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人間文化 第24号 2008年

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学
人
間
文
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学
音日
研
究 報
止七
1
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1
人¥玄化
2008.12
BULLETIN
VOL
24
SCHOOL OF HUMAN CULTURES THE UNI
VE円 SITY OF SHIGA PREFECTURE
三
ノ
-もくじ・
巻 頭 言/八木英二
・特集
特集「文化資源として利用されるチンギス-八一 ン モンゴル
、
/島村一平
•• 3
日本、中国、ロシアの比較かう J
モンゴルシンポジウムポスタ ー
・
・
・
一
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
..
.
.
.
.
.
.
.
.目. ・
・
・
・
・ 6
文化資源として利用されるチンギス-八一ン
ーモンゴル、日本、中園、 ロシアの比較から
/島村一平
••• •• • 7
良き父の名を売るということ-正当性とブライドと商品
(現代モ ンゴルにおける チ ンギス・八一ンの祝典)
/ L.ムンフ工ルデネ .
.
.
.
.
.
3
5
ブリヤー 卜・ナショナリズムの形成におけるチンギス・八 ン像
(
ロシア語原文) / 下 O.
スクリン二 コヴァ
.
.
.
.
.47
ブリヤ一卜 ・ナショナりス、ムの形成におけるチンギス ・八一ン像
.O.
スクリン二コ ヴァ
.
.
.
.
5
3
(和訳) / T
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス ・八 ン
一中国の政治・社会環境下のモンゴル史の解釈と利用一
.
60
(
モンゴル語原文) /ナサンパヤル
ー
内モン ゴルにおける学校教室内のチンギス・八一 ン
ー中国の政治・社会環境下のモ ンゴル史の解釈と利用一
(和訳) /ナサンパヤル ー
79
現代日本文学 におけるチンギス・八一ンの利用
研究翻訳が文学作品へ転換されるとき一
/小長谷有紀
ーー ー
.
.
.
8
7
-論文
公民としての基本的権利を農民 に
一現代中国における農民差別一/楊
・史料紹介
明治前期地籍図に関する布達類
常宝
・…ー・・・…一 .
.
.
9
9
滋賀県庁文書の史料紹介一
/古関大樹...... 114
- 滋 賀 県 の 考 古 学 第 13回
近江にお ける古代官道に関する調査・研究の現状と課題
/内田保之ー・・・・ 123
編集後記
.蓮の咲くころ・
滋賀県立大学キャンパスの広さは甲子園球場の約 4倍である 。キ
ャ
ンパス内の植栽は多種多彩で目を楽しませてくれる 。また一隅に小
琵琶湖をイメージして南方の荒神山と北方に大学を借景として作庭
されている 。
毎年の夏に蓮の花が見事に l
咲
く 。運は古代より文学 ・芸術とさま
ざまに表現されてきた。さらにまた食文化としても古い歴史をもっ
誠に有期い、植物であり、特に日本では蓮棟は穴のあいていることか
ら見通しのきく食べ物として慶事によく用いられる 。
サイズ F6
紙
WATSON 鉛筆 ・墨・顔彩
絵・文/安土 {
変
口
一
一
巻
頭
-授業改善の方途とはじ
}
¥木 英
人間文化学部 学部長
「チップス先生さようなら」という小説がある 。 ラテン語教師チップス先生が全寮制高校を舞台に繰
り広げる教師物語である 。実在しない小説場面とはいえ、そのパブリックスクールがイギリスの教育制
度では超エリートに属する学校であり、質素でみすぼらしい主人公の件まいに違和感を覚えたことがあ
る。パブリックスクールのなかでも実在するイ一トン校は有名である 。北京オリンピ ックの賑やかな今
夏 しばらくロンドンに滞在したが、そのイ一トン校にふれる次のようなタイムズ紙の記事が目に入った 。
「イ一トン校…等はテス ト結果の公表を拒否し、リーグテーブル(学校ランキング表のこと一引用者)
をボイコットする 。学校間ランキングは弱者の生徒を受け入れる学校にたいしペナルティを課し、より
平易な内容の教授に拍車をかける、と校長は抗議している 。 リーグテーブルを離脱する理由は子どもを
ブロイラ 一生産に追いやる危機から逃れるため、とマーチンステファン氏は述べた 。J(
2
0
0
8年 8月 2
1
日付、 Th
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s)
イギリスの悪名高い全国一斉学力テストによるリーグテーブル方式はすべての学校を対象にしてき
た。今夏は、大学入試にかかわる A レベルテストや、義務教育卒業資格テスト (GCSE)が例年になく
高成績となり、その熱気が北京オリンピ ックを しのぐほどテレビ番組の多くを占めたのである。 しかし
他方では、先のタイムズ紙もそのひとつだが、「格差の拡大 J
I金持ちだけの勝ち組 J
I金太郎飴の学力競争」
とい った点に批判は集中するようになっている 。生後間も無く誘拐された子がめでたく Aレベルテスト
に合格し、「誘拐されなか ったら合格していない一 同情を集めた 2千万円寄付金のおかげ」という、「金
がないと成功しない」趣旨の親子写真っき 1面トップ・インタヴュ ー記事も目をひいた (
2
0
0
8年 8月1
5
日付、 T
heD
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h)
。
世間のこうした興奮とは裏腹にイギリスのランキング方式が実はかなり末期症状を呈していることも
今では広く知られる ようにはな っている 。すでに隣のウエールズでは子どもや学校にたいする弊害があ
まりに大きいことからリーグテーブルの放棄が伝えられたが、イングランドではいったいどこ まで続く
のだろうか。他方でこちらの日本を省みれば、 1
0数年遅れのドタパタ悲劇がいま始まったところである 。
歩調を合わせる今日の日本の大学に眼を転じてみよう 。未曾有の大衆化を背景に施策の後押しもあり、
教育実践力が強く問われる段階に立ち至っているようだ。面白いことに、ここでも先と名前が同じ「チッ
プス先生」が活躍し始めている 。 とはいえ、こちらは先の主人公とは違 って「チップス」の英語
(
1
秘訣」
の意)をもじったものである 。ある大学のホームページ上の「授業改善のチップス先生」が他大学でも
評判を呼んでいる 。
有意義な経験知がやがて蓄積されるかもしれないので、大学が研究の府だからといっ
て、チップス先生による改善を郷撤するものではないが、気になる面も多々ある O
まず「こちらの思うとおりにはならない」相手 (学生という人間)がいる ということを忘れてはなら
ないだろう 。その意味でチ ップスの方法知は万能ではありえない。授業方法を改善することは大切であ
るが、チップスを万全に整え、すべての授業方法を万能感に満ちたものにすれば学生が育つことになる
のかどうかは別の問題である 。受 ける側のポテンシャルを 考えても、似通った授業方法で進めら れる 4
コマ授業を毎日満遍なく 受容させ、倍の自習時 間を連日求めることには無理があるのではないか。スー
パー教師のいる予備校に似せた受験スタイルの学習があってもよいが、大学教育をすべて予備校のよう
に変えることは妥当でない。「
昔の大学 とは違 って学生をきちんと教育すべき」との声が聞こえそうだが、
小中高においても機械的教育からの脱皮は必要である。オ リジナリテイやクリテイカル・シンキングを
人間文化・
求める大学本来のあり方からみて、授業内容への学生の反発もあってよい。消極的抵抗としての「授業
中のいねむり」さえ許容されてよいかもしれない。
教育の成否は何をもって判断できるのかも難問である 。何らかの成果も、受講者側の主体的条件や関
係者・諸機関・社会的諸条件の「すべて Jにかかわっているのであり、その意味で、授業改善のためのチッ
プスの役割は万能でありえない。目標につながる良好な結果は誰でも期待するが、常に「スーパー教師
と良い目標や方法があれば良い成果が生まれる」ものではない。そもそも「スーパー教師が頑張れば学
生が育つ」という実践の因果(特効薬)はありえない。 ヒトを対象にする教育は「他の自然を対象にす
るモノづくり」と実践の意味が異なるからである 。「こうすればロケットは打ちあがる」とは言えても、
「こうすれば非行は必ずなくなる」と誰が保障できるのか?世界は非行に満ちているので、もしそうい
うチップスがあるなら、ひそかに売り歩いて安泰に暮らしたいものである 。
本来このように仕事の成果が明示されにくい教育の特性について、ローティは「固有の病である不確
実性 (
endemicu
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)Jと名づけたことがあるが、こうしたあたりまえの事実に着目しないか
ぎり、教員の側は真理・真実を体現しているはずだという「尊大病 Jや「思い込み j から免れることは
難しいだろう 。チップス先生なら必ずすぐれた教育ができるということは原理的にありえないのである 。
「働きかけの結果はどうなるかわからない」との不可知論を主張したいわけではない。教師の仕事が無
責任であって よいことでもない。教師の仕事は、教育する側の意図を含みつつ、しかし「思いどおりには j
単純にいかない社会的事実として存在し、成果もまた社会的形成物として客観的に存在している 。 しか
し、その実践過程はきわめて錯綜した複雑なプロセスであり、成長しつつある学生にかかわるという意
味で、先の不確実性をおさえておかなければならない。
教師の働きかけが無意味であるということではない。特効薬を欲しがって、「講義能力に優れた」教
員(アメ リカ型ベストティーチャー )や「授業改善チ ーム」を求めたりもするが、作業の性質がいくら
個人的力量に依存するようにみえても、本質的には社会的・相互的なものである 。当該学部・学科にお
いて対象学生の学習 (
到達)状況を確かめあい、反省的に共同で話し合う、などの作業のなかでチップ
スの模索を含む試行実践のあり方が意味をもつのであろう 。「つまずき」や「失敗j なども大いに尊重
されるべきである 。その多面的で相互的な作業が次のカリキュラム計画や授業改善に生かされることに
なろう 。個人の実践責任 は伴うが、個人的力 量を高める 上でも、当 該学部 ・学科・担当組織などの構成
単位が果たす役割は大きい。
学生評価の G
PA方式も同様の問題をかかえている 。GPAとは、優・良・可などの従来の成績をグレー
ドポイント
(
G
P
) に変換して、総和を単位数で除した平均値をさすものである。その計算手続きによっ
て「単位あたりの成績」が客観的になるというが、しかし、述べたような目標から評価に至る複雑な本
来のプロセスへの反省作業がそこで失われることを強く恐れるものである。なぜ、これほどまでに「教
育すれば育つ」関係の機械的因果が信じられるのか。成績評価制度の再検討は絶えず必要であろうし、
教育指導のあり方に関心がもたれる風潮は必ずしも否定的とはいえないが、政策によってもたらされる
社会困難を「指導で始末する」動きや、モノのように人間を操る人間観の横行を背景にみることもでき
ょう 。「チップス先生」が活躍すればするほど学生に害を及ぼす可能性もあることは看過できないので
ある 。
以上
2 ・人間文化
特集解説
特集「文化資源として利用されるチン
ギス・ハーン:モンゴル、日本、中国、
UsingC
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平
ロシアの比較から」
島村
人間文化学部地域文化学科
本特集は、現代、モンゴル、日本、ロシア、中国
の国々において、チンギス・ハーンが、「文化資源」
行事参加ツアー(7.
2
2-7.
2
7
)同行することで、日
本人によるチンギスの資源利用のー側面を調査した。
としていかに利用されているかを比較検討すること
また、チンギス・ハーンに関する最新の言説を調査
を目的としている。
現代、ロシア、モンゴル、中国の三つの国に跨っ
するため、 8月 3日にモンゴルに再入国した。 8月
1
7日、モンゴルから中国に入国し、内モンゴルで調
て居住するモンゴルの人々にとって、チンギス・ハー
査を行った。 まずは、オルドス市のチンギス・ハー
ンはナショナリズムのアイコンとして存在している
ン陵とその隣に完成したチンギス・テ ーマパークの
ことはよくしられている。例えば、モンゴル国にお
現状、また、ヒャンガン(興安)盟の盟都ウラーン
0
0
6年が、チンギス・ハーン即位 8
0
0周年
いては、 2
ホト市にある成吉思汗廟とやはりその隣にあるテー
であったこともあり、多くの記念事業が昨年から今
マパーク「秘史蔵洞」の現状に関する調査を行った
年に続いて企画され、商品やホテルの名称にチンギ
(8.
17-8.
2
7)
。中国からモンゴルへ「帰国」の後、
9月1
2日に列車でロシア・ブリヤート共和国の首都
ウラン・ウデへ向かい、 9月2
0日まで、ブリヤート
におけるチンギス・ハーン復興の現状に関して調査
を行い、陸路キャフタ経由でモンゴルに再入園、モ
ンゴルより日本に 9月2
4日に帰国した 。その後、日
本において資料収集を続行するとともに、 2
0
0
7年度
は本テーマについて、国際シンポジウムの企画・準
備に入った。
本特集は、こうしたフィ ールド・ワークと資料収
集に基づき執筆された拙稿に加えて、本研究のまと
めとして滋賀県立大学にて今年 1月2
5日に催された
国際シンポジウム 『
文化資源として利用されるチン
ギス・ハーン モンゴル、日本、ロシア、中国の比
較から 』 において発表していただいた四人の先生方
の発表原稿や論文で構成されている。
基調講演の小長谷有紀先生(国立民族学博物館研
究戦略センター長・教授)には「現代日本文学にお
けるチンギス・ハーンの利用」という題で日本にお
けるチンギス・ハーン利用についてお話をいただい
た。 ロシアからはタチアナ・スクリンニコヴァ先生
(ロシア科学アカデミ ーシベリア支部モンゴル学・
仏教学・チベット学研究所教授)に「ブリヤートの
ナショナリズム形成におけるチンギス・ハーン像」、
モンゴル固からは L ムンフエルデネ先生(モンゴル
国立大学社会科学部社会・文化人類学科長・教授)
には「良き父の名を売るということ:正当性とプラ
イドと商品(現代モンゴルにおけるチンギス・ハー
ンの祝典)
J、中国からはナサンパヤル先生(内モン
ス・ハーンの名前が冠されるなど、チンギス熱は非
常な高まりを見せている。
また、即位 8
0
0周年を巡る熱狂は、モンゴル園内
に限られず、ロシア連邦ブリヤート共和国、中国内
蒙古自治区などに分散して居住するマイノリティと
してのモンゴル人たちは、国家との微妙な緊張関係
をはらみながら、チンギスの祝祭を企図してきた。
また、不思議なことにこのチンギス・ブームは、モ
ンゴル人以外の人々へ民族と領土を超えて伝播して
いる。例えば、わが国においても来年は「日本にお
けるモンゴル年」とされ、堺屋太一氏がプロデュー
サーとして、モンゴル、日本の双方においてイベン
トが企画された。また,日本人を主人公としたチン
ギス・ハーンの映画も制作された。
さらに中国においては、チンギス・ハーンはヨー
ロッパを倒した唯一の「中国人」として崇拝されて
いるほか、テーマパークが作られるなど、観光資源
として利用されている。本特集では、こうした現地
の状況に詳しい研究者と協力の上で、それぞれの国
における文化資源としてのチンギス・ハーン利用の
態様と論理を考察していく。
本特集は、平成 1
8年度科学研究費補助金・若手研
究BI
越境するチンギス ・ハーン即位 8
0
0
周年記念
事業とナショナ リズムの諸相の研究 (研究代表者
島村一平 )
J の成果である。私は、 2
0
0
6年にモンゴ
ル、中国、内モンゴルにおいて、延べ 5
8日のフィー
ルド調査を 実施した。モンゴルに関しては、堺屋太
0
0周年記念
一氏が主催するチンギス・ハーン即位 8
人間文化・
3
ゴル大学モンゴル学院副院長・教授)には「内モン
るモンゴル系の民族であるブリヤートの人々がナ
ゴルにおける学校教室の中のチンギス・ハーン 」 と
ショナリズム形成のためにいかにチンギスを利用し
いう題でそれぞれ発表していただいた。いずれの論
ているかという問題を扱ったものである 。彼女は、
文も本特集に収録されている 。
ブリヤートの知識人たちが、チンギス・ハーンをブ
なおシンポジウムにおいて、発表していただいた
リヤートの (
注
「モンゴルの」ではない)ナショナ
先生方は勿論のこと、挨拶をされた曽我直弘学長、
リズムの資源として利用している様を批判的に報告
コメンテーターを務めていただいた静岡大学の楊海
している 。すなわち彼らの言説は、チンギスはブリ
英先生、本学の棚瀬慈郎先生、ボルジギン・ブレン
ヤー卜の地で生まれ、彼自身もブリヤート人であ っ
サイン先生の御三方、遠方よりお越しいただいた問
たというように、何かといえばチンギスを 「ブリヤー
I
貢一先生、宮脇淳子先生をはじめ
中克彦先生、吉田 }
ト」 と結び付けることに奔走しているのだという 。
とした諸先生方に厚くお礼を申し上げたい。内モン
そうした状況に対してスクリンニコヴァは、論文の
ゴルの調査にあたっては、ブレンサイン先生とナサ
最後で「もう十分だ」という言葉を何度も繰り 返し
ンパヤル先生にご協力をいただいた。また、このシ
ている 。 しかし、スクリンニコヴァのこの論文もま
ンポジウムは、事務を担当した西村ちか子さんの助
た、ロシアにおいてもう十分なほど繰り返されてき
力がなければ実現しなかったといっても過言ではな
た、チンギス脱資源、化言説の一つである ことには変
い。おI
西落なデザインのポスターは、本学学部生の
わりない。
福永恭啓君によるものである 。記して謝意を表した
い。(以下、敬称略)
ロシアは、チンギスとその子孫たちに国土を採蹴
され、支配された記憶を持つ。拙稿にて論じたよう
に、ロシア人にとってモンゴルやチンギス・ハーンは、
本特集所収の論文について
自らの履歴から抹消したい、言い換えるならば脱資
さて本特集では、島村によるモンゴル、日本、ロ
源化を図らなければならぬ存在であ った。 ソ連の時
シア、中国の国々における文化資源としてのチンギ
代からロシア連邦となった現代にいたるまで、 基本
ス利用に関する概論に続いて、四人の研究者の論考
が収められている 。四人の執筆者 はいす、
れも、モン
的にこの傾向は変わ っていない。あるいは、ロシア
にとって野蛮で、邪悪なタタール (
モンゴル)文化とは、
ゴル、日本、ロシア、中国における文化人類学的モ
できることならば捨て去りたい廃棄物である 一方
、
ンゴル研究の第一人者と言われる研究者たちである 。
同時に自身の後進性を責任転嫁するための資源でも
英語で執筆されたムンフエルデネ論文と日本語で執
筆さ れた小長谷論文以外のスクリンニコヴァ論文と
あった。
実 はスクリンニコヴ、
7自身も、かつて 『
カリスマと権
ナサンパヤル論文は、それぞれロシア語、モンゴル
S
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1
9
9
7
]
力一 チンギス・ハーンの時代 J[
語に よる原文と翻訳が添え られている。
という著書で自らのチンギス論を展開している 。そ
まず、モンゴルに関しては、ムンフエルデネが民
主化以降のモンゴル国においてチンギス・ハーンの
家や領土の統治組織や政府、徴税システムや法律を
C生
資源利用を批判的に論じている 。モンゴルには f
持たないがゆえに封建国家と成り得ていないと 主張
き残るために)良き父の名を 3回売る」という慣用
句がある 。ムンフエルデネは、この慣用句のごとく
する 。 また、ハーンを政治指導者という よりも、む
現代のモンゴル人は 「良き父」 としてのチンギスを
「カリスマ jであるとする 。つまりスク リンニコ ヴア
の中で彼女は、チンギス時代のモンゴル社会が、国
しろ政治と宗教が未分化の祭司的な指導者、つまり
自らの国の正当性、プライド、そ して商品と いう 三
は、モンゴル帝国の国家性のみならず、政治的指導
つのステージで、売ってしま ったとする 。果たして
者としてチンギス・ハーンの脱構築を企図していた。
良き父の名という資源を売りつくしてしま ったら、
そういった意味において彼女は、典型的なロシア人
これからモンゴルの人々はどうするのだろうか。お
のモンゴル観をパ ックグラウンドとして背負ってい
るといえよう 。
そらく、モンゴルが観光立国を考えるのであるなら
ば、なおさら「良き父J以外の文化の資源化を目指
す方向が必要となってくるであろう 。
次のスクリンニコヴァ論文は、ロシア連邦に属す
4 ・人間文化
三番目の論文の書き手である内モンゴルのナサン
パヤルは、以前に内モンゴルでチンギス・ハーンが
仏教の神として信仰されるようになった事例を報告
している [
c
f
.NasanBayar2007]。
今回の彼の論文は、
おいても、なされてこなかったと思われる 。
内モンゴルの学校でチンギス・ハーンに関わる歴史
しかしながら当然にして、この短い特集ですべて
教育の変 i
撃をたと守ったものである 。彼によると、内
が論じられたわけではない。チンギス ・ハーンとい
モンゴルのモンゴル族学校では、改革開放以前と比
う人物の性質上、その資源、利用は政治資源化するこ
べて、チンギス ・ハーンの伝記が教えられるように
とが多いといえる 。チンギスとその子孫が創 った帝
なったのだという 。 ただし、彼は 「チンギスがモン
国の版図は広大であり、それがゆえに本特集で、
扱っ
ゴル帝国の建国者、モンゴル民族の始祖としてだけ
た地域や人々の場所や人々の問でチンギスは、政治
ではなく、中華民族の偉大な功労者ともな っている
性の強い文化資源として利用されている 。例えば、
こと」、「大学入試の試験問題にモンゴル史が除外さ
ロシアにいるモンゴル系民族のカルムイク人や中国
れていること」といった問題点を指摘することも忘
新彊ウイグル自治区のトルゴート・モンゴル人、あ
れていない。 ここから、中国では、内モンゴル人の
るいはカザフスタンやロシアのサハ人とい った人々
みによるチンギスの資源化が、巧みに回避されてい
が挙げられる 。
ることが窺われよう 。
また、国家レベルの政治利用とは、切り離された
しかし、彼の指摘するとおり、「内モンゴル人た
部分での市場や日常生活における実践とい ったレベ
ちにと って、教室の外、公衆の場、さらに国外に滞
ルでの資源利用に関しでも、今後の重要な課題であ
在している場合、今までと異なる 言語環境の下で、
ろう 。
異なったモンゴル史の知識を得る機会も多い 」のも
いずれにせよ、文化資源としての 「チンギス・ハー
事実だ。ナサンパヤルの言う「中国、中華民族と 言 っ
ン」は、膨大な埋蔵量を持っており、今なおリサイ
た意味空間は、いつまでも変化し ない回定的な構造
クルされ続けている 。その研究はまさに始ま ったば
をもつものではない」という観測は、果たして今後、
かりだといえよう 。
どのような現実となって、たちあらわれるのであろ
うか。
さて、本特集の最後を飾る小長谷論文は、日本文
参考文献
NasanB
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y
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l
学を手掛かりに今までとは異なった新しい角度から、
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nggi
sKhanandbei
ngl
i
keaBuddha:
2007“OnCh
日本人のチンギス利用の深層部を照射している 。チ
A perspective on cu
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ralconfl
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ンギスは、なぜ日本人の心 の琴線にふれてきたか。
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orary lnnerMongolia",i
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cont
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本論の中では、日本人においてチンギスを「出生の
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lagandHildegardG.M.Diel
秘密を持った男」として理解(誤解?)されたとき、
TheMongolia-TibelJ
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c
e:OpeningNew
日本文学とチンギスとの繋がりが鮮やかに立ち現れ
てくる 。 しかし、最後に小長谷は言 う。「出生の秘
密を克服して出 世し た偉大な英雄チンギス・ハー
ン」という幻想によって 日本とモンゴルがつながる
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'vEpokhu Chingiskhana,
Moskva:Bostochnayal
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ra
時代はもはや終罵を迎えているように思われる 」と。
であるならば、今後、日本とモンゴルは、いかなる
幻想によって、つながる /つながらなくなるのであ
ろうか。
最後に本特集の意義と今後の展望を述べて、本特
集の解説を締めくくることにしたい。
チンギスに対して「文化資源」という概念で捉え
るのはもちろんのこと、チンギス ・ハーンの現代的
意味を問う研究は、まだまだ珍しいものである 。お
そらく、モンゴル、日本、ロシア、中国という四カ
国を対象にして、チンギスの現代的利用を比較検討
するという試みは、日本においてもその他の国々に
人間文化・
5
特集
文化資源として利用されるチンギス・ハ}ン
ーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較から-
島村一平
人間文化学部地域文化学科
折りしも 2
0
0
6年は、チンギス・ハーンがモンゴル
目次
高原で即位してから(即ちモンゴル帝国が建国され
はじめに
てから )8
0
0周 年 で あ っ た。 チ ン ギ ス の お 膝 元 、 モ
1.忘却から資源化へ:モンゴルにおけるチン
ンゴル国では熱狂的な祝福ム ード に沸き立 ってい
ギス ・ハーン利用の創出
2 脱資源化への欲望:ロシアにおけるチンギ
ス・ハーンの利用と非利用
r
3
. 中華民族」の英雄としてのチンギス・ハー
ンと内モンゴル人
4 堺屋太一 のチンギス ・ハーン:日本におけ
るチンギス・ハーン利用にかえて
結びに
た。年間を通してチンギス・ハーン即位 (=モンゴ
0
0周 年 を 冠 し た 7
0以 上 の 記 念事 業 が 、 国
ル建国 )8
家を含めたさまざまな組織によって企画された 。そ
の中には、何の史的根拠もないチンギス ・ハーンの
誕生日が新たに記念日として設定される(しかも、
3日は人民革命の記念日と同日)など、明
その 7月1
白な伝統の控造ともいえるものも少なくなか った。
また、首都ウランパートルの政府宮殿の前面には、
国家プロジェクトとして左右にフピライ・ハーン、
オゴデイ ・ハーンを従えた 巨大なチンギス ・ハーン
はじめに
いま、八百年の時を越えて 一人の 巨人の亡霊 lが
0
k
mほどに位置す
像が建設された。 同じく 首都の西 5
るエルデネ郡にも、高さ 4
0mにおよぶ巨大なチンギ
復活し、世界中を俳佃 している 。その人物の名はチ
スの騎馬像が、ジェンコ社によって建設されている 。
ンギス・ハーン 2。 世界史上、最大の版図を誇 った
さらにウランパートルの国際空港の名前も 「ボヤン
モンゴル帝国の礎を築いたこの帝王 の名を知らぬ者
卜・オハー空港」から 「チンギス・ハーン空港」へ
はいないだろう 。彼に関する資料はその偉業 の割に
とその名が改められた。 2
0
0
6年を前後して、チンギ
極端に少なく、生前に描かれた肖像画もなければ、
ス・ハーンに関する 書籍の出版ラッシュも相次いだ。
「陵墓」 も発見されていない。 謎に満ちたこの世界
経営者としてのチンギス・ハーンの経営戦略を論じ
史上最大の王について、ある者は彼の巧みな統治術
たもの、外交官 としてのチンギス・ハーンの優秀さ
や戦略的才能を讃え、ある者は残忍な殺裁者 として
を讃えた 著作など、枚挙にいとまがない。 また、フ
の一面を強調してきた 。 チンギス・ハーンは、まぎ
ブスグル県の│町ムルンからさほど遠くない場所に
れもなくモンゴルが生み出した英雄であるが、彼と
モンゴル帝国 4代目 皇帝モンケ・ハーンの 「
夏の宮
その子孫たちが世界征服者であ ったことから、その
殿助 」が発見され、現在、モンゴルの考古学者ナワー
名は、良きにせよ悪しきにせよ、世界へ遍く知れわ
によって発掘が進められている 。
たることとなった 。 そのチンギスの名が現在、世界
各地で同時多発的に増殖を開始している 。
しかし、現代におけるチンギスの出現は、その生
まれ故郷であるモンゴルに限られたものではない 。
膨 大 な 数 の 学術 的 な 研 究 が 世 界 各 国 で な さ れ て い
1 ここにおける 「
亡霊」 とは、後述のとおり、チ ンギ
スを巡る 表象や言説を向転えたものであり 、チ ンギス
本人を l
聡えたものではないし、チ ンギスを誹務中傷
しているわけではないことを断 っておきたい。
2 チンギス・ハーンは、「ハ ーン」 と名乗 っておらず、
当時の発音を考えると「チンギス・カン 」 と表記す
るのが正しいのであるが [
c
f
.白石 2
0
0
6
a
J、本稿では、
歴史そのものを扱っているのではなく、現代的な現
象を扱っているので、現代モンゴル語をカタカナに
転写し「チンギス・ハ ーン」 と表記することにする 。
引用した書籍のタイ トル を除けば、この表記に統ー
した。
ることに加えて、小説、戯曲、映画、 音楽とい った
様々な分野においてチンギスは世界中で語られ、そ
して表象されている 。
おそらくモンゴル図以外で、最もチンギスの復活
に熱心な国のーっとして、まずは中国が挙げられよ
う。近年、チンギス・ハーンに関する多くの評伝や
小 説が出版されてきた。 また、
2
0
0
4年、中国におい
ても連続テレビドラマ 『
成吉思汗j が放映されてい
る。 また、内モンゴル自治区オルドス市には、チン
ギス・ハーンのテーマパークが建設された。
中国がチンギス・ハーンを褒め称えるのは、彼
人間文化・
7
文化資源として利用されるチンギス・八一ンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較から一
が中国の王朝「元」の太祖であり、ヨ ーロ ッパを打
を引くハリウッド俳優スティ ーブン・セガールは自
ち破った唯一の中国の英雄だと認識されているから
らを主人公とするチンギス ・ハーン映画を企画して
である 。 もちろん、こうした中国がチンギスを自家
いる 。 ちなみにハリウッドも以前より、チンギス・
薬箆の中の物とすることに対して、モンゴル人が不
ハーンに関する映画を製作してきたことで知られて
快に思っていることは言うまでもない。詳しくは後
19
5
6年)という映画において、
いる 。古くは 『
征服者J(
に譲るが、中国には内モンゴル自治区を中心にモン
意外なことに西部劇で有名なジョン ・ウェインがチ
ゴル人が居住しており、 一体チンギスは誰のものか
9
6
2年に公開された 『ジ
ンギスを演じている 。 また、 1
という問いを巡ってエスニックな政治が渦巻いてい
ンギスカン j では、アラブ出身の俳優オマー・シャ
リフがチ ンギスを演じた。この映画 は、妃のボルテ
る。
韓国においても サム・ ジャンに よるチンギス・ハー
がブロンドヘアーである上に、ストーリーもチンギ
ンを主人公にした小説 『
チンギス・ハーン j がベス
スが、満州人の皇帝“ジャムカ"を倒すという代物
トセラーになっており、日本語にも訳されている[サ
であった。
0
0
2
a
.2
0
0
2
b
J。 ドイツは、モンゴル研
ム・ジャン 2
昨今、最も世界を驚樗させたアメリカ発の情報と
究をリードしてきた拠点の 一つであるが、 1
9
8
3年
、
0
0
3年、遺伝学の専門誌 AmericanJ
o
u
r
n
a
l
して、 2
ポール・ラチネフスキーに書かれたチンギスの評伝
o
fHumanG
e
n
e
t
i
c
sに発表された 「モンゴル人の遺
[
R
a
t
ch
n
e
v
s
k
i
1
9
8
3Jが 1
9
9
1年英語に翻訳され、 2
0
0
6
伝学的遺産」 という論文が挙げられよう 。遺伝学者
年には、 L ムンフエルデネによってモンゴル語訳
がユーラシア各地から集めた 2
0
0
0人の DNAを調査
が出版されている 。イギリスでは、旅行作家のジョ
した結果、標本となった男性数十人に共通の遺伝子
ン ・マンによって、チンギスに対する皮肉と尊敬が
パタ ー ンが発見さ れた。 このことは、対象となった
織り混ざった評伝『チンギス・ハンーその生涯、死、
地域の会人口から 推定すると 1
6
0
0万人が、およ そ千
そして復活j が発表され、話題となり、日本語訳も
年(誤差:t3
0
0年)共通の先祖がいることを示し、そ
出版されている[マン 2
0
0
6(
2
0
0
4
)J
。 また、 BBC(
英
れは後宮に膨大な数の妃を抱えていた人物、チン
国国営放送)は、チンギス・ハーンに関するドキュ
ギス・ハーンだという仮説が発表されたのである
メンタリーを製作している 。 ロシアは、かつてチン
[
Z
er
ja
1
2
0
0
3J
。
ギスやその子孫に探蹴された歴史をもつが、日本の
本特集で小長谷有紀が述べている通り、チンギス
浅野忠信主演による ロシア初のチンギス映画 『
モン
好きの日本人は、この英雄に関する数多くの研究を
ゴル』が公開された。
行い、また幾度なく小説や映画の題材にしてきた。
一方、アメ リカでは、ワ シン トンポスト紙が 1
9
9
5年 1
2
近年、そんな日本においてチンギスの現代的復活に
月に 「
千年紀最大の人物 (
Mano
ft
h
eM
i
l
l
e
n
n
i
u
m)
J
火をつけたのは、チンギス・ハーンの陵墓を探査す
にチンギスを選出したことを皮切りにその復権が加
速している 。例えば、アメリカ先住民を専ら研究し
るという壮大なプロジ、エクト「ゴルパン・ゴル計画」
てきた文化人類学者ジャック・ウェザーフォードは、
はといえば、社会主義体制が終罵を迎え、共産圏意
チンギス賛美本 『
パックス・モンゴリカ
チンギス・
外の国にも自由な人や文化の交流が始まったばかり
ハンがつくった新世界j を著した[ウェザーフォー
であった。そう した中、読売新聞がスポ ンサ ーとな
(
19
9
0- 1
9
9
3)だと考えられる 。その頃、モンゴル
ド2
0
0
6(
2
0
0
4
)J
。 この著作はニューヨーク・タイム
り、江上波夫を総隊長として日本・モンゴル両国か
ズ紙のベス トセラーにランキン グされており、日本
ら多くの研究者が参加し、最新のレーダー探査が導
語訳も出版されている 。
入されてチンギスの陵墓を特定しようとする大規模
2
0
0
5年には西ドイツのディスコ・グループ「ジン
ギスカン Jが
、 2
0年ぶりに再結成されている 。彼
らの 1
9
7
9年の世界的ヒッ ト曲 「ジン ギスカン 」 は
、
2
0
0
6年を前後して多くのミュージシャンによってカ
な調査が行われたのである 。 しかし、バブル経済崩
壊によりスポンサーが撤退によって、途中棄権のよ
うな終了となった[白石 2
0
0
6
b:4
6
4
J。
9
9
2年
、
また、ゴルパン・ゴル計画と時期を同じくする 1
ヴァーされており、現在、第二のジンギスカン・ブー
NHKがモンゴル帝国の足跡をたどるドキュメンタ
ムを迎えている 。
リー 『
大モンゴル』 を制作した。 また、 歴史学者の
また、ロシアのモンゴル系民族カルムィク人の血
8 ・人間文化
岡田英弘や杉山正明がチンギスに関する 一般向け
文化資源として利用されるチンギス ・
八一ンーモンゴル、日本
、 中国、ロシアの比較から
c
f岡田 1
9
8
6,1
9
9
2,1
9
9
3、
の書籍を数多く発表する [
族が居住するロシア(特にブ リヤー ト共和国)、 モ
杉山 1
9
9
6,1
9
9
7,2
0
0
0
,2
0
0
2
J など、チンギスは、日
ンゴル、中国内モンゴル自治区を設定していた。
本人の心の中で生き続けることとなった。
チンギス ・ハーン即位 8
0
0周年を前後して日本で
しかし上述のとおり、チンギスの利用は、何もモ
ンゴル人に限られたものではない。 また、チンギス ・
話題となったものとして、まずは、新潟大の白石
ハー ンの復活は、必ずしもナショナ リズムの道具、
典之によるアウラガ遺跡の発掘が挙げられよう[cf.
すなわち政治的利用に起因するものでもない。 この
0
0
6
a
J。
白石 2
また、
2
0
0
7
年には角 川春樹制作総指揮によって映
画 『
蒼 き狼
地果て海尽きるまでjが公開された。
さらに元経済企画庁長官で作家の堺屋太ーは、日経
新聞にチンギス・ハーンを主人公にした小説 『
世界
ことは、欧米や日本での復活の態様を見れば明らか
であった 。そこで広く上記の国々で、文化資源とし
てチンギス・ハ ー ンがいかに利用されているか、と
いう問題を再設定することとしたのである 。
「文化資源」という用語に関して、文化 資源学会
0
0
6
b,2
0
0
7
a,b
,
を創った男チンギス・ハン J[堺屋 2
では 「ある時代の社会と文化を知るための手がかり
c
Jを発表するにとどまらず、 8
0
0
周年プロデユーサー
となる貴重な資料の総体であり、これを文化資料体
として、モンゴル、日本の双方においてイベントを
と呼ぶ。文化資料体には、博物館や資料庫に収めき
企画し、モンゴルでのイベントを見学するツアーも
れない建物や都市の景観、あるいは伝統的な芸能や
主催している。
祭礼など、有形無形のものが含まれる」としている
今やチンギス・ハーンは学術的な研究はもとより、
[文化資源学会2
0
0
2
J。 こうした「文化財」としての
映画や小説といった 「
文化」 を生み出す想像力の源
文化資源の定義においては、チンギスを巡る歴史史
泉、すなわち 「
文化資源」 として世界中で増殖を繰
料は 「
文化資源」であっても、歴史上の人物である「チ
り返しているのである 。本特集は、幾多のチンギス ・
ンギス・ハーン」そのものは「文化資源 Jとは呼べ
ハー ン自体を研究する「チンギス語り」に資するも
ないであろう 。
のではない。むしろ、現代チンギス・ハーンについ
しかしながら、文化人類学では 「
文化」 をいわゆ
て、誰が、いかなる理由でどのように「チンギスを
る学術的・芸術的 ・歴史的に価値のあるハイカル
巡る語り」をしているのかを明らかにすることを目
チャ ーに限定しない民俗としての生活様式という意
的としている 。言い換えるならば、チンギスを 「
文
味で使用してきた。 また、アメリカの人類学者c.ギ
化資源」として利用するプロセスを、とくにモンゴ
アーツによると、人間は自ら紡ぎ出した意味の網の
ル、日本、ロシア、中国に焦点を当てて考察してい
自にかかっている動物であり、文化とはそうした意
く。 なお、ロシアによる利用を理解するために欧米
9
7
3
:
6
J。であるならば、
味の網の目である[ギアーツ 1
におけるチンギス利用も概観することとした。
過去に実在したチンギス・ハ ー ンという人物という
そもそも本研究は、「越境するチンギス・ハ ー ン
よりも、彼を巡って語り拙かれ、表象されてきた「意
0
0
周年記念事業とナショナリズムの諸相の研
即位 8
味の網の目 」 としてチンギス・ハーンは 「文化」で
究」と題されていたとおり、ロシア、モンコソレ、中
あり、そうした網の目の集合体としての「チンギス ・
国に分散居住しているモンゴル人が、チンギス ・
ハー
ハーン」は、人々が利用しうる文化資源だといえな
ンとの関わりを通じて、ナショナリズムの位相を研
いだろうか。 ここで言 う意味の網の目は「知識」と
究することを目的としていた。現代、広義の「モン
言い換えることも可能であろう 。知識は無形である
ゴル人」は、ロシア連邦ブリヤ ート 共和国、中国内
ためか、資源としてそれを認知することには戸惑う
モンゴル自治区などに分散して居住しており、そう
人が多いが、英語の r
e
s
o
u
r
c
eは、物質的なもののみ
したモンゴルの人々にとって、チンギス・ハーンは
ならず、非物質的なものや、さらに潜在的な価値を
ナショナ リズムのアイ コンとして存在している 。 ロ
含む[ダニエルス 2
0
0
7
:7
6
J と考えるならば、チン
シアや中国におけるマイノリティとしてのモンゴル
ギス ・ハーンを知識資源として扱うのも了解可能な
人たちは、国家との微妙な緊張関係やモンゴル国と
前提であろう 。 さらに 「
文化資源」という概念を用
の競合的な関係性といった問題をはらみながら、チ
いることでチンギス ・ハー ンをいったい誰が、どの
ンギスの祝祭を企図していた。 したがって、設定し
ように何のために利用しているのか、という問題を
た研究対象地域は、日本を除くと広義のモンゴル民
明らかにする展望が開けてくるに違いない。
人間文化・ 9
文化資源として利用されるチンギス ・八一ンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較から一
ところで、文化人類学者の 山下普司は、文化 は資
形成とチンギス・ハーンの利用に関するもの[宮
源として使われるわけだから、あらゆる社会的な構
脇2
002:21
7-21
9、Mi
yawaki
2
0
06
J がある 。 また、
図のなかで、いかにして文化が資源となるか、その
スチュア ー ト [
St
ua
r
t
l
9
9
7
J は、モンゴル人に関す
プロセスがどのようなものであるかが問われなけれ
る欧米人の意識を研究した。キャンピ [
C
a
r
n
p
i
2
0
0
6
J
ばならないとする[山下 2
0
0
7:5
J。 こうした文化の
の論考は、中国と ロシアとモンゴルにおけるチンギ
資源化が起こる場として山下は、ゴードン・マシュー
ス・イメ ージを概説した数少ない論考といえる 。 し
ズ [Mathews2000J が指摘した国家と市場という
かし、チンギスを文化資源、という枠組みで、また欧
場に加 えて、家庭、社会、職場、学校、地域社会な
米以外の国々も視野に入れて論じたものは、なかっ
ど人々が生きているミクロな場所での日常実践のレ
たといってよい。
0
0
7:1
5-16J。
ベルを挙げている[山下 2
とはいえ、膨大な量にわたるチンギスに関わる資
の人物が文化 資源、であるならば、その人物を巡る
源群を網羅し、論じるのは不可能に近い。 したがっ
て、本稿では、モンゴル、中園、ロシア、日本にお
言説の場もーそれが小説であれ、学術的研究であ
いて、チンギス ・ハーンがなぜ、いかに資源化 され
これに加えて、もし意味の網の自の集合体として
れー文化の資源化が起こる場であることが了解でき
てきたかを概観することに留め、今後の研究の出発
るであろう 。
点としておきたい。
国家とのかかわりにおいては、 『
古事記j や 『日
本書紀j というかたちで神話が収集・編纂されて国
1.忘却か 5資源化へ:モンゴルにおけるチン
家を正当化する資源として使われてきたし、戦争期
の日本では、帝国のため 「
人的資源」 を含めた、あ
ギス・八一ン利用の創出
モンゴルにおけるチンギスの資源化を考えるとき、
らゆる資源が動員されてきた。 また、資本主義的な
その資源化の主体は、大きく分けて、政治・文化・
システムが地球の隅々にまで浸透していくなかで、
宗教的エリ ー 卜と 一般庶民たる遊牧民という こ層に
今日では、食品や音楽や情報といった文化も市場の
なかで売買 されている 。[山下 2
0
0
7
:1
6、佐藤 2
0
0
7
J
分けて考察する必要がある 。
現在、モンゴル人にとってチンギス・ハーンは、
しかし、チンギスの資源、化に関しては、国家によ
偉大なる建国者であり、エリート、庶民に拘わらず、
る政治資源としての利用が、中心的課題ではあるも
モンゴルナショナリズムのアイコンとして崇められ
のの常に入り組んだ複雑さがつきまとう 。彼の創っ
ている 。 しかし、意外なことに、かつてチンギス・
た広大な帝国は、現在多くの固に跨っており、中園、
ハーンは、モンゴルの庶民たちの問では、忘れ去ら
モンゴル、ロシア (
旧ソ連)や中央アジア諸国によ
れていた英雄であったようだ。
る国家レベルのチンギス利用が行われてきた。また、
0
世紀初頭の内モンゴルのシリンゴル盟
例えば、 2
旧モンゴル帝国領外に位置する国においても、例え
ばインドのネルーが、ヨーロッパに対する抵抗のシ
では日本の文化政策によって 「チンギス ・ハーン崇
拝」が教育されていた 。ある日本人の記録によると、
ンボルとしてチンギスを想起していたし、戦前の日
学校で飾られているチンギス・ハ ー ンの肖像画を拝
本の関東軍もチンギス ・ハー ンの名を政治利用しよ
まされることに対して、活仏ラマの写真 を置いた方
うとしていた。 また、チンギスの市場やミクロな日
が、よほど有難いと思うと遊牧民は語ったのだとい
常実践の場における資源化に関しては、上記の国々
う3。すなわち外国人から強制されなければ崇拝し
に加えて欧米や日本、韓国も研究対象地域として設
ないほど、チンギスは忘れられていたのである 。
定しうるであろう 。
もっとも、特に政治的エリ ートたちの間ではチン
現代にお け る チ ン ギ ス の 利 用 に 関 し て は 、 モ
ギス ・ハー ンの名は忘れられてきたわけで、はなかっ
ンゴル国におけるナショナ リズ ム と の 関 係 を 論
じたもの [Ka
l
p
o
n
s
k
i
2
0
0
5
J、中国におけるチンギ
た。チンギスの男系子孫のみが「ハーン」を名乗る
ことが出来る、 「チンギス統原理」 は、モンゴル帝
ス ・ハ ー ン と エ ス ニ シ テ ィ の 関 係 を 論 じ た も の
国の崩壊以降もモンゴル高原を含む中央ユーラシア
[Khan1
9
9
5,1
9
9
6
J、チンギスが仏教の神格と同一視
されて信仰されている状況を報告したもの [Nasan
B
a
y
a
r
2
0
0
5
J など、日本におけるナショナリズムの
10 ・人間文化
3 小長谷有紀氏のご教示による 。
文化資源として利用されるチンギス ・八一ンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較からー
4世紀後半、サマル
世界にお ける不文律であった 。 1
にあっては、モンゴル大衆の尊崇を広く集める彼こ
カンドに都を置き大帝国を築いたテイムールですら、
そが、チンギス・ハーンの系統をひくどのモンゴル
自ら 「
ハー ン」と名乗ることができなかったほどで
質族 よりも、モンゴル統合のシンボルにふさわしい
ある 。テイムールは、健備のハーンを立て、自らは
と考えられた [
中見 .i
貧困 ・小松2
0
0
0:3
4
3-3
4
4
J
チンギスの子孫を 妻 に向かえ 「婿(キュレゲン )
J
のである 。したがって、清朝から独立の際、チンギス ・
という地位を得ることで政権を獲得した。すなわち、
ハーンがモンゴルの庶民の間でナショナリズムのア
チンギスの血統と系譜知識は中央ユーラシア世界に
イコンとして機能することはなかったといえる 。
おいては、王侯貴族たちの政治権力を正当化するた
めの資源として存在したといえよう 。
0
世紀以前のモンゴルの庶民たちは、 言
そもそも 2
語や習慣、共通の先祖を持つものとしての 「民族
1
7世紀初頭から 2
0世紀初頭にいたるまで中国を支
配した清朝もチンギスをこうした政治資源として利
(
n
a
ti
o
n
a
l
i
t
y)
J概念を理解していたとは考えられず
[
At
w
o
o
d
1
9
9
4J
、2
0世紀以前の彼らのアイデンテイ
用している 。 1
61
6
年に現在の中国東北地方で女直人
テイは部族や特別な地理的位置といった限定された
(後にマンジュ=満洲に改名)ヌルハチが建てたア
地域性に基づくものであ った
イシン国(後金)は、次第に勢力を強め現在の内モ
[
K
a
pl
o
n
s
k
i
l
9
9
8
J。
おそらく、近代的な意味におけるナショナ リズム
2
0世紀初頭
ンゴルも支配下に収めた。ヌルハチの子ホンタイジ
概念をモンゴル高原 に持ち込んだのは、
は、北元の後喬であるチャハル部のリグデン ・ハー
にロシアのパイカル湖周辺地域からモンゴルへ移住
ンを破り、
1
6
3
5年、病死した リグデンの遺児から元
してきたブリヤート・モンゴル人の知識人たちであ
[cf.田中 1
9
7
3, Bul
a
g
1
9
9
8
J モンゴル系の集
朝ハーンの保持していた玉襲を手中に収めた。その
ろう
翌年、ゴピ砂漠以南のモンゴル(後の内モンゴル)
団である彼らは、ロシアの植民者たちに対して激し
の王公たちは満洲人や高麗系漠人の代表とともにホ
い抵抗の末、
ンタイジを大ハーンに推戴し、アイシンは国号を大
に入った。 しかし、それがゆえにブ リヤート人の中
清と定めた。 このことは、チンギス統原理が崩れ、
からロシア式の高等教育を受ける者も登場し、彼ら
40
1
7世紀後半以降、帝政 ロシアの支配下
清朝が中央ユーラシア世界を支配したモンゴル帝国
の中には現在のロシア、中国、モンゴルの領内に分
の後継国家として成立したことを意味する 。
散して居住していた全モンゴル諸族を統一 しようと
もう一系統のチンギスの血を引くゴピ以北のモン
する 「
大モンゴル主義」を掲げる者たちも現れた 50
ゴル (
後の外モンゴル)のハルハ王公とその領民た
ブリヤート人知識人たちがモンゴル統合のイデオロ
ちは、オイラ ト音防矢から出たジューンガル帝国のガ
ギーとして考えていたのも、チンギス・ハ ー ンでは
ルダン・ハーンによ って南へ追いやられ、
1
6
9
1年に
は清の康照帝に対して臣従を 誓っ た。 こうしてモン
なく、やはりチベット仏教であった。
清朝から独立の後、中国軍関により自治が取り消
1
9
2
4年ボグド・ハー
ゴル高原は清朝の支配下に入ることとな ったが、チ
されるなど好余曲折を経るが、
ンギス ・ハーンの子孫たるモンゴル王公たちは、引
ンが死ぬと、外モンゴルは、ソ速に継ぐ世界で 2番
き続きモンゴル高原を支配しつづけることを保障さ
目の社会主義国「モンゴル人民共和国」として近代
れた。 またこの頃、ゴビ砂漠以北を 「
外モンゴル」
、
以南を「内モンゴル」 と区別する基礎が築かれた 。
清代のモンゴル高原に関して特筆すべきは、チベッ
ト仏教の驚異的な浸透であろう 。清朝の後押しを受
けた教化の結果、外モンゴルでは清が崩壊した 2
0
世
紀初頭、男性人 口の三分のーがラマとなるほど、庶
民に仏教は定着したのである
[
P
u
r
e
v
j
a
v:1
9
7
8
J。
1
9日年、辛亥革命によって清朝が倒れると、外モ
ンゴル地域はチベット人である転生活仏ジェブツン
ダンパ 8世をボグド・ハーン(聖なる皇帝)に推戴
し、清朝の官僚を追放して独立を果たした。チベッ
ト仏教がモン ゴル社会内部に深く浸透していた当時
4 ただし、ムンフエルデネによると、現代モンゴル語
で「民族」を意味する u
n
d
e
s
t
e
nという誇が、最初
91
5
年のキャフタ条約であるのだと
に登場するのは 1
いう [
d
.
M
u
n
k
h
E
r
d
e
n
e
24
,
2
0
0
6
]。
5 ちなみにリンチノや ジャ ムツラノーに代表さ れるプ
リヤート人知識人は、モンゴルに移住し、 2
0
世紀初
頭のモンゴル人民革命や社会主義国家の建設に大き
9
3
0年代のスターリンの意向を 受け
く貢献 したが、 1
たモ ンゴルの内相チョイバルサンによ って、 日本の
スパイや反革命主義者だという嫌疑がかけられ、命
を失う こととなった。
∞
1
人間文化・ 1
文化資源として利用されるチンギス・八一ンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較から一
化の道を進むこととなる 。その結果、チンギス・ハー
分にした社会主義政権にとって、それ以外の方法に
0年代後
ンは文化資源として利用されるどころか、 8
よるモンゴル国民=民族アイデンテイテイの創造は
急務の課題であった。しかし、無神論を標携する社
半の民主化運動が始まるまで、ソ速によって、その
政治的な忘却化が進められた。
会主義国家において、チベット仏教が国民=民族文
チンギスの名が社会主義と折り合いが悪かったの
は、封建制度を想起させるものだからという理由だ
イヒとしての地位を占めることは、ありえないこと
だ、った。それどころかチベ ッ ト仏教は、社会主義革
けでは考えにくい。おそらく、衛星固たるモンゴル
9
2
8
命以降、壊滅的な打撃を受けることとなった。 1
人民共和国を指導するソ連のロシア人幹部たちに
年、モンゴル人民革命党第 7回大会の決定により、
3世紀にロシアを侵略した極悪人に
とって、かつて 1
封建諸侯や高位のラマ僧の財産は没収された。 ま
対する民族的怨恨が尾をヲ│いていた可能性が高い。
チンギス・ハーンに関しては、その非を責めること
9
3
7-1
9
3
8年の聞
た、スターリンの指示によって 1
に 1万 6千 -7千人ものラマが殺害 され、ほとんど
6番 Bの共和国"である モ ンゴルから民族
で
、 “
第1
の寺院が破壊されてしまったのである 。[パ トパヤ
主義の芽を摘み取り、上手く統治するための資源と
ル2
0
0
2:
4
7-6
0
J
して利用していたと考えられる 。
社会主義モンゴルは、チンギス・ハーン直系の子
孫である貴族階級による支配を破壊させたが、モ
社会主義政権が選んだ方法は、人民革命の時の司令
官、スフパートルを建国の英雄として神話化す るこ
こうした中、チンギスやチベット仏教の代わりに
ンゴル国家を溶解させることなく、ボルジギン氏
とだった。社会主義時代、スフパートルを称賛する
族(
チンギス・ハーンの氏族名)を溶解させること
多くの評伝や映画が生み出された。 また、イコン化
された彼の肖像は、官公庁や地方政府の首長の執務
は可能かという奇妙な問題に直面することとな った
[
C
am
p
i
2
0
0
6:
7
1
J。その解決策として 1
9
2
5年、姓や
氏族名とい ったものの使用を廃することが決定され
た。すなわち「貴族階級の影響を排除し、貴族の子
弟の世襲の地位を破壊するという純粋に政治的な理
由によるものである J
o [Mon
g
o
l
i
aT
o
d
a
y
2
0
0
0
J
そもそもモンゴル人は、姓ではなく名前でお互い
を呼び、合ってきたが、社会主義時代、正式の名前に
関して、姓の代わりにオボク (
o
v
o
g
)と呼ばれる父
親の名前を前につけ、 "
[
A(父親の名前)の B(
本人
J という呼び方をするようになった。本来、
の名前 )
オボクとは氏族や姓を意味する語であるが、その語
義は「父親の名前」に挿げ替えられることとなった
のである 。 したがって、社会主義時代を通してモン
ゴルの多くの人々は、 「
姓」 という概念そのものす
ら認識していなかったといってよい。
音楽や民俗舞踊の分野においても、 1
9
2
0年代後半、
歴史や舞台芸術からチンギス・ハ ーンは意識的に除
去されて、社会主義革命を称賛するモチーフが形成
された。詩や歌に関しでも同様であった。共産主義
体制下において新たなテーマとして受け入れられた
のは、自然や故郷、国家や党、両親や子供への愛情
といったものであり、エスニック・アイデンテイテイ
や民族の英雄に関する 言及は許されなかったのであ
る。 [
P
e
g
g
2
0
0
l:2
3
J
政治性の強い文化資源としてのチンギスを廃棄処
1
2 ・人間文化
室から遊牧民のゲル内にいたるまで、全国いたると
ころで飾られることとなった。 しかし、実際のとこ
ろ、スフパートルが人民革命に果たした役割は、ブ
. リンチノ(18
8
81
9
3
8)
リヤート出身の革命家 E
に比べるとはるかに低かったらしい。 リンチノの功
績について、歴史学者の二木博史は、「リンチノは、
1
9
2
1年のモンゴル革命の“設計者"の 一人であり、
モンゴル人民共和国はリンチノの“作品"であり、
ハルハの指導者ボドーやダンザンよりも重要な役割
を果たしたとさえいえる J[
二木1
9
9
5
J としている 。
こういった状況の中、学者や政治家といったエ
リートたちの聞では、再三チンギスを「民族文化j
のシンボルとして資源化しようとする動きが現れ
たが、いずれも失敗に終わっている 。例えば、 1
9
3
0
年代、首相であった A アマルは 1
9
3
4年出版の著書
『
モンゴル簡史Jにおいて、チンギスを肯定的に記
A
m
a
r
1
9
8
9
J し、国防大臣デミドは、 「偉
述した [
大なるチンギスの時代を復活させよう」と主張し
た [
S
o
n
i
2
0
0
2:1
2
0
J。 また、ブリヤート出身のモン
ゴル学者であり作家の B リンチェンは、チンギス
を賛美することを厭わなか った。 しかしスターリン
による大粛清の嵐が吹き狂う中、デミドは 1
9
3
6
年
、
アマルは 1
9
3
9年に民族主義者だと非難された上、逮
捕され、死刑を宣告された[パトパヤル 2
0
0
2
:5
8
5
9
J。 また、彼の著書は、発禁処分にされてしまった。
文化資源として利用されるチンギス ・J
¥ーンーモンゴル、日本
、 中園、ロシアの比較から
9
7
7
リンチェンは逮捕、投獄されたが、後に出所し 1
年まで天寿をまっとうした。
その後の最も大きなチンギス復活の動きは 1
9
6
2
年
、
ンの侵入を大きな歴史上の悲劇と してではなく、 『
東
西の相互文化交流j に貢献した行為とみている 」 と
非難した [
c
f
司
ハイシ ッヒ2
0
0
0(
1
9
6
4
):
6
3-6
5
)
]
0
0
周年だとされた年に起こる 。人民
チンギス生誕 8
しか し実際のところ、生誕8
∞周年を巡る 一連の
革命党の新しい指導者の一人であった D.トゥムル
事件は、関係者の証言から、当時の首相ツエデンパ
0
0
オチルが中心とな って、チンギス・ハー ン生誕 8
ルが最大のライバルであ ったト ゥムルオチルを権
周年祝賀記念式典が企画されたのである 。モンゴル
力の座から引きずり降ろすために計画的に仕組ん
の学者によ ってチンギスの生誕地だと比定 6された
だ民 であ ったことがわか ってきている[cf.小長谷
へンティ県のダダルには巨大な 記念碑がつ くられ、
2
0
0
7
Jo
モンゴル科学アカデミ ーは、チンギス・ハ ー ンの歴
いずれにせよ、チンギスが公の場でナショナリズ
史的役割に関わる 学術会議を 実施した。 しかし、 会
ムのシンボルとして担ぎ出されることはしばらく途
議の途中でソ連科学 アカデ ミーの学者 ジュー コフか
絶えることとな った。その後、モ ンゴル科学アカデ
らモンゴル科学アカデミーの B シレンデブ宛に 「チ
9
5
4
年に出版された 『
モ
ミー歴史学研究所によ って1
ンギス・ハ ー ンはモン ゴル史において反動的な役割
ンゴル人民共和国史』 の加筆訂正が行われ、改訂版
しか果たしていない」 との電報が送られてきた。 こ
の警告を無視したモ ンゴル科学アカデ ミー正会員の
(
19
6
6年)、 第二改訂版 (
1
9
8
2年)が出版された。 い
ずれも ロシア 語版とモンゴル語版が編まれ、その中
ナッツ ァグドル ジは、
「 モンゴル建国の父としての
でチンギスは、遊牧民に対する搾取者であり、外国
チ ンギス・ハ ー ン
」 という発表 を行い、チンギスは、
に対する血塗 られた侵略者、破壊者として描写 され
つづけた。
破壊的な 軍事遠征を行った反面、モンゴルに対して、
国家の統ーや法律、文字の制定 とい った肯定的な利
しかし、こうした評価 はモンゴルの知識人の本音
益をもたらしたことを強調した。 この発表 は、党
であ ったのだろうか。実は、社会主義時代の正史た
の新聞であるウネ ン紙にも報じられた。同様に T
s
.
る 『
モンゴル人民共和国史j には、 二度の改訂 を通
ダムデインスレンは、ソヴイエトの学者たちのチン
して少しずつ、チンギスに対する見解の修正があっ
ギス批判の間違いを是正する内容の発表 を行 った
た。社会主義崩壊後の 2
0
0
2年に国家プ ロジェク トと
[
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19
9
2:
61-6
2,
して出版された 『
モ ンゴル国史jによると、
Camp
i
2
0
0
6:
7
4
J。
年版 (
Wモンゴル人民共和国史 j
)では、モンゴル帝
噌
1
1
9
5
4
こうした動きをソ連のフリシチョフは見逃さな
国時代を暗黒の封建時代としたものの、チンギス・
0
0
周年祭は、中途で中止を余技な く
か った。生誕8
ハー ンは分裂状態のモンゴル諸部を統一 し、統一モ
された。また、同年 9月の党中央委員会において トゥ
9
6
6年にはさらに一
ンゴル国家を建設したとした。 1
親中派」だと批判 さ
ムルオチルは 「
民族主義者 J1
歩すすんで、モンゴル統一国家と大モンゴル帝国を
れ、政界を追放されることとな った。 この「
親中派j
建設した功績をチンギス ・ハーンに帰しめている 。
との批判の根拠は、同時期に中国共産党が、内モン
そうした上で、社会主義崩壊後に編纂された 2
0
0
2
年
ゴルのオルドスにある 「
成吉恩汗廟」でチンギス ・
ハー ン生誕8
0
0
周年祝賀会を 挙行したことと関わ っ
度版では、 「
共産主義体制 と厳しい思想統制下にあっ
た頃でも、 当時の歴史学者たちは、チンギス・ハ ー
ているといわれてきた。中国ではチンギス・ハーン
は
、 ヨーロッパ人を打ち破った「中国の英雄 Jとし
ンの地位を可能な限り正しく評価し、その時代の歴
史を現実のものとして評価する隠れた目 的 7をもっ
ての評価されていたのである 。 これに対して、ソ連
傍
ていたことを特筆すべきである Jと記している (
のプラウダ紙は 1
9
6
2年 7月2
1日において 、中国のチ
点は筆者)
0
ンギス・ハ ー ン個人崇拝を 「
西方へのチン ギス・ハー
[
D
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s
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j2
o
o
6:
2
4
J
生誕8
0
0
周年祭事件以降も、チンギス ・ハー ンの
名前はタブー とされたが、モンゴルの知識人たちの
間では、チンギス・ハーンの歴史的役割を肯定的に
6 チンギス ・ハーンの生誕年と生誕場所については、
16
2年
研究者の間で一致をみない。モンゴル国では 1
とする説が有力である 。
評価 したソ連の異端の歴史家グミリ ョフ が密かに読
まれ続けていた。
ところで、清朝からの独立の際、なぜチ ンギス は
人間文化・
1
3
文化資源として利用されるチンギス ・J
¥ーンーモンゴル、日本、 !中園、ロシアの比較からー
政治資源として利用されなかったのに、なぜ社会主
響の結果なのだとする 。
義を通して幾度も政治家や学者たちによ ってチンギ
すなわち西洋、とくにアメリカ 、カナ ダ、オース
スの資源化が企図されるようになったのだろうか?
トラリア、イギリスはモンゴル人に征服されておら
あるいは、 20世紀初頭、庶民には忘却されていたは
ず、彼らのチンギス観に影響を与えるようなモンゴ
ずのチンギス・ハーンの名前が、なぜ民主化が始まっ
ルによる破壊や殺裁の記憶がなかった。だから西洋
た1989年、堰を切ったようにモンゴル社会に溢れだ
はチンギス・ハ ー ンや彼の帝国について好意的な印
したのだろうか? 具体的な例を 出すならば、民主
象を持っていることをモンゴル人に伝えることがで
化運動と期を同じくして登場したロック・バンド 「ホ
きたのである 。 [Campi2006:81
]
ンホ」の歌う「チンギス ・ハーン 」がなぜ、人々の
しかし、彼女のこの能天気な見解は、 二重 に間違
いを犯している 。第ーにモンゴル人知識人は、グロー
熱烈な支持を受けたのだろうか。
従来は、チンギスに関わる言説は社会主義時代、
抑圧されてきたと考えられてきた 80
パ リゼーショ ンが始まるずっと以前の社会主義時代
に、チンギスが日本の研究者を鏑矢とした西側研究
世紀初頭、ナショ
しかし上述の通り、チンギスが20
者に評価されていたことを知っていた。このことは、
ナリズムのための文化資源とはならなかったことは
社会主義時代に書かれた 『
モンゴル人民共和国史j
明らかである。社会主義崩壊によって抑圧されてい
の先行研究部分を見れば明らかである 。第二にモン
たナショナリズムの英雄が復活したという抑圧
復
活の図式は成り立たない。
ゴル人がチンギスを評価しはじめたのは、欧米人の
おかげではない。モンゴルの知識人は、社会主義時代、
アメリカのモンゴル研究者アリシア・キャンピ
チンギス肯定のために密かな戦いをしていた。 この
は、民主化以降、モンゴル人が 自らのチンギス観を
ことは、モンゴルの歴史学者たちの民主化以降の告
肯定的なものに変えることができたのは、グ ローパ
白から窺える 。
リゼーションの中で西洋のチンギス・ハーン観の影
もちろん、 20世紀初頭、 一般のモンゴル人たちは、
チンギスに関する知識をほとんど持っていなか った
とい ってよい。 ところが、皮肉にもチンギスを脱資
7 一見すると教条主義的に見える社会主義時代の歴史
書の本音と建前を見極めていく作業や歴史認識の微
妙な変化を確認していく作業はほとんどなされてい
なか ったが、モンゴルのナショナリズムの生成を
J
えば、
考える上でも重要なテーマとなるだろう 。1
7
I
1
9
8
4
年度版の人民共和国史の先行研究を扱った章に
おいて、マルクス・レーニン主義に基づき歴史の諸
問題を研究することの重要性が繰り返され、チンギ
スの後進性などが語られる 一方で、欧米や日本の最
新の研究ではチンギス・ハーンが称賛されているこ
とに言及し、それを「特別な業績を残した j と表現
c
f
.
Bi
ra
.
N
a
t
s
するなど、矛盾した記述が存在する 。 [
a
g
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j.
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e
1
9
8
4
:
4
2
・8
0]
8 例えば岡田英弘は、人民革命以前の歴史は、 「
腐敗
した封建賞族(つまりチンギスハーンの子孫たち )
が貧困な牧民たちを抑圧し搾取した暗黒の時代とし
て片付けられた。こうしてモンゴル人は自分たちの
歴史を奪われたのである「岡田 1
9
9
3:3
5
8J とする 。
しかしモンゴル人の歴史やチンギスの英雄化は、社
会主義によって反語的に構築され、浸透したと見た
ほうが妥当であろう 。つまり、誤解を恐れずにあえ
て言うならば「社会主義はモンゴルの人々に歴史を
与えた」のである 。
14 ・人間文化
源化させようとするソ速の思惑に対する反作用とし
原としてのチンギスは生まれ、知識人たちによ
て資 i
る粘り強い交渉の結果、徐々に資源化され、その結
果
、 一般庶民まで伝掃してい ったのである 。極言す
るならば、モンゴル人の庶民は、社会主義時代にソ
連のチンギス批判を通じて、チンギス・ハーンが、
あのロシアや中国を征服したという歴史を知ること
とな ったのである 。
そもそも社会主義時代(1924-1
9
9
2
)は、モ ンゴ
ルにとって近代化の過程でもあった。 ソ連の影響下
で文字が伝統的なウイグル式モンゴル文字からロシ
アのキリル文字へと変えられたものの、近代教育制
度が整備され識字率が大幅に向上したのもこの時期
t
s
a
g
d
o
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j1
9
8
1J
。すなわち、かつて
であ った [
c
f
.Na
王侯貴族の権威正当化のため の資源であったチン ギ
スの名前やチン ギスに関する知識が一般庶民に普及
したのは、社会主義の時代を通してであったのであ
る。たとえそれが教条主義的な枕詞が並べられ、チ
ンギスに対する否定的な文句が並べられていたにせ
よ、それがゆえに人々の関心を密かにひくことと
なった。こうして人々は、書籍や新聞といったメデイ
文化資源として利用されるチンギス・八一ンーモンゴル、日本、中国、ロシアの比較から→
アを通じて、チンギスに関する知識を得ることが可
ンゴル国内のブリヤー ト人やダルハド人の場合は、
能となったのである 。言い換えるならば、モンゴル
シャーマニズムであった
[
c
f
ω 島村20
0
0、2
0
0
5
J
におけるチンギスに関する知識やイメ ージは、ソ連
あるいは、そうしたマイノリティたちの聞でチン
が与えた過剰に否定的なイメージの陰画として形成
ギスを資源化しようとする新たな動きも出てきてい
る。本来、チンギス ・ハーンと関係のない彼らが、
されたのである 。
さらにチンギスの名前のタブー化 は、知識資源と
チンギスと関連付けた神話を創造するというもので
してのチンギス ・ハーンの価値を稀少化させるとい
ある 。例えば2
0
0
6年、モンゴル北部のフブスグル県
う効果を生み出した。秘匿(秘密化)は、知識を資
のダルハド人が多いオラン・オール郡では、チンギ
源化する重要な手段であると同時に資源化された知
スによ って功が認められて貴族に列せられたパーダ
識に関する利益を保持する形態なのである[ダニエ
イ、ヒシグという 二人の馬飼いがダルハドの起源で
0
0
7:8
2
J。
ルス 2
あるという説明書きが、郡役場の門に掲げられるよ
こうしてチンギス・ハーンは、社会主義 7
0
年の閲
うにな った。 また、滋賀県立大学の院生の青春によ
に、知識人たちの手によってナショナリズム構築の
ると、同じくフブスグル県の東部に住むオリアンハ
ための知識資源として、しかも希少性の高い知識と
イ人たちは、元朝秘史に登場するチンギスの先祖ア
して、表面的には反語的な姿を継いながら創出され、
ランゴアに自らの祖先を同定しはじめているのだと
社会主義末期には密かに庶民の聞でも利用可能な資
いう 。チンギスは、新たなエスニックなイデオロギー
9
9
0年前後に始まる民主化
源となっていた。そして 1
として機能しはじめているようだ。
を境に、その秘密性や反語性を 失 うことで、チンギ
第二に、モンゴル国のチンギス・ナショナリズムが、
スは、誰でもアクセスできる公共資源へと劇的に転
モンゴル国以外に居住しているモンゴル系の人々と
化した。その結果、外国人の目には、ソ連邦による
ナショナルな競合を生み出しているという問題であ
支配からの脱却と 「
民族」の独立のシンボルとして
チンギス・ハーンの名が、突然復活したかのように
る。
いわゆるモンゴル人あるいはモンゴル系の民族は、
見えたのである 。
モンゴル以外にもロシア・中国にも分散して居住し
現在、モンゴル国では、ホテル名、レストラン
0世紀、モン
ている 。現在のモンゴル国の人々は、 2
名、ビ ールやウオツカなど、チンギス・ハーンの名
ゴル国(旧モンゴル人民共和国)のみで民族=国民
9
0年代に氏
を創出した結果、中国内モンゴルのモンゴル人やロ
が過剰なほどに満ち溢れている 。 また、
族名としての 「オボグ」 を名乗ることが制度化され
シアのブリヤート人を、 「モンゴル人」 とは考えて
たが、ある調査によると人口の 60%
がチンギスの氏
いない
族であるボルジギン氏を名乗 っているのだという
ンゴル人」が、国境を越えた一体感ある 「
民族」を
[Mongo
i
l
aToday2
0
0
3
J。
想像しているとは考え難い。すなわち、「チンギス」
[
c
f
B
u
]
a
g
1
9
9
8
J。 したがって、 三カ国の 「モ
しかし、ナショナリズム・イデオロギー として創
を占有する正当性を巡って、三カ国の「モンゴル人」
出されたチンギス ・ハー ンは、新たな問題を引き起
は、競合する状態にあるのである 。聞いたところに
こしている 。第ーに、このようなチンギス ・ナショ
よると、ウランパートルの空港の 「
チンギス・ハー
ナリズムは、医│
内的には、チンギスと直接かかわり
ン空港」への改名は、中国内モンゴルのある空港が
のないエスニック ・マイノリティたちを排除するロ
「チンギス ・ハーン空港」へと改名が企図されてい
ジックとなっている 。
ることをモンゴル国側が察知した結果、急ぎ行われ
0%近くを占めるエスニ ック
モンゴル国の人口の 8
集団ハルハ・モンゴル人は、外部の人間に対して自
たのだという 。
チンギス・ハーンをモンゴル国のナショナルな文
らを「本物のモンゴル人」であることを強調する 。
化資源として留めておくのか、あるいはロシアや中
そして、自分たちこそがチンギスの末商であると意
国に住む 「モンゴル人」 と共有する資源としていく
識しており、それが彼らの正当性を根拠づけてい
のか、仮に共有するならば、国家、市場、宗教、日
る。 しかし、チンギスと直接関わりのないエスニッ
常の実践といったレベルで、どのように共有の実践
ク集団は、チンギス以外の何かにエスニック・アイ
をが行われていくのか、注意深く見守る必要はある
デンティティを求めなくてはならない。例えば、モ
だろう 。
人間文化・ 1
5
文化資源として利用されるチンギス・八一ンーモンゴル、日本
、 中園、ロシアの比較からー
2
. 脱資源化への欲望:ロシアにおけるチンギ
ス ・ハーン利用と非利用
チンギス好きな日本人にとっては意外なことだが、
欧米人にとって長 くチンギスは、野蛮で、
残虐な侵略
忌み嫌う 。 したがって、それらすべてを変えてしま
うつもりなのだ。 このすばらしい帝国の中心を、彼
らの国のような砂漠にしようとしている 」 とし、チ
ンギス・ハーンを無知で残酷な悪者に仕立てあげた。
者 として、否定的にイメージされてきた。チンギス
しかし、ヴォルテールの真の標的はフランス王で
とその子孫たちが行った 「
征服戦争」はヨーロ ッパ
あったが、王を怖れるあまり直接批判はできなかっ
にと っては 「
侵略戦争」 であった。特に 1
8世紀の啓
たから、モンゴルにすべての邪悪な要素 を代表させ、
蒙期以降となると、チンギス・ハ ー ンとモンゴル人
祖国フランスの姿を表現したのである 。 [ウェザー
は広大なアジア大陸のあらゆる邪悪なもの、不完全
0
0
6:
3
9
4-3
9
6
J
フォード 2
なものを象徴する存在として扱われた。
アジア人を劣等視するも っとも悪錬な理論を提供
エドワード ・サイードは、オリエンタリズムの主
したのは、ヨーロ ッパの哲学者や芸術家ではなく、
たる四つのドグマのーっとして、オリエントが本質
啓蒙運動によ って大量生産された新しい知識階級、
的に怖るべきもの (
黄禍、モンゴル遊牧民、褐色人
すなわち科学者だった。 1
8
世紀半ばのフランスの博
種の統治)であるか、統御さるべきもの (
講和、 調査、
物学者、コント・ド ・ピュフォンは、モンゴル人が
開発、可能ならば完全占領によ って)であるとする
いかに醜い種族か記述した上で 「この種族はみな 一
考 え方を 挙 げている [
サイ ー ド1
9
9
3(
19
7
8):
2
2
8
-
様に、 宗教、道徳、礼儀にうとい。彼らの生業 は強
2
2
9J
。 こうした欧米人たちの偏見に満ちたモンゴル
盗である j とした 。 [
I
b
i
d
.
3
9
6J
人やチンギス ・ハ ー ンのイメ ー ジの構築について
世紀のドイツの動物学者ブレーメンバ ッハは、
1
8
は、ケヴイン・スチュアートによる包括的な研究
比較解剖学に基づいて人間の動物学的分類を行 った
[
S
t
u
a
r
t
l
9
9
6
J があり、すでに彼ら自身の手でオリ
が、彼の分類によれば、人類はアフリカ、ア ジア・
エ ンタリズム的視点の相対化が行われている 。前出
ヨーロ ッパ に対応する 三つの主要な人種に分類する
のウェザーフォードもそうした過去を 言及した上で
ことが可能で、
あるとした。そしてア ジア人がモ ンゴ
肯定的なチンギス像を描いている[ウェザーフ ォー
ド2
0
0
6(
2
0
0
4
)J
。
ル高原から発したという理論に基づいて 「モンゴロ
イド Jと呼ぶことにした。 この理論は、スコ ッ トラ
しかしな治宝ら、ロシアにおいては、そうした自己
ンドの科学者、チェンパ ーズによって黄色人種 (
モ
の視点の相対化はほとんど行われていない。 ここで
ンゴロイド)が、白人種 (コー カソイド)より進化論
は、まず欧米にと ってのモンゴル人やチンギスのイ
的に遅れた種であるとされ、さらに知的障害児と 「モ
メージの変遷について簡単 に紹介した後、 それが現
ンゴロイド」が結び付けられていく 。 そうした中、
代の欧米のメディア産業 の資源化にも深く影響を与
ダウン症候群は 「モンゴル病」 と名付けられ、歴史
えていることを示す。そうした上でロシアにおける
的にフン族、アヴアール族、モンゴル族など略奪を
チンギスの利用と非利用の特質を概観していきた
生業とする民族が白人女性を強姦してきた結果、遺
、。
し
伝的な影響が強く残 ったのだとする理論まで登場し
フランスの哲学者モンテスキューは 『
法の精神 j
た [
c
f
.S
t
u
a
r
t
l
9
9
6
J
の中でモンゴル人を 「地上で最も奇妙な民族」とし、
こうしたヨーロッパのチンギスやモンゴルに対す
「アジアには奴隷根性がまかりとおっていて、 いま
る偏見やオリエンタリスト的眼差しと偏見は、歴史
までそれを振り落としたためしがない。モンゴルの
学の研究が進むにつれ、学術的には徐々に是正され
全史を通じて、自由な精神の発露は一行たりとも見
たが、 一般の人々によるモンゴルとチンギス・ハ ー
出せない。そこにあるのは最低の奴隷精神のみであ
ンに関する邪悪・野蛮イメージは、現代でも強く影
[
M
o
n
t
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q
u
i
e
u1
9
4
9:
2
6
8-2
8
0
.ウェザー
フォード 2
0
0
6:
3
9
3-3
9
4
J。
を落とすこととなった。
る」 という
また、ヴォルテールは自身が記した戯曲 『
中国の
例えば、
2
0
0
2
年のアメリカのアフガン侵攻につい
て、ヨ ーロ ッパのメディアが挙ってブッシュ大統領
孤児j の中でモンゴル人の兵士は「強奪のために生
を「チンギス ・ハ ー ンのように残虐な侵略者」 だと
まれてきた荒くれ者で、テントや荷馬車で暮らすか、
非難したのは記憶に新しい。あのジョン・ウェインが、
野宿する…彼らは ヨー ロ ッパの美術、風習、法律を
チンギス・ハーン役を演じた悪名高き 映画 『
征服
1
6 ・人間文化
文化資源として利用されるチンギス・ 八一ンーモンゴル、日本
、 中園、ロ シアの比較か5-
者J(
1
9
5
6年)のキャッチ コピー も「俺は、テムジン、
スとモンゴル帝国が東西を結ぶ新しい世界を創 っ
野蛮人だ。俺は闘う! 俺は愛する 1 俺は征服す
た」 とい った評価が、日本ではすでに多くの研究者
る、野蛮人のように 」 であった[cf.B
o
n
a1
9
9
6:
3
0
や作家 によってなされおり、その内 容が日本人に
-3
4J
。 また
、 1
9
7
9年、西ドイツで生まれ世界的に
ヒッ トしたディス コ曲「ジンギスカン (
Ds
ch
i
ng
h
i
s
K
h
a
n
)Jの歌詞もウオツカ 9が好きで気に入った女
かもしれない。
なら誰とでも寝る野蛮な王としてチンギスが歌われ
ていた 100
アメ リカの人気 S
F映画 『スタ ート レックカー
とってなんら新鮮味を感じるものではなかったから
さて、 ロシアにと ってチン ギス ・ハー ン資源化の
あり 方は、西欧とかなり異なる 。 ロシアは、いわゆ
る 「タタールのくびき 」で知られるように モ ンゴル
に数百年間支配されており、モンゴルの庇護の下、
19
8
2年)においても明らかにチンギス・
ンの逆襲J(
統一国家 としての様相を形成してい った。直接モ ン
ハー ンから着想を得たであろう、カ ー ンという冷
ゴルの侵略を受けなか った西欧と比べると、 ロシア
酷で執劫な復讐者が登場している 。 また最近では、
人のモ ンゴルに対するルサンチマンはすさまじい。
1
9
9
7
年に放映開始され、 1
0
年の長 きに渡って続いた
SF人気テレビシ リーズ 『スターゲイト J(
S
e
a
s
on
1・
Epi
s
od
e
4
)においても、モンゴルのチャガダイ・ハ
サーヘニー
視やモンゴル蔑視が、ロシア人のアジア観に強い影
ン国の末請が住むという惑星が登場している 。その
響 を与 えてきたことを明らかにしている 。 ロシアは
惑星 シマルカは、男は野蛮で好戦的であり、女性は
その地理的環境から東洋への文化的同化が進んだが、
ロ シア文学を 専攻するインド入学者 カルパナ ・
[
2
0
0
2
Jは
、 ヨーロ ッパによるアジア蔑
外出時にはイスラームの女性の如 く顔を布で稜い隠
ピョートル一世以降、文化、政治体制、都市建築と
し1
1、男性が話しかけない限り、口をきいてはなら
いったあらゆる分野において ヨーロ ッパ化を推進し
ない 「
男尊女卑社会」であった。
すなわち欧米では、 学術的な研究の進展とは裏腹
た。 ロシア人は、ヨー ロッパ人であることを望みな
がらも、 一方で、ヨーロ ッパ人からはア ジア人としか
に、メディア産業界において、むしろモンゴル人や
看{放されて いない という現実や、西欧から怠惰で粗
チンギス ・ハーンは、野蛮や邪悪を 表現する 上で、
暴でかつ野蛮な 「アジ ア人」 と見下 されていること
最も利用しやすい文化資源のーっとして定着 したと
に劣等感をいだきながらも、その一方で西欧の東洋
いえよう 。
近年に出版されたジョン・マンやジヤ ツク・ウ エ
蔑視の心理を受け入れて、後にそれを用いて征服し
た人 々を蔑んだのである 。 [
I
b
i
d
.
4
0-4
1
]
ザーフォ ー ドによるチンギスの評伝が欧米でベス ト
こうした彼らの複雑な精神は、知識人たちの言説
セラ ーたりえたのは、こうしたステレオタイプイヒさ
にも 影 を落としてきた。例えば、 1
9
世紀初めの ロシ
れたチンギス・イメ ージを裏切る 肯定的なチンギス
アの宮廷史家カラム ジ ンは、 「……今 日の ロシア人
評価が、欧米人にと って新鮮であ ったからである 。
の特色は若干の汚点があるが、それは モ ンゴル人の
ちなみにこの両著作の日本語訳本は、 出版社による
野蛮 さによ って汚されたものだ」 と述べている 。同
1
9世紀の文芸評論家ベリンスキ ーは 「女性の隔
と共に数千部しか売り上げていない。 これらの著書
じく
が日本で売り上げ不振だったのは、彼らの 「チンギ
離、観念や感情の隷属状態、皮鞭、地中に金を埋め
たり、 金持ちに見えないようにぼろを 着て出歩いた
りする 習慣、裁判での賄賂、生活様式にお けるア ジ
9 蛇足かもしれないが、チンギスは、どちらかと いえ
ばロシアの酒「ウオ ツカj ではな く乳酒を飲んでい
たはずである 。
1
0 日本の女性アイドルグループ Be
r
r
y
z工房も「 ジン
ギスカン 」をカヴァ ーしているが、その歌詞では 「
骨
までしゃぶ る悪玉を右へ左へ切り刻み 勝利をつか
むのさ 」という歌詞に変えられており 、チンギスを
英雄視する日本の 「
伝統」の片鱗が伺われる 。
1
1 ちなみに女性の顔を覆い隠す習慣は、モンゴル人に
は存在しない。
ア主義、精神的怠惰、無知、自己嫌悪のすべてが
(
中略)われわれに固有の特徴ではなく、タタ ール
人によ って植えつけ られたものなのである 」とする 。
[
I
b
i
d.
4
3
J
つ まり、ロシアにと って野蛮で邪悪なタタ ール(
モ
ンゴル)文化 とは、できることならば捨て去りたい
廃棄物である 一方、同時に自身の後進性を責任転嫁
するための資源でもあ ったのである 。
ロシアの モ ンゴルを含めたアジアに対する複雑な
人間文化・ 1
7
文化資源として利用されるチンギス・八ージーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較かう
蔑視感情は、ソヴイエト連邦の成立以降も引き継が
かれている 。
れることとなる。モンゴルやチンギス・ハーンに関
また、 1
0
年生向けのロシア史の教科書におけるテ
して、ソ連の学校教育で使用される歴史の教科書で
ムジンすなわち幼少時のチンギス ・ハー ンを紹介す
は、残忍な侵略者であり、ロシアの後進性の元凶と
る記事には、他のヨーロッパの王侯も同様に否定的
して否定的に表象されてきた 120
に捉えているものの、無慈悲で腹黒い人間として描
こうしたソ連におけるモンゴル文化の廃棄物化あ
るいは脱資源化は、ソ連の傘下に入ったモンゴル人
かれている 。
「テムチェン 13は、兄弟との争いにおいて腹黒さ
民共和国においても、推し進められることとなった 。
と無慈悲さにおいて際立っていた。兄弟同士の争い
マルクス主義においては、狩猟採取生活を送る民族
をけしかけておいて、うまく政治的に立ち回り 、事
が最も野蛮であり、次に遊牧民が続き、そして農耕
情を説明しなくてはいけないときは、自分を隠し
社会が続いていくとされる 。 ソ連共産党にとってモ
た。 こうして彼は、一人の弟を自分に対して陰謀を
ンゴル人民共和国における遊牧つまり、遊動牧畜は、
抱いていると疑い、殺害することに成功した。 この
遅れた生業形態として定住化へと推し進めなければ
ような素質は、親戚を皆殺しにしたフランク王国の
ならないものとされた。
フリ ー ドリッヒ王から、弟ヤロポルクを殺す命令を
また、モンゴル人民共和国の正史の編纂には必ず
下したヴラジーミル・スヴャトスラヴイツチにい
ソ連の学者が編集委員として加えられ、必ずロシア
たるまで、広大なユーラシアにおいて統一国家を
語版が同時に出版されるなど、 ナショナリズムの 資
建設した他の統率者にも見られるものであった。
」
源となりうるチンギス・ハーンを脱資源化させるべ
[
S
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k
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2
0
0
6:1
4
8-149Jちなみに上記の 2冊の
く介入してきた。 しかし、ナショナリズムを巡る文
教科書を出版した会社の名を 「
啓蒙出版」 という 。
化資源は、ある者にとっては廃棄物であっても、そ
ロシアにおいて、 モンゴルやチンギス・ハーンが
れが故に他者にとっては資源となりうる 。前章で述
映画化されることもほとんどなかった。例外的に
べた通り、ソ連のモンゴルに対する文化政策上の介
1
9
5
6
年に製作された映画 『
イリヤ・ム ーロメッツ (
邦
入は、皮肉なことにモンゴル人知識人をして、チン
)
J にモンゴルの騎馬軍団と思
題 「
巨竜と魔王征服 J
ギスをナショナリズム創出のための資源として利用
しき人々が登場している 。 そのストーリーは古代
させる方向へと向かわせていったのである 。
ルーシの民話を基にしており、主人公イリヤが野蛮
いずれにせよ、ロシア人にとってモンゴルやチン
で残虐な異民族とその王が操るドラゴンを倒し、 「
母
ギス・ハーンは、自らの履歴から抹消したい、言い
なる祖国ルーシ」を守るというロシア・ナショナリ
換えるならば脱資源化を図らなければならぬもので
ズムを高らかに歌ったものである 。 しかしその敵で
ある残虐な民族名はトゥガル、王の名はカリンとい
あった。 この傾向は、ロシア連邦となった現代にお
いても基本的に変わっていない。
例えば、ロシアにおける 6年生の歴史教科書のチ
う架空の名称が使われており、不思議とモンゴルや
チンギス・ハーンへの名指しは行われていない。
ンギス・ハーンの人物紹介のコラムには、 1
1
2
1
1年
本年、ロシア人監督作品としては異例のチンギス・
から 1
2
2
7年までチンギス・ハーンは大軍をもって多
ハー ンを主人公にした映画 『
モ ンゴル jが公開され
くの土地と人々を征服し、破壊した。ハーンと彼の
たが、実は監督であるセルゲイ・ボドロフの祖母は、
後継者たちは、血が川のように流されたという重苦
モンゴル系のブリヤート人であった。 この作品は、
しい記憶の他には、全く何も残さず、すべてを強奪
4
0カ国以上の国で上映され、アカデミ ー外国映画賞
P
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.
R
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b
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9
9
6J
Jと書
しつくした [
にノミネ ート されるほどの評判作であったが、モス
1
2 もちろん、ソ連の初期には、モンゴルのロシアに対
する影響を肯定的に評価するヴェルナツキーらの
ユーラシア学派もあ ったが、主流派とはなりえな
かった。ちなみに後にヴェルナツキ ーは、チェコを
0
0
7
:4
4
経てアメリカに亡命している 。[
c
f
.
土
肥2
4
5
J
1
8 ・人間文化
クワを中心としたヨ ーロ ッパ・ ロシアでは全くの不
人気であったのだという 。
ロシアにおけるチンギス利用を考える上で、忘れ
1
3 テムジンのこと 。原文の表記にしたがった。上気の
二冊の教科書は T
e
m
c
h
e
n、T
e
m
c
h
i
nと表記に 一致
が見られない。
文化資源として利用されるチンギス・1¥ーンーモンゴル、日本、中国、ロシアの比較から
てはいけないのは、カルムィク、ブリヤートといっ
こうして現在、ブリヤート人の多くは、社会主義
たモンゴル系民族のチンギス利用の問題である 。 こ
時代の民族政策の結果、自身の民族的帰属を「モン
こでは、特にブリヤートを取り上げてみたい。
ゴル民族」ではなく、 「ブリヤート民族」であると
そもそもブリヤート人はシベリアのパイカル湖周
認識するようになった。そして、彼の多くは自分た
辺地域に居住し、狩猟や牧畜を生業とし、モンゴル
ちがモンゴル系であることを知りながらも、ロシア
語系の言語を話す人々であった。 1
6世紀以降、毛皮
やソ連に帰属してきたことで、モンゴル人よりも 「
文
や地下資源を求めてシベリアに進出してきたロシア
化的に高等な」個別の民族であると認識している。
人との激しい抗争の結果、 1
7世紀末、彼らは屈服し、
1
9
9
1年ソ連が崩壊すると、エリツインの地方分権
帝政ロシアの臣民となった。彼らの中には、帝政ロ
化政策とあいま って、ブ リヤート人知識人の中には、
9
世紀以降、帝都
シアの支配下にあったがゆえに、 1
再び 「ブリヤート・モンゴル」の名を共和国の名前
サンクトペテルブルグなどで高等教育を受ける者も
に取り 戻す運動がおこった。 しかしこの運動は、ま
登場した。
もなく頓挫してしまう 。その理由は不明であるが、
2
0世紀初頭、そうしたブリヤートの知識人たちの
おそらく共和国内において、ブリヤート人人口がロ
中には、自らを「モンゴル民族」であるとし、ロシ
シア人よりも少数となってしまっていること、すで
アでかなわなかったモンゴル民族の国家を「民族」
に多くのブリヤートの若者たちは自らを 「モンゴル
の故郷である外モンゴル地域で建設しようと試みた
人」だとは,思っていないことなども関係していると
者もいた。そのような流れの中でモンゴルに移住し
考えられる 。
たブリヤート人たちは、政治・経済・産業の分野で
2
0
0
0年 3月、プーチンが二代目のロシア連邦大統
先進技術・思想、をモンゴルに持ち込み、モンゴル近
領に就任すると、中央の統制が強化され、同時に少
代化の基礎を築く上で多大な 貢献をした。
数民族の共和国の自治に関する権限は大幅に制限さ
一方、ロシア側に残った多くのブリヤート人たち
れることとなった 。そうした中、パイカル湖の西側
は、ソヴイエト連邦の民族理論に従って、モンゴル
に位置するウスチ・オルダ・ブリヤート自治管区、
ナ ← ツ イヤ
人とは別の独立した民族として設定されることと
東シベリアの主要都市チタの南方のモンゴル国境近
なった。 1
9
2
3年にソヴイエト連邦内のロシア共和国
くのアガ・ブリヤ ート 自治管区という二つのブリ
に「ブリヤート・モンゴル社会主義自治共和国」が
ヤート人の名を冠した行政区 (
連邦構成主体)があっ
成立したが、 1
9
5
8年、ソ連邦最高幹部会議の決定に
たが、前者は 2
0
0
8年 1月、イルクーツク州に併合さ
より、 「ブリヤート・モンゴル」という名前から「モ
れ、後者は 2
0
0
8年 3月、チタナ│、!と合併してザパイカ
ンゴル」の文字が削られることとなった。 このこと
ル州とな った。 こうしてロシア内に 「ブリヤート 」
は、ブリヤート人が 「モンゴル人」に包含されるエ
の名を冠した行政区はブリヤート共和国を残すのみ
スニック集団でないことが公的に決定されたことを
となってしまった。
こうした状況の下、私は 2
0
0
6年秋、ロシアのブリ
9
9
2:1
9
9-2
0
3
J
意味する 。[田中 1
また、ブリヤートが、モンゴルとは別の民族であ
ヤート共和国の首都ウラン・ウデに向かった。 この
るとして、 「ブリヤート語」の制定も 平行してなさ
れてきた。
社会言語学者の荒井幸康 [
2
0
0
3
Jによると、
街は、建築物の様式もロシア (ソ連)式で看板もロ
そもそもブリヤートを含めたモンゴル諸族は、モン
系の人々 一つまりブリヤート人がいることに気づか
ゴル文字によって緩やかに束ねられていたが、 2
0世
なければ、普通のロシアの地方都市にしか見えない。
紀前半、ソ連とその衛星図であったモンゴル人民共
街は平穏で、チンギス即位 800
周年やモンゴルに関
和国においてなされた別々の民族・ 言語政策により、
する看板もなければ、書庖にもそれに関する出版物
別々の民族に別れていったのだという 。
シア語のものしかなく、街を歩く人々の中にアジア
も全く見かけなかった。たまに土産物庖でチンギス
現在、ブリヤート共和国に住むブリヤート人たち
の肖像をあしらった皮の財布を見かける程度であっ
のうち、都市の若年層は言語がロシア語化し、ほと
た。
実はブリヤート共和国で、チン ギス・ハーン即位
んどブリヤート語を話すことができない。言語に
おけるロシア化は西にいけばいくほど激しい。[c
f
.
Dyrkheeva1996:1
7-3
3
J
8
0
0周年を記念して、チンギスの武将であったボオ
ルチュを主人公にした映画 『
チンギスの最初の盟
人間文化・ 19
文化資源として利用されるチンギス・八一ンーモンゴル、日本
、 中園、ロシアの比較からー
友j が制作されている 。 しかし、現地のブリヤー ト
人によると、映画のセリフもブリ ヤート 語で制作さ
3
.r
中華民族Jの英雄としてのチンギス・ハー
ンと内モンゴル人
れたが、公開直前とな ってロシア語に変更するよう
文化資源という観点からいうならば、中国にと っ
に当局に求められた。そこで制作側は、 当局 の指示
に従い、作品をロシア語に吹き替えた。 しかし、な
0世紀以前は、マイナ ス価
てチンギス ・ハー ンとは 2
0世紀半ば以降、中華
値のものに過ぎなか ったが、 2
ぜか初公開の日に映画館が停電し、映画はそのまま
お蔵入りにな ったのだという 。
ナショナ リズムを創出する上で重要な資源へと 変化
を遂げている 。
また、ブリヤート人たちは 「ブ リヤート 共和国」
という行政単位も、消滅した こつの自治管区 同様、
内モンゴル出身の人類学者ボラグによると、近年
にいたるまで、中国が遊牧民をロマンテイサイ ズす
無くな ってしまうのではないかという危倶を密かに
抱き続けている 。 こうした状況の下、ブ リヤー ト
・
民は中国文明の拡大に対する障害 として表象される
ナショナリストの知識人たちの中には、 「ブリヤー
トj という名前を残すべく発言を続けている 者 も少
な くない。 しかし、民族主義的活動をする 者 は常 に
当局から監視され、場合によ っては逮捕、監禁 され
るのだという 。
本特集でスクリンニコヴ ァが紹介しているように、
ブリヤー トの知識人たちの間で、チ ンギスはブリ
ヤートの地で生まれ、彼 自身もブリヤート人であ っ
たとい った言説が多く見られるが、この背景 には、
このような少数民族の抑圧政策があることを忘れて
はいけない。
言 うまでもなく、こうした言説は、 ロシアを打ち
破 ったチンギス・ハ ー ンとモンゴル帝国を 自己資源
化したいという願望の表出である 。 しかし、 「ブリ
ヤート 」 という概念は 2
0世紀以降に 「民族」 として
3
想像されたものであり、現在のブリヤート民族と 1
位紀のチンギス・ハ ー ンを結びつけるのは無理があ
る。 また、チンギスがブリヤ ート 人であるならば、
モン ゴル国の人々も 「ブ リヤート人の子孫」 となる
ことになる 。穿った見方をするならば、モンゴル国
の人々が、 「ロシアのブリヤー ト民族」 に含 まれる
のならば、ロ シアはモンゴルをも包含する領域概念
ともなりうるわけで、ナショナリス トとしては、あ
まり得策ではないかもしれない。
いずれにせよ、社会主義時代、ソ連によるモ ンゴ
ル人民共和国に向けられていた民族主義の 資源とし
てのチンギスの脱資源化は、ひきつづきロシア連邦
内のモンゴル系集団にも向けられていることは確か
であろう 。 こうした ロシアによる 他者の民族主義資
源の脱資源化の動きは、モンゴルの前例のように反
作用を生み出し、ブリヤート人を してチンギスの資
源化 を進めさせていくかもしれない。
20 ・人間文化
ることはほとんどなかったのであり 、最終的に遊牧
Bu
la
g
2
0
0
2:5
J。 そもそも万
こととなったという [
里の長城は、遊牧民勢力に対する防壁 として築かれ
たものではなか ったが、野蛮人の侵入に対する中 国
文明の国家防衛のシンボルとされることとな った。
[
c
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.Bu
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20
0
2
.
W
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n1
9
9
0
J
チンギス・ハーンもかつて、漢人たちにと っては
殺したいほど忌まわしい存在であ った。例えば、チ
7
世紀に遡る伝承は以下のよ
ンギスの死を巡って、 1
うに語る 。 タングー ト王から奪 った妃をチンギスが
自分のものとしようとしたとき、 王妃は彼の性器を
傷つけた後、黄河に身を投げて死んだ。その傷が原
因でチンギスは死亡した。 しかし、これは、 実にモ
ンゴル人に圧迫されていた漢人による中傷であり、
0
0
0
死後の政治的名 誉殺人であ った [
ハイシッヒ 2
(
19
6
4):1
8
5
J。
しかし 2
0世紀初頭、モンゴル遊牧民に対する防衛
と平行して、ロマン 主義的でありながらも人種主義
的な汎アジア 主義のム ー ドの中で、チン ギス ・ハー
ンは中国人の英雄として適用されることとな った。
9
3
4
年に 「
チン ギスは、ヨー
ある漢人の風刺作家 は
、1
ロ ッパを打ち破 った中国の英雄だ Jと漢人たちが
Bu
la
g
2
0
0
2
:5-6
J
語っ ていたことを記録している 。[
楊海英 [
20
0
4
J によると、チンギス ・
ハー ンが 「中
国の英雄」 となっていく過程には、日本の関東軍 も
深く関与していた。 中国内 モ ンゴル自治区の西部、
黄河の大湾 曲に位置するオルドス地域には、チンギ
ス ・ハー ンを対象とする 「
八白 宮
」 と呼ばれる 祭殿
と祭杷が維持さ れてきた。八白宮とは、 チ ンギス ・
ハーンと四人の后の聖なる遺物が収められていると
伝えられる八つの天幕 (
ゲル )のことである 。 日本
の関東軍は、 1
9
30
年代 より中国東北部と内モンゴル
東部を支配下に入れたが、シ リンゴル盟のデムシュ
クドン ロプこと徳王 は、日本軍と協力 す ることで
文化資源として利用されるチンギス・八一ンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較か らー
1
9
3
7年、中華民国からの自治独立のため、蒙古連 M
人にと っての神として細々と記られていたが、これ
自治政府を発足させた。全モンゴル人に対して一致
を契機として内モンゴル全体の宗教資源へとなった
団結を呼びかけるため、徳王にとって、チンギスの
ことである 。
ウルリグ・ボルチゴードによると、 1
9
5
0年代から
名とオルドスの八白宮を泥る者たちの支持と八白宮
の確保が必要であった。
9
3
7年冬から日本軍は特務を
こうした背景の下、 1
オルドスに派遣してチンギス・ハーンを記った。 こ
1
9
6
0年代にかけて、共通の中国文化 というものが教
育を通じて形づくられたのだという 。内モンゴルを
含めた現在のすべての民族は、中国の共有の領土に
の動きを察知した国民党政府は、オルドス・モンゴ
ル人の武力抵抗を排除して八白宮をモンゴル人から
住む先住民であり、彼ら はすべて、中国の創始者で
奪い去った。その後、八白宮は共産党の根拠地であっ
た延安に入札「世界巨人」として毛沢東から花輪
B
o
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ch
i
g
u
d
1
9
9
5:
2
7
9
J
れたのである 。 [
文化大革命による民族文化の破壊の後、改革開放
9
4
2
年 9月には蒋介石も八白宮参拝に
が贈られた 。 1
訪れた。 こうしてチンギス・ハーンは国民党と延安
路線の中、中国人は大挙してオルドスのチンギス・
ハーン陵の参拝に押し掛けるようになった。
の共産党によって「中華民族の英雄」に祭り挙げら
れることとなった。内モンゴルのモンゴル人に抗日
に参加してもらうためには、まずはチンギス・ハ ー
ンを「中華民族」の一員に改造しなければ、ならなかっ
ある黄帝にその起源が遡ることができるものだとさ
現代の中国にとって、チンギス・ハ ー ンは中国史
上、最大の 国土を誇っ た元朝の始祖であり、領内最
大の少数民族の一つであるモンゴル民族の祖先でも
あるという理由で「中華民族」の英雄とたたえられ
ている 。中国に暮らす各民族が皆「中華民族」の一
たのである 。 [
楊2
0
0
4:
3
0
1-3
0
3
J
その後、八白宮の獲得を逃した日本軍と徳王政府
は、東部モンゴルの首府王爺廟(現ウラーンホト市)
員であるという「多元一体」の民族理論によるもの
だが、この中華民族の英雄というバッジをつけない
にて独自のチンギス・ハーン廟をつく った。一方
、
限り、少数民族出身の英雄は中国の表舞台に登場で
5年ぶり
八白宮がモンゴル人の手元に戻ったのは、 1
0
0
2
J
きない。 [
ブ レンサイン 2
9
5
3年末、共産党に対する内モンゴルのモンゴル
の1
族の度重なる要求が実つてのことだった 。 [
I
b
i
d
.
3
0
3
こうしてチンギスを 「中華民族の英雄」だとする
多くの書籍が出版され、また「中華民族」の英雄チ
-3
0
4J
ンギスを讃える歌も作られた。 また、 2
0
0
4年には内
モンゴルで連続歴史 ドラマ 『
成吉思汗』が、放映さ
れたが、民族主義への警戒から 中国当局が放映をた
その後の 1
9
5
4年、中国共産党は従来の天幕からな
る八白宮を廃し、固定建築の 「
成育忠汗│凌」をオル
ドスのエ ジン ホロ一旗に建てた。設計は、北京工科
大学出身の漢族、郭慈成に よるもので 「
漢とモンゴ
ルの文化の融和をモチーフとし、 二重の櫓の上にモ
ンゴル ・ゲルを初併とさせるドームを載せるという
ものであったが、日本軍が王爺廟に建設したチンギ
c
f楊
ス・ハーン廟と似通った建築様式であった。 [
2
0
0
4
:3
0
4,包2
0
0
5
:2
6
7
J
すなわち、内モンゴルの王族と日本、中国国民党
や中国共産党の交錯する思惑の中で、チンギスはナ
ショナリズム想像の資源として見出され、最終的に
は共産党の下で「中華民族の英雄」 として資源化さ
れることとなった。
さらに内モン ゴル東部にお いて「チンギス・ハ ー
ン廟」が、西部のオル ドスにおいて「チンギス ・
ハー
ン陵」が築かれたことは、 内モ ンゴル地域の文化に
大きな変容をもたらした。すなわち、チ ンギスは何
百年もの閥、オルドスの八白宮の祭和集団ダルハ ド
めらったため、完成から放映 まで 5年 をかかった[ブ
0
0
4
J。
レンサイン 2
現在、 「中華民族」あるいは「中国の英雄」とし
て新たに創出されたチンギス・ハ ー ンは、グ ローパ
ル化の中で市場経済とあいまって、新たな 資源化の
動きをみせている 。例えば、近年チンギス・ハーン
陵の南の広大な敷地 (
80
k
n
i)が漢族の企業 「
東聯集
団」によって買収され、オルドス市との共同出資に
よって巨大なチン ギス・ハーンのテーマパーク 『
成
吉思汗│
凌旅遊区j が建設されている 。
2
0
0
6年 8月、私はナ サン パ ヤル氏 (内蒙古大学、
本特集の執筆者)、ボルジギン・ブレンサイン氏(滋
賀県立大学)とナムジ リン ・ボルド氏 (
内蒙古大学、
滋賀県立大学博士後期諜程)とともに、こ のテーマ
パークを訪れた。ここは、中国政府によ ってi
AAAA
級旅遊区」、「中国最佳旅遊景区」などに指定されて
いる 。
人間文化・ 21
文化資源として利用されるチンギス・八一ンーモンゴル、日本、中国、ロシアの比較から一
巨大なチンギス騎馬像のある入場門付近は、多く
の上海や北京、香港といった大都市からの中国人観
光客でご、った返していた。パークの中に入ると巨大
夕食をとることにしたが、不思議とモンゴル料理の
な鉄製の騎馬武者の軍団が、チンギスの黄金のオル
ド(天幕宮殿)を中心に配置されていた。騎馬軍団
人々は、相当裕福なのが窺われる 。聞くところによ
ると、この街は炭鉱で潤っているのだという 。
庖が見当たらない。街はネオンが美しくきらめいて
おり、道路もきれいに整備されている 。服装からも
は
、 一体の高さが 3m
近くはあるという巨大なもの
モンゴル料理をあきらめて入った中華料理庖で、
であったが、その様相はまるで秦の兵馬偽を想起さ
せるようなものであった。 グループ観光客には、若
あるモンゴル人の若者と出会った 。彼は、我々が 「モ
ンゴル人」であることを確認すると、堰を切ったが
い中国人女性ガイドがついて、中国語で案内をして
いた。彼女たちは、モンゴルの民族衣装デールを現
如く語りはじめた。
「 ここは本当に漢族の街だよ 。
俺たちは押さえつけられている 。 ここは全部、国の
代風にアレンジしたものを纏っている 。
ものになった。漢族のものだ。俺たち地元のモンゴ
また、タイル張りの巨大な世界地図にモンゴル帝
国が征服した領域が、縁どられて表現されていたが、
なぜかモスクワはモンゴル帝国の領域から外されて
いf
こ。
。私
ル人が入れないような場所になってしま ったJ
が「君たちは固に対して、反対運動や陳情はしなかっ
たのかJと尋ねると「勝ち目はないよ 。不満だけど、
漢族には勝てない。漢民族はモンゴル人より、いつ
も一歩先んじている 。だから、いつもモンゴル人は
騎馬軍団と世界地区の後方には、ゲル型をした 「
蒙
古歴史文化博物館」があった。この博物館の内部には、
負けるのさ 」 と彼は力なく笑 った。
モンゴル帝国の歴史が絵巻物スタイルで大きく展示
されているほか、歴代ハーンの肖像画、内モンゴル
チンギスの聖地オルドスの八白宮を守ってきた祭
和集団のダルハド・モンゴル人たちは、このテーマ
の遊牧民の民具などが展示されている 。 しかし、ほ
とんどの展示物が、このテーマパークのために新し
パークをどう考えているのだろうか。地元の事情に
詳しい S老人に よると、聖地を観光地にすることに
く造られたものでチンギス・ハーンと直接関わるよ
は強い抵抗があったらしい。何度もテーマパーク建
設に対する反対運動が行われたが、その度に警察に
鎮圧されたのだという 。
うな造物は、全く展示されていなかった。 このよう
な事実と対照的に、テーマパークの入場門には「こ
こは、チンギス・ハーンの長眠の地。 ここにはオル
ドス・モンゴル流の文化がある 」 というキャッチフ
レーズが、大きく掲げられていた。
敷地内には、 1
0
0
0人の収容能力を誇る巨大なゲル
型レストランがあり、その周囲には宿泊施設が建ち
並んでいる 。ゲル型レストランには大きな舞台があ
り、そこでオルドス民謡、舞踊のほか、チンギス・ハー
ン・オペラが連日演じられるのだという 。土産物庖
には、チンギス・グッズがたくさん売られていたが、
同時に毛沢東グッズもそれと並んで、売られていた 。
このテ ーマパークの奇妙なところは、観光客にも
従業員にもほとんどモンゴル人が見られないことだ。
また、入場料は、地元のモンゴル人には手が届かな
0元に設定されている 。宿泊すると、料金はさら
い9
に数百元に跳ね上がる 。すなわち、このテーマパー
クは富裕な漢族じよる富裕な中華民族=漢族のため
の観光施設であるといえよう 。いまやチンギス・ハー
ンは、中国の市場経済に取り込まれることとなった
のである 。
道中、我々は、オルドス市の中心区である東勝で
22 ・人間文化
そもそもチンギスのようなナショナリズムに関わ
る資源は、第一に敵対する他者に対してマイナス価
値をもつものであり、第二にそれが他者に共有され
ない占有性 (
排他性)をもっときにおいて、最も効
果的な (
尖鋭化した )資源となりうる 。社会主義時
代のモンコソレ固においても、チンギス・ハーンがロ
シアにと って、残虐な侵略者であればあるほど、モ
ンゴル人にとっては逆にプラスの価値を帯び、密か
に資源化されていったことを想起されたい。
しかし中国においては、モンゴル族は 「中華民
族」の英雄として、その価値を漢民族と「共有」せ
ねばならない。 ところが、内モンゴルのモンゴル族
は、漢族に比べて圧倒的に人口が少ない。企業に喰
えるならば、モンゴル族は、新興の大投資家にほと
んどの株式を取得されてしまった結果、株主総会で
影響力を失った創業者一族 (
小株主)のようなものだ。
しかし、現実は、企業ではなく国家や民族に関わる
問題であるがゆえに深刻だ。
今回の調査では、私はブレンサイン氏とともに、
かつて日本軍が建設したウラーンホト市にあるチン
文化資源として利用されるチンギス・八一ンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較から一
ギス・ハーン廟も視察 した。ウラーンホ ト市は、内
お化け屋敷ともつかぬ世ー
界が広がっていた。地下壌
モンゴル東部のヒャンガン盟(興安盟)の盟都である 。
の中の一室には 「
蒙古学蔵洞」と名付けられ、モン
ゴルの歴史や文化と関わるパネル展示が行われてい
空港に降り立つと、モンゴル固に同じく、さわやか
なヨモギの匂いが薫った。なだらかな草原の丘がう
ねる景色もモンゴル固と似ている 。 しかし、モンゴ
た。 しかし不思議なことに、鉄格子越しに展示を見
なくてはいけないっくりとなっている 。一番奥の広
ルと大きく異なるのは、あたりの草原が牧草地では
聞には、道教風に造られたチンギスを中央に左右に
なく小麦畑やトウモロ コシ畑であるということ、そ
して街の看板が漢語で埋め尽くされているというこ
とだ。
いる。驚いたことに、この広間には、「ここで糞尿
ウラ ーンホトのチ ンギス・ハ ー ン廟は、市の中心
部の小高い丘の上に位置している 。廟は、文革期に
一度破壊されたものの、その後、復元された。廟の
パンフレットには、チンギスが中華民族の英雄であ
り、元朝を開いた英明な君主であると記されており、
その功績が讃えられている 一方、この廟が日本軍に
よって建築されたことは書かれていない。廟の中に
入ると、道教の神のようなデザインのチンギス像が
肥られており、祭壇には道観で見かける太い線香が
捧げられていた。オルドス同様、中国人の参拝客も
見かけられた 。 また、チンギスの一代記が壁画とし
て描かれている 。廟へと至る坂の途中には、展示室
があるが、そこには中国共産党や内モンゴル自治区
オゴデイ、フピライの三大ハ ーンの座像が置かれて
すべからず」との注意書きがなされていた。
薄暗い洞窟の中を進むと、モンゴルの伝統的宗教
であったシャ ーマニズムの部屋もあった。「チン ギ
ス・ハーンはシャーマニズムを信仰していた」とい
う説明書きの後で目にしたのは、黒閣の中、ハロ
ウインのカボチャやおイじけのマスクをしたマネキン
や、ノコギリで切り刻まれようとしているマネキン
{象だった。中にはコンドームが股間からぶらさげら
れたマネキン像もいる 。あまりの酷い、人を愚弄し
ているとしか思えない展示に我々は開いた口がふさ
がらなか った。
さてここまで、中国においてチンギス・ハ ー ンが、
「中華民族」の英雄として資源化され、さらに観光
の政治家たちが、この地に参拝したときの写真がと
ころ狭しとばかりに飾られていた。かつての関東軍
資源として利用されている様子を概観してきた。そ
の中で二つの問題点が浮き彫りにされてきた 。第一
に中国におけるチンギス・ハーンやモンゴル文化に
の情宣拠点は、中国共産党の情宣拠点として継承さ
れているのであった。
対する称賛と侮蔑(グルベルジン ・ゴ アの伝承、毛
沢東の詩、秘史蔵洞など)というアンヴィパレント
注目すべきは、オル ドスのチンギス・ハー ン陵に
も、このチンギス・ハーン廟にも毛沢東の詩の一節、
な態度の意味するものは何かという点である。第二
天の寵児として 一世を風廃した男)の
「一代天騎 J(
文字が彫られた騎馬チンギス像があることである 。
1
9
3
6
年 2丹、毛沢東は「一代 の 天 騎 成 吉 思 汗 た
だ弓をひきて大離を射るを識るのみ みなすぎにけ
り」 と詠んで、いる 。つまり、毛はチンギスの軍事的
にチンギス・ハーンが「中華民族」ナショナリズム
創出のための文化資源として占有されることによ っ
て、内モンゴルのモンゴル人は自らのエスニツク・
アイデンテイティをいかに構築するのか、という点
である 。
第一の問題については、古典的な人類学の王殺し
才能をほめたたえる 一方で、、それだけの人物である
とし、暗に自分はそれ以上の人物であると自画自賛
の理論が役に立っかもしれない。 フレーザーによる
と、王となろうとする者は、王を殺すことによって
しているわけである 。 [
c
f武田・竹内 1
9
6
5
:2
1
5
-
ぐ隣に『秘史蔵洞 j と書かれた地下施設がある。こ
継承することができるのであり、それが実際の殺害
であれ、象徴的な殺害であれ、世界的に広く分布す
c
f
.フレーザー 2
o
o
3J
る現象である 。 [
そもそも、 1
7
世紀以降、 2
0
世紀初頭にいたるまで
の「秘史」とは、元朝秘史を意味するらしい。洞窟
は中ソ冷戦のときに造られた地下壕で、総延長 は 2
中国を支配した清朝は漢人の明朝の後継者というよ
りも、モンゴル帝国の後継国家として成立したが、
Mに及ぶ。 しかし 9
0年代、ソ連の脅威がなくなった
清朝崩壊後に成立した中国(国民党であれ、共産党
であれ)は、モンゴル帝国および清朝の後継者として、
2
2日
さて、チンギス・ハーン廟の山門を降りると、す
ことを受けて観光施設に転用されたのだという 。薄
暗い地下壌の中に入っていくと、そこは博物館とも
0
世紀
自ら を正統化する必要があった。いうな れば2
人間文化・ 2
3
文化資源として利用されるチンギス ・八一ンーモンゴル、日本
、 中園、ロシアの比較から
以降、中国はチンギス・ハーンのモンゴル帝国とそ
ている 。
の後継国家たる清朝に対する正統な継承者たること
0世紀を
前出のボラグも、内モンゴル人が自らの 2
を欲したのであり、そのためにチンギスは自分たち
弱体化 し中国によ って圧倒された時代 だと評価し
の王 として、まつりあげられた後、象徴的に殺され
世紀のモンゴルの凋落ぶりは、栄光と
ており、 20
なくてはならなかったのである 。
その結果、チンギスは、 二度殺されることとな っ
武勇の歴史と鮮やかな対照をなすのだとする 。そし
て、彼らがチンギス・ハ ー ンを渇望するのは、モ ン
た。一度目はグルベル ジン・ゴアの伝承の無名の作
ゴルの勇敢さの回復への渇望 なのである、と い う。
者たちによ って
、 二度目は中国共産党と毛沢東に。
[Bu
l
ag2 2:234-235J
しかし、事態は複雑である 。 まず、内モンゴル人
のチンギスへの渇望が、モンゴル国とは異 なった
、
極論するならば「中華民族」のエスノスケ ープの構
築を手助けする危険性があることも否めない。
現在、
内モンゴルの首都フフホトで、
は漢民族が圧倒的に多
いものの、モンゴル族学校やモンゴル人経営の庖 を
訪ねると、必ずとい っていいほど、チンギス・ハー
ンの肖像画と大草原の絵がセ ッ トで飾られている 150
実は、このようなチンギスの極端な利用は、ウラン
毛沢東は、詩作という「言葉で讃えた後にその権威
を無化する 」方法で、チンギスを象徴的に殺害 した。
さらに中国共産党は、移動式の祭組殿「八白宮」 を
、すなわち地理的に位置の定ま った「
墓
「
成吉思汗陵J
所」へと、文化的コンテキストを読みかえることで、
その葬儀を自らの手でやりなおしたのである 。葬儀
の主催者は、故人の継承者たる資格を獲得する 。 こ
うしてチンギスは中国の大地に眠る 「中華民族Jの
皇帝 となり、讃えられる 一方で、その継承者たる毛
沢東 より劣る存在 として庇められることとなったの
である 14。
第二 の問題点は、 事情が錯綜しており、簡単 に
∞
パートルでもあまり見かけられない光景でもある 。
こうした内モ ンゴルとモ ンゴル国のチンギスを巡
結論 を出すことはできないだろう 。 アルマ ーズ ・
る温度差 は、チンギスに対する両者の決定的な 認識
の違 いによるものである 。内モンゴル人にと って
、
ハーンは 「内モンゴル人にと ってチンギス・ハーン
は
、 圧倒的に優勢な中 国の国家 と社会に対して、 民
チンギス・ハ ー ンは宗教的な崇拝対象、つまり 「
神」
であるのに対し、モ ンゴル国においてチンギスは、
族/文化的生 き残りのための象徴とな っている 」
[Khan1995:2
4
8J と言 う。 しかし同時にハーンは、
比較的裕福で政治的に安易な知識人と都市民たち
偉大な政治・ 軍事指導者や 「
民族」の誇りではあ っ
ても、 「
神」ではないのである 。モンゴル国の人々は、
は、中国化した日常生活の現実の中で、遊牧に感傷
チンギスをあくまで 「
人間」であるとしか、考 えて
いない。
的な価値を感じているが、彼らがこのような遊牧文
化を心に抱いているのは、 一種の 「自己の他者化」
チ ンギス・ハーン廟に参拝し、少し道教的な大型線
か
、 実際の生活文化に対する「自己否定」 である
[Khan1
9
9
6:1
5
2J とする 。 さらに 「このような内
モ ンゴル人は多数派であり、彼らは一般的に、人数
香を捧げて、 「
神」としてのチンギスに祈りを捧げる 。
しかし、モンゴル国 (
外モンゴル地域)では、 歴史
的にチンギスは、政治資源として利用されることは
が多く経済的な問題を抱えた地方の農業や都市に住
む親族に心を悩ませながらも、国家にも 漢族やモン
ゴル族全体に対しでも、何ら肯定的な価値を見出し
あっても、宗教資源として利用されることはなかっ
た。
現在、モンゴル国では、チンギス関係の書物があ
ふれんばかりに出版されているが、チンギスを有能
ていない [
I
bi
d.
l5
4
JJ という悲観的な現状を報告 し
現在、内モンゴルの人々はチンギス・ハ ー ン陵や
な外交官 として、あるいは卓越した経営者として捉
える書物はあっても、チンギスを神とした聖典は、
1
4 中国の著名な哲学史家
、 鴻友蘭によれば、毛沢東は
中国史上未曽有の権威と権力を帯びた「君」であり
「
師」であった。(
中略)
一般に 「
君」は天子 =皇帝、
印刷は聖人=孔子 (
その封号は至聖先師)とされる
から、毛沢東は中国歴代の皇帝や聖人の誰もがなし
えなかった権威と権力の至宝を二つながら手にした
ということになる[村田 1
9
9
4:1
3
01
3
4
]
24 ・人間文化
1
5 フフホトを訪れたモ ンゴル国のモ ンゴル人たちに話
を聞く機会があったが、ある者たちは、漢字で「成
吉思汗Jと書かれたチンギス・ハーンの土産物や道
教の神のようなチンギスの図像に対して、苛立ちゃ
侮蔑を表明していた。
文化資源として利用されるチンギス・ J
¥ーンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較から
未だに出版されていない。最も神に近い立場の者と
して「チンギスは、偉大なシャーマンであった J16
与えていること は否めない。言い換えるならば、 内
モンゴルは中国と並んで、、文化資源、チンギスの占有
という奇説もあるが、シャーマンが人間であること
権を巡って、モンゴル国のライバルになるという構
に変わりはない。例外的に、中国内モンゴルから
図が出来上がっているのである 。
.ゲレルパートルが、
モンゴル国へ移民した哲学者 G
とはいえ、内モンゴルとモンゴル国の聞で、チン
モンゴル国でチンギスを神とみなし「チンギス教」
ギス・ハーンを巡る連帯が存在しないわけで‘はない。
的な活動を続けている。しかし、その狂信的な 言説
内モンゴル ・オルドスの八白宮の祭杷を守ってきた
からか、多くのモンゴル人知識人からは、冷ややか
9
9
2年、民主化まも
ダルハド ・モ ンゴル人たちは、 1
な目で見られている 。
ないモンゴル国 17に招かれて、チンギス・ハーンが
現在のモンゴル固において、チンギスが政治資源
限るヘンティ県山中でのチンギス祭杷儀礼の方法を
に特化した理由として、以下の二つが考えられる 。
指導している 。モンゴル国では、チンギスの埋葬さ
第一の理由は、数百年をかけて、チンギスのロイヤ
れた土地が存在するが、祭杷儀礼は行われてこな
ルファミリーの祭杷集団たちが、現在の内モンゴル
かった。 これに対して、内モンゴル・オルドスでは、
のオルドスにまで南下した結果、外モンゴル地域に
チンギス祭杷という文化は継承されてきたが、オル
は、チンギスに関わる宗教文化は消え失せてしまっ
ドスは 「陵」でも埋葬地でもない。その結果、現在、
たというものである 。清代におけるチベット仏教の
二 カ国に分断されたモンゴル人の間で、 一時的では
伝播もそれに一役を買った。第二の理由として、チ
あるものの、文化と土地を相互補完しあう関係が成
ンギスがモン ゴル 国におけるナショナ リズム構築の
立したのである 。
ための資源として成立したのが社会主義の時代で
しかしながら、そもそもモンゴル文化のコンテキ
あったことが挙げられる 。その成立過程は、 3章に
ストにおいて、チンギス・ハーンの埋葬地そのもの
て述べた通り、ソ連による侵略者としての糾弾する
ことで、民族主義の脱資源化を狙ったことに対する反
は、チンギスの祭把集団の南下以降は、聖地として
信仰の対象とされてはこなかった。彼らにと って重
作用として、モンゴル人民共和国の知識人たちに
要なのは、チ ンギスの箪 l
幡であり、八白宮の中の聖
よって政治資源チンギスの創出を促されていった。
遺物であって、土地と 信仰は結びついて こなか った
ここで重要なのは、ソ連のチンギス批判はあくまで
のである 。
軍事 ・政治指導者としての彼であって、「神」とし
おそらく、このチンギスの埋葬地の「聖地化」と
ての彼で・はなかった。そもそも 2
0世紀初頭、すでに
いう新たな現象は、文化資源としてのチンギスの占
外モンゴルのハルハの人々は仏教こそ信じるものの、
有を巡るポ リテイクスの中で創 られてきたものに違
チンギス信仰などは持ち合わせていなかった。 さら
いない。中国が八白宮を「陵」へと意味論的改ざん
に、社会主義的無神論の普及もあいまって、モンゴ
を行った結果、内モンゴル人たちの間で土地に対す
ル人民共和国では、チンギスは政治資源へと特化し
る整性や正統性を主張する意識が生まれた蓋然性は
高い。モ ンゴル国においては、 日本やアメ リカといっ
ていったのである 。
さて、内モンゴル人たちのチンギスに対する過剰
な利用の持つ危険性に話を戻そう 。前述の通り、中
た外国の考古学者たちが、その場所を「陵墓」と 名
付けて、そ の価値を喧伝したことが、祭記性をもた
国では、チンギスはモンゴル族を含めた「中華民
なかった埋葬地を、「聖地化」あるいは「陵墓化」
族」の共有財産とされている 。 これに対して、モン
ゴル 国の モンゴル人たちは、非常な嫌悪感を抱いて
いる 。 ところが、中国内の内モンゴル人と内モンゴ
ル自治区という領土の存在は、彼らにとっては不本
意ながらも、中国にチンギス継承の正当性の論拠を
1
7 当時のモンゴル国の首相は、モンゴル国のプ リヤー
. ビャンパスレンだった。彼は、世界モン
ト
人
、 D
ゴル民族連盟の議長として、パン・モンゴリズム的
な活動を行っていた。二木博史によると、この「世
界モンコ ル民族連盟」の活動が、その後、具体的な
進展をみせていない再大の理由は、中国への遠慮で
9
9
7・
1
2
4
J。 しかし、「遠慮」というより、
あ る [二木1
裏の政治取引があったものと予想される 。
e
1
6 シャ ーマニズム研究者である O
.
P
u
r
e
vの立てた説
である 。ちなみに彼はフブスグルのダルハドという
エスニック集団の出身で、ハルハ人ではない。
人間文化・ 2
5
文化資源として利用されるチンギス ・八一ンーモンゴル、日本
、 中園、ロシアの比較から一
させるのに一役を買ったのかもしれない。
ス人をよそおい、匿名で論文を書いたことに発する 。
本来、モンゴル人は、 「陵墓 j という概念をもっ
ていなかった 18。 このことは、大地を掘ることを禁
た小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也j が出版さ
ずるいにしえの旋どおり、今だ 「
チンギスの陵墓」
れ、大ペストセラ ー となった。 [宮脇2
0
0
2:
2
1
8
J
は発掘されておらず、その位置も特定されていない
ことを考えれば、明らかである。 二 カ国のモンゴル
日本軍のシベ リア出兵の後の 1
9
2
4年、それを継承し
つまり、
1
9世紀末から 2
0
世紀はじめにかけての日
本人は、自らの ナショナリズムの道具としてチンギ
人にとって重要なのは、おそらく埋葬地という土地
ス ・ハー ンを利用 したわけである 。欧米に対して劣
そのものというより、チンギスが中国領内に眠って
等感をいだいていた日本人にとっても、チンギスと
いないということ、そして現在「モンゴル」 と名付
けられている国の領土内に存在しているということ
その子孫たちは、 ヨー ロッパを打ち破った唯一の「
黄
色人種」の英雄だ、った。 しかし、中国と異なり、歴
なのであろう 。その後、現在のモンゴル国において、
史的に日本はモンゴルと支配被支配の関係もなけ
内モンゴルのようにチンギスが宗教資源化している
れば、地政学的な重なりもない。 したがって、チン
現象は、あまり見られていなし、。モンゴル固にとっ
ギスをナショナ リズム創 出のための資源とするのは、
てチンギスは、あくまで 「
政治資源Jなのである 。
実際不可能で、あり、その利用は空想的な同化願望に
いずれにせよ、内モンゴル人にとってのチンギス・
しかなりえなかった。ただし、チンギス・ハーン=
ハーンは、自らのアイデンティティを構築する上で
源義経説は、プ ロの歴史学者たちから厳しく批判さ
欠くことのできない文化資源であると同時に、 「同
じ民族」であるモンゴル図のモンゴル人との連帯を
れたものの、当時の一般の大衆には熱狂的に支持さ
れた。その潮流は、「大陸進出の夢」が敗れた第二
構築する資源、となる 一方で‘、亀裂を深める材料にも
次大戦後も、江上波夫に代表される、 一部の学者に
なりうる 。 また、チンギスは彼らを「中華民族Jへ
よる 「
騎馬民族征服説」や推理小説などの形をとっ
と取り込む危険性を持った資源でもある 。今後、内
モンコソレ人にとって、こうした両刃の剣であるチン
て、部分的に人々に支持され続けることとな った。
ギスといかにつきあっていくかが、問われていると
人のモンゴル人に対する親近感を育成するのに大い
いえよう 。
I
b
i
d.
2
1
8
J
に貢献しているといえる [
ここでは、モンゴル国のチンギス ・ハ ー ン即位
4
. 堺屋太ーのチンギス・ハーン:日本におけ
8
0
0
周年事業に深く関わった堺屋太ーの言説と彼が
るチンギス・八一ン利用にかえて
しかしながらこの偽説は、今にいたるまで、日本
企画した モ ンゴル観光ツア ーの実態を通じて、チン
明治維新以降の日本人は、歴史学者の宮脇淳子が
ギス=源義経という日本人のチンギス同化願望の系
明らかにしてきたとおり[宮脇 2
0
0
2
、Mi
y
a
w
a
k
i
2
0
0
5
J、
チンギス・ハーンが源義経で、あったという架空の物
譜が、今も 「団塊の世代 j 以上の人々の閲で、別の
語を控造してきた。拐、義経が、衣川で討ち死にせず
ている様子を示したい。
に北海道、果ては大陸まで逃げてチンギス ・ハー ン
形のファンタジーと して継承され、資源化が行われ
堺屋太ーは
、
1
9
3
5年生まれ。元官僚にして作家で
そもそもこの説は、のちに逓信大臣、内務大臣と
9
7
0年の大阪の万博の企画者であり 、「団塊
あり、 1
の世代」 という言葉の発案者でもあり、また小測政
なった末松謙澄が、イギリスのケンブリッジ大学に
権時代に経済企画庁長官も務めたという多彩な能力
8
7
9年、差別的な待遇に頭がきて、イギリ
留学中の 1
0
0
6
年、彼がチンギ
を発揮してきた人物である 。2
になったという俗説である 。
ス人に日本人の偉大さを示したいと考えて、イギ リ
ス ・ハー ンの小説を日経新聞に掲載していたことは
周知のことであるが、同時に彼は、2
0
0
6
年のモンゴ
ル国のチンギス ・ハー ン即位 8
0
0
周年記念事業のプ
1
8 ここでいう「陵墓」とは、権力者による正統性と権
威誇示のシンボル、あるいはその子孫や従属者たち
が参拝する埋め墓と参り墓が一致したものとして使
用している 。八白宮はそういう意味では、「移動す
る参り墓」ということになる 。
26 ・人間文化
ロデユースを手掛けていた。例えば、モンゴルでチ
ンギス・ハ ー ンの 5
0
0
頭の騎馬箪団ショ ーや馬頭琴
オーケス トラ、チンギス・ハーン ・オペラを企画し、
それらの観覧を含めた日本からモンゴルへの観光ツ
アー もプ ロデユ ースしている 。
文化資源として利用されるチンギス・ J
¥ーンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較から
その堺屋のチンギス・ハーンおよびモンゴル帝国
ここで重要なのは、堺屋の「チンギスのモンゴル
観は、独特のものである 。彼の著書『堺屋太ーが解
帝国は、現代アメリカのように偉大である 」 という
論理は、モンゴル帝国とアメリカがイコールで結ば
0
0
6
a
J から読み取
くチンギス・ハンの世界 J [堺屋 2
れる、彼のチンギス・ハ ー ン論は、以下のような二
つの特徴を備えている 。
れている以上、その逆、すなわち 「アメリカは、モ
ンゴル帝国のように偉大である」という論理に変換
①チンギス・ハーンの足跡のうち、否定的側面に
可能だということである 。 この本の出版から 2年を
は目をつぶり、肯定的価値のみを抽出する 。
経た現在、アメリカの金融資本主義の化けの皮がは
②モンゴル帝国を現代アメリカに l
除えて賞賛す
る。
がれ、その凋落ぶりは著しい。 しかし、戦後派の堺
同書によると、チンギスは「信長・秀吉・家康の
屋にと ってアメリカは、憧れの夢の国であり続けた
に違いない。
三人分をひとりでやってのけた男 」であり、その偉
こうした認識は、おそらく堺屋が企画したモンゴ
大さは 「
地球規模での人類社会のあるべき姿に思い
をめぐらせ、その実現のための具体的な構想と手法
ルツアー 「
堺屋太一氏が語る「チンギス・ハン 」モ
I
b
i
d.
12-1
6J
を練り上げていたこと 」にある 。 [
そして i
r無敵無限のスーパーパワー j というこ
とでは、 1
3世紀のモンゴルと 2
1世紀の米国は共通し
I
b
i
d.
2
6
Jのである 。 さらに 「
地に境界なく、
ている J[
人に差別ない」 世の中にしようという理念をも った
チンギス・ハーンは、 「
無限無差別の取り込み主義」
というコンセプトをもっており、チンギス・ハーン
ンゴル 6日間 Jに参加したツーリストにも共有され
た認識であったことであろう 。以下、彼の企画した
ツアーに同行することで得た情報をもとに、アメリ
カへの憧れがモンゴルへの憧れへ変換されたとき、
どのようなファンタ ジーが生まれるのかを検証して
みよう 。
ツアーの初日、関西空港のカウンター前に集合し
さらにはロシア人、アラブの人種まで加え、孫の代
になると、ハンガリ一人やイギリス人の将校、ユダ
0
0人ほどで、 6
0歳以上の男性が中心であっ
たのは、 1
た。参加者は 2
0名ほどのグループに分かれており、
9人。そのほとんどが6
0
代以上と思わ
私のチームは 1
れ、現役を引退した数組の夫婦連れもいた。中には
ヤ人の宰相まで出た」のであり、それは 「あたかも
1
8世紀末以来の米国の発展に似ている J[
I
b
i
d
.
2
8
J。
かなりの高齢の女性二人組もいた 。 しかし、おそら
く3
0
代以下の参加者は私一人であったと思われる 。
そして軍事経済の最強固になる過程についても 「チ
ンギス・ハンの四十年間は、 ジョー ジ ・ワシントン
からウッドロー・ウィルソンやハーデイング、クー
また、このツアーの参加者の中には、関西の財界を
代表するような有名人を含む大企業の会長や社長、
の配下には、「トルコ人、漢民族、 高麗人、イラン人、
リッジ各大統領にいたる米国の 1
5
0
年余にも匹敵す
るだろう J [
I
b
i
d
.
2
8-2
9
J としている 。 また、チン
ギスの 「
経済重視」というコンセプトをもっており、
「
塩引や交紗などの不換紙幣を大量 に発行、これを
I
唯一の基軸通貨とした」のであり 「そんなことは (
中
略)1
9
7
0年代からの米国が主導する世界までない 」
[
I
bi
d.
45
J のであ った。
チンギスの事績を肯定的に評価するのは、日本で
は珍しいことではない。 しかし、ここまで執効にア
メリカになぞらえてチンギスを評価するのは、堺屋
の独創であろう 。 このような堺屋の「比較米蒙チン
ギス論」は、ヨーロッパのメディアが報じた 「アメ
リカはモンゴル帝国のように残虐な侵略者だ」 とい
う認識と対照的である 。堺屋にと って、チンギスの
モンゴル帝国は、あくまで現代アメリカのように偉
大なのである 。
経営者 といわれる人々が多く参加していた。
全六 日間のツアーの目玉は二 日目の 「
堺屋太一氏
J と「モンゴル建
によるライブ&トーク (
講演会 )
00
周年記念騎馬隊観戦」である 。その後の 三 日
国8
目にはウランパートル市内観光とチンギス・ハーン・
オペラの鑑賞、四日目から五日目にかけてウラン
パートル近郊の景勝地テレルジのツーリスト・キャ
ンプに宿泊、六日目に帰国という旅程である 。
二 日目の堺屋の講演会は、とある大きなホテルの
大広間で行われた 。関西から参加した 1
0
0人と東京
0
0人強を合わせて 200人ほどの聴衆が
からの参加者 1
席についていた 。
0年来の知人であり、共同企画者
最初に、堺屋の 3
である講談社の T氏が挨拶をした。
T氏は堺屋との出会いやその後のつきあい、そし
てこの企画にかける彼の情熱について話した。また、
アイデアの宝庫であると堺屋を絶賛した後に、「今
人間文化・ 27
文化資源として利用されるチンギス・ハーンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較からー
回の本 19は傑作。 とくに、チンギス・ハーンの岩の
ノt
ードの先生のより、ちょっと頭がよかった」などと、
上に座っている写真は傑作です。堺屋先生の思いが
結集していると思います」 と言う 。 ここでいう 「
チ
常にモンゴルをアメ リカより持ち上げて いた。 もち
ろん、モンゴル帝国も現代アメリカも、差別のない
ンギス・ハーンの岩」とは、現代のモンゴル人が、
世界をつくろうとした/ しているのかは、おおいに
チンギスが座った石」 とみなしているものであり、
歴史学 ・考古学的にも実証されたものでないことを
疑問である 。
断わっておきたい。講談社から出版された彼の著書
た「アメリカのように /以上に偉大なモンゴル帝
国j の世界を自らの手で再現したものである 。
の見開きのカラーペ ー ジには、「チンギスが座った
岩j に腰掛けて、進かかなたの草原を見つめる堺屋
0
0
騎の騎馬軍団シ ョーは、そうし
彼が企画した 5
ショ ーの会場となった 「
世界Jは、ウランパート
ル近郊の草原ツーリスト・キャンプ、ウンドゥルドゥ
の姿があった 。T氏の言 う 「
堺屋先生の思い」とは、
憧れのチンギスの腰掛けた岩に座ることで、チンギ
スを追体験ヰ同化したいという願望に他ならない。
人を中心とした外国人観光客のためにつくられた、
最後に T氏は、「堺屋先生のモンゴルに対する 「
思
い」の強さは並々のものではなく、ここのテ ーブル
特殊な 空間であった。チケ ッ ト売り場の横の入り口
を越えると、土産物庖が左右に続いている 。そこには、
の配置から、ツア ーの日 程に至るまで、いろんなこ
モンゴルの骨董品や土産物の他、日本の焼きそばや
とに口出しをされました。すべて堺屋先生の目配り
がいっています」と話を結んだ。
おにぎりも売られていた。スタ ッフや売り 子は日本
語を話す者も少なくなく、この空間の外のモンゴル
その後に登場した堺屋の講演は、基本的には彼の
著書 『
堺屋太ーが解くチンギス・ハンの世界j に準
社会では考えら れないくらい、笑顔を浮かべて日本
5歳のとき(19
5
0
ずるものであった。彼は、自身が 1
年)からモンゴルの歴史の魅力に取りつかれたこと
から話を起こし、チンギス ・ハー ンとモンゴル帝国
の偉大さや先進性について説明していった。
この日の彼の講演で特筆すべきは、堺屋のモンゴ
ル帝国賛美は、 l
除えの形式が従来の 「モンゴル帝国
ブの草原を柵で囲 って創られていた。そこは、 日本
的な腰を深く折り曲げるお辞儀をしていた。モンゴ
ル人に辞儀の習慣がないことは、 言 うまでもない。
1
3世紀 の天幕」ゃ
「
土産物庖街」 の向こうには、 1
トナカイ遊牧民のテント 「オルツ Jなどが建て られ
3
t
!
t
i
妃の鎧姿に身をつ
ており、あたりを民族衣装や 1
つんだモンゴル人スタッフたちが観光客を迎えた。
は現代アメリカのように偉大だ」 という図式から、
記念写真用の馬や E
告書記も連れてこられている 。また、
小さな舞台では、カラフルな衣装に身を包んだ踊り
「モンゴル帝国は、アメリカより偉大だ」 という図
子たちが、民族舞踊を踊っていた。
式へと変化していたこと である 。
例えば 「チンギス・ハーンはどこの文化を 普及さ
せたという痕跡はまったくない。 イスラム教であろ
うが、ネストリウス教であろうが。世界最初のグロー
本来、遊牧生活を営んできたモンゴル人は分散し
て居住するのが基本である 。 しかし、堺屋は、草原
を柵で聞い、モンゴル遊牧世界を小さく凝縮させた
パリズム、差別のな い世界をつくろうとしました。
1世
これに似ているのが、アメリカです。つまり、 2
紀のアメリカが考えていることを、モンゴルは 1
3世
紀にやろうとしたんです。
」 と語る 。
また、モンゴル帝国の情報網の素晴らしさを讃え
1
9
9
1年の湾岸戦争に参加したアメリか の少
た後、 1
将は、われわれの情報網はチンギス・ハーンに及ば
ないと語ったんで、す」 という 。あるいはチンギスの
経済政策に関して 「チンギスの財政官僚たちは、ハー
1
9 講談社が出版した 『
堺屋太ーが解く
ンの世界j のこと 。
28 ・人間文化
チンギス・ハ
箱庭的小宇宙を造り上げたのである 。
土産物屋街の 向こうに、果たして騎馬軍団の観戦
グラウンドがあった。観客は屋根付きのひな壇状の
客席に腰掛けて、眼前に広がる騎馬隊のショ ーを見
るという仕組みである 。
左前方にはチンギスのオルド(移動式宮殿)と思
しき巨大なゲルが建てられている 。準備が整うと、
ゲルの向こうの左前方の丘の向こうから馬蹄音を轟
かせて、騎馬軍団が押し寄せてきた。騎馬武者たち
は、赤、黄、青、白という四つの旗色の部隊に分か
れており、客席に腰掛けた我々の現前で、複雑な交
差 を繰り返す。 また、彼らは疾走しながら馬を乗り
換えたり、立ち乗りをしたり 、後ろを向いて矢を射
たりとい った技を次々に披露した。 しかし、騎馬武
文化資源として利用されるチンギス・八一ンーモンゴル、日本、 中園、ロシアの比較かうー
者の掛け声も明らかにやる気が感じられず、集団
も自然の山木草水を凝縮させて造られる日本庭園の
行動(フォーメーションの変化)にも乱れがあった。
ように。つまり、堺屋が演出したのは 「アメリカの
それは、彼らの見せ物とされていることに対する騎
ように/以上に偉大な世界帝国モンゴル」 を日本人
馬武者スタッフの無言の抵抗のようにも見えた。や
の手に届く箱庭にすることだった 。箱庭にはおも
がて、ショーは「ムカリ国王」の客席への拝礼をもっ
ちゃの軍隊も据え置かれた。
偉大な他者の自己化を図るということ 。堺屋の企
て終わりを遂げた 。
ところで、この騎馬軍団ショーには、不思議とチ
画は、内容や方法論こそ異なるものの構造という点
ンギス・ハーンを演じる者はいなかった。騎馬軍団
において、明治から大正期にかけて、チンギス・ハー
も、チンギスの将軍であったムカリ国王の手勢であ
ンを日本人 (
源義経)に同化させようとしたファン
ると設定されており、ムカリ役の人物がひな壇に座
タジーの系譜を継承したものだった。
る我々の前で陣頭指揮をとっていた 。
それにしでもなぜ、このショーにチンギスが不在
ちなみに日本人のチンギスに対する同化願望が最
も歪んだ、
形で現れたのが、 2
0
0
7年に公開された 『
蒼
地果て、海尽きるまでj である 。 この映画の
なのだろうか。二通りの解釈が考えられよう 。第一
き狼
の解釈は、プライドの高いモンゴル人にとって、た
制作総指揮である角川 春樹は、彼に降りてきた神の
とえショーであれ、チンギスが客席の外国人に拝礼
することを潔いとしなかったのではないか、という
託宣 とある女性 「
チャネラー」の託宣 により、自身
の前世がチンギス・ハーンであることがわかったと
ものである 。第二の解釈は、 実はチンギスは、客席
0
0
7:6
6-9
5
J。そ
大まじめに語っている [
c
f
.
角川 2
で軍団を 「閲兵」 していた堺屋太ー と我々ツーリス
ト客だ、ったというものである 。グラウンドにチンギ
は製作されたのである 。
して、彼自身の人生がチンギスになぞられて、映画
スがいない以上、騎馬軍団に向けられた堺屋 と同伴
堺屋太一のファンタ ジーは、戦前の日本人が叶え
8
0
0年前、騎馬軍団を閲兵していた
られなか ったこつの偉大な世界帝国、すなわちアメ
者の眼差しは、
であろう、チンギス・ハーンの眼差 しと重ってくる 。
リカとモンゴル帝国を 一度にして自分のものにする
あるいは、日本モンゴル双方の企画者には、最初
という パッ ケー ジ企画でもあった。 このパ ッケー ジ
からチンギスがどこにいるのかを、はっきりさせな
化は、彼のたくみな弁舌 とレトリックによって、そ
いという意図があ ったのかもしれない。あえてチン
の著書や講演会で周到に演出されたといえよう 。一
ギスを不在にすることで、チンギスという文化資源
度で二度おいしいこの企画に対して、敗戦後の貧し
を巡って、日本側とモンゴル側に占有の争いが起き
い日本社会に育ち 、対照的に圧倒的な 豊かさを誇る
ぬよう、ぼかしを入れたのではないかとも考えられ
ょう 加
。
アメ リカ社会に憧れた世代は、強く魅了されたに違
いずれにせよ、堺屋 はモンゴル高原の一角に 1
3世
いない。
最初に述べたとおり、このツアーの参加者は、ほ
紀のモンゴル帝国の世界を創造し、ツアー客もかり
とんどが団塊の世代以上であり、 3
0
代以下の若い世
そめの騎馬軍団の閲兵に酔いしれた。彼の創造した
代の参加はほとんど見られなか った。おそらく現在
世界は、いかにも 「
縮み思考」の日本人らしい発想
のものである 。彼は、草原を区切り、そこに考えら
の若い世代は、偉大な世界帝国としてのモンゴルに
3世紀のモンゴル文化を凝縮させた。あたか
れうる 1
ロマンを感じないのと同じくらい、アメリカに対し
でも憧れを抱いていない。そうい った意味において、
日本における明治以来のチンギス・ハーンとモンゴ
ル常国に対するロマンティシズムは、もはや終鳶を
2
0 以前にモンゴルへのツアーを企画したある大手旅行
代理庖が「モンゴルでチンギス・ハーンになろうリ
というキャッチコピ ーをパンフレットに載せてい
た。それに対して、ある日本在住の内モンゴル人が、
抗議の電話を入れた結果、そのキャ ッチコピーは使
われなくな ったのだという 。その事実を今回の堺屋
太ーや旅行代理庖が知っていたかどうかは不明であ
る。
迎えつつあるといえよう 。
結びに
本稿ではチンギス ・ハーンという人物を巡って、
モンゴル、欧米、ロシア、中国、日本といった国々
がいかに文化資源として利用してきたか、について
概観してきた。
人間文化・ 29
文化資源として利用されるチンギス ・八一ンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較からー
これらの国々は、チンギス利用の目的と利用形態
日本のチンギス 利用は、第二次世界大戦以前は、
に関して、対照的な位相にある といえる 。 まず、利
中国東北部の支配のため中国からの独立を目指す内
用の目的に関しては、 一つのグル ープ(モンゴル、
モンゴルの人々を援助するという意図か ら、チンギ
中園、ロシア)が、国家による政治資源とするのに
ス廟をつくるなどの政治利用を したのは事実である 。
対して、もう一つのグル ープ(欧米、日本)が、国
しかし、第二次大戦に敗れ、大陸進出の野望が断た
家が関与しない市場や産業(とく にメディアによ
れるともっぱら、文学や映画といった文化資源とし
る)
"
[
文化」資源として利用するという対照性である 。
てチンギスを利用することとなった。
チンギスの利用形態に関しては、一つのグル ープ(モ
こうした利用目的に関する政治か、文化かという
ンゴル、日本、中国)が、チンギスがプラスのイメー
対照性は、現在もモンゴル系住民の居住地域が、自
ジや価値をもっ存在として利用されているのに対し
己の領域と重なっているか否かという 地政学的な位
て、もう 一つのグル ープ(欧米、 ロシア )は、マイ
相によるものだ と考えられる 。モンゴル入居住地域
ナスのイメ ージや価値をもっ存在として利用されて
と重なりがある国、すなわち中国や ロシアにとって
いるというコントラストである 。
は、チンギスをいかに評価 し利用するかは、現在進
社会主義時代、モンゴルは、ソ連によって行われ
行形の政治問題であるのに対し、直接重なりのない
たチンギスの脱資源化に対する陰画として、ナショ
国々である欧米や日本にとって、その利用は現実的
ナリズムの資源としてチンギスを創出してきた。一
な政治問題に関わることはない。 したがってその目
方でソ連/ ロシアは、歴史の上における後進性を説
的は、映画や文学 というファンタジーの世界での利
明する資源としてチンギスを利用したが、映画など
用カ王中心となってくるのである 。 また 、チンギスを
のメディアで「文化資源」 として利用することはほ
巡る研究に関しでも、欧米や日本は、政治とはかけ
とんどなかったといってよい。むしろ、彼:
ら
カt行っ
離れた地点から自由に論じることができるといえよ
てきたのは、モンゴルに対するチンギスの資源、化を
っ。
禁ずるあるいは脱資源化させるための政治資源とし
ての利用であった。
中国は、そもそも歴史的に北方の蛮民として遊牧
次にチンギスの利用形態を巡って、日本や中国と
いった国々は、チンギスを英雄、東西 を結びつけた
世界史の創造者とプラスのイメージや価値を持っと
民をイメージしてきたが、日本の関東軍 によ って
、
するのに対して、欧米やロシアは、野蛮人であり残
チンギス・ハ ー ンが政治資源となりうることを見出
忍な殺裁者、破壊者というマイナスのイメージや価
されると、その継承を企図した 。そうして中華人民
イ直を持っている 。
共和国が成立すると、チンギスはヨーロッパを打ち
破った 「中華民族」の英雄として、政治資源化する 。
このようにモンゴルやロシア、中国においては、
中国がチンギスのことを、ヨ ーロッパを打ち破 っ
た英雄として評価 しているのは述べた通りである 。
学問的な言説も 当然にして、政治性を持たざるを得
ただし、中国はあくまで 「中華民族」の英雄として
評価しているのであって、少数民族であるモンゴル
ない。 こうしたロシアや中国のチンギスの政治利用
族の民族主義をむしろ抑圧する資源としてチンギス
に対して、引き続き注意を払っていく必要があるだ
を利用していることを再度断っておかねばならない。
ろう 。
日本は、第二次大戦前・後を通じて、チンギスを英
これに対して、欧米によるチンギスの利用は、ソ
雄視し、同化願望(義経伝説、堺屋太一・角 川春樹
連/ ロシアと異なり、国家レベルによるものは少な
など)を持ち続けてきたことは確かであろう 。ただし、
かったといってよい。 イギリスやアメリカを中心と
この幻想は、敗戦を前後して 「
民族」 レベルから個
人レベルのものに移行した。
して欧米は、確かにチンギスとその子孫たちに直接
征服された歴史の記憶はない。 したがって、モンゴ
ところが、イギリスやアメ リカを中心 とした欧米
ルやチンギスに対する再評価やオリエンタリズム的
な言説に対する 批判もロシアに先んじて進むことと
では、学問的にチンギスの歴史的役割が再評価され
ているものの、 映画や音楽といった位界では、むし
なった。 さらに欧米においては、政治資源というよ
ろ野蛮人、破壊者というイメ ー ジが定着している 。
りも、メディア文化の資源として、映画やポピュラー
ロシアにおいては、いまだにチン ギスに何の価値を
音楽などの世界で利用されることとなった。
見出すどころか、学問レベルでもチンギスとモンゴ
3
0 ・人間文化
文化資源として利用されるチンギス・ J
¥ーンーモンゴル、日本、中園、ロシアの比較かうー
ル帝国に対する否定的な言説が主流を占めている 。
このコントラストは、 一体何を意味しているのか。
ーだという発想は、簡単に 「民族」の同 一起源論へ
と横滑りすることである。その結果、「他者の自己
おそらく、それは「人種」、すなわち可視的な身体
化」の ロジ ックが起動する こととなる 。我々は思っ
形質の差異によるものであることに間違いないだろ
ているほど、「人種」から自由にはなり得ていない
う。チンギス・ハーンは「モンゴロイド (黄色人種 )
J
のである 。
であるがゆえに、日本人や中国によって、他者の自
西欧では、学問レベルではチンギスやモンゴル帝
己化が促され、好感がもたれるのであり、コーカ
国に対して持たれていた偏見への相対化が進んでい
J からは、極端な他者化がなされ、
ソイド(白人種 )
る。一方、日本の研究者は、西欧のチンギスに対す
嫌われる傾向にあるのではなかろうか。
る偏見を是正し、世界のモンゴル帝国研究をリード
「人種」 というものに対しては、近年、遺伝学や
してきた。 しかし日本人自らの「他者の自己化」に
形質人類学などの分野から、その生物学的実在性が
対する相対化に関しては、遅れているといわざるを
否定され、社会的構築物に過ぎないという知見が浸
得ない。皆が皆、チンギスを極端に舵しめる必要も
透してきている 。 しかし、その反面、人種主義によ
ないのと同様に極端に礼賛する必要もないのだ。そ
る争いや差別は繰り返されている 。 アメリカの 9
うしたとき、はじめて我々は、チンギスの魅惑や呪
1
1以降のアラブ人排斥や、ヨーロ ッパの移民排斥を
縛から解放されるだろうし、チンギス ・ハーン自身
訴える「新人種主義」の脅威、日本の在日朝鮮人に
も我々の呪縛から解放されるであろう 。
対する嫌がらせを見ても明白なとおり、むしろ人種
差別は、日常化、自然化しているとい っても過言で
はない。 [
c
f竹 沢2
0
0
5J
本論は、チンギス・ハーンの歴史認識を巡る比較
近代論的な側面を備えているが、酒井直樹の言葉を
借りるならば、 「人種主義の問題を提示しない近代
参考文献
担茎盤
荒井幸康
2
0
0
6r
i言語」 の統合と分離一1920-1940年代の
9
9
4・2
2
7
JJ
。
論は、 一種 の 冗 談 に 過 ぎ な い [ 酒 井 1
モンゴル・ブリヤート・カルムイクの言語
日本人はチンギス・ハ ー ンを肯定的に捉えているか
政策の相関関係を中心に j、東京:三元社。
ら、モンゴル人に対する差別とは結びつかないので
はないか、という考えはあまりに安易であるといえ
ウェザーフォード、ジャック(星川淳監訳、横掘冨
佐子訳)
∞
る。 なぜなら、かつて日本は、チンギスを英雄とし
2 6(
2
0
0
4
)r
パッ クス ・モ ンゴリカ
チンギス・
て奉り挙げることで「大東亜協栄圏」に巻き込もう
ハンがつくった世界』、東京
日本放送出
としたのであり、その根本には人種的同一 ならば併
版協会
合してよいという植民地主義的正当化の論理があっ
たのだから 。
こうした論理は、未だ日本人の思考に影響を残し
ている 。現在でも、日本には「民族」 と「人種」の
概念的区別ができない人々も多く、高齢者の中には
「日本人の起源 は、蒙古民族/人種だ」などと語る
人も少なからず存在する 。 また、モンゴルへの観光
岡田英弘
1
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将 に 将 た る の 戦 略 チンギス・ハーン J
、
東京集英社。
1
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世界史の誕生j、東京:筑摩書房。
1
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3r
チンギス・ハーン j、東京 朝日新聞社。
角川春樹
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旅行のキャッチフレ ーズには「どことなくなっかし
ズ編 『
蒼 き 狼 地 果 て 海 尽 き る ま でj、東京
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そ っく りさんに会える図」とい った「民族」
K&Bパブリッシャ ーズ
、 p
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や「人種」の同一性を感情的に煽るものも少なくな
い21。気をつけなければならないのは、人種的に問
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c(吉田禎吾ほか訳)
1
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3r
文化の解釈学 (上 )
J
、東京 岩波書庖。
小 長谷有紀
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1 こうしたキャッチフレーズは、中国や韓国について
の観光ガイドには見られない。
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国立民族学博物館研究報告 7
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世 紀(
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)
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物館。
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文化資源として利用されるチンギス・八一ンーモンゴル、日本、中国、ロシアの比較からー
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.(板 垣 雄三 ・杉田英明監修、
サイード、エドワード
今沢紀子訳)
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オリエンタリズム (
下)
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、 東 京 平 凡 社。
サム・ジャン
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チンギス・ハーン
談社。
1
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7r
遊牧民から見た世界史 民族も国境も超え
、東京 日本経済新聞社。
てj
2 o世界を変貌させたモンゴル一時代史のデ ツ
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サン j、 東 京 角 川 書 庖。
第一巻 蒼 き 狼 の 誕 生』、
2
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2r
逆説のユーラシア史ーモンゴルからの眼差
東京.早稲田出版。
2
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br
チンギス・ハーン 第二 巻 覇 者 の 行 く
、東京:早稲田出版。
道j
しj、東京:日本経済新聞社。
武田泰淳、竹内実
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毛沢東
酒井直樹
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[
現代保守主義と知識人一 「西洋への回帰」
と人種主義をめぐって
」新田義弘ほか編
『
岩波講座現代思想 2 2
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構図j、東京:岩波書庖、 p
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堺屋太一
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堺屋太ーが解く
チンギス・ハンの世界j、
東京.講談社。
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チンギス ・
ハン 2J
、東京:
日本経済新聞社。
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草原の革命家たち j、東京.中央公論社。
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[資源としての伝統技術」 内堀基光編 『
資源
人類学 1 資源と人間j
、東京,弘文堂
、
pp.
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土肥恒之
チンギス・ハン 3J
、東京
日本経済新聞社。
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人種概念の普遍性を問う:西洋的パラダイ
ムを超えて j
、京都.人文書院。
ダニエルス、ク リスチャン
チンギス・ハン 1J、東京
日本経済新聞社。
2
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世界を創った男
その詩と人生j、東京:文芸春秋社。
竹沢泰子 (編)
2
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ロシア・ロマノフ王朝の大地』、東京講談社。
賓回正美、小松久男
中見立夫、 j
チンギス・ハン 4J
、東京
日本経済新聞社。
佐藤健二
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[
革命と民族」小松久男編 『
中央ユーラシア
史j、 東 京 山 川 出 版 社 、 pp
.
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ハイシ ッヒ (
田中克彦訳)
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[文化 資源学の構想と謀題」 山下晋司編 『
資
源 人 類 学 2 資 源 化 す る 文 化j、 東 京 : ~.ム
文堂、 p
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芦村京、田中克彦訳)
パ トパヤル、 T
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モンゴル現代史j
、東京:明石書庖。
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平原に聴く、シャーマニズムの息吹」
『
季刊 民 族学 J9
3、東京:千里文化財団、
pp.90-103。
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[モ ン ゴ ル ・ ブ リ ヤ ー ト 人 の 悲 劇 の 記 憶」、
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二木博史
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[リンチノとモンゴル革命」、 『
東京外国語大
学論集j、第 5
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松原正毅・小長谷有紀・楊海英 (
編 ) ユー
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ラシア草原からのメッセージ j、東京:平
凡社、 p
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吉川信訳)
白石典之
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初版金枝篇
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チンギス・カン “
蒼 き狼"の実像』、東京
中央公論社。
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[
特別寄稿
コールパン・ゴル調査について 」、
ジョン・マン著 『
チンギス・ハン
その生
涯、死、そして復活j、 東 京 東 京 書 籍。
杉山正明
1
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6r
モンゴル帝国の興亡 J (
上 ・下)、東京:講
32 ・人間文化
河出 書房新社、
(
上)
J、東京:筑摩書房。
ブレンサイン、ボルジギン
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[チ ン ギ ス ・ ハ ン 誰の英雄」、朝日新聞
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4"
[中国 政治に翻弄された大河ドラマ、
」 朝
日新聞 2
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モンゴルにおける都市建築史研究ー遊牧と
文化資源として利用されるチンギス・八一ン
定住の重層都市フフホト j、東京:東方書庖。
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マン、ジョン(字丹貴代実訳)
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2006 チンギス・カン
London:UniversityofWashington
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その生 涯、死、そして復
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資源化する文化」 山下晋 司編 『
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モンゴル、日本、中国、ロシアの比較からー
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人間文化・ 5
1
ブリヤー卜・ナショナりズムの形成におけるチンギス・八一ン像(ロシア語原文)
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5
2 ・人間文化
特集
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は、エスニシティ (
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)とは、疑いなく、民
ク榊
ロ
政治人類学の見地からすると、ポストソヴイエト
期の民族に関する 言説は、民族主義的イデオロギー
として立ち現れている 。すなわち 、 ロシアにおいて
ス
げ
D
Ta
ブリヤート・ナショナリズ、ムの形成における
チンギス・ハーン像 (
和
訳
)
「ブリ ヤーチヤ 」から「ブ リヤート・モ ンゴル人」
あるいは 「ブリヤート・モンゴリア」への語形変化
9
5
8年に失わ れた共和国の名称(ブ リヤー
である 。 1
ト・モ ンゴル・ソ ヴイエ ト社会主義自治共和国)
を
族主義的なイメージ/表象を持つものとして社会的
に意識されているということだ。 このイメージ/表
復活させ ようという 要求は、ブ リヤートとモンゴル
象と は、第一に個人の本質的特徴であるような民族
政治的、文化的な 記憶を魁ら せる必要がある という
ことを根拠にしている 。そして、ブリヤー ト人 自身
をモンゴル人に近づけようと(あるいは同 一視しよ
的帰属に関するものであり、第二に社会・政治的活
e
t
no
s
)に関する
動上の自律した主体としての民族 (
イメージ/表象である 。 そして第 三 に、ある民族
世界及びその偉大な歴史を結びつけている歴史的、
うとさえ )しているのである 。
(
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o
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)が
、 「自分の」領土においては、 他の民族 よ
りも多くの権利を有するべきだというようなイメー
「土着の名称 (
筆者註:ブリヤート・モンコル)の
ジ/表象である 。
現代のロシアにおいて、民族というもの (
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は、本質的にはソヴイエト時代じ制度化されたも
回復は 、我々の言語や文化全体の民族的基盤を復興
させたり 、深化させたりする上で、明確な展望を開
いてくれると思われる 。 ブリヤ 卜・モンゴルとい
v
.
s
マラホフは、
のが、今も実践され続けて いる 。
現状を維持したいという欲求が、それに見合ったイ
う名称を復活させることで、我々は、ブリヤー卜人
が他のモンコル系の諸民族とともに築いた古い文化
デオロギーを生み出しているのだと見なしており、
を持 っていたことを認識することができるのである 。
ブリヤート・モンゴルという名称の復活は、モンゴ
以下のように述べる 。
「その ようなイ デオ ロギーは、 文化的、言語的、民
ル諸民族との交流を広げ、 とりわけ言語や文化の分
族的、人種的、宗教的アイデンテイテイの擁護に関
野において 、友好と協力関係 を囲めてい くことがで
わる様々な活動となるが、政治的な主権を前面的に
.。
きるであろう 。J3
要求し ているものではない。
」
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ナ シヨ ナリストであ る (
知識人たちは、それぞれの民族にとって、親近感の
ある、平易で現実的な民族のテキストを作り上げる
ことによって、民族主義的な構想を創造することに
成功した 。 このようなテキストは、学術的にはエス
歴史文化に関す る言説において、ブ リヤートの歴
史をモンゴル帝国の歴史と関連付ける試みは、益々
重要な意味を持 ってきている。
1
9
9
2年
、 チンギス・ハーン生誕 8
3
0年 にちなんだ
記念事業として四部作のモンゴル日本共同制作映画
ノ・ナショナリスト的言説という名称で呼ばれてい
永遠なる天の力の下 で)が上
『
チンギス・ハーン J(
るものである 。つ まり、特殊な 言語に おいて、 単語
とは、民族の集合的な文化、 記憶の象徴的な指標な
映されたとき、ブリヤートの新聞は次のように書い
た。
のであり、時空の連続体が集積されたものになって
トー プ
いるのである 。文化の世界におけ る時空の位相とは、
「この映画の爆発的 な人気の理由は、民族の歴史(以
共通の祖先や文化英雄、偉大なる歴史などの ことで
あるが、民族集団の記憶がイメージとしてリパイパ
下、ルビは筆者)に対する関心であり 、チンギス・
ハー ンの鮮烈で矛盾した個性に対する関心であり 、
ルするとき、それらは、 「
新たな神話」 としての性
格を帯びるようになるのである 。
ポストソヴイエト期におけるブリヤ ート の民族復
モンゴル民族の聖なるものへの関心であり 、歴史的
真実とそれと不可分の教訓となるような真理を理解
したいという欲求である J4。
興の リーダーたちにと って、ブ リヤート ・ナショ ナ
リズムのイデオロギー形成において、何よりも 意味
今日、民族ア イデ ンテイ ティに関わる 言説におい
をも つ ように なってきているのが、「ブ リヤート人」
て、よく使われるチンギス・ハーン像は、重要 な
3
人間文化・ 5
ブリヤート・ナショナリズムの形成におけるチンギス・八一ン像(和訳)
「民族 (
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るが、これらは知識人や芸術家によって形成された
ものである。歴史文化に関する言説において、チン
に世界征服を考えるようになったと書いている 。
「互いに戦うことを止め 、精神面においても物質面
においても人類が平和に繁栄するための条件が整っ
ギス・ハーン像は多面的かつ詳細に記述される 。す
たあかつきに"全人類のために理想的な全世界的秩
なわち、彼は何よりも英雄や軍の指揮官としては神
の分身 (
i
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s,)のような存在であるが、 一方では、
序と安寧の時代を確立するために J7 。
v
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t,)として、印象づけられ
肯定的な結合価 (
るような彼の人間的な性格や特徴は、解体されてい
B
.B ダシパロフ(考古学者、歴史学博士)も同じ
ように述べている。
るのである。
ブリヤートの作家ヤルパク・ハルパイの 『
チンギ
ス・ハーン一天賦の才j は、歴史の要求や当時の社
会の発展条件を正しく理解することができたという
彼の人間像を描いているが、そういう意味では、こ
の本の題名は、象徴的なものとなっている 。 また、
作者は、ブリヤート人にしてもモンゴル人にしても
カルムイク人にしてもチンギス・ハーンという人物
f13世紀のモンコル人たちはユーラシア性という
理念を掲げていた。彼等は閉塞的な社会や、因循姑
息な社会意識、宗教的不寛容といったものを破壊し、
開けたユーラシアの空間と地球規模の世界観を構築
したのである 。 (中略) チンギス・ハーンの広大な
国家は 200
年以上も存続した。そ れは彼の民が正義
と法と秩序を持っていたからである i。
と無縁な者は一人もいないということを強調してい
る5
また、征服のための戦闘において、避けて通るこ
チンギス・ハーンが全モンゴル世界のものである
ということ一一これは歴史・文化に関する民族復興
の言説において重要な点の一つである 。特にチンギ
ス・ハーンがモンゴル帝国の核となってモンゴル諸
族の統一に貢献したことが特筆される 。その一方
で
、
、
チンギス・ハーンは益々国家の象徴あるいは具象化
した存在となっている 。今や彼は、戦略家や統率者
として、抽象化された理想的な君主としての地位を
手に入れたのである 。
とのできない破壊は、次の新しい段階へ進むための
準備と解釈さ れる 。
「これらの征服の過程において、我々の共和国の先
住諸民族(ブリヤート・モンゴル人、ハムニガン人、
ソヨー卜人 筆者注)は、彼等(より文明化された
定住地域)の文明より高度な文明をもっイランや中
国やその他キリスト教園、イスラム教園、仏教国の
中心部を破壊したばかりでなく、その瓦礁の上によ
また、現代の民族復興に関する言説において、再
獲得されたモンゴル帝国の記章やシンボルに対して、
ステム、より包容力のある文化主構築しながら復興
最大規模の拡大解釈がなされている。 モンゴル帝国
J9
.。
したのである(ルビは筆者 )
は、実際にユーラシアのかなりの部分を占める広大
な領土をもっていたが、そういったことを認識する
ことは、グローパルな性格をもっ民族復興の言説を
促進させることにつながっている。
「モンゴル人のり
、
夕
は統一帝国を建設するとい
う理念を持っており、その帝国においては法と正義、
良心の自由と信仰に対する寛容さが享受されるべき
であった J 6 。
チンギス・ハーンの事跡のグローパルな性格につ
いては、著名な書籍の中でも強調されている 。例え
ば、エレンジェン・ハル・ダパンを引用して、 S
.S
.
チャグドゥロフは、チンギス・ハーンは以下のよう
54 ・人間文化
り効率的な国家政治のシステム、より堅田な経済シ
このような見方においては、モンゴル帝国期
が 人類史上における 「
黄金時代」であるとみなさ
れるのも無理はない。
こうした民族主義的な歴史文化言説においては、
次のような基本的な理念を抽出することができょう 。
まず何よりも、秀でた統治者の庇護のもと、ユーラ
シア規模の(=地球規模の)意義と重要性を持った
統合された広大な空間が形成されたということの確
認であるということ。それは、すなわち「自分たち
の」新しい世界の構築の確認でもあるということ o
しかも、その世界形成に寄与した領土的な核となる
部分や人々は、十二分に広い、様々なひな形を形成
したのである。そのひな形とは、「エスニシティ」
ブυ
ヤー卜・ナショナリズムの形成におけるチンギス・八一ン像(和訳)
で言 うならば、モンゴル民族(ブリヤート、モンゴル、
るという点において記号的な性格を帯 びている 。つ
カルムィク)であり、 「
領土」で言 うならば、パイ
まり、この解釈は、その土地のもつ特別な 塑性を語
カル湖畔に居住している人々(ブリヤート・モンゴ
るにたり得るのである 。
ル、ハムニガン、ソヨート)のことであり、「文明」
で言 うならば、遊牧民のことである 。
この世界の特徴は、全世界にまたがる文明化の機
能を規定する世界の配列 (=世界秩序形成)である 。
また、ブリヤート人のエリート芸術家たちも 学者
たちの研究結果に満足していなかった。彼らは、モ
ンゴルの聖地をブリヤート人の領土内に置くことで、
自分たちの空間をデザインすることに積極的である 。
空間における秩序形成は、 神聖化、すなわち中心部
歴
ロシア作家同盟の会員である A. ガタポフは、 「
の構築から始まることは周知であろう 。伝統的な理
史学の著作では、“バルグジン・ トクム"という地
解に依れば、社会的存在としての人聞は「世界の中
名の正確な地理的位置か‘
示されていない」と 述べた
心」、すなわち最も 神聖化 された座に陣取っている
上で、自身の見解を提示している 。彼によると、パ
のであるが、ここでは何らかのヒエロファニ一、つ
ルグ ジン ・トクムは、サヤン山脈lからパイカル湖
まり神聖なるものの顕現が起こることにな ってい
東岸までの地域であるとする見解には、同意できな
テ マ
る。 このような主題は、 20
世紀末のブリヤート民族
いのだという 。パルグジン ・トクム、すなわちチン
復興に関わる歴史・文化言説において、よく触れら
ギス・ハーンの祖先である末子ボドンチャルの母ア
れる点であり、空間秩序を形成しうる聖なる統治者
ラン・ゴアが生まれた故郷は、パイカル湖周辺全域
の要素が不可欠になるのである 。 まず、チンギス ・
というよりも、パルグジン川流域の低地に限定され
ハーン (
1翌なる祖先 J
)自身が神秘的である 。 した
るべきであると彼は、みなしているのである 。 1
1
.0
がって、彼の出生に関係する地域が世界秩序を構築
するという機能を果たす。その場所は、至福が流れ
出ずる大地の!隣であり、生命が生じる│世界軸 (Axi
s
mundi)とな っている 。
最近の言説の中で、出典が明らかにされないまま、
あたかも科学的な仮説のように提示されたこの神
話的な推測は、
「サヤ ン・パイ カル地域が、古代モ ンゴル人の祖先
の地である公算が高いという見方に対して、もっと
慎重な態度をとるべき J1
2.と提言 している 。
ブリヤート人が居住する地域をチンギス・ハーンの
出生と結びつけるかのような引 l
聡(
ほのめかし )に
そして、チンギス ・ハーンの生地が、ブリヤート
しばしば出会う 。哲学博士1.S ウルパナエフがま
民族の領地である可能性を検討すべきだと提議して
さにその一人である 。
.ゴムボインは、チンギス ・
ハーンが 「
デ
いる 。C
.D
「
モ ンゴル人の聖地としてバルク ジン・トク ムのも
リュン・ボルドク 山の近 くの オノン川流域、イへ ・
7 ラルの土地Jに葬られていると主張している 。す
う一つの重要な点は 『
元朝秘史Jに見出される 。 そ
こには“コルパルグチュジン・ド グム "という名称、
ヤート 自治管区にある“ トーント・ニユツタグ"で
が出てくる 。 (
中略)クル(グル)または コル (
モンゴ
あり、ゴンボイン自身が生まれた地でもあるのであ
ル・テュルク語)という語はテュルク・モンゴル世
る1
4。
界で広 く使われ、
“中心"という意味を持 っていた。
(
中略)パルグジン ・トクムは私た ちの仮説では “
パ
さらにこれらの神話的予測が 「
疑う余地のない事
実」となってくるのは、以下の ような説においてで
ルグ国の中心"であ り、
“ 先住モ ンコル人たち "にとっ
5。
ある 1
なわち、この土地は、ロシアのチタ 州のアガ ・ブリ
て特別な意味を持っていた。 なぜならばアラン・コ
アを祖とするチンギス・ハーンの祖先はこの土地、
すなわち“バルグ国の中心"から出たからである 。“
バ
ルグの国"は東に広がり 、チンギス ・ハーンが生ま
れたオノ ンの地を含むものであ った J1
0
.。
筆者に よると 、モンゴル語である 「ゴル」 という
言葉 の解釈は、まさに 「中心Jという 意味を伝達す
訳注
l サヤ ン山地は、ロ シア連邦 トゥバ共和 国領内に位置
する 。元朝秘史に登場する伝説の地 「
パルグジン・
トクム 」の現在位置を、サヤンを含めて比定しよう
とするならば、ブリヤ ート 人たちは、この型地をエ
スニ ック空間として独占できなくなる 。
人間文化・ 55
ブリヤート ・ナショナリズムの形成におけるチンギス・ハーン像(和訳)
「チンギス・ハーンは 、 オノン川流域のデリュン・
しかし、集団の聖なる中心たるチ ンギス・ハーンの
ボルドクの地で 1155
年 10月に生まれた 。(中絡)
そ
王座は、その集団の同一性を保持するために特別な
れは 、いまで も当時の名のままで、残っており、 チタ
意味を持つ。 したがって、ブリヤート共和国領内の
州オノン区の中心であるツァスチェイ村の近くにあ
自然のままの区域が、チンギスとゆかりのある場所
るJ
として書き 加えられ、伝説として、再び積極的に語
られているのである 。
また、考古学者の B.B
.ダシパロフ (歴史学博士)
がインタヴューの中で、語った以下の内容には、チン
「“チンギス・ハーンの王座" (
チンギス・ハーナイ・
ギス像とその生地に対する、極めて露骨な私物化が
シ工レー)と呼ばれている
見受けられる。
述べてみよう 。 これは巨大な岩で ……(中略)
一一
歴史自然地区について
片面が椅子状をしており …… (中略)……サヤン山
r
w
モンゴル人の聖なる物語J2は祖先の系譜を数え
脈のとある峰の麓にある 。 その峰はハンダガイトィ
上げることから始まっています。 チンギス氏族の始
ン・ウンデル 4と言うが、王座は、かなり平坦な地
祖であるアラン・コア妃は、ホリ・卜メ卜族の地で
帯を流れるパローン・ハンダガイ卜 J
15の切り立っ
あるパルグジン・トクムで生まれました。 そこはバ
た岸(高さ約 10メートル)の上にある。(中略)これ
イカル湖周辺の土地です。チンギス・ハーンの母方
はトウンカ区6においては、古来より 、チンギス・ハー
の祖先はホリラルタイ・メルゲン、すなわちホリ・
ンの活躍した場所であると信じられ、あるいはゆか
フリヤート氏族なのです。つまり、チンギス・ハー
りの地として崇められてきた場所である。ここで、
ンは、 昔からオノン川流域で遊牧していたホリ・モ
実際にチンギス・ハーンがこれらの天然の「机Jを
ンゴル人 3の聞に生まれたのです。ロシア科学アカ
前に王座に座り 、儀式を執り行 ったと考えられる J
デミ一会員で考古学者
s.
v.キセリョフ氏は、チン
1
7。
ギス・ハーン生誕の地は、アガのデリュン・ボルド
クの地帯であると言っています。 この地帯は、国境
この王座 は、ブリヤート人自身にと って最も神聖
の向こう{則であるモンゴル{則にもあり、やはりホ
なサヤン山の麓に位置しているがゆえに、その聖性
リ・ブリヤー卜人たちが居住しているのです。 これ
が、さらに強化 されているのである 。
ら二つの場所は、お互いに近く、この二つの場所を
「創られ た伝統」の特質 は、過去の (再構築を通
分けているロシア・モンゴル国境は、かつて存在し
じてなされる)学術的解釈と現代風にアレン ジされ
ませんでした。したがって、チンギス・ハーンがフ
た異説との聞に、はっきりとした境界が欠如してい
リヤー卜人であるということには充分な根拠がある
ることにある 。 この現代風にアレンジされた異説と
んです J1
6。
は、民族文化復興のプロセスにおいて民族主義に
よって イデオロギー化された 言説に よって作り出さ
民族文化の復興を唱える言説として当てはまるも
れたもののことである 。 こうした 「
伝統の発明/担
のの中には、生誕の場所以外に、その他の民族的表
造」の例は、例えばA.L
.アンガルハエフの論文の
象と関連する ような象徴的な土地を話題にしている
中に見ることができる 。彼はチンギス・ハーンをブ
ものが増えている 。 まずは、最も聖性を帯びている
場所、すなわちチンギス・ハーンの王座と埋葬の地、
リヤートの土壊と結びつけることによ ってチンギス
を横取りしようとしているのだ。彼はエルグネ ・ク
および彼が訪れた場所である 。チンギス・ハーンが
ン7の語源について考察したが、エルグネ・クンと
ハーンに即位した場所を特定で きる者は誰もいなし、。
訳注
訳注
2 いわゆる 『
元朝秘史』のこと 。
3 ホリ・ブリヤートは、プリヤートの一部族集団の名
称であるが、「ホリ・モンコソレ」という 言い方は、
あまりされない。
56 ・人間文化
4 ブリヤ ート 諾及びモンゴル語で「へラジカのいる高
地」という意。
5 プリヤート語及びモンゴル語で「西のへラジカのい
I
I
J という意。
るJ
6 ロシア連邦ブ リヤート 共和国南部に位置する地域。
ブリヤート・ナショナリズムの形成におけるチンギス・八一ン像(和訳)
はイルクートJII8であるという結論を導きだすこと
のである J2
10
で、「血と土嬢Jにおいてモンゴルとブリヤー卜の
同一性の証明となるのだJl8 とす る。 一方 1
. S.
ウルパナエワは、エルグネ・クンは、セレンガ1
1
1と
このような神話的推測は、以下のように記憶を復
元させるための要素となっているのである 。
関係するとみなしている 。そこはノヴォセレンギン
スク村の上方で、
ドシュ山 (鉄敷の 山)という山が
ある 。
「シャナガ(ブリヤー卜共和国ビ チュルスク区の村
落筆者注)の辺りでは、行軍の途中、どうやら 、
最高司令官であるチンギス・ハーンのひしゃくだか、
「土地のブリヤート人たちは、ここでチンギス・
杓子だかを紛失し、隣村のアヤガでは茶碗が紛失し
ハーンカf鉄を鍛えたという伝説を伝えている 。 ここ
たとの話しが残っている 10。これらの土地ではヤマ
では最近まで鉄鍛冶信仰が存続していた。 これら古
ネコのような眼の色を持った人カず珍しくなく、先祖
代モンゴルの伝説の再現たる鉄鍛冶信仰と 、「古モ
ゆずりの強い気性の人カf多い J2
2。
ンゴル人 J(ダルレキン人)の祖先が山を切り 崩し
て峡谷から出てきたという伝説との間において、何
チンギス・ハーン像とその功績を書くことで、自
らかの関連性を 見つけるのは難しいこ とではな Lづ
分の空間の構築を続けているジャ ーナリ ストC.D
1
9。
ゴムボインが書 くところによると、セルゲ・オボー
という場所のパリサン山の近くの「ハマル・ダパン
またウルパナエワの考えでは、 「アムール河から
の頂上にチンギス・ハーンゆかりのオボーという有
は、チンギス・
西方のパイカル湖に至るまでの土地に移住したとか
名な場所がある 。そしてこのオボー
いうような、生活様式やすべての民族文化の様相を
ハーンの命令によってその先祖ブルドゥン・シノの
1
1
変え、モンゴル史の基礎を築いたというメン・ウに
ために造られたという説がある J2
3
.0 ここでは、
ついての仮説は 、 ~、意的で根拠が無いと思われる J
社会文化的空間の構築のプロセスが地名に注釈をつ
のだという 。2
0
.。
ける行為を通して、明示されている 。すなわち、チ
チンギス・ハーンが今日のブリヤート人の居住地
ンギス・ハーンによって造ら れたオボーが実在して
域にいたということに対しでも聖化された意義が与
いることの確認から始まり、著者は伝説を引用しな
えられている 。そこは、行軍の途中に通 った地であ
がら、この場所をチンギス家の本拠地 12のシンボル
り、語り継がれてきた伝説の中に反映されているの
として表記しているのである o 馬をつなぐ杭(セル
である 。
ゲ)、積み石(オボー )さらに世界の中心たる世界軸
(
A
x
i
smundi)のシンボ ルとしてのパリサン山とい
「ザカーメン地方の民間伝承は 、チンギス・ハーン
う表象が周知の事柄となっているということ 。 さら
の行軍について詳細に記しているが 、サガーン・モ
にチンギス氏族の小屋と言う場所が、その地に表示
リン 9とウレクチンという地名は、行軍の途中出あっ
されているということ 。 こうしたことによ って、 こ
たチンギス・ハーンの馬と犬に直接、関連している
の著者がチンギス・ハーンと彼の先祖の故郷をハマ
ル・ ダパンであると推論させることを可能にしてい
るのである 。
訳注
7 ラシッド・ウツディーンの 『
集史j に記されている
モンコール部族の伝説上の始原の地。チンギス・ハー
ンが生まれる 二千年前、モンゴル部族は皆殺しにさ
れたが、 二組の男女が生き残り、山に閉まれた「エ
ルグネ・クン」の地に逃げ込んだのだという 。集史
では、この二組の男女の子孫の話としてモンゴル族
の歴史が諮られる 。
8 ロシアのパイカル湖 に注 ぐアンガラ 川の支流
9 ブリヤート語で 「白い馬 Jの意。
.ゴムボインはこの土地を埋葬地であるイフ・
C
.D
ホリグと関連付けている 。
1
0 モンゴル語やプリヤート語で、ひしゃくのことを
h
a
n
a
g
a
J といい、茶碗のことを 「
アヤ
「シャナガ s
y
a
g
a
J という 。
ガa
1
1 石を積み上げて造った積み石。遊牧民たちは、オボー
に集 って、雨乞い儀礼などの祭杷を行う 。
1
2 原文では、かまど s
e
m
e
i
n
i
io
c
h
a
gとなっている 。
人間文化・ 57
ブリヤー卜・ナショナリズムの形成におけるチンギス・八一ン像(和訳)
ブリヤートのナショナリズムと関わる歴史・文化
「この偉大なる帝国の建設者 13は、存命中に自らの
ヤサ
言説におけるチンギス・ハーン表象の分析は、ブリ
勅令として、祖先の埋葬の地(傍点は筆者)を立ち
ヤートの集団アイデンテイティに二つの課題が同様
入り禁止地区として保護することを命じた。 そこに
に現実的であることを物語っている 。すなわち、ブ
はボルテ・チノとゴア・マラルがイ主んでいた地とし
リヤート人固有の民族アイデンティ ティ化の問題と、
てのバイカル地域も含まれていた。(中略)
もう一つは、より広い意味でのモン ゴル・ ブリヤ ー
禁
或であるイフ・ホリグはブルハン・ハル
じられた区 t
ト人 (よく同義語と して使われるが)のアイ デン ティ
ドウンだけではなく 、パイカル湖周辺、セレンガ河
ティの問題である 。さら に双方の場合ともアイデン
流域を含むモンゴル大帝国の領土内の他の場所も考
テイティのシンボルとして同ーのものを使っている 。
4
.。
えられるであろう J2
それがチンギス ・ハーン像である 。彼の姿は、それ
ぞれのアイデンティティ 化の実践において、その形
「イヒ・ホリグは 、 ブリヤート共和国領内のハマル・
ダパン山嶺にある J2
5。
態が変わるのであるが。
B
l
u
tu
n
dB
o
d
e
nのテーマとして有名な、共通の
出自 (
1血縁関係J
)と共通の領土 (
1地縁 J
)を通じた、
イフ・ホ リグがブ リヤート 共和 国領内に位置して
ブリヤー ト人とモ ンゴル人の同一性を根拠づけよう
いるということは、「血と土壌 Jの一致という理念
とする伝統的な意識は、もう十分だと 言える ほど古
を発展させるために は重要な一歩である 。卓越した
典的なものとなっているが (元型 的なも のである)
先祖たち(始祖)の埋葬は、~ 聞 を型 化 させるとい
が、今や変容し、その方向性を変えている 。すなわち、
う点で、大きな意味を持っている 。 まさに彼らは、
チンギス・ハーンが、ブリヤートの地とブリヤート
彼等は世界秩序の中心に存在している以上、時空内
の血に帰属している ということを証明す るための探
のすべての世界の部分を統合したのである 。
求を、(もう十分だと 言 ってもよいくらいだが、 )い
まだ、に熱心に行っているのである 。
このような空間の構築の結果によ って、モンゴル
と関係するようになったのである 。 B
. B ダシパ
こう した現代ブリヤートの 「
新たな神話 Jの研究
は、チンギス・ハーン{象治宝、ブリヤート・ナショナ
ロフの見解は、こうした背景における典型的なもの
リズムのイデオロギーにおいて、優先諜題として留
となっている。
まりつづけることを私たちに確信させてくれる 。そ
帝国の聖性の中心は、 今やブ リヤート 共和国の領土
して、このイデオロギーは、現在、新たに 「
民族体」
「私たちはチンギス・ハーンか‘ブリヤー卜人であ っ
の境界線を引き直しながら、集団アイデンティティ
たと言えるだろうか? まず断っておかなければな
の歴史と境界線に関する集合表象を、構築している
らないのは、当時ブリヤート民族 (narod)は、今日
ところなのである 。
のような形態では 、存在していなか ったということ
である。現在のブリヤー卜族 (etonos)の一部となっ
ているホリ・モンゴル人、ブラガチン人(ブラガ卜人)、
ケレムチン(工ヒリ卜人)は、部族集団として存在
した。 これらの事実は、 この課題に確信をも って 答
える根拠となる 。 そうだ、彼(チンギス)はブリヤー
卜人だ った の だ リ 2
7。
原註
1 マラホフ
V
.s
.1
政治イデオロギーとしてのナ
ショナリズム」
カブースチンB.G 編モス ク
0
0
5年
、 2
3
9頁。
ワ大学書応、 2
2 向上
、 2
9
7
頁
3 チミトドルジエフ S
.B.我々は何者かー ブリ
r
ヤート・モンゴル人なのか リ ウラン・ウデ、
もっ とも、この同じ論文の中でチンギス・ハ ー ン
は
、 「民族の枠を超えていた 」 とい う表現も見られ
るのであるが。
1
9
9
1年
、 5
0頁
。
4
. チミトドルジエフ
S
.B
.2
0
0
3年、「モンゴル学
文学に おけるチンギス・ハーンとその時代 」
『
チンギス・ハーンとユーラシア諸民族の運命j
、
3
1頁。
ウラン ・ウデ。 1
1
3 チンギス・ハーンのこと 。
58 ・人間文化
5 向上、 1
3
2頁。
ブリヤー卜・ナショナリズムの形成におけるチンギス・八一ン像(和訳)
r
6
. ユーリー・ウベエフ「革命の兆し J プ ラウダ・
0
0
1年5月1
8臼付け、 1
3頁。
ブリャーチヤ j、 2
7
. チャグドゥロフ S
.S
.I
人類史の中の “
黄金時
r
J チンギス・ハ ーンとユーラ シア民族の運
代"
0
0
3年
、 5
0頁。
命 j、ウラン・ウデ、 2
8 マハチュケエフ・アレクサンドル 「チンギス・
r
ハーンはブリヤート人だ った J インフォルム
ポリス j、 2
0
0
3年 1
0月 1
5日
、 1
5頁。
9
. チャグドゥロフ S
.S
.I
人類史の中の “
黄金時
代"
J
、48-49頁
。
1
0 ウルパナエワ .
1S
. パ イカル湖畔の人と中央
アジア 位界J1
9
2-1
9
3頁。
1
1 ガタポフ・アレクセイ 「
ア ラン・ゴアはホリ・トゥ
r
玉座 J(モンゴル人の祖郷についての問題に寄
r
せて ) チンギス・ハーンとユーラシア諸民族
、ウラン・ウデ、 2
0
0
3年
、 6
2頁。
の運命j
2
2 ツブデエワ 2
0
0
6年。 6頁。
2
3 ゴムボイン C
.D
.1
1イフ・ホリク 」 祖先の
r
禁区 J チンギス・ハーンとユーラシア諸民族
0
0
3年
、 5
4
8頁。
の運命j、ウラン・ウデ、 2
2
4
. 向上、 5
4
7頁。
2
5
. 向上、 5
5
1頁。
2
6
.I
チンギス・ハーンはブリヤート人であ った」
という論文が現れたことの煽りで、チンギス・
ハーンはカザフ人であ ったということを確証す
る論文が発表さ れた 。 ジ、ユマグ ロフ・エルボル
メ トの地で生まれた、またはザパイカル地方全
「チンギス・ハーンは誰のものになるのか。偉
土がパルグジン・トクムと呼ばれたわけではな
大な軍人の出自の民族は不明である J イズベ
いJ ブリャーチヤ J
o2003年 7月1
2日。 N
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1
2
6
スチヤ j、 2
0
0
3年 1
0月 4目
、 5頁
。
r
6頁
。
1
2 ア ンガルハエフ
A
.L
. I
チン ギス・ハーンの
r
2
7
. A. マハチュケエフ 『チンギス・ハーンはブリ
、1
5頁。
ヤート人であった j
玉座 J(
モンゴル人の祖郷についての問題に 寄
r
せて ) チンギス・ハーンとユーラ シア諸民族
の運命j。 ウラン・ウデ、 2
0
0
3年
、 7
0頁。
1
3
. ダム ジノフ
D
.G
.I
デリュン・ボドクー偉大
なるチンギス・ハーンの出身地 J
rチンギス・ハー
ンと ユーラ シア諸民族の運命J(国際学会資料)、
2
0
0
2年 1
0月 3-5目、ウラン・ウデ、 2
0
0
3年
、
7
2-7
5頁。
1
4
. ゴムボイン C.I
イフ・ホリク 古代モンゴル
r
人の偉大なる 禁 区 J ブ リヤート 文 化 の 宝 庫。
ロシア連邦の諸民族の遺産 j、モスクワ
ウラ
0
0
2年
、 4
9
頁
。
ン・ウデ、 2
A
.I
ザパイカルの偉人の秘密」 レ
ギオン・クリト・インフォ 。『週 刊 文 化 情 報j、
1
5
. ドルジエフ
2
0
0
6
年 6月2
9日
、 6頁。
1
6
. マハチュケエフ A
.I
チンギス・ハーンはブ
r
リヤート人だ、
っ た J インフオルム・ポリス j、
2
0
0
3年1
0月1
5日
、 1
5頁。
1
7 アンガルハエフ A
.L
.r
チンギス・ハーンの玉
座J
o62-63頁。
1
8.アンガルハエフ A
.L
. チンギス・ハーンの玉
座J
o69頁。
1
9
. ウルパナエワ『パイカル湖畔の人と中央アジア
世界j、1
9
4頁。
2
0
. 向上、 1
8
5頁。
2
1.アンガルハエフ A.L. I
チンギス・ハーンの
r
人間文化・ 59
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0・人間文化
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン(モンゴル語原文)
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人間文化・ 6
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内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン(モンゴル語原文)
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62 ・人間文化
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス ・八一ン(モンゴル語原文)
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63
人間文化・
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス ・八一ン(モンゴル語原文)
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64 ・人間文化
内モンコルにおける学校教室内のチンギス・八一ン(モンゴル語原文)
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人間文化・
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス ・八一ン(モンゴル語原文)
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68 ・人間文化
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン(モンゴル語原文)
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72 ・人間文化
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン(モンゴル語原文)
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人間文化・
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン(モンゴル語原文)
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7
4 ・人間文化
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス ・ハーン(モンゴル語原文)
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人間文化・
75
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・ハーン(モンゴル語原文)
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6 ・人間文化
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン(モンゴル語原文)
自治区教育局編印,
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内 蒙 古 民 族 教 育 的 方 針 和 任 各 二 内 蒙 古 自 治 区 民族教育文件、正編 ︾(第 一輯)内蒙 古
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人間文化・
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン(モンゴル語原文)
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7
8 ・人間文化
特集
内モンゴルにおける学校教室内の
チンギス・ハーン(和訳
)
一 中国の政治・ 社会環境下のモンゴル史の解釈と利用-
ナサンパヤル
目次
りわけチンギス・ハーンと関連する授業内容を主な
研究対象としている 。すなわちチンギス・ハ ー ンが
はじめに
具体的な授業内容として、いかに紹介され、評価 さ
1 モンゴル人学校教育と関連する国家政策
れているのか。それがさらに、モンゴル族の若い世
2 モンゴル語の授業におけるチンギス・ハー
代へのアイデンテイティ形成にとってどのような役
ンとその内容
3 歴史の授業におけるチンギス・ハ ー ンとそ
割が果たされているかについて、ある程度明らかに
したい。
の内容
4
. 教室の外におけるチンギス・ハーン
結び
1.モ ンゴル人の学校教育と関連する国家政策
内モンゴルにおけるモンゴル学校の教育制度は、
小 学 校 か ら 大 学 (一部の専攻に限る)まで一貫して
モンゴル語で授業を行うという特徴をもっている 。
はじめに
モンゴル人は歴史をふりかえるとき、 1
3世紀頃の
これは漢族学校やほかの民族の学校の教育制度とも
大きく異なる点である。
歴史、とりわけチンギス・ハーンの事績が重要視さ
1
9
4
7
年に内モンゴル臼治区(政府)が成立してから、
れる 。 とくに、現代社会を生きる上で、チンギス・
モンゴル学校の教育制度は、次第に形づくられ、発
ハー ンはモンゴル民族のアイデンテイティ構築にお
展してきた。そのなかで、共産党と政府が一体どん
いても積極的に利用されてきた。 このような状況は
な目標と要求をモンゴル学校の教育に課して、若い
モンゴル園、中国、ロシアなどの国々においても普
世代のモンゴル人に対し、その過程においてどんな
遍的に存在している 。
人聞になって欲しかったのかを考察してみよう 。す
今日、世界規模におけるモンゴル人の人口は約
ると、党や政府が示す具体的な目標と要求が時代の
8
0
0
-9
0
0
万を数える 。そのうち半数以上は中国で生
変化にしたがって、いかに変わってきたかという様
活している 。そして、中国国内に生きるモンゴル人
態がうかがわれる 。
たちは、いかにモンゴル史の知識を勉強し、いかに
1
9
5
4
年1
1月に聞かれた内モンゴル臼治区第一回少
それらを 「モンゴル」という民族アイデンテイテイ
数民族教育会議で、当時の自治区政府副主席 ・教育
の構築に利用しているのだろうか。これらの問題は、
省 1長官のハ ー フンガは、 『
内モンゴルの教育方針と
義務教育制度における歴史知識の教育の内容とその
課題j という題目で報告をし、内モンゴルにおける
過程からある程度、理解できょう 。
当時のモンゴル学校の基本的な状況、今後の発展の
他方では、教育とは、国家が自身の必要性に応じ
方向性、実現すべき謀題および注意すべき点などを
て国民に対して行う教育の過程であるとする人類学
詳細に述べた。そのなかで、モンゴル族学校におけ
の見地からすれば、モンゴル人の義務教育に中国が、
る基本 B標、すなわち、なぜモン ゴル族の学校教育
どんな目標と要求を下し、モンゴル人の子供たちを
を発展させる必要があるのかについて、氏は「モ ン
どんな「モンゴル人」として育成したかったのか。
ゴル族学校の教育は、国家建設に有用な少数民族幹
これについて考察することで、漢民族による民族/
部を養成できる、人民の文化水準を向上させる、少
国家 (NationSt
at
e
)である中国の教育環境下におか
れたモンゴル史の教育、さらにその解釈および利用
への理解を可能にで、きるのではないかと思われる 。
本論文では、 内モン ゴル におけるモンゴル語で授
業を行う 小 ・中学校におけるモンゴル史の教育、と
1 内モンゴル自治区が成立される当時の政府部 門、
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ing
him
/庁」と呼ばれる役所を
つまり現在では I
yamun(街門)と読んでいた。例えば教育省のことを
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b
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nyamunという 。
人間文化・ 79
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス ・八一ン (
和訳)
数民族の文化 を発展させる、 実在する文化的後進状
況を徐々に改善する 」 などの点において意義がある
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9
5
4
J。
と述べた [Qa
1
961
年に出版された小 ・中学校における
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モンゴ
hel
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c
i
g)
J の教科書に書かれた 「
編者のまえ
ル語 (
がき Jに「中 ・小学校において、 モ ンゴル語の読み
書 きを教えるという謀題は、生徒たちの共産主義的
世界観を育成し、モンゴル語を正確かっ上手に使う
能力や斬新で・
明断、そして力強いマルクス 主義 ・レー
ニン主義的な作文のスタイルを身に付けさせ、同時
23 大きくな ったら工、農、兵に な ります
24 毛主席のおしえ
25 毛主席のおしえ
26 プロレタリア文化大革命万歳
27 毛主席のおしえ
28 毛主席のおしえ
29 ~目j 少奇を断固として打倒しよ う
30 ウランフーを断固として打倒しよう
3
1 毛主席のおしえ
32 各民族の反動分子を打倒しよう
に、生徒たちの階級闘争と産業 闘争の知識を与え
Qasbayana
ることに目的がある 」 と記されている (
20
06)
。
1966年、文化大革命が始まると、内モンゴルのモ
ンゴル族学校の教育制度と 実際の教務は、政治およ
びイデオ ロギー宣伝の ー形式となり、 生徒たちを
直接プロレタ リアー ト(
無産階級)の 『
赤い後継者
(
接斑人 )
J として育成するようになった。例えば、
197
0年に出版された小学校が使用するモンゴル語の
一年生の一学期の教科書内容を見れば次のようにな
る。
1 毛主席万歳
2
3
4
5
主 主虎の万寿無彊 を慶祝しよう
ンユノゴーグ チヤ ダ ノ
中国共産党に栄あれ
J
J
中華人民共和国万歳
小学校の児童にモンゴル語の字母を教えるために
作られたはずのこの教科書だが、あわせて全部3
2個
のテキス トから直接字母と関係があるテ キストはわ
ずか 10
個あって、これ以外の22個のテ キス トは純粋
な政治関係の標語である 。 また一つ指摘しなければ
ならないことは、教科書 に載せられた政治用語の多
英語から 音読みのまま、モンゴル語に借用
くが直接i
されたことである 。例えば、現在では ( )内に 表
記したようなモンゴル語の訳語が使用されるが、以
英語がそのまま モ ンゴル語に取り 入れ ら
下のように j
れて いるのである 。
t
主主lttqguW
凡 何面(
凶itadldumdadu吻 )
{、
『共 産 党 (
komini
s
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enamlebhamtuna
m)
J、『中 華
(
khi
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a
d
l
dumda
d
u)
J、『
公社 (
ni
g
e
ぬt
)J。
1
976年以後、改革開放政策が実施されて以来、モ
モジュ
毛 主 席のプロレタリ ア革命路線の勝利万歳
6 社会主義はよ い
7 人民公社はよい
8 革命委員会がよい
9 アルフ ァベッ トの語頭形
10 na,ba,paにおける三つの変化
1
1 qa,ya,ma,l
aにおけ る三つの変化
12 sa,5a,t
a,t
a(
da)における三つの変化
ンゴル族学校の教育に課された目標、要求、およ び
教科書の内容にも、それに見合った変化があらわれ
てきた。
1
984年に初めて 制定され、 2001年に修正が加え ら
れた 『中華人民共和国民族地域にお ける区域 自治
法j のなかには、教育と直接関係する こつの条文が
ある 。
14 閉音節の最後の子音字
第十条には、「民族自治区にお ける公的機関には、
本地域に属する各民族が各自の言語文字を使用し、
それを発展させる権利がある、また各自の文化習慣
15 n、 b
の保持や改変を行う権利 は、これを保障する J
とある 。
13 ca,j
a,ya,r
a,waにおける三つの変化
16 g
、 m、
│
17 s
、r
18 yi
、d、ng
19 毛主席のおしえ
モジユン
20 毛主席のおしえ
モージューン
21 毛主席のおしえ
モ
ジユン
22 毛主席のおしえ
80 ・人間文化
また第三十六条には、「民族自治地域の公的機関は、
国家が制定した教育計画に基づいて、その地域の教
育計画、異なる行政区分の異なる種類の学校の規則、
教育方式、学校の形態、教務内容、授業で使用され
る言語、生徒 ・児童の入学制度を法律に従って制定
する 」 とあった。
この法律に定めた これらの条項に基づけば
、 内モ
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン(和訳)
ンゴル自治区は、教務および教育内容の設定を自主
たチンギス・ハーンに関連する内容の項目を抽出し、
的に行うことができるということとなる 。
表にまとめると次ペ ージ (表1)の ようなものとな
1
9
8
6年、内モンゴル自治 区教育庁は、「内モンゴ
る。
ル自治区における少数民族の教育に関する業務規定
案」を発表し、それを自治区人民代表大会において
また、『モンゴル語』科目の教科書には、一冊ご
審議させるよう準備した。ところが、この案は現在
u
n
s
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q
ub
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C
i
g
)j が付いており、生徒
とに 『
副読本 (
に至るまで、立法化されていない。 しかし、フフホ
たちに読ませるようになっている 。教師は、この副
ト市や包頭市などでは、市レベルの人民代表大会に
読本の内容の中から 一部の内容を生徒に読ませるの
よって審議された少数民族教育規定が制定されてい
が一般的である。言い換えるならば、『副読本j の
る。
内容のすべてを生徒に学習させるものではない。副
このうち、『フフホト市における少数民族教育規
1
9
9
9
年制定)の第四条には、「少数民族学校は、
定J(
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dE
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u
c
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n、
才能に基づいた教育 (
素質教育)を全面的に取り入れて、愛国主義や社会
主義とマルクス主義の民族理論、民族史、伝統文化
の教育を行い、学校内の指導力を強化し、教育内容
の質を向上させ、少数民族の生徒たちの全面的な能
力の向上と健康的な成長に貢献する 」 と規定されて
いる 。
ここに、民族史と伝統文化の教育を実施すること
が記載されたことは、注目すべきであろう 。なぜな
ら、民族史と伝統文化の教育という 二項目が「素質
教育」の一環として、教育関係の公文書に初めて取
り入れられ、明確に記載されたからである 。
では、民族史の知識を具体的な教育課程の中で、
いかに教えているのかと言えば、主に二科目におい
て、モンゴル史の知識が生徒たちに教えられている。
一つは、モン ゴル語の授業であり、もう一つは、歴
史の授業である 。歴史の授業では、 『
中国史j の一
読本の内容を全部調べてみる と、チンギス・ハーン
と関連するテキストは、以下の通りである。
r
1
. イエスゲイ・パートル.
1 (小学校一年生、二学
謀)
期、第 22
2. オゴダイ ・ハーンの慈悲深い心 j (小学校二年
r
課)
生、二学期、第 15
3
.r
チンギス・ハーンはいかにポオルチュをほめ
たのか J(小学校四年生、一学期、第 16
課)
r
4
. チンギス J(小学校四年生、二学期、第 21課)
5
.r
チンギス ・ハーンの雪崩から脱した奇策 j (
小
諜)
学校五年生、一学期、第26
6
. ソルハン・シラの恩J(中学校二年生、二学期、
r
9課)
第1
7
. チンギスの埋葬地J(中学校三年生、二学期、
r
第三課)
r
r
8. 青史j の二章 (高校三年生、二学期、第 7課)
9
. チンギス・ハーンの軍事的才能J(高校三年生、
諜)
二学期、第 16
部としての元朝史の内容と『モンゴル民族史』とい
う授業内容が含まれている 。 しかし、『モンゴル民
『
モンゴル語』の教科書に収録されたモンゴル史関
族史Jという内容は、大学入試の試験範囲とならな
係のテキストは二通りの由来をもっ。その一つは、
いため、教師も生徒もいずれも重要視していないの
歴史文献の関連記事を基づいて創作された文学作品
である 。 もう 一つは、直接、歴史文献から選出した
である 。そのため、この科目は、学校が制定する時
間割表に入れられておらず、教師の授業計画にも入
れられていないのが実状である。そして、ただ教科
内容である 。
チンギス・ハーンをテーマにしたテキストの内容、
書を生徒に配って「独学する」ことを求めるのみで
表現、解釈などに注目すれば、チンギス ・ハーンの
ある。
人物像には次のいくつかの特徴や性格が見られる。
(
1
)
聡明さと賢明さ
2
. モンゴル語の授業におけるチンギス・ハー
ンと関連する内容
チンギス・ハーンは幼い頃、気転をきかせてタイ
チウト族の急襲から逃れることに成功している。ま
小学校から中学校を卒業するまで、 1
2年間を必要
たチンギス・ハーンが軍を率いて遠征の際、途中で
2年間で使用する「モンゴル語」の
とするが、この 1
雪崩 れの危険性を察知して、 軍を災害から守ったな
どのことがテキストにとり上げられており、チンギ
教科書は全部で 2
4
冊ある。そして、そこに記述され
人間文化・
8
1
内 モ ン ゴ ル に お け る 学校 教 室内の チ ン ギ ス ・ 八 一 ン (
和 訳)
闘
次
原
典
年度
学期
課の番号
小 1年生
一学期
15課
かしこい テムジン
ァムジンがヲイチウ 卜に捕まえて、 そのうち
書き下ろし
に湖に身を隠して危機から逃れた物語
小 2年生
一学期
22課
アラン・ コア妃の五つの矢
アフン・ コア妃が息子 たちに団結することの
書き下ろし
大切さを教えた
小 2年生
一学期
22課
偉大なる ホヱ ルン・ウ ジン
イエスゲイ ・パー トルの死後、ホヱルン ・ウ
書き下ろし
ジンが厳しい環境の 中で息子たちを育てた
小 3年生
一学期
22
課
鉄を溶かして エルグネ・ク ヌクスとキヤ ン両氏の子孫が繁栄するまでの
書き 下 ろし
ンから 出た伝説
物語
小 3年生
一学期
17
課
テムジンが才覚で信用でき
る友人をつく った話
小 4年生
一学期
19
課
チンギス ・ハ ンがハサル
チンギス ・ハー ンが二人の弟の倣慢さを巧妙
とビルグダイ 二人の弟を悟
書き下ろし
的に言い直した話
らせた話
小 4年生
一学期
22課
ジェル メの勲功
戦いに負傷いたチンギス ・ハーンを救った
書き下ろし
ジェルメの物語
小 4年生
一学期
23
課
チンギスの陵墓
オル ドスにおけるチンギス ・ハーンの陵墓に
書き下ろし
関する紹介
小 5年生
一学期
21課
賢明なるソルハ ンダニ妃
フピフイの母親であるソルハンダ
的貢献を紹介した
小 5年生
一学期
25
課
古代の詩四節
チンギス ・ハーンの教え詩が一節含まれた
ロブサンダンザン著
『
黄金史綱j
小 6年生
一学期
14課
フダイ・スチン の司I1
戒
フダイ・スチ ンがアンパガイ・ハーンの十人
息子に友情を悟らせた物語
口 ブ サ ン ダ ン ザ ン著
『
黄金史綱j
小 6年生
二学期
14諜
ポルァ・ウ ジンがメルギド族に捕まった後、
テムジンがブルハ ン ・ハル
テムジンがブルハン・ハルドウン山に祈りを
ドウン 山に祈りを捧げた
捧げた話
中 1年生
一学期
6課
ァムジンの少年期
中 2年生
一学期
15課
アルガソン ・ホルチがソ 口ンコッ ドに二年間
アルガソン・ホルチの神話 滞在したチンギス・ハ ー ンを説得し帰らせた
約
豊
里
ァムジンが八つの駿馬を盗賊の手から取り返
した途中、ポオルチュと 出会 って仲良くな っ 書き下ろし
た物語
妃の歴史
書き下ろし
『
モンコル秘史j
チンギス・ハ ンが女イチウ 卜族に捕ま った
書き下ろし
が、後に逃れた物語
物語
『モン コル 文 学 作 品
集j より
中 3年生
一学期
14課
酒の良い面と悪い面をめ ぐっ て、ある孤児が
孤児がチンギス ・ハー ンの
『
モ ンコル民族文学資
チンギス・ハーンの九人の将軍と議論した物
九人の将軍と議論した話
料集』 より
語
高 1年生
一学期
15
課
二頭の駿馬の叙事詩
チンギス・ハ ンの一頭の駿馬が自 由 を求め
『モ ン コル 文 学 作 品
てチンギス ・ハー ンから離れたが、結局戻 っ
集j よ り
てきた物語
1年生
一学期
3課
民族の起源を忘れてはなら
ない
モ ンコル人に自らの歴史を知ることの重要さ
を論じた
高 2年生
一学期
15課
チンギス・ハ ンが、ー百
チンギス・ハー ン
、 三百のタイチウ卜族を鎮 口 ブ サ ン ダ ン ザ ン 著
人台イ チウ卜 族を鎮圧した
圧 した物語
『
黄金史綱j
物語
品
2年生
一学期
9諜
五本の矢の教訓
アフンゴア妃が息子たちに友情と団結 するこ
との大切さを教えた
晶
3年生
二学期
10課
ナホ・クンの戦い
チンギス・ハーン、ナイマンのダヤン・ハ
ンに勝 った物語
品
表
モンゴル語侵業の教科書 に記載されたチンギス ・八一 ンについての内容
82 ・人間文化
.
‘
0
『
青史j より
新たに創作された戯幽
n
!
I
¥
史j より
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス ・八一ン(和訳)
ス ・ハーンが傑出した軍事的才能の持ち 主で、聡明
世紀の頃、各部族
の遊牧部族が生活していた。 12
さと賢明さによって世界征服を実現したという内容
間 では争い が とぎれることはなか った。 その上、金
をこれらのテ キス トは反映している 。
固か らの圧迫もあり 、草原の民は平和に暮らすこと
(
2
)勇猛な意志
が‘
できなか った。 チ ンギス・ハー ンはちょうどこの
テキス トのなかにある 『
チンギス』という題の詩は、
よ うな混乱の時代に生を受けた。彼の名はテム ジン
チンギス・ハ ー ンの勇猛な意志と威厳を褒め称えた
といい、一部族の長 であった。テム ジン は強力 な軍
内容のものである 。 また別のもう一つのテキス 卜で
団 を組織して 、長年の戦争によ って周辺各部族を粉
は、チンギス・ハ ー ンの 『
遠いからとい ってあきら
砕し 、 モ ンゴル を統ーしたのである 。 1206
年、 モ
めるな (
qol
agemenbuuωhu)
J という教訓は、彼の
ンゴルの貴族 たちは 、ク リルタイ を聞き 、 テム ジン
剛勇、思慮深い一面が強調されている 。
を大ハー ンとして推戴し 、 チ ンギス ・ハー ンという
(
3
)
報恩、 勲功、友情、慈悲
敬称 をお くっ た。 これ によってモ ンコ.
ル国が建立さ
テキス トでは、チン ギス・ハーンはいつ も、自分
が苦難に陥っても、同志として支えてくれた人々、
れた。 これ以後
、 モ ンゴル草原における長年の乱世
は終息した のであ る。
または敵と戦った際、手柄を立てた功 臣たちの恩に
報いることを忘れはしなか った。チンギス・ハーン
チンギス・ハ ー ンのことを中国では 『
一代天騎j
はまた、 一般庶民 (
例えば孤児のウンチン ・フブグ
と呼ぶ習慣がある 。 この呼び方は、毛沢東によ って
ン)に対しでも慈悲深く接した 。 これらの性格をテ
1
9
3
6年に書 かれた詩、 『
雪 j にあ った一句 「
一代の
キストは、チンギス ・ハー ンとボオルチュ、ソルハ
天験成吉思汗は、只だ弓 を轡りて大殿を射ることの
ン・シラ、ウンチン・フブグ ン、ジ ェルメなどの関
み識る (
一代天天騎,只識轡弓射大!慨 )
J に由来する 。
係から示したのである 。
詩の作 られた時代的背景 は、中国労農紅軍が 『
万里
の長征(19
3
4~ 1
9
3
5)
Jを終えて、中国の華北地域
3
.歴史の授業におけるチンギス・ハーンとそ
の内容
上述のように、モンゴル史に関する知識は、モン
ゴル族学校において、 モ ンゴル語の授業や歴史の授
に着 いた後であ った。毛沢東はこの詩 において、過
去 の名君たちの欠点を述べ、 『これらはみな過ぎ去っ
たことだ、 英雄的な人物を数え 上 げようとすれば、
なおもまた 今 朝を看よ (
数風流人物,還看今朝 )
J
業の中で教えられている 。
歴史の授業は、中学校の一、
と倣慢に宣言 している 。 これは、過去の君主 たち (こ
二年生の二学年に教えられている 。 この歴史の授業
のなかチ ンギス ・ハーンも含まれる )の名声 と誉 れ
とは、いわゆる漢民族の歴史 (
中国史)となってい
は今 の人々 、つ まり中国の共産党と比べればたいし
る。 この二年間で使わ れ る歴史の教科書 は、全部で
たことではないという 意味を表すものだ、 った。チン
4 冊あ っ て、一冊 ごとに 2 1 ~22謀で構成されている 。
ギス・ハ ー ンはただ 『
弓 でオオワシを身することをしっ
この中には、モンゴルの 1
3
世紀の歴史に関する部分
ているだけj であって、戦いに強い以外、そのほか
が 『
モンゴルの台頭と元朝の成立j として記述され
の面ではまだまだ足りないという 意思表明がなさ れ
ており、こ れ を中学校二年生の第二学期の第 1
2
課で
ている 。 しかし、毛沢東の蔑み気味の表現である『一
教えられることとな っている 。
代天騎j は、皮肉なことに今 なお中国ではチンギス・
3
世紀 に繁栄し、強大となったモン
この課では、 1
ゴル帝国の歴史を概説 しているが、チンギス・ハ ー
ハーンを評価する公式名称、とな っている 。
元朝が成立 した意義に ついては、 主 に交通、商業、
ンの歴史的な功績を、従来の中国史の枠組の 中で論
農業 などを発展させたことや 中国史上初めて省制 を
じたものである 。そこでは、元朝がつくられた意義
実施したこと、また、中国の領土を史上最大にまで
が比較的 に多く 言及さ れている 。
拡大さ せ たこと(ここで、チベッ トと台湾を 例 に し
ここでは、チンギス・ハ ー ンについて言及した教
科書の内容から 一部を写せば以下の通りとなる o
ている )などの側面がとり上げられ、 これ らはすべ
て民族融合を促進させたとして、前述 した教科書で
は強調されている 。
『
一代天購Jがモンゴルを統ーした
わが国の北方に広カずるモ ンゴル高原 では、多数
『
中国史』 の授業に加 えて、 モ ンゴル族の学校教育
のために編纂 された 『
モンゴル民族史』 は
、 モ ンゴ
人間文化・
83
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン (
和訳)
ル人の生徒たちにとって、モンゴル史の知識を得る
概念を駆使して、 ロシアの影響が浸透したモンゴル
ための重要な資料となっている 。 しかし、上述のよ
社会の状況をとりあげた一方、 中国軍閥によるモン
うに、大学受験の際、モンゴル史の内容が入試の範
ゴルの牧草地の開墾に対する、モン ゴル人の反発を
囲に含まれないため、この教科書を教師と生徒のい
モンゴル民族の反封建闘争だと結論している 。
ずれも、あまり重要視していないという側面がある 。
ともかく、モンゴル人の生徒たちが読める可能性
(
5
)
モンゴル国の独立について
同書は、外モ ンゴルの 1
91
1年の独立を述べる前、
のある本として、この教科書の内容を見てみると、
モンゴルの独立は、「モンゴル併呑を昔から狙って
いくつかの特徴が見られる 。
いた帝政 ロシアと日本の侵略者の誘惑に よって、モ
(
1
)
モンゴル人の起源について
中国の歴史家たちの問では、モンゴル系の人々の
起源を東胡から来たと見るのがも っとも一般的ょう
である 。例外なくこの教科書にもこの見方が反映さ
れている 。当 教科書 は、
「 モンゴル部族は東胡の末
商である室重量の一分校である 。つまり 『
蒙冗室章j
という名称で史書 に見られる彼らは大昔、エルグネ
川の南に位置する森林地帯に生活していた J[モン
ンゴルの一部王公と貴族階級が、自らの封建的権力
を守るため 「
独立 j運動を行 ったと説明している[問
2
0J
。
書 :1
外モンゴルが「独立」 した後、内 モ ンゴルの盟 ・
旗へ使者を派遣し、「全モンゴル的な統ー した国家
の建設をしよう」と誘惑した。 ジ、
エプヅンダンパ集
団の誘惑の下で、 1
91
2年 8月 -12月の間に、ジリ
ム、ジョ ー ・オダ一、オランチャブ、フルンボイル
ゴル民族史
などの王公が次々と「独立」運動を起こした [
同書
モンゴル史学界の定説である 。 というのはほとんど
1
2
0
J という 。
この時期に、日本の侵略者も王公や貴族階級を懐
の中国人のモンゴル史家は、史書に見られるエルグ
柔し、内モン ゴルにて何度かの 「
独立」運動を企ん
ネ川が現在の内モンゴル自治区のフ ロンボイル地域
だが、みな失敗で終わったと[同書 :1
2日 も 述 べ
にあるエルグネ 川だと認知しているからである 。つ
ている 。
2
0
06:2J という 。
ここで強調されるエルグネ川とは、中国における
まり、これは、モンゴル人の発祥地は中国領にあ っ
たということを説明したいだけなのである 。
(
2
)
チンギス ・八一ンの歴史的位置づけについて
同書で見られる、このような記述に従うと、モン
ゴルの独立は、外来の侵略者と 直接結びついただけ
のものであって、モンゴル人自身にとって自らの利
本教科書は、チンギス ・ハー ンが大モンゴル帝国
益と願望に一切関係ない ように論じているのが、本
を建国したこと 、 また十人隊、百人隊、千人隊、万
書の一つの特徴となっているようである 。そしてさ
人隊という十進制の軍事的制度を実行し、大ヤサ(法
9
21と1
924
年の外モ ンゴルにお ける独立運動
らに、 1
令)を発布したこと、そしてウィグル式モンゴル文
とその後にも続いた歴史的展開に関しては、なにも
字の使用などを命じたことなどの順にチンギス ・
触れられていない。
ハーンの功績が一通り述べられている 。その後、共
(
6
)
ウランフーと内モンゴルの自治運動について
同書 は、ウランフ ー と他の内モンゴルの革命家た
通の言語、共通の国土、共通の経済、共通の文化習
慣と、それに よって民族的な愛着のあるモンゴル民
ちが、 1
9
20年代から革命に参加して以来、様々な闘
族形成ができたことに、チンギス・ハ ー ンは重要な
争を行ったことを広く言及し、これらの出来事を、
役割を果たしたと結論している 。
(
3
)
元朝について
とりわけ元朝の歴史的意義を 「
元は全中国を統一
し、唐以後に長く続いた中国の分裂状況を終わらせ、
中国史上、従来にはない統一国家を造った」 と解釈
している[同書:3
3
J。
(
4
)
19世紀以後におけるモンゴル社会とほかの社会
との関係について
1
9世紀以来のモンゴル社会とほかの社会との関係
を論じる際、同書は、半殖民地的と半封建的という
内モ ンゴルの近代において最も意義のある重要なこ
84 ・人間文化
ととして高く評価し た。
同書の1
5
5ペー ジには、わが国の モ ンゴル民族は
百年も続いた反侵略者闘争、 また大清王朝、北洋軍
閥と国民党に よる民族圧迫に対しでも反発し、民族
内部における封建階級の圧迫に対して反抗する偉大
な闘争を行って、最終的に、中国共産党の指導の下
で漢民族およびほかの少数民族の人民はみな団結し
て民族を圧迫する社会体制を押 し潰し、民族地域の
自治を実現し、民族解放は徹底的な現実 となった。
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン (
和訳)
そこでモンゴル民族は繁栄と発展に向う道を進むこ
とになった[同書
1
5
5
J とある 。 この 一段落は、
内モンゴルにおける近代百年余の歴史が現在の統治
上に おける 主流的なイデオロギーの下のみでの総括
オム
ア
ホ ン、オ ム
ア
ホン
、 オ ム ア ホン
、 イダム2およ び
ジ工 1 バラム (ラマ /刷嘱)
であることは言 うまでもない。そして、歴史の過程
聖主チ ンギス・ハ ーンの家臣たち
を作った多くの人物が統治者側からの歴史観によっ
幸せ な宮殿か ら
てのみ評価された点がこの教科書の目立つ点である
運命の重臣 や友人 たち
といえよう 。
ー
つの至上 より 始 ま り
ここに宿 る天神、地神
土地 と水を 守 った精霊 たち
4.教室の外におけるチンギス ・八一ン
内モンゴルでは、チンギス ・ハーンとモンゴル史
仕事 と願望を叶えるた めここに招こ う
宝石 で仕上げた壇
の知識を教科書の内容として授業で教える以外、教
八つの蓮の花の座敷の上
室の外、つまり授業以外の様々なことによ って、チ
詩聖た る神、 白いオパシ 3
ンギス・ハーンとモンゴル史に関する知識を得られ
すべての友人、 重臣 や天神、地神
ることも少なくない。例えば、映画、テレビなどか
皆 が喜び合い、降臨し 給え
らチンギス・ハーンおよびモンゴル史を題材にした
神聖 な祭 りが心 と合い
作品を鑑賞することや、また両親や友人から聞 くこ
百の昧 が仕込 んだ食の元
と、さらに文学作品、美術品、音楽などの媒体を通
乳の味 を仕込んだ霊水の栄養 で
して、歴史知識が得られる可能性も高い。
聖主 チンギス ・ハ ーンの家臣た ちを祭ろう
家庭環境、あるいは教室と公衆の場など様々な状
[
S
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yi
n
ji
I
γala
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r
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i1
9
8
3:3
0-31
J
況において、モンゴル史の何か一つの情報を 受ける
いろいろな可能性が、まさにモンゴル史の意味を解
最近の十数年では、内モンゴルの人々にとってモ
釈する上で、異なる言説の背景 (
c
o
n
t
e
x
t
)となって
ンゴル国に行く機会やモンゴル国の人々と交流をも
いるのである 。言い換えれば、教科書の内容が、漢
っ機会が増えてきている 。内モンゴルの人々がモン
民族、つまり国家の大きな言説の企てに合うように
ゴル国でモンゴル史や文化 について見聞する時、中
語られているのだとしても、このほかの場合に語ら
国にいた時と異なる新しい理解の仕方や独特の解釈
れるチンギス・ハーンやモンゴル史の意味は必ず同
を知ることも普通のこととなっている 。例えば、私
じパターンになるとは言え ないかもしれない。
の友人(内モンゴル人)でモンゴル国に数年間、ビ
例えば、オルドスにあるチンギス・ハ ー ン陵を中
ジネスマンとして働いた経験のある人がいる 。彼は
国の政府は「愛国教育の基地」のひとつに定め、学
私に、モンゴル国では、我々の学んだモンゴル史とは、
校の生徒と 一般人を対象に、この祭犯の場でモンゴ
ちょっと違った形で歴史が語られていることを話し
ル帝国史とチンギス・ハーンの功績を 中国史の重要
てくれた 。彼は、 「私は、モンゴル国にいて、自分
な内容の一部 として理解させたがって いるが、私の
の学んだモンゴル史の知識が今まで唯一正しいと思
観察では、チンギス・ハ ー ン│
凌における祭杷の環境
い込んで、いましたが、今はそれを疑うようになって
においては、チンギス・ハ ー ンはさらに神格化され、
います。 そして、我々は一体何を勉強して、どんな
仏や神々として、 当地域の人々および子供たちに理
人間にな って いるかを熟考すべきではないかと感じ
解されている 。 しかも、このような状況はかなり普
たのです」 と言っ た。 これが一つの事例である 。
遍的である (Na
s
a
nBayar2
007)
。
近年、チンギス ・ハー ン祭杷に唱えられる『エジ
ン・
サン(聖主の祭文 )
Jという歌が内モンゴルでは、
特にオルドス地域のモンゴル族学校などで 『
愛国教
育j の一環として教えられている 。仏教的色合いの
濃いこの『エジン・ サ ンj から 一段を写せば次に通
りである 。
2 イダムとは、「この上ではなく」という意味のチベッ
ト語であ るが、チベット仏教では仏より 一段低い、
護法神より一段高い陰陽の両性の知恵を有した神明
を言う。
3 オパシとは、在家したまま仏教の修行をする仏教徒
を指す言葉である 。
人間文化・ 85
内モンゴルにおける学校教室内のチンギス・八一ン(和訳)
総じて、 内モ ンゴルの人々は、漢民族の民族/国
民国家 (
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a
t
i
o
n
s
t
a
t
e
)の言語環境下において、自民
参考文献
1
. r
h
e
l
eb
ic
ig
J(
小・中学校および高校における 1
2
族のアイデンテイティを構築する場合、「中図」、「中
年制教育に使われた24冊の教科書)内モンゴル
華民族」、「祖国」などと言った 政治・文化的概念で、
教育出版社、 2
005
2
0
0
6、フフホ ト。
一定の意味空間を造って、モンゴル史および伝統的
2. r
unshiqub
ic
i
gJ (
小・中学校および高校にお け
知識をこの空間内で解釈することを余儀なくされて
る1
2年制教育に使われた 24冊の教科書)内モン
いる 。 しかし、このような意味空間は、いつまでも
変化しない固定的な構造をもつものではないで、あろ
っ。
ゴル教育出版社、 20
0
5
-2006、フフホ ト。
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2006
、フフホ ト。
ぬn
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内蒙古民族教育的方針と任
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結び
内モンゴルにおけるモンゴル学校の生徒たちが、
教室内あるいは教室の外で、モンゴル史に関する授
務 」、『 内 家古自治区民族教育 文件~編j
(
第一輯)、内蒙古自治区教育局編印
1
9
79、フ
フホ 卜。
業と、それ と異なる別の活動によ って得られるチン
5. Qasbayan
-a 2006: 11949un-e
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ギス・ハーンへの理解は、次のようないくつかの特
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徴があるといえよう 。
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(
1
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内 モ ンゴ ルのモンゴル族学校では、チンギス・
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i
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j
i
leU 中・小学校の教科書編著討論会、フ
ハーンの伝記、すなわち彼の一生についての内容
がある程度、しっかりと語られていて、チンギス
・ハーンの人生の過程が、ある程度、正確に理解
される可能性がある 。
フホ ト。
6. NasanBayar2007,“
OnChinggi
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(
2
)チンギス・ハーンの功績、歴史的地位への解釈と
UradynE.Bu
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評判が、現代中国の 一般的 言説の環境下に適合
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よってチンギス・ハ ー ンが、モンゴル帝国の建国
者、モン ゴル民族の始祖としてだけではな く、中
7. AlmazKhan1
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ている 。
(
3)
内モンゴル人たちにとって、教室の外、公衆の場、
さらに国外に滞在している場合、今までと異なる
言語環境の下で、異なったモンゴル史の知識を得
S
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1
eandLondon:UniversityofWashington
Pr
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1
9
9
5
8 楊海英 2004、 『チンギス ・ハ ー ン 祭 記 試 み
としての歴史人類学的再構成j東京、風響社。
る機会も多い。それにしたがって、チンギス・ハー
9. S
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j
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1
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1
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ンの意味するところや、性質は、新たに解釈され
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1
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る側面がある 。換言すれば、内 モ ンゴルの人たち
B
e
g
e
j
i
n
g
それぞれがもっ家庭、社会関係、生活の経歴など
が異なっているので、それぞれの精神に宿るチン
ギス・ハーン像は一律に同じくなるはずは、ない
のである 。そういう意味では、 一人一人の心にあ
るチンギス・ハーン像は、異なる環境においては
異なっていく可能性が十分あるだろう 。
8
6 ・人間文化
特集
現代日本文学における
チンギス・ハーンの利用
-研究翻訳が文学作品へ転換されるとき
小長谷有紀
国立民族学博物館
1.はじめに
演劇や映画に利用さ れている ことに注目して、そう
民主化および市場経済への移行を果たしたモンゴ
ル国で は、チン ギス ・ハー ンの名前や肖像が多くの
した文芸界におけるチンギス ・ハ ー ンの日本的受容
について明らかにする 。
商品に使わ れるようになり、そうした利用の自 由 を
そもそも、日本人はチンギス ・ハー ンが大好きで
制限する法律が必要ではないかと国会で議論された
あると 言っ ても過言ではない。 たとえば¥明らかに
ことがあ った 1。 また中国内モンゴル自治 区では、
史実ではないにもかかわらず、源義経を成吉思汗と
チンギス ・ハー ンの祭泥空間が観光化 されることに
同一視するという歴史的ミステ リーが今日なお新し
よって伝統的な文化が失われ、従来の生活も脅かさ
く生産され続けている 3。 なぜ日本人 はこ れほ どチ
れるという反対が見受 けられた 2。 このように、チ
ンギス・ハ ー ン好きなのであろうか。
ンギス ・
ハーン は、その末商を自称する人びとにと っ
源義経が成吉思汗にな ったという説の起源と展開
ては正統性 (
o
r
t
hodoxy)や真 正性 (
aut
hent
i
c
i
t
y)が
および論争については、すでにいくつかの研究があ
問われる問題であり、文化資源として必ずしも自由
る。
森村宗冬の整理によれば、江戸時代において、 『
本
にアクセスできるものではないと知れる 。
朝通鑑j に義経が生存しているという噂が記録され
一方、日本では、歴史的にチンギス・ハーンとの
ており、さらには、 『
金史j 別本に大陸へ渡ったと
直接的な関係がほとんどなく、それゆえにチンギス・
記録されている、という話そのものが担造さ れた
ハーンはほぼ自由にアクセスすることのできる文化
005)
。 また宮脇淳子の解説によれば、明治時
(
森村 2
資源である 。たとえば、ジンギスカン鍋という焼き
代になると、世界を 制瀕したチンギス・ハーンは日
肉用の料理器具があり、誰でもどこでもチ ンギスや
本人であると 主張することによ って西欧に対して抱
チンギス ・ハー ンという焼肉料理の庖を開くことが
いていた劣等感が克服されようとした (
宮脇 2
00
2
できる 。
21
7-219、Mi
yawaki2
006)
。こうし た虚構の展開は、
本稿では、そうした 日本人の一般的な利用の基礎
となるイメ ー ジを与えていると考えられる、文学的
日本が国家的に大陸進出を果たそうとした時代背景
と無縁ではなか ったであろう 。
な利用について考察する 。具体的には、 『
元朝秘史J
あるいは 『
蒙古秘史j という名で知られている、
1
3
世紀のできごとを描いたとされる 書が、研究者によ
る翻訳を通じて 一般に知られるようになり、それら
がさら に作家に利用さ れて小説 となり、またさらに
1 2
0
06
年1
0月の国会で、チンギス ・ハーンの名称およ
び図像を商標として利用するための法律が議論され
たが、承認されなかったようである 。
2 中国では、チンギス ・
ハーンを モンゴル族出身の 「
中
図的英雄」 とみなすのが公式見解であり、近年では
内蒙古自治区オルドスにあるチンギス・ハ ーン廟を
テーマ
ノ fーク 化するにあた って、モンゴル族にと っ
ての聖域が結果的に漢化するという反対運動が生じ
B
u
la
gu
n
p
u
b
l
is
he
d)
。一 方、こう したチンギス
た(
ハーンの中国化に対して、モンゴル国では、より
強大な銅像や施設で圧倒しようとする傾向があるよ
うに思われる 。
3 I
義経 =チンギス ・ハーン説」を日本に広めたのは、
小谷部全一郎著 I
成吉思汗ハ源義経也 J(
1
9
2
4)で
あり、この著者については土井全二郎著 「
義経伝説
をつ くっ た男一義経 ジン ギスカン説を唱えた気骨の
(
2
0
0
6)という評伝がある 。また、
人・小谷部金一郎伝J
この著作の内容を 利用して、高木彬光は 『
成吉恩汗
1
9
5
8)という推理小説に 加工 した。 これ
の秘密J(
以降も多数の 「
義経 =チンギス・ハーン説」が今 日
も再生産され続けており、現時点では丘英夫著『義
経は ジン ギスカンにな った! その 6つの根拠』
(
2
0
0
5)が最新である 。そもそも、社会が難局を迎
えた時に人びとは積極的に過去の英雄を呼び戻して
対処したり 、国家が世界へ進出しようという時に人
びとを鼓舞するために偉大な人物が利用される、と
いった空想力の問題が潜んて、
いるとも考えられるが、
それについては今後の大きな課題として残しておき
たい。
人間文化・ 87
現代日本文学におけるチンギス ・ハーンの利用
本稿ではもっぱら、それ以後の現象をとりあげる 。
が1
9
7
2年、巻 3が 1
9
7
6年に刊行されていく 。歴史学
すなわち、第二次世界大戦後の日本文学 (
本稿では
者の村上正二が、那珂通世以後の斯学の成果を反映
これを現代日本文学と称することとする)において、
させて、詳細な訳注を施したものである 。
チンギス・ハ ー ンを素材として利用した小説を取り
また、言語学者の小浮重男はライフワ ー クとし
上げ、その文学的主題の起源と展開ならびに多様性
て 『
元朝秘史全釈(上 )
Jを1984年、 『元朝秘史全釈
を明らかにするものである 。日本人がなぜチンギス・
J を1
9
8
8年
、 『
元朝秘史全釈続孜 (
下)
Jを
続孜 (
中)
ハーンをこれほど大好きになったかという理由の一
1
9
8
9年に完成させたのち、 1
9
9
7年に一般向けに 岩波
端が了解されるに違いない。
上)(
下)を上梓した。
文庫として 『
元朝秘史J(
2
. 日本における 『
元朝秘史J
の翻訳と文学利用
よって、日本ではこれまでチンギス・ハ ー ンを 主人
1
3世紀のモンゴルの歴史について自らの言葉で記
公とする小説が幾多も創作されてきた。第二次世界
一方、 こうした研究者の成果を利用することに
した書物である 『
元朝秘史j は、歴史的事実を反映
大戦後に限定し、研究者による解説書の類を除くと、
したものではなく、あくまでも物語として編集され
小説家による作品としては以下の 5つが代表的であ
ている 。 したがって、当時の歴史というよりもも っ
る。
ぱら生活習慣や言語 を分析するうえでの貴重な資料
まず、楳本捨三の 『
成吉思汗j が 1
9
5
5年に刊行さ
であるとみなされ、中国や欧米では 1
9
世紀末から研
れ、本書 は 1
9
7
2年に 『ジンギス汗』 として再刊され
究されていた。そうした研究成果を取り込みながら、
た。 ただし、両者はま ったく同じではなく、微妙に
日本では現在までに 4人の研究者によって全文の邦
章のタイトルや字句が修正されてはいる 。その再刊
訳が試みられている 。
最初の邦訳は歴史学者の那珂通世の手になる 。早
に先立つ て、井上靖の 『
蒼き狼j が 1
9
5
8年から 『文
9
5
9
年に書籍として刊行され
義春秋』 に連載され、 1
くも 1
9
0
7年に原文に忠実な邦訳と訳注のほどこされ
た 4。楳本の再刊本以後の作品を年代順に並べると、
た専門書 として 『
成吉思汗貫録j が刊行された。本
陳舜臣の 『
チンギス・ハ ー ンの一族j が朝日新聞に
警 は本邦のみならず、世界で最初の全訳書 となった。
1
9
9
5年4月から 2
年にわたって連載されて 1
9
9
7年に書
9
4
0年になると、 言語学者の小林高四郎が 『
蒙
さらに 1
籍となり、その後、森村誠一の 『
地果て海尽きるま
古の秘史j という題名で新たに訳書 を刊行した。 こ
で一小説チンギス汗j が 2
0
0
0年に刊行され、堺屋 太
ちらも専門的な研究成果を反映したものではあるが、
ーの 「
世界を創った男一 チンギス・ハン j が日本経
むしろ 一般向けの読み物として提供されている 。 な
済新聞の連載として 2
0
0
6年から始まり、 2
0
0
7
年に書
お、小林高四郎は同じ頃、 1
9
3
6年、世界的なモンゴ
籍として刊行された。
ル学者であるウラヂミルツオフの著作も 『
チンギス ・
チンギス ・ハーンを素材とした日本の代表的な上
ハン傍j として邦訳しており、研究者や一般利用者
の便を大いに図っていた。
那珂通世の専門書 『
成吉思汗官録j と小林高四郎
の一般 書『蒙 古 の 秘 史 j の違いは、「序」 のあと、
本文に先立つて記された 「
序 論」 ないし 「
解 題」 に
おいて鮮明に示されていると 言 えよう 。前者の 「
序
論」には、もっぱら研究史が述べられているのに対
して、後者の「解題」 には、研究史を踏まえつつも、
そもそも 「
如何なる秘事が記しであるのかJについ
て解説されている 。そして、この後者の「解説」 に
提示された 「
秘密」の理解こそは、やがて日本文学
において独自の解釈が発生する根源となるのだが、
これについては後述しよう 。
その後、戦後になってから、平凡社の東洋文庫シ
リーズとして『モンゴル秘史j 巻 1が 1
9
7
0
年、巻 2
88 ・人間文化
4 井上靖は本小説の発表直後に f
別冊文義春秋J
7
2
号で、
創作に参照した著作群を列挙しており、その文章は
新潮社文庫本 『
蒼き狼j のあとがきにも転載されて
いる 。そこには、研究書のほかに、幸田露伴の戯曲
や尾崎士郎の 『
成吉恩汗』、柳田泉 I
壮年のテム ジン』
など日本人の文芸作品も含まれている。それらの文
芸作品が担った影響力について分析することは、近
代日本文学の研究領域に属しており、今後の課題と
して残す。また、それと同時に、欧米で刊行された
チンギス・ハ ーン関係の書籍の邦訳や、まれにモン
9
3
0-4
0
年代の資料
ゴル人による著作の邦訳など 1
に関しでも 言及する必要があるだろう 。それらの課
題をひとたび置いて、本稿では、国民的ベストセラ ー
となった井上靖の 『
蒼き狼j の前後からの跡づけと
なることを断っておく 。
現代日本文学におけるチンギス・八一ンの利用
記 5作品は 5、内容上、明らかに 2つに分けること
•• (
後略)……」と控えめながら、しかし確信的に、
ができょう 。1つは陳舜臣と堺屋太ーの作品であり、
解釈を織り込む自由が作者にはあると主張している
もう 1つは井上靖、楳本捨三、森村誠一の作品であ
(井上 1
9
61:1
7
6)
。 こうした論争はさらに、歴史小
る。
説とは何かという議論に発展する(宮脇 2
0
0
6
)。
前者 2点はともに新関連載であるという共通点を
このように、井上靖の名作とされる 『
蒼き狼j は
、
もっと同時に、内容としてチンギス・ハーン個人を
発表当時においてすでに歴史小説の定義にかかわる
超えて 1
3- 1
4
世ー紀当時の社会現象全般を扱ってお
議論を呼ぶほどであった。言い換えれば、そもそも
り、歴史を理解することに主眼を置いた作品である
歴史的文脈があまり考慮されていないだろうことが
と言えよう 。
指摘されていたのである 。 したがって、 実際 に歴史
一方、後者 3点は、もちろんチンギス・ハーン l
的文脈から逸脱している可能性は高く、その意味で
人だけを扱っているわけではないが、その扱いの比
まさしく文学的である、と評価することもできょう 。
重は大きく、前者に比べて歴史的解説は少ない。歴
それは同時に、モンゴル文化という文脈から脱文脈
史的解説の代わりに文学的主題が設定されている 。
化されている可能性もきわめて高いことを 容易 に推
その内容は作者によってやや異なるが、後述するよ
測せしめる 。
うに 〈
出生の秘密〉ないしは 〈
出生の疑惑〉は中核
創作活動のための資料として、大岡昇平はド ーソ
元朝秘史j の那珂
ンの 『
モンゴル史j のほかに、 『
を成している 。
ここでは、井上靖の 『
蒼き狼j が発表当時、歴史
9
6
1:2
1
9
)、
通世訳 『
成吉思汗貧録 j を挙げ(大岡 1
小説ではないと厳しく批判されていたことについて
原作者である井上靖は 『
元朝秘史 j のほかにたく
のみ言及しておこう 。作家の大岡昇平は、文芸雑誌
9
6
0:1
6
7-1
6
8)
、
さんの資料を挙げているが(井上 1
「群像j に
i
W
蒼き狼j は歴史小説か一常識的文学論
(
1
)
-Jという挑戦的なタイト ルの評論を 寄稿した 。
にもかかわらず、主たる史料であるとする『元朝秘
史Jについては「那珂通世博士の名著」についての
「
歴史小説は近代の産物で、歴史的人物を人間的に
み明記しており (
井上 1
9
6
0
:
1
6
6
)、小林高四郎の 『
蒙
書くのを原則とする 。人間とは無論現代人であるほ
9
5
9年に
古の秘史Jには言及していない。 しかし、 1
かはないが、現代的動機のために、歴史を勝手に
先行する訳書はすでに 2種類存在しており、 『
成吉
改変していいかというと、そうは行かない J(
大岡
思汗貫録j や 『
蒙古の秘史j が参照されなかったは
1
9
6
1
:
2
21)という箇所に端的に表されているように、
作者すなわち井上靖が、史料を曲解して心理ドラマ
にしてしまったことを痛烈に批判している 。
ずはあるまい 6。
これに対して井上靖は同じく
n
洋像jで「自作 『
蒼
以上のように、日本では、 1
9
0
7年に刊行された 『
成
9
4
0年に刊行された『蒙古の秘史j
吉思汗賓録j と1
という研究翻訳を情報源としながら、歴史や文化の
i
W蒼き
文脈を逸脱する傾向をもっという意味できわめて創
狼j に於いて私が書きたかったのは、歴史ではなく
9
5
8年に井上作品が創出されたのである 。
作的に、 1
小説である 。 ……(中略)……小 説家の歴史に対す
2
0
0
7年、角川春樹事務所によって映画 「
蒼き狼一地
果て海尽きるまで」が製作、上映された。 この映画
の原作は森村作品とされており、映画のサブタイト
ルはたしかに森村作品のメインタイ トルではある 。
しかし、映画のメインタイトルはむしろ井上作品の
タイトルそのままである 。 このタイトルの借用関係
き狼Jについて」と題して直ちに応酬し、
る対し方は、歴史学者の解釈だけでは説明できない
ところへはいって行き、表面に見えない歴史の一番
奥底の流れのようなものに触れることではないか。
5 これら 5作品のうち 4作品(その後続再刊も含めれ
ば 5作品)は、チンギス・ハ ーンの名をタイトルに
付しており、その日本語表記がすべて異なっている
点は興味深い。歴史学者のあいだではチンギス ・カ
ンとするのが常套で、あるが、現代における利用を扱
う本稿では、現代的呼称としてチンギス・ハーンを
一貫して用いる 。ただし、書名などの引用は原著の
とおりとする 。
6 2人の論争を通じて、結果的に小林訳 『
蒙古の秘史』
だけが言及されずに終わった。単なる偶然かもしれ
ないが、 『
霊長古の秘史』の「解説」にこそ本稿で論
じる問題の鍵があるだけに、この文献に対して原作
者がたまさか言及していないという事実は、結果的
に「秘匿」が生じている、と見ることができょう 。
人間文化・ 89
現代日本文学におけるチンギス・八一ンの利用
に明示されているように、日本では井上作品のイン
他秘すべき事柄を忌誇するところなく録しているの
パクトがきわめて大きく、当該映画に描かれた物語
である 」
。
の主題や構成もむしろ井上作品を踏襲していると思
われる 。
『
元朝秘史j は統を含めると全部で 1
2
巻から成って
いる 。そのうち、チンギス・ハーンの母が略奪され
この角川映画「蒼き狼」は日本とモンゴルで同時
た経緯と父が毒殺されるシーンは巻 1にあり、異母
に上映され、モンゴルでは内容に対する批判が相次
兄を殺したり、自ら宿敵に捕らえられたり、妻を奪
いでいた(小長谷2
0
0
7)
。 モンゴル人による諸批判
われたり、といったエピソードはいずれも巻 2にあ
の根本的な原因は、彼らが理解する自らの歴史と文
り、十三翼 の戦いは巻 4にある 。 したがって、この
化に対する文脈から、当該映画が逸脱していたこと
小林高四郎の解説は総 じて、本書の前半部に注目し
0
0
7年 3月号・ゾーニーメデー
にあった(フムース紙 2
て、チンギス・ハーンのもっぱら幼少期の苦労話を
0
0
7年 3月1
6日)。 当該映画について指摘されて
紙2
とりあげ、それらが秘密であると説明していること
いる脱文脈化は、そもそもその原作、さらには遡っ
になる 。極端に言えば、幼い頃の苦労話を他人に隠
て映画タイトルに小説のタイトルが借用されている、
すべき 「
恥」 として理解して いたことになる 。 ちな
井上作品にこそ起を発するに違いない。
みに、これらの小林によって抽出された 「
秘密」群
以下では、日本人研究者による 4点の邦訳のうち
のうち、後年の作家たちがとりわけこだわるのは、
戦前の 2点が、戦後に文学作品の創作へと応用され
( )の中に書き足されたこと、すなわち長子ジュ
た時点、すなわち楳本作品や井上作品が生まれると
チがチンギス・ハーンの実子ではないという噂であ
き、どのように脱文脈化が生じていったかについて、
ることをここで喚起しておこう 。
具体的な状況を跡付けていく。
一般に、さまざまな技術伝承にかかわって 「
秘伝
3
.r
モンゴルの秘密の歴史」の「秘密」とは
何か?
の書」があることを想起すれば、 『
元朝秘史jの 「
秘」
とは何らかの重要な 「
秘訣」が記されているから隠
さなければならないのだ、と解釈することもできょ
『
元朝秘史j の研究史において、そもそも本書のタ
イトルそのものが研究課題の 1つであった。本書の
う。言い換えれば、必ずしも 「
恥」 を想定する必要
がないであろう 。
モンゴル語タイトルは直訳すると「モンゴルの秘密
本書においてそうした 「
秘訣」が書かれているか
の歴史」であるとされている 。小林高四郎は 『
蒙古
どうかを敢えて探してみると、本書が全般的に繰り
解説」において 「
秘史」について以下
の秘史j の 「
返し述べているのは、チンギス・ハーンに対する忠
のように記している (
小林 1
9
4
0:1
3
)
誠心のあり方である 。
「
宮廷の秘録たる本書は 「
外人に伝えしむるべきも
たとえば、巻 5の1
4
9節ではニチュグト・パーリ
のにあらず」 とて史臣にすら修史の参考とするを許
ン氏のナヤアが投降する場面がある 。投降するにあ
されなかった程であった(元史巻 1
8
1、虞集伝)が
、
たって、主君を殺すにしのびず、逃がしてから投降
然からば如何なる秘事が記しであるのか」 と。
この質問に対する回答も用意されていた (
小林
1
9
4
0:1
4)
。
していることに対して、チンギス・ハーンは、!日来
の主君への忠誠心を賞賛するのである。同様に、巻
6の1
8
5節では主君を見捨てることができずに主君
「
例之遠祖に関する狼鹿交配開国伝説はしばらくお
を逃し、自ら防戦して戦ったカダクパートルを大い
いて、チンギスの母ウゲルンは父のイエスゲイがメ
に誉めている 。 さらに、巻 7の1
8
8節では王汗の子
ルキット部のチレドから略奪したものであること、
セングンの僚友ココチュが主君を裏切るとき、これ
イエスゲイが敵人タタル部に毒殺されたこと、チン
を諌めた妻を対で登場させたうえで、主君への裏切
ギスが弟のハサルと共に異母弟(原文ママ )ベクテ
ルを狩猟の獲物分配のことから射殺したこと、チン
ギス自らが宿讐タイチグット部にとりこにせられ、
りをなじった女を誉めたたえ、主君を裏切った男 (コ
コチュ )を斬り捨てさせている 。 さらに巻 8の2
0
0
節でも、ジャムカを捕らえてきた彼の僚友たちを裏
その妻ブゥルテがメルキット部にとらえられた、 (
長
子のヂ、ユチは敵人の子であろうと伝えら れている )
、
切り者として斬り捨てさせている 。
十三翼の戦でヂャムカに敗れたことなど、なおその
遇する 一方、逆に、主君を裏切った人間に対しては
t
9
0 ・人間文化
このように、主君への忠誠心をもっ者に対して優
現代日本文学におけるチンギス・八一ンの利用
信頼できないとして直ちに斬り捨てさせている 。 こ
こうした「秘密」の解釈は、続く 柳 田泉の著書 『
成
のように対となる処遇と処分とが繰り返して表出さ
れているのである 。
吉恩汗平話壮年のテムジン』 に影響を与えていた
ようである 。明治文学研究の先駆者といわれる柳田
印象的に反復表現されている忠誠心の具現は、同
は、その 当該書の 「
序」に相当する部分で、那珂通
時に、チンギス ・ハー ンの人心掌握術であると 言 っ
世の邦訳を旧訳、小林高四郎の邦訳を新訳と呼んで
てもよいであろう 。岡田英弘の言 うところの 「
将に
区別し、も っぱら旧訳を利用して、新訳は少し参照
岡田 1
9
8
6:8
0)に相当する 。 いわ
将たるの戦略 J(
ゆるリーダーシップ論が表現されているのであり、
これを仮に 「
秘訣」 と読み解くならば、幼少の頃に
したにすぎないと述べたうえで、本論に入ると 冒頭
9
4
2:7)
。
部で次のように述べている (
柳田 1
「チンギス・ハーンがどうしてチンギス・ハーンと
異母兄を射殺したという挿話も、新たな読み解きが
可能となるだろう 。すなわち、チンギス・ハーンの
なったのか、そのチンギスがチンギスとなるまでの、
悲しい、 辛い
、 苦 しい、 しかも猛く雄々しい、男性
意思に従わない者は父系の血がつながっていようと
も容赦はしないという意味を示すエピソードと化す
的な奮闘の若 き臼を、史実によって、わたしに及ぶ
だけ詳しく 誇 りたい」 とある 。小林と同様に、チン
だろう 。
以上のように、本書の前半部分に偏ることなく、
ギス ・ハーンの若き日々は苦難の時代として了解さ
れている 。
全体に目配りしてメッセージを抽出しようと試みる
ただし、柳田の場合は話を具体的に進めるにあ
たって、 テム ジ ンの 妻 ボルテは妊娠してから略奪
人身掌握の秘訣」
と、本書の 「
秘密 Jの解釈として 「
であるという理解も可能となるのである 。
一方、本書の前半部分ではなく、より狭く、 冒頭
部分にのみ注目すると、以下のように、さらに別の
されたという説明をわざわざ 2度もしている(柳田
1
9
4
2:9
2.
101)。 したが って、息子ジュチの出 生 に
ついてチンギス・ハーンは悩むべくもない。 またお
「
秘密」の解釈も可能となる 。
祖先祭把においては自らのメンバー シッ プを 主
およそ 『
元朝秘史Jの巻 1
0までの物語とな っている
ので、続編巻 1
1にある、弟チャガタイが兄ジ‘
ュチの
張するために、その系譜を口上することが義務付
けられてきた (
H
o
r
c
h
a
b
a
a
t
a
r
1
9
8
7:1
2)
。 そもそ
も、族外婚を維持するには系譜の理解が必定で、
あ
出生の秘密をとがめるというシ ー ンは、そもそも割
愛されている 。 こうした処理のしかたに、柳田のあ
る種の意図を見ることができるのではないだろうか。
る。 たとえば、ブリヤート族のあいだでは 7- 9
柳田は、テム ジン は妻ボルテが略奪されるとい った
代を隔てていれば結婚しでもよいと されていた
苦労を経験したけれども、略奪された妻の生んだ子
(
Badamkhatan1996:4
3)
。言 い換えれば、それだ
け隔た っていなければ、婚姻対象外とされていたわ
けである 。こうした婚姻制度を有する社会において、
祖先祭犯に参加するメンバーに長大な系譜の暗記が
求められていたとしても不思議ではあるまい。祖先
祭杷を 実行する集団以外の者にと って
、 祭杷はそも
そも参加しえない秘儀であり、そのメン バーシ ップ
を問うための系譜も秘密であ ってよいだろう 。
すなわち、 『
元朝秘史j の冒頭部分に注目するな
らば、この 冒頭部分に書かれている 「
系譜」 こそが、
その記述内容の如何に関わらず、チンギス・ハーン
ジュチは間違いなく 笑子であるという自己流解釈を
提示しているのである 。 これは明らかに、小林高四
郎の一般書 に書かれた解釈を拒絶してみせたことに
を祖先として祭る集団にとってまさしく 「
秘密」で
あったのだ、と了解することもできょう 70
このような幾つかの解釈が 「
秘密、」について可能
ななかで、小林高四郎はもっぱら幼少期の苦労話を
恥ずかしい 「
秘密」 として、 一般書で解説したので
あった。
なる 。新訳をあまり参照していないという 宣言 は
、
実はこの点における意思表明になっている 。参照し
ていない、と 言 うよりも、参照して否定している、
あるいは批判的に参照している、と 言 えよう 。
モンゴル語の研究者である小林高四郎と、明治文
学の研究者である柳田泉とのあいだで生 じている解
7
r
元朝秘史j については、年代記という歴史書か
、
歴史文学かという性格をめぐる議論が繰り返されて
きた過程で、岡田英弘は祖先祭杷の文献すなわち「縁
起」のようなものであるという分かり易い見解を提
示 している (
岡田 1
9
8
6:1
2-1
3)
。ホルツパータルの
見解もこれに近い。こうした見解は 「
秘」の語義を
系譜に設定する解釈と整合する 。
人間文化・ 9
1
現代日本文学におけるチンギス ・八一ンの利用
釈の速いは、書かれた現象としてのみ分析すると、
称している 。それに先立つ第一の発明とは、成吉思
単純に 「
妻ボルテの妊娠が略奪の前か後か」 という
汗をして即位式にて「蒼き狼は敵を持たねばならぬ。
時間的な問題として媛小化されうる 。すなわち長子
敵を持たぬ狼は狼でなくなる 」 といった演説をせし
ジ‘ュチの出自をめぐる疑惑にほかならない。
めている点である 。つまり、小説全体を 貰い て 「
蒼
このように彼らが対比的な解釈を提示したことに
よって
、 『
元朝秘史j の 「秘密」 を (出生の秘、
密
〉
へと途元する解釈がのちに日本文学において出現す
る準備は整っていたのであった 80
き狼の原理の発明 J(井上 1
9
6
1:1
7
6)がなされてい
るというわけである 。
ところで、 『
元朝秘史j の冒頭部分は、神話的な
記載があり、祖先の系譜が示されている 。それによ
れば、蒼き狼の系譜とチンギス・ハーンの祖先であ
4
. 主人公チンギス・ハーンに関する〈出生の
秘密〉の発見
るキヤト 一族の系譜は「接木 j された関係にあり、
そもそも血統として繋がっているわけではない。蒼
井上靖の『蒼き狼』 は、そのタイトルに主題が明
き狼の血統の家に嫁にやってきた女性アランゴアが、
瞭に現われている 。上述したように大岡昇平が史料
夫ドブンメルゲンを 亡くしてから、光によ って身ご
を曲解していると非難するのに対して、井上靖は以
もった子どもの一人がボドンチャルであり、その子
下のように応答している(井上 1
9
6
1:175-176)
。
孫がチンギス・ハーンの父の系譜キヤト氏一族であ
「……(前略)・…私が成吉思汗について 一番書き
るから、蒼き狼の系議はもともとチンギス・ハーン
たいと思 ったことは、成吉恩汗のあの底知れぬ程大
の系譜と 「
接木」の関係にある 。遊牧民集団がビ ッ
きい征服欲が一体どこから来たかという秘密である 。
グパーンを経て膨張するにあたっては、このように
…… (
中略)…… 一人の人間が性格として持って生
異なる系譜がいわば「接木」されていったものと推
測 される 。
れて来た支配欲といったようなものでは片づきそう
もない問題である 。 こうしたことは、もち ろん、私
『
元朝秘史j の冒頭に述べられている 「
蒼 き狼」 と
にも判らない。判らないから、その判らないところ
いう表現に魅せられたに違いない井上靖は、この血
を書いて行くことで埋められるかも知れないと思っ
をそもそも受け継がない一族の物語であるにもかか
たのである」。
わらず、この血が流れていると誤って想定しておき、
作家井上靖にとって創作動機となる「秘密」は、「征
そしてそれが無いことを自ら疑い、その疑惑を晴ら
服欲」の理由、その源泉なのであったことが了解さ
すために奮迅するという、 (
蒼 き狼の血の原理の発
れる 。そして井上自身が見出した回答が、 〈
蒼き狼
明〉 をしたことになる 。
のI
血の原理〉という理解であった 。
井上、大岡の論争に分けて入った、山本健吉は
、「
歴
が流れているとし、この血を受け継ぐべきところ
史と小説Jという記事を寄せて、井上作品を擁護し
9
6
1)9。
てみせた(山本 1
を、自分自身が父の実子ではないらしいという疑い
「史料によれば、成吉思汗の子供のジュチは、その
を持っているために、その疑惑を晴らすために刻苦
勉励するというスト ーリー になっているのである 。
身にモンゴルの血が流れているかどうかを疑わせる
ような、出生の秘密を持っている 。その秘密を、成
このチンギス・ハーンの出自疑惑について、大岡
吉思汗自身にも負わせることによ って、彼の行動を
井上は、チンギス・ハーンの祖先には蒼き狼の血
昇平は「井上氏の第二の発明 J(
大岡 1
9
6
1:2
2
1)と
強い意志による悲劇として裏づけることができる」
(
下線は筆者小長谷による 。
)
こうして初めて、井上作品の文学的主題は 〈
出生
8 柳田に先立ち、 1
9
4
0
年に尾崎士郎の 『
成吉思汗』が
刊行されているが、この作品では、 長男ジュチが実
子でないこと は明らかであり 、にもかかわらずそれ
を意に介さない大人物としてのチンギス・ハーン
と、それを気にするジャムカという対比を描いてい
る。言い換えれば、ジュチの出自問題は両雄の争点
として取り上げているので、さほど秘密めいてはい
なかった。
92 ・人間文化
の秘密〉であることを 山本は明示したのである 。そ
れではい ったい井上靖 はいかにして『元朝秘史j か
ら 〈
出生の秘密〉を創作したのであろうか。
8 山本健吉の参画によって歴史と小説の関係に関する
論争は、叙事詩とは何かと いう議論へと微妙に変化
0
0
6
)。
した (
宮脇2
現代日本文学におけるチンギス・八一ンの利用
そもそも〈出生の秘密〉という文学的テーマ自体
いうエディプス・コンプレックスも密接に関係する
は、『源氏物語Jにも話の始まりとして見受けられ
るものである。そして、とりわけ近代になると日本
こともある 。こうした理解がひとたび発見されると、
さらに理解は次のように進化を遂げてい く
。
文学における中心的な主題となったことを斎藤美奈
フロイトの弟子であったマルト・ロベールは、こ
子が『妊娠小説』という近代文学評論で分析してい
の「家族小説」 というフロイトの思いつきを援用し
9
9
7
)。
る(斎藤 1
て物語へ転化するという小説論に展開してみせた。
1
8
9
0
)
斎藤美奈子によれば、森鴎外の『舞姫.1 (
や島崎藤村の『新生 J(
1
9
1
8)に始まって近代日本
文学には共通のモチーフがある、という。すなわち、
男性主人公が恋愛をして相手の女性を妊娠させてし
まい、そのことに 苦悶するというモチーフである 。
近代化の過程で、「自由恋愛」 と 「
立身出世」が人
生の課題として同時に提供されると、「自由恋愛と
立身出世のはざま」でこうした妊娠(させる)問題が、
形而上的にあるいは人によっては現実的に生じてい
9
7
2
すなわち 『
起源の小説と小説の起源J(原著は 1
年)で、自分自身の起源を探求するという空想物語
が、孤児の物語、捨子の物語、私生児の物語に展開し、
近代小説にまで発展するとした、とする 。そう言え
ば、吉本ばななの『キッチンj(
1
9
8
8年)にもまた「出
自の虚構」を 容易に発見することができょう。
概して小説家という職業人は、自分が何者である
かとか、いかに生きるかという問いに答えようとし
て虚構を組み立てる際に、あらかじめ主人公の出自
日本の近代文学に発見されるこうした 「妊娠」 現
象は、近代になって、家族こそが次世代を作る場と
を不分明にしておき、そこから「家族」を創出して
いくという創作技法を援用するものであるらしい。
フロイト風に 言 うなら、いわば出自妄想者の語りの
して固定されてしま ったことと、そこから排除され
た性があることをはからずも反映している 。そして、
形を多くの小説が模倣する 。
以上のように、〈出生の秘密〉は、人間にとって
もっぱら血縁で固定化されていく家族と、そこから
排除された性の営みが混在すると、男女にとっては
根源的であり、したがって古今東西、文学的創作上
の秘訣である 。 この秘訣を応用しながら、広義の〈出
倫理的責任問題が発生し、生まれた子にとっては誰
生の秘密〉のうち、〈妊娠問題> (女性を妊娠させる
問題)にこだわった文学作品が、日本近代文学には
たのである 。
の子かという悩みが発生して「出生の秘密」が鮮明
化するのである 。
ただし、 三浦雅士が『出生の秘密』で明らかにし
0
0
5
)、自分自身の出生を
たところによれば(三浦2
自分で目撃することはできないという点で、人間に
数多く生まれたのであった。
そして、本稿で問題にする井上靖の創作したチン
ギス・ハーンの物語もこの〈妊娠問題〉という主題
とってそもそもそれは根源的な秘密ではある 。それ
と深く関わっている 。『蒼 き狼Jでは、〈妊娠問題)
あるいはく出生の秘密〉に関連して以下のような挿
を探求する欲望が小説家をして小説を書かしめる、
と言 う。さしずめ、自ら養子に出されて養父母にな
話が冒頭から並べられていく 。
1.テムジン(チンギス・ハーンの幼名)の母ホ
じめずにいた夏目激石などはその典型的な例であり、
アイデンテイテイの模索の過程をそのまま小説とし
て結実させていったことが知れる 。
こうした近代小説の成り立ちは、近代家族の誕生
と同様に、決して日本に限ったことではない。精神
分析の分野において、フロイトは 『
夢判断j のなか
で、両親との関係を想像上変更するという幻想が
患者に見られることを指摘し、これを「家族小説
(Fami
l
i
巴n
roman)J と呼んだ。一般的に子どもたち
は弟や妹が生まれたときに疎外感を感じるなどして、
自らの 出自を疑ってみたりするものだが、強くこの
観念に囚われたままであると出自を妄想してしまう 。
また、母を奪いあう構造的対立関係から父を憎むと
エルンは略奪されて、父のもとに来た。
2
. だから、父エスゲイの実子ではないと異母兄
ベルクトに陰口をたたかれた。
3
. テムジンはその陰口の主である異母兄ベルク
トを射殺した。
4 テムジンの第一夫人ボルテは略奪された。
5 略奪された夫人は、十数回にわたって敵将に
犯 された。
6
. したがって、夫人の産んだ、長子ジ、ユチは実子
ではない。
これらの要素のうち『元朝秘史』 に記されている
のは 1と 3と 4である 。 また、 6については明記さ
れていないが、ジ‘ュチという名前が「客人」を意味
人間文化・ 9
3
現代日本文学におけるチンギス・八一ンの利用
しており、弟のチャガタイに難癖をつけられて 言 い
るかのように仕向けた。言い換えれば、井上は二 世
1にあることから 一般
争 うシーンが『元朝秘史j 巻 1
代にわた って (出生の秘密〉 を繰り返した 。 これに
に事 実であろうと了解されている 。すると、 2と 5
よって、いやがうえにも主題として く出生の秘密〉
だけが井上氏による創作的エピソードだということ
が強調された。
になる 。 6つの要素のうちた った 2つ を追加したに
第四に、そうした く出生の秘密〉 を克服するため
すぎないのだが、こうしたエピソ ー ドの追加によ っ
に努力するという筋を井上は設定した。「出自に悩
て、ま ったく異なる理解が提示されたことは注目さ
む男が成功する 」物語を父チンギス ・ハーンと息子
れよう 。
ジ‘
ュチの二 世代にわたって強化して完成させた。
オリジナルの 『
元朝秘史j では、テムジンの父エ
以上のように、文学の秘訣とりわけ日本近代文学
スゲイは、オンギラ ート 族の 1つのオルクヌー ト氏
の秘訣 を念入りに取り込んで、、 『
蒼 き 狼j は世に生
の女性ホエルンをメルキト族から │
略奪 し、テムジン
まれ出たのである 。
が生 まれた。 テムジンは、別の氏族の女性から生ま
れた兄を殺し、けれどもその弟を活かして生涯 の部
5
. (出生の秘密〉の応用
下と す る。許嫁を得るために、母の Aであるオンギ
井上靖が 『
蒼 き 狼j で文学的主題として設定した
ラート族オルクヌ ー ト氏への旅の途中で、同じくオ
〈出生 の秘密〉 はその後の作品でどのように応用さ
ンギラート族のボスクル氏と出 会 い、その女性ボル
れるであろうか。
テをもらうことに決める 。 ところが、彼女はメルキ
2
年後の 1
9
7
2年、チンギス・ハーン
井上作品から 1
ト族に復讐 として奪われたので、父の盟友や自身の
を主人公とする小説 『ジンギス汗jが楳本捨三 によ っ
盟友 の協力を得て取り 戻 したものの、 生 まれた子
て著 されるが、これは 1
9
5
5年の作品 『成吉思汗』 の
ジユチはメルキ ト族の血が流れており、ただし 、 そ
再刊行である 。 いずれの版にせよ、楳本作品ではチ
のことにチンギス・ハ ー ン自身が悩むことはない。
ンギス・ハーン自身に 〈出生の秘密〉 は設定されて
ところが、井上靖の 『
蒼き狼j では、テムジンは、
いない。一方
、 妻 ボルテの略奪については、すでに
自分 自身に敵の血が流れていると陰口をたたかれ、
テム ジ ンの子 を宿していたという設定にしており、
その悪 口を 言っ た異母兄を殺害 し、ず っ と自らの出
その胎児を守るために略奪した人びとの言 いなりに
自に悩 み、がんばって自己証 明するしかないと思 っ
なると 設 定 されている 。 この部分は、再刊時に章 タ
た矢先に、 妻 を奪われ、妻はさんざんに犯されてお
イトルが 「美女ブルウテ」 から 「
悪夢 jへと 変更が
り、彼女を奪還してみたもののすでに敵の子 を身ご
あり、 貞操感が維持されていることをより強調する
もっていたので、生まれた長子 に対しては自分と同
タイトルへと変更されている 。 そして、 夫 テム ジ ン
じように出自の欠陥を克服するように期待する、と
のもとに戻っ て来たときにはすでに子どもを連れて
いう物語となるのである 。
おり、その子 はテムジンの実子であるにもかかわら
研究翻訳が文学作品に転換されるときに、明らか
ず、テム ジ ンには理解してもらえないので妻 ボルテ
に創作が生 じている 。 この創作は以下のように分解
が母として 苦悩する、というドラマがつくられてい
しておくことカ王できるだろう 。
る。
第ー に
、 『
元 朝 秘 史j では歴史的な 事 実 として印
つまり、楳本作品において、 『
蒼 き 狼j の主題で
象づけられるように記されていた 「
正妻 の略奪 j と
ある 〈出生 の秘密〉 は、チンギス・ハーン自身には
いう政治的ゲームに関して、井上は女性への強姦と
設定されず、ジ‘
ュチにのみ設定されている 。 ただし、
いう挿話を明示的に付け加えた 。 これによ って、読
実際の出自に問題はなしただ疑われているという
者にと っては(妊娠問題〉が明らかとな った。
設定なので、 (出生の疑惑〉 が設定されていた、と
第二 に、略奪後、奪還前の妊娠を明らかにするこ
とによって、読者をして く出生の秘密〉に着 目させた 。
言 えよう 。
さらに、楳本作品の後半では、母ボルテよりもむ
第三 に、妻のボルテと息子 ジ‘
ュチにつ いて 『
元朝
しろ 、
ジユチ 自身が悩む。 それが兄弟関係や恋愛関係
秘 史j に記されていた一連の事件 〈
略奪・妊娠・出
にまで影響を及ぼしており、また父チンギス ・ハー
生〉 と同じパタでンの挿話を、母のホエルンと息子
ンが悩んでいるだろうと思いや って悩む。 このよう
テム ジ ン (
チンギス ・ハーン自身)にも発生してい
に楳本作品においては、 (出生の疑惑〉という 主題が、
9
4 ・人間文化
現代日本文学におけるチンギス・八一ンの利用
兄弟や恋人とのあいだに創作された会話によって、
(原著は 1
9
06
年)で、子どもが成長過程で囚われる
はっきりと強化されていた。ジ ャムカの死で終わる
観念や行動と、虚構化 された物語上の英雄とが呼応
ので、この楳本作品は、 『
元朝秘史j で言 うと巻 8
することを指摘した。世界各地の神話を渉猟してそ
で終わっていることになる。こうした基本的な結構
の典型を整理すると、身分の高い両親のもとで、生
は初刊で実現されているので、井上作品に先立つて、
前から困難が設定されており、まず誕生を警告する
ジ、ユチに関して、〈出生の秘密〉ではなく〈出生の
告知(夢、神託)があるのだが、その内容はたいて
疑惑〉が設定されていた。
い父の危機を予告するものであるため、この危機を
他方、神戸在住の華僑である陳の作品では興味深
回避せんがために、父あるいは父の代理者によって 、
いことに、こうした〈出生の秘密〉であれ、〈出生
子どもは生まれてから殺されるか捨てられるかし
の疑惑〉であれ、出生をめぐる文学的主題はまった
(たいてい箱に入れられ水に流される)、それを動物
く取り上げられていなし当。略奪前に妊娠していたと
もしくは身分の低い人聞が助け、当該の子は無事に
いう立場で解説するにとどめている 。
成長し、ただし好余曲折があり、ついに実の両親に
2
0
0
0
年の森村作品は、楳本作品の主題であった く
出
生の疑惑〉を息子ジ、
ユチにではなくチンギス・ハー
再会し、父に復讐して名声を得る、というものであ
る。
ン自身に設定して展開している 。すなわち、楳本作
ところが、まったく 1
00%神話的創作であるわけ
品に見られた主題であるく出生の疑惑〉という問題を、
ではない 『
元朝秘史jでは、実際に父エスゲイが早々
井上作品に見られた発想である〈チンギス・ハーン
に毒殺されてしまうので、森村作品の ように、母ホ
自身における問題〉 として接木したことになる 。以
エルンに復讐心を設定し、またそれによって息子テ
下に詳細に確認しておこう 。
ムジンにエディプス・コンプレックスを設定したと
森村作品における(略奪、妊娠、出生〉という 一
しても、物語の 冒頭部で早々にコンプ レックスを抱
連の事件は次のように設定されている 。 まず、略奪
く対象そのもの(父)を失ってしまう。その喪失を
された直後にホエルンは、新しく夫となるエスゲイ
埋めるかのようにして 「
地果て海尽きるまでJ征服
への復讐を 心 に誓う 。次に、テムジンは l
略奪後 1年
を続けるという筋書きになっているようである 。
以上経ってから生まれるので、出自上の秘密を設定
息子のジュチについては、 『
元朝秘史j の巻 1
1に
させない。ただし、母はこの生まれたばかりの赤ん
おいて、相続の議論に際して弟チャガタイから、父
坊に新夫エスゲイへの復讐を託す。 このように、森
の実子ではないと誘られるが、チンギス・ハ ー ンは
村作品では、実の息子が、母にとって略奪をした敵
差別するような人ではなかったことが、ジュチの セ
であるがゆえに実父を憎むという設定となっている 。
リフによ って強調されるようになっている 。一方
、
まさしく、エディプス・ コンプレックスが設定され
井上靖の 『
蒼 き狼j では、チンギス・ハ ー ンは自分
たのである 。
自身と同じ悩みをもった男として息子のことを終生、
森村作品では続いて、エスゲイの死後に、 一家 は
気にかけ、応援し続けたうえで、最後に裏切られた
近縁集団に見捨てら れる。その理由が、テムジンの
というシーンを演出し、さらに裏切りがデマだった
出生に対する言いがかりであり、その結果、自ら引
というシ ー ンも演出して、ジ、ユチの死を'
悼むチン ギ
率する集団の中でもテムジンは出生に疑いを抱かれ
ス・ハ ー ンを人間的に描いていた。森村作品でもこ
るようになる 。
のプロッ トはそのまま踏襲されている 。
このように森村誠一は、井上靖によって発明され
以上のように、チンギス・ハ ー ン自身に対してく出
た 〈
チンギス ・ハーン自身における問題〉 としての
生の秘密〉を設定しているのが井上作品で、それを
(
出生の秘密〉をひとたび否定する状況に設定した
く出生の疑惑〉 に変更して設定しているのが森村作
うえで、再び利用することによって、〈出生の秘密〉
品である 。後者を前者と比較しておこう。
ではなく、不当な 〈
出生の疑惑〉へと変更している
のである 。
一般に、エディプス ・コ ンプレックスとは、世界
各地の神話から導かれた概念であった。 フロイトの
弟子であったオット ー
・ ランクは 『
英雄誕生の神話j
第一 に、チンギス・ハーンに設定されるのはエディ
プス ・コ ンプレックスであり、しかし、父エスゲイ
が毒殺されることによって消失したので、複雑な心
理を抱えることなく、実力を発揮していく 。
第二に、同様に複雑な心理を抱えることなく、息
人間文化・
9
5
現代日本文学におけるチンギス
・ 八一ンの利用
子ジ、ユチについてもそれほと守ずっと悩むことはない。
チの出生の秘密については肯定している 。
ジ、ユチが業務命令違反を犯しているという噂を筒い
ただし、本文では、妻ボルテを奪還した際に生後
二 ヶ月の赤子を抱いていたためにチンギス・ハーン
て激怒する程度である 。
第三に、遺言に意味を持たせて、チンギス ・ハー
は一瞬、わが子ではないという疑惑を感じて悩むけ
ンの死後についても多くの紙 l
隔を割いている 。 『
元
れども、自分の子として育てようとするという筋が
朝秘史』 の扱っていない時代、すなわち孫のフピラ
0
0
7:
2
1
2-2
1
3
)。妻を奪
仕立てられている(堺屋 2
イ軍が日本にやってくる元冠まで言及して終わる 。
このように、森村作品は井上作品に比べれば、 (出
還した際に彼女が赤子を抱いているという状況設定
は、楳本作品を踏襲している 。 この操作によって実
生の疑惑〉を文学的主題として利用しつつも徹底す
ることはなく、歴史解説に近い性格を帯びている 。
は妊娠時期が前倒しされるので、自分の子である可
言い換えれば、井上作品は、突出して心理ドラマと
能性が高まるから、 〈出生の秘密〉ではなく 〈出生
の疑惑〉 を設定していることとなる 。そして、この
呼びうる性格を帯びていたのである 。小説として人
疑惑を父として否定してみせるという状況設定は、
気を博した理由が了解されよう 。その主題の核心は
世界的英雄チンギス・ハーン自身に設定された 〈
出
他の作品に見られない性格設定になっている 。すな
生の秘密〉にあり、それによって小説は全体として
く
腔に傷を持つ男の立身出世の物語〉となるのである 。
歴史上、最大の版図を築いたなどと 一般に賞賛され
わち、そんなことにくよくよ悩まないのが英雄であ
るという見方が示されていることとなる 。
このように、日本の 5大作品は全体として、英雄
てきた人物に関して、意図的に傷を付すことで身近
な存在にせしめた、という点で、まさしく大衆化が
をめぐる 〈出生の秘密〉についての多様な解釈を展
開させている 。 こうした解釈の多様性をもたらした
原因は何よりも 『
元朝秘史j そのものがもっフィク
果たされた、と 言えよう 。
ション性であったろう 。
2
0
0
6年に執筆が開始された堺屋作品は、本文のほ
6
. さいごに
かに注釈が多く、本稿でとりあげた 5作品のうちで
は、最も歴史解説に腐心しているという意味で非文
学的である 。井上靖が文学作品において創造した 〈
チ
『
元朝秘史j はそもそも史実をありのままに記載し
たものではないことが了解されているので、これを
ンギス・ハーン自身の出生の秘密〉と、小林高四郎
が翻訳書において歴史的事実と解説した〈長男ジ、
ユ
どれほど正確に利用しでも、あるいは正確に利用し
なくても、史実かどうかを議論するのは不適切であ
チの出生の秘密〉 については、第 1巻の注で、 「妻
ボルテの略奪」の真相は?と題しておおよそ次のよ
る。 また、文学である以上、創作活動であり、史実
うにまとめている (
堺屋 2
0
0
7
:2
81
)
。
を超える力量がそもそも作者に求められている 。 し
たがって、歴史を舞台にした小説や映画の内容につ
チンギス・ハーンの父が女を略奪して妻にしたと
いう点については「史実では跡付けられない。情況
としても嘘臭い」として退けている 。すなわち、チ
ンギス ・ハーンの出生の秘密をまったく否定してい
る10。その代わり、妻ボルテが略奪されたという点
いて、史実かどうかを争うこと自体、不毛である 。
ましてや、異文化 に属するという意味での他者が、
ある集団の歴史や文化 を利用するときには、なおさ
については「事実だろう 。各史書にも書かれている
し
、 」 として受け入れている 。すなわち、息子ジュ
ゆるところで、外国から流入した現象を勝手に自己
流に解釈して利用しているという状況に満ちてい
ら誤解に基づく利用があっても当然で、あると思われ
る。今日、街を歩いても、雑誌をめくっても、あら
る。すなわち、私たち現代人の生活世界はそもそも、
1
0 したがって、鰹に傷をもっ男の出世物語ではなく
なっているが、現代に何故チンギス・ハンを取り上
げるかという問いを設定して著者は、不遇放に成し
得た「時代の変革」であると説明しており、幼少期
の銀難辛苦を克服しつつ、世界を変革していったこ
とが強調されているという点では基本的に異ならな
い(堺屋2
0
0
7:
2
4
4
)
。
9
6 ・人間文化
異文化理解というよりもむしろ く
異文化誤解の複合
体〉として成立していると 言 っても過言ではない。
史料の利用ならびに異文化の消費について、そのよ
うに理解しておいたうえで、 2
0
0
7
年に日本とモンゴ
ルの合作と謡われた角 川映画 『
蒼き狼 地果て海尽
きる までj をさいごにふたたび位置づけておこう 。
この映画は、そのタイ トルに明瞭に現わ れているよ
現代日 本文学におけるチンギス ・八一ンの利用
うに、井上靖の『蒼き狼Jを参照した作品である 。
映画 『
蒼 き狼j では、チンギス・ハーン自身に関し
て 〈出生の秘密〉 は明示的に設定されていないが、
母ホエルンをして「蒼き狼の血など要らぬ」と発言
させていることからわかるように、井上作品にオリ
ジナルな「蒼き狼の血の原理」に依存している 。 日
本人によって生み出されて広く長く受容されてきた
井上作品にもとづいているにもかかわらず、本映画
は現代日本人にあまり受容されなかった 。 それはな
ぜだろうか。
すでに今日の日本人にと っては、 「出生の秘密を
1
9
8
6r
チンギス・ハーン
岡田英弘
将に将たるの
戦 略j 集英社
1
9
6
1 n蒼 き 狼j は歴史小説か Jr
群 像j
1
9
61
年1
月号、 2
1
7-225頁
丘英夫 2
0
0
5r
義経はジンギスカンになった 1 そ
の 6つの根拠j アーバンプロ出版センター
尾崎士郎 1
9
4
0r
成吉思汗j新潮社
9
2
4r
成吉思汗ハ源義経也j 冨 山房
小 谷 部 全一郎 1
幸 田露伴 1
9
2
7r
龍 姿 蛇 姿j 改 造 社 (
r
幸田露伴全
2巻所収、 1
9
5
0、岩波書庖)
集j 第 1
小 長 谷有 紀 2
0
0
7I
日本映画「蒼き狼」に対するモ
大岡昇平
r
持った男が出世する 」 いう物語の展開は、 受容 しが
ンゴルでの評判 J 文化の往還 j ニュ ースレタ ー
たいのではないだろうか。三 浦展が 『
下流社会一 新
2
たな階層社会の出現j で示すように、経済格差が明
小林高四郎
確で下流に上昇志向が見られないという現代におい
小林高四郎
てはすでに、立身出出:という概念が賞味期限切れと
ギス・ハン傍j 日本公論社
1
9
9
4r
妊 娠小 説』 筑摩書房
2
0
0
7r
世界を創った男チンギス ・
ハン l
絶対現在j 日本経済新聞社
高木彬光 1
9
5
8r
成吉思 I
干の秘密j 光文社
陳舜臣 1
9
9
7r
チンギス・ハーンの一族 j 朝日新聞
なっている 、 と考えられる 。 また、映画に活劇を求
斎藤美奈子
めないという根本的な理由があるのかもしれない
堺屋 太 一
(
渡辺 2
0
0
7・3
7)
。 い ず れにせよ、 「出生の秘密を克
服して出世した偉大な英雄チンギス ・ハーン」とい
う幻想によって日本とモンゴルがつながる時代はも
はや終駕を迎えているように思われる 。
一方、モンゴルでは、社会主義時代に禁じられて
いたとされるチンギス・ハーンについて、想定して
いなか った解釈が日本から提示されたために、当初
は大きな反発が見受 けられた(小長谷2
0
0
7)
。しかし、
現在では世論も落ち着き、改めて自分たち自身で歴
史を見直すという動きが生まれていると 言 う。 だと
すれば、誤解の効用とも 言うべき 現象が生じている
と、日本人による映画化を積極的に評価することも
できるだろう 。
2
0
0
6r
義経伝説 をつくった男
義経ジ
ン ギ ス カ ン 説 を 唱 え た 気 骨 の 人 ・小 谷 部 全一 郎
f
云j 光人社
1
9
0
7(訳注 H成吉思汗賓録j 大日本図書
1
9
5
7r
夢判断j 新潮社
三浦展 2
0
0
5r
下流社会 一新たな階層社会の出現J
那珂通世
フロイト
光文社
2
0
0
5r
出生の秘密j講談社
2
0
0
2r
モンゴルの歴史』 万水書房
宮脇淳子 2
0
0
6I
井上靖の 『
蒼 き狼j は歴史小説で
三浦雅士
宮脇淳子
r
1
9
5
9r
蒼 き 狼』 文芸春秋社
井上靖 1
9
5
9r
T蒼 い 狼 」 の 周 囲 一成吉 思 汗 を書く
苦 心 あ れ こ れ Jr
別 冊 文 義 春 秋 J7
2
号
、 1
6
6-169
頁
井上靖 1
9
61I
自作 『
蒼 き 狼j について Jr
群 像j
1
9
6
1年 2月号、 174-1
8
0
頁
宇野伸浩 2
0
0
5I
モンゴル帝国時代の贈与と再分
井上靖
配」松原正毅・小長谷有紀 ・楊海英編著 『
ユーラ
シア 草原からのメッセージj 平凡社
楳本捨三
社
土井全二郎
あるか、単なる英雄物語、どちらか?J ぺ るそ ー
参考文献
楳本捨三
1
9
4
0r
蒙古の秘史』 生活社
1
9
3
6(訳)ウ ラヂミルツオフ著 『チン
1
9
5
5r
成吉思汗j 鱒書房
1
9
7
2r
ジン ギス汗j 番町書房
なJ2
0
0
6年 9月号、 72-75頁
2
0
0
0r
地果て海尽きるまで一小説チンギ
森村誠一
ス汗J角川書庖
森村宗冬
柳田泉
2
0
0
5r
義経伝説と日本人j平凡社
1
9
4
2r
成 吉 思 汗 平 話 壮 年 の テ ム ジ ン j大
観堂
1
9
61I
歴 史 と小説」読売新聞 (
夕 刊)昭
和3
6年 1月1
8日
ロベ ール、マルト 1
9
7
5r
起源の小説と小説の起源J
山本健吉
i
可出書房新社
渡辺信也
2
0
0
7I
観客の欲望をつなぎとめるため
人間文化・ 97
現代日本文学におけるチンギス・ハーンの利用
に 日本映画考 Jr
nobodyJ2
5、34-37頁
Badamkhatan 1
9
9
6 Ethnographyi
nMongolia
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3
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Bulag,
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and Racial Imaginations' (unpublished
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投 ・胡日 査巴特爾)1
9
9
0r
恰騰根
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十三家神祭柁J(モンゴル語)
Miyawaki,J
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fCambridge,
Volume8
,Number,
12
0
0
6,pp.
l2
3
1
3
4
.
9
8 ・人間文化
論文
公民としての基本的権利を農民に
-現代中国における農民差別-
楊 常 宝
人間文化学研究科地域文化学専攻博士後期課程
目次
1 はじめに
2
. 現代中国の戸籍とは何か
いないから こそ、農民が差別 されているのであ
3 農民の 「移動の自由」権に関する問題
の平等とそれを保障する政治的平等権の剥奪を
3
-1
1移動の自由」からみた現代中国の戸籍制度
3-1-11
移動の自 由」 があった時期(19
4
9一
1
9
5
8年)
3-1-21
移動の自由」が厳しく 制 限された時
期 (
1
958-1
9
7
8
年)
3-1-31
移動の自由 」 制限が緩和へ(19
7
8一
2
0
0
0年)
3-1-41
移動の自由」の新時代に向けて (
20
0
0
される 「
移動の自由」権と 「
選挙j権を持って
る。つまり、農民が公民としての最低限の機会
余儀なくされた末、都市住民と 比べて極めて貧
困な生活を強いられるという結果の不平等 を招
くこととなった。長期にわたる経済の高度成長
の恩恵と無縁のまま、貧困と 差別に あえぐよう
になった。
6 今後、中国政府は調和のとれた社会主義社会を
実現するため、 二元戸籍制度の改革および選挙
権制度の改正が急がれる。
年一現在)
3-2 1
移動の自由」権を農民に
4
. 農民の政治的権利保障問題
4-1選挙制度における選挙権問題
4-2農民の政治的権利保障問題
5
. むすびに
キーワ ー ド:農民差別、 「
移動の自由 」、戸籍制度、
選挙権制度、農民、都市住民
1.はじめに
経済の高度成長が続く現代 中国の政治 ・社会体制
には、国際的にはあまり知られていない差別構造が
要旨
組み込まれている 。すなわち 、選挙権制度と 二元戸
1.現代中国 Iの農民はいたるところで差別 を受け
籍制度である 。 これによ って、農民は都市住民 との
てきたと 言っ ても過言ではない。経済、社会、
同等な権利享受 を奪われたのみならず、農民の子 は
政治的な面において、農村住民には都市住民と
農民として生きる人生以外の選択肢を奪われる 。
同等な権利が保障されないままである 。
本論文では、 主に二つの内容を考察する。 一つは、
2 その根本にある 制度的差別装置としては、まず
戸籍制度により農民の都市部への正常な人口移動が
二元戸籍制度と選挙権制度が挙げられよう 。現
制限されたことについてである 。 ここで、 「
移動の
代中国社会の迎解はこの差別構造の分析なしに
自由」という視点から現代中国の農村と都市開の人
はあり得ない。
口移動のプロセスを分析し、農民が 「
移動と職業選
3
. 二元戸籍制度により人口の農村部から都市部へ
択の自由」権を奪われた結果、都市と農村の二重社
の移動を厳しく 制限することによ って、中国政
会構造が出来上がったことを例証する 。いま 一つは、
府は「反革命分子」を予防し、経済成長過程を
コント ロールできた。 しかし、いまやそこから
農民を半世紀以上にわたり支配し続けてきたもう一
生じた矛盾、都市・農村間の巨大な格差と農村
の実態を分析する 。
つの差別的制度である「選挙」権に中心 を置き、そ
からの「不法」流入労働者一農民工問題に 向 き
あわなけ ればならなくな っている 。
4
. 農民が選挙権にお ける機会の平等を剥奪された
2
. 現代中国の戸籍とは何か
本題に入る前に、まず中国でいう 「
戸籍」の概念
末
、 一国内において最大の集団でありながら、
を日本の 「
戸籍」 と比較してみよう 。 日本人のいわ
最大の弱者となった。現在、党や政府の政策決
ゆる 「
戸籍」に当たる国民登録制度を中国では「戸
定者かつ実施者はみな都市住民である 。調和社
口」 という 。 しかし、これらの問には大きな相違点
会の実現を目指す 中国にとって、農民の利益を
がある 。
日本においては、 戸籍 と住民登録が別今となって
いる 。 日本の戸籍は市町村の区域内に本籍 3を定め
代弁する組織の登場が欠かせないものである 。
5
. 都市住民と同等な公民 2としての基本的権利と
人間文化・ 99
公民としての基本的権利を農民に
る夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに編成され
れは以下のような経緯に由来する 。 1
9
5
5年に国務院
1日本国戸籍法 Jの第 6条)。 日本の戸籍登
ている (
は 「
都市と農村の区分標準に関する規定」を発布、
録は世帯を単位とし、子供は夫婦の戸籍に属し、同
農業人口と非農業人口の占める比率を基準とし、「農
世帯の各人が一枚の文書の中に記載される 。戸籍の
業戸籍」と「非農業戸籍」を人口統計の指標に定め
編製については、結婚により新しい戸籍が作られ
9
5
6年、公安部の人口統計指標には、 「
都市人口 」
た。1
(
1日本国戸籍法」の第 1
6条)、また結婚とは無関係
と 「
農村人口」の区分のほかに、 「農業戸数」と「農
に成年に達した者も分籍をすることができ、新戸籍
業人口数 Jを加え、その対象は農業従事者及びその
を編製できる (
1日本国戸籍法」の第 2
1
条)。
9
6
1年に公安部は、それを 「非農
扶養者とされた。 1
日本では上記の戸籍のほかに、住民に関する記録
業人口戸数」と「非農業人口数」に改め、その対象
を正確かっ統一的に行うための住民基本台帳制度が
を農 ・林・牧畜 ・副・潟、の五業に従事 しない労働者
実施されて おり、それに依拠して住民登録が行われ
9
6
3年以後、公安
とその扶養者とした 5。さらに、 1
住民票が発行されている (日本国「住民基本台帳法」
部は国からの配給制度を受けているかどうかを基準
の第 l
条)。 日本の住民票は同居する家族構成を証明
に、国家から配給商品や食糧を受けている者を 「
都
する機能をもつもので、そこには住所が記載されて
市戸籍 J(または 「非農業戸籍 J
)とし、そうでない
いるが、戸籍には各人の現住所は記載されていない
者を「農村戸籍 J(または「農業戸籍 J
)とした。 こ
(
1日本国戸籍法」の第 1
3条)
。
ところが、中国において、 「
戸
」 とは 生活・居住
を共にする集団を指し、同一家族でも別々に生活し
ていれば別戸となる 40 1
戸 口j は主に住所を 基準
として登録され、住戸および世帯員といった個人を
単位とし、登録表が一人一枚、 しかも記載内容も各
自一枚となっている 。同じ居住地をもっ「戸口 」が
一つの 「
戸 口簿」となる。その ため、 「戸口」に同
籍する者は必ず親族とは限らない、同じ姓をもっ者
とも限らない。 このように、中国の「戸口 」登録は
日本でいう住民登録の機能を併せてもつものであ
うして、中国の公民は農村戸籍か、都市戸籍かのど
ちらかに属することになった。
3
. 農 民 の 「 移 動 の 自 由J権 に 関 す る 問 題
以下、現代中国の戸籍制度を人口の 「
移動の自由」
という視点から捉え、農村住民と都市住民の移動の
実態を分析してみる 。
3-1 1
移動の自由」か 5みた現代中国の戸籍制度
マルクス ・レーニンの共産主義思想が、毛沢東に
よりそのまま 受け継がれ、それが現代中国の社会主
り、「戸口」と常住地が常に切り離すことができない。
義国家建設に直接的な影響を与え、公民の 「団結と
このような戸籍制度を支えてきた法的根拠となるの
平等」が常に唱えられてきた。
9
5
8年 1月に公布された 「中華人民共和国戸籍
は
、 1
登記条例 J(以下、 「
戸籍登記条例 J
)である 。
法律の上での人々の平等は 「中華人民共和国憲
法 J(
以下、 「憲 法 J
)に明記されている ら しかし、
中国では、公民は戸口の証明書である「戸口簿」
実態はまた別である 。そもそも、 「
平等 Jには 「
機
を常に現住地に保管するよう義務付 け られている 。
会の平等 j と「結果の平等」があり、またその概念
1
9
8
5年に 「身分証」が登場さ れてから、 「戸 口簿」
を、さまざまな角度から把握できる 。その一角度と
に替わり、身分証を常時携帝することが義務付けら
して 「
移動の自由」の視点から現代中国の戸籍制度
れた。 日本では、書類申請等の必要に応じて戸籍謄
を考祭することができる 。
本、戸籍抄本や住民票を市役所から取り寄せること
はあるが、それらを常時携行する必要はない。
以上述べたように、日 ・中両国における「戸籍」
はそれぞれ違う内容をも っており、したがってその
人権としての「移動の自由」という近代的な概念
が広く議論されてきたが、 一圏内において、国民、
特に農民の移動の自由を制限する国は、中国だけで
はないし、社会主義国だけとも│浪らない 8。
果たす役割も根本から異なっているが、便宜上筆者
現代中国では、人々の「移動の自由 Jは戸籍制度
は以下の行論で中国の 「
戸 口」の ことを「戸籍 Jと
によ って どのように制限されてきたのか。その具体
表記する 。
的様子をまとめておきたい。
なお、中国の戸籍は 「農村戸籍 J(農業戸籍)と
図 1は、新中国建国以来の戸籍制度による人口移
「
都市戸籍 J(非農業戸籍)に二大区分できるが、そ
動の制限状態の具体的枠組みを示すものである 。分
100・人間文化
公民としての基本的権利を農民に
かりやすくするため、戸籍制度の歴史的流れに沿っ
在しなかったと考えられる。したがって、 aの よう
て、いくつかの時代に分けて考察する。
3-1-1
r
移 動 の 自 由 Jが あ っ た 時 期 (
1949一
な農村部から都市部への移動、または cのような都
市部から 農村部への移動は個人の意志によるもので、
1958年)
何の制限もなか った 。
1
94
9年の新中国建国から、 1
95
8年の「戸籍登記条
例J
Jが碓立されるまで、人々の移動が比較的自由な
この時期における人口の 「移動の自由 」権問題を、
憲法上からも確認できる 。現代中国初の憲法は 1
9
5
4
時期であった。いうまでもなく、この時期において、
年に 制 定されているが、そこでは「公民は居住と移
都市と農村の 2つの空間内での人々の移動は自由に
転の自由を 有する J(
第9
0条)と明記されている 。
行われていたのである。また、図 1で示すように、
とはいっても、表 lに示した ように、政府は農民
準都市戸籍者集団のような唆昧な戸籍集団が存在し
の「目的なき 」都市流入を制限するために 1
9
5
3年か
なか った ことからみれば、 bと dのような移転も存
95
7年にかけて度重なる移動禁止令を通達したの
ら1
である 。 その背景には、大都市における急速な工業
都市部
化 の進展による雇用機会の増加
、 食糧の「統一買付
・
統 一購 入 j 制 度 9による農村の食糧危機、および農
d
?i
-叶
!
準都市戸籍者集団
都市常住人口
農村人口
b
農村部
図1
r
移動の自由」か 5みる農民
図 1の説明
.横軸 農村部と都市部の境界線。横剥lより上の部分は都
市部、下の部分は農村部
.縦軸.都市部において、準都市戸籍者集団と都市常住戸
籍人口を区 別す る線;農村内部にお いてこのような区 別は
ない。
+a農村戸籍から都市戸籍に移転した、戸絡を伴う移転
を指す。この種の移転には、都市労働部門の採用証明書、
学校の入学通知書と都市部の戸籍登録機関か らの転入許可
証明書がある場合の移転など、政府の許可のもと、正式に
認められた戸籍の移転がある。
+b農村部から都市 に移動した者の一部、戸籍移転が行
われたが、都市常住人口のような身分変更には至っていな
い者、または戸籍に付随するさまざまな付加価値を 享受で
きていない者、できたとしても部分的にとどまり、完全に
都市常住人口になれていない者を指す。いわゆる農村部か
ら都市部に移転した準都市戸籍者(農民工)である 。準都市
戸籍者集団には、本文の 1
0
4頁にも述べているように、都
市部政府から発行される「暫住証」をもっ短期滞在の農民
が含まれる 。
+c者11市部から農村部に移動するケース 。制限 はないが、
実際の移転規模はごく 少数である 。
+ d:農村部から都市部に移動した人口のうち、完全に都
市常住人口になれた者を指す。
.な
お
、a
、b、cの線の太さは移動の自由度の大きさを表す。
dは戸籍の変更のみを表す もので、自 由度も低い。
0
業集団化に起因する農民の生産意欲の低下等の要因
があ った 。 このような移動禁止令が出 されたにもか
かわらず、農民の都市流入は収まる傾向に至らなく、
効果が見られなか ったため、 1
9
5
8年 1月に 「戸籍登
記条例」 が 公布された 。
3-1-2 r
移動の自由」が厳しく制限された時期
(
1
958-1978年)
1
9
5
8年の「戸籍登記条例」の公布から 1
9
7
8年 まで、
戸 籍制度に よる 「
移動の自 由J制限は厳しく行われ
た。
「戸籍登記条 例 」 に よ る と 、 戸 籍 管 理 の 任 務 は
、
「社 会 秩 序 の 維 持 、 公 民 の 権 利 と 利 益 の 保 護、 社 会
主 義 建 設 へ の 奉 仕 J(
第 1条)とされた 。 ここにき
て、実質上 1
95
4年憲法に定めら れた 公民の「移動の
自由」権が否定されることとなり、「戸籍登記条例」
9
5
4年の
は憲法違反のまま実施 されていく 。結局、 1
憲法が改正を迎えたのは 1
9
7
5年のことである 。 1
9
7
5
年の憲法改正では、「公民は居住と移転の自由を有
する 」 という条文が取り消され、以後の憲法改正に
おいても依然復帰されないままである 。
「戸籍登記条例 」 が公布された後、 1
9
6
4年 8月に
国務院の承認を経て、公安部は「戸籍移転に関する
規 定 (草案 )
J を、さら に 1
9
7
7年 1
1月に 「戸籍移転
の処理に関する公安部の規定に対する回覧審査 の通
知」を通達した 。 これらの通達を経て、農民の都市
音E
へ の 移 動 が 完 全 に 閉 ざ さ れ る こ と と な る。 そし
て、中国人は農村戸籍と 都市戸籍に分割され、農村
の人々の都市部への移住、就業、就学の自由が制 限
された 。 中国社会 は少なくとも食糧供給、住宅供給、
教育、医療、年金、兵役、就業などの面において、
人間文化・ 1
0
1
公民としての基本的権利を農民に
表 1 農民の都市流入制限に関する文献
年
度
条
発布機関
伊j
法
規
年 4月 178
1953
政務院
「
農民の盲 目的 な都市流入阻止に関する指示j
1954
年 3月 128
内務部・労働部
「
農民の盲 目的 な都市流入の継続的防止に関する 指示j
1956
年1
2月30日
国務院
「
農村人口の盲 目的な流出防止に関する指示J
1957~手 3 月 2 日
国務院
「
農村人口の盲 目的な流出紡止に関する補足的指示j
1957年 4月308
内務部
「
被災地域における農民の盲 目的 な流出状況と処理方法 に関する報告j
1957年 5月 138
国務院
内務部による「被災地域における農民の盲 目的な流出状況と処理方法 に関する報告Jを
通達する
1957年 7月29日
国務院
公安部による「農民の盲目的な都市流入阻止と都市人 口削減の実施に当たって生じる問
題および解決方法に関する報告j を通達する
年 9月 1
4日
1957
国務院
「
農民の盲 目的 な都市流入防止に関する通知J
1957
年 12
F
l13日
国務院
「
各機関が農村から臨時工を雇用することに関する暫定規定」
年1
2汚 18日
1957
党中央・国務錠
「
再び農村人口の盲目的な流出を制止することに関する指示j
1958~手 1 月 9 日
全人代
「
中華人民共和国戸口登記条例j
出典.張玉林 (
2
0
01
)
、 1
9
8
頁より 。
原典
江蘇省硝笑局所蔵文書、民政庁巻 B
3
6
6;r
人民日報J1
9
5
7
年1
2
月1
4日、同 1
9
5
8年 1月 1
0日.前回比呂子 (
1
9
9
3
)
農村住民と都市住民に対する完全に異なった対策が
そこには 一定の合理性があった 。 そして、文化大革
講じられることとなった 。表 2は戸籍制度による都
命期には、 2度目の都市住民の農村への強制移住が
市住民と農村住民の異なった対応を示したものであ
大々的に行われた 。都 市 知 識 青 年 (
知 識青年といっ
る。政府の政策により、農村戸籍者はさまざまな面
ても、実は高校、中学校を卒業したばかりの 10歳代
において不利な立場を強いられ、相対的に都市戸籍
後半、 20歳代前半の若者であった)、都市幹部、 一
者は恵まれている「優等」な公民として扱われるこ
般労働者とその家族らの農村「下放」運動である 。
とになった 。
公安部門の内部出版物によると、 1966年からの 10
年
この20年間の農村部から都市部への人口移転に関
間に、延べ 1700
万人の都市知識青年と、数百万人に
しては、図 1から分かるように、 aのような移転、
上る都市幹部、 一般企業労働者とその家族らが全国
すなわち戸籍を伴う移転のみが挙げられる 。 この径
各地の農村に移住させられた 。 これらの農村移住運
の移転は、都市労働部門の採用証明書、学校の入学
動は、文化大革命中の特殊な政治的 ・
イ デオロギー
通知書と都市部の戸籍受録機関からの転入許可証明
的な目的を達成するために行われたものであるが、
書がある場合のみとされた。絶対数としては少数で
同時に都市部の労働就業と食糧、そのほか公共サー
あるが、以下に述べるような事情で詳細は明らかで
ビスの提供に対する政府負担を軽減する動機も強く
ない。 bと dのような移転は不可能で、あった。
働いたと思われる 110
公安部の非農業人口統計によれば、 1
959-1977年
このように、この時期における
C のような移転は、
の 非 農 業 人 口 の 年 平 均 増 加 率 は わ ず か0
.
4
4
%(人口
主に国家政府から 強制的に行われたものであり、当
の自然増と社会増の合計)で、同時期における総人
時の特別な事情への臨時措置としてやむを得ず実行
口の年平均増加 率である1.94%を大幅に下回った 10。
なお、この時期にお け る都市部から農村部への移
転は、主に 2回にわたって行われている 。 一 回目は、
されたものであった。
3-1-3 ["移動の自由」制限が緩和ヘ (1978一
2000年)
政 府 が1961-1963年に多数の都市住民を農村に移住
改 革 ・開放政策が実施された 1978年からの20数年
させた 。都市人口の急増や農業生産の連続凶作で囲
間、市場経済化が進み、労働市場も急成長した結果、
内の食糧供給が著しい不足状態に陥ったという特別
戸籍制度も否応なく改革に迫ら れた 。非農業部門に
な事情のもと、臨時措置としてやむを得ず行われ、
おいて多くの就業機会が創出され、大勢の農村労働
102・人間文化
公民としての基本的権利を農民に
表 2 戸籍制度の付加価値の比較
項
自
都市住民
農村住民
主食供給(注1)
主食の低価格かつ安定的供給を保障する,政府は
毎年財政支出の中から 200億元の補助金を充てて 食糧自弁(注 3)。
いる 。
副食品 ・燃料供給(注 2)
「
配給切符j を政府から受領し、低価格の配給品を
政府から「配給切符j を受領できない。
享受できる 。
住宅供給
企業所属の労働者であれば、企業から低価格の住
住宅建設費用の全額は 自弁
。
宅供給を享受できる 。
教育費用
初等・ 中等(前期)教育の義務教育は、政府から
の財政支援があるため、学費徴収が極めて低い,
技術労働者養成学校(普通は働きながら学習する)
を受験できる;教師についても都市部では、都市
戸籍を持ち国家から給料をもらう「公弁教師j が
いる 。
医
農村労働者は全額自 己負担。 農村地域における
国有企業労働者は「労働保障医療J制度を、公務員・
1950年代の 「
農村集団合作医療制度j が一部の農
学校教員・軍人は「全額公費医療」制度を、都市
0年代から次第
村地域で制度化されていたが、 196
住民は 「
公費医療Jを享受できる 。
に廃止された。
療
初等 ・中 等(前期)教育の義務教育は、政府から
の財政支援がないため、学生個 人(父母)が全額
負担 ,技術労働者養成学校への受験が許されない;
中等専門学校を受験できるが、合格ラインの点数
0 -20点高く設定されている,
が都市住民より 1
農村部において国家から保障がなく、郷政府や村
など地元から給料をもらう 「
民弁教師j がいる 。
退職金支給
固有企業労働者は退職金を侵領できる。
退職金と無縁。
労働保険
固有企業労働者は労働保険制度の適用対象。
労働保険の適用対象外。
兵
役
農業戸籍の男子は兵役につけるが、女子は許され
都市 戸籍の適齢男女は兵役に服 す ことができる 。
ない。 しかも将校クラスに昇進できなければ、退
退役してから、政府の人事部門による職業幹旋を
役してから、農村に帰還しなければならない。 (
農
受け、都市部の公務員になることができる 。
民に戻される)
就
業
政府は都市戸籍を有する労働適齢人 口に対し、職
業提供の義務を負う 。特に国営企業、都市の集団
企業の従業員募集は普通都市住民に限定されてい
る。
婚
姻
農村の女性が都市の男性と結婚したとしても、実質的に都市に居住することができず、その子供も母方
の農村戸籍(注 5) に入るのみで、父方の都市戸籍にはいることができない。都市戸籍の青年問、ある
いは 「
農村戸籍Jの青年間の結婚で生 じた子供 は、父母の原絡を有する 。
出典
政府は農村戸籍を有する労働適齢人 口に対し、職
業提供の義務を負わない。 国家の規定では、鉱 山
坑内、野外探査、森林伐採、製塩業など 4業種の
)
職種が農村から募集できるだけ。 (
注4
凹l
暁利 (
2
0
0
5
)、67-68頁;段志静 ・有1
[
奇虹著、斎藤匡史抄訳(19
9
8
)、1
1
7頁,前回比呂子(19
9
3
) ;張玉林(19
9
7、2
0
0
1
)などを
参照に、筆者援理。
9
5
3年から導入された制度である 。 この制度によって、都市住民には
注 1と注 2 ・「配給制度」は、都市住民の食秘確保を目的とし、 1
}
;
1
l
t
f
I
1
i
f
な食糧を供給される権利が与えられたが、農民には食糧の供出義務が課されるだけで、食糧を配給される権利は与えられ
なかった。同時に食糧の購入に食糧切符制度が導入され、食糧そのものを購入する場合だけではなく、 町の食堂で食事をする
にも食糧切符が必要とされた。要するに、農民はお金を出しでも町では食糧を買えないだけではなく、食事もできなかったの
である[白石和良 (
2
0
0
5
)、1
0
3
頁]。なお、こうした配給制度は 1
992-1993年に全国的に廃止された [
前回比呂子(19
9
6)
、7
0頁
]
。
「返鈎紐」とは穀物を栽培しない農民や貧困地区の農民に国家
注 3;農村戸籍者は食糧自弁だが、当時「返鈎糧」 というのがあった。
が提供する食糧のことである 。それに引き換え、都市戸籍者には「商品組」が与えられた。
「商品糧」とは、国家が安定価格で
販売する食糧で、非農業人口だけに与えられた。前回比呂子(19
9
3
)、2
6頁を参照。
注 4 しかも、国家からの「募集」を待たなければならず、契約期間未満の中途退職は解雇とされ、転職できない。幸運に就職でき
たとしても、それまでの「農業従事者」という経歴は、「職歴」として認められない。農業は一人前の職業とはみなされていな
2
0
01
)、 1
9
6頁を参照。
いのである。張玉林 (
注 5 ・これについて、 1
9
5
8年の「戸籍登記条例」第 7条の規定では、「嬰児はその常住地において出生登録をしなければならない、嬰
児の常住地は嬰児の母親の常住地に従う 」と解釈されたが、その点は明言 されていたわけではなかった。ところが、 1
9
5
8年 4月
、
公安部三局が編纂した「戸籍登記条例の実行に│羽する初歩的意見」において明確にされた。そこで、「もし嬰児が母親の瞥住地
で生まれ、生まれたのち母親の常住地に移動するのであれば、母親と常住地に戻ってから再び出生登録をすることができる 。」
9
8
2
年1
2月1
7日に発布した 1
4
8
号文件
ころして嬰児が母親の戸籍に編入されるという原則が定められた。 この原則は ぐ,
国務院が 1
人間文化・ 103
公民としての基本的権利を農民に
において、「農村の婦人と都市の職員 ・労働者、住民との結婚によって生まれた子は、出生地のいかんにかかわりなく、母親の
常住戸籍所在地において出生登録を行う 」と重ねて声明された(内田知行、
1
9
9
0年
、 2
6
6
頁を参照)。 こうした状況が、 1
9
9
8年 7
月2
2日、国務院の承認を経て出された公安部の「当面の戸籍管理工作におけるいくつかの目立つ問題の解決に関する規定jにより、
「
新生乳児の戸籍は両親のどちらにでも登記できる Jと変更される 。
力が非農業就業者となり、 一時期「出稼ぎブーム」
といわれるまでの勢いをみせ、億単位の農民工が現
れた。それは主に 1
9
7
7年からの「農転非 J政策 12の
生は、都市志向の農民にとって、彼らの眼の前に聞
実施、準都市戸籍の登場とその発展、大学入試制度
都市部から見ても安い労働力を提供してくれると
いった経済発展の需要を満たすことと 一致した。 こ
の復活などによるものだった、と考えられる 。
筆者は、ここで準都市戸籍という表現を提起して
かれた新たな可能性となった。政府側からみれば、
増大する都市部の負担を軽減するのに役立つ一方
、
いるが、これは改革・開放期以降中国社会に登場し
のような背景下、中国史上前代未聞の農村労働力移
動ブームが起こり、結果として出稼ぎ労働者の都市
た農業戸籍と非農業戸籍と異なる第三の身分と考え
てよい。準都市戸籍とは、都市の常住戸籍でもなく、
農村戸籍でもない、その挟間に位置する中間性をも
部での短期在住と居住を許可するものとなった。
一方、各地方政府が打ち出した藍印戸籍とは、 戸
籍を発行されるその地方でのみ有効な臨時的な準都
っ
、 1
9
8
0年代以降の戸籍制度改革によって生じたも
のである 。都市戸籍人口として認められでも、実質
都市常住人口のような社会保障等を享受できていな
市戸籍である 。 この制度は、 1
9
9
1年に遼寧省での実
い、都市部において不平等な立場に置かれている者
のことをいう。
は各地方によってそれぞれ異なるが、それらには多
くの共通点が見られる 。その市において一定面積の
換言すれば、準都市戸籍者とは、農村部から都市
商品住宅の購入、各種企業からの招聴任用を経て 一
定期間以上の継続的な就業、 一定の投資額 ・
納税額、
部への移動人口のうち、都市人口になりかけたが、
完全に都市常住人口になれなかった、またはなって
いない者を指す。彼らの一部はすでに都市戸籍を手
に入れることができたが、 戸籍そのものに付随する
就職、教育、医療、年金等のさまざまな付加価値を
0
行をきっかけに、後に上海、天津、吉林など全国 1
以上の地域にまで、広がっていった。藍印戸籍の制定
専門的技術と学歴を有するといった条件を複合的に
組み合わせることが申請条件となっている 。叢印戸
籍を取得した者は、一定の条件を満たしていれば当
市の常住戸籍を入手できる、となっている 。 また、
完全に享受できていない、または享受できたとして
も一部だけにすぎない。 さらに、都市常住人口のよ
各地方政府は藍印戸籍を実施することにより 、技術
うに彼らの家族を含めた直系親族にまで各種サ ービ
スの提供が行われているわけではない。
この時期における戸籍制度に関する主な規定をみ
都市経済発展を促進する目的をもっている 。
なお、この時期における農村部から都市部への人
口移動について、図 1で示した通り、 aは通常通り
てみると、 1
9
8
4年 1
0月の国務院による 「農民の集鎮
に行われた。準都市戸籍の登場により、 bは最も活
発的に行われ、 dのケースは少数でありながら現わ
れてきた。
や学歴をもった優秀で若い労働力や投資を受け入れ、
9
8
5年 7月の公
に移動する問題に関する規定」 と
、 1
安部の 「
都市暫住人口管理に関する暫定規定J
、お
よび 1
9
9
0年代に各地方政府が独自に打ち出した藍印
戸籍制度 13が挙げられる 。
業人口の年平均増加率は3.54%に達し、総人口の年
1
9
8
4
年の 国務院の「農民の集鎮に移動する問題に
関する規定」では、「食糧は自弁で集鎮にのみ」と
平均増加率である 1
.29%の倍以上の増加とな った。
また、総人口に占める非農業人口は同期間中 1
5
.
5
%
いう制限付きでの農村からの戸籍移転が認められた。
から 2
5.
1%へと約 1
0ポイント増え、絶対数では 1億
5
0
0
0
万人から 3億 1
0
0
0人へと倍増した i40
この時期における cのような都市部から農村部へ
9
8
5年の公安部の「都市暫住人口管理に関す
また、 1
る暫定規定」では、都市および集鎮において 三 ヵ月
以上暫住する場合の手続きが明確に示され、 「
暫住
証」の発給が定められた。 こうした「暫住証」の誕
104・人間文化
9
7
7-1
9
9
9年の問、 非農
具体的にみてみると、 1
の移転はこれまでの政府の事情による強制的なもの
と違って、具体的統計が見当たらないが、人々の個
公民としての基本的権利を農民に
欄鳴脚欄 農村(郷村)人口の割合(%)
(%)
醐
4・四都市(市鎮)人口の割合(%)
(%)
100
43.0
894
50
40
80
30
70
20
10
60
10.6
50
都市人口の割合
農村人口の割合
90
1
9
4
9年
57.0
1
9
5
3年
1
9
6
0
年
1
9
6
5
年
1
9
7
0年
1
9
7
5
年
1
9
8
0
年
1
9
8
5
年
図 2 中国の全人口に占める都市人口と農村人口の割合の推移
1
9
9
0
年
出典
1
9
9
5年
∞
2 0年
∞
O
2 5
年
中国研究所編 (
2
0
0
6
)、264-2
6
5頁より作成。
人の意思決定による移動が目立つようになってきた
つある 。
と考えられる 。
3-1-4 I
移動の自由」の新時代に向けて (
2000年
という従来の手段は弱まり、移転者本人の意思決定
C について、都市部から農村部への移転は強制的
による移転がほとんどとなった。 このようなケース
一現在)
政府は戸籍制度の弊害 を認識しつつ、
1
9
9
3年 6月
に、すでに農村-と都市の二元戸籍の区分を撤廃し、
には、農村部において企業・事業経営の志を持つ一
部の都市戸籍人口などが含まれる 。
統ー した戸籍制度を確立するとした戸籍制度の一本
総じて 言 えば、胡・温政権の誕生を契機に、人々
化改革の総体方案を提示している 。その規定の実施
の 「
移動の自由」制限は大幅に緩和される傾向にあ
2
0
0
1年 3月に国務院の 「小
る。農民工政策の改善および準都市戸籍の撤廃が進
城鎮(小都市)戸籍管理制度改革の推進に関する公
められる中、戸籍制度の一元化が最終的に実現され
は大幅に遅れながらも、
安部の意見」が発布されることにより、小都市にお
た時、 bと dのような移転が aのような移転に移り
いて、安定した住所、職業または収入があれば、本
変わり、結果として aが示す農村から都市への移動
人およびその直系親族の戸籍を都市戸籍に変更でき
るとした。それをきっかけに、
2
0
0
1年以降、成都市、
済南市なと守の一部の都市が戸籍の一本化への改革に
踏み出している 。
胡-温政権の登場により、 戸籍制度の改革が本格
と cが示す都市から農村への移動といった 二つの形
態のみの移転となることが期待されよう 。
3-2 「移動の自由」権を農民に
以上、「移動の自由 」 という指標をもって、戸籍
4つの時期に分けて現代中国における農民の
的に動き出し、人々の移動の自由はある程度認めら
制度を
れる傾向へと向かった。農村部から都市部への移動
都市部への移動の実態を明らかにした。
について、図 1で示すように、 aは当然のこと、 b
図 2は中国の全人口に占める都市人口と農村人口
のような移動が最も盛んな時期を迎えた。特に小城
の割合の推移を示すものである 。 中国の都市化率は
鎮において移動の自由が認められ、準都市戸籍が消
1
9
5
3年に 1
3
.
3
%であ ったが、 1
9
9
0
年代後半にようや
く3
0%台に達した。 1
9
9
0年代後半から今日まで、中
国の都市化が加速段階に入札 2
0
0
5年の都市化率は
え去り、 dのケースも完全に認められることとなる 。
また、省レベルの都市においても 二元戸籍の一元化
る。
戸籍制度の一元化への改革が進められていく中、
43%となった。
都市化が加速した主な要因には農村人口の都市部
への大量流入が挙げられる 。都市化率を表す都市
bのような移転が dのような移転へと次第に変革さ
人口の増加には人口の移動のほかに自然増加の要
れ、公民の「移動の自由」制限も次第に解除されつ
因がある 。 しかし、中国の場合、
への動きが強まり、 一部の都市では試験的に進めら
れた結果、 dのような移転は日に日に増してきてい
1
9
8
0年代から人口
人間文化・
1
0
5
公民としての基本的権利を農民に
表3 中国の人口出生率、死亡率と自然摺加率の推移
│年平均出 │
年平均
(花。_..m
1
4
.
1
0
1950-1959
3
3
.
9
3
年度
表 4 1982-2000
年間における中国の農村部から都市部
への人口移動状況
治加家.
1
9
.
8
3
1960-1969
3
3
.
5
0
42
1
1.
1970-1979
24.
45
7
.
0
8
2
2
.
0
8
1
7.
3
7
1980-1989
2
1.
22
6
.
6
6
1
4
.
5
6
1982-1990 8,
715 6,
510 3,
208
814
4
0
1
1990-1999
1
7
.
5
7
6.
5
7
1
1
.
0
0
1990-1995 4,
979 3,
901 2,
020
780
404
2000-2005
1
2
.
9
0
44
6.
6.
46
1950-1979
3
0
.
6
3
10.
87
19.
76
1980-2005
1
7
.
2
3
6
.
5
6
1
3
.
6
7
出典:中国研究所編 (
2
0
0
6)
、2
6
4-2
6
5頁よ
り 筆者作成。
732 10,
237 5,
146
1996-2000 10,
732 2,
030 1,
414
1990-2000 15,
7
1
1 14,
138 7,
752 1,
775
1982-2000124,
426 20,
675 10,
960 1,
149
609
出典胡鞍鋼箸 ・王京演訳 (
2
0
0
7)
、4
6頁よ
り。
増加!抑制政策として「一人っ子政策」が厳格に採
動は、 戸籍の変更がなく、居住地の長期的変更もな
られた結果、毛沢東時代の人口の「高出生率 ・高死
く、戸籍所在地である農村地域を離れて都市部に移
亡率 ・高増加率」から次第に人口の 「
低出生率 ・低
動した者 を指す、いわゆる農民工のことである 。
死亡率 ・低増加率」の局面を迎えることとなる 。表
表 4で示すように、 1982-2000年にかけて、中国
3は全 国における人口の自然増加率を示したもので
の農村吉1から都市部に移動した人口は 2億 675万人
ある 。計画経済期において、毛沢東の「入手論 J15
に上り、 2000年の都市部全人口 4億 5906万人 (
r中国
の影響もあり 、 1950-1979年の 30年の間における人
統 計 年 鑑2006J、 99頁)の45%を占め、都市人口増
口の出生率と人 口の 自然増加率がそれぞれ年平均
加 数2億 4426万人の約 85%を占めた。農村からの移
30.
6
3%。と19.76%
。の割合であった。 しかし、それは
動人口のうち、出稼ぎ労働者である農民工の規模
改革 ・開放期の一人っ子政策によ って大きく抑制さ
はなんと l億 960万人に上り、 2000年の都市総就業
れ
、 1980-2005年の 25年間の出生率 と人口の自然増
人口 2億 3151万人 (
r中国統計年鑑 2006J、 128頁)の
加率がそれぞれ年平均 1
7
.
2
3%。と1
3
.
6
7%。となり、低
47%を占めた。 また、農村部からの人口移動と出稼
下の傾向にある。ちなみに、人口の死亡率から見れば、
ぎ労働者の状況をみてみると、 1982-1990年の年平
1950-1979年の年平均死亡率が 1
0
.
8
7%。であったが、
均数はそれぞれ 814万人と 401万人であったが、 1990
1980-2005年の年平均死亡率が6.
56%
。と大きく低下
万人と 775万人
-2
000年の年平均数はそれぞれ1414
してきていることが分かる 。その背景には、医療技
となり、 1990年代に入ってから人口の移動規模が一
術の進歩と衛生条件の改善等がある 。 したが って
、
段と加速したことが分かる 。
一人っ子政策が農村部より都市部に最も厳しく行わ
長年にわたり農民が「移動の自由」を 制限されて
れてきた現実から考慮すれば、都市部における人口
きた結果、都市と農村の凄まじい格差が手のっけな
増加の内訳に は人口の 自然増加というよりむしろ農
いほど拡大され、農民の極端な貧困化がもたらされ
村からの人口移動による人口の社会増加の割合が大
た。農民が全国人口の大多数を占めるという中国の
きいことが考えられる 。
さらに、中国の農村部から都市部への人口移動に
国情からみて、農民の貧困化が農民の消費水準の一
貫した低いレベルを来し、貧困が貧困をもたらすと
は、戸籍を伴う人口移動と暫住人口としての人口流
いう悪循環が形成されてきた。そうした結果、都市
動が含まれている 。戸籍を伴う人口移動とは、戸籍
部における工業製品の恩恵は農民の手にとどかず、
上において長期的に居住地の変更を伴う移動であり、
都市部の経済発展にも影響を及ぼし、経済・社会の
戸籍制度のもとで農業戸籍から都市戸籍に変更した
持続的発展に支障をもたらすこととなった。
者をいう。この場合、産業労働力としての雇用者、
近年、戸籍制度の改革および農民工政策の改善に
大学または専門学校へ進学した学生、復員または退
より、地域悶の労働力の移動がかなり自由化してき
役した軍人がある 。一方、暫住人口としての人口流
ている 。
106・人間文化
公民としての墓本的権利を農民に
戸籍制度の一元化が盛んにいわれる今日、「移動
ルがある程度図られるであろう 。著 しい経済発展を
の自由」がもうすでに一般化され、実際に移動でき
たのだから問題は解決されているのではないかと、
遂げ、新たな時代を切り開こうとしている現代中国
は、従来通りの一部の人間だけの利益を守るための
思われるかもしれない。 しかし、移動ができたとし
ても、正規の都市戸籍でない暫住戸籍をもっ農民工
は、地元住民と同等な就職競争ができないままでい
る。たとえできたとしても、賃金、社会保障、子供
の学校教育、公共サービ ス等の面において都市住民
強制的手段 としての戸籍制度を改める必要があり、
人々の地域間移動、とりわけ農村から都市部への 「
移
動の自由 」 を認めなければならない時期に迫られて
いる 。
胡 .i
Ju¥.政権に謀せられた課題は多い。2
0
0
6年の農
と格差をつけられている 。
0
0
7
業税廃止は一歴史的出来事 となり、それに続く 2
中国政府はなぜ、ここまで「移動の自由」権の復
活を憲法で保障しようとしないのか。いうまでもな
年の農村義務教育の無料化はさらに評価すべき行動
といってよい。調和社会の実現を目指す中国であっ
く、「移動の自 由j権が認められたら、大勢の農民
て、こうした勇気 のある決断なくして社会全体の根
が都市部へ雪崩れ込み、都市部の就職、住宅、治安、
本的前進はまずありえない。
だからとい って、政府は憲法で保障された農民の
社会保障等に影響を与えることとなる 。 しかしなが
ら、その一方、プラスの面としては、農村の余剰労
「移動の自由」権を法的に認めよう とはしないので
働力が吸収され、農ー
業の生産性が向上し、農家の収
入増だけでなく農業の競争力も強まるはずである 。
これによって、 三農問題 17、ひいては四良問題 18も
惑の背景には、大きな「わけ」があるのだ。それは、
次節に譲る 「
選挙権」による農民差別にほかならな
解決に向かい、さらに国内消費拡大にもつながり、
"
'0
都市住民に刺激をもたらし、調和社会の実現を促進
するだろう 。数十年にもわたる経済の高度成長を続
4. 農民の政治的権利保障問題
けてきた中国であって、それを解決する経済力が十
分あると思われる 。問題なのは、それをやろうとし
た政治姿勢と勇気だ。
現行の「中華人民共和国選挙法J
(以下、「選挙法J
)
の規定によると、第1
4条では、 「
省 ・自治区の人民
代表大会代表の選出において、省・自治区レベルの
ある 。そうした、半世紀にわたる政府の一貫した思
日本では、資本主義の形成期に当たる明治時代に、
人民代表大会常務委員会が、 一人の人民代表大会代
労働力の自由な移動をはじめ、国内の統一的市場が
すでに形成されていた。版籍奉還によって藩主 と務
表を 選出する農村人口と都市人口の割合を 4対 1の
士との身分関係がなくなったので、藩主を上層公家
とともに華族とし、藩士を旧幕臣などとともに士族
同法の第 1
6条によれば、 「
全国人民代表大会代表 (日
本の国会議員に相当する 。全国人民代表大会のこと
を、以下「全人代」 とする)の選出において、 全人
として、封建的な主従関係を 一応解消させた。同時
に農工商民は平民となり、また 1
8
7
1(
明治 4)
年 には、
旧来の被差別身分を廃止し、身分・職業ともに平民
と同じくした。1
8
7
1年に戸籍法が制定され、翌年に
は統一的な戸籍編製が行われた。 これによ って国民
は華族 ・士族 ・平民の 3族籍に編製された。 また、
平民も苗字を許され、華・士族との通婚もできるよ
うになり、移転や職業の選択の自由も認められ、原
則上は四民平等となり、近代的な国民国家へ向かう
889年に発布された明治
体制が整 った 190 t同時に、 1
憲法でも 「
居住移転の自由」が明記された。労働力
の自由な移動は、日本の地域間格差 を抑えるのに大
きな役割を果たしたと考えられる 。
人々の地域間移動、とりわけ都市と農村聞の移動
が頻繁に行われることにより、その国の平等のレベ
原則に従って配置しなければならない」とした。また、
代常務委員会が
、 一人の人民代表大会代表を選出す
る農村人口と都市人口の割合を 4対 lの原則に従っ
て配置しなければならない」 とした。
言い換えれば、現行の 「
選挙法」は、県レベル以
上の人民代表大会の代表を選出する際、農民の 1
票
の重みは都市住民の f4分の 1Jと相 当することに
なる 。 しかも、中国は一党独裁の政治を堅持してい
るため、日本など民主国家同様な選挙権は農民に実
際に存在しない。 このように、法律の上での平等 を
訴え続けてきた現代中国において、選挙権の平等と
いう基本的権利に関して、都市部と農村部では人口
に対する代表定数の割合には大きな差別が設けられ
たのである 。それでは、このような事情は如何に作
られたのだろうか。
人間文化・ 1
07
公民としての基本的権利を農民に
4-1 選挙制度における選挙権問題
歴史を振り返ってみると、現代中国に おける選挙
9
5
3年の第一部選挙法の制定に まで遡る 。 1
9
5
3
法は 1
年 2月1
1日に開催された中央人民政府委員会第 2
2回
会議において中国初の選挙法が確立された。 ここで
の規定によると、 一人の全人代代表を選出する農村
人口と都市人口の比率は fS対 1Jとされ、省 と県
の人民代表大会代表を選出する農村人口と都市人口
、または f4対1Jとされた。
の比率は f5対 1J
このような極端に不平等な選挙法が制定された背景
には、当時の中国の人口構成の面において農村人口
が圧倒的多数を占め、都市人口の割合を大きく上
回っていた現状があった。
中国の人口構成からみれば、図 2が示す通り、新
9
4
9年の都市と農村人口の割合
中国建国元年である 1
l
O.
6
対8
9.
4J であり、農村人口は全人口の約 9
は f
割を占めていた。選挙法制定の 1
95
3年当時において
も、その割合は f
1
3
.3対8
6
.
7J であり、人口構成に
は基本的変化は見られなかった。
しかしながら、 1
9
5
3年から第一次五ヵ年計画 (
1
9
5
3
改正では、全人代の代表枠と省 レベルの人民代表大
会代表枠を選 出する際の農村と都市人口の比率は
f4対 1J という原則に統ー されることとなった。
9
5
3年の選挙法制定から実に 4
2年後のこと
これは、 1
であり、全人代の代表選出時の fS対 1Jという原
則と比べ、 f4対 1Jは確かに大きく前進したとい っ
てもよい。だが、これにしても農民差別の悲惨な事
態が世界に類をみないものであることには変わりは
ない。
時代が新たな世紀に移り、政権も新たに発足され
た2
0
0
4年 1
0月27日の第十期全人代第十二回会議にお
いて、中国史上第四回目の選挙法改正が行われるこ
ととなったが、全人代の代表枠を選出する f4対
1Jの原則を依然崩していない。三農問題の解決を
党・政府活動の重点中の重点に据えた胡・温政権が、
2
6
0
0年もの歴史をもっ農業税の廃止、調和社会建設、
新農村建設といった一連の弱者重視の「親民」政策
を打ち出し、世論の評価を浴びてきた。 しかし、 最
低限の公民の基本的権利への改革に手を加えること
がいまだにできていない。
1
9
5
0年代の建国当時にやむを得ない状況下に暫定
になった。 また、 1
9
5
3年から食糧、綿花、泊料作物
的な手段としてこのような選挙法が確定されたなら
ば、納得のいかないこともない。 しかしながら、時
代はすでに半世紀もすぎ、日々変化をみせ続けてい
など、主要農産物の価格が国家統制下に置かれ、農
産物と工業製品の価格差を通じて農民を収奪する
貌を遂げてきているのである 。人口構成からみても、
-1
9
5
7年)の実施に より 、当時の中国の経済建設の
方針は重工業優先の国家戦略に重点が置かれるよう
る中国という大国であって、あらゆる面で大きな変
「
統一買付・統一購入」制度が同時に強制的に進め
られた。こうした国家の意図的戦略を順調よく進め、
都市と農村人口の割合は、図 2のように、 1
9
5
3年の
立ち遅れた農業国から豊かな工業国への変身を果た
2 0年の f
3
6
.
2対63
.8J、2 5年の f
4
3対 5
7
J へと、
大きく変わりつつある 。 1
9
5
3年の選挙法の代表枠を
選出する原則である fS対 1J を、もし当時の農村
と都市人口の比率である fS対1J(図 2で示すよ
うに、実際の割合は f
8
6
.
7
対1
3
.
3
J
)の基準に基づい
0
0
0
年時点の農
て制定したと仮説するなら、それが2
図 2で示す
村と都市人口の比率である f2対 1J (
ように、 実際の割合は f
6
3
.
8対3
6
.
2J
)から考えれば
当然選挙権に おいても f2対 1Jの原則が実施され
0
0
5年の農村と都市人口の
るはずで、ある 。 さらに、 2
57
対4
3
J という現状からみても、依然
比率である f
選挙権の f4対 1Jが堅持されていることは、何と
いっても国家の人為的農民差別によるものだとしか
いいようがない。
す目的の実現かつ持続性を考えるうえで、当時、少
なくとも全人口の 9割弱を占める農民という大集団
に対して、その政治的基本権利を抑制する手段が講
じられる必要があった。
1
9
5
3年の選挙法 に続き、 1
9
7
9年 7月 1日に開催さ
れた第五期全人代第二回会議において、現行選挙法
の基礎となる現代中国の第二部の選挙法が確定され
ることとなった。 しかし、今回の選挙法では全人代
の代表枠を選出する際の農村と都市人口の比率に関
する fS対 1Jという原則が、依然維持された。 さ
9
8
2年と 1
9
8
6
年に二回にわたり選挙法
らにその後、 1
の改正が行われたが、 fS対1Jという原則が依然
として堅持された 。
第三回の選挙法改正が 1
9
95
年 2月2
8日に第八期全
人代第十二回会議において行われた。今回の選挙法
108・人間文化
f
1
3
.
3
対8
6
.
7Jから、 1
9
9
5年の f
29
対71Jへ、さらに、
∞
∞
公民としての基本的権利を農民に
は 7億余もの大集団でありながらも、その利益を代
4-2 農民の政治的権利保障問題
弁する組織を持たず、平等な政治参加と利益実現の
中国の憲法によれば、公民は平等に選挙権と被選
権利のないまま 差別されてきたのである 。
挙権を享受できる(第 3
4条)と明記している。選挙
2
0
0
7年 1
0月に閑かれた共産党の第 1
7回大会では、
法は憲法に基づくものであり、それを具体化 したも
胡錦涛主席は「次第に都市と農村の同等比率の人民
1
4対
代表大会代表選出の原則を実現する」とし、さらに
1Jは明らかに憲法の規定と反するものであり、さ
らに農民の公民と しての平等的権利の剥奪であり、
2
0
0
8年 3月に開かれた全人代において、 呉邦国委員
長は 「全人代常務委員会活動報告」で 2
0
0
8年に選挙
その背景には機会の平等すら与えようとしない党・
法の改正を行うよう明言している 。
のでもある。選挙法の代表枠選出比率である
調和社会を目指す上で、農民自身の利益を代弁す
政府の思惑が隠されている。
中国の全人代の代表定員は、表 5で示したように、
1
9
5
4年の第一期全人代第一回会議の 1
2
2
6人から、人
口の増加に伴い次第に増え続け、 2
0
0
7
年現在 2
9
8
5人
今日の 中国であ って、最大の集団かっ最大の弱者で
となった。地方人民代表大会の代表で ある各省・市・
もある農民に経済発展の思恵を与えてこそ、農民を
る組織の形成が欠かせないものである 。都市と農村
問、あるいは地域間の格差拡大が日々広がっていく
区への定員枠は都市、農村の人口数に応じて決めら
動員でき るのだ。一票 の力は大きな原動力である。
れる 。
経済・社会の持続的発展のための調和社会の実現へ
一人の全人代代表を選出する農村人口と都市人口
の比率である
1
4対 1Jの原則からみれば、平均 88
の最強の処方築は、農民という最大の弱者集団に公
民待遇を与えることから始まるかもしれない。
万人の農村人口が一人の全人代代表を選出するのに
対し、 2
2万人の都市人口が一人の全人代代表を選出
9
9
5年の選挙法改正
することになる 。 もし、これを 1
より以前の 18対 1Jの比率からみれば、平均 1
0
4
万人の農村人口が一人の全人代代表を選出するのに
5
. むすびに
以上、現代中国における農民の制度的差別問題で
ある 「
移動の自由」権と 「
選挙」権を具体的に論じ
てみた 。
対し、 1
3万人の都市人口が一人の全人代代表を選出
することになる 2
0。
たと 言っ ても過言ではない。経済、社会、政治的な
農民も同じ公民(国民)である事実を明らかに裏
商において、都市住民と同等な権利が保障されない
切るこのような制度的支配が長年存続 してからこ
そ、都市と農村の二重社会構造が出来上がり、農民
現代中国の農民はいたるところで差別を受けてき
ままである 。
仮に、中国囲内において、農民に移動の自 由権と
職業選択の自由権があ ったとすれば、貧しい農村か
ら豊かな都市へと移動して、都市住民と同じく競争
表5 各期における全人大の開催時期と代表数の推移
出典
会人~
開催時鍛{年)
第一期
1954-1958
第二期
第三期
│
余人大代表総数{人)
しただろう 。それは、結果的に都市部にとっても刺
激となり、消費を促すことになる 。社会的にみても 、
1226
都市住民のような比較的高い水準の教育、医療、年金、
1959-1963
1226
公共サービスを享受できたであろう 。仮に、農民に
1964-1965
3040
第四期
1975
2885
は政治的権利が保障されたならば、農民は自らの利
益を代弁する組織を創設し、平等な発言権が得られ、
第五期
1978-1982
3497
全公民を カバーした制度作りに努めたであろう 。
第六期
1983-1987
2978
第七期
1988-1992
2978
っ実施者はみな都市住民である。いうまでもなく、
第八期
1993-1997
2978
都市住民が都市住民の利益を代弁し、都市住民の利
第九期
1998-2002
2979
益を損なうあらゆる制度措置を排除しようとするの
第十期
2003-2007
2985
である 。 こうした農民に対するさまざまな差別が今
(
2
0
0
6)
、 中国国家 統 計 局 編 (
2
0
0
6
)r
中国
統計年鑑2
0
0
6
Jと各年の全人代の内容を参考に、作成。
中国研究所編
現在、全国において、党や政府の政策の決定者か
もなお解消されずに根強く残っている背景には、制
度そのものの規範化、体制化がある 。毛沢東は 9割
人間文化・ 1
09
公民としての基本的権利を農民に
聞聞瞭農村住民一人当たり純収入(元)
獅臓蹄 都市住民一人当たり可処分所得(元)
- 一 都市と農村の格差(農村=1)
(倍数)
4
7αm
2
都市と農村の格差
農村住民一人当たり純収入 /都市住民 一人当たり可処分所得
(元)
1
4
∞
,D
3,5
0
0
。
Iy
可
}
喝.
号・
1
9
7
81
9
8
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9
8
51
蜘
4 園
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_引
.
1
O
∞∞∞∞∞∞
1
9
9
11
9
9
21
9
9
31
9
9
41
9
9
51
9
9
61
9
9
71
9
981
9
9
92
0
0
02 12 22 32 42 52 62
即
図3 都 市 と 農 村 の 所 得 推 移 と 格 差
出典
『
中国統計摘要 2
0
0
6
J (国家統計局編、中国統計出版社、 2
0
0
6
年);各年「政府活動報告 j より作成。
を占める農民の底力を借りてからこそ、革命の勝利
額の 5
0%を占有し、
を手にしたのである 。 しかし、権力を手に入れたと
を占めるにすぎず22、格差はすでに合理的な限度を
20%の貧困層はわずかに 47%
たん、農民を目標実現の一手段として利用し、経済
超えているといわれている 。
,
建設のための道具としたのである 。いってみれば、
一方、近年、党 ・政府幹部の汚職・腐敗、土地収
国民党との内戦時代においても、農民は同じく道具
用問題と環境汚染問題等による農民の集団抗議行動
として利用されたように思われる 。 また、改革・開
展モデルおよび「白ネ コであれ黒ネ コであれネズミ
0
0
5年の一年 I
'
M
'Jだけで 8万
が続発し、その規模は 2
7
0
0
0件に上り、農民の抗議暴動があまりにも悪化し
0
0
5年以降公表しなくなった。
「 陳勝・
たため、政府は 2
を捕るのが良いネコ」という呼びかけのもと、人々
呉広 J23の蜂起をはじめ、歴史的にみれば数百年も
は富と権力を手に入れるために手段を選ばないよう
続いた中国王朝の多くがこうした社会的弱者とされ
放政策の創始者たる郡小平が唱えた「先富論」の発
になった。結果として、確かに「一部の人と 一部の
る農民の「暴動」により終結を迎えたことを考慮す
地域」が先に豊かになった。 しかし、この 「
一部の
れば、歴史と経験が浅い中国共産党にとって拡大す
人と一部の地域」の富と発展は多くの弱者、言い換
る農民の「暴動」は最大の社会不安の要素となった。
えれば農民という大多数の集団の犠牲があってのも
9
8
5
図 3が示すように、都市と農村の所得格差は 1
∞
年の 1
.8
6倍から 2 7
年の 3
.
3
3倍へと、
近年、戸籍制度の一元化が大々的に試みられ、さ
0
0
8年の選挙法の改正が期待されている 。「華
らに 2
のだということである 。
やか」な北京オリンピックを何とか無事に開催でき
1
9
9
8年以降拡
たが、オリンピック効果はいつまでも続くわけでは
大する 一方だ。貧富の格差を示す国際的指標にはジ
ない。その裏に隠されたチベット・ウイグルなど民
.
4
を 上回ると社
ニ係数21がある。一般にジ ニ係数が0
族問題や農民の抗議行動、さらに四川大地震や洪水 ・
0
.
5を超えると慢性的な暴動
9
8
1年の中国
の発生の危険性があるとされている。 1
のジニ係数は 0
.
2
8であったが、 2
0
0
2年には 0
.
46
まで
0%の富裕層が社会の収入と消費
拡大し、全人口の 2
皐舷・砂漠化問題等の数々の課題への解決が待たれ
会の安定が脅かさ れ
、
110・人間文化
る。高まりつつある公民の不満をいかに解消してい
くのか。大きな転換期に向かおうとしている中国に
とって、賢明な政治的決断が迫られでいる 。
公民としての基本的権利を農民に
参考文献
中国統計出版社
石田浩 (
2
0
0
3)r
貧困と出稼ぎ一中国「西部大開発j
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の課題j
、晃洋書房
9
5
0
年代を中心に」、 『
中国研究月
国の戸籍制度一 1
井上光貞ら著 (
19
8
0)r
詳説日本史 j (
改訂版)、山
報j、1
9
9
7年 8月号
張玉 林 (
2
0
01
)r
転換期の中国国家と農民(19
7
8-
川出版社
殿志静・郁奇虹著、斎藤匡史抄訳(19
9
8
)"
[中国 戸
籍制度の改革
」、 『
東亜経済研究j、第5
7
巻 第 3号
内田知行(19
9
0)["戸籍管理・ 食糧配給制度からみ
た中国社会一建国 - 1
9
8
0
年代初頭
」、毛塁手日子編
『
現代中国論 1 毛沢東時代の中国 j、日本国際問
、農林統計協会
1
9
9
8)
J
沈金虎 (
2
0
0
7)r
現代中国農業経済論一 近代化への
歩みと挑戦j、農林統計協会
9
9
)"
[中国における 戸籍移転手続」、『阪
西島和彦(19
9
巻第 1号
大法学
』 、第 4
西島和彦 (
20
0
0)"
[中国における暫住人口管理制度」、
題研究所
2
0
03
)r
中国農民 はなぜ貧し いのかj、光文
王文亮 (
0
巻第 1号
『
阪大法学
』 、第5
西村幸次郎 (
2
0
0
1)r
現代中国法講義J
、法律文化社
字~:
小口彦太 ・田中信行 (
2
0
0
4)r
現代中国法J、成文堂
西村幸次郎編 (
2
0
0
4)r
グ ロー パル化のなかの現代
中国法J(
補正版)、成文堂
加藤美穂 子(19
9
9)["経済改革 ・開放政策に対応で
きなくな った中国の戸籍(戸口 )制 度」
戸 籍法
五 O周年記念論文集編纂委員会編 『
現行戸籍制度
五 O年の歩み と展望
2
0
01
)r
現代中国法講義j、法律文化社
西村幸次郎 (
前回比 呂子 (
19
9
3)
"
[中華人民共和国における 〈
戸 口〉
戸籍法五 O周年記念論文
管理制度 と人口移動」、『 アジア経済』、第 3
4巻第
2
0
0
2)r
農民国家の諜題 J (
シ リー ズ現代中
厳善平 (
前回比呂子 (
1
9
9
6)"
[中国における 戸籍移転政策ー 農
2号
集j、日本加除出版
国経済2
)、名古屋大学出版会
村 戸籍から都市戸籍へ
厳善平 (
2
0
0
5)["流動する社会、分断する都市労働
市場人口移動に見る転換期中国の二重構造」、『桃
山学院大学総合研究所紀要j
、第 3
1巻第 2号
胡鞍鋼著・ 王京 j
賓訳 (
2
0
0
7)r
国情報告
」、 『アジア経済』、第 3
7
巻第 5号
林善浪・張図編著 (
2
0
0
3
)r
中国農業発展問題報告
問
題・現状・挑戦・ 対策j、中国発展 出版社
経済大国
中国の謀題j、岩波書庖
此本臣吾 (
2
0
0
7)r
中国の目指す新国家像としての「社
会主義和諮社会 J
J、『知的資産創造j、 2
0
0
7年 9月
号
註
1 ここでいう 「現代中国」 とは、 1
9
4
9年以降の中
華人民共和 国の ことを指す。ただし、香港、マ
察肪主編 (
2
0
0
6)r
中国人口与労働問題報告 NO.7
人口転変的社会経済後果J(人口与労働緑皮書)、
社会科学文献出版社
カオと台湾は対象外とする 。
2 日本など民主国家にお ける 「国民」 との誤解を
避け るため、筆者 はここであえて 「公民」 とい
2
0
0
6)r
2
0
0
7年:中国
汝信・陸学芸・李培林主編 (
う表現に従う 。戸籍制度による農民の差別的待
社会形勢分析与予測J(社会藍皮書)、社会科学文
遇を考慮すれば、「国民」 という表現は果たし
献出版社
て中国ではふさわしいのか、甚だ疑問である 。
白石和良 (
2
0
0
5)r
農業 ・農村から見る中国事 情 j、
家の光協会
2
0
0
5)r
現代中国の経済発展と社会変動
田暁利 (
3 日本において「本籍」 とは、 戸籍が所属する 場
所のことを指し、自分が現在住んでいるところ
《
禁
欲 〉 的 統制政策から〈利益》誘導政策への転
1
9
4
9- 2
0
0
3年j、明石書庖
田中修 (
2
0
0
7
)r
検証現代中国の経済政策決定j、日
換
本経済新聞出版社
中国研究所編 (
2
0
0
6)r
中国年鑑2
0
0
6
J
、創土社
中国国家統計局編(各年 H中国統計年鑑J(各年版)
、
と関係なく、日本国内なら、どこにおいてもよ
く、変更も自由である 。
4 前回比呂子(19
9
3)
、2
6頁を参照。 なお、前回
比 呂子 は
、 張慶五編 (
1
9
8
3) 戸 口登記常識j、
法律出版社、 2
7頁)を参照した。
5 加藤美穂子(19
9
9
)、 1031-1032頁を参照。
6 1
9
5
4年の 「中華人民共和国憲法」の第8
5条では
a
人間文化・ 1
1
1
公民としての基本的権利を農民に
「中華人民共和国の公民が法律上一律に平等で
ある 」 と規定されている 。その後、現在にいた
るまで 7回にわたる憲法改正(19
7
5年
、 1
9
7
8年
、
1
9
8
2年
、 1
9
8
8年
、 1
9
9
3年
、 1
9
9
9年および2
0
0
4年)
が行われてきた。現行の憲法の第二章第3
3条に
よれば、「中華人民共和国の国籍を有する者す
べては中華人民共和国の公民である 。中華人民
共和国の公民は法律の前において一律に平等で、
ある 。国家は人権を尊重または保障する 。公民
は憲法と法律に規定された権利を享受すると同
時に憲法と法律に定められた義務を履行しなけ
ればならない。
」 としている 。
7 王文亮 (
20
0
3)
、5
0頁を参照。
8 "
[
統一買付 ・統一購入」制度とは、農産品の貿
付価格や販売ルートなどは、すべて政府の意思
決定によって行われることである 。廉価な農産
品を農民から買い上げるために、中国政府はま
ず全国の農産品市場の機能を廃止し、農産品に
対する買付機を政府部門の管轄下におき、厳格
に管理する 。その場合の買い上げ価格は、政府
によって意図的に低く抑制されたものである 。
固有商業部門は、その価格で農産品を買付、固
有軽工業企業に販売し、また固有軽工業部門に
よって製造された製品(日常生活用品中心の衣
類や酒類など)を、政府は意図的に高く設定し
た価格体系で国民に販売するのである 。詳しく
2
0
0
5)
、
72-73頁を参照。 この制度は、
は回暁利 (
1
9
8
5年に 「契約買付」制度 に変わった。[前田
9
3
)、2
3頁を参照]。
比呂子(19
9 厳善平 (
2
0
0
2
)、7
5頁を参照。
1
0 沈金虎 (
2
0
0
7
)、474-475頁を参照。
1
1 ["農転非」政策とは、農業戸籍から非農業戸籍
9
7
7年 1
1月に国務院の
への転換を指すもので、 1
承認を経て、公安部が通達した「戸籍移転に関
する規定(草案 )
J により始められた。農村か
ら都市部への人口移動を禁止する原則を維持し
つつ、毎年の移転枠を非農業人口の 0
.
15%(
0
.2%
という 言い方もある )に限って認めるといった
.
15%の移転指標について、
ものである 。 この 0
その対象者の多くは 「
経済的成功者や専門技術
者、政治的社会的功労者などに限られていて、
都市の規模の大小を問わず、 一律に当地の非農
.
15%を超えではならない」とされ
業人口数の 0
た。 これについて、前回比日 子(19
9
6)
、6
7頁
112・人間文化
を参照。
1
2 中国における一般の戸籍は赤色のカバーと赤色
の印が押されているのに対し、この種の戸籍は
青色のカバーと青色の印が押されているため、
「
藍印戸籍」と名づけられた。
1
3 厳善平 (
2
0
0
2
)、7
5頁を参照。
1
4 1
9
5
0年代に、経済学者・馬寅初(当時北京大学
の学長)が「新人口論Jを提出し、人口抑制の
必要性を訴えたが、毛沢東に右派分子と批判さ
れ、北京大学の学長の座を引き下ろされた。そ
れをきっかけに、中国では人口問題はタブーと
なり、馬寅初批判と同時に、毛沢東が「人聞は
口はーった、が、手は二本ある 。二本の手でもの
を作れば、口は一つだから、作るほうが多くな
るのだ」 といういわゆる「人手論」 を呼びかけ
た。
「入手論」の 「
産めよ、増やせよ 」のもと、
9
6
9年には 8意
;
16
7
1万人に達し、
中国の人口は 1
2
0年間で 2億 6
0
0
0万人も増加してしまい、 「
一
人を誤って批判して、 三億人も増やしてしまっ
た」現象を引き起こした。毛沢東死後、中国政
府は「一人っ子政策 Jを国策として急いだが、
毛沢東批判は終始行われなかった。
1
5 [
"
三 農問題」 という用語は、 2
0
0
3年 1月の中央
農村工作会議において正式に提起されたもので
ある 。中国における「三農問題」は、李昌平が
当時の朱鎗基総理に書いた手紙『我向総理説実
話 J[詳しくは李昌平著・吉田富夫監訳 (
2
0
0
4
)、
『中国農村崩壊j、NHK出版を参照されたい]
により普遍的に国内外の関係者に広く注目され
るようになった。李昌平によると、「三農問題」
農
とは「農民真苦、農村真窮、農業真危険 J(
民は本当に苦しい、農村は本当に貧しい、農
業は本当に危うい)ということだ。つまり農民
の低所得、農業の低生産性および農村における
公共サービスの立ち遅れといった問題を指す。
一方、経済学的[胡鞍鋼著・王京演訳 (
2
0
0
7)
、
5
8頁による]にみれば、「三農問題」とは「四
つの減少」 に起因するものである 。すなわち、
農業部門総生産の国内総生産 (
G
D
P
)に占める
割合が持続的に滅少していること、農業労働生
産性の上昇隔が全国平均労働生産性に比べて減
少していること、農民一人当たり所得の国民一
DPに対する比率が減少しているこ
人当たり G
と、農民の農業所得の総所得に占める割合が減
公民としての基本的権利を農民に
少しつつあることである 。
1
6 I
三農問題」に出稼ぎ労働者である農民工のこ
とを加えて、 「四農問題」 とみる学者がいる 。
たとえば、厳善平と胡鞍鋼など。
1
7 井上光貞ら著(19
80)
、2
3
6頁を参照。
1
8 I
法制 日報」、 2
0
0
7年 1
0月1
8日付 。
1
9 1
9
3
6年、イタリアの統計学者コツランド ・ジ
、
ニ
によって考案された。 これは、 Oが完全平等、
1が社会のすべての所得が 1人に独占されてい
る状態を示す数字ですが、全員の富がまったく
同じく完全平等を I
OJ
、すべての富が l
人に
1Jとし、数値が 1に
集中する完全不平等を 1
近いほど貧富の差が大きいことを示す。一般的
には 0
.2-0.
3が、競争原理にもとづく市場経済
3-0
.
4が通常値とされる 。
「警戒ライン」
では 0.
.4を超えると社会不安を引き起こす可能性
の0
があり、 「
危険ライン 」 の0
.
5を超えると格差が
大きく、慢性的に暴動の危険をはらみ、政策な
どで是正することが必要だとされている 。
2
0 ジニ係数の数値があまりにも主主化したため、
2
0
0
2年以降、国家統計局はジニ係数を発表 しな
2
0
0
7)
、1
4頁を参照。
くなった。此本臣吾 (
2
1 陳勝と呉広は秦朝末期に 当たる紀元前 2
0
9年に
起きた農民蜂起の指導者であり、中国史上初の
農民蜂起とされている 。
人間文化・ 1
13
史料紹介
明治前期地籍図に関する布達類
-滋賀県庁文書の史料紹介古関大樹
滋賀県立大学人間文化学研究科 博士後期課程
はじめに
明治 2
2年(18
8
9
)に土地台帳制が導入される以前
連分野においても、有効な 一次資料であると思われ
に作製された地籍図は明治前期作製の地籍図と総称
起こして紹介したい。
る。 このような観点から本稿では 6点の資料を書き
されている 。そこには土地一筆までが描かれ、一筆
ごとに地種や地目、小字地名などが記されているな
ど、詳細な景観情報が記録されており、景観復原の
滋賀県庁文書の概要
基本資料として盛んに研究利用されてきた。
これは、地券の発行に伴って作製された壬申地券
滋賀県庁文書は本庁舎内の県民情報室で保管され
ており、同室で閲覧することが可能である 。各文書
地引絵図、地租改正に伴って作製された地租改正地
は簿冊にまとめられており、各簿冊は明治、大正、
引絵図、地籍の編成に伴って作製された地籍編製地
昭和の時期に応じて大分されている 。各時期では、
籍地図、土地台帳の創設に伴って既存の地図を修正
し地図を新調した地押調査更正地図の四種類からな
政策別や部署別の書類といった簿冊の性格に応じて
る。 このことは佐藤甚次郎によって示され、地籍図
研究の水準として多くの研究に参照・引用されてい
るl。
へ」 に分類されており、各簿冊に綴られ
「あJ~ I
た文書には整理番号(もしくは丁数)が与えられて
いる 。 なお、整理番号が与えられている場合は、原
則的に布達番号と同数が与えられている 。
しかし明治前期の地籍図には地域ごとの偏差が
地籍図に関連するものは、 「あ」で政府からの法
きわめて大きいという問題がある 。土地台帳制へと
移行した明治 2
2年には、大日本帝国憲法や衆議院選
令や布告類、 「い」で県が発した布達類や訓令、「う 」
で政府官省との往復文書、 「こ」で郡役所や町村に
挙法が公布され、市制町村制が施行されるなど近代
関連する布達・書類、 「な」で地理掛がまとめた帳
簿や書類などが確認できる 。
的な行政制度が確立した 。つまり、明治前期は近代
的な行政制度が成立する過渡期にあたるのであり、
政府の政策はそのままに全国で実施されることが困
難であった。事業に難航した地域では作製時期が再
調整され、地域の実情に合わせて地図の雛形も再調
整されたのである 。 このように、実際には地域別で
異なる時期、異なる様式の地籍図が残されている 。
本稿で紹介する資料
①明治 5年 8月
「
地券取調掛取扱,c.、得方凡例書」
滋賀県が管下の各町村へ充てて地券の発行と関連
する実地調査の実施を指示した布達である 。一筆毎
佐藤の研究は全国のいくつかの地域から史料を集め
6
条
に建てた標木や野帳の雛形が図示されており、 1
て構成されたものであり、必ずしもどの地域にも適
用できるものではない。各地域に残る地籍図を正確
に理解するためには地域別の基礎的研究が重要と
なってこよう。
では地引分間絵図に関する記述がみえる 。
滋賀県では空襲や災害等の被害に見舞われなかっ
たことから県庁文書の残りが大変良好であり、県が
地籍図を作っていった過程を詳細に追うことができ
る。 しかし、それぞれの文書は長文のものが多く、
研究利用時に全文を引用することは困難である 。そ
②明治 5年 11
月22日 布 達324
号
「地所取調凡例書中野帳雛形ニ地価書キ加フ」
滋賀県が管下の各町村へ充てて一筆毎に地価を書
き加えるよう指示した布達である 。 しかし、実際は
地価の算出は地券発行事業では実施できず、地租改
本絵図」と ① よりも
正段階に行われた。「下絵図 JI
地図に関する具体的な指示が見える 。滋賀県では明
治 5、6年代に壬申地券地引絵図が作製されており、
れぞれの記述内容は地域が近代化 を模索しながら受
け入れた様子が詳細に記録されており、地籍図研究
に留まらず、税制史や土地制度史をはじめとした関
①②が地図の作製を 指示した直接の布達と評価 でき
る。
1 佐藤甚次郎『明治期作成の地籍図J古今書院 1
9
8
6
佐藤甚次郎『公図 読図の基礎』古今書院 1
9
8
6
③明治 6年7月29日 地引絵図裏書書体定ム
滋賀県が管下の各町村へ充てて 地引絵図の裏書の
114・人 間 文 化
明治前期地籍図に関する布達類
雛形を指示した布達である 。残存する壬申地券地引
内務省へ充てて滋賀県の地租改正事務掛の廃止を
絵図にこれに従った裏書が残ることがあり、 『
五箇
報告した書類である 。全国的に地租改正地引絵図は
荘町史j2でも実例が報告されている 。実見できた裏
修正・転用される傾向が高く、廃止以降の年紀が書
書の年紀はいずれも絵図面の年紀よりも遅れており、
き加えられることがある。本資料によって県内の地
村方からの提出時に記されたのではなく、官員の判
租改正地引絵図が作製された下限が明らかとなり、
定時に記されたものと推測できる。
これより下る年紀を持つ同様式の地籍図を模写図や
転用図と比定することができる。
④明治 8年 4月 13日 布 達 298
号
年 6月 10日 布 達 甲 62
号
⑥明治 17
「地租改正取調方人民心得書」
地租改正の実施にあたって、戸長をはじめとする
村方の手続きを規定した布達である 。 明治 6年 7月
「地籍編製土地調査手続ニ付 心得」
d
滋賀県が管下の各町村へ充てて地籍編成を指示し
2
8日の地租改正法公布を受けて、同年 1
0月には官員
た布達である 。政府からの地籍編成の指示は明治7
の手続きを規定した「地租改正取調方心得書」が出
年1
2月2
8日に出されたが、滋賀県では 1
7年まで遅れ
されたが、本布達の前文で「本年ヨリ管内村町一般
ていたことが本布達の前文に記されている。県内
1
8年に年紀が集中し、
地租改正着手」とあるように、滋賀県の地租改正は
の地籍編製地籍地図は 17年 ~
8年まで遅れた 。県内の地租改正地引絵図は 9年
1
2年に作製されており、本布達はこれを直接指示し
同達の布達番号が添え書かれていることが多く、本
布達は地図の作製を直接指示したものと評価できる 。
また、地籍編成の手続の詳細を記した条文に続き、
たものと評価できる 。
阪」、一
地種区分の凡例が続いており 「一筆限取調 l
⑤明治 12
年フ月 24
日
内務省申牒書
「地租改正事務掛相廃候付御届」
村全国と 字限図の雛形が添えられている 。 なお、 一
村全図と 字限図の雛形は以前 『
高月町史j3でカラー
で報告した 。
2
r
五 箇 荘 町 史 第 4巻 (
2
)
地名と景観 j 1
9
9
3 P
1
0
4~ 1
1
1
3 r
高月町史景観・文化財編分冊lJ 2
0
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3 P7
組事 (1給旦{作会j様{
作!
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1
倒
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J
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θEfq岡崎=ご図書検匝臨蕊凶器I;;?~!:~~~制E
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1 殺 皐 持¥ 罫:l8岡崎将霊長主将官日同制寝室 1
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講
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人間文化・ 1
15
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壱村限 リ第一番ヨ リ次 第二地所取調野帳へ雛形ノ通記載シ持主井戸長副戸長百姓代之請書取之可申事
第 三条
布 野帳ニ記セシ 番 号
高反 別等 地券下取調井読書 帳へ雛形ノ如ク
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可
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毎ニ地価ヲ為書載可申事
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合何十回何拾何 町何 反
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刷間総一
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川門之雑印
総 戸長
何之続印
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G
右 之 通 取 調 候 処 相 違 無 御 座候 以 上
第四条
地券之儀ハ地所 一筆 二 枚 宛 相 願 候 ト モ 又 ハ 数 ケ 所 壱 通 ニ 相 願 候 ト モ 持 主 ノ所置ニ応シ可申儀ニ付
響 ハ何番ノ団地ト何拾番ノ畑地ト合テ幾筆右壱 通ニ願度ニ而 右帳面ニ掛紙致シ明了ニ相訳リ候様可致置事
但他都他村ニ持地有之分ハ券書別通ニ相成候儀勿論之 事
第五条
地価之儀前々ヨリ其家 ニ持伝ヘ其価不相知分ハ従前作徳米ノ 多 寡 ト耕地之便 不便ト 地味之厚薄等ヲ考ヘ金
一円ニ付凡往米何升 当 リト相定其隣地又ハ近傍ニテ売買ニ相成候悶畑之直段ニ照準シ其価ヲ為定可申高下
共不相当之儀無之様注意可致事
二
。 .﹀BUHR
混一砂書道信欄醐図一円週刊可山明訓耐獄
但シ 一村中前々ヨリ売買無之村方右同様ニ相心得隣村井近傍村々之売買ニ照準シ其価ヲ相定可申事
第六条
社寺之除地検査相済候分入札為致地価相定可申若故障有之分ハ其趣県庁へ可申立事
第七条
元凹畑ニテ屋敷ニ相成元屋敷ニテ田畑ニ相成又ハ田畑成リ畑田成リ等現今之姿ニ改正可致事
第八条
往古 一村ニテ中古分村ニ相成其境界割然不致問畑山林等入交リ検査不行届分合村申付候テモ可然的テ右等
之場所ハ其見込ヲ付ケ県庁江進達可致事
附リ元別村ニ候共境界不明ニテ地所交錯検査行届兼候分是亦合村申付候テモ不苦縦今一村ニ候共地勢ニ
寄リ分村申付候儀モ不全口総テ後来ノ便宜ヲ計リ争論之基ニ不相成様注意シ篤ト実際ニ当リ其見込ヲ付本
庁江可申立事
第九条
開拓致候へハ物産富殖可致沃鏡之原野諸村入会ニテ故障有之夫カ為メ開拓難致分ハ其地所取揚ケ入札可為
致但シ入会村今ヨリ地所割譲之儀願出候ハ﹀其旨開届村々戸数ニ応シ地所割譲シ地価為相定可申事
第十条
村持田山多分有之右地所ハ村役人百姓代連名取調可申若シ故障有之分其趣申立可受指図事
第十一条
村境其外ニテ論所有之候場所吟味之上一不談新届候ヘハ其旨請書取之地券渡方ニ差支無之様取計可致格別入
組用掛之説諭ニテ承服不致分ハ早々県庁江進達可致事
第十二条
新開場ニテ高反別無之場所ハ反別相改地味ノ厚薄ニ応シ上中下 三等之石盛為致置可申事
第 十 三一
条
新開可致見込ニテ従前検地請致シ事故アリ其億二テ荒蕪致シ居候分請主相札シ地券渡方ニ不差支様取計可致事
第十四条
是迄質入書入ニ相成居候地所ハ地主金主双方取札シ地券波方不差支様取計可致彼是入組争訟致シ候ハ、其
旨 申立 可 受指 図事
但シ質入 書入之 地所取扱心得書ハ別段相渡候ニ付右 ニ照準 シ取計可致事
第十五条
従前高税之田畑ニテ買入無之持主之迷惑ニ相成候地所往々有之右ハ事実高ト取札シ相違無之分ハ無価之億
書出候儀不若但シ巨細取調書ヲ以可申立事
第十六条
地引分間絵図之儀ハ後年之証跡ニ相成候物ニ付一村限リ二枚宛 (一枚 ハ 県 庁 江 相 納 一 枚 ハ 村 方 ニ 備 置 ) 為
仕立可申併シ方今検見入其他繁雑中ニ付地所取調ト前後ニ相来候テモ不苦右村々之振合ヲ見テ指図可致事
右之通相心得取扱可致候此鈴遺漏之廉有之候節ハ其都度、冶可伺出事
壬申八月
滋賀県庁
②明治五年二月一一一一日布達三二四号﹁地所取調凡例書中野帳雛形二地価書キ加フ﹂
(
簿 冊番号/明い三 二 簿冊名/ 明 治 五 年 本 県 無 記 号 達 編 冊 五 整 理 番 号/三一一 四)
先般布告ニ及置候地所取調凡例書中野帳雛形ニ地価書キ加へ之儀無之候庭詮議之筋有之野帳 一筆毎ニ地価
書キ加へ候様更ニ相達候事
一、野帳井下絵図出来之上地所番号等引合セ相済候得ハ先ツ野帳ノミ至急可差出本絵図井下調帳之儀ハ後
﹀圃 uH4π・二寸
温法副回避謹鎖国一円週刊可制卦同潜
ヨリ引続キ差出候儀と可相心得事
一、今般村々境界相定リ候上ハ他村飛地我村内へ組込ニ相成候分見出之為野帳番号之方ニ朱ニテO印シ致置
可申事
一、本絵図之儀ハ後年確認之為メ裏書押印之上村々へ下シ置候品ニ付美濃紙ニ相認メ上半紙 二枚ヲ以裏打致
シ差出可申事
右管内村々江無洩至急相違候もの 也
明治五年壬申十 一月廿 二日
滋賀県令
③ 明治六年七月二九日
松田道之
地引絵図裏書書体定ム
(
簿 冊番号/明い四六
明治六年諸諜各事務諸出庁諸出張諸達簿
整理番号/一 四)
地券専務
地引絵図 裏書之儀 別紙之通 書体相定候条 此段相違候事
明治六年七月 二十九日
滋賀県令
④ 明治八年四月=ニ日
松田道之
布 達 二 九 八 号 ﹁ 地 租 改 正 取 調 方 人 民 心 得書﹂
(
簿 冊番 号/明 い 六 三 明 治 八 年 本 年 無 記 号 逮 編 冊四
整理番号/二 九八 )
本年ヨリ管内村町 一般地租改正着手ニ可及ニ付更ニ別紙地租改正人民心得書及頒布候条右旨趣ヲ熟知シ精駿
取調各村町成功次第野帳並ニ地位等級総計調書地引絵図等差出可申尤モ詮議之次第有之ヲ以テ当県昨七年十
4 及布達置候旨趣ニ基キ既ニ野帳成功相成候向ハ今般相違候 心 得
月第千 三百八十 二号ヲ以テ改正取調方心得 普
書ニ照準シ主意 ニ不戻分ハ其健存シ其増 加之箇条 ヲ補正之上 来ル五月十五 日限可差出候事
但シ明治六七年着手改正済之村 町モ 本文布達ニ準シ再調相受候儀ト可相心得事
右 管 内 へ 無 洩 至 急 布 達 ス ル 者也
明治八年四月十 三 日
滋賀県参事
箆手回安定
地 租 改 正 取 調 方 人 民 心 得書
第 一条
今般 地租改正 着手候ニ 付テハ地所其他取調方左之ケ条 ニ依テ鄭重精密ニ調査可致事
第二条
地所調査之儀ハ兼テ相違 置候 通落隠歩等無之様精車取調 可申万 一疎漏心得違之取調致、ン後日ニ至リ落地
隠歩等棺顕ル冶ニ於テハ欺隠回糧律ニ照シ御処分相成候条厚ク注意可致事
第三条
野帳之儀ハ別紙雛形之通地所 一筆毎 ニ詳細取調可致事
但当県明治七年 一千 三百八拾 二号布達ニ因リ巳ニ野帳成功相成候向ハ別段帳面仕立直シ候ニ不及収穫
米其外等下条ニ示ス通リ書加ヱ或ハ張紙致シ候共不苦調査済之上更正野帳清書可相違儀ト可心得事
第四条
地位等級取調之儀ハ正副戸長 地主銘々立会毎 地収穫之多寡 土地之使不便地味之 厚薄水田干損害之有無 ヲ参考
研究致シ 其実際之 地位ヲ八九 等拾等等以上ニモ相立野帳面 二記載シ且亦田 畑宅地共其等級限 リ区分シテ反
別地価収穫米金小作米ヲ 寄 セ 分 ケ 別 紙 雛 形 之 通 取 調 野 帳 面 ニ 相 添 可差 出 事
但地之便不便ヲ見ルニ居村近傍之使ナルハ云迄モ無之懸隔之地ト難モ却テ隣村人家ニ接続スル等ノ地アリ
二
∞ ・﹀週
MH4付
適法部盗護撤回一円湿叫が卦脳間輔副
如 斯 地 ハ 其 村 ニ 小 作 人 有 之 と き ハ 其 実 際 必 不 便 ト ハ 難 云 景 況 有 之 候 条 村 居 四 至 之 模 様 ニ寄リ厚注意可取調
自 然 不 都 合 之 儀 有 之 候 得 ハ 幾 懸 モ調直 シ 申付 候 間 無 益 之 手 数 不 相 成 様 精 密 ニ 可 取 調 事
第七条
小作地充米之儀精薮ニ可取調ハ勿論自作地ト難モ現今作人有之同位之地ニ比較シテ小作充米ヲ見積リ右例ニ倣
ヒ可取調事
第八条
地価之儀ハ右収穫小作地米金ヲ鄭重 取 調 之 上 其 実 際 ヲ 不 失 様 地 価 算 出 可 致 尤 モ 小 作 米 之 儀 ニ 付 テ ハ 当 県 明 治 七
年八月第千百八十七号布達之旨ヲ以小作人ヨリ証書取置候分官員派出之節ハ可及調査依テハ右収穫調ハ国ヨリ
小 作 米 貸 地 米 金 之 調 高 ハ 地 価 算 出 ニ 関 ス ル 事 ニ付若シ其調 高 之 少 カ ラ ン ヲ 欲 ス ル 等 ヨ リ シ テ 其 実 際 ニ 不 適 当 調
方 致 候 共 県 庁 ニ夫 々 検 査 之 方 法 有 之 候 ニ 付 其 不 都 合 之 ケ 条 ハ 逐 一 検 出 シ 詐 偽 之 儀 有 之 ト キ ハ 地 主 小 作 人 借 地 人
等取札之上規則ニ照シ 吃度 可 及 処 分 候 条 心 得 違 無 之 様 正 実 之 取 調 可 致 事
第九条
宅 地 一 筆 之 内 畑 地 薮 地 池 地 等 有 之 共 一宅 地 之 名 目 ヲ 以 一 縄 ニ 打 込 可 申 内 訳 ニ ハ 不 及 候 事
第拾条
墓地之儀一般無税 地 之 積 取 調 一己之所有タリト モ其区域ナシタル地ハ別廉ニ取調耕地中ニ散在有之墳墓ハ
一縄 ニ 取 調 其 反 別 外 書 ニ記載可致事
第拾壱条
先般地券取調之節野帳並地引絵図地所之順次ヲ以番号飛々ニ不相成様調査可致旨相達置候処中ニハ調査疎
漏 ニ 流 レ 不 都 合 之 絵 図 面 モ不 少 右 ハ 最 前 指 出 候 絵 図 面 ニ 不 拘 更 ニ 改 正 可 致 尤 縦 令 不 都 合 ハ 無 之 共 旧 地 引 絵
図ヱ記載之反別ト今般更正之反別トハ必ス多少トモ差異ヲ可生付テハ実地ト組師、ン永世之証拠ニ難相成依
テ 村 々 何 レ モ 更 正 可 致事
但絵図仕立方之儀ニ付テハ詮議之次第モ有之追テ実地調査相済候迄ハ裏打等不致其億二テ指出シ可申事
第拾弐条
薮 地 陵 地 草 生 地 小 柴 生 地 林 等 一ヶ年之徳益ヲ精密ニ取調可書 出 事
第拾三条
山 地 之 儀 ハ 野 帳 雛 形 ニ 照 準 シ 可 取 調 地 価 算 出 之 儀 ハ 立 木 等 算 出 致 シ 候 訳 ニ ハ 無 之 其 地 味 之 厚 薄 土 地 之 使否
ニ依テ 地位 等 級 可相 立 警 ハ 其 一ハ立木繁茂シテ且運輸便利之地或ハ開墾牧場等 ニ便 ナ ル 地 其 ニ ハ 樹 木 繁 茂
スルト雌モ運送良ヤ不便之地其 三 ハ小柴山ニテ採薪ニ便ナル地其四ハ険岨高山ナレ共耕地培養刈草之地其
五ハ樹木繁茂ス レ共其運輸之使更ニ無之其六ハ冗山時間萌徳益無之地生寸其実際ニ依テ等級ヲ定メ其等級ニ応
シ壱 町歩 ニ 付 地 価 何 程 ト取 調 反 別 服 書 ニ 記 載 可 差 出 事
但 反 別 不 詳 之 分 ハ 雛 形 ニ倣 ヒ 其 等 級 ニ 応 シ 地 価 可 取 調 事
右之通候事
明治八年四月十 三日
滋賀県参事
篭手目安定
⑤ 明治一一一年七月二四日内務省申牒書﹁地租改正事務掛相廃候付御届﹂
(
簿 冊番 号/ 明 、 つ 七 八 簿 冊 名/ 第 一種 官 省 申 牒 録 自 明 治 一 二 年 至 明 治 一 三 年
/整 理 番 号 甲 一 七 八 丁)
今 般 本 県 地 租 改 正 事 務 全 完 整 頓 候 付 該 掛 ヲ 相 廃 シ 地 券 及 ヒ 徴 税 土 地 ニ係 ル 事 務 ハ 租 税 課 ニ於 テ為 取 扱 候 条
此段御届仕候也
明治十 二年 七月廿四日
滋賀県令
内務卿
箆手目安定
伊藤博文殿
﹀而岨凶門会・ コ ω
置法制国道選撚国一円週刊﹃山伊当耐輔副
⑥明治一七年六月一O日
布達甲六二号﹁地籍編製土地調査手続二付心得﹂
(
簿 冊番 号/ 明い 一四 凹 簿 冊 名 / 明治 一七年本県甲号達天
整 理 番 号/ 甲六 二)
明 治 九 年 中 地籍 編 製 書 式 布 達 セ シ 以 来 追 々 調 理 ノ 上 達 セ シ 町 村 モ 有 之 候 処 其 巳 ニ 調 理 セ シ 町 村 ト難モ地籍
図ノ調整ナク其以後地種地目等ニ沿革アリテ現今ノ姿ニ異同ヲ生シ今ニ於テ既成ノ地籍ニ対スル図面ヲ調
整スル事難ク且編製ノ年度モ各町村区々ニ出テ冶 一様 ナ ラ ス 随 テ 全 管 ノ 地籍 整 頓 不 相 成 ニ 付 今 般 別 紙 ノ 通
調 理 手 績 更 定 候 条 右 ニ 準 機 シ 吏 ニ調 整 可 致 旨 布 達 候 事
明治十七年六月十日
滋賀県令能手回安定代理
滋賀県大書記官河田景福
地籍編製
土地調査手続
第 一条
地 籍 ハ 明 治 十 七 年 ノ 姿 ヲ 以 テ 一般編製ノ年度トス
第二条
別表書式ノ通町村ニ於テ調製スヘ キ種 目 ヲ 示 シ タ ル モ ノ ヲ 除 ク ノ 外 ハ 県 庁 ニ於 テ 之 ヲ 調 製 ス 、 其 町村ニ於テ
調 製 ス ル モ ノ ハ 明 治 十 七 年 一月 一 日 現 在 ノ 姿 ヲ 以 シ 地 籍 図 一向ニ進達スヘシ
第三条
該 調 理 ハ 都 テ来 ル 九 月 三十 日 ヲ 以 テ 整 頓 ノ 上 進 達 ス ヘ キ 期 限 ト ス
第四条
町 村 ニ 於 テ 調 整 ヲ 要 ス ヘ キ モ ノ ハ 更 正 野 帳 ニ 編 製 ア ラ サ ル 土 地 及 ヒ 更 正 野 帳 ニ編 製 シ ア ル モ 調 査 完 全 ナ ラ
ス 当 庁 ニ 於 テ 其 種 目 ヲ 識 別 シ 得 サ ル 土 地 即 チ 官 有 地 第 三種 民 有 地 第 二種ニ属スヘキ土地及ヒ 山林種別ナリ
ト ス 両 レ ヲ 其内 河川堤 塘 道 路 等 ハ 左 ノ 項 ニ 従 リ テ取調フヘシ
一 河川ハ砂磯ニシテ水ノ流通スル痕跡ノ存スル処ヲ以テ其幅員トス
一 溝渠等ハ其上一附ヲ以テ幅員 ト ス
一 堤 塘 ハ 河 川溝 渠 等 ノ 流 水 ヲ 防 ク 為 メ ニ 人 工 ヲ 用 テ 築 立 タ ル モ ノ ニ シ テ 其 現 形 ノ 敷 ヲ 以 テ 幅 ト シ其凹
畑ニ沿フ処ハ地券面ニ記シタル陛畔山産 地 ノ際ヲ界トス
一 道 路 ハ 現 在 敷 地 ト成リタル 処 ヲ以テ其幅トシ並木敷アルモノハ道路トノ区別ヲ立テ各別ニ取調フヘ
シ其田畑ニ沿フ 処 ハ地券面 ニ記 載 シ タ ル 畦 畔 崖 地 ノ 際 ヲ 以 道 路 或 ハ 並 木 敷 ノ 界 ト ス
第五条
堤 塘 ニ シ テ 道 路 ヲ 兼 ル モ ノ ハ 堤 塘 ニ組 込 ム 道 路 へ 組 込 ミ ニ 及 ハ ス 溝 渠 等 ニ 沿 フ 道 路 ニ シ テ 堤 塘 ヲ 兼 ル モ ノ
ハ各其主タル方へ組込別ニ堤塘ノ形アラサルモノハ道路ニ組込ムヘ キ ハ勿論タルヘシ
第六条
湖沼河 川等 ニ沿 フ 官 有 地 ニシテ 地 租改 正 ノ 際 其 町村 ノ更正野帳等 ニ編入シア ラサルモノ往々之 レ有 リ此 等
ノ土地ハ平常水ノ浸サ、ル処ヲ以テ界 ト シ 各 其 地 目 ニ 従 リ テ取調フヘ キ モノ ト ス
第 七条
第 一表ニ記載スル 処 ノ土地ハ其町 村 ノ地順 番 号 ニ 組 込 ム ヘ キ モノト ス
但道路河 川溝 渠 堤 塘 ノ 類 ハ 各 一一線毎ニ 一筆 ト スへシ
第八条
第 三表 民 有 山林 ノ 種 別 ハ 曾 テ 定 メ タ ル 土 砂 粁 止 流 域 内 ノ 各 村 ハ 本 表 調 製 ス ル ニ及ハス
第九条
町村 ノ境界線 屈 曲 等 ノ 要 所 ニ ハ 接 続 町村 戸 長 立 合 ノ 上 境 杭 ヲ 建 設 シ テ 境 界 ヲ 輩 固 ニシ地籍図 ニモ 接 続 町村
一
戸 長 及 総 代 二 名 以 上 ノ 連 署 ヲ 要 ス ヘ シ 其 国 界 ニ 係 ル モ ノ ハ 接 続 村 戸 長 及 ヒ 総 代 二名 以 上 ノ 証 明 書 ヲ 取 リ凶
面ニ添付進達スルモノ ト ス
第十条
-N0・﹀週 uH4付
温厳罰通信掛図一円週刊﹃山明書脳獄
字ノ番号ヲ附シ図中 ニ記入スヘシ)及ヒ総図ブ調製スヘシ尤官民有地
地籍図別紙雛形ニ準拠シ町村一字毎 (
格別ノ色分ヲ為ニ及ハサルモノトス
但其体裁ハ地租改正ノ際調製シタル 等 級縮図ニ準ス
第十 一条
前途地種地目ノ変換等ニ由リ地籍更正ノ方法等 ハ別ニ之ヲ定ムヘ シ
第十 二条
今般調整スル表及ヒ図面ハ必ス 二部宛ヲ調製シテ 一部ヲ当庁へ進達シ 一部ハ其町村ニ備置クヘシ
凡例
池ハ養水溜悪水溜砂溜等ヲ包含ス
溝渠ハ掘養悪水路等河 川ニ アラサル水路ニシテ湿抜 ト称 スルモノ等モ亦包含セリ
雑木林竹林ハ団関或ハ堤外等ニ有リテ未タ官林表ニ組込アラサルモノヲ云
原野ハ従来其名称アル土地ニ限ルモノトス
旧跡ハ古史等 ニ伝ハリテ世間ニモ伝称セル土地ナリ (
古戦場古城跡等 ヲ云 )其社寺地等ニ係ルモノハ本
表 へ載スルニ及ハス
堂{
子敷灯箆敷ハ社寺 ノ外ニ於テ点在スルモノナリ
塚ハ旧 一里塚或ハ石塚等 ノ現在存スルモノナリ
第三表ノ山林種別ハ山林ノ 景況ト所有者使用ノ目途トヲ参酌シテ之レカ別ヲ立ツヘシ
第 一表第弐表ニ騰記シタル地目ノ外ナル土地 (
官有地第 三種ノ内宮林表へ編入アルモノ及ヒ民有地第 二
種ノ内郷村社地ヲ除ク)アヲハ各地種ニ従フテ該表へ騰記スヘシ
林
積
村町
可
イ
表
郡 調
限
筆
可
イ 取
地
目
林
敷
方
目
種
地
第
地
木
井
何
j
畢
沼
池
渠
1
茸
畦
畔
竹
雑
戸
官
有
号
表
番
F
千
.
L
,
第
本表ハ半紙形罫紙ヲ用ユヘシ
※後ろに同様式の表で以下の地目が続くが省略した 。 ﹁波除敷・船入場・物揚場・物置場・附寄洲・道路・並
木敷・堤塘・土手敷 ・掲 示場・牧場 ・原野・荒蕪地・草生地・菅一生地・康生地・旧跡 地 ・消毒所・堂宇敷・
灯箆敷・火葬地・墓地 ・古墳・塚・融商牛馬捨場・塵捨場・行刑場
﹂
※第 二表は ﹁
筆取調帳﹂であり、同様式の 表 で。
地目は ﹁
池・溝渠 ・井戸敷 ・堤塘・道路・
民有地第 二種地目 一一
土取場 ・石捨場・掲示場 ・火葬場・墓地・銘牛馬捨場・塚 ﹂ が示されている 。
※第 三表は ﹁
雑木山・芝草山・務称 山・ 石祈 山・砥 石山 ・
民有地第 一種山林種別 一筆 限取調帳﹂で、同じく ﹁
﹀圃 H門
会・
4N ↓
銅山・ 鉛 山 ・録饗 山・満俺 砿山・ 用材林・雑木林 ﹂ の地目が示さ れてい る。
持 耳軒納品轟全圏
d
ア
北
V仁¥
ヘ7
仁
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以
同
叩何 州 何 森 山 十 刊
之
硝子石 山
国
石灰 山
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銀
山
温い
砂制国道器棚附図一円温叫制
浴車
品事母世府買ム骨 ρw
ヘ
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明孔臨旦士、官宥比
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一mm・﹀圃 uH4
付
守華 b T 7久
74
(滋|翼|黒|φi警|盲|芋l~.l
鐸
1d近江に点けぷ古代官選に周すQ調査・研究の
l
J
l
枕と課題
イ 之
内 田 呆
制)滋賀県文化財保護協会 主任
1.はじめに
石山・瀬田間で瀬田川 を渡る。そこから更に北上し、
古代官道に関する概説書をひもとくと、大概の書
草津に至る経路をとる 。 ここまでは東山道との併用
にはその 冒頭部分に、「それまで駅路というものは
道となっている 。そこで従来問題となっているのが、
踏み分け道を若干整備したような曲がりくねった道
東海道がどこで東 山道と分岐したかということであ
9
7
0年頃より道
であったと考えられていたものが、 1
る。主に 三つの説に分かれる 。 1説目は、足利によ
幅も広く、目的地問を直線的に結ぶ高い 言I
"
I
面
性
を
る旧説で 2、守山市街地付近で分岐し、条里地割に
もって施行されたことが明らかとなってきた 」
。 と
いうような内容の文が記述されている 。
沿って栗東市伊勢落に至るというものである 。根拠
近年まで、実際に発掘調査に携わる調査担当者レ
ベルにおいても、古代官道に関する認識は、 一部古
として、地形的に伊勢落を通過することは間違いな
く、条里の坪界線にものること、更にライン上に沿っ
代道路の調査に携わ った者や研究対象としている者
て「小大道 J["下小大道」の小字があることがあげ
られている 。 2説目は栗東市手原に存在する東西道
9
9
0年代
を除けばそれほど高くなか った。 しかし、 1
以降、相次いで駅路をはじめとする道路跡が各地で
路(近世東海道)に注目し、この東西道路を西へ延
引した位置を分岐点とする 30 3説目は草津市矢倉
発掘によ って確認され、研究者の努力もあり、現在
付近で分岐し、岡市青地町まで東進する 。そこで方
では大半の調査担 当者に 「
古代官道は幅が広くて、
直線的である 」程度の知識は浸透するようになった。
。
向を北東にかえ、手原の東西道路に至るというもの
冒頭に記した ような文も、研究者・調査担当者 レベ
ルにおいてはその役割を果たし終えたのである 。
そこで、本稿ではさらに古代官道に関する認識を
である九現在では、草津市から架東市にかけての
郡街および官街的色彩の強い遺跡の立地 5、草津市
域の複数の遺跡を東西に貫く道路跡、の可能性も考え
られている大構造構の存在 6、栗東市で検出された
至敦賀
深めていただくためにも、近江国内における官道 (~R
路を中心に)について、既往の研究・調査事例を概
観し、諜題を明らかにしていきたい。 この小文が今
後の調査・研究を行うにあたっての参考になればと
思う 。
2
. 駅路研究抄史と問題点
e
LH
宝山科
は、前述した足利の官道体系の論考を除外すると、
文献史学・歴史地理学 ・考古学を問わず、その研究
は各駅路ごとに行われてきた。そこで以下駅路ごと
fノ 北 縫 道
線道路の想定については足利健亮によって早い段階
から検討が行われている 。 さらに氏は、近江囲内の
3道を中心とする 官道について体系化し、その変遂
について整理をおこなった I。近江国内の駅路研究
,
ク1 l 、
i/
ja/¥113r
、¥
、
/ー
e
史地理学的考察による直線道路の想定、遺跡からの
考古学的考察 という順に行われてきた。中でも、 直
LA
f
海道を加えた 3道が国内を通過することとなる 。駅
路の研究は他国同様、駅家の位置比定に始まり、歴
、
-k
﹁i
近江国は、畿内と東国の接点に位置するため、奈
良時代には東山・北陸の 2道が、長岡京期以降は東
に研究史を記述する 。
(
1
)
東海道
7
8
4年の 長岡京選都以降、近江国内を通過するこ
ととなった東海道は、山城固から逢坂山を抜けた後、
琵琶湖が存在するため、大津市域をいったん南下し、
図1
人間文化・ 1
23
│
滋│
賀│
県│
の│
考│
古
│
学I
@
I
i
皮板状凹凸遺構や東海道の側溝の可能性を持つ j
誌の
ならば、なぜ恵美押勝は逃走経路に使わなかったの
存在 7から 3説目が最も有力となっている 。
か。②大規模な勢多橋の存在。①勢多駅の推定遺跡
甲賀郡を通過する東海道は「倉歴道」と 「
阿須波
『 日本書紀』天武天皇
道」の 2ルートが存在した。
である堂ノ上遺跡が、勢多橋と近江国府をつなぐ東
西道路上に面していること 。④山背から近江へ至る
6
7
2)年 6月2
5日条の f
(前略)到積殖山口、高市
元(
皇子自 鹿深越以遇之 (
後略 )
Jに相当するルートが「
倉
歴道」で、具体的なルートの復元はされていないが、
経路で、宇治山科を詠んだ歌が万葉集に多く載せら
J
R
草津線に近似する道筋をと っていたものと考え
られている 。
8
8
6)年 5月 1
5日条に 「検近江
『
三代実録j 仁和 2(
国新通阿須波道之利害」、同年 6月2
1日条に 「伊勢
斎内親王応取近江国新道入於大神宮、の下伊勢国、
又停伊賀国旧路頓宮、下伊賀国知。
」 とあり、伊勢
斎内親王の群行ルートの変更が行われた。駅路もほ
ぼこの頃に 「
倉歴道 Jから「阿須波道」に移行した
ものと考えられる 。 この 「阿須波道」ルートは、甲
西町朝国付近で先の「倉歴道」 と分かれ、水口町・
土山町を経て伊勢固に至るもので、近世東海道はこ
のルートをほぼ踏襲する 8。 甲賀市水口西部を通過
する阿須波道ルートを検討した畑中英二は 9、北脇
れているのに、宇治田原経由の歌枕がないこと 等が
挙げられている 。 しかし、どちらの説とも決定的な
ものがないのが現状である 。
近年この田原道と推定される道路遺構が大津市関
津 5丁目に所在する関津遺跡で検出された 13。注目
されることは、ここで見つかった道路の幅員で、側
溝の心々距離が 18mある 。 これまで確認されている
地方における駅路などの幅員が最大でも 12m前後で、
あるのに対して、 6mも広いものとなっている 。 こ
の18mもの幅員を有する道路跡が、この地に敷設さ
れた理由として金田は、保良宮にお ける京の建設の
可能性をあげる 。 関津遺跡がその京域内に含まれ
たことから、 18mもの道路が造られたと推定した 140
関津遺跡で田原道と考えられる道路遺構がみつかっ
たことで、田原道=東山道説がクローズアップされ
た観があるが、山科経由の道路が見つか っていない
遺跡で検出された遺構の主軸方位が条里地割りを斜
行して通る近世東海道と同方位をとることに注目し、
現状では、比較することもできず決定的なものとは
近世道が古代ルートに遡ると推定した。 また、倉歴
道と阿須波道について多方面より検討し問題点の整
言えない。最終的には沿線上に設置されたであろう
駅家の確認によってなされるべきである 。
理を行っている 。
(
2
)
東山道
足利は、条里地割に合致する近世中 山道の直線区
間に注目し、それらを結ぶ線として東山道ルートを
復元した 10。その後、近江国の東 山道を研究するも
のにとっては、必ずこの足利説を検討することから
始まるほど、影響力を残した復元案である 。説得力
に富む復元案であるが、 一部疑問が提示されたもの
もある 。 まず、第 1点目として山背国 ・近江国間の
奈良時代ル ー トの問題である 。つまり、東海道の項
で述べた逢坂山経由で入札瀬田川 を渡る経路をと
I
I
Jを経由して近江国に入る 「田原
るか、宇治田原/
道」をとるかである II。後者の論拠として、①天平
1
2(
7
4
0)年の聖武天皇巡行経路における宿泊地点の
7
6
4
)年におきた恵美押勝
距離関係。②天平宝字 8(
の乱での追討軍のとった「田原道」の記載。①この
道が平城京から近江国への短捷路であり、瀬田 川 (
字
治川 )を渡らなくてすむという点にある 。 これに対
し、前者の説をとる研究者は幾つかの間題点を指摘
している 12。①悶原道が官道で、短捷路であったの
124・人間文化
第 2点目として、野洲郡のル ー トである 。足利の
推定ルー トで、野洲郡だけが唯一条里地割に沿って
いないのである 。 これに対し、山尾幸久は、中主町
西河原周辺の諸遺跡の動向から、この西河原一帯は
「馬道皇 Jであり、評家も設けられていたとしてい
る。 さらに、大津市南大萱町、草津市芦浦町付近一
帯、守山市赤野井町に所在する諸遺跡の動向も加え、
6・7世紀にはこれらの遺跡を結ぶラインが「官道」
的に、また早馬道として使われていたとし、足利説
のルートは 7 ・8世紀の交に成立したものとしてい
る15。 しかし、この山尾説の場合、湖岸付近に立地
する遺跡を単に線で結んだため、地形を考慮してい
ない点で疑問が残る 。畑中は、 7世紀後半代を中心
とする湖岸部に立地する瓦出土遺跡の分布から、こ
れらの遺跡を陸上交通と湖上交通の接点、つまり港
湾施設など拠点施設の存在を推定している 16。一方
、
高橋美久二は、東 山道の草津一守 山ラインの延長線
上に条皇余剰帯が存在することから、そのまま直線
で野洲郡条里に沿って西河原に向かい、その後、野
洲郡と滞生郡の郡界付近で東へ折れて、竜王町鏡ま
│
滋
│
賀
│
県
│
の
│
考
│
古
│
学I
m
l
写真尼子西遺跡推定東山道跡(都方面から美濃方面を望む)
たは安土町老蘇付近で、足利説に合流したと考えて
いる 17。起点の違いはあるものの、西河原遺跡群を
繋がるラインを道筋とした 19。 しかし高橋説におい
経由する点で山尾説・高橋説は一致 している 。 この
生郡条里と同 一方向をとり、さらに蒲生郡内の推定
て、北町屋以南の近世中山道の直線区間が、何故蒲
野洲郡を中心とするルートの問題に、琵琶湖東岸地
ライン延長線上にあるのか、神崎郡衡に想定されて
域における水陸ネットワークの形成過程との関わり
いる大郡神社周辺の地割が条里地割とは異なり、北
という新たな視点で分析を試みたのが辻川哲朗であ
町屋以南の中山道に面するように広がっていること、
る18。地形的条件・水路遡上限界点との接点との関
郡衡と推定される大郡遺跡や堂田遺跡がこの中山道
わりから考察を加え、足利ルートが条件に適してい
に沿って展開していること、さらに北町屋以南の近
るとして賛同した。 さらに。律令期以前の遺跡の動
世中山道重複区間において、東山道の側溝とみられ
向もふまえた上で、東山道の公定・整備以前の段階
る溝が検出されている 20、などについて説明はなさ
において、すでに扇状地末端部に、南北方向の陸路
れていない。
が形成され、それを基盤として官道としての東山道
は設定されたものと考えた。
第 4点目として、米原町内のルー トが挙げられる 。
足利は、近世中山道の道筋である磨針峠越をそのま
第 3点目として、蒲生郡・神崎郡の君1
界付近のルー
ま古代に遡るものとしている 。その理由として、鳥
トである 。足利は、蒲生郡条里の坪界線上に推定し
居本から下矢倉と直線で北上する中山道をそのまま
たラインを、神崎郡内に入っても五個荘町北町屋付
延長させて米原を指すのが、古代道として合理的に
近まで延長させ、そこで屈曲させている 。 これは中
みえるが、その先には入江内湖が山裾に接していて
山道の直線的道筋が古代道を踏襲したものによると
通過が困難で、あるためとする 。 しかし、入江内湖内
考えたことによる 。 これに対し、五個荘町内の条皇
の遺跡が縄文時代から平安時代後期まで見られるこ
余剰帯を確認した高橋は、郡界である徽山と箕作山
の狭院部を抜けた位置で東山道は屈曲し、箕作山の
とから、後にみられる入江内湖の形成時期は、 1
2世
紀末頃と考えられている 21。そのため、足利説の最
山裾を通り、北町屋以北の東山道ルート上に直線で
大の根拠は成立し得ない。磨針峠越ルートをとるか、
人間文化・ 1
,
25
│
滋
│
賞
│
県
│
の│
考
│
盲│
学
!
@
!
R東海道本線に近似したルー
そのまま北進させて、 J
都・滋賀聞の「…越」と呼ばれる間道に注目した松
トをとるか、再検討を要する 。 なお、鎌倉時代のこ
浦俊和は、いずれも古道の合流点付近などの要街地
12
5
2
)年の記事によ
ととなるが、『吾妻鏡j建長 4(
に立地することから、古道の起源や大津宮とも関連
0日に四十九
ると、関東下向する宗尊親王は 3月2
した寺院の成立や性格を論じている お
。
院(
犬上郡豊郷町)を経て箕浦(米原市)で宿泊、翌
2
1日の昼には野上(岐阜県関ヶ原町)へ至っている 。
りから道代を抽出し、大津宮を中心とする地割り計
この経由地を地図上に落とすと、磨針峠越ルートを
とったと考えると不自然な軌跡を描く 。つ まり、磨
針峠から番場を経て天野川左岸へ出たところで、東
また、吉本昌弘は錦織・南滋賀周辺における地割
画ならびに北陸道ルートを想定したお
。
志賀町域についても条里地割が認められない和遁
以北については、近世街道とそれにスムーズに連続
へ向かわず、天野川の右岸に位置する箕浦へ北西方
向へ進んだ、こととなる 。逆に磨針峠を越えず、国道
する現在道をつなぐ想定ラインにすぎない九
やJ
R線と同じルートで進んだと考えると、この軌
跡の不自然さは解消される 。ただし、この場合も箕
いはあるものの、安曇川下流平野に広がる条里地割
に沿って北上したとみることについては、見解は一
浦へは天野川を渡らねばならい。つまりどちらの
ルートでも東山道は天野川の左岸を通過すると考え
致している 28。 この高島郡内におけるルートで見解
られるため、箕浦で宿泊する ことによ って、どちら
4(
7
9
5)年 7月2
6日条 「遺左兵
②『 日本紀略j 延暦 1
衛佐橘入居検近江若狭両国駅路j と同年間 7月1
7日
のル ートをと っても 2度天野川を渡らねばな らない
ことになる 。箕浦宿泊については、東山道のルート
高島郡に入った北陸道は、推定ラインに若干の違
が分かれるものが、 ①若狭路の分岐点とそのルート 。
8
3
0)年
条「廃駅路」の記事と 『
類衆国史j 天長 9(
6月 8日条「越前国正税三百束、給作彼国荒道山道
とは別の理由を考える必要があろう。
以七が足利説とそれに対する主な疑問点であるが、
いずれにしろ決め手に欠けているため、今後、これ
人坂井郡秦乙麻日」の記事による近江・若狭・越前
間の新道とそれに伴うルートの変更という 2点であ
らの点を踏まえた発掘調査の成果が期待される 。
る。 まず 1点目の若狭路に関しては、おもに 2ルー
その他、官術遺跡や寺院跡などの遺跡の立地と関
連させて論考したものがある 22が、推定ルートはい
ずれも足利説をベ ースに用いている 。
東山道のル ートは神崎・愛知・犬上郡にお いて、
主条里方向と同じ北から東へ 3
3度傾いて直線で敷設
されている。この位置に選定された理由であるが、
この直線の北東方向延長線上に伊吹山が存在してい
ることが注目される 。伊吹山は近江と美濃の国境に
あり、 美濃方面へ向かう直線道路を設定する基準と
しては相応しい。群馬県でみつかっている東山道と
される道路遺構も、上野・信濃国境にある浅間山を
目指して敷設されており、国境にあるひときわ目立
つ高い山が、道路選定にあた って重要な役割をもっ
ていたと考えられる 。
(
3
)
北陸道
山城国からのルートは他の 2道とは異なり、逢坂
トが想定 されている 。 1説日は、 今津町弘川で分岐
する近世街道のルートを古代まで遡らせるもの。 2
説目は、高島町勝野もしくは音羽付近に 三尾駅を想
定し、そこから分岐して泰 山寺野台地・饗庭野台地
を横切り今津町追分で前者に合流するものである泊
。
勝野は恵美押勝の乱の記事に見える「勝野鬼江」、
r
延喜式j主
若狭の調腐物を運び込んだ「勝野津J(
税上)であり、湖上交通の重要な拠点である 。若狭
からの荷物を陸路で最も近い今津に出さずに、距離
的にも遠い勝野津を利用していることから、こちら
が最も整備された道、つまり駅路であるとの考えも
成り 立つ。一方、同じ 『
延喜式』主税上にみえる 「
塩
津」に至 る道が駅路ではなく、越前以北の北陸道諸
国の荷物を運ぶ陸路で、あったことを考え合わせると、
後者ルートも駅路とは別道であったと捉えることが
できょう 。 しかし、遠距離の勝野津をわざわざ利用
山越ではなく、山科区四ノ宮から 三井寺の南へ抜け
る小関越をとるものと考えられている 凡 なお、こ
の小関越ルート上には 「
車路町」地名が存在し、北
2点目に係わるルートとして、① aマキノ町石庭
付近に想定する靭結駅から同町小荒路を経て、敦賀
陸道に因む地名と見られている ヘ
大津市域ではその具体的なルートの検討もあまり
なされていないが、大津市域の白鳳寺院の立地と京
市へ至るルート 。① bマキノ町海津から敦賀市へ抜
ける、七里半越ル ート 。②石庭から同 町白谷を経て、
黒河川の谷を下る白谷越ルート 。③前述した今津町
126・人間文化
する理由が問題となる 。
|滋|賀|県|の|考|盲|学I~I
弘川経由の若狭ル ート で若狭に入札そこから越前
に至 るルートである 。 この 4ルートの内、どのルー
国側のルートも明らかとなってくる 。 9世紀初頭以
トからどのルー トへ変更し、 「
荒道山道」とはどれ
前の北陸道ルート解明の上では欠かせない遺跡であ
をさすのかが争点となっている 。木下良は② を 「荒
道山道」 と考え、 ① から② への変更説丸 山尾は①
り、今後愛発関を解明する調査研究に期待したい。
以上が近江国内の駅路の研究史と問題点であるが、
bを 「荒道山道」 とし、 9世紀初頭に②から① bへ
この 3道以外にも史料上にあらわれる交通路があり、
とルー ト変更したとする 31。 これに対し足利 32・金
遺跡の分布からも交通路が想定される 。
(
4
)
その他
延
田章裕33らは、若狭国の奈良時代駅家の位置と、 『
喜式j 所載の駅家の関係から、奈良時代のルー トは
③であり、 8世紀末に①へと変更したと考えた 。 こ
の場合、 三尾駅の次駅を新旭町美悶遺跡から今津町
ひろかわ
弘川遺跡;あたりに想定している 。
よこの愛発関の場所が明らかとなれば、必然と近江
『
続日本紀』天平 1
4(
7
4
2
)年 2月 5日条に「是目、
始開恭仁京東北道、通近江国甲賀郡。」とあり、恭
仁京から甲賀郡へ道が通じていたことが知られてい
筆者は以前、高島郡の北陸道に関するこれらの問
題について論じたことがある 担
。 若狭路の分岐点と
る。
この恭仁京東北道の行き着く先の紫香楽宮、その
紫香楽宮推定地の南に位置する新宮神社遺跡より 2
そのルートについては、高島郡内の港津の成立やそ
条の道路遺構が見つかっている 。道路 1とされるも
の立地と 『
延喜式j・木簡等の史料類をつきあわせ
8mの規模を持ち、並
のは幅約 12m、道路2は幅約 1
行するように検出されている 。調査者の畑中は、両
ることで、若狭路が弘川で分岐する説は成り 立ちが
たいことから、 三尾駅から分岐して泰山寺野台地・
者は併存し、恭仁京東北道の一部と捉えている 針
。
饗庭野台地を横切るル ート を支持した。足利・金回
によ って唱えられた奈良時代の北陸道ルートについ
前述した塩津・敦賀問のル ート は
、 『
万葉集 j 巻
第 8におさめられた笠朝臣金村 の歌より、 8世紀前
ては、 『
続日本紀J藤原仲麻呂の乱の記事 の解釈に
より、このルートが奈良時代における北陸道の唯一
葉ーにはすでに存在したものと推測されている 。ルー
のものではなく、近江から越前へ到る本道と、 高島
トとしては塩津より深坂越で敦賀市追分に至 り
、 7
里半越ルートに合流する お
。
郡内で本道から分かれて若狭国府へ到り、そこから
さらに越前へ向かい敦賀郡で本道に合流する周囲路
ともいうべき支路が存在したと考えた。近江・越前
間のルートも ① aマキノ町石庭付近に想定する納結
駅から同 1汀小荒路を経て、敦賀市へ至 るルートと想
定した 。
これら駅路ルートの最大のポイントとなるのが越
前愛発関の位置である 35。その想定地として、 ① ルー
トと塩津道の合流点である敦賀市追分、その北に位
置する岡市疋田、敦賀平野南東部の岡市道ノ口があ
る。いずれも ① ルー ト上の想定地である 。①ルート
ノハ¥、
、
、fJJ
〆
小、
説では敦賀平野南西部の岡市関に愛発関を想定して
いる 。愛発関は大同元 (
8
06
)年の固関の記事を最後
に史上にあらわれなくなるため、ほどなく廃止され
たものと考えられている。この愛発関について論じ
た舘野は 36、伊勢鈴鹿関や美濃不破関と比較した上
で、愛発関も大関 ・小関の複合的構造をと っていた
ものと捉えた 。そして、奈良時代の北陸道メインルー
トを若狭経由の① とし、このル ー トが通過する若狭 ・
越前国境の敦賀市関に大関が、近江 ・越前国境の敦
賀市道ノ口に小関が設置されたとする 。いずれにせ
f
¥
伽羽
旨
ー
ー
ー
ー
ー
ー
ー
ー
ー
ー
か¥
図 2 尼子西遺跡の東山道跡
人間文化・ 127
│
滋│
賀│
県│
の│
考│
吉
│
学I
ml
『日本文徳天皇実録j 天安元 (
85
7)年 4月2
3日条に
よると相坂とともに大石・龍華に関麹jを始めて設置
.
4mを測る南北方向の道路状遺構も検出され
幅員 2
した。相坂は東海・東山道上の 山城との国境に設け
ている 。
られたいわゆる逢坂関である 。大石関の位置は、大
津市田上関津町 もしくは大石に推定され、北へ向か
えば近江国府、南東へ向かえば信楽を経て伊勢園、
の可能性が指摘さ れている 。 また、 これに直行する
やぐらぐち
矢倉口遺跡(草津市東矢倉3丁目)桔
坊主東遺跡の東に位置する矢倉 口遺跡は、 I町四
龍華
南西へ向かえば山城国というル ート 上にある 。 i
方を溝によって区画した建物群や柱筋を揃えた倉庫
関の位置は、大津市伊香立上龍華 ・下龍花付近に存
在したと推定され、平安京から八瀬・大原を経て北
群をはじめ多くの南北方位をとる建物跡、が検出され
上する若狭街道と、琵琶湖西岸を 北上する 北陸道を
結ぶ龍華越と称される道路上に位置する 39。 なお、
ている 。出土遺物も転用碗、 二彩陶器、木沓、槍扇、
物差し等や、鋳型、鋳造炉片、とりべ、よ甘楠とい っ
た金属製品の製造に係わる遺物があり、 官営工房的
北陸道 との交点付近は和遁駅の推定地となる 。
0-24m、
な遺跡、と考えられている 。 ここでも幅員2
長浜 城 下 I
I
I
Jの形成を分析した秋田裕毅は、米
原一木之本聞の北国街道は近世の所産であり、それ
.
8
mを測る大溝状遺構が検出され、底面には
深さ 0
波板凹凸様の不定形土坑が見られる 。
以前は番場 (
米原町)一箕浦 (
近江町)一宮 司 (
長浜
市)一国友(長浜市)一伊部(湖 北町)を通過し、以
岡田追分遺跡(草津市追分町)崎
北は北国脇往還のル ート をとった とし、古代まで遡
りうるものと推測している 40。 なお、このル ー ト上
おかだおいわ1
1
矢倉口遺跡の東に位置する岡田追分遺跡は、奈良
の長浜市大東町 と室町に互いに接して 字「作道
」 が
存在している 41。
0
棟以上検出されてお
時代から 平安時代の建物跡が6
り、中でも平安時代前期が中心時期となる 。建物の
方位は、概ね正方位を指向 している 。検出された東
岐阜県関ヶ原町に小関という 地名があり、後の北
西方向の大講状遺構は、幅 員約2
3m、深さ 0
.
4
mを
国脇往還ルート上に位置することから、不破関 (
大
関)に対する小関が設けられていたことに因む地名
とみられている 。北国脇往還沿いには、国境近くの
て句ばやし
伊吹町寺 林遺跡;42の奈良 ・平安前期の集落跡や浅井
やしま
町八 島廃寺 43とい った古代寺 院がみられる 。
『 日本
書紀j 天武天皇元年 8月に壬申の乱 における処罰 と
して、右大臣中臣連金を「浅井田根j という場所で
斬っている 。 この地 こそ、先の 旧北国街道と北国脇
0世紀前半の遺物が出土している 。
測り、埋土中より 1
また、底面には波板凹凸様の不定形土坑が見られる 。
小宮猛幸は、坊主東遺跡・矢倉 口遺跡・岡田追分
遺跡で検出された大溝状遺構について、 一連の遺構
と判断し、東海道のル ート としてこの大講状遺構が
走る地帯が想定されていること、波板状凹凸遺構が
みられることから道路跡の可能性が高いとして い
る。
往還の交点にあたる 。 これらの ことから 北国脇往還
のルートも古代にまで、遡る可能性を持 っている 。
柳遺跡 (
草津市青地町)47
3
. 県内の古代道路遺構
1
3世紀に埋没する流路や沼沢地状の落ち込みが検出
や匂ぎ
東海道推定ル ート 上で発掘調査が実施されたが、
次に県内で発掘された古代の道路遺構について概
観する 。
(
1
)
東海道
され、道路遺構は確認できなか った。ただし推定位
0mほどずれて 1
1世紀末以前に機能していた
置から 2
と考えられる溝が 1条、推定ルー トと近似する方位
で検出されている 。
東海道南東側溝の可能性も含め、
坊主東遺跡 (
草津市矢倉 1
丁目)叫
東海道方向の規制のもとに開削された可能性が指摘
されている 。
丘陵最先端部に立地する奈良時代から平安時代を
中心とした遺跡で、東山道と東海道の分岐点付近に
上鈎遺跡(栗東市上鈎)咽
"う
V
ひがし
あたる 。幅員 2
1m、深さ 0
.
5mを測 る東西方向の大
溝状遺構が検出され、底面には波板凹凸様の不定形
土坑も見られる 。 この大講状遺構については道路跡
128・人間文化
釦みまがり
.
2-0
.
3
mを測 り、東に約 51
度傾
幅約 1m、深さ 0
く方{立をとる講 (
S
D
5
) 1条が検出さ れ
、 埋土中か
らは奈良時代末から平安時代初頭の土器が出土して
│
滋│
賀
│県│
の│
考│
古│
学I
m
l
いる。栗太郡主条里とも周辺でみられる正方位建物
ことなどから、道路跡とした場合、路面は底面もし
とも方位が異なることや東海道の推定ル ー トに近い
くはその直上にあったとみられている 。出土遺物よ
ことから道路側溝の可能性が指摘されている 。
3世紀にかけて存在したと考えられて
り9世紀から 1
いる 。幅員の規模や南への延長線上における痕跡地
しもまがりひがし
下 鈎 東 遺跡 (
栗東市上鈎)咽
割の存在、推定ル ー トへの接続などから東山道跡の
S
D
5
)の延長線上にお
上鈎遺跡で検出された溝 (
可能性が高いとしている 。ただし、他の草津市内の
T
l
i1
.5m、 i
奈さ約 0.
5mを測る j
葺(
SDl)が検出
いて、 I
大溝状遺構にも言えることであるが、遺構内から路
面が検出されてないこと、溝状に掘り窪めることで
道路としての機能が果たせるのかといった疑問が残
された。この溝は、正南北方位の柵列を壊して掘削
され、埋没後は、掘立柱建物が作られていることから、
機能していた時期は 7世紀末から 9世紀代のある時
期とされている 。 また、溝 (
SDl)の南東側 1
0- 2
0
る。
mの地点では溝に平行して 6条のピット列が検出さ
議善寺坂半面遺跡 (
安土町石寺)
臼
れ、道路跡にともなう波板状凹凸遺構と考えられて
いる 。 このピット列は、 8世紀から 1
2世紀の遺物を
含む旧河道によって壊されている。そこで、上鈎遺
跡溝 (
S
D
5
)・下鈎東遺跡溝 (
SDl)
を 側溝とした道路
跡から波板状凹凸遺構へ、さらに足利推定ルートへ
と 2段階の変遷も考えられている 。
(
2
)
東山道
b、§依し
唐橋遺跡(大津市瀬田 2丁目)日
現在の瀬田唐橋の下流約 80m地点において、史料
に現れる 「勢多橋」のものとみられる橋脚台がみつ
かっている 。 この遺構周辺からは無文銀銭や和同関
前、等の貨幣や土師器・須恵器類が出土している 。駅
路に架かる大規模橋として注目される 。
せきのつ
東山道の推定ルート上で発掘調査が実施されたが、
道路跡の存在を積極的に肯定しうる遺構を確認する
ことはできなかった。平安時代前期を中心 とした遺
物を出土する流路跡が検出されたこと、さらに推定
ルート上には低湿地帯が広がることから、ル ー ト自
体を見直すべきか、あるいは盛土工法によって造営
したが、水田化にともない消滅したと考えるべきか、
今後の周辺遺跡の調査成果や研究に判断は委ねられ
る。
南西に隣接する上出 B遺跡において、横板組みの
井戸が検出され、 「
高殿」 と墨書 された奈良時代後
半の須恵器杯が出土している。建物等の施設は検出
されなかったものの、一般集落とは異なる性格の施
設の存在を窺わせ、東山道周辺における整備に係わ
るものとしている 540
やまもと
関津遺跡(大津市関津 5丁 目)5
1
山本遺跡 (
東近江市五個荘山本町)日
田原道とみられる道路遺構が検出されている 。側
溝聞の心々距離は 18mとなり 、側溝は幅 1- 3 m、
清水駅の遺称地名とされる「清水鼻」の東側に所
在し、東山道の南側溝とみられる溝 1条と 8-10
.3mの規模となる 。走行方向は南北方向
深さ 0.1-0
となり、 8世紀中葉から 9世紀中葉まで機能し、 9
世紀後半に廃絶したと考えられている 。道路遺構の
周囲には同時期の多くの建物が整然と配置され、出
土遺物も官街的様相を呈している。
世紀の建物群が検出されている 。検出された側溝は
の じ おb
'だ
.2mほどで、深さは 0.
4- 0.5mを測り、 l度の改
幅2
修が確認される 。i
蒜中より遺物とともに多くの円磯
が出土しており、円磯による路面舗装が推定される 。
また、東山道の側溝とみられる講に近接する建物群
は、講と同方位をとることから、これらの建物群は、
野路岡田遺跡(草津市野路町)臼
清水駅に関係するものとも考えられている 。
足利説のルートより西へはずれた地点で前述した
草津市内の遺跡と同様の大溝状遺構が検出されてい
北町屋遺跡 (
東近江市五個荘北町屋町)
日
る。幅員は上面で 1
5- 20m、底面で 9-15mを測
り、底面両側には側溝跡とみられる溝がある 。 また、
この大溝状遺構中には、路面を構築した盛土等の痕
跡、はなく、底面には波板凹凸様の不定形土坑が並ぶ
きたまちゃ
第 3次調査・第 5次調査では、中山道の両端で平
行する 2条の溝が検出されており、東山道の両側溝
.
1m深さ 0.3mの浅
と推定されている 。SD0501は幅 2
い U字状を 呈 し
、 SD0301はI
幅
1
.5m以上、深さ 0.
3m
人間文化・ 129
│
滋│
賀│
県│
の
│
考│
古│
学l
el
以上の講で、両溝聞は心 々距離で約 1
5mとなる 。 と
もに埋土中より 8・9世紀の土器が出土している 。
あ ま E にし
尼子西遺跡 (
甲良町尼子出屋敷)57
結言楠i
遺跡(甲賀市信楽町黄瀬戸E
紫香楽宮跡とされる宮町遺跡、の南方において道路
遺構を 2条検出している 。道路 lはj
可道に架かる橋
中山道が犬上川左岸扇状地上において北西方向へ
とともに検出されており、遺存状態が悪いため片側
迂回する場所、前後の中 山道直線区間を結んだ線上
溝のみの検出となるが、橋脚の幅が 8mとなること
において幅員約 12mを測る道路状遺構が検出され、
か ら12m程度の幅員を持ってい たと推定される 。道
東山道跡に推定される 。側溝の埋土中より 8世紀後
路 2は道路 1と並行して検出されており、幅員 18m
半から 9世紀の土器が出土しているが、周囲の遺構
程度の規模を有する。
との関係から、 8世紀前半には造営されており、 1
2
世紀にはすでに機能を失っていたものと考えられて
いる 。
ひがしやま
東 山遺跡(甲賀市信楽町黄瀬)臼
甲賀寺北辺に隣接した丘陵地で、道路側溝とみら
れる 2条の溝が検出されている 。構間距離は 1
1
.5m
(
3
)
北陸道
-1
2
.
0
mを測り、出土遺物などから 8世紀中頃に機
きたこまつ
能していたものと考えられている 。周辺地形や新宮
北小松遺跡 (
大津市北小松)日
足利の推定ルート上で発掘調査が行われたが、近
世以降の削平が著しく、北陸道を決定付ける資料を
f
与るにはいたっていない。
苓j
主詩篇遺跡 (
高島市今津舟橋)珂
9世紀の須恵器杯・蓋・査 ・斐 ・円面硯の破片、
神社遺跡、検出の道路 1との位置関係、寺院中軸線と
ほぼ一致することなどから甲賀寺北門へ取り付く道
路と推定されている 。
あおえ
青江遺跡 (
大津市神領2丁目 )臼
国庁と谷をはさんで南に約 350mの丘陵上に立地
する 。国庁と同方位の築地区画がみつかり、内部か
土師器杯、 .受の破片を含む小石を敷き詰めた整地層
らは大型建物が検出され、国庁と同じ飛雲文軒瓦や
とみられる黒色土層が検出され、平安時代前期の北
土器類が出土している 。 また、この築地区画の北東
陸道と推測されている 。
4
において新たな築地区画が検出され、両区画聞は 2
mを測る空閑地となっており、国庁の真南にあたる
大供廃寺遺跡 (
高島市大供)印
南北方向の構 SD
Olが検出され、北陸道の推定ルー
ことから道路と考えられている 。遺跡の性格として
は国司館に推定されている 。
トと合致することから、東側溝の可能性が指摘され
ている 。削平のため遺存状態は悪いが、講の規模は
4. 交通関連遺跡
幅1.6m、深さ O
.
1mを測る 。須恵器の杯蓋や奈良三
駅路をはじめとする主要交通路上には、駅家は勿
彩の小壷が出土している 。講の埋没時期は 8世紀中
論のこと、様々な施設が交通路と密接な繋がりを
もって営まれる 。次にそれらの施設についてみてい
葉と考えられている 。
きたい。
(
4
)
その他
がんがくいん
勧学院遺跡 (
近江八幡市千僧供町)61
近江国府
瀬田丘陵上には近江国庁を中心に国府関連の遺跡
群が展開する 。国庁東区画の東側に接して切通し状
側溝間約 5
.
2
mを測る道路遺構が検出されており、
の水田が存在し、道路痕跡の可能性も指摘されてい
側溝内からは 8世紀前半の土器や拳大の玉石が多数
る。仮に道路跡とすると、北向すると国庁中軸線上
出土している 。東西方向をとり、すぐ西側には東山
を通る東山道推定線にほどなく合流し、南向すると
勢多橋より国庁南方に至る東西道路痕跡に合流する日
。
道の推定ルー トが通り、東側には蒲生郡衡に想定さ
れる御館前遺跡が位置することから、東山道と蒲生
郡衡を結ぶものと推測される 。
また、国庁周辺の丘陵上には近江国分寺と考えられ
せた
そうやま
あ必え
のばたけ
る瀬田廃寺や惣山遺跡師、青江遺跡、野畑遺跡 67•
中路遺跡が存在している 。 これら国庁と関連遺跡
130・人間文化
│
滋
│
賀│
県
│
の
│
考│
古│
学14
]
)1
群を整理した金回は旬、近江国府の形態は、国庁と
定されているが77 、推定遺跡は存在しない。
東西道路を核ないし軸として官街群が配置されたも
横川駅
r
ので、「東西中軸型 J 市街不連続・機能結節型」と
でも表現しうる都市形態であったと推定した。
駅間距離より米原市梓河内もしくは米原市醒井付
勢多駅
ど ろ の うえ
堂ノ上遺跡が有力候補である 。遺跡として確認さ
近に推定される 。梓河内には字「馬屋谷」があるこ
とが根拠の ーっ となっている 78。醒井に南接する米
原市枝折には白鳳寺院の 竺笑寺廃寺が所在する 790
れていないが、国庁北に位置する 「真米」 も推定地
の一つである 690
また、醒井より北上し、北国脇往還に接続する現在
道沿いに、四脚門や掘立柱建物が検出され、郷長ク
岡田駅
J
;
治
、
f
lおいわけ
かつては草津市岡田追分遺跡付近を地名との類似
などから岡田駅とする説もあ ったが、勢多駅との駅
間距離が 5k
m
程度と 短く、地名以外に根拠がないこ
とから、現在では否定されている 。駅間距離や野洲
川水運を考慮した足利は甲西町三雲付近に想定して
いる 70。推定遺跡は存在しない。
甲賀駅
倉歴道に設置された仮称甲賀駅は駅間距離や r
}
扇
J
r
町J 古馬野」地名より甲賀町大原市場・滝付近か
泊日付近に想定されている 。阿須波道に設置さ れた
甲賀駅は駅間距離より土山町頓宮付近に推定されて
いる 71が、ともに推定遺跡は存在しない。 なお、頓
宮に隣接して「前野」という集落が存在するが、「ウ
マヤ 」が 「マヤ J マエ 」 と転化することから 72注
目される地名である 。 なお、岡田駅と甲賀駅につい
r
ては『延喜式』記載の順序とは逆であった可能性も
指摘されている 73。
篠原駅
遺称地名 ・駅間距離より野洲市小篠原付近に推定
こしのはら
されている。小篠原遺跡岩ノ脇地区は、長殿風の建
物が官街的建物配置をと って検出されており、東山
道を踏襲したと考えられている中山道に隣接してい
ることから、 f
篠長原駅ないし関連施設と推定されてい
る刊
九
。 西河原遺跡群出土の木簡を検討した市大樹
西河原森ノ内 7号木簡簡に記された「馬評」の二文字
に注目した。 この馬評は、静岡県伊場遺跡木簡にみ
える「駅評」の別表記であり、 7世紀代の安評に駅
家が設置されていたとする 。野洲郡内東山道ル ー ト
によっては、篠原とは別地に求めなければならない。
清水駅
遺称地名 ・駅間距離より東近江市清水鼻付近に推
定されている。隣接する 山本遺跡 76で検出された建
物群は清水駅に関係するものとも考えられている 。
鳥龍駅
駅間距離等 より 彦根市大堀 町・正法寺町付近に推
ラスの居館 とも推定される北方田中遺跡ω、 8世紀
すえ
の須恵器窯の菅江遺跡B
¥ 建物は不明ながら三大寺
ほ うせ ん じ
廃寺と同系統の瓦が出土した法泉寺遺跡泣が所在す
ることから、東山道と北国脇往還の前身道を繋ぐ交
通路も想定し得る 。そのため、梓河内に横川駅を求
めるより、交通の要衝となる醒井から本郷ー帝にそ
の所在地を求めるのが妥当 と恩われる 。
穴多駅
遺称地名より大津市穴太に推定されているが旬、
推定遺跡は存在しない。
和週駅
遺称地名より大津市和遡中付近に推定される 。 こ
の場所は、龍華越と北陸道が合流する交通の要衝と
5所収の 天
もなっている制。 なお、 『
朝野群載 j 巻 1
暦 6(
9
5
2)年 6月2
3日付官宣 旨によると、和遡は大
枝・山崎・会坂とともに四堺祭が執り行われた。手
口
週中に所在する中畑田遺跡からは 9世紀後半を中心
とする時期の遺構・遺物が確認され、硯や多数の貨
幣も出土 していることから、和遡駅もしくは和遡御
厨に関連する遺跡と推察されているお。
三尾駅
遺称地名より高島市安曇川町三尾里に求める説も
ある 師。史料上、 三尾を冠するものに三尾郷・三尾崎・
三尾城などがあり、この地名が駅家に因むものかは
不明である 。手口遡駅からの駅間距離等から高島市永
田に所在する永田北遺跡に求める説もある 87。
鞠結駅
北陸道ルートに近い高 島市マキノ町石庭に字 「
納
結」があり、この付近に推定されている 筋
。 また、
ニあらじとでら
岡市マキノ町小荒路に所在する小荒路十寺遺跡的を
納結駅とみる向きもある 。遺構は不明ながら 9世紀
r r
r
初頭から中葉にかけての 「大家 J 寺 J 常大 J 常
大家」等の墨書土器や転用硯が出土しており 、「
小
荒路」の地名や立地
、 土器群からなんらかの公的施
設の存在が想定される 。 また、この遺跡の存在が、
平安時代初期にお ける 若狭経由 ルートから越前に 直
3
1
人間文化・ 1
│
滋│
賀│
県│
の│
考
│
苗│
学I
I
DI
接入るルートへと変更した根拠の ーっとなってい
よって明示する道路や、県内では まだ見つかってい
る。
逢坂関ω
ないが盛土によって構築する道路は、水田地帯でみ
つかる場合は大概路面が削平を受けていて遺存して
いることは少ない。そのため検出されたものを道路
蝉丸の和歌で著名な逢坂関は、『日本紀略j 延暦
1
4(
7
9
5)年 8月 1
5日条に 「
廃近江国相坂3!!IjJと廃止
記事があるのが初出である 。 また『日本文徳天皇実
録 j 天安元 (
8
5
7
)年 4月23日条では、大石 ・龍華と
として認定するためには、多角的視野にた って検討
しなければならない。道路遺構認定の条件について
は
、 山村信楽が示している 930 それによれば①帝状
ともに始めて関剣を相坂に設置したとする 。関の東
にあったと伝わる関寺 91の伝承地が、逢坂 2丁目と
に連続性がある空間を持つ。②その空間内に同時期
の遺構が存在しない。 また、轍跡などの通行を示す
なることから、ここから逢坂山の峠までの聞にその
所在地は想定されている 。一方で、近江・山城国境
痕跡や一定距離において 2地点以上で存在が確認で
きると望ましいとしている 。
が山科盆地内にあり、小関越と逢坂越の分岐点にあ
二つ めの大溝状をとるタイプであるが、山村の条
たることから、名神高速京都東 r
.c.付近に想定する
件を満たしており、道路遺構と考えられるものの、
多少の疑問がないわけでもない。路面の問題である 。
考えもある 汽
以上が交通関連の遺跡であるが、 この他、郡街や
官術的とされる遺跡も交通路と密接な関係をもって
道路を大溝状に構築した場合、路面をどのように設
定したかということである 。底面をそのまま路面と
存在している。特に郡街は伝馬制 との関わりもあり、
したのか、大構内に盛土を施し路面としたのか。正
古代交通を諾る上では欠かせないものであるが、多
式な報告がなく詳細は不明であるが、硬化面や舗装
などの路面についての情報は聞かれない。盛土や平
岐にわたるためここではあえて割愛させていただ
く。
面施行とちがい削平の影響は少ないと思われるので、
この辺の情報が求められよう 。三つめのパラス敷き
5.今後の諜題
道路であるが、現在のところ今津舟橋遺跡検出のも
ここまで駅路を中心とする交通路研究の現状と、
発掘調査によって検出された道路遺構についてみて
のを道路遺構として認定できるかは条件不足である 。
ただし、側溝も伴わないパラスを敷いただけの道路
きた。 こうしてみると、近江の古代道路研究は、本
遺構も他では存在するので、今後みつかる可能性も
格的な道路研究の祖ともいうべき 『
古代日本の交通
あろう 。
波板状凹凸面についても若干ふれたい。波板状凹
路j 以降、ほんとうに多くの研究があ ったことがわ
かる 。 また、近年には発掘調査に よって官道をはじ
めとする道路遺構が次々と明らかとなって、新たな
知見も得られるようになった。 この ように新たな知
見が得られると 、新たな問題点も生じてくる 。前述
した研究抄史の中でもそれごとにいくつか問題点を
述べたので、ここでは主に発掘調査によって検出さ
れた道路遺構について、課題となる問題点をいくつ
か記しておきたい。
県内で道路遺構と報告 されているものをみると、
大きく 3タイプにわかれる 。一つめは 2条の平行す
誌を 側溝と考え、その聞を道路と認識するもの。
るj
二つめは草津市南部でのみ検出されている大溝状を
とるタイプ。三つめは今津舟橋遺跡のパラスを敷い
ただけのものである 。 この内、今津舟橋遺跡のもの
を除き、いずれ も路面自体は検出されておらず、地
形や地割り、 他遺跡のものとの連続性などの諸条件
より道路遺構として報告されている 。側溝のみに
132・人間文化
凸面とは、しばしば道路遺構にともなって検出され
る一定間隔で連続する円形や楕円形の窪みのことで
9
9
0年代頃から注目されるようになり、性格
ある 。 1
についても ① コロ・ 枕木説、 ②路商の基礎工事説、
③斜面地における足掛け説、 ④水流などによって形
成されたとする自然発生説、⑤牛馬歩行説、@その他、
とあげられている 。 この遺構を詳細に検討した近江
俊秀は 94、形状の分類、その他の条件を加味した上で、
性格が異なる複数の遺構が存在する可能性を指摘し
ている 。つまり、波板状凹凸面と総称されているが、
似て非なるもののごとく個々の遺構によって要因が
異なるのである。 この遺構の性格を知るには、現地
調査時における観察が大きく左右する。なお、平坦
面上あるいは講中などにおいて、 他の道路痕跡、をと
もなわずに、連続する円形や楕円形の窪みが検出さ
れた場合、検討することなしに波板状凹凸面、ゆえ
に=道路遺構としてしまうおそれがある 。道路以外
ml
│
滋│
賀│
県
│
の│
考
│
盲│
学I
の可能性も含め多方面からの観察が必要になろう 。
5
6 前掲 5
草 津市教育委員会
2
0
0
01
岡凹追分遺跡 1
2次」
0年 度 草 津 市 文 化 財 年 報J
『平成 1
である 。その存続期間の長さゆえ、構築当初と廃絶
∞
o1考古資料からみたル ー トとし
7 畑 中 英二
2
J
r中近世古道調査報告 3
な補修や改築をうけている可能性を考える必要があ
ての東海道
るし、構築時や廃絶時の詳細な年代も判明しない
滋賀県教育委員会
東 海 道j
2
0
0
11
栗 東 の 古 代 東 海 道 Jr
近江の
ほうが多い。 道 路 遺 構 の 調 査95もそのような視点を
鉛谷曜子
もって行っていかねばならない。
街 道j 架東歴史民俗博物館
以上が近江園内の古代交通研究の概要である 。近
r
4 条里制・古代都市研究会
代都市研究J1
る最大の点は、何十年、何百年と機能し続けること
期の姿は同じもので‘あったわけではない。 さまざま
・矢 倉 周 辺 に お け
る奈良時代の遺跡、動向について J 条 里 制 ・古
ひとくちに道路遺構といっても、地形 ・地質や周
辺の遺跡を含めた立地環境、道路の重要度などに
よって異なった形態を持つ 。 また、他の遺構と異な
1
9
9
81
草津市追分
谷口智樹
8 前掲 3
1
9
7
81
東 海 道 近 江 国 Jr
古代日本
江田は、その真中に琵琶湖があり、それを利用した
桑原公徳
湖上交通は陸上交通と同レベル、もしくはそれ以上
の交通路
の重要度を持っていた 。 今 回は湖上交通叫こついて
神英雄
触れなかったが、それこそ避けては通れない諜題で
道と垂水頓宮j土山町
I
J大 明 堂
1
9
9
61
阿 須 波 道 と 甲 賀 駅 家 Jr
阿須波
ある 。 また、陸上交通のもう 一つの要である伝馬制
松田常子
についても最後に触れておく 。
論
2
0
0
11
1近 江 国 府 、 水 浦 遺 跡 」 試
『田中本春記j他から推理する斎王の根・
r
勢 回 頓 宮 ・ 甲 賀 頓 宮 ・ 伊 勢 路J 西 田 弘 先 生 米
駅馬制とともに律令国家の交通制度の一つである
伝馬制についても、近年文献史学からの研究も深
近江の考古と歴史j 西国弘先生米
寿記念論集
u
r
甲西 l
まっており、歴史地理学においても伝馬の道である
寿 記 念論集刊行会
「
伝 路」 について駅路ほど多くはないが論じられて
菩提寺 聞で野洲川を渡ると想定している 。
いる 。近江国において、この伝馬制や伝路はいまま
細川修平
でほとんど言 及されることはなかった 97が、伝馬制
側滋賀県文化財保護協会
は駅馬制とともに律令国家の根幹を成すもので、こ
との関連で水口町内の通過点についてのべてい
れら 2つの交通制度は 二 重構造をなす交通体系とし
て、いわば律令国家交通制度の両輪として機能して
いたものである 。 しかし、駅路や駅家といった駅制
に基づくものに比べ調査担当者には浸透度が低いよ
うに思われる 。今後の課題の 一つである。
では栗東市伊勢落
『
泉 塚 越 古 墳 j 滋賀県教育委員会・
2
0
0
4
では遺跡立地
る。
9 甲賀市教育委員会・側滋賀県文化財'保護協
0
0
8 日ヒ脇遺跡発掘調査報告書j
会 2
1
0 前掲 1
足利健亮 1
9
9
61
歴史地理学的見地からみた中
r
山道 J 中 近 世 古 道 調 査 報 告 2 中山道j 滋賀
県教育委員会
註
1
足利健亮
1
9
8
51
近 江 の 土 地 計 画 Jr
日本古代
3
足利健亮
1
9
9
71
古 代 近 江 の 早 馬 道 Jr
古代の
山尾幸久
日本と渡来文化j学生社
地理研究」 大 明堂
2
1
1 前掲 1
1
2
1
9
7
01
恭仁京の京極および和泉・近
r
高橋 美 久二
2
0
0
01
古 代 近 江 国 の 東 山 道 Jr
地
江の古道に関する若干の覚え書き J 社 会 科学
図と歴史空間一足利健亮先生追悼論文集
論集j 大阪府立大学
大明堂
服部昌之
1
9
7
4
1草津市とその周辺の条里 H草
田原道について瀬田 川左岸の遺跡の動
向と関連づけて論じたものがある 。
1
9
9
81
近江の交通
津市吉田の条皇景観遺存地区の歴史地理学的調
兼康保明
査 報 告j 滋賀県・草津市
I
第 6回 春 日 井 シ ン ポ ジ ウ ム 資 料 集
・陸路と水路」
古代を歩
く 旅 と 道j 第 6回春日井シンポジウム実行委
4 前掲 1
内田保之
j
1
9
9
61
近江国の古代駅路と官術遺跡
r
について J 紀 要 j9 (閉滋賀県文化財保護協会
員会
村井毅
2
0
0
01
古代における遺跡群の一形
人間文化・
1
3
3
│
滋│
賀│
県
│
の│
考
│
古
│
学I
t
D
l
態 -8世紀後半における近江国府の基本構想」
f
紀 要J1
3
側 滋 賀 県 文化財保護協会では田原
『
びわ湖湖底遺跡の謎j創元社
2
2 高橋誠一
r
1
9
7
8r
近江国坂田郡の古代山城と東
道をとった東山道は、大津市田上を抜け、 草
山道 J 歴 史地理研究と都市研究 (上)一藤岡謙
津市大将軍遺跡・栗東市岡遺跡・同手原遺跡
二郎先生退官記念論集-J大明堂
1
9
8
9r
近江における東 山道 Jr
文化 財
付近を通過し、野洲郡小篠原遺跡あたりで足利
近藤滋
説に合流さ せてい る。
信 濃 東山道サ ミッ ト特集号J1
5-3 附 長野
1
9
9
6 r田
その他 「田原道」 に関しては重岡卓
r
県文化財保護協会
原道をめぐる 二つの地域 J 紀要J9 側滋賀県
菱岡哲郎
文化財保護協会
『中近世古道調査報告 2 中山道j 滋賀県教育
乾幸 次
1
9
8
4r奈 良 期 の 田 原 道 Jr
FHGJ7
6
号 野外歴史地理学 研 究 会 が あ る 。
1
3 藤崎高志 2
0
0
7r
滋 賀 県 大 津市関 津 遺 跡 一 道
路遺構と路線決定東山道か回原道 (
保 良宮
に 至 る 道 ) か -Jr
考古学ジャ ーナ ル JN
u
5
6
6
.
2
0
0
7 ニューサイエンス社
1
4 金田章裕 2
0
0
7r
大津市関津遺跡検出の道路遺
構をめぐって一保良京への 一視角
Jr
日本歴
1
9
9
5r
6
7
6年の牒の木簡 Jr
湯ノ部遺
跡発掘調査報告書
I
J滋賀県教育委員会・側滋
前掲 4 内田
1
9
9
7r
古代寺院・官街遺跡・交通
内田保之
路
r
近江国を事例としてー J 古代交通研究j
7 古代交通研究会
2
3 前掲 1
2
4 木下良 1
9
9
0r
宇治市町並 ・六地蔵か ら京都市
r
伏見区桃山に至る 「
車路 J
J 日本古代律令期に
年度科 学 研 究 費 補 助 金 (一般研 究 C)研究成果
報告書
2
5 松浦俊和
賀県文化財保護協会
1
9
7
9r
古道と遺跡一近江国滋賀郡の
U18 京都教育
r
白鳳寺院の分布から -J 史想
前掲 1
2 山尾
佐伯英樹
委員会
敷設された直線的計画道の復元的研 究j 平成元
史 J7
1
3
1
5 山尾幸久
1
9
9
6r
東 山道・中山道の埋蔵文化財 J
2
0
0
7r
栗太評衡と栗太寺 Jr
考古学
論究一小笠原好彦先生退任記念論集-Jでも栗
大学考古学研 究会
2
6 吉本昌弘
1
9
9
9r
古代駅伝路における道代の幅
r
東市に所在する十里遺跡 ・小平井廃寺の立地に
員 について J 古代交通研究 J9 古代交通研
ついて、このルート 沿いに設置されたものと考
?xA
7し-;p;
2
7 足利健亮
えている。
1
6 畑中英二
1
9
9
6r
古代における琵琶湖の湖上交
r
通についての予察 J 紀要J9 側滋賀県文化財
保護協会
1
7 前掲 1
2 高橋
1
8 辻川 哲朗 2
0
0
8r
近江・野洲郡の古代東山道
ルート復元についてー琵琶湖東岸地域における
水陸ネットワークの形成過程との関係をめぐ っ
1 側滋賀県文化財保護協会
て Jr紀 ~J 2
1
9 前掲 1
2 高橋
2
0 山本遺跡 五個荘町教育委員会 1
9
9
2r
五個荘
町内遺跡発掘調査報告書 皿j
北町屋遺跡 五 個荘 町教育委員会 1
9
9
1r
五個
9
9
2r
五個
荘 町埋蔵文化財発掘調査年報 WJ 1
荘町内遺跡発掘調査報告書皿 』
1
9
8
6r
入江内湖遺跡とその遺物 H滋
賀考古学論叢j 第 3集 滋賀考古学論叢刊行会
9
9
7r
湖底遺跡はなぜで きたのか」
秋田裕毅 1
2
1 問中勝弘
134・人間文化
、
1
9
9
6r
古北陸道の変遷と条里遺構」
『
志賀町史j 第 l巻 志 賀 町
2
8 田端与利男
1
9
7
8r
北 陸 道 近 江 国 Jr
古代 日
本の交通路JI 大明堂
1
9
9
4r
高島郡の古代北陸道 H紀要j
7側滋賀県文化財保護協会
2
9 松原弘宣 1
9
8
5r
畿 内における諸津の性格と機
能 H 日本古代水上交通の研究』吉川弘文館 6
2
内回保之
頁
藤井五郎
r
1
9
8
7r
小 字名から 旧若 狭 路 を さ ぐ
るJ 近江の地名 j 滋賀県地方紙研究家連絡会
近江の地名研究部会
前掲 1
2 山尾
3
0 木下良 1
9
8
1r
敦賀 ・湖北聞の古代交通路に関
する三つの考察 J 敦賀市史研究 J2号 敦賀
r
市
3
1 前掲 1
2 山尾
3
2 前掲 2
7
t
D
l
│
滋│
賀
│県│
の│
考
│
古│
学I
3
3 金田章裕
r
1
9
9
71
古道と条里 J 今津町史 J 第
1巻 今 津 町
3
4 内田保之
2
0
0
61
高島郡の古代北陸道再考 H淡
海文化財論叢j 淡海文化財論叢刊行会
r
1
9
9
81鈴 鹿 関 ・ 不 破 関 ・ 愛 発 関 」
『第 6回春日井
シンポジウム資料集古代を歩
く 旅と道j 第 6回春日井シンポジウム実行委
員会
前掲 2
7
前掲 3
3
3
6 舘野和己
r
2
0
0
61
古代越前固 と愛発関 J 福 井
県文書館研究紀要j 第 3号
3
7 滋賀県教育委員会・側滋賀県文化財保護協
会 2
0
0
4 新宮神社遺跡j
3
8 前掲 3
0
9
7
81
相坂山と勢多橋 J 新修大津市
3
9 武藤直 1
r
r
史J1 大津市
7
前掲 2
40 秋田裕毅
r
1
9
9
71
長浜城と北国街道 J びわ湖
4
1 前掲 2
2 内田
42 滋 賀 県 教 育 委 員 会 ・ 側 滋 賀 県 文 化 財 保 護 協
9
9
9 寺林遺跡j
会 1
4
3 西国弘 1
9
8
91
八島廃寺 J 近江の古代寺院 J
r
近江の古代寺院干Ij行会
4
4 草津市 教 育 委員会
1
9
9
41
坊 主 東 遺 跡 J D992
年 度 文 化 財 年 報1
r
前掲 5
前掲6
2
0
0
31
矢倉口遺跡 (
2
8次)
r
平成 1
3年度草津市文化財年報J
発掘調査概報J
4
6 滋賀県教育委員会
告 J 昭和 5
0年度
r
r
r
r
r
5
3 滋賀県教育委員会・ (
附滋賀県文化財保護協
9
9
3 観音寺城下町遺跡 j
会 1
5
4 滋 賀 県 教 育 委 員 会 ・側 滋 賀 県 文 化 財 保 護 協
会 2
0
0
1 上出 A遺跡・上出 B遺跡』
5
5 五 個 荘 1汀教育委員会 2
0
0
5 山本遺湖 (
第2次
r
r
r
調 査1
r
5
6 五個荘町教育委員会
1
9
9
1 五個荘町埋蔵文化
五個荘 U
I
J
教育委員会
1
9
7
71
岡田追分遺跡調査報
滋賀県文化財調査年報j
r
1
9
9
2 五個荘町内遺跡発
掘調査報告書 mJ
5
7 滋賀県教育委員会・側滋賀県文化財保護協
r
9
9
8 尼子西遺跡 2J
会 1
5
8 同志社大学歴史資料館 1
9
9
9 北小松遺跡一 同
志社小松学舎周辺遺跡確認調査報告 j
5
9 今津町教育委員会
4
5 滋賀県教育委員会・草津市教育委員会・側滋賀
9
8
7 矢倉口遺跡発掘調査
県文化財保護協会 1
報告書 j
草津市教育委員会
r
2
0
0
0 上鈎遺跡j
4
9 栗東町教育委員会・側栗東町文化体育振興事業
団 1
9
9
71
下鈎東遺跡 J 栗東町埋蔵文化財調
9
9
6年度年報j
査1
5
0 滋賀県教育委員会・側滋賀県文化財保護協
会 1
9
9
2 唐橋遺跡j
小笠原好彦編 1
9
9
0 勢多唐橋J六興出版
5
1 前掲 1
3
0
0
31
野路岡田遺跡 (
第1
3
5
2 草津市教育委員会 2
次)発掘調査概報 J 平 成 1
3年 度 草 津 市 文 化 財
年報j
財発掘調査年報 WJ
湖底遺跡の謎j創元社
r
滋賀県教育委員会・ (
附滋賀県文化財保護協
会
1
9
7
11
三関考定試論 J 織田武雄先生
退官記念人文地理学論叢j柳原書庖
3
5 木下良
八賀普
資料集j栗東町教育委員会・側栗東町文化体育
振興事業団
r
r
2
0
0
0 今津舟橋遺跡発掘調
査概要報告』
6
0 滋賀県教育委員会・肘滋賀県文化財保護協
会 2
0
0
4 大供廃寺遺跡j
6
1 滋賀県埋蔵文化財センター 1
9
9
2 滋賀埋文
ニュース j 第 1
4
7
号
6
2 前掲 3
7
6
3 甲賀市史』 第 1巻 甲 賀 市
6
4 大津市教育委員会 2006 近江国府跡関連遺跡
r
r
r
r
発掘調査報告書 E 重要遺跡・青江遺跡、の確認
調査ー J
前掲 5
前掲 6
6
5 畑中英二 ・神保忠宏
4
7 滋賀県教育委員会・側滋賀県文化財保護協
会 2
0
0
6 棚l
遺跡皿 j
48 雨森智美 1
9
9
91
上鈎遺跡で発見された溝跡に
ついて JH9
8
0- 8
2年度栗東町埋蔵文化財調査
r
2
0
0
01
古代近江国庁周辺
r
の交通路及び景観構造について J 中近世古道
調査報告 3 東海道j 滋賀県教育委員会
金田章裕
r
2
0
0
21
近江 国府補論 J 古代景観史
の探求j 吉川弘文館
人間文化・ 135
│
滋│
賀│
県│
の
│
考│
古
│
学l
i
l
l
6
6 田中久雄
r
1
9
9
91
滋賀県大津市惣山遺跡 J 日
0 日本考古学協会
本考古学年報J5
6
7 滋賀県教育委員会
1
9
9
41
大津市野畑遺跡第二
次調査報告 J 平成 4年 度 滋賀県文化財調査
年報j
6
8 金田章裕 1
9
9
51
国府の形態と構造について」
『
国立歴史民俗博物館研究報告j 第6
3集
6
9 滋賀県教育委員会 1
9
7
51
瀬田堂ノ上遺跡調査
報告 Jf
昭和 4
8年度 滋賀県文化財調査年報j
滋賀県教育委員会 1
9
7
71
瀬田堂ノ上遺跡調査
報告 IJ昭和 5
0年 度 滋 賀 県 文 化 財 調 査 年 報j
米倉二郎 1
9
3
51
近江閤府の位置に就いて H考
古撃j 6-8 東京考古皐曾
7
0 前掲 1
r
r
7
1 前掲8 桑原・神
7
2 高橋美久二
r
1
9
9
71
律令制支配と交通体系の整
備 J 考古学による日本歴史 9 交易と交通j
雄山閣
2
0
0
3年、側滋賀県文化財保護協会により土山町
前野に所在する鐘鋳野遺跡の試掘調査が行われ
た。近世東海道から野洲川との問に試掘トレン
チを設定したが、遺構・遺物は認められなかっ
た。滋賀県教育委員会
r
2
0
0
5 平成 1
5年度滋賀
県埋蔵文化財調査年報』
7
3 前掲 1
前掲 9
7
4 森隆 1
9
9
41
郡街遺跡に関する一考察 J 文化
財論集j 文化財論集刊行会
森隆 1
9
9
71
近江国野洲郡衡遺跡の基礎的考
古代文化J4
9-9 側古代学協会
察 Jf
7
5 市大樹 2
0
0
81
西河原木簡群の世界 J 古代地
方木簡の世紀j 滋賀県立安土城考古博物館
7
6 五個荘町教育委員会 1
9
9
7 山本遺跡第 3次調
査j
7
7 前掲 1
7
8 桑原公徳 1
9
7
81
東 山 道 近 江 国J 古代日本
の交通路j I 大明堂
7
9 米原町教育委員会 1
9
8
4 三大寺遺跡群j
8
0 滋 賀 県 教 育 委 員 会 ・附 滋 賀 県 文 化 財 保 護 協
会 1
9
8
5 1
東良遺跡(北方 m中遺跡 )
J ほ場
r
r
r
r
r
r
整備関係遺跡発掘調査報告書苅-6
J
8
1 山東町教育委員会
告書1
8
2 山東町教育委員会
136・人間文化
整備関係遺跡発掘調査報告書j
8
3 藤岡謙二郎
r
1
9
8
6 管江遺跡発掘調査報
r
1
9
8
61
法泉寺遺跡 J ほ場
1
9
6
81
古西近江路に沿う穴太部落
r
の歴史交通地理学的性格について J 人文地理
学の諸問題j大明堂
8
4 前掲 2
7 足利
8
5 志賀町教育委員会
r
1
9
8
7 中畑田遺跡発掘調査
概要報告書1
8
6 藤岡謙二郎 ι1
9
6
01
愛発関と古西近江路(北陸
r
道)に関する歴史地理学的試論 J 都 市 と 交 通
路の歴史地理学的研究』大明堂
8
7 内田保之
r
I
2
0
0
6 延喜式j 諸国駅伝馬条と近
J
f
紀要j
江の交通路→云馬供給施設を巡って
印刷滋賀県文化財保護協会
8
8 前掲 8
5
8
9 滋賀県教育委員会・側滋賀県文化財保護協
9
8
5 1
小荒路十寺遺跡 J ほ場整備関係遺
会 1
I-8J
跡発掘調査報告書 X
9
0 前掲 3
9 武藤
9
1 関寺縁起J 大日本史料j 第 2編之 2
1
9
2 前掲 3
0
9
3 山村信条 2
0
0
01
古代道路の構造 J 古代交通
0 古代交通研究会
研 究J1
9
4 近江俊秀 2
0
0
6 古代国家と道路j 青木書応
9
5 道路遺構の調査については、中山普「道路遺跡
の調査方法 JW
古代交通研究 J1
0 古代交通研
r
r
(
r
r
r
究会が参考となる 。
9
6 水上交通については
葛野泰樹 1
9
9
91
古代近江南部における湖上交
r
通と河道交通について J 史学論集』偽教大学
文学部史学科創設3
0
周年記念
葛野泰樹
r
1
9
9
9 考古学からみた古代水上交通
に関する 一試 論 一 特 に 「 津 と 渡 し 」 を 中 心 に
r
してーJ 鷹 陵 史学 j 第 2
5
号偽教大学鷹陵史
且".,6
、
て「ヱコ
ミ
松原弘宣
2
0
0
4r
琵琶湖の湖上交通について」
『
続日本紀の諸相 j 塙書房
9
7 前掲 8
7
などがある 。
-編集後記・
いわやさざなみ
日 本 の ア ン デ ル セ ン 巌 谷小 波 、
編集後記を書くにあたって、手元にある 『
人間文
化jの 目 次 を 創 刊 号 か ら 順 に 見 て い っ た と こ ろ 、 大
きなテーマを設けて研究成果を集める“特集"の企
画が、
1
2号 (
2
0
0
2年 刊 行 ) の 「 服 飾 を め ぐ っ て 」 で
止ま っ て い た こ と に 気 づ き ま し た。
6年 の 充 電 期 間 ( ? ) を 経 て 、 今 号 で は 、 本 学 で
開 催 さ れ た 国 際 シ ン ポ ジ ウ ム 「 文化 資 源 と し て 利 用
されるチンギス・ハーン
中国の比較から
モンゴル、日本、ロシア、
」 の 基 調 講 演 や 学 術 発 表 を も とに、
同 タ イ ト ル の “ 特 集 " を 組 ん で い ま す。 北 東 ア ジ ア
に目を向ける地域文化学科の姿勢を内外に知っても
らえるだけでなく、論文自体も興味深いものが揃っ
て お り ま す の で 、 是 非 自 を 通 し て お 楽 し み 下 さ い。
本 年 4月 か ら 、 人 間 文化 学 部 は 4学 科 体制 となり
近代児童文学の祖と言われる般谷小波(明治 3.7.4l
昭和 8
.9
. 5) は、滋賀県 甲賀市 (
1
日水口町)とは非 1
;
t
'
・
に
関わりの深い人物であります。水口町の歴史民俗資料館に
は 「
般谷一六 ・小波記念室」というコーナーが設けてあり
二人の業総を顕彰しています。
一六(修)は、小波の父で水 口議の務医であり 、明治則
の日本を代表する型家でもありました。小波 (
李雄)は一
六の三男で東京で生まれていますが、親の出身地が水口町
町から迎えたこともあっ
で親類縁者が多く、また妻を水口 l
て、水口町にはよく帰って来ていたようです。
1
8歳の l
時、観友社に参加して尾崎紅葉と税交を深め作家
になりました。明治 2
4年に 「こがね丸j(少年文学)を発
1らしめま
表して一日間児童文学者と してその名前を 会│
主│
に
主1
した。後には 『日本のお伽噺J 世界のお伽噺j 日本昔話j
シリーズなど次々と発表して近代を代表する児 Z
注文学作家
となりました。
また小 i
庄は、子どもたちにとって噺を諮りきかせること
は重姿な要素であると位置づけ、明治4
0年以降は口演話家
として国内はもとより海外へ出かけてい って話り部の役割
も果していました。かつて日本中の子どもたちから 「
お伽
噺の小波おじさん」としたわれていました。
日本でいちばんよいおじさん おとぎのおじさん小放さん
ほんとにそうですおはなしの あなたは日本のアンデルセン
f
fりの前にテーマソングのように歌われていました 。
と
、 i
さらに作詞家としても活躍し、「誤士の I
l
i
JI
一寸法師」
なと、の作品を残しています。 また校歌の作詞も手掛け、滋
r
ました。 今 号 は 地 域 文 化 学 科 に 関 連 す る “ 特 集 " で
し た が 、 次号 以 降 で 人 間 関 係 学 科 、 生 活 デ ザ イ ン 学
科 、 生 活 栄養 学 科 が メ イ ン の “ 特 集 " を 企 画 し て い
き た い と 考 え て お り ま す。 ご 協 力 の ほ ど 、 ど う ぞ よ
ろ し く お 願 い 申 し 上 げ ま す。
(塚本礼仁)
r
賀県では水口小学校、虎 bl~ 高校の校歌を作詞し今も歌い継
がれています。
M43作詞)
水口小学校校歌 (
今の枕木のτ
1
'い立たば
やがて,]!:を凌ぐべき
茂山となる円こそ米め
2、野洲川深くあらずとも
I
古き流れに澱みなし
;
;
1に芥も よせあらず
濁りはせじな とこしえに
3、枇木の勢たのもしさ
ここを学びの 1
屈とし て
1
1
ii
き流れに :
f
'
<
:
が
,
レ
うつして断えず l
i
J
fかなん
1、城 1
.
1向くあらずとも
写真文
野苦1
I博 子
人間文化
滋賀県立大学人間文化学部研究報告
発行日
2
4
号
24号
2008年 12月26日
発行公立大学法人滋賀県立大学人間文化学部
干522-8533 滋 賀 県 彦 根 市 八 坂 田J2500 TEL0748-28-8200
附
発行人八木英二
版下制作
サンライズ出版株式会社
印刷
サンライズ出版株式会社
本誌は再生紙を使用しています。
水口小学校校歌歌碑
E
E
、〆
‘
斗l
、
〆
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明
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ー
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M
4-
滋賀県立大学
L
F
~
E
~
ZA
ω の工 O O﹁ O 甘 工 C 三︾ 2 0 C ﹁↓ C
巌谷小波の著書
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