授業における「問い」の意義と役割

滋賀大学大学院教育学研究科論文集
81
第 12 号,pp. 81-91,2009
原著論文
授業における「問い」の意義と役割
―― 斎藤喜博,東井義雄,上田
大
林
薫,佐藤
知
学の教育論から ――
子†
Significance and Role of “Question” in School Lessons
Tomoko OHBAYASHI
Abstract
This research focuses on the questions entertained by children in school lessons, since questions
guide children to independent and positive consideration and enable them to obtain a new insight. First
of all, I quote some examples from writings of SAITO Kihaku, TOHI Yoshio, UEDA Kaoru, and SATOH
Manabu, who are typical educators in Japan. Then I extract childrenʼs questions from them and examine
how to lead children into question in our practical class lessons. Four requirements have been extracted
from the cases. I will verify the result of this study through my demonstration class.
Key words : “Question”, school lessons, childrenʼs learning
題」「問題」等として位置づけられることが多
は
じ め に
い。子どもたちの「問い」づくりに時間をかけ,
そこから単元を開始するスタイルの授業も,学
学習が子どものものになっていない。与えら
習の一つのモデルとして確立している。しかし,
れた作業をこなす形だけの学習が日々繰り返さ
その「問い」が子どもから離れず,ずっと寄り
れ,子どもたち自身が求めて思考し,新しいも
添っているものでなければならないという意識
のをつかみ,自分自身を変えていく学習になっ
は授業者にあるだろうか。導入部分で授業者が
ていない。教師なら誰しもが少なからず感じて
設定した「問い」や,子どもから離れてしまっ
いるであろう,この授業実践への不満,この課
ている「問い」のように,結果的に誰のもので
題を克服する一つの緒として,筆者は「問い」
もない形だけの「問い」が掲げられている授業
の持つ力に期待を寄せている。
であるならば,「問い」本来の役割を果たすと
「問い」は学びの入り口である。したがって,
授業においては,いわゆる「導入」部分で「課
はいえないだろう。本稿では,「問い」の持つ
力に注目し,
「問い」を真に生かした「問いの
ある授業」をつくることを目的として,授業と
†学校教育専攻 学校教育専修
指導教員:紅林伸幸
「問い」との関係を 4 つの教育論の分析を通し
て検討する。ここでとりあげるのは,戦後を代
82
大
林
表する日本の実践者,研究者の中から今日なお
教育実践に大きな影響を与えている斎藤喜博,
知
子
(斎藤 2006b
p. 72)」
このように授業の中では,はっきり提示され
学の 4 人である。
た「疑問」に向かい,「対決」や「衝突」が生
斎藤喜博は小学校長として強いリーダーシッ
まれる。そして,とことん突き詰めていくこと
プを発揮し,通称「島小の実践」といわれる学
で思考が高まり,みんなの疑問が解け,納得し
校・授業づくりに取り組んだ。全国に大きな影
たときに,その授業が完結するとしている。
東井義雄,上田
薫,佐藤
響を与えた実践者である。生活綴り方教育で知
られる東井義雄は,生活の中から課題を発見し,
また,授業を高めていくために「否定し合
う」ということに重きをおいていた。そして,
問題を解決していく過程で,子どもの生きた学
授業は「つくり出したものを,破壊し,否定し
力が確立するという理念の下,綴り方を活用し
つづけていって,はじめて発展していくもので
実践した教師である。上田薫は,子ども一人ひ
ある。」と言う。他から切り捨てられることに
とりが個性をもって物事の本質を追究し,その
よって,新しいものをひき出すことができると
子にふさわしい個を確立するための授業を展開
して,次のように述べている。
しなければならないと教師に訴える。そして,
「人間は,自分の主張や実践を,明確に他の
この自分の理論を,静岡市立安東小学校での共
人の前に出し,それを他の主張や実践と衝突さ
同実践研究で形にしている研究者である。最後
せることによってだけ,自分の主張や実践を
の佐藤学は,学校を「学びの共同体」として再
はっきりさせることができる。またさらに,そ
編成することを提唱している研究者である。佐
ういう対面・衝突の結果,他から自分を切り捨
藤はこれまでに,実際 1500 校を超える学校を
てられることによって,新しいものを発見した
訪問し,授業改革,学校改革に参画している。
り,自分のなかにひそんでいる可能性を,大き
なお,彼らはいずれも,それぞれの教育論の
中で「問い」という言葉を使ってはいないが,
く引き出したり花咲かせたりすることができる。
(斎藤 2006b
pp. 53-54)」
しかし,個々の実践や理論を追っていくと,本
斎藤が「対決」や「否定し合う」ことに強い
稿で指す「問い」を強く意識していることが伺
意識をもって授業に臨むのは,このような「普
える。そこで,以下の各章では,4 人の教育理
通の人間が,自己脱皮し,自分を変えていくに
論を特に授業実践に焦点をあてて整理し,彼ら
は,ひとりで内省していてできるものではない。
の構想する授業の世界を明らかにする。そして,
相手と対決することによってできるものである。
それぞれが描いている授業の世界で,「問い」
(斎藤 2006b
がどのように位置づけられ,どのような役割を
る。
p. 72)」という理論に基づいてい
果たしているのかを抽出していくことで,
「問
また,この否定し合うこと,傷つけあうこと
い」があり,「問い」を生かす授業に必要とさ
を通して,はじめて本質に迫ることができると
れる要件を追究し,筆者の研究目標である「問
し,その中で集団の団結や連帯感が生まれると
い」のある授業モデル構築の礎としたい。
している。
(2)「××ちゃん式まちがい」法の発見
1.斎藤喜博の教育論における「問い」
ひとりの内省ではできない自己変革を生み出
(1) 授業とは自己をかえるもの
すためには,個人の中で生まれた「問題」を集
斎藤は,授業を「自己を充実させたり,変革
団の授業の中に投げ入れ,その「問題」をみん
させたりできるもの」であるとしている。そし
なのものにする必要がある。そのための一つの
て,授業の中身は「対決」「衝突」「たたかい」
方法として,「××ちゃん式まちがい」法の発
という言葉で表している。
見をあげている。子どもの間違いを「問題」に
「授業は,一つにたたかいである。普通の人
間が,自己脱皮し,自分を変えていくには,ひ
とりで内省していてできるものではない,相手
と対決することによってできるものである。
位置づけ,学習を高めていくのだが,間違いを
指 摘 し,は ず か し め,攻 撃 す る の で は な く,
「式」ということばで,そのまちがいを一般化
し,共有しようとしている。
授業における「問い」の意義と役割
集団の中で高めあうために,まちがいをも
「問題」として取り上げ,学級集団で共有し,
83
として,また教師としての解釈をもち,授業に
参加し,子どもたちに疑問の波をおこさせるた
ともに研究者のひとりとして考える。まちがえ
めに,自分の解釈をぶつけるのである。そして
た子どもも,一つの問題提起をするという重要
「はっきりとした授業」にするために「問題」
な役割を果たし,ともに考え満足し,納得する
を整理し,子どもと子どもそして子どもと教師
ことができるのである。
の接触をはかり,考えが深まるように「授業の
(3) 四つの授業形態
指揮者・演出者」でなければならないとしてい
斎藤は授業における学級全体の「共通問題」
る。授業を指揮し,演出するためには,それぞ
を設定するまでの学習を丁寧に組み立て,次の
れの子どもがもっている個性と特徴をとらえ十
ような四つの授業形態を試みている。
分熟知し,配慮,配置しなければならないので
「ⅰ) 個人学習…それぞれの個人が自分一人で
ある。
学習し,一般的な基礎的なも
のを自分のものとする。
(5)「問い」は授業を構成するそのもの
このような斎藤の実践を,「問い」が生きる
ⅱ) 組織学習…自分一人の学習を,学級の仲
授業ということからみると,斎藤のいう「問
間や教師とつなげながら,拡
題」や「共通問題」がそっくりそのまま「問
大したり深化したり,変更し
い」に置き換えることができる。斎藤のいう授
たりしていく。中心は一人に
業 は,「対 決」や「衝 突」を 生 み 出 す「問 い」
あるが,部分的にであっても
なしには,ありえない。
「問い」は授業を構成
他の人間と交流しながら自分
するそのものであるといえる。
の学習を深めていく。すなわ
「問い」にかかわっての考えを,否定しあう
ちこの学習によって,学級全
ことで高めていくという方法は,今の学校での
体の学習が組織されていく。
子どもたちの状況を考えると,それに耐えうる
ⅲ) 一斉学習…学級全体が一つの共通問題を
人間関係が存在するのかという懸念を抱く。し
対象にしながら追及していく
かし,
「問い」を追及していくためには,否定
場面である。
を前提とはしないまでも,常に,違うのではな
ⅳ) 整理学習…授業の全過程で追求し獲得し
いか,もっと他に考えることができないか,と
たものを,整理し,確実に学
いう意識をもって臨むことが必要である。そう
級全体や一人ひとりのものに
することで,「問い」から思考を深めあう授業
す る 作 業 で あ る。(斎 藤
が成り立つであろう。
2006c
p. 209)」
また,
「問い」を生み,育てるために,全体
この授業形態から,斎藤が,まず個人の中で
学習の前の個人学習の時間をじっくりととって
の学習対象との出会いを大切にし,「問題」を
いることにも注目したい。学習材とじっくり向
通してじっくりと練られ,少数の相手の中で変
き合うことで,
「問い」が生まれるだけでなく,
化し,そして全体でぶつけ合う「問題」へと発
繰り返し考えたり試したり,または何人かの友
展させて初めて全体の授業の中に取り入れてい
達と話し合ったりすることで,「問い」を自分
ることがわかる。そして,この全体のぶつかり
のものにしていく。尋ねられた友達のほうも,
合いの中で,学級全体や個人が自己変革し,学
その段階で「問い」を自分のものにし,ともに
び取ったものを自分のものにする。授業の中で
追求していこうとする態度になっていくであろ
のぶつかり合いをつくるため,それまでの個人
う。こうして十分練られた中で,「問い」が学
の中での学習が大切にされている。
級全体のステージへとあげられることで,さら
(4) 教師の役割
に深められた授業が展開される。
「××ちゃん
斎藤は,「問題」を通してのぶつかりあい授
式まちがい」法も,「問い」の取り上げ方とし
業において,教師の役割が最も重要であること
て,子どもの思いを大切にしながら「問い」を
を,繰り返し指摘している。教師も一人の人間
自分たちにぐっと引き寄せる効果的な方法だと
84
大
林
知
子
ている。
「『おやおや』と驚き,
『はてな?』
『な
いえる。
授業の指揮者として,教師はその瞬間ごとに
ぜだろう』と不思議がり,
『こうかもしれない
子どもを読み取り,「問い」をはっきりさせ,
ぞ』と追求し,『でも,いつでも,こうだろう
思考を高める方向にもっていかなければならな
か?』と確かめる過程を経て『なるほど』とう
い。教師のはたらきで,授業は大きく変わって
な ず い て い く 論 理 で あ る。(東 井 1958
しまう。高まりあう授業にするためには,教師
100)」とし,これがたくましく育つかどうかが,
も一人の人間として,その授業の中でともに思
その子どもの学力に大きく影響していくとして
考する仲間として存在しなければならないので
いる。
p.
ある。「問い」を生かした授業づくりに欠かせ
(2) 生活綴方的教育方法
ない,教師の心得がここにあるといえるだろう。
東井は「生活綴方的教育方法」を,「生活の
論理」に「教科の論理」をたぐりよせることに
2.東井義雄の教育論における「問い」
よって,主体的な学力を育てる方法だとし,次
(1) 二つの論理的すじみちを踏む
のように述べる。
東井は,学習指導にあたって二つの論理的す
「子どもは,各教科の中で,『はてな?』『な
じみちを踏ませることが必要だとして,次のよ
ぜだろう?』『おやおや!』
『こうかもしれない
うに述べる。
ぞ』『こうやってみたらどうなるだろうか』
『な
「私は,ほんとうの学習は,子どもの『なる
るほど』『しかし,いつでも,どこでもこうな
ほど』といううなずきをとおして進められねば
るだろうか?』という仕方で,
『教科の論理』
ならぬ,と考える。ところが,私は,『なるほ
をたぐりよせる。
ど』といううなずきが成り立つためには,学習
その,たぐりよせ方を大じにするために,私
指導にあたって,二つの論理的すじみちを踏ま
は『学習帳』を使わせる。子どもは書きながら
せることが必要であるように思う。その一つは,
考える。書きながら探究する。書くことによっ
『教科の論理』とでもいうべきすじみちであり,
て,考えや探究を客観化していく。形のないは
いま一つは,『生活の論理』とでもいうべきも
たらきに形を与え,それを確かなものにしてい
のではないかと思う。 (東井 1958
p. 12-13)」
く。学習帳に書かれたことがらは,教師との間
東井のいう二つの論理的すじみちのうちのひ
で磨きあわれる。更に集団の中で役立ち,育て
とつ「教科の論理」とは,教科の系統の中を流
れるすじみちのことである。これは,階段を上
られる。 (東井 1958
p. 258)」
ここで「たぐりよせる」ことにかかわって,
がるように,下の段をふまないと次の段にあが
「綴方」あるいは「書くこと」について整理し
れないというものであるが,順序を追って指導
ておく。「綴方」というと,作文指導をイメー
すれば,誰でもが「なるほど」とうなずくのだ
ジしがちだが,東井は手先の技巧の問題を連想
ということにはならないことを主張している。
させるような「作文」とは違うとはっきり述べ
なぜならば,子ども一人ひとりを支える文化や
ている。ここでの「書く」ということは,「生
生活経験の質が違うため,その子の感じ方や受
活の論理」と「教科の論理」とを書くことを通
け取り方は異なることが当然であり,どの子も
してつなぎ合わせることである。そして,瞬間
同じ道筋で理解できるのものではないからであ
に消えてしまいがちな「おやおや」という疑問
る。そこで,生活様式の中を流れる「生活の論
や気づきを書きとめておくことで,活用できる
理」をふまえる (子どもの感じ方,行い方等と,
ようにしておくことをねらいにしている。
それを支えている背後の地域性や伝統,習慣,
(3) 学習指導の形態
家庭環境などを問題とする) ことで,初めて
東井は,この学習帳を使っての学習指導の形
「なるほど」といううなずきにつながるという。
このことが東井の生活綴り方教育の根底にある。
また,この「生活の論理」は,意欲的・探究
的な過程を経て発展する主体的な論理だともし
態は,固定できるものではないとしながらも,
ⅰ) ひとりしらべ
ⅱ) おおぜいしらべ
ⅲ) ひとりしらべ
授業における「問い」の意義と役割
を大まかな学習指導の形としてあげている。
はじめの「ひとりしらべ」で,子どもは,自
分の学習計画をたてる。子ども自身が問題をみ
つけ,問題の所在を確かめ,問題を解決するた
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「問い」をもつことができるかどうかが,子ど
もの学力を左右するということである。
東井は,このようにして生まれた「問い」を
「書きとめる」ことで大事に拾い上げようと,
めに計画する。そして,その計画にそって調べ,
学習帳を活用した。子どもがたとえ「問い」を
自分の考えをどんどん学習帳に書き込んでいく。
もったとしても,それはある瞬間の偶然的なも
「おしゃべり」よりも書くことで,集中して考
のであり,うっかりしていると粗末になってし
えることができる。そして,「おおぜいせいら
まう。子ども自身にも粗末にされるし,教師に
べ」では,ひとりしらべでのノートが,磨き合
よっても見過ごされてしまうことが多い。そこ
いの原稿となってはたらく。みんなの中で,み
で,ふとあらわれても消えてしまう「問い」に
んなとともに磨かれることが重要である。そし
形を与えることで,見失わないようにした。ま
て最後の「ひとりしらべ」では,みんなから教
た,「書く」ということに伴う子どもの思考を
えられ学んだことをひとりで,噛みしめる。東
ね ら う 部 分 も 大 き い。「問 い」と 向 き 合 い,
井は「学力は,結局,どんな進歩的な性格の学
じっくり考えるには,「書く」ことは有効だと
力にしろ,ひとりひとりの子どものものとなら
いえる。また,自分の思考の軌跡を追い,見つ
ねばならぬのである。」としている。「書く」た
めなおすことができることにも,「書く」こと
めに「書く」のではなく,
「使う」ために「書
の良さが見出せるだろう。
く」ことが,ますます「書く」ことを充実させ,
つまり,東井の実践からは,「生活の論理」
思考を深めていく。東井の著書には,子どもの
を通した「問い」の見つけ方と拾い方,そして
実際のノートが数多く掲載され,生活の中で自
そこでの「書く」ことの果たす役割が,
「問い」
分の課題見つけ,友達の意見をもらいながら自
を生かす授業の前提だということがいえるので
分で深めている姿がみられる。
ある。
(4)「書く」ことで内なる「問い」に形を与
える
このような東井の「生活綴方的教育方法」の
実践を通して,「問い」の生きる授業をみると,
3.上田薫の教育論における「問い」
(1) 個を確立するための授業
その子にふさわしい個を確立するため,子ど
自分自身が「問い」をもつ,ということについ
も一人ひとりの個性を無視した,型にはまった
て「書く」という営みが大きな役割を果たして
授業では,子どもが生きた人間として育ってい
いる。
かないとし,上田は次のような言葉で繰り返し
東 井 の い う「は て な?」「お や お や」「な
ぜ?」というのは,すべて「問い」だといえる。
訴えている。
「わたくしの場合,“個性的な生きた子ども
子どもが「問い」をもつとき,そして,「問い」
ひとりひとりのために”ということが,つねに
を自分のものとするとき,それは子どもの「生
核にある。その子をその子なりにどう変えるか
活の論理」を通していることが大前提となるの
ということが,どこまでも中心になっている。
である。どこからか借りてきた言葉や情報だけ
ゆえに浅い一般化は拒否するのである。それだ
のものでなく,自分の経験やこれまでの思考を
けでなく独断的な直観を排除するのである。き
通して,初めて自分の「問い」として向き合え
びしく鍛練された練達の教師にも,直進型の授
るのである。そのためには,教師は身につけさ
業は決して許さない。 (上田 1986
p. 69)」
せたい「教科の論理」を,いかにして子どもた
「カリキュラムは子どもごとに立てられるべ
ちの「生活の論理」に絡ませて,実感をとも
きである。それが基本なのである。そしてその
なった「なるほど」につなげていくとよいのか。
ためには,まずなによりもひとりひとりの子へ
その糸口をみつけて「問い」とし,思考につな
の人間的理解,すなわち個々の子を個性的全体
げ,子どもの力にしていくことが教師の重要な
的に把握することが不可欠なのである。授業の
役割なのである。言い換えれば,生活を通して
理論はつねにこのことの上にきずかれるもので
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林
知
子
なくてはならない。 (上田 1986 pp. 88-89)」
導くようなことでは,その子を発展させるよう
このような授業を支えるため,上田は「カル
な道筋をたどることができないとして,次のよ
テ」「座席表」「座席表授業案」「全体のけしき」
うにいっている。
「抽出児」という手法を勧めている。静岡市安
「正解とはその人間の理解の発展のよき筋道
東小ではこれらを取り入れ,上田とともに長年
の上にあるものをいうのである。だから当然子
授業研究を続けている。
どもによって違う。誤答とはその道筋からはず
「カルテ」は医者が患者の治療のために使う
れたものをさしているのである。しかし念のた
カルテのように,教師が子ども一人ひとりを人
めいうが,このようなことばの用法は,通常の
間としてとらえるものとしてメモをすることで
使い方とは全然異なっている。すなわちいわゆ
ある。長い期間をかけ,個々の子どもについて
る誤答とされたもののなかに真の正解はあるの
驚いたことのにを記録する。いくつかメモがた
である。わかってしまったと思い,もうなんの
まったところで,子どもに対する解釈を新たに
疑念も生じないような理解は正解ではない。た
する。教師が時間的空間的に子どもをとらえ,
えず疑問を生み出し続けるような理解こそ正解
指導の根底に据えることを目的とする。「座席
なのである。(上田 1986
pp. 58-59)」
表」はカルテに比べて簡単なメモであるが,授
(3) ずれの発見
業に直ちに,また直接活用することのできるも
正解に結着することを前提とした授業を否定
のである。授業中などのわずかな時間に必要と
し,むしろ迷いながら進む姿に思考のあるべき
思えることをどんどん書き込む。「座席表授業
姿を求めた上田であるが,共通の到達点が必要
案」は「座席表」と「授業案」がひとつになっ
でないとしているのではない。「より確かな真
たもので,「全体のけしき」は数時間分の授業
を求め,相手をわが考えに一致させようとする
計画が一枚の紙にスケッチのように表されたも
執ような努力こそ,思考推進の原動力だといわ
のである。「全体のけしき」は,授業の展開に
なくてはならないのである。 (上田 1986 p.
応じて修正されていき,流動的,弾力的な授業
137)」というように,一致を求めるのであるが,
を仕組む上で大きな役割を果たすという。「抽
そのことででてくる「ずれの発見 (上田 1986
出児」は安東小では「位置づけた子」とよばれ,
p. 137)」によって,思考が活発になり深まって
「目標に位置づける」あるいは「目標を位置づ
くるという。また新たなずれの発見により,次
ける」というのが真意である。「カリキュラム
の学習が展開される。この「ずれの発見」に関
は子どもごとにたてられるべき (1986
して,上田は次のように述べている。
p. 88)」
と上田は述べてはいるが,今現在の多人数の教
「たしかに一致したと思えるという事実はあ
室ではすべての子どもに応じた授業を行うこと
る。がわずかでも時が流れれば,場を異にすれ
は不可能である。そこで,数人の抽出した子ど
ば,それは直ちに破れていくのである。ほんと
もを座席表授業案の中に位置づけ,それらの子
うは一致していなかったことを,たちまち認め
を拠点として,他の子をもとらえ,生かしてい
ずにいられなくなってしまうのである。わたく
くことを目指している。
しはそれを,ずれの発見と表現するが,一致を
このように上田は,
「個的全体性」をつかむ
求めてずれが克服され,克服されるとまた新し
ための具体的な方法を示し,また実際に教員が
いずれが生まれるというのが,真理追究の避け
これを用いた上で共に研究を積むことで,一人
がたいプロセスだということなのである。思考
ひとりの子どもに応じた授業の展開に近づこう
もまたそのプロセスにそって働く以外に本来の
としている。
道はない。せっかく生みだされたかにみえる一
(2)「正解」は子どもごとにある
致,共通性を,わざわざゆり動かし崩しずれさ
授業の展開の中で出てくる,「正解」につい
せることこそ,考えることの真の働きなのであ
ての理論に上田の特長が見られる。
「正解は子
どもごとにある。 (上田 1986 p. 57)」として,
授業においてすべての子どもを同一の正解へと
る。(上田 1986
pp. 137-138)」
授業における「問い」の意義と役割
(4)「ずれの発見」が「問い」へ,そして次
の学習を生む
上田の理論や実践について,「問い」を生か
87
大切にしたいとは願っている。しかし,どの子
にも応じた授業をすることなど,現状の学校教
育の体制では実に困難である。そして,「一人
す授業という視点から改めてみてみると,子ど
ひとり」を見なければとあせればあせるほど,
もが「問い」をもつ授業に向かう多くの示唆が
一つひとつの事実が見えなくなり,ぼんやりと
含まれている。上田のいう「ずれの発見」は,
した一つの固まりとして学級の子どもたちを捉
授業において生まれてくる「問い」にあたると
えてしまいがちである。上田の「抽出児」とい
いえるだろう。授業の中で,思考の一致を求め
う視点は,その子の思考の流れや変化を追い,
ることを認めてはいるが,厳密にいえばどの子
見つめることにつながるものである。一人また
の思考も一致することなどありえず,一致した
は二人を追い続けることは可能である。その抽
と感じられても次の瞬間や,違う場で,その一
出児の思考から「問い」を設定し,その子の変
致を否定しなければならなくなってくるのであ
容を見届けることもでき,授業の目標にどのよ
る。その発見された違いが授業における「問
うに達成したのかを具体的にみることができる。
い」となり,子どもの思考を生み出し,必然的
上田は,抽出児を通して他の多くの子どもを把
に次の学習が生まれる。その子自身の力となっ
握するとしている。この方法は,全体を一人ひ
ていくのである。
とりとしてみていくための重要な視点であると
上田が安東小で推進してきた方法も,「問い
をもたせる」「問いを育てる」ことに関わるこ
とが多い。「カルテ」「座席表」を用いることで,
言えるだろう。
「問い」を生み出すためには,「カルテ」
「座
席表」「抽出児」を介して「個的全体性」をと
その子どものある瞬間の姿だけを問題にしてと
らえ,流動的な授業を構成することが「問い」
らえたり,満足したりしがちな教師の偏った見
をもとにした授業づくりとなるのである。
方を打破し,時間的空間的な厚みをもってその
子の全体像に迫ることができる方策となりうる。
4.佐藤学の教育論における「問い」
そして,そのような捉えができれば,その子に
(1)「勉強」から「学び」へ
対する願いや課題を具体的にもつことができ,
佐藤によれば,現在行われている学校の授業
授業で取り上げる「問い」もその子が自分の
のほとんどは「勉強」であって,「学び」では
「問い」として受け止めることのできるものに
ない。「勉強」においては,
「知識」と呼べるも
近づけることができるだろう。子どもが「問
のはなく,ただ単なる「情報」を与えているに
い」を持つことを求める上で,一人ひとりの子
過ぎないとして,次のように述べる。
どもの姿に迫ることは必須である。
「これまでの学校教育における『勉強』が,
「座席表指導案」「全体のけしき」は,教師
『学び』の本質を剥奪されていることは,明瞭
が指導案通りにつつがなく授業をすすめてしま
だろう。『勉強』においてはモノ (対象世界)
うことを阻止するのに役立つといえる。どちら
との出会いもなければ,他者との出会いや異質
も,子どもの思考や疑問,感じ方が書かれてい
な考えの交流もなく,自分自身のあり方を反省
るものであるから,そこからの授業の道筋は目
的に吟味する自分探しのプロセスも排除されて
的に向かって複数作ることができる。指導案は
いるからである。さらに言えば,
『勉強』にお
一つだとういう教師の固定概念を破り,複数の
いては『知識』もたんなる『情報』へと転落し
道筋があることが意識できれば授業は流動的に
ている。『知識』は学び手が経験を基盤として
なり,子どもから出てきた「問い」を生かした
意味を構成する認識活動の所産であり,だれが
授業を構成することが可能になる。
どこで何によってどういうわかり方をしたのか
安東小で「位置づけた子」とよばれる「抽出
を表現していなければならない。『知識』には
児」については,「一人ひとりの子どもを大事
人称関係と媒体と文脈がその内側に込められて
にする」という理念を現実に近づけることので
いるのである。それに対して『情報』は,人称
きる方法である。多くの教師が,一人ひとりを
関係も媒体も経験も文脈も捨象した知識である。
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知
子
このように『知識』と『情報』を区別するなら
を構成する実践を提唱する。そこでは,自分自
ば,これまでの『勉強』が扱ってきたのは『知
身の考えや意見と対話し,言語を介して自己と
識』ではなく『情報』に過ぎなかったことは明
いう対象をも再構成することができる。この
瞭だろう。わが国の学校教育で,これまで『知
「自分探し」の欲求こそ,「私たちを学びの実践
識』が『知識』としてまっとうに扱われたこと
へと内側から衝き動かす根源的な欲求なのであ
は一度もないのである。 (佐藤 1997b
る。
」と佐藤は言う。自己のあり方を探求する
p. 91)」
この勉強を学びへと転換するための課題とし
倫理的実践である。
て,「媒介された活動を組織すること」「共同
三つ目の「学習者と周りの他者との関係」は,
(グループ活動) を実現すること」「知識や技能
他者の考えや意見と対話する社会的実践である。
を〈獲 得〉し〈定 着〉す る 学 習 か ら,〈表 現〉
「学びにおける第三の対話的実践は,他者と
し〈共有〉する学習へと移行させる」ことを挙
のコミュニケーションという対話の社会的過程
げている。
において表現されている。あらゆる学びは,他
(2) 学びの三位一体論
者との関係を内に含んだ社会的実践である。教
カリキュラム改革,ひいては授業改革,学校
室における学びは,教師や仲間との関係におい
改 革 に 関 わ る 課 題 を 乗 り 越 え て,「勉 強」を
て遂行されているし,一人で学ぶ状況におかれ
「学び」に変えていくにあたって,「学び」の実
た場合でさえ,その学びには他者との見えない
践とはどういうものになるのか。佐藤は「学び
関係が編みこまれている。教育内容の知識は,
の 実 践 は,『世 界 づ く り (認 知 的・文 化 的 実
それ自体が社会的に構成されているし,学びの
践) 』と『自分探し (倫理的・実存的実践) 』
活動は,見えない他者のまなざしからのがれえ
と『仲間作り (社会的・政治的実践) 』が相互
ないからである。(佐藤 1995
に媒介し合う三位一体の実践なのである。(佐
藤 1995
p. 75)」として「学びの三位一体論」
を提唱する。学びの活動を意味と人との関係の
p. 74)」
佐藤は,これらが相互に媒介しあう関係とし
て,「三位一体論」を提唱し,
「学び」の定義と
している。
編み直しとすると,学びの実践は「学習者と対
(3)「学び」を成立させる授業
象との関係」「学習者と学習者自分自身との関
「学び」を成立させる授業を組織するものと
係」「学習者と周りの他者との関係」の三つの
して,「個への対応 (テーラーリング)」と「個
関係を編み直す実践だという。
と個の響き合わせ (オーケストレーティング)」
まず,「学習者と対象の関係」とは,学習者
を挙げている。「伝達型」の授業ではなく,新
である子どもと,対象世界 (授業で扱う学習
しい探求型の授業の指導性を表す言葉として英
材) との対話である。学習者は,学習材と向き
語圏で使われている表現で個に応じる指導を
合い,その意味を推論し,探り,認知していく。
「テイラーリング=仕立て (tailoring)」つまり
佐藤が「世界づくり」という言葉で表すように
一人ひとりの体型に合わせて服を仕立てるよう
文化的な実践である。一般的行われている「学
に,子ども一人ひとりの個性に対応するという
習」では,この活動が中心となっている。しか
言葉で表し,違う楽器の違う音を響き合わせて
し,今の制度化された学校の学びは,「具体的
シンフォニーを生みだすような,個と個を擦り
対象の操作と構成の活動を捨象されているため
合わせる指導を「オーケストレイティング=響
に,対象の世界の意味を構成する活動としての
き合わせ (orchestrating)」という言葉で表現
学びではなく,所定の知識の習得と定着を基本
している。これらの指導によって組織される授
とする学びへとおとしめられている。(佐藤
業は,答えを一つにまとめていこうとするもの
1995
ではない。子どもの学びが個から出発し,他の
p. 77)」と佐藤は嘆く。
二つ目の「学習者と学習者自身との関係」で
は,佐藤が「自己との対話」の実践を「自分探
子どもや教師との擦り合わせを通して,最終的
には個へ戻る過程を追究するものである。
し」という言葉で言い換えているように,対象
佐藤は,一斉授業が今日の授業形態の基本と
世界の意味を構成しながら,そこに対する自己
なっていること,そして,子どもが「集団」と
授業における「問い」の意義と役割
して教師に意識されていることから,まず一人
89
出した個人に戻ってくるものだといえる。
ひとりの対応を基本軸にして見直す必要がある
としている。そのための重要な「テーラーリン
5.4 人の教育論にみる「問いのある授業」
グ」で あ る。ま た,個 と 個 を 響 き 合 わ せ る
の要件
「オ ー ケ ス ト レ ー テ ィ ン グ」で は,コ ミ ュ ニ
4 人の教育理論を「問い」を生かす授業実践
ケーションの豊かさが鍵となるとしている。コ
という視点でみてきた。そこから得られた「問
ミュニケーションは決して予定通りにおさまる
い」に関わる要件は,まとめると以下の 4 つと
ものではない。教師の思惑にそって子どもの意
なる。
見を聞くのではなく,思惑と違う子どもの声に
耳をかたむけることで,教室のコミュニケー
1.
「問い」は個人の中で生まれる
ションが豊かに展開する。それは教師の力量に
2.「問い」は意識してステージ (学習の場) に
かかっているのである。
(4)「問い」あっての「学び」
こうした佐藤の理論をみていくと,佐藤の求
めている「学び」と本論で論究する「問い」が
生きる学習の姿とが重なってくる。佐藤の言う
あげないと見えなくなる
3.「問い」は対話によって広まりと深まりが生
まれる
4.「問い」は問いをもった個人にもどって学び
になる
「学びの三位一体論」の対話は,それぞれの対
象との対話から,関係の編み直しが図られると
まず,一つ目の「『問い』は個人の中で生ま
いうことであり,そこには「問い」が必要とな
れる」と四つ目の「
『問い』は問いをもった個
るのである。素朴な「問い」でもあったとして
人にもどって学びになる」は,斎藤,東井,佐
も,それを引き出し対話をしていかなければ,
藤が共に,学びが「個人から始まり個人へ戻
対象に対して推察したり,探ったりすることは
る」としているところに基づいている。上田は,
できない。この対話には意識的・無意識的な
これら三人以上に子ども一人ひとりの学習に注
「問い」が存在しているといえる。
目し,
「カリキュラムは子どもごとに立てられ
また,「勉強」から「学び」への転換を図る
るべきである。 (上田 1986 p. 88)」とし,一
ために,「媒介された活動」を必要としている
貫して個々の子どもが問い続ける姿を求めてい
が,その活動をつくるためにも,必ず「問い」
る。
は必要となってくる。「問い」がなければ観察
斎藤と東井は,学習の形態を固定できるもの
や調査,実験,討議,表現等の具体的な活動は
ではないとしながらも,どちらも個人から始ま
生まれてくるはずはない。佐藤のいう「活動的
り個人へ戻る形を提示している。佐藤も,授業
で協同的反省的な学び」とは,子どもが自分の
は「子どもの学びが個から出発し,他の子ども
課題をもって交わり関わりあう教室で実現する。
たちや教師との交わりとすり合わせを通して,
教室で「問い」が扱われる場合,一般的には
最終的には個に回帰する過程を追究している。
最後に答えが一つにまとめられることが多かっ
(佐藤 1997a
p. 238)」としている。従来の授
たが,佐藤の「個から他へそして個へ」の経緯
業が,個人と離れたところから始まり,さらに
をたどって,最後に個人にもどってくるところ
個人から離れたところでまとめられ終わってい
は,「問い」を通してその子ども自身が自分の
るという実態への提言としてあげる。
これまでの三方向の対話を振り返り,吟味し,
以上のことを基にまとめた,一つ目の「『問
学びを自分のものとして自分に納めるところで,
い』は個人の中で生まれる」である。これは,
「問い」がその子自身の学習になったといえる
のであろう。
子どもがどういうところで「問い」を持つのか
ということにも着目したものであり,
「問い」
つまり,佐藤の「学び」において「問い」と
は,教材や活動,友だちや教師の発言など,周
は,対話によって個人から生まれ,仲間を通し
りの何かに触発されて生まれることに基づいて
て新しい対話を生み,最終的に「問い」を生み
もいる。上田のいう「ずれの発見」は,
「問い」
90
大
林
知
子
の発見そのものであるが,それは個人の中で発
「わかってしまったと思い,もうなんの疑念も
見されるものなのである。そして,その発見の
生じないような理解は正解ではない。たえず疑
ためには,授業の中で,斎藤が言う「問い」が
問を生みだし続けるような理解こそ正解なので
生まれるような対話の時間や,ぶつかり合いの
ある。(上田 1986
pp. 58-59)」というように,
場面を設定する必要がある。しかも,教師の評
「問い」は変化したり,立ち戻ったり,また新
価そのもの (いわゆるできる,できないの評
たに生まれたりしながら,学びに結実するので
価) を求めるために立ち現れるものではなく,
ある。また,東井のいうように「育ちあい,磨
子ども自身がこれまでの自分の経験や知識,思
きあいは,子ども相互の間でもくり拡げられね
いと関わらせてその対象と一対一で向かい合っ
ばならない。(東井 1958 p. 286)」のである。
た瞬間,東井の言う「生活の論理」を通すこと
四つ目に「『問い』は問いをもった個人にも
で初めて現出するものともいえるものなのであ
どって学びになる」とは,先に述べた通り斎藤,
る。
東井,佐藤の指摘による「問い」を生かした学
二つ目の「『問い』は意識してステージにあ
習を子ども自身のものにすることである。自分
げないと見えなくなる」は,「問い」の発見と
の「問い」があらゆる対象を通して変化し,そ
して取り上げられること,教室で共有すること
れに伴って初めはなかった思考や発見の軌跡を
の重要性である。「問い」は常に華々しく全体
見つめることで,子どもに学びの力がついたと
の場に登場するものではない。斎藤が「問題」
いえるだろう。そこでまた,新たな「問い」が
をみんなのものにするために活用した「××
生まれていれば,さらに学ぼうとする力がその
ちゃん式まちがい」法や,東井のいう瞬間に消
子を推し進め,さらに次のステップへ進むこと
えてしまいがちな「おやおや」という疑問を書
ができるのである。
き留めておくという学習帳の活用などは,形の
ない「問い」を教室,授業というステージに上
お
わ
り
に
げるための方法である。教師は,授業で見られ
る子どもの様子だけでなく,子どもの生活や行
4 人の授業の世界から導き出したこれら四つ
動や思考の軌跡を記録をもとに総合的に摑もう
の要件をみると,子どもの意識,教師の意識,
と絶えず努め,個人の中にある瞬間生まれた
学習の手段,「問い」の段階等,多方面にわた
「問い」を拾いあげなければならない。そのた
る軸や視点をもつ必要性がみえてくる。
めには,上田のいう「子どもの個的全体性」の
「問い」をどう生み出すのか,というところ
把握が重要となってくる。この「問い」を見つ
では子どもと教材との出会い方や,対話の持ち
け,拾い出し,全体の「問い」へと育てていく
方に教師は意識して取り組まなければならない。
ために,こうした教師の仕掛けが必要である。
そして,子どもの内の無意識のものを意識させ
三つ目の「
『問い』は対話によって切りひら
る手だてを講じるべきである。書くことや,話
かれる」は,「問い」をもったその個人が一人
すこと等で形を与えながら,子どもが自分の思
で立ち向かうだけでなく,外界との対話が必要
考を自覚するということを随所に取り入れてい
であるということである。これは斎藤のいう
く必要があるだろう。このことに教師が心を砕
「相互のはげしいコミュニケーション」によっ
かなければ,これまで繰り返してきた授業のよ
て授業が再創造されていくという指摘,あるい
うに「問い」と子どもが離れてしまい,「問い」
は佐藤の対象世界との対話,自己との対話,他
本来の力を生かすことができないはずである。
者との対話で関係の編み直しを図る「学びの三
また,生 ま れ た「問 い」を 学級全 体の「問
位一体論」に基づいたものである。対話の対象
い」として取り上げるためには,十分な自己対
が学習集団や学習グループであった場合,「問
話や他者対話を通して,「問い」を自分に引き
い」をもった本人だけでなく,周りの子どもた
寄せるという段階を設定する必要がでてくるだ
ちにもまた新たな刺激が与えられ,思考が広が
ろう。そのためには,学習形態も見極めなけれ
り,深まり,また「問い」が生まれる。上田が
ばならない。「問い」と自分がしっかりと結び
授業における「問い」の意義と役割
つき,全体での交流に向かうことができれば,
子どもにとっての新たな発見や,新たな「問
い」につなげることができる。そして,そうし
た経験が,学習した子ども自身に自信をもたせ,
次の課題に向かおうとする意欲の源になるので
ある。
これらを可能とする授業がどのような形態を
必須とするのか,そしてそこでの教師の役割は
どのようなものか。今後は,本稿の作業によっ
て明らかになった 4 つの要件を礎に,「問い」
に関わる子どもの意識に注目しながら授業実践
を試み,「問い」の力を発揮させる授業モデル
をつくっていきたい。
引用・参考文献
斎 藤 喜 博 (1990)『学 校 づ く り の 記』(1958 初 版)
91
国土社
(2006a)『授業入門』(1960 初版) 国土社
(2006b)『授業』(1963 初版) 国土社
(2006c)『授業の展開』(1964 初版) 国土
社
東井義雄 (1984)『村を育てる学力』(明治図書 1957
初版) ほるぷ出版
(1958)『教師の仕事 7 学習のつまずき
と学力』明治図書
上田 薫 (1992) 上田薫著作集 5『個を育てる力』
黎明書房
(1986)『人間の生きている授業』黎明書
房
上田 薫・静岡市立安東小学校 (共著) (1999)『個
を見つめる授業』明治図書
佐藤 学 (1997a)『教師というアポリア ―反省的
実践へ―』世織書房
(1997b)『学びの身体技法』太郎次郎社
(2000)『授業を変える 学校が変わる』
小学館