人間玄化 - 滋賀県立大学

滋 賀
県
立 大
学
人
間
文
化
学
部
研
究 報
告
人間玄化
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創刊準備毒
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SCHOOL OF HUMAN CULTURES THE
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U N I V E R S I T Y O F S HIG A P R E F E C T U R E
.もくじ・
巻 頭 言/西川幸治
2
地域文化学とは何か
「地域哲学」の提唱/高谷好一
6
座談会
人間文化学部は何をめざすか/西川幸治・高省好一-村井康彦杉者悦郎・那須光章・土井崇司・画矢慎介・黒田末書
特別講演記録
生活文化とデザイン/栄久庵憲司
13
近江の民俗一山と川と湖と/木村至宏
19
論文
もう一つの強制連行~朝鮮人学徒兵の出陣~ /萎
徳 相 -25
40
茶の機能/早川│史子
中国大陸水田稲作の拡張についての素描/菅谷文則
-48
57
論説
ドラゴン文化ソーン/安 土 優
61
人間文化通信
-研究動向
帰属性と差別の国際会議/協田晴子
.
I
N
F
O
R
M
AT
I
O
N
.研究会だより
編集後記
-モンゴル パヤンホンゴル県ポグド郡の砂漠・
遊牧民の少女がラクダを号│いて、はるか地平の彼方のゲルから、砂漠の井戸
に水を汲みにきていました。真夏の太陽の炎天下。カラカラに乾き切った地面
は、ひび割れをおこしていました。
数日後、突然、近年にない慈雨に恵まれ、この砂漠は、あっという問に、 一
面、色とりどりの花々が咲き乱れる見事なお花畑に 一変してしまったのです o
,¥-一一 遊牧民のお年寄りたちは、生涯、見たこともない花が咲いている、と驚いてい
ました。長い問、地問深くもぐっていた種子が、にわかに水を得て、芽を吹き
出したのです。砂淡の生命力を見せつけられる思いでした。
本年度から、このポグド i
出の砂漠で、本学人│剖文化学部・環境科学部のメン
バーは、 「モンゴル遊牧社会の変容と将来像J(文部省国際学術研究 ー代表 西
川幸治学部長)の研究談題で、モンゴルの研究者との共同調査をスタートさせ
9
8
9年以来つづけられてきた“日本 モンゴル共同ゴ
ます。この学術調査は、 1
ピ・遊牧地峡研究調査. (
ゴピ・プロジェクト)の研究調査を基礎に、このプロ
ジェクトのスタ ッフとの合同で行われるものです。
写真文小貫雅男
巻
じム口
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幸
,
、
,.,,
4H
西
ゎHH
頭
人間文化学部 学部長
人間文化学部は地域と生活の面から人間文化を研究しようとして出発した。身近な生活
環境としての地域に注目し、しだいに視点を高くし広い地域について観察し、比較して考
察しようとするのが地域文化の視点である 。いっぽう、はげしく変容する生活の様相を克
明に観察し記録し、これからのあるべき生活像をさぐろうとするのが生活文化の視点であ
る。 こうした視点を共有しつつ、私たちは文献、実験、野外調査とそれぞれの研究姿勢を
認めあい、寛容の態度と自由の精神で研究をすすめていきたい。
この人間文化学部の視点はつねに問いなおされ、新しい視点をもって問題の解決をめざ
し、私たちの研究はつねに清新さと活力にみちていなくてはならない。たとえば、人間関
係のきしみのなかで円、じめ」によって、いま若い生命が失われている 。 この深刻な事態
のもとで、人間関係を見つめなおす必要にせまられている 。かつて 『梁塵秘抄』 に
、 「
遊
びせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子どもの戸きけば、わが身さえこ
そゆるがるれ」とうたわれた 「遊び」 を、今の時点で見なおし、 「
遊び」を私たちの生活
時間と生活空間に回復させる べき方策をかんがえるべきではなかろうか。この機会に 、
「
遊び」研究会を発足させてはどうだろう 。
この冊子を、私たちの目指す人間文化研究の方向を内外に示し、教員が相互に交流し、
教員と学生が論じあい、理解しあう場としたい。そこで、私たちの研究現状を示し、たが
いに切瑳琢磨する場ともしたい。 こうした試みを懸命につづけることによって、私たちは
新しい学風をは ぐくみ、つちかいたいとねがっている 。
ガンダーラ仏教寺院・タフ卜・イ・ バ ヒの遺構
人間文化・
地域文化学とはなにか
「地域哲学」の提唱
たか
や
よしかず
高谷好
人間文化学部地域文化学科
「地域哲学」とは
私は本誌の創刊にあたっ て 「
地域哲学」という言
葉を提唱 したいと 思う
。
「
地域哲学」という 言葉は全く 新 しい言葉である 。
だから受け入れられるには少し抵抗があるかもしれ
ない。 しかし、そんなに無謀 な言葉ではないと私自
身は考えている 。理由 は
、 地域はそれ自 体が哲学し
うる主体だからである 。地域というのは個性を持っ
た生き物である O だから、その 「地域」が 自分の生
き方について考えることは 、不思議なことでも何で
もない。私の言う「地域哲学」とはだから、 地域が
自らを考える、ということである 。
時代が変わる
今、世界は大きく変化しようとしている 。過去数
百年の聞には 、なかったような巨大な変化が、訪れ
ようとしている 。近代(モダン)に替わって 、ポス
ト・モダンが来そうなのである 。
過去数百年は、いわゆる近代とその延長であった。
人々は合理的思考を基礎に、科学技術を発達させた。
発展とい う時流に乗 って
、 世界中に蔓延した。 しか
もこ の論理の根底には、無制限な欲望の肯定がある。
それが今 日のいろいろ な問題を惹起 している 元凶 な
のだ、だから蔓延 している 欲望の論理、 いわゆる近
代の論理を払いのけてその下 にあるもっと人間 らし
い考え方、それを掘 り起 こさねばならない。その人
間 らしい考え方は世界の各地がそれぞれに、 各 自の
世界観、価値観 という形で秘め持 っているのである 。
それを掘 り起こすことこそなによりも必要なことだ、
と考えるのである。
前者はいわゆる普遍論者 (ユニパーサリス ト)で
ある 。人聞は皆同じで、世界には一つの真理 しかな
い、という考えを持つ人達である 。一方後者はいわ
ゆる、多文明共存論者である 。地球上にはいろいろ
の自然やいろいろの生態があり、それに応じた多様
な考え方がある、その考えの違いを認めた上で、共
存していこうということを主張する人たちである 。
時代が変わるといっているのは、数百年間続いて
そしてこれを挺子にして、より便利でより豊かな生
活を享受することに全勢力を傾けてきた。過去の二、
三百年は、いわば世界全体が一団となって 、近代の
道を突き進んできた歴史であった。
だが、 2
0
世紀の末の今になって 、流れが急、に変わ
りかけてきた。 こんな変化が現れたのは、いわゆる
地球規模での問題群が噴出してきたからである 。森
を伐りすぎてかつての森に砂漠化が進行し 、加えて、
地球全体が有害物質で汚染されだした。そればかり
ではない。人の心まですさんでしまって、信じられ
ないような種類の犯罪が激増している 。よく考えて
みるとこれらの問題群は全ていわゆる近代化の掛け
声のもとに突っ走ってきた、まさにその延長上に起
こっているのである 。そういうことが判ってきて、
今、私達は反省を始めたのである 。
こうした状況のなかにあって、二つのグループが
現存している 。第 1のグループは、近代の路線は正
しいとまだ考えている人達である 。正しいのだから、
近代合理主義を一層徹底して進める必要がある、と
主張している 。そうすることによって人身はより聡
明な地球人となり、より繁栄した地球世界が築ける
のだと言うのである 。
これに対して 、今一つのグループは全く別のこと
を考えている 。近代の論理 というのは、元々はと言
えばヨーロッパが考え 出 した考え方なのだが、経済
2 ・人間文化
サゴヤ シの芽を採集する東インドネ シアの人たち
「地被哲学」の提唱
きた普遍論者の時代が終駕を迎えて多文明共存論者
の時代が始まろうとしている、ということである 。
県立大学の立場
地方の時代が始まる、 地方分権がお こる、などと
言われる 。 このことも根元のところでは、上に見た
多文明共存の考え方と密接に繋がっている 。東京だ
けが日本なのではない。地方は地方の文化や伝統を
持っている、だから、地方は自分で自分を治めるべ
きである、という考え方である。こういう考え方に
沿って、県立大学も作られた、と私は理解している 。
こうして見てみると、県立大学の誕生というのは
決してそんなに軽々しい出来事ではないということ
になる 。数百年続いてきた一極中心、普遍論理の時
代が終わろうとしている時、その先に来るべき多文
明共存の時代の先兵として作られたのだということ
になる 。 こう言ってしまうと、いささかいちびり過
ぎといわれるかも知れないが、やっぱりこの事は、
腹にちゃんと据えておいた方がよいように私は思う
のである 。
さて、多文明共存の時代、地方の時代はすでにこ
うして始まっているのである 。近頃は、ますます多
くの識者が新時代の到来を賛意を持 って論ずるよう
になってきている 。結構なことである 。だが、いざ
各論となると、事情は少し違う 。実際、どういう具
体策を持って新時代を迎えるのかということになる
と、賛同者もはっきりしたイメージは持っていない
らしい。総論は賛成だが、各論には入れないのであ
る。
私達県立大学人はこういうふうに考えてくると実
に微妙な立場におかれている 。県民が 「地方分権賛
成
、 GO!Jと出したのである 。その意を受けて、
各論を担当しなければならないのである 。絶好の舞
台を与えられたことに対しては感謝しなければなら
ないが、時代の難しさを想ってみると、粛然とした
気持ちにさせられるのである 。
「地域哲学」を
こんな立場に置かれた者の一人として、私が個人
的に思うことはこの期待に応えるには 「
地域哲学」
が一つの狙い所ではなし、かな、ということである 。
哲学というと高踏的なものという、イメージを与
えるかも知れないが、 「地域哲学」は決して、そん
なものではない。 I
地域哲学」は身近に いっぱい転
がっている問題を、ちゃんと自分の目で見、自分の
東南アジアの伝統的農法の聞き込み
考えで処理する、その処し方の基本的考え方という
ことである 。人は誰でも自分の目と頭をもっている
から、これは誰にでもできる 。
一例を挙げてみよう 。犬上川改修工事にまつわる
問題というのが、今あるが、これなども 「
地域哲学 J
の恰好の対象である 。 この問題というのは、こうい
うことである 。犬上川の下流部分は川幅が狭くて氾
濫がよく起こるから、拡幅工事をしようということ
になった。それに対して環境保全に関心のある人達
から待ったがかかったのである 。 もう少し詳しくい
うとこういうことである 。拡幅工事のためにはどう
しても古い堤防を取り払わねばならないが、折悪し
くそこには近在でも稀に見る立派なタブ林がある 。
堤防を取り払うと、当然タブ林は消滅する。それで、
環境派は待 った をかけたのである 。一方、最近また
洪水が起こった。そのときは堤防が決壊し、一つの
集落が冠水害を受けた。それで工事が急がれている
のである 。
いってみれば、どこにでもありそうな土地の問題
なのである 。 しかし、この問題の解決はなかなか難
しい。
人間文化・ 3
「地域哲学」の提唱
環琵琶湖文化論実習風最、水について考える
洪水害を受けた御当人にとってはこれは生命に関
そこにかけてみたいと思うのである 。地域にはいろ
わる重大問題である 。 なんとしてでも早く、ちゃん
いろの人達がいる 。近在の住民、町や市や県の行政
とした工事をやってもらわねば困る 。当事者の気持
ちからすれば、一体、環境論者は人間の生命と木と
担当者達、有識者、そんな人達の知恵を借りるので
どちらを大切と考えているのか!
ある 。私自身も参加したい。私は犬上川!とは関係な
ということだろ
いが、野洲川下流の産である 。そこはつい最近まで
う。一方、環境側には別の論理がある 。人間の都合
ばかりで滅茶苦茶に木を切り払 ってきたから、今や
は洪水常襲地帯だった。だから洪水に関しては体験
地球の環境はボロボロだ。そのため、人間の存在自
者としての意見も持 っている 。 こういう人達の助け
を借りれば、いろいろの情報が集まり、また意見も
体が危機に曝されて いる。 ここは歯を食いしば って
聞けるだろう 。工法や経費といったことだけでなく、
でも環境全体のことを考えねばならない。二つはと
もに筋は通っている 。だが、全く違ったことを主張
土地の育ててきた知恵、川に対する作法、公共性と
している 。
この種の問題は、二者がこういう恰好で対立し、
プライパシーとの関係、等々についてである 。そし
てこうした所から得られた情報や意見が仲介者にとっ
ては大きな助けになる可能性がある 。いや、それを
お互いの主張を繰り返していただけでは、その解答
用いて、何とか解決への努力をするのである 。それ
はいつまでたってもえられない。解決をえようとす
が 「
地域哲学」なのである 。
れば、仲介者がいる 。その仲介者の役目を果たすの
が 「
地域哲学」である 。
仲介と いっても、全く逆のことをいっている二者
の仲介である 。 これは至難の業である 。具体的にど
「
地域哲学」はこのように、どこにでも転がって
いるような問題、しかし身辺にあり、時には生 々し
過ぎるような問題を取り扱うのである 。そこでは、
当事者の死活を左右するような利害が絡んでいるこ
んな方法があるのかは私にも解らない。 しかし、大
とがある 。土地には土地に根付いたしっかりとした
勢でかかれば、文殊の知恵が出るに違いない。私は
常識がある 。そんな人達と一緒になって考えるので
4 ・人間文化
「地域哲学」の提唱
伝統芸能:びわ町富田人形
ある。 しかも、単なる利害の調整というのではなく、
いろの問題が提起されているのである。犬上川の問
地域のあるべき姿を探り 出すという基本姿勢の中で
題もまさに典型的な一例なのである 。
それを行うのである 。だから単なる思いつきや、借
り物の理論では歯がたたない。地域の将来に対する
「地域哲学」 というのは、身近に転が っているよ
うな問題を自分の問題として考えることだといった。
自分自身のヴィジョンを持たなければ話にならない。
その通りではあるのだが、こうして見てみると、そ
「
地域哲学」は何よりも最初に、まず土地に対する
れはそのままで、今人類が直面している最大の問題、
愛着であり、土地に関する知恵なのである 。
このようにいってしまうと 「
地域哲学」は極めて、
根幹的な問題でもあるわけである 。 こんなに深くて
在地的、地域個別的なものに聞こえるかも知れない。
しかし、実際には決してそうではない。極めて普遍
性の高いものなのである 。例えば、上に取り上げた
犬上川の問題も、世界に直結した問題なのである 。
「
開発か保全か」という問題は今世界中で問題にな っ
大きな問題を扱うわけだから、私はこれを 「哲学」
というのである 。
幸いなことに、我が県立大学は、こんな難しい仕
事、普遍と個別の摩りあわせという仕事も、その気
になれば成し得る学際的な陣容を持っている。 I
地
ている 。にもかかわらず、これに対する解答はまだ
域哲学Jを始める準備は整っているのである 。専門
研究の醍醐味はいいものだが、 「地域哲学Jという
誰も与えていない。
冒頭に、現代はパラダイム ・シフ卜の時代である
挑戦しがいのある分野なのである 。 というより、こ
と述べた。 I
開発か保全か」といった問題もこのこ
れはも って広い地平なのである 。教官だけでなく、
とに直接的に係わっている。近代化だ、発展だといっ
0
0年やってきたのだが、それが間違いだったの
て2
全員がかかわったらいい問題なのである 。 とりわけ
学生達の新鮮な眼が歓迎される 。パラダイム ・シフ
思索の分野、個人と地域と世界を結ぶ思索の分野も
かも知れないということで、最近は環境保護だの伝
トが求められている今、それは私たち全員に課せら
統復活だのということがいわれているのである 。要
するに過去二、三百年の歴史の根本的な見直しが今
れた任務でもあるのである 。
創刊にあた って、決意の一端を示そうということ
起こっているのである 。 この見直しの中で、今いろ
でしたためた。
人間文化・ 5
座談会
人間文化学部は何をめざすか
座談会出席者
,
.
税
.
,
西川幸治
高谷好一
村井康彦
杉本悦郎
那須光章
土井崇司
面矢慎介
黒田末書
伊
守‘
勾匹
-
♂ ー
~ー
「琵琶湖の夏」
黒田
本日は、お忙しい中どうもありがとうござい
ました。早速ですが、本座談会では一種寄り合い所
を意識して、東北アジアを重点に置く学科の構成を
した方が良いのではないかということになりました。
帯的な性格を持つ本学部が、これから一体どの様な
ところで、地域に根ざすといっても 「
地域」とい
形で教育、研究活動をすすめていったらよいのかと
う言葉自体、明確な概念で規定さ れているとはいい
いう点を中心に議論を進めてゆきたいと思います。
がたい。その規模をみても 、さま ざまなひろがりが
最初に学部長には、県立大学における人間文化学
みられます。 まず、身近なレベ jレでみると、県大で
部創設についてのこれまでのいきさっと、併せて地
いうなら周りの八坂の村落を考えることから始める 。
域文化学科、生活文化学科は何を目指すところかと
それから、しだいに湖東から滋賀県一帯、近畿圏、
いう点についてお話ください。
日本、東ア ジア、アジアから地球全体を一つの地域
とも考えられるわけです。 まず 「虫の目 」で身近な
人間文化学部の構想
西川
近隣としての地域をとらえ、しだいに視点をあげて
県立大学という性格上、やはり地域に根ざし
「鳥の目 」で術敵してゆくように研究の対象を拡げ
た形で設立されるべきであるという構想は最初から
てゆくことができるのではないかと考えています。
あったわけです。
例えば小貫先生がなされているように、日本の村落
地域文化学科に関しても最初は、アジアのみなら
調査をした上で、モンゴ l
レの草原の調査にはいる 。
ずユーラシア全体、あるいは南北アメリカ大陸をも
逆に外に視点を移せば、日本文化の見なおし、自己
包含する形で学科を構成する話があったのですが、
確認をも相対視、客観視する視線がうまれるのでは
それでは広大すぎるし、滋賀県の大学に設置される
ないかと思います。
必然性が感じられない。それよりもむしろ滋賀県か
また生活文化学科に関しては、もと県立短大にあっ
ら朝鮮半島、中国、
モンゴ jレへと続く文化交流の道筋
た部分と、県大を新設する際に新たに設けられた部
-人間文化
座談会
化をまともに研究している大学というのは少ないの
です。 これはとてもおかしなことだと思う 。それか
らモンゴ jレにしても、日本人のなじみのない遊牧社
会の典型として、それを研究することには大きな意
義がある 。比較住居論や比較生活論の観点からして
も、大きく農耕社会と遊牧社会という二極が存在す
ることは確認しておく必要があるのじゃないでしょ
うか。
地域がもっ個別性と普遍性
黒田 地域文化研究に関しては、非常にミクロなレ
地減」
ベjレからマクロなレベルまで様々なレベルの 「
が存在するということでしたが、その辺りに関して
は高谷先生はどの様にお考えでしょうか。
高谷 私は今まで東南アジアの研究を続けてきたの
ですが、ちょっと頭打ちの感もあったのです。その
子ひつじの晴乳
モンゴル
分とがあります。たとえば食生活コースには、鄭先
生に新たに来ていただいて朝鮮半島の食文化を中心
に論じていただく。人間関係コースでは従来の幼児
こともあって京大からこちらへ移ってきたのですが、
県大で何をやってゆくべきかということについては
色々と考えました。それで最近その方向のようなも
のを思いついたのですが、それはこういったことで
す。つまりこれからの時代の流れを考えるときに 2
つの方向が考えられる 。ひとつはローカルからユニ
バーサ jレへと向かう方向であり、もうひとつはユニ
教育に加えて生涯学習を視野に入れて研究する 。 ま
た生活デザインコースでも従来の部門を再編成する
が、その際、面矢先生がやっておられるような考現学
が生活文化学科と地域文化学科との交流のための接
バーサルからローカルへとむかう方向である 。そし
点となってくれるのではないか、と期待しています。
考現学とは、かつて今和次郎が考古学に対して現
在を考えるという意味で構想した学問です。梅樟先
の方向へと向かっているのではないかと考えたわけ
です。だから総体的、普遍的なものも必要なのだけ
れど、とにかくそれよりも先に地域的、個別的なも
生は考現学は柳田や折口の民俗学に匹敵するものと
まで評価しておられます。今和次郎とは面白い発想、
のにまず目を向けることがよいのではないかと感じ
をする人で、たとえば銀座の街角に立って、道ゆく
人がどんな履物を履いておるかということについて
記録をとったりもしている 。今我々の身の回りには
様々なモノがあふれでいるのだけれども、一度それ
らをきちんと観察し、記録する必要がある 。そのこ
とによって我々自身の生活を見なおし、あるべき生
活の姿を考えてゆく契機になるのではないかと思い
ます。
黒田 地域文化学科のアジアコースで、特に東北ア
ジアに重点を置く構成にされた、その理由をもう少
しお話いただけますか?
西川 東北アジアというのはある意味で日本にとっ
て最も近くて遠い存在なんですね。例えば朝鮮の文
て時代の流れとしてはむしろ後者、すなわち文化が
多元化する、あるいは多くの地域文化が併存する方
向、すなわちユニパーサリズムからリジョナリズム
ています。
黒田 それは分割する論理、視野を狭くとる論理と
いうよりは、むしろもっと具体的な世界にこだわっ
てゆきたいということなんでしょうか。
高谷 西川先生の言葉で言えば、自己確認をする必
要があるということなんです。比較することにより、
最終的には自己の姿を明らかにしてゆきたいという
ことなんですね。
黒田 今高谷先生がおっしゃられた様なことに関し
て、生活文化学、或いは歴史学の中で何かそれに合
致する様なことがあるのでしょうか?
村井 人間文化学部を準備してゆく段階では、やは
り地域文化学科と生活文化学科がひとつの学部を構
成する必然、性を理屈付けることが中々困難であった
人間文化・ 7
座談会
¥
A
、
号 中
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子
>
~
‘、 ~~/t
J
みの中に位置付けてゆくという手法が取られてきま
い
長
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二
した。また地域生活と結びつかない生活文化という
I
/
,
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,
/
ノ
ー
¥
¥
ものも存在しないわけですから、そういう意味では
地域文化研究と生活文化研究は同 じ次元にあるとい
ノ長/¥
j
、1 1や
かと思います。 しかし日本文化論の中では素材を日
常茶飯事の中に求めて、それをひとつの文化の枠組
~~.号,-
首
、
r
.
ど
f
告
;
,
.
う認識を持ってきましたし、その聞に違和感はない
わけです。
先程高谷先生がおっしゃられたことに戻りますが、
冷戦が終結した後でクローズ ・アップされてきたの
が民族問題と宗教問題といってよいと思います。私
が以前日文研におりました時にも、そこでの話の方
向はやはり普遍性を追求すると いうことでした。 し
かし普遍的なるものを知るためにはまず個別的なも
のを知る必要がある 。 こちらの方へ来ないかという
、
件
話があった時、その視点に共感をもつことができた
わけです。
菅浦与大浦下庄堺絵図(西浅井町菅浦区蔵)
ところで滋賀県に来て、さて近江の地域としての
特性とは何だろうかと考えますと、ひとつには普か
ら言われてきたように 、近江は日本の中心にあり交
時に、また他の地域との比較と交流の視点も必要と
通の要地として全ての人と物がここを通過してゆ く
、
なってきます。近江はそういう点で素材が実に豊富
そういった回廊的な性格を備えている 。近江商人が
に存在する所ですし、そこにこの大学の独自の特色
でたり、あるいは安土に信長が城を築いたりしたの
を発揮する余地があるのではないでしょうか。
も、そのためだったのでしょう 。それでは近江その
西川
ものは回廊としての 、つまりフローとしての性格し
代の科学妓術というのはあくまでも普遍性を追求す
かなか ったかというと、そうではない。そこにはス
るものです。だからローカルな、特定の地域に属す
僕は工学部にいたから分かるのですけど、近
トックとしての固有の文化が、特に琵琶湖を中心と
る知の体系などというものは普遍性を持たないもの
する環琵琶湖文化というべきものが存在してきた。
として軽視される 。そんなものを調べた所で、それ
したがってフローとストックという、二面性を備え
はあくまでも特殊なモノグラフにしかすぎないとい
たのが近江の特性だと思います。地域を研究する為
うわけです。 しかし、そういう地域性や伝統を無視
にはその地域の独自性、固有性を追求することと問
し、たとえば普遍的な原理に従ってデザインされた
都市計画が押しつけられることによって、都市 も集
落もしだいにつまらないものになってきてしまった
のではないでしょうか。
高谷
それは大変に重要なことで、世の中の大勢は、
やっぱり普遍なるものに向いているんですね。そこ
へ我々が、普遍よりもまず個別なるものが大事なん
だと 主張しても共感が得られるかどうかですね。
杉本
全く今の話には同感で、例えば医療や栄養指
導の場合でも、従来は平均値的 な基準をもとに判断
して対応することが多かったわけです。 しかしこの
ようなやり方では、実際に半分位の人にはあてはまる
けれども、あとの半分位の人にはあてはまらないと
いう ことがあります。つまり各個人のもっている特
考古学実習
-人間文化
性や、各個人のおかれている状況などに応じて対応
座談会
しなければいけないというふうになってきています。
ところで生活文化学科のことですが、準備段階で
は別の名称にするという話もあったのですが、地域
文化学科とのつりあいのこともあって、生活文化学
科という名称に落ち着いたという経緯がありました。
当学科には、生活デザインと食生活と人間関係とい
う 3つのコースがあって、一見ばらばらな感じがし
ます。私もそのことについては常にいろいろと考え
ているのですが、一口でいってクオリティ・オブ・
呼気ガス分析装置(体育館測定室)
呼気ガスを分析することで、体内のエネルギ一代謝の
状態が分かる 。
ライフ、すなわち生活の質を追求するという立場で
は一致しています。 しかしまた何がその人にとって
人からもっと好かれたいとか、非常に個人的な動機
望ましい生活であるのか、ということ自体は人それ
で来ている学生が多いのです。そういった、いわば
ぞれによって違うわけです。 したがって個人として
実利的動機を汲み取りながら、学問的なものへと結
志向するクオリティ ・オブ・ライフを考えていくこ
びつけてゆくことがまた難しいのですが。
とが重要だと思っています。
西川
勿論、普遍性の追求ということは、まさにサイエ
那須先生が募集されていたメンタル・フレン
ズに関しては、学生は随分関心をもっているようで
ンスの根本であり、すべての学問の基本となるべき
すね。
ものです。 しかしそれだけでは不充分であり、普遍
那 須 既 に1
0人くらいの学生が申し出てきてくれて
性を究明することと同時に、それのみではカバーで
います。やはり人間関係に深く関わってゆきたいと
きない部分を追求することこそが今大事になってき
いう気持ちが強し、からではないでしょうか。
ているのではないでしょうか。
村井 それもやはり時代の要請として 「
個人 Jの見
直しが進んでいるということと、どこか関連がある
ような気がします。今 「自分史」を書くということ
人間関係の学
那須 人間関係コースは、短大の保育学を再構成す
が一つの流行のようになってきていて、歴史学の立
る形となっていますが、県大では人間の発達という
場としてもそれが無視できないという状況があるん
ものを、生涯に渡る、長いスパンでとらえていきた
ですね。
いと考えています。保育学には保育学の五要素とい
西川
うものがあるんですが、それは第一に音楽 ・リズム。
負う形になるのでしょうが、それをどの様に位置付
第二に身体・健康作り 。第三に言葉の習得。第四に
けてゆくかということも問題があるし、また阪神大
自然現象、自然に関する概念の習得、これはサイエ
震災以降はボランティアの問題が大きくクローズ・
高齢化社会の到来に伴って、個人を社会が背
ンスにつながるものなんですが、そして最後に人間
アップされてきました。それは、個人がどの様な形
関係、つまり親子や友達関係の形成というものがく
で社会に関わってゆくかという問題で、共に人間関
るわけです。その中で、人間関係を除く 4つの分野
係の今日的意義があらためて問われる問題であるわ
に関しては、それぞれ芸術学や医学、保健学、言語
学、自然科学といったように古くからの既成の学問
けですね。
那 須 個人的な動機を学問的なものに高めてゆくた
の体系があるわけです。 ところが人間関係に関する
めにはそれなりの訓練が必要なわけですが、一方そ
学問というのは 1
9
3
0
年代以降に始まったにすぎず、
ういった個人的なものをも救いあげてゆく努力が教
歴史的に若い学問なんですね。
師の側にも必要なんじゃないでしょうか。だから単
私は、学生に家庭や学校、地域といった様々な場
に教師は教室で講義をしていればいいというもので
面における多様な社会関係の在り方に目をむけさせ
もない。ある時は宗教家の、ある時は親としての役
ることで、人間関係に伴って生じてくる様々なトラ
割をも担うことが必要なのかもしれません。
ブル、あるいはその解決の仕方への認識を高めさせ
てゆきたいと考えています。
人間関係コースを選択した学生の動機を聞いてみ
ると 、自 分が人間関係を保つことが下手であるとか、
宗教的なものには学生も随分関心をもっているみ
たいですね。それは占いとかまじないとか心霊現象
といったレベルなんですが、宗教を学問的にとらえ
てみたいという意欲はかなりあるようです。
人間文化・ 9
座談会
しているがゆえに時代を耐えぬいてきたといえるの
であって、そういう伝統文化をいとも簡単に切り捨
ててしまう日本人というのは、一面実に軽銚浮薄な
感じがしてなりません。
西川
日本の町をつまらなくしたということに関し
ては、建築家自身の罪というのはやっぱりあるでしょ
うね。 しかし日本人自身も、自分のもっ伝統文化に
食品学実験風最
対して意外と無頓着なところがある。それはひとつ
には他国から攻められた経験がなく、ヨーロッパ諸
国のような自分達の文化に対するこだわりが少ない
伝統文化のみなおし
村井 話は変わりますが、以前琵琶湖を移動する為
からでしょうね。だから、
「これが国際的なスタイ
ルですよ 」 などといわれると、意外と無造作に元か
の船を買って欲しいという要望を出しましてね。結
らの町なみを壊してしまうような所があるのです。
局予算の関係で難しいということになってしま ったん
黒田
ですが、いずれにせよ琵琶湖というものを介して地
れど。僕達は高度経済成長期以降、建築だけでなく
域を理解するということを徹底的にやりたいですね。
身の周りにあるあらゆる生活の道具を捨ててきたわ
西川
それは一年に一度でも琵琶湖を船で回遊して、
それはちょっと違うような気がするんですけ
けです。同じようなことが今東南アジアで進行して
各地の写真をとり、それが十年続けば非常によい資
いるんですが、そこでは日本とは違ってさまざまな
料になると思いますね。
民族、国家が競合し、せめぎあう状況がある 。つま
高谷
琵琶湖を視野においている研究機関は他にも
り東南アジアではエスニック状況が強まる一方で、
色々とありますね。例えば、滋賀大学もあるし、琵
伝統文化が捨てられてゆくというプロセスが進行し
琶湖研究所もあるし、近く琵琶湖博物館もできます。
ているわけです。だから文化的な現象と、民族的な
ですから県立大学もそれらの研究機関と連絡をとっ
自覚の有無というものを簡単に結び、つけるわけには
て、役割分担してゆく必要もあるでしょう 。
いかないのではないでしょうか。
黒田
西川
土井先生は、先程から話のでている普遍と個
たとえば日本人は今もっぱら洋服を着て、伝
別という問題については如何お考えでしょうか。
統的な着物を着るということは少ないわけです。 し
土井 僕がここで期待されている役割は住居デザイ
かし、かつてインドの首相であったインディラ ・ガ
ン論なのですが、元々は建築出身でして、設計者と
ンジーなど、
は外へ出かける際には必ずサリーにこだ
しての視点からすれば、住居についても普遍指向、
わったわけです。それはサリーを着つづけることが、
すなわちインターナショナル ・デザインからポスト ・
モダ?ンへの流れがある。 しかしポスト・モダンとい っ
彼女にとってインド女性のあかしであり、ひとつの
政治的姿勢の表明でもあったのです。 このように大
てもやはり欧米の追随にすぎな いわけです。ですか
ら例えば、近江なら近江という地域を調べることか
ら始めることによって本当にその地域に適した住居
を考えることができるんじゃないでしょうか。今の
日本の都市住宅などというものは、本当の日本の住
宅であるとはいえな いものだと思います。本当の日
本の家を産み出すためには、やはり日本の地域性を
もっと考慮して、それに適したものにする必要があ
るでしょう 。
村井
建物に関連して思うのですが、日本ほど伝統
を切り捨ててきた国はないような気がする 。それは
地域性を考えることなく普遍を志向してきた建築家
のせいじゃないんでしょうか。やはり伝統文化とい
うものは単に古いというだけでなく、その風土に適
1
0 ・人間文化
坂本の菊料理
座談会
陸の場合は、外からの文化はつねに政治や軍事と互い
ればそれなりに面白いことがあるんだよ、というこ
に密接に関連していたのです。一方日本の場合は、そ
とを最初に教えてしまおうという意図があるのだと
の地理的な条件ゆえに、政治や軍事と切り離された形
思います。
で外の文化を持ち込むことができたと思うのです。
考現学を始めた今和次郎という人自身は、考現学
しかし、インドでも西洋の文化が流入し、今では
を数年でやめてしまったわけです。そして農村の生
ジーパンをはく女の子も 出現 してきている 。 これは
活改善ですとか、民家研究の方へいってしまった。
たしかにインド史始まって以来のことでしょう 。 こ
つまり考現学というのは彼にとってひとつの実験だっ
れからもアジアの現状と変化には注目してゆく必要
たわけです。そして当時もジャーナリズムにはかな
があると思います。
り取り上げられたんですけれど、一方アカデミズム
には余り影響を与えなかった O それが 7
0
年代以降に
物から生活文化をみる手法
なって復活したといういきさつがあります。梅樟先
黒田
生が早い時期から考現学を高く評価していたのは、
面矢先生は考現学の視点から何かご意見があ
りますでしょうかつ
面矢
今一回生向けに考現学概論と いうのをやって
最初に西川先生がおっしゃられた通りです。
考現学という言葉自体はマスコミの中で独り歩き
いるんですが、わざわざ一回生向けになっていると
し、何か覗き趣味の徹底取材のようなものとして捉
いうのは、最初から彼らを洗脳してやろうというこ
えられてきたということもある 。本当は無論そうで
はなく、今和次郎自身は自身デザイナーだったこと
とではないでしょうか。つまりごく日常的な、普通
学問の対象とはみなされないような物事に目をむけ
もあって物の観察が中心なんですが、物の中に人々
の意識が反映されていることを見抜き、物を見る手
法を色々と探っていたわけです。先程申しました様
に、今和次郎自身は数年にして考現学をやめてしま
うわけですが、彼の学問を見直すために、今和次郎
著作集の編集責任者達が集まって作ったのが日本生
活学会という学会なんです。考現学を一種の手法と
して、もう少し理念的に生活の全体像を捉えるのが
生活学というわけです。僕自身、生活文化を研究す
るための方法論として考現学を生かすことができな
いかと考えています。
今和次郎は、服装や住居の様な人々の意識が集ま
るような要素に着目して、そこから生活を見ていこ
うとした。生活学自体は経済学や社会政策学からの
流れと、それから今和次郎の様な 「物」に着目する
学問の流れがあわさってできてきた。 ここの生活文
化学科は、まさに人間関係のようなコトを考える人
と、生活デザインのようなモノを考える人が両方い
て、その意味では、今が-.e.あきらめた考現学を継
承 ・発展 させて、生活文化学なるものを成立させる
素地はあるわけです。 しかしそれを具体的にどうす
れば良し、かが分かっていない。だから人は集まった
んだけれども、その真ん中の骨格が抜けているとい
う感じですね。
僕自身の専門であるデザインについていえば、現
在デザインを教えるコースというのは全国にたくさ
んあるわけです。美術大学や工学系にもあるし、家
墨つぼとさし金
政学の生活美術学科というものもある 。 しかし、人
人間文化・ 1
座談会
那須 京大でも大学教育における効率性や、学生へ
の教授法を研究するセクションができました。
西川
それがまた結構評判が良いというから京大も
変わったものです。
黒田
例の東大の 「
知の技法」が先鞭をつけたんで
しょうね。あれは確かに面白いんだけれども、しか
しそこまで手取り足取りする必要があるのかという
風ぐるま売り
気がします。あれだけきっちりとノウハウを 出され
ると、かえってそこに縛られて、それを超え出るこ
文系の学部の中にデザインのコースがあるというの
とができなくなるのじゃないでしょうか。
はここだけじゃないでしょうか。だから文化人類学
村井
や考古学や歴史学の人たちもいるわけで、その中で
交流し、生活文化学なるものをこれから作り出すた
である種の必要性は認めますけれども 、 しかしあれ
がずっと強調されると大学の質的低下を招く 。 もう
めには、現在のシステムよりもう少し各人の専門性
高校並みになってしまうと思います。
をはみでる必要があると思います。
あの本に関しては、確かに大学の大衆化の中
私自身の経験からいえば、講義に際してノートを
黒田 現在進行中の大学院構想というものは、いま
作っていって、それに基づいて体系的に講義をする 。
おっしゃった様な、自分の専門性をさらにはずして
教える方も毎年のことで情熱が湧かないから、聞く
新しい学問を作り出すことをねらっているんでしょ
方も熱心にならなし、。 しかしある時期、平家物語の
うね。
本を書いていた時でしたが、毎週特殊講義の初めに
五分間、今やっていることについて話したことがあ
大学教育のありょう
るんです。つまり生の、今自分がやっている ことを
村井
話した。だから来週には考えががらりと変わるかも
文化研究というのは大体がそうでなければな
らんのであって、自分のフィー jレドだけでなく外へ
しれない。そんなことを話 してやると 、学生も 聞い
出て、交流してゆく必要がある 。 良い意味でのアマ
チェアリズムが必要なんでしょう 。ただ地域研究と
てくれるんです。それが決まり 切 った講義になると
だらけてしまう 。やっぱり教育というのは研究に裏
いうと、その中に歴史学もあれば地理学もあるし民
打ちされていなければならない。教育技術だけでやっ
俗学もある。 しかしその一方で、それらのどれでもな
ていくというのは大学教育では一番いけないことだ
い。教えられる学生にとってはどれも中途半端な理
と思います。
解しか持たなくなってしまう恐れがある 。その辺を
黒田
きちんとケアする必要があるんじゃないでしょうか。
も来ましたので今日はここまでにさせていただきま
す。本日は長い間ありがとうございました。
西川
工学部には個別な専門的な研究を追求してゆ
結論めいたこともでましたし 、ちょうど時間
く傾向があります。卒業後の就職は約束されてもい
ます。人間文化学部の場合は、たしかに研究は多岐
にわたりその研究は楽しいのだけれども、そこにつ
いてくる学生達の卒業後の軌道も真剣に考えなくて
はなりません。
高谷 その辺は本当に考えなけりゃいかん問題です
ね。僕自身はまず教師達が楽しめばいいんじゃない
かと 思 っています。 どうせ世の中は変化するし、そ
の中で我々は最先端の教育をやっているんだという
自負があります。だが実際にはこの変化する世の中
でどの様な研究、教育を目指すのか、ということは
実に難 しい問題でしょうね。
村井 最近は、大学における教授法をきっちりしてゆ
かねばいけないんだ、という議論になっていますね。
1
2 ・人間文化
菅浦漁港
特別講演記録
栄久庵
室
田
山
生活文化とデザイン
司
えくあ ん け ん じ
1
9
2
9年生まれ。東京芸術大学美術学部図案科卒。 1
9
5
7年 G Kイ
株) G Kデザイ
ンダスト リアルデザイ ン研究所設立。現在、 (
ン機構代表取締役会長ほか G Kデザイ ングループ代表、国際 イ
ンダス トリアルデザイ ン団体協議会名誉顧問、 (
財)国際デザ
C
S
I
Dコーリ ンキング賞、英国 ミュシャ ・
イン交流協会理事等。I
ブラック賞等受賞。米国アートセ ンター・力レ ッジ ・オブ ・デ
ザイ ン名誉博士。
幕の内弁当の美学J r
仏壇と自動車J r
モ
著書に 『
道具考J r
ノと日本人』等。
今日は 、デザインとはどういうことか、そして生
「近代化」という路線がすでにあったからです。明
活文化とはどういうことか、そしてその両者はどう
治の脱亜入欧政策による文明開化以来の近代化とい
結び、つくのか、を中心にお話したいと思います。つ
う路線。例えば、辰野金吾の設計した東京駅。アム
まり、デザインが生活文化にどう影響していくのか
ステルダム駅を模して 、立派な首都の顔をっくり 出
が大事な点になります。
今 日は新幹線に乗ってきたのですが、その中の座
席のデザイン、ケータリングサービスの女性の挨拶
しました。これが世界とつながるための共通言語だっ
たのです。
しかし、その聞の 日本の生活は欧米に比べて劣る
の仕方、弁当の味、アナウンスの音などによ って
、
ものでした。上下水も 都市構造も大きく後れをとっ
一定の限 られた時間・ 空間の中で、人はどんな気持
ていました。富国強兵が優先だったためです。水洗
ちになるでしょうか、体がどう感じるでしょうか。
便所なんてありません。おわい (
糞尿)の臭いも恵
言い換えれば快適感や快適性ということになります
みである 、なんて言っていました。私は東京の練馬
が、これは、現代の生活文化を考える上で大事なこ
に住んでいますが、そこの名産の練馬大根もこのお
とのひとつです。最近は列車の 中のトイレもきれい
わいを肥料にしていました。近代化なんて関係なく、
になりました。 まるで喫茶庖に入ったように感じる
練馬の 「おわい電車」は私が大学に入った頃まで走っ
ことがあります。一種の快楽性が追求されていると
ていました。
もいえます。
新幹線ひとつとってみても、我 ノ
をが、徳川三百年
モノの民主化
の文化を覆した 明治以降の近代化の末喬である、と
そして、次にやってきたのが戦後の民主主義の時
いう感を深くします。工業化の進展によって 、 B本
代です。アメリカ軍の上陸とともに続々と入ってき
の生活文化はずいぶんと変わりました。 さらに戦後
たアメリカ文明。今の我々が使っている物のほとん
はごくわずかの聞に生活の仕方も大きく変わりまし
どがこのアメリカ文明の産物です。戦災で焼け出さ
た。例えば、帰ってきた E那様に奥様が三つ指つい
れた人々が竪穴式住居のようなバラックに住んでい
る頃、米軍では兵隊のパラックにまで真っ 白いフー
てお帰りなさいませ、なんてもう言いませんね。一
度くらい経験してみたいものですが。だいいち、玄
関が狭くてそんなこともできません。たとえしても
らっても 、さまにならないでしょう 。 これは戦後の
パーの洗濯機が、 GEの冷蔵庫が、真空掃除機が入っ
ている。 どれも我々は見たこともなかったものです。
特にうらやましかったのが冷蔵庫です。 ドアを開け
能率化の結果です。
京都は残りましたが、 戦災で、全国的にかつての街 々
ると氷ができている 。 日本では平安の昔から氷室な
が消えました。私の育った東京も広島もです。今年
は戦後50
年ですが、5
0
年前を振り返ってみると 、 ど
がう 。 自動的に氷ができているのです。その賛沢さ 。
こも焼け野原でした。 しかしそこには無から有を生
洗濯機も、ただ見ているうちに洗濯ができる 。肉体
み出すというエネルギーがありました。人 々はしょ
労働が要らないというのです。真空掃除機は挨を掃
どというものもありましたが 、それ とはまったくち
これは 「
快感」 という文化だなと思いました。電気
ぽんとしてはいませんで した。 ドイツもそうでした
き寄せるのではなく吸い取ってくれるという 。 こう
が、元気よく 街の再建がはじまりました 。 これは、
いうものがどんどん入ってきた。
人間文化・ 1
3
生活文化と デザイ ン
英国慰強力ミキサー
ケンミックス
¥ 1
8,
500
所μ
-命館有名百貨 j
苫にあお
自 窓 織 代 讃j
苫
ジコリロ 貿 易 機 式 会社
販品都千代田区内際問了寓 箆 ピ ル
ミキサーの広告 (
1
9
5
0年代)
ローラ一式絞 り器付き洗濯機 (
1
9
50
年代 ・東芝)
こういう電化というものは見事なものです。それ
伝されました。 この回転の音、洗濯機もそうでした
まで電気というのは光を照らすか、旋盤のモーター
が、不思議なリズム、こういう音のする道具なんて
を回すくらいのものでした。庶民の生活の中の電気
それまで身近にありませんでした。今でこそあたり
といえば、裸電球くらいしかありません。それが、
まえですが、こういう今までなかった道具たちが日
あの 8月1
5日以後、真っ暗だった街が急に明るくなっ
本のその後の生活文化を大きく変えていったのです。
たのです。一生忘れられない光というものへの感動
でした。光のダイナミズム、スペクタク jレといって
も良いでしょう 。今の若い人にも一度体験させてあ
日本人はまだまだ貧乏でした。私の家に担いで買っ
てこれるくらいの小 さな洗濯機を買おうとしたとこ
ろ、母は夕、メだと言いました。洗濯板の方が良いと
げたいくらいです。あの光への感動は文明というよ
言って 。 しかし買ってみるとすぐ 、もっと早く買え
り、文化への感動、 精神的感動でした。電化とは 、
ばよかった 、と言うようになりました。新 しい道具
つまり電気の文化化、生活化、秩序化です。
一般家庭に最初に入ってきたのはトースタ ーでし
に関してのこういう物語はいっぱいあります。はじ
めは拒否されていても、入ったとたんに 、多くの新
た。 まずパンの焼ける香りがプーンとしてきて、そ
しい道具が日本人の生活になくてはならないものに
のうちパンが踊 りながら飛び上がってくる 。 まさに
なったのです。 自動車もこれと 同様でした。 日本の
近代化は西欧化と 同義でしたが 、モノの質の向上 と
新生活です。朝がくるのが楽しみになりました。そ
してダイナミズムということでは回転器具。代表的
なのは 、今はあまり使いませんが、ミキサーです。
量の拡大を結びつけ、消費社会 を刺激していく道を
とったのです。
それまでの家の 中で回転するものなんてなかった。
それまでの日 本は生活優先の国ではありませんで
あったのは大八車の車輪 くらいです。 ミキサーは透
明のボディ とクロームメッキでピカピカしている 。
した。 日本人は不便なモノで我慢強 く暮らしていま
これでジュースをつくると栄養たっぷり 、などと宣
変に良かった。戦後社会は不便だったモノの世界を
1
4 ・人間文化
した。だから 、戦後の 「民主主義」という言葉は大
生活文化と デザイン
一挙に民主化しました。モノは一部の金持ちのため
策の一貫だ ったのでしょう。しかし、
のものではなく 、すべ ての人のためにある べきだと
ともと電化生活がありました。これが 日本 との大き
いう こと。 これを私は学生時代から 「モノの民主化」
な違いです。 ともあれ、その後の日本の家庭への新
と呼んでい ました。 自動車を、冷蔵庫を、洗濯機を
しいモノの急速な導入は突然のことではなく、この
だれもが持てる 。 このことが後に 日本人の皆が中流
意識を持つようになることにもつながりました。つ
まり、良いモノをたくさんつくって、皆が平等に持
「ブロンディ
ドイツにはも
Jのようなオリ エ ンテーションを通じ
てあらかじめ頭で知って覚えたものでした。
これと対照的なのが長谷川町子の 「サザエさん」。
とうということです。これにはモノの増産 ・
量産が不
これはドイツにはありません。当時のサザエさんた
可欠ですが、
量産の技術がすでに戦前 ・
戦中の軍事産
ちの家庭生活は今思えば物質的には貧しいものでし
業で近代化されていたことも日本に幸いしました。
私の父はハワイで開教師を していたのですが、 T型
た。卓椴台の上のたった一本のサツマイモをカツオ
とワカメが取り合いをする 。そこにササ寺エが仲裁に
フォードも持っていました。父は、 「アメリカの良
入り、結局皆で分け合って食べるなど、苦しい時代
さは、大統領も労働者もコンビーフを缶から食べる
での家庭の中のコミュニケーションがテーマになっ
ことだ」 と言っていました。 こういうモノの民主化
ていました。仮に縦糸がモノで横糸が心だとするな
こそ、戦後日本の良さだったと思います。 これには、
ら、その縦横の両方が補い合って世界ができている 。
それまでに脱亜入欧という強カな政策があったため
サザエさんの世界は横糸が中心です。 しかし、おも
でもありますが、人々の聞にも、豊かな欧米生活へ
しろいことにサザエさんは希望をもたらしてくれま
Jだという 。つ
の憧れが根強くありました。余談になりますが、私
した。我々もいつかは 「ブロンディ
が入学した海軍兵学校の文化も気風も非常に欧米風
まり、心を合わせてこれから「ブロンディ 」のような
のものでした。
生活に 向か つて頑張ろうというメッセージを読みと
ブロンディとサザエさん
アメリカ 的生活 に対しての日本人の憧れを煽った
のを取り戻そうというのが戦後復興のテーマでした。
もののひとつに、 「ブロンディ」という家庭劇の漫
楽しい、積極的で楽天的な時代だったという気がし
ることができます。一方のドイツでは、失われたも
このように 50
年前 を思い 出す と、私の心の中では
画がありました。 日本では朝日新聞そして週刊朝日
ます。 しんどかったが、遠くには光が、つまり、手
に連載 されました。その漫画に出てくるアメリカの
中古fW家庭には、どこでも冷蔵庫が、洗濯機が、バキュー
に入れるべき生活像が見えていたからです。
ムクリーナーがありました。若い奥さんのブロンディ
が冷蔵庫を 開け ると、 中にはベーコンや卵やアボガ
日本オリジナルのコンブオートとは
その後の 50
年を経るうち 、日本 というものを思い
ドなどが入っていて 、それらでサ ンドイツチをつくっ
直そう、日本のオリジナル、日本に特有な生活文化
たりする 。もちろんパヤリースのオレンジジュース
を取り戻そうという動きが 出てきました。 もともと
なども入っている 。 まだまだ日本では食料事情も貧
日本には、さまざまな歳事を通じて人の心を引き締
しい頃ですω 単にうらやましい、というだけでなく、
め、新たな事を生んでいく とい う豊かな文化がベー
スにありました。そのベースの上に加わった快楽と
あの箱の中に 「
極楽浄土が詰まっている」とさえ感
じました。バキュームクリーナーも 、見たこともな
いモノでした。大多数の 日本人 は漫画でその存在を
教わったのです。漫画の中では、ブロンディの飼っ
いうとちょっと変ですが、 快適性・ コンフオートと
いうのは、主に戦後アメリカから入ってきたもので
ているぺットの犬がそれに吸い込まれてしまったり
す。アメリカ流のコンフオートの代表的なものにエ
アーコンディショニング、エアコンがありますが、
するのですが、日本人にはそ のギャグがわからない。
私もアメリカに留学した頃、これがコンフオートと
つまり 、漫画を通 じて、機械生活を知った。家庭生
いうものか、なんとすばらしいものだろうと感じま
活の中の新しいモノのあり方、それにまつわる喜怒
哀楽を、漫画が教えてくれたのです。
した。
ところで、私は数年前に南ア フリカに行く機会が
私は先日ドイツに行って来たのですが、むこうの
友人に訊いたところ、「ブロンディ Jは戦後のドイ
あったのですが、そのとき 、セスナに乗ってジャン
グjレに行き 、テントに泊まりました。近 くにカパの
ツにもあったようです。おそらくアメリカの占領政
ウンコが落ちているような所です。そこである時、
人間文化・ 1
5
生活文化と デザイン
便意を催して、どこでしょうかと思って探すと、テ
ントの裏側に網のパーティションがある。 これがジャ
ング jレの中なのに水洗トイレでした。 これなどはイ
ギリス流のコンフオート、 「ブリティッシュ・コン
ブオート 」だなと思いました。 イギリスの植民地政
策 ・文化政策のすごさは、本国の生活様式をそのま
ま持ってきてしまうところです。例えば芝生、ゴル
フ、水洗トイレ、シャワ一、メイドさんの白いエプ
ロン、紅茶からウエッジウッドのカップまで。イギ
ぷ加a
リス人はこれらをみんな持って、南アフリカ、イン
ド、マレーシア、シンガポール、ついには香港まで
やってきたのだな、と改めて思いました。
このようにそれぞれの国にはそれぞれ独自の、オ
リジナ jレのコンフオートがあります。アメリカには
アメリカ流の、
ドイツにはドイツ流の、ロシアには
ロシア流のコンブオートがあります。では、世界に
普遍している日本オリジナ jレのコンブオート、ジャ
パニーズ・コンフオートにはどんなものがあるでしょ
うか。
その答えのひとつはおしぼり、ウェットタオ jレで
す。今や英国航空の旅客機のなかでも出してくれま
•
東芝電気釜(19
5
5年発売)
よって、その後の家のプランも変わりました。住宅
の設計が LDKの明るいプランに変わっていき、火
の安全も確保されました。
す。おしぼりひとつのもてなしが、人をさっぱりさ
このように生活を切り替えることは同時にそれま
せてくれる 。訪問先でも、お庖でも、飛行機の中で
での生活文化を壊すことでもありました。台所の神々
もそうです。 トイレに立った後の最後の佐上げもお
に手を合わせることもなくなりました。注連縄や御
しぼりです。その快適さが認められ、おしぼりは今
神酒、台所の神々を駆逐し、生活の伝統を破壊して
や世界中に広がっています。
昭和 3
3
年頃に現れた電気炊飯器も、ジャパニーズ・
い ったのです。生活をつくるとともに壊す。 これが
新しい道具の持っている性質なのです。
コンフオートに入れて良いでしょう 。今や中国でも
土で築いた黒光りする重厚なおくどさん、あるい
これなしでは暮らせないといいます。地球の人口の
は家族それぞれの座がきちんと定まっていた 囲炉裏
半分くらいが使っている 。米を食べる民族のどこの
にくらべたら、電気炊飯器は雑貨、あるいは駄菓子
国でも使っているものです。女性たちの労働はこれ
のように見えます。つまり美意識が感じられないの
によって大きく解放されました。普のお母さんたち
です。ある時、何とかならないかと思って、東芝の
のことを考えてみてください。早朝から一人起き出
電気炊飯器に注連縄を張ってみたことがあります。
して 、飯炊きの火をつけて、というつらい労働でし
やってみると、けっこうこれが似合うのです。
「風
た。もっとも、この火を見つめながらのひとときが、
景」になっていると感じられました。生活文化には
女性を救ってくれるすばらしい時間だったという人
それが風景になっていること、いいかえると 神 々と
もいます。亭主の浮気のことを思いながら、その怨
対話するための美意識がこめられているかどうかが
念を火に込め 、妄想をたくましくする時間だった、
0年し てようやく 、ただの
大事なのです。 いま戦後 5
などというのです。 このように火には神様もいまし
風景を日本の風景に、 日本の形にしたい、という思
たが、同時に危険なものでもありました。
いが人々の聞に強く芽生えてきたのです。
ともあれ、この電気炊飯器は、それまでの飯炊き
例えば自動車は風景を大きく変えました。 自動車
の装備と比べてみると、自由に動かせ、決まった置
のための立体交差が都市の風景を壊しました。新し
場所も要らず、安全であり、清潔で、効率も良いと
い道具というのはこのように強力 なものです。目 的
いうものでした。電気炊飯器は、我が国オリジナ/レ
に対して 正直 なために 、既存のものを破壊し、同時
の家電第一号と言って良いでしょう 。電気炊飯器に
に新たなものを構築するのが道具です。 ロサンゼル
1
6 ・人間文化
生活文化とデザイン
スの自動車文明の風景を初めて見たとき、何車線も
の道が地面から引きはがされて巨大な都市のレリー
フができている姿に驚いたものです。日本の都市は
れに合わせて盛りつけてくれる庖もあります。いわ
ば、ひとつの風景をつくってくれるのです。外国か
らの客を迎えるときなど、これは大変喜ばれます。
どうなっていくのでしょう。残念ながら日本の立体
「元禄花見踊り」なんていう題で頼んだこともあり
ました。弁当の蓑を開けると目の中に風景が飛び込
んできます。劇的であり、メッセージが感じられる
のです。いろいろな料理を取り合わせて一度に食べ
交差には美しいものがあまりありません。道具の持っ
ている破壊力をどうするかは、実はまだ大きな課題
なのです。
ようというのですから、欲が深い。だれでもが喜ぶ。
幕の内弁当の美学
日本では精度の高いモノが好まれます。 しかも何
でもコンパク卜にしていくのが大変に好きです。以
前か ら私はこの 日本の美意識を 「
幕の内弁当の美学」
と呼んでいます。
幕の内弁当は、限られた大きさの中にい ろいろな
料理をとりあわせて美しくおさめてある 。懐石料理
を短い時間で、お芝居の合間などに食べるためのも
のです。新幹線の幕の内は駄目ですが、正調幕の内
というのは大変すばらしいものです。特に優れてい
るのは 「
松花堂 Jという正方形の箱を田の字型に四
つに仕切った形の弁当でしょう 。 これを六つにする
と長方形になって収まりが悪く、二つでは両者が対
時してしまうし、三つだとアンバランス 。四つが適
正です。 この四つに仕切った中に料理を盛りつける
とオムニバス夙になって、その時々の気分が出ます。
俳句と同じように、こちらで題を決めて頼むと、そ
しかも美しい、という大変にマルチなものです。
日本ではアメリカのように大きな家には住めない。
だから限られたスペースを最大限に使う 。 このため
の知恵が幕の内弁当の美学のもとです。スペースが
限られている 。だからこそ、そこには知恵が生まれ
てくる。このような幕の内弁当の美学が生んだのが、
戦後の優れた日本製品です。例えば、だれでもが写
せる小さなカメラには、日本的な 「モノの民主化」
の精神のほかに、幕の内の美学が込められています。
また例えば、小さな自動車があります。 コンパクト
で、高密度で、パワフ jレ。幕の内の美学を体現した
ものです。 日本はこれでずいぶんとド jレを稼ぎ出し
ました。かつて 「スモー jレ・イズ ・ビューティフル」
という言葉がありましたが、小さな日本車のコンセ
プトは 「スモール ・パット ・パワフル」、小さいけ
れど強力、といえます。もともと自動車もカメラも
欧米からやってきたものですが、今ではもう日本車、
c
r
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,
幕の内弁当 (
1
松花堂J
)
人間文化・ 1
7
生活文化とデザイン
ゼー
小さ な車 (
コンセプ 卜力一・ GK-O ・1
9
7
3
年)
日本カメラは日本のオリジナ jレといってよいでしょ
茶室の庭の手水鉢
合性という点で世界でもめずらしいものです。
う。最近ではヨーロッパやアメリカの製品も、これ
完成された茶の湯に比べたら、今の日本の住宅に
らの日本製品にならうようになってきました。 これ
は作法なんてありません。玄関口で立って挨拶した
は、いわば里帰りのようなものです。
らよいのか、座って挨拶すべきなのかもわからない。
日本的な幕の内の美学の優れた点は、限られた枠
応援三点セットの所でどうお茶を出したらよいのか
取りの中での快楽主義を認めていることでしょう 。
さえ定まっていない。今の住宅はいろいろなモノは
人生も 8
0
年と限られている 。その中で最高の密度を
そろったけれど、まだ絵の具のパレッ卜の段階です。
つくっていこう、という人生観にも繋がります。一
色は 出そろったが、絵が描けないでいます。住宅の
定の限度を設けることによって、その中で生活の風
空間と作法、道具と作法の関係は、これから抜本的
情をつくっていくことが可能になるのです。
に考えていかなければない課題でしょう 。
日本の生活文化の課題
人とモノの関わりをつなげる作法です。ですから社
デザインというのは、生活とモノをつなげる作法、
「
振り返れば未来 j という言葉があります。 これ
会生活、個人生活、生活の中の儀式のあり方などの
までの人間の体験というものは大変なものです。困っ
すべてがデザインと深く関わっています。生活をつ
たときにはそれに学ぶことができるということです。
くる精神のありようとモノのありようとをつなげる
わずか数百年を振り返ってみても、日本には、さま
のがデザインの役割です。例えば葬式の悲しさなら
ざまな魂のやりとり、心のやりとりの試みがなされ
てきました。アミニズム的に言うと見えない神々、
悲しさを表現するのが葬儀のデザインです。結婚式
精神がいっぱいありました。それらを振り返り、現
が、これも結婚式にふさわしい表現を求めてのこと
代に引き出していくことが、これからの日本の生活
です。結婚にまつわる人の心、肉体、社会や生活の
文化の課題でしょう o
例えば茶の湯は見事なものです。茶の湯では、人
ありょうがすべてまとめて表現されています。 こう
いう人々の生活の表現を、人々の代わりになって行
の心を退屈させないために、茶器をファッションショー
うのが、デザイナーという職業なのです。
は最近さまざまなパーフォーマンスがあるようです
のように変えていって、茶器を通したコミュニケー
今や日本は模倣の時代を過ぎて、いよいよオリジ
ションがなされます。茶室と庭は借景的な考え方で
ナルなデザインの時代に入ろうとしています。それ
空間が計画されています。茶室は小さければ小さい
には心のありょうをモノに置き換えるようなデザイ
ほど良いなどといい、たった二畳の小さな茶室もあ
ンが要ります。例えば仏壇がそうです。仏壇を見つ
ります。確かに千畳敷でお茶を飲んでもどうしよう
めていると自然、に別世界への入り口のように感じら
れる 。すぐれたデザインです。
もありませんね。 この小さな茶室はまさにマルチメ
ディア 。茶室の中のいろいろなモノで言葉によらな
いコミュニケーションが盛んにはかられます。釜の
湯の沸く音、掛け軸、お香、床にいけられた花、そ
人の思いをモノのありように置き換える 。 ここに
は規範 ・倫理観が要ります。デザインにはものごと
の真・善 ・美を見極める倫理観が必要とされている
して茶碗など、それぞれが五感を満足させるばかり
のです。デザインの真 ・善 ・美については、やや哲
でなく、生活をシンボライズして表現しており、し
学的な話があるのですが、今日はそろそろ時間となっ
かもそれらが総合されて全体がひとつの完成された
てしまいました。 この辺で私の話を終わりといたし
姿になっている 。生活文化のシンボライズ、その総
ます。
1
8 ・人間文化
特別講演記録
近江の民俗-山と}fI
と
湖
と
木村至
宏
きむらよしひろ
1
9
3
5年滋賀県生まれ。大谷大学大学院文学研究科中退。
大津市史編纂室長として 『
新修大津史』全1
0巻の編纂を担
当。現在、大津市歴史博物館館長、近江地方史研究会代表
幹事、成安造形大学非常勤講師。
近江の道標 Jr
図説滋賀県の歴史』
著書に 『
近江の街道 Jr
近世風俗図譜祭礼 1J~図説近
『
江戸時代図誌畿内編 1Jr
江古寺紀行』等。
湖と人々ーエリ漁と鮒す、し
となります。 エリ漁は近江を代表する風物詩です。
私は近江が好きで近江をいまだに回っているので
(
図 1)これが一番基本のくいであります。穴があ
すが、「近江の国を一言でいったらどのような国か」
いているのが魚が通る魚道で魚の習性に合わせて作
と他府県の方によく 聞かれると 、私はいつも 3つの
られていて 、最後にエリ 壷 (おとしくち ・陥牢部)
要素があるのではなし、かと答えています。 l番目は、
に魚が入るようになってい ます。 これが用いられる
いうまでもなく琵琶湖があることだと思います。
ようになったのがいつからなのかはわかりませんが、
7
0
0
年以上前から人口があまり変わらずして現在も
古墳時代にはその漁法が定着 したのではなし、かとい
生活している琵琶湖に浮かぶ沖の島をはじめ、湖に
われています。
はいろんな形で私達に学問的 な欲求をふくらまして
エリと共に議と言うものが、朝鮮・ 中国から渡っ
くれるものがあります。 湖が私達の文化・ 歴史にど
て近江にはいってきたのではないか。漢というのは
のような影響を与えたのか。つまり歴史とい一つの
鮒ずしの元です。いわゆる 魚を姿のまま塩と蒸し 、
分野だけではなく、 湖が近江の人達にとってどうい
米で調整した一種の漬け物のことで、中国では漢、
うかかわりをもってきたかについて話をしていきた
日本では鮒ずしというのです。エリ漁の構造そのも
のは中国広東省の入棚漁業と 同 じです。 この仕方が
いと思います。
琵琶湖ではまず漁 を しています。琵琶湖は、 『万
うみ
葉集』や、記紀の時代には湖 といわれていました。
中国 ・百済 ・B本海 ・若狭を経て琵琶湖に入ってき
たと言われています。文献上では 、『大島 ・奥津島
湖稼ぎという言葉から考えて漁といえばエリ漁のこ
とがいえると 思います。 東
入
、 魚が入るこれが琵琶湖
の最古の魚の捕 り方で、し かも 現代まで続いている
捕 り方です。業者に 聞きますと、エリ漁=エリ稼ぎ
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ララミワ一トカ ボポポががわン オ.
ツコオカ七じケオ
1234567
琵琶湖畔に設置された鯨(大津市歴史博物館提供)
図1 臥 (
橋本鉄男著 『
琵琶湖の民俗誌』より )
人間文化・
1
9
近江の民俗一一山と河と湖と
文書』に、鎌倉時代に、内湖でエリをしたという記
述があり、ここから鎌倉時代にはエリ漁が認知され
たことがわかります。 この古文書ではエリの字は江
臥)
利・江入・ゑりとあり、いまの 「魚が入る J(
の字を使うようになったのはもっと後のことだろう
と思われます。
エリ漁は統計上、 1
9
7
9年 (昭和 5
4)1
3
0カ所、
1
9
6
4
年 (
昭和 4
2)2
0
1、現在は 1
0
0を切るだろうとい
われています。エリ漁も、時代が進むにつれて消え
ていくかもしれません。今、エリ漁が集中している
ところは、琵琶湖の北・西に位置する高島郡・東浅
あらめ
井郡 ・滋賀郡です。 エリの竹貨には組目(1、 5
8)
と細目 (3P)があります。江戸時代は竹で、その
後葦に、そして現在はビニールで組みます。本来の
エリの形は同じでも使う材料が異なっています。粗
目で捕れる魚は鯉・鮒、細目で捕れるのは小アユ ・
エビ ・モロコなどです。古く江戸時代から琵琶湖の
親郷は堅田、エリの親郷は守山の木浜といわれて、
木浜のエリ師にエリ漁の指導を受けていましたが、
明治時代にな って技術は県下に広まりました。
近年カラスミ,キャビアと並んで日本の珍味とい
われる鮒ずしは琵琶湖の産んだ最大の賛沢品であり、
古代から現代に至るまでの栄養源です。鮒ずし (
鮒
鮪)は文献上、古くから登場します。同じ人間の手
で作られたものでも漁は出てきませんが、食べ物は
関心が高いのか、古代からでてきます。鮒絡の前は
なれずしと呼ばれていて、本なれずしと生なれずし
の二種類があります。本なれずしとは時間をかけて
十分発酵したもの、生なれずしは期間が短くご飯の
鮒ずし(大津市観光連盟提供)
2
0 ・人間文化
守山市幸津川町の「すし切り祭り」
(
平成 6年 5月 5日 大津市歴史博物館提供)
形が十分残っていて魚と飯と同じ比重のもので、こ
れを飯ずしともいいます。今のお寿司の元祖に当た
ります。人工的に酸っぱいのを作 ったのは江戸時代
からだろうと言われています。県下の鮒絡は晴れの
日 (
正月 ・お盆 ・お祭り )の主要食品として近江の
人にとって欠かすことのできないものです。その代
表的な祭礼が、 5月 5日に守山市の下新川神社で行
0匹をま なば
われる「すし切り祭り」です。鮒ずし 1
しという箸で押さえながら神前で、頭・胴・ 尾とに
切り、さらに胴を 3つに切って、また 1匹の形に戻
して神前に供えます。そして供えた後、切 ったもの
を共食として食べるという祭りです。 またすし切り
役はその地域で生まれた長男だけしか行えない伝統
的な行事です。その他の地域でも同じようなことが
行われています。栗東町の大橋の三輪神社では、 ド
ジョウ ・総のなれずしを神前で切 って 、共食と して
食べます。 このようなお祭りは、地域の通過儀礼の
中の一つになっています。そして、この他もろとす
し ・ハスすし ・アユすしなどが琵琶湖の周りに しっ
かり跡を残しています。
奈良時代 7
1
8年の 「賦役令」の中に近江鮒という
言葉が 出て きます。 また平安時代の 「延喜式」の献
上すしの中にも鮒絡が出てきます。その中で私が注
目しているのは、内膳弓に鮒絡を献上しているとい
うところです。そこには朝妻筑摩 (
現在の米原町)
の御厨から鮒絡が各 1
0
個献上されるとあり 、近江の
献上品の最大品目は鮒絡だといえます。伝統を受け
継いで現在もかつて安曇川御厨のあった安曇川町北
近江の民俗
山と河と湖と
をつけた縄を船同士で引っ張っていき、一夜置いて、
また、船で引っ張って帰ってくるという漁です。近
江ではあちこちで行われましたが、最も多くの人達
(
漁師)が集ま ったのは、堅固の小番城です。小番
城は地域がそのまま釣り漁師の町で、江戸時代は一
年のほと ん どを湖上で過ごしていたらしい。帰って
くるのは、正月、お盆、そして祭りの年 3回だけで
す。仮の宿は船で、釣り漁師の乗っている船をはり
船といいました。そこには、近年消えてしまったふ
なだま信仰がありました。ふなだま信仰とは、箱船
の中に、青石が入れてあり、その箱をその船の中の
最も神聖な場所として杷り、漁や船の安全を祈願す
るというものです。漁師は年 3回陸地にあがる時、
その箱を持 って上がり、漁に出るときまたその箱を
持って出ます。 日本海の松前船でも同じ事がありま
した。船の中心に桐を作り、女の髪の毛や人形を祭
り、漁の安全、海洋の安全を祈りました。それと同
様のことが、湖でもあったという事です。
うえ
また茎漁というのがあります。それはもんどり
(
図 2) (
竹貸) を魚が通るところに置いて捕る漁
です。
竹筒漁は節を抜いた竹筒を 3本ぐらいを取って、
樽のなかで鮒にご飯を まぶしてい るところ (
阪本屋提供)
舟木の人々が 1
1月 2日には京都の上賀茂神社に魚を
献上しているし、大津市堅固からも下賀茂神社に古
式ゆかしい行列をして魚を持っていっています。い
ついつまでも湖の幸がとれますようにと言う願いは、
図2 もんど り(
橋本鉄男著『
琵琶湖の民俗誌
』より )
音も今も漁民達の最大の願 いです。
御厨の中にあって、 鮒鮪を作る人を、賛人、鎌倉
沈めておく 。捕れるのはウナギです。地域によって
時代には供御人といわれ、 鮒鮪を作る地域が近江の
魚を捕るための捕り方をいろいろ考えています。更
周りに広がっていきました。江戸時代、将軍家に献
上するものはその国の名産品だったわけですが、
に網を使う漁には、打ち網、 地引き網、追いさで漁
というのがあります。
1
8
1
2
年 「文化武鑑」によると、近江彦根藩は 4、1
1
月に 、膳所藩は 4、 6月に鮒鮪を献上していること
が出ています。鮒ずしは近江にとって特に著名であっ
たということがここからもわかります。江戸時代の
俳人与謝蕪村も 『鮒ずしゃ彦根の城に雲かかる 』 と
すことができないのは川稼ぎです。川稼ぎといえば
川と人々一築漁とかわらぼとけ
次に近江の国を語る場合、湖 に注ぐ 「川」 も重要
です。湖と川の漁は一体となっています。川で落と
いうめずらしい句を詠んでいます。漁としてはエリ
築漁のことです。 1
2
世紀の曽弥好忠の歌集に野洲川
があり、捕れたものから鮒絡ができ、それが広がっ
の築漁のことが出ています (
1野洲川の早瀬にさせ
て地域共同体を結ぶ祭礼の中に鮒絡が根付いていき
ました。近江の国の食文化を考えるうえからも鮒鮪
上り築と下り築の 2種類があります。あめのうおや
とエリは欠かせないものだったのです。
鮎は遡上します。魚の遡上する 性質を利用したのが
あとエリ漁の他 に釣漁があります。 3-4Rも餌
る上り築
けふの日和に幾ら積れる J) 。築漁には
上り築で、魚が川を降下するものをとらえるのが下
人間文化・ 2
1
近江の民俗ー
一
一山と河と湖と
り築です。 また上り築には直線型と 曲線型の 2種が
あります。築漁で一番大きいのが安曇川で、かっと
り築と呼ばれています。川を石でせき止めて、魚が
ーカ所 (
おとし 口) しか行けないようにした、ウエ
(
茎)を置いたりして 捕 ります。 ウエは梁のことで
すが、地方によって築の種類に違いがあります。湖
湖西地方は下り築で
東 ・湖南地方は上 り築、 湖北・ i
行われていました。先に述べた歌集から築漁は古く
あめのう お
から行われていたことが判 ります。野洲郡では鮫の
ことを鰍の字を使います。脂の乗ったこのおいしい
魚は秋しかいないと言うことからきています。秋に
なって、一番に捕れた魚は三上神社の神殿に供えら
れてきました。 このことは江戸時代初期の 『三上大
明神之事』に出てきます。
「九月九日に大明神へあ
めのうおの魚を供え、野洲川にて取るなり 。 この魚
を捕って明神に供える j 古くは、三上神社にとって
一番重要な祭はあめのうお祭と言いましたが、いつ
の聞にか甘酒祭という名に変わってしまいました。
どうして変わったのかは判りませんが、民俗という
のは、いろんな取り合わせを考えないといけない、
一つの例でしょう 。
そして、近江には珍しいケースが民俗の中にあり
ます。それは 「かわらぼとけ」のことです。毎年 8
月の 1
3日から 1
5、6日の 問
、 大津市の葛川谷を通っ
て朽木を経て、琵琶湖に流れる安曇川筋だけにかわ
らぼとけという行事が行われます。かわらぼとけと
かわらぼとけ 大津市葛川中村町
6日 大津市歴史博物館提供)
(
平成 5年 8月 1
書きます。
) 集落のかわらぼとけをする場所は決まっ
は新しく先祖の霊をお迎えして、精霊を送り 出す、
ていて 、集落全体以外に 、各家が松明をつけて 、か
そのとき川原にこの石はという石を六つ並べ、これ
30センチほどの石)の前に水がつかな
わらぼとけ (
をろくじぞうといって 、おまつりします。 (かわら
いように 、花 と果物・野菜を供えるということが現
ぼとけもろくじぞうも漢字を使わないでひらがなで
在 も行われています。一番大事 な夜はろうそくまた
¥
:
&
,
:
1
眠
"
は松明を灯すのですが 、各家がするので川原は壮観
です。集落ごとに若干 日を変えていますが、こうい
う行事は、朽木や九谷でもあります。川に流すのは
鳥取の流しビナと 同 じ傾向です。兵庫県の 円山川の
上流に生野町があり、その 山間でもかわらぼとけを
します。全国でも 山間の地で行われ、空間を作る川
によって、黄泉の 国に行ってほしいのか、あるいは
そこから来たのか、いわゆる 、川が冥界、陸が現世
、
その橋渡し役がかわらぼ とけか、彼岸と 此岸なのか、
いろいろと川についての解釈の仕方があります。私
は 8月になると敬度な気持 ちで、子供達がかわらぼ
とけをつぶしているのを見ています。石は 、川 に流
ひとがた
す人形みたいなものです。江戸時代の初期 までは
ひとがた
安曇川の上流につ くられた「かわら(まとけ J (
大津市葛
4日 大津市歴史博物館提供)
川坊村町平成 6年 8月1
2
2 ・人間文化
人形は 、神仏に通 じたものでした。それが、 武家社
会から庶民の生活に人形がはいってきてから 、雛壇
近江の民俗一一山と河と湖と
華麗な太鼓踊り
伊吹町春照(平成 6年大津市歴史博物館提供)
を作り飾ることから、捨てる(流す)のはもったい
ないということで家の中に置かれるようになりまし
のだという古代の祖霊信仰です。農耕社会において
た。いずれにしても川というのは地域共同体を作っ
かった場合、山の神に必ず、祈雨、あるいは降雨、
は水をもたらす山の存在が大きい。 もし雨が降らな
ていく上で大きな役割を果たしているのではないで
つまり雨乞いをします。全国に比べて、近江ほど太
しょうか。
鼓の所有量が多いところはありません。たとえば伊
すいじよう
吹山麓の春照の太鼓踊りのように 2
0
0をこえる太鼓
山と人々一信仰と木地師
「近江の国はどんな国か」と聞かれたときに私は
をもって行列するすごいものがあり、太鼓や太鼓踊
l番目湖の園、 2番目に山の園、そして道の国であ
いつも不思議に思うことは比良山系に小女郎ガ池が
ると答えています。 日本で一番大きな湖、琵琶湖と
いっても近江の 6分の 1の面積を占めているにすぎ
ません。周囲を美しい山なみに固まれた山の国です。
あり、この池は標高 700~800m の高い位置にあるの
一面では恐ろしい池です。 この池は江戸時代から地
他の府県にはない美しい山容をした山が多 く存在し
域の人 々が 『雨たもれ、小女郎が池』 という言葉を
ています。たとえば三上山・徽山(観音寺山) ・飯
道山 ・太郎坊山 ・長命寺山・霊仙山などがあります。
言いながら坂を登っていったと言われる池です。 ま
た、比良山系の反対側に鈴鹿山系の霊仙山がありま
そして、近江の美しい形をしている山にはどういう
す。標高 1
0
3
8
mの頂上に御池があり、この池は琵琶
りは全て雨乞いと降雨による返礼に通じます。私が
に、昨年の潟水でも少しも枯れなかったことです。
わけか巨岩がそそり立っている場合が多い。古代の
湖の形を しています。 この池の周りは何もない草原
人達は大きな木、大きな石に対して、畏敬の念を持っ
地帯ですが、この池もまた全然枯れない池です。 こ
ていました。 自分達の魂はあの山の巨石のところに
いくんだという山全体に対する神体山信仰、神奈備
うして地域の人々は日照りの時は雨乞いをします。
山信仰というのが非常に強い。 自分達の先人の魂が
雨に関係する山の名称や寺院も近江にはたくさん
あります。彦根の回りにある湖東三山もそういう山
山の神となり、山の神が私達の地域を守ってくれる
です。一番手前南側の百済寺は百済国の龍雲寺に模
人間文化・ 2
3
近江の民俗一一山と河と湖と
山の神の神木に置かれた男の人形
(大津市校二丁目
大津市歴史博物館提供)
して創建され、真ん中の金剛輪寺の三重塔は待龍塔、
平成 7年正月初寅の日 山の神に作られた祭
壇(大津市枝二丁目 大津市歴史博物館提供)
もう一つ近江は全国の木地師の故郷であるという
北側の西明寺は山号が龍応山という名称があります。
ことです。縁起によれば文徳天皇の第一皇子である
全部 「龍」、すなわち水や雨に関係する寺なのです。
惟喬親王は即位できず、流浪の末に鈴鹿山系の小椋
特に百済寺には 「雨が降れ」 という願いが込められ
谷で法華経の経軸から連想してろくろを思いつき、
た絵馬や、 「降ってありがとう 」 という感謝の意を
それを使って木地を挽く業を人々に教えたことには
込めた白い馬、黒い馬の絵馬が置いてあります。山
じまるといわれています。小椋谷は現在の永源寺町
の神は女神です。近江ほど山の神神事の多いところ
はありません。山の神神事の多いところに、山之口
です。民俗学者の橋本鉄男先生がかつて数年かけて
調べられた、 『氏子狩帳』 というのがあります。小
と当屋の 2つがあり、地域によって、 『不幸、苦難
椋谷の中には 2つの中心地があります。その集落は
は山之口以降』 といわれています。「 どうか今年も
君が畑と蛭谷です。木地師の活躍の範囲を見ていく
雨が降って、山が茂って、水がいついつまでも流れ
るような山になるように。
」 という願し、から、茂る
と、近世に外に出て全国で木地師を営んでいる氏子
は、北は福島、南は熊本まで氏子狩り帳に記入され
山=男と女として、男根を作る 。想像を絶するよう
な男根を作って、担いで山之口の大きな洞に放り込
ていて、それら全てが、小椋谷の惟喬親王を祖神と
しています。小椋谷の木製品で、特に有名なのが、い
んで、どうか今年も健康でありますようにと祈念す
るのです。その他に、三つ股(男性)、二股 (
女性)
うまでもなく盆、お椀、そして朽木谷 (
高島郡朽木
村)の朽木盆と言われるものです。
の木を探してきて、その二股の木に白い布を張り、
そこに女性の顔を書いて一昼夜山の神の所に置いて、
ちの生活の営みを知る歴史が沈着しています。人間
朝まで待っていると願いが叶うという行事もありま
文化学部の先生方が見られるとまた違ったものにな
す。山というのは地域によって、単に眺めているだ
るかもしれません。今日は近江の湖と川と 山につい
けの山から、 山の幸を与えてくれる山、祈願する山
まで様々です。
て、特徴的なことをお話しさせてもらいました。
2
4 ・人間文化
こうしてみてくると私達の周りの山々には先人た
論文
安
Mt
もう一つの強制連行
とく
さん
徳相
人間文化学部地域文化学科
朝鮮人学徒兵の出陣
三、四年前、学徒出陣五十年のふしめがあった。当然、新聞、雑誌、 T Vは何回も特集を組み、
当事者の 「
著書 J(青春残酷物語)も筆者が手にしただけでも十余冊にもなった 。私はそれらの報
道や刊行物に、かつての戦友だった 「植民地学徒兵Jに関しての思い出とか、その苦悩に対する測
隠の情とかが少しは語られたり、書かれるだろうと期待して、見たり読んだりしてみた。 しかし、
見事に肩すかしをくった。どうしたことか、植民地出身学徒兵に言及したのはただの一つもなかった。
統計からみると十万人の学徒兵の中で植民地出身兵は五千人を越える 。二十人に一人以上いるこ
とになるが、この見事な忘却ぶりはどうしたことなのか。私はこれこそ日本の 「
植民地欠落史観」
を象徴するものと思った。そしてそれは戦後日本とアジア諸国、とりわけ隣国朝鮮 (南北)との不
協和音の根源であると思った。 ここに埋もれた史実を提示する、共に過去を直視して考えよう 。 こ
の論文を書いた動機はそれに尽きる 。
志 願 兵 令公 布の 背 景
0万人 ともいわれる 「
学徒出陣 Jの存在
八万とも 1
理科に転換したり、または休校になることだけが先
は 「昭和史」を語るとき避けて通れない 。 また、
なかった。
「
学徒出陣」は 「きけわだつみの声」とともに 「悲
しき青春」の意味をもっ 日本語に なったといわれる 。
決していて、自分達の学生生活はどうなるかわから
日本人学生不在の学校に朝鮮人学生だけが残る変
則事態も理論的には予見できた。
痛ましい史実である 。 しかし 「学徒出陣Jにはもう
この異常な 「変則 J事態を避けるために公布した
一つ当時の植民地朝鮮 ・「台湾」学生の苦悩の 「出
のが陸軍省令 4
8号 「陸軍特別志願兵臨時採用規則」
陣」があったことを忘れてはならない。
及びその改訂版である陸軍省令第 5
3号 「陸軍特別志
朝鮮・「台湾」の学生がどうして軍門に入ったの
願兵臨時採用規則改正」同陸軍省令第 5
4号 「修学継
かを経過的にのべると、 4
3
年 9月2
1日、時の首相東
続ノ為入営延期等ニ関スル件」で、それは異法地域
条英機が定例閣議で戦局の非常体制を 「国民に告ぐ 」
朝鮮との法体系の矛盾を解消するため稔出した使令
と同時に理工系以外の大学の停止と大学専門学生の
徴兵猶予の停止に言及したのがはじまりである 。東
であった。
陸軍省令4
8号は 3
8
年公布した志願兵令とは異なっ
条の発言はその後、同月 2
6日まで各省庁が具体案を
て、その第一条に 「
戸籍法の適用を受けざる者にし
提出、 2
8日の定例閣議を経て 9月3
0日の御前会議が
て左に掲ぐる資格を具へ陸軍の兵役に服することを
承認した 「今後とるべき戦争指導要綱」のなかにく
志願するもののうち、本令の規定による鐙衡に合格
みこまれ、政府は 1
0月 2日官報をも って、兵役法第
したるものは朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所又ハ台
4
1条第 4項 「戦時マハタ事変ニ際シ、特ニ必要ア jレ
場合ハ勅令ノ定ム l
レ卜コロニヨリ徴兵ヲ延期セザル
コトヲ得」の規定により、 「当分ノ間在学ノ事由ニ
湾総督府陸軍兵志願者訓練所の過程を経ることなく
因ル徴集ノ延期ハコレヲ行ハズ」と勅令を公布、即
令を超過又は徴兵適令者で中等学校卒業程度を、入
学資格とする修業年限二年以上の学校に在学する者、
日実施した。所謂 「
在学徴集延期臨時特例」である 。
こうして 1
0月25日から 1
1月 5日までの間に臨時徴
直ちに現役に編入す」とあった。
左に掲ぐる資格とは 「本令を執行する当時徴兵適
大学令による医学部、理学部、工学部及主として工
兵検査が実施され、法文系学生は軍門に入ったので
業に関する学科を教授する専門学校、文理科大学、
ある 。
高等師範、大学及師範学校に在学する者を除く 」者
しかし、この兵役法はあくまで日本入学生のみに
たちであった。みられるとおり戸籍法非適用者を対
適用されるものであった。日本政府はすでに42年 5
象にした陸軍省令第48
号の公布は 「
在学徴集延期臨
時特例」によって、実質的に日本人学生が不在とな
月 8日、朝鮮人に徴兵制施行を閣議決定し、 44
年か
ら実施をめざし準備していたが 4
3
年1
0月段階、朝鮮
る学校に朝鮮 ・「台湾」学生のみを残す異常実態の
には、まだ戸籍法が適用されていなかった。そのた
消去、即ち朝鮮人・ 「台湾人」学生の徴集を狙った
め戸籍法にのっとる兵役法のそのままの実施は不可
ものであった。
“志願による徴集"という一見矛盾した 「臨特徴
能であった。
朝鮮人学生にとっては母校の学科が統合されたり
兵制」はこうした 「配慮」から生じた。
人間文化・
2
5
もう 一つの強制連行
では、
“志願であるがお召しはくだった"式の兵
役の途によって朝鮮出身の学生がどれだけ 「出陣」
したのか、第84回帝国議会説明資料によると下記の
んな生活をしていたのか、現認した 77名の明大留学
生学籍簿でかいまみることにしたい。
予科から 5 年 ~6 年と修学年限の長い学部生と三
年の専門部生では微妙なちがいがあった。学部生 2
1
表の通りである 。
名の親の平均資産は 1
7万6,
000円である 。職業は地
朝鮮人学徒適格者及入隊者数
地域別
主、農業 8、商業 3、教員 1、弁護士 1、運輸 2、
道会議員 1、中枢院参議 1、官塩肥料扱 1、鉱山業
適格者
入隊者
鮮
1,
0
0
0
9
5
9
9
6
日 帰省中
本
留
弓
A
i
'
: 日本残留
1,
5
2
9
1,
4
3
1
9
3
1,
4
0
0
7
1
9
5
1
九月短縮
1,
5
7
4
9
4
1
5
9
1、海運業 1、役所吏員 2、鉱山業 1、綿問屋 1、
朝
就
職
中
割合%
1、請負業 1、無職 1と雑多であるが、あきらかに
植民地権力と密接な関係を推察できる職業が多い。
00
0円で学
一方専門部 56名の親の平均資産は 9万3,
部に比し約 2分の l程度である 。職業も地主 ・農業
33、商業 6、旅館 2、会社員 2、組合書記 1、教員
7
0
0
3
3
5
4
7
無職 5、不明 1である 。 6割近くが農業で地方の有
6,
2
0
3
4,
3
8
5
7
0
庭もあり、平均資産の低下の一因となっている 。
000円以下の家
力者と思われるが、なかには資産 5,
計
柳在栄 (
明大政経)は学部生の「大部分は地主層
およそ 4,
400人である 。 これだけでも日本の全出
陣学徒の 1
0
0人に 5人は朝鮮人学徒兵が占めたこと
になる 。決して少ない数字ではない。
しかも、この数字は 43年 1
2月 1日
、 20
歳を越えた
入隊者に限定され、その後 43
年1
2月 1
4日、徴兵適令
が1
9
歳にヲ │
き下げられた「臨時特例」や 44
年 4月施
の子弟であり学費のほとんどは小作料で、あった」
『学兵史記』とのべてい るが学部と専門部の聞には
富豊型 ・中農型の差はあったようであるが共に比較
的恵まれた階層であることはまちがいない。
しかも大学生の総数は 7,
000にみたないなかで、
個々の学生も 「大学に進学した者は郡内で自分ひと
行の徴兵令、さらに 4
4
年1
0
月の 1
7歳以上 「
兵役編入」
一門で自分しかいなかった」と自負するほど
りJI
と、とりこみ対象の拡大にともなう入隊者は含まれ
朝鮮社会の知的エリートであった。 自負はかれらの
出身校が培材、松都、光成、京畿、景福、平壌 2、
ていない。
それらの措置による入隊者を含めば出陣学徒の総
数はさらに大き くなる。
慶北、海州、崇実対大郎師範、英彰、東星など狭き
門として知られる名門中学ということにもあった。
地域別入隊比率は朝鮮内の学生が 96パーセント、
出身校をみてもかれらは激烈な競争を突破して数少
次いで日本から帰省中の学生93パーセントと朝鮮内
での志願が、高率の反面、日本残留学生は 5
1パーセ
ない中学に入学した俊才であった。
また学部、専門部、夜間部を間わず重要なことは
ントの低率にとどまっている 。朝鮮での志願率が高
いのは、のちにふれる 9月短縮率業者も既就職者も
年~43年の間であることである 。 この頃は国体明徴、
同じ傾向である 。
道義朝鮮、内鮮一体が叫ばれ朝鮮語の廃止、創氏改
朝鮮と日本の志願比率の相異は、植民地権力と無
権利な民衆の関係、とりわけ事の成否を皇民化政策
この適格者たちが、中学を卒業した時がおおむね 38
名、神社参拝など狂気の皇民化政策の嵐が学生生活
に吹きつけていた時代である 。
の試金石とした朝鮮総督府と本国政府の対応のちが
中学生の 日常は皇国臣民の誓詞が支配し、学校で
い、民間協力体制、マスコミの対応の相異などがあ
げられるが、その分析は別稿にゆずり、本稿では突
は軍事教練が激しくなり、週 1
2時間体制、 5年間に
数百時間の軍事訓練を受けていた。精神訓練はもち
然の志願による 「
徴兵」措置が朝鮮入学生の青春、
ろん小銃操作を中心に兵器の実技、野外演習で銃を
人生をいかに破壊したのか、学生たちはどう対応し
担ったり、走ったり這ったり、即戦的な準備ができ
たのか検討してみよう 。
ていたことである 。
当時の学生生 活
まず当時の朝鮮の大学生がどんな階層出身で、ど
あるのはそのためであるが、このかれらに加えられ
前記 77名の学籍簿の教練の欄に全員教練「合」と
2
6 ・人間文化
た既往の皇民化政策・軍事訓練は学兵志願の内的動
もう一つの強制連行
光と受けとめると認識していた。その判断は奨学会
川岸理事長の 1
0月2
0日の次の発言にも反映されてい
c
る。即ち 「
学徒諸君は皇恩に感謝し報恩の 00 不
明〕を大きくし、勇躍志願し真の日本国民の道を踏
みだしてくれることを希望する Jr
よくない考えを
するとかまたは自分勝手な憶測を して軽挙妄動せず
〆
¥
学校当局と奨学会の支持をうけることを望む」と 。
(W
毎日新報14
3
年1
0月2
0日)
-y'
大学当局は奨学会のこの楽観論に引きずられる反
面、先行した日本人学徒の徴兵猶予停止措置が 「余
りに唐突だったのと何等具体的方法が示されない」
「みな今日からでも学校が閉鎖になるような顔をし
て仕事も手に付かぬ J(r
小島憲日誌 J W明治大学
史紀要』第 8号)大学存亡の危機に対し、五里露中
の状態で朝鮮人学生への独自の関心や配慮はほとん
どみられなかった。ただ、志願を額面どうり志願と
曲解して いた。張智鉱(専門部商)は 「
学徒特別志
朝鮮神宮と皇国臣民誓詞之校
願兵に志願せよというちいさな掲示が大門玄関掲示
板に貼ってあったのみ」といっているように無為無
機のーっとして、また日本当局がかれらをその即戦
力として、信頼できる幹部候補生として強力的にと
りくむ背景 として忘れてはならない。
ともあれ、こ うした朝鮮人学生たちがすでにのべ
策であった。
『学兵史紀 3
1
1
奨学会が協議の相手としたのは、ろうばいする大
学当局でなく、より直接の当事者である配属将校で
あ った。 当時の配属将校は円 │
き揚げた場合には大
たような日本の勝手な都合によ ってある 日突然学業
学は閉鎖される Jr
大学には総長が 2人いる J(W明
を中断し、軍門に狩りたてられたのである 。
治大学史紀要』第 8号) くらい力をもっていた。
大学の対応
かれらはい ったい どうしたであろうか。
配属将校凡そ 8
0
名を借行社に召集」対策を協議した
奨学会は 1
0月2
2日 「都下の各大学予科、専門部の
4
3年 1
0月2
0日 「志願による徴兵」特別志願兵令が
が、そこで決まったことは学生の志願 「
勧誘 説明」
は主として配属将校が当る 。願書並みに手続書類な
公布されるとその在 日学生の志願の肝入り、手続は
どは東京都内では区役所が準備す る」という二点だ
朝鮮奨学会と学校当局に一任せられた。奨学会は朝
けだった。
総督府にもなんら具体的対策を講究するうごきは
鮮総督府の督学部の後進で留学生の 「思想善導」生
徒監督機関であった。当初奨学会は学徒の 「徴集J
は容易と判断していた。学徒出陣が決定したとき、
『毎日新報』は各大学の責任者を召集し対策をたて
務局、警務局、軍部など、関係官庁との調整も事務
るための、 「半 島 学 生 指 導 座 談 会 」 を開催した 。
( W毎日 14
3年 1
0月 1
7、1
9、2
1日)、その席で奨学
「このことが発表せられた直後、内地の大学高専等
の学校当局の措置が十分でなかったように思われる 。
会当局(朝鮮総督府)は出席者に対し、 「半島学生
としていまようやく内面か ら箪人として征くのはど
いはば非常に手が抜けたのじゃないか、今日、その
後中央の措置によって或いは色々な刺戟に依って内
うか」というと、 「先生、私たちも内地学生と共に
征きます Jといいます。 私がみるところまちが いな
地学校当局もちょ っと 違ってきたと思うが、あの直
後に於ける措置が余りに冷たすぎた」 と当初の無策
く、ことばだけの知恵ではなく、現在の学生にはす
を批判したのはこの間の事情をさすのである 。余り
すんで国家を擁護しようとする心が固いようにみえ
ます」と発言している 。鋭意すすめてきた皇民化政
に唐突の政策の故に無為のうちに経過した直後の措
置への反省の弁である 。むろんこの問、朝鮮、日本
策への過信というべきか、朝鮮学徒は 「兵役」を栄
を問わず志願する学生はひとりもいなかった。
なかった。法令だけが先行していて総督府官房や学
分担もできていなかった 。 のちに 『京城日報』 が
人間文化・
2
7
もう一つの強制連行
うごきがでてきたのは 10月25日、総督小磯が 「志願
こそ積極的なる赤誠の表徴であり皇国臣民たる信念
百の理論、千の壮語も唯一この
を顕現する所以 J1
一行に如かず J1
進んで幹部将校たるの道を聞き与
大東亜指導国民たるの名実」
えられた国家の恩恵 J1
『半島学徒出陣譜』などを骨子とする訓示をし、本
国政府の決定を追認してからである。
総督府は、学徒志願兵制の志願率に体制の威信を
かけた皇民化政策の成否を問わざるをえなかった。
また 44
年 4月の徴兵制施行にむけて朝鮮人エリート
のとりこみは不可欠との判断を強めていた 。 また
「幹部将校」採用の道を示したことで、必至の徴兵
制の現実と、差別に悩む一部学生の心に動揺を誘い、
皇民化教育のとりこにしたものには絶好のチャンス
を与えられると考えた。
しかし、それは総督府の幻想にすぎなかった。総
督が前記訓示の中に 「本総督は純情に欠ける似而非
志願者の多く輩出することは畢寛皇軍の精強を害す
る所以なるを思い志願を強要するか如きは断じて採
らざるところ J1
自発的熱誠に出でこの関門に至る
よう徹底せしめられたい」 と付言したことで幻想は
簡単にくずれた。総督発言は総督府の既往の皇民化
政策への自信と同時に日本国民になっていない烏合
の衆まで引張 って、却って精兵に影響を与える不安
の両面をあらわしていたが、換言すれば 「首に縄を
かけて強制するつもりはない」 との発言は、 「日本
の戦争に何故我々がいくのか」と志願に疑問をもっ、
学生に逃道を与えた意味で迂闘で不用意な発言であ っ
た。大多数の学生は日本の政策に面従腹背であった。
「我々と膝を交ヘての話しのときは国語(日本語)
で言う 。 ところが我々が一寸何かの用事で席を外し
て帰ってみると朝鮮語を使っている、そういう人が
相当教養もあり半島人としては先達となるべき地位
にある人であるだけに情けない J( W 国民文学 ~ 42
年
5 ・6月号) というのが皇民化の実情であ った。訓
示に対し 「志願なら選択の自由がある J1
志願な ら
行かなくてもよい」 という裁量的解釈をした学生が
大多数であった。
そればかりか訓示は「一部責任ある方にも誤解」を
あたえ、志願の現場に混乱をまねくことにもな った。
延専校長辛島援は、その誤解の事実を次のように
のべている 。
「総督府から至急、出頭せよという電話をうけ行 って
みると各専門学校の校長が集まっていた。朝鮮軍司
令部からも幹部将校が参加していた。朝鮮人の徴兵
2
8 ・人間文化
適齢期にある学生に対して 「志願兵」として皇軍に
参加しうるようになったから処置せよとのことであっ
たJ1
散会後特に単独で小磯総督と会見し、あくま
で 「志願」であることを確かめたうえ帰校したので
ある 。早速教職員を集め会議の模様を伝えた。一瞬
緊張した空気が流れた。はたせるかな 「どこまでも
「そうだ」と答
志願ですか ?J と問う者があった。
え、配属将校教練教師には主として国軍の制度、
精神及び日本人が赤紙をもらった時の心境だけにつ
いて説明されるにとどめ、学生の相談に応ずるのは
すべて朝鮮人の教授諸君にゆだねることにした。 日
本人がその衝に当っては強制の感を与へることを恐
1
朝鮮人学徒の最後JW
文芸春秋』
れたから」辛島犠 (
64
年 10月号) と。
強制ではないとの辛島のうけとめ方は決して辛島
個人の 「
誤解Jではなく留学生を担当する奨学金や
配属将校にも共通のものであった。
明大配属将校陸軍大佐中島弟四郎は 「我々が呼び
かけて学徒がやるという形はとりたくないと考える 。
学生諸君がほんとうにそういう気分がでて我々が引
張られていくこういう風な形でいきたいと思う 。私
の大学ではいまやっているがこれがなかなか困難で
ある J(W 京城日報~ 4
3
年1
1月 5日) とのべている
が、中島のこの方式は可能なかぎり自発的志願を引
きだそうとしたものであった。
しかし中島の思惑とはちがって自発的に志願の
「恩命Jに浴した者は依然少なく、志願は低迷を続
けた。朝鮮での志願意志表明をした第一号は 10月29
日、中枢院参議夏山茂 (
曹乗相)の息子夏山正義
(
曹文換、法専)であった。延専の第一号は辛島の
志願慾患をうけ出願した 「文科三年の M君 商科二
年の M君 理 科 三 年 の K君」すなわち松江嘉城、端
原幸穂、河西治亨」の三人で、松江は 「開城警察司
法係巡査部長松江雲昌」の息子で、辛島にいわせれ
ば 「かれらは平常から家庭でそうした教育を受けて
いたJ1
強固な天皇陛下万歳組」辛島繋 『前掲書』
であ った。 日本での志願第一号も 10月29日に出現し
た。貴族院議員李家診鏑の息子李家漢植 (
23歳、慶
大法学部二年)でそれはいずれも日本と運命共同体
的な親日一家の 「心意気」であって一般学生の志願
とは質的にちが っていた。
辛島や中島の期待にもかかわらず、多くの学生は
依然思遊権行使の途をえらんでいた。志願は予想に
反して 「なかなか困難」であった。総督府や各大学
高専では対策を練り直しはじめた。
もう一つの強制連行
くみに表現するかも知れぬ Jが「本当の感情の上か
らは例えばシンガポールが陥落したという場合、本
当に心の底から躍上って喜ぶというような感情的な
ところまですっかり割り切れてしまう J(1
半島学
生の諸問題を語る J ~ 国民文学~ 1
9
4
2
年 5 ・6月)
という不信。また軍事教練なども 「いいかげんでチャ
ランポラン」な、朝鮮学生の日常からくる偏見、予
総決起大会
断があった。かれらには朝鮮学生がつねに 「どうも
傍観的態度をとるよいはば「第 3者的態度」や対
明大の例をとると前記中島はその打開策を具体的
時の姿勢への警戒があった。それが中島のいう 「
免
にまず、 「事務上からいっても志願まで日数がない
角朝鮮人の悪弊」であり、社会の 「酷評」の 内実で
ということもあるので半島学生にもこのくらいの意
あった。 田川が 「半島人,潜行的動向ニ関シテハ特
気込みというものがなければいかんのじゃないか、
ニ監督指導ニ留意 J(~ 明大史紀要 ~ 8号)してい
またそうした意気込をもつことによって免角朝鮮の
たのはその不信、警戒ゆえのものであった。配属将
学生或は朝鮮人に対しての従来一般の悪弊というか、
校たちがその 「酷評 J1
悪弊」 を一掃するために必
酷評というか、こういうものを一掃するよい機会じゃ
要とされた志願の 「しろ J1しない 」のやりとりは
ないかと思う。
思想を問う踏絵的強要ともなった。配属将校たちが
私の大学ではこんな風に考えているが、私は他の
学生に潜在している差別撤廃の要求をとりあげての
職員と協議して、まず個々の学生の腹を訊き、その
アドバイスは逆に居丈高の圧力にもなった。 とりわ
学生を中心にして搬をとばし、そして一般の学生を
け田川は学生が「祖国のため」というと必ず 「皇国
参加させる 。 それを私共が支援するという方法 J
のため」と 「
い い直しを命じた」とか、長髪をみつ
『京城日報 ~ 43
年 11月 5 日)とのべている 。
けると 「お前髪々なんてやる J1
全部丸坊主にしな
「
私共の支援」は適格者個々人への呼出し、書簡の
ければならない J1
教練で長髪のものなんか参加で
8号)個人的に
通達、個別面談による説得であった。通達文の内容
きない 」 人で、 (~ 明治大学史紀要 ~
は次のとおりである 。
「此度内地学徒の出陣に呼応してさらに朝鮮、台湾
もなかなかやかましい皇国軍人たちの説得は執鈎で
脅迫に及ぶこともあった。中島の説得にからめとら
出身学徒の止むに止まれぬ熱意に応ヘ特別志願の途
れた林健次郎 (
林津注
を拓かれたのは正にそのO(
不明)を得たものにし
ない栄光と前置し 「これこそ千載一遇の好機である 。
明大専門部法科)はこの上
て、我明大学徒に多大の感激を与へたるものと確信
いままで机を並べて親しんでいた内地同胞学徒は今
す。就ては是等熱血優秀なる多数の朝鮮学徒を有す
度の徴兵猶予措置によって勇躍出征し我々は 00
に
る我が明大は率先国家の要請に応え皇軍幹部として
これを送ったのである 。今度こそ我々が国家の要請
の御奉仕の誠を発揮して以て皇恩に酬ひ奉らんこと
に応えて進発することが出来るのは無上の栄光であ
〈
不 明}
を期待し特に貴殿を選定の上御相談申上度 J(~京
る。(略)遅種〔ママ 〕 きながら軍人詔勅を奉仕し
城日報 ~ 43
年1
1月 5 日)
ているが奉読する度毎に畏多い事であるが大元師陛
下の股肱として国家の防衛に任ずる重大責務をつく
通達を受けた学生は指定の日に出頭し個別に学校
当局、配属将校との面談が「義務」づけられた。学
づく 痛感して いる J(~京城日報~ 1
9
4
3
年1
1月 5 日)
校当局の 「各個に当って」のきめこまかい説得、
と、決意のほどを中島の前で語っている 。
「各個撃破」がはじまった。担当者は学部は陸軍大
しかし大学が自発的志願の方策を放棄したわけで
佐田川潤一郎、専門部は前記陸軍大佐中島弟四郎及
はなかった。前記中島は個別の学生面談を通じ 「
学
び陸軍中佐川田耕造であった。呉鐸根(明大法学部)
生のなかから中心になる人物」すなわち説得に応じ
は「
教練教官田川大佐から学兵志願の勧誘をうけた」
学校の手先となり志願の呼水となる
とのべ張智絃(明大専門部商)は学校当局の勧誘の
のものを選びこれを中心にまた全般的に呼び掛けて
やらせよう」とした。あくまで下からの学生の自発
回数が漸 々ふえた J~学兵史記 』と 回想している 。
配属将校には 「
表面ロでいう場合或は筆で書く場合
可成り皇国臣民らしきことを寧ろ内地入学生よりた
1
1
0
人かそこら
的なたちあがりのようにみせかけるのにこだわった。
それはまだなんとしても、皇民化の成果としての志
人間文化・
2
9
もう一つの強制連行
願の実績にしたかった、総督の訓示が生きていたか
らであった。
中島弟四郎と
学生のなかには呉鐸根(明大法学部)のように志
願兵の強要をさけ 「東京駅の待合室や広場の群衆の
100部の関係で個人的にも知りあ
なかでねたり兵役に関係のない者や、比較的警察の
(不明〉
い」であり、いち早く学校の方針に協力した雲井鐘
目をさけられる学生の家を転々とし、東の家で食し
之助 (
明大専門部法科)は次のように語っている 。
西の家でねる生活 J ~学兵史記 111 をはじめるもの
「自分のカの続く限りは大いに説き一人でも否全部
がでてきた。 この所在不明タイプを消極的志願忌避
の学生が志願するようにすることを期し努力する」
とすれば志願者への指示すなわち「願書ニ特別志願
と。雲井は学友達に説得の輪を広げ、きり崩しをは
兵志願者学生一覧表ヲ添へ学校所在地ノ軍司令官宛
かった。
ニ差出スト共ニ現在修学ノ学校長ニ成績証明書ヲ願
朝鮮奨学生会もまた大学と同一歩調をとり、ひと
出スベシ」の手続き条項を逆手にとって 「志願地」
にぎりの協力派の学生を起爆剤にして学生の自発的
や学校から距離的に遠い朝鮮に帰省して、行方をく
志願の体裁をつくろうとした。奨学会は 「この秋を
らます積極的思遊者もあらわれた。東京に残ってい
にがすな」とよびかけを強化しはじめた。 1
0月2
9日
る方が思避に有利というのは日本は朝鮮よりも言論
「各学校の連絡学生 3
1名を召集 J1
志願への奮起方
がある程度自由で監視も疎忽で適当に身を処せばの
を慾懇したが参加学生は前記雲井同様 「自分は率先
がれることができるとの判断であり、朝鮮に行かね
志願して同窓生を極力説得する覚悟」を表明しうご
ばならぬというのは故郷であるから適当にかくれる
きだしている 。
にも逃げるにも便利という判断であった。
学生の反応
この 「徴兵J制が学生に 「棺当甚大なる衝撃を与へ
学生の動向を庭視していた特高警察は志願という
「志願という徴兵」らしいという噂が伝わってくる
たるものの如く表面冷静を持ちつつも内心の不安動
につれ学生の聞に声のない騒動がおこった。前記柳
揺は極めて深刻なるものあるを観取せられたり 。す
在栄(明大政圭)は 「この 5年間、明治大学予科を
なわち彼等は自己の運命の開拓に焦慮し、志願忌避
終り、いま最高学府の卒業目前にして、その間研鎖
の焦慮より帰鮮または休学する 者多数におよび学校
した蛍雪の跡もむなしく一時にくずれるようであっ
を継続するもの減少 J(~特高月報 』 昭和 18年 11 月
た。そればかりか、所謂日帝のいう大東亜戦争のい
号) と報告している 。特高の指摘どおり行方不明者
けにえに引きずりだされるあわれな運命が刻一刻厳
は続出した。親日派論客で学生の 「庇護者」を自任
然たる現実としてくるではないか、どの道を選べば
する大日本皇道会理事李英介は「制度が発表されて
よいのか、父母に会って相談もできず、かといって
以来」相談または情報蒐集のため 「私の門を叩く学
独自に自分の道を決定するには余りに重大、つ らい
生が相当増えてきた」。積極的につとめたが 「中に
問題であった 。(略) どんなに冷静に考へてみても
はこちらにいると志願しなければ不可ん或いは徴用
心身がこおりっき絶望と孤独をかんぜずにいられな
にかかるというようなことをいって朝鮮に帰る学生
かった。(略)国のない民族として一人の人間のい
がないでもない Jとのべ、朝鮮総力連盟の波田重一
きざまに対し民族的悲哀を痛感し、その反面、日帝
総長は 「内地に行っている学生がどの位帰って来た
に対し敵憶心が胸中深くたぎってくるのを覚えた」
かは判っていないが、免に角私共時々京城駅などに
『
学兵史記 3
1
1とのべている 。窮地打開を求めて、
行くと、休暇の時期でもないのに荷物を持ち、角帽
情報を求めて 「
或は友人を訪ね、或は先輩を訪ね」
をかぶった学生が 3人 5人と停車場から出て来るの
学生たちは右往左往鳩首して対策を協議した。かれ
を見た J1
満更嘘ではないらしし、」と追認している 。
らの 口か らでてくるのは「天人共怒の敵は誰なのか、
朝鮮奨学会理事長川岸文三郎はその数を 3割乃至 4
誰が誰のために誰をうつため志願をして銃をとるの
害J
Iの者」とみたが帰省者の正確な人員は全該当者の
かJ1
我々に銃をもたせた場合、第一線または国境
6
0パーセントに当る、 1,
529名に達し、笛吹けど学
生は下宿を脱出、行方不明が続出する反面東京での
志願者は 1
1月 1日現在わずか 1
3
0
名を突破」の惨侮
たる低調であった。
朝鮮でも 1
1月 5日現在適格者千名中、ようやく
1
1
2
4名」 でその後の志願の雲行も怪しかった。総
地帯で果して敵軍に向 って名分のない鉄砲がうてる
のか」という発言であった。戦局が不利であればあ
るほど民族を意識し、解放を予感しその日はさめて
いた。可能なかぎり忌避権を行使する意見が大勢で
それはひそかに共感を広げていた。
3
0 ・人間文化
もう一つの強制連行
督府も奨学会も大学も学生に煮湯を呑まされた形に
なった。
思避した学生たちに「手続の不備」がでないよう
「
親心」の手直しをしたの である 。いはば学生たち
の逃足の早さと捕捉網の拡大の競争であった。 また
「昭和 1
8
年 9月当該学校ヲ卒業シタル者含ム Jとの
志願という徴兵
朝鮮人学生の「意外」な抵抗に直面し、皇民化政
条項を追加し、過去完了の卒業生、既就職者まで志
策の失敗を自認する、にがにがしい事態に追い込ま
願対象にとりこむことにしたが、それはあきらかに
れることになった総督府は、学生たちの 「裏切り」
適格者のとりこぼしを補完する措置であった。 こう
に手をこまねいていられなかった。事の成否が朝鮮
して、一方的に修業年限を短縮、くりあげ卒業となっ
統治の根本にかかわる問題となったことで、総督府
た元学生 (
本年度卒業生) 1
,
5
7
4名及び既就職者7
0
0
は面白にかけても 1
0
0パーセント志願に全力を傾注
名も 「特別志願の好機を賦与したので聖恩報答に薦
しないわけにはいかなかった。
1月 4日学務局長主催の全朝鮮法文系大
総督府は 1
跨しない」 ょう 「ありがたき」示達をうけた。 しか
学専門学校長による 「
半島学徒出陣打合会」をもち、
新該当者はまたしても行方を諮晦、新措置に対して
対応を協議したが結論は「ひとりの例外者もなしに」
志願率は依然低迷を続けた。思いがけず適格者にさ
志願させるであった。
脱落者をださないことはとりもなおさず強権の発
れた既卒者金英和(明大政経学部、 1
9
4
3
年卒)は予
し日本当局の新たな措置もさしたる効果はなかった。
定外の自分を次のようにのべている 。 1
4
3
年 9月私
1)
、2
0日まで志願せ
動を意味したが会議は改めて、 (
は明治大学を卒業し、恩師赤神良護先生の斡旋で、
ざるものは休学を命ずる、 (
2
)、休学を命じたものは、
その当時満拓に入社が決定し、辞令までもらってい
全部国家の要請する重要産業部門に徴用動員配置と
た。学兵問題は学生に限るということが卒業生まで
する、 (
3
)
、2
0日以後、全生徒は銃を執ると否とを問
わず、前線銃後の別はあれ、一人残らず、戦列につか
該当することになったのをあとで知ったが、就職が
しめる J3項目を決定した。さきの総督のいうあく
項からは有志たちが私を志願させようと東京に訪ね
決定していたから安心していた。 しかし、故郷の浦
まで 「志願の建前は個人の自由意志により志願でき
てきて、私の行方がつかめないので地団駄をふんで
るというのではなく、進んでお召にあずかることが
帰り、警察に行方不明と報告した 『
学兵史記』 と。
許されるという意味」に変更され、 「志願」の解釈
また馬山府庁に就職した虚玄嬰(豊田、 1
9
4
3
年、中
から生じた誤解は的確に訂正された。長屋朝鮮軍報
大卒)は
、 「庁内の視線が自分に集まり対岸の火が
道部長はそれを 「いまや志願するかしないかは、す
足元におちたようになった。 日本人幹部の目が徐々
でに学徒たちが考える余地もないものである 。ただ
にけわしく圧力にかんじられ、遂に欠勤して行方を
実行さる一つのことが残っているだけである」と解
くらました J i
I
学兵史記』といっている 。
説したが懲罰をともなう選択の余地のない志願は、
もう志願とはいえなくなっていた。
日本当局や総督府がいかに旗を振り差別脱却の好
機と宣伝しようと朝鮮学生として日本の戦争になぜ
総督府の措置に呼応して陸軍省は 「志願者はその
加担するのか、考え悩み自問すればするほど、弾丸
在学中の学校長宛に志願を申しでれば学校長がすべ
とびかう危険以上にかれらをくるしめた。直接反抗
ての手続きを行う 」 との手続きの簡素化をすると同
時に、陸軍省令第53号を公布し、 48号の採用規則第
したり非難しないまでも、自発的に戦場に身を投ず
2条第 1項の 「
学校所在地所管の軍司令官ニ志願ス
jレ
」項を 「己ムヨ得サルトキハ現在地所轄軍司令官
ニ志願スルモ可能」と追加改訂した。
奨学会は、早くから総督府に 「帰鮮した学生に速
かに学校に帰るよう措置を移牒」していたが、帰省
したり地方に散った学生が期日切迫の際、帰って志
願するのでは間に合はぬから軍が、直接それぞれの
管区と連絡して、帰省している学生は、朝鮮の最寄
りの兵事部若しくは師団司令部に、直接願書を出せ
ば、それをとりまとめて送るということで、志願を
る使命感は、どうしてもおきなかった。心を聞くこ
ともできなかった。一方で志願は足踏みを続け一方
で締切りは迫り、総督府は焦りの色を濃くしてきた。
朝鮮軍は 「親権者の志願者代理捺印を可」 とし、こ
れに呼応して文部省は遠隔地からの 「
電報志願も可」
とした。みられるように日本官憲が志願の手続の簡
素化、採用規則の改訂、代理志願、電報志願の許可
等 々いちどきめた制度を次々に状況に合せて都合よ
く改訂し、学生の忌避行動の補捉網を自在に広げた
のは、志願の余りの不振、意外な展開に対する後知
恵であった。それでも不可とみたとき権力による行
人間文化・ 3
1
もう一つの強制連行
方不明者さがし、および留守家族に対する精神的、
物理的圧力をかけはじめた。
警察権力の介入
圧力は大略 2つの手段に整理されるが、もっとも
露骨なのは警察力の行使であった。警察は総督府の
市民行進
機能上不可欠の政策実行機関であった。警察はさき
どうしても、生きていかれないようにうるさく言う
の陸軍省令第48号の、学兵志願の 「必要ナ事項ヲ順
ので、私が学兵にいくことに判を押したよ」といっ
序ヲ経テ本籍地ノ警察署長、郡守又ハ市庁長ニ通知
た。一昨日(19日)の話だという J W学兵史記』と
スベシ J1
警察署長、郡守又ハ市庁長ハ前条ノ通知
回想している 。孫万鏑、池水鉄、張智銭、文聖模の
ヲ受ケタルトキハ」学生の 「身上明細書戸籍抄本又
ハ戸口抄本等ヲ調査シテ之ヲ道知事、州知事又ハ庁
体験が全土の何百の学生たちにくり広げられたので
朝鮮軍司令官又ハ台湾軍司令官ニ提出
長ヲ経テ J1
理、届出よ J(W毎日新報 ~ 1
9
4
3
年1
1月1
8日) 1
20日
スルモノトス 」 との規定によって当初から 「志願制
すぎて後悔するな、君だけが落後するのか、すみや
度」に深く関わっていたが、 100パーセント志願を
9
4
3
年
かに父兄でも代わりに志願せよ J(W毎日 』、1
1
1月 1
9日)1
本人いなくても志願、それが幸福とな
目標にしてから、その本領を遺憾なく発揮しだした。
あろう 。その事実を新聞は 「子孫のために父兄が代
植民地警察の巡査は土皇帝に等しかった 。「大人 J
るJ(W毎日 』、1
9
4
3
年1
1月 20日)と報じている 。妻
と呼ばれて威張りちらしていた、かれらの辞書に不
が代理志願したなどというあざとく胸をつく 「美談」
可能はなかった。やろうと思えばなんでも可能であっ
も報道される始末であった。
た。警察は非口民を理由に父兄の呼出しと留置、脅
迫的志願の強制をはじめた。
朝鮮各紙に 「警察署長に代理志願 J1
内地学生父
兄、府予に決意表明」 などの 「美談」が報道されだ
本国での権力のこの狂態の余波は、日本に残留し
た学生にも及んできた。学生たちに官憲の 「家では
承諾した一日も早く学兵に志願せよ」との電報や、
郡や警察や地方の有力者が訪ねてきた。金容圭 (
四
したが、その内実を孫万錆 (
普成専門)は 「お前が
高)は 「ある人が訪ねてきた。かれはすぐ学徒兵志
かくれている間刑事、巡査、面職員たちが総動員さ
願書をとりだした。ついにくるものがきたと思った。
れて遠近を問わず、毎日のようにさがし廻り、父母
故郷の父母と相談する時間をくれというと、かれは
や親戚は一日も欠かさず慶州署に呼出されていた J
。
カバンのなかから 「あなたの父親はすでに承諾して
担当の刑事は、孫ひとりのため 「我が慶州│
署が使っ
います」といって、父の署名捺印のある紙をとりだ
000円になるといわれた J W学兵史
た金だけでも 4,
した。万事休すである J W学兵史記』といっている 。
記』と語り、池水鉄(日大芸術)は 「志願の 〆切を
すぎるまでかくれていて、家に帰ると丁度葬式ので
た家のようであった。駐在所からは毎日のように、
このある人は警察関係の人物であった。予壬述 (
立
正大)は 「毎日故郷の家から電報がきた。その内容
巡査が訪ねてきて息子を逃亡させた罪で、父親に代
であった、とのべ、 「のちに家に帰ってわかったの
は家で電報を打った事実は全くなく、関係官庁の工
理志願を強要した。父はやむなく代理志願して、疲
れて床にふしてしまった。でるのはただため息ばか
りであった 。
『学兵史記』 という、張智絃 (明大政
はみな家では承諾した一日も早く学兵に志願せよ 」
作であ ったJ W学兵史記』 とのべている 。 また吉畠
経学部)も父の代理志願であったが、そのいきさつ
淘 (
早大文)は最初 「故郷の警察署長から早〈志願
せよと電報がきた。何日か後に郡守から、また何日
を父が沈痛な語調で 「
刑事と巡査が毎日交替で、息
子をどこにかくしたと、うるさくてたまらない。 し
か後には道知事からきた J W学兵史記 3 ~ とのべ、
なかには 「母親危篤、母親死亡、祖父母亀城警察署
まいには警察署長と郡守が部下職員を引きつれて私
に留置、早く帰れ」などいうのもあったといってい
に代わりに署名捺印しろ、拒否するとぶちこむぞと
る。学生たちは、故郷の親族への迫害の噂を実感せ
いわれ、涙をのんで捺印した JW学兵史記』 といわ
ざるをえなかった。家族は人質とされ、おどしの材
料とされた。
れ言葉を失ったという 。文聖模 (
明大政経)は志願
締切後の 1
1月2
1日に帰宅した 。母は潅遁いちばん
また、警察の直接介入もはじまった。特高は学生
「
私の手をつかんで泣きながら、そう、あいつらが
の尋問、所持品検査、下宿改めなどくりかえしては
3
2 ・人間文化
もう 一つの強制連行
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句協悶油百四祖霊劃置
18
血書の志願と出陣式
その都度、志願を勧誘した O 学生の多くは故郷に帰
な植民地民衆をいたぶり、圧力をかけしぼりだすよ
り父母と相談、承諾を得てからと弁明、その場のが
うに志願兵に狩りたてた。
れをした。帰省する学生には、各地に配置された移
動警察が列車改めをしては執効に、志願を強制した。
親日派の動員
故郷への道は遠かった。一難去ってまた一難、とり
警察力の行使と併行して親日派人士とマスコミが
わけ関釜連絡船には 「半島学生特別室が設けけられ
総同員された。各紙は編集方針を学兵報道に集中し
乗船者はみな、そこに収容された。林永善 (
明大)
た。社説、スローガンは連日 「
軍教一体の皇国教育 J
は 「船腹にはすでに 2
0
0
名の学生が監禁されていた。
を強調した。「学友よ聖戦に行け」の欄が特設され、
出港すると刑事たちが学兵に志願しろと脅迫し、万
知識人が交替で寄稿しはじめた。 とりわけ親日派が
一しなければ釜山で刑務所に行く
J W学兵史記 2 ~
とまでおどしたと回想している 。釜山や麗水、清津、
羅津などの港湾では警察署長立合の集団的志願儀式
総動員された。かれらは空虚な舞文曲筆の 「煽動」
で親日ぶりを競いあった 。 また荒唐無稽な学徒の
「愛国、忠誠美談 Jを量産し紙面をうめた。その記
w
釜山』をは
がおこなわれ、 「父兄承諾より志願、その後お父さ
事の量の多さは異常で『京城~ w毎日 ~
1
9
4
3年 1
1月 9
日)という 「美談」記事が続出して話題をさらった。
船の中で願書に捺印を強制されて、家に帰ると全住
民を動員して学兵志願の祝賀歓迎大会を開いてくれ
る手廻しのよさもあった。代理志願と集団志願を同
時経験した学生もいた。前掲の文聖模 (
明大政経学
部)は警察の関門を突破するため、警戒の厳しい関
釜コースを避けて新潟、羅津コースをえらんだが、
それは誤算で、羅津上陸と同時にまちかまえる警察
から志願を強要され 1
1月2
1日帰郷すると、母親がす
でに代理志願、二度も志願を体験したことは、すで
にのべたとおりである 。志願兵狩りの主体はあき ら
かに植民地土皇帝警察になっていた。警察は無権利
じめ植民地地方各紙の報道合戦はとどまることがな
く、一過性の煽動はえんえんと続いた。民衆ははん
んお許し下さいの電報 (W 毎日新報~
らんする活字にうんざりの毎日であ った。一部学生
たちは新聞雑誌、マスコミの「愛国語集辞典」化に
翻弄されはじめた。 2度 3度と話題の主となり、地
方の小英雄となって志願に追いこまれる学生もいた。
親日派は紙面にとどま ってはいなかった。各地に
学兵翼賛会を組織したかれらは、全国を駆け廻り、
鵜の目鷹の目で、路地裏にひそむ適格者の摘発にの
りだした。丹念に戸別訪問をしては 「内鮮」差別撤
廃を話題にしながら、時には居丈高の説得をした。
総督府・総力連盟主催の各種座談会に出席しては
「帝国軍人にさえなればこれまでの差別なり、偏見
人間文化・ 3
3
もう一つの強制連行
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4 -人間文化
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さざるようこの際大悟徹底する J(W
毎日新報』
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4
3
年1
1月 3日)ょう通達し、愛国班長や町総代は
ひとりのこらず学兵供出に協力するよう飛び廻った。
女子学生は街頭で千人針や 「園旗」への祈武運長久
の揮宅署名をはじめ、小学生や中学生は兄に続けと
いいだした。高専や中学の同窓会もまた圧力団体と
化し、志願督励の要請や撤文を各個に送りつけ、学
縁の存在をあきらかにした。親日派は皇民の旗頭を
競った。そののぼせあがりに心ある日本人は昨易し、
そしてひそかに蔑むほどであった。 こうして、適格
者学生は次第にか くれる場所もな くなった。執幼な
説得工作に耐えきれな くなった適格者は 1
1月10日以
降せきを切ったように志願をはじめた。快調に転じ
た志願状況を、新聞は 「飯起学徒相次ぐ Jr
僕も征
奮い起つ学徒」 などの見出しで報道しだし
くぞ Jr
た。志願者は 1
1月1
7日現在朝鮮での 「適格者の約 7
割
、 6
8
6名」 に達し、総督府はようやく愁眉を開い
た。志願者の志願の窓口になり、まとめ役にな った
のは、もちろん学校でも軍司令部でもなく、地域の
警察署であった。
朝鮮での志願の強権的進展に反し、日本残留者の
志願は依然低迷し、 1
1月1
2日現在叩名をでなかった。
それはあきらかに権力の対応の差であったが、持時
間は締切まで一週間が残されたのみであった。
総督府は事態を朝鮮人にまかせるべく再び親日派
の動員をはじめた。一つは個別の親日派の地縁、血
縁、学縁のしがらみを利用し、一大説得工作を展開
することであり、一つは個別の親日派知名人の渡日
宣伝工作であったが、要請に応じ資格と実績と器量
をもっと自任する者が各地になのりでた。
「父は持つお前の飯起、懇談会で愛児ヘ打電」 とい
う見出しの 1
1月 9日付の 『京城日報』の記事がある 。
以下に引用すると
「大郎 8 日、大詔奉載日の午前 10時から大郎府庁会
議室に学徒臨時志願兵懇談会が開かれた。之に出席
した大郎府内初め道内に於ける専門学校以上の子弟
を持つ健兵の父母約 50
名、上野府予の挨拶があって
朴忠中枢院副議長を司会者とした懇談会で半島の愛
一一ヤ夢ゐ吋
地区連盟や愛国班も、またその指導方針を 「
年長者、
なく、正しく指導し、激励を加えて半島の名誉を汚
5 13
-
の母の心得」をおぞましく教示し、さとした。総連
父兄、母、姉等は学徒の前途をあやまらしむること
・
守 J 司R置“22E4 的 主 刈 事 事z
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気ごみ、煽動を続けた。母の会をつくっては 「兵士
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一応
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一山市計おお一毎
一日い
一ユ
一日
の被害から完全にぬけきり、日本人と同等の待遇が
待っている 。いまこそ千載一遇の機会である」と意
国翁文明締一郎氏 (
文明倫)(
中枢院参議)が先づ
明大在学中の正道 (
次男 ) (法学部)を捧げること
を表明、熱烈火を吐く文明翁のこの言葉に応えて我
申出る者2
1名、そのうら 「内地」
子をお国に捧げ00
{不 明》
在学生関係は次の人物である 。
盈徳中枢院参議文明締一郎明大正道
大郎順天堂医師金子成国
大郎
東京商大中世
伊藤基清早大正輿
大郎
三宅在夫
大郎
岩城正佑専大確卓
千葉商大卒
軍威
桧山嘉成法大永勲
慶州
吉川共春
慶州
新井淳局中大
慶山
慶山
白川富道
00
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〈不明)
岩田重圭早大鏑文
英二
中大文一
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〈不明 〉
慶山
大原O銑 京 都 帝 大 春 沢
慶山
安達相錆
達城
大郎
徐000 中 大 竜 津
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岩田寿仁駒大義昭
〈不 明〉
大郎
永島崇大
日大到甫
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9
4
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年1
1月 9日
1
5名全員が在日学生の父兄であるが、みられると
おり懇談会は当局の肝入りで親日派父兄が子弟の志
願を公約し、宣伝する場であった。文明翁とは軍部
に個人で 「愛国機」を献納した皇国臣民の化物とし
て、金子成国もまた、大郎の順天堂医院院長として
親日ぶりを知られた怪物であった。金子は親日を信
条としたがこの機会を親日競争の場として利用し、
子弟は血書志願でもしてくれればあかしがたつと思っ
たのか、別に、慶北父兄代表団を組織して渡日した。
その他の者も地主、資産家、地方議員など植民地権
力と利害を共にするとか、その末端を占める者であっ
た。 またそこまで緊密でなくても大学生をだすこと
ができる家庭は植民地権力の要請を真向うから拒否
もう一つの強制連行
しにくい立場にあり、少なくとも非国民のレッテル
を貼られてはならない人であった。
かれらはその忠誠のあかしのために子弟たちに電
報を打ちだした。例をあげると前記懇談会では文明
翁の音頭で当日志願意志を明確にしなかった 2
0
数名
0日の締切までに志願せんこと
に対し 「
何れも来る 2
を決議」。次のような電文をそれぞれ子息宛に打電
した。すなわち 「
期日は 2
0臼までだ 早く志願せよ
父は切に望む 志願の可否返電たのむ父」
。
こうした親日派による父兄懇談会は全朝鮮各地で
何百と開催され、同じような決議、電文が学生に送
られはじめたが、それは官憲の送る電文とちがって
学生や父兄に深刻な動揺を引きおこした。
骨のある父兄も親日派の視線に足もとをみすかさ
れ立場がなくなり同調せざるをえなかった。学生は
遠く故郷でおこっていることを憶測しては絶望を深
めていた。
総督府はまた親日派知識人や故郷の先輩、同窓の
先輩を直接日本に送りこみ各地でだめ押しの説得を
はじめたが、なかでも特筆すべきは満州建大教授峯
南善、作家李光旅、(香山光郎)、毎日新報社長李聖
根 (
金川聖) ら著名人一行 9名を 「
栄光の使徒」 と
して送りこんだことである 。彼らは知名度をいかし、
各大学を個別に訪問し 「
啓豪」活動をくり広げ効果
1月 1
4日明大講堂で
をあげたが、最大のイベントは 1
開催した朝鮮学徒飯起大会であった。忌遊学生には
素直にでていける場所ではなかったが、事前に奨学
会や大学当局の強い参加指示があって大会には 「
在
0
0
0
名のうち 3,
0
0
0名近くが参集」
東京の朝鮮学徒4,
した。
「入場しょうか否か迷って周辺をうろうろす
る学生も多かった J(池泳輔談、中大法)、なかには
母国から著名人がくる好奇心、かれらがどんなこと
をいうのか、期待と不安で参加した人もいたし 「
反
対決議」を公言する人もいたが 「志願だからどちら
でもよい」 という学生も志願思避のため居所をくら
ましていた学生も愈々追いつめられ、態度の明確化
をせまられ、大会に出席せざるをえなか った。
大会で雀南善は 「今日の戦争は義戦で聖戦といわ
ずになんというのか。人生は元来行くところどこで
も学校であり、行くところどこでも戦場である 。 日
本軍人として忠誠と朝鮮男子の義気を発揮して与え
られた栄光に奮斗、勇躍ひとりの脱落者なく出陣」
(W 毎日新報 ~ 1943年 1
1月2
0日)と発言した。李光
旅は 「お召しは下った」きちんと唇を結んで征かね
ばならぬという心持ちになれと、演説した。
大会で真先に立ち 「わが級友たる内地学徒が堂々
と出で征くとき、扶手傍観 してわれ等何の顔あって
愛する半島の地を踏めようか」と開会の辞を宣した
のは、すでに出願手続を終った金子中世 (
東京商大)
であった。かれはさきの 「息子よ志願せよ」の電報
を打った慶北の 1
5人の父兄のひとり金子成国の息子
であった。金子は李光旅等 「
栄光の使節」 とは別に
「
慶北代表団」の一員として来日したことはすでに
ふれたが崇徳教会 (
朴永出牧師) で学生を集め、
「朝鮮では 9
0パーセント以上志願しました。 ここの
我々一行の子息は全員志願しました。 ところが日本
本土内ではどうしたわけか不振のようです…この
機会をのがしてはいけません」と訴えている 。金子
のような地方有力者、資産家、地方議員などになっ
た故郷の先輩、同窓の先輩たちの組織する個別親日
有志グループの渡日説得は続出し、文明埼一郎の息
子正道、金子成国の息子中世のように親日派のこの
父この先輩とのしがらみのもたらした志願も輩出し
てきた。
明大大会は即席で 11
0
0名志願 J W毎日新報』 を
だし表面的には効果は大であった。
0
0
名の
しかし、この流れのままに身をまかせた 1
学生たちも心から納得したわけではなか った。いわ
ば優柔不断を大会のフインキで決断したのであった。
林健次郎 (
林津注、明大専門部法科) という学生が
いる 。かれは配属将校中島弟四郎の指導のもとに学
校の立場にたち 「志願」を千載一遇の好機としてと
らえる発言をしたことはすでに紹介した。そのかれ
は
、 1
4日の大会の来賓講師のひとりであった。再び
明大代表に選ばれたのはおそらく大学から 「ぜひ」
と頼まれたのであろう 。雲井賢 (日大)金城幹郎
(
一高) らと共に 「いますぐ志願の手続をとろう 」
と大ミエを切 って決意表明し、参席者の見守るなか
で大会の花形リーダーとなった。
かれがこのとき日本人以上に日本人になり切ろう
とし、醜の御楯となって高い差別の壁をのりこえる
「千載一遇の機会」 と決意表明し、絵に書いたもち
を食べに行 ったのは事実かもしれない。 しかし林は
のちにこのことを 「
私に明治大学代表として壇上に
たちなさいということでした。講堂には予想を越え
る多くの同志があづまっていました。私は日本大学
の演土 (
雲井賢)のあとに壇上にあがった。私は壇
上にあがるやいなや叫んだ 「血の代償を要求すると 」
「太平洋戦争に強制で死ぬことを要求するなら我 A
がいま受けている差別を撤廃せよ 。そして戦争が終
人間文化・ 3
5
もう 一つの強制連行
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1
たという事実である。こうした学生の基底心にある
屈折した思いをないがしろにして、この学兵問題は
語れないほど傷痕は大きいのである 。
表向き成功を収めた大会のその夜李光株一行の宿
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かれらは警察や学校から 「事情聴取」をうけ、なか
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8
9名であったが、そのうち 283名が発見検挙された。
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の罵倒に、答を窮し逃げ去った。ひとり残った屋南
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毎日新報昭和8
1
年1
1
月2
1
日より
れば我々の独立と民族の解放はどうするつもりなの
でも 「思想」の悪い 9
8名のうち 7
5名は 「帰鮮勧奨」
つまり追放され、警視庁から植民地当局への身柄押
送となった。残留者は、また「厳格なる皇民化訓練
を実施」の後 「懲罰的徴用」として 「重要産業に配
置」 された。
強制帰国となったものは 「時局認識、国家観念」
「未だ乏しき者」 として、その動静は 「周到なる観
察」監視のもとにおかれ 「
純乎たる皇国臣民として
の再錬成」の苦行と「軍需産業方面の職域」での苦
役がまっていた。中大生李天弘(国本)はそうした
結果死に追いこまれた学生であった。かれは非志願
か。我 A の血の代償はまたどのように支払うのか。
のため故郷のソウルから再度広島三菱重工に連行さ
いま我々の前に解放と独立を約束しろと、血の代償
れ、その後治安維持法違反で検挙され、
を要求した J W学兵史記』 とひらき直 っている 。か
4
1日
1月 5日の 「千載一遇の機会」発言、続 く
れの 1
の 「います ぐ手続きをとろう」の発言と、この 「血
の代償要求」の振巾は余りに大き い
。 解放後の発言
はおそ らく弁解の辞であろう 。 しかし、あのときか
れがなぜ 「いますぐ志願 Jとい ったのか。
体質的に上昇傾向をもち個人主義者、かっ才能の
1
9
4
4
年 6月
9日、自己のパ ンツの紐で経死した。留置所の土壁
には 「朝鮮独立万才 Jの爪文字がきざまれていた。
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朝鮮独立治安維持法違反被疑者自殺ニ関ス レ件J
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6
1号)
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が、その不自然な死は非志願学徒の抗日ナショナ
リズムに対する日帝の僧悪・報復であった。同時に、
非志願者とその家族に対する非国民、不運鮮人の熔
ある自己顕示欲の強い性格の持主と考え られるし、
印と検察尾行や食料の配給の停止など社会的制裁も
また目だちたちがりやでいちど調子のよい発言をし、
加えられた事実を忘れてはならない。
二度三度の要請に拒否もならず、結果的に志願督励
また親日家庭や親族のしがらみで志願した学生も単
ヘ先導役を演じた、気の弱い学生だ ったとも考えら
純なものばかりではなかった。予慶彬 (
平沼
れるが、大事なのはかれの積極的発言にも、つねに
法学部)の叔父は日露戦争中、日本語の通訳として
二律背反的な不条理への反抗心、内面の葛藤があっ
活躍し、当時は平安南道の道会議員であったが、か
3
6 -人間文化
明大
もう一つの強制連行
れは叔父の 「親日」のあかしのために、甥の慶彬は
ナショナリズムの発露であった。
「明治大学の法科に学んでいるものの学徒出陣の華
稿を終えたるに当り植民地とはなにかを再考して
やかさにも、雄々しい栄光をみては内地学徒の晴れ
いる 。 なぜ朝鮮人学生が意志に反して侵略戦争に狩
がましさを羨み、半島に生れた身をわびしく思って
りだされ、死に追いやられたのか。かれらの直面し
いたが内鮮一体の実はここに力強く示されて半島学
た不条理は 「聞けわだつみの声」にみられる日本人
徒も銃を執って米英撃滅の軍に従うことができると
学徒のそれと、またちがった次元の悲劇であること
いう有難い思召が発表され僕も征こう J ~半島学徒
がみえてこなければならない。戦後の B本はこの重
出陣譜』と 自発的志願の美談の主に仕立てられ、叔
い事実にひたすら頬かぶりを重ねてきたが、労働者
父に同伴されて平壊警察署に出頭した。 しかし努慶
の強制連行、軍隊慰安婦の問題と共に、決して埋没
彬は入隊後中閣戦線で叔父の意志に抗し 1
9
4
4
年 7月
させてはならぬ歴史的事実として等身大に復元し、
7日部隊が 「支那事変」記念日の祝賀パーティをし
直視する必要がある 。最近、強制連行ではなく、労
ている際に命がけで脱走を敢行し、重慶に向い韓国
働者の戦時動員である、それは結果的に技術移転に
光復軍に投じ、そのつわものに変身し日本軍と干支
なったなどの論議がある 。 とすれば学徒出陣は軍事
を交えた。前記柳在栄も同じ行動をとったが、同じ
技術の移転というべきか。大事なのは現在の目でみ
軌跡をたどった人々は決して少数ではなく中園戦線
る結果ではなく、歴史的にみることであり誰がなん
では 400
名をかぞえた 。平壌、竜山、大郎など朝鮮
のために、そしてなにより重要なのは自らの意志に
の兵営や日本各地の兵営からも脱走は続出しその捜
よる出陣参戦か否かである 。 また同時に 「
毅日派 J
索に、軍法会議に、刑務所送りに日本軍部は奔命に
の問題も歴史を自省する意味からも間い直されねば
つかれたのが実情であった。 こうした家族への苛酷
ならない。いずれにせよ植民地社会の等身大の解明
な報復を承知のうえで敢て行う脱走、 「敵地」への
は日本にとっても朝鮮にとっても重い課題である 。
逃亡 「国家反逆」への踏みだしは単なるヒロイズム
なお、この論文の一部は『明治大学 1
00
年史』第
を越えた植民地インテリの苦悩の選択であり、日本
4巻所収の 「朝鮮人留学生の出陣」の項目と重複し
当局が決して見ぬくことのできない深く培養された
ていることをお断りしておく。
Comment
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そっく
い
韓 哲 蟻
青丘文庫(朝鮮関係史資料図書館、神戸)館長
1、戦後 5
0
年を経て、筆舌に尽くし難い複雑な遼巡、
どについての確実な資料に基ずく研究論文は、極
苦悩、屈辱、苦難などのため胸中深く閉ざされて
めて概括的なものが一、二出されているだけで本
いた、朝鮮人学徒兵たちの回想記が次々と出され
格的研究が望まれて いた。 本論文はそれに答えた
て来た。然しそれらの多くは個人的な手記であり、
日本に於ける先駆的論文である 。
それなりに興味津々で意義深いものであるが、朝
鮮人学徒兵全体を視野に入れての記述を意図した
ものでも研究でも無い。
いわゆる「朝鮮人学徒特別志願兵令j が発令さ
れた背景、志願という美名の下での強要の各地、
2、ただ論及地域が東京に偏し、とくに明大 7
7名の
学籍簿に基ずくのみの朝鮮人学生の分析には、資
料の問題、プライパシーの問題もあっての為と推
察されるが、東京の他校や京阪神など東京に次い
各校、各人に対する実態、それを推進した軍、官
て留学生の多かった地域、学校にも実態分析を広
憲、それに協力した親日団体、組織、有名人、そ
げ、さらに学校の在朝鮮、在日本の相違による強
して究極の手段としての親兄姉の志願代理署名な
要と対応の違いを明らかにして欲しかった。
ど強要加圧の渦中の中での学生達の対応行動の、
外面、内面両側面からの分析、そして志願者実数
3、日本残留者 689
名 (
入隊者数表によると 6
8
1名と
の出身地と社会層、日本と朝鮮別、園、公、私立
なるが)中2
8
3名は発見検挙されたが、未発見者
別、学校別の実態、入隊の地域、部隊別の実態な
約400
名のたいした男たちの実態、その後の 50
余
人間文化・
3
7
もう一つの強制連行
年の生きざまはどうであったのか、是非明らかに
0学兵という)であるが、われわれ
のゆえに 1 ・2
して欲しいものである 。
在日出身者の入隊は 43
年1
2
月2
0日で 1ヶ月 前であっ
た。なぜであろうか。
4、また筆者のような在日朝鮮人出身者の適格者、
志願の実態はどうであったのかも明らかにされね
ばなるまし、。
此のように記してきて、これは学徒兵であった筆
者にとっても明らかにせねばならぬ課題であり、 50
年の怠慢と反省させられた。
5、学徒兵は 1
9
4
4
年より実施の徴兵数万、数十万の
近々に萎教授が数年を費やした『朝鮮人学徒兵資料
幹部候補生のリソースとして取り込もうとしたと
の事であるが、筆者の学徒兵隊約9
0
名中、幹部候
集』が出版されるとのことである 。 これを機に研究
が大きく進展することを望みたい。 もちろん筆者も
補生合格者 9名で、その内 4名は在日出身者であっ
及ばずながらその一翼に加わりたいと願っている 。
た。 また朝鮮人学徒兵の入隊は 44
年 1月20日 (
そ
「地域文化」の再考を
武邑尚彦
この論文は、敗戦も色濃くなった 1
9
4
3年 1
0月に始
まる 「学徒出陣」を扱ったものである 。だがその対
ることのなかった歴史的事実を白目の下に曝し、そ
れにかかわった人々の痛みを等身大に復元した意義
象は、サブタイト jレにみられるように、日本人学徒
は大きく、高く評価されるべきであろう 。 さらに、
ではなく朝鮮人学徒である 。朝鮮人 ・台湾入学徒を
自らは多くを語らず、一貫して事実に語らせるとい
対象とした 「志願による臨時徴兵措置 Jが、朝鮮人
う手法は、読者をして植民地支配における痛ましい
学徒の 「青春・人生をいかに破壊したか、学生たち
歴史的事実を直視させ、自覚化させる重要な契機を
はこれにどう対応したか」を、さまざまな側面から
提供するものとなっている 。
明らかにしたものである 。その内容は、本文の構成
著者によれば、法文系学徒の出陣が決まった当初、
(順に、志願兵令公布の背景、学生生活、大学の対
朝鮮人学徒はその対象外であった。いまだ戸籍法が
応、学生の反応、志願という徴兵、警察権力の介入、
適用されていなかった朝鮮では、戸籍法にのっとる
親日派の動員、志願・脱走・光復軍への参加)から
も容易にうかがい知ることができるが、要するに、
兵役法のそのままの実施は不可能だったからである。
日本人 「学徒出陣Jのそれとは明らかにちがった次
学徒に対して実施されることになる。 しかしながら、
元で、当時の朝鮮人学徒がいかなる悲劇に直面した
皇民化政策の浸透を自負していた日本当局の思惑は
大きくはずれ、当初の朝鮮入学徒の自発的志願はき
かが、豊富な資料を引用して淡々と語られるのであ
る。その底流に一貫するテーマは、日帝植民地支配
の不条理である 。
読んでみて先ず第一に思ったのは、著者が、明治
それ故に 「志願という徴兵j が、便法として朝鮮人
わめて少なかった。これに対して、日本政府、軍部、
朝鮮総督府、警察はいうに及ばず、大学当局、マス
コミ、親日派知識人など、あらゆる権力と手段が利
大学の資料を中心として、いかに多くの文献史料に
用され、志願の強制が組織的かっ徹底的におこなわ
あたった上で、それらを大胆かっ適切に削ぎ溶とし、
れて行ったのである 。 とりわけ、本国政府を意識し
この論文を執筆しておられるかということであった。
た朝鮮総督府の動きは、わずか 1カ月ほどで、日本
近世以来の日本とアジアのかかわりは、いうまでも
残留学徒の 5割に対して、朝鮮にいた学徒の 9割以
なく戦争・侵略と植民地支配を主流としてきた。に
上を入隊させたという 。
もかかわらず、既存の大学制度やイデオロギー的枠
この当時の朝鮮人学徒と彼らをとりまく人々の動
組みは、そうした歴史的事実、第三世界についての
知識・認識を、システムとして自動的に産み出すよ
向が、よほど多くの資料にあたったのでなければ見
つけ出せないような文章を引用して、鮮やかに浮き
うにはなっていない。 こうした状況の中にあって、
敗戦までのわずか 2年ほどの聞の出来事ではあるが、
彫りにされて行く 。いうまでもなく、引用や注の多
朝鮮人学徒の出陣という、わが国ではあまり語られ
は限らない。にもかかわらず、今なお、それらを過
3
8 ・人間文化
さが必ずしも書かれたものの質の良さを保証すると
もう一つの強制連行
度に並べたてるのが、ア カデミックな学聞かのよう
に取り違える傾向が根強 くみられる中にあって、こ
の論文にみられる引用の簡潔さは実に小気味よい。
いかに多くの朝鮮人学徒が、意志に反して侵略戦
争の前線に狩り出され、死に追いやられたか。 さま
ざまな事例がとりあげられ、読み進むにつれて、彼
らの働突が遠くから地鳴りのごとく伝わってくる 。
それは稿末ちかくの 「
志願 ・脱走 ・光復軍への参加」
あたりにいたって、ほとんどピークに達する 。その
ように感じ取るのは、私だけではなかろう 。そして、
0
0字ほどの中に、著者の抑制のきい
末尾のわずか 4
た主張は現れる 。朝鮮人学徒の意思によらない出陣
参戦を、労働者の強制連行、従軍慰安婦の問題とと
もに、 「埋没させてはならない歴史的事実として等
身大に復元し、直視する 必要がある」と 。
淡々とした記述がむしろ、日本人 「
学徒出陣」の
それとはまた違った次元の朝鮮人学徒の悲劇を、あ
るがままにイメージさせるのに成功している 。資料
の読み込みゃ引用に余分なエネルギーを使い果たす
ると 、どのような違いが見られるのか、などである 。
もうひとつお伺いしたいのは 、末尾のむすびの文章
に関してである 。
「植民地社会の等身大の解明は日
本にとっても朝鮮にとっても重い課題である j と結
ばれているが、 「等身大の解明 」の後には、いかな
る展望がひらけているのか。お考えを伺いたい。
この論文を読みながら、いつも念頭にあった問い
がある 。民族 ・文化の固有性を越えて共生はいかに
して可能か、という問いである 。
9
0余り、
考えてみれば、現在の世界の国家の数は 1
民族の数は 2
0
0
0から 3
0
0
0に及ぶといわれる 。つまり
多 くの国家は多民族国家なのである 。 また国際交流
や国際紛争について語るとき、われわれは世界を国
家という単位で捉えがちだが、実際はその大部分が
民族を単位とする問題なのである 。 したがって、国
際問題ではなく民族問題なのである 。それは、それ
ぞれの民族固有の歴史や文化によって形成された価
ことなく、自らの心に重みを持って触れてくるもの
を選別し、抑制を利かせて引用するという、幾重も
値観に根ざす主張のぶつかり合いなのである 。 しか
も、それらの価値観はしばしば今日のアカデミズム
でいう合理的でも論理的でもない、いわば同じもの
のスクリーニングがあってこその仕上がりといえよ
う。 まさしく、 「
埋没させてはならない歴史的事実」
が、自らを 「等身大」の重みでもって 「
復元」 し
、
題のむつかしさがある 。
ところが現在、世界は歴史上に類例のないほど大
その大願を成就しているかのようにさえ思われるの
である。
ところで、この論文の本領が、埋没させてはなら
ない痛ましい歴史的事実の等身大の復元にあること
規模な人口移動の時代をむかえつつある 。それは単
なる人口の移動ではなく、固有文化という厄介なし
ろものを抱えた民族の移動なのである 。 こうした状
況が進行しつつある今日、自民族 ・自文化からの引
は繰り返すまでもなかろう 。朝鮮人学徒の悲劇は、
その淡々たる記述によって、とりわけ日帝植民地支
配 ・権力との関係において、読者のまえに鮮やかに
き剥がしによる痛みは、かつての宗主国に生きる
よみがえった。だが読了後、私はこうも思った。なるほ
どたしかに朝鮮人学徒の悲劇は、その痛みも含めて
等身大で復元された。 しかし、そこから先が見えて
こない。著者はどのように考えておられるのか、と 。
そこで、次の 2点についてお伺いしたし、。先ずひ
とつは、眼のっけどころに関してである。記述の主
眼が、悲劇と痛みの復元に偏り過ぎたのではないか。
もう少し比較の視点を取り入れた取材と記述の仕方
に工夫があると、いっそう豊かな復元ができたので
はないか。たとえば、入隊後の朝鮮人学徒の処遇は、
どのようなものであったのか(階級、配属先部隊や
戦場、日本人とのかかわり、戦死、復員など)
。 日
本人学徒の場合とは、どのような違いがあったのか。
米国日系 2世の従軍の場合など、先行研究と比較す
さしの上にはのってこないのである。 ここに民族問
「第三世界人」のみの問題ではなくなりつつある 。
人類にと って焦眉の問題は、民族を越えての共生を
どこまで保証できるか、そうした社会体制をいかに
してっくりあげることができるのか、ということで
ある 。かつてのように帝国の統治力やイデオロギー
などが統合原理として作用することが難しくなって
いる現在、おそらく、にわかな解決策は期待できな
いであろう 。 とりあえず、地域に根ざし、地域文化
を支えてきた人々に固有の智恵ー一一たとえば、生態
への適応の仕方、地域社会のっくり方など
に学
んでみることが必要なのではないか、と私は考えて
いる 。い うまでもな く、それは、同時にひとつの地
域を越えた比較の視点を持たなければならない。地
域に根ざした人々の生活の智恵
「思いやり」の
形
を探り出す。 これからの地域研究がとりくむ
べき課題のひとつだと思うが、どうであろうか。
人間文化・ 3
9
論文
茶の機能
はや
かわ
ふみ
早川史
子
人間文化学部 生活文化学科
茶が中国より伝来以来、健康維持の有効性が体験を通して語り継がれてきた.筆者はそ
の伝承を踏まえながら、茶の有効性を科学的に解明することに興味をもち、研究を行って
いる.茶の成分は葉の成熟度によってずいぶん異なる.古葉ほど体調整機能を示すカフェ
インやタンニンは減少するが、刺激が少なく、子供 ・病人に飲まれている.また、古葉で
はフッ素やアルミニウムの含有量が高く、う蝕予防に効果的である
さらに茶の有効性が
科学的に解明されれば、我々日本人にとってますます欠かせない飲み物になるであろう 。
1
. はじめに
司
、
-、、-
ー
ー
815
年に嵯峨天皇が近江の唐崎に行幸の際、党釈
寺(大津市滋賀里)にて同寺の大僧都永忠が茶を煎
じて献上したことが 『日本後記』に記されている 1)。
年頃唐に渡った修行僧で、空海や遣唐使
永忠は 770
とともに長安 (
現在の西安)に入り、 805年に帰国
している 。 陸羽が中国の茶書の古典である 『 茶経~ 2)
(
7
5
8一760
年頃の著作)を著わした時代に 30
年間長
安に滞在し、唐の文化を学んだ永忠こそがわが国に
最初に唐の喫茶習俗をもたらした人であると推定さ
れている 3-5)。
このように近江は、喫茶を伝えたとされる永忠自
ら茶を煎じたところである 。嵯峨天皇にとって焚釈
写真 l 朝宮茶畑 (
19
9
3.
5
)
寺での喫茶がよほど印象的であったのであろう 。 こ
のことがきっかけで畿内および近江 ・丹波・播磨な
どの国々に茶を植え、毎年献上するように命じたこ
とが 『日本後記』 に記されているの
。 この茶樹が後
世まで残存したかどうかについては不明であるが、
現在朝宮 (甲賀郡信楽町)(写真 1)や政所 (
神崎
郡永源寺町)は高級煎茶を産するところとして知ら
れている 。 さらに伝承ではあるが、比叡山の麓の坂
本には日本で最初の茶園といわれている日吉茶園
(写真 2)があり、近江の人びとは古くから茶と深
く関わりながら生活してきたのである 。
中国では 2000
年も前から茶を食用に、薬用に、喫
茶にと広く利用してきた。
近年、食品をその機能の面か ら一次機能 (
栄養性)、
二次機能 (
晴好性)、三次機能 (
体調整性) として
捉えるようにな ってきている 。茶は晴好性に加えて
栄養機能や体調整機能を有する食品である 。表 1に
主な茶の成分を機能性別に示した。
味・香りは春の新茶が好まれるように茶の成熟度
によって茶の成分量に違いがあることはよく知られ
ている 6)。 ここではこれまでに資料が見あたらない、
4
0 ・人間文化
写真 2 日音茶園
茶の機能
表 1 主な茶成分の機能性別分類
機能
一次機能
(栄養性)
分
成
ビタミン ビタミン C、ビタミン E、ビタミン A
(戸カロチン)
ミネラル カリウム、リン、微量必須元素など
二次機能
味 .テアニン、遊離アミノ駿(うま味)、
カキテン(渋み)、カフェイン(苦み)
香り・テルペン、アルコール、カルポニール、
エステルなどの精油
色 フラボノール、テアフラピンほか
カテキン酸化物、クロロフィル
三次機能
ポリフェノール・カテキン、カテキン酸化物、
フラポノール
抗酸化ビタミン ビタミン C、ビタミ ンE、
戸カロチン
微量元素.亜鉛、マンガン、フッ素、セレンなど
その他 カフェイン、サポニン、ヘテロ多糖など
(
体調節性)
『
茶の科学』
9
9
1年)より引用
(
朝倉書庖、 1
9
3
.1
)
写真 3 足助寒茶(19
最も成熟度の進んだ茶について主要化学成分の合有
量を調べ、新茶との比較を行なった。 また、疫学調
査で茶を飲用する場合は飲用しない場合に比べてう
蝕にかかりにくいこと 7-8) やガンにかかりにくいこ
と9) が明らかにされている 。そこで、 i
nv
i
t
r
oでの
茶抽出液のう蝕予防効果の解明とガン予防効果があ
るとされているカテキンについて述べてみたい。
2. 足助寒茶の主要成分
年愛知県東加茂郡足助町で造られた寒茶 (
以
1
9
9
5
下寒茶とする )の主要化学成分と三重県多気郡大台
町で造られた八十八夜の頃の新茶 (
以下春茶とする )
と秋刈番茶の成分を定量し、その結果を表 2に示し
た。番茶には秋・冬 ・春のいずれかに、一番茶の芽
を揃えてだすための整枝を行なった時にできる硬化
葉茎を意味する場合と晩茶、つまりおそく採る茶を
意味する場合がある 。秋刈番茶は前者であり、寒茶
は日本で一番遅く採ることから後者を意味する番茶
である 。寒茶の茶摘みは 1月下旬の大寒の前後であ
る。冬に刈り取った茶の木が春には新芽が勢いよく
伸び、翌年の大寒の頃には 1メ
トjレあまりに成長
している。寒茶の茶摘みは茶刈鎌で茶株の根元から
10cmほど上を刈り取り、桶に枝付きのまま詰め
(
写真 3)、甑にのせ、蒸して後(写真 4)、天日で
)
乾燥する (
写真 5。
番茶では脂質、糖質が増加し、たんぱく質や全ペク
9
3.
1
)
写真 4 足助寒茶(19
チン、可溶性ペクチン、タンニンが著しく減少する 。
人間文化・ 4
1
茶の機能
写真 5 足助寒茶(19
9
3
.1
)
カフェインについては春茶に多く含まれ、冬期に
採取した寒茶では著しく減少する 。茶を飲用すると
カフェインによる中枢神経刺激作用がすぐに発現す
る。 カフェインの速効的生理、薬理作用は古くから
よく研究され、頭痛薬、感冒薬、眠気防止剤、強心
剤
、 ア レ ル ギ 軽 減剤問、哨息治療薬など医薬品と
して用いられている 。 さらにカフェインは胃酸分泌
刺激 11)、代謝充進作用川が認められている 。
表 2 茶葉(荒茶・)のたんぱく質、脂質、結質、ぺ
.~
クチン、灰分、タンニン、力フェイン量
茶
望
事
たんぱく質】)
春茶
岨町‘
,
.
写真 6 再現した唐代の餅茶 (
1
9
91
.4
)
(乾物量%)
秋刈番茶
ような葉茶の製造にはペクチンは問題にならないが、
1
5.
7
4
3
1
.8
7
1
9
.7
5
固形茶である餅茶 (
写 真 6) を造る時には重要な成
脂質 )
1
6
.
5
4
2
.
3
6
6
.
4
4
分であった。餅茶は中国の史料にでてくる最も古い
糖質
4
8
.
8
0
2
9
.
8
6
3
6
.
4
9
茶であり 、永忠が嵯峨天皇に献上した茶も餅茶であ っ
2.
8
8
4
.
8
0
4
.
0
5
た。餅茶は茶の葉を甑で蒸し、杵臼でっき、固めた
0
.
6
7
2
.
8
5
1
.8
8
茶である 12)。先の『茶経』に「茶を採り、餅と作す。
2.
2
2
全ペクチン叫
可溶性ペクチン
不溶性ぺクチン
繊維
1
4.
5
2
1
.9
3
8
.
2
6
2
.
1
8
1
3
.
4
1
灰分‘)
5
.
5
0
5.
4
7
5.
6
1
タンニン日
5
.
5
0
1
4
.
4
8
1
2
.
4
7
無水カ フェイン引
0
.
5
1
2
.
9
0
1
.7
7
荒茶 I!t念された茶葉を 7
0.
C程度で乾燥し、含水
量が 4-6%前後のものであり、最終加熱処
理がされていない茶葉のこと。
)
1ケ jレ
ダー jレ
法 2
'
ソックスレー抽出法
'
3
mーヒドロキシジフェニール法 。直接灰化法
的
農林水産省茶業試験場制定 「
茶の公定分析法」
6)高速液体クロマドグラフ法
葉の老いたるものは、餅成するに米膏を以てす」と
ある 。古葉では、減少した可溶性ペクチンの粘りの
補いとしてのりを使ったのである 。
3. 茶抽出液のう蝕予防効果
中国の茶書『製茶新譜j
](
150
0-1
5
4
1年頃の著作)13)
に
r(略)一体歯の聞に挟まった肉は、茶で激すぎ
洗えば、みな消え縮んで、知らぬ聞にとれるもので
あり、楊子を煩わすこともない。それに、歯の性質
は苦みを喜ぶから、茶によって次第に堅密となり、
虫食も自然に止まるのである 。 しかしこれには、中
等 ・下等の茶を用いる」という一節がある 。
タンニンはタンパク質を収数させる作用があるこ
茶葉中には歯の象牙質 ・エナメ l
レ質 ・エナ メjレ質
(
HA) などが
とはよく知られており、空腹時に濃い茶を飲むと胃
の成分であるヒドロキシアパタイト
の異常を感じることがある。
酸によって侵食されるのを防止し (これを耐酸性と
可溶性ペクチンは茶の粘りに関係がある 。現在の
4
2 ・人間文化
呼ぶ)、堅牢な歯を維持するのに必須の微量元素で
茶の機能
2
.
2-
あるフッ素 (F) 14-17)が存在する 。茶葉中の F量
は生育土壌によって異なる。また同じ土壌でも新茶
2
耐限設組制魁程
よりも秋刈番茶の方が F量は多い。一般的には乾燥
1
.8-
茶葉中には 300-2000μg
/g含まれており、その 50
1
.6
%以上が茶抽出液中に溶出されることが知られてい
1
.4-
に比べてう蝕になりにくく、その原因として茶の中
9-2
1)あるいは疫学調査7-8)
の Fの 存 在 が 動 物 実 験 1
る18)。従 って、茶を飲用する場合は飲用しない場合
1
.2
-
において報告されている 。
。
~~下十『ー←
50
100
1
50
200
I
I
Iv
J
tr
oで茶のう蝕効果を科学的に明らかにする
目的で茶抽出液の H Aの耐酸性に及ぼす影響を調べ
フッ 素量 (μgl2mt
)
た結果、春茶に比べると秋刈番茶の方が強い耐酸性
図 l ヒドロキシアパタイト (HA)
に対するフッ化
ナトリウム (NaF)溶液 (0) および茶抽出液
(
e )の耐酸性効果 耐酸性効果は NaF、茶抽出
液、同O処理したそれぞれの HAから pH4.0の
酢酸緩衝液によって溶出されるリン (
p)の量か
ら次式で求めた。
日0処理の HA
からの P溶出量
耐酸性効果=
NaF溶液あるいは茶抽出液処理の
HA
からの P溶出量
効果を示すこと、茶抽出液の強い耐酸性効果は Fだ
けでは説明できないこと(図1)、これまで明らか
にされていなかったアルミニウム (A1)も H Aに
対する耐酸性効果を有すること(図 2)、さらに F、
A 1、カテキ ンの三者の相互作用で茶抽出液の強力
な耐酸性が示されることなどを明らかにした 22-25)。
山田らお)は茶、ツバキ、サザンカなどのツバキ
科の植物の一部が著しい F蓄積を示し、また A 1含
有量も高いと報告している。表 3に筆者が測定した
種 々の茶抽出液中の F, A 1の含有量を示した 。古
葉になるにつれて耐酸性効果を示す Fや A 1の含有
22
量は高い値を示し、う蝕予防に効果的である 。古葉
を下等の茶とするならば、古葉ほどエナメ jレ質の成
2
分である H Aの耐酸性を強化させる作用が強いこと
w
m誤認鐙程
1
.8
-
が明らかになったことは、すでに銭椿年が 「中等・
下等 の茶を用 いる 」 と述べていることと一致する 。
1
.6
表 3 各種茶抽出液中のフソ素、アルミニウム含有量
(μg/ml)
フッ素1
) アルミニウム 2
。
50
1
0
0
1
5
0
200
アルミニウム量 (μgl2mt
)
図 2 ヒドロキシアパタイトに対する塩化アルミニ
ウム(AlCl
,
)
溶
液 (0)および茶抽出液 (
e)の耐
酸性効果.耐酸性効果はAlCl,、茶抽出液、
見 O処理したそれぞれの HA
か らpH4.0の酢酸
緩衝液によって溶出されるリン (p)の量から次
式で求めた。
耐酸性効果
ぬO処理の HA
からの P溶出量
2
.
4
1
.3
5
.
3
72.0
春
茶 (
三重県 ・多気郡)
秋刈番茶 (
三重県 ・多気郡)
6.2
玉
茶 (
愛知県・足助)
露 (
愛知県 ・酋尾市)
1
6
.
0
4.
4
煎
茶 (
鹿児島県・知覧)
2.
4
2.2
秋刈番茶 (
京都府 ・宇治市)
1
0
.
9
0
.
9
1
.1
1
8
.
5
寒
紅
茶 (
中国福建省)
烏龍茶 (
中国福建省)
3.2
2.2
2.
7
茶葉1.5g,9
0
9
3.
C,蒸 留 水50ml, 1
0分間の抽出液
)
1イオン電極法 m原子吸光法
AlCl,溶液ある いは茶抽出液処理
のHAからの P溶出量
人間文化・ 4
3
茶の機能
4. 力テキン
茶に含まれるタンニンの主成分はカテキンであり、
分子構造上からポリフェノ-)レ化合物に属する。春
茶ではタンニンが多く、古葉では減少する 。茶葉中
のタンニンはー煎目の茶抽出液では約 4
4
%溶出され
る。茶のカテキン類のうち茶にのみ含まれるエピガ
ロカテキンガ レ トが「ガン予防 J2
7-2
8) r
血清
ず酸化されて、キノン型となり、チオ jレ型 BIラ
ジカ jレがキノンに結合すると考えた (
図 3)42)。 ま
た
、 8-3,
4-dihydroxythiami
nあるいは 8-2.3一d
i
h
y
d
r
o
x
y
t
h
i
a
m
i
nはTD8と異なり、生体内で B,活性
をもたない不可逆的物質であることを動物実験で明
らかに した制。
また、植物性ポリフェノ-)レは金属のキレーター
コレステロー jレ上昇抑制I
lJ創に効果的であること
になり 得ることはよく知られている 。たとえばタン
が動物実験で立証されている 。
ニンと鉄がキレートをつくり、腸管からの鉄の吸収
近年、活性酸素や過酸化脂質による酸化的細胞損
を妨げることから鉄欠乏性貧血のひとは食事中ある
傷がガン・老化の一因として注目され、数多くの研
いは鉄剤摂取時には茶の飲用を避ける必要がある 。
究が報告されている 。植物性ポリフェノー jレが活性
以上のように複雑な挙動を示す植物性ポリフェノ
酸素のスカベンジャ となり得ることからその酸化
的細胞損傷抑制効果が認められて いる ω -31)。 また
ーjレを生理機能を持つ食品成分として位置づけるに
茶カテキンが脂質に対する抗酸化作用を有すること
も明らかにされている 32)。 しかし、植物性ポリフェ
は作用機構以外にも解決しなければならない問題が
数多く残されているように思う。
ノ ル類が Fe3+, CU 2+などの遷移金属イオンの
共存下では活性酸素種である過酸化水素の生成を促
。叶仁子。
進し、過酸化脂質や DNA損傷を引き起こすことも
よく知られているお一切。筆者らも茶カテキン類が
5
.
+
08
5
O
。
Cu2+の共存下では脂質の酸化を促進すること お)
、
DNA損傷を引き起こすことを確認して いる 。 この
ように植物性ポリフェノ
,
0-
8
,
/レは単に抗酸化剤として
作用するだけでなく、反応条件によっては酸化促進
剤として働く 37)。
1
i
:
.8'-5-00'!!.:..8'-5-00H.H
一方、植物性ポリフェノー jレは i
nv
i
t
r
oで、ビタミ
ンBI(B1) を速やかに分解させる非酵素的 BI分解
因子、すなわち BI分解耐熱性因子の本体であるこ
とは、藤田らによって明らかにされている則。細田
ら鈎)はこの反応によって生成される物質は生体内
01
ト
Go--G
。
V
-
S
ぷ
, -5
~, -5VOH'HCI
OH
(
1
1
)
で B,活性を有する t
hiamind
i
s
u
l
f
i
d
e(
TD8)であ
り
、 B,分解耐熱性因子による BI分解機構は BIのT
D8への酸化反応であろうとし た。しかし, )
1
1上40) は
この反応で生成される TD8はごく一部であり、大部
,
凹
てX
,附/
1
7/
8
分の分解産物は不明であると報告した。筆者はその
メカ ニズムを明 らかにするため、ポリフェノールの
なかで最も構造式の単純なカテコ ルを用いて BI
の分解産物を検出 し、さらに分解産物のうち反応初
期に生成されるものの一つを単離し、機器分析か ら
その構造式を推定した 。 その結果 pH7.0以上で BI
は反応性の高いチオ l
レ型 BI
となり 、カ テコ jレ
4-dihydroxythiaminあ
との酸化的結合物、 8-3,
i-hydroxythiaminを生成すると
るいは 8-2.3一d
推定した4
!
)。反応メカニズムとしては、この反応が
還元状態では起こらないことか ら、カテコ
4
4 ・人間文化
jレがま
図 3 カテコールによるビタミン 8,の分解メカニズム
茶の機能
5
. おわりに
1
6
0
0
年、隠元禅師が当時の中国で飲まれていた茶
まだまだ茶の薬効について質的にも量的にも解明
がされていない部分が多い。今後、茶の中からも っ
を伝えた 。 この頃の日本の茶についてケンペルは
と優れた薬効成分が取り出され、さらに茶の機能性
『 江戸参府旅行日記~ (
16
0
0
年代の日本の様子を記
の科学的解明が進めば、われわれにとって茶はます
述)44) の中に次のように記している 。「人々は若葉
ます不可欠なものになるであろう 。
摘んだ後の、あるいは前年から残っているこわい葉
現段階では許次締が 『茶疏 ~ (
16
0
2
年前後の著作)
却)に記しているような時、たとえば、心身ともゆっ
を使う 。 これらの古い葉は摘みとるとすぐに葉を巻
たりしたとき、読書作詩に疲れたとき、気持ちが落
くことをしないで、平らな鍋の中で絶えずかき混ぜ
ち着かないとき、歌や曲を聴くとき、夜深く共に語
ながら強く妙る」と 。 この時代、ケンペルが旅の途
るとき、客と主人が懇談しているとき、晴れて風の
中でみた地域では一般庶民は釜妙り製法で硬化葉茎
和やかなとき、薄 ぐもり で小雨降るとき、清幽な寺
あるいは晩茶を飲んでいたことになり、う蝕は少な
観を訪ねたとき等 々に飲むのがよいのではなかろう
かったかもしれない。
か。
(これは大抵高貴な人々の食卓に出される )を二度
緑茶の製法が紅茶や烏龍茶と異なる点は、茶葉に
含まれる酵素を不活性化させるために摘まれた茶の
文献
葉を直ちに加熱することである 。 これを殺青と呼ぶ。
方法がある 。現在、中国では釜妙り製法、 わが国で
1)大津市史:大津市,上巻, 1
4
4(
19
3
8)
2)布自潮源・中村喬:中国の茶書,平凡社, p
3
7(
19
8
5)
は蒸し製法が主流である。わが国でかつて一部の庶
民が飲んでいた 45-47)釜妙り茶に対する現代人の感
3)片 岡 肇 大 長 安 展 京 都 の は る か な 源 流 を 訪 ね
.
3
2
9(
19
9
4)
る,京都文化博物館, p
覚を知るため、 1
9
9
3
年、滋賀県在住の中高年層と若
4)守屋毅・喫茶の文明史, p
.
7
2(
19
9
2)
,3
0
6(
19
7
8)
5)大津市史:大津市 1巻
4
7-8
0(
19
8
8)
6)池ケ谷賢次郎.野菜茶試研報, 2,
7)F
r
a
y
s
s
e,
C
.B
i
l
b
e
i
s
s
i,
W.,
Benamghar,
L
.and
B
.,
B
u
l
lGroupI
nt
.RechS
c
iStomal
.
K
e
r
e
b
e
l,
e
tOdontol,
3
2,
1
6
9
(
1
9
8
9
)
M.Kosuge,
F
.Y
o
s
h
i
n
o,
Y
.
8)M.Onishi,
MurakamiandA
.Tokumasu,
J
.P
r
e
v
.Den
t,
6,
3
21
(1
9
8
0)
.Oguni,
K.Nasu,
T.
Nomurae
tal
.,
A
g
r
i
c
.
9)I
B
i
ol
.Chem.,
5
7,
1
8
7
9
(
1
9
8
8)
D.M.,
Nu
t
r.
R
e
v
.,
3
6,
9
7(
19
7
8)
1
0)Graham,
1
1) K
.J.
A
c
h
e
s
o
n,
B
.Z
a
h
o
r
s
k
a-M
a
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k
i
e
w
i
c
z,
M.D.
J
.
C
l
i
n
.
K.AnantharamanandE
.
J
e
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1
2)布目潮源・緑芽十片,岩波書庖(19
8
9)
1
3)布目潮淑・中村喬:中国の茶書,平凡社, p
2
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6)山賀礼一・森脇豊:表面, 1
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8)T
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殺青の方法には蒸す(蒸青)方法と釜で妙る (
妙青)
年層の女性を対象に釜妙り茶に対する味覚テ ストを
行なったところ、中高年層では蒸し茶の香りを好む
のに対し、若年層では中国人が好んでいる釜妙り茶
の香りに強い晴好性を示した 48)。つまり若年層では
蒸し茶の香り成分であるジメチルスルフィドよりも
釜妙り茶のこうばしい香り(火香)の成分であるピ
ラジン類の香りを好むようである 。釜妙り茶の香り
をより好むことがピラジンの香りのするコーヒーや
烏龍茶を好む若年層に限られた現象なのか、あるい
は日本人の香りに対する曙好性が変わってきたこと
によるのかについては明かではなく、さらに追跡調
査が必要である 。
これまで述べてきたように茶には種々の機能性成
分が含まれており、中国では古くから薬用としても
用いられてきたことが理解できる 。 しかし、茶葉の
成熟度によってその成分量は異なる 。 どのような茶
をどれだけ、どのような方法(抹茶を飲むか抽出液
を飲むかでも異なる)で飲めば、栄養性や体調整に
効果的なのかについては明かではない。多種類の機
能性成分を含み、中には速効性のものもある 。薬用
としても用いられてきたことから、過剰摂取が害に
なる場合もあるのではなし、かと考える 。足助で昔か
ら寒茶が子どもや病人の茶とされていた 49) ことは
生活の知恵なのかもしれない。
人筒文化・ 4
5
茶の機能
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) 早川史子,安藤喬志,木村隆英,原征彦:日本
公開特許公報, 5,
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6)山田秀和 ・服部共生 :日本土壌肥料学会, 48-7,
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6 ・人間文化
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6)早川史子、宗宮創・藤田光恵・安藤喬志、木村
8回日本栄養食糧学会総会講演要旨集,
隆英:第4
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7)M.J.Laghton,
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NHKブ ックス) ,p
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4
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4
5)松崎芳朗:年表茶の世界史, 八坂書房, p.
1
5
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9
2)
4
6)早川史子, 日比喜子 :日本食生活学会誌, 6,
51
(
19
9
5)
4
7)ケンペ jレ・斉藤信訳:江戸参府旅行日記,平凡
社
, P.
4
7(
19
8
5
)
4
8)林屋辰三郎・横井清・楢林忠男:日本の茶書,
平凡社, p.
1
7
2(
19
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5)
5,
2
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9)松下智:愛知大学総合郷土研究所紀要, 2
(
19
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.
5
0)布 目 潮瀬 ・中村喬:中国の茶書,平凡社, p
19
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5)
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6
6(
茶の機能
Comment
な か たに のぷ
じ
中谷延二
大阪市立大学・生活科学部食品栄養科学科
従来、食品は主に栄養面、 E香好面から評価されて
きたが、近年食品中の栄養素や感覚を刺激する成分
れている 。1)さらに生体内での酸化によって生じ
る過酸化脂質や活性酸素種による酸化的細胞傷害を
が生体に対して機能を発現するとして捉え、より能
も、これらのポリフェノ
動的な見方がなされるようになった。これが三次機
期待される 。我々も酸化による食品の品質劣化を抑
l
レ類で抑制されることが
能と呼ばれ、この機能を効率良く活用した特殊保健
制する成分を探索す る目的でオレガノ、ローズマリ
食品(いわゆる機能性食品)が誕生した。
一、ウコ ンなどの香辛料から強力な抗酸化物質を見
茶は古来、噌好用、薬用として飲用されてきた種々
出 し、化学構造を決めてきた。茶をはじめ日常的に
の機能を持つ食品で、ある。早川博士の総説にも述べ
摂取する食品にガンや種々の疾病を予防し、健康の
られているが、茶葉を摘む時期や製法 (緑茶、烏龍
維持、老化の遅延効果などの可能性を期待しつつ、
茶、紅茶など)によっても香りや味が異なり、喫茶
日夜研究がすすめられている。
習俗にまで違いが見られることは興味深い。同博士
の研究は生体におけるポリフェノー jレのビタミン B
1)これらの原著論文をはじめ茶の機能性について
1分解機構をモデル系に用いて解明したものである 。
の論文が、小国伊太郎、原征彦 「お茶はこんなに効
この茶ポリフェノールのカテキン類には強い抗酸化
くJ(
中日新聞本社出版)に解説されている 。
性があり、原ら、奥田らによってその活性が報告さ
ゆき
お茶の効用あれこれ(最も簡略に)
原
ひこ
征彦
三井農林(株)食品総合研究所
最近、お茶の主成分であり渋みのもとであるカテ
肪の吸収を阻害し、われわれが摂り込んだ余分な糖
キン類がヒ卜の健康維持に著効あることが知られて
類や脂肪の吸収を抑制し、ダイエッ卜効果を示しま
きました。茶カテキンの生理作用は多岐に亙ります
す。一方、摂り込まれた一部のカテキンは肝臓で発
が、それら作用を、飲まれたお茶の流れに沿って概
ガン物質を解毒するなどの働きをし、さらに血液中
観してみます。お茶は飲まれますとまずその温度、
を流れて脂肪やコレステロー jレの過酸化やそれらの
稜郁たる香りや滋味でヒトをリラックスさせます。
濃度上昇を防ぎます。 カテキンの強い酸化防止作用
このときカテキンはいわゆる虫歯菌を殺菌させるよ
が寄与します。 さらに血中では血圧上昇酵素を阻害
うに働き、同時にこの菌の酵素を阻害し歯垢の生成
を防ぎます。早川先生はさらに、茶成分のカテキン
とフッ素とアルミニウムとの相互作用が歯質を強化
し血圧の上昇をも抑制します。大部分のカテキンは
大腸に達し、ここでは特異な作用を示します。 カテ
キンは乳酸菌など善玉菌には働かず、悪臭やガスを
するというユニ クなご研究をされています。 カテ
キンの強い抗菌作用はインフ jレエンザウイルス、百
機酸が増え、悪臭物質が減り、便通がきわめて規則
日咳菌、 MRSAなどの口腔呼吸器に生息する病原
菌の感染や増殖を防ぎます。お茶は次に食道を経て
生ずる悪玉菌をやっつけます。その結果、腸内の有
的、快適になることがヒ卜の試験で確認されていま
す。 このようにお茶は飲まれてから、体内でさまざ
胃に流れて行きます。お茶やカテキンは一部は体組
まに好ましい働きをし、最後まで役割を果して排浩
織内に吸収されますが、大部分はそのまま消化管の
されるのです。飲まずんばあるべからずです。
中を下ります。小腸では特にアミラーゼの働きや脂
人間文化・
4
7
論文
中国大陸水田稲作の
拡張についての素描
すが
や
ふみのり
菅谷文則
人間文化部地域文化学科
中国大陸の水田稲作は、紀元前 5~ 6000年頃に、長江下流域で開始されたことが、考古学 ・ 農学
双方の研究で明らかになってきた。農学者から、雲貴高原には現在も、各種の稲が栽培されている
ことから、雲南にその起源地があると主張され、文化人類学からも、首肯されてきた。今、考古学
の資料から非雲貴高原稲作起源地説を提唱したわれわれは、雲南の現生栽培種の多様性について、
その理由を考える必要がある 。そこで本稿では、漢代以前の中国の稲の実態を考古資料でもって呈
示し、併せて文献資料を援用して、多様性を中原文化直接の移入と、文化波及における一種のドミ
ノ的現象としてとらえる 。
通じ {
注
⑤
)、渡部忠世が、豊富なタイ、ミャンマ一、
稲作文化が日本列島に伝わ ったのは、土器編年で
は、縄文時代後期にまで、さかのぼることが確実と
なってきた。 しかし、それは局地的であって、広く
普及しなかったようである (
凶
)
。 そして、縄文時代
晩期末にな って、完成された技術体系をともな って
、
水稲耕作が伝播してきて、縄文時代の要素を根底か
ら革新した。その暦年代は紀元前 5世紀前後とされ
ている 。そして、まもなく、土器文化の弥生時代前
期となり、列島の北端ちかくの青森県にまで普及し
ていった 世
①
)
。 日本列島への水稲栽培の伝播は、決
雲南でのレンガに含まれた稲資料調査の結論として、
栽培稲の発生地を雲貴高原から、インドアッサム北
方に求めた (
闘
〉
。 そこには雲南、なかでも西双版納
地方に豊富な多品種の稲が集中して存在していると
いう状況をふまえてであった。筆者は、これについ
て、中国大陸各地からの移民によって、多くの稲が
雲南地方にいく度も持ち込まれた結果であるとした
惜の。 この筆者の考え方について、中村慎ーは栽培
稲の起源研究をするうえで、おちいりやすい問題点
として、あるセンターから一元的に各地に分布して
して一波ではなく、いく度の画期があった。つまり、
い ったというべきとするよりも、各地においても創
いく波もの伝播であったと考えてよ い
。
日本列島における稲作の開始は、自生したもので
始されたとみるべきであるとする選択肢を欠如して
いると批判した (
凶
〉
。 もちろん中国大陸の、なかで
はなく、海を渡って種子を含む栽培法、飲食法など
も華南から華北にかけて、広く分布する稲作文化の
が伝えられたのである 。その意味では、古代東北ア
ジアの文化体系に、日本列島が組み込まれたことを
示している 。もちろん縄文時代、あるいはより古い
段階で、石器原料としての日本列島を原産地とする
黒耀石が東北アジア地域に移動し、分布しているこ
とも看過できないが (
帥
}、稲作の開始と、その普及
に比して、その後に及ぼした影響は小さか った。
この稲作をめぐって、多くの議論が多方面の研究
者によってなされ、深化した研究がされている 。そ
のうちでも、もっとも、大きい議論の 1つは、栽培
問題を、考古学資料を中心としつつも、文献資料を
援用してする研究では、及ばない部分もあることは、
明確であり、謙虚に受け入れなければならない。
本稿はさきの拙稿を補充するものとして、雲南へ
の多くの稲の集中が歴史時代にも 「
種子を携えた人
の移動」によ って起こりえたことを論じるものであ
る。
「東アジアの稲作起源と古代稲作文化」の題目で、
日 ・中 ・韓の関係資料を集成した 惜ω 。 この研究の
H
秦漢時代の雲南は、大陸辺境地域が中国王朝の地
方行政に組み込まれていく過程を明確にあらわして
いる 。史記・西南夷伝には 「秦時常頬略通五尺道、
諸此国頗置吏鷲 (
秦の時に常頒が五尺道を聞き 、こ
れから西南夷の、つまり西南夷の各部族に通じ、置
吏した、つまり役人を派遣した) Jとあり、幅五尺
の道を常頒が西南夷に通した。 この五尺道は、李司く
が修築した契道を四川盆地から設置されたとするこ
進行のなかで、筆者は、中国大陸における栽培稲の
起源地が雲貴高原には求めえないことを論じた。か
つて農学者の中川原捷洋が稲のアイソザイム分析を
とで諸説が一致している 。秦が滅んだのち、 「
秦滅、
及漢輿皆棄此国(秦が滅びてのち、漢が起こると、
皆この地域をかえりみなかった) Jと史記にあるが、
稲の起源、つまり水稲栽培の起源地をめぐるもので
ある 。第 2は、東北アジア、具体的には朝鮮半島と
日本列島への水稲栽培伝播路線の問題である 。
この両方の問題を解決に導くために、 1
9
9
0
年から
佐賀大学農学部教授和佐野喜久生を代表者として
4
8 ・人間文化
中国大陸水田稲作の拡張についての素描
これにつづけて史記は 「巴萄民或窃生商買、取其符
があり、竹簡にこれらの種子などの副葬を記述して
馬、契佳、髪牛、以此巴萄殿富(巴萄つまり、四川
いて、両者の比較から種子の古代名と現代名の対比
盆地の萄人と、重慶周辺の巴人が閉塞中の関をくぐ
が可能となっている 。残念なことに、種子を納めた
り抜けて周辺民族の馬、契民族の憧、髪民族の牛な
竹笥 (
竹行李)や、麻袋の一部が腐っていて、竹簡
どを商売し、このため巴 ・萄はおおいに富んだ)J
とある唱団)
。
文字は
あった。稲に関する木簡は次の 5点である (
こうして漢の建国から約 7
0
年後の武帝(140B.
C
.
と、竹笥などに付けられた木績が一致しないものも
~ 87B.C. 在位 ) の元狩 2 年に、雲南北部への支配
正体字で表示する 。
)
第1
1
7簡
稲蜜精一笥有線嚢二
を確立し、益州郡、永昌郡などを設置し、直接支配
第1
1
8
簡
稲頼一笥有鎌嚢二
をはじめた (
帥
)
。 以後の中原あるいは南朝の各王朝
3
0
簡
第1
稲食六器其二検四盛
は、雲南などの西南夷支配のため郡や県をつぎつぎ
以上は種子としての稲
に設置していったが、この年表的経過は、ここでは
第1
4
4簡
述べない。
第1
4
5簡
稲白鮮米二石布嚢二
麻袋の竹牌
稲白株米一石
史記 ・西南夷伝の建元 6年条に現在の貴州省を中
心とする夜郎国に西南夷道を修築して入るために湖
南省を南下することを勅許したくだりに 「
及拝蒙為
郎中将、将千人、食重万余人(唐蒙は郎中将となっ
稲白株二石布嚢二
以上はコメを示している 。
稲の出土の総量は報告書に記述されていないが
{
帥
)、かなり多量であ った。 1
9
7
8
年に国家文物局が
て
、 1
0
0
0人をひきいた。食料輸重は万余人にも及ん
中心となって、その種子についての鑑定と研究が刊
だ)Jとあり、 内地から、大量の食料を運んだ。同
行された。
鑑定に供せられた稲は 4タイプあって、おのおの
様の記述は史記 ・平准書にも 「千里負担鎖綬」とも
あって、雲貴高原への軍の進行は食料を内地から持
参したのであった。
この傾向は雲貴高原のみでないことが、漢書・食
「馬0
1JI馬0
2JI
馬0
3
JI
馬0
4J と仮称された。 こ
れらのサンプ jレは、おのおの次のように報告されて
いる 。
貨志の記述からも判る 。武帝の時に漢は 3年連続し
馬01 は、穎毛が短くまばらで、相~タイ プに 属し、
て出兵し、菜、両与を滅ぼし、香閤(広東)から萄
湖南省現存の 「紅米冬粘」、 「長粒湧稿」に似てい
南にかけて初郡 1
7を置いた。「且以其故俗治簿缶賊
るとする 。 また周李維は雲南現世種の 「鎌万穀型 J
税、南陽漢中以往各以地此、給初郡吏卒奉食、貨物
と穀粒の長さ、幅、大小、および穎肩が平直で、粒
伝車馬被具(かっ、その故俗、つまりその地方の習
端の歪んだ噴形をし、その護穎が長く尖って いると
俗をもって統治し、賊税をせず、南陽 ・漢中から、
いう形態がよく似ているとする 。なお、雲南現生種
これらを運ぶ。初都の吏卒の食料、用具は、南陽や
は陸稲とされている 。
漢中から車馬を伝えて与う) Jと漢書 ・食貨志にあ
馬0
2は、華東の現生種の梗稲と類似するが湖南省
る。 この項は難解であるが、次のように解釈されて
で現存する柚稲種の中に少量栽培されているものに
いる 。
7の初都(西南夷 7、南号 9、湘桂 1)
漢王朝は 1
類似して いて、周李維は雲南省の現生種である 「冷
の官吏士卒の食糧と用具は、近隣の内地の郡県が供
水穀」に類似するとしている 。
馬0
3は、綬稲で、粒形は長大で、湖南省に現存す
応し、在地において征取しないとしている 。史記・
る稲では稀な部類に属し、西北地区の 「線黒さ」
平准書には、豪民を募集して、西南夷を開墾する、
「
養和室白皮大稲」などに似ている 。周李維は 「雲
いわゆる商屯についても記述している 。極めて多く
南省の現生種である 「皐穀」に類似しているとして
いる 。 また洛陽漢墓出土稲にも似ているとする(た
の器物や種子が西南夷(雲南など)、南零(広東、
広西、越南の一部)、湘桂(貴州)にもち込まれた
ことを示している 。 これを間接的に証明する考古学
資料がある 。
湖南省長沙市で 1
9
7
2
年に発掘調査された馬王堆 1
号漢墓出土の稲がある世⑪)
。 この墓葬からは多くの
植物種子や果物が出土している 。遺策といえる竹筒
ぶん焼溝漢墓のもの)
。
4は、穎毛が完全に整っており、これが短く穎
馬0
端に密着していることから梗タイプに属するが、梗
の橋稲である可能性もあるとしている 。出土品では
湖北省京山県のものに近いとする {
胡
)
。
さらに重要な指摘もされている 。周李維 (
雲南省
人間文化・
4
9
中国大陸水田稲作の拡張についての素描
1から馬0
4のなか
生物資源開発応用研究所)は、馬 0
に、現在の中園長江中 ・下流域では栽培されていず、
雲南の演池地区で多く見られる光穀稲があることを
次のように指摘している 。
「馬王堆漢墓の稲の中には光穀タイプと思われる
品種があったということである 。現在の長江中・下
流域の中には光穀稲タイプはなく、雲南省では水・
陸稲に関わらず、現在でもかなりの光穀稲タイプが
見られ、中でも濃南地方の陸稲中にこのタイプが比
較的多く、かっ馬王堆漢墓で光穀稲とされたものと
12
9頁)。
粒形も類似している J (
これについては慎重で、次のように留保条件をつ
けている 。
「馬王堆漢墓出土の稲の中に光穀稲が含めれてい
た可能性がある 。 しかし数量はきわめて少なく、ま
た検出したところの馬王堆漢墓中の光穀稲類似タイ
プの稲は、いずれも穎穀の磨損が激しいのでにわか
粒形特性の比較から大きい結論を導くことには慎重
であらねばならないが、周李維が指摘している、現
在の長江中 ・下流域に存在しない馬王堆 1号漢墓出
土の光穀稲の存在は重視すべきである 。
筆者は、周李維の報告をもとに、馬王堆 1号漢墓
出土の稲も、雲南省では、栽培されつづけ、現代に
至った。馬0
2、馬 0
3と同様のものが現代も栽培され
ている 。 このことは、その後の約2
1
0
0
年間という年
代差を越えても重要な手懸かりを与えてくれる 。つ
まり、雲南の多品種の稲が、内地との、いく波もの
交流を通じて累積していったとする筆者の仮説を物
としての稲が証明しているのである 。
文献に表記された食糧は、脱穀前の稲であったの
か、あるいは脱穀を済ませた米であったのであろう
か。 これも検討を要しよう。
皿
に確定できない。ここで提起したこの問題について、
今後鑑定者が注意を払ってくれると有り難しリ。光
稲や米の出土例を見ると、遺跡出土のものも、古
墓出土のものも圧倒的に脱穀前の稲が多い。陳文華
穀稲は陸稲である 。そしてジャポニカである 。現生
の1
9
9
4
年の 「中国史前稲作遺存」の表によると、遺
種と出土種とは無関係ではない。
馬王堆漢墓出土などの稲のサンプ jレは、既に炭化
0
6
遺跡中で、
跡出土(台湾を除く)のものでは、 1
米と表示されているのは 2遺跡にすぎない。新江省
嘉興大墳遺跡では、 4
0
0
0
B
.
P
.の稲と米が、湖北省
していて、一般的には D N Aなどの遺伝子レベルで
の現生種との比較は出来ないとされてきたが (
帥
)、
佐藤洋一郎らはこれの抽出に成功した。現段階では
炭化米の外観観察による粒特性の認識から地域性や、
稲品種の地理的分布を論じることが出来るとする和
佐野喜久生の報告によらざるえないが 世
樹 、周李維
が指摘する馬王堆 1号漢墓出土の稲資料と、雲南な
どがおける現生種の類似は、稲作伝播を究明するう
えで重要な意義をもってくる。
ただし、周李維の指摘には、他の地方の現生種と
の比較がなされていない。務修齢によると (
帥
)、清
代の中国内地の 1
6省のうち1
4省の水稲品種数は3
4
2
9
種の文献記載がある 。 しかしそのうちには重複記述
もあり、その割合を25%とすると 2
5
7
1種もの品種が
中国大陸各地に清代に栽培されていたことが知られ
る。滋修齢の表示によると、新江省が5
3
0品種あり、
江蘇省5
2
5品穫が続き、雲南省は2
6
1品種と表示され
ている 。 この品種数は少なく、 「最も多く見積もっ
ても、実際の数の一部分に過ぎない。 なぜなら、今
6
0
0
B
.
P
.の稲・籾殻と米が出
惰州冷受亜遺跡では 4
土している 。米となった稲は、厚い珪酸を多量に含
む籾で覆われた稲に比して遺跡中で、腐敗し、発掘
調査によって出土を確認できにくいことは当然、のこ
とであるが、遺跡出土のものは稲が圧倒的に多い。
耕地で収穫された稲は、籾をつけたまま、つまり
脱穀することなく、貯蔵されていた。1
9
7
6
年に長江
下流域の江西省新干県で戦国時代の大型穀物倉が発
掘調査で検出された (
帥
)
。 倉庫跡は界埠戦国穀物倉
ともいわれているが、一般的に新干県戦国時代穀物
倉の方がよく使用されている 。
.5m、
4基のうち 1基が完掘された。平面は長さ 61
幅11mで、議江に面して入口を設けている 。大量の
瓦片と柱穴と 4条の縦溝の跡があって、一種のコロ
パシ根太式の高床倉庫であったと推定できる 。各倉
庫の底面積は6
7
6
.
5
m
'であり、火災によって焼失し
ているが、炭化層の厚み 0.3~ 1. 2m もあって、保存
世紀の 1952~ 1958年の聞に収集された地方の品種の
されていた稲の量は極めて大きい。その倉庫が議江
に面していることは水運によって、倉庫に稲が運搬
総数は4
1
3
7
9種の多さに達しているからである J(
5
6
頁右)
。
そうであるとすると、馬王堆 1号漢墓出土の稲の
されたことを示している 。稲も 「
外形から判断して、
梗稲が主で、少数の柚稲も含まれてあり、品種は純
粋ではない J(
13
7頁左) と陳文筆は報告している 。
5
0 ・人間文化
中国大陸水田稲作の拡張についての素描
周李維も 1
7種類の粒形タイプを検出している 。 (
1
2
4
面には 7個の小型の木榔が縦列に 3個と 4個が配置
頁)。倉庫の目的は宮府の穀物貯蔵ではなく、軍用
されていて、その棺板を利用して、それを一種の足
穀物としての稲の可能性があるとされている 。
場として、墓主の大型の木棺が置かれていた。小型
稲は発芽能力があり、米は一般的には発芽能力が
棺には骨格の一部が残っていて 、少年 1人を除いて
青年女性が葬られていた。墓主は中原から移入の、
ない(研究レベ jレでは可能)。
墓葬出土のものはどうであろうか。前漢代から後
漢代にかけての墓葬ではどうか。大型墓の耳室は食
糧庫としてあてられ、穀物類が貯蔵され、墓主の冥
壮年男性が墓主であったと推定されている。仕女を
殉葬していたのである 。
時期的には出土した青銅器などから前漢文帝以前
界での食糧にあてられていた。馬王堆 1号漢墓では、
の墓(1 79 ~ 164B.C. ) であることが判明したが、
木榔の西側室に竹笥などに詰められた種子や果実な
報告書では、漢族としている。仕女らは異民族であっ
どが出土し、その種類も極めて多い。穀類としては、
たとしている 。 しかし 、遺策の文字が正し い漢字で
稲・小麦・大麦・稜・粟があり、野菜は 6種類、果
書かれていることからも判るように、著しく強く漢
実 7種類に及んでいる。稲は、脱穀していない稲で
文化の影響を受けていることが判る 。
では、すでに著しい殉葬は認められない。羅
漢制j
あることはすでに述べた。
洛陽焼構漢墓の陶倉からも、器表に稲とかかれた
泊湾 1号漢墓に近い南越王越妹墓でも、報告書では
陶倉が出土していて、その中から籾が出土している
4人の夫人と、 6人の厨師などの殉葬を指摘してい
が米はない。但し、穀倉の器表には 「白米高石」、
2人の厨師
るが、筆者の分析では、 4人の夫人と、 1
「
緑米」などと毛筆で記されたものもあるが、これ
24B.C.
、
などの殉葬が認められた 。遇、昧の死は、 1
らの 「米」字は、コメを表わすとともに、小さい粒
つまり文帝のころとみられているので、漢制では、
の意味をも示し 、黍の粒をさす原義によって書かれ
すでに殉葬がない時である。越昧の祖父で初代南越
ているのである 。 ここでも脱穀を施してないものが
中心であった (
帥}
。
王である越佳は、山東省真定人、つまり漢人である
さきの洛陽焼溝漢墓では精米機である石磨が 2点
結果が、多くの殉葬の強要であったとみたい。 とも
出土し、脱穀機である陶製風扇車も明器として各地
から出土していて惜朝 、墓葬の中で、脱穀をおこな
かくも南越国も、それの西に位置する (
前漢武帝以
が、嶺南に南越国を樹立してから、逆に在地化した
後は真定郡)、すでに漢の版図下の地域ではあ って
考えられていた。食糧としてのコメは稲で保存して
も、在地色豊かな墓制があった。
U (帥)とあるのは、在地では存
その遺策に 「客ホJ
いて飲飯の前に脱穀するという生前の習慣が墓葬へ
在しなか った優良品種を移入したものであ ったこと
の脱穀機である明器の副葬をさせたのであろう 。
は確実で、水稲農業の先進地である嶺北から持ち込
い、米粉あるいは麦粉を確た りしていたと観念的に
結論的にいうならば、新石器時代から少なくとも
まれた品種であるとみて大過ない。 こうして漢化に
漢代まではコメは脱穀されることなく貯蔵され、軍
よって、軍事とは別に優良品種が移動していたので
糧ともなっていたのである 。前節に述べた雲南入境
ある 。 この筆者の見方を補充する資料もある 。
の将兵が稲重した糧に含めれていたコメは、籾をつ
けたまま言い変えるならば、発芽可能な状況であっ
湖北省江陵鳳恩山 1
6
7号出土の前漢代の穎の出土
9
7
5
年に出土した 4束の束ね られた穎
である 惜@) 1
た。
は、 18 ~ 19cm に刈り取られた稲穂、で、穂、 ごとに 41 ~
72粒が、鮮黄色を保ったまま出土した。現在では脱
N
さらに稲の移動には 「客稲」があ った。 この用語
色して黄灰色に くすんでいる(19
8
0
年
、 1
9
8
3
年
、 1
9
9
2年に実見)
。 この稲穂は、木榔墓の右側室にあ っ
8
7
8
年に広西壮族自治区合浦の羅泊湾 1号漢墓
は
、 1
た陶倉の中か ら出土した。 この陶倉には、文字の書
出土の遣策のなかに 「客稲」、
き込みがなか った。
「客稲一石」 とあり (
帥)、稲は柄iJのことで、それに冠せられた 「客」 の
この出土稲を研究した滋修齢は、現在の梗稲の優
文字は、 「他的より移ってからきたもの」 を示して
良品種と極めて似ているとして、具体的には、 「桂
いる 。つまり移入された柚を示している 。
花球 J
、 1
1
0
5
0
9号稲」、 「紅須稜」 と比較したうえ、
羅白湾 1号墓は木概墓ではあるが、極めて特異な
ものである 。縦 9.88m、横 7.2mの巨大な木併の底
中・晩寝であると比定している 。 さらに、前漢代の
中国 の水稲栽培が相当高水準であるとした うえで、
1
人間文化・ 5
中国大陸水田稲作の拡張についての素描
穂あたりの粒数が現代品種に比べて少ないとしてい
る 。 出土稲では、 41~72粒であるが、桂花球では 80
粒、 10509号稲では 80~90粒、紅須梗では 90 ~ 100粒
としていて、同一面積に同数の稲を育てたとすると、
その収穫量は、およそ 1/ 2であ ったとみて い る
(
10
0
粒の重さには大きい違いはない)
。
さて、この穎は、他の古墓出土例にはない穂刈し
た状況のまま副葬しているのである 。前節に検討し
たように、漢代の墓葬出土のコメは籾の状態で出土
するのが普通であった。それは、陳文華が表示して
いる両漢墓葬出土の 1
6
例を報告書によって知る限り、
6
7号墓を除いて、他はすべて籾であった。
この鳳恩山 1
それが地域的特色でないことは、陳文華の表示に
出土状況を加味して作り直した 5
3ページの表によっ
ても判るように、長江流域においても、黄河流域に
おいても同様であった。 コメ栽培地の長江流域と、
漢代にはすでにコメを栽培して いない黄河流域、つ
まり消費地においても同様であ った。墓葬中での出
土の具体的条件の違いによっても、すべて脱穀して
いない籾粒の出土であった。
6
7号墓出土の稲首
こうしてみると、江陵鳳恩山 1
刈りされた稲穂の出土は、そこに、この稲穂が特別
な存在であったことを暗示している 。つまり、客稲
のうちでも特に優良品種を、墓葬に副葬したと推認
することが許されるであろう 。客稲の移動もあり、
多くの優良品種が移動した。
V
これらは決して漢代の漢人の移動によってのみ起
こったのではなし、。 しかし、漢につづ、
く三国時代の
墓葬の発掘は、中国内地においては、皆無に近く、
考古資料を用いての考察は困難で、南北朝の南朝墓
も江南の一部地域では極めて多いが、多くの地域で
は少な く文献資料との対比が難しい。
西晋の南渡は、東晋王朝を樹立したが、これにつ
づく南朝の各王朝、なかでも宋は北方の鮮卑族の北
貌と対立した。東晋の初期には健筈があ って、草木
はおろか牛馬毛さえも睦に食され尽くし、大いに疲
弊した。 こうして百官のうち十中八、九は流出した
とある (
晋書・食貨志)
。 北方からの流出貴族の多
くが、まず南京 ・鎮江周辺に入植して、その後の南
朝の基礎をつくったが、その実際は南京市北部の老
虎山で発掘された山東からの流出してきた大族の王
氏や、顔氏の墓地から具体的に知られる 。王氏や顔
氏に代表される北方からの流国貴族は、開墾を通じ
5
2 ・人間文化
て、その墓葬に示されている富を入手した。
南朝の隆盛は、開墾によっていた 世@
。
) 南朝後期
の南斎の時代にも野象が棲息していた記録が南斉書
8にある 惜
曲
)
。 北方からの流馬貴族の江南地区へ
巻1
の大量の移民は、在地民に大きい変化を連鎖反応的
にひきおこした 惜
@
)
。 その記録は多し、。
晋書 ・杜技伝には、巴萄からの流民が数万家もあ
湘の聞に居住したために、 「而為旧百姓之所
り、知l
侵苦、並懐怨恨。 (ために、旧百姓、つまり古くか
ら住人の土地を侵害したので、怨恨をもった) Jと
ある 。移民の連鎖反応がもともとの異民族の巴萄を
して、現在の両湖の中間地域にあふれできたとする 。
そこでも追い立てられた旧百姓が居たことは想像に
難 くない。普書・孫恩伝には、もともと紹興にいた
が、内乱にあい、海に逃げ、のち、百姓の不満を利
用して、海上から上虞を攻め県令を殺害した。つづ
いて会稽を襲ったときには衆数万となっていた。 こ
うして海上と陸地を往復して、晋王朝に反乱していた。
このような移動は多いが、食糧さえ持参しなかっ
た例もある 。晋書・李特伝では、 「元康中、亙斎万
年反、関西擾乱、頻歳大飢、百姓之流移就穀、相輿
入漢州者数万家 。 (西晋の元康年 ( 290~299 ) に、
西方にいた忌族の斎万年が反乱を起こしたので、函
谷関以西が大いに乱れ、連年にわたって飢えとなり、
百姓は殻にありつくため流出を始め、李特に従って
漢州に至ったものは数万にも及んだ)Jとある 。つ
いには剤州を経て、萄に至っている 。殻につくため
に流移したのであった。南北朝を通じて、前代の西
南夷とされ、のち建都された地域は、中国王朝の直
接の支配地域からは、はずれていた。
前節までに述べてきた事項を要約すると次のよう
になる 。
(
1) 雲南への中原王朝の支配は、萄 (
四川省)、湘
(
湖南省)から 3本の jレートで支配を及ぼしていっ
たが、初期の置吏や商屯では、内地から種子その
他を運んでいる 。 このため、雲南には各地の各種
の稲の種子が、いく次にもわたって累層的に集積
していった。
(
2
) 墓葬出土のコメは原則として籾がついているの
で、当然のことながらコメの保存は籾の状況、つ
まり播種可能の状況であった。 このことは人の移
動によって稲の種子が移動することを示している 。
(
3) 後世になっても穎が多い。東南アジアでは雲南
でもそうであり、資料の多い日本列島では、奈良
時代においても貯蔵施設の過半は穎を保存するも
中国大陸水田稲作の拡張についての素描
のであった 。 漢代には、客稲という単語があり、
た。 こ う し て 、 条 件 の 悪 い 地 方 に 、 一 種 の 民 族 の
墓 葬 中 出 土 の 稲 に も わ ざ わ ざ 明 記 し て い る 。 この
吹き溜まりが生じ、そこに稲の品種も吹きだまっ
ことは優良品種の入手に努力していたことが判る 。
また抜穂法も、重視された
(
W氾 勝 之 書 』 な ど)
た。 こうして雲南に多くの品種が累層的に増えた 。
(
5) こ う し て み る と 、 東 北 ア ジ ア へ の 稲 の 伝 播 も 中
(
4) か つ て 海 南 島 パ ー タ ン と し て 提 唱 し た 漢 人 と 異
国大陸での民族移動と無関係に考えることはでき
民族の住み分けによる(時}、 異 民 族 の 条 件 の 悪 い
ないと見るべきである 。 このため雲南の少数民族
地方への逃げ込みが、漢民族と先住民との間にあっ
の 現 在 の 文 化 と 弥 生 時代 の 文 化 の 時 を 越 え た 類 似
た と し た。 こ れ と 同 様 の こ と が 江 南 を 中 心 に 、 晋
性は、後者が前者の文化の諸要素の故郷ではなく、
の南遷以降、しばしば繰り返されたので、一種の
前者は江南が某地にあった時に、弥生文化と同根
ドミノ現象によって、江南に先住していた民族は、
であったことを示すのであって、前者と後者の関
次々に、南下してきた漢族の圧迫のもとに、より
係 は マ ー ザ カ jレチヤーではなく、時を越え、地域
条 件 の 悪 い 地 方 、 例 え ば山 岳 地 帯や沿岸地帯へと
を越えた兄弟文化であると言えよう 。 その差は大
移住していった。 この時にも稲の種子を携えていっ
きい 。
漢代の出土稲発見地 一 覧(陳文華ら編『中国の稲作起源~ 1
9
8
9による )
地域
黄
出
土
地
時代
梗
者h 梗・納 不 明
出 土 の 状 況
資
料
出
河 南 洛 陽 西 郊 前漢
O
北京黄土樹
漢
O
北京植物園所蔵
河南輝県城北
漢
O
『文物報』第 7期 2版
陶倉の中
※
典
9
6
3
年 2期
、 4
8頁
『孝古学報J]1
河
流
域
河 南 洛 陽 焼 講 座 前漢
O
陶倉の中
O
江 蘇 徐 州 釜 山 前漢
O
減署長沙:昭栓号墓 前漢
広 西 貴 県 羅 泊 湾 前漢
O
※
『孝古学報J]1
9
5
9
年 4期
9
7
4
年 2期
、 1
2
0頁
西側l
北耳室。動物骨と共に。 『孝古J]1
竹筒、麻袋の中
『馬王堆一号漢墓報告』下冊
、 2
2
1頁
榔室の泥土から
9
7
8
年 9期
、 3
2
頁
『文物J]1
長
I
工
流
O
湖 北 雲 夢 大 墳 頭 前漢
、 1
5頁
『文物資料叢刊』第 4期
O
広 西 合 浦 々 排 前漢
域
お
よ
び
O
江蘇 f
l
l江 湖 場 前漢
湖 北 江 陵 鳳 恩 山 前漢
地
『文物J
]1
981
年1
1期
、 1
7頁
O
『文物J] 1 976年 10期、 32~42頁
O
四川│西昌域河盛子 前漢
以
南
9
8
1年 2期
『農業考古J]1
2
号 後漢
広東広州皇帝嵐4
O
長方形の倉から
安徽寿県馬家古堆 後漢
O
案の上
、 漆金の中から
~
『考古J]1
9
7
6
年 5期
※
9
5
8
年 8期
『考古J
]1
4
2頁
9
6
6年 3期 1
4
5頁
『考古J
]1
方
O
江 西 南 昌 南 郊 後漢
湖 南 余 家 台 子 後漢
O
江西省博物館所蔵
墓の泥土から
、 2
0
7頁
『湖南考古瞬刊』第 2属
※は原報告に車~ ・綬 の区別がな く、陳による区分。
交は原報告書には出土報告がなし、。
人間文化・
5
3
中国大陸水田稲作の拡張についての素描
従前の弥生時代の定義は水田耕作としていたの
瀞修齢 「我国水稲品種資源的歴史考証」農学考古
1
9
81-2
で、土器型式を重視すると縄文時代娩期の土器は
弥生時代のもとせざるえなくなる。文化定義を重
⑪
になる 。
⑬
高倉洋彰 「
稲作受容期の対外交流 J W
東アジア
の稲作起源と古代稲作文化~
1
9
9
5 2
7
7p
作文化 ~
⑬
1
9
9
53
3
2p
⑤ 中川原捷平『稲と稲作のふるさと ~ 1975
1
7
2p
近年の佐藤洋一郎らの DNAレベルでの研究で
は江南の稲は現在も過去も基本的には、ジャポニ
カであって、インデカの起源については、別に考
える必要がある 。かつて外観的に固定された布D
や
梗は ジャポニカの 中の形状の違いである可能性が
陳文華 (
渡部芳郎訳) I
江西省新干県戦国穀物
洛陽区考古発掘隊 (
蒋若是編集)
墓~
①加藤晋平らと、京大実験原子炉チームとの成果。
①和佐野喜久生編『東アジアの稲作起源と古代稲
p2~ 24
倉出土の炭化米」注①所収 P1
34-137
視すると、弥生時代以前に水田耕作があったこと
①
53 ~59p
前掲注①所収
注
①
1
9
5
9
年
W
洛陽焼溝漢
P1
1
2
1
1
4、 P206-207
陳文牽『中国古代農学科技史図譜~ 1991 年 p
1
9
8
の風扇車の項。
@ 広西壮族自治区博物館『広西貴県羅泊湾漢墓』
1
9
8
8 p
1
4
7
標本 M1 ・3
6
5客稲口口、なお稲が出土してい
3
6
4客稲米一石、注⑬85p
る標本 M1 :
@ 湖北省博物館 「江隆鳳恩山 1
6
7号墓発掘調査」
975-3
文物 1
@ 瀞修齢「西漢古稲小析」農学考古 1
9
8
1~ 2 2
5p
『
宋書』によると、 3
3の僑郡と 7
5の僑県が鎮江
@
1世紀以後の、インデカで
極めて強い。 もちろん 1
一帯に設置されている 。それは鎮江から茅山にか
あるチャンパ米、大唐米は別である 。
けての丘陵地帯であり、のち 、水田地帯の開墾に
⑤ 渡部忠世『稲の道』
⑦ 菅 谷 文 則 「素描
注①所収
1
9
7
7
日本放送出版協会
雲南における稲作の始まり 」
以下に史籍を引用するのは掲載誌の性格から日
本の現行漢字を用いた。 また、そのうしろに意訳
四川省に健為郡(雲南省の昭通などをも含む)
I
判司郡をも設置した。
越協都、貴州省を中心として 1
⑪ 湖南省博物館・中国科学院考古研究所 W.
馬王堆
⑬
注①
永明 1
1年、白象九頭見武昌。 とある 。 白象は仏
教の祥瑞であった。
@ 鎮江周辺から開墾を始めた状況は、当初は北方
をつけた。
1 号漢墓 ~
1
9
79
年水力電力出版社
@ 蘇哲 「中国先史時代の農耕部族と稲作文化の伝
播 J267 ~272
3
3 1
9
9
6 43~45 p
作文化」古代学研究 1
⑬
あった 。『 長江水利史略~
p7
0-7
6を参照した。
257~266p
@ 中村慎一 「書評東アジアの稲作起源と古代稲
①
向かった。 これらの地域は当時の茎陶郡晋陵部で
1
9
7
3 本文 1
6
2
p
の条件に近い、畑作地を聞き始め、のち水田地帯
に及んだ、とみてよい。
@ 菅 谷 文 則 「中国の古代環境を考古学から考える 」
文部省科研費(代表金関恕)報告書、天理大学
湖南省農業科学院・中国科学院植物研究所 『長
沙馬王堆 l 号漢墓出土物動植物標本付研究 ~
1
9
9
2
年p
44-52
1
9
7
8
p1
0
4
謝辞
⑬周李維(小沢正人訳)I
長江中・下流域
出土の
わたしが稲作の起源に興味を持ったのは、さほど
9
8
8 111 ~ 130
古稲の調査 J W 中国の稲作起源 ~ 1
古いことではない。和佐野喜久生教授とともに訪中
⑪ 炭化米からの DNAの分析については、江蘇省
をするうちに雲南について少し調べ始めたことによ
草鮭山出土のもので成功している 。佐藤洋一郎他
る。和佐野教授を紹介して下さった内藤大典氏、訪
「中国江蘇省内の 1遺跡及び漸江省 ・河渡遺跡か
ら出土した植物体の分析結果について」前注①所
収 60 ~ 63p 、光穀稲が陸稲であることは佐藤洋一
くない。中国での調査は厳文明氏、蘇哲氏と同行す
郎から教示を受けた。
ることが少なくなかった。おおいに啓発された。 も
⑮ 和佐野喜久雄 「東アジアの古代稲と稲作起源」
前注④所収
⑬
中調査をともにした森山啓子、高倉洋彰、寺沢薫、
藤田三郎の各氏との会話に啓発されたところも少な
p3~52
瀞修齢 (
大島誠二訳)I
中国古代の稲品種資源J
5
4 ・人間文化
ちろん各地の埋蔵文化財、農業研究などの諸機関の
援助に感謝したい。本稿の主旨とはことなる学説の
9
8
9
年に河嫡渡遺跡の踏査をごー
渡部忠世教授とも 1
中国大陸水田稲作の鉱張についての素描
緒におこなった。渡部教授とは 7
0
年代の末に京洛の
諸氏に感謝する 。浄書は米田紀代子氏を煩わした。
れんこん屋において、嵐嘉一、森浩一両教授ととも
多謝!
にお会いして以来のご教示にも感謝したい。 以上の
A写真 1 河南・洛陽焼溝漢墓出
土の籾 (
中のコメは消失してい
る)
A写真 2 湖南・馬主堆 l号漢墓
出土のコメ (
91
年 9月)
4写真 3
海南・什運梨族の穂首
メ1](今も高倉に保存されている)
企写真 4 雲南・西双版納(景洪)の種商(いまも内地から種子がもちこまれている。多くは在地種 )
9
1年 9月
人間文化・
5
5
中国大陸水田稲作の拡張についての素描
9
1年 9月)
企写真 5 雲南・西双版納の稲刈 (
写真 6 雲南・西双版納での脱穀 (
9
2年 9月)砂
ふ
f
'
:
'
.
、屯
『民
O
;_
"
,
ヂ
A写真 7 雲南・西双版納のタイ寺での乾燥作業 (
9
1年 9月)
写真 8 写真 7の拡大。粒形の変化が多い。 砂
5
6 ・人間文化
論説
ドラゴン文化ゾーン
あ
安土
高度経済社会、情報化社会、国際化社会と言われ、
優
人間文化学部生活文化学科
水と農耕の神
1
. はじめに
づち
プ卜を自然的、社会的、文化的な特性を見直す柔軟
な姿勢と技術が必要である 。 また河川は共有の財産
東京一極集中による全国画一化現象から脱却して、
であるだけに、一人ひとりが水を管理する心得が大
地方の自立や地域に根ざした文化の高揚が求められ
切である 。
犬上川河辺林の自然公園化構想についての計画案
てきている 。
「日本列島改造論」に端を発した開発による生活
が滋賀県立大学の要望に応じて河川行政から示され、
水準の上昇は認めるとしても、半面失われたものも
それを見直す場ができた。県行政の柔軟な対応は歓
多い。 1
9
7
2
年に滋賀県では 「琵琶湖総合開発計画」
迎される 。本論では上述した観点から一部ではある
が1
0
年間、その後さらに 1
5
年間延長の 「琵琶湖総合
が犬上川周辺の文化的特性について述べてみる 。
開発特別措置法」により琵琶湖周辺における道路、
公園、下水道などの事業が次々と着工されてきた。
2. 犬 上 川 の 風 土
それによって利便性は高くなったが景観は破壊され、
犬上川周辺の文化的特性について視てみると彦根
水の環境も年々悪くなっているのは誠に残念至極で
市の中南部に位置する、県立大学を聞にして、字曽
ある 。特に河川改修事業については 「タテ J害J
Iり行
川、荒神山、愛知川の一級河川が琵琶湖に注いでい
政によって着工されてきたが、市民生活に直接結び
る。鈴鹿山脈を水源とするモンスーン地帯にあたる
ついている地域の自治体や治水事業についての学識
彦根にあって比較的多雨の地域に属し、山の幸や川、
経験者や、社会、歴史の学者 など多くの知恵と力を
湖の幸に恵まれ山紫水明で四季折々その彩りを見せ
結集した総合的な計画であることが望ましい。具体
る美しい自然観をつくりあげている 。山からせり出
的には市民もシンポジウムや勉強会によって水の恵
して形成された肥沃な沖積平野を流れる河川周辺に
みや恐ろしさを認識し、山や河川、森を汚染しない。
人が集まり、縄文期、弥生期、古墳期の遺物、依知
自然環境の保全のために治山・治水の改修のコンセ
えち
はた
あじき
ひなであたい
みたすき
秦氏、阿直岐氏、日撫直氏、犬上御回鍬氏など百済
系渡来人や土着の豪族の繁栄を示す遺跡が今に伝え
られている 。犬上川は別名を高宮川と呼ばれ、鈴鹿
山中を水源とし、南谷、北谷の 二つの流れが多賀
かねな い
川相で合流していて、上流から大蛇の淵、大滝神社、
青竜山の胡宮神社、敏満寺、多賀大社、高宮寺を経
て、高宮廃寺、都恵神社、恒河寺廃寺 (
竹ヶ鼻箆寺)
十王村の名水、白山神社等、河口近くまで遺跡や古
社寺がある 。
このように犬上川周辺に住みついた人々は、各時
代にわたって川や森の生活文化を形成して今日に至っ
てきたのである 。一方川の自然はケヤキ、エノキ、
カシワ、センダン、サワグルミ、ツバキの大樹、特
にタブ林の大樹は貴重な財産であり、周辺に動植物
も群がってくらしている 。鳥や昆虫類はサギ、カワ
セミ、フクロウ、キジ、クワガ夕、等種類も実に多く、
河辺林はかけがえのない生育環境である 。 このよう
に全長 2
7
.
1キロの犬上川は美しく、心地よい環境を
保って人間生活と地域文化の基層を形成している 。
3
. ドラゴン文化圏一青竜山と荒神山一
「犬上川の春」
犬上川河口近くにタブ林の大樹が繁りツバキ、アケビ、
タムシバ等の花木や山野草が咲きフクロウやキジ等の
子も生まれる。(八坂町)
ここではわれわれの生活空間としての風土につい
て考えてみると 、風土はそこに住む人々の自然環境
が深くかかわりあって生み 出されるもので、自然環
境は人々の生活を規制し、性格をも変えてしまう 。
人間文化・ 5
7
ドラゴン文化ゾーン
したがって、そこで創造される文化は自然環境に大
上川、芹川で、ここに青竜山や荒神山の信仰を集め
きく左右されることになる 。次に古代の都市計画に
ている 。 この二山について再考する 。
ついてみてみよう 。
6
7年の 3
かつて天智天皇が近江に都を遷したのは 6
青竜山に胡宮神社、敏満寺があることについては
いb<ら
月であった。永年慣れ親しんだ飛鳥の都を捨てて近
前に述べたが、山頂に磐座があり竜神が杷られてい
る。山麓の上流は大滝神社、龍ヶ岳、御池岳等の鈴
江の大津への遷都を断行した理由として、百済への
鹿山脈を水源とする、敏満寺、勝楽寺、西明寺、金
援軍が白村江の敗戦によって唐 ・新羅連合軍の脅威
剛輪寺、百済寺の天台宗湖東旧五山の繁栄を誇って
いた古寺がある。仏教が神々に習合する以前は巨石
が迫っていたからと言われる。
近江の自然環境は琵琶湖の周囲が山であり、飛鳥
うぷすな
信仰、竜神、祖霊神、産土信仰に端を発する 。山は
さん
より内陸部にあたり防衛に適していたし、また琵琶
産に通じるのである 。湖東五山の寺々と関わりが深
湖を通じ、広大な東国を背にできる地理的条件が考
い川が犬上川、字曽川、愛知川である 。祖霊神であ
慮されたと思われる 。
都づくりのパックボーンとして中国から伝えられ
る古墳も五山周辺に集中してあり、そこに神社、寺
が建立されていった。当時の人々の生活文化の豊か
た道教の陰陽五行説がクローズアップされたと推定
さと奥深さをうかがい知ることができる 。一方、青
される 。陰陽説とは万物に陰と陽との二元原理をあ
竜山の西南方位にへビを杷る荒神山は平野部にピラ
てはめ、これを五行の元素的概念との組み合わせに
ミッド形の独立峰で琵琶湖に沿って展開している 。
よってすべての物事、存在、現象の意味を考える哲
夕日の美しさは筆舌では表現できない程である 。
学をいう 。その天人相関によって飛鳥からの大移動
荒神山はへビ岩が山全体を取り込んで迫力がある 。
がなされた。その根拠となるのは、琵琶湖と東西南
荒神石(花街岩)を蛇に見立てて雌雄二頭が東に 向かっ
北の高く偉大な山と大きな川や道を四神獣が守護す
ている 。西方の曽板沼 (
覇流荘)側にこれもまた荒神
るという、おそらく大津京に都を遷すに当たり、南
石をへビの尾に見立てている 。へび岩を取り巻くよ
へるのしよう
部の音羽山山頂から近江や京都が 3
60度全開して見
うに 山中 に25基の古墳が確認されている古墳期、白
渡せる位置から都づくりを構想したであろうことは
鳳期、奈良期、平安期等の遺物や遺跡がある。行基
疑う余地がない 。すなわち南の朱雀 (
海)は音羽 山
によって閉山された四十九院の荒神 山奥山寺 (
荒神
(
現在も山麓に御用池が多い)
で山麓に大津京があり、
山神社)
、 千手寺、延寿寺、唐崎神社、稲村神社、
山紫水明の位置である 。北の玄武は竹生島周辺の伊
吹山、己高山等の高山が連なる鬼門に位置する。東
善教寺、本隆寺等、さらにまた 、五山と荒神山周辺
ふこう
キちゅう
かんどう
に阿白岐神社、普光寺廃寺、屋中寺廃寺、観道寺、
〈るみ
は青竜(
川)
が鈴鹿山系を水源として大川が琵琶湖に
久留美神社とあげれば枚挙にいとまがないほどこの
注いでいる 。野洲川、日野川│、愛知川、字曽川、犬
地域は文化財の宝庫である 。 このように多賀信仰や
青竜山と樹齢1
2
0
0
年ともいわれているシデの木(
ケヤキ)
。
し・〈し
いいもり
多賀町尼子(
多賀杓子の元木といわれる飯盛木が田園
本残 っている)青竜山は荒神山と東西に向い合う位
に2
置にある 。
荒神山から覇流荘のあった石寺曽根沼と琵琶湖を望む
朝日に照り、夕日に映える壌墓の理想郷。へビ、岩が市E
られ、 2
5基の群衆墳がある。(石寺町)
5
8 ・人間文化
へるのしよう
ドラゴン文化ゾーン
伊勢信仰の太陽神をパックボーンとして水分神の竜
にみかけられる 。 このようにして人々の暮らしは山
や蛇を崇って村や都を形成していたことを顕著に物
や川の周辺に深く関わって生活してきたのであった。
語っているといえよう 。視点を替えて言えば、近江
治山、治水もそれぞれの時代に地域の優れた指導者
の人々は大方、農耕や漁業をなりわいとするくらし
によって知恵をしぼって洪水時には要所に激流をな
ぶりであった。常に太陽や水の恩恵に頼っていた。
だめる手だてをして、また水争いを解決するための
祈りや呪術の対象であったのだ。古代から長い間、
ダムや潅漉を築き、用水を創ったりして川の文化や
人々は太陽は隠れたり出現したりすると考えていた。
山の文化を今に伝えてきた。荒神山周辺は湧水が多
また太陽に司える蛇は冬は土中に隠れ、春に更生り、
く、皐魅に見舞われても飲み水は枯れることを知ら
脱皮をくり返し再生する 。 さらに木に昇り、水中に
かんばっ
ない。以上のように視てくると、この地域一帯は水
おそ
住み、泳ぐ超能力をもっ「カミ」として畏れ崇ったの
である 。私達の日々の生活の中にも脱皮する蛇のか
たちは七五三の宮参りに、さらにまた再生を願う気
よ みじ
分神としてのドラゴン文化圏である 。
水は万物を育み、地球だけが持つ生命の根源で、あ
ると いえよう 。
持ちは黄泉路に旅立つ衣装で垣間見ることができる 。
蛇に見立てた山、例えばトグロを巻いた形 (
円錐
4
.現代の治水
形の三上山、山字形の青竜山等)の山は神奈備山 (
神
わが国のほとんどの平野は沖積平野である 。滋賀
体山)であり、高く真っ直ぐ立つ樹、エノキ、サカ
県も周囲の山々で)1が土砂を運び、琵琶湖に押し流
キ、シュロ、オガタマ、スギ、マツ等もへビと 「見
し続けてつくった平野に人は住み、河川の洪水氾濫
立て」、正月飾りや供える花 (
立花)を飾って先祖神
による浸水の脅威にさらされながら川をなだめて発
を家に迎え入れたのである 。 このように太陽やへビ
展してきた。先人たちは数千年前から治水事業に努
をカミとして今でも朝起きると東に昇る太陽に向か つ
0
年代は山河の荒
力を重ねてきた。戦後直後の昭和 2
て、あるいは山に向かつて礼拝する姿は年輩者の中
廃もあり、水害が頻発した。わが国の多くの河川は
十王村の水(西今町)
昔から湖東三名水として知られ、日本の百名水に指定。
水源;也の中央に位置して建立されその祭神はおそらく
水神あるいは竜神として杷られ、仏教が伝来して後に
地蔵尊として杷られるようになった。近くの白山神社、
福満神社、竹ヶ鼻町に鎮守の森や大樹があり、犬上川
の伏流水と共に地下水が豊富で、大皐越の時でも飲み
水は枯れることはないと言われている。
「母乳の地蔵さま」として地域の人たちに信仰されて
いる六角地蔵堂
人間文化・
5
9
ドラゴン文化ゾーン
一日も早く抜本的治水対策をおこなうことが求めら
いたわるように寄り添っている猿など、擬人化した
れた。その結果はコンクリー卜の壁にかえて川底を
動物たちの躍動感、そして川辺の野草や岩、樹木な
掘り下げ、水の流れをよくする利便性の追求であっ
ど白描画ではあるが彩りや水の音までも聴こえるよ
た。その為に河辺林を伐採してしまった所が多く無
うな実に見事な表現である 。 これはともかく、数年
機的な河川となり、人々もかつての水の恵みに対す
前まではどこの河川でも子ども達が川遊びに愉しむ
る感謝や川で遊ぶ余硲もなく、ゴミを捨て、汚水を
光景は見られた。本論で述べたように水にかかわる
流し、環境悪化が加速化した。近代河川工法は大き
問題は地域性、歴史性が強い 2
1世紀を迎えようとし
なゆきづまりがあり、今ようやくその打開策の検討
て次の世代への良き文化遺産となるように治水、利
が始まった。川岸に生えている葦による水の浄化力、
水、親水について探究し、自然豊かな川づくりをし
水害防止力を再評価する 。そして神々が森羅万象に
たいものである 。
宿り、自然を崇め畏れる古いしきたりの見直しが新
1
9
9
5
年の夏も雨は少なく 3
0度を超える猛暑が続く
しい創造の源泉になる 。すなわち千年来もっていた
中、にわかに上空は暗くなり、突風が吹き荒れ、鈴
わが国独自の地形を生かした自然工法を問い直すべ
鹿の山脈に雷光が無数に走った。真に迫る竜神をイ
きである 。水争いを解消するダムとして全国に最初
メージさせられる久しく忘れていた光景を見た。大
に建設されたのが犬上ダムである 。 しかし洪水調整
学の窓から雨を待っていたが遠雷で終わった。
機能にまで至らないとすれば、別の手法で、例えば
洪水専用のダムを建設する 。あるいは休耕田を遊水
池に変えて横にも流れる小)1
1
を形成すべきと考える 。
おわりに
図は鳥羽僧正筆による高山寺に伝わる鳥獣戯画絵
巻の一部分であるが、清らかに流れる川に遊ぶ動物
たち、鼻をつまんで背後に飛び込まんとする兎、泳
参考文献
1 木村至宏編 「近江の山 J (京都書院 1
9
8
8
)
2 リバーフロン卜整備センタ一編 「川 J(山海堂
1
9
9
4)
3 安 土 優 「日本における生活造形について」
6
7
1
9
9
3
)
(日本美術教育学会誌2
9
8
9)
4 吉野裕子 「山の神 J(人文書院 1
ぎのうまくない兎を急いで助けんとする猿、老猿を
鳥獣戯画図・模写安土優
6
0 ・人間文化
人・問・文・ 化 ・通・信
-研究動向
した。(3)脇田晴子 (
滋賀県立大学)r
中世芸能座
帰属性と差別の
国際会議
声関節 (
散所非人)の集落の共同体のあり方と 、そ
プリンストン大学前近代社会史会議の報告
者集団の職能的共同体の構造の実態を明らかにし、
の構造 と差別」は、中世の被差別民である芸能者の
の中にできてくる猿楽座や久世舞座などの専門芸能
さらに脱殻化を果たした観世座など大和四座の契機
わき
た
はる
を、組織構造のスタ ーシステムへの改変、それに伴
」
協田晴子
人間文化学部地域文化学科
う興行の成功、主権たる将軍の保護による地域領域
的秩序から の脱却に求めた。
第二セッションは、 「中世日本の宗教・魔術・医
薬」で、(1)
平雅行 (
大阪大学)r
古代中世の殺生禁
去年秋の 1
0月2
5日から2
8日の四日間、アメリカ東
断思想の展開」が 、古代の国家的清浄性とは異なる
部のプリンストン大学で、日本前近代社会史の日米
中世の堕地獄思想、による 殺生禁断思想の形成を明ら
共同の研究会議を持つことができた。 これは同大学、
かにした。
(2)アンドリュー・ゴーブル (
オレゴン
マーチン・コルカット教授と私が組織したものであ
中世の苦悩:医薬と治療」が疾病と治療の
大学)r
るが、同教授の御尽力によって、国際交流基金とプ
実態について論述した 。
(3)ハルコ ・ワカ パヤシ
リンストン大学東アジア研究部の援助により開催で
きたものである 。
会議は 「前近代日本における社会史:身分・差別 ・
天狗草紙に見る鎌倉仏教の魔と天狗」
(
若林晴子)r
が絵巻を使って 「我執騒慢」のコンセブトを分析、
(
4)ジ ェームス・ドビンズ(オパーリン大学)r
中
庶民文化の新しい方法Jと題したものである 。 この
世の浄土真宗における門徒集団」は、他のア ジアの
会議のそもそもの発端は、日本史研究会 (
月刊の学
国々と似て いない 日本仏教の妻帯世襲の特質の原因
術誌 『日本史研究』を出している京都に本部を置く
を真宗の門徒集団と在家仏教の場たる道場に求めた。
学会)の英文年報の企画が挫折したので、それに代
第三セ ッションは 、「中世日本のジェンダーと家
わるものを有志として計画したものである 。英語圏
族」で、(1)田端泰子(京都橘女子大学)r
日本中
の日本史研究者と日本人の日本史研究者とがタイアッ
世社会における ジェンダー と女房役割」で鎌倉 ・室
プして、双方の研究者を集めて研究会を聞き、その
町両幕府における男女呼称の変化と女房 (
女官)役
成果をもりこんだ英語版と日本語版との両方の研究
書を出した し、。その ことによって、研究成果はもち
割について、その実態を究明した。(2) トノムラ ・
ろん、問題視角などの交流を図りたい、という目的
ける母性と父性」は、出産 ・育児の儀礼から、産む
に根ざしている 。分野としては前近代社会史 ・近現
人と産ませる人の役割を分析した。
代社会史・政治史 ・経済史 ・思想史の五分野を設定
したが、コルカット教授と私が組織者となった前近
ヒトミ (ミシ ガン大学) r
子を産む
日本中世にお
第四セッションは、 「中世後期 ・近世日本の庶民 ・
抵抗 ・身分」と 題し、(1)スザンヌ ・ゲイ(オパー
代社会史の研究会が、まず最初に実現することとなっ
リン大学)r
中世後期京都の宮廷と庶民」は 言継卿
た。それに次いで、大阪大学のひろたまさき教授と
記などによる禁裏六丁町の実態に則した研究、 (2)
コロンピア大学のキャロ jレ・グラッグ教授との連携
マーチン ・コ/レカット「中世 日本における民衆(0
の研究会が軌道に乗りつつある 。
R非民衆)の抵抗:山城国一撲の再検討」は抵抗の
意味を問う研究史の再検討。脇田修 r
1
6
世紀の身分
さて研究会は、まず第一セッションでは 「古代中
差別」は部落差別のみならず、周縁的なあらゆる身
世の身分と差別」を取り上げた。 (1)武田佐知子
古代日本の衣装と集団帰属性」
(
大阪外国語大学)r
分を含んだ差別の実態の考察であった。
第五セ ッションは 、「社会転換期の庶民 ・商人 ・
が氏族集団の帰属性を示す衣服 と、王権支配下の階
層序列をしめす衣冠との対抗関係を 描 きだした 。
(2)松井章 (
奈良国立文化財研究所)r
考古学か
ら見た差別一古代中世の動物をめぐる文化」が、動
侍」で、(1)塚田孝 (
大阪市立大学)r
巨大都市大
坂と蔵屋敷ー福岡藩蔵屋敷を 中心に」は都市社会と
蔵屋敷の機能、そこに関係する人々を皮革売買を中
物の遺骨の分析を通して、 中世に犬などの四足動物
禁
心に考察。(2)ゲリー ・ループ(タフツ大学) r
固と登録.徳川日本の賃労働者 ・浮浪者と都市行政
を食べていた現実の食生活の実態を浮き彫りにし、
者」はフ コーの監獄の発生などに刺激された都市下
また 、その処理にかかわる人々のあり方などを分析
層民とその対策。(3)ロパーツ ・ルーク 「国益思
1
人間文化・ 6
人・問・文・化・通・信
想を作った商人:1
8
世紀土佐の研究」は、最初の国
益思想は士族の発想ではなく、宝麿ごろの商人の上
書から商人から起こったことを解明。(4) コンス
タンチン ・パポリス(メリーランド・パルチモア大
学) r
侍の苦悩:谷丹内の日記による家計と江戸勤
番」は、坂本竜馬の先祖の商人才谷屋に借財を申し
込む儒者谷の財政記録で、江戸勤番で多少の余剰を
産むやりくりを摘出する、武士の生活の実態と苦悩
を浮き彫りにした。
第六セッションは、 「
徳川社会の流行演劇と知覚
表象」と題して、 (1)吉田伸之 (
東京大学)r
寄席
と学び:江戸日本の流行の芝居」は、正統的な猿若
町芝居に対して、場末に寄席や香具芝居 (オデデコ
親経会風景
芝居)などが登場した実態を解明、民衆的文化へゲ、
モニーが江戸に成立したことを組織菌から論証した。
(2) ロナ jレド ・卜ビー(イリノイ大学) rw毛唐
本側も各人のテーマの立て方からいって、それだけ
人』の誕生:近世日本の民俗境界意識への試み」は
、
に限定できない事情もあって、問題を限定すること
それだけ問題を絞り込めないという意見もあり、日
自己のアイディンティティを主張するために他を卑
にこだわらないことにした。中世は何とい っても 、
しめる語として 『毛唐人』を取り上げ、最初は朝鮮
人・中国人を指していた語が、紅毛人と呼ばれた白
村落や都市の共同体、座的結合など集団の時代であ
人を指すようになる経緯を解明した。(3)デ ビッ
る。内部は平等的な特権集団が、他の共同体を排除
しつつ重層的に存在している時代である 。たしかに
ト・ハウエル (プリンストン大学)r
近世社会にお
近世はそういう集団が解体しつつある時代であり、
ける身分と暴力:天保七年常州那珂湊村丑太の敵討
集団と個との関係が問題になるであろう 。その意味
ちを中心に」は、目明かしの息子が父親の敵討ちに
では、身分 ・周縁・差別といったテーマを集団と個
浪人を殺して与力に出世する記録を基に、非日常的
人 ・家といった視点から扱えて、より広く大きく問
暴力と身分秩序の再編成と孝の普遍化の問題などを
題をとりあげられて良かったと思っている 。 しかし
考察した。
以上、多岐にわたっているが、中世 ・近世を中心
今、全体をまとめるとすればおのずから、 「帰属性
に、つい最近までは省みられなかった新しいテーマ
いう形になる 傾向が見られ、期せずして、当初の問
の多くが出されている 。討論参加者も地元のプリン
ストン大学はもちろんのこと、ハーパート大学、イェ-
題意識に近 くなっている ことに気づ いた。
と差別 Jr
集団性と階層差Jr
宗教の社会的影響Jと
jレ大学、パージニア大学など、近辺の中世・近世の
この研究会は対象が前近代であるから、脱近代の
研究者が集まって下さって、活発な討論をくりひろ
潮流はあまり出なかった。 もっと近代科学が造形し
げていただき、大きな成果を納める事が出来たのは
ていった前近代社会像からの脱皮という面が、浮き
喜びに耐えない。
彫りにされてもよかったのではないかと思う 。一時
期あ ったような近代社会の到来を最上の到達点とし
最初このプロジェクトを組んだとき、私は 「集団
帰属性と差別」という 共通テーマを建てた。それは
共同体というよりはもっと広 く、流行の服装を着る
人間とあえて流行外れの服装をする異端というよう
て、それまでの前近代社会を到達度の未熟さの度合
いにおいて、採点するような歴史学はおかしいと思
う。そこでは部落史や女性史は 、惨めなしいたげら
なものまでを含む、大きな意味での集団性と差別の
れた像ばかりが、追求される結果があった。近代と
は別個の前近代の価値判断による時代の違いによる
問題を取り扱おうと思ったのである 。学閥とか県人
位置づけがどれだけ追求されたか、もちろん、この
会とか、現代社会までが有している集団帰属性をそ
研究会はテーマが周縁部分であるから、そういう点
れぞれの時代で取り上げたいと考えた。それが差別
に迫るものが多かったが、それを正面に掲げて明確
の根源であるという考えは今も変わ っていない。そ
してそれの対象とする分担を、衣 ・食 ・住 ・女性 ・
宗教 ・芸能 ・部落差別 ・差別思想という分野にわかっ
な像を打ち出したものというわけではない。
て、日本人側出席者に依頼した。 しかし、アメリカ
流は強い傾向になっている 。畑中敏之氏などの部落
差別は近代が作ったという意見も出てきている 。女
側は中世 ・近世の専攻者の人数の少なさからいって、
6
2 ・人間文化
最近では、部落史 ・女性史などでは、脱近代の潮
人・間・文・化・通・信
性史も近代国家の功罪がもろに問われているといっ
概 して、ガードがかたくて 、細 く深く扶る傾向が強
てよい。私も現在に尾を引く差別は、近代が作った
いといわれる。歴史的な事実の抽出やその構築はしっ
か、再生産したものだと 思う。 しかし、それはそれ
かりしているのだが、事実だけで終わってしまって、
として、やはり前近代に差別はあったことも否定で
そのことによって理論的にどういうことを意味する
きないのである 。ただ、部落や女性の差別といわれ
か、理論がどう変わるか 、と いう意味付けに弱い点
るものが、前時代の遺制と のみ見る学説の批判とし
がままある 。そして外国人に知 ってもらうためには、
て、その時代のあり方が差別をもたらす最たる原因
もっともっと解説部分が必要である 。「 日本は事実・
であることを強調するものである 。
アメリカは理論」などといわれるゆえんでもある 。
例えばひとときあった学説のように、中世の差別
しかし今回はとくに、アメリカ側も、原文書を読
には考えないのである 。そのあり方が各時代に違う
んで、新しい事実を出すなど、興味ある報告が多かっ
た。流行りの理論でななめに切ろうとする野心的 (?)
わけで、その差別が、他の差別とどうちがうか、各
なものは、アメリカ人同志でも批判があった。 こう
は中世に残った古代の古い支配形態であるという風
時代によって異なる筈である。例えば、中世では奴
いう研究会を繰り返していれば、日本もアメリカも
隷として売買される下人 ・被官などと、河原者 ・非
事実に立脚した理論、という状況が、早晩生まれる
人などと差別がどちらが強かったか、浮浪者や都市
に相違ないと心強く思った次第である 。
貧民をつかまえて、奴隷として人に売る人商人が居
もう一つ特筆すべき点は、ペーパーは双方とも母
り、また、奴隷となってもお金を貯めて、または逃
国語で書き、討論はすべて日本語で行なったことで
げだして自由の身を得る下人が居た以上、奴隷的な
ある 。時々は英語を交ぜてもよい、ということで、
下人より、河原者 ・非人の方が自己の経営を有して
質問などが英語で成されることもままあったが、か
いて、地位は高かったと考えざるを得ない。近代に
ならず誰かが、翻訳するという配慮があった。 これ
は奴隷は居なくなったが、部落差別は存在した。各
はアメリカ人に負担を強いることとなったとはいえ、
時代のなかで、失ったもの、得たものは、その時代
最も効率的な会議の進行を示した。前のある会議で
の社会構造のなかで考えるべきだと思うのである 。
は、通訳を頼んだので、時聞が倍かかり、しかも専
各時代に存在する差別の構造の特質が、明らかにな
門用語がわからぬ通訳なので、日本史専門の報告者
ることによって、その時代の社会全体のあり方が明
確になるのだ、と思っている 。その意味において、こ
の方が当然、よくできるという状況で、かえって煩雑
のたびの研究会はその一歩を画したものと言えよう 。
だったのである 。
主催者のコ jレカット教授は、その直後、ハーパー
卜大学での座談会で、この会議にふれて、 「し、つも
ただ、こういう国際研究会の場合、難しいのは、
問題の立て方の斬新さが評価されるのはいいことだ
アメリカでよくおこなわれるところの、英語で行う
シンポジュウムに、
2~3 人の日本人に加わっても
が、言説の派手なものが目立って、地道な実証の困
らう形式より、はるかに成果が上がった。 自分が思
難さ、歴史的な事実の抽出の困難さ、史料の新しい
うのに、 1
9
7
7
年、日本語でおこなった 『戦国時代』
使い方による生かし方の面白さなどの、前近代史の
カンファレンス以来の成果だ」と話されていたのは
醍醐味のようなものが生かされず、印象が希薄にな
印象的であった。私たち日本人がいうのは少し、口
ることがままあることである 。今回は会議になれた
はぱったいが、やはり日本語でやることによって効
人が多く 、その弊は少なかったが、日本側の研究は
率は凄くあがったし、突っ込んだ議論が出来て、ア
メリカまで行った甲斐があったと思う 。
最近、フランスの極東学院の P
. スイリ一、 J
.
ベjレトン、 A. ブッシイ三氏の呼びかけで、日本を
対象とする日仏共同研究の「アイディンティテイ ・
周縁・媒介研究会」が始まった。 日本史学のみなら
ず、国文学 ・宗教学 ・民俗学などの研究者を通時代
的に組織して、日本とフランスで別々に研究会を聞
き、最後に一向に会して、 共同研究会を開く計画で
ある 。 フランスではフランス 史 プロパーの研究者 も
参加してもらうという 。もちろん日本での研究会は、
シン ポジウム風景
日本語で行われている 。そして 、三氏が両方の架け
橋になって 相互の討論を伝えるし、 フランスでの共
人間文化・ 6
3
人・間・文・化・通・信
同研究会は通訳・翻訳もしてくださるという 。ぜひ
な論証と、広い世界史的な視野である 。そして今まで
成功させたいものだ。
によくあったヨーロッパ・モデル中心で、それでア
ジアを切るのではなく、東洋も西洋も個別と見なし
日本史の国際化もどんどん進んでいっ て、もはや
て、そのなかでの歴史像を究明する、そういった各
世界の歴史学のなかでの日本地域の研究という様相
地域から見る世界史像の構築が、言語の壁を突き抜
を示しつつある 。求められているものは、深い歴史的
けて進みつつあるといった実感を持つことが出来た。
.INFORMATION
主として以上の三点について研究している 。 3番
(生活文化
・杉本
Bについては設計活動もしていきたいと考えている 。
悦郎(すぎもとえつろう)
栄養生化学
1
9
9
5
年度の論文、著書、講義
[
論文 (
共著)] (
1)
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9,
479-481(
19
9
5).
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[著書(
編著) ]運動生理学、光生館、 1
9
9
5
年5
月。
[講義] (
1)栄養学総論
-面矢
(
2)分子生物学基礎
慎介(おもやしんすけ)道具デザイン論
ー野部博子(のべひろこ)
児童文化学、伝承文学
子どもの生活のなかで、彼らをとりまく文化財、
文化活動について研究。 とくに伝説、昔話、わらべ
うた、あそび等の伝承文学、伝承あそびについては
調査分析をおこないその継承と創造の問題について
深く追及する 。 また民俗行事のなかで子どもが主体
となって参加する地域の伝統行事、あらたに開発さ
れる行事の調査研究をして子ども社会の文化環境の
整備をおこなう 。
.灘本知憲(なだもととものり)食品栄養学
以前は糸状菌を使ったビタミン B2の生合成経路
の解明というまさに“カビ臭い"基礎研究を行って
いました。最近、身近に見られる天然物あるいは食
品の新たな機能を通して、人の健康、食生活の改善
に活かす研究に勢力を注いでいます。伝承や生活の
知恵が大きなヒントとなることも多く、人間文化と
いう多彩な分野の皆様の何気ないアドバイスを期待
しております。
-浦部貴美子(うらべきみこ)食品学
英国の博物館におけるデザイン史展示の調査 (自
主として食品学的な分野から、栄養学的に好まし
i
近代家庭機
い成分を豊富に有する家畜内臓類の有効利用に着目
主研究。 8 月 21 ~ 31 日・ロンドン )
0
器のデザイン史/ 日英比較を通したアノニマスヒス
し、その利用拡大を妨げている主要因である悪臭の
トリーの試み(5)J (
研究発表。 日本デザイン学
発生機構と、特に天然物による抑臭作用の解明を目
会第 42回大会)0
w
新修彦根市史』民俗編の編纂
的とした研究を行ってきている 。現在、顕著な抑臭
構想・計画 (
民俗部会委員として、来年度から旧彦
効果を示した“ドクダミ"について、その有効成分
根城下町の生活の考現学的調査を担当の予定)
。 道
の分離・同定を行うとともに、その他の身近かにあ
具(人工物) にかかわる研究を推進するための 「道
る野草類についても消臭効果を検索している 。
具学会 (
仮称)Jの設立準備中。
置藤津史子(ふじさわふみこ)食物学
- 土 井崇司(どいたかし)建築意匠学、住居デザイン学
日本の伝統的な集住の空間の構造はどのようなも
これまでに、
「集団給食における塩分量」や「加
工食品中のグルタミン酸ナトリウム含量」など、ナ
のか。都市やその一部を設計する場合にどのような
トリウムに関する研究を行い、食塩摂取量を少なく
基準によって行うべきか。 日本の都市住宅はどのよ
する料理法や、現在消費量の増加している加工食品
うなものであるべきか。
を利用する際の貴重なデータを得ることができた。
6
4 ・人間文化
人・問・文・化・通・信
本年度から 「温食と冷食」をテーマとして、いわ
徴を詳細に解明することが今後の課題であり、特に
ゆる温食、冷食が体温を始めとした身体状況に与え
運動調整力の一構成要素として動的律動性を捉えた
る影響を明らかにしようとしている 。
研究はほとんどなく、今後の重要な研究課題である。
また、児童期のスポーツ参加の実態を把握し、スポー
-鄭
大聾(ちょん・でそん)食文化論
食文化の伝播力とその中身の変わり方に興味を持っ
て調査している 。ひとつは朝鮮料理の焼き肉、キム
ツ少年団のあり方や、健康教育の必要性についての
研究を行っており、学校教育における体育教科や生
涯スポーツの方向性について検討中である 。
チが世界にどのように 普及し つつあるか。いまひと
つは、日本に古代から今 日に至るまで、どんな食文
- 日 比 喜 子 (ひびよしこ)調理学
化が伝来、定着したか、を主たる研究テーマにして
澱粉性食品の調理・加工時に おける品質変化が、
いる 。発酵食品の収集にも力を入れている 。近江の
その噌好性 (
特にテクスチャー)に大きく影響する
鮒ずしのような、ナレズシの類には特に関心を持っ
という観点から、澱粉の糊化・ 老化特性について研
ている。
究を続けている 。現在は、アミロースとアミロ ペク
チンの相互作用から老化挙動を検討している 。また、
. 中 谷 員 三 代 (なかたにまさよ )消費者問題、消費者教育、
服飾デザイン
米のいくつかの食形態について、食経験や噌好に関
する調査を行っている 。
急速に進む高齢化や揺笠期にあるシルバービジネ
スの本格化によって高齢期に生ずる消費者問題の特
質や高齢者の能力に配慮した消費者教育の必要性と
.安土 優(あづちまさる)美術・造形
'
9
5びわこ現代造形展を全国公募によって 5月 1
その効果評価 について 。 また、色彩や図柄に対する
日 ~ 5 月 20 日 まで大津市浜大津大湖前イベン卜広場
感情評価、感性と着装 イメージの関連について研究
で開催した。新たな芸術文化のありょうを作家自身
中。被服品の選択、購入、着装における視覚的基準
による手づくりの野外造形展として提示するもので
が消費者の感性の高低によって特異性に差が生じる
'
9
5びわこ現代造形実行委員会の代表委員として参
と考えられ、高感度群の特徴的パターンを明らかに
加した。 また期間中の 5月 7日は同展にちなみ、芸
し、消費者のファッション行動予測に資す る。
術の創作や情報発信の場となる国際現代芸術センタ
- 吉 田 一郎 (
よしだいちろう)教育学
'
9
5滋賀県造形集団 2
0周年記念造形展(10
月3
1日
設立をテ
教育学の中でも生活指導論の研究に取り組んでい
るが、近年は学校における子どもの人権保障の問題
マにシンポで活発な討論をした。一方、
1
1月 5日) に絵画 (
河口・ 100F)を出品。現在 は
個展 (
9
6
年1
0月)に向けて 制作中である 。
を生活指導論及び教師論の側面から追求している 。
滋賀県をはじめとする 学校現場の調査を踏ま えて現
状の問題点を整理し、教師へのインタビュー調査を
中心として教師の自己形成過程を解明することなど
を行い、実践的な改革展望を得たいと考えている 。
.'
J
斗
本j
青ー (
こばやしきよかず)社会思想史、社会経済政策
-大橋松行 (
おおはしまつゆき)社会学 (
政治社会学、
教育社会学)
現在取り組んでいる主たる研究課題は、琵琶湖環
境問題である 。 これは、私が参画した(仮称)琵琶
湖博物館開設準備室の委託調査研究 (
1
9
9
2-9
4
年度)
の延長線上に位置づけられ るもので、主 として 昭和
(1)1
8
世紀末か ら1
9
世紀後半までのアメリカを対
4
0
年代から 5
0
年代の合成洗剤問題をめぐる住民運動
象にして、社会関係が形成され、社会的統合が果た
されるメカニズムを解明する作業に取り組んでいる 。
と行政主体との相互関係に焦点をあてて、合成洗剤
追放運動の始まりか ら現在にいたるまでの過程を社
会学的な視点から分析する ことに主眼を置いて いる 。
(2)2
0世紀アメリカにおける社会経済政策の史的
分析をつうじて 、福祉国家形成のプロセスを明らか
にする作業を続けている。現在のテーマは計画論と
社会保障 ・社会福祉政策である 。
教育 ・研究の近況報告
-宮本雅子 (
みやもとまさこ )住居学
光源の種類と室内色彩要因の関わりが居間の雰囲
気にどのように影響しているのかを実物大模型実験
により明らかにしてきた。その過程で、蛍光ラン プ
.東山明子 (
ひが しやまあきこ )スポーツ心理学、健康教育学
でも白熱電球に劣らない情緒性をかもし出すことが
幼児の運動調整力を対象に、その構成要素、発達
わかり、蛍光ランプに着目した研究を進めている。
の特徴、運動調整力に影響する要素の加齢による影
また、これまでの実験結果と実態との比較をするこ
響の仕方の変化を研究している。構成要素各々の特
とにより、これからの室内設計計画上の問題点につ
人間文化・
6
5
人・間・文・化・通・信
いて検討しているところである 。
子ども一親子関係、患者一医師 (看護婦) 関係、ク
- 鈴 木 伸子(すずきのぶこ)色彩学、被服造形学
援助 ・支援の在り方と、非援助者の成長、発達のプ
ライエントーカウンセラ一関係などの場面における
女性の場合と同様に、今回は男性を対象に高感度
ロセスが明らかになるような研究を進めたい。 I
学
人間の抽出を行い、併せて、 9色および 8図柄を用
校」、
いたそれぞれ3
6
組および 2
8組の試料提示によるイメ
に歪みを生じさせているように恩われます。
「学習」への過度のこだわりが青少年の発達
ージ評価の実験を一対比較法により行った。その後、
高、低感度群別に分け、両群の評価の違い、および
- 道 明 美 保 子 (どうみようみほこ)染色学
男女高感度群間の比較を種々の統計的手法を用いて
古来の天然染料による染色の染着機構の解明とそ
分析検討を行った結果、若干の知見を得たので関連
学会誌に投稿中。
れに裏付けられた新しい技法の展開により染色の伝
統と科学の谷聞を埋めることを目的として研究して
いる 。
最近は、天然染料“くちなし"に含まれる色素の
- 八 木英 二 (ゃぎひでじ)教育学
最近、オース卜ラリアのクイーンズランド大学を
訪れ、同特殊教育研究所の紹介で、いくつかの現場
分離・同定と、新繊維“テンセル"に対する染着機
構を検討中である 。
訪問の機会をもっ。いじめ、不登校、自殺、非行、
学力問題など、日本との共通性がみられるとともに、
オーストラリア独特の性格をもっ問題もあるようだ。
- 早 川 史子 (はやかわふみこ)食品学、栄養指導論
茶に含まれる有効成分や茶の曙好性をテーマに研
D
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lという、幼児から成人まで、範囲
究している 。例えば、疫学調査で茶の飲用がう触予
は海外子女教育まで生涯の発達をカバーし、方法的
防に効果的であるとされている 。それは茶抽出液の
フッ素、ア jレミニウム、カテキンに起因することを
にもカウンセリング等を重視するユニークな学校が
明らかにした。 また、茶カテキンなどポリフェノ-
あり、参考になった。
jレ物質の過酸化水素生成に及ぼす構造依存性につい
- 那須光章(なすこうしよう)教育心理学、職業指導
援助的人間関係の諸相、特に、生徒一教師関係、
て研究中である 。さらに製茶法によって味、色、香
が異なることから現代人に好まれる茶についても検
風船アドバルーンで撮影した滋賀県立大学と八坂の集落
6
6 ・人間文化
人・問・文・化・通・信
史を扱 ったものでした。)1
9
9
9
年、日 本のすぐれた
討中である。
都市建設者 ・蓮如の没後 5
00
年をむかえます。 この
機に寺内町の歴史を見なおしたいという衝動にから
.竹下秀子 (
たけしたひでこ)発達心理学
大型類人猿のうちヒ卜に最も近縁なパン属の 2種
れています。 この秋、 1
9
7
1,
7
3年に訪れたモンゴル
について 、集団飼育のアーネム群 (チンパンジー)
で調査を再開できることをたのしみにしています。
とプランケンドール群(ボノボ)を対象とし た観察
-武邑
を9
3
年より継続している。対象操作行動や道具使用
尚彦 (
たけむらたかひこ )地域論、比較社会論
1
9
9
5
年には、中東、西南・東南アジアの国々を 2
行動の発達に関する資料を集積してきた。今後も、
パン属の特性や種差を 明らかに しつつ、ヒトも含め
カ月余りかけて歩き回り 、それぞれの地域の普通の
た個体発達の比較研究を続けていきたい。
人々の生活を、旅人の眼で比較する機会に恵まれた。
-岡本秀己 (
おかもとひでみ)食品栄養学、健康栄養学
異なって、比較の視点から大雑把にい くつかの社会
これまで経験してきたインテンシブな定着調査とは
現在、ヒトを対象にして、食品を食べたときにお
を一挙に眺めることのおもしろさとその大切さを知っ
こるエネルギー代謝の変化を評価する方法を検討し
たが、同時にそれら諸地域相互の歴史的連関性につ
ているところです。 トウガラシを食べて安静時代謝
いて 、いかに無知であるかにも気づかせられた。 こ
量や運動機能を測定したり、運動負荷をかけながら
れからも 「歩く、みる、きく」という方法で、いろ
代謝量の変化を追ったりとまだ基礎的な段階ですが、
んな諸社会を内側から紐解いて行きたいと考えてい
いずれは脂質代 謝や疲労回復、運動機能増進 など
る。
『健康と食品』の関係にまで進めていきたいと思っ
ています。その他、愛東町役場主催の 「ニコニコウォー
.高谷好一 (
たかやよしかず)地域研究
地域研究は新しい学問だが 、地理学に近い。2
1世
キング」 という取りくみにも栄養面から参加させて
いただいています。
紀の世界秩序を考える地理学といってもよい。世界
のなかの日本のあるべき姿は? などといったこと
-細馬宏通(ほそまひろみち)人間行動学、電子ネ ソ卜ワーク論
9
9
5
年度 はパ
を考える 。旅行がすきでよく 出歩く 。 1
キスタンとイエメンにいった。 1
9
9
6
年度はモンゴ jレ
インターネットの流行とともに電子ネットワーク
世界も急激な人口増加を見せ、それ とともにコミュ
にいきたい。
ニケーションの質も変化しつつあります。単にコミュ
ニケーションが世界的になっただけでなく、世界の
.脇田晴子 (
わきたはるこ )女性史、中世商業史
1
9
9
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年は 8月末にロンドン大学の S OR Sで開か
いたることろに新たな地域性が発生しつつあるよう
に思います。 こうしたコミュニケーション空間がど
れた関西文化シンポジュウムに、
うなっていくか 、私自身もそこで生活 しながら考え
たいと思います。
方の女性」という報告をし ました。 9月には二週間、
「中世末・近世上
モンコソレ、中国への浦田能楽会の公演の世話役兼解
説者、 そして 「能楽を中心とする中世文化の特質」
.栗田 修 (くりたおさむ)
これまで続けてきたデューイ研究をさらに発展さ
せるべく、 『デューイ教育学の特質』の完成に向け
て努力している 。彼の哲学を生命の現象学としてと
らえ 、そ うした枠のなかで彼の教育目的論、教育方
法論、道徳教育論などを総合的に解明し、デューイ
教育学の特質を明らかにすることがね らいである 。
できるだけ早期に完成したいと心では焦っているが、
作業は停滞している 。
( 地域文化
. 西 川 幸 治 (にしかわ こうじ)都市史、保存修最計画、
ガンダーラ遺跡の総合調査
県立大学の関学とほぼ同時に、長浜と彦根の市史
という講演を行い、ついでに舞燐子まで舞いました。
1
0月末、 アメリカのプ リンストン大学で研究会を主
催・報告、同大学とハーパート大学で舞磯子を舞い、
能楽の解説をやりました。 1
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6
年 は 5月にパリの社
会科学高等研究院にお招きいただき、研究報告とと
もに舞嘱子を舞う予定です。
-菅谷文則 (
すがやふみのり)考古学
1
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5年は、文部省科研費で中国寧夏回族自治区固
)
原で唐墓を日中合同で発掘調査した。
この経験は大きし、。久し振りで、発掘担当者と し
て、全調査期間を野外ですごした。中国政府が外国
人に初めて許した古墓の調査であった。
に関わることになり、大学院の学生時代にたち返っ
大学に移 ってあれも、これもと 。過去の調査の報
告書作成、将来の調査の企画と、パタパタした一年
た気持ちです。 (
私の修士論文は彦根 ・長浜の都市
であった。報告書作成を今年はと決心しつつも、 5
人間文化・
6
7
人・問・文・化・通・信
月2
0日からの固原第 2次調査の打ち合せにパタパタ
している今日このごろ。
学生には実体験をと講師となり、他機関の講師を
依頼して、石を見、石器を作り、鹿や猪を吉野山地
で追し、かけている 。春には犬上川の真竹の筒をとっ
てきて、秋にはクルミをひらってきてとー
。やは
り忙しく動きそうです。
- 水 野章 二 (みずのしょうじ)日本中世史
日本中世の荘園・村落の実態を多面的にとらえる
ため、歴史地理学 ・考古学などとの共同研究を兵庫
県・奈良県で実施するとともに、滋賀県下では、文
献史料に乏しく研究の遅れていた数カ所の地域で、
水利関係 ・地名 、伝承などの調査結果を手がかりに、
中世民衆の生産と生活の場の復原的研究を進めてい
る。
-林博通 (
はやしひろみち)日本考古学
保育社 『日本の古代遺跡
滋賀』 、山川出版社
『滋賀県の歴史』を鋭意執筆中。
-梅原賢一郎(うめはらけんいちろう)美学・芸術学
各地の聖地や、聖地で行われているさまざまな儀
礼や祭礼を見てまわっています。最近では、南イン
縄 文 杉 屋 久島の自然のシンボル
ドのヒンドゥー寺院を訪れ、ヒンドゥーの神々の像
の前でなされる儀礼をもときに体験することができ
ました。 また、ネパーノレの密教寺院では、砂マンダ
共同プロジェクトであり,仏塔,桐堂,僧院などの
ラ制作の現場を実見することができました。 日本で
物理的な保存と ,石材の化学的な保存および地域開
は中園地方や中部地方の神楽などを見ました。琵琶
発とリンクした遺跡の保存計画の策定を進めていま
湖周辺に伝えられる 「オコナイ Jなどもこれから積
す。
極的に見て回ろうと思っています。
- 棚瀬 慈郎 (たなせじろう)文化人類学、チベソ 卜学
.;
賓
崎
一 志(はまざきかずし)保存修景計画学
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4
年以来,発掘調査を進めてきたパキスタン ・
ガンダーラ地域のラニガト寺院祉の保存計画を遂行
中です。 この計画はパキスタン政府とユネスコとの
夏休みに憧れのチベットヘ行ってきました。今年
6
年目、チベット自
は中国によるチベット併合から 3
治区が成立してからちょうど 30年目に当り、ラサで
は大がかりな式典もおこなわれました。長期に渡る
中国支配によるチベット文化消滅の危機が叫ばれて
いますが、今回チベットヘ行ってみて、チベット文
化というものは非常な強固さ、しなやかさを備えて
いて、決して滅ぶことはないだろうという確信を得
ました。
. 田 中 俊 明 (たなかとし あき)朝鮮古代史、古代 日朝関係史
1
0月から 1
1月にかけて 1
6日間
、 中国遼寧省 ・吉林
省の古代山城を踏査しました。 3年 目になります。
また毎年 3回くらいは、韓国へ行って 山城ほかの遺
跡踏査をしております。 このところすっかり 山城づ
いております。朝鮮史にとって 、地方支配や在地社
北コンゴの料理屋 ー野生の肉をさば く
6
8 ・人間文化
会の構造を知る上で、山城のもつ意義は極めて重要
人・問・文・化・通・信
です。普段 「明日できることは、今日しない」がモッ
ンゴのゴリラとチンパンジーの共生の研究の発表が
トーで、身体にいいことは全くしておりませんので、
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6
年度は人間と類人猿の社会研
一段落したので、 1
「
運動溜め Jというわけです。
究を新しい視点で始めることも考えています。 日本
では伊豆大島に帰化して 5
0年のタイワンザ jレの生態
-村 井 康 彦 (むらいやすひこ)日本古代・中世史、日本文化史
の調査を開始しました 。
これまで飛鳥京から平安京に至る宮都の変遷を辿
る一方、地方支配の拠点である国府祉の踏査もほぼ
- 萎 徳 相 (かん ・とくさん)朝鮮近現代史
終えたので (
ただし、再踏査の必要なところも )、
県大に移って一年がたとうとしている。はじめは
目下宮都と国府の関係を基軸に古代田家の形成や変
独身気分でルンルンとしていたが、最近は炊事が面
貌、中世国家への移行をめぐる諸問題をまとめてい
倒くさい、とりわけ食器の始末がつらい、水の冷た
ます。まあ、ライフワークの総仕上げとするつもり
さが手にしみる 。でも、この一年しばらくぶりで研
です。
究に没頭できた気もする 。懸案の 「朝鮮入学徒兵の
研究」も峠がみえてきた。一段落したら山川の 「朝
- 小貫雅男 (おぬきまさお)モンゴ )~歴史学 、遊牧地域論
鮮現代史」がまっている 。世界現代史シリーズのな
1
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年以来つづけられてきたモンゴ jレ南西部の砂
かで残っているのはアラブと朝鮮だけだそうだ。が
漠 ・山岳地帯、ボクド郡での調査のまとめの仕事に
んばらねばならない。 また虫食いのようにしてある
はいっているところです。今回、私にとっては、は
「三・一運動史」 も 「呂運亨伝 Jも体系化しなけれ
じめての試みである映像資料の処理も、今は楽しみ
の一つです。本年度からは、この調査に、本学のス
ばならない。最近はまた近代日本の攻撃的ナショナ
タッフも参画する事になり 、新たな調査の進展を夢
係も考えている 。あれこれ三、三年でできるのか、
見ているところです。
リズムと近代朝鮮の防衛的ナショナリズムの相関関
不安である。新幹線通勤で一つだけいいことがある 。
新書を読むのに了度よい時間である 。だからという
- トゥムル・ナムジム
中央ア ジア ・シベリア地域研
究、モンコル経済学
(1)作夏、モンゴ、ル、シベリア、ブリアート、
わけではないが、新書的知識がずいぶんとふえた気
がする 。 ことしはどんな学生と出会えるのか、勉強
は研究室や教室だけにあるのではない、のんで、た
中央アジア ・カザフスタンを訪れ、各地の現況を調
べて、ダペリングのなかでみがかれるものである 。
モンゴルの過去と現在』および 『モン
査。 (2) W
今から楽しみにしている 。
ゴル経済の歴史と現在』の 2著書を執筆、出版の準
備中。 (3)モンゴルと日本の交流に関する論文を
執筆、
『東アジア』誌に掲載。 (4)論文 「中央ア
ジアの新秩序」を執筆。
- 高 橋 美 久二 (たかはしょしくに)考古学、歴史地理学
今日まで古代の都城周辺と 山陽道の駅と交通路の
研究を進めてきた。その成果を、昨春 『古代交通の
考古地理n
.(
大明堂刊 ) として刊行した。今後も続
-黒 田末寿 く
( ろだすえひさ )人類学、人類進化論
人類の社会形成が研究の中心テーマです。現在は、
けたいが、古代から近世に至る交通路と宿駅の変遷
を、とくに近江をフィー jレドにして歴史地理的に明
類人猿社会に見られる食物分配、遊び
、 仲裁行動等、
らかにしていきたいと考えている 。 また、東アジア
他者理解が前提となる行動を社会学の立場から再評
の古代の交通制度を、歴史地理学的に比較研究して
価する作業を続けており、中間成果を執筆中。北コ
みたい。
-研究会だより
[古代東アジア研究会
本学には、中国 ・朝鮮 ・日本の考古学 ・古代史の
いうかたちで、定例日を設けていませんが (
おおむ
ね火 ・金あたり )、これまでの例会は、次の通り開
いて参りました。
研究者が多く、お互いのテーマや、現在抱える問題
点、などを紹介し、共通の知見を高める機会にしよう
第 1回
と
、 関学当初から計画し、 6月か ら、およそ月 l回
をめざしてスター卜しました。会議や談話会など学
部の行事が優先されるため 、その合聞をぬって、と
第 2回
6月 1
3日 高句麗の王都桓仁 ・集安をめぐ
る最近の研究状況/ 田中俊明
7月 1
8日 荒神山周辺の古代景観/高橋美
久二
人間文化・
6
9
人・問・文・化・通・信
第 3回
9月2
6日 平安京と鴨東白河の条坊地割/
演崎一定、
した。
ついで、城下町 ・彦根に焦点を絞り、 3回 目には
0月1
7日 国原・史道洛墓 (
第 4回 1
発掘報告) /
第 5回 1
2月2
0日 熊本 ・佐賀の古代山城(共同研
博物館を、 5回目には大名の別邸である槻御殿 (
楽々
園 ・八景亭) と部屋住み時代の井伊直弼が住んでい
林博通
究踏査報告) /
第 6回
城下町のシンボ jレ彦根城天守閣の修理現場、 4回 目
には発掘調査をもとに復原した表御殿にある彦根城
菅谷文則
うもれぎの 宇
1月2
3日 「任那」論の昨今/ 田中俊明
た武家屋敷埋木舎などを見学した。
さらに、城下町の町なみにも目をむけ、 6回目に
研究会同人は、上記の 5名ですが、参加者は広く
は伝統的な町家が点在する彦根の上 ・下魚屋の町
教員 ・学生に呼びかけており、他分野との意見交流
なみと、伝統的な意匠を取り入れた新しい町 なみ、
もねらいのひとつにしております。また報告終了後、
夢 ・京橋キャッスルロードを見学し、 7回目には
質疑の時間は、途中から 「のどを潤す会」へと名を
黒壁の建物を再生利用した長浜の町づくりを比較し 、
変えることにしており、よりいっそう自由で仮借の
歴史的町なみの保存と創生のあり方を模索して
ない批判 ・議論が飛び出すことを期待しております。
いる 。
次年度も 、月 l回を目標に、多くの参加者を得て、
楽しく賑やかにやりたいと考えておりますが、定例
[ 歴史民俗研究会
ではありませんので、ご案内 ・掲示にご注意いただ
き、関心のある時には、ぜひご参加下さい。
このクラブは、教員、学生を 問わず歴史学 ・民俗
また当研究会と重なって、 I~百済の役』後の対外
学分野に興味をもっ人たちが集まり、相互の意見交
防御体制」 というテーマの特別研究費による共同研
流と共通テーマにもとづく共同研究を行うことを目
究もすすめており、上記第 5回例会は、その中間報
的に設立されました。本年度の活動は 、資料館等の
告です。 2月 ・3月には、古代における日本海から
見学会、夏期休暇中に発掘参加したクラブ員による
琵琶湖へのルートの踏査を、また 4月には対馬の踏
報告会、石器制作実習でした。制作した石器は 、今
査を予定しております。
春予定している猪狩りで猪の皮を剥ぐ際に実際に使
用し、切れ味を試しました。
ウオ
│
yチンゲ
来年度の活動予定は未定ですが、クラブ員個々が
興味のある分野の探究を行えるように進めるつもり
ウオッチングは地域の歴史、民俗、生活文化に興
です。現在までの活動は学生の知識が不十分なため
味を持つ教官と学生が、まず地域を歩き、見て、歴
に教員主導でしたが、今後は学生の自主的活動も充
史にふれ、現状をとらえ、これからのあり方を模索
実させ、研究会活動を一層活発にしようと思ってい
する場をつくろうとする試みである 。
ます。 このクラブ活動全体を通して来る 2
1世紀に通
初回は子供歌舞伎で有名な長浜の曳山祭り、 2回
じる知識を探究していきたいものです。
目は鍋を頭にのせた少女たちが練り歩き、日本の三
なぺかんむりまつり
大奇祭のーっといわれている筑摩の鍋冠祭を見学
うもれぎのや
『
埋木舎』にて
7
0 ・人間支化
石器制作研究
-編集後記・
I
地域文化H生活文化Jという名のもとに人間文化学
部のスタッフは何を目指しているのか。これを表現する
のが本号の役割である 。編集過程はよれよれであった
が、学内外の先生方の投稿と御協力のおかげで何とか大
任を果た せ、ほっとしている。
座談会や各論文に見られるように、「地域文化 H生活
文化」は、学問領域というより生活者の眼の前の問題に
とり組む学問的態度を表わすように恩われる 。それは、
過去の人々とこれか ら生きる 人々を自分たちと同じ (
異
質さも内部に同棟に含む)人間として感覚する想像力に
も通じている 。このような態度で括られる諸分野の研究
報告の場には、 「
議論をしよう j という合言葉以上の定
型を考えるのはとてもむずかしい。つまり、私たちは今
後も規定するような編集の形式を作り出せず、それが本
号を「創刊準備号」とし た所以である 。
ということで、形式については今後の進化に期待する
ことにしたのだが、 一つ だけ新しい編集委員会にお願い
したいことは 「議論」の合 い言葉を支えるための工夫で
ある 。これについて私たちは次のようなことを考えたの
で、次号の編集委員会で検討していただければと恩う 。
1
)学外に開かれた投稿、 2
)各号で責任編集者が自由裁
)生活文化、地域文化の方向性を
量で行う特集を組む、 3
問う論文の継続掲載、 4)紙上討論を触発する装置、コメ
ント、レフリー内容の掲載。
本号を春の犬上川、琵琶湖のほ とりで読んでいただけ
たら、これに過ぎる喜びはありません。ご批判も是非お
寄せ下さい 。(黒田)
人間文化
O号
滋賀県立大学人間文化 学 部 研 究 報 告 創 刊 準 備 号
発行日
1996年 3月 31日
発 行 滋賀県立大学人間文化学部
〒 522滋賀県彦根市八坂町 2500T
EL0749-28-8200(代)
発行人西川幸治
日刷サンライズ印刷株式会社
本.~は再生紙在使用しています.
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建設中の滋賀県立大学と八坂大薮の集落
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J
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w出
刀刃同市川
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薄
C
~
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滋賀県立大学
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