死、満足ノ体
デ帰ッタノハ私ト今一人ノ 2 人切リデス」
(昭和 14・
11、ハイラル吉富部隊 M・S 発、東京市 S・T 宛)37)
そして生き残った者の寂寥感と共に、無残な戦死
を遂げた戦友への憐憫・同情の念が深まっていく。
例えば
「日本ノ兵隊カ未ダ戦死ノママゴロゴロシテ居ル
ノヲ見タ時ハ、涙ナクテハ見ラレマセン。キットア
ノ人達ニモ親アリ妻モ□□アッタロウニ(中略)目
モアテラレヌ」
(昭和 14・10、ハイラル原田部隊 M・
J 発、青森県 M・K 宛)38)
前述した 16,17)の様に火砲の直撃弾を浴びると、
一瞬にして 1 ケ分隊が丸ごと吹き飛ばされ、戦友の
足や手、そして頭まで舞楊る凄惨極まりない戦場を
この目に焼き付けられた生還兵たちの多くは、その
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October, 2009
後さまざまなストレス障害に苦しめられた。
「誰ガ何ト言ッタッテ働ク者カ。唯毎日兵舎ハ隅
ノ方で南京虫ノ様ニ昼ノ演習時間ハ毛布ヲ覆ッテ居
テ夕方ニナルト騒ギ廻ル」
(昭和 14・12、ハイラル
吉富部隊 I・M 発、愛知県 Y・A 宛)39)
「亡国ノ兵ト言ハレルカモ知レナイガソレデ良イ
ノダ。俺ハ一生ヲ太ク短クト言フ誠ニ哀レナ思想ノ
持主ダ。俺ハ関東軍ノ劣列者ダ。兵隊ノ中ニ徹底シ
タタルミ方ヲシテ見セル気ダ」(昭和 14・12、ハイ
ラル第1陸軍病院 M・K 発、通化克見部隊 M・K 宛)40)
「現在ノ部隊内ハ滅茶苦茶ダヨ。将校ト准尉以下
ノ下級幹部ハ犬猿ノ中ダ。部隊長カラシテ、事々ニ
「ノモンハンノ仇敵ヲウタナイ内ハ此ノ気狂ハ直ラ
ナイノダ」ト怒ッタリネ」
(昭和 14・10、牡丹江駅
ニテ軍人発、茨城県 N・H 宛)41)
「我等部隊戦友ハ全ク気ガ荒ク不軍紀デス。ノモ
ンハンデ血生臭イ味ヲ体験シタ為カ毎日喧嘩ノ絶間
ガアリマセン。2 日前ニモ酩酊シテ日木刀ノ大立廻
リヲヤリ大負傷ヲシテ、1 人入院シタ」
(昭和 14・12、
大連佐伯部隊 O・M 発、愛媛県 N・H 宛)42)
「(ノモンハン)事件直後ノ人心殺伐ヲ極メアル為、
1月1日戦友相殺ノ惨劇行ハレ(後略)」
(昭和 15・
1、ハイラル中尾部隊 K・T 発、福岡県 S・K 宛)43)
ノモンハン事件の停戦協定締結後も、奇蹟的に生
還しえた兵士たちは、そのあまりにも悲惨・残酷な
戦場体験の精神的ショックの深さゆえ、先ず無口・
無気力・虚脱状況に悩まされ、正常な軍規則を維持
できなくなってしまう。その不正常なストレスを紛
らわすためにアルコール依存症となり、その精神的
興奮のもとで他人に対しては攻撃的になり、ついに
は刃傷事件にまで引き起こし、営倉送りの処分を受
けるまでに至ってしまう。こうした戦場のトラウマ
が存在する限り、ノモンハン帰りの兵士の多くは多
かれ少なかれ、神経を痛み終生ストレスで苦しみ続
けている。これが近年大きな研究課題となっている
PTSD 問題である。
15 年戦争全般にわたってこの PTSD
の研究は、戦医研としても最も重要なテーマといえ
よう。
7. 重傷兵の置き去りと軍医の責任
ノモンハン事件では、敗戦の戦場に多くの重傷患
者兵を残置して撤退した。第 6 軍軍医部調製の「第
2 次ノモンハン事件部隊損耗状況調査表」にある「生
死不明」欄は、当然のことながら重傷の将兵の残置
数も含まれている。その人数は将校 19、准士官以下
1,002、合計 1,021 とある。しかしこの残置将兵の人
数は、後述する日本軍将兵の捕虜の人数問題と関連
して、此の程度の数値にとどまらない。
「戦線ニハ人馬(ノ)死体ガゴロゴロシテイマス。
(中略)不明ニナッタ人モ沢山居リマス。探スコト
モ出来マセン」
(昭和 14・8、
(地名不詳)陸軍病院 T・
K 発、四家房 F・Y 宛)44)
「T 曹長ハ腹部貫通シ出血多量ノ為数刻ヲ出ズシ
テ絶命スルダロウ、トノ見解ノ下ニ見捨テタルノコ
ト」
(昭和 15・1、新京陸軍病院 T・J 発、ハイラル
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
45)
中尾部隊 N・S 宛)
この重傷者の戦場放棄問題について、たまたまこ
の惨状を目撃した 23 師団長の小松原中将は、昭和
14 年 8 月 30 日の日記に「重傷者ノ呻声、何故ニ自
(ママ)
分等ヲ残シテ行クヤノ叫声処々ニ聞ユ、残忍悽セイ
云ハン方ナシ」13)と記述していた。その小松原師団
長は「何故ニ自分等ヲ残シテ行クヤ」の理由を最高
指揮官として誰よりも深く承知していた。
「私ト一緒ニ負傷シタ者デ大抵ノ人々ハ俘虜ニナ
ッテ敵国ニ連レ帰ラレマシタ。私ハ其ノ時俘虜ニナ
ルモノカ、愈々何ウニモナラナイ時ハ自殺スル覚悟
(ママ)
デ(後略)」
(昭和 15・1、ハイラル 日 浜部隊 K・H
発、広島県 K・T 宛)46)
「敵ニ猛烈ニ撃タレル中ヲ無二無三突撃シタ其時、
小生敵陣ノ真中ニテ腹部ヲ射抜カレ残念乍ラ取残サ
レタノデス。
(中略)小生ハ 4 日間人事不省トナリ放
置ノ儘・・・遂ニ救ハ来ラズ」
(昭和 15・1、新京陸
軍病院 T・J 発、ハイラル中尾部隊 N・S 宛)45)
「彼ノ地デ戦死者ガ軍人ダケデ実ニ 1 万 8 千余名、
満州国軍人モ数知レザル状態、其ノ上日本人ノロシ
ヤニ捕虜トサレタモノ〇〇名ノ多キニ達した」
(昭和
14・10、牡丹江 S・S発、福島県S・Y宛)8)
この重傷者がソ連軍の捕虜となることを防止する
ために、実は関東軍前線指揮官はその重傷者を置き
去りにする際、自決用の薬剤を与えていた。そこに
重傷者の戦場放置問題がある。その場合、部隊長の
命によりその薬剤を渡したのが軍医であった。平時
ならば自殺幇助ないしは自殺教唆に類する犯罪行為
である。この点に関する通信検閲の手紙は、残念な
がら見当たらない。
しかし、この問題に直接かかわったある軍医の手
記があるので、戦場における軍医の責任という面か
ら考えてみたい。
第1師団歩兵第1連隊の大木繁軍医大尉の『ノモ
ンハン参戦日記』47)によれば、相次ぐ激戦の最中「40
名以上の傷者で、そのうち 4 名は重傷で担送も困難。
上司の命令で涙をのんで昇汞錠を与えて捕虜の憂き
目にあわぬようにする」48)と記している。ソ連軍の
捕虜となり日本軍の軍機密を漏らすことのないよう
様に、あえて自決用の昇汞錠を軍医が任務として与
えるのである。人命の救助を最大の任務としている
軍医が同じ日本軍将兵を自決させる行為に、さすが
に悩みながらも実行せざるを得なかった。だから次
いで「上官の命令とはいえ、全く気の毒だ」と述べ
ている。時には「足がやられたある兵は、
「もう駄目
だ、殺してくれ」と言い出す。うっかりすると帯剣
を抜いて咽喉につき立てようとする」49)と、兵士自
らが自決をはかろうとする状況にも直面する。激痛
に耐えかねている一面もあるが、なによりも皇軍兵
士として徹底的に教育を受けてきたこともあって捕
虜になることを恐れている面もないとはいえない。
しかし、第 23 師団野砲兵第 13 連隊の辻密男衛生
上等兵の『ノモンハンとインパール』50)の体験記録
によれば、8 月 29 日の撤退命令が下達された際、
「重
傷者のなかには撤退を知ってか、俺も連れて行って
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くれと泣き叫ぶ者もいる。負傷し気落ちしていると
ころに、戦場に放棄されるのだ。泣き叫ぶのも無理
はない」51)とある。戦場に置き去りにされる重傷兵
たちの何としても生きたいという必死の心情が、そ
こに吐露されている。
ところで、大木軍医が昇汞錠を渡した重傷兵は実
は生きて戻ってきたのであった。その経緯を戦後大
木は次の様に記している。
「(その兵士は)ソ連軍に
収容され手厚い医療を受けて一命をとりとめ、停戦
協定時の捕虜交換で無事帰ってきたことを、部隊長
だった S 中佐から「大変悪いことをした。申し訳な
かった」と先日手紙で知らせてくれた。
「楽になるか
ら飲め」と与えられた薬は刺激が強くのみにくかっ
たので吐き出した、とソ連の衛生兵に述懐したそう
である」52)。そして大木軍医は軍医としての悔恨と
責任を自覚して次の様に述べている。
「戦況が不利に
なって、当然助かるべきものが、何も設備も、ろく
な器械器具、衛生材料、薬品もなく、
(中略)いい加
減な治療でみすみす将来ある者若い命をむざむざと
捨てさせてしまった。本当に申し訳ないと思ってい
る」52)。
なお、ノモンハン事件で捕虜となった数は、一説
には 3 千名とも 4 千名ともいわれるが今日に至るま
で不明である。しかしその多くは、帰国の機会があ
りながら自分の意志で帰国を断念・拒否したのであ
った。東条英機陸軍大臣が『戦陣訓』を示達したの
は 1941 年であるが、その中でうたっている「生きて
虜囚の辱めを受くるなかれ」の思想は、陸軍の伝統
としてそれ以前から長く堅持していた。
したがって捕虜の多くは帰国後の軍による処罰を
何よりも恐れた。事実、停戦協定締結後捕虜交換に
よって帰還した将校たちは、人里離れた兵站病院に
強制収容され、そして自決用の拳銃を渡され自決し
た。事実上の処刑である。こうした残酷な措置が予
想されただけに、実に多くの日本軍兵士は帰国しな
いで、ソ連国籍を得て彼の地で人生を終えたのであ
った。このように日本軍隊は何よりも軍機密を優先
させて、重傷兵に自決用の薬剤を与えて置き去りに
して、兵士の生命は消耗品の様に処理されていった。
8. 兵士たちからみた、将校そして軍医
ノモンハン戦場の激闘を勝利に導いたソ連軍最高
指揮官ジューコフの、日本軍についての次の評価は
有名である。
「日本軍の下士官兵士は頑強で勇敢であ
り、青年将校は狂信的な頑張さで戦う」。そのことは
同時に、最前線で攻撃命令を下す将校たちのその「狂
信的頑強さ」の故に、その指揮に従う兵士たちの累々
たる戦死者の山を築いたことをも意味していた。
「第 1 大隊ハ百台カラノ戦車ニ包囲サレ猛烈ナル
敵ノ砲撃ヲ受ケ苦戦、
(中略)大隊長は(中略)近接
して(敵の)戦車に飛び乗って(中略)戦死、其の
他多数ノ戦死傷者」
(昭和 14・8、ハイラル S 発、北
海道 S・U 宛)53)
「如何ニ日本魂ヲ以ッテシテモ科学ノ力ニ勝ツコ
トハ出来マセン。肉弾ガ戦車ニ当ッテモオ話ニナリ
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
マセン」
(昭和 15・1、チチハル平山部隊発信人不詳、
東京市 K・S 宛)54)
狂信的に大和魂で白兵戦・肉弾戦を強行すること
に、必ずしも一般兵士は心服していなかった。
“面従
腹背”的に表面的には抵抗しなくても、心の底では
厳しい将校批判の心情を抱いてもいた。
「少尉ヲ鼻ニ掛ケテ威張ルノデ、
(中略)アンナノ
ハノモンハンヘ行ッテ死ンデ居レバ、後ガサッパリ
シテ喜ブノニネ」
(昭和 15・1、旅順陸軍病院 K・S
発、東安平田部隊 N 伍長宛)55)
「最近軍人ノ程度低下ガ叫バレテ居ルガ無理モナ
イコトダ、
(中略)中尉中隊長デハ問題ニナラン。熱
誠以テトカ心服トカハ芝居ノ台詞ダ」
(昭和 14・12、
ハルピン飯塚部隊 S・K 発、三重県 S・K 宛)56)
なかにはノモンハン事件 2 ヶ月前の手紙ではある
が、戦死弔慰金や遺族年金の額を一般兵士と比較し
て、将校の戦死を冷ややかに見詰めている。
「将校以上のノ人間ガ戦死シタカラトテ別ニ気ノ
毒デモナンデモナイ。貧乏ノ兵卒ト比ベルト充分ナ
金ヲ貰ッテ安心シテ死ネルカラネ」
(昭和 14・3、発
信人・宛先ともに不詳)57)
軍医と衛生兵や一般兵士との関係は、必ずしも前
述の様な関係とは同一ではない。軍医は一般兵士に
とって何よりも自分の戦傷や病気を治癒してくれる
命の恩人だからである。また衛生兵にとって戦友た
ちの治療に共に当たる“同労者”だからである。し
かも最も困難をきわめた最前線での衛生活動では、
軍医・衛生兵共に歩兵・砲兵・工兵・通信の各隊の
戦死傷率に次ぐ高い犠牲を出していただけに、その
連帯感は緊密であったと思われる 58)。
しかし、入院兵士の中には軍医の診断に強い不満
をいだき次の様に非難している。
「初メカラ「ロクマク」ト断定スレダ一等症ニナ
ルモノヲ、
(中略)其ノ儘ニ等症ノ位置ニ居ル。
(中
略)俺ハ開イタ口ガ塞カラヌ。一等症ニナレバ兵免
ニシタ時ハ恩給ヲツケネバナランカラノウ。二等症
ニハナイ」
(昭和 14・12、東安第一病院 Y・Y 発、福
岡県 I・K 宛)59)
そして「軍医ト云フ獣物」、「実ニヤリ方ガ卑劣」
と結論付けて、その軍医を非難している。
その背景には、軍医という将校身分に安住し、安
逸・退廃している特権的生活に対する反発があった。
「嫌ダト云ッテ患者ヲ怒鳴ツケ診察シナイデ遊ン
デ居テモ月給ハクレ文句ハ云ハレナイ」(昭和 14・
12、ハイラル陸軍病院 S・N 発、富山県 S・S 宛)60)
「オミキ(注・御神酒)ハ相変ラズデス。来黒(注・
黒河)以来酒ノ気ノナイ幾日ゾト云フ有様。夜ナ夜
ナ町ヘ下リテ行キマス」
(昭和 15・4.黒河陸軍病院
K・S 発、安東満鉄病院 T・M 宛)61)
軍医は、一般的には戦場での戦死傷者率が少ない
との判断で入隊してくる者が少なくない 62)。最前線
での繃帯所の戦死傷者率よりも、後方の野戦病院・
兵站病院のそれは、はるかに低いのが通例である。
各地の陸軍病院も含めてこれらの各種病院に多数の
軍医が配属されていることを考えると、最前線の一
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October, 2009
般兵士にとって多くの軍医たちは、“優雅な特権階
級”に映っていたのは無理からぬことであった。そ
こには、先述した将校批判に共通する心性があった。
9. ノモンハン戦場体験者たちの戦争批判
約 6 万名という大軍を投入したノモンハン事件の
「大義」とは、いかなるものであったのがろうか。
それは単的に言えば、他国が不法侵入したと関東軍
が認定すれば、直ちに武力で撃壌するという強硬の
論理に立脚する道義を意味していた。関東軍が確定
した「満ソ国境処理要綱」によれば、
「要領四」で「国
境線明確ナラザル地域ニ於テハ、防衛司令官ニ於テ
自主的ニ国境線ヲ認定シテ」、不法侵入に対し「初動
ニ於テ封殺破摧(注・破砕に同じ)ス」63)とある。
そしてこのソ蒙側と日満側との間での国境線不明地
域(つまりノモンハン地域)において、日本側の主
張する国境線への不法侵入の判断を一方的に第一線
駐留の防衛司令官に委ねるということに、そもそも
このノモンハン事件の発端があった。遊牧民である
モンゴル人が自由にこの地域を往来していた国境線
不明地域を、一方的にソ蒙軍の不法侵入と判断し「大
義」を発動したその結末は、甚大な戦死傷者と歴史
的惨敗を現出させた。
このノモンハン事件の「大義」に対し、凄惨な戦
場体験をもつ兵士たちの間に、根本的な疑念をいだ
き痛烈に批判する人も出て来ている。
「考ヘテ見レバ畠ノ境争ヒヨリ馬鹿ラシイ話ダ。
アンナ所1里ヤ 2 里ドウデモヨイ様ナモノダ」
(昭和
64)
14・6、発信人不詳、山形県 T・U 宛)
「今戦□シテイル地方ハ、10 里ヤ 20 里ドチラエ
曲ッテテ何ノ役ニモ立タナイ砂漠不毛ノ地デ、ツマ
ラヌ戦争シテイルモノトツクズク思フ。全ク双方ト
モ意地ノ張合ヲヤッテイル様ナモノダ」
(昭和 14・9、
発信人・宛先共に不詳)65)。
そして戦場の悲惨さを訴えると共に、さらには戦
争そのものを批判する兵士もでている。
「撤兵は未ダシマセンガ、患者ハ自動車ニ輸送サ
レマスガ、敵弾ノタメハネ飛バサレテ気高ク呼ブ
痛々シイ声、血ミドロニナッテウメキモダエル様ヲ
見テハ、○○○○○戦ハツライモノデス。戦ハスベ
キモノデハナイ」
(昭和 14・9、ハイラル鈴木智部隊
T ・S 発、秋田県 T・T 宛)66)
「事件ノ終了ト共ニ私ノ第二ノ人生ガ生レテ来タ。
事件当初ハ単純ナ生死ノ間ニ心迷ウタ。戦争ハ人生
デハナカッタ。少ナク共人間ニハ不必要ト思ハネバ
ナラヌ。軽口ニモ戦争ヲ口ニスル人ヨ・・・・呪ハ
レテアレ」
(昭和 14・12、ハイラル中尾部隊 S・Y 発、
福岡県 K・F 宛)67)
このように、ノモンハン事件の「大義」への疑念
と、その無意味でかつ甚大な犠牲者を出したこの戦
争への批判は、他の参戦者の記録にも見えるところ
から、多くの兵士たちの共通した感慨ともいえる。
例えば第 23 師団捜索隊の見習医官松本草三の『茫漠
の曠野ノモンハン』に、次の様な記述がある。
「この
ような莫大な犠牲者を払ってまで何の為の戦いであ
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
ろうか、と思うのだ。それは各戦線にあって全将兵
のひとしく唱え認める釈然ならざる疑問符であり、
一致した不満であった。一部強硬論者にあやつられ
無意味な戦いをしたとすれば、英霊はもちろん一般
将兵はとりつく島もなく浮かばれない」68)。
「こんな
馬鹿馬鹿しい戦争など真っ平だ。どうなっても構わ
ない」69)。
「無意味な戦い」
「馬鹿馬鹿しい戦争」という「戦
争の大義」が根底から疑われたこのノモンハン事件
は、累々たる屍の山と歴史的大敗で終わった。あの
広漠とした大草原の地に今なお戦死者の遺骨が眠っ
ている。無謀としか言いようのない関東軍(そして
それに追随した大本営)首脳の強硬策によって、動
員された兵士たちは虫けら同然に“消耗”させられ
ていった。その戦死者の無念を思うと、偶然にも生
き延びた戦傷兵や帰還兵たちは、その戦争そのもの
に疑念と怒りを持つと共に、それを引き起した指導
者への不満をつのらせていた。そうした「地獄の底」
を体験した兵士たちの本音が、この関東憲兵隊の通
信検閲の対象となったのである。
この小稿は、戦場の最前線で言語に絶した苦闘を
体験した末端兵士の眼を通してノモンハン戦の実相
の一端を紹介し解明したものである。
注
1) 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書・関東軍<1>』
(朝雲新聞社、1969 年)p486
2) 前掲書 1)p707・708
3) アルヴィン・D・クックス『ノモンハン』下(朝
日新聞社、1989 年)付表 3p426
4) 前掲書 1)p681
5) 前掲書 3)付表1p425
6) 前掲書 1)p713
7) 吉林省档案館ほか『日本関東憲兵隊報告集』
(第
3 輯)第1冊p437
なお、原文を読みやすくするために、濁点を付し、
また句読点も付けた。以下同じ。
8) 前掲書 7)第 19 冊p231
9) 前掲書 7)第 19 冊p212
10)前掲書 7)第 19 冊p205
11)前掲書 7)第 19 冊p229
12)防衛省防衛研究所所蔵「ノモンハン事件の若干の
考察」所収
13)防衛省防衛研究所所蔵
14)前掲書 7)第 1 冊p96
15)前掲書 7)第 19 冊p208
16)前掲書 7)第 4 冊p98
17)前掲書 7)第 14 冊p194
なお、通例 1 ケ分隊は 15 名編成である。
18)前掲書 7)第 14 冊p189
19)前掲書 7)第 1 冊p92
20)前掲書 7)第 1 冊p132
21)前掲書 7)第 19 冊p240
22)前掲書 7)第 1 冊p166
23)前掲書 7)第 4 冊p98
- 41 -
24)前掲書 7)第 4 冊p97
25)教育総監部(精神教育資料 58 号)
『戦場心理と精
神教育』
(昭和 13 年刊)ただし私が所蔵している
のは、陸上自衛隊幹部学校研究部複製本。
26)防衛省防衛研究所所蔵「ノモンハン事件研究報
告」
27)前掲書 7)第 4 冊p95
28)前掲書 7)第1冊p123
29)前掲書 7)第 16 冊p228
30)前掲書 7)第 12 冊p374
31)豊泉太郎編『頭部戦傷・外傷後遺症の研究』
(国
立下総療養所、1966 年)
32)前掲書 31)p8
33)前掲書 31)p11
34)浅井利勇編著『うずもれた大戦の犠牲者』(国府
台陸軍病院精神科病歴分析資料・文献論集記念刊
行委員会、1993 年)
35)前掲書 7)第 1 冊p95
なお、この連隊は歩兵第 71 連隊で、損耗率 93.5%
であった。
36)前掲書 7)第 1 冊p135
なお、この連隊は歩兵第 72 連隊で、損耗率 78.5%
であった。
37)前掲書 7)第 14 冊p232
なお、この連隊は野砲兵第13連隊で、損耗率
76.0%であった。
38)前掲書 7)第 14 冊p185
39)前掲書 7)第1冊p230
40)前掲書 7)第1冊p232
41)前掲書 7)第 19 冊p221
42)前掲書 7)第1冊p235
43)前掲書 7)第1冊p307
44)前掲書 7)第1冊p167
45)前掲書 7)第1冊p304
46)前掲書 7)第1冊p288
47)大木繁『ノモンハン参戦日記』(自主出版、1975
年)
48)前掲書 47)p70
49)前掲書 47)p72
50)辻密男『ノモンハンとインパール』
(旺史社、2000
年)
51)前掲書 50)p135
52)大木繁「
『ノモンハン参戦日記』を自主出版して」
(「日本医事新報」No.2799)p67
53)前掲書 7)第 1 冊p170
54)前掲書 7)第1冊p285
55)前掲書 7)第1冊p303
56)前掲書 7)第1冊p235
57)前掲書 7)第1冊p7
58)例えば、第 23 師団の損耗率でいえば歩兵(第
64,71,72)連隊は平均 80.6%、工兵(第 23)連隊
が 85.2%、野砲兵(第 13)連隊が 76.0%で、次
いで衛生隊の 54.5%である。
59)前掲書 7)第1冊p236
60)前掲書 7)第1冊p234
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
目指す歴史的研究」
(課題番号 17320007)
」の成果の
一部である。
61)前掲書 7)第1冊p475
62)前掲書 7)第2冊p160
63)前掲書 1)p424
64)前掲書 7)第7冊p163
65)前掲書 7)第1冊p98
66)前掲書 7)第1冊p94
67)前掲書 7)第1冊p232
68)松本草三『茫漠の曠野ノモンハン』(自主出版
1978 年)p70
69)前掲書 68)p94
著者プロフイール
1930 年青森県生まれ
東北大学大学院修士課程(日本史)修了
経歴-宮城学院中学高校教諭、宮城教育大学非常勤
講師
論文-「帝国大学の戦争協力体制と戦時研究」、「15
年戦争と東北帝国大学」、「戦争と大学―東北帝大医
学部を例にして」、
「一般兵士から見たノモンハン事
件」ほか
本研究は、
「平成 19 年度科学研究費補助金(基盤研
究(B))
「日本における医学研究倫理学の基盤構築を
- 42 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
「ノモンハン戦争学術研討会」等への
参加報告
2009 年 6 月 18 日~21
日~21 日
一戸 富士雄
Participant report in the Nomonhan war scientific symposium
June,18-21,2009
ICHINOHE Fujio
Ⅰ. はじめに
本年 4 月に、ハルピン市社会科学院ノモンハン戦
争研究所と同侵華日軍要塞研究所より、6 月 18 日か
ら開催される同上 2 つの学術研討会への「邀靖函」
(招聘状)が、戦医研に届いた。西山勝夫事務局長と
相談の上、宮城県在住の会員村口至氏(民医連坂総
合病院名誉院長)と私の 2 名が参加することになっ
た。以下、日程を中心に、簡単にその状況と若干の
感想を述べることにしたい。
Ⅱ. 日程とその状況
6 月 15 日(月)
19 時 30 分 成田空港発(中国国際航空 CA168)
22 時 25 分 北京空港着
(宿泊は、CAPITAL AIRPORT HOTEL)
6 月 16 日(火)
7 時 50 分 北京空港発(中国海南航空)
9 時 55 分 ハイラル空港着
趙玉霞さん(ノモンハン戦争研究所副所長)と多藍
さん(通訳)の出迎えを受ける。
昼食は徐占江氏(ノモンハン戦争研究所並びに侵
華日軍要塞研究所の両所長)らと会食。のちハイラル
市内を散策する。
(宿泊は、ベル大酒店)
6 月 17 日(水)
午前中は、新華書店で書籍や地図を購入し、少数
民族博物館と「伊敏河断橋残址」(「我門都不要戦争」
の和平公園の一郭にある)などを見学した。
15 時 30 分、大草原の中をバスでひたすら走り抜
ける(まさに「一望千里の曠野」の世界である)
。
ア
ム
その向う先は、ノモンハン戦場にやゝ近い阿木
グロー
シンバルフーズーキ
古郎鎮(町)で、ここは新巴尓虎左旗(ホロンバイル市
の一行政地域)の中心地で、18 時 30 分頃に到着。つ
まり大草原の中を 3 時間近く高速で駆け抜けたこと
になる。このアムグロー鎮は約 3 万人の町といわれ
るが、町挙げての“熱烈歓迎”を受ける。ノモンハ
ン戦争の国際シンポ開催ということがその理由と思
われる(モンゴル族の民族舞踊や馬頭琴の演奏もあ
った)。
(宿泊は、17・18 日両日共に騰飛賓館)
6 月 18 日(木)
より村口氏に代わって挨拶原稿(村口氏作成)を読
み上げる(原稿内容はⅢに掲載)。
引き続き「学術研討会」が開催され、モンゴル国
のガ・サンブー氏、中国の白志偉・鄭乃東・徐占江
の各氏、日本の私の計 5 名がそれぞれ研究発表を行
った。
その会終了後、政府庁舎前で参加者一堂の集合写
真を撮る(約 60 名)
。
その後、ノモンハン戦場遺跡にバスで向う。ここ
でも大平原の道をどこまでも進む。途中舗装の道を
離れ草原のわずかな車輪の跡をたどりながら走る。
たどりついた先に日本軍の「ノモンハン戦遺址」、
「火
砲陣地遺址」、
「731 細菌部隊遺址」
(いずれも黒御影
石の石碑がある)等で説明を受け、さらに停戦協定
後日本軍が戦死者遺体 4,447 体を石油をかけて火葬
した「死体焼却遺址」も見聞した。人骨の一部が 70
年も経った今日でも発見されるという凄惨な場所で
ある。
その後、昨年オープンした「ノモンハン戦争遺址
陳列館」を見学した。以前あった同陳列館は木造平
屋建てで、その展示室は学校の教室程度で、その展
示品も粗末に雑然と並べられたものにすぎなかった
といわれる。しかし今は堂々たる鉄筋コンクリート
2 階建てに一新され、その展示品も系統的総合的に
陳列され解説も詳しく丁寧で、都市部の陳列館に遜
色はない。その見学を終えた頃、村口氏より平和と
反戦の決意の一文を記した大型こけしを陳列館に贈
呈し、同行のTV局や新聞からフラッシュを受け、
参加者一同から喝采を浴びた。
さらにハルハ河にかかるモンゴル国との国境の橋
と、中国側の税関事務所を見学した。
午後は、モンゴル族の宗教であるラマ教の寺院
カンジュル
キ
8 時より、旗の政府庁舎の大会議室で「ノモンハ
ン戦争第 2 回学術研討会」の開会式が行われた。中・
蒙・露・日の 4 か国の代表挨拶があり、私は指名に
- 43 -
甘珠尓廟を見学した。
6 月 19 日(金)
8 時すぎアムグローを出発、広大な草原を約 3 時
間走り抜けて一路ハイラルへ向う。雨が次第に強く
なる。
昼食後、
「世界反ファシズム戦争ハイラル記念園」
内にある「ハイラル要塞遺址博物館」(昨年 8 月に開
館)を見学する。この博物館は、ハイラル市街の西側
丘陵地帯の河南台陣地(要塞第二地区)の上に立っ
ている。防寒服を身につけて地下要塞の階段を奥深
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
く降り、関東軍将兵の居室・通信室・弾薬庫・炊事
場、そして診察室などの各施設跡を見学した。
(宿泊は、国府商務酒店)
6 月 20 日(土)
8 時 40 分より、
「侵華日軍要塞第 1 回学術研討会」
の開会式が行われ、モンゴル・ロシア・日本・中国
の各代表の挨拶があった(会場は、ハイラル要塞遺
址博物館会議室)
。
次いで、侵華日軍要塞研究所の徐占江所長が旧満
州国地域の関東軍要塞の概況についての報告を行っ
た。ただし、配布された今回の「学術研討会」の論
文集には徐占江氏以外の論文が 6 篇収録されていた
が、それらの方々の報告はなかった。
その後、全参加者の集合写真の撮影があった(約
50 名)。
さらに第二地区要塞の地上部分の遺跡について、
現地で徐所長より詳しい説明があった。
(宿泊は、国府商務酒店)
6 月 21 日(日)
今日はハイラル市内の戦争関連遺跡を中心に巡る。
旧満州国時代のハイラル神社の手水場(現存)、慰安
所街跡、陸軍病院跡(現在はハイラル市伝染病病院)、
「伊敏河断端残址」(“和平公園”)などである。そ
してジンギスカンの生地に由来する市民の憩いの場
であるジンギスカン公園、各民族の考古・歴史・文
化を展示・紹介しているホロンバイル民族博物館を
訪ねた。
20 時 57 分ハイラル発のハルピン行きの寝台列車
に乗る。ハイラル駅では、徐占江氏をはじめ、多藍、
趙玉霞、宋雪琴の皆さん、その他多くの方々がプラ
ットホームに出て、別れを惜しんでくれた。皆さん
のご厚意に深く感謝したい。
これから以降は、本来 2 つの「学術研討会」参加
とは関係のない行程である。しかし戦医研の研究活
動と深い関係も有しているので、次に述べることに
する。
6 月 22 日(月)
朝 7 時にハルピン駅に到着。早速金成民氏(「侵華
October, 2009
する。村口氏からは民医連坂総合病院の創立の理念
と活動、日本の医学界の戦争責任と戦後責任の問題
などについて説明があった。次いで一戸からはその
ような状況を容認している日本の政治・社会状況の
問題、歴史教育の中の 731 問題の課題について説明
した。われわれの説明に対しいくつかの質疑があっ
たが、特に日本における 731 問題について資料が出
たら送っていただけないかとの要望が出された。
(今
日から 25 日までの宿泊は。松花江凱菜商務酒店)
6 月 24 日(水)
午前中に、黒龍江省博物館を見学した。ただし残
念なことに、東北烈士紀念館は工事中のため入館で
きなかった。
午後は、金成民館長の提案・仲介により、全く予
定外のことであったが、平房区人民医院を訪問し、
院長をはじめ病院幹部、平房区衛生局長らと交流す
る機会を得た。平房区人民医院は元々731 部隊病院
のあったところで、村口氏が民医連坂総合病院名誉
院長であることから、両病院の交流・友好関係の協
定問題が向うから提起された。今後の課題として双
方がしかるべき機関で検討することとした。
6 月 25 日(木)
ハルピン市社会科学院 731 研究所を訪ね、金成民
所長(彼は 731 罪証陳列館長でもある)と長時間懇
談した。731 部隊施設跡地一帯を世界遺産としてそ
の登録を実現させたい。そして平和と非戦の拠点と
して世界に発信していきたい。そのためにも世界平
和博物館会議に加盟し世界と日本の各地の平和博物
館と交流したい。要請があれば喜んで日本各地で講
演することに協力したい。そのような次第で、ぜひ
協力していただければありがたい、との要請を受け
た。私は可能な限りこの要請に応えられるように努
力したい、と約した。
6 月 26 日(金)
通訳の馮平さんらの見送りを受けて、8 時 40 分に
ハルピン空港を発ち、北京空港で乗り換え、19 時す
ぎに成田空港に無事帰国した。
金成民氏、徐占江氏をはじめ中国の関係者に深く
謝意を表したい。
ヒョウヘイ
日軍第 731 部隊罪証陳列館」館長)と通訳の 馮 平 さ
んらの出迎えを受け、車で 40 分ほどの平房地区の外
国人用ホテル「哈航賓館」で午前中休憩をとる。
午後に平房地区市街地を散策し、731 部隊軍属等
の集合住宅 2 棟(現存し現在は地域住民の住宅)を
外から眺める。
(宿泊は、今日明日共、哈航賓館)
6 月 23 日(火)
朝、「侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館」より少し離
れた同事務所を訪れ、金成民館長にこの秋訪中する
戦医研のことについて要請する(後日、再度要請す
る)
。
その後、
「陳列館」そのものを訪ね、展示室とその
屋外の「ボイラー室」
、
「ロ号棟跡地」、
「凍傷実験室」、
「小動物地下飼育室」、
「実験動物焼却炉跡」、
「人体
焼却炉跡」などを見学する。
16 時頃から館の職員 21 人とテーブルを囲み懇談
- 44 -
Ⅲ. 会議の内容と全体の感想
A. 「ノモンハン戦争学術研討会」の内容
前 記 ・ 日 程 で 紹 介 し た よ う に 、 6 月 19 日 、
シンバルフーズーキ
新巴尓虎左旗政府の大会議室で、この「学術研討会」
が開催された。
発表者は次のとおりである。
(モンゴル国)ガ・サンブー「ハルハ河戦争について
の若干の歴史問題」
(中国)白志偉「ノモンハン戦争関連問題の研究」
(中国)鄭乃東「ノモンハン戦争での日本軍惨敗の
原因についての基礎的探求」
(中国)徐占江「試論・ノモンハン戦争のソ独戦争
への影響」
(日本)一戸富士雄「日本関東軍軍医たちが見詰め
たノモンハン戦場の惨状と戦傷兵の後遺症」
Vol. 10 No.1ISSN 1346 – 0463
October, 2009
Journal of Research Society for
15 years War and Japanese Medical Science and Service
15年戦争と日本の医学医療
15年戦争と日本の医学医療
研究会会誌
第10巻・第
10巻・第1
巻・第1号
2009
2009年10月
10月
目
次
京大病理学教室史における 731 部隊の背景・・・・・・・・・・・・・・・・
ナチ時代の医師の犯罪と医師たちの戦後・・・・・・・・・・・・・・・・・
第2次大戦と東京大学医学部卒業生をめぐって―関連書籍の解説―・・・・
『日本関東憲兵隊報告集』の資料紹介とその分析(その 3)・・・・・・・・
杉山
山本
加我
一戸
武敏
啓一
君孝
富士雄
1
11
21
26
「ノモンハン戦争学術研討会」等への参加報告 2009 年 6 月 18 日~21 日・・・ 一戸 富士雄
報告「ハイラル要塞遺跡」訪問記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・村口 至
日本関東軍軍医たちが見詰めたノモンハン戦場の惨状と戦傷兵の後遺症・・
一戸 富士雄
35
39
41
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
44
Contents
Background of Unit 731 in the History of Department of Pathology, Kyoto University
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
SUGIYAMA Taketoshi 1
Medical war crimes in the Nazi era and Nazi doctors after the war・・・・・・・・・・ ・
YAMAMOTO Keiichi11
World War 2 Background of Unit 731 in the History of ・・・・・・・・・・・・・・
KAGA Kimitaka
21
On the materials of KANTO KENPEI TAI. Japanese military police body in “Manchuria”
ICHINOHE Fujio 26
ICHINOHE Fujio,
35
Participant report in the Nomonhan war scientific symposium June,18-21,2009
The visiting report of the ruins of HAILAR fortress・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・MURAGUCHI Itaru 39
The terrible scenes on the Nomonhan battle field and after effects caused by a war among the wounded soldiers
ICHNOHE Fujio
41
Editorial Note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
44
15年戦争と日本の医学医療研究会
15年戦争と日本の医学医療研究会
Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
なお、日本では「ノモンハン事件」と呼称してい
るが、中国では「ノモンハン戦争」
、モンゴル国では
「ハルハ河戦争」と呼んでいる。
研究発表は、いずれも手堅い実証性に基づく最新
の研究成果を提示している。徐占江氏の国際政治(と
くに独ソ戦)への影響についての論考は新しい視点
からするもので注目される。
私の研究論文は、本誌に別掲されているので、ご
覧いただければと思う。
なお、中国語でいう「研討会」の「研討」とは、
..
研究討論の省略語であるが、今回は研究発表のみで、
..
フロアからの質問や意見を出す場はなく、討論する
ことがなかったことは日本の参加者としては意外で
あった。
今回研究発表はなかったが、配布された「論文集」
に収録されている趙玉霞氏(ノモンハン戦争研究所
副所長)の論文は、ノモンハン戦場における石井部
隊の細菌戦使用の状況を詳説しており、参考とすべ
き点が多い。
参考までに、
「開会式」の席上、私が代読した挨拶
の原稿(村口氏作成)は次の通りである。
みなさん、こんにちは! 日本から来ました一戸
富士雄と村口至です。中国大陸への日本軍国主義の
戦争に、医学と医療がどのように参加し動員された
かを研究する会の会員です。日本は敗戦で平和憲法
を持ちましたが、戦後一貫してこの憲法を変え軍事
力を増強しようとする政治勢力があります。それだ
けに私たちは、日本の残虐な戦争の歴史に向き合い、
そこから学ぶことが大切であると考えます。本日の
ノモンハン戦争学術研討会に参加することは、日本
人として心が重いものがありますが、皆様の昨日来
の暖かい“階級的友情”に励まされ、たくさんの研
究から学び日本での活動を発展させたいと考えま
す。よろしくお願いいたします。
B.ノモンハン事件の関東軍出動基地ハイラルについて
B.ノモンハン事件の関東軍出動基地ハイラルについて
ホロンバイル
ハイラルは現在、中国内モンゴル自治区呼仱貝尓
市の人民政府所在地で、モンゴル族の歴史と文化を
色濃く漂わす美しい 30 万都市である。
しかし、ノモンハン事件(1939 年)当時の人口は
3 万人にも達していないどこにでもあるような無名
の田舎町にすぎなかった。それが俄然歴史の上で名
を刻むに至ったのは、ノモンハン事件の関東軍出動
基地であったからであった。ノモンハン事件の関東
軍の主力は、小笠原道太郎中将率いる第 23 師団(出
動人員 1 万 4137 人)であった。その外に第 8 国境守
備隊(同、4883 人)
、さらには「偽満軍興安北警備
軍」(2500 人)が駐留しており、その総員は当時の
ハイラル住民の人口に近い人員であった。それ以外
にも陸軍病院、憲兵隊、飛行戦隊などが置かれてお
り、まさに西部国境地帯の最重要軍事基地であり、
さらには 731 部隊ハイラル支部(通称 543 部隊)の
所在地であり、そして 1934 年以来ハイラル市街を囲
むように建設された 5 つの要塞群が置かれていた。
- 45 -
その意味で、1945 年の日本の敗戦までのハイラル
は、関東軍要塞を軸とした巨大な軍事都市化の本質
を深めていった。したがって細菌戦・化学戦、
「万人
坑」問題、慰安婦問題など軍事基地に関連する日本
軍の加害責任を鋭く照射している町(都市)といっ
てよい。
ハイラル要塞を基軸とした先述の諸問題の研究は、
日本側の資料の活用(または発掘)による日本側の
新たな展開が望まれる。
C. 感想
.
①80 に近い私の年齢が中国人にとって超(?)高齢者
視されたこともあって、中国中央電視台、香港の鳳
凰衛視中文台、ハイラル電視台の各テレビ局からイ
ンタビューを受けたことは、全くの予想外の出来事
だった。
もしかしたら、私の発表が一般兵士が受けた残忍
きわまりない惨状(後遺症問題も含めて)に焦点を
あてた点も、彼らの関心を引いたのかもしれない。
②ハイラルからアムグローまでの約 200km をわれわ
れは冷房のきいたバスで疾走していったが、70 年前
にノモンハン戦場に向う兵士たちは、真夏日の炎天
下、30kg の軍装品を背負って 1 日 40km(それも 5
日間)も歩き続けたといわれる。そのため脱水症状
をきたし路上で倒れる兵士が続出し、ノモンハン戦
場に予定通り到着しえた者は半数にすぎなかった部
隊もいたといわれる。兵士たちは戦闘に参加する前
にすでに疲労困憊していたのである。関東軍司令部
の無策・無謀ぶりについて改めて考えさせられた。
彼らにとっての兵士たちとは、単なる消耗品にすぎ
なかったのではないか。改めて兵士たちのその無
念・怒りに思いを馳せた。
③ノモンハン事件の停戦協定後、戦場に遺棄されて
いた日本軍将兵の遺体を収容し、火葬に付した跡地
である大窪地に立った。遺品が未だ残置されてない
か探し歩いた結果、1cm 位の白骨化した人骨 1 片の
ほかに、水筒や毒ガス防護用マスクの部品、焼けた
木片やボタンなどを発見した。最前線で死闘を繰り
返した大草原の中には、今なお無数の遺骨が砂や土
の中に埋もれているという。この残酷な光景を目の
当たりにして、悄然とさせられると共に、日本政府
の戦後処理の無責任ぶりに改めて怒りが込み上げて
きた。
④金成民 731 罪証陳列館館長から特に要請された世
界平和博物館会議への加入の件と日本国内の平和博
物館との交流の件については、帰国後関係者・機関
に要請した結果、早速立命館大学国際平和ミュージ
アムの安斎育郎名誉館長と平和資料館「草の家」の
山根和代代表から心のこもった返事を戴いた。
今後、戦医研として中国での調査・研究交流と共
にこうした活動の具体的な展開が望まれていると、
私は実感させられた。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
報告「ハイラル要塞遺跡」訪問記
村口 至
The visiting report of the ruins of HAILAR fortress
MURAGUCHI Itaru
阿木古郎(アムグロ)鎮からハイラルへ
阿木古郎(アムグロ)鎮とノモンハン戦場跡視察
を含めたノモンハン戦争第 2 回学術研討会を終えて
広大な草原を一路ハイラルへ約 3 時間のバス行程。
次第に雨が強くなる。ハイラルで昼食小休憩の後、
驟雨のような豪雨で一部の道路は冠水している中、
再びバスでハイラル要塞の跡地「ハイラル要塞遺址
博物館」へ向かった。博物館は小高い丘の上、つま
り要塞そのものの中に昨年 8 月に竣工した新しい建
物があった。軍服に軍帽の若い女性ガイドが迎えて
くれた。旧日本軍の遺物と戦闘現場など写真や人形
などで再現されている。錆付いた兵器の陳列が続く
中で、場違いな感じで娼婦が使った小さな鏡台、海
軍旗が描かれたぐい飲み、柱時計などなどもある。
ハイラル市内には、慰安所もあったとされるが、ソ
連の攻撃を前に、日本人の婦女子もこの要塞に逃げ
込んだとも言われている。その証かもしれない。兵
器もソ連軍のものが遥かに優れていると素人目でも
わかる。国際 66 連隊の写真には、モンゴル、中国、
ソ連、朝鮮人の顔が識別される(通訳モンゴル族女
史の話)
。施設に続く地下要塞に入ってすぐにガラス
床の廊下に「万人坑」の一部があった。長管骨や肋
骨、大腿骨など数体分ある。地下要塞は、階段を 2
階、3 階も下る感じである。薄暗い電灯を頼りに進
む。トンネル内には、厨房、水槽庫、厠などの黒い
打ち抜きの文字が横道の入り口に残っている。「診」
と表示されたところは診察室で奥にはベッドがある
らしい。診察机の上には水銀柱血圧計があった(旧
そうではなかったので後に置いたか)
。奥へ進むうち
に停電となり、真っ暗闇となる。70 年前の当時に一
気に突き落とされたような感じだ。通訳多藍女史の
携帯電話の明かりを頼りにようやく戻れた。
博物館のある広大な丘に展開する要塞の跡を歩く。
地下壕で続く長大な要塞がところどころ地上に穴と
して現れる。重火砲設置跡、戦車を隠した窪地、多
くの労工を詰め込んだ宿泊所の跡地などなど。遠く
離れた所には、双方の戦車と戦闘展開中の兵士の模
造が沢山配置してある。天皇制軍隊が勝手に他国に
略奪的侵入し、他国の国民を脅迫の下に苦役に駆り
立て、当然のように天罰を受けるような行動を取っ
たことについて浅はかとしか言いようが無い。駐車
場には「満州里バス」も駐車しておりツアーのご一
行のようだ。施設の建設は 2008 年 8 月。
侵華日軍要塞第1回学術研討会の開会式の正面に
は、主催:中共コロンバイル市ハイラル区委員会、
コロンバイル市ハイラル区人民政府、コロンバイル
- 46 -
歴史研究院、協賛:侵華日軍要塞研究所とある。壇
上に主催者と外国代表などが並ぶ。挨拶は、ハイラ
ル区党書記、コロンバイ市委常委統戦部長、ロシア
代表(チタ人民博物館館長)
、蒙古国国防科学研究所
所長の次に一戸富士雄氏の挨拶。氏は義理の兄の話
からはじめた。1945 年の敗戦時に参謀部として参戦
したことを明確に戦争犯罪者の一人として表現し、
反省から 2 度と中国に足を踏み入れられないとの言
辞と日中友好、平和活動に人生をかけた、との話は
聴衆に感銘を与えた。昨日に続き、地元ハイラルテ
レビの取材を受けた。その後、見学散策に時間を要
したこともあり、予定の演題発表は、午前も午後の
部も中止、昼食後は自由時間となった。日本からの
高齢の参加者や、遠方からの参加者の買い物時間へ
の考慮とのこと。一昨日のシンポジウムも同様に予
定の時間がきたことで、演題発表は中止。予稿集に
あるからよいということか(日本から参加の高齢者
が疲れているからとも伝えられた)
。後に企画責任者
の徐占江さんより「日本関東軍要塞 上、下 徐・
李共編」
「ノモンハン日本第一次戦敗 茫漠の広野ノ
モンハン」の寄贈受けた。前者は 1165 ページに及
ぶ大作である。
ガイドは女性兵士と思いきや、ガイド役の職員と
のこと。日本語勉強中という若い子が寄ってきて会
話。軍服はもとロシア兵軍服を模したもの。日本で
は何をやっているかとか質問された。写真を撮って
あげた。日本の戦争犯罪遺跡地域に住む若い子が日
本語に興味を持つのはうれしい。これだけの大規模
な事業を 70 年後の今日にも実現しようとする問題
意識に脱帽する。要塞はハイラルの街を囲むように
広大に展開している。市当局は今日は観光施設とし
て集客に課題を設定しているようであるが、日本の
敗戦当時の中国側の犠牲者の対応や不発弾の処理な
ど、大変であったに違いない。
夜の区主催の晩餐会では、男女 2 人の副区長が挨
拶した。その女性副区長と会話した。
「日本には、憲
法 9 条を変え軍備強化する動きあり、それとの闘い
に参加している」との私の話に対して「日本は戦争
をやっても又負けるでしょう」との返事であった。
自信に満ちているといえばそれまでであるが・・・。
「女性をめぐる社会的問題は何か」の問いに「4 つ
の自・・自信、自尊、自愛、自立を強調している。
其のうちどれが最も問題かということは無い」。離婚
率は最近上がってきているが、DV についてはあま
り問題になってはいない由。最近 10 年ほどで家事
の男女逆転が起こっている。まだ 40 台の前半の年
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
頃か、なんとも“政治家”的ではある。通訳多藍女
史によれば市の公務員として就職し次第に昇格して
いった人。この先は区長さらに市行政とエリートコ
ース上にありそうだ。集まった沢山の名刺の束を処
理しきれないようだ。人気がある。楊雁紅女史(黒
龍江省満州史研究所所長)に「15 年戦争と日本の医
学医療 07 年第2号」を贈った。研究所の雑誌交換
を願ったが発行していないとのこと。代わりに別の
著作を送ってくれる由。この方は、面長の品のいい
日本的美人。隣席の高暁燕女史(黒竜江省社会科学
院歴史研究所研究員)と筆談を交えながら会話す。
日本軍毒ガス被害後遺症の研究をしている。
「日本軍
遺棄毒ガスと中国人民の傷害」
(明石書店)を著した。
日本のグループ“ABC 企画委員会”と共同して毎年
1 度中国各地の被害調査を行っている。(A:核兵器
B:細菌兵器 C:化学兵器) 娘さんが建築学の勉強
でドイツ留学中。しかし、日本に留学させたいと思
っている。日本の水準が高いのでとのこと。夫は黒
竜江省鉱山関係の公務員技術者。
都藍女史に聞いてみた。
「この街で日本の通訳であ
るのはつらいだろう」の問いに「肯いた」
。今回の経
験からもっと勉強するとの決意。今回の抄録など専
門的な論文を翻訳できるようになってほしい。につ
いては「勉強してやれるようになります」との決意
であった。
ハイラル要塞と研討会演題について
日中戦争中に関東軍が建設した要塞は 17 ヶ所あ
り、その中でも規模と位置づけで重要な要塞として
ハイラル要塞がある。この要塞は、ハイラル市(現
在はコロンバイル市ハイラル区)の周囲を取り囲む
丘に 5 ヶ所に展開している。その中心になっていた
第 2 要塞(河南台陣地)跡に「ハイラル要塞遺址博
物館」が 2008 年に建てられた。そこの地下壕も含
め一般公開されている。以下は、徐占江、李茂杰主
編「日本関東軍要塞」2006 年黒竜江人民出版社 を
参考にしたものである。
ハイラル要塞は、1934 年建設着工された。5 地区
合わせて 21k㎡に及んだ。5 地区のうち河南台要塞
が最も大きく中心的役割を担った。地下壕は深さ
1~2m から最深 17~20m のところもある。歩兵 20
中隊、砲兵 9 中隊、工兵 4 中隊の兵力が配属され、
主要火砲は、高射 32、中迫 28、野砲 24 など他の要
塞に比して抜きん出ている(1939~1944 年)。関東
軍には兵站病院 19、常設陸軍病院 36 設置されたう
ち、要塞及びその付近に配置された関東軍病院は 39
病院あるが、ハイラルには 2 病院が設置されている。
そのうちの一つは、築面積 3000 ㎡、300 床(大病
室 14、将校病室 36)と大型であった。ハイラル要
塞の特徴として以下が挙げられている。
① 人的、資金的に最も多くを投入された
② 兵力、武器も最多最強に配置された。最高
時兵士 7000 余人、其の他 5000 余人配置さ
れた。
③ 要塞の強固さも他を抜いている。
- 47 -
④ 要塞全体では、5 主陣地、10 補助陣地、2
野戦陣地という防御体制を含む広大なもの
であった。
⑤ 地下壕は通路全長 5000m、総面積 11400
㎡という大規模である。
⑥ 対戦車壕の構築物として際立っている。5
つの陣地すべてに、数本の対戦車壕と交通
壕が会い交わって存在する。ソ連軍の戦車
侵攻を想定した設計になっている。
⑦ 要塞は、ハイラルの城壁の役割も持つ。地
理的特徴から、平時には年や鉄道から近い
という利便性による威喝保障、戦時にはと
し防衛という点で他の要塞とは比較になら
ない。
⑧ 要塞は対ソ連軍防御の方向が明確に設定さ
れている。
と 8 点が列挙されている。又忘れてならないのは、
ハイラルにも 731 部隊ハイラル支隊(対外呼称“防
疫給水班”
)が、1940 年 12 月にハイラル要塞第 4
地区に配属されていることである。周囲を高い有
刺鉄線で囲み、中には動物舎、跳蚤室、菌苗地下
倉庫などあり。日本人研究員 226 人。彼らは日本
軍服を着用し対外的に“日本軍属”と称していた。
主任支隊長清水富士夫、
第 1 課(倍養老鼠和跳蚤)、
第2課(細菌研究)など設置している。731 部隊
長石井四郎は、1938 年 3 月下旬ハイラルを視察
し細菌武器や細菌戦について重要な指示を与えて
いる。
ハイラル街には3ヶ所の慰安所があった。“満州
第○○慰安所”と命名され1ヶ所に 40~50 名の慰
安婦がおり多くは朝鮮人であった。其の他、軍管
理外の日本人民間の女郎屋が 40~50 ヶ所あり、
1ヶ所 20~30 人の娼妓がいた。“敷島”
“東洋館”
“入船”
“富山楼”
“松の家”
“緑屋”などの店名で
あった。
第 1 回ハイラル要塞研討会
研究会は 2 日間の企画であった。初日は午後よ
り「ハイラル要塞遺址博物館」の展示と地下要塞
の見学、翌日は午前に博物館で研究会開会式と館
周囲に展開している要塞の地上に露出している部
分の視察と演題発表の予定であったが、野外の視
察に時間を要したこともあり演題発表は取りやめ
になった。もっとも、ノモンハンでの演題発表も、
通訳が専門用語に通じていなく全くのちんぷんか
んぷんであったので今回も余り落胆しなかった。
論文集あり記録は残る。しかし、論文も中国語で
あるために翻訳をどうするかが問題。演題は以下
のようである。
1. 日本関東軍要塞概論:侵日軍要塞研究所所
長/遼寧省軍区副参謀長
2. 日本関東軍各地要塞概要:侵華日軍要塞研
究所
3. 日本軍ハイラル築塁地域に見る対ソ連軍
事戦略の一側面:内蒙古軍区分区司令員
4. 黒竜江地区侵日軍要塞の歴史が今日に与
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
えたもの:黒龍江省社会科学院歴史研究所
研究員
5. 戦争遺跡保存・・・・:チチハル大学人文
学院教授
6. 日 本 軍 要 塞 問 題 の 今 後 に つ い て の 考 え
方:ハルビン社会科学院 731 研究所特別研
究員
7. 東北地方被占領史研究の大きな成果:黒龍
江省地方事務所研究室主任
- 48 -
October, 2009
以上であるが、中国語の翻訳作業が求められるが、
演題タイトルからすると、関東軍要塞の研究は一定
の前進を示していることが伺われる。日本側の情報
の提供や研究参加も期待されるに違いない。
著者プロフール
1940 年函館市生まれ、大連引揚、東北大学医学部卒
坂総合病院名誉院長、医師。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
日本関東軍軍医たちが見詰めた
ノモンハン戦場の惨状と戦傷兵の後遺症
一戸富士雄
宮城県歴史教育者協議会前会長
The terrible scenes on the Nomonhan battle field
and after effects caused by a war among the wounded soldiers
ICHNOHE Fujio
キーワード Keywords: ノモンハン戦争の戦死者数 the number of person killed in the Nomonhan war、戦傷兵たち
の苦悩 the distress of wounded soldiers、関東軍軍医 the military doctors in “KANTO” army、
、消し去られた 1 万人
の戦死者 crossed out ten thousand persons of the war dead
で、出動人員 7 万 5,736 人、うち戦死者 8,629 人、
戦傷者 9,050 人、戦死傷者合計 1 万 7,679 人(ただ
し生死不明者を除く)と記している。
しかし、戦後公表された第 6 軍(第 23 師団・第 7
師団が基幹)軍医部作成資料では、戦死者 7,696 人、
戦傷者 8,647 人、合計 1 万 6,343 人と、先の陸軍省
発表より約 1300 人ほど少ない。なお、第 6 軍調べで
はその外に生死不明(捕虜と思われる)1,021 人と
なっている。いずれにせよノモンハン戦における日
本軍(関東軍)の正確な戦死傷者数は、その戦争後
1. ノモンハン戦争の戦死傷者数について
ノモンハン戦争(日本ではノモンハン事件と呼称
している)において、日本陸軍は 1872 年の建軍以来
最大の惨敗により歴史的な屈辱を喫した。第 23 師
団・第 7 師団を中心としたノモンハン戦での戦死傷
者数について、ノモンハン戦停戦協定締結後の 1939
年 10 月、陸軍省は地方長官会議の席上「部外秘」の
条件で、約 1 万 8 千人であると述べた。
なお、アメリカの著名な軍事史学研究者アルヴィ
ン・D・クックスは著書『ノモンハン』(1985 年)
付表
兵器別
部位別
頭部
顔面
眼部
耳部
頸部
胸部
背部
肩胛部
腹部
腰部
鼠蹊部
臀部
手
上膊部
前膊部
足
大腿部
下腿部
上肢離断
下肢離断
計
銃創
140
91
7
74
345
349
80
90
67
19
101
308
466
489
234
636
381
3,877
「ノモンハン事件患者受傷部位別・兵器別調査表」(第 6 軍軍医部調査)
砲創
砲破片 迫撃弾
347
5
462
39
137
161
423
6
644
111
106
187
1
31
237
6
457
692
8
549
202
959
5
674
4
4
1
6,423
35
爆創
爆弾創 爆創
10
25
48
33
23
5
17
3
17
12
6
7
1
4
19
8
14
10
25
18
2
3
284
26
手榴弾創
白兵創
其ノ他
計
%
14
42
4
1
4
16
64
4
533
688
102
193
250
852
1,065
220
222
287
52
380
860
1,254
1,088
504
1,757
1,162
6
4
4.64
5.99
0.89
1.68
2.18
7.42
9.28
1.92
1.93
2.50
0.45
3.31
7.41
10.92
9.48
4.41
15.31
10.12
0.05
0.03
8
29
36
6
13
10
1
28
48
56
24
20
99
61
499
7
6
3
3
2
8
2
22
13
11
4
12
3
3
4
1
2
20
24
9
35
29
23
45
290
11,479
(出所)ノモンハン事件研究第一委員会「ノモンハン事件研究報告(通報)」付表(防衛省防衛研究部所蔵)
- 49 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
70 年経ている今日でも、依然として不明である。
ところが、2 年前の 2007 年 3 月、防衛省防衛研究
所が公表した『ノモンハン事件関連史料集』に収録
されている「ノモンハン研究報告」の付表「ノモン
ハン事件患者受傷部位別・兵器別調査表」
(第 6 軍軍
医部調査)によれば、
「患者」
(つまり戦傷者)数は、
9,382 人(複数の受傷部位の所持の者 2,097 人を総
計人数より差し引いた数)となっている。この数値
は、これまで発表されてきた戦傷者数よりも、735
人または 332 人多いことになる。
(因みに、この「付
表」には戦死者数、生死不明者数、戦病者数の記載
はない)
2. この「付表」が物語っているもの
この「ノモンハン事件患者受傷部位別・兵器別調
査表」は、実に貴重な資料である。なぜなら、戦場
でのソ連軍の火砲や戦車・飛行機による攻撃が、日
本軍将兵にいかなる損害を部位別に与えたかを示す
具体的なデータだからである。
兵器別の「銃創」は、小銃・軽機関銃などの小火
器による受傷で、また「砲創」は、野砲、榴弾砲、
加農砲、そして戦車砲などの砲類による創である。
「其ノ他」とあるのは火焔放射器などによる熱傷・
火傷などの創である。なお、
「付表」は戦傷者につい
てのみであるが、戦死者についてもほぼ同じ割合と
いわれる(将兵の体験記などによる)
。
この「付表」を一読して誰もが注目するのは、
「砲
創」による圧倒的な戦傷(56.3%)である。それは、
砲弾が驟雨のようにいかに激しく落下していたかを
物語っている。そのことを「部位別」についてみる
と、時には身体を晒しての被弾の場合、顔面、眼部、
胸部、腹部といった前面部にとどまらず、背面部、
側面部をも含めていたるところで全面的に損傷を受
けていたことを意味している。ノモンハン戦による
日本軍の戦死者は「砲弾破片創はきわめて多く、如
何に砲撃の激甚なりしかを物語りあり」と、関東軍
軍医部馬場中佐は報告していた(『大東亜戦争陸軍衛
生史』巻 1.「陸軍衛生概史」)。因みに日露戦争
(1904・1905 年)の最激戦として有名な旅順要塞攻
防戦においてさえ、「砲創」による戦死者の割合は
22.9%にすぎず、「銃創」によるそれは 60.5%と圧
倒的であったことを考えると、ノモンハン戦がいか
に苛烈であったかがわかる(戦史叢書『関東軍<1>』)
その最前線で死に追いやられながら壮絶な戦いを
続けた将兵たちの残酷さを、奇跡的に生還した軍医
や将兵たちは次のように記述していた。
「その軍曹は
大地より 3 メートルほど空中に吹き飛ばされ大文字
に旋回し、パタリと地上に叩きつけられた。10 メー
トルたらずの至近距離の敵戦車砲弾が胸部を貫通し
たのである」(第 23 師団見習医官松本草平『茫漠の
曠野ノモンハン』)
。
「陣地の至るところに破片弾が破
裂し、吹き飛んだ手首や足首・肉片・軍衣のちぎれ
ものが、壕の中に落ちてくる」
(第 23 師団衛生一等
兵辻密男『ノモンハンとインパール』)
。
「全体の軍医
として、停戦後師団の戦死した人たち全部の死亡診
断書を書かされた。ほとんどが砲弾破片創だったが、
中には戦車軋轢死、火焔放射器によう焼死もあった」
- 50 -
October, 2009
(第 1 師団軍医少尉大木繁『ノモンハン参戦日記』)。
「我ニ抵抗ノ武器ナク傷者モ続出シ来リ、唯敵砲火
ヲ避ケル外ノ手段ナシ、
・・・我火砲既に全部破壊セ
ラレタリ、傷者充満スルモ後送ノ道ナシ・・・全員
全滅ヲ期シ」(第 23 師団軍医中尉玉渕嘉平記述『第
2 次ノモンハン事件戦闘業務詳報』)
。圧倒的な劣勢
の下、ソ連軍の優勢な火砲・戦車による「砲創」の
傷者が続出し、
「全員全滅」の悲劇的事態があちこち
に生じた。第 23 師団の主力歩兵第 72 連隊の消耗率
(戦死、戦傷。生死不明。戦病の合計)は 78.5%、
さらに歩兵第 71 連隊のそれは、なんと 93.5%とほ
ぼ全滅した。その数値の具体的な実相が、先述の軍
医や衛生兵たちの体験記録に実にリアルに描写され
ている。
3. 戦傷兵たちの後遺症の苦悩
戦傷兵たちの後遺症の苦悩
付表「ノモンハン事件患者受傷部位別・兵器別調
査表」の中で、さらに注目すべきは、受傷部位「頭
部」の欄で、計 533 例とあることである。他の部位
での被傷もそれぞれ悲惨な後遺症が生じるが、「頭
部」の場合完治は容易でなく、また治療に一応成功
したかに見えてもしばしば再発し、しかも長期に及
び社会復帰は容易ではなかった。脳損傷が中心であ
るからである。そのほか何らかの形で強い影響を与
えたと思われる受傷部位に、
「顔面」688 例、
「頸部」
250 例があり、これら頭部に接続する部位と「頭部」
との合計 1,471 例(全体の 13.8%)は、特に軽視でき
ない数値である。
ノモンハン戦時だけの頭部戦傷とその後遺症につ
いての軍陣医学的研究は未見であるが、ノモンハン
戦を含めての時期の分析によれば、「頭部戦傷後遺
症」患者の自覚症状調査結果の上位は、頭痛・頭重
(94%)
、全身倦怠(72%)
、食思不振(70%)
、不眠
(50%)、口渇(48%)
、以下耳鳴、痙攣、眩暈、心
悸亢進と続き実に深刻である(
『大東亜戦争衛生史』
巻 3・
「頭部戦傷」)
。また、1937~1945 年の間の頭部
形成を必要とする患者についての分析によると、頭
部戦傷後の機能障害として、
「運動ならびに知覚障害
を有するものが極めて多数である」と結論づけてい
る。そしてその運動知覚障害による苦訴について、
頭重、頭痛、眩暈、疲れ易い、物に倦き易い等の症
状をあげている(同上書)
。その苦訴は恐らく生涯継
続されるものと推測される。これら頭部戦傷による
後遺症の症例は、ノモンハン戦での同後遺症の場合
と基本的には同様であったと考えられる。
さらに注意すべきは、直接的な頭部戦傷による生
理的な傷害だけにとどまらず、心因性に起因するさ
まざまなストレス障害の問題である。そのことを軍
陣精神神経科の立場から国府台陸軍病院諏訪敬三郎
院長は、ノモンハン戦の時期を含む 8 年間の精神神
経疾患の入院患者 1 万 0454 人を分析した結果、
「脳
損傷に伴う傷害が比較的多いのは戦時の当然の現
象」と指摘し、
「戦争と本質的に関係の深いのは、脳
損傷、症状精神病、心因性疾患」と結論づけている
(『大東亜戦争衛生史』巻 6・「軍陣精神神経科」)
。
この心因性に起因するさまざまなストレス障害は、
受傷部位に関係なく、本人自身の受傷とさらには戦
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
友の無残な死を目の前にして、ヒステリー(戦時神
経症)、神経衰弱、失語症、不眠症などの後遺症とし
て発症している。なおその国府台陸軍病院とは、戦
傷による精神神経疾患患者を収容する陸軍病院であ
る。
4. 医の倫理からする軍医たちの軍批判
ノモンハン戦に出動した軍医や衛生兵たちはさな
がら地獄と化した惨状に身をおいても、必死なって
その職務に全力を尽しながら、戦死傷者の続出に慄
然とした。
「(重傷者の)処置たるや近代医学とは程
遠く、創面に濃沃度丁幾を筆先で塗りつけ・・・高
度の出血には駆血帯をぐるぐる巻き止血強心剤注射
を施し、砂原に放置する野蛮行為」
(松本草三見習医
官)、「何の設備も、ろくな機械器具、衛生材料、薬
品もなく、何とかしてあげたくてもどうすることも
出来ず、いい加減な治療でみすみす将来ある若い命
をむざむざと捨てさせてしまった。本当に申し訳な
い」
(大木繁軍医大尉、戦後の悔恨)
。
この無残な戦死傷者の山を前に、少数ながらも軍
の責任の重みを問う軍医も出てきた。
「装備、兵力の
違いが、いかに多くの犠牲を強いるか、それを訓練・
精神力でおぎなうことは出来ぬことを、軍上層部は
充分認識できたのだ(と思うが)
・・・大本営、関東
軍共に、事態をおろそかにしたことは確かだった」
(辻密男衛生一等兵)
、
「(この戦争の)発火点は水争
いに端を発している。何か子どもの喧嘩に親の出た
ような違和感がある」、
「この事件は、どうして、何
のために勃発したのか。こんな大きな犠牲を払って
までなぜ戦わなければならないのか。
・・・解しかね
る」(共に松本草平見習医官)。そして敗戦後の日本
で客観的に冷静に考察した結論は、
「今となって考え
てみると、ほんとに、馬鹿な戦争をしたものだった」
(大木繁軍医大尉)
。だからこそ「今後日本は絶対に
戦争をしてはならないことを、改めてここに強調を
- 51 -
するものである」
(「日本医事新報」No.2799、前出の
大木繁)とノモンハン戦を深く反省し、歴史の教訓
として平和のための決意を新たにしている。そこに
人間の尊厳性を何よりも大切にする医の倫理に徹す
る強い使命観を感じる。
5. 消し去られた 1 万人の戦死者
戦後も 22 年経った 1967 年 10 月 12 日、靖国神社
はノモンハン戦死者の慰霊祭を行なったが、その時
発表された戦死者数の 1 万 8,235 人という人数に、
関係者は強い衝撃を受けた。戦時中、戦後を通して
それまでノモンハン戦の戦死者は 8,629 人または
7,696 人とされてきた。それに比して約 1 万人もの
大幅な相違は何を意味するのだろうか。ノモンハン
戦での大惨敗の歴史事実を国民に隠蔽するために、
約 1 万人の戦死者は意図的に国家によって切り捨て
られ消去・抹殺されたと見るべきである。
とすれば、先述した旧陸軍の第 6 軍軍医部調査の
「ノモンハン事件患者受傷部位別・武器別調査表」
の数値の客観性も、疑問なしとはいえない。政府の
公式発表から計画的に消去・抹殺された無残な戦死
者(さらには戦傷者、そして行方不明者)の名誉の
ためにも、この真実を明らかにしてその実数を確定
しなければならない。このことは同時に、ノモンハ
ン戦戦場での地獄と化した惨状に深い思いを馳せ、
平和と反戦への決意を新たにした先述の元軍医や衛
生兵たちの良心にも、応えることになるのではない
かと考える。
注記
本稿は、本年 6 月 18 日中国モンゴル自治区新巴尓
虎旗阿木古郎鎮で開かれた「ノモンハン戦争第 2 回
学術研討会」で発表したものである。ただし、その
際には発表時間の制約から 2 分の 1 程度の発表にと
どまった。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
書評
従軍看護婦の人道主義と日本赤十字社の戦争遂行の役割が見える
『従軍看護婦と日本赤十字社 ―その歴史と従軍証言―』
川口啓子 黒川章子編
文理閣 2008 年 7 月発行 2800 円+税
戦後 60 余年を経て、戦争の世紀から 21 世紀の今
日においても各地で紛争が絶えない。国際関係の中
で日本も憲法9条が改悪され、戦争肯定論が強力に
なるのではないかと不安になる。何故この不安が生
じるかと問うと戦争の真実をしり、しっかりと反省
しなければならない事実がおざなりになっているか
らだと考える。
この書は、戦争を考える1つの側面として、日本
赤十字社という巨大な組織で日常的存在のため、あ
まり意識しなかったその姿に焦点を当て、従軍看護
婦との関係からその重大な素顔を明らかにし、問題
を提起して考えさせる。また、女性として戦争の実
態を最もよく知る立場にあった従軍看護婦の勇気あ
る証言を引き出し、戦後の人生の歩き方も体験から
選ぶその信の強さを教えてくれる内容になっている。
事実の空白を埋め、これからの歩みのため、心に力
を与える書である。
参考文献、資料は、日本赤十字社(以後、日赤と
略す)自身提供している、
『日本赤十字社史稿 明治
10 年から昭和 30 年まで の5分冊』を基本文献と
して、その中から事実が丁寧に引き出され実証的に
述べられている。
本文の構成を紹介すると
まえがき
第Ⅰ部 従軍看護婦派遣の歴史的変遷
はじめに
第一章 西南戦争から日清戦争へ
一、西南戦争と救護活動
二、西南戦争後から
従軍看護婦養成へ 三、日清戦争と従軍看護婦派
遣 四、日清戦争の教訓 五、北清事変と患者輸
送船
第二章 日露戦争と従軍看護婦
一、従軍看護婦養成の準備 二、篤志看護婦人会
三、日露戦争と日赤
第三章 第一次世界大戦と従軍看護婦海外派遣
一、一九〇八年の戦時救護規則改正 二、従軍看
護婦の海外戦地派遣 三、第一次世界大戦と日赤
救護活動の評価
第四章 第二次世界大戦と従軍看護婦
一、第二次世界大戦への準備 二、第二次世界大
戦と従軍看護婦 三、戦後の従軍看護婦
第五章 「元日赤従軍看護婦の会」創設
第Ⅱ部 海外戦地へ行った看護婦達
はじめに
第一章 従軍看護婦の証言
一、従軍看護婦と軍隊―「従軍看護婦の会」いつ
までもー証言者 津村ナミエ
(1)何か職業をもって生きたい (2)渡された青酸
- 52 -
カリ (3)ソ連の看護婦と働く (4)中国の兵隊は
ちょっと違う (5)赤紙で召集されたのに…
二、従軍、三つの戦争 ―日中戦争・中国内戦・
朝鮮戦争―証言者 肥後喜久恵
(1)女でも戦争に行ける (2)私の手を握って死ん
でいく兵隊さん (3)八路軍の以外な待遇 (4)私
だけ思想が直らない (5)女一人生き、ここに平和
を願う
第二章 証言から読み解く従軍看護婦
一、従軍看護婦へのレール 二、軍隊とともにあ
る看護 三、八路軍捕虜生活と革命思想の学習
四、十数年ぶりの帰国
第三章 その後の石家荘―「人民解放軍 白求恩
国際和平医院」
第Ⅲ部 日本赤十字社創設と全国組織網の形成
はじめに
第一章 赤十字思想との出会いから博愛社認可へ
一、赤十字思想との出会いから結社へ 二、
「社則」
議定と第四条をめぐる議論 三、西南戦争と創業
社員の六月二十五日の会合 四、博愛社創設初期
の組織的特徴
第二章 博愛社の組織的特徴
一、創業社員の八月一日の会合と「社則附言」 二、
「社則附言」にみる組織的特徴 三、
「社則附言」
以降 四、
「博愛社規則(八十一ヵ條)」と「博愛
社規則序書」 五、
「博愛社規則(八十一ヵ條)
」
にみる組織的特徴 五、支局の設置及び閉鎖 六、
博愛社の組織的特徴
第三章 全国組織網形成の布石
一、日赤改称年度の主な事象 二、地方組織形成
の推移
第四章 博愛社から赤十字社へ
一、改称の理由 二、
「日本赤十字社社則(十九条)
」
にみる組織機構の諸特徴
第五章 地方組織の整備と国外委員部の設置
一、地方組織の二つの形態 二、地方委員(委員
部)及び地方職員の設置
三、支部の設立 四、国外委員部の設置
第六章 日赤社員制度と「みんな揃って赤十字」
一、グラフに見る社員数の年次推移と戦争 二、
社員の増募と日赤の標語
三、今日の日赤社員
参考文献 あとがき 執筆者紹介 全 345 頁
従軍看護婦(日赤では、戦時救護看護婦を指し、
甲種、乙種、臨時救護看護婦。陸・海軍看護婦もい
たが詳細は不明)は、赤紙で召集され軍属として
軍隊に従属し、戦地へ派遣された。日本赤十字社へ
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
の義務年限があり、召集は強制的であった。イギリ
スはボランティアであったようで、日赤の国策戦争
に対する強い支援の姿勢が伺われる。
書の概要をみると、日赤の前身博愛社(1877 年、
明治 10 年に結成)は、明治の新政府に仕え、近代国
家形成の為に努力していた元老院議員佐野常民、大
給恒らが、西南戦争時敵、味方の区別なく救護する
組織の必要を訴えた。人道主義の普及が重要としな
がらも、之を近代国家日本を確立するために不可欠
な活動として位置付け、明治政府を支持する事業と
して遂行された。意志決定の頂点には不文律ではあ
るが、皇室がおかれており、一方皇室はその活動を
追認しつつ、皇室を支える民間組織として博愛社を
育成することになる(p.266)。このように初期から皇
室や政府の保護・育成を得て出発した組織である。
今後の発展の特徴を示すことになると考える。
博愛社の創設初期の社員は爵位を有する者、高級
官僚で天皇を頂点とする明治政府を支持する上流階
級出身者であった。救護活動を行う医師、看護手は
別に募集された。
世界に平等・対等に御してゆくため、政府による
ジュネーブ条約の加盟・調印が行われ、翌年 1887
年(明治 20 年)に博愛社改め日本赤十字社となり、
万国赤十字中央社にみとめられる(p.268)。
従軍看護人として初期は男子であり、初期から看
護婦が利用されたわけではない。軍規や風紀の点で、
また戦地での体力、能力が疑問視されたが、男子が
兵士、衛生兵として戦地に行きだすと、人手不足が
生じることも考えられ、看護婦の調査を行い、充分
な能力が有る事が証明された。1894 年日清戦争開戦
には、初の従軍看護活動がおこなわれ、野戦衛生長
官・軍医総監石黒は看護婦の効果を高く評価した。
陸軍省は各地の予備病院に看護者を服務させ、各支
部に促成看護婦養成を依頼している。第一次世界大
戦で青島、ロシア、イギリス、フランスなど海外派
遣が行われ、ここでも高く評価された。
派遣が拡大されてゆく中、戦線では、軍隊の規律
と動きが最優先であり、日赤の独自の行動は一切不
可とされ、事業活動区域を決めている。また、日赤
救護員が戦地で負傷または死亡した場合、国家に対
して恩給扶助を受ける権利がないと主張された。が、
これは第二次世界大戦中の戦地に派遣された従軍看
護婦も一緒であった。後に、戦後「元日赤従軍看護
婦の会」の活動で戦後補償を求め、慰労給付金が支
給された。不十分であったが、従軍看護婦の派遣と
その仕事に日赤と政府が責任を認めた1つの行為と
評価している。
篤志看護婦人会は看護婦養成規則に先立つ、1887
年(明治 20 年)日赤改称と同時に設立された。有栖
川宮妃薫子の提唱で、皇族妃、華族らの婦人、数少
ない女性の日赤社員によって構成された組織であり、
それまで卑しいと見られていた看護婦のイメージア
ップをはかり、傷病兵(男子)の看護を看護婦(女
性)が行いやすくするもので、看護婦養成所の生徒
募集と従軍看護婦の社会的認知のための広告塔の役
割をした。これは当時、女性の学ぶ権利や職業的自
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立など今日的な基本的人権の理念で貫かれたもので
はない。巻軸包帯の製造、慰問活動など全国規模で
展開し看護婦のイメージアップはしたが、結局、男
性は兵隊として報国し、女性は日赤看護婦になれば
従軍看護婦として報国できるという道を示し、送り
出す役割を第二次世界大戦敗戦までとり続けた。
篤志看護婦人会(従軍看護婦への組織ではない)
の会員と違って、戦時救護看護婦を志願する子女は、
学資の支給、一定の給金をもらう、卒後は看護婦と
して働き生活を支えなければならない経済状況や立
場にあった。
1922 年「戦時救護規則」の改正は、救護の看護婦
組織を増やし、女性の割合を非常に高くした。これ
によって、女性が従軍看護婦として海外戦地へ向か
うハードルをほとんど無くした。第一次世界大戦当
時、日赤にとって重要なことは、政府の戦争政策遂
行に充分協力ができるかどうかであったらしいが、
シベリア出兵の際の救護活動は女性看護婦の能力を
充分に示して満足させたようである(p.60)
。
また、同時に「日本赤十字社救護員任用規則」や
「日本赤十字社救護員召集規則」が整備され、日赤
を卒業した看護婦は卒後 12 年間は日赤からの召集
に応じなければならない応召義務。また定期的に一
定の方法で召集し、意識、技術を維持し、即戦力を
維持させるためでもあった。これらの規則を課すこ
とにより、いつでもどこでも従軍看護婦を集めるこ
とができ、第二次世界大戦敗戦まで厳しい拘束を課
せることになっている。また、日赤は陸軍、海軍の
救護班派遣要請に「差し出す」という用語を用いて
いる。義務年限中、2,3回と召集された者もいた
ようだ。日中戦争、太平洋戦争と従軍看護婦派遣数
は増量し、病気や死亡、戦病死者が敗戦時に向かっ
て急増している。不明者もいるという(p.73)。昭和
19、20 年は生命の危険は承知の上で派遣に応じてい
たとしても、派遣数が多く、敗戦の混乱時には、軍
隊にも見放され、無防備の状況に投げ出された者が
多い。この数字をみると、日赤は従軍看護婦の安全・
健康を守る義務が有ると考えるが全く責任が感じら
れない。戦後補償は男子兵士に比し、非常に不十分
であった。
従軍看護婦の証言は、戦争の多くの事実を伝えて
くれる。二人の従軍看護婦への過程も男子のように
兵士として報国出来ないという親の肩身の狭さ、自
立をもとめても職業の選択枝が少ない、学資供給や
卒業後の給料がよいなど経済面の有利さ、当時の高
等女学校の良妻賢母教育などの影響で、若い娘の良
心と向学心を揺すぶり、親の反対をうけても従軍看
護婦への道を選ぶことになったようだ。篤志看護婦
人会の宣伝、日赤のスローガンに当時の国民や女性
達が押し流されたかがわかる。農村の貧窮さも大き
かった。昭和 19 年に 23 歳、21 歳で満州や大連の陸
軍病院に派遣されている。ちなみに、日赤の看護婦
養成では、乙種の戦時救護看護婦は 16 歳で召集され
ている者もいる。
証言では、戦傷者の状態、兵士でも夫として息子
としての人間性や敗戦時の混乱状態がリアルに述べ
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
られ、戦争の悲惨さや恐怖がよくわかる。また、戦
争と看護の矛盾に苦しむ様子がうかがわれる。
ソ連軍の捕虜でソ連看護婦と働いたり、中国の内
戦による八路軍に留保されて、看護婦教育や看護技
術、医療技術を教えながら中国内を転々とする中で、
その人間性に触れ友好を深める事ができた能力の高
さと真の人間性を豊かに持ち続けていることに感心
した。また、自決の為の青酸カリを渡されたこと、
敗退時重傷者は殺したそうだという日本軍の行為を
伝えているが、戦場では何が起こっているかをよく
知っている看護婦が真実を話し、伝えることが責務
だと考える。それは、戦場に行った人達の行為に報
い、どの命も大切にという反戦の力を生み出し、今
後の私たちの行動の指針ともなるであろうから。
多くの従軍看護婦は心に重いものを抱えていても
皆のものに出来ないでいる。二者の勇気ある言葉を
引き出し、大切なものとして命を与えた著者等の真
理を見極める目の暖かさを感じた。また、二人の帰
国後の行動や態度は、戦争の経験、新中国を創る人
達との経験がしっかりとその指針となっていること
に気づく。この証言は読む人の行動の変化をもたら
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October, 2009
すであろう。
戦争遂行の国策のもと、兵士に対して女性を従軍
看護婦として報国させるために日赤組織の拡大は重
要であった。また、皇室の権威を維持するために全
国的組織でなくてはならなかった。台湾、満州、関
東州にも徹底していた。社員としてのステイタスを
与える方法が効を奏している。また、
「決戦だ戸毎日
の丸赤十字」等の標語で社員を増やし、活動資金の
獲得や国家総動員法を忠実に実践している(p.330)。
日赤の国策に沿った行動は設立の目的でもあったが、
戦争協力にこんなにもコミットしていたことが明ら
かにされた。
日清戦争での殉職者看護婦 4 名が 1907 年(明治
40)に靖国神社に合祀されたが、当時としては極め
て名誉なことで、後の従軍看護婦志願を支える強力
なイデオロギーとなり、これを背景に日赤人道主義
は日本軍国主義と結びつき、二つの世界大戦で活躍
の場をえた(p.44)、と指摘している。現在、社員は
1228 万人(2007 年)である。戦前の轍を踏まないよう
にしなければならないと著者らの言葉に納得した。
(会員、岡田麗江)
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
ご案内
15 年戦争と日本の医学医療研究会第 27 回定例研究会
一般演題募集中(演題は事務局へ FAX または郵便にて申し込み受付、10
または郵便にて申し込み受付、10 月末〆)
日
会
時 2009 年 11 月 15 日(日)11:00~17:00
場 東京大学医学部教育研究棟 2 階 第 1 および第 2 セミナー室(下図参照)
11:00-13:00
記念講演
記念講演 折衝中
13:00-14:00
昼食休憩
14:00-17:00 一般講演
「東京空襲による精神的被害―植松七九郎・盬入圓祐の資料から―」
「戦争と医学」第 7 次訪中(2009 年 9 月 15 日~24 日)哈爾濱・南京調査結果概要報告
岡田靖雄
第 7 次訪中調査団
その他応募演題
入
口
会場(東京大学医学部教育研究棟2F第
会場(東京大学医学部教育研究棟2F第 1、2 セミナー室)
15 年戦争と日本の医学医療研究会事務局
〒520-2192 大津市瀬田月輪町 滋賀医科大学社会医学講座衛生学部門内
E-mail: [email protected]
FAX: 077-548-2189
URL: http://war-medicine-ethics.com/
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 10(1)
October, 2009
15 年戦争と日本の医学医療研究会会則
第1条
本会は 15 年戦争と日本の医学医療研究会(Research Society for 15 years War and Japanese Medical
Science and Service)という。
第2条
本会は 15 年戦争をめぐる日本の医学医療界の責任の解明を目的とする。
第3条
本会はその目的達成のために次の事業を行う。
1.15 年戦争と日本の医学医療に関する史実・証言の収集調査とその研究
2.会務総会の開催
3.15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌(Journal of Research Society for 15 years War and
Japanese Medical Science and Service)などの発行
4.その他必要な事業
第4条
本会の目的・会則に賛成する個人は会員となることができる。入会を希望する者は氏名、連絡先を
添えて事務局に申し込めば入会の手続きがなされる。団体としての会員は認めない。
2) 学生会員、会誌会員、賛助会員、顧問をおくことができる。入会を希望する学生は氏名、連絡先
を添えて事務局に申し込めば入会の手続きがなされる。会誌会員、賛助会員については、希望する
者・団体は氏名あるいは団体名、連絡先を添えて事務局に申し込めばその手続きがなされる。顧問
は会務総会で決定する。
第5条
会員、学生会員、会誌会員、賛助会員は毎年,その年度の会費を収めなければならない。会費を払
わないときは,その資格は失われる。
第6条
会員、学生会員は総会に出席して研究調査の発表や史実の紹介・証言を行い,15 年戦争と日本の医
学医療研究会会誌(Journal of Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science
and Service)上における発表の資格を持ち,また同誌の配布、諸行事の案内を受けることができる。
会員、学生会員は会務総会において会務を議決する。
2) 会誌会員、賛助会員、顧問には会誌が配布される。
第7条
本会の会務の遂行は、会務総会において会員、学生会員中より選出された若干名の幹事よりなる幹
事会がこれに当たる。幹事の任期は 2 年として再任を妨げない。
2)会には幹事の互選による幹事長、副幹事長をおく。幹事長は会を代表する。副幹事長は幹事長を
補佐し、幹事長にことある時はその代行を務める。
3)会には監査をおく。監査は会の会計その他の会務を監査しその結旺を会務総会に報告する
第8条
年次予算、会則変更等重要事項の決定は会務総会の議決を経なければならない。会務総会は委任状
を含め会員の過半数の出席で成立する。
第9条
本会の諸行事、出版物などは会員外に公開することができる。
第 10 条
本会の会計年度は、毎年 1 月に始まり、同年 12 月に終わる。
付則
第1条
第2条
第3条
本会則は 2000 年 6 月 17 日より発効する。
本会則によって世話人が決定されるまで現在の世話人がその会務を遂行する。
会費などは当分の間
会費 年度ごとに必要に応じてその額を定める(2000 年度は 5000 円)。
雑誌購読料 実費とする。
第 4 条 2002 年度の会計年度は 2002 年 3 月 17 日より同年 12 月 31 日までとする。
附記 2001 年 6 月 16 日改訂
附記 2002 年 3 月 17 日改訂
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 10 巻 1 号
2009 年 10 月
編集後記
本号に掲載した記念講演 3 編は、奇しくも 731 部隊長となる 2 名(石井四郎と北野政次)を送り出し
た京大と東大で長く教官をつとめられた方たちによるものとなりました。過去に汚点を残す大学医学部
からも、戦争と医学の問題に関心をもち研究しようとする人たちが、数は少なくても存在されることに、
意を強くすることができます。
とくに、杉山武敏先生は、731 部隊に在籍した過去を持つ故岡本耕造京大病理学教授の門に入り直接
病理学を学ばれた経歴をお持ちで、近く接した尊敬すべき師がなぜ戦争中には歪んだ研究に手を染めな
ければならなかったかを、一貫して追究してこられています。身近にいたものが、隠すのではなく積極
的に検証していく姿勢が、学問的にも人間的にも必要とされるのだと思います。
話は変わりますが、まったくの私見として、戦争や人権・憲法に大いにかかわる問題である裁判員制
度についてふれておきたいと思います。国民の 8 割が、絶対にあるいはなるべくなら「なりたくない」
という中で強引にはじめられた裁判員制度は、裁判が行われる毎に、どんなにわかりやすく工夫された
か、そんなに心配するほど難しいものではないというマスメディアの報道一色になってきています。内
容がよく知られないまま、全党の賛成で可決され、
「延期」を提唱していた政党も、実施後は音なしの状
態です。わたしは、批判的意見が雲散霧消したような今の状態は、あの大政翼賛会の時代に似ているの
ではないかと思っています。
「少し嫌だけどお国の役に立つのなら協力しなくては!」という考えに多く
の人を追いやってしまうことは、まさに国家の狙う「愛国心」と統治者意識(主権者意識ではない)へ
の誘導ではないでしょうか?
私はもう一度、裁判員制度の問題点は何なのかを基本点に立ち返って考えてみる必要があると思いま
す。裁判員制度は、国民に一方的に新たな義務を背負わせ、「人を裁きたくない」という思想信条の自由
を侵害するものです。また、裁かれるものからすれば、裁判官でない一般人に裁かれる憲法上の理由は
どこにもありません。この二つの理由からだけでも憲法違反は明白ではないでしょうか。善意の人たち
が期待していた、これまでの裁判が抱えているさまざまの問題を解決することとはまったく無関係なも
のです。司法にかかわる問題点の改善は、国民に手を染めさせることによってではなく、国民が監視で
きる環境を整備する方法によって行われなければならないと思います。編集委員という立場を利用して
わたしが最近考えていることを記させていただきました。
(若田 泰)
投 稿 規 定
(2003 年 3 月15日編集委員会)
会員の皆さんからの、論文・総説・随想・書評・資料解題などの積極的なご寄稿をお待ちしており
ます。その際には既刊号を参考にし、原稿には題目、キーワード、著者の氏名・肩書き・所属・連絡
先住所(以上は邦文、欧文)、電話・FAX・E-mail アドレスを記したものを先頭頁とし本文、参考文献
を記して下さい。2 万字以内を目安にレジュメ形式ではなく文章にして下さい。提出書式は、電子式
の場合はA4用紙に12pt で印刷したもの及びフロッピーディスク(フォーマット形式、使用ワープロソ
フトの種類・バージョンを記載の上)です。
手書きの場合は市販の400字詰原稿用紙に記入して下さい。なお図表はコピーしますので良質のも
のをお願いします。当分は手作りですので電子文書での寄稿にご協力の程を願います。
1 5年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
委員長 若田 泰
委員 西山 勝夫、 水野 洋、 末永 恵子
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