ISSN 1347-9911 名古屋外国語大学 外国語学部 紀 要 第 40 号 2011年 2月 目 次 論 文 1926 年 27 年における魯迅の民衆像と 知識人像についてのノート(中) ―魯迅の民衆像・知識人像覚え書(2) 中 井 政 喜……( 1 ) 繋辞の「ダ」と「である」 森 川 正 博……( 27 ) 教育における市場性と公共性に関する考察 ―市場原理は多様なアイデンティティを実現するか?― 加 藤 潤……( 45 ) The Possibility of Teaching American Sign Language as a Foreign Language in Japanese Universities 菊 地 俊 一……( 67 ) マーティン・スタナード作、 『ミュリエル・スパーク 伝記』 ―スパークの「作品と人生の関係」と スタナードの “the nevertheless idea”― 藤 井 加代子……( 95 ) 「偉大な社会」とベトナム戦争(2) 山 田 敬 信……(125) フォークナーの二つの町:小説家と脚本家の間 ―The Road to Glory を中心に― 梅 垣 昌 子……(143) 现代汉语中的“所”字结构 余 求 真……(165) Germaine Dulac, le féminisme en noir et blanc Yannick DEPLAEDT……(173) Grammaticalization within Dasu-compounds in Japanese 高 橋 直 子……(199) 「上海市外来流動人口管理政策」の実効性に関する研究 虞 萍……(223) Unité syntaxique du français et unité morphologique du japonais dans le syntagme appelé prépositionnel 武 井 由 紀……(249) 中国映画経営の現状に見る政府方策の問題点 楊 紅 雲……(277) ウォリス島の民話( I ) 塚 本 晃 久……(301) 文法記述における形式と意味について ―可能表現を中心に― 呂 雷 寧……(323) 要法寺円智日性による 『倭漢皇統編年合運図』と『太平記鈔』の刊行 湯 谷 祐 三……( 一 ) NAGOYA UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES Journal of School of Foreign Languages No. 40 February 2011 Articles 鲁迅1926年27年对民众和知识分子的看法札记(中). ...................................中井政喜 Copular Verbs Da and Dearu in Japanese.................................. Masahiro MORIKAWA Marketization and Publicness in School Education: Criticizing Free Market Society as an Environment for Building Diversified Self-identites and Multiple Cultures............................... Jun KATO The Possibility of Teaching American Sign Language as a Foreign Language in Japanese Universities.............................. Toshikazu KIKUCHI Muriel Spark: The Biography by Martin Stannard: Spark’s “Life and Fiction” and Stannard’s “the nevertheless idea” . ......... Kayoko FUJII “The Great Society” and Vietnam War (2)........................................Takanobu YAMADA Faulkner as a Scriptwriter: Creation of The Road to Glory...............Masako UMEGAKI 现代汉语中的“所”字结构............................................................................... 余求真 Germaine Dulac, le féminisme en noir et blanc...............................Yannick DEPLAEDT Grammaticalization within Dasu-compounds in Japanese..............Naoko TAKAHASHI 有关上海市外来流动人口管理政策的实效性研究............................................... 虞萍 Unité syntaxique du français et unité morphologique du japonais dans le syntagme appelé prépositionnel.......................................... Yuki TAKEI 从中国电影经营现状看政府方策存在的问题................................................... 楊紅雲 Folk Tales of Wallis Island (I)...................................................... Akihisa TSUKAMOTO 关于语法记述中的形式与意义―以可能表达为主―....................................... 呂雷寧 The Publication of Chronology and Taiheikis Annotation by Enchi-Nisyo in Yohoji-temple................................................................Yuzo YUTANI 1926 年 27 年における魯迅の民衆像と 知識人像についてのノート(中) ―魯迅の民衆像・知識人像覚え書(2) 中 井 政 喜 Ⅰ、はじめに Ⅱ、『朝花夕拾』『華蓋集続編』等における社会像・民衆像・知識人像等 一、社会像 二、民衆像(下等人像)(以上前号) 三、知識人像(以下今号) 四、まとめ Ⅲ、四・一二クーデターの衝撃と国民革命の挫折(以下次号予定) Ⅳ、さいごに Ⅱ、 『朝花夕拾』 『華蓋集続編』等における社会像・民衆像・知識人像 等 三、知識人像 *1 前述のように、魯迅は 1925 年末当時、挫折した改革者としての心情と復 讐観から基本的に脱却しつつあった(基本的には、「孤独者」〈1925・10・ 17〉においてなされたと考える *2) 。 また、1926 年の三・一八惨案をつうじて、中国変革のいっそう緊要な当 面の焦点は、権力を握る横暴な専制的軍閥政府、軍閥支配体制にあると認 識した。1926 年、時はまさに国民革命が順調に進展するかに見えたその高 揚の時期であった。 ― 1 ― 魯迅は、1926 年の『朝花夕拾』 (北京未名出版社、1928・9)の諸作品に おいて、中国の民衆像・知識人像を再検討し再構築しようとした。上述の ように、語り手魯迅は記憶の中にある民衆をあるがままに語り *3、一側面 としての新しい民衆像が出現した。それは 1927 年以降に、魯迅が現実にお ける民衆の姿を測り直すための準備段階となったと思われる。そして知識 人についても、魯迅は過去の成長過程の回想の中で、あるがままの知識人 の姿を語り、測り直し、そのことによって過渡的知識人としての彼自身の 今後の生きる道を、内省し探究しようとしていると思われる。過渡的知識 人として新しい動向(国民革命の進展と、中国変革の展望)にどのように 対処するのか。魯迅は 1927 年 1 月広州に行き、 「革命の策源地」広州で国民 革命のための「補佐」*4 的行動(中山大学での教職をつうじて)をとるこ とを選択した。 魯迅には、 『朝花夕拾』 (前掲、1928・9)において民衆だけを特に取りあ げる意図はなかったと思われる。旧社会にはいつも民衆の姿と、旧社会の 中で考え、行動する知識人(読書人)が常に意識されていた。魯迅の人生 の過去におけるあるがままの民衆の姿と、過去における過渡的知識人の姿 が、 『朝花夕拾』 (前掲、1928・9)で描かれた。 すなわち清朝末期の異民族による封建的支配構造のもとで、知識人がど のように生きていたのかを、語り手魯迅は 1926 年の回想(『朝花夕拾』)の 中で確認しようとした。これは、1926 年当時語り手にとって、同時代の清 末の過渡的知識人がどのように見えたのか、彼らがどのように生きていた のか、を語るものである。 『朝花夕拾』 (全 10 篇〈そのほか、 「小引」 、 「后記」〉、北京未名社、1928・ 9)の後半の五篇以降、知識人が取りあげられる。 「従百草園到三味書屋」 (1926・9・18)では、私塾の先生という旧知識人、「父親的病」(1926・ 10・7)では、二人の漢方医の治療と、患者である魯迅の父親という旧知 識人の、闘病における最後の生き方が描かれる *5。「瑣記」(1926・10・8) では、南京の江南水師学堂の学生(カニ歩きをする上級生)と、鉱務鉄路 ― 2 ― 学堂での勉強ぶりが表現される。 「藤野先生」 (1926・10・12)では、清国留学生の東京での生活と、仙台 医学専門学校の教師藤野厳九郎先生の魯迅に対する教育が描かれ、いまな お無言の激励を受けることが述べられる。すなわち魯迅にとって「藤野先 生」は、過渡的知識人としていかに生きるべきであるのか、その問に無言 の激励を与える存在であったと思われる。 「范愛農」(1926・11・18)では、 范愛農という、中国変革を志し、辛亥革命後の旧社会に受け入れられずに 亡くなる、新党の知識人の運命を描く。ここに、辛亥革命前後において中 国変革のために生命を捧げた過渡的知識人に対する(「范愛農」、前掲)、魯 迅の哀悼と負い目の感情を窺うことができる。また、それをバネに、厦門 の一時の「休息」から国民革命中の奮闘の生活に再起しようとする魯迅の 心情を窺うことができる。 ここでは、過渡的知識人としての生き方の探求において、語り手魯迅の 心情が色濃く、考え方が明確にうかがわれる「藤野先生」と「范愛農」を 取りあげる。 1、奮起と負い目 「藤野先生」 (1926・10・12)では次のように語られる。 語り手魯迅は、清国留学生が弁髪を巻きあげ、富士山のように盛りあ がった帽子をかぶり、上野公園を散歩する姿を描く。また、中国留学生会 館での、留学生のダンスの練習を描き、こうしたことから別の場所へ行き たいと願ったと言う。そして仙台の医学専門学校に入学する。 仙台医学専門学校で、新鮮な授業をたくさん聞いた。なかで、身なりに あまりかまわない、古い外套を着てスリと間違われるような、藤野厳九郎 先生がいた。先生はゆっくりとした、しかも抑揚のある口調で講義をした。 授業が一週間ほどすぎたとき、語り手は藤野先生に呼びだされ、講義ノー トの添削を受けるようになった。 「私が写したノートを提出すると、彼は受けとり、二三日目に私に返還し ― 3 ― て、言った。これから毎週彼にもってきて見せるように、と。私は受けと りひろげてみたとき、びっくりした。同時に不安と感動も覚えた。私の講 義ノートは最初から最後まで朱筆で添削してあった。多くの抜けたところ を補っているばかりか、文法の誤りも一つ一つ訂正してあった。彼の担当 する授業、骨学、血管学、神経学が終わるまで、このようにしてずっと続 いた。 」 ( 「藤野先生」 、1926・10・12) 学年試験が終わって、秋に成績の発表があると、語り手は中程の成績で あった。新学期が始まってから、クラスの幹事が下宿を訪れ、彼の講義ノー トを見たいと言い、一とおり見て、立ちさった。その後語り手は、 「なんじ 悔い改めよ」という文句で始まる、分厚い匿名の手紙を受けとった。藤野 先生が講義ノートに印を付けて、試験問題を教えたために、彼がこのよう な成績をとることができたというものだった。数人の同級生が幹事の検査 の非礼を非難し、検査の結果を発表するように求めたことにより、この噂 は根据のないものであることが明らかとなった。 「中国は弱国である、だから中国人は当然低能児である。点数が 60 点以 上であったのは、自身の能力ではない。彼らが疑ったのも怪しむに足りな い。しかし私は続いて中国人の銃殺を参観する運命となった。第二年目に はカビ学の授業が増えた。細菌の形状はすべてスライドで示された。一段 落が終わり、まだ時間があるときには、いくつか時事のスライドが映され た。もちろん日本がロシアに戦勝した情況である。しかしあいにく中国人 がなかに挟まっていた。ロシア人のためにスパイとなり、日本軍に捉えら れて、銃殺されようとしている。とり囲んで見ているものは一群の中国人 であり、講義室にはなお一人私がいた。 『万歳!』彼らは拍手喝采をはじめる。 この歓呼は、スライド一片を見るたびに起こった。しかし私にあっては、 この声はとりわけ耳に触った。この後中国に帰って、犯人を銃殺するのを 暇つぶしに眺める人々を見た。彼らも酒に酔ったように喝采をする。― ああ、どのように考えたらよいのか。しかしその時その地で、私の意見は ― 4 ― 変わった。 」 ( 「藤野先生」 、1926・10・12) 第二年目の終わりになって、語り手は藤野先生を訪ね、医学をやめ、仙 台を離れることを言った。離れる数日前に写真をくれ、その裏には「惜 別」と書かれてあった。その後、語り手は音信をせず、約束の写真を送ら なかった。 「しかしどうしてか分からないが、私はなおいつも彼のことを思い出す。 私が自分の先生だと思う中で、彼は最も私を感動させ、私に励ましを与え てくれた一人である。ときに私はしばしば思う。私に対する熱心な希望と たゆまぬ教えは、身近に言えば、中国のためである。すなわち彼は中国に新 しい医学があることを希望した。遠大に言えば、学術のためであった。す なわち新しい医学が中国に伝わることを希望した。」(「藤野先生」、1926・ 10・12) 「夜、疲労して、怠けたいと思うときに、灯火のなかで彼の黒く痩せた顔 を仰ぎ見ると、今にも抑揚の強い言葉を話しだしそうである。それは急 に、私の良心を思いおこさせ、勇気を増してくれる。そこでたばこに火を つけ、さらに〈正人君子〉の類が深く憎む文章を書き続ける。」(「藤野先 生」 、1926・10・12) 「藤野先生」 (1926・10・26)は、当時の日本の知識人の姿(学生から教 師を含めて)を、そして清国留学生の姿を、1926 年の回想の中に描きだし たものである。そこに彼らに対する毀誉褒貶があり、また藤野先生のよう な、後年まで魯迅を励まし続ける存在となった一人の教師の姿があった *6。 藤野先生は、語り手に対する希望とたゆまぬ教えをつうじて、中国におけ る新しい医学の興起と発達を希望した *7。藤野先生のような、希望をもっ て異国の学生の教育にあたり、理想に献身する知識人の存在が、1926 年当 時、語り手を励まし、奮起させるものであった *8。 語り手魯迅がそうした無言の激励を糧にして、手にとるペンの矛先は、 軍閥権力と結託する〈正人君子〉の類に向けられている *9。 「范愛農」 (1926・11・18)では次のように語られる。 ― 5 ― 語り手魯迅は東京留学中に、徐錫麟が巡撫を暗殺し、捕らえられたとい うニュースを知る。徐錫麟は日本に留学後、帰国し、巡警の仕事をしてい たと言う。徐錫麟は范愛農の先生であった。徐錫麟は心臓をえぐりとられ、 巡撫恩銘の護衛兵に炒めて食いつくされた。 同郷会が開かれ、烈士を弔い、満州をののしった。満州政府に抗議の電 報を打つことについて議論したとき、語り手の意見にことごとく反対した のが、范愛農である。 「このことから私はこの范愛農が常軌を失しており、しかも非常に憎むべ きものだと思った。天下で憎むべきものは、当初満人だと思っていた。こ のとき始めてそれはまだ二の次だ、第一は范愛農だと知った。中国が革命 しないのなら、それまでだが、もし革命をするのなら、まず必ずや范愛農 をとり除かなくてはならない。 」 ( 「范愛農」 、1926・11・18) ここから、語り手は、天下で憎むべきものが満人だ、と思っていたこと がわかる。漢民族の一人として、異民族の軛のもとにある苦痛を、被支配 者の苦痛を味わっていたことがわかる。 帰国した後の 1910 年、故郷で教員をしているころ、語り手は范愛農と再 会する。 「『ああ、君は范愛農。 』 『ああ、君は魯迅。 』 どうしてかわからないが、私たちはともに笑った。それはお互いに対す る嘲笑と悲哀であった。 」 ( 「范愛農」 、1926・11・18) 1910 年、辛亥革命の前年に二人は再会する。そのとき二人は笑った。二 人の状況は、お互い嘲笑と悲哀にあたるものだったと思われる。范愛農は、 古びた木綿の馬褂(短い上着)を着、破れた布靴を履いて、質素な様子を していた。范愛農は、日本留学の途中で学資がなくなり、故郷に帰った。 彼は故郷で軽蔑され、排斥と迫害を受け、ほとんど居場所がないほどだっ た。今は田舎に隠れ、数人の小学生を教えて、口すぎをしていると言う。 語り手は、なぜ范愛農があの日ひたすら反対したのかを尋ねる。范愛農 ― 6 ― は、語り手を彼らが嫌っていたからだと答える。語り手は陳子英とともに、 横浜へ新しい留学生を迎えにいった。その時、留学生の荷物から纏足の靴 が出てきて、税関の職員がそれを見つけ、物珍しそうに見ていたと言う。 なぜこのようなものを持ってきたのか、と語り手は不満に思い、首を横に 振った。また、汽車に乗ると、留学生たちは席の譲りあいをはじめ、汽車 が動きはじめて、三四人が倒れた。こんなところにまで、尊卑を区別しな ければいけないのか、と語り手は不満に思い、また首を横に振った。 しかしこの日到着した留学生の中には、のち安徽省で戦死した陳伯平烈 士や殺害された馬宗漢烈士がいた。のちに牢獄にとらわれ、辛亥革命後に、 日の目を見ることができたけれども、身に酷刑の傷痕を残した人も、一二 いた。 これは、辛亥革命の烈士たちに対する、無残な傷を負った戦士たちに対 する、語り手の深い負い目であったと思われる。 「冬の初め頃、われわれの境遇はさらに手もと不如意となった。しかしや はり酒を飲み、笑い話をしていた。突然武昌蜂起がおこり、続いて紹興が せんぼう 光復した。二日目に范愛農が街にやってきた。農民の使う氈帽をかぶり、 その笑顔はこれまで見たことがないものだった。 (中略) われわれは街をひととおり歩いた。見わたす限り白旗であった。しか し外見はこのようであったけれども、内部の中心は旧態依然たるもので あった。なぜならやはり数人の郷紳が組織する軍政府であり、鉄道の株主 が行政司長であり、銭荘の番頭が兵器司長だったから……。 」 ( 「范愛農」 、 1926・11・18) この軍政府は長く続かず、王金発が杭州から軍隊を率いて、紹興に入っ た。しかし王金発は取りまき連に祭りあげられて、王都督におさまった。 語り手は師範学校校長になる。范愛農は監学(学生監)になった。范愛農 は監学の仕事と教育を兼ね、実際によく精をだした。 教え子の青年が語り手を訪ね、新聞を発行して、当局を監視したいと言 い、語り手魯迅、陳子英、孫徳清に発起人を依頼した。語り手は引き受け ― 7 ― る。彼らは、都督を批判し、都督の周りのものを批判しはじめる。しかも その後、王金発都督から 500 元の金を受けとり、なお批判を続けた。事態 が悪化したとき、許寿裳が語り手を南京の政府に誘ってくれ、語り手はそ こへ行くことになる。彼が南京に去って二、三週間後、兵士によって新聞 社は襲われ破壊された。語り手が南京から北京に移った頃、范愛農の学監 も孔教会に所属する校長によってやめさせられる。范愛農はまた革命前の 彼に戻った。語り手が范愛農のために北京で仕事を探すこと、これは范愛 農が切望したことである。しかし語り手には機会がなかった。范愛農は知 りあいの家に寄食していたが、しかしそこにもおれなくなり、あちこちと さまよった。ある日、芝居を船で見にいき、酔って水に落ちて死ぬ。 范愛農は、語り手が呼び寄せてくれる電報を待ち望んでいた。范愛農が 結局足を滑らせたのか、自殺したのか、今にいたるまでわからないという。 これは、辛亥革命を紹興で迎え、ともに革命を喜び、そのために尽力し た友人范愛農の、その後の悲惨な運命に対する、共感と同情であり、また その人に対する語り手魯迅の負い目であった。 辛亥革命の烈士のためにも、そして范愛農のような悲運の新党の知識人 のためにも、魯迅自身はその遺志を受け継いで生きていかねばならない。 生きて、辛亥革命の理想ために、自分なりに尽力すべきではないのか。そ れゆえ魯迅は、清末当時の知識人の在りようを、旧いものを引きずりつつ 新しい理想に向かい倒れた過渡期の知識人たち(1917 年ロシア十月革命に おけるアレクサンドル・ブロークのように〈 「馬上日記之二」 、1926・7・ 7、 『華蓋集続編』 〉 )を、辛亥革命のために人生の一番大切なものを犠牲に した知識人たち(1905 年ロシア革命におけるシェヴィリョフの友人のよう に〈 「記談話」 、8・22 講演、 『華蓋集続編』 〉 )を、もう一度自分の負い目を つうじて確認しようとした。 そして「范愛農」には目覚めぬ麻痺した愚民の姿が現れない。 1926 年末、卑劣な青年文学者(高長虹等)に対する憤りを爆発させるこ とをつうじて、魯迅は自らの生存の権利を肯定し、中間物としての肯定的 ― 8 ― 側面(否定的側面だけではなく)を積極的に認めた *10。そして許広平を愛 してもよいのだと考えた *11。そのとき、魯迅は個人の幸福を深く感ずると 同時に、まさにそれゆえに辛亥革命の烈士や過渡的知識人范愛農等の不幸 に対して、いっそうの深い負い目を同時に意識したと思われる。 魯迅は自分を励まし立ち直らせながら、厦門における一時の「休養」に 終わりを告げ、1927 年 1 月、広州の中山大学に赴任し、再び奮闘の生活に 入ろうとする。 2、自らの生き方にかかわる過渡的知識人(文学者)像 (1)武力の前での文芸の無力感について この頃魯迅は、文芸が武力の前においては無力であり、文章を書くのは 失敗者の象徴であるかのようだ、としている。 「魯迅先生的笑話」 (Z.M.、 1925・3・8、『集外集拾遺補編』所収、のちに「『華蓋集』后記」 〈1926・ 2・15〉に再録)では次のように言う。 「話をしたり文章を書くのは、失敗者の象徴であるようです。いま運命と 悪戦している人は、こうしたものにかまっていられません。本当に実力の ある勝利者も多くは声をたてません。たとえば鷹が兎を捕らえるとする と、泣き叫ぶのは兎であって、鷹ではありません。 」 ( 「魯迅先生的笑話」 、 Z.M.、1925・3・8、 『集外集拾遺補編』 ) しかし魯迅は筆が役に立たないとわかっていても、それによって流言や 「公理」に対して徹底的に抵抗する。 「 『魯迅景宋通信集』二四』 」 (魯迅、 1925・5・30)で次のように言う。 「そいつら 〔女師大校長楊蔭楡を支持する派―中井注〕は何でもやる者た ちであり、言葉は仁と義で、行いはなんと比べても劣る。私は筆が役に立 たないとはっきり分かっている。しかし今はこれしかありません。これが あるだけで、しかも物の怪に妨害されなければならない。しかし発表する ところがありさえすれば、私は放しません。 」 ( 「 『魯迅景宋通信集』二四』」、 1925・5・30) ― 9 ― 「我還不能〈帯住〉 」 (1926・2・3、 『華蓋集続編』)で次のように言う。 「私自身も、中国で私の筆は比較的切っ先の鋭いものであるとしなければ ならないし、話もときには容赦のないものである、と分かっている。しかし 私はまた、人々がいかに公理と正義の美名、正人君子の徽章、温良敦厚の 仮面、流言や公論の武器と、口ごもりこみいった文章を用いて、私利私欲 をとげ、刀もなく筆もない弱者を息つくこともできなくさせたか、を知っ ている。もしも私にこの筆がなかったならば、欺かれ軽蔑され、訴えると ころもない一人であった。私はだから常にそれを用い、とりわけ麒麟の皮 の下から馬脚を現すのに用いなければならない、と自覚した。万一それら の虚偽の者たちが痛みを感じ、いささか覚り、技量にも限界があることを 知って、仮の面目を装うのを少なくするならば、陳源教授の言葉を借りれ ば、すなわち一つの『教訓』である。 」 ( 「我還不能〈帯住〉」、1926・2・3、 『華蓋集続編』 ) 魯迅は文筆が実際の武力(実力)に対しては無力であると考えた。しか し直接の武力に対してではなく、流言や「公論」に対して、そして軍閥権 力を背景にした流言や「公論」に対して文筆によって抵抗できる場合には、 それによって徹底的に抵抗しようとした。それは女師大事件、三・一八惨 案の経過をつうじて、魯迅が汲みとった知識人の役割についての一つの教 訓である *12。 (2)過渡的知識人(文学者)としての魯迅の生き方の追求 魯迅は、国民革命の高揚とその挫折(1927 年)をへて、革命文学論争の 中で 1928 年頃からマルクス主義文芸理論と本格的に接触し受容していく。 こうした過渡的知識人(文学者)魯迅の場合、何らかの形で中国変革をつ ねに展望した自らの生き方と、文学観のかかわり方において、1926 年から 1928 年にかけて次のような変化が見られる、と思われる。この点について 1926 年、27 年を中心にして概略を述べておきたい。 ①魯迅は(時期は異なるが、有島武郎と同様に)、1926 年 27 年頃、自ら ― 10 ― が労働者階級に属するものではなく、また階級移行は不可能である、と考 えた。両者は、そのため変革の過程において、労働者階級の側に直接的に 関与するのではなく、矛を翻して自らの属する階級を批判・攻撃すること を選択した。それは、魯迅が労働者階級に対する自己限定的な連帯の立場 をとった、と言えるものと考える *13。 のち 1929 年頃、魯迅は知識人等の階級移行を認め *14、革命における知識 人の独自な役割を認めている *15。 ②上のことと表裏の関係にある革命文学について、1926 年 27 年頃、魯迅 は、革命人が文章を書けば、その文章は革命人の意識に裏づけられて書か れるので、それが革命文学となるとした。*16。そして魯迅自らは、革命人 ではないことを痛切に自覚していた *17。 前述のように、のち 1929 年頃には、魯迅は知識人等の階級移行を認める ようになり、階級意識を獲得することをつうじて、知識人も革命文学を書 くことができる(十分条件ではないにしろ)と考え、また革命の過程にお ける知識人の独自な役割を認めるようになった。 ③ 1926 年 27 年頃、魯迅は自己(内部要求、個性)に基づく文学と宣伝 を、二律背反の関係にあるものと考えた。しかし 1928 年以降魯迅は、文学 を社会現象の一つとして位置づけて考えた。作者の主観的意図のいかんに かかわらず、世の中に出た文学は客観的な一つの社会現象であり、一つの 社会現象として社会に作用し影響する。それゆえ社会現象としての文学に おける宣伝の役割を認めるようになった *18。 ④ 1925 年 26 年頃、魯迅は文学が自己(内部要求、個性)に基づくもので あると考え、この自己に基づいた文学であればこそ、社会とのかかわりも ありうるとした(これも、有島武郎と共通する考え方である)。 1928 年以降、魯迅は、プロレタリア文学(革命文学)も自己(内部要求、 個性)に基づく文学であるとした。しかしプロレタリア文学は自己の心境 や印象等の狭い範囲に止まるものではない。魯迅は自己に基づく文学とい う前者の点で、プロレタリア文学にはそれ以前の旧い文学との共通点があ ― 11 ― る、文学としての両者の接点が存在するとした *19。 ⑤魯迅は 1926 年、27 年において、ロシア過渡期知識人としての一部の作 家(例えば、ブローク、エセーニン、ソーボリ)が 1917 年のロシア革命の 進行と成功という実際の過程の中で、破滅しあるいは自殺した人生に深い 関心を寄せた *20。 以上のように、1926 年、27 年 4 月 12 日(四・一二クーデター)以前に おいて、魯迅は国民革命の高揚期にあって、文学と現実社会の関係をどの ようにとらえるのか、自分の生き方はどこにあるのか等を追究する思想的 な模索の時期にあったと思われる。そして厦門から広州に移った 1927 年 1 月頃、国民革命の「策源地」広州における教育界の教員・学生の状況は、 国民党の左派右派の勢力が陰に日に衝突し闘争しているものであった。北 京の軍閥政府支配下の学生たちの意識が鋭くとぎすまされたものであるこ とに比べると、国民政府下の広東の学生運動は真剣さに鈍いものがあっ た *21。「革命の策源地」広州社会は、下からの革命が行われた社会ではな く、上からの革命が行われた社会であった *22。旧社会の社会意識が必ずし も克服されてないような社会、軍人と商人が支配する社会であった *23。 そして魯迅は、1927 年四・一二クーデター(広州に波及するのは 4 月 15 日)を体験し、それ以後、蒋介石が実権を握る南京国民政府の「革命」に よる圧制と支配に直面し、1927 年 10 月、わずかな文学活動の余地の残され た租界のある、上海に逃れた。 ここでは 1926 年、27 年の国民革命の高揚と挫折という政治的激動の中 で、魯迅における過渡的知識人(文学者)としての生き方の追求とその変 容に若干触れた。 3、軍閥権力と結託する知識人(上等人) 1925 年の「犠牲謨」 ( 『語絲』第 18 期、1925・3・16、『華蓋集』)は偽善 的な知識人の批判であり、 「戦士和蒼蠅」 (1925・3・21、『華蓋集』)は孫文 の欠点をあげつらう守旧派知識人等に対する諷刺と思われる。当時の魯迅 ― 12 ― による伝統的国民性の悪批判は、目覚めぬ鈍麻した民衆に対する批判(『野 草』 、 『彷徨』 、 『華蓋集』等に表現される批判)であるとともに、偽善的知 識人、守旧派知識人や、軍閥権力と結託した知識人批判(女師大事件にお ける陳源、徐志摩等に対するような批判)として現れている *24。 女師大事件が表面化して、魯迅がこの事件に関わることになる 1925 年以 降、学生側に立つ魯迅と、軍閥政府当局の支援を受ける楊蔭楡校長の側に 立つ陳源・徐志摩等との論争は熾烈なものとなった。陳源等に対する言及 は、1925 年から 1927 年にいたるまで、魯迅の多数の雑文や『朝花夕拾』 (北 京未名社、1928・9)における回想文(例えば、 「狗・猫・鼠」〈1926・2・ 21〉 、 「 『二十四考図』 」 〈1926・5・10〉等)にも及ぶ *25。 「一点比喩」(1926・1・25、 『華蓋集続編』 )で魯迅は、山羊のように羊 (民衆)を従順に導く知識人について述べる。 「山羊はめったにみない。これは北京でかなり貴重なものという。羊に比 べて利口なので、羊の群れを導くことができ、群れはすべてそれに従い、進 んだり止まったりする。そのため牧畜家はたまたま数匹を飼うけれども、 羊の導き手にするだけで、決してそれを殺そうとはしない。(中略) 人の群にもこのような山羊がいる。大衆を穏やかに静かに歩いていか せ、彼らが行くべきところまで導く。袁世凱はこのことをすこし理解して いた。惜しいかな、使い方があまりうまくなかった。(中略)二十世紀もす でに四分の一がすぎ、必ずや首に鈴をさげた聡明な人には幸運がめぐって くるだろう、いま表面的にはいささか小さな挫折を免れないけれども。 そのとき人々は、とりわけ青年は、規則に従って騒ぎもせず浮つきもせ ず、一心に〈正しい道〉に向かって前進する、もしもこう尋ねる人がいな ければ― 『どこへ行くのか?』 」 ( 「一点比喩」 、1926・1・25、『華蓋集続編』) 従順な羊を〈正しい道〉に導くこと、これが「山羊」(軍閥権力と結託した 知識人)の役割である。しかも彼らは、何か〈正しい道〉を信じたり、何 か「公理を維持する」とかを心の中で本当に考えているのではない、 「芝居 ― 13 ― をする虚無党」である。 「国故を保存するとか、道徳を振興するとか、公理を維持するとか、学風 を整頓するとか……心の中で本当にこのように考えているのだろうか。芝 居をするとき、舞台のそぶりは、必ずや舞台裏の面目とは違っている。し かし観客は明らかに芝居だと知っているけれども、様が似ているのであ れば、そのために悲しんだり喜んだりできる。そこでこの芝居は続けられ る。誰かがそれを暴くと、彼らはかえって興ざめに思う。」 (「馬上支日記」、 1926・7・2、 『華蓋集続編』 ) 「中国の一部の人、少なくとも上等人を見てみると、神・宗教・伝統の権 威に対して彼らは、 〈信じて〉 〈従って〉いるのか、それとも〈恐れ〉〈利 用して〉いるのだろうか。彼らが変化に長けていること、いささかも優れ た品行がないことを見さえすれば、彼らは何ものも信ぜず従わず、しかし 内心とは違ったそぶりをしようとしていることが分かる。虚無党を捜そう とすれば、中国では大変少ない。ロシアとは異なるところは次の点にある。 彼らはこのように考えれば、このように言い、このようにする。しかし私 たちのはこのように考えるけれども、あのように言う。舞台裏ではこのよ うにするが、舞台ではまたあのようにする……。こうした特殊な人物を、 べつに〈芝居をする虚無党〉あるいは〈体面をつくろう虚無党〉と呼ぶ。」 (「馬上支日記」 、1926・7・2、 『華蓋集続編』 ) 魯迅は、中国の上等人(支配階級と、それに結託する知識人)が、 「芝居を する虚無党」であることを指摘する。後に、魯迅は 1927 年四・一二クーデ ターのときの、国民党右派の裏切り( 「芝居をする虚無党」の裏切り)に対 する深い憤りを述べている *26。 「薬屋には帳簿机に外国人が一人坐っているだけで、あとの店員はみな若 い同胞であり、服装が清潔できれいだった。どうしてか知らないが、私は突 然十年後、彼らはすべて高等華人に変わるであろうと感じた。自分はいま むしろ、下等人の感がある。 」 ( 「馬上日記」 、1926・6・28、『華蓋集続編』) 「こうした同胞に対処するに、ときにあまりにも礼儀正しいのはよろしく ― 14 ― ないと思う。そこで瓶の栓を開け、目の前ですこし飲んでみた。 『間違っていないでしょう。 』彼は利口で、私が信用していないのが分 かっている。 『ウ。 』私はうなずき同意した。実際は、やはり正しくない。私の味覚は 麻痺しているほどではない。今回のは酸っぱすぎると感じた。彼はメート ル・グラスさえもいい加減に使っている。 」 ( 「馬上日記」、1926・6・28、『華 蓋集続編』 ) これを、『吶喊』の時期の「無題」 (1922・4・12、『熱風』)におけるチョ コレート・アプリコット・サンドウィッチ売りの屋台の商人(民衆)と比 べてみる。この屋台の商人の純朴さに対する語り手の反応と内省に比べる と、 「高等華人」の卵のいい加減な仕事とそれに対する反感は雲泥の差があ る。未来の「高等華人」 (軍閥権力と結託し、 「芝居をする虚無党」の上等 人になるであろう)に対する批判と反発に充ちている。 四、まとめ この第Ⅱ章において、 『朝花夕拾』の諸作品を中心として、魯迅の民衆像 と知識人像をそれらの変遷過程の視点から見た。 『朝花夕拾』の作品には、 「狗・猫・鼠」 (1926・2・21) 、 「阿長与山海経」(1926・3・10)、「無常」 (1926・6・23) 、 「従百草園到三味書屋」 (1926・9・18、これ以後の作品は 厦門で書かれる) 、 「藤野先生」 (1926・10・12) 、 「范愛農」(1926・11・18) 等がある。 民衆像・知識人像の変遷過程という視点から大まかに見ると、 『朝花夕 拾』前半(1926・2・21―6・23、 「狗・猫・鼠」から「無常」まで、北京に いた時期に含まれる)において、現実のあるがままの民衆像を確認すると いう作業が魯迅によって行われた。また後半(1926・9・18―11・18、「従百 草園到三味書屋」から「范愛農」まで、厦門にいた時期に含まれる)にお いて、過渡的知識人の生き方に対する模索がなされた、ととらえることが できる。 ― 15 ― 1、1925 年 26 年は、魯迅の民衆像から言えば、変化が生じた一つの時 期、一つの転換期であった。民衆の置かれた社会的歴史的状況を述べ、ま た農民革命軍ともなりえる民衆の潜在力を認めた。 2、1926 年三・一八惨案により、魯迅は中国変革の当面の緊急を要する、 最大の変革の課題が、軍閥の支配権力を打倒することにあることを認識し た。国民性の変革の課題は次要の位置に退いた。同時に横暴・凶暴な軍閥 権力と結託する知識人に対する激しい憎悪をもった。 上記の1、2の理由によって、魯迅は 1926 年から故郷の民衆の中におけ るあるがままの民衆像を模索しようとし、軍閥権力と結託する知識人に対 する憎悪を語った。それは特に、北京時代に書かれた『朝花夕拾』前半を 中心とする。すなわち魯迅の民衆観は、 「 『人道主義』と『個人的無治主義』 という二つの思想の起伏消長」 ( 「 『魯迅景宋通信集』二四」 、1925・5・3、 前掲)の過程を構成する一環であるという性格を脱却しつつあった。 3、女師大事件での軍閥政府を後ろ盾とする校長側との抗争、1926 年 3 月 18 日の軍閥政府による惨案とブラックリストの漏出等があり、魯迅はこ うした闘争の生活の疲れを癒し、恐怖の生活から避難しようとした。その ため、自ら「休養」 (1926・6・17、李秉中宛て書簡)と位置づけて、厦門 大学に赴任した。その後、1927 年 1 月以後、広州の中山大学に移る。厦門 における「休養」状態から、広州における再び抵抗と戦闘の生活に再起し ようとする過程で、 『朝花夕拾』後半の知識人を中心とする作品には、過渡 的知識人としての自らへの激励と范愛農・先烈等に対する負い目が語られ た。 こうした過渡的知識人としての生き方に対する模索の背景には、三・一 八惨案における魯迅の経験と、国民革命の高揚、とりわけ 1926 年 7 月から の北伐の開始によって、広東から国民革命軍が軍閥を打倒しつつ破竹のよ うに進撃した情勢が存在した。 しかしそれにもかかわらず、1926 年 27 年前半の「革命の策源地」広州の 社会が、理想とはほど遠い、国民党の左右両派が闘争する社会、軍人と商 ― 16 ― 人の支配する社会、上からの革命が行われた旧態依然とした旧意識形態の 支配する旧社会であったという事情があり、1927 年 1 月広州到着以後、そ れが魯迅の心に濃い陰影を与えた。 1927 年 4 月 12 日、上海で、国民革命の挫折に向かっての決定的なクーデ ターが起こる。 以上、第Ⅱ章で述べてきたことを概略して言えば、1926、27 年前半の間、 魯迅は基本的に過渡的知識人として生き方の模索・探求の時期にあったと 思われる。 注 *1:その後、私が目をとおした小論の主題に関する論文等を次に掲げる。以下適 宜に、小論の中で具体的に言及することにする。 〔中国語文献〕 ①「第一次到魯迅先生的新屋作客」(兪芳、『我記憶中的魯迅先生』 、浙江人民出 版社、1981・10) ②「21 世紀魯迅『朝花夕拾』研究新趨勢」(叢琳、 『回顧与反思―魯迅研究的前 沿与趨勢』、上海三聯書店、2010・4) 〔日本語文献〕 ①『仙台における魯迅の記録』(仙台における魯迅の記録を調べる会、平凡社、 1978・2・24) ②「魯迅の仙台時代」(渡辺襄、『魯迅と仙台』、東北大学出版会、2005・8・30、 改訂版) ③「医学から文学へ」(阿部兼也、『魯迅と仙台』、東北大学出版会、2005・8・30、 改訂版) ④「『魯迅と仙台』の研究略述」(黄喬生、 『魯迅と仙台』 、東北大学出版会、2005・ 8・30、改訂版) ⑤「魯迅の解剖学ノートについて」(浦山きか、 『魯迅と仙台』 、東北大学出版会、 2005・8・30、改訂版) ⑥「『小にしては中国のため、…大にしては学術のため…』は藤野先生の言葉」 ― 17 ― (大村泉、『魯迅と仙台』、東北大学出版会、2005・8・30、改訂版) ⑦「魯迅『藤野先生』について―『藤野先生』(1926 年)は「回想記的散文」 (史実)かそれとも作品 ( 小説 ) か?」(大村泉、『季刊中国』第 86 号、2006・9・1) ⑧「魯迅医学筆記から読み解く小説『藤野先生』」(坂井建雄、 『季刊中国』第 88 号、2007・3・1) ⑨「魯迅の解剖学ノート―藤野先生から指摘された『美術的』解剖図について」 (刈田啓史郎、『季刊中国』第 88 号、2007・3・1) ⑩「魯迅の『解剖学ノート』に対する藤野教授の添削について」 (阿部兼也、 『藤 野先生と魯迅―惜別百年―』、東北大学出版会、2007・3・23) ⑪「魯迅と藤野先生の 19ヶ月(1)―仙台医学専門学校入学の前後」(坂井建 雄、『季刊中国』第 90 号、2007・9・1) ⑫「魯迅『藤野先生』と〈虚構論〉」(福田誠、『季刊中国』第 90 号、2007・9・1) ⑬「魯迅と藤野先生の 19ヶ月(2)―藤野先生の添削が始まる、1 年次の 1 学期」 (坂井建雄、『季刊中国』第 91 号、2007・12・1) ⑭「魯迅と藤野先生の 19ヶ月(3)―解剖図の添削をめぐって〈1 年次の 2 学期 と 3 学期〉」(坂井建雄、『季刊中国』第 92 号、2008・3・1) ⑮「魯迅と藤野先生の 19ヶ月(4)―2 年次の 1 学期と 2 学期、退学に至るまで」 (坂井建雄、『季刊中国』第 93 号、2008・6・1) *2: 「魯迅『孤独者』覚え書」(『名古屋大学中国語学文学論集』第 3 輯、名古屋大 学文学部中国文学研究室、1979・2、後に『魯迅探索』 〈汲古書院、2006・1・10〉 の第 6 章として収める) *3: 「魯迅の印象」(増田渉、『魯迅の印象』、角川書店、1970・12・20)は次のよ うに指摘する。 「たぶん私が彼に向かって、中国の文学を勉強するにはどんな本から読んだらい いかとでもきいたものだろうが、彼は自分の幼少年時代の思い出を書いた『朝花 夕捨』という本をくれた。(中略)『朝花夕捨』は彼の幼少年時代(および日本に 留学していたころ)の彼とその周囲を回憶したもので、なかんずく、中国の生活 的風習と、その中に生長するものの幼い夢をふりかえったものである。他国から 来た私に、そして中国のことを勉強しようとしている私に、まず何よりも先に中 国の生活的風習とその雰囲気を知らせようとの用意からであったのだと思う。 」 *4:魯迅は「『魯迅景宋通信集』一二」(1925・4・14、 『魯迅景宋通信集』 、湖南 人民出版社、1984・6)で次のように言う。 「当時袁世凱と妥協して病根を植えつけましたが、実際はやはり党人の実力が充 ― 18 ― 実していなかったからです。ですから前車の轍に鑑みて、こののち第一に重要な 計画は、やはり実力の充実にあり、このほかの言動は、ただすこし補佐すること ができるだけです。」 *5:魯迅は、「中山先生逝世后一周年」(1926・3・10、 『集外集』 )で孫中山の革 命の事業に劣らず、感動したこととして次のことをあげる。孫中山は、西洋医が 手をつかねていたとき、ある人が漢方医の薬を服用することを勧めた。孫中山は それに同意せず、中国の薬はもとより効果がある、しかし診断の知識が欠けてい る。診断できないのに、どのように薬を用いるのか、とした。人が死に瀕したと きは、たいていは何でも試すであろう、しかし孫中山は自分の生命についても、 明晰な理性と硬い意志があったとする。 「父親的病」(1926・10・7、『朝花夕拾』)で、語り手魯迅の父親は長患いの中 で漢方医の治療を受け、死の淵にいたって、漢方医の勧める薬を断り、前世の因 縁という話を拒絶している。前に引用する一文と比較すると、ここには父親の強 い精神に対する語り手の敬意がこめられていると解釈できる。 *6: 「第一次到魯迅先生的新屋作客」(兪芳、『我記憶中的魯迅先生』 、浙江人民出 版社、1981・10)は、1924 年(6 月 8 日、『魯迅日記』〈 『魯迅全集』第 14 巻、人民 文学出版社、1981〉)、兪芳姉妹が魯迅の新居(西三条胡同)を訪れたときのこと を次のように記す。 「私たちは先生の寝室に入った、それは〈虎の尾〉と称されているあの部屋であ る。ここで最も注意を引いたのは、窓の大きいこと、北側から光が入り、採光の 良いことであった。私は、先生の机の前の壁に、見知らぬ人の写真がかけてある のに気がついた。私は先生に、これは誰の写真ですかと尋ねた。以前私は見たこ とがなかった。先生は私たちに教えてくれた。これは彼が日本で勉強していたと きの先生で、藤野先生である、と。彼は、藤野先生の人となり、教育の事業に熱 心であったこと、とりわけ藤野先生の彼に対する配慮、彼のためにノートを添削 し、ノートの文法の誤りさえも直してくれたこと、別れに臨んで写真を贈ってく れたこと等の経緯を私たちに話して聞かせた。その話しぶりの中に藤野先生に対 する限りない尊敬の心情が表れていた。 そのとき『藤野先生』の文章は、まだ書かれていず、この文章についてずいぶ ん長く構想を温めていたことが分かる。」 *7: 『仙台における魯迅の記録』(前掲、平凡社、1978・2・24) 「第三章 在学時代 の周樹人」の「二 同級生の談話」に次のように藤野先生に関する鈴木逸太氏の 談話が記録されている。 ― 19 ― 「 『ええ、これはあの、今のノート事件で私が行った時に、ぼくは何もそういう ことはないんだ。今、小にしては中国のため、またひとつは、やはり医学をその 中国へ広げたいという考えから、ぼくはやってるんだ。そういうふうなことを話 しましたな。』(中略) 『ええ、藤野先生の口からそういったのですから、私らに』 ―ですからこういう藤野先生のお考えは魯迅も聞いていたと思うんですが。 『ええ、そうですね。ぼくはそういうつもりで、彼を一生懸命親切にしてやった んだと言っていました』」 また、同書「第四章 藤野先生」の「四 藤野先生と周樹人」では次のように指摘 する。 「鈴木逸太氏が、試験問題漏洩の噂を先生に知らせた際、先生は、そのような噂 を否定し、自分が周樹人を指導しているのは中国の為であり、学問の為であると 言ったという(178 頁)。それはちょうど『藤野先生』にある『小にしては、中国 のためであり中国に新しい医学がもたらされることを希望し、大にしては、学術 のためであり、新しい医学が中国に伝わることを希望した』という言葉と符合す るものであった。」 *8:魯迅は、厦門を離れたあとの生活について、 「『魯迅景宋通信集』 九五」 (1926・ 11・28、『魯迅景宋通信集』、湖南人民出版社、1984・6)で次のような決意を述 べる。 「この地を離れたあと、必ず私の農奴生活を改めなければなりません。社会方面 のために、私は教育にあたるほか、或いは依然として文芸運動を継続するか、或 いはさらに良い仕事か、直接会ってから決めます。いま HM〔害馬のこと、許広 平を指す―中井注〕の方が私よりずいぶん決断に富んでいると思います、私は この地に来てから、全く空虚を感じて、もう何の意見ももたないかのようです。 」 *9:「魯迅『藤野先生』の執筆意図について」(白井宏、 『香川大学国文研究』第 15 号、1990・9・30)は次のように指摘する。 「問題は、 『藤野先生』執筆の内的欲求が、何に起因するかである。筆者には、前 に述べた、許広平や許寿裳宛の書簡から読み取れる、 〈正人君子〉たちに対する 憎悪の念のこの時期における急速な高まり以外にはない、と思われる。 」 しかし私には、この作品の意図は魯迅が国民革命の高揚を背景として、厦門の 「休養」状態から再び広州での奮闘の生活に入ろうとする自らを、藤野先生とい う知識人の生き方・たゆまぬ教えを回顧することによって、励ましたものと考え る。そして軍閥と結託する〈正人君子〉とは、これからも対決し闘わなければな ― 20 ― らない典型の一つとしてここに登場していると理解する。 *10:魯迅の〈中間物〉という規定について、私は『魯迅探索』 (汲古書院、2006・ 1・10)の第 3 章「魯迅の復讐観について」の注 32 で、汪暉氏( 「歴史的“中間物” 与魯迅小説的精神特徴」、『文学評論』1986 年第 5 期)の考えを取りあげ論じた。 私の場合はむしろ、 「魯迅の“歴史的中間物意識”について」 (丸尾常喜、 『学人』 第 1 輯、江蘇文芸出版社、1991・11)における、「自己肯定と自己否定とを共存さ せた冷静な認識」という解釈に賛成する。 *11:「『魯迅景宋通信集』一二四」(魯迅、1927・1・11、 『魯迅景宋通信集』 、前 掲)で次のように言う。 「彼ら〔高長虹等を指す―中井注〕はうわべは新思想であるかのようですが、 実際はみな暴君酷吏であり、探偵、小人です。もしも彼らに気兼ねするならば、 彼らはさらにつけあがるでしょう。私は彼らを軽蔑するようになりました。私は ときには自ら恥じて、あの人を愛する資格がないと心配しました。しかし彼らの 言動思想を見てみると、私も決して悪い人間ではない、私は愛することができる と思います。」 *12:これは文筆が作用しうる分野を明確に限界づけたものと言える。文筆は武 力に直接に抗することには微力であるが、しかし武力を背景とした言論に抗する ことができる。この意味で、「革命時代的文学」(1927・4・8 講演、 『而已集』 )に おける革命的武力の作用を正当に評価する発言につながると思われる。 *13: 「魯迅と『壁下訳叢』の一側面」(『大分大学経済論集』第 33 巻第 4 号、1981・ 12・21、のち『魯迅探索』〈汲古書院、2006・1・10〉の第 10 章として所収)で、 この点について論じたことがある。 *14:魯迅は階級移行が可能であることについて、「現今的新文学的概観」 (半月 刊『未名』第 2 巻第 8 期、1929・4・25)で次のように言う。 「こちらの階級からあちらの階級に移るのは、もちろんありうることです。しか し最も良いのは、意識がどのようであるのか、一つ一つ率直に言って、大衆に見 てもらい、敵であるか友であるか、はっきりさせることです。頭にたくさんの古 い残滓を留めながら、わざと隠して、芝居のように自分の鼻を指して、 『われだ けが無産階級である』と言うことはあってはなりません。 」 馮雪峰は、『回憶魯迅』(人民文学出版社、1952・8、底本は、 『魯迅巻』第 8 編 〈中国現代文学社編〉)で、1929 年に魯迅が階級移行の可能なことを述べたことを 次のように伝える。 「 『……実際、将来は無産階級の天下であることを見きわめて、まったくの利害 ― 21 ― から考えて駆けつけるのも、どうしていけないことがあろうか。利害を説くこと は、革命を汚すこととは言えない。小資産階級やたいへん高貴な文学者が、あら かじめ自身の利害から考えて、〈大衆を獲得〉しようとするのも、小資産階級と 革命文学者を汚すことではない。真理のあるところを理解して、マルクスの言う ように、階級を移行するのは、もちろん良いことだ。あるいは自分も圧迫を受け たために、反抗するために、あるいはただ良心のために、被抑圧者を助けたいと 願うことはもちろん良いことだ。しかし自身の将来の利害からでも、いけないこ とは何もない。利害を喝破したのは、小資産階級の精神を暴いたこととは言えな い。ただ、本当に自分が見きわめたと信じているのか、を問わなければならない。 ……それにさらに身近な利害を見てみなければならない。最後の勝利は必然であ るが、しかしもしもまだ遙か遠くで、目下はむしろ生死存亡にかかわる闘争であ るならば、―どうするのか。これこそ本当に小資産階級の精神を見なければな らないことになる。……創造社の人たちは言う、小資産階級には二つの精神があ る、と。私も確かだと思う。それで、暗黒の現状と闘争する勇気がなく、また良 心を指して資産階級の汚れた説教だとし、利害はまた動機の純粋性を損なうとこ ろがあると言う。そこでただむなしく〈正しい階級意識〉を語るだけの結果とな る……』」(24 頁) *15:この点は、「魯迅と『壁下訳叢』の一側面」(『大分大学経済論集』第 33 巻第 4 号、1981・12・21、のち『魯迅探索』〈汲古書院、2006・1・10〉の第 10 章とし て所収)で、この点について論じたことがある。魯迅は、青野季吉「知識階級に 就いて」(1926・3、『壁下訳叢』所収)等を翻訳することをとおして、革命的知 識人の独自な役割について認識を深めたと思われる。 *16:「魯迅と『蘇我的文芸論戦』に関するノート」(拙稿、 『大分大学経済論集』 第 34 巻第 4・5・6 合併号、1983・1・20、『魯迅探索』 〈汲古書院、2006・1・10〉 の第 9 章)、 「魯迅と『壁下訳叢』の一側面」(拙稿、 『大分大学経済論集』第 33 巻 第 4 号、1981・12・21、『魯迅探索』〈汲古書院、2006・1・10〉の第 10 章)でこ の点について論じたことがある。 *17:魯迅は「通信」(1927・9・3、『而已集』)で次のようにふり返って述べる。 「私の中山大学に行った本当の気持ちは、もともと教師となることにすぎなかっ た。しかし幾人かの青年たちが盛大に歓迎会を開いてくれた。私は良くないと分 かっていたので、最初の第 1 回目の演説で、自分は『戦士』とか『革命人』とか ではないことを声明しました。もしもそうであるならば、北京や厦門で奮闘して いなければならない。しかし私は『革命の後方』広州に身を隠しに来ている。こ ― 22 ― れこそ全く『戦士』ではない証拠である、と。」 *18:「魯迅と『蘇我的文芸論戦』に関するノート」(拙稿、 『大分大学経済論集』 第 34 巻第 4・5・6 合併号、1983・1・20、『魯迅探索』 〈汲古書院、2006・1・10〉 の第 9 章)、 「魯迅と『壁下訳叢』の一側面」(拙稿、 『大分大学経済論集』第 33 巻 第 4 号、1981・12・21、『魯迅探索』〈汲古書院、2006・1・10〉の第 10 章)でこ の点について論じたことがある。 *19: 「魯迅と『壁下訳叢』の一側面」(拙稿、 『大分大学経済論集』第 33 巻第 4 号、 1981・12・21、『魯迅探索』〈汲古書院、2006・1・10〉の第 10 章)でこの点につ いて論じたことがある。 *20:この間、魯迅はしばしばソビエト・ロシアの過渡期知識人の悲劇に言及す る。ブロークは 1917 年のロシア革命の波に飛びこみ、呑みこまれた。 「人は多く『生命の川』の一滴であり、過去を受け継ぎつつ、未来に向かうので ある。もしも尋常なものと異なるほどに真に傑出しているものでないのなら、す べて前に向かい後ろを振り返ることを、合わせもたざるをえない。詩『十二』に は、このような心を見てとることができる。ブロークは前に向かった。それで革 命に向かって突進した。しかし振り返った、そこで負傷した。 」 ( 「 『十二個』后 記」、1926・7・21、『集外集拾遺』) エセーニン、ソーボリはロシア革命の進展の過程の中で、生きていけなくなり、 自殺した。 「 『最大の社会改革の時代において、文学者は傍観者であることができない。 』 しかしラデックの言葉は、エセーニンとソーボリの自殺のために発せられたも のである。彼の『帰るべき家のない芸術家』一篇がある期刊に訳載されたとき、 私をしばらく思索にふけらせた。このことから私は革命前の幻想あるいは理想を もったあらゆる革命的詩人は、自分が謳歌し希望した現実にぶつかって死ぬ運命 をもつのであろうと知った。しかし現実の革命がもしもこの種の詩人の幻想ある いは理想を粉砕しないのなら、この革命も布告上の空談にすぎない。しかしエ セーニンとソーボリはひどく非難するほどでもない、彼らは前後して自分のため に挽歌を歌った、彼らには真実があった。彼らは自分の沈没によって、革命の前 進を証明している。彼らは結局傍観者ではなかった。 」 ( 「鐘楼上―夜記之二」、 『語絲』第 4 巻第 1 期、1927・12・17、『三閑集』) 『新潮』第 25 巻第 *21: 「魯迅を語る―北支那の白話文学運動―」(山上正義、 3 号、1928・3)で、山上正義は、魯迅が広州に到着した 1927 年 1 月から約 1ヶ月 ほど後の言葉を次のように紹介する。(旧字体を新字体に改め、旧仮名遣いを新 ― 23 ― 仮名遣いに改めた。) 「 『広東の学生も青年も革命を遊戯化しています。余りに甘やかされ過ぎていま す。真摯に見るべきものなく、真剣さの感ずべきものありません。むしろ常に圧 迫され、虐げられつつある北方の学生、青年の中にこそ真剣さがあり、真面目さ が見られます。 広東には絶叫、有頂天はあっても悲哀がありません。思索と悲哀のないところ に文学はありません、……』斯んな調子だった。」 『三 *22:魯迅は、(「鐘楼上―夜記之二」、『語絲』第 4 巻第 1 期、1927・12・17、 閑集』)で次のように言う。 「私が初めて広州に着いた頃、時には確かに安定した気分を感じた。数年前北方 では、いつも党人が圧迫されるのを目にし、青年が捕殺されるのを見たが、そこ に行くとすべて目にすることがなくなった。のちになってこれは〈上からの命令 を受けた革命〉の現象にすぎないことを悟った。」 *23:魯迅は「通信」(1928・4・10、『三閑集』)で次のように言う。 「 以上は私がまだ北京にいたときのことである、すなわち成仿吾のいわゆる、 〈真相を知らない立場におかれて〉小資産階級であったときのことである。しか しやはり文章を書くことに慎重でなかったため、ご飯の食いあげとなり、しかも 逃げださなければならなくなった。そのため〈無煙火薬〉が爆発するのを待たず に、転々として〈革命の策源地〉に逃げこんだ。数ヶ月暮らして、私は驚いた、 以前聞いたところはすべてデマであって、この所は、まさしく軍人と商人が支配 する国であった。」 *24:魯迅は中国の社会・文明に対する批判の必要性について次のように言う。 「私は早くから、中国の青年が立ちあがり、中国の社会・文明に対していささか の忌憚もなく批評することを希望していた。そのために『莽原週刊』を編集印刷 し、発言の場としたが、残念ながら話をする人は結局少なかった。ほかの刊行物 は逆に、たいてい反抗者に対する攻撃であり、これは実に私があえて続けていく ことを恐れさせるものであった。」(「『華蓋集』題記」 、1925・12・31) *25:陳源に対する言及は、晩年の「我的第一個師父」 (1936・4・1、 『且介亭雑 文末編』)にも現れる。 *26:馮雪峰は、『回憶魯迅』(人民文学出版社、1952・8、29 頁、底本は『魯迅巻』 第 8 編〈中国現代文学社編〉)において、1929 年前半における魯迅の発言を次の ように記す 「 『もしも、〈革命〉の広州でもあのような殺戮がありうることを予測できたか、 ― 24 ― と問う人がいるなら、私は率直に言う、まったく思いもよらなかった、と。私 も〈美しい夢〉を抱いて広州に行ったことはしばらく言うまい。そこでは、まだ 〈合作〉のときで、私はこの目でそうした顔つきを見たし、そうした誓いの言葉 を聞いた。私が世故にたけていると言うのなら、あらゆる世故は役に立たないだ ろう。……まだあまりにもまじめで、〈芝居をする虚無党〉を信じすぎ、大きな ペテンにかかってしまった……私はついに驚きのあまり呆然とした……血の代 償によって、得た教訓はこのペテンを理解したことだけだ。 』 」 また、『魯迅選集』第 7 巻(岩波書店、1956・9・22)「解説」 (増田渉)は次のよ うに魯迅の言葉を引く。 「 『国民党は有為な青年を陥穽に落としこんだ。初めは、共産党は機関車で国民 党は列車だ、革命は共産党が国民党を引っぱることによって成功するのだといっ た、あるいは革命の恩人だというのでボローヂン(当時、革命指導者としてソ連 からきていた)の前で学生一同に最敬礼をさせたりした。だから青年は誰もが感 激して共産党に入った。すると今度は突然、共産党なるが故に彼らを片端から殺 した。この点は旧式の軍閥の方がまだ人がいい。彼らは最初から共産党を容れず 最後までその主義を守った。彼らの主義が嫌なものはだから寄りつかないとか反 抗するとかすればいい。だが国民党のとったやり方はまるでペテンだ。その殺し 方がまたひどかった。たとえば殺すにしても脳天へ一発の弾丸を打てばそれで目 的は達せられるはずだのに、刻み斬りだとか生き埋めだとか、親兄弟までも殺し たりした。僕はそれ以来、人をだまして虐殺の材料にするような国民党はどうし てもいやだ。憎しみがこびりついてしまった。僕の学生をたくさん殺した。 』 」 ― 25 ― 繋辞の「ダ」と「である」 森 川 正 博 0.はじめに 繋辞の「ダ」に関する先行研究は数多くある(三上(1953)、鈴木(1972)、 池上(1977)仁田(1980, 1989) 、メイナード(2000)、Hiraiwa and Ishihara (2002) などを参照)。その「ダ」には、一般的に命題の主語と述語とを結び 付ける働きがある(池上(1977) 、仁田(1980) )。森川(2009)では、主 文と補文に表出する繋辞「ダ」の振舞いの異なりについて議論を重ね、記 述的一般化を提示すると共に、その理論的説明の方向性を示すことに努め た。このことは、次の例文を用いて具体的に表すことができる。 (1)a. 主文の「ダ」 : * 何が問題ダカ?[↗] b. 補文内の「ダ」 : 私は[何が問題ダカ]分かった。 (1a)の文頭の * 印は、文が非文法的であることを表し、文末の[↗]は、 上昇調のイントネーションを表す。この上昇調イントネーションを伴う文 は、話し手が疑問の気持ちを聞き手に伝え、それに対する説明や判断など の情報を求めようとする情報疑問文である。主文の繋辞「ダ」には、疑問 素性[+Q]を持ったモーダルの終助詞(本稿では、文末助詞と呼ぶ) 「カ」 による選択制限が作用するため、 (1a)は非文法的であるとした(森川 2009: 177) 。一方、 (1b)の補文内では、 「カ」は純粋に疑問性のみを表す 補文標識であることを示し、 「ダ」とは何ら選択制限は無いとしてきた(森 ― 27 ― 川 2009: 159) 。つまり、 (1a)と(1b)の対比は、 (I)文末助詞「カ」の 機能の異なりと(II)統語レベルでのモーダル機能の「カ」のみに作用す る選択制限にあるとした。 本稿では、森川(2009)の議論に、佐治(1991)、Morikawa (2003) の考 察するもう1つの繋辞「である」を組み入れ、 「ダカ」の非連続性に関す る理論的な説明を提示していきたい。また、 「ダ」と「である」の共通点、 並びに両者の構造上や用法上の相違点を明らかにしていきたい。具体的に は、(1a-b)と対比して、 「である」を用いた(2a-b)を主に見ていくこ とになる。 (2)a. 主文の「である」 : # 何が問題であるカ?[↗] b. 補文の「である」 : 私は[何が問題であるカ]分かった。 (2a)の文頭に付けた # 記号は、非文法性を表すのではなく、容認不可能 という判断を表す。言い換えると、 (1a)とは異なって、 (2a)の文は文 法的ではあるが、文法に外在的な談話的要因によって容認性が低くなって いる。一方、「である」は、 「ダ」と同様、補文内に問題なく生起できる。 本稿では、この「ダ」と「である」に関する観察を基に、 (1a)と(2a) の対比を理論的に説明することを試みる。その際、両者の内部構造並びに その範疇の相違が重要な役割を果たすことになる。 本稿は、次のように構成されている。第1節では、佐治(1991)の意味 分析を基に、「ダカ」の非連続性と「であるカ」の連続性を考察し、森川 (2009)の問題点をまとめる。第2節では、 「である」との対比を基にして 「ダ」の制約を提案し、森川(2009)の議論を完結させる。第3節では、文 末助詞「カ」を欠く繋辞疑問文において、疑問語の有無によって、なぜ文 法性が異なるのかという点を明らかにする。 ― 28 ― 1. 「ダカ」の非連続性について 主文末においては、 「ダ」に「カ」が後接できない。これについて佐治 (1991) は、意味の観点から、次の非常に興味深い考察をしている。話し手 の「断定の気持ちの強弱と、これら終助詞の表す態度とが矛盾しない場合 には終助詞はつき得るのであり、矛盾する場合にはつき得ないのだと思わ れる。」(23 頁)(引用文内の「これら」とは、 「わ」「とも」 「ぞ」 「ぜ」 「カ」 の文末助詞を指す。)ここで、 「ダ」は断定の気持ちが強いので、 「わ」 「と も」 「ぞ」「ぜ」には後接しても、 「カ」には後接できないことを示してい る。 (3)今日は良い天気ダ{わ/とも/ぞ/ぜ/ * カ} 。 同様の考察は、三枝(2000)でも見られる。 佐治はまた、佐久間(1952)に言及して、例文(4)に見られる文末助 詞「さ」が、「ダ」に後接できないことも述べている。1 (4)a. あれは青木のおやじさ。 b. あたり前さ。 (佐治 1991: 21) (4’)a. * あれは青木のおやじダさ。 b. * あたり前ダさ。 「さ」は聞き手を「 「つきはなして言う」ような気持ちを表すと考えられる。 これが断定の「だ」につかない点もそう考えることによって理解できるの ではないか。つまり、 「さ」は話し手が親切に断定を下してやることをしな いで、聞き手にぽんと投げ出し、あとは言わなくってもわかっているはず だと言う態度を表すものなのである。 」 (佐治 1991: 21)2 このように、佐治は文末助詞「カ」と「さ」は意味上、断定の「ダ」と は相容れないことを示している。しかし、佐治の意味分析は、断定の繋辞 「である」には適用できない。次の例文を見てみよう。 (5)a. ? 君は今もって学生であるカ?[↗] b. ? こんな暖かい日に、コートが必要であるカ?[↗] 断定の「である」に「カ」が後接する疑問文の判断は、文頭の ? 記号で示 ― 29 ― したように、不自然さが見られるものの、文法的である。その理由は、3 点考えられる。まず、 「である」自体は、話し言葉ではなく書き言葉であ り、専門書・論文などの客観性が求められる文でよく用いられる。3 つま り、書き言葉を話し言葉として使用することに不自然さが現れると考えら れる。 第2点目は、適切な文脈を想定しにくいということにある。 (5a-b)を、 例えばワンマンの会社経営者がその部下に高飛車に言うという場面を設定 すると、容認度が上がると思われる。このことは、(5a-b)を敬体の形に した(6a-b)が、ある特殊な状況で用いられたという事実から明らかであ る。その特殊性については、松村(1995: 1719)に、 「… 明治以降は男性も 用い、演説などやや改まった言い方として用いられた。また、軍隊用語の 一つの特徴ともなった」と記述されている。 (6)a. (?) 君は今もって学生でありますカ?[↗] b. (?) こんな暖かい日に、コートが必要でありますカ?[↗] 最後に第2点目と関連するが、 「である」の書き言葉に対応する話し言葉 の敬体表現として、丁寧語「ございます」があり、それを用いた(7)で は不自然さがなくなる。よって、 (5a-b)の文法性判断は、受け入れられ るものである。4 (7)こんな暖かい日に、コートがご入用でございますカ?[↗] ここまでをまとめると、疑問文(5a-b)において、繋辞「である」はそ の機能上、必須の要素ではあるが、その書き言葉としての常体の形、つま り、形態と音に問題があるということである。 更に、「である」に「さ」が後接することもできる。このことは、イン ターネットで検索した次の例文で確認することができる。 (8)a. もし、全然知らない人であったら今年最大の驚きであるさ。 www.cs.kyoto-wu.ac.jp/~k005077/diary/0207.html b. 一生楽でもありゃあ、苦でもあるさ。 merulog.jp/syasya/QXSRpAgWPuhM ― 30 ― すると、断定の繋辞「ダ」に文末助詞「カ/さ」が後接できない理由は、 意味的に相容れないということであったが、それに加えて他の要因も関わ るということになる。この「意味的に相容れない」という要因は、森川 (2009)では次のように説明した。主文(1a)の構造(9)において、疑 問要素を持った、構造上、上位の「カ」は、文末助詞「よ」 「や」 「ね」 「で す」など、文を発話する際の話し手(Speaker)による聞き手(Hearer)に 対する心的態度、つまり、発話伝達態度のあり方を表すモーダル (ModSH) であり、これを対人的モーダルと呼んだ(詳細は、森川(2009)とその参 考文献を参照)。そして、野田(1997)に従い、 「カ」は、 「ぞんざいさ」を 表すモーダルであるとした。例えば、 「もう行くカ?」は、 「もう行く?」 と比べてその容認性に差はないが、ぞんざいさが表出している。 5 その モーダル「カ」 (「カ[+Q]」 )が、 [+Q]を主要部に持った ForceP を選択し ても、その主要部 Force は繋辞「ダ」を選択しないとした。SC は小節で、 その小節は時制辞を含まない主語と述語の要素から構成されている。この 「ダ」が統語上、小節1項を取る構造は、Hasegawa (1997) に従う(Morikawa (2003) を参照)。 (9) ModP SH ForceP IP SC I 何が問題 ダ Mod SH Force カ [+Q] [+Q] これに対し、疑問文(1b)の補文内の構造(10)では、 「カ」にはぞん ― 31 ― ざい性が感じられないことから、それはモーダルではなく、疑問性のみを 表す補文標識 C と捉えた。そして、その C は、繋辞「ダ」とは選択・被選 択の関係にないとした。 (10) VP CP IP SC V C I 分かる カ [+Q] 何が問題 ダ 主文と補文内の「ダカ」の連鎖の判断に関する相違は、 「カ」がモーダルで あるか否かで、そのモーダルに関わる「ダ」は排除されるとした。しかし、 統語上の補文標識「カ」と繋辞「ダ」との関係を排除はできないので、異 なるレベルでの制約が作用すると改めなければならない。従って、次節で は、「である」とも並行してこの点を考察していきたい。 2. 「ダ」の制約 前節で見たように、 「ダ」と「である」には、後接する要素において違 いがある。「である」とは違って、 「ダ」に付けられない要素は、文末助詞 「カ」「さ」の他に、次の例文に見られる助動詞もある。6 (11)a. ジョンは病気{* ダ/である} {かもしれない/らしい/にち がいない} 。 b. 太郎は明日来る{かもしれない/らしい} 。 「かもしれない」は不確実さを表し、 「らしい/にちがいない」は推量を表 ― 32 ― す助動詞である。これらは、命題や事態に対する話し手の提案・判断など の心的態度を表すことから、森川(2009)では「対事的モーダル」である とした。これらのモーダルは、 (11b)にあるように、普通の動詞に後接 させることができる。 さて、 (11a)内の不確実さを表すようなモーダルの前では、 「ダ」は生 起できないが、「である」は生起できる。この事実をふまえると、 「ダ」と 「である」が持つ繋辞としての意味だけでは、両者の違いを説明することは できない。そこで、1つの解決策を見出すには、両者の統語情報に基づく 音韻レベルにも目を向ける必要があると考える。 基本的には、 「ダ」も「である」も、命題の主語と述語を結び付ける働き がある(「のダ」構文のように、そのような働きをしない「ダ」もあるが、 このタイプの「ダ」については第3節で議論する) 。例えば、例文(12a) において、主語 「太郎」 と述語「健康」が繋辞によって結び付けられてい る。 (12)a. 花子は[太郎は健康{ダ/である}と]思っている。 b. * 花子は[太郎は健康[PC で] [V ∅] [I る]と]思っている。 前述したように、統語上「ダ」は、時制辞を含む屈折要素 I に位置し、小節 を補部に取る。また、従来、 「である」も類似した構造を持つとされてきた が、ここでは繋辞「ダ」に対応するのは、時枝(1950) 、松下(1951)、北 原 (1981) 、Morikawa (2003) に従い、時制辞を持たない叙述要素 (Predicative Copula,“PC”)の「で」と仮定する。すると、PC「で」に後接する時制辞 「る」が残留するため、 (12b)で示したように、そのままでは非文法的 となる。そこで、時制辞残留を回避するために、 「である」の構造(13) で示すように、意味内容を欠く形式動詞「ある」 (正確には、/ar/)が音韻 レベルで挿入されることになる。7 このことは、生成文法の枠組みでは Urushibara (1993)、Nishiyama (1999) などで、英語の do 挿入と同様の現象で あると捉えられている。具体例で示すと、*He[I -s]not eat apples では、現 在時制辞 -s が残留するので、do が I に挿入され、He[I does]not eat apples と ― 33 ― 適切な形となる(詳細は、Morikawa (2003) を参照) 。 (13) 「である」: IP I’ VP PCP SC 主語・述語 I V PC ru ar で 「ダ」も「である」も機能上、繋辞の働きをするという点では同じだが、 上で見たように、それぞれを構成する範疇においては異なる。 「ダ」は現 在時制を含む屈折辞である一方、 「である」は PC「で」と、音韻レベルで 挿入された形式動詞 /ar/ と、時制辞 /ru/ の連鎖である。また、繋辞「であ る」は、前述したように、通常の動詞の統語的振舞いと同じ(つまり、動 詞の類)であるので、 「ダ」に問題があると考えられる。そこで、断定性を [aff(irmative)]という素性で表して、音韻レベルでの次のような「ダ」に関 する制約を提案したい。 (14)繋辞「ダ」の制約: *[I ダ ] [Mod -aff] この制約は、繋辞「ダ」が非断定的なモーダル要素に前接できないことを 表す。つまり、これは、繋辞「ダ」の特殊性を示す制約である。 この制約によって、例文(1a-b)と(2a-b)で見た「ダ」と「である」 の生起の問題に対し、説明が可能となる。8 モーダルの「カ」が付いた ― 34 ― (1a)は、上の制約に抵触する一方、C の範疇である「カ」が付いた(1b) には、この制約は適用されない。また、その範疇が何であれ、「である」 には(14)の制約が適用されない。このように、(2a)は、生成できて も(1a)は生成できない。また、主文と補文内の繋辞「ダ」の生起の違い は、後接する「カ」の範疇の違いによって明らかとなるが、この点は、森 川(2009)の文末助詞「カ」についての見解を踏襲するものである。 (1a-b)、 (2a-b)の説明において、制約(14)は、森川(2009)と2 点異なる点がある。まず、 「ダカ」の非連続性を取り扱っているだけではな く、例文(11)で見た[-aff]素性を持つ助動詞の対事的モーダル(「かも しれない」「らしい」など)が、繋辞「ダ」に後接できないことも取り扱っ ている。第2点目は、 「ダカ」の連続の非文法性を、統語レベルのみで説明 するのではなく、統語情報を含めた音韻レベルで説明している点である。 例文(1a)は、音韻レベルで排除され、非文法的という判断が下される。 もし「ダ」の替わりに空繋辞を用いれば、音韻レベルの問題が取り除かれ るため、文は文法的なものとなる。ただし、その容認性においては、まだ 低い。 (15)# 何が問題 ∅ カ?[↗] これは、森川(2009: 99)で示したように、余剰性回避の原則(16)に抵 触しているためである。 (16)余剰性の回避(Avoid Redundancy,“AR” ) 形態的余剰性を回避せよ。 (15)の例文では、疑問語「何」と文末助詞「カ」が共起することが「疑 問性」という点に関して余剰で、AR の原則に抵触している。ただし、Grice (1975) に従い、談話上、必要な情報が加われば、この原則は作用しない。 ここでは、 「カ」の持つぞんざいさを打ち消す(又は、弱める)働きのある 対人的モーダル(丁寧の「です」や確認の「ね」など)は、談話上、必要 な情報であると考えられるので、 (15’a-b)で示すように、文の容認性が 高まる(詳細は、森川(2009)を参照) 。 ― 35 ― (15’)a. 何が問題ですカ?[↗] b. 何が問題カね?[↗] ここで、 (1a)に対人的モーダル「ね」を付けることによって、AR の適 用を回避できるのではという疑問が生じるかもしれない。 (17)?* 何が問題ダカね?[↗] 疑問語「何」と文末助詞「カ」との余剰性は、たとえ文末助詞「ね」によっ て回避されていても、この文は非文法的である。というのも、繋辞「ダ」 とモーダル「カ」の連接は、音韻レベルの制約(14)によってすでに排 除されているからである。 3. 「ダ」で終わる疑問文 前節では、繋辞「ダ」と「である」の相違を分析した結果、主文の「ダ」 の特殊性を捉える必要があることを示し、そのための制約を提案した。本 節ではまず、平叙文における「ダ」と「である」の機能分布の相違を考察 した後、「ダ」で終わる疑問文( 「カ」無し疑問文)の文法性の説明を試み る。 森川(2009)では、繋辞「ダ」が主文には、非情報疑問文として以外は 出現しないことを明らかにした。非情報疑問文とは、文の形式は疑問文を 取るが、下降調イントネーションを伴い、話し手の主張をしたり、自問し たりするタイプのものをいう(例えば、 「誰が行くカ?[↘]という文は、 話し手の行く意志がないことを主張する、反語表現とも言われるものも、 その一つである)。そして、 (18a)のような平叙文末の「ダ」は、対人的 モーダルの機能を持つ助詞と捉え、主語と述語を結びつける働きは空の繋 辞によるとした。この「ダ」が「対人的」であるというのは、話し手によ る聞き手への断定的な主張を表すことからである。これを「断言」の「ダ」 と呼んだ。 (18)a. 太郎が犯人ダ。 b. 太郎が犯人ダった。 ― 36 ― 時制が、(18b)のように、完了になると、この文自体に断言の解釈が取 れないことから、 「ダ」は繋辞として表出し、 (18a)の「ダ」とは範疇が 異なる。以上が、森川(2009)による助詞「ダ」についてである。 このことを基に、 (18a-b)の「ダ」を「である」で置き換えた次の文 を見てみよう。 (19)a. 太郎が犯人である。 b. 太郎が犯人であった。 従来、 「である」も「ダ」と同じように、断定を表す繋辞とされてきた。し かし、Takano (2004) が観察するように、 (19a-b)では、話し手(あるい は、書き手)による聞き手(あるいは、読み手)への情報伝達の様が、説 明を施す形でなされている。この観察を受け入れて、主文末の「である」 は、「説明」を表す対人的モーダルとして機能すると仮定できる。従って、 構造上、その範疇は動詞の類ではなく、助動詞ということになる。つまり、 助詞「ダ」の場合と同様、空繋辞によって、主語「太郎」と述語「犯人」 が結び付けられている。前節の議論も含めると、 「ダ」とは違って、 「であ る」 は繋辞とモーダルの両方の機能が、主文で見られるということになる。 この「説明」という特性を素性[+expl (anation)]で表すと、主文の平叙文 末のモーダル「である」は、 [+expl, -Q]を持つということになる。 ところが、 「である」は、疑問文で用いられた場合、説明とは解釈されな い。 (20)a. ? 太郎は犯人であるカ?[↗] b. ? 太郎は犯人であったカ?[↗] 文末助詞「カ」が後接する疑問文は、第 1 節においてすでに見たとおり、 「ダ」も「である」も繋辞として機能する。その際、 「ダカ」の連続は、非 文法的であるが、「であるカ」の連続は、容認度は低いが、文法的である。 ただ、談話上、丁寧語形式を取ると容認される。 このように、主文において文法的と判断される「ダ」は、モーダルとし て機能する助詞である一方、主文に生起できる「である」は繋辞として機 ― 37 ― 能する動詞の類、あるいはモーダルとして機能する助動詞である。 次に、「カ」が後接しない、 「カ」無し疑問文に目を転じてみよう。9 (21)* 太郎が犯人ダ?[↗] (22)誰が犯人ダ?[↗] 森川(2009)では、例文(21)は断定を表す「ダ」と、話し手が聞き手 からの返答として「はい」又は「いいえ」を求める内容の Yes/No 疑問文と の間には意味的に矛盾もあるが、音韻レベルで排除するとした。それに対 し、疑問語を含む Wh 疑問文(22)には、その矛盾はなく、むしろ「ダ」 がその疑問文の疑問性を強く表出する働きをするとした。ここで問題とな り得るのは、やはり、断言の「ダ」は[-Q]素性を持つ一方、疑問文にはあ くまで[+Q]素性があるということである。つまり、隣接する要素が、 [Q] 素性の価に関して矛盾を認めている点である。 そこで、断言の助詞「ダ」が、疑問性の矛盾に関する問題を引き起こさ ず、繋辞文に後接でき、かつ(21)と(22)の対比を説明できるよう な構造が求められる。一般的には、次の構造を想定する必要があると考え られる。 (23) ModPSH ForceP FocP Mod SH Force ダ [-Q] CP IP 太郎/誰が犯人 [ I ∅] Foc C ∅ ― 38 ― 断言の「ダ」は、対人的モーダルで、補部に発話力句(ForceP)を取る。 そして、その ForceP 層は焦点句(FocP)層を、またその FocP 層は CP 層を、 それぞれ下位に取る。更にその CP 層内には、空繋辞を主要部とする IP が生 起する。FocP 層と CP 層は、常に現れるものではない。FocP 層については、 例えば(18a)が、主語「太郎」に焦点が置かれる解釈を取る場合に限っ て、FocP 層が現れる。焦点化の解釈は、 [+Foc]素性を持った主語「太郎」 が LF において、FocP の指定部位置に移動し、指定部・主要部一致の下で 認可されることによって得られる。また、主語をマークする「が」は、総 記(あるいは、焦点)の助詞の解釈となる(森川 2009: 8-9)。一方、 (18 a)に焦点の解釈がない場合は、FocP 層が欠落し、主語をマークする「が」 は、中立叙述の解釈となる。 次に、CP 層を見てみよう。 (23)は、 (24)のような「のダ」構文が 持つ構造と並行するものである(Hiraiwa and Ishihara (2002) を参照) 。 (24) [ModPSH[ForceP[FocP[CP 太郎/誰が出かける[C の]]]]ダ ] 森川(2009, 2010)に基づき、 「のダ」構文の「ダ」は、対人的モーダル とみなす。(23)と(24)の違いは、CP の主要部が空であるか否かで ある。この「の」は、前接する IP に顕在的時制辞が存在する場合に現れる と議論した(森川 2009: 61-63) 。そして、その「の」は、名詞性を持った意 味内容を欠く要素で、音韻レベルで挿入されるものであることを示した。 一方、 (23)の繋辞文では、 「の」が生起しないわけであるから、CP 層を 欠くと考えられる。10 以上のことを基に、 (21)の構造としては、 (23)から FocP 層と CP 層を欠く(25)を提案したい。 ― 39 ― (25) ModP SH ForceP IP Mod SH Force ダ [-Q] 太郎/誰が犯人 [ I ∅] (25)において、Yes/No 疑問文がモーダル「ダ」に前接することがない ことは、明らかである。というのも、Force に[+Q]があると仮定すると、 「ダ」の持つ[-Q]と矛盾するからである。その非文法性は、論理形式(LF) において、Force の[+Q]素性を認可する要素を欠くためだと説明できる。 同様のことが、(24)の文においても言える(つまり、 「太郎が出かける のダ?[↗]」の通常の疑問文は、非文法的である) 。11 それでは、疑問語を伴う(22)はどうか?その場合、 「誰」に焦点が 置かれるため、FocP 層を持つ構造を仮定する。そして、主要部の Foc は、 「ダ」に前接しているため、 [+Q]素性を持つことはない。疑問語「何」が 持つ疑問性の[+wh]素性に関しては、Rizzi (1996) の動的一致(Dynamic Agreement)を仮定する。 (26)Dynamic Agreement: wh-op X0 => wh-op[+wh]X0 (Rizzi 1996.: 76) (動的一致 : 演算子は、節の主要部との一致の下で[+wh]素性を 付与する。 ) この[+wh]素性は、LF において、FocP の指定部位置に移動し、指定部・ 主要部一致の下で認可される。よって、 (22)は、平叙文形式だが、話し 手が聞き手に指示した人が誰であるかを尋ねる疑問文と解釈され得る。た ― 40 ― だし、 「ダ」の付かない「誰が犯人?」という純粋に情報を求める疑問文と 比べると、 「ダ」によって話し手の主張も付け加わっている。従って、例え ば、「 (それは誰か)言ってみなさい」という表現を話し手が続けて発して もおかしくない(森川 2009: 157) 。また、 「のダ」構文においても同様のこ とが言える。例文(24)の「太郎」を疑問語「誰」に置換すると、 「誰が 出かけるのダ」となり、 「誰が出かけるの?」には見られない話し手の主張 が表出する。12 以上、繋辞「ダ」と「である」が関わる疑問文の相違を見てきた。疑問 文内の「である」は、その解釈から常に繋辞であるため、 「ダ」の取り扱い に焦点を絞って考察した。換言すると、 「ダ」で終わる「カ」無し疑問文 が、Yes/No 疑問文である場合と、Wh 疑問文である場合との対比に関する 森川(2009)の説明に修正を加えたことになる。 4.まとめ 本稿では、主文の疑問文において「ダ」が許容されないのは、その繋辞 としての機能、意味、そして形態という複合要因によることを示し、その 「ダ」を排除できる音韻レベルの制約を提案した。その「ダ」の特殊性は、 繋辞の「である」が「カ」で終わる疑問文に生起できることで確認できた。 更に、モーダル「ダ」で終わるが、一見、情報疑問文と解釈される Yes/No 疑問文の非文法性は、その「ダ」と Force とが矛盾した[Q]素性を持つこ とに起因することも明らかにし、森川(2009)を補った。 注 1 ここで注意を要することが1点ある。断定の常体「ダ」に対応する敬体「デ ス」を、佐治(1991: 17)は指定としている。しかし、 「指定」とは、意味上「断 定」を意味することでもある(松村 1995: 1132)。よって、 「デス」と「カ」の連 続性についての何らかの説明が要求されるであろう。 ― 41 ― 「ダさ」の非連続性について、三枝(2001)は、文末助詞としての「「だ」と 2 「さ」の働きに重なり合うところがあると考えざるを得ない。」 (12 頁)と述べて いる。しかし、当該の文末助詞の重なりとはどういうことなのかは、明らかにさ れていない。 ただし、書き言葉でも、小説、随筆、新聞など主観性が入る場合にも、「であ 3 る」が用いられると、三枝(2001: 15)で観察されている。 「ございます」は、一般的に、動詞「ござる」に丁寧語「ます」が付いた「ご 4 ざります」の転とされている(松村 1995: 900)。この表現は、純粋に丁寧さを表 す一方、それを多用すると、次の引用にもあるように、談話上、逆の効果をもた らす。 (i)このように「ございます」は聞く人によって違和感のある、なしの分か れる難しいことばのようです。国立国語研究所の吉岡研究員によると、 『 「ございます」は“過剰敬語”の一種。とにかく丁寧に話そうという気 持ちは分かりますが、過剰敬語を多用すると慇懃無礼になり、かえって 相手に不快感を与えかねません』とのことでした。 www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/2006/06/0619.html 聞き手に対し「はい」又は「いいえ」という返事を求める Yes/No 疑問文にお 5 いては、ぞんざいさを表す「カ」を用いても、その単文の容認度を低くすること はない。一方、疑問語を含む疑問文に「カ」を用いると、例文(2a)で見たよ うに、その容認度は低くなる。 文末の形式名詞「よう/はず」の前でも、「ダ」と「である」の対比が見られ 6 る。 (i)明日は晴れ{* ダ/である}{よう/はず}ダ。 「よう」は断定を避けて遠回しの判断を述べ、また「はず」は予定を表す。 形式動詞 /ar/ に現在時制辞 /ru/ が後接すると、/aru+ru/ となるため、後者の子音 7 /r/ が削除され /ar+u/(「ある」)となる。このことは、日本語の一般的な音韻プロ セスによる(Tsujimura 1996 参照)。 「ダ」と「である」の対比は関係節内でも見られる。 8 (i)営業が8時から{* ダ/である/の}店 この様な場合は、制約(14)以外に、「ダ」が名詞に前接しないことを表す制約 が求められる。ちなみに、「の」の取り扱いについては、Morikawa(2003)を参 照されたい。 9 例文(21)は、「問い返し疑問文」としては用いられるが、通常の疑問文と ― 42 ― は別なので、ここでは立ち入らない。 10 もし「の」が表出する場合は、時制辞は「な」(「ダ」の連体形)となる。 (i)太郎が犯人なのダ。 11 これは、主語位置の補文内の Yes/No 疑問文が認可されない場合と同様の説明 となる(森川 2009: 119)。 (i)*[太郎が来るカ]が 疑問ダ。 12 もし[+wh]素性を持つ疑問語が ForceP の指定部まで LF 移動したとすると、 非情報疑問文の「誰も犯人じゃないよ」という解釈が生じると考える(森川(2009) の非情報疑問文を参照)。ちなみに、「誰が犯人?」という情報疑問文の場合は、 疑問語は ForceP の指定部まで移動すると考えられるが、それは[+Q]を持った [+Q]を持つ Force が選択されているからである。 ModSH によって、 参考文献 池上嘉彦(1977)「「する」と「なる」の言語学2」『月刊言語』10、100-108 北原保雄(1981)『日本語助動詞の研究』大修館書店 三枝令子(2000)「助動詞「だ」と助詞「か」の結びつきをめぐって」『一橋大学 留学センター紀要』3、69-78 ―(2001)「「だ」が使われるとき」『一橋大学留学センター紀要』4、 3-17 佐久間鼎(1940)『現代日本語法の研究』厚生閣(『現代日本語法の研究(改訂 版) 』 (復刊)くろしお出版 1983 所収 佐治圭三(1991)『日本語の文法の研究』ひつじ書房 鈴木重幸(1972)『日本語文法・形態論』むぎ書房 時枝誠記(1950)「文論」『日本文法 口語篇』230-240 岩波書店(『日本の言語 学』3 大修館書店 1978 所収) 仁田義雄(1980)『語彙論的統語論』明治書院 ― (1989)「現代日本語文のモダリティの体系と構造」新田義雄・益岡 隆志『日本語のモダリティ』くろしお出版 野田春美(1997)『「の(だ)」の機能』くろしお出版 松村明(1995) 『大辞林(第2版)』三省堂 松下大三郎(1951)『標準日本口語法』白帝社 三上章(1963)『日本語の構文』くろしお出版 三原健一・平岩健(2006)『新日本語の統語構造 ― ミニマリストプログラムとそ ― 43 ― の応用』松柏社 メイナード・K・泉子(2000)「日本語表現の情意 ―「だ」と「じゃない」の場 合」2000 年 3 月 30 日東京女子大学における講演 森川正博(2009)『疑問文と「ダ」― 統語・音・意味と談話の関係を見据えて』 ひつじ研究叢書〈言語編〉81、ひつじ書房 ― (2010)「分裂分の「ダ」」未公開論文 Grice, H. Paul (1975)“Logic and Conversation,”in P. Cole and J.L. Morgan (eds.), Syntax and Semantics 3: Speech Acts. Academic Press, New York. Hasegawa, Nobuko (1997)“A Copula-based Analysis of Japanese Clefts: Wa-cleft and Ga-cleft,”in Kazuko Inoue (Leader), Researching and Verifying an Advanced Theory of Human Language, 15-38. Kanda University of International Studies. Hiraiwa, Ken, and Ishihara, Shinichiro (2002)“Missing links: Cleft, Sluicing and No-da Construction in Japanese,”in The Proceedings of Humit 2001. MIT Working Papers in Linguistics 43, 35-54. MITWPL, Cambridge, MA. Morikawa, Masahiro (2003)“On the Categorial Status of the Copula in Japanese,” Journal of School of Foreign Languages 25, 65-100. Nagoya University of Foreign Studies. Nihsiyama, Kunio (1999)“Adjectives and the Copulas in Japanese,”Journal of East Asian Linguistics 8.3., 183-222. Rizzi, Luizi (1996)“Residual Verb Second and the Wh-Criterion,”in Luizi Rizzi (ed.), Parameters and Functional Heads: Essays in Comparative Syntax, 63-90. Oxford University Press, New York. Takano, Yasukuni (2004)“Da and Dearu in Japanese,” 『長崎大学留学生センター紀 要』12、85-107 Tsujimura, Natsuko (1996) An Introduction to Japanese Linguistics, Blackwell Publishers, Oxford. Urushibara, S. (1996) Syntactic Categories and Extended Projections in Japanese, Doctoral Dissertation, Brandeis University. www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/2006/06/0619.html 用例出典 www.cs.kyoto-wu.ac.jp/~k005077/diary/0207.html merulog.jp/syasya/QXSRpAgWPuhM ― 44 ― 教育における市場性と公共性に関する考察 ―市場原理は多様なアイデンティティを 実現するか?― 加 藤 潤 序章―議論の所在 本論では、学校教育が市場化されることの妥当性を、市場化言説の対抗 言説として提出されている「公共性」という概念と比較しながら考察して いく。まず、反市場化言説の理論急先鋒者として、教育学者のジルー(H. Giroux)とアップル(M. Apple)の批判論を紹介する。さらに、彼らの批判 対象となっている新自由主義的教育言説の代表として、経済学者のフリー ドマン(M. Friedman)の平等概念について検討を加える。 これらの理論的対立に対して、 「公共性:publicness」という両者が使う 概念を共通的教育価値として提示したい。この「公共性」という価値基準 から見た場合、教育の市場化がどこまで妥当であるかについて、本論での 結論を引き出していく。その際、具体的教育現象を事例として考察するた め、現在、わが国でも進められている学校選択制を取り上げる。学校選択 制の導入が公共性に資するものなら、教育の市場化は排除すべきものでは ないし、そうでないのなら、市場原理は制限すべきものである。この単純 な二つのシナリオを比較検討することで、今後の公教育像の在るべき姿を 探るのが、ここでの目的である。 1、教育はコマーシャリズムを排除できるのか ? 2001 年、アメリカで高校卒業直前にウェブサイト(ChristsandLuke.com) を立ち上げ、自らを歩く広告塔(walking billboard)にすることを条件に、 ― 45 ― 企業から大学の学費援助を募った二人の生徒がいた。ジルー(H. Giroux、 2002)は、あえてこの二人の個人名を挙げ、 「アイデンティティの商品化: identity as commodity」と痛烈に批判した 1)。同じように、コマーシャリズ ムについて、アップル(M. Apple)は、民放チャンネル(channel one)が 衛生放送機器やテレビ、ビデオ機器の供与と引き換えに、アメリカの 40 % 以上の中等学校で、毎日生徒に channel one を視聴させる 3 年から 5 年の契 約をとりつけた事実を批判し、 「生徒は人質として企業に売られた」と断ず る 2)。 だがしかし、ジルーやアップルがディストピア(dystopia)として排除 する市場世界(marketopia3))の対極にあるのは、どのようなユートピア (utopia)なのだろう。もし、彼らが糾弾する、ネオリベラリズム、コマー シャリズム、企業文化といった資本主義言説への対抗言説が示されなけれ ば、彼らの議論はイデオロギー闘争に終始してしまうだろう。それに対す る一つの答えをジルーは出している。彼は、職業準備機関となりつつある 現在の高等教育を批判して、本来の在るべき姿をつぎのように表現する。 「大学教育は唯一、権力に異議申し立てできる場所であり、公共善 (public good)の重要性を確認し、個人が他者との差異を形成する能力 を獲得する場所である 4)」 こうした場所が彼のいう民主的公共圏(democratic public sphere)なので ある。だが、ジルーのいう「公共善」なる概念は曖昧である。それがユー トピアであるというためには、まず「公共」とはどう定義され合意される のか、そして、その概念が市場原理に対して何らかの説得力をもって優位 な価値を持ち得るのかを検討しなければならない。 2、公共概念のアンビバレンス 「公共」とはきわめて矛盾に満ちた概念である。これまで、市場原理が 支配するレッセ・フェール型の資本主義に対して、それと一線を画するの が「公共部門」であり、そこは政府による規制と保護の対象であると考え ― 46 ― られてきた。だからこそ、教育や医療、福祉などの領域は公共部門として 効率主義と利益追求を免れてきた。ゆえに、教育は教育内部の論理で、子 供観、学習観、教師の理想像を追求する自由をある程度許されていた。し かしながら、公教育がその設置主体である国家に従属し(予算配分され)、 利用者である親と資金負担者である納税者から見られている限り、教育内 の知的営為だけが市場原理の埒外に居すわることはできない。むしろ、教 育制度は市場と国家という環境に組み込まれていると考えるのが自然だろ う。すでに、財政削減を余儀なくされている政府にとっては、これまで聖 域といわれてきた公共部門を競争原理に晒すことによって効率性を高めて いくしか道は無くなっている。さらに、社会学者のボール(S. Ball, 2007) が指摘しているように、国家の役割自体が読み替えられつつある。つまり、 「従来、商品化を阻止するエージェントとしての国家であったものが、商 品化を促進するエージェントとしての国家に再定義されつつある」のであ る 5)。 ここに公共性実現の困難性がある。つまり、 「公共」とは、実際には、国 家や市場によって個人の自由と多様性が与えられ保護される空間でありな がら、同時に、守られるはずの個人は国家と市場に従属するという二重拘 束(double bind)を抱えているのだ。したがって、国家、市場社会と個人 の中間に位置するエージェントとしての学校(教師)は、一方では消費者 (親) に対して商品説明責任を果たし、もう一方では国家に対して費用対効 果を示すことを求められている。このことを個人の内面から見てみよう。 つまり、エリクソン(E. Erikson)が言うように、アイデンティティ(seflidentity:自分らしさ) の自己感覚が社会的認知を得た時に成立するとすれば、 個人は明確な輪郭をもって国家や市場と隔離されているわけではないとい うことである。自分らしさの中に消費意識や国家意識を取り込んで成立し ているのだ。ということは、教育的価値、目的もまた、コマーシャリズム や国家統制と完全に切り離されては成立しないという、常識的な事実に帰 着する。無理に両者を対峙させ、ジルーやアップルのように neo-liberalism ― 47 ― 対 public good という図式をつくると、我々が目指すべきユートピア像は見 えて来ないどころか、個人のアイデンティティ形成まで困難なイデオロ ギーを押しつけてしまう可能性がある。さらに、先に述べたように国家 と市場という背反するかに見える二つの概念が互いに概念越境(discourse crossing:注 5)参照)を起している現代社会では、むしろ二項対立より統 合的な価値を模索したほうが有益だろう。 どちらの立場から見ても、共有すべき課題は、どのような個人形成(ア イデンティティ形成)を我々の社会が目指すのかということである。市場 主義者も反市場主義者も共有できる社会像(そこで形成される人間像)と は何かを、ある程度合意のできる形で定義することである。その共通項を 明らかにした上で、学校教育への市場原理導入、とりわけ、学校選択制が どのような結果をもたらすのかを検討するのが手順だろう。 3、公共性概念についての合意と課題 実は、公共性概念について、先のネオリベラリズム批判論やラディカ ルな階層再生産論(ブルデュー(P. Bourdieu) 、ボールズ&キンティス(S. Bowles & H. Gintis) )と、ネオリベラリズム言説の嚆矢ともいえるフリー ドマン(M. Friedman)やハイエク(F. Hayek)等の考え方には、ある程度 共通の公共性概念が見出せる。その合意とは、公共は多様なアイデンティ ティの形成を保障する空間であるという点である。 まずは、フリードマンの 平等社会言説に耳を傾けてみよう。彼は画一的 社会を徹底的に排除した。どの両親の子に生まれたのかまでコントロール する完全結果平等社会には、なんの面白さも無いという 6) (フリードマン、 1983)。もし、結果平等を押し進めていけば、すべての生活水準を等しく し、「音楽的才能に劣った子供に対しては、遺伝によって発生した不利益 を補充してやるために、より多くの音楽教育訓練を与えてやらなくてはな らないだろう」(同前書、285 頁) 。さらに、競争の結果まで平等にするに は、ゲームの勝者は勝って得たチップを負けた人に返す義務が生じるかも ― 48 ― しれない。そんなゲームは誰も喜ばないというのだ(同前書、287 頁)。ま た、1980 年代イギリス教育改革のブレインたち(ヒルゲート・グループ: Hillgate group)が依拠したハイエク理論では、特定のパターンを押しつけ ない制度のことを「自生的秩序(spontaneous order)」と呼ぶが、それはと りもなおさずレッセ・フェール市場のことである 7)。選択の自由と多様性 さえ保障しておけば、あとは予定調和的なメカニズムが働き、すべての社 会問題は最適に解決されるという信仰ともいえる。 興味深いことに、ネオリベラリズムとは一線を画す研究者たちも、この 点については似た考え方をしている。アメリカの学校教育が隠れたカリ キュラム(hidden curriculum)を通じて資本主義エートスを生徒に内面化し、 社会再生産機能を果たしていると分析したのはボールズ&ギンタスだった (ボールズ&ギンタス、1980 年および 1986 年) 。彼らは教育がカリキュラム によって生徒を社会化するという機能主義的社会観に立っているが、その 知見はその後、ラディカルな学校教育批判の拠り所ともなった。ところが、 小玉(1999)によれば、彼らは 80 年代以降自らの理論に修正をかけ、最終 的に「教育制度の説明責任を高めるために競争的な市場原理の導入を提唱 する。それによって多文化主義的な文化状況の促進が展望される」ことを 目指したという 8)。つまり、このときすでに、目指すべき多文化社会は市 場原理を否定しては不可能だという前提に立っているのである。ただし彼 らは、市場における選択行為を望ましい形にするために、市場競争とそれ を民主主義的に統制することが必要だという。それを経て、文化的民主主 義と競争的市場原理が両立し、そこに異質で多様なアイデンティティを促 進する公共性が生まれるというのだ 9)。 もう一人、徹底した自由主義者(フリーダミストというべきか)として 政治的なリベラリズムを批判したハンナ・アーレント(Hannah Arendt)の アメリカ教育政策批判を見てみよう。人為的な選択行為の制限は人間の自 由を束縛するというアーレントの前提に立つと、マイノリティーに対する 補償教育(Head Start)や人種別定員割り当て政策(ethnic quota)、統合教 ― 49 ― 育(integration)は、すべて自由を束縛する制度だということになる。それ がたとえリベラル(liberal)ではあっても、彼女の目指す、何ものにも束縛 されない自由(フリーダム:freedom)ではないというのだ。彼女にとって は、社会階層の機会平等や経済的平等の実現より、人間が生きていること の根本的条件を認めることの方が重要なのである。アーレント自身の言葉 を引用すれば、 「私たちが人間であるという点ですべて同一でありながら、 だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きるで あろう他人と、けっして同一ではない」という原点を失うことが最も恐ろ しいのである 10)。アーレントの思想背景には、そうした制度的な自由拘束 という小さな漏水が、やがて抑圧的体制へと破水するという、彼女自身の ナチ時代体験があったことは考慮しなければならないだろう。この自由を 保障してくれる空間こそが、アーレントがめざす「公共」なのである。斉 藤(2000)の解説を借りれば、 「アーレントの描く公共的空間とは共通の尺 度ではかることのできないもの、共約不可能なものの空間である。なぜな ら、一人一人は他に還元することのできない『比類のない』(unique)もの だからである 11)」。彼女にとっては、複数性(plurality)こそが自由の源泉 なのである。 だがしかし、広田(2004)も言うように、自由という概念の中には、す でに、弱者と強者、マイノリティとマジョリティなど、様々な文化的、経 済的階層を棲み分けさせ、それぞれが自由に選んだ結果だと正当化する新 自由主義的論理が含まれている 12)。アーレントが完全なフリーダムを求め るのなら、階層や人種的差異も許容すべき多様性(または複数性)になる。 その意味では、多様性、多元的社会という理想社会像は、新自由主義者も 新保守主義者も社会民主主義的平等論者も、すべてを飲み込んでしまうブ ラックホールのような言説なのである。そうはいっても、これまで繰り広 げられてきた言説の政治(discourse politics)から、公共概性念について暫 定的合意点を設定する必要がある。ここでは、曖昧な公共性概念を、いっ たん、多くの論者が共有する、 《多様なアイデンティティ形成社会》という ― 50 ― ところに納めておく 13)。 そこで次なる問題は、市場原理は上記のような意味での公共性を促進し てくれるのかどうかである。問題の検討を分かりやすくするために、本論 では、教育議論で話題になる学校選択制 (学区廃止)議論を取り上げること にする。つまり、学校選択制は多様性に開かれたアイデンティティ形成環 境を促進してくれるのか、それとも、より画一的で排他的なアイデンティ ティ形成へとつながる恐れがあるのか、そこが議論すべき点となる。 4、学校選択制導入についての是非論 教育の領域に新自由主義的市場言説が入ってきた今世紀、教育の自由 化、規制緩和が進む中で、学校選択制は大きな争点となってきた。その後、 政府が学区の弾力的運用を認め、地方自治体は様々なタイプの学校選択制 を導入しつつある。この間の教育言説変遷と学校選択制の実態についての 詳説は紙幅にゆとりがないので省く(詳しくは、加藤(2010)を参照され たい) 。本論では、学校選択制に関する是非論を展開してきた二人の教育学 者、黒崎勲(賛成論)と藤田英典(反対論)の論争を事例にして、両者の 共通点とズレについて明らかにしたい(詳細は、黒崎(1996、1997)およ び藤田(1996、1997)を参照されたい) 。それというのも、両者の論争の中 に公共性概念の複雑さが見えるからである。まずは、二人の主張を単純化 して示しておこう。 1)黒崎論:学校選択制導入によって教育の主導権が相対的に消費者 (親、住民) に移る。それによって、教育はこれまでのような官僚的支配か ら自立し、活性化される。その結果、特定のパターンを強要しない自然な 制度(自生的制度(spontaneous system) :ハイエク)が実現し、多様かつ満 足度の高い自律的教育システムが実現する(自律・多元化モデル)。 2)藤田論:学校選択制は、いったん導入されると利用者(親、住民) によって恣意的に使われることになる。その結果、利用者の階層文化が学 校選択パターンを通じてダイレクトに教育内容と結果に反映され、階層再 ― 51 ― 生産(class reproduction)が助長される。そうなれば社会全体の教育格差は 極化し、共生ではなく棲み分け社会が生まれる(階層分化モデル)。 一見すると、黒崎論が新自由主義に近く、藤田論はリベラルな社会民主 主義にも思われる。しかし、両者には共通性がある。それは、どちらも、教 育を通じて構築する望ましい社会像については、多様性と異質性を抱え込 んだ多文化社会を想定している点である。その意味で、教育は政治・経済 活動の関数ではなく、子供たちを社会化し、他者との共生を可能にする機 能を果たす制度であるという共通土壌に立っているのだ。つまり、学校教 育は子供たちが生きる場所であって、社会的地位を分配する場所ではない という点で通低しているのである。そういう社会空間としての学校では、 極端な格差は是正すべき課題となる。なぜなら、学校教育は私的な利害を 実現する場ではないからである。たとえ官僚的なお仕着せからは自立して も、個々人が恣意的に使用する私的領域になってしまっては、システムと しての自立は逆に崩れてしまうからである。だからこそ、両者は教育の結 果平等をある程度コントロールする必要があると考えているのだ。 ところが、両者には二つの点でズレもある。ひとつは、黒崎が学校選択 制という教育システムの運用プロセスの効用を主張しているのに対して、 藤田は教育の結果生まれる社会現実がどうなるのかを論じている点で、両 者は議論対象の時点がズレていることである。学校選択制導入は、明治以 降、教育が従属してきた国家管理から教育を解放してくれる。学校はそれ によって活性化し、生き生きとした自律的教育活動が実現するだろうとい う、楽観的言説に立っているのが黒崎である。だが、これは教育の営みの 主導権を国家から親(消費者)に委譲することによって上意下達の官僚制 システムが、学校理事会中心の民意主導型学校経営になるという、アメリ カのチャーター・スクールの発想に他ならない。その結果については、と りあえず問わない。ともかく、既存システムを揺さぶる劇薬として選択制 を導入しようという方策論である。 それに対して、藤田はもう少し将来の社会現実を問題にしている。 ― 52 ― チャーター・スクールやイギリスにおけるオプティング・アウト 14) (選択 的離脱制)が、消費者の恣意的な制度利用を助長し、結果として生まれた 多様性は階層性に過ぎなかった事実をもとに警鐘をならしているのだ。な らば、むしろ、教育改革言説としては見栄えはしないが、現行の学区制の 中で地域を取り込む地道な努力をしたらどうだ(コミュニティ・スクール 提言)というのが、藤田の見ている時間軸上の改革案なのだ。 もうひとつのズレは、今述べたことにすでに含まれているが、黒崎は 「国家と教育」における公共性の実現を目指しているのに対して、藤田は 「市場と教育」 との関連で公共性を議論している。すなわち、黒崎は教育へ の国家関与(支配)を薄くすることで、住民参加型の学校教育が実現する というのである。その起爆剤として学校選択制という市場原理を導入しよ うと考えている。それに対して藤田は、教育という公共に市場原理という 私事性が導入されること自体に反対している。したがって、藤田は、国家 が教育に関与することに対してはあまり問題視していない。むしろ、保守 的なくらい、教育を国家統合機能に貢献する変数として見ている。ある意 味では、葛藤論者としての黒崎と機能主義者としての藤田という構図さえ 成立する。 ここからも分かるが、高橋(2005)も指摘したように、教育の公共性問 題は、市場経済と国家とを混在させたまま議論されていることが問題を複 雑にしているということを、最後に確認しておきたい 15)。 以上の学校選択制議論を踏まえ、次に筆者なりのスタンスを示そう。ま ずは、市場原理の概念から見た学校選択制を論じることにしよう。この視 点に絞ってみると、新自由主義的言説は明らかに反論する余地の無い「聖 性」をもっている。ということは、一見、学校選択制を否定することは不 可能とも思われる。しかし、本論では新たな批判枠組みを提示する。 5、学校選択制には否定できない聖性が存在するのだろうか? 筆者はかつて、「多様性」という言葉にはニュートラルな甘い響きがあ ― 53 ― ると言ったことがある 16) (加藤、1997) 。この言葉を教育に置いて見ると、 設置基準緩和、校則からの解放、学校選択肢の増大、個人裁量の拡大等々、 あたかも、バラ色の改革に向かっているような言葉の力をもつということ である。なぜなら、多様性なる言葉は、 「現在という場所」から「ここでは ない場所(u-topia) 」へと変化していく、発展的、拡張的な未来イメージを 与えてくれるからだ(加藤、前掲書、84 頁) 。 我々がここで目指している公共社会が、多様性、多元性、複数性をその特 徴とすると、多様性実現のための選択肢拡大は、どこからも否定できなく なる。少なくとも学校選択制導入によって、教育制度の多様性が低下する ことはあり得ないからだ。選択者個人にとってみれば、これまで私的な嗜 好(preference)をあまり反映させることができなかった公教育のカリキュ ラム内容、教師の質を、多彩なメニューから選べるのだ。こうした多様性 は、アーレントのようなフリーダミストにとっても歓迎されるだろう。な ぜなら、彼女がいう公共性とは、つねに他者に見られていなければならな い。だとすると、学校は常に、情報公開と説明責任によって透明化されな ければならないからだ。これこそ市場主義者が声高にその効用を主張する 論拠のひとつである。 また選択肢の多様化は、たとえば、マイノリティ(わが国の外国人家族) にとっても朗報となろう。一条校として認可されていない外国人向けの教 育機関が規制緩和によって公教育になれば、わざわざ辛い日々を日本語の みの学校で過ごさなくてもよいだろう。イギリスにおける教育の規制緩和 は、民族学校、宗教学校等多様なニーズを反映させた学校形態を次々に生 んだが、それらはむしろ一般学校より問題の少ない優秀校となっている。 学校選択制導入、規制緩和は、グローバル社会にとっても受け入れるべき 方向性なのかもしれない。 しかしながら、ここで二つの学校選択制反対論を提出したい。当然、そ れらはイデオロギー的に言えば市場原理を信奉する新自由主義への懐疑論 でもある。 ― 54 ― まずひとつは、藤田が一貫して主張してきた、消費者の恣意的な学校選 択制利用の危険性である。藤田が批判するのは、制度としての学校選択が できてしまうと、それを利用する消費者(親)は、制度設立の理念も背景 も無関係に自らの利害最大化のために利用する傾向を、学校選択論者が無 視している点である。結果的に、学校選択は親とその階層文化が利害争奪 を繰り広げるアリーナになる可能性が高いことを危惧しているのだ。もし そうなれば、教育のプロセスにおける制度の多様化(学校選択制)が、必 ずしも社会実態としての多様化(多文化共生)には結びつかないことにな る。 このことは、すでに学校選択制を導入しているイギリスの教育改革を見 るとわかる。90 年代、保守政権のもとで進められた教育改革では、公立中 等学校が住民投票(ballot)によって地方教育当局(LEAs)から離脱し、政 府直轄校(grant-maintained school)になることで学区(catchment area)を 外すことができた。その背景には、教員組合が強くなり政府のコントロー ルが弱くなっていた総合制中等学校(comprehensive school)を、もう一度 中央集権的統制下に置こうという目論見、親の基礎学力重視教育への期待 に応えるための政策、教育のアカウンタビリティを高めコストパフォーマ ンスの高い教育を作りたいという政界、財界の要請に応えるための方策、 これらの要因があった 17)。しかしながら、実際にはどうだっただろう。旧 グラマースクール系の名門校が復活し、新興公立校はナショナル・リーグ テーブル(GCSE や A-level などの試験順位の学校別ランキング表)の上位 を狙った基礎学力中心教育に傾斜していった。これらの学校で生徒の出身 階層の多様化が進んだというデータはない。むしろ、名門大学進学者の出 身校比率は、90 年代の教育改革でほとんど変わっていないといえる。たと えば、Oxbridge 入学者の出身校は、92 年でやっと私立伝統校(independent school)と公立校が 50 対 50 になったのに、その後の 20 年で大きな変化は見 られない。政府は、貧困層やマイノリティから Oxbridge への進学を促すよ う現場に指示しているが、反応は遅い。つまり、学校選択制と学力テスト ― 55 ― (A-level, GCSE)の結果発表は、その情報を利用する(できる)階層に対し てより恩恵が大きかったというマタイ効果を確認しただけだったのだ。さ らに実証的研究として、ボール(S. Ball)は、イギリスにおける教育改革 は、学校選択肢の多様化と情報公開を全面に出しているが、それらはすべ て富裕層に有利に作用したと結論付ける(Ball, 1993) 。つまり、彼に言わ せれば、市場は神の手に委ねられたニュートラルなシステムではなく、特 定の利害によって歪められた装置なのである (同上論文)。もう一つ挙げれ ば、90 年代始め、鳴り物入りで創設された CTC(city technology college)は 高い技術を教える理系中等学校として期待されていたが、実際には、 「特定 の階層の特定の目的を持った消費者の選択肢を広げたに過ぎなかった 18)」 。 しかも、そのカリキュラム内容は、 「旧弊な保守的人道主義者によって改宗 させられたエリート主義と職業的進歩主義の闘争」の様を呈しているとい う 19)。 これらの事例が示すのは、選択肢(機会)とは、それが用意されている ことと、それを利用するかどうかということの間に乖離があるという事実 である(田原、1989 参照) 。選択機会をあらゆる階層、文化集団に遍く行 き渡らせるには、むしろ、選択肢を無くすという逆説的な方策の方が効果 的なのである。学区制という硬直的な行政慣習は、実は就学者の階層の多 様性を確保するミキシング機能を果たしてきたのかもしれない。 もうひとつ、市場原理そのものに対する批判を加えたい。それは、市場 原理は所有概念を個人とその家族に閉じ込める危険性を持つという点であ る。そもそも市場とは、所有と非所有によって成立している。素朴な青空 市場で行われる野菜売りの対面場面とは、所有する生産者と所有しない消 費者が、金を媒介にその立場を入れ換える行為である。商品も金も両者の 間で分かち合われることはない。だが、家族は別である。家族の間では、 所有と非所有が曖昧になる。家の金を盗む子供を黙認する親。家族のただ 働きで成り立っている自営業。ここでは、市場原理がもつ私的所有や交換 原理が個人を超えて、家族単位で成立している。それがゆえに、家族は強 ― 56 ― い枠組みで家族メンバーの行為を規定(または所有)するのだ。一心同体 となった家族の地位、財産を再生産させたいというのが、人間の性質であ る。これは階層イデオロギーではなく、家族の自己保存欲求ともいうべき だろう。 こうした性質が市場原理の中で作用する時、我々は家族以外の他者を受 け入れにくくなる。家族の私生活の中に他者との相互作用を組み込むよ り、もっとドライな他者との差異、端的にいえばモノの所有格差によっ て、他者と距離を置いた関係を持ちたいと思うのだ。人々が貧困を共有し ていた時代、または、いやおうなしに一緒に住み、なんとか折り合いをつ けていかなければならない状況が存在していた時代には、他者を排除して は個人も家族も存立しなかった。だがそれは、農村共同体か、山で遭難し た一団のような運命共同体でもなければ、もはや人々を規定する力を持た ない。ということは、今の市場中心主義、消費主義は、人々にとって、と ても軽やかな自己―他者関係をもたらしたといえる。もう、ベタベタした 共同体的日常は嫌だというのが、都市の中産階級の本音だろう。 ところが、所有―非所有関係(差異関係)は、今述べたように他者に対 して排他的にさせ、逆に家族内でのアイデンティティ形成を強固にする傾 向がある。我が子にだけ学歴をつけさせたいと教育投資する親たちの血眼 の奥には、家族アイデンティティの境界をもっとクリアにして、他者との かかわりやコンフリクトを少なくしたいという欲望が含まれている。とい うことは、市場におけるアイデンティティ形成は、最終的に異質な文化や 他者を排除することで形成される、カウンター・アイデンティティ(対抗 的アイデンティティ)に帰着してしまうということである。先に紹介した アーレントがいう異質な文化空間(公共)とは、他者に開かれた、他者と 自らの帰属意識境界を多少ぼかすような存在意識を持たなければ実現しな い。ところが、市場原理社会が行き着くところは、公共とは逆の、単純な 尺度によって分節化されたアイデンティティ社会になるのだ。この第 2 の 批判は、そのまま第 1 の批判の前提になる。すなわち、他者と自己(家族) ― 57 ― との境界を厚くする性質をもつ市場原理は教育の私事化を促進し、結果的 に、学校選択は学歴という社会資源の所有―非所有をめぐる争奪に使われ るのである。 以上のような 2 点の批判から、学校選択制の背景にある市場原理が、多 元文化的な社会を醸成し、そこで人々が自己と他者が折り合っていくと期 待するのは難しいといわねばならない。言い換えれば、市場における選択 の自由をとことん突き詰めていくと、そこには排他的な自己が待っている ということである。そうした画一的なアイデンティティが作り出す集団 は、国家でも地域でもなく、せいぜい同一階層の家族が群生する生態系で ある。もしそうした生態系の方が、多文化的共生に比べて生活の安全が保 障され、階層間コンフリクトが少ないシステムだというなら話しは別であ る。ただ、歴史的に見れば、階層化社会が安定して長期的に継続した例は ないし、むしろ、最終的に階層コンフリクトの解消に対して払う社会コス トは高くつくはずである。 こうした階層社会で生きる個人の疎外状況について、最後にもう少し加 筆しておきたい。 終章―「選択の自由」の中で嘔吐する自己 現在、多くの先進国社会で見られる棲み分け現象(gated town, middle class flight) は、同質空間という無菌室での生活を実現してくれるかもしれない。 同一階層の住民だけで構成される生活圏では、文化的葛藤や差別意識さえ も不要になるだろう。だがそれは、かつてサルトル(J. Sartre)が『嘔吐』 で描いたロカンタンのような、虚無的で、死に近い生き方かもしれない。 それよりむしろ、ある程度異質な他者を取り込む生の方が、自由で闊達で はないだろうか。その代償として、我々はある程度の葛藤と選択の制限を 受け入れなければならない。これまで論じてきたように、それが「公共性」 の定義であり、どのイデオロギーも目指している社会像なのである。 だとすると、教育の領域においても、やはり学校選択制導入には慎重で ― 58 ― あるべきである。この点について、ある事例を紹介しておこう。英国デボ ン州の King’s School という総合制中等学校は、常に志願者が定員を超える 人気公立校である。しかし、学力選抜は一切せず、地元通学者を優先的に 入れている。それでも子供を入れたくて、移住してくる専門職家庭もある。 副校長、Julian Page 氏にインタビューすると、こんなことを言っていた。 「学校はコミュニティの中でこそ存在できる。いろんな子供がいた方がお もしろい。教師の仕事もその方が帰属意識を持てる 20)」 。つまり、何を教 えるのかをナショナル・カリキュラムで規定しておいて学区を外すという 標準化(standardization)より、学区制を維持しながら階層的に多様性(い ろんな生徒)を学校に温存する包含化(involution) の方が、開かれたアイ デンティティ形成という公共性概念には適しているのではないだろうか。 実際、ナショナル・カリキュラムは生徒の内面形成までコントロールする 影響力をもつわけではない。むしろ、学校選択の自由によって格差が拡大 し、それぞれの学校現場での運用が生徒の文化、学力差に応じていっそう 分化してくるのだ。したがって、実態は全国的(national)ではなく、階層 的(stratified)なカリキュラムというべきだろう。それを国家が到達度テス ト(key stage test)によってチェックしようとすれば、学力偏重が助長され るばかりである。現に、2009 年、学力競争に乗り遅れまいとして、自らの 生徒のテスト成績を改竄して政府に提出するといった不祥事が公立校で起 きている。 つまり、学校選択制が実現した時、そこに生まれるのは文化的にも基礎 学力的にも統制された(階層化されたといっても良い)生活空間だという ことだ。こうして選ばれた生活空間は、個人が自己責任で選んだ空間であ り、その結果責任を政府に問うことはできない。だが、新自由主義の思想 的唱道者だったはずのフリードマンは、まさにそうした同質社会のことを 「エキサイティングではない社会」と呼んだのではないだろうか。皮肉に も、 「選択の自由」を突き詰めていくと、多文化社会も多様な生活空間も生 み出さず、むしろ排他性と疎外感に満ちた秘密結社のような自閉空間を生 ― 59 ― むという現象がいま起きているのである。 上述したように、もし学校選択制が隠れたカリキュラムとしてポリティ カルに作用するなら、我々は、ロールズ(J. Roles)のいうように操作的に、 階層バイアスを是正する政策を施す必要があるだろう 21)。つまり、最も不 利益を被る階層の人々が最も有利な機会を得るようなシステムを人為的に 構築するのだ。だが、それには二つの批判が投げかけられるだろう。まず、 そんなのは補償教育の復活という陳腐な回帰運動だという批判があろう。 かつて、アメリカの階層是正教育政策が、アラン・バッキ訴訟によって逆 差別との判決を受け、アファーマティブ・アクションの退潮となった歴史 をまた繰り返すのかという冷笑ともいえる。もう一つは、学校教育のみを 公共空間として孤立させてしまうと、グローバル市場の中で生きていく子 供たちを社会化できないのではないかという批判である。つまり、学校教 育をキブツのような全制的空間(total institution)にする、反市場イデオロ ギー運動だとみなす批判である。 前者に対しての答えは簡単である。補償教育が衰退していった過程こそ が、市場至上主義と平等主義のヘゲモニー争いにおける文化的ポリティク ス 22)だとすれば、原点に戻ることは回帰でも退行でもない。 一方、後者に対する議論は少し時間がかかるだろう。ただいえるのは、子 供たちが市場の中で相互行為(interaction)を不要とする市場取引(transaction) の場面のみでアイデンティティを形成することは、最終的に極めて不 安定な価値しか形成しないということだ。なぜなら、市場原理が神聖な価 値を持ったとしても、もし市場という神が、実は空想の産物であり、サル トルのいうように我々は何の必然性もなくここにただ「在る」虚無的な存 在物だということに気付いた時、すべての存立基盤は流れさってしまうか らである。いいかえると、市場的価値の中で形成されたアイデンティティ は永続的なものではなく、一時代の流行によって物神化された言説の産物 かもしれないということだ。学校教育が国家組織上は政治・経済システム に従属するとしても、教育の論理が社会の理想型について自律的に価値形 ― 60 ― 成することは、教育の社会的機能として正当化されるべきではないだろう か。 もちろん、市場信仰の中で一生を終えるというシナリオもあるかもしれ ない。だが、もし情緒的な表現を許されるなら、こう考えることもできよ う。つまり、市場信仰より安定した生活感を得るには、あらゆる貧富も人 種も等しく「虚無的な存在」を共有しながら生きることである。無常観と もいえるこの「存在的共有感」は、選択によって差異化を追求する市場世 界では持てない。むしろ、選択が制限された、私事の入り込まない学校教 育を通過することで獲得できる共存感覚ではないだろうか。 我々が目指すユートピアは、経済世界の市場原理と学校教育の公共性と いう矛盾する二つの価値を、人々のライフサイクルの中にあえて同居させ ることで実現するだろう 23)。なぜなら、かつてのように社会を一つの原理 で塗り固める「偉大な物語(great story) 」の時代はすでに終わり、根源的 な共有感の上に多様な文化とライフスタイルが共存する社会を目指してい るのだから。 【注解】 1)Giroux. H, “Neoliberalism, Corporate Culture, and the Promise of Higher Education: The University as a Democratic Public Sphere,” Harvard Educational Review, Vol.72, No.4, 2002, p.425.ジルーが最も批判の矛先を向けるのが neoliberalism である。彼によれば、neoliberalism によって、市民言説(civic discourse)が 商業化、民営化、規制緩和といった企業文化に屈伏するという。その結果、 市民の権利(citizenship)は、私事化された個人の利益の問題として片づけ られてしまうのである(Giroux (2002), op. cit, pp.425-426)。 2)Apple, M. Doing things the ‘right’ way: legitimating educational inequalities in conservative times, Educational Review, Vol.58, No.3, August, 2005, pp.275. 3)Giroux (2002, p.430) によれば、Marketopia なる言葉を使ったのはアリゾナ州 立大学の Terrance Ball だという(Terrance Ball, “Imagining Marketopia,” Dissent ― 61 ― (Summer) 2001.) 4)Giroux (2002), op. cit. p.450. 5)Ball (2007), p.5. ボールは国家の役割が変化した原因について、グローバル化 と新自由主義言説によって、パブリックセクターは経済競争を阻害すると いう「不信言説:discourse of distrust」が浸透したことを挙げている(op. cit. p.3)。さらに彼は、イギリスにおける前労働党政権で首相のブラウン氏が公 的セクターより民間の方がマネージメントに優れていると述べていること を指摘し、政府内部の公共性概念が市場主義によって再定義されていること を明らかにしている。このことを、ボールは越境(boundary crossing)とい う(op. cit. p.8)。概念の越境によって、イギリスの公教育はどんどん民間企 業の経営傘下に入りつつある。 6)M&R. フリードマン、西山千明訳『選択の自由』(上)講談社、1983 年(原著 は 1980 年刊)、280 頁-292 頁「結果の平等」の項参照。フリードマンは、ア メリカ社会の歴史を、神の下の平等、機会の平等、結果の平等という 3 つの 平等段階を経てきたという。彼がいう現代病ともいえる結果の平等という概 念は、「宗教的信仰の対象」にさえなっていると考える(同書、280 頁) 。彼 が理想として選択するのは、機会の平等を保証し、あとは個人の選択に任せ る社会である。その機会を補償するための施策は政府の責任だと考える。教 育においてはバウチャー制度がそれにあたる。ここで論じている、多様な個 人を受容する社会空間という公共性概念からいえば、フリードマンのいう選 択の自由は、極めて包容力のある社会を実現するようにも思われる。 7)加藤潤「イギリス教育改革における『葛藤』―92 年『教育白書』に対する反 応」名古屋女子大学紀要(人文社会編)、1998 年を参照されたい。 8)小玉重夫『教育改革と公共性』東大出版会、1999 年、149 頁を参照されたい。 9)同上。 10)ハンナ・アーレント著、志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房、1994 年(原著 は 1958 年刊)、21 頁。 11)斉藤純一『公共性』岩波書店、2000 年、ⅶ頁。斉藤によれば、アーレント は、「複数性は公共性における『政治の生』の条件であるとともに、自己に おける『精神の生』の条件でもある」(103 頁)と考えている。 12)広田照幸『思想のフロンティア教育』岩波書店、2004 年、第 2 章「一つの解 としての新自由主義的教育改革」を参照されたい。 13)現代社会の状況を考えると、公共性の概念は現実空間のみに止まらず、サイ ― 62 ― バー・スペースにまで拡大して定義しなければならないかもしれない。たと えば、小説家の高橋源一郎は、ツイッターを始めた時の感想をこう述べて いる。 「皆が違う話題でバラバラにつぶやいている内容をタイムライン(画 面)で一覧できる仕組みがいい。小説も基本的には色々な人が登場して、そ れぞれに面白いことをする。バラバラなものが同じ空間の中にあるという点 で非常によく似ている。そこにあるのは公共性だ」 (日経新聞、2010 年 6 月 2 日(水曜)夕刊)とのべている。物理的空間でもネット空間でも、どうや ら、公共性の概念は異質な人間、文化が同居する接点という点では、かなり 一般化できるようだ。もっとも、考えてみれば、人間がすべて個々に異質な 存在である限り、自己から一歩外にでた瞬間から、そこは他者に開かれた公 共であるという自明の理が、いま問われているということかもしれない。 14)オプティング・アウト制度については、加藤潤「教育改革の比較社会学的分 析―市場化がもたらすもの(日英比較を事例に)―」文部科学省研究費補助 金基盤研究(c) (2)研究成果報告書 ( 課題番号:09610297) 、2000 年に詳しい。 ここでは、地域の住民が政府の学校選択制導入に対して意外にも冷やかな態 度をとっていることが、ケンブリッジ市の事例で分析されている。つまり、 学校が地方教育局を離脱し、学区から外れた政府直轄校になることについて の住民説明会や住民投票への参加率は低く、その後の離脱率も高まらなかっ たのである。90 年代を通じたこの直轄校政策は失政といわざるを得ない。 15)高橋哲「教育の公共性と国家関与をめぐる争点と課題」 『教育学研究』第 72 巻第 2 号を参照。 16)加藤潤「教育は多様でなければならない―平等原理から市場原理へ」今津孝 次郎、樋田大二郎編著『教育言説を読み解く』新曜社、所収、47 頁。 17)90 年代のイギリス教育改革の要因を社会的視点から分析した加藤(1998、前 掲論文)では、1)政府のブレイン(ハイエキアンと呼ばれる新自由主義者) 、 2)子供中心主義によって学力低下した 60-70 年代前半の親からの不満、3) イギリスの経済的疲弊を建て直すためのカンフル剤としての経済効率主義 と財政削減等の要因が背景にあったことを指摘している。 18)Tony Edwards, Sharon Gewirtz & Geoff Whitty, Whose Choice of School? Making Sense of City Technology College, Madeleine Arnot & Len Barton(ed),Voicing Concerns-sociological perspectives on contemporary education reform, TRIANGLE, 1992, p.155. 19)op. cit. p.159. ― 63 ― 20)このインタビューは 2008 年 3 月、文部科学省科学研究費補助基盤研究 C(一 般)「イギリスにおける一年制教職課程(PGCE)に関する分析―日英比較を 視点として」(課題番号:19530765)による調査で行ったものである。 21)ジョン・ロールズ著、矢島鈞次他訳『正義論』紀伊国屋書店、1979 年、47 頁、「正義の二原則」の項を参照されたい。ロールズはそこでこう述べてい る。「社会的、経済的不平等は、それらが(a)あらゆる人に有利になると合 理的に期待できて、 (b)全ての人に開かれている地位や職務に付随する、と いったように取り決められるべきである」と述べている。これは、不平等が 不利益をもたらす人々が存在すれば、その不平等は人為的に是正する必要が あることを含んでいる。 22)長尾(1994)は、教育改革で標榜されている「品質表示」なる用語が、 「あ たかも共通のカリキュラム、共通の文化をしめしているようではあるが、そ うした共通の文化という考え自身が『文化のポリティクスの一形態』なので あり、それが、言語的、文化的、宗教的等々といった多様性を踏みにじって きたのである」と批判している(同書、140 頁)。 23)筆者は、かつて市場原理に耽溺した人物、堀江貴文を批判した際、彼の教育 観から引き出されるのは、教育の入口と出口のみを重視する「キセル型教 育」と表現したが、それは、プロセスの相互行為(多様な他者との摺り合わ せ)が欠落したことを言っている。つまり、市場原理の中で形成されるアイ デンティティは、排他的で画一的な価値を持つようになることを示唆してい る(加藤潤「ホリエモンと学校歴」朝日新聞、2005 年 6 月 18 日(夕刊)を参 照されたい)。 参考文献目録(注解に表記されていないものにとどめる) ・Ball.S.J. “Education Market, Choice and Social Class: the market as a class strategy in the UK and the USA” British Journal of Sociology of Education, vol.14(1),1993. ・Ball.S.J. Education plc-Understanding private sector participation in public sector education, Routledge, 2007. ・ハンナ・アーレント著志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房、1994 年(原著: Hannah Arendt, The Human Condition, University Chicago Press, 1958.) ・ボールズ & ギンタス著、宇沢弘文訳『アメリカ資本主義と学校教育Ⅰ・Ⅱ』岩 波書店、1986 年。 ・ボールズ & ギンタス著、潮木守一ほか訳「教育の不平等と社会的分業の再生 ― 64 ― 産」『教育と社会変動』(上)東京大学出版会、1980 年(原著論文初出は 1971 年刊)。 ・田原宏人「教育改革と市場原理」佐伯胖、黒崎勲ほか編著『教育の政治経済学』 〔現代の教育、第 9 巻〕、岩波書店、1998 年。 ・加藤潤「教育は市場である」今津孝次郎、樋田大二郎編著『続教育言説をどう 読むか』新曜社、2010 年。 ・黒崎勲「市場の中の教育/教育の中の市場」『教育学年報』5、世織書房、1996 年。 ・黒崎勲「学校選択=複合的概念」『教育学年報』6、世織書房、1997 年。 ・藤田英典「教育の市場性/非市場性」『教育学年報』5、世織書房、1996 年。 ・藤田英典「『教育における市場主義批判』」『教育学年報』6、世織書房、1997 年。 ・長尾彰夫「日本型ナショナル・カリキュラムの批判と分析」M・アップル他著 『カリキュラム・ポリティクスー現代の教育改革とナショナル・カリキュラ ム』東信堂、1994 年。 【付記】:本論は、文部科学省科学研究費補助基盤研 C(一般)「イギリスにおけ る一年制教職課程(PGCE)に関する分析―日英比較を視点として」 (課題番号: 19530765)による研究成果の一部である。なお本論は、日本カリキュラム学会第 21 回大会(2010 年 7 月 3 日、於:佐賀大学)、課題研究Ⅱ「カリキュラムにおける 公共性のポリティクス(1)」での発表要旨を基に起稿したものである。 ― 65 ― Abstract Marketization and Publicness in School Education: Criticizing Free Market Society as an Environment for Building Diversified Sel-identites and Multiple Cultures Jun KATO This paper examines the educational controversy over two values, market ideology and publicness ideology. As neo-liberal ideology became a worldwide standard, market mechanism has been introduced into school education and the social role of education was redefined by market imperatives (Ball, 2007, Apple, 2005, Giroux, 2002). It is suggested in this paper that market ideology and publicness both have the shared image of ideal society where diverse self-identities and multiple cultures can be nurtured. Then it is discussed whether market mechanism is suitable for constructing such a multiple society. A case study on the free school choice system is analysed in the light of its validity for publicness which was defined by Arendt (1958). It concludes that abolishing catchment area leads us to a highly stratified society, never contributing toward forming a multiple society which is shared as an ideal by opposing ideologies mentioned above. ― 66 ― The Possibility of Teaching American Sign Language as a Foreign Language in Japanese Universities Toshikazu KIKUCHI If you talk to a man in a language he understands, that goes to his head. If you talk to him in his language, that goes to his heart. --- Nelson Mandela Introduction There were three significant events in June and July 2010 that contributed to raising awareness of sign languages in Japan and the U.S. First, Tracy Caldwell Dyson, a NASA astronaut living in orbit, sent a six-minute message to people on earth on July 26, 2010 from the International Space Station for the first time in American Sign Language (ASL). Her message was about what life as an astronaut was like and she also discussed what inspired her, as a hearing person, to learn ASL. Her message encouraged deaf students to study science and technology and to pursue the possibility of becoming a part of NASA. Second, almost around the same date above, the National Association of the Deaf (NAD) in the U.S. sent a letter to the 21st International Congress on the Education of the Deaf (21st Congress), which was held in Vancouver, requesting that they grant official recognition of the use of sign language ― 67 ― as a civil, human and linguistic right, particularly in educational settings. In the letter, Dr. Bobbie Beth Scoggins, president of the NAD, specifically requested that the 21st Congress formally reject resolutions passed at the 2nd International Congress on Education of the Deaf (2nd Congress) in Milan, Italy, commonly known as the 1880 Milan Conference, where sign language in educational settings was strongly prohibited. And third, in Japan, too, an important development was made to further promote the social status of Japanese Sign Language (JSL). The 58th National Conference for the Deaf was held in June 2010 in Shimane Prefecture, Japan, sponsored by the Japanese Federation of the Deaf (JFD). About 2,000 deaf people and concerned people participated in the conference across the country. The conference organized a national campaign to get the Japanese government involved in making a policy on deaf education, especially on the use of sign language. Although it has become common in Japan today to see Japanese sign language interpreters in conferences and on television, the Japanese Ministry of Education still does not recognize sign language as a valid form of educational communication in schools for deaf people in Japan. The purpose of this article is to develop a foundation of future research toward the recognition of signed language as a language in Japan. A particular focus will be put on the recognition of ASL as a foreign language equivalent in Japan in order to integrate ASL into a language teaching curriculum for hearing Japanese university students learning English in the same way as other foreign languages such as Spanish, French, German, Chinese, and so on. The 2010 Boston University Intensive Summer ASL Course will be described in Chapter 4. ― 68 ― 1. The Recognition of ASL as a Language It is reasonable to assume that humans have used facial expressions, body posture, and visual gestures to convey meaning from the beginning of time. Corballis (2002), referring to the views of French philosopher Étienne Bonnot de Condillac, as well as Charles Darwin, Wilhelm Wundt, MacDonald Critchley, Gordon W. Hewes, and William C. Stokoe, lays the foundation for his view that human language evolved from gestures of the hands and face, rather than from primate vocalization. In regard to the original language of humanity, an interesting argument is found in Peet (1853). Peet, introducing his idea that the question of the original language of humanity was a question of the language spoken by Adam and Eve, concludes that sign language, while not in fact the original language, is closer to it than any spoken language in use in the modern world. Although the question of what language Adam and Eve spoke in Eden is debatable, Baynton (1993) also claims, “If Adam and Eve spoke spontaneously without instruction, sign language must have been that original language.” The field of sign language teaching is quite old, but accepting ASL for foreign (modern) language credits in American colleges and universities is a relatively new issue. The origin of ASL is reported as beginning in 1817 when an American from Connecticut, Thomas Hopkins Gallaudet, returned from Paris accompanied by a Frenchman, a deaf teacher named Laurent Clerc. Pfeiffer (2003) notes that there is no record of sign language research prior to the 1950s. It was not until 1960 that Dr. William C. Stokoe first indicated that ASL was a distinct language in his monumental work, Sign Language Structure. Dr. Stokoe was a hearing professor of English and served as chairman of the English department at Gallaudet University, the only four-year liberal arts college in the world for the deaf, from 1955 to ― 69 ― 1971. According to Eastman (1980), Dr. Stokoe was the first researcher to use the term American Sign Language. Dr. Stokoe’s work was crucial in changing the perception of ASL from that of a simplified version of English, to that of a complex natural language in its own right, with an independent syntax and grammar. His studies, however, were mostly ignored or dismissed until 1970. Initially, he was ridiculed by his colleagues, even those at Gallaudet (Gannon, 1981). Recognition and study of the language by the professionals who taught deaf students were the first steps to deaf pride. Belka (2000) states that just as blackness became a source of pride and identity in the civil rights movement, ASL, the natural language of deaf Americans, became a source of pride for the deaf. Pinker (1994), taking the case of Ildefonso in Schaller (1991) as a sensational example of the magnificence of teaching ASL, stresses that ASL is a language. Ildefonso, a languagelss man, was a 27 year-old deaf Mexican who had not learned any language, nor could conceive of language. Schaller met him while working as a sign language interpreter in Los Angeles. Ildefonso did not know there was sound in this world and never knew there was hearing and deafness. Despite these limitations, he became able to convey to Schaller parts of his life story in ASL after a period of practice. 2. Influential Acts on Language Policy in the U.S. Postero (1995) contends that a new era of national language policy began in 1964 in the U.S. with the passage of the Civil Rights Act. The federal government, since that time, has become involved in the formation, regulation, and enforcement of national language policy. With the Equal Education Opportunities Act in 1974, education agencies must take appropriate action to overcome language barriers which might ― 70 ― impede equal participation by national origin language minority students in the school program. In 1975, the Education of All Handicapped Students Act expanded the definition of national origin language minority students to include special constitutional safeguards for handicapped children who were linguistically or culturally different. In 1979, the Department of Education Organization Act was passed which elevated the Department of Education to an executive agency having a secretary of cabinet rank. The Office for Civil Rights, which is currently in charge of deaf education in the U.S., was assigned to the Department of Education. In the fall of 1990, the federal government reaffirmed the merits of bilingual education when President George Bush signed a law to encourage and support the use of Native American languages as languages of instruction. According to Lane (1999), neither the laws that provide funding for bilingual education programs, nor the laws that require those programs in schools with large numbers of children who use a minority language, have been applied to ASL-using children. America 2000, a 9-year long-term national strategy in the U.S., was designed in 1990 to move Americans toward the six ambitious National Education Goals. One of the goals aims is that the percentage of all students who are competent in more than one language will substantially increase and all students will be knowledgeable about the diverse cultural heritage of America and about the world community. In 1999 the American Council on the Teaching of Foreign Language declared the Standards for Foreign Language Learning in the 21st Century. Communication, Culture, Connections, Comparisons, and Communities, known as “The Five Cs”, were themes of the standards. In its Statement of Philosophy, focus was put on the development of children’s first language. ― 71 ― On March 30, 2007, the Convention on the Rights of Persons with Disabilities and Optional Protocol was formally opened at the United Nations. According to the World Federation of the Deaf, the Convention was the first international treaty ever that recognized sign languages and the linguistic human rights of deaf people. It can be presumed that the acts since the 1964 Civil Rights Act have stimulated many deaf advocacy groups and that the advocacy groups successfully petitioned the United Nations to change its language policy toward sign languages. 3. American Attitudes toward ASL as a Foreign Language 3.1. Objections to ASL Sinett (1995) claims that ASL is somewhat a paradoxical language. He argues that each year more states make policy allowing ASL to be treated as a foreign language equivalent, yet ASL is not likely to be in a foreign language department. “In the past 10 years,” Sinett states, “chairpersons, deans, and foreign language teachers responded they were more likely not to object to ASL, yet they show little interest in starting an ASL program, even though they felt it would be a benefit to the students.” Corwin and Wilcox (1985) point out that American universities are filled with misconceptions about ASL. Armstrong (1988) maintains, “There are well educated people who occupy positions of authority in American universities who do not accept the idea that ASL is a legitimate human language.” Sinett (1995) presumes that this may be because the people who run the program have normal hearing and are ethnocentric in terms of which languages they view as important. Despite the abundance of linguistic research that established ASL as a true language, a survey conducted by Corwin and Wilcox in 1985 indicated that 81% of the American colleges and universities sampled rejected ASL as ― 72 ― a foreign/modern language equivalent. Some of the respondents’ common questions about ASL included (1) Isn’t ASL just a derivative of English? (2) If ASL is American, how can it be considered a foreign language? (3) What kind of culture is associated with ASL?, and (4) Does ASL have a body of literature? Recognizing the growing awareness of ASL in the 1990s, Sinett (1995) replicated Corwin and Wilcox’s (1985) study to determine if there had been a change of perception since 1985. Sinett randomly selected a sample of 15% of the colleges and universities listing a foreign language major or a language requirement in the College Handbook (1994). Surveys were directed to the foreign language chairperson at each institution. Sinett found that of the colleges and universities surveyed, 50% of the 165 respondents objected to offering ASL for foreign language credit. The number one reason for objecting to ASL as a foreign or modern language equivalent was that it was not foreign. How a university defines the word foreign also gives an indication as to which languages might be accepted within the curriculum. When given the choice of defining foreign as “outside a place or country” or “unfamiliar”, 80 (49%) of 165 chose the former compared to 41 (25%) for the latter. Of the remaining 44 survey responses, the most common response in definition (12.7%) was “non-native or nonEnglish.” Some other responses were, “In an American university setting, ‘foreign language’ means Not English.”, “Pertaining to a language and culture other than the mainstream in any given country or place.”, and “A language significantly different both culturally and linguistically from English.” In Pfeiffer’s survey conducted in 2001 to 2002, he investigated practices in implementing and administering ASL programs offered for foreign language credit at the secondary level in the Commonwealth of Virginia. ― 73 ― The study surveyed one person in each public school division, who were 15 administrators in 14 school divisions, focusing on the individual who administered the ASL program. Some administrators reported that there was little concern that an ASL program would take enrollment away from other foreign languages. Others stated that it was more difficult to get approval from the foreign language teachers in schools where languages were struggling because they saw ASL as a threat to their enrollment and were apprehensive about losing staff. Those respondents stressed the fear of completion to other foreign languages admitting that they have to fight for a limited pool of students for foreign languages. A major obstacle to implementing an ASL program in 62% of the responding divisions was finding a qualified teacher. Funding or resources was mentioned by 23% of the respondents and another 23% said that perceptions or misperceptions impeded implementation. One respondent said, “We had to educate people that ASL is a language and a viable option to the more traditional foreign languages.” 3.2. Support for ASL The question about the status of ASL as a foreign language option continues to be discussed as schools and universities struggle to place ASL in the context of academic foreign language programs. On the national scene in the U.S., however, the American Council on the Teaching of Foreign Language (ACTFL) Executive Council passed motions in April 1990 that recognized that ASL was a complete system of communication that offered a separate cultural experience with its own literary tradition. More specifically, ASL was recognized to have grammatical, structural, and linguistic elements different from those of any spoken language, including American English (Wallinger, 2000). ― 74 ― Dr. Eve Sweetser, former President of the International Cognitive Linguistics Association, wrote in Hamm (1999), “There is no doubt in the mind of any linguist who has actually looked at signed languages that they are full and complete human languages. It’s just not a debate any more. The disagreement is only between people who know something about signed languages and those who have no knowledge about them, and imagine them to be ‘primitive’ and possibly universal gesture systems. Since I work on gesture as well, I’m fairly well situated to judge that ASL is not ‘just gesture’ but a complex language, which is conducted in the visual-gestural modality.” Fromkin (1988) sees that the basic grammars of signed languages are as grammatical and systematic as are spoken languages. According to Fromkin, deaf children often sign themselves to sleep just as hearing children talk themselves to sleep; deaf children report that they dream in signed languages as American children dream in English. Deaf children sign to their dolls and stuffed animals; slips of the hand occur and are similar to slips of the tongue; finger fumblers amuse signers as do tongue twisters amuse speakers. Reagan (2000) recalls, “In my twenty-plus years as a foreign language educator, no one has ever asked me whether Russian is a language. Nor have I been asked about French, German, Spanish, or a host of other common and less-common languages. And yet, for the past fifteen years, ever since I first set foot on the campus of Gallaudet University as a new faculty member, I have often been asked that question about signing: Is sign a language? Does it really count as a language?” His answer was always simple, “Yes, of course, it’s a language.” Reagan points out that the ignorance involved in the question involves at least three levels of confusion: 1) confusion about the nature of signed languages in general; 2) ― 75 ― confusion about the purposes of studying languages other than one’s own in general; and 3) confusion about decision making involving the selection and evaluation of both curricula and instructors for sign languages. Hoffmeister (1990) also claims that ASL is a language that has been misunderstood, misused, and misrepresented over the past 100 years. He summarizes the nature of natural sign languages as follows: “The structure of ASL is based on visual/manual properties, in contrast to the auditory/ spoken properties of English. ASL is able to convey the same meanings, information, and complexities as English. The underlying principles of ASL are based on the same principles found in all languages. ASL is able to identify and codify agents, actions, objects, tense, and modality, just as English does. ASL is therefore capable of stating all the information expressed in English and of doing this within the same conceptual frame.” Armstrong (1988) argues that those who would promote ASL as a foreign language for purposes of higher education instruction and the satisfaction of curriculum requirements must take account of the several ways in which it is foreign to the hearing people who will be asked to make decisions about its status. Armstrong claims that ASL is foreign in the same way as spoken languages with which hearing people are unfamiliar, namely, as an unknown language. He sees ASL even more foreign in that it employs a communication channel separate from that used by spoken languages. Belka (2000) maintains that if the purpose of foreign language requirements in public schools and universities is to encourage students to learn a second language and culture that is foreign to them, ASL meets that need as well as French, German, or Spanish. He stresses that ASL be offered through foreign language or ESL programs because the process of language acquisition is similar, whether the language is visual or spoken. Davis (1998) points out that proponents of real foreign languages advocate ― 76 ― travel to other countries to learn about other cultures and to broaden their horizons. He wonders why travel must be across oceans or borders to expand the mind, noting that students of classical Latin, Greek, or Hebrew simply travel back in time and in imagination to study their foreign languages, not to existing countries where the language is used. He further argues, “American Indian languages are acknowledged foreign languages at some universities, yet they are spoken right here in America. Just as there are ‘lands’ where these languages are or were used, so, too, is there the “land of the Deaf.” 4. The Flow of the 2010 NUFS ASL Program 4.1. Case of the 2010 DELT Students The school year in Japan begins in April and ends the following March. Nagoya University of Foreign Studies (NUFS) follows a two-semester system with a spring and a fall semester. In the academic year of 2008, when the ASL program first started in the Department of English Language Teaching (DELT) at NUFS, 45 out of 47 enrolled freshmen (95.7%) registered for ASL 1 (Introductory) and 39 out of 43 enrolled freshmen (90.7%) in the academic year of 2009. In the academic year of 2010, 50 freshmen were enrolled in our department. They showed a strong interest in ASL, being influenced and attracted by my reports on the impact of learning ASL and of the Boston University intensive summer program. As a result, although the course was one of many elective courses for them, all of the 50 freshmen registered for ASL 1 and were divided into two groups consisting of 25 respectively. Figure 1 shows the flow of the 2010 ASL program for the students. At the time of writing, the students are ready to take ASL 2 (Intermediate) to be started in September 2010. Mr. Danny Gong, director of Deaf Japan Language School, recommended ― 77 ― Figure 1 Flow of ASL program for 2010 DELT students 50 DELT freshmen Class A (25 freshmen) Class B (25 freshmen) 2010 Spring semester ASL 1 (Introductory) ASL 1 (Introductory) 2010 Summer Boston University Intensive Summer ASL Course 2010 Fall semester ASL 2 (Intermediate) ASL 2 (Intermediate) 2011 Spring semester ASL 3 (Advanced) ASL 3 (Advanced) by the Japanese ASL Signers Society in Tokyo, teaches ASL 1 and ASL 2. He is a hearing Chinese-American and a distinguished and renowned sign language teacher born and raised in New York City by his Deaf parents. Mr. Emilio Insolera teaches ASL 3. He is a graduate of Gallaudet University, born in Buenos Aires, Argentina. He directed a movie titled Sign Gene, which was featured on NHK Educational TV program in 2009. NHK (Nippon Hoso Kyokai), whose official name is Japan Broadcasting Corporation, is Japan’s sole public broadcaster. 4.2. The 2010 Boston University Intensive Summer ASL Course The 3rd intensive summer program was held at Boston University from July 26 through August 22 in 2010. Twenty out of the 50 freshmen who took ASL 1 in the first semester participated in this intensive program. This overseas program was developed in cooperation with the Boston University Center for English and Orientation Programs (CELOP) and the Boston University School of Education. The program is unique in that an ASL course is integrated into a regular English language course, which is a ― 78 ― first among Japanese universities (Kikuchi, 2009). Based on results from a student satisfaction survey, the average score was 4.6 out of 5.0 points which indicates that the program ended with as much success as the previous programs held in 2008 and 2009. Professor Bruce Bucci from the Boston University School of Education was the teacher of the ASL course. None of the participants had ever experienced communicating with a deaf native ASL signer. The class was based on the textbook, Signing Naturally Level 1, published by Dawn Sign Press. According to Rosen (2010), most of the teachers surveyed (83%) in the U.S. in his study use this textbook, followed by A Basic Course in American Sign Language (49%) and the Green Books (30%). The three-level Vista American Sign Language: Signing Naturally curriculum, which is informally called Vista, consists of a teacher’s curriculum, as well as student videotapes and workbooks. Vista follows the functional-notional approach (Smith, 1988) and its focus is not grammar but communicative skills. Professor Bucci always encouraged the students to communicate as naturally as possible while extending their range of ASL vocabulary through pair-work activities. He often took the students outside the classroom, for example, to a convenience store, a bank, a fast food restaurant, a cafeteria, a bookstore, Fenway Park, a subway station, a library, etc., while teaching signs related to objects they saw around them in real-life situations. He showed them deaf people are, first and foremost, people who live ordinary lives and have a need to communicate in a variety of situations. He greeted everyone he met on the street, from students and tourists to construction workers and police officers. What was impressive was they all greeted him back with a smile, although few knew ASL. Professor Bucci often encouraged the students to use as many facial expressions and body movements as possible when they signed. These ― 79 ― were crucial factors especially to hearing Japanese students who did not always use such means of communication in their daily lives. Belka (2000) points out that signing ASL without the proper facial expressions and body movements corresponds to a foreign language student’s applying English pronunciation and intonation to French, thus making it nearly incomprehensive to a Frenchman. One of the most impressive classes during the course was a presentation at Harvard University. The students were required to make a presentation in both English and ASL. As for English, the students were assigned to choose one historic place such as Massachusetts Hall, the Statue of John Harvard, the Science Center, Memorial Hall, Memorial Church, or Widener Library to explain its history in front of the place they had chosen. As for ASL, the students prepared a short story about their greatest memories in Boston and at Boston University making use of sign vocabulary they learned during the course. On the day of their presentation, while participating in a guided tour on campus at Harvard, the students saw Professor Bucci talking with a hearing person with the help of sign interpreters. He introduced the person to us, who later turned out to be a politician working at the John F. Kennedy School of Government. After the guided tour, the students walked to a restaurant near Harvard Square. On the way Professor Bucci happened to find a man signing to another person and invited him to our group. The man was a deaf teacher from Haiti who lost his house and some friends in the huge earthquake that struck in January 2010. The deaf Haitian teacher slowly talked about the earthquake in sign in front of us, expressing appreciation to all the people and organizations for their humanitarian aid to Haitian people in need. This was the moment when the students learned that a sign language was more than just a language. ― 80 ― In the ASL presentation which took place at a restaurant near Harvard Square, the students talked in sign about their greatest memories in Boston and at Boston University. Some students talked about the pizza party with Boston University Deaf Studies students, shopping at Quincy Market, and a baseball game at Fenway Park. Others talked about whale watching, trips to Salem and Plymouth, events with their host families, and so on. Customers and waiters at the restaurant gathered around our tables and curiously observed the presentations. The students were not just practicing ASL, but they were in part of a community at that time. Professor Bucci provided his detailed comments with a great sense of humor to each of the 20 students and praised them individually for every little improvement they made with his both arms raised up to express his satisfaction. Four hearing American teachers from Boston University and two hearing Japanese teachers from NUFS at the scene learned that a teacher could change his students. It was true that the students had developed rapport with Professor Bucci while developing a positive attitude toward him through classroom interaction. It is not an exaggeration to say that we appreciate Professor Bucci’s passion which inspired us and brought great success to the 2010 Boston University intensive summer program, like in the previous two years of the program. At the completion ceremony, Professor Bucci stressed that hearing people and deaf people were equal. Furthermore, he did not forget to turn our attention to Japanese Sign Language and Japanese deaf people. Professor Bucci signed to us with respect as a closing remark, “You learned ASL in Boston and made friends with deaf Americans at the pizza party, but when you go back to Japan, please make friends with Japanese deaf people and learn their language so that you can help them. That is your important job. I hope things you learned in Boston this summer will grow like a big ― 81 ― beautiful flower in Japan.” 4.3. Evaluation on Professor Bucci’s ASL Course The following questions were asked in Japanese to the participants in Professor Bucci’s ASL course on the last day of the course. Q1: Did NUFS ASL 1 help you to communicate with Professor Bucci? Q2: Did the Boston University Intensive Summer ASL Course encourage you to study ASL more in the fall semester at NUFS? Q3: Do you feel you have developed a positive attitude toward deaf people after taking the Boston University Intensive Summer ASL Course? Q4: Do you feel you came to have an interest in Japanese Sign Language after taking the Boston University Intensive Summer ASL Course? Table 1 Number of students who responded to the item Strongly Agree Agree Q1 17 (85%) 3 (15%) Q2 18 (90%) 1 (5%) Q3 19 (95%) 1 (5%) Q4 8 (40%) 9 (45%) Neither agree nor disagree Disagree Strongly Disagree 1 (5%) 2 (10%) 1 (5%) Q5: What was the most important lesson you learned from Professor Bucci? People are equal. Hearing people should not look down on deaf people. Deaf people can do anything hearing people can do. Hearing people should not see deaf people as disabled. ASL is really a means of communication for deaf people. We (Hearing people) should not create a psychological border in our minds between hearing and deaf because of our prejudice toward deaf people. ― 82 ― Welcoming people with a smile is very important to start a conversation. Japanese students should practice expressing facial expressions more. People should respect others even if they are in a minority group. Hearing people can communicate with deaf people as long as hearing people have a desire to communicate with deaf people. ASL has more power than I had expected. Being a good teacher is having a sense of humor. Professor Bucci never neglected us even if our signing level was low. Sign interpreter’s work is amazingly professional. Family is the most important unit in the world. 4.4. Discussion As explained in 4.1., all of the participants in the intensive summer course at Boston University had taken Mr. Gong’s ASL 1 course (Introductory) at NUFS. As is clear from Table 1, Mr. Gong’s ASL 1 course greatly helped the students communicate with Professor Bucci. Regarding Q2, one of the 20 students responded negatively to the question. It was revealed later that the host parents of this student in Boston had a different attitude toward hearing people learning ASL. “I was shocked to hear American hearing people say learning ASL is not useful. The parents even told me to stop learning ASL. They suggested to me that I learn only English”, the student said. It can be presumed that the comments made by the host parents discouraged the student to continue to learn ASL. Regarding Q3, it can be summed up that the 2010 Boston University Intensive Summer ASL Course was successful in that all of the students agreed that they developed a positive attitude toward deaf people after taking Professor Bucci’s ASL course. Regarding Q4, it was found that 85% of the students came to have an interest in Japanese Sign Language after taking Professor Bucci’s ASL course. As Professor Bucci pleaded with us in his speech at the completion ceremony, turning our attention to Japanese deaf people and their language ― 83 ― is also an important task and will be our next step to explore. On our way back from the U.S. in August 2010, I saw some students, sitting at the both ends of their rows on the international flight, signing to each other in ASL. They were asking simple questions such as how they were feeling, what movie they were watching, what music they were listening to, what they were going to eat for dinner, and so on. ASL was used when distance or noise made it almost impossible to communicate with each other. Four students saw their birthdays come round in Boston during the intensive summer course. They will never forget the happy birthday song sung in ASL at the completion ceremony. It is worthy to note that our students became able to construct two realities through the intensive ASL course at Boston University and have them running in parallel with an open and inquiring mind toward deaf people. 5. Teaching ASL as a Foreign Language 5.1. In the case of the U.S. Battison and Carter (1981) state that in 1980, no college and university in the U.S. had yet to make ASL a permanent part of their foreign language curricula. However, since then, surveys conducted by the Modern Language Association of America (MLA) have indicated that ASL has the fastest and largest percentage increase in foreign language enrollments in U.S. institutions of higher education. According to Clary (2004), enrollments in ASL courses more than quintupled with a 532.8% change from 1998 to 2002. In a recent report from the MLA (Myers and Fernandes, 2010), enrollments in ASL courses rose nearly 30% from 2002, making it the fourth most studied language on college campuses (See Appendix). The growth of ASL as a foreign language in U.S. secondary schools has been witnessed particularly in the last two decades. Rosen (2008), indicating ― 84 ― the studies by Welles (2002) and Wilcox (2006), hopes that the history and information from the survey will aid school administrators and educators in becoming aware of the situation of ASL as a foreign language and in implementing ASL classes in schools. According to Welles (2002), student enrollment in ASL classes grew from 1,602 students in 1990; 4,308 students in 1995; and 11,420 students in 1998; to 60,849 in 2002. The growth rates were 3,698% from 1990 to 2002, and 432% from 1998 to 2002. The number of U.S. colleges and universities that accepted ASL as one of the foreign languages that meet the requirement for undergraduate admission grew from 48 in 1991 to 148 in 2006. The growth rate was 208%. Rosen (2008) notes that this growth of ASL as a foreign language in schools is part of a general trend in educational institutions in adopting ASL for admission and graduation purposes. Wallinger (2000) suggests, “Clearly, the debate of whether or not ASL is a foreign language will continue in the years to come. However, for institutions where the decision has already been made, it is time to move beyond discussing of whether or not to include ASL as a foreign language, and to devote that time and energy to developing ways in which the best practices in foreign language teaching can be applied to the subject.” 5.2. Suggestions to Japanese Universities As of September 2010, there are 778 four-year universities in Japan including seven universities of foreign studies. Nagoya University of Foreign Studies (NUFS), one of the seven universities of foreign studies, offered an ASL program in the context of a hearing curriculum in 2008, which was a first among the departments of English language teaching at Japanese universities. The ASL program successfully expanded from our student ― 85 ― population in the Department of English Language Teaching (DELT) to include a group of potential flight attendants, so consequently, 120 students learned ASL at NUFS in the school year of 2009. Although we are now in the third year of a successful ASL program, the ASL program is still placed under the category of special education in the department curriculum, so there might be confusion among hearing students about ASL because they tend to associate ASL as a handicap condition of deaf people and not as a language of its own. Therefore, it is strongly recommended that the ASL program be placed under the category of foreign languages. In order to achieve nationwide recognition of ASL as a foreign language satisfying the foreign language requirement within the university system in Japan, first, NUFS needs to start with a grassroots movement as the forerunner. In this respect, there are several things to consider: (1) All of the three ASL courses in the program should be required courses rather than elective ones for the students of the Department of English Language Teaching, (2) The ASL program should also be open to the other six departments in the undergraduate course to raise awareness toward sign language, (3) A course for sign language studies should be implemented in the graduate program, (4) A deaf ASL teacher should be hired as a full-time teacher, (5) An ASL teacher should be invited to NUFS as a visiting professor from the U.S., and (6) An international joint research project should be conducted with the Boston University Deaf Studies Program, Teachers College at Columbia University, and Gallaudet University to establish an international network and learn the strategies that were successful in how ASL became recognized as a world language. As a nationwide movement outside of NUFS, I suggest to the other six universities of foreign studies in Japan that they introduce an ASL course for their students wishing to become English language teachers. In addition, ― 86 ― an intensive ASL course is recommended to every new English language teacher in Japan as in-service teacher training to be taken within three years after he/she starts to work. Furthermore, I call for an establishment of an institution to develop a foundation of research that would support language policy reform to the Japanese Ministry of Education toward the recognition of ASL as a foreign language in Japan. 6. For Future Studies While establishing an ASL program at Nagoya University of Foreign Studies, I found that several topics on gesture and sign language appeared in major English textbooks inspected and approved by the Japanese Ministry of Education for elementary and junior high school students. Further investigation uncovered that sign language was not a required course to become a teacher at deaf schools in Japan (Kimura, 2007). After the establishment of the ASL program in Japan, my interests turned to research that needs to be undertaken on the status of ASL along with Japanese Sign Language (JSL). Regarding the status of JSL, the Japan Deaf Children and Parents Association filed a strong request in 2003 with the Japan Federation of Bar Associations to promote the social status of JSL. In response to repeated appeals by deaf advocacy groups, the Japan Federation of Bar Associations submitted a petition to the Japanese government in making a policy on deaf education in Japan (Saito, 2007). Their plea went unheeded at the time. Kanda (2009) claims that despite the fact that a large budget has been allocated in Japan for medical doctors and engineers studying the development of hearing aids and cochlear implants, not a category in research project programs has been organized by the Japanese Ministry of Education for sign language studies. Consequently, Grant-in-Aid for Scientific Research, ― 87 ― which represents Japan’s most typical competitive fund program, has not been provided to sign language researchers in Japan to enable them to devote intensive efforts to advancing their research activities. Even under the harsh circumstances above, it is particularly worthy to note that on November 25, 2009, a Japanese deaf woman in her 60s, who had her ability to use sign language impaired after being injured in a traffic accident, successfully sued the man who caused the crash and won compensation for her damage. During the hearing at the Nagoya District Court, Judge Kozo Tokunaga ruled that “sign language is a means of mutual comprehension, comparable to speaking for a non-handicapped individual.” This was the first case in history in Japan that equally recognized the status of sign language and speech. Regarding the status of ASL, it seems that the possibility of teaching ASL as a foreign language in Japanese universities is quite low at present. What steps should I take in preparing myself to discuss and debate with those outside the field about issues relevant to the teaching and learning of ASL as a foreign language for hearing Japanese university students learning English? In the U.S. the creation, implementation, and assessment of educational language policies are generally complex processes that rely on the efforts of many constituents, including: policy makers, state boards of education, federally-funded committees within the Department of Education, lobbying arms of various political, professional, and trade organizations, school boards, education lawyers, non-government organizations, contracted research groups, academic specialists, and more (Crawford, 2008; and Mallet, 2009). In a case of California, Peggy J. Selover, the originator and sponsor of California Assemble Bill which requires California high schools to give foreign language credit to ASL courses, accomplished real communica― 88 ― tion among hearing students and those deaf and hearing impaired students mainstreamed into hearing environments (Selover, 1988). In the step-by-step process through which ASL legislation became reality in California in 1987 included the following ten steps: 1) Deaf Community, 2) Research, 3) Choosing a Senator/Assemblyperson, 4) Legislative Consultants, 5) Lobbying, 6) Testimony, 7) Information Source, 8) Sustained Effort, 9) Media, and 10) Follow-Up. It is generally true that in the U.S. many nonprofit organizations hire professional lobbyists to target key politicians or lawyers seeking landmark cases. In Japan, Nakamura (2006) claims that the parliamentary system makes courting individual politicians difficult, and the court systems have proved to be a long and very uncertain method of enacting social or legislative change. No matter how long it may take me to reach the ultimate goal, it is my intent to learn more information about the Deaf World in the U.S. to initiate steps to work with deaf people and policy makers and it is my belief that offering ASL as a foreign language in Japanese university settings will lead to further university innovation and education reform in Japan while at the same time contributing to promoting better understanding between Japan’s and the U.S.’s deaf and hearing communities. Lastly, I would like to take an episode from Groce (1985) about Martha’s Vineyard Island. Martha’s Vineyard, a large island five miles off the southern coast of Cape Cod, was well known throughout the U.S. for its whaling and fishing fleets, as well as for its growing reputation as a summer tourist colony. There was a time in Martha’s Vineyard history when everybody spoke sign language for over two hundred years. On the island, it was natural for hearing children to learn sign language from their hearing parents to get along with deaf people in the town. I hope one day the time will come when hearing children will learn sign language from ― 89 ― their hearing parents, like what happened on Martha’s Vineyard, on this small archipelago called Japan. Acknowledgements I am deeply grateful to Mr. Danny Gong, Mr. Emilio Insolera, and Mr. Bruce Bucci for their great contribution to our ASL program. I would also like to express my sincere appreciation to Dr. Harlan Lane, Distinguished University Professor at Northeastern University, and Dr. Russell S. Rosen at Teachers College, Columbia University for their warm encouragement and many valuable suggestions to creating a better ASL program in Japan for hearing students. My profound thanks go to Dr. Robert J. Hoffmeister of the Boston University Deaf Studies Program for his continuous advice and support for my work. References Armstrong, D. F. (1988). Some Notes on ASL as a “Foreign” Language. Sign Language Studies, 59, 231-239. Battison, R. and S. Carter. (1981). The Academic Status of Sign Language. In F. Cacamise, M. Garretson, and U. Belugi (eds.), Teaching American Sign Language as a Second/Foreign Language. Proceedings of the Third National Symposium on Sign Language Research and Teaching, Silver Spring. National Association of the Deaf. Baynton, D. C. (1993). Foreigners in Their Own Land: The Cultural Origins of the Campaign Against Sign Language in Nineteenth-Century America. Doctoral Dissertation, The University of Iowa, No. 9421103. Belka, R. W. (2000). Is American Sign Language a “Foreign” Language? Northeast Conference, Review, 48, 45-52. Clary, W. M. (2004). American Sign Language as a High School Language Elective: Factors Influencing its Adoption. Doctoral Dissertation, University of Southern California, No. 3145184. Corballis, M. C. (2002). From Hand to Mouth: The Origins of Language. Princeton University Press. Corwin, K. and S. Wilcox. (1985). The Search for the Empty Cup Continues. Sign ― 90 ― Language Studies, 48, 249-267. Crawford, J. (2008). Advocating for English Learners. Multilingual Matters. Davis, L. J. (1998). The Linguistic Turf Battles Over American Sign Language. In Wallinger, L. M. (2000). American Sign Language: Moving from Protest to Practice. Northeast Conference, Review, 48, 27-36. Eastman, G. C. (1980). From Student to Professional: A Personal Chronicle of Sign Language. In Belka, R. W. (2000). Is American Sign Language a “Foreign” Language? Northeast Conference, Review, 48, 45-52. Fromkin, V. A. (1988). Sign Languages: Evidence for Language Universals and the Linguistic Capacity of the Human Brain. Sign Language Studies, 59, 115-127. Gannon, J. R. (1981). Deaf Heritage: A Narrative History of Deaf America. In Pfeiffer, D. L. (2003). The Implementation and Administration of American Sign Language Programs for Foreign Language Credit in Public Secondary Schools (p. 4). Doctoral Dissertation, The George Washington University, No. 3083807. Groce, E. N. (1985). Everyone Here Spoke Sign Language. Harvard University Press. Hamm, M. (1999). A Proposal before the Curriculum Committee on the Status of American Sign Language as a Foreign Language, New York University. In Clary, W. M. (2004). American Sign Language as a High School Language Elective: Factors Influencing its Adoption (p. 3). Doctoral Dissertation, University of Southern California, No. 3145184. Hoffmeister, R. J. (1990). ASL and its Implications for Education. In H. Bornstein (Ed.), Manual Communication: Implications for Education (pp. 81-107). Gallaudet University Press. Kanda, K. (2009). A Pleasure for Learning Sign Language (In Japanese). Gengo, Taishukan, 38(8), 8-15. Kikuchi, T. (2009). Implication of Teaching ASL to Japanese Hearing Students. Nagoya University of Foreign Studies. Journal of School of Foreign Languages, 36, 1-27. Kimura, H. (2007). Japanese Sign Language and Deaf Culture (In Japanese). Seikatsu Shoin. Lane, H. (1999). The Mask of Benevolence. Dawn Sign Press. Mallet, K. E. (2009). Educational Language Policy and the Role of Advocacy among ― 91 ― English Language Professionals: An Historical and Case Study Analysis. Doctoral Dissertation, Purdue University, No. 3378805. Myers, S. S. and J. K. Fernandes. (2010). Deaf Studies: A Critique of the Predominant U.S. Theoretical Direction. Journal of Deaf Studies and Deaf Education, 15(1), 30-49. Nakamura, K. (2006). Deaf in Japan: Signing and the Politics of Identity. Cornell University Press. Peet, H. (1853). “Discussion,” Proceedings of the Third Convention of American Instructors of the Deaf, Columbus. In Baynton, D. C. (1993). Foreigners in Their Own Land: The Cultural Origins of the Campaign Against Sign Language in Nineteenth-Century America (pp. 259-261). Doctoral Dissertation, The University of Iowa, No. 9421103. Pfeiffer, D. L. (2003). The Implementation and Administration of American Sign Language Programs for Foreign Language Credit in Public Secondary Schools. Doctoral Dissertation, The George Washington University, No. 3083807. Pinker, S. (1994). The Language Instinct. Harper Perennial Postero, J. P. (1995). The Educational and Legal Issues of National Language Policy in the United States. Doctoral Dissertation, Northern Arizona University, No. 9529990. Reagan, T. (2000). But Does It Count?: Reflection on “Signing” as a Foreign Language. Northeast Conference, Review, 48, 16-26. Rosen, R. S. (2008). American Sign Language as a Foreign Language in U.S. High Schools: State of the Art. The Modern Language Journal, 92(1), 10-38. Rosen, R. S. (2010). American Sign Language Curriculum: A Review. Sign Language Studies, 10(3), 348-381. Saito, K. (2007). Sign Language as a Minority Language (In Japanese). University of Tokyo Press. Schaller, S. (1991). A Man Without Words. Summit Books. Selover, P. J. (1988). American Sign Language in the High School System. Sign Language Studies, 59, 205-212. Sinett, D. R. (1995). An Investigation of How Foreign Language Departments at American Colleges and Universities View American Sign Language. Doctoral Dissertation, Florida International University, No. 9610898. ― 92 ― Smith, C. (1988). Signing Naturally: Notes on the Development of the ASL Curriculum Project at Vista College. Sign Language Studies, 59, 171-182. Wallinger, L. M. (2000). American Sign Language: Moving from Protest to Practice. Northeast Conference, Review, 48, 27-36. Welles, E. B. (2002). Foreign Language Enrollments in U.S. Institutions of Higher Education. ADFL Bulletin, 35(2-3), 7-26. Wilcox, S. (2006). Universities that Accept ASL as a Foreign Language. In Rosen, R. S. (2008). American Sign Language as a Foreign Language in U.S. High Schools: State of the Art (p.11). The Modern Language Journal, 92(1), 10-38. Appendix Fall 1998, 2002, and 2006 Language Course Enrollments in US Institutions of Higher Education (Languages in Descending Order of 2006 Totals) % Change 1998–2002 % Change 2002–06 1998 2002 Spanish 656,590 746,267 13.7 822,985 10.3 French 199,064 201,979 1.5 206,426 2.2 German 89,020 91,100 2.3 94,264 3.5 *American Sign Language 11,420 60,781 432.2 78,829 29.7 Italian 49,287 63,899 29.6 78,368 22.6 Japanese 43,141 52,238 21.1 66,605 27.5 Chinese 28,456 34,153 20.0 51,582 51.0 Latin 26,145 29,841 14.1 32,191 7.9 Russian 23,791 23,921 0.5 24,845 3.9 Arabic 5,505 10,584 92.3 23,974 126.5 Greek, Ancient 2006 16,402 20,376 24.2 22,849 12.1 Hebrew, Biblical 9,099 14,183 55.9 14,140 –0.3 Portuguese 6,926 8,385 21.1 10,267 22.4 Hebrew, Modern 6,734 8,619 28.0 9,612 11.5 Korean 4,479 5,211 16.3 7,145 37.1 17,771 25,716 44.7 33,728 31.2 1,193,830 1,397,253 17.0 1,577,810 12.9 Other languages Total Cited from http://www.mla.org/pdf/06enrollmentsurvey_final.pdf (p.14) Fall 2006, Nelly Furman, David Goldberg, and Natalia Lusin. *The latest MLA survey report, released on December 8, 2010, shows that ASL enrollments grew to 91,763 (up 16.4%) in 2009. ― 93 ― マーティン・スタナード作、 『ミュリエル・スパーク 伝記』 ―スパークの「作品と人生の関係」とスタナードの “the nevertheless idea” ― 藤 井 加代子 はじめに 2006年4月13日に88歳で Muriel Spark が亡くなったとき、イギリスの新聞 死亡記事に、いずれ彼女の長年のコンパニオンだった Penelope Jardine が、 Spark の伝記を発表するだろうと書かれていたのを覚えている。楽しみに していたのだが、なかなか出版されず忘れかけたころ、伝記は 2009 年 7 月 にイギリスで、2010 年 4 月にアメリカで出版された。伝記を執筆したのは Jardine ではなかった。イギリスの Leicester 大学の現代文学の教授、Martin Stannard が、Mureil Spark: The Biography というタイトルでスパークの長年 期待された伝記を発表した。(注 1) スパークは私生活を公開することを、極端に好まない作家であった。し たがって1992年に Curriculum Vitae と題する自伝を74歳で発表すると、人々 の自伝に対する期待は大いに高まった。(注 2)しかし、その期待に背き自伝 とはいいながら、内容は厳密に制限されて、多くの読者を落胆させるもの だった。『履歴書』というそっけないタイトルが、象徴しているような内 容だった。スパークは彼女の作品を研究する学生や学者の間で、彼女に関 して誤った情報が出回り、それを正すのが第一の目的である、と自伝の執 筆動機を述べている。そして正確を期すために自伝では、文書と証言で証 明できることのみを扱うと記している。扱う時期は幼少時代から、戦後の 社会が逼迫状況にあったとき、女性が文筆業で生きる道につくことは並大 ― 95 ― 抵でなく、離婚して引き取った子供を両親に預けて、ロンドンで奮闘しな がら自活を計り、最初の小説を出版するまでの期間を扱っている。極端な 栄養不良と貧困状況のなか、失業に怯えて仕事から仕事へと綱渡りの自活 をしながら、詩人として生きる道を探る。その上神経衰弱に陥るという苦 しみを体験し、宗教に助けを求めて快復し、最初の小説、The Comforters が 世に出ることになる。それは 1957 年のことで、スパークは 39 歳になって いた。彼女が小説家として注目を浴びた結果、彼女の精神的な支えであっ た恋人は、嫉妬して二人の関係は拗れ、後に彼女の彼へ宛てた恋文を売り 飛ばしてしまうという裏切りを彼女に行った。それらのスパークの実体験 が、デビュー作の素材になっている。自伝はこの時期までを扱い、小説家 の形成期が対象となっているといえる。 作家としては遅咲きのスパークにとり、それは出発点でしかなく、その 後の長い作家生活を経て小説家として成熟を迎えることになるが、自伝は 39歳のデビュー時点で終わってしまった。したがっていずれその後の人生 に関して、自伝が更に出版されると期待する向きもあった。しかしながら、 スパークの自伝の続編も伝記も永らく出版されることはなかった。そして 死後 3 年を経てスタナードによる伝記が上梓されたのだが、彼がスパーク の伝記を書くことになった経緯などは、彼の伝記のなかの僅かな説明だけ が、少なくとも筆者には知りうるすべてである。彼女から突然依頼された のが、自伝の出版直後の 1992 年 9 月だったということなので、それから 17 年も経って伝記は世に送り出されたことになる。この小論では、伝記が作 成された経緯を踏まえ、伝記的事実を明らかにすることを一貫して忌避し たスパークが、自身の伝記に何を求め、伝記作家スタナードがその依頼に どのように応えているかを中心に考察してみたい。 Ⅰ スパークがスタナードに彼女の伝記を依頼した経緯は、上記したように ― 96 ― ごく簡単にしか触れられていない。1992 年に彼が Evelyn Waugh の伝記の 2 巻目(1992 年 9 月 Norton 社より出版)を出版したときに、Daily Mail 紙が スパークにその書評を依頼したのが、彼女の知己を得るきっかけだった という。彼女がそのときスタナードの伝記に好意的な書評を書いたことに 対し、彼は短いお礼の手紙を送ったところ、返事が来て驚いたという。そ してそのなかに、 「そういう時がきたら、彼のように優れた伝記作家に自 分も恵まれたいものだ」 (504)と書いてあったという。彼は、スパークが 本気かどうか分からないまま、あまり期待もせずに「喜んで」と返事を出 すと、彼女は「イタリアに来る機会があれば、その件について話をするた めに寄って欲しい」 (504)と応答があった。彼女の都合に合わせて、秋に 家族とヴァカンスでイタリアへ行く折に、スパークの家を初めて訪ねた。 1992 年 9 月 1 日のことであったという。 同じ年の夏、7 月 20 日には、彼女の自伝 Curriculum Vitae が発表されてい て、その夏には多くの好意的な書評が出回り、大きな話題になっていた。 その自伝は「1 巻」として宣伝され、2 巻目が期待されていたので、スパー クがスタナードに伝記の依頼をしたという噂が流れたときは、皆驚いたと いう。既に、10 年近く前に自伝的小説である、Loitering with Intent(1881) も出版されていたので、更に伝記を依頼したとは、スパークは何を企んで いるのか、と人々は驚きながらも期待したそうだ。スタナードは初めてス パークに会ったときは、 「大変に緊張した」 (xxiv)と述べている。同行し た家族の 3 歳になった娘の無邪気な発言をスパークが喜んで、座を和ませ 助かったと語っているが、やはり彼女の伝記を書くことは、彼に取って相 当な重圧となったようだ。伝記の序文で、スパークに伝記を依頼された ということは、「女性の校長に彼女の学校の歴史を書くように依頼された 感じだった」と述懐している。 (xxiv)彼が訪問したイタリアの家で、ス パークはダイニング・テーブルの端から端まで 50 センチ位の高さまで積 まれた資料を見せて、この資料を自由に使って、どんな好意も賛辞も必 要ないし、制限もなく、自分を死んだ者として扱って、伝記を書いて欲 ― 97 ― しいと依頼したという。 (xxii)スパークは両腕を広げて資料を指し示し、 「作家の苦闘の歴史よ」 (xxiv)と言った。それらの資料は、直前まで彼女 自身が自伝を執筆するために、利用されていたに違いない。スタナードが スパークに伝記を依頼された経緯は、この序文とそれに続く本文の終わり から 2 章目にごく簡単に触れられるだけである。 次に、権威ある校長先生に学校の歴史の執筆を依頼されたような緊張を 覚えながら、スタナードは今や Dame の称号をイギリス王室から授与され たスパークについて、具体的にどのような伝記を書こうとしたのか、その 目的と手法を確認する。結果から先に述べると、伝記の目的と手法の問題 は、当初は割合に順調に決定されたのではないかと推測される。依頼主の スパークの方から、まったく伝記に関する条件はなかったということは既 に確認したが、伝記には同時にスパークの希望が、極簡単に述べられてい て、スタナードはそれに沿った形で伝記を執筆したと考えられる。ただ、 彼女の意向に沿うだけでは伝記作家として納得できない点が現れた。その 点が後にスパークとの間に確執を生んだのではと推測される。その両者の 合意点と伝記作家の独自な視点を、まず確認しておく。 イギリス人は伝統的に伝記を愛読し、ボズウェルの『ジョンソン伝』 (1791)を初めとして様々な歴史に残るような伝記文学を著してきた。伝 記文学が豊かな国であるだけに、その目的と手法の考察は複雑多岐にわた り、充実した成果を生み出している。例えば、1996 年に Virginia Woolf の 伝記を著した Hermione Lee は、その浩瀚な伝記の第 1 章を “Biography” と題 して、全部を伝記の考察そのものに当てている。 (Lee, Virginia Woolf 3-20) 彼女は開口一番、Woolf 自身が友人の美術評論家 Roger Fry の伝記の執筆に (注 3) あたり困惑し、漏らした言葉 “My God, how does one write a Biography?” をそのまま引用して、自身の伝記作家としての困惑を重ねて表現してい る。Woolf は生涯伝記、“life-writing” に強い関心を抱いていたが、いざ Roger の伝記を書こうとペンをもつと、深く呻吟するのだった。Lee はその Woolf の伝記に関する考えを、彼女の日記のみならず小説や書簡などから多く集 ― 98 ― めて考察し、そこから自らの伝記の目的と手法を導き出す。また、彼女は 近年ひとつのジャンルとして学問の対象になるほどステータスをあげた伝 記に関する著作 Biography(2009)を著してもいる。時系列に沿って著され た著名な伝記の内容とそれに伴う手法の変遷を取りあげて、小振りであり ながら充実した伝記の概説書となっている。故人の業績を集めて膨れあが り、“panegyric” の書に逸した 19 世紀の伝記が、Woolf や彼女の仲間の Lytton Stratchey 等の作家によりモダニズムの洗礼を受けて、小説同様内容の見直 しは勿論のこと、形式を意識せずには書けなくなってしまったと述べてい る。(Lee, Biography Ch.5: “Fallen Idols” 72-92) しかしながら、スタナードのスパーク伝にはそのような “literary art” と しての伝記の逡巡はないかのごとくである。少なくとも、Woolf や Lee の ような伝記の書き方に対する悩みや考察は、伝記のなかに記されていな い。スパークは自分の伝記に関し、何の依頼もせず、干渉もせず、スタ ナードに全権委任したという点は既に確認したが、両者の共通認識として 次のように書かれている点は注目すべき点である。序文のなかで、極めて プライベートな人物であるスパークの伝記執筆の依頼の理由が、今でも謎 (“mysterious”)のままである、とスタナードが述べる件がある。(xxiv)そ の謎を解こうとする行為は、どのような伝記をスパークから求められてい るかを問うことと同じである。彼の自問自答が続く。つまり、依頼主の意 向を探り、それが伝記の目的となる。スパークは自分のことを説明するこ とに飽きてしまったのか。この自分の説明を他の人に代ってもらいたいの では。言わば文学という家の整理を代行してもらい、残りの歳月を創作の ために使おうということか。自伝は彼女の小説家としてのデビューのとこ ろで、終わったままになっているからだ。そして次のように続ける。 To continue might have involved too intimate a discussion of the relationship between her life and her work. And that relationship, she insisted, was fundamental. It would be my task to discover it. Neither of us hesitated for long but ― 99 ― from the outset we both agreed that any arrangement would have to guarantee my independence. (xxiv, 下線部 筆者) スパークの伝記執筆の依頼の謎を探りながら、彼女の「人生と作品(創作) の関係」 を求めることが、伝記作家としての自分の仕事だとの認識に至る。 その重要性は「スパーク自身が主張した」と語っている点に、注目する必 要がある。 上述したように彼はスパークの伝記作家として何をすべきか考えている のだが、結論は突然明らかにされる。つまりスパーク自身が、彼女の伝記 の目的を、どこかの時点で提示していたということではないだろうか。し たがってすんなりと、“the relationship between her life and her work” を描きだ すことが、伝記の主眼になった、と少なくとも読み取ることができる。依 頼主により伝記に基本的な形を与えられたということで、例としてあげた Woolf や Lee のように、どのような伝記を書くべきか、という設計図作成段 階での考察や逡巡はあまりなかったのではないだろうか。もちろん、それ はスパークの伝記が、苦労なく完成されたことを意味するものではない。 実際にスタナードは伝記の刊行までに、17 年の歳月を要している事実は、 完成は容易でなかったことを暗示している。それ以外の別の困難があった と推測される。Woolf や Lee の場合は、伝記の対象者が物故していたのに対 し、スタナードの場合はまだ活躍中の小説家だったという事実も大きな相 違点であった。 第一に、 「人生と創作の関係」と一口にいっても、それは “fiction” におけ る “fact” をどう定義するかといった容易でない問題を含み、これはそれほ ど単純なことではない。どの小説家にとってもそれは創作上の大きな本質 的問題である。ことにスパークにとり虚構と現実をめぐる謎は、一貫して 彼女の小説の主題であった。スタナードは序文で、スパークにその点につ いて質問をしたことを記している。小説家のスパークはその質問に明解に 答えていない。“facts” を “details” に置き換えて、それらをいくら集めても、 ― 100 ― “truth” や “reality” に達することは必ずしもないと述べる。“truth” や “reality” は、“fiction” のなかでしか語ることはできないと。 (xviii)ここでは、ス パーク自身、自伝で重視した “facts” の意味合いが変わってきているのに私 たち読者は気づく。(注 4)自己を守るには有効だとスパークが述べた “facts” も、彼女の集めた資料の “facts” をいくら丹念にドキュメンタリー風に連ね ても、本当の彼女の姿は語れないと意味していると考える。そのことを考 察し作品化することこそが、彼女の小説家の人生の主要な部分を占めた。 スタナードはここでは少々飛躍をしていると思うのだが、一気に次のよ うにまとめる。“Her fiction is her life reconstituted, sometimes with versions of herself as heroine: an extended exercise in self-justification.”(xviii)という結論 を導きだす。彼女に関する多くの “facts” を知った結果であろうか、「彼女 のフィクション(創作)は、再構築された彼女自身の人生であり、時には 自分自身を主人公にした大掛かりな自己正当化(弁護)の実践」と受け止 めている。スタナードが理解するところでは、彼女の自伝的フィクション 作品は、「大掛かりな自己正当化」であるということだが、スパークはこ れをすんなりと受け入れたのであろうか? 彼の「自己正当化」の定義を知 りたいところである。彼女は自身の自伝的作品を書くことにより、“a sense of enriched self-knowledge”(CV 14)を得た、と自伝のなかで述べている。 スパークは自伝執筆により自己認識を深め満足している。両者の見解に差 異があることがわかる。彼のスパークに関する理解の核心となる「フィク ションのあるものは再現された彼女の人生であり、自己正当化の実践」と いう考えが、どのように伝記のなかで展開していくことになるか確認して みたい。次に、彼がその伝記の目的を実現するためにとった方法を確かめ るが、そのためにまず、スパークの作品以外で、彼が参照した資料につい てみておきたい。 ― 101 ― Ⅱ 彼にとっての最初の難題は、圧倒される量の資料の読解と分類だったろ う。スパークにとってそれらの資料は、彼女を守る重要な武器であること は、彼女の自伝を読めばすぐわかることだった。その圧倒的な量だけでな く、種々雑多な資料が分類されずに、彼の目の前に積み上げられていた。 これらの大量の資料を整理分類するだけでも、スタナードにとっては大変 な作業だったことが推測される。彼が Waugh の伝記に取りかかったときに は、すでに Waugh の日記も書簡集も編纂され出版されていたので、彼はそ れらを利用して、伝記の資料にすることができた。しかし、スパークの収 集した “writings”(xxii)は、大きなダイニング・テーブルの端から端まで 50 センチ位の高さの嵩があり、日記も出版社の契約書も美容院のレシート もみな混在して堆く積まれていた。これらの整理と分類が伝記作家の最初 の作業となったことだろう。それは時間と神経を費やす仕事だったであろ うが、同時に彼にとって伝記の素材を得る宝の山の散策となったことだろ う。そして彼はこの彼女の一面を書かずには、スパークの伝記は完成しな いというものを見つけることになる。たとえ、気難しいといわれるスパー クに反対されたとしても。スタナードが長時間を要して参照することに なったこれらの資料について、まずスパーク自身の説明を参考にして、ス タナードの説明を確認しておきたい。 スパークは Curriculum Vitae の冒頭で、“I am a hoarder of writings and trusted friends.”(CV 11)と、いかにもスパークらしい含みのある簡潔さで、彼女 にとって重要なものが、不思議な組み合わせであるが、ふたつあげられて いる。 「文書」と「友人」 。1949 年以来、自分に関係する文書は一切捨てず に保存する習慣があることを明らかにする。それは受け取ったほとんどす べての手紙、メモ、約束の記録されたノート、住所録、世界中の出版社や エージェントと交わされた文書、税務署、会計士、弁護士関係の書類、趣 味の競馬の馬券に至るまで全部保管され、膨大な量になっていたという。 ― 102 ― (CV 185)それらがスタナードがスパークとの面会の初日に見せられ、圧 倒された文書の山の内味だった。その習慣は、痛ましい経験をした結果身 についたものだった。1943 年に一児を設けたあと離婚し、戦後の混乱期を 詩人になることを夢見て、その子をエディンバラの親に預けて、ロンドン で独り栄養失調に苦しみながらも孤軍奮闘していたとき、1947 年にせっ かく抜擢されて就いた詩の機関誌の編集長の座を、虚偽に基づく嫌がらせ で、僅か 2 年足らずで辞職に追い込まれた。その時に、自己防衛と正確な 記憶のために物的証拠の大切さを認識した結果、すべての自分に関係する 書かれたものを片端から貯めておくことにしたというのだ。 「文書を貯め る人」とはそのような意味だったのである。 次に以上のように、スパークにとり重要な意味を持っていた膨大な資料 の、スタナードによる分類結果をみておこう。それらは後に彼女の生まれ 故郷、エディンバラの国立図書館に売却されたことから、スタナードは “the Edinburgh archive”(xxii)とか “the Edinburgh papers”(xxii)と呼んでいる。 彼の説明をまとめると、次のようになる。(注 5) ・魂の内奥を語るような日記はない。(注 6) ・何千通にも及ぶ手紙は、主にファンレターやビジネス関係のもの、母親 からのたわいもない内容の手紙、彼女の恋人だった Derek Stanford からの 情緒的な文学批評、社交上の約束や旅行の予定に関するもの、変わった 友達の手紙、有名な文学者、Greene や Murdock、Updike、Waugh や Williams などからの手紙。それらは親しげで賞賛を述べているが、短くていわば 儀礼的な種類の手紙である。彼女はそれらの人々との親しい付き合いは なかったから。 ・その膨大な資料の四分の一は、あまり価値のないもの。食料品店から美 容院にいたる請求書類。郵便局の通帳、銀行の取引書、小切手帳の控え や祝電の類い。買い物やパーティのリスト。クリスマスカード。とにか く何でも溜め込んでいた。 そしてこれらの雑多な資料を根気よくリサーチした結果を、次のように ― 103 ― まとめている。まず、書くことがスパークの天職であり、同時にビジネスで あること。これらのものを集めることが通常の営みであったことが、彼女 が長く作家の修行をしてきたこと、厳しい交渉の連続だったことを物語っ ている。彼女の出自が文学とは関係がなく、貧しかったこと。40 代のとき の彼女の洋服、食事と家賃の詳細。医師と薬局の請求書から、彼女がスト イックに病気と手術に耐えてきたことなどが分かる。これらの赤裸々な事 実は、彼女のフィクションという真珠を生み出す核であったことを示し、 出版社や恋人とのもめ事、復讐心の強い詩人など、何も無駄にされていな い。彼女が赤貧に苦しんでいた時期のフォートナム & メイソンの小さくて 高価なジャムのレシートも、スタナードは見逃さない。普段の食費を欠く ような生活をしながらも、ロンドンの高級食材店のジャムを買っているこ とに注目している。 (xxiii)スパークは困難にあっても落胆することなく、 すべての障害を乗り越えて、彼女の道を邁進していることがわかる、と資 料を閲覧した感想を記している。彼の資料の説明から、細々としたスパー クのレシートまで読んでいることがよくわかる。そうすることにより、彼 女の日々の生活の細部まで理解できたことだろう。プライベートな情報 が公になることを特に嫌ったスパークの日常も、普通の人々と同じように 日々の生活には、退屈な部分があったということもそれらの資料は示して いる。その一方で、二度だけ、事務的なことしか書かれていない日記に、 感情が爆発した記録が残されていたのを指摘している。感情を表に出さな い彼女のクールなイメージに亀裂が入るそれらの瞬間を、伝記作家は注目 することになる。 Ⅲ 伝記の主要な目的が、Spark の「作品と人生の関係を明確にすること」で あるから、その手法は時系列(chronological order)に沿ったものになるの が自然である。それは言わば伝記の伝統的な手法である。永遠と現実の二 ― 104 ― つの時の相を同時に扱う特徴のあるスパークは、フラッシュ・バックや フォワードを巧みに組み合わせて、物語の時系列の展開を撹乱する手法を 多用した。これは彼女の文学の本質「虚構と現実をめぐる謎」を描出する 目的のために考案された手法である。その作家を描く伝記が、厳密に時系 列に沿って、事実に即して描かれることになる。伝記は圧倒的に現実の時 の支配下にあるということであろう。一方スパークは先に紹介したよう に、“reality” や “truth” はフィクションのなかでしか扱えないと述べている ことから、伝記という現実の時に支配された媒体自体が、彼女の望み― “reality” や “truth” を探求する―は、実現不能であることを示している。 この点はまた後で取り上げることになる。スタナードの時系列に沿った記 述は徹底していて、彼がスパークと知り合い彼女の伝記作家となる出来事 も、律儀に彼女の人生の一区分を扱う、19 章 “Settling the Bill: 1988-92” での 出来事の時系列の連なりのなかに組み込まれ、ひとつのエピソードとして 淡々と語られている。その内容は既に詳しく取り上げたので、ここでは繰 り返さないが、1992年に Daily Mail 紙から Evelyn Waugh の第2巻の書評をス パークは頼まれた、と当時の出来事を紹介したあと、段落を変えていきな り “The author of this biography was me.”(504)とスパークと知り合う件を始 めるので、私は読んでいて正直当惑した。それまでスタナードはまったく スパークに面識がなかったので、彼女の人生のこの段階で初めて知己を得 て、突然登場するのはもっともであるが。このように唐突に自分がスパー クの伝記作家になることになったきっかけを、彼女の歴史のなかの一項目 として紹介し、そのあと 1 ページにも満たない出合いのエピソードを紹介 すると、またしても唐突に、新作 Reality and Dreams とその後彼女が苦しむ ことになる腰の手術に話題は移ってしまう。 以上のスタナード登場の例が、彼の一貫した年代順の手法をよく例証し ている。スパークのフィクションと人生の密接な関係を明らかにすること が、彼女の伝記の最重要課題であるので、時系列に沿って彼女の人生の出 来事とそれに沿って生み出される作品の状況、構想、創作、出版、評価な ― 105 ― どについて、一作ずつ丹念に調査し、量の多寡はあるが紹介される。フィ クションだけでも 22 作品を発表する多作ぶりであったので、作品の創作 とその要約や評価に関する部分が、全体で 600 ページ程の自伝の主要な部 分を占めることになる。すでに述べたように、スパークが自伝で扱ったの は、一作目だけであったので、スタナードはその後の 21 作品と彼女の人 生の関係を対象にすることになり、それは大変な作業であったであろう。 伝記では自伝と重なるが、彼女の誕生に戻って語り起こし、小説家とし てのデビューまでの時期にもかなりの紙幅を割いている。最初の小説 The Comforters が自伝的であることは、よく知れ渡ったことではあったが、スタ ナードはその小説が執筆されるまでの彼女の人生を、特に恋人 Derek Stanford との関係、実人生の仕事や生活の苦闘や精神的病の克服とカトリック への改宗を中心に説明することで、その小説が作家の伝記的事実を素材に して描かれていることを丹念に例証する。自伝でのスパーク自身の説明と 比較すると、私生活や精神の病と改宗に関しては、自伝ではほとんど触れ られていないので、新しい伝記でより詳しく知ることができる。 スタナードは、この最初の小説に関する彼の解釈が示しているように、 モダニズムからポストモダニズムへ、更に「作者の死」まで行き着いた戦 後の文学批評の変遷を無視するかのごとく、伝記のなかで “critical” という よりも “biographical” な批評を展開する。そうすることにより、スパークの 「人生とフィクションの密接な関係」 を明らかにしていく。これはスパーク の希望を伝記で実現するために、自然に導きだされた結果だと思われる。 彼女は自ら自伝のなかで、 「しばしば自伝的作品を書いた」(CV 14)と述べ ているが、スタナードが知りうる彼女の伝記的事実を、作中に認めていく という行為が、伝記の執筆の基本となる。その方法は、ポストモダンな作 品を好んで執筆した作家には、一見矛盾するようにみえるが、作家の「人 生と作品の関係」を記すという伝記の目的に適った方法である。また文学 批評の最近の傾向においても、 「テクストのなかにすべてがある」との内在 批評(テクスト論)により、姿を消した「作者」は、このところ揺れ戻し ― 106 ― のように、 「作者」を積極的に作品のなかに読み込む文学読解により、復活 した感がある。 (加藤 1 章「 『作者の死』と『取り替えっ子』」7-68)何よ りも作者自身がそのことをもっともよく知っていて、スパークは小説家と してデビューする前に Emily Brontë の伝記を執筆し、少ないエミリーの資 料と作品に作者エミリーを読み込む魅力あふれる読解を披露し、小説家な らではの深い洞察力と豊かな想像力でエミリーの「作者の像」を彷彿とさ せている。 少し迂回するようであるが、スパークの Emily Brontë: Her Life and Work (1960)で、エミリーの伝記を著したときに彼女が採用した目的と手法は、 そのままスタナードに引き継がれた形になっていることを確認したい。ロ ラン・バルトが「作者の死」を主題とする論文を発表したのは、その伝記が 出版された 9 年後の 1969 年であった。ニュー・クリティシズムを端緒とす る伝記研究排除の傾向は、バルトの論文を経ていっそう顕著なものとなっ ていった。そして上述したように、時は巡り 21 世紀を迎え作者の復権がな されつつある。スパークは、エミリー・ブロンテの人物像と作品のかかわ りを繊細な想像力で読み解いていく。スパークが伝説の仮面の下に隠され たエミリーの素顔を探ろうとしたように、スタナードもスパークの公の世 界に向けて被られた仮面の亀裂から覗く彼女の素顔をあきらかにしようと 試みる。 スパークは伝記の冒頭で、エミリーには伝説の言説がまとわりついてい るが、それを引き剥がすことが、彼女の伝記を執筆する目的ではないと明 言する。伝説的言説が与えられるにはそれだけの理由がある、とエミリー の天才ぶりを擁護する。できる限り彼女自身の、または彼女に関する書き 物を参照して、伝説となったパブリック・イメージに隠された、エミリー の別の側面を探ることが目的であると述べている。スパークの資料の読み は、いかにも創作者らしい想像力に富んで精緻で、特に詩人になる夢を抱 いていた彼女の詩人エミリーに対する関心の深さが伝わってくる、大変興 味深いものである。スパークは自分自身を、エミリーとその人生に重ね ― 107 ― 合わせているようだ。この後小説家として数々の作品を残すことになるス パークは、登場人物の内的変化や成長に関心が欠落しているような作風を 特徴とするようになるが、エミリーに関しては、むしろ逆に丹念に彼女の 内的変化を追っていく。固定した彼女の、 「情熱的で、孤独な天才」 (Spark, Brontë 13)というイメージは誤ってはいないが、彼女が一貫してそれらの イメージ通りの人物だったわけではなく、31 年の短い人生の最晩年の数年 のイメージが、あたかも彼女のすべてであったかのような扱いを受けて来 たことに異論を唱え、その起源を探る。人間の変化、変質を前提として認 めているが、これは彼女の登場人物の扱いとは際立って対照的である。ス パークのそれらの登場人物のなかで例をあげると、才気に溢れ生徒に対し 支配的な Brodie 先生は、常に生徒に自己の考えを押し付けるし、文筆の道 を目指す Fluer は、貧しくともいつも楽天的に文学への信念を失わないし、 妻と間違って子守りを殺した Lucan は、決して改心することなく、逃亡の 果てにアフリカで食べられてしまう。最後の小説の主人公 Mahler は、クリ エイティブ・ライティングの教師をしながら、他人の文章を剽窃するよう な人物で、倫理的にも文学的にも向上することはない。スパークの主要な 人物は、このように成長や変化を止めてしまった者たちで、それぞれの強 い個性(負の個性も含め)のカリカチュア的役割を果たしている。 このような人物造形を得意とするスパークが、エミリーの性格形成上の 「変化」に注目して、資料を時系列に沿って深く読み込んでいくのは、伝 記というジャンルが必然的に要求したものかもしれないが、小説の主題と して人物の人格形成に関心を示さないスパークの作風とのコントラストが 目を引く。彼女は資料を読みこむことで、エミリーの「心」(“mind”) , 「彼 女の考えの傾向」 (“the bent of her thought”) , 「彼女の考えの純粋な表明」 (“pure manifestations of her thought”) (Spark, Brontë 40)を捉えたいとしてい る。そして、エミリーの内的世界を再構築を(“reconstruct Emily’s personal frame of mind”) (Spark, Brontë 39)しようとする。ここにあげたこれらの言 葉は、すべてエミリーの内面や本質と関係するものであり、スパークが彼 ― 108 ― 女の伝記で求めたものをよく表している。 エミリーのパブリック・イメージは、 「情熱的で強烈な個性の孤独な天 才」や「風変わりな人嫌い」というものであるが、スパークはエミリーが 27歳のときに書いた誕生日のメモに注目する。姉のシャーロットや妹のア ン、それに兄のブランウェルが、皆それぞれに問題を抱えて苦しんでいた 時期であったが、エミリーだけは平穏な様子で、家族の皆も自分のように 考えれば、落ち着いていられるのにと記している。 (Spark, Brontë 68-70) いつも家族のことを思い、生活の糧を得るために三人姉妹で学校経営を企 画する姉のシャーロットが、その計画を彼女にもちかける。しかし、直前に 叔母の遺産が生活には困らない程度手に入ったエミリーは、教師として働 く気はなく、自分は家に留まり家庭の面倒をみる方がいい、今の生活に満 足をしていると書き記している。そこには現実をありのままに受け止め、 満足をする家庭的な一人の女性がいる。情熱家で人間嫌いの天才の姿は浮 かんでこない。 このような家庭人として満足して牧師館で暮らすエミリーの姿が後世に は伝わらず、代わりに何故情熱的で世捨て人のようなイメージだけがひと り歩きしたか、スパークは続けて考察する。 『嵐が丘』を書いたり、詩の 創作をするという行為の結果、それまで気づかなかった自分の潜在的な傾 向を見いだし、彼女自身が逆にその新しい自分のイメージに、自身を近づ けようとしたのではないかと大胆に推理する。つまり、エミリーの自己形 成のプロセスは、文学活動によって大きく影響を受けたのでは、とスパー クは考える。ここには、フィクションによって影響を受け、自画像が変わ る事例を確認することができる。さらに、24 歳のときにブリュッセルの 学校で教育を受けて、内省することを学んだことの影響も大きいとみてい る。この留学を切っ掛けに、彼女の性格に変化が現れたという。気難しい 性格が明らかになってきたと。激しい風変わりな愛の物語である Wuthering Heights(1846)が発表された一年後に、エミリーは病に倒れたのだが、医 者の診察も薬も受け付けずに、看護をするシャーロットを悩ませ、その結 ― 109 ― 果彼女には妹は尋常に見えなくなってしまった。姉はそのような妹エミ リーを、 「強くて、独創的な考えを持ち、風変わりだが陰鬱な力にあふれて いる」 (Spark, Brontë 77)とドラマ化して、伝説的言質で飾り立ててしまう ことになった。ここでは、実人生がフィクション化されている。その姉の 作り上げたエミリーのイメージが、決定的な彼女のイメージになり、彼女 の全人格がそのイメージ一色で彩られてしまい、後世に伝えられることに なった、とスパークは結論づける。 スパークはエミリーの伝記の最後で、エミリーの愛について語っている のだが、それはスパーク自身の作家の修業時代の恋人 Derek Stanford と自身 の関係を重ねて述べている感じがする。姉や妹は一般の恋愛を経験してい るが、彼女にはその形跡がない点に注目し、そのことと Wuthering Heights の Cathy と Heathcliff の一般の恋愛とは異なる愛、魂がひとつに合一する愛を 比較検討する。ここでも作品から、その作者のセクシャリティが推測され ている。フィクションから実人生が想像 (創造) されていると思う。そして、 エミリーは男女の恋愛に全く関心がなかった、“a born celibate”(93)ではな かったか、とスパークはみる。時代が違えば、彼女はきっと修道院で尼に なっていただろうと想像する。一方スタナードは少し量的に多過ぎるので はと思うほど、スパークの若い頃の恋愛を伝記のなかで扱っている。彼女 が若い作家として駆け出しの頃もっとも信頼した恋人の Stanford に宗教上 の理由から禁欲を求め、二人の関係が拗れてしまうのだが、スパークは一 時期修道院の尼になろうとしたと記している。 (Stannard 160)その箇所で、 スタナードはスパークがエミリーに使用した、“celibate”(celibacy) (133-4) という言葉を同じく使用している。スパークはエミリーのセクシャリティ について、自分の語りにくいセクシャリティを重ね合わせて語っているの ではないだろうか。それを読んだスタナードが、スパークの自伝を書くに あたり、両者の類似に注目して、“celibacy” という言葉を用いてスパークの セクシャリティに言及したというのは考え過ぎであろうか。 Hermione Lee は、上述した伝記に関する彼女の優れた考察の書で、 「伝記 ― 110 ― 作家は自意識が強く、場合によっては伝記が実は自伝であることもある」 (Lee, Biography 72) 、と述べている。スパークのエミリー伝は、虚構化され たスパークの自伝とは思わないが、彼女は創作(書くこと)によって、新 しい自分を発見していくブロンテの姿を発見して、同時にそれはブロンテ の伝記を書くスパークによるスパーク自身の発見に至るという、ダイナミ ズムがここで発動されていると考える。これは、 「人生と作品(創作)」の 密接な関係の本質をついている。 本論のスタナードの伝記に戻るが、スパークが 「推測ではあるが」 (Spark, Emily Brontë 13)と断りながら巧みな推論で、エミリーの人物像を残され た書き物の入念な読みから蘇らせようとした方法は、スタナードがスパー クの伝記に用いた方法と同じものである。デビューから四半世紀後に発表 された Loitering with Intent(注 7)は、The Comforters 同様に自伝的特徴をもつ 重要な小説として紹介される。60 代に入ったスパークは、ベストセラーに (注 8) なった The Prime of Jean Brodie(1961) を初めとして、多くの小説を世 に送り出し、作家としての地位を確立していた。スタナードは、1981 年に 発表された Loitering を、彼女のキャリアに新しい傾向が生まれる分岐点と みる。自分の起源(origin)に、関心を向けるようになると語る。スパー クはそれからの人生を、彼女の過去を精査することに心血を注ぐようにな る。それまでにも、スパークは自身の伝記的事実を小説の素材として、又 は比喩的に利用して作品を描いてきたが、人生の後半はいっそうその傾向 が強まった、とスタナードはみている。 私自身このふたつの自伝的小説、The Comforters と Loitering を読み比べ てみたとき、同じ女性作家の誕生の過程をテーマとして扱いながら、読後 感の違いに驚くのだが、スタナードは彼女は意図的に描き方を変えている とみる。前者からは小説家になるプロセスの苦しみや、周囲の友人知人か らはサポートではなく、逆に苦しみを受けて苦境に立つ女性の姿がくっき りと感じられる。一方、後者は同じく文筆で自立をはかる女性の苦闘を描 きながら、そこには、湧き出る創作意欲で次々と苦難を乗り越えていく明 ― 111 ― 朗な主人公の存在が感じられる。スタナードは、この作品でスパークは自 分自身を主人公に初めて据え、そのためには苦難や不平の切れ端をも意 図的に作品から排除し、主人公の女性、Fleur を犠牲者に見せないように し、そうすることにより、彼女に陽気に困難に立ち向かう(“a tone of blithe fortitude” 443) 雰囲気をもたせ、彼女を悩ませる人々を馬鹿げていて、取る に足らない人物だとみせようとしたのだと解釈している。このフィクショ ン化によって、強いスパーク的人物が意識されるということであろう。 実際はこの自伝的作品の内容は、彼女の直面した苦しみの連続であった 現実を素材にしていることを、実際の出来事を併置することで示す。ふた りの恋人に捨てられたこと、編集長の仕事を追われたこと、薬物で幻覚に 苦しんだことなど、既に伝記の初めの部分で紹介された出来事が再び繰り 返される。読者はスパークの実人生の苦難を再確認し、創作上の人物 Fleur と作者スパークを重ね合わせて、苦難に不平を言うどころか、 「二十世紀 に芸術家であり女性であることは素晴らしい」 (Spark, Loitering 100)と意 気軒昂な Fleur に、一作目の神経症に苦しむ主人公 Catherine を比較し、成熟 した女性作家の姿を認めることになる。ふたつの自伝的フィクションの主 人公を比較すると、スパークの人間として作家としての成熟を感じ取るこ とができる。ここでも、小説(フィクション)から現実の作者(ライフ) を思い描くことになる、という「方向」に注目したい。ふたつの自伝的小 説の間には四半世紀の時が流れ、その間にベストセラーになった The Prime of Jean Brodie を含め、14 作品が出版された。スタナードはそれらの作品の それぞれを執筆順に、作家の人生上の出来事を小説に絡めて紹介している ので、Loitering の説明にスタナードの伝記がたどり着いたとき、読者はス パークの人生にかなりコミットした気持ちになっている。すると Loitering のフィクションの世界が、スパークの人生と重なり、主人公の女性作家 Fleur が、スパークとぴったりと重なって感じられる。 「人生と作品の関係」 を整理して明らかにすることが、スタナードにとっ ての重要事項であった。ポストモダニズムの洗礼を受けた作家スパークの ― 112 ― 創作上の人物を、作者スパーク自身に還元することに抵抗感があるが、ス タナードが時系列に並べたスパークの人生の出来事を辿ってきた読者に は、彼女が全身全霊をかけて Fluer とその作品全体を描いたことが実感で きる。文字からなる Fluer の造形にスパークの実人生の内実が肉付けされ、 そこに「作家の像」を確かに感じることができるようになるのだ。それを スタナードが結論付けた「作者の自己正当化」ととるか、スパーク自身の 感じる「深められた自己認識」と受け止めるか?スパークに関する情報に おいて、読者とスタナードでは比較にもならないほど、彼の方が優位にあ るので、読者には彼の考えが正当であるかどうか判断することはできな い。一方スパークの自己認識に関しては、作者も作者自身にとってはミス テリー(謎)であり、書くことのミステリーを通して、自身のミステリー を多少なりとも理解することは、大いに考えられる。それが、“Fiction is Life.” という逆説の本質ではないだろうか。作品のなかに作者は存在する だけでなく、作品によって作者は誕生する、とスパークは実感していたと 考える。(注 9) Ⅳ 以上が、スタナードが著したスパークの伝記の主たる目的と、その手法 である。スパーク自身が著したエミリー・ブロンテの伝記の目的と手法 と、同じであることを検討した。しかしながら、スパークがエミリーのパ ブリック・イメージに隠された姿を彼女の伝記で求めたように、スタナー ドにも同じ仕事が残っていた。この伝記の読者は、彼女の小説の刊行に関 して、作者と出版社との間に様々な取引や不和や騒動などがあったことを 知ることになる。スタナードはそれらを倦むことなく詳細に記す。個人的 なことになるが、2004 年夏にロンドンに行ったおり、新刊の The Finishing School をピカデリーの Hatchards 書店で購入しようとしたが、新刊本のコー ナーに見当たらず、店員に尋ねたところ「スパークと Viking(出版社)と ― 113 ― の間で何か問題が起き、その本はロンドン中どの本屋に行っても現在は入 手できない」ということだった。イギリスの書店 Blackwell に注文したが、 購入希望リストに長い間のったままで、結局アメリカのアマゾンで入手し たものは、Doubleday 社から出版されたものだった。そのスパークの遺作と なった小説は、彼女らしいフィクションの創作にまつわるテーマと裏切り を取り上げながら、作家と出版社の不和も扱われていた。したがって、ス パークにとり出版社との交渉は難事であることは想像できたが、スタナー ドの伝記を読むまでは、これほどまでに、両者の関係が壮絶なものとは想 像がつかなかった。スパークの最初の小説の出版に対して、マクミランか ら契約の話が持ち込まれた。その最初の交渉から彼女を担当することに なった Allen Maclean との関係は、彼女の人間関係を象徴している。スパー クは彼と激しい仕事上の折衝を何度も繰り返しながらも、次第に友人とな り、親友となっていくが、それにもかかわらず、晩年には「変節漢」 (“turncoat”) (508) 「度し難い酷い嘘つき」 (“indescribably filthy liar”) (508)とい う激しい言葉で彼を切り捨て、彼とも絶交することになる。マクミランと の関係は彼女の専任の編集者が変わってもまた揉めて、結局うまくいかな かった。ここには親友が一気に敵になる、彼女の激しい気性が現れている、 とスタナードはみている。 安すぎる契約金や不十分な新刊本の宣伝に関する繰り返される折衝と対 立、作者の紹介文に対する不満など、絶えず問題となった。アメリカで も同じことが繰り返された。最初うまく行くかと見えた Knopf 社との取引 も、すぐに決裂し、彼女のエージェンシーとも揉め事は絶えなかった。ス タナードはそれらの激しい係争を細詳に記している。私は途中でこの件に 関しては、もう十分だと正直思ったほどである。出版社や代理人との不和 や激しいやり取りを伝記に具体的に記す意味を、スタナード自身語ってい ない。しかし、その執拗さは、彼に何らかの意図があったのではと感じさ せる。彼女の小説の作成と発表に絡み付くように描かれるそれらの不協 和音は、スパークにとり創作が天職であると同時に、ビジネスであったこ ― 114 ― とを示しているということであろうか。読者はそこに、男性を相手にビジ ネス上の交渉をするひとりの強い女性の存在を感じることになる。自分の 天職を追求するなかで生まれた作品を、必死に世に送り出すべく闘う女 性。その点では、彼女は創作者であると同時に、ビジネス・ウーマンだっ たということが、よく伝わってくる。スタナードは “EPILOGUE” で、彼女 は確かに「直情的」 (534)で、 「怒りで白くなることもあったし、人に厳 しく、我を押し通し周囲が間違っていると正しても、聞く耳をもたなかっ た」(534)と書いている。とにかく「情け容赦なく強い」(“remorselessly tough”) (535)女性であったと総括する。これがスタナードが描きたかっ た、クールな仮面の亀裂から覗くスパークの顔だったのであろう。 これらの出版社との確執を詳細に紹介することで、スパークの実像の一 面が明らかになったのかもしれない。スタナードが伝記を書く際に「どん な干渉もしない」と言ったスパークが、この点に関してどのように反応し たかはわからない。彼の完成した原稿にスパークが不満を示し、出版を 差し止めたという噂は、イギリスの新聞記事に書かれはした。The Sunday Times の記事で John Carey は、次のように語っている。伝記が出版される プロセスは、長い間文学関係のゴシップとして人々を楽しませた。途中 スパークは伝記に不快の念を抱き、出版を完全に差し止めたと噂された。 A.S. Byatt によると、スパークは “very upset” で、彼の伝記を一行ずつ精査し て、“to make it a little bit fairer” にしたと言われる。 (Carey, The Sunday Times) 「干渉はいっさいしない」 (“No veto”) (xxii)と彼に約束したが、彼の初稿 を手直しするのに時間を費やしたと報道している。また、アメリカではス パークの伝記は、2010 年の 7 月 30 日に Norton 社より出版されたが、それ に先立ち 4 月 14 日(2010 年)の The New York Times の Dwight Garner の書評 では、次のように書かれている。スパークは彼の伝記の執筆には介入しな いと約束をしたが、死去する直前に彼との約束を破る。Garner はロンドン の新聞を引用し、スパークは友人に手紙で、彼の伝記は “terribly mean and hostile” と言い、インタヴュアーには “very poorly written” と言ったと伝えて ― 115 ― いる。 (Garner, The New York Times)他にもこの種の報道はあるが、どれを 読んでも真偽のほどは不明である。ただし、伝記が出版までに異常に時間 がかかったということは、両者の間に確執があったことを想像させる。 スタナード自身のこれらの報道に対する明確な説明は、見つけることが できなかったが、彼はエディンバラ出身のスパークに関するインタヴュー を受け、その記事が “Edinburgh Festival” のサイトに掲載されていて、間接 的に上記の問題に触れている。 “She wanted to appear unemotional…It was about her public image, the implacable exterior that she would present to the world. The stuff I wanted to include was about her losing her temper, or sacking somebody, or an outburst that brought her to life. You suddenly saw the mask crack a little. Spark may have told journalists that writing was ‘the easiest thing I had ever done’, but the truth was she suffered depressions when she finished a book.” (Ramaswary, Edinburgh Festivals, 下線部 筆者) スタナードはスパークの公のイメージと私的なイメージが異なることを指 摘して、私的な一面を見せたがらない彼女の意に反して、それを伝記に含 めたいと望んだことを明らかにしている。癇癪を起こしたり、誰かを首に したり、彼女を生き生きとさせる感情の噴出など。そのとき理知的な公の 仮面にひびが入いると。強い女性で楽々と小説を書いているようにみせ て、実際は本の出版後、抑鬱状態に陥るような一面も紹介している。 “She was an extraordinarily strong woman. Intellectually she was fascinating, and psychologically she was like no-one I had ever met. She wanted to present an image of herself that was inaccurate. She didn’t want me to quote any bad reviews, for example.” (Ramaswary) ― 116 ― さらに続けて、「非常に強い女性で、優れた知性の持ち主であり、心理的 には今まで会ったことがないような人物」とスタナードはみているが、ス パーク自身が公に示した自己イメージは正しいものでない、と伝記作家と して考えていることがわかる。 彼は伝記作家として、仮面の下に隠された激しい気性も含めてスパーク の全体像を描きたいと思ったのであろう。強いイメージを維持したいと 思っている人にとり、それに抵触する負のイメージを書かれることは、当 然嫌なものであることは想像に難くない。否定的な書評を伝記に載せるの も、スパークは嫌がったとスタナードは述べている。 インタヴューは核心部分に進み、伝記を書く依頼を受けたときの「 (ス パークは)口出しをしない」という条件は守られたのか、とスタナードは 問われると、彼は笑って次のように答えている。 “I researched with total freedom and encouragement from her,” he says. “I did whatever I wanted and wrote whatever I wanted. Then, when she saw the book, she wasn’t entirely delighted. It had been read by a lot of senior people before it went to Muriel and nobody had said this is some kind of attack on her. She thought it was, and that was beyond me.” (Ramaswary) スタナードは完成した原稿を何人もの年長者の人々に目を通してもらい、 スパークに対して攻撃的な内容になっていないという感想を得た上で、彼 女に原稿をみせていることがわかる。用意周到な準備をしたが、彼の初稿 を彼女はあまり喜ばずに、内容を攻撃的と受け取ったが、スタナードには その理由がわからなかったという。それ以上のことは、彼は語っていない が、伝記の依頼者と執筆者の考えの不一致があったことを示している。 スタナードはこのインタヴューでも、スパークのエディンバラ時代の貧 しかった頃の苦難、その世界を脱出してアフリカで結婚したことによる更 なる苦労、離婚とアフリカ脱出、戦後の混乱期に子供を両親に預けて詩人 ― 117 ― として自立を試みる時代の精神的物理的困窮、男性との複雑な関係と裏 切り、出版社との伝説的な諍い、それらを言及せずには、 「真の伝記」 (“a truthful biography”)を書けるとは思わなかったと述べている。彼は伝記作 家として、これらがすべて「妥協のないヴィジョン、知性と簡潔な作風の 偉大なる作家としてのスパークを理解するためには、みな必要なことだっ た」と語っていて、ここに彼の伝記に対する信念がよく表されていると 思う。 おわりに 結局伝記はスパークの死後上梓されることになった。出版されたスパー クの伝記は、スタナードによってもっとも重要な資料であるスパークの作 品や利用を許可された膨大な資料が粘り強く調べられて、自己を頼みに人 生を生き抜く、妥協をしない強い個性をもつ小説家スパーク像を提示して いる。同時に彼は生活人としての彼女を捉えようと試みるが、彼女の生活 はすべて創作に捧げられていて、私的生活はあってなきがごときだったと 述べている。その目的を実現するための手法は、上述してきたように、若 い頃のスパーク自身がエミリー・ブロンテの伝記を執筆するときに用いた 手法と同種のもので、フィクションや関係する資料を精緻に読むことによ り、伝記的事実をそこに読み込んでいくものであった。それと平行して彼 が自由に読むことを許された大量のフィクション以外の現実の世界の資料 (“facts”)が、彼のフィクションの読みを深めたり、逆にフィクションが資 料を裏付けて、スパークの人生を確かに今迄の誰よりも詳細に語ることが できた。スタナードが描く多くのスパークらしい出来事のなかで、かつて 愛した Stanford に自分の恋文を売られて、それを買い取った業者からゆす り同様に買い戻す話を持ち込まれたときの悲劇的逸話は、スパークの凛と した姿をもっともよく表わしている。彼女は指定された場所に出向き、 「す ばらしいコレクションね。すぐに買手が見つかるわ。」(288)と言って、毅 ― 118 ― 然としてたち去ったという。ちょうど彼女のフィクションの主人公 Brodie が彼女の生徒たちに、いつも 「頭をあげて」 (Spark, Prime 30)、と教えたよ うに。ここでは、“life” と “fiction” が重なり、スタナードも指摘しているよ うに、スパークにとって「フィクションが人生そのものだった」(536)と いう考えを例証している。書くことによって、エミリー・ブロンテの特質 や性格が変化していった、と若いころのスパークは述べているが、換言す れば、それは “Fiction is life.” ということであろう。スパークは「書く行為」 (エクリチュール)が、単なる確定された事実や思いを記述することでは なく、未知(謎)の自己を創作する行為であることを若くして実践のうち に、理解していたということである。そして書くことにより、その後の人 生をつくりだしていった。そういう意味で、スパークにとってはエミリー 同様、書くこと(エクリチュール)は、人生そのものであったといえる。 この恋文によるゆすりの逸話から浮かび上がる Spark の姿は、自伝的作 品である Loitering with Intent の主人公 Fleur の困難にあっても、詩のことを 思うと活力が漲り、貧しいながら作家としての道を意気揚々と歩み続ける 姿とぴったりと重なる。スタナードの伝記からも、家族間の不和や激情の 爆発や人との争いなど多くの困難を経験しながらも、 「二十世紀に女性で あり、作家であることはなんと幸せか」 (Spark, Loitering 26)というスパー クの声が聞こえてくるようだ。確かにウルフが語った「自分だけの部屋」 さえ持つことができなかった女性作家たちを、スパークは文学への情熱と 自活への渇望で乗り越えて、21 世紀のイギリスの作家として文学史上に名 を残した。スタナードの詳細な彼女の人生と作品の関係の考察により、彼 女が苦しい体験もすべて創作の題材に利用したことが確認できる。同時 に彼女の困窮時代に、精神的物質的支えとなった Graham Greene が、Ford Madox Ford の悲劇的人生を語った一節が思い起こされる。「小説家は、土 壌と大気のなかから機械的に養分を吸収する植物ではない。小説の素材を 得るのは易しいことではないし、苦痛を伴わない作業でもない」と小説家 の「人生と創作」の凄烈な関係を語っている。 (Greene 127)以上の考察か ― 119 ― ら、スパークのフィクションと人生も、そのことをよく証明していること がわかる。 「人生と創作の関係」を明らかにすること、それはこの小論の冒頭で 確認したように、スパークがスタナードによる自分の伝記に求めたもの だった。彼女自身も自伝のなかで、 「小説家にとり、無駄な経験はひとつ もない」とのある詩人の言葉に同意を示している。 (Spark, CV 183-4)苦 労も喜びもみなフィクションの核 “grit” として活かされているということ だ。(Stannard, “Preface” xxii)この点でもスタナードの、資料を調べ尽くし た “meticulous”(注 10)な労作は、彼女の経験には小説家として無駄なことは ひとつもなかったことをよく示し、彼女の「人生と創作の親密な関係」を 詳細に語っていて、依頼主の要求によく応えているといえる。結果として、 スパークの多くの作品が、スタナードが解釈したように「大掛かりな自己 正当化の実践」であるとは、私は賛同しかねるが、 「虚構化された自伝」で あり、彼女の自己形成と文学活動の関係がよく捉えられていると思う。 「しかしながら」 (“nevertheless”) 、スタナードは伝記作家として、伝記を 書く以上は Muriel Spark という、彼が今まで会ったことのないタイプの人 物の、パブリック・イメージ以外の一面を描かずして、伝記とすることは 伝記作家として容認できなかった。スタナードは、ある程度持続した話の 「最後に正当化する言葉」 (3)として使われ、逆接を導く “nevertheless” と いう言葉にいつも魅了されていたスパークに注目して、伝記でも何度かそ の言葉に触れている。そして、スパークの求める伝記の目的を誠実に遂行 しながら、その一方で彼自身そのスパークの “the nevertheless idea”(3)を 借用して、 「しかしながら」と感情を排す彼女の仮面の下から露呈する「真 実の」彼女の一面を描かずにいられなかった。それはスパークの望むとこ ろではなかったかもしれないが、スタナードの学者として同時に伝記作家 としての自意識と自負心が、省くことをよしとしなかったスパークの一面 だったのであろう。そのためには 17 年の歳月も厭わなかったと推測する。 伝記の内容も手法においても、依頼主スパークのそれらの特徴を見事に換 ― 120 ― 骨奪胎した手捌きは、鮮かなものと言える。スパーク自身の要求と自身の 視点の両者を含む伝記を完成させ、タイトルに “The Biography” と定冠詞を 使用することにより、Muriel Spark のもっとも信頼できる決定的伝記を著し たとの彼の自負を示している。 注 1 Martin Stannard. Muriel Spark: The Biography. New York: Norton, 2010. 以下、こ の作品の引用はすべてこの版により、頁数だけを本文中の括弧内に示す。 2 Muriel Spark. Curriculum Vitae: Autobiography. London: Constable, 1992. 以下、 この作品の引用はすべてこの版により、表題は CV と略す。 3 Woolf は本論にもとりあげたように、“My God, how does one write a Biography?” と、Roger Fry の伝記の構想を練りながら苦吟するのだが、そのとき悩 んでいたのは、スタナード同様に伝記における「“facts” と “fiction” と人生の 関係」についてだった。それは取りも直さず、Woolf 同様スパークにとって 小説家としての最大の問題でもあった。 Cf. Virginia Woolf. Leave the Letters Till We’re Dead: The Letters of Virginia Woolf 1936-1941. Ed. Nigel Nicolson. The Hogarth Press: London, 1980. 226. 4 Muriel Spark. Curriculum Vitae: Autobiography. London: Constable, 1992. 以下 のように、彼女の人生にとっての “facts” の重要性を語っている。 “I determined to write nothing that cannot be supported by documentary evidence or by eyewitnesses; I have not relied on my memory alone, vivid though it is.”(11) 5 エジンバラの国立図書館のホームページには、スパークのサイトが用意され ていて、所蔵する文書の目録は閲覧できるが、その内容を読むには手続きが 必要であるし、閲覧が不可能なものも多くある。恋人に売り飛ばされたス パークの手紙はテキサス大学に、原稿は the University of Tulsa に所蔵されて いるという。 6 Cf. Muriel Spark. “The Gentile Jewesses.” The All the stories of Muriel Spark. New York: New Directions, 2001. この自伝的短編のなかで、スパークは Virginia Woolf の日記をつける習慣を皮肉っている。日記をつけて日常の出来事やそ れに関する思いを綴る習慣は、有閑階級の人が暇に飽かしてするものと受け とれる短い記述がある。生計を独力でたてていたスパークにとり、日記はビ ― 121 ― ジネスの記録帳だったのだろう。 7 Muriel Spark. Loitering With Intent. New York: New Directions Books, 2001. 以後 Loitering と略す。 8 . The Prime of Miss Jean Brodie. London: The Penguin Books, 1987. 以 後 Prime と略す。 9 文学批評のテクストから作品へとの流れのなかで、作者が復活する方向へ振 り子が逆に振れだしたように感じる。例えば、三浦雅士は『出生の秘密』の なかで、次のように語っている。「作者と主人公を同一視することはできな い。だが、作者と作品を同列に論じる事はできる。いや、むしろ同列に論じ なければならない。作者もまた、作者自身によって作られた作品にほかなら ないからである。作者が、作品と同じように、謎に満ちていることは疑いな い。いや、作品と同じ謎に満ちている、といったほうがいい。作者自身に とっても謎であったに違いない謎に満ちている、と。 」ここでは「書くことの 謎」が語られている。作者自身も知らない自己が、作品のなかに現れるとい う。スパークがエミリーの伝記で試みた、自身の書いた作品から、エミリー が自分の謎の部分を知るプロセス、「フィクションが人生」を形作っていく と述べた私の考察と、同じことを、三浦はここで論述していると考える。三 浦雅士『出生の秘密』新書館、2005 年、409 頁 10 Cf. Elaine Showalter. “Muriel Spark: writer with an ‘inhuman touch.’” The Washington Post in cooperation with The Yomiuri Shinbun, May 26, 2010. スタナードの伝記の書評として、Showalter は簡単に“sympathetic, perceptive, non-judgemental, meticulous” と取りまとめて評価している。それらの評 価に詳しい説明は加えていない。むしろ、ヘッドラインにもあるように、 フェミニストの評論家らしく「育児と創作で悩んだのはスパークだけではな い」ともっとも多くのスペースを、彼女の息子 Robin との冷たい関係に当て ている。一体スタナードがスパークを好きかどうかが分からなかったという 彼女の印象的批評は、この伝記の本質を突いている気がする。 スタナードの調査の綿密さ(“meticulous”)には、確かに感心するとともに 驚く箇所が伝記のなかに何カ所もある。例えば、80 年代初期にスパークはイ タリアに二カ所もアパートを借りたりして、膨らんだ生活費の支払いに、銀 行口座が底を突きそうになることがあったと説明しているが、その出費の内 容の詳細な説明には驚くほどである。家賃に車にガソリン代にオペアの支払 い、それに悪化する五本の歯の金冠の治療費等々、と詳細を極める。 (450) ― 122 ― これらの箇所は彼の徹底した資料の読みと分析を示し、彼がスパークの伝記 としては、これ以上のものはあり得ないという自負を与える根拠のひとつと なったのではと推測する。 引用文献 Carey, John. “Muriel Spark: The Biography by Martin Stannard.” The Sunday Times on the Web 2 August 2009. 31 August 2010 <http://www.thesundaytimes.co.uk/sto/public/ sitesearch.do?querystring=muriel+spark%3A+the+biography+by+martin+stannard §ionId=2&p=sto&pf=all>. Garner, Dwight. “Tracing Muriel Spark’s Road From Slender Means to Her Own Prime.” The New York Times on the Web 14 April 2010. 31 August 2010<http://www. nytimes.com/2010/04/14/books/14book-1.html?scp=1&sq=tracing%20muriel%20 spark%27s%20road%20from%20slender%20meants%20to%20her%20own%20 prime&st=cse>. Greene, Graham. “Ford Madox Ford.” Collected Essays. Harmondsworth: Penguin Books, 1970. Lee, Hermione. Biography: A Very Short Introduction. Oxford: Oxford University Press. 2009. . Virginia Woolf: A Biography. London: Chatto & Windus. 1996. Ramaswary, Chitra. “Muriel Spark's biographer Martin Stannard tells why her native city was pivotal to her artistic exile.” Edinburgh Festivals powered by Scotsman on the Web 2 August 2009. 31 August 2010 <http://www.edinburgh-festivals.com/viewpreview.aspx?id=174>. Showalter, Elaine. “Muriel Spark: writer with an ‘inhuman touch.’” The Washington Post in cooperation with The Yomiuri Shinbun, May 26, 2010. Spark, Muriel. Curriculum Vitae: Autobiography. London: Constable, 1992. . Loitering with Intent. New York: New Directions Books, 2001. . The Prime of Miss Jean Brodie. London: Penguin Books, 1987. Spark, Muriel and Derek Stanford. Emily Brontë: Life and Work. London: Arrow Books, 1985. Stannard, Martin. Muriel Spark: The Biography. New York: Norton, 2010. Woolf, Virginia. Leave the Letters Till We’re Dead: The Letters of Virginia Woolf 1936- ― 123 ― 1941. Ed. Nigel Nicolson. The Hogarth Press: London, 1980. 加藤典洋 『テクストから遠くはなれて』講談社、2004 年 ― 124 ― 「偉大な社会」とベトナム戦争(2) 山 田 敬 信 第二章 リンドン・ジョンソンの大砲対バターのジレンマ 軍事的エスカレーションの性格(続き) マクナマラ国防長官のそれのように、彼のドキュメントを検討し、彼の 回顧録を読んだあとの分析家にとっての最も重大な問題の一つは、ベトナ ムでの誤り―マクナマラの言葉ではベトナムの「悲劇」―は、主要に は、貧弱な政策形成と近視眼的思考にあったのかどうかということであ る。あるいは、アメリカのベトナム政策が欺瞞(deception)の結果であっ たかどうか、ということである。ジョンソン大統領、マクナマラ国防長官、 マクジョージ・バンディ国家安全保障担当大統領特別補佐官、ラスク国務 長官、そして、その他の上級政策決定者は、 (共産主義を封じ込めるとい う、うわべは「立派な」目標に基づいて) 、政策の途方もない誤りを犯した のか。なぜなら、マクナマラが主張するように、上級官僚たちは決して代 案を検討しなかったし、最良の情報を得ていなかったし、あるいは当面の 政策への疑問を提示しなかったが故に、政策の途方もない誤りをするとい うことを犯したのか? マクナマラの弁明の精髄は、これらの官僚たちは正 しい理由のために間違ったことをした、ということである。政策決定過程 の貧弱な特質が、無批判的な冷戦思考から生み出されたということは疑い ないように思われる。しかし、そのことはベトナム戦争の性格を完全には ― 125 ― 説明しない。ベトナム戦争政策が急激にエスカレーションした1965年の政 策決定過程の始まりに、軍部が政府に与えた情報の全体的輪郭はかなり正 確であった。65 年春に軍部は、 「共産主義者の侵略」の「行き詰まり」と いう政策目標を達成するには、5 年間と兵力 50 万人を必要とするであろう と主張した。これらは本質的に正しかった。アメリカは、確かに「共産主 義者の攻勢」の「行き詰まり」を達成した。しかしアメリカは「行き詰ま り」を維持することが出来なかった。そしてアメリカ国民は、 「行き詰ま り」という戦争の膠着状態の目標を支持することが出来なかった。もちろ んジョンソン大統領は、ベトナム戦争を共産主義者の一方的攻勢から「行 き詰まり」に持ち込んで、 「敵」に「この戦争には勝てない」と認識させる ことによって「敵」を交渉のテーブルに着けるという大目標があったので あるが。ヘルジングは、ジョンソン大統領が、大砲(ベトナム戦争)とバ ター( 「偉大な社会」計画)の間での優先順位と選択についての論議を避け るために、確実に欺瞞(deception)のパターンがあった、ということを主 張している。(1) マクナマラ国防長官が 1965 年 6 月に閣議で明白に述べたように、米国民 に、いかにして米政府はベトナムでのコミットメントと共産主義の封じ込 めを追求しつつあるかを、知らせないことが重要であった。アメリカの青 年は、共産主義者の一方的攻勢に対する「行き詰まり」のために、世界を 半周して送られることになっていたが、この政策が国民に知られたら猛反 発を受けることは必至であった。(2) 加えて、戦争エスカレーションの程度とその確実なコストが、65 年に 「偉大な社会」計画の国内政策プランナーや経済政策プランナーには秘密 にして置かれた。これは、 「偉大な社会」計画が、「ベトナム戦争のコスト が大きい」として削減されないようにするためであった。ジョンソン大統 領は、正規の財政支出ではなく、補足の緊急支出を通じて戦争をエスカ レーションすることを試みた。その結果、長期の戦争プランニングは予算 準備へは要因として含まれなかった。このことは、65 年に、ペンタゴン ― 126 ― (特に国防長官執務室)とジョンソン大統領による慎重な欺瞞から生じた。 従って、ベトナムの紛争のコストは、64 年と 65 年には政府の経済予測と予 算準備に勘定として入れられなかった。(3) しかし、なぜジョンソン大統領は漸増的に、また欺瞞的に拡大した限定 的(limited)で非宣戦戦争を戦うことを選んだのか? 全面的エスカレー ションと宣戦布告は、中国軍の介入の危険を犯すことになり一つの憂慮で あった。アメリカは、第二の朝鮮戦争の危険な道を下りつつあった。しか し、共産主義者に南ベトナムを「失うな」という、大統領に対する国内の 圧力もあった。このことは、戦後の封じ込めの外交政策コンセンサスで跡 付けられてきた。このようにして、ベトナム戦争の性格―ベトナムで 断固として立ちはだかっている一方で、全面戦争を避けること―は、外 交政策の理由にとって重大であった。国家安全保障担当大統領特別補佐官 マクジョージ・バンディが 1965 年 2 月の北ベトナムへの継続北爆の決定に 関して述べたように、 「もし爆撃が失敗するとしても、その政策はそれを する価値がある」のであった。一ヵ月後、バンディとマクノートン(John McNaughton)国防次官補は、たとえアメリカが南ベトナムを失うとして も、10 万人コミットしたあとにそうなるのが良いであろうと了解してい た。そうすれば、国際的コミットメントに関してのアメリカのクレディビ リティは強化されるであろう。そしてそこに、南ベトナムにおける米軍投 入の重大な政治的価値があった。勝利すること、あるいは敗北すること は、あのクレディビリティを維持することにとっては、ほとんど二次的と 思われた。(4) ジョンソン大統領の国内政策項目 なぜアメリカが、ベトナムで漸増的に、また欺瞞的にエスカレーション したかを真に理解するためには、社会的・経済的目標を分析することが重 大である。それはまた、政治的また官僚機構上の圧力と、そして、いかに ― 127 ― してそれらの要因がアメリカのエスカレーションを限定的で控えめに言う のを決定付けたか、ということとも深く関連する。これまでベトナム戦争 に導いた政策決定過程の研究があった。また、ジョンソン政権の間の経済 の分析があった。しかし、どの著作もベトナム政策決定過程に関連して、 国内的・経済的政策決定過程を検討してこなかった。1964 年と 65 年の国内 的・経済的政策の分析は、なぜジョンソン大統領が、「戦争」という公的な 宣言なしに、あるいはベトナムでの米兵の役割が変化した(65 年 7 月末か ら地上戦争に投入!)ということを公に認めることさえなしに、軍事的解 決を追求することを試みたのか、を説明することに役に立つ。(5) ジョンソン政権は、1964 年と 65 年に、国内で「偉大な社会」を創造す るために、アメリカ経済の莫大な資源を利用していた。ジョンソン大統領 の立法計画は、医療、教育改善、住宅を含んだし、またすべての人(特に 黒人)のための平等権と投票権を包含していた。また大統領は、米国民を 「貧困との戦い」へと促迫した。そしてジョンソン政権は、経済的機会(職 に就く機会の平等、教育を受ける機会の平等、人間らしく生きる機会の平 等、貧困から脱出する機会の平等)を生み出すために、広範に基礎付けら れた政府の計画を創造した。これらの新しい理念とプログラムに資金を融 資するためのカギは、持続的な経済成長とアメリカの安定であった。ジョ ンソンが大統領職をケネディ大統領から引き継いだ 63 年 11 月から 65 年の 秋を通じて、米経済は強健であった。物価は安定し、生産性と利潤は高く、 失業は減少を続けていた。そして、朝鮮戦争後の国防支出の節約は、政府 のより大きな資源が「偉大な社会」計画に専念されることを可能にしたの であった。また、アメリカとソ連の間が改善したので、ペンタゴンによっ て鼓舞された経済的プランナーたちは、軍事支出の一層の削減を期待する ことが出来ると感じた。(6) ジョンソン政権のエコノミストは、ペンタゴンのマクナマラ国防長官や 他のいわゆる神童達に似ていた。彼らは、大胆な行動やイニシアティブを 支持した、暗殺された故ケネディ大統領の残留者達であった。ケネディ大 ― 128 ― 統領のニュー・フロンティアの行動主義は、国防政策プランナーと同様 に、経済政策プランナーについても同様に明白であった。彼らは、自分の 責任で、ケネディ政権の前のアイゼンハワー時代の保守的財政主義を転換 した。ケネディ大統領の大統領経済諮問委員会 (COUNCIL OF ECONOMIC ADVISERS)議長ウォルター・ヘラー(Walter Heller)によって率いられた これらのエコノミストは、アイゼンハワー時代の均衡予算について関心が なかった。彼らは、政府の諸計画に必要とされるための、より多くの政府 の歳入を生み出すために、財政刺激と成長を促進した。ところで、過度の 成長やインフレを引き起こす過熱経済への危険があった。しかし、財政政 策は減税引き延ばし、あるいはもし必要なら増税さえ通じて、時間をかけ てブレーキを踏むことが出来ると思われた。ヘラーと彼の同僚達は、極度 に自信があった。(7) ジョンソン政権の間に生じた重大な誤りの一つは、経済政策プランナー 達がアメリカのベトナムにおける兵力投入の大ジャンプの計画を知らされ ていなかった、ということであった。そこで彼らは、軍事的必要(軍需) が経済を過熱し始めていたのに、強力な財政刺激を促進し続けた。エコノ ミスト達は、軍需が 65 年に非常に拡大したということを、読み誤ったかあ るいは無視することになった。しかし彼らは、国防支出はただ穏当に増大 するであろうと言われていたので、憂慮する理由はほとんどないと思って いた。ベトナムへのアメリカの軍事的コミットメントについての、国内政 策・経済政策担当の顧問達に対する欺瞞があった。それは、ジョンソン大 統領が望んだ多くの国内計画を創造することの可能性について、また長期 の経済予測について、それらの専門家が大統領に与えたアドバイスに悪影 響をもたらした。(8) 大砲とバターのジレンマ 政府がその国内計画=「偉大な社会」計画を推進していた時、ベトナム ― 129 ― での紛争=民族解放戦線と南ベトナム政府の内戦はより悪化した。そこで ジョンソン大統領は重大なジレンマに直面した。大統領は、「偉大な社会」 計画を促進し、そして経済的繁栄を維持する一方で、ベトナムにおける戦 争への介入をいかにしてエスカレーションすることが出来るのか? 大統 領は、大砲(ベトナム戦争)とバター( 「偉大な社会」計画)の両方を保証 することが出来るような方法で、ベトナム戦争を戦うことが出来るのか? ジョンソン大統領がベトナム戦争をエスカレーションするために選んだ方 法は、「どんな戦時の政策も採らず、またエスカレーションの規模につい ては控えめに述べる」であったが、それは、大統領の、経済繁栄を維持 し、共産主義を封じ込め、 「偉大な社会」を創造したいという欲求の結果で あった。(9) ジョンソン大統領の戦争エスカレーション政策の背後の戦略の多くは、 米国民をベトナムにおける紛争がもたらす政治的な問題から隔離したいと いう、大統領の強い欲求の結果であった。大統領は、明らかに大砲かバ ターかの取引を避けていた。大統領は、自分は両方を成就することが出来 ると感じていた:共産主義の拡大をストップすることと、「偉大な社会」 を達成すること。大統領は、一貫して国民に両方を強く提唱していた。 ウィリアム・バンディ(William Bundy)東アジア・太平洋担当国務次官補 は、 「軍事的エスカレーションのすべては、大統領が議会で『偉大な社会』 立法を推進することと深い関係にあった」と述べている。(10) 大砲対バターの争いの重大なインパクトは、ベトナム戦争やジョンソン の大統領職の多くの分析家によってなされてきた。しかし、それは余りに もしばしば当然のこととされ、深くは分析されなかった。ある分析家は、 「政治的指導者としてのジョンソン大統領の最大の欠陥は、ジョンソンが 『偉大な社会』 とベトナム戦争のどちらかを選択せず、両方とも望んだこと であった」と結論付けている。ジョンソン大統領はその『回顧録』で、自 分が両方を欲したことを認めた。マクジョージ・バンディ国家安全保障担 当大統領特別補佐官は、 「自分の『偉大な社会』の立法計画を保護」したい ― 130 ― というジョンソン大統領の欲求が、1965 年 7 月に、ベトナム戦争をエスカ レーションする大統領の決定を形成する際にカギとなる役割を演じた、と 認めた。(11) ヘルジングは、ジョンソン大統領は大砲とバターのどちらかを選ぶこと を自分に強いることになる、アメリカにおけるベトナム戦争か「偉大な社 会」かという重い論議を避けるために、国内のそのような論議というコ ストを認めることを欲しなかった、と主張している。ジョンソン大統領 は、もし大統領がベトナム戦争のコストを引き下げるならば、 「偉大な社 会」のために立法することと資金を支出することを議会から得ることが出 来るであろうと考えた。ひとたび米兵士が戦場に投入されるなら、議員が 軍事支出に反対投票することは大変困難であろう。そこで、ジョンソン大 統領は実際に軍事支出を引き下げた。こうして大統領は、ベトナム戦争と 「偉大な社会」の両方のための議会の資金融資とコミットメントを得た。 しかし、ベトナム戦争エスカレーションは続きその結果軍事支出は伸びて いき、他方、ジョンソン大統領は、 「偉大な社会」計画への議会支出も得る ためにベトナム戦争エスカレーションの性格を控えめに控えめに欺瞞的に 説明し、その結果、議会はベトナム戦争にも「偉大な社会」計画にも支出 を続け、大統領は、大インフレーションとジョンソンの政権に対する国民 と議会の信用と信頼の損失という、二重の厳しいコストを負うことになっ た。もしジョンソン大統領が、大統領の経済顧問達に、大砲とバターの両 方のためのプランを説明していたなら、また戦争の将来のコストについて 誠実であったならば、彼らは大統領に 65 年にはそのようなトリック的で不 誠実な戦略に反対して、経済政策を助言していたであろう。(12) エコノミスト達は、経済、とりわけ 1965 年末に根源を持ち、そして、66 年にはジョンソン大統領にとって厳しい政治的結果を持ち始めたインフ レーションに関するベトナム戦争のインパクトについて、莫大な量の研究 に専念した。しかし経済分析のほとんどは、過熱経済へ導いたベトナムに 関する諸決定ではなく、経済的影響に焦点を置いた。ヘルジングによると、 ― 131 ― ジョンソン大統領の経済顧問達が 64 年と 65 年に大統領に与えた分析と助 言を研究すると、予算決定と同様に、国内政策の側近達がベトナム政策に ついて持っていた情報の欠如に唖然とするという。1965 年 1 月に、政府は ベトナムでの軍事的役割をエスカレーションすることを計画していた一方 で、国防総省は、アメリカはベトナムで大規模な軍事的コミットメントに 巻き込まれることになるかもしれないという、外交政策・軍事政策プラン ナー達の間で 64 年末に強く現れた憂慮を偽って、66 会計年度のためにその 予算の削減に同意した。その一つの結果として、国内政策のプランニング は、ベトナムはアメリカの資源とマンパワーのかなりのコミットを前提と しているということについて、何の憶測もなしに進んでいった。ヘルジン グによると、ジョンソン大統領と国防総省が、その時、国内政策・経済政 策プランナーからベトナムにおける軍事的コミットメントの程度を慎重に 隠した、という莫大な証拠がある。これらのプランナー達は、65 年 12 月ま で、ベトナムの紛争はアメリカのマンパワー、装備、資源、そして時間の (13) そのような莫大なコミットを必要とするであろうとは認識しなかった。 戦争機構は、すでに 65 年には加速されていた。そして軍事的需要(軍需) の増大が緩むことなく、急速に経済を拡大することを生じた時、経済は過 熱した。過熱した経済の最も重大な原因の一つは、軍部がドラスティック に 65 年に需要を増大させたときの、戦争エスカレーションのための準備で あった。大統領経済顧問たちは、軍事的増強がいかに早く経済に影響を与 えるかを確実に過小評価した。しかし、もし彼らが 65 年に軍事的プランを 知っていたならば、彼らは、ベトナムでの戦闘の程度が明白になった 65 年 12 月に、財政刺激にブレーキをかけることを試みたことは当然であろう。 ジョンソン大統領と軍事的・外交的側近達は、ベトナム戦争か「偉大な社 会」かの選択を迫るインフレーションを恐れた論議が、政府内で、国民の 間で、また議会で起こることを恐れ、 「偉大な社会」への国民の支持と議 会の歳出を獲得するために、ベトナム戦争エスカレーションの政策の程度 を、政府内の国内政策・経済政策プランナーや国民・議会に欺瞞的に秘密 ― 132 ― にしておいたのであった。(14) たとえ大量の国内立法が 64 年と 65 年に制定されたとしても、「偉大な社 会」計画はベトナム戦争支出が数十億ドルにまで上がり始めた 66 年まで は、予算面で重大に後退し始めなかった。 「貧困との戦い」は、64-65 年 には余りお金のコストをかけなかった: 「目標が設定されていて、専門的 なスタッフが集められていて、立法が通過して制定されていて、そして 実験的なアプローチが試みられていた時代があった。」ところが、66 年に 始まったインフレーションの高まりと、ベトナム戦争の必要性と「偉大な 社会」計画の必要性との間での資源を巡る競争とは、64 年と 65 年の政策 決定過程と諸決定から、とりわけ、政府の資源の割り当てと政策プライオ リティについてのどんな論議も避けたいというジョンソン大統領の強い欲 求から生じた。こうして、ベトナムに関する諸決定が特別で秘密の方法 で進んだ一方で、「偉大な社会」計画がファンファーレと議会や国民のコ ミットメントをもって前進することが出来るように、外交政策と国内政策 は別々に置かれていた。(15) ベトナムでの戦闘が激化したとき、ジョンソン大統領は、成長しつつあ る経済が大統領に「偉大な社会」計画を削減することなしに、その戦争を 遂行することを可能にするであろうと希望した。大統領の経済顧問たち は、強力に、大砲とバターの両方を可能にすることが出来るような経済を 促進した。ところが彼らの強力な国防と「偉大な社会」という概念は、ベ トナムでエスカレートしつつあるアメリカの軍事的関与を予想しなかっ た。誰も、政府のエコノミスト達が、65 年の後半に経済の危険を認めるこ とは遅かったということを疑わない。彼らは、インフレーション激化の黄 信号ランプ==警告サインを無視したか認めることが出来なかったか、の どちらかである。しかし、彼らがジョンソン大統領に進言していた経済的 アドバイスの遅れは、何か相違を生じたであろうか? 明らかに、政府のエ コノミストたちは、ベトナムでの軍事的エスカレーションのコスト、ある いはエスカレーションの程度を知らなかった。もしエコノミストたちが欺 ― 133 ― かれていなかったならば、あるいは軍事的エスカレーションのコストや程 度についての情報を与えられていたならば、政策決定に何か相違を生じた であろうか? 大統領は、どのように何か異なるようにしたであろうか? ジョンソン大統領は、経済顧問たちが65年12月に過熱した経済を冷やすた めに行った増税の勧告を認めなかった。しかし、もしエコノミストたちや 「偉大な社会」政策担当官僚たちが、ベトナムで軍事的エスカレーション するという重大なプランを知らされていたならば、マクナマラ国防長官や 他の者たちが、後になって非常に必要であったし非常に欠けていたと感じ た、政策、資源、プライオリティについての政府やアメリカ社会それ自体 の内部での論議が生じたであろう。そのような論議は、ベトナムでの政策 やプライオリティが何であるかを米国民や議会に明白にすることに役立っ たであろう。(16) アメリカがベトナムの紛争でその軍事的コミットメントをエスカレー ションしたときの間の、国内的、経済的、社会的プライオリティを分析する ことによって、我々は、大砲対バターのジレンマが、いかにしてエスカレー ションするための決定に影響を与えたかを、より良く理解することが出来 る。ジョンソン大統領の国内項目、つまり「偉大な社会」計画の項目とイ ンフレなき経済繁栄という項目と、大統領の東南アジアでの共産主義の拡 大を抑止したいという国外の項目との間での、どちらかを選択するという 取引を避けたいという欲求は、いかにして、ベトナムへ地上軍(GROUND FORCES)を送るという決定を形成し、また、その紛争がエスカレートし た方法を形成することを進めたのか? その欲求はいかにして、非常に多く の者が数年間認めてきた、米政府高官によってなされた誤りの多くに寄与 したのか? 一つの回答を見出すために、ベトナムに関する軍事的決定と、 ジョンソン大統領の社会的・経済的目標との間に、どのような関係が存在 したのか、そして、これらの政策分野はいかにしてお互いに影響し合って いたのか、を明白にすることが重要である。(17) ジョンソン大統領がベトナムでエスカレーションすることの決定をした ― 134 ― 1965 年 7 月 27 日に、大統領が後で述べたように、 「我々の国家的生命の 2 つ の大きな潮流が集中した。つまり、国内での「偉大な社会」の夢と、ほと んど世界の周りでの我々の(共産主義に対する安全保障という)義務の避 けられない要求。それらは私の政権の終わりまで、合流して走らなければ ならなかった。」ウィリアム・バンディ東アジア・太平洋担当国務次官補 は、そのセンテンスを 「彼の回顧録の中で最も強く心に訴えるパラグラフ」 として引用した。 「……それは、ジョンソン大統領の心の中で、真に決定的 な考慮であるのも理解出来る。 」ジョンソン大統領の大砲(ベトナム戦争) とバター( 「偉大な社会」 )の両方を得たいという欲求は、多分、ジョンソ ンの没落に繋がった。 「偉大な社会」計画のための議会の歳出を確保する ために、ベトナム戦争は限定的(HELSING の原語では LIMITED)性格と なり、その結果ベトナム戦争は長期になり余計にコストがかかるようにな り、その結果インフレーション激化となり戦争の長期化と莫大なコストと 相まって米国民のフラストレーションを巻き起こし、議会はジョンソン大 統領の「偉大な社会」計画支出を掘り崩していくことになった。(18) ジョンソン大統領自身は、ベトナム戦争か「偉大な社会」かという困難 な厳しい選択をすることを望まなかったし、また大統領は、ベトナム戦争 と「偉大な社会」の間での政策プライオリティについてのどんな論議も望 まなかった。ジョンソン大統領は、議会に言及しながら、「私は、議会が ベトナム戦争についての大きな論議へと爆発するその日が、『偉大な社会』 の終わりの始まりになるであろうことを知っていた。……私は、戦争の指 導者、そして、平和の指導者であるように決定付けられた。私は、私の批 判者たちが、ベトナム戦争か『偉大な社会』かどちらかを選択するように 私をプッシュすることを拒否した。私は両方を欲した。私は両方とも信じ た。そして私は、アメリカは両方を与えるための資源を持っていると信じ た。 」対照的に、ケネディ大統領はかつて述べた:「(古の)賢者(原語は、 WISE MEN)たちが言ったように、統治することは選択することである。 我々は選択を逃れることは出来ない。 」そして大統領の選択は、「彼の大統 ― 135 ― 領職の論点、国民生活におけるそれらの優先順位、そして、それらの執行 の様式と成功を決定付けることを助ける。 」その点では、リーダーとして ジョンソン大統領は、彼自身と彼の国家を失敗に導いた。(19) 第三章 国内における偉大な夢、海外における悪化 ベトナム:アメリカの繁栄の推進の真っ最中に一つの刺激剤 ジョンソンが、1963 年 11 月末に大統領職に就いたとき、ベトナム政策 は南ベトナムの大統領ゴ・ジン・ジェムの 10 月における暗殺によって、南 ベトナムの政治的状況は悪化増大の真っ最中の流動の状態にあった。1963 年の末から 64 年の初夏を通じて、共産主義者の反乱はかなり増大したが、 一方で南ベトナム政府は動揺し続けていた。その主要な原因は、サイゴン における文官や軍事的指導部の間での、権力を求める延々と続く内部闘争 であった。加えて南ベトナム軍は、共産ゲリラに対する作戦において効力 がなかった。米政府の内部では、ベトコンゲリラの成功を阻止し、また 北ベトナムからベトコンへの支援供給を制限するということと同様に、サ イゴン政府の決意を強める必要についてのコンセンサスが増大しつつあっ た。(20) しかし南ベトナム情勢の悪化にも関わらず、ジョンソン大統領は時間と エネルギーのほとんどを「偉大な社会」計画に当てた。ジョンソン大統領 の伝記作家やジョンソンの大統領職の他の分析家の多くが述べてきたよう に、ジョンソン大統領は外交問題に関心がなかったし、また戦略的軍事問 題に自分自身が巻き込まれるとは憂慮してもいなかった。ベトナムにおけ る危機は、ジョンソン大統領にとって、最初は、共産ゲリラがそこで縁に 追いやられるような、また南ベトナムでの失敗が大統領の野心的な「偉大 な社会」計画を危うくするほどまでに決してジョンソンの大統領職を弱め ないような、効率的に処理されるべき小さな外交上の刺激剤であった。(21) ― 136 ― ジョンソン大統領が望んだことは、ジョンソンの大統領への昇進のあ と、すぐに形を取って現れつつあったケネディの大統領職の遺産であろ う。ケネディ大統領は、健康、教育、福祉、公民権の分野で、大規模な国 内計画のための未完の青写真をジョンソン大統領に残した。ケネディ政権 は、ジョンソン大統領が実行しなければならなかった、国内面、経済面の 政策事項の多くをすでに計画していた。ケネディ政権期の経済的繁栄は、 ジョンソン大統領が「偉大な社会」を計画することになった経済構造の基 礎であった。ジョンソン新政権のための第一の命題は、政府がその国内計 画を拡大することを可能にするような経済成長を保証することであった。 同時にジョンソン大統領は、南ベトナムでの共産反乱が国内での大統領 の政策事項を混乱させること、あるいは経済繁栄を掘り崩すことを望まな かった。ジョンソン大統領は、最小のコストでのみ、また最小のアメリカ のコミットメントでのみ、南ベトナムが共産主義者の手中に落ちないこと を望んでいた。(22) ベトナムでの政治状況は、危機といえる面に達していたが、それはア メリカ国内ではまだジョンソン大統領にとって政治的危機ではなかった。 ゴ・ジン・ジエム大統領打倒のための軍部クーデターによるジエムの死は、 南ベトナムにおけるより大きな不安定と、権力を求める争いを招いた。同 時に、共産ゲリラは南ベトナムの農村部で地歩を固めつつあった。この時 期までは、南ベトナムにおけるアメリカの戦略は、資源、軍事顧問をコミッ トさせることであり、また、北ベトナムが南ベトナム政府を倒すことを 抑止するために、また南ベトナム軍の自助と有効性を増大させるために、 国際社会における南ベトナム政府への支援をコミットさせることであっ た。(23) その地点では、アメリカのより大きな軍事的関与の考慮はなかった。単 に次の要望があるだけであった。すなわち、南ベトナムが、ベトナムの農 村部での共産ゲリラの浸透増大を食い止めることが出来る、安定した有効 な政府を確立するのを助けること、というものであった。しかし、1963 年 ― 137 ― 9 月にサイゴンを訪問したあと、マクナマラ国防長官とテーラー統合参謀 本部議長は、アメリカの大きな軍事的役割が 65 年の末には全開するであろ うと予測していた。(24) 2 つの枢要な政治目標==持続的な経済成長と軍事支出削減が、より大 きな国内支出のための経済的基礎を供給することになっていた。積極的な 財政政策(ケインズ主義的経済政策)によるアメリカ経済の強力な運営は、 ケネディ大統領の、そして後にはジョンソン大統領の経済顧問たちによっ て、持続的な経済成長を保証し、また完全雇用の目標(失業率 4 %の目標 として認められた)に向かっての推進を保証するための、最も有効な方法 として見なされた。1963 年 11 月(ケネディ大統領暗殺時点)においては、 政権内の最高経済政策担当高官は、ヘラー(Walter Heller)大統領経済諮 問委員会(CEA)議長、ゴルドン(Kermit Gordon)予算局長官、ディロン (Douglas Dillon)財務長官であった。彼らは、経済政策のトロイカとして 政府内外で知られていた。(25) ヘラーは、ジョンソンが大統領職を引き継いだ時、直ちに、持続的な経済 成長が国内の繁栄を達成することのカギであると銘記させた。ヘラーが後 に説明したように、 「繁栄と急速な経済成長は、国内で『偉大な社会』を、 海外でグランド・デザインを達成するための資源を、大統領の自由にする」 というものであった。こうして、 「最小の社会的緊張と最小の経済的混乱の みで前進することを大統領に可能にする」というものであった。ヘラーは ケネディ大統領に同じ点を強調していた。そしてヘラーは、ケネディ大統 領の国内計画を準備することでケネディ大統領と密接に仕事をした。しか しケネディ暗殺によって政権に突然就いたジョンソン新大統領に対して、 ヘラー CEA 議長は「貧困との戦い」に向かって行動するように、ケネディ 大統領に対してよりも熱心に後押しすることが出来た。その理由は、ジョ ンソン大統領は、ケネディ大統領が熟達していなかった分野である議会操 縦の熟練者であったからである。(26)ジョンソン大統領は、1953 年 1 月から 1961 年 1 月までの共和党アイゼンハワー大統領の時代に、上院民主党院内 ― 138 ― 総務として民主党の最高実力者であって議会操縦に辣腕を奮った。 1964 年と 65 年において底流を形成する経済的前提 1963 年 1 月に、ケネディ大統領は年頭教書で 100 億ドルの減税を提案し た。減税の背後にある経済理論は、低い税金は成長と(経済)拡大を刺激 するであろうというものであった。その結果として生ずる経済的繁栄と税 収増大は、今度は、社会計画拡大のための基礎を創造すると思われた。し かし 63 年を通じて、減税提案は保守派とリベラル派の両方からの攻撃にさ らされた。保守派は、減税はインフレあるいは赤字に導くと主張した。リ ベラル派は、減税は富裕層に恩恵を与え、また成長を生み出さないであろ うと主張した。63 年 11 月末に、必要な減税立法が上院で阻止されていたの で、ジョンソンは大統領になったとき直ちに減税提案を実行することを認 めた。(27) ヘラーは後に、ジョンソン大統領の戦略は、とりわけケネディ大統領が 新しい社会的立法の特別支出計画はケネディ大統領第 2 期の間でのみ可能 と信じていた点で、ジョンソン大統領は直ちに社会計画立法を実施するつ もりであったので、ケネディ大統領の戦略とは大変異なっていたと述べ た。 「ケネディ大統領は、あなたがたは国民を説得しなければならない。あ るいは少なくとも主要な社会計画立法の推進者、政策決定者を説得しなけ ればならない、と感じた。―ケネディ大統領は、彼の第 1 期にこの理解 の基盤を打ち立てる。第 2 期にそれに資本を投下するつもりである、と感 じた。これに対して、ジョンソン大統領の理念は、中心的な政策決定者、 枢要なパワーセンター保持者を大統領執務室に招き入れ、彼らと取引をす ることであった。―ジョンソン大統領の理念は、その方策の成功は、そ れ自身、教育手段であろうということであった。ケネディ大統領は全く異 なっていた。ケネディ大統領は、これは進むべき正しい道であり、その後、 あなた方は前進することが出来ようと人々は説得されねばならないと感じ ― 139 ― ていた。」ジョンソン大統領は、早急に行動することを憂慮していなかっ た。彼は、減税法案を成立させた後、直ちに特別の国内社会計画に向かっ て進む積りであった。(28) 1960 年に、ほとんどのエコノミストは、以前の 10 年間、いずれも 2 年か ら 3 年の間に再発する景気後退のパターンに大変疲れきっていた。64 年の 減税は、反景気後退の方策として意図されてはいなかった。しかしそれは、 経済の十分な潜在性を引き出すために計画された。そしてそれに向かって 動くことは、景気後退に対して経済を保証するための方策であった。1956 年から 61 までは共和党アイゼンハワー政権期であったが、ゆっくりとした 成長、高い失業、そして、産業能力がフル稼働していない時期であった。 その結果としてケネディ大統領の下では、経済成長が圧倒的な目標となっ た。ケネディ大統領の経済政策の側近たちは、減税は経済の拡大を助け、 失業を減少し、さらに物価を安定しておくと確信していた。減税による企 業の大きな利益は、高い雇用がインフレなしに達成出来ると彼らは確信し ていた。(29) 減税したあとの歳入増加の源泉は、政府予算の削減、特に国防支出の削 減から生ずることになっていた。財政政策のカギは、減税の一方で、政府 による国内社会計画支出増大に伴う国防支出の節約が経済成長を促進もす るであろうと思われていた。それ故に強力で急速な成長が、経済政策の側 近たちが一貫してケネディ大統領やジョンソン大統領に進言した大経済戦 略であった。(30) ジョンソン大統領は、議会で行き詰っている減税法案に対する政治的障 害を処理することを最初に選択した。予算の規模は、早急に、ジョンソン 大統領にとって重要なファクターと政治的シンボルになった。63年11月に は、1965 年新会計年度(64 年 7 月 1 日― 65 年 6 月 30 日)予算のための準備が かなり進行中であった。 ジョンソン大統領の国内戦略は完全に明白であった。ひとたび 65FY(会 計年度)予算を千億ドル以下にもたらすことと、減税の相互に関連した目 ― 140 ― 標(インフレなき成長、失業率を 4 %以下に見込んだ完全雇用)が成就さ れるなら、経済戦略は適切と言えた。その後、ジョンソン大統領は、議会 で足止めを食っている枢要な国内立法、つまり公民権法案といくつかの教 育法案とに取り組む積りであった。そして他の新しい国内計画のプランニ ングと実行が後に続くことになっていた。それはとりわけ大規模な反貧困 作戦であった。この包括的な国内政策のための基盤は、減税によって引き 起こされる経済的繁栄であることになっていた。加えて、予算の優先順位 が再検討されることになっていた。国防支出は、資源を国内計画分野に向 けるために縮小されることになっていた。(31) 1964 年 1 月 8 日の議会での最初の一般教書演説によって、ジョンソン大 統領は「貧困との戦い」を宣言した。しかし、その「戦い」の詳細はまだ 作り上げられていなかった。しかしその経済的基盤、つまり国防支出削減 によって浮いた予算を国内社会計画に回す予算案と、経済的繁栄によって 政府の歳入を増やすための減税立法とは、今や議会に提出されていた。3 週間後、貧困層のための大規模な住宅建設計画と、ゲットー(スラム街) を新規に再建するための大規模な都市再開発努力を求める両方の法案が議 会に送られた。減税は、1964 国内歳入法として 2 月に議会を通過した。個 人の税金はほとんど五分の一まで、企業の税金は十分の一までに削減され た。ジョンソン大統領の国内社会計画政策は今やハイレベルで急ピッチに 進んでいた。(32) (以下は次号に続く) 註 (1)Jeffrey W. Helsing, Johnson’s War・Johnson’s Great Society ―The Guns and Butter Trap, 2000, pp.6-7. (2)Ibid., p7. (3)Ibid. (4)Ibid. ― 141 ― (5)Ibid. (6)Ibid., p.8. (7)Ibid. (8)Ibid. (9)Ibid., p.9. (10)Ibid. (11)Ibid. (12)Ibid. (13)Ibid., pp.9-10. (14)Ibid., p.10. (15)Ibid., pp.10-11. (16)Ibid., p.11. (17)Ibid. (18)Ibid., pp.11-12. (19)Ibid., p.12. (20)Ibid., p.15. (21)Ibid. (22)Ibid., pp.15-16. (23)Ibid., p.16. (24)Ibid. (25)Ibid. (26)Ibid., pp.16-17. (27)Ibid., p.17. (28)Ibid. (29)Ibid. (30)Ibid., p.18. (31)Ibid., pp.19-20. (32)Ibid., p.20. ― 142 ― フォークナーの二つの町:小説家と脚本家の間 ― The Road to Glory を中心に― 梅 垣 昌 子 最初の長編小説『兵士の報酬』を 1926 年に出版したウィリアム・フォー クナーは、その 3 年後に『響きと怒り』を世に出し、モダニストとしての 名声を築くことになる。更に 1930 年代の『アブサロム、アブサロム!』や 40 年代の『行け、モーセ』などの卓抜した作品群において、フォークナー は故郷であるミシシッピ州オックスフォードに腰を据えつつ、自らの創作 の肥沃な土壌を開墾していく。 その一方で、フォークナーはハリウッドの脚本家として数多くの映画製 作に関わっている。1930 年代の始めから 1950 年代に至るまで、壮年期の 20 年以上にわたる期間、日の目をみることのなかったものも含めると、実に 50 以上もの企画に携わったのである。しかし、ハリウッドにおけるフォー クナーの仕事については、これまであまり重要視されてこなかった。むし ろ、逼迫する経済状況を改善するための止む無き手段として、作家が不承 不承従事してきたものであるとする見方が一般的であった。 そのような見方を生むことになった原因は幾つか考えられるが、その最 も大きなものは、フォークナー自身が残した数々の言葉であろう。家族や 知人に送った手紙や、国内外で行なわれたインタビューなどの中に、ハリ ウッドに関する否定的なコメントがしばしば見られるのである。例えば40 年代の後半に行われたインタビューにおいて、ハリウッドをどう思うかと 尋ねられたフォークナーは、 「気候も人間も生活スタイルも嫌い」だとし て、そこでの無為な人生を示唆するような答え方をしている。1) ― 143 ― だが、ここで注意すべき点が少なくとも二つある。まず、インタビューに おける作家自身の言葉は、必ずしも額面通り受け取れないということであ る。これは、フォークナーの他のインタビューの記録を読めば、容易に納 得できる事実である。私生活に踏み入られることを極度に嫌ったフォーク ナーは、記者からの質問をはぐらかすこともあったし、また斜に構えて答 えることが珍しくなかった。次に、ハリウッドと関わりのあったフォーク ナーの 20 年間を、ひと括りにして論ずることはできないという点である。 フォークナーの一時期の発言を捉えて拡大解釈し、それを彼と映画産業の 関係全般に当てはめてしまうことは、危険性を孕む。ミシシッピの作家と しての豊穣な本業の実りに対して、カリフォルニアでの仕事全般を、不毛 な副業とみなしてしまえば、フォークナーの全体像を下支えする台座の一 部を見失うことになりかねない。 1940 年代におけるハリウッドでの契約条件が、フォークナーにとって満 足のゆくものでなかったことは確かである。しかし 30 年代に目をやると、 報酬や仕事場などの面で、それ以後とはかなり異なった状況が浮かびあ がってくる。またこの時期の仕事は、後にフォークナーの代表作と目され るような小説の執筆過程や、人生の苦境および転機と密接に結びついてお り、作家としてのフォークナーの全体像を掴むにあたって、決して軽視で きないのである。 本論では、故郷を離れて脚本家として活躍していたフォークナーの仕事 に注目し、それが彼の業績の中でどのように位置づけられるべきかを考察 する。そのうえで、1936 年の映画 The Road to Glory(『永遠の戦場』)の初期 脚本に注目し、その執筆過程を辿ることによって、フォークナーの後期作 品への影響関係を探る。第一次世界大戦を舞台とするこの映画は、フラン ス映画『木の十字架』に基づいて製作されたものであるが、フォークナー が後に『寓話』で結実させた作品世界の萌芽をみることができる点で興味 深い。当時のフォークナーの精神状態は、前年に弟のディーンを飛行機事 故で失ったこともあり、極めて不安定であった。公私ともに大きな変化に ― 144 ― 直面したフォークナーにとって、ハリウッドでの仕事がどのような意味を もっていたかを明確にすると同時に、第二次世界大戦へ向かう情勢のもと で、フォークナーが如何に生と死の問題を提示する方法を模索していたか を考える。 1 実験的なモダニストとして注目をあびたフォークナーは、特に初期の傑 作である『響きと怒り』などの作家として一般に認識されることが多く、 『行け、モーセ』以降の作品群には、業績の下降線上に位置するものとし て捉えられる傾向にある。20 代の終わりに初の長編小説を出版したもの の、続いて取り組んだ大作が出版社に拒否されるという失望を味わった フォークナーは、世間に認められるものを書くのではなく、自分が本当に 書きたいものに全力を傾注するのだと決心して、 『響きと怒り』に取り組ん だ。2)一方で、その出版後間もなく、センセーショナルな作品『サンクチュ アリ』を世に出し、これが初のベストセラーとなる。密造酒の売買や殺人 事件を軸として、社会の暗部を過激に表現したこの小説の序文には、売れ るために思いきり恐ろしい物語を書いたのだという、作者自身の言葉が含 まれている。3) このことから容易に想像できるように、フォークナーの作 品は、存命中には商業的な成功に恵まれなかった。フォークナーが作家と して高い評価を得るようになったのは、1940 代の終わりにマルカム・カウ リーの編集による『ポータブル・フォークナー』が出版され、それがきっ かけで 1950 年のノーベル文学賞を受賞してからのことである。4) 重要な作家としての地位を国内外で認められるようになって以降、 フォークナーの作品研究は、主として初期のモダニズムの小説や、中期の 大作など、難解な内容の作品に集中する傾向が高かった。生誕100年に差し 掛かる 20 世紀末には、研究対象の作品群や分析方法の幅が大きく拡大し、 未発表の短編なども取りあげられる一方で、ジェンダーやポストコロニア ― 145 ― ルなどのキーワードを用いたアプローチも数多く試みられている。5) しか しながら、フォークナーと映像作品の関係、すなわち、『サンクチュアリ』 がきっかけとなって足を踏み入れた、ハリウッドでの脚本家としての仕事 については、それを対象とする研究資料が、既に大作と認められている小 説群と比較すると、今なお量的および質的に充実していないのが実情であ る。6) ハリウッドにおけるフォークナーの仕事が、これまであまり重要視され てこなかったのには、幾つかの理由があるが、フォークナー自身の語録に よるところも大きい。彼は、インタビューなどを始めとする様々な場面で、 ハリウッドに関するコメントを残している。それらは、一見すると否定的 な指摘や感想であると受け取られる場合が多い。たとえば、バージニア大 学におけるセミナーでの質疑応答において、フォークナーは次のように話 している。7) Well, I will use an analogy. There’s some people who are writers who believed they had talent, they believed in the dream of perfection, they get offers to go to Hollywood where they can make a lot of money, they begin to acquire junk swimming pools and imported cars, and they can’t quit their jobs because they have got to continue to own that swimming pool and the imported cars. There are others with the same dream of perfection, the same belief that maybe they can match it, that go there and they resists the money. They don’t own the swimming pools, the imported cars. They will do enough work to get what they need of the money without becoming a slave to it, and that, in that sense, it is as you say, it is going to be difficult to go completely against the grain or the current of a culture. But you can compromise without selling your individuality completely to it. You’ve got to compromise because it makes things easier. ― 146 ― 多くの批評家は、経済的な困窮から脱するために、不本意ながら脚本執筆 に従事していたという前提で、フォークナーの語録を断片的に引用し、そ こからハリウッドに蔓延する物質主義への批判を読み取るきらいがある。 だが、フォークナーの言葉から汲み取れるのは、果たしてそのような否定 的態度のみであろうか。 例えば上記引用においては、インタビューの文脈全体をふまえれば、必 ずしも彼がハリウッドでの自分の仕事を否定的に捉えていたのではなく、 むしろその逆であったかもしれないということが、伺えるのである。そも そも上記の引用箇所は、共産主義と個人主義の問題について、学生から投 げかけられた疑問に対する回答である。上記の引用部分に先立つ会話の中 で、フォークナーは共産主義を全体主義と捉え、その体制が、個人主義とい う、人間の最も尊重すべきあり方と相容れない点を指摘している。そのう えで、個人主義を守るために、如何にして国家ないしは個人主義を軽視す るような権力に立ち向かわなければならないかを力説している。これに対 してセミナーの受講者の一人が質問を行なった。現代社会にあっては、個 人主義は孤立主義と結びついてしまう危険性があることを示唆し、そのよ うな場合はどういう方策があるのかを尋ねたのである。この問いに対する 回答が、上記の引用箇所なのだが、フォークナーは、ハリウッドでの体験に もとづく “analogy” を用いて意見を述べている。しかしこの “analogy” は、 やや唐突で牽強付会にさえ感じられる。別の見方をすれば、このことは、 ハリウッドでの見聞や、そこで脚本家として生き延びた体験が、フォーク ナーのその後の思想形成や創作に、如何に多大な影響を与えたかを物語っ ていると思われる。ハリウッドに集まる人々の拝金主義的な側面を嫌いつ つも、“the dream of perfection” をめざして脚本制作にあたっているという 意識は常にもっていたのであり、またその志を共有する仲間をも見いだし ていたのである。なおかつ、生活に必要な報酬を得るためにハリウッドに 踏み止まるべく、“compromise” という譲歩、つまり、“perfection” 追求と自 己保存とのバランスの匙加減を習得するに至ったのである。 ― 147 ― 脚本執筆の仕事の傍ら、フォークナーがハリウッドでの生活を如何に楽 しんでいたかについては、カリフォルニアから故郷のオックスフォードへ 書き送った家族への手紙の文面に見て取ることができる。8) 特に娘のジル に宛てたものには、ハリウッドの脚本家仲間の様子や、余暇の過ごし方な どが、イラストを交えて説明されている。一方、脚本家としてのフォーク ナーの仕事ぶりは、廃棄を免れて保存された手書き原稿の紙面から伺うこ とができる。9) Blotoner が指摘するように、フォークナーはハリウッドで の初期の執筆において、手書きしたスクリプトを読み上げ、それを秘書が タイプで打っていた。10) 口述の終了したものは、その都度廃棄されたが、 一部残された原稿が存在する。それらの原稿の筆跡や文字の細かさは一様 ではないが、その中には、“Wash” の手書き原稿に匹敵するような繊細で緻 密な原稿が見られる。11)このような手書き原稿の分析から、幾つかの事実 が浮かび上がってくる。脚本の仕事に携わるに際にも、小説作品に取り組 む時と同様、フォークナーは “perfection” に対する強い志向をもっていた ことが伺われる。また、彼の編集能力の高さを再認識することができる。 というのも、原稿の各所に記入された数字の羅列などから、脚本の一部の 改訂や差し替えを、フォークナーが細かく管理していた跡が見てとれるか らである。さらに、脚本の対話部分にほぼ毎行記されているカメラワーク への指示は、フォークナーが、単にストーリー展開のみならず、撮影の詳細 にまで注意を払い、各場面を視覚化して執筆にあたっていたことを物語っ ている。12) このように、ハリウッドでのフォークナーの仕事は、それが経済的な困 窮によって生じた事態であったとはいえ、必ずしも彼に苦痛や嫌悪感のみ を残したのではなく、むしろ、作家としての業績に利する体験であったと 見られる。また、フォークナー自身も、仕事を通じて得た人間関係や脚本 家同士のやりとりを楽しみ、そこに重要性をも見い出している。そう考え ると、作家としてのフォークナーの全体像を把握するためには、ハリウッ ドでの彼の執筆活動の重要性を無視することはできないであろう。本論で ― 148 ― は、フォークナーが脚本家として参加し、成功を収めた作品の 1 つである 『永遠の戦場』 (The Road to Glory, 1936) を取りあげるが、その前に、フォー クナーとハリウッドとの関わりを時系列で確認しておきたい。しかるのち に、上記作品が、その関わりの中でどのような位置を占めるのかを考察す る。 2 ハリウッドとフォークナーの関係は、1930 年代に入って間もなく始ま り、その後 20 年あまりの間、断続的に続くことになる。この期間、フォー クナーは複数のスタジオで、異なる条件のもとで働き、仕事の成果も様々 であった。 『永遠の戦場』 (1936) 『脱出』 (To Have and Have Not, 1944)『 3 つ数えろ』 (The Big Sleep, 1946)など、名作と評価される作品に脚本家と してクレジットを与えられると同時に、実際には映画化に結びつかなかっ た多くの作品の脚本作成や略筋の執筆を手がけた。時代背景に注目すれ ば、それはトーキーへの移行期からハリウッドの黄金時代に至る時期と重 なる。またその間、第二次大戦が勃発する。すなわち、複雑な政治情勢が ハリウッドの映画制作にも影響を及ぼす時代でもある。このように多岐に 渡る情勢が背後にあるにもかかわらず、フォークナー批評においては、こ の 20 年あまりの動向が「フォークナーとハリウッド」という見出しでひと 括りに扱われることがしばしばである。それに連動して、フォークナーと ハリウッドの関係も、おしなべて否定的に把握される傾向がある。しかし ながら、それが誤解を招くやり方であることは、すでに触れたとおりであ る。ハリウッドでのフォークナーの執筆活動は、少なくとも 5 つの時期に わけて考えることができる。 その 5 つの時期を通して、フォークナーと密接な関係をもっていたのは、 映画監督のハワード・ホークスである。そもそもホークスは、 『兵士の給 与』を読んで感銘をうけ、フォークナーの短編作品である「急旋回ボー ― 149 ― ト」(“Turn About”, 1932 )を映画化する権利をいち早く手に入れた。ホー クスは映画脚本の執筆もフォークナーに依頼し、『今日限りの命』 (Today We Live, 1933)という作品として、MGM(メトロ=ゴールドウィン=メイ ヤ−)により映像化されることになった。MGM は 3 度の合併を経て、当時 ハリウッドで最大の規模を誇っていたスタジオである。 実は『今日限りの命』の制作前に、フォークナーは MGM と契約を結ん でいた。フォークナーとハリウッドの関係の幕開きである。 『サンクチュ アリ』の商業的成功と、フォークナーの側の経済的理由とが発端となっ て、1932 年の 5 月に始まったこの契約は、しかしながら 2 か月半で停止する ことになる。そこにホークスが上記映画の企画を持ち込み、フォークナー はその制作に脚本家として携わることになったのである。これがフォーク ナーのハリウッドでの仕事の第 1 期ということになるが、この契約期間中、 フォークナーは “War Bird” など、最終的には映画化に結びつかなかった脚 本も手掛けている。次にフォークナーは、1934 年の 7 月に、ユニヴァ−サ ルスタジオで仕事をしている。この間、クレジットはつかなかったものの、 『黄金』 (Sattuer’s Gold, 1936)の制作に関わった。 1935 年の 12 月から、断続的に 1937 年まで、フォークナーは 3 つめの映画 会社と契約した。20 世紀フォックスである。ここで、 『永遠の戦場』や『奴 隷船』 (Slave Ship, 1937) 『モホークの太鼓』 (Drums Along the Mohawk, 1939) などの執筆に携わった。フォークナーはこのスタジオで 8 作品を手掛ける が、クレジットがついたのは、前 2 者のみであった。1930 年代は、フォー クナーにとって、公私ともに心的負担の重い時期であった。弟ディーンの 飛行機事故死、妻エステルとの不和、度重なる飲酒など、暗い出来事が続 く一方で、当時ホークスの秘書だったミータ・カーペンターと出会い、彼 女との関係は、ハリウッドとのそれと同様、断続的に長期間続くことにな る。1930 年代に 20 以上の企画に関わったフォークナーの週給は、最初の 500 ドルから始まり、最高額は 1000 ドルまで跳ね上がった。 その後故郷のオックスフォードに戻り、 『行け、モーセ』を出版した ― 150 ― フォークナーは、1942 年に再びハリウッドにもどり、ワーナー・ブラザー ズと7年契約を結ぶ。しかしこの契約は、フォークナーにとって満足のゆ くものとは言えなかった。週給が300ドルという低額であったことに加え、 この期間にフォークナーが執筆するものについては、脚本のみならず小説 にいたるまで、ワーナー・ブラザーズが権利を握るという内容であった。 1946 年の『ポータブル・フォークナー』出版後、ランダムハウスの計らいに より解放されるまで、フォークナーは仕事の条件に不満を募らせていた。 この件についてのフォークナーの辛辣なコメントが後に世に知られること になり、各種インタビューにおける誇張された発言もあいまって、フォー クナーのハリウッド観を否定的なものとして一般化してしまう結果になっ たと考えられる。実際の仕事量や成果の観点からは、ワーナー・ブラザー ズ時代はフォークナーにとって充実したものであった。ヘミングウェイ原 作の『脱出』やチャンドラー原作の『 3 つ数えろ』、さらに、クレジット はつかなかったものの『南部の人』 (The Southerner, 1945)など、フォーク ナーが脚本に関わった映画は高く評価されている。また Battle Cry、Country Lawyer、The De Gaulle Story などの脚本原案は、最終的に映画化はされな かったものの、技法やテーマがフォークナーの小説群と重要な関わりを 持っているという点で、興味深い。 ハリウッドにおけるフォークナーの最後の仕事に属するのが、再びハ ワード・ホークスと組んだ『ピラミッド』 (Land of the Pharaohs, 1955)であ る。1942年に始まったワーナー・ブラザーズとの契約が一段落したあとも、 ホークスの要望により作品の制作に参加した。1951年にも The Left Hand of God という作品に関わったが、これは映画化に結びつかなかった。 3 以上のようにフォークナーは30代半ばから50代にかけて、作家として最 も重要な時期に、20 年以上の長きに渡ってハリウッドとオックスフォード ― 151 ― という二つの町の間を往き来していた。13)ワーナー・ブラザーズとの当初 の7年契約は不本意なものであったが、脚本家としてのフォークナーの存 在価値を、カウリーは次のように書きとめている。 [Faulkner] said in the Paris Review interview (1956) “I know now that I will never be a good motion-picture writer,” but what he meant is that he wouldn’t be a great one. He was good enough so that Warner Brothers made strenuous efforts to get him back to their studio, even in the years before they realized that he was a world-famous author. They wanted him because he could throw away the script and write new dialogue on the set, a technical achievement that few of their writers had mastered. (Cowley, 159) 脚本家の仕事は、フォークナーの本業ではなかったが、その高度な職人技 は、映画制作の現場で大変に重宝されるものであり、その域に達する人材 は決して多くはないということを、カウリーは見抜いていたのである。そ のような人材だからこそ、ワーナー・ブラザーズはフォークナーを手放し たくなかったのである。細部を瞬時に統合して全体の流れにのせる技術力 と調整力は、フォークナーの自称 “motion picture doctor” という言葉によっ て見事に表現されている。このような素質の萌芽は、フォークナーがモダ ニストの小説家として出発した時点から、すでに彼の内に見られたと考え られるが、実際に彼がその腕を磨き、ホークス監督の信頼を得るに至った のは、1930 年代におけるハリウッドでの経験に負うところが大きい。 『永遠の戦場』 は上述のように、1930 年代の半ば頃、フォークナーが 20 世 紀フォックスの仕事をしている間に手がけた脚本である。作品の舞台は、 第一次世界大戦中のフランスである。 「ナポレオン・ボナパルトによって生 14) み出され、数多くの遠征で名誉を得た」 第 39 連隊の歩兵中隊大尉とその 恋人、および新しく赴任してきた彼の部下の間に生まれる三角関係が、従 軍兵士の群像を背景として描かれている。兵士達は、塹壕で銃撃戦に身を ― 152 ― 投じ、常に生と死の境界戦上にある。この恋愛模様に、歩兵隊大尉とその 父親との親子関係が絡まる。父親が、息子の部下として部隊に加わってく るという設定である。時代の流れにともなう戦争形態の変化が物語の縦糸 になっているとすれば、いずれの戦争においても変わらぬ不条理な死と、 死に対する感覚を麻痺させて生にしがみつく兵士達の姿が横糸である。か くしてストーリーは、歩兵中隊の指揮官である大尉と、彼の父親とが身を 賭す、壮絶な爆死の場面へと進んでゆく。 自身が脚本家でもあるダリル・ザナックが、ナナリー・ジョンソンとと もにプロデューサーをつとめたこの作品の制作現場は、監督のハワード・ ホークスも加わって、複数の舵取り役が同乗している船のようなもので あった。ザナックは、フランス映画の Les Croix des Bois 15)に使用されて いる戦闘シーンを使用すべく、その権利を買ったのであるが、当時のハリ ウッド映画の傾向を反映して、 『永遠の戦場』はメロドラマの色合いが濃い 作品に仕上がっている。フォークナーは、そのような色合いを映画に付与 するようなシーンの挿入を担当していた。 (Kawin, 160) 本論の最初のセクションにおいて、フォークナーのハリウッドでの仕事 に対する注目度が高くない原因は、幾つか考えられると述べた。その原因 のいまひとつとして挙げられるのは、映画脚本の執筆に伴う一般的な事情 である。共同脚本による映画は、執筆後に加えられる制作者や監督の意向、 撮影現場での変更、更に編集段階の調整を経て、完成版に辿りつく。この長 い過程のそれぞれの段階で、数種の脚本が生まれ、破棄される。したがっ て完成した映画作品を観て、個々の脚本家の貢献度を正確に図ることは困 難である。このような状況下でフォークナーが執筆の仕事に加わっている 場合、純粋に彼自身の寄与といえる部分を抽出して、その功績を評価する ことが、容易ではなくなってくる。 しかしながら『永遠の戦場』に関しては、特殊な事情がある。映画は フォークナーとジョエル・セアーの共同脚本によるものであり、Garrett が述べているように、分担執筆された各部に何段階かの改訂が加えられ、 ― 153 ― 更にザナックやホークスの手も入っている。16) だが、初期段階の脚本が セアーとフォークナーの共著として出版されているということ、また、 フォークナー自身の手書き原稿の一部が残っていること、という 2 点にお いて、『永遠の戦場』は特殊な事例である。出版された脚本は、映画の完 成版にはない場面を含んでおり、そこにフォークナーが関わっているとす れば、彼がこの作品に含めようとしたテーマが浮き彫りになる。また同様 に、手書き原稿の検討をとおして、すでに言及したフォークナーの作業方 法や、完成版の映画への貢献度の一旦を読み取ることが可能である。 先ほど映画のプロットを説明する際、物語は「歩兵中隊の指揮官である 大尉と、彼の父親とが身を賭す、壮絶な爆死の場面へと進んでゆく」と述べ たが、この親子の死はエンディング・シーンではない。映画はその後も更 に続く。歩兵隊の大尉の部下が、死んだ上官の後を引き次ぎ、生前大尉が 行なっていたのと全く同じ閲兵の場面を演じるのである。映画に見られる この円環の構造は、フォークナーの小説に頻繁に見られるものであるが、 『永遠の戦場』 においても、表裏一体の生と死というテーマを表現するに際 して、重要なモチーフとなっている。 出版された脚本の冒頭では、部下の赴任の場面で、彼が棺桶の中に入っ て運ばれてくるという設定になっている。Kawin や Garrett が指摘するよ うに、これは作品全体を通して流れている、 「表裏一体の生と死」という テーマと結びつく演出である。ただし、この場面は完成版には採用されて いない。 (Kawin 91, Garrett 165)また、戦闘場面の中には、修道院と墓地 を思わせる場面が含まれており、多数の十字架が、荒涼たる風景に更に絶 望感を与える役割を果たしている。もとになったフランス映画において も、その題名 Les Croix to Bois( 『木の十字架』 )が示すとおり、十字架は頻 繁に現れるモチーフとなっている。このことは、フォークナーの後の大作 である A Fable を思い起こさせる。A Fable は、第一次世界大戦中のフラン スが舞台となっており、登場する伍長と 12 人の部下は、イエス・キリスト と12弟子の関係と符号する。ノーベル文学賞受賞後の1954年に出版された ― 154 ― が、その着想のヒントは、1940 年代、ハリウッドの仕事場において、ある 監督が思いついた企画から得られたとされる。A Fable の表紙のデザイン 案として、フォークナーは自ら十字架の絵を描いている。その道筋は、す でにこの時点、すなわち 1930 年代半ばのハリウッドでの仕事時代に、うっ すらと形成されていたのかもしれない。 4 大方の批評家があまり重要視しなかったにもかかわらず、フォークナー のハリウッドでの仕事は、小説家としての彼の全体像を知るうえで、重要 な位置を占めている。さまざまな挿話を組み合わせ、大量の断片を有機的 全体へと統合してゆく映画制作の作業において、フォークナーはその緻密 な職人技を発揮した。 彼は “a motion picture doctor” として適切な調整を行 い、プロットの構成に責任をもつのみならず、実際のカメラワークにまで 気を配って、詳細な視点の設定もこなした。このことは、フォークナーの 脚本の手書き原稿の観察により、見て取ることができる。 脚本家として重宝されるこれらの資質は、ハリウッドでの仕事を始める 以前から、フォークナーの内に秘められていたものである。20 代から 30 代 にかけて、実験的手法の小説に取り組んでいたモダニストとしてのフォー クナーにとって、モンタージュ、エピソードの並置による新しい意味の創 出、語りの視点の移動および重層化などといった手法は、 『響きと怒り』を はじめとする初期の作品を執筆するなかで鍛えあげられた、重要な武器で あった。17)これらの技法を携えたフォークナーが、脚本家の器にぴったり とはまることができたとしても、なんら不思議はない。フォークナーは、 ハリウッドでの脚本家としての仕事を通して、この資質にさらに磨きをか ける。それが、小説家としての後期作品群の構成へと結びついてゆく。 モダニストの資質が、映画脚本の仕事、とりわけ共同脚本の擦り合わせ 作業を容易にした一方で、フォークナーが脚本家として新たに獲得しなけ ― 155 ― ればならない技術があった。リズムのある対話文の構築である。軽妙な会 話の応酬を現前させる創造力が、すぐれた脚本家には必要になってくる。 また、黄金期へと進むハリウッド映画につきものの、ロマンスの挿入も、 脚本家への要求事項のひとつである。戦場や大自然の中での狩猟といった ような、当時はまだ「男の世界」であった場所で展開する物語についても、 男女のロマンスを織り込むことが求められた。 フォークナーは、作家として獲得した語りの技術を、脚本家としての仕 事に応用した。その一方で、脚本家として要求される、会話主体の軽やかな ストーリー展開や、ロマンスおよびユーモアのスパイスを効かせた状況設 定に対応する能力を身につけた。これにより、作家としてのフォークナー の全体像は、ハリウッドでの経験を経た後期作品群に至って、更に重層性 を増したのだと考えられる。 フォークナーが作家として一貫して追い続けているテーマについても、 その片鱗は脚本家の仕事の中に垣間見える。本論でとりあげた『永遠の戦 場』 については、プロットの円環構造に埋め込まれた、生と死に関わるテー マが注意を引く。表裏一体の生と死というモチーフや、愛する者の死に耐 えきれず、その永遠の不在から目を背けるために、自分の生を痛めつける ことに全力を注ぎ込む登場人物などが、反復して現れる。フォークナーは、 脚本執筆に関わる直前の 1935 年に、パイロットになった末弟のディーンを 飛行機事故で失っている。 『永遠の戦場』 において、塹壕で昼夜を過ごす兵 士たちの中にも、弟を亡くした者がいる。フォークナーは、喪失の苦悩を 作品の登場人物に代弁させることによって、心の負荷を分散させると同時 に、表裏一体の生と死を描くことによって、心痛の沈静化を試みたように 思われる。戦闘の最前線の塹壕という、物理的にも比喩的にも閉塞感の漂 う空間は、当時のフォークナーの心象風景を委ねるのに最も相応しい舞台 であったといえる。 生と死のテーマは、フォークナーの後期作品において、初期の作品群と はまた異なる形で展開される。そのテーマは、アレゴリーやユーモアを絡 ― 156 ― ませ、より明快なプロットにのせて語られることになる。このような作品 傾向の変遷は、フォークナーが脚本家としての経験を積んだという事情に 鑑みれば、十分納得がゆく。強いて疑問を挙げるとするならば、何をさし おいても個人主義を尊重するフォークナーが、共同脚本の作成という作業 を、そつなくこなすようになった背景には、どのような事情があったのか ということである。フォークナーの作品に見られる最も印象深い共同作業 は、 『アブサロム、アブサロム!』のクエンティンとシュリーヴのそれであ ろう。それはおそらく、“compromise” を、perfectionist としてのある種の自 分への挑戦と捉え、なんらかの止揚を実現しようとする姿勢であったのか もしれない。 本論は、フォークナー・センターのあるサウスイースト・ミズーリ州立大学のブ ロツキー・コレクション、およびミシシッピ大学のフォークナー・コレクショ ンに収蔵されている、フォークナーの手書き原稿の考察が出発点となっている。 2009 年度の派遣研究員として、両大学で研究活動を行ない、これらの資料を自 由に閲覧する機会を得た。このことについて、名古屋外国語大学に心より感謝の 意を表したい。また、フォークナー研究に関して貴重な助言を授けて下さった、 サウスイースト・ミズーリ州立大学のハムリン所長、リーガー副所長、フォーク ナー・コレクション名誉キュレーターのブロツキー氏、同主任キュレーターのス ピア博士、ミシシッピ大学の前フォークナー・ハウリー・チェアのカーティゲイ ナー教授、その後任のワトソン教授、南部文化研究所のアバディ教授、英文科の トレフツァー教授をはじめ、両研究機関にて様々な協力を下さった方々に、同じ く感謝の意を表したい。 ― 157 ― 註 1)1947 年 4 月 16 日、ミシシッピ大学のクリエイティヴ・ライティングの授業で、 フォークナーは受講生からの質疑に応じた。大学の要請によって、フォーク ナーは、一週間にわたり、毎日 1 コマ英文科の授業を行なうことになった。 フォークナーの希望で、この場に教員は同席していない。フォークナーが ユーモアも交えながら、学生を相手に率直な意見を述べたことが伺われる。 その模様は The Western Review, 15 (Summer 1951), pp.300-04. に発表、Thomas M. Inge, ed. Conversations with William Faulkner. (Jackson: UP of Mississippi, 1999) pp.66-72 に再録。 2)Blotner は、 『響きと怒り』執筆の経緯の詳細を、フォークナー自身の言葉 ( “One day I seemed to shut a door between me and all publisher’s addresses and book lists. I said to myself, Now I can write. Now I can make myself a vase like that which the old Roman kept at his bedside and wore the rim slowly away with kissing it.”)を引用しつつ解説している。(Blotner 1984, p.212) 3)『サンクチュアリ』の執筆動機について、フォークナーは学生たちに対して 次のように説明している。“The basic reason is that I needed money. Two or three books that had already been published were not selling and I was broke. I wrote Sanctuary to sell. After I sent it to the publisher, he informed me, ‘Good God, we can’t print this. We’d both be put in jail.’ The blood and guts period hadn’t arrived yet.” (Conversations with William Faulkner, p.67) 4)カウリーは、ポータブル・フォークナーの出版にともなうフォークナーとの やりとりを、The Faulkner-Cowley File: Letters and Memories, 1944-1962 に記し ている。出版にあたっては、 『響きと怒り』をはじめとする 7 作品の一部およ び 7 編の短編に加え、 「付録―コンプソン一族」を本書のために新たに準備す ることになったが、20 年前の著作についてのフォークナー自身の記憶は明確 でなかった。そればかりか、彼の手元には『響きと怒り』の本がなかったの である。カウリーは自分が所有する『響きと怒り』をフォークナーに貸した が、フォークナーはその本を返却するとき、自分のサインとともに次のよう な言葉を書きこんだ。“To Malcom Cowley Who beat me to what was to have been the leisurely pleasure of my old age.” (Cowley, pp.90-91) 現在この本は、フォー クナー・センターのあるサウスイースト・ミズーリ州立大学のブロツキー・ コレクションに保管されている。このフォークナーのメッセージを、ブロツ キー氏は次のように評している。“Written to thank Cowley for his careful, sensi- ― 158 ― tive editing of The Portable Faulkner. Surely one of the most scintillating and sincere inscriptions Faulkner ever wrote.” (Brotsky and Hamblin 1989, p.10) 5)Linda Welshimer Wagner, ed. William Faulkner: Four Decades of Criticism. (East Lansing: Michigan State UP, 1973) および William Faulkner: Six Decades of Criticism. (East Lansing: Michigan State UP, 2002) 参照 6)フォークナーと映像作品の関係を考えるにあたっては、フォークナーの小説 の中で映像化された作品と、フォークナーが脚本作成に関わった映画作品と の両方を視野にいれるべきであろう。前者については、劇場版の映画として 制作されたものと、テレビ映画として放映されたものとがある。Intruder in the Dust, The Hamlet, The Reivers, Sanctuary, The Sound and the Fury, Pylon, “Turn About” “Tomorrow” などが映画化され、 “Barn Burning” “The Bear” “Old Man” “Two Soldiers” などを原作とする映像作品がテレビ放映された。Sanctuary や “Two Soldiers” のように、複数回映画化ないしはリメイクされた作品もある。 後者については、映画化に結びついたものと、お蔵入りになってしまったも のとがあり、脚本に複数のバージョンが存在するものも加えれば、その数は 50を超える。ただし、“Turn About” のみは両者に共通する。すなわち、フォー クナー自身が、自作の映画化のために脚本執筆を担当したのである。 7)1957 年 4 月 30 日に行なわれた第 13 回目のセッションより。Frederick L. Gwynn and Joseph L. Blotner, eds. Faulkner in the University: Class Conferences at the University of Virginia, 1957-58. (Charlottesville: U of Virginia P, 1959) p.102. 8)例えば 1943 年 4 月にフォークナーが娘に送った手紙など、ハリウッド時代 に家族に宛てられたものが多数、サウスイースト・ミズーリ大学のブロツ キー・コレクションに保管されている。 9)ミシシッピ大学のフォークナーコレクションには、 『永遠の戦場』 (脚本段階 では、Wooden Crosses とよばれていた。映画の完成版に至るまでに、タイト ルはいくつかの変遷を経ている。)の制作段階で記されたフォークナーの手 書き原稿が保管されている。この原稿の存在や意義については、サウスイー スト・ミズーリ州立大学フォークナー・センターの Robert W. Hamblin 所長 よりご教示をいただいた。また、この原稿の調査や考察にあたっても、所長 から貴重な助言を得た。この場を借りて感謝の意を表したい。 10)Blotoner によれば、フォークナーは執筆した原稿を読み上げ、それを秘書が タイプ打ちしていた。フォークナーは、口述が一段落すると原稿に横線を引 いて、仕事の進捗状況を確認していた。彼は口述の終わった原稿を、順次屑 ― 159 ― 篭に入れていた。あるとき、タイプ打ちした内容を再確認しようと思った秘 書が、フォークナーの手書き原稿を探すと、それは早くも屑箱の中に捨てら れていた。拾い上げて読もうとしたが、判読不可能だったという。 (Blotoner, p.160)一方 Milgate は、フォークナーの小説執筆過程における原稿の扱いに ついて、次のように説明している。“…since he generally destroyed his rejected drafts, those manuscripts and typescripts that do survive may represent only a tiny proportion of those that once existed.” (Milgate 1997, p.20) 11)1934年に出版された短編 “Wash” は、のちに長編 Absalom, Absalom! に組み込 まれた。この短編の初期の草稿が 3 種類、ブロツキー・コレクションに保管 されている。9 ページおよび 12 ページの手書き原稿と、手書きの修正がある 22 ページのタイプ原稿である。ブロツキ−氏は、“Wash” の手書き原稿の緻 密さを次のように記している。“These manuscripts are so physically beautiful to me I’d like to frame each one and hang them, like pieces of art, on my wall.” (Brotsky and Hamblin 1989, p.13) 12)フォークナーは、自分のハリウッドの仕事について、授業を担当した学生 達に次のように説明している。“I’m a motion picture doctor. When they find a section of a script they don’t like I write it and continue to rewrite it until thy are satisfied.” (Inge, p.70) 13)フォークナーは、作家の創作意欲と年齢について、次のように語っている。 “For fiction the best age is from thirty-five to forty-five. Your fire is not all used up and you know more. Fiction is slower. For poetry the best age is from seventeen to twenty-six.” (Inge, p.69) 14)William Faulkner and Joel Sayre. The Road to Glory: A Screenplay. Ed. Matthew Bruccoli. (Carbondale: Southern Illinois UP, 1981.) p.23. 15)フランス映画 Les Croix de Bois は 1932 年の 4 月にパリで封切られた。ニュー ヨークタイムスの映画評は、その見出しにおいてこの映画を “A Masterpiece of Realism and Simplicity” と評している。 16)Kawin の “Faulkner Filmography” によれば、『永遠の戦場』の成立過程は以 下のごとくである。(Kawin, p.168)まず、1932 年のフランス映画(Roland Dorgeles 原作)をもとに、1935 年フォークナーとセアーの共同脚本 Wooden Crosses が執筆された。これにナナリー・ジョンソンとダリル・ザナックが ストーリーの改訂を加え、それを反映した最初の脚本初稿が 1936 年 1 月 14 日、フォークナーとセアーにより作成される。その後 2 回の校正を経て、Zero ― 160 ― Hour というタイトルで、最終稿が完成。1936 年 1 月 27 日、フォークナーと セアーの共同脚本という扱いである。この脚本が、完成版の映画に最も近い 内容である。さらにこの後、同 4 月にフォークナーとホークス監督により、 新しいシーンが書き加えられた。これらすべての脚本改訂をへて、 『永遠の 戦場』は 1936 年 6 月に上映の運びとなった。 17)Kawin は、フォークナーが初期に影響を受けた作家達の手法が、映画の技法 に影響をうけたものであることを指摘している。すなわち、モダニストの特 徴自体が映画の技術と密接に関連している。このことを考えれば、フォーク ナーの職人技とハリウッドの親和性も、当然の帰結として導かれることにな る。 参考文献 Blotner, Joseph. Faulkner: Biography. 2vols. New York: Random House, 1974. -------------------. Faulkner: Biography. 1vol. New York: Random House, 1984. -------------------, ed. Selected Letters of William Faulkner. New York: Random House, 1977. Brodsky, Louis Daniel and Robert W. Hamblin, eds. Faulkner: A Comprehensive Guide to the Brodsky Collection. Vol. 1: The Biobibliography. Jackson: UP of Mississippi, 1982. ------------------, eds. Faulkner: A Comprehensive Guide to the Brodsky Collection. Vol. 2: The Letters. Jackson: UP of Mississippi, 1982. ------------------, eds. Faulkner: A Comprehensive Guide to the Brodsky Collection. Vol. 5: Manuscripts and Documents. Jackson: UP of Mississippi, 1988. ------------------, eds. The Brodsky Faulkner Collection 1959-1989: The Collector’s Favorites. Cape Girardeau: The Center for Faulkner Studies, 1989. Brodsky, Louis Daniel. William Faulkner: Life Glimpses. Austin: U of Texas P, 1990. Brown, Calvin S. A Glossary of Faulkner’s South. New Haven: Yale University Press, 1976. Cowley, Malcolm, ed. The Faulkner-Cowley File: Letters and Memories, 1944-1962. New York: The Viking Press, 1966. Dardis, Tom. Some Time in the Sun: The Hollywood Years of Fitzgerald, Faulkner, Nathanael West, Aldous Huxley, and James Agee. New York: Scribner’s, 1976. Doyle, Don H. Faulkner’s County: The Historical Roots of Yoknapatawpha. Chapel Hill: U of North Carolina P, 2001. ― 161 ― Faulkner, William. Battle Cry: A Screenplay. Ed. Louis Daniel Brodsky and Robert W. Hamblin. Jackson: UP of Mississippi, 1985. ------------------. Country Lawyer and Other Stories for the Screen. Ed. Louis Daniel Brodsky and Robert W. Hamblin. Jackson: UP of Mississippi, 1987. ------------------. Stallion Road. Ed. Louis Daniel Brodsky and Robert W. Hamblin. Jackson: UP of Mississippi, 1989. -----------------. The Collected Stories of William Faulkner. Vintage Books: New York, 1977. -----------------. The De Gaulle Story: A Screenplay. Ed. Louis Daniel Brodsky and Robert W. Hamblin. Jackson: UP of Mississippi, 1984. -----------------. Tomorrow and Tomorrow and Tomorrow. Ed. David G. Yellin and Marie Connors. Madison: U of Wisconsin P, 1980. -----------------. Uncollected Stories of William Faulkner. Ed. Joseph Blotner. New York: Random House, 1979. Faulkner, William and Joel Sayre. The Road to Glory: A Screenplay. Ed. Matthew Bruccoli. Carbondale: Southern Illinois UP, 1981. Faulkner, William and Jules Furthman. To Have and Have Not: A Screenplay. Ed. Bruce Kawin. Madison: UP of Mississippi, 1985. Faulkner, William, Leigh Brackett, and Jules Furthman. The Big Sleep: A Screenplay. Ed. George P. Garrett, O. B. Hardison, Jr., and Jane R. Gelfman. New York: Appleton, Century, Crofts, 1971. Fowler, Doreen, and Ann J. Abadie, eds. Faulkner and Popular Culture: Faulkner and Yoknapatawpha, 1986. Jackson: UP of Mississippi, 1986. Garrett, George. “Afterword.” William Faulkner and Joel Sayre. The Road to Glory: A Screenplay. Ed. Matthew Bruccoli. Carbondale: Southern Illinois UP, 1981. 159-174. Gwynn, Frederick L. and Joseph L. Blotner, eds. Faulkner in the University: Class Conferences at the University of Virginia, 1957-58. Charlottesville: U of Virginia P, 1959. Hamblin, Robert W., and Charles A. Peek, eds. A William Faulkner Encyclopedia. Westport: Greenwood, 1999. Inge, Thomas M., ed. Conversations with William Faulkner. Jackson: UP of Mississippi, 1999. Jones, Diane Brown. A Reader’s Guide to the Short Stories of William Faulkner. New York: G.K. Hall, 1994. ― 162 ― Kartiganer, Donald M., and Ann J. Abadie, eds. Faulkner in Cultural Context: Faulkner and Yoknapatawpha, 1995. Jackson: UP of Mississippi, 1997. Kawin, Bruce F. Faulkner and Film. New York: Frederick Ungar, 1977. -----------------, ed. Faulkner’s MGM Screenplays. Knoxville: U of Tennessee P, 1982. Kinney, Arther F. Faulkner’s Narrative Poetics: Style as Vision. Amherst: U of Massachusetts P, 1978. Lurie, Peter. Vision’s Immanence: Faulkner, Film, and the Popular Imagination. Baltimore: Johns Hopkins UP, 1979. Millgate, Michael. The Achievement of William Faulkner. New York: Random House, 1966. ----------------. Faulkner’s Place. Athens: U of Georgia P. 1997. Minter, David. William Faulkner: His Life and Work. Baltimore: Johns Hopkins UP, 1980. Meriwether, James B., ed. A Faulkner Miscellany. Jackson: UP of Mississippi, 1974. -----------------, ed. Essays, Speeches & Public Letters by William Faulkner. New York: Random House, 1965. -----------------. The Literary Career of William Faulkner: A Bibliographical Study. Princeton: Princeton U Library, 1961. Sensibar, Judith L. The Origins of Faulkner’s Art. Austin: U of Texas P, 1984. -----------------. Faulkner and Love: The Women Who Shaped His Art. New Haven: Yale UP, 2009. Singal, Daniel J. William Faulkner: The Making of a Modernist. Chapel Hill: U of North Carolina P, 1997. Skei, Hans H. Faulkner: The Short Story Career. Universitetsforlaget: Oslo, 1981. -----------------. Reading Faulkner’s Best Short Stories. South Carolina UP: Columbia, 1999. Vickery, Olga W. The Novels of William Faulkner: A Critical Interpretation. 3rd ed. Baton Rouge: Louisiana State UP, 1995. Wagner, Linda Welshimer, ed. William Faulkner: Four Decades of Criticism. East Lansing: Michigan State UP, 1973. -----------------, ed. William Faulkner: Six Decades of Criticism. East Lansing: Michigan State UP, 2002. Wilde, Meta Carpenter, and Orin Borsten. A Loving Gentleman: The Love Story of William Faulkner and Meta Carpenter. New York: Simon and Schuster, 1976. ― 163 ― 现代汉语中的“所”字结构 余 求 真 论文提要 : 现代汉语中的“所”是从古代汉语中继承下来的。但是跟古代汉语相比, 现代汉语中“所”的用法有一些变化。本文要讨论的“所”字结构也是从古 代汉语发展而来的,但是在现代汉语中“所 + 动词”构成的“所”字结构用法 也发生了一些变化。一般认为,在现代汉语中, “所”字结构多用于书面语, 口语中可以不用, “所”只能跟及物动词组合,而且指称范围仅限于受事等。 在对外汉语教学中,我们常常碰到这样的情况 : 1、他所谈的都是些无关紧要的事儿。 (他谈的都是些无关紧要的事儿。 ) 2、今天所请的是一位贵客。 (今天请的是一位贵客。 ) 3、这些材料都是相关部门所提供的。 (这些材料都是相关部门提供的。 ) 上面的句子去掉“所”意思似乎没有变化,用不用“所”也不是简单地 以口语和书面语的区別就可以说清楚的。正因为在很多情况下“所”可有可 无,我们的留学生在说话造句时常常回避“所”这个词,似乎也不影响意思 的表达。那么“所”字短语中“所”是不是可有可无呢?“所”在现代汉语 中的作用是什么?用不用“所”有哪些区别和限制呢?这是本文试图探讨的 问题。 ― 165 ― 一、关于“所”的一些论述 关于“所”字短语中,加“所”和不加“所”究竟有没有区别,语法界 有不同的说法。早在 1957 年,杨欣安编著的《现代汉语》就认为“所”可有 可无。1981 年张静在《汉语句法结构的基本类型》中也认为, “所说的话”可 以直接说成“说的话” ,甚至认为“词组做定语(即动词前再加别的附加成 分)时,再加‘所’字究竟合不合规范,还值得考虑。” 而吕叔湘、胡裕树、陆俭明、黄伯荣等先生则认为, “所”不能丢掉,有 “所”组成的短语跟无“所”组成的短语是有区别的。陆俭明认为有“所”没 “所”还是有区别的,他认为带了“所”只表示已然的事,带了“所”的“的” 字结构只表示动作的受事。 “所”字短语在古代汉语中的用法主要有 : 1、所 + 动词,这种结构产生于春秋时代,作用等同于一个名词性的偏正 结构,相当于“……的人” 、 “……的东西” 、 “……的事情”等等,这种格式 最为常见。 2、所 + 及物动词 + 名词, “所 + 及物动词”与后面的名词构成一个偏正结 构。如“独籍所杀汉军数百人” ( 《史记.项羽本纪》); “和氏璧,天下所共传 宝也” ( 《史记.廉蔺列传》 ) 。 3、所 + 及物动词 + 之 + 名词, “所 + 及物动词”是其后名词的定语,其间 可以加结构助词“之” 。 此外还有“所 + 及物动词 + 者”式, “所 + 及物动词 + 宾语或补语 + 者”式。 杨伯峻、何乐士在《古汉语语法及其发展》中描述了古代汉语中“所” 的用法,认为“所 + 动词(或动词短语) ”构成一个“所”字结构,相当于一 个名词性短语。 “所 + 动”构成的“所”字结构常指该动词所代表的动作行为 所及的对象,即动作的受事,有时也指与动作行为有关的处所。“所 + 动”后 面有时也会出现它所指代的对象,这时常常采用“所 + 动词 + 之 + 名词”结 构。在古代汉语中, “所 + 动词”结构大量存在。 杨指出“所 + 动”后面出现它所指代的对象,则“所 + 动”短语为定语, “所 + 动”与中心语之间有时有“之”连接,有时无“之”连接。 ― 166 ― 这种由“所 + 动”做定语的偏正名词短语结构今天仍存在,如“所得税”、 “所有制” 、 “所有权” 、 “所爱的故乡”等。可见,杨已经意识到了现代汉语中 “所 + 动”结构有时要“的” ,有时不要“的”了。 《现代汉语八百词》中论述了现代汉语中“所”的用法,认为“名 + 所 + 动”结构有两种用法,一种是“名 + 所 + 动 + 的 + 名”,这时“名 + 所 + 动”结 构相当于一个定语,修饰后面的名词,如“我所认识的人”;另一种是“名 + 所 + 动 + 的”直接代替名词,如“我所知道的就是这些”。 《现代汉语八百词》认为上面两类结构在口语中可以不用“所”,意思相 同。那么“所”是否真的可有可无呢?用不用“所”有什么区别和限制呢? 还需要在具体的语料中考察。 马真《现代汉语虚词散论》中探讨了常见的“A 所 B 的”格式,如“我 所认识的”、“前人所梦想不到的” 、 “大家所期望的” 、 “在上海所买的”等, 文章认为从内部构造看,B 一般是个及物性的动词性词语,而 A 通常是个名 词性成分,而且 A 和 B 之间总是潜在着主语和谓语的关系。这种结构从语法 功能上看,一般是名词性的,经常充任定语、主语和宾语。文章特别把“A 所 B 的”和“AB 的”进行比较,如“他谈的”和“他所谈的” ,找出了它们 之间的区别,但是据笔者调查,大部分“A 所 B 的”结构的“所”是可要可 不要的,正如马真说, “A 所 B 的”结构和“AB 的”结构从表面上看差不多, 而且在句子里似乎可以互相替换。 鉴于前人的文章中详尽描述了“所 + 动词”结构在现代汉语中的用法,如 结构的性质、语法功能等,本文的重点是想探讨“所 + 动词”结构的一些使 用问题,包括“所”是否可以省略,动词后的“的”,还有名词等。 二、语料及分析 本文以北京大学汉语语言学研究中心提供的语料库为基础,搜索到 500 条含有“所”字的句子,我们挑选出含有“所 + 动词”结构的一些例子进行 分析。 ― 167 ― (一) 、包含“所”的固定结构 1、有所 + 动词 (1) 、由于电脑的介入,法庭上那种无休止的唇枪舌战的喧嚷场面有所改变。 (2) 、 “培训工程” ,争取在 2000 年奥运会和 2002 年的世界杯赛上有所突破。 (3) 、动物性食物提供热能,平均为 9.3%,比 1982 年的 7.9%有所提高。 (4)、 从以往来稿的情况看,读者在观察问题、写作方法上虽然逐年有所进 步,但也有些通病有待克服。 (5) 、澳门政府采取了一些措施,公务员本地化工作有所推进。 (6) 、 因此,今年面对机构发行的国债比重估计要有所加大,以便为国债流通 市场提供足够的筹码。 上面的例子中, “所”似乎可有可无,如例(1)去掉“所” ,句子成为 “由于电脑的介入,法庭上那种无休止的唇枪舌战的喧嚷场面有改变。”句子 的意思没有太大变化。 《现代汉语八百词》的解释是“所 + 动”做“有”的宾 语。事实上,去掉“所” , “有”也可以直接带后面的动词作宾语,如“有改 变” 、 “有突破” 、 “有提高” 、 “有进步” 。 在古代汉语中, “所 + 动”的使用是不受限制的,如“吾尝终日而思矣, 不如须臾之所学也” 。而在现代汉语中, “所 + 动词”的使用更多受音节的限 制,如上面的“有所”构成的四字短语“有所改变”、“有所突破”、“有所提 高” 、 “有所进步” 、 “有所推进” 、 “有所加大” ,还有如“所见”、“所闻”等, 从韵律上更符合汉语的表达习惯,所以这种情况下“所”一般是不能去掉的。 2、所谓 + 小句 / 名词 / 动词 (1)、 1994 年 12 月 27 日,南京紫金山天文台正式向媒体宣布 :所谓联合国历 法修改委员会并不存在。 (2)、 80 年代以来,所谓西方“绿色政治学”异军突起,它也就是生态政治 学。 (3) 、所谓“学习机” ,实际上就是装有打字等教学程序的游戏机。 (4) 、所谓预测性思维,也可称超前思维或科学预见。 (5) 、所谓回购即售出者在卖出手中国债时可附加一定条件。 ― 168 ― (6) 、 新华社北京 12 月 31 日电,针对美国政府今天以所谓中国侵犯其知识产 权特别是侵犯版权为借口而采取报复行动一事。 “所谓” 可以修饰名词、动词、小句,多用于提出需要解释的词语,接着 加以解释。 “所谓”的意思是“通常所说的” 。 (二) 、所 + 动词 在现代汉语中, “所 + 动词”结构常常做定语,前面还可以有名词,后面 也可以接“的”和名词,完整的结构是“名词 + 所 + 动词 + 的 + 名词”。 1、下面我们分别探讨哪些部分可以省略,哪些部分不能省略。 “所”的省略情况,分两种 : 1) “所”可以省略,如 : (1) 以 上几个方面的立法,都是建立和完善社会主义市场经济体制所必需 的。 (2) 科技工作者在鼎力攻关、探索前进的时候,千万不能忘记这一时代所赋 予的使命。 (3) 像小平同志所要求的那样 :眼界要非常宽阔,胸襟要非常宽阔。 (4) 审判的是他所犯下的罪行,留给我们的是沉甸甸的思考。 2) “所”不能省略 (5) 原每年 365 天所剩的一天,既不算日期,也不被列为星期,放在每年的最 后一天。 (6) 高密市拍卖的小型水利设施,一般由原所属集体单位与专业水利部门共 同评估,然后召开村民大会公开拍卖。 (7) 来稿请写明作者姓名和所在学校、系、年级以及邮政编码。 (8) 传统的经济学已使西方的工业化发展模式走入绝境 ;新经济学所指的发 展是有别于现行经济模式的“另一种发展” ,其主要内容包括 :重视生态 上的合理性 (9) 文集中所收某些论文,即是这方面工作的反映。 上面的情况表明,在“名词 + 所 + 动词 + 的”结构中, “所”是可以不要 的,而且可以直接修饰后面的名词,甚至还可以单独构成“所 + 动 + 名 + 的” ― 169 ― 短语,如例(1) 。但是“所”后面的动词是单音节时,“所”是不能省略的。 2、 “的”的使用情况 “所 +V”和后面的名词之间是否一定要带“的”呢?也分几种情况 : 1) 、 “的”必需存在 (1) 在上海市民们面前时,一个历史性的结论也由此产生 :上海改革开放所 带来的变化,正是邓小平建设有中国特色社会主义理论之花结出的硕果。 (2) 邓小平理论与上海改革开放,是一篇大文章,上海现在所做的一切乃是 开篇,还要认认真真、扎扎实实、坚忍不拔地把它写好。 (3) 萨帕塔民族解放军在今年所发表的第一份公报中还重申将严格遵守不久 前宣布的宣言。 (4) 目前伊拉克方面已履行了绝大部分联合国决议所规定的条款,特别是去 年 11 月 10 日正式宣布对科威特主权和政治归还。 2) 、 “的”可要可不要 (5) 由于元、角零钞短缺,不少商业企业将所售商品价格元、角、分进位为 整,实际上是乘机涨价。 (6)文集中所收某些论文,即是这方面工作的反映。 (7) 高密市拍卖的小型水利设施,一般由原所属集体单位与专业水利部门共 同评估,然后召开村民大会公开拍卖。 上面的例子表明, “名词 + 所 + 动词 + 的”做定语修饰后面的名词时,一 般情况下“的”是不能省略的,而在例(5) 、 (6) 、(7)中,“所”和后面的 单音节动词构成短语修饰名词时, “所”是可以省略的。 其实,在现代汉语中, “所 + 动词”单用的情况只见于书面上一些较文的 语句或某些固定格式,如“所见” 、 “所闻” 、 “各尽所能,各取所需”、“所剩 无几” 、“大失所望” 、 “据我所知”等。现在常用的格式是“名词 + 所 + 动词 + 的” ,如“我所认识的人” 、 “他所了解的情况” 、 “实验结果同我们所预料的 完全一致” ,它们常常在句子中做定语或主语宾语等。“所”的这种用法是从 古代汉语“名词 + 所 + 动词 + 之 + 名词”演变来的。上面大量的例子证明在现 ― 170 ― 代汉语中,非口语的句子中“所”常常也是可以省略的,而且意思变化不大。 现代汉语中为什么沿用“所”的用法,除了语体的原因,是否还有别的因素, 是我们需要进一步探讨的。 参考文献 : [1]、吕叔湘,现代汉语八百词,商务印书馆,1980。 [2]、杨伯峻、何乐士,古汉语语法及其发展,语文出版社,1992。 [3]、陆俭明、马真,现代汉语虚词散论,北京大学出版社,1985。 [4]、葛文杰,古代汉语“所”字之用法,新乡师范高等专科学校学报,2004 年 7 月。 [5]、李明,古代汉语教学中“者”、 “所”问题的处理,安庆师范学院学报,2005 年 5 月。 [6]、刘玉环,“所”字结构的几种误用,语文学刊,2005 年 6 月。 ― 171 ― Germaine Dulac, le féminisme en noir et blanc Yannick DEPLAEDT Introduction : Germaine Dulac a longtemps été oubliée par les livres d’histoire et ce n’est que depuis quelques années que son nom évoque une époque essentielle du cinéma. Réalisatrice de plus de trente films, commerciaux et documentaires, passionnée par les jeux de lumière, les angles de prise de vue et le montage ; elle a fortement été influencée par les travaux d’Eisenstein ; elle a également incarné le visage de l’avant-garde francophone aux côtés de Jean Epstein, Louis Delluc, Marcel Lherbier, Fernand Léger mais aussi de précurseurs comme Abel Gance qui, avec son film La Roue1, poussera le nouvelle génération de cinéastes français vers plus d’expérimentations. Comme le disait Henri Langlois : “On ne dira jamais assez ce que le cinéma doit à ce laboratoire expérimental que fut la première avant-garde française entre 1919 et 1924. On ne dira jamais assez ce que nous devons à cette passion de la découverte qui les fit pénétrer chaque jour plus loin dans la connaissance du cinéma et leur fit reculer sans cesse les bornes du possible.”2 ― 173 ― Au-delà de sa carrière de réalisatrice, Germaine Dulac était aussi reconnue pour son engagement auprès d’associations et de journaux féministes. Mariée, avant de divorcer et de s’affirmer homosexuelle, elle souhaitait que les femmes accèdent aux droits fondamentaux qu’elles méritaient : le droit de vote ainsi que le changement du statut de la femme tel qu’il était inscrit dans le Code Civil3 de Napoléon. L’écriture, des portraits de femmes influentes ou encore des articles de réflexion sur le médium cinéma, était aussi l’une de ses activités les plus importantes. Elle a d’ailleurs affirmé à plusieurs reprises que le cinéma ne l’avait pas toujours intéressée : “J’étais bien jeune, je vis les premiers films des Frères Lumière dans la cave du Grand Café. A vous dire vrai, cela ne m’enthousiasma point. Je vais même vous dire pire (...). Assistant, en 1908, à des spectacles de cinéma dans la salle du Gaumont-Palace, je trouvais honteux qu’un excellent orchestre symphonique dont j’allais écouter les exécutions musicales se fasse entendre dans une salle de cinéma.”4 Ses premières amours, le théâtre, la danse, la musique5, seront d’ailleurs souvent évoquées dans les films qu’elle réalisera tout au long de sa carrière. Après la fin de la première guerre mondiale, la France est ruinée et le cinéma hexagonal a peu à peu laissé les Etats-Unis marcher sur ses platesbandes. Fin d’un modèle économique qui fonctionnait, intérêt de plus en plus prégnant des spectateurs pour les productions américaines, l’industrie cinématographique souffre terriblement. Les années 20 seront mues par de nombreux changements : changement des mentalités et volonté des femmes de se hisser au même statut que les ― 174 ― hommes compteront parmi les plus importants. Germaine Dulac, activiste dynamique et influente, développera un engagement féministe de plus en plus fort. En 1923 et 1927, elle réalisera un court (La Souriante Madame Beudet) et un moyen (L’Invitation au voyage) métrages s’intéressant tous deux directement au désarroi de la condition féminine de l’époque. 1 L’après première guerre mondiale et le cinéma : La première guerre mondiale, même si elle est souvent oubliée au profit de la seconde, plus globalisée, a été une guerre longue et d’une violence jusqu’alors inédite. Les sociétés européennes ont été totalement mobilisées par l’effort de guerre et les batailles ont été particulièrement meurtrières en raison de l’émergence d’un nouvel art de la guerre, l’usage de l’artillerie. Les soldats ont combattu dans des tranchées dans des conditions impensables. Conflit unique à de nombreux points de vue : une guerre industrielle qui a vu l’apparition de nouvelles armes (chars, avions, attaques au gaz...), exaltation des nationalismes avec le recours systématique à la propagande, exécutions sommaires des déserteurs et des traîtres (dont de nombreux innocents mal jugés), la première guerre mondiale a laissé une trace indélébile dans la mémoire des Français de l’époque. Elle a aussi laissé exsangue l’économie européenne, le continent se retrouvant désormais derrière une puissance montante, les Etats-Unis d’Amérique. Le traité de Versailles qui met fin à la guerre est mal perçu par la population allemande qui le considère comme un Diktat. Avec cette impression perceptible d’une paix imparfaite, l’Europe est inquiète et ses angoisses laissent traîner sur la société française l’empreinte durable d’une boucherie à grande échelle qui n’aura servi à rien. ― 175 ― Depuis le début du XXème siècle et l’apogée du cinéma muet, la France est le pays qui produit et exporte le plus d’œuvres à travers le monde. Cette situation va rapidement changer après la débâcle financière et humaine que représentera la Grande Guerre. Ils sont loin les célèbres artistes qui ont édifié l’empire du cinéma français. Les frères Lumière ont depuis longtemps mis un terme à leur carrière et le chien fou de l’illusion, Georges Méliès, a abandonné lui aussi face aux contrefaiseurs en tous genres de son cinéma fantastique. La situation va évidemment empirer après l’engagement de la France dans le conflit mondial le plus meurtrier de l’histoire du XXème siècle. L’économie est toute dirigée vers la production d’armes et de munitions et les hommes sont envoyés par dizaines de milliers au front, laissant ainsi les rênes de la finance à une longue absence. Après plus de quatre ans d’un nationalisme primaire et destructeur, les soldats qui ont survécu retournent à un champs de ruines, désorganisé et désengagé de toute action auprès de la culture française, pourtant étendard important d’une nation qui vivra douloureusement la défaite. Les conséquences de la Grande Guerre sur la culture, et notamment sur le cinéma, seront lourdes. Dans une société à présent meurtrie par la présence fantomatique des victimes militaires et civiles, l’industrie cinématographique s’essouffle et perd du terrain face à sa principale rivale, Hollywood, qui déborde d’énergie de l’autre côté de l’Atlantique. Le manque d’argent se fait terriblement sentir et le marché européen laisse son emprise sur le monde disparaître au profit de productions américaines moins coûteuses et de plus en plus populaires. Le gouvernement français tentera vainement d’enrayer cette dynamique en développant des mesures d’isolement culturel. Pour 7 films importés, 1 film français est produit et distribué en salles. L’effet placebo ne durera que peu de temps et les plus pessimistes annoncent déjà ― 176 ― que l’industrie se meurt. 2 La femme dans les années folles : Le statut des femmes changera dès le début de la première guerre mondiale. Alors que tous les hommes étaient mobilisés, elles ont du prendre en main leur vie et leurs nouvelles responsabilités. Déjà avant la guerre un certain nombre de femmes travaillaient dans des usines, des ateliers ou des bureaux mais aucune n’avait de poste très important. Ce qui change avec la guerre, c’est qu’il faut remplacer les milliers d’hommes partis au front, et qu’un très grand nombre de femmes vont se retrouver à produire des armes et des munitions (les munitionnettes). Elles seront aussi assignées à des fonctions jusqu’alors réservées aux hommes : donner des soins, conduire les tramways, les métros ou des ambulances, travailler dans les postes, les banques, l’administration ou le commerce. Les commerçantes ont déjà l’habitude de remplacer leurs époux dans le magasin mais cette fois elles gèrent tout, seules. Certaines se retrouvent même à la tête de grosses affaires, et cela tout en continuant de s’occuper des enfants. Nombreuses sont celles qui travaillent dans des conditions pénibles, sous-payées et exploitées par des directions peu conciliantes. Mais elles ne vont pas hésiter, entre 1916 et 1917, à se mettre en grève pour obtenir des augmentations et des améliorations dans leur milieu de travail. C’est seulement après la guerre que les syndicats vont enfin accepter de leur reconnaître tous leurs droits. Dans les campagnes, la paysanne doit aussi faire face aux travaux de la ferme et s’occupe de faire les foins, laboure, sème, dirige tout. Cependant, après quatre ans de guerre, les hommes reviennent dans leur ― 177 ― foyer. Déjà lorsqu’ils étaient au front, des échos leur parviennent sur les changements de mentalité des femmes quant à leur place dans la société et la famille à travers des articles de journaux de combattants. Ils souhaitent retrouver la « douceur féminine » qu’ils pensent avoir laissée après toutes les horreurs de la guerre et des tranchées, et craignent maintenant de devoir affronter leurs épouses dans le monde du travail ou sur le plan politique. La crainte des hommes ne se justifiera qu’en partie puisque dès la fin du conflit, de nombreuses épouses acceptent tout simplement d’arrêter le travail et de retourner au foyer, de gré ou de force. Le ministre de l’époque, Louis Loucheur6, publie un avis leur demandant explicitement de retrouver vivement le statut qu’elles ont laissé. Ainsi, celles qui quitteront leur travail dans les trois semaines suivant la démobilisation recevront un mois de salaire pour compenser... Parfois les employeurs n’hésitent pas à licencier. La femme est hélas encore considérée comme un problème juridique mineur par le code civil et n’a aucun droit sur les biens du ménage ni sur ses propres enfants. “Certaines militantes accusent les effets retardés du premier conflit mondial : C’était fatal, ce retour à l’ordre, après les grandes guerres.”7 Par la suite, avec le temps des nouvelles distractions, de la vie gaie et rapide et l’envie incroyable d’oublier les souffrances de la grande guerre, la femme changera aussi ses loisirs, son habillement, et sa place dans la vie de tous les jours. Elle ne veut plus d’enfants qui puissent l’empêcher de vivre sa vie et prend par rapport à l’homme une attitude plus indépendante, comme dans la chanson populaire de Maurice Chevalier, Chacun son truc : ― 178 ― C’est elle qui ordonne C’est elle qu’est patronne C’est moi qu’elle fait marcher ! C’est elle qui commande C’est elle qui marchande et moi j’ai l’droit d’les lâcher. C’est elle qui pilote C’est elle qui capote C’est moi qui vais su’l’gazon! Quand je n’suis pas en smoking Elle va toute seule au dancing Il paraît que ça n’a rien de shocking [...] Pendant les années folles, les femmes commencent à conduire, font du sport, dansent et sortent le soir, vont voir des spectacles fréquemment et bien sûr travaillent. Parallèlement, l’homme démobilisé ne cherche plus une femme pour fonder une famille mais plutôt une compagne, d’où l’ambiguïté de la garçonne. Finis les corsets, oubliées les multiples couches de tissus lourds, la silhouette de la femme moderne est simplifiée, libre et sobre. Colette8 décrit la femme des années vingt ainsi : “...vue de dos, elle a dix ou douze ans, comme beaucoup de femmes d’aujourd’hui. De face elle semble un peu fatiguée de jouer si longtemps à la petite fille”. Les lois sont encore très dures envers les femmes. Comme la population a diminué à cause de la guerre et que le taux de natalité baisse, l’avortement est considéré comme un crime contre l’Etat dès 1920 et la propagande anticonceptionnelle interdite. Une femme condamnée pour avortement risquait la peine de mort. Les avortements clandestins demeurent cependant ― 179 ― assez nombreux. Le Code civil de 18049 instauré par Napoléon plaçait la femme dans une situation d’incapacité sociale et de dépendance et de respect envers leur père puis leur mari. Mais à la fin du XIXème siècle, la France a vu la naissance d’une nouvelle conscience sociale. Dans les années 1880 et 1890, l’influence des écrits de Karl Marx, de August Bebel et de Friedrich Engels est grandissante. Le statut des femmes était alors assimilé à une oppression sociale contre laquelle le peuple se devait de lutter bec et ongles. Alors que les hommes débattaient des problèmes de classe, les femmes commençaient à discuter du respect qui leur était dû. La France de la fin de siècle s’interrogeait de plus en plus sur l’utilité sociale de l’émancipation de la femme. D’après l’historienne Anne-Marie Käppeli10, deux tendances féministes sont apparues à cette période : la première, le courant dualiste, était bâtie sur la notion de l’éternel féminin et insistait sur la différence sexuelle capitale entre les genres et sur la question de la maternité, tandis que la seconde, le courant paritaire, se préoccupait de l’individualité (plutôt que de la dualité), de l’irrationalité d’une norme sexuellement divisée, et demandait le droit de vote des femmes ainsi que l’égalité des sexes sur le plan politique. Les femmes n’ayant alors pas le droit de participer à la vie politique du pays, leur voix ne pouvait guère s’élever contre l’ordre établi. Laissant le jeu de la politique aux hommes, elles se sont lancées dans un activisme associatif et ont créé des alliances pour défendre leurs intérêts et accéder à plus d’égalité. Germaine Dulac fera partie de l’une de ces associations, qu’elle rejoindra alors qu’elle n’a encore que 23 ans. À propos de son mari Albert, elle exprime dans une lettre adressée à Madeleine SaissetSchneider en juillet 1920 un sentiment qui résume très bien sa conception ― 180 ― du féminisme : “J’aime beaucoup ce genre d’homme très froid, très peu galant qui traite la femme en égale et non en être faible vers qui l’on doit s’abaisser et qu’il faut entourer de soins. J’ai rencontré vraiment mon idéal, et c’est une chose rare dans la vie.” 3 Une cinéaste d’avant-garde : En tant que cinéaste, théoricienne et militante, Germaine Dulac joue un rôle fondateur dans l’évolution de l’art cinématographique. Elle édifiera sa carrière petit à petit en réalisant une trentaine de films de fiction, dont certains sont encore aujourd’hui considérés comme influents dans l’histoire du cinéma, autant de films d’actualité ainsi que plusieurs documentaires. Parmi ses œuvres de fiction, le temps a retenu tout particulièrement La Fête espagnole (1919), La Souriante Madame Beudet (1923), L’Invitation au voyage (1927) et son film le plus célèbre, en raison notamment de la dispute qui la verra s’opposer à son scénariste Antonin Artaud, La Coquille et le Clergyman (1927). La Souriante Madame Beudet est considéré comme le premier film féministe et La Coquille et le Clergyman, comme le premier film surréaliste. Elle influencera de nombreux autres cinéastes surréalistes parmi lesquels Luis Buñuel et Salvador Dali pour Un Chien andalou. Ado Kyrou11 explique très simplement cette période unique de l’art en disant que “le cinéma est d’essence surréaliste”. La Coquille et le Clergyman, L’Âge d’or et Un chien andalou (tous deux de Luis Buñuel) sont trois films qui répondent au projet surréaliste. S’inspirant de la psychanalyse et de Freud, les films surréalistes échappent à toute logique narrative et ne s’inscrivent pas dans un contexte réaliste ― 181 ― dans lequel objets et personnages ne relèvent, certes pas de l’abstraction, mais sont difficiles à situer dans un espace-temps précis. Les surréalistes cherchent, par le cinéma, à représenter le fonctionnement réel de la pensée. Pour cela ils font appel au rêve et au monde spirituel. Les visions oniriques que mettent en scène ces films sont le résultat de l’écriture automatique chère aux surréalistes. Germaine Dulac est aussi l’une des premières artisanes à penser son art et à écrire de nombreux essais sur ce que représente le cinéma. À travers ses écrits, ses conférences et sa participation active au mouvement des ciné-clubs, elle milite avec passion pour la diffusion d’un “art cinématographique” démocratisé et accessible à un large public. De son enfance privilégiée à sa formation précoce en photographie et musique classique, Dulac développe une grande passion pour tout ce qui touche à l’art, notamment l’opéra et la danse. De 1906 à 1913, elle débute sa vie professionnelle au journal féministe La Française, où elle rédige principalement des portraits de femmes12 et des critiques de théâtre. Autour d’elle, on retrouve toutes les vedettes de l’écran de l’époque. Une d’entre elles, Stasia Napierlowska13, une danseuse et actrice célèbre, aura un impact capital sur le choix de carrière de Germaine Dulac. C’est elle en effet qui la dirigera vers le cinéma en 1914. On retrouve chez Dulac, à travers ses écrits, l’influence des courants artistiques de l’époque, aussi bien le naturalisme et le symbolisme des pièces de théâtre d’Ibsen que le symbolisme des primitifs italiens, la musique classique (Wagner, Debussy et Chopin), la danse de voiles de Loïe Fuller ou les Ballets Russes. C’est également durant cette période qu’elle adopte certaines idées sociales progressistes qui joueront un rôle directif pendant toute sa carrière. Entre 1915 et 1920, elle réalise neuf films dont les tous premiers, malgré certains éléments théâtraux, témoignent d’une utilisation recherchée de la ― 182 ― lumière et de la composition. À partir de la Cigarette (1918), Dulac débute un cycle de films en décors naturels où la « psychologie » des personnages prime. Elle se forge alors la conviction que le cinéma ne doit pas se borner à filmer la littérature ou le théâtre, mais doit être lui-même. Dès 1917, elle publie « Mise-en-scène » (Le Film), le premier d’une longue série d’articles développant sa théorie du mouvement, du rythme et de la vie elle-même comme qualités propres de l’art cinématographique. Parallèlement, elle se lance dans le combat corporatiste, en tant que membre (1917), puis trésorière (1919) de la Société des auteurs de films. La rencontre historique entre Dulac et le critique cinématographique Louis Delluc aura lieu en 1917 et elle donnera naissance à la Fête Espagnole (1919) et plus largement au premier mouvement d’avant-garde du cinéma français : l’impressionnisme. Ce film, que Dulac réalise d’après un « livret » de Delluc, exprime, dans un cadre réaliste aux décors naturels, la vie intérieure des personnages à travers un montage rythmé où le mouvement prend toute son importance. La séquence remarquable de la danse erratique d’Eve Francis entrecoupée d’un violent combat entre deux hommes épris d’elle, en est un exemple. Pendant les années vingt, Dulac navigue entre films commerciaux, nécessaires à la survie de l’industrie cinématographique française, et films d’avant-garde qu’elle espère réunir dans le « Cinéma tout court ». Dulac se voue alors à l’éclosion des ciné-clubs. Elle prend des responsabilités, aux cotés d’Abel Gance et Ricciotto Canudo, dans le Club des amis du septième art où elle travaille à l’élaboration d’un esthétique cinégraphique « qui rehausse la perception globale du spectacle ». Également concernée par des questions sociales, Dulac traite dans ses films des thèmes féministes liés à la liberté (la Belle Dame sans merci, 1920 ; la Folie des Vaillants, 1925 ; Antoinette Sabrier, 1926 et Princesse Mandane, 1928), au libre ― 183 ― choix entre travail et famille (Mort du Soleil, 1921), à l’aspect oppressif de la mentalité bourgeoise (la Souriante Madame Beudet, 1922), au mythe de l’ascension social (Gossette, 1923 et Princesse Mandane, 1928). Elle aborde également des sujets comme l’intégration raciale (Malencontre, 1920) ou la persécution sociale (le Diable dans la ville, 1923). De même, elle considère que l’auteur peut exprimer sa personnalité artistique dans tous les genres, de la satire sociale au drame psychologique. Dans la Belle Dame sans merci (1920), comédie sentimentale d’après un « argument » d’Irène Hillel-Erlanger, Dulac crée une disproportion entre le décor et les personnages (jeu de volumes). Dans ce film et plus encore dans la Mort du Soleil (1921), elle met au point plusieurs effets techniques impressionnistes (flous, fondus enchaînés, surimpressions, caches et contrecaches), auxquels elle attribue « une valeur suggestive équivalente aux signes musicaux », préfigurant son idéal d’une « symphonie visuelle ». Le premier film féministe de l’histoire du cinéma verra le jour en 1923, lorsque Dulac réalise la Souriante Madame Beudet (1923) d’après une pièce d’avant-garde de Denys Amiel et André Obey. Le film suggère à travers les « non-dits », la « vie intérieure » d’une femme, et par l’articulation d’images subjectives et d’effets techniques (ralentis, prismes déformants), il marque pour Dulac un aboutissement dans la mise en pratique de ses théories. Le vrai déclic pour le cinéma non-narratif date de 1927. Dulac réalise l’Invitation au Voyage (1927), film « transitionnel » dont le titre fait référence à un poème de Baudelaire, et la Coquille et le Clergyman (1927), film onirique d’après un scénario du poète surréaliste Antonin Artaud. Ces deux films, conçus par Dulac comme des « études de rythme » innovent en se libérant d’une construction rationnelle de l’intrigue. Lors de la première projection publique de la Coquille, le 9 février 1928 au Studio des Ursulines, ― 184 ― les Surréalistes protestent bruyamment contre ce qu’ils considèrent comme une « trahison » du scénario d’Artaud. Les polémiques qui s’en suivent, causées autant par les penchants provocateurs des Surréalistes que par de réels désaccords entre Dulac et Artaud, vont avoir pour conséquence de jeter le discrédit sur Dulac et de contribuer à son oubli dans les livres d’histoire du cinéma. 4 La Souriante Madame Beudet : “Derrière la façade des maisons tranquilles, des âmes, des passions...”14 Madame Beudet est l’épouse d’un petit commerçant de province. Femme réfléchie et ennuyée par la vie quotidienne, elle exprime une soif de liberté inattendue pour une femme qui vit dans les années 20. Tyrannisée par son mari, elle fait appel au rêve pour échapper à la dureté d’une existence ennuyeuse et douloureuse. De son côté, M. Beudet vit mal l’indifférence de sa femme à son égard et pour la provoquer, entretenant ainsi une relation à l’animosité douteuse, il développe un tic effrayant : il fait mine de se suicider avec un revolver non chargé. “La souriante madame Beudet, un des films que j’ai mis en scène avec le plus d’amour (…) Là encore, c’est le mouvement qui rythme les sentiments.”15 ― 185 ― La Souriante Madame Beudet est l’adaptation à l’écran d’une pièce de théâtre avant-gardiste. L’histoire se présente comme un véritable manifeste esthétique et féministe dans lequel la part belle est faite à l’ironie. Comme Dulac le fera plus tard avec L’Invitation au voyage, elle réduit au minimum le nombre d’intertitres, de manière à ce que le spectateur se concentre sur la dimension visuelle de la narration. Sans pouvoir se raccrocher au texte qui généralement vient expliciter les rouages du récit, le spectateur est pieds et poings liés, pris au piège d’une narration désormais toute en images et lumières. Ce procédé est inscrit dans une démarche artistique inspirée par la théorie du silence, alors fer de lance de l’école dramatique française. Elle s’explique sur ce choix esthétique dans un article publié dans la revue Cinémonde en mai 1930 : “Or, un jour, par hasard, je regardais un film. Je me souviens très bien, c’était une bande qui s’intitulait : La Bataille de Waterloo 16. Je vis des reflets de lumière dans une mare : en une seconde, l’art muet m’avait conquise.” Madame Beudet est une femme aux aspirations modernes. Brillante ― 186 ― et ambitieuse, elle se morfond dans sa vie maritale aux côtés d’un petit bourgeois aux goûts aussi classiques que profondément ennuyeux. Dulac laisse rebondir les échos de ses œuvres antérieures, teintées de réalisme et de symbolisme. Elle préfère les décors naturels, beaucoup plus riches en modulations lumineuses que les décors de studio, et donne à la fiction de faux airs de documentaire, impression renforcée par le jeu très sobre et ultra-réaliste de l’actrice principale. Elle fait aussi de multiples allusions à la peinture ainsi qu’à la poésie symboliste. La réalisatrice se sert de plusieurs artifices pour expliciter la dimension féministe du film. Bien que le récit se déroule principalement en intérieurs, signifiant de manière très claire, l’emprisonnement dont souffre la protagoniste, Dulac n’hésite pas à exprimer son aversion pour la vie à la campagne. Les scènes d’ouverture sont à cet égard très violentes : Dulac filme quelques plans très austères d’une église dans la brume, d’un chemin de terre, d’un canal abandonné par les promeneurs, d’un tribunal et d’une entrée de prison... l’abandon, la solitude, l’austérité de la loi et de l’ordre, tous ces éléments concourent à donner de la campagne une image très négative à laquelle la réalisatrice consacre toute l’introduction de son récit. Le critique Emile Vuillermoz notera d’ailleurs au sujet du film que Dulac parvient à éviter toutes “les faciles coquetteries de métier qui aurait faussé le caractère.”17 ― 187 ― L’emprisonnement de Madame Beudet est à plusieurs reprises explicité par des plans où elle est seule dans la maison, face à la fenêtre. Elle observe toute la vacuité d’un extérieur aussi traumatisant que l’intérieur, d’un espace campagnard qui ne lui offre aucune alternative. Dulac montre de façon très directe que rien ne peut sauver la pauvre femme, abandonnée à son sort par des règles sociales passéistes et les tourments d’une institution inégalitaire, le mariage. Le critique Claude Fayard note à propos de la pertinence de Dulac : “Je soupçonne Germaine Dulac d’avoir vécu la vie de province, d’en avoir souffert l’enlisement de l’habitude et subit les heures sans enthousiasme et sans fièvre. Car nul, mieux qu’elle, ne l’a traduite à l’écran avec exactitude et sensibilité. Et, c’est cette création d’une atmosphère qu’il faut, avant tout, retenir dans l’œuvre de ce réalisateur.”18 Cette remarque se fait l’écho des plaintes passées de Dulac, lorsque celle-ci a dû en 1905 vivre six mois, le temps d’une saison agricole, aux côtés de son mari Albert pour son travail. L’association de la vie maritale à celle de province représente une preuve ultime de la répression sociale des femmes du début du siècle pour la réalisatrice. Madame Beudet est le parangon de la femme mélancolique. ― 188 ― Passionnée par la composition de Claude Debussy, Jardins sous la pluie qu’elle joue à l’écran, et aperçue lisant le poème La Mort des Amants de Baudelaire, dont les premiers vers sont filmés : “Nous aurons des lits pleins d’odeurs légères Des divans profonds comme des tombeaux Et d’étranges fleurs sur des étagères.”19 Le rêve joue aussi un rôle essentiel pour montrer l’envie d’émancipation de Madame Beudet : on la voit au volant d’une voiture dernier cri roulant sur un lit de nuages, faire surgir le spectre d’un jeune joueur de tennis de son esprit, pendant sportif du prince charmant... Éprise de mode, elle est abonnée à Vogue, ce magazine lui offrant le seul moment de la vie quotidienne où l’excitation de la ville vient chatouiller son désir de liberté. Autour d’elle, le couple Lebas représente l’antithèse de ses aspirations. Étonnée mais aussi passablement amusée par les tenues exposées dans Vogue, Madame Lebas est la bourgeoise de province par excellence dans l’imagerie de Dulac. Pimbêche, mal fagotée et gourmande, elle est aussi la première à vouloir sortir de la maison en compagnie de son mari, à l’affût de spectacles qu’elle ― 189 ― a déjà vu mille fois. Au final, l’épouse délaissée et terrassée par l’ennui, devra se résoudre à attendre que les jours passent, toujours plus longs que les précédents. Obsédée par ses aspirations romantiques et son désir d’en finir avec le mariage, elle finira, contrainte par une pirouette scénaristique sinistre, par capituler face à l’horreur de son destin. 5 L’Invitation au voyage : L’Invitation au voyage répond au féminisme de La Souriante Madame Beudet en élargissant le champs des possibles. Dans le second, Germaine Dulac laissait le spectateur sur l’impossible accès au bonheur de sa protagoniste, condamnée à supporter la bêtise de son mari. Aucune alternative n’était proposée à cette épouse une fois que son mari évite de justesse la mort. Dans son deuxième grand film féministe, daté de 1927, la réalisatrice s’attarde cette fois sur le destin d’une femme mariée, mère d’une enfant. De la même manière que dans La Souriante Madame Beudet, Germaine Dulac se sert d’une mise en scène toute orientée vers le visuel, délaissant de nouveau l’utilisation d’intertitres. Le rêve et le désir de fuite seront les thèmes développés dans ce récit, qui s’appuie une fois de plus sur un poème célèbre de Charles Baudelaire. Après La Mort des Amants, Germaine Dulac intègre à sa narration des références directes à Invitation au Voyage, publié lui aussi dans les Fleurs du Mal. La rencontre amoureuse est toujours au centre de l’histoire mais alors que Madame Beudet devait se contenter d’entrevoir la présence de spectres romantiques tout droit sortis de son imagination, la protagoniste de son second grand film féministe osera, elle, s’abandonner dans les bras d’un jeune amant idéalisé. ― 190 ― Le spectateur assiste principalement à des scènes de soirées. La jeune épouse essaie tant bien que mal d’oublier que le temps passe lentement, se raccrochant à une imagination fertile où son double fera le tour du monde en compagnie d’un jeune officier de la Marine. L’ennui de la province dont souffrait Madame Beudet est cette fois remplacé par l’isolement inattendu dans lequel les villes poussent les femmes mariées. Lasse de voir son mari quitter le domicile pour des raisons professionnelles ; un voyage d’affaires nous répètent souvent les intertitres ; elle décide, un soir, de sortir de la maison à la recherche de lieux qui pourraient lui faire découvrir les plaisirs du monde. Dès le début du film, on la voit devant ― 191 ― l’entrée d’un bar, L’invitation au voyage, où s’amuse une foule interlope constituée de marins, de femmes, célibataires ?, de musiciens et de vendeurs en tous genres. Son hésitation et la honte qu’elle affiche, cachant son visage dans un épais manteau de fourrure blanc, trahit l’interdit qu’elle s’apprête à braver. Une fois dans le bar, conquise par l’ambiance bohémienne et bon enfant, elle verra ses rêves de voyage se réaliser en partie, à coups de boissons aux noms exotiques, de décors maritimes, de chansons des quatre coins du monde et de cartes postales enchanteresses. La jeune épouse oubliera très rapidement ses obligations familiales, succombant aux charmes du lieu et d’un jeune officier qui n’a de cesse de lui faire des avances. Un plan incroyable pour l’époque d’une poitrine découverte laisse penser qu’elle acceptera l’invitation du jeune homme. C’est dans la relation amoureuse que le titre du film prend tout son sens. Le marin représente pour l’épouse le moyen le plus évident de répondre ― 192 ― à ses rêves de voyage et à la tentation d’une autre vie. Pourtant, très vite, Germaine Dulac laisse flotter la sensation que la jeune femme, comme sa consœur Madame Beudet, ne pourra pas échapper au destin que la société française a tracé pour elle. Le marin se rend très vite compte qu’elle est mariée et surtout qu’elle est mère. Le statut de mère semble compromettre définitivement la possibilité d’une fuite et, à la fin du film, le spectateur peut voir le marin se diriger vers d’autres femmes, peut-être plus frivoles et plus libres. Après avoir laissé agoniser l’épouse de province, la réalisatrice réitère avec cette fois, l’image de l’épouse, mère, de la ville. Même si les alternatives semblent possibles dans ce deuxième film, il ne s’agit que d’illusions très vite réduites à peau de chagrin. Ni l’adultère, ni l’incursion dans la vie de bohème des gens libres ne parviendront à changer son statut, inscrit dans le marbre des institutions et des règles sociales. Conclusion : Il est difficile aujourd’hui de mesurer l’importance du cinéma féministe de Germaine Dulac sur les spectateurs de l’époque. Longtemps ses écrits ainsi que ses œuvres ont été abandonnés aux coffres des bibliothèques et des cinémathèques. Il aura fallu toute la connaissance d’Henri Langlois et de quelques autres historiens du cinéma pour replacer ses films au prisme de l’abstraction et du surréalisme. Jean Epstein, Louis Delluc ont avant elle été salués, réédités en DVD et rediffusés en salles et bien que l’histoire soit revenue sur son parcours unique, il demeure de nombreux films oubliés, ou perdus. “Le plan c’est l’image dans sa valeur expressive isolée, soulignée par le cadrage de l’objectif. Le plan c’est à la fois le lieu, l’action, la pensée. ― 193 ― Chaque image qui se juxtapose se nomme plan. Le plan c’est le morcellement du drame, c’est une nuance qui concourt à la conclusion. C’est le clavier sur lequel nous jouons. C’est le moyen que nous avions de créer, dans un mouvement, un peu de vie intérieure”, lisait-on dans le Ciné-Magazine du 11 juillet 1924. Quelle justesse de la part d’un critique contemporain de Dulac. Il n’écrivait pas sur ses œuvres explicitement mais sur celles qui ont inscrit le cinéma dans son époque et dans l’histoire moderne. Le plan, le montage, l’amour des angles de prise de vue et la tentation irrépressible de toujours vouloir expérimenter plus avant. Le cinéma n’avait semble-t-il pas de limites pour les cinéastes de cette époque. Il portait en lui des possibles infinis, esthétiques mais aussi sociaux. Quand Abel Gance, imitant D.W. Griffith20, interroge la folie des hommes et de leur modernité, Germaine Dulac, elle, préfère s’intéresser aux femmes et à leur place dans la société française. “Le gros plan c’est aussi la note impressionniste, l’influence passagère des choses qui nous entourent. Ainsi, dans Madame Beudet, le premier gros plan de l’oreille de Mme Lebas c’est toute la province, tous les cancans, l’esprit étroit à l’affût des disputes, des discordes.”21 Refus de céder à la routine qu’invite irrésistiblement dans son quotidien le mariage, refus aussi de laisser aux hommes l’exclusivité du choix et du plaisir, le cinéma de Germaine Dulac tente de raisonner son époque et de lui faire comprendre l’importance d’être une femme libre, de réussir ou d’échouer, de vivre en la compagnie des hommes ou sans eux, d’être mère sans y être obligée... ― 194 ― “La vie intérieure, rendue perceptible par les images, c’est avec le mouvement tout l’art du cinéma... Mouvement, vie intérieure, ces deux termes n’ont rien d’incompatible. Quoi de plus mouvementé que la vie psychologique avec ses réactions, ses multiples impressions, ses ressauts, ses rêves, ses souvenirs. Le cinéma est merveilleusement outillé pour exprimer ces manifestations de notre pensée, de notre cœur, de notre mémoire.”22 C’est sous cette forme que la pensée et l’esthétique de Dulac seront les mieux représentées car quoi de plus riche que la vie intérieure de femmes rongées et abandonnées à une époque qui ne les reconnaît pas ? NOTES Film réalisé en 1923. 1 Henri Langlois, cité dans le documentaire De l’impressionnisme au cinéma pur, 2 1978. Édifié en 1804. 3 Pierre Lazareff, Madame Dulac n’aimait pas le Cinéma !, Cinémonde, 30 mai 4 1929. La Belle Dame sans merci, 1921, La Souriante Madame Beudet, 1923, Gossette, 5 1923, Ame d’artiste, 1925... Homme politique français de la IIIème République, né en 1872 et mort en 1931. 6 7 Tapuscrit de l’interview de Marguerite Durand par Harlor pour une émission de Radio-Paris diffusée en mai 1936 (BMD), cité dans La crise du féminisme en France dans les années 30, L’impossible transmission, par Christine Bard pour les Cahiers du CEDREF, 1995. 8 Extrait d’une chronique que tenait Colette dans Paris-Soir, intitulée Une femme parmi les autres. 9 “La femme est donnée à l’homme pour qu’elle lui fasse des enfants. Elle est donc sa propriété comme l’arbre fruitier est celle du jardinier”, explique Napoléon Bonaparte. Une femme perd, lorsqu’elle se marie, une partie de ses droits. Elle ― 195 ― ne peut ni témoigner ni ester en justice (faire un procès) sans le consentement de son mari. Elle doit lui demander une autorisation pour exercer une profession et il dispose du salaire de sa femme. La femme mariée prend la nationalité de son mari (jusqu’en 1927). La question féminine, L’utilité sociale de l’émancipation féminine. 10 Le surréalisme au cinéma, Ramsay Cinéma, 2005. 11 Elle écrira notamment sur Les Lettres à Héloïse, sur Georges Sand ou bien encore 12 sur Mme de Staël. 13 Stacia Napierkowska est une actrice et danseuse française d’origine polonaise, née Renée Claire Angèle Elisabeth Napierkowski, le 16 septembre 1891 à Paris, où elle est morte le 11 mai 1945. Elle fut à plusieurs reprises la partenaire de Max Linder. Proche de Mistinguett et de Germaine Dulac, avec laquelle elle a tourné Venus Victrix, elle a été, en 1917, la réalisatrice d’un unique film, L’Héritière de la manade. Elle a connu l’un de ses plus grands succès, au cinéma, avec le rôle d’Antinéa dans L’Atlantide de Jacques Feyder en 1921. Intertitre d’ouverture du film de Germaine Dulac. 14 Germaine Dulac. 15 Film allemand réalisé par Karl Grune en 1929. 16 Émile Vuillermoz, dans Le Temps, daté du 2 février 1923. 17 Germaine Dulac et la Province, Claude Fayard, 1977. 18 Dans Les Fleurs du Mal, publié en 1857. 19 20 Réalisateur célèbre pour sa grande épopée américaine, Birth of a Nation, sortie en 1915. Ciné-Magazine du 11 juillet 1924. 21 Ciné-Magazine du 11 juillet 1924. 22 Biographie 1. Beyond Impressions : The Life and Films of Germaine Dulac from Aesthetics to Politics, Tami Michelle Williams, Thèse de Doctorat de l’Université de Californie. 2. Écrits sur le cinéma (1919-1937) / Germaine Dulac ; textes réunis et présentés par Prosper Hillairet, Paris Expérimental, 1994 . 3. Le surréalisme au cinéma, Ado Kyrou, Ramsay Cinéma, 2005. 4. Germaine Dulac, au-delà des impressions, numéro spécial de la revue 1895, sous ― 196 ― la direction de Tami Williams, Paris, 2006. Filmographie 1. De l’impressionnisme au cinéma pur, 1978. 2. 1917 : Vénus victrix (court métrage) 3. 1919 : La Cigarette (moyen métrage) 4. 1920 : Malencontre (court métrage) 5. 1920 : La Fête espagnole 6. 1920 : La Belle Dame sans merci 7. 1923 : La Souriante Madame Beudet 8. 1927 : L’Invitation au voyage (moyen métrage) 9. 1928 : Thèmes et variations (court métrage) 10. 1928 : La Princesse Mandane 11. 1928 : La Germination d’un haricot (court métrage) 12. 1928 : La Coquille et le Clergyman (moyen métrage) 13. 1929 : Étude cinégraphique sur une arabesque (court métrage) ― 197 ― Grammaticalization within Dasu-compounds in Japanese Naoko TAKAHASHI 1. Introduction This paper will discuss the hypothesis that the verbal morpheme dasu [literally ‘be out; come out; begin; give; serve,’ and so forth] within lexical compounds in Japanese undergoes a grammaticalization process. This analysis is supported by the discussion with respect to the grammaticalization of another verbal morpheme komu within lexical compounds in Takahashi (2009). Kageyama (1993, 1996) suggests that there are exceptions to the Transitivity Harmony Principle regarding lexical compounds in Japanese. The rule points out that verbal morphemes in lexical compounds are amalgamated according to certain regulations based on argument structure. One of the regulations indicates that a transitive verb, such as dasu, can be combined with an unergative verb or another transitive verb, but not with an unaccusative verb. Some of the lexical compounds with the morpheme dasu are exceptions to these amalgamation processes. This paper assumes that the dasu-compounds does not follow the Transitivity Harmony Principle because the morpheme dasu undergoes grammaticalization within its lexical compounds. In order to prove this assumption, this paper will investigate the syntactic and semantic properties of this morpheme within ― 199 ― its compounds. First, Section 2 will analyze the data with dasu-compounds by examining the transitivity and unaccusativity of dasu itself and its compounds. In Section 3 we will investigate the interpretations and aspectuality of dasu. Section 4 will show the Lexical Conceptual Structures (LCSs hereafter) of the lexical compounds with dasu. Section 5 will discuss whether the morpheme dasu in lexical compounds can be treated as a suffix-like bound verb that indicates directionality like komu does as discussed in Takahashi (2009). Finally, Section 6 will summarize this paper.1 2. Syntactic properties of dasu-compounds This section will examine dasu-compounds that provide evidence that some lexical compounds in Japanese undergo grammaticalization in terms of their syntactic behaviors. The verbal morpheme dasu can either be a free morpheme or a bound morpheme. When it is used as a free morpheme, it normally behaves as a transitive verb. There are many interpretations of dasu, such as ‘give; utter; make; be out; come out; hold out; put out; stick out; expose; show; take out; produce; send; post; mail; pay; contribute; donate; invest; serve; hand in; send in; publish; issue; open; begin; start; operate (e.g., a machine); turn on (e.g., gas); make [have] speed,’ and so forth. Some examples are shown below: (1) a. Taro-ga piano-no oto-o das-u. Taro-Nom piano-Gen sound-Acc emit-Pre ‘Taro emits the sound of a piano.’ b. Taro-ga hon-o das-u. Taro-Nom book-Acc publish-Pre ‘Taro publishes a book.’ ― 200 ― c. Taro-ga tegami-o das-u. Taro-Nom letter-Acc send-Pre ‘Taro sends a letter.’ Although this morpheme has many interpretations, it generally denotes one of two main interpretations when it is used in compounds. They are (1) ‘be out; come out’ and (2) ‘begin.’ The following examples show dasucompounds with the meaning of ‘be out; come out.’ (2) transitive verb + dasu [transitive] a. nuke-das-u slip.out-dasu-Pre ‘get [sneak; slip] out; pass; get ahead (e.g., of a person)’ b. omoi-das-u think-dasu-Pre ‘remember; recall; recollect; be reminded of’ (3) unergative verb + dasu [transitive] a. tobi-das-u fly-dasu-Pre ‘fly out [away]; jump [rush; run] out of; run away from’ b. nige-das-u escape-dasu-Pre ‘run away; flee; escape; sneak away; evade [shirk]; back out (of)’ (4) unaccusative verb + dasu [transitive] a. shimi-das-u soak-dasu-Pre ‘ooze [seep] out’ b. nagare-das-u flow-dasu-Pre ‘flow out; leak (out); seep’ Before we examine the syntactic properties of dasu-compounds in more details, let us consider those with the meaning of ‘begin.’ It is important to notice that dasu with this interpretation creates syntactic compounds rather than lexical compounds. Some diagnostic tests, such as the ones associated ― 201 ― with constituency, subject honorification, and passivization, can distinguish syntactic compounds from lexical compounds as discussed in Kageyama (1993). These tests show whether or not components in compounds can be syntactically independent. The data below shows that dasu-compounds with the meaning of ‘begin’ belong to syntactic compounds: (5)Do-substitution tests with dasu-compounds with the meaning of ‘begin’: a. Transitive kaku ‘write’ + dasu Taro-ga tegami-o kaki-dashi-ta. Taro-Nom letter-Acc write-begin-Past Soshite Hanako-mo soo-shi-dashi-ta. and Hanako-also so-do-begin-Past ‘Taro began to write a letter. And Hanako-did so, too.’ b. Unaccusative naku ‘cry’ + dasu Taro-no akachan-ga naki-dashi-ta. Taro-Gen baby-Nom cry-begin-Past Soshite Hanako-no akachan-mo soo-shi-dashi-ta. and Hanako-Gen baby-also so-do-begin-Past ‘Taro’s baby began to cry. And, Hanako’s baby began to cry, too.’ c. Unergative hashiru ‘run’ + dasu Taro-ga hashiri-dashi-ta. Taro-Nomrun-begin-Past Soshite Hanako-mo soo-shi-dashi-ta. and Hanako-also so-do-begin-Past ‘Taro began to run. And, Hanako began to run, too.’ (6)Honorification test with dasu-compounds with the meaning of ‘begin’: a. Sensei-ga tegami-o kaki-dashi-ta. teacher-Nom letter-Acc write-begin-Past ‘The teacher began to write a letter.’ ― 202 ― a’. Sensei-ga tegami-o o-kaki-ni-nari-dashi-ta. teacher-Nom letter-Acc Hon-write-Dat-become-begin-Past ‘The teacher began to write a letter.’ b. Sensei-no akachan-ga naki-dashi-ta. teacher-Gen baby-Nom cry-begin-Past ‘The teacher’s baby began to cry.’ b’. Sensei-no akachan-ga o-naki-ni-nari-dashi-ta. teacher-Gen baby-Nom Hon-cry-Dat-become-begin-Past ‘The teacher’s baby began to cry.’ c. Sensei-ga hashiri-dashi-ta. teacher-Nom run-begin-Past ‘The teacher began to run.’ c’. Sensei-ga o-hashiri-ni-nari-dashi-ta. teacher-Nom Hon-run-Dat-become-begin-Past ‘The teacher began to run.’ (7)Passivization tests with dasu-compounds with the meaning of ‘begin’: a. kaki-das-u ‘begin to write’-> kak-are-das-u ‘begin to be written’ write-begin-Pre write-Pass-begin-Pre b. naki-das-u ‘begin to cry’ -> nak-are-das-u ‘begin to be cried’ cry-begin-Pre cry-Pass-begin-Pre c. hashiri-das-u ‘begin to run’-> hashi-rare-das-u ‘begin to be run’ run-begin-Pre run-Pass-begin-Pre The above tests illustrate that dasu-compounds with the meaning of ‘begin’ have to be treated as syntactic compounds rather than lexical compounds. Therefore, attention needs to be paid to which interpretation each dasucompound holds. Since we focus on lexical compounds in this paper, we will deal with only dasu-compounds that have the other meaning ‘be out; come out.’ As mentioned previously, Kageyama (1993, 1996) argues that some of the dasu-compounds violate the Transitivity Harmony Principle. Dasu is typically a transitive verb, and the combination of an unaccusative morpheme and a transitive dasu should not be allowed under the principle. More ― 203 ― than 120 samples of dasu-compounds exist (Daijirin 2005), and we selected nine cases below in which the first verbs (V1s hereafter) are unaccusative. Based on Kageyama’s analysis, it might be assumed that these cases do not comply with the principle: (8) a. shimi-das-u soak-dasu-Pre ‘ooze [seep] out’ b. Chi-ga hootai-kara shimi-das-u. blood-Nom bandage-from soak-dasu-Pre ‘blood oozes [seeps] out from the bandage.’ (9) a. seri-das-u compete-dasu-Pre ‘push (a thing) out; rise out of a trap door; stick out; project; protrude’ b. Hon-ga tana-kara seri-das-u. book-Nom shelf-from compete-dasu-Pre ‘Books sticks out from the shelf.’ (10) a. tobi-das-u (unaccusative tobu)2 project-dasu-Pre ‘project; protrude’ b. Kugi-ga ita-kara tobi-das-u. nail-Nom board-from project-dasu-Pre ‘The nail is projected from the board.’ (11) a. nagare-das-u flow-dasu-Pre ‘flow out; leak (out); seep’ b. Kawa-ga yama-kara nagare-das-u. river-Nom mountain-fromflow-dasu-Pre ‘The river flows out from the mountain.’ (12) a. waki-das-u gush-dasu-Pre ‘gush (out); flow’ b. Izumi-ga yama-kara waki-das-u. spring-Nom mountain-fromgush-dasu-Pre ‘The spring gushes out from the mountain.’ ― 204 ― (13) a. uki-das-u float-dasu-Pre ‘appear clearly’ b. Moyou-ga kami-kara uki-das-u. design-Nom paper-from float-dasu-Pre ‘The design appears clearly from the paper.’ (14) a. fuki-das-u spout-dasu-Pre ‘spout; spurt out; bud; put forth buds [shoots]’ b. Onsen-ga yama-kara fuki-das-u. spring-Nom mountain-from spout-dasu-Pre ‘The spring spouts from the mountain.’ (15) a. moe-das-u bud-dasu-Pre ‘bud; put forth buds [shoots]’ b. Shinme-ga kigi-kara moe-das-u. new.bud-Nom trees-from bud-dasu-Pre ‘New buds come from trees.’ (16) a. fuki-das-u (This example is different from fuki-dasu in (14).) blow-dasu-Pre ‘burst out laughing’ b. John-ga kyuuni fuki-dashi-ta. John-Nom suddenly blow-dasu-Past ‘John suddenly burst out laughing.’ As we can see in the data above, all dasu-compounds occur with kara ‘from’ except the data in (16). The data in (16) might involve a metaphorical change of the meaning of the V1 fuku, which is a semantic change from ‘blow’ to ‘start laughing.’ Possibly, that is why fuki-dasu ‘burst out laughing’ does not take kara ‘from.’ Although we can see the exception, Kageyama (1993:137) suggests that dasu generally denotes a condition in which an object moves out from the inside to the outside along with kara ‘from’ and it represents the concept of ‘OUT’ in its LCS. Now, we will examine whether the unaccusative V1s in dasu-compounds ― 205 ― from (8) to (11) keep their transitivity or unaccusativity after the amalgamation with dasu. First, we apply the numeral quantifier test (Miyagawa 1989; Tsujimura 1996:270): (17) Chi-ga hootai-kara takusan shimi-das-u. blood-Nom bandage-from much soak-dasu-Pre ‘Blood oozes [seeps] out from the bandage a lot.’ (Takusan ‘much’ connects with chi ‘blood’ not with hootai ‘bandage.’) (18) Hon-ga tana-kara itsutsu seri-das-u. book-Nom shelf-from five compete-dasu-Pre ‘The five books stick out from the shelf.’ (The number itsutsu ‘five’ connects with hon ‘book’ not with tana ‘shelf.’) (19) Kugi-ga ita-kara mittsu tobi-das-u. [unaccusative tobu] nail-Nom board-fromthree fly-dasu-Pre ‘The three nails project from the board.’ (The number mittsu ‘three’ connects with kugi ‘nail’ not with ita ‘board.’) (20) Kawa-ga yama-kara mittsu nagare-das-u. river-Nom mountain-from three flow-dasu-Pre ‘The three rivers flow out from the mountain.’ (The number mittsu ‘three’ connects with kawa ‘river’ not with yama ‘mountain.’) All of the data above show that numerals connect with the subject in the sentences and these dasu-compounds does retain the unaccusativity of V1s above. However, with the test on resultative construction, it is difficult to see that the resultative phrases describe a state as a result of some processes denoted by the compounds. (21) Chi-ga hootai-kara takusan shimi-dashi-ta. blood-Nom bandage-from much soak-dasu-Past ‘Blood oozed [seeped] out from the bandage a lot.’ (22) Hon-ga tana-kara ookiku seri-dashi-ta. book-Nom shelf-from widely compete-dasu-Past ‘The books stuck far out from the shelf widely.’ ― 206 ― (23) Kugi-ga ita-kara ookiku tobi-dashi-ta. [unaccusative tobu] nail-Nom board-from widely fly-dasu-Past ‘The nail projected far out from the board.’ (24) Kawa-ga yama-kara ikioiyoku nagare-dashi-ta. river-Nom mountain-from powerfully flow-dasu-Past ‘The river flowed out from the mountain powerfully.’ According to John Haig (2006 personal communication), these resultative phrases might not be descriptive with respect to the subject. For instance, in (21), the blood did not become “a lot” as a result of soaking. Neither the book in (22) nor the nail in (23) became big as a result of the action which were described by these compounds. Since we have these results, it is might be safe to assume that these dasu-compounds remain as unaccusatives even after the unaccusative V1s and a transitive verb dasu combines. Finally, in addition to the unaccusativity in dasu-compounds, we will analyze dasu-compounds in terms of their volitionality. Here, we apply the te-morau ‘have (a person) to do (a thing)’ test to the dasu-compounds from (8) to (11) above. Along with this test, we can examine how much the morpheme dasu affects syntactic properties of the V1s in its compounds. Note that the transitive verb dasu generally carries volitionality and it occurs with adverbs which show emotion: (25) a. Taro-ga tanoshisooni koe-o das-u. Taro-Nom cheerfully voice-Acc emit-Pre ‘Taro emits his voice cheerfully.’ b. Taro-ga yorokonde hon-o das-u. Taro-Nom willingly book-Acc publish-Pre ‘Taro publishes a book willingly.’ c. Taro-ga iyaiya tegami-o das-u. Taro-Nom reluctantly letter-Acc send-Pre ‘Taro sends a letter reluctantly.’ The sentences in (25) illustrate that the independent morpheme dasu carries the feature of volitionality. Moreover, dasu itself can occur with te-morau ― 207 ― ‘have’: (26) a. Taro-ga piano-no oto-o Taro-Nom piano-Gen sound-Acc Hanako-ni dashi-te-mora-u.3 Hanako-Dat emit-Conj-have-Pre ‘Taro has Hanako emit the sound of the piano.’ b. Taro-ga hon-o Hanako-ni dashi-te-mora-u. Taro-Nom book-Acc Hanako-Datpublish-Conj-have-Pre ‘Taro has Hanako publish a book.’ c. Taro-ga tegami-o Hanako-ni dashi-te-mora-u. Taro-Nom letter-AccHanako-Datsend-Conj-have-Pre ‘Taro has Hanako send a letter.’ However, dasu-compounds that have the unaccusative V1s do not occur with either emotional adverbs or te-morau ‘have’; the sentences below demonstrate that they are ungrammatical since the morpheme dasu does not affect its volitionality on the V1s. (Note that we add one agent NP to show causative meanings in the sentences with te-morau ‘have’): (27) *Chi-ga hootai-kara itaitasooni shimi-das-u. blood-Nom bandage-from painfully soak-dasu-Pre ‘[lit.] The blood oozes [seeps] out from the bandage painfully.’ (28) *Taro-ga chi-ni hootai-kara shimi-dashi-te-mora-u. Taro-Nom blood-Dat bandage-from soak-dasu-Conj-have-Pre ‘[lit.] Taro has blood ooze [seep] out from the bandage.’ (29) *Hon-ga tana-kara tanoshisooni seri-das-u. book-Nom shelf-from cheerfully compete-dasu-Pre ‘[lit.] The book cheerfully sticks out from the shelf.’ (30) *Taro-ga hon-ni tana-kara seri-dashi-te-mora-u. Taro-Nom book-Dat shelf-from compete-dasu-Conj-have-Pre ‘[lit.] Taro has the books stick out from the shelf.’ (31) *Kugi-ga ita-kara iyaiya tobi-das-u. nail-Nom board-from reluctantly project-dasu-Pre ‘[lit.] The nail projects from the board reluctantly.’ (32) *Taro-ga kugi-ni ita-kara tobi-dashi-te-mora-u. Taro-Nom nail-Dat board-from fly-dasu-Conj-have Pre ‘[lit.] Taro has the nail project from the board.’ ― 208 ― (33) *Kawa-ga yama-kara tanoshisooni nagare-das-u. river-Nom mountain-from happily flow-dasu-Pre ‘[lit.] The river flows out from the mountain happily.’ (34) *Taro-ga kawa-ni yama-kara nagare-dashi-te-mora-u. Taro-Nom river-Dat mountain-from flow-dasu-Conj-have-Pre ‘[lit.] We have the river flow out from the mountain.’ Thus, the unaccusativity V1s in the dasu-compounds above cannot occur with adverbs which denote emotions and te-morau ‘have’; these dasu-compounds do not trigger volitionality despite the fact that dasu generally possesses it. At the same time, none of the compounds above are transitive while dasu itself is transitive as an independent verb. Thus, when the V1s are unaccusative, the morpheme dasu does not affect transitivity or the nonvolitional meanings of the V1s in its compounds. If we test the other data of dasu-compounds where the V1s are either transitive or unergative verbs, all the V1s in these dasu-compounds keep their original transitivity or unaccusativity even after amalgamating with dasu. Accordingly, dasu does not affect the argument structures of the V1s at all and shows fewer syntactic properties than the independent transitive dasu verb does. Based on the results here, this paper calls dasu in lexical compounds “a bound verb” since the morpheme dasu does not have its argument structure and behaves like a suffix in Japanese, but still carries tense along with certain interpretations. This shows that dasu in its compounds undergoes grammaticalization. 3. Semantic properties of dasu-compounds We will examine the semantic properties of dasu-compounds in this section. First, we will discuss different interpretations with respect to the morpheme dasu. Second, we will test the aspectual properties of dasu ― 209 ― and its compounds and analyze whether the dasu morpheme affects the aspectual properties of the V1s. 3.1. An interpretation of dasu with ‘be out; come out’ Let us observe the interpretations which dasu denotes carefully. As mentioned previously, dasu has two main interpretations. One is (1) ‘be out; come out’ and the other is (2) ‘begin’. When it has the former interpretation, we can further subcategorize dasu-compounds as follows. In the data, the transitivity and unaccusativity are specified to see whether or not the syntactic properties of the V1s are affected: (35) Be a. out; come out; appear omoi-das-u (transitive + dasu) -> transitive think-dasu-Pre ‘remember; recall; recollect; be reminded (of)’ b. nagare-das-u (unaccusative + dasu) -> unaccusative flow-dasu-Pre ‘flow out; leak (out); seep’ c. nige-das-u (unergative + dasu) -> unergative escape-dasu-Pre ‘run away; flee; escape; sneak away; evade [shirk]; back out (of)’ (36) Go a. out; leave kogi-das-u (transitive + dasu) -> transitive row-dasu-Pre ‘leave by boat’ b. nori-das-u (unergative + dasu) -> unergative get.on-dasu-Pre ‘start; leave; set sail; set about; start; go (into); enter’ (37) Produce; develop a. umi-das-u (transitive + dasu) -> transitive produce-dasu-Pre ‘develop; produce’ ― 210 ― b. tsukuri-das-u (transitive + dasu) -> transitive make-dasu-Pre ‘make; create; manufacture; produce’ (38) Find; discover a. mitsuke-das-u(transitive + dasu) -> transitive find-dasu-Pre ‘find out; discover’ b. sagashi-das-u (transitive + dasu) -> transitive search-dasu-Pre ‘find; locate (a person); hunt out; discover’ (39) Send; submit a. okuri-das-u (transitive + dasu) -> transitive send-dasu-Pre ‘send; launch; see (a person) off’ b. tsumi-das-u (transitive + dasu) -> transitive pile-dasu-Pre ‘ship; send; forward’ (40) Expose; reveal; show a. utsushi-das-u (transitive + dasu) -> transitive describe-dasu-Pre ‘expose; show; describe’ b. egaki-das-u (transitive + dasu) -> transitive describe-dasu-Pre ‘describe (a thing); express (a thing); expose (a figure)’ c. terashi-das-u (transitive + dasu) -> transitive light-dasu-Pre ‘light up (a thing) to expose it’ (41) Give; make; offer; propose a. kashi-das-u (transitive + dasu) -> transitive lend-dasu-Pre ‘lend (a thing) out’ b. sashi-das-u (transitive + dasu) -> transitive give-dasu-Pre ‘present; submit; tender’ ― 211 ― (42) Push; force; thrust out a. oshi-das-u (transitive + dasu) -> transitive push-dasu-Pre ‘push [force, thrust] out; launch’ b. tsuki-das-u (transitive + dasu) -> transitive thrust-dasu-Pre ‘thrust [push; throw] out; stick (a thing) out’ c. nori-das-u (unergative + dasu) -> transitive get.on-dasu-Pre ‘lean out’ (43) Eject a. oi-das-u (transitive + dasu) -> transitive drive.away-dasu-Pre ‘drive [send; thrust] out; evict; dismiss; fire’ b. keri-das-u (transitive + dasu) -> transitive kick-dasu-Pre ‘kick out’ (44) Take out; extract; select a. erabi-das-u (transitive + dasu) -> transitive select-dasu-Pre ‘select (a thing)’ b. tasuke-das-u (transitive + dasu) -> transitive help-dasu-Pre ‘help (out of); rescue (from)’ c. hakobi-das-u (transitive + dasu) -> transitive carry-dasu-Pre ‘carry out’ d. mochi-das-u (transitive + dasu) -> transitive take.out-dasu-Pre ‘take out; remove’ Accordingly, we can summarize that dasu with the meaning of ‘be out; come out’ denotes an outward movement of an object. Again, note that none of the V1s in these dasu-compounds change their transitivity or unaccusativity except nori-dasu ‘lean out’ in (42c).4 With the data above, we can conclude that syntactic properties of the V1s are not affected. ― 212 ― 3.2. Aspectual properties of dasu In this section, we will analyze the aspectual properties of dasucompounds. We will utilize the aspectual test of Toratani (1998) in order to examine the properties of both the V1s and their dasu-compounds: Table 1 Diagnostic tests for determining verb classes of dasucompounds Criterion showing aspectual classes of verbs (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) 1. for-test (occurs with -san-jikan) 2. in-test (occurs with -san-jikan de) 3. owarutest (forms a compound with owaru ‘finish’) 4. occurs with yukkuri ‘slowly’ 5. occurs 6. te-iru with jojo-ni test ‘gradually’ (compatible with te-iru ‘be ~ing’) transitive omou ‘think’ (activity) Yes No No No No Yes transitive omoi-dasu ‘remember’ (accomplishment) No Yes N/A Yes Yes Yes unaccusative nagareru ‘flow’ (activity) Yes No No Yes Yes Yes unaccusative nagare-dasu ‘flow out’ (accomplishment) No Yes N/A Yes No Yes unergative nigeru ‘escape’ (activity) Yes No Yes Yes? No Yes unergative nige-dasu ‘run away’ (accomplishment) No Yes N/A Yes Yes Yes transitive kogu ‘row’ (activity) Yes No Yes Yes No Yes transitive kogi-dasu ‘leave by boat’ (accomplishment) No Yes N/A Yes Yes Yes unergative noru ‘ride’ (activity) Yes No Yes Yes No Yes unergative nori-dasu ‘leave; set sail’ (accomplishment) No No? N/A Yes Yes Yes transitive umu ‘produce’ (accomplishment) No Yes Yes Yes No Yes transitive umi-dasu ‘develop’ (accomplishment) No Yes N/A Yes Yes Yes transitive mitsukeru ‘find’ (activity) No No Yes No Yes Yes transitive mitsuke-dasu ‘find out’ (accomplishment) No Yes N/A Yes Yes Yes ― 213 ― (8) transitive okuru ‘send’ (activity) Yes No Yes Yes No Yes transitive okuri-dasu ‘send’ (accomplishment) Yes No N/A No No Yes transitive egaku ‘describe’ (active-accomplishment) Yes Yes/No Yes/No Yes Yes Yes transitive egaki-dasu ‘describe’ (accomplishment) Yes Yes N/A No Yes Yes (10) transitive kasu ‘lend’ (activity) Yes No Yes No No Yes transitive kashi-dasu ‘lend out’ (accomplishment) Yes Yes N/A No No Yes Yes No Yes Yes No Yes Yes/No Yes N/A Yes Yes Yes (12) transtive ou ‘drive away’ (accomplishment) Yes No Yes Yes No Yes transtive oi-dasu ‘drive out’ (accomplishment) No Yes N/A Yes Yes Yes No Yes Yes Yes Yes Yes No Yes N/A Yes Yes Yes (9) (11) transitve osu ‘push’ (activity) transtive oshi-dasu ‘push out’ (accomplishment) (13) transtive erabu ‘select’ (accomplishment) transitive erabi-dasu ‘select’ (accomplishment) OK = The sentence is grammatical , semantically normal. bad = The sentence is ungrammatical, semantically anomalous. d.n.a. = The test does not apply to verbs of this class. As we can see from the results in the table, the V1s in these compounds belong to either activity or accomplishment categories. In either case, it seems that their dasu-compounds behave as accomplishment verbs. This shows the same result as the analysis with komu-compounds in Takahashi (2009); the morpheme dasu changes the aspectual properties of the V1s from [-telic] to [+telic]. The summary is shown in the table below: ― 214 ― Table 2 Aspectual relations between dasu-compounds and their V1s V1s in dasu-compounds dasu-compounds denoting ‘be out; come out’ activity [-telic] accomplishment [+telic] accomplishment [+telic] accomplishment [+telic] Thus, regarding the aspectuality of dasu and its compounds, V1s obtain or maintain the [+telic] property after amalgamation with the morpheme dasu. 4. LCSs of dasu-compounds This section will consider the LCSs of the problematic cases within dasucompounds which do not follow the Transitivity Harmony Principle. Among the lexical dasu-compounds, we will choose the cases with the combinations of the unaccusative V1s and dasu. Here, we assume that dasu is a bound verb which is a simple accomplishment verb and denotes completeness. We also apply anticausativization processes to the morpheme dasu. That makes it possible to combine the upper and lower level in LCSs and we can see how the morpheme dasu changes its conceptual interpretations. (45) LCSs of dasu-compounds a. Chi-ga hootai-kara oohabanishimi-dashi-ta. blood-Nom bandage-from greatly soak-dasu-Past ‘Blood oozed [seeped] out from the bandage a lot.’ a’.Amalgamation between the upper and lower level (unaccusative accomplishment structure) and the upper level (accomplishment structure) shimiru ‘soak’: [sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-IN z1]] dasu ‘be out’: [[super-EVENT x1 ACT (ON y1)] CONTROL [sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-OUT z1]]] ― 215 ― -> [[super-EVENT x1^ ACT (ON y)] CONTROL [sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-OUT z1]]] -> [sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-OUT z1]] shimi-dasu: ‘ooze [seep] out’: [[[sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-IN z1]] AND [sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-OUT z1]]] -> [sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-[IN AND OUT] z1]]] b. Kawa-ga yama-kara ikioiyoku nagare-dashi-ta. river-Nom mountain-from powerfullyflow-dasu-Past ‘The river powerfully flowed out from the mountain powerfully.’ b'.Amalgamation between the upper and lower level (unaccusative accomplishment structure) and the upper level (accomplishment structure) nagareru ‘flow’: [sub-EVENT y1 MOVE] dasu ‘be out’: [[super-EVENT x ACT (ON y)] CONTROL [sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-OUT z1]]] nagare-dasu ‘flow out: [[sub-EVENT y1 MOVE] AND [[super-EVENT x1 ACT (ON y)] CONTROL [sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-OUT z1]]]] -> [[sub-EVENT y1 MOVE] AND [super-EVENT x1^ ACT (ON y)] CONTROL [sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-OUT z1]]] -> [[sub-EVENT y1 MOVE] AND [sub-EVENT y1 BECOME [y1 BE AT-OUT z1]]] -> [sub-EVENT y1 MOVE AND y1 BECOME [y1 BE AT-OUT z1]] The LCSs along with dasu-compounds above provide the evidence that the verbal morpheme dasu is undergoing a grammaticalization process changing from an independent verb to a bound morpheme with its argument structure being lost in the process. 5. Directionality and telicity with komu and dasu Finally, we will consider the relationship between the meaning of ― 216 ― directionality and the two verbal morphemes, komu and dasu. As mentioned in Takahashi (2009), the morpheme komu indicates a certain type of directionality. The morpheme dasu may also indicate directionality. In addition, these two morphemes are associated with some postpositional phrases which can imply directionality; komu triggers ni ‘to’ phrases, and dasu triggers both ni ‘to’ phrases and kara ‘from’ phrases. The examples of komu-compounds and dasu-compounds which have these properties are shown below: (46) with a transitive verb a. ie ni mochi-kom-u house to have-komu-Pre ‘bring into the house’ b. gakko kara ie ni mochi-das-u school from house to have-dasu-Pre ‘take out from the school to the house’ (47) with a transitive verb a. ie ni hiki-kom-u house to pull-komu-Pre ‘draw into the house’ b. naka kara soto ni hiki-das-u inside from ourside to pull-dasu-Pre ‘draw out from the inside to the outside’ (48) with an unaccustive/unergative verb a. kawa ni tobi-kom-u river to jump-komu-Pre ‘jump into the river’ b. ie kara soto ni tobi-das-u house from outside to jump-dasu-Pre ‘jump from the house to the outside’ (49) with an unergative verb a. ie ni nige-kom-u house to escape-komu-Pre ‘run into the house to hide’ ― 217 ― b. ie kara soto ni nige-das-u house from outside to escape-dasu-Pre ‘run away from the house to the outside’ One of the differences between komu and dasu is that komu is connected to an inward or incoming event whereas dasu is connected to an outward or outgoing event. In all cases, it seems that these morphemes inherently possess the meanings of directionality. In addition, this directionality can be extended by the event that the first verbal morphemes describe, especially when the V1s are motion verbs.5 Also, we can assume that the interpretation of directionality also affects the aspectual properties in a certain way as we saw in Tables 1 and 2 in the previous section. These morphemes komu and dasu are inherently [+telic]. That is why lexical compounds with these morphemes can belong to the accomplishment category after their amalgamation with V1s as shown in the tables.6 6. Concluding remarks This paper has demonstrated that dasu-compounds show similar syntactic and semantic properties as komu-compounds do as shown in Takahashi (2009). Dasu in its compounds with the interpretation ‘be out; come out’ originally has transitivity and its argument structure, but these syntactic properties can be bleached out in its compounds. We concluded that it is because dasu in its lexical compounds with the interpretation ‘be out; come out’ undergoes grammaticalization and changes from an independent verb to a bound verb. Regarding the aspectual properties of dasu, we have the same result as the morpheme komu showed; dasu triggers [+telic] interpretations. Finally, we discussed the idea that the two morphemes, dasu and komu originally ― 218 ― indicate directionality and therefore add the interpretation of directionality to the V1s in their compounds. In sum, the morpheme dasu in lexical compounds does not behave like a single verb. It may change from an independent verb to a bound verb that has lost its syntactic argument structure. Accordingly, it might be plausible to say that the morpheme dasu can be as productive as another morpheme komu (Takahashi 2009) because it has suffix-like properties and freely attaches to various kinds of verbs. Notes 1.This is a revised version of one chapter in Takahashi (2006). I am grateful to Dr. John Haig at the University of Hawaii at Manoa for giving me important feedback on this paper. Moreover, I thank Mr. Conrad Bucsis at the Nagoya University of Foreign Studies for his editorial help. Needless to say, all the mistakes and shortcomings in this paper are mine. 2. It seems that tobu ‘fly’ can be either an unergative or unaccusative verb. (i) Hikooki-ga New York-made tob-u. (unaccusative) plane-Nom New York-to fly-Pre ‘The plane flies to New York.’ (ii) Taro-ga New York-made tob-u. (unergative) Taro-Nom New York-to fly-Pre ‘Taro flies to New York.’ When we apply the te-morau ‘have’ test to this data, the result shows the difference between (i) and (ii): (i') *Hanako-ga hikooki-niNew Yorl-made ton-de-mora-u. (unaccusative Hanako-Nom plane-Dat New York-to fly-Conj-have-Pre tobu) ‘[lit.] Hanako has the plane fly to New York.’ (ii') Hanako-ga Taro-ni New York-made ton-de-mora-u. (unergative tobu) Hanako-Nom Taro-Dat New York-to fly-Conj-have-Pre ‘Hanako has Taro fly to New York.’ ― 219 ― 3.The treatment of the te-form seems to be controversial and we treat it as a conjunction in this discussion. 4.It seems that noru in nori-dasu ‘lean out’ behaved differently from noru ‘get on’ historically. The former noru originally had the meaning of leaning (Daijirin 2005). Although we use the same Chinese character currently for these two types of noru, we need to distinguish between them. Possibly, nori-dasu behaves as a transitive compound rather than an intransitive compound because of this. 5.On the other hand, it is important to note that there are some cases in which V1s do not involve directionality but appear in lexical compounds with komu. The V1s in lexical compounds, such as abareru ‘storm into,’ donaru ‘shout,’ and shaberu ‘chat’ are examples of this case. These V1s do not maintain directionality. However, certain directionality interpretations do occur with these V1s once these V1s are amalgamated with komu. We could assume that it is because the morpheme komu has inherent meanings of directionality. 6.Related to this, we can see that komu and dasu amalgamate with verbal morphemes which denote a simple intentional action. This means that the interpretation of directionality along with an intentional action are required before the V1s combine with these morphemes in their compounds. References Kageyama, Taro. 1993. Bunpoo to go-keisei [Grammar and word formation]. Tokyo: Hitsuji Shobo. Kageyama, Taro. 1996. Dooshi imiron [Verbal semantics]. Tokyo: Kurosio Publishers. Miyagawa, Shigeru. 1989. Syntax and Semantics 22: Structure and case marking in Japanese. San Diego, CA: Academic Press. Takahashi, Naoko. 2006. Syntactic and semantic complexity of Lexical Compounds: An analysis of komu, dasu, and saru compounds in Japanese. Doctoral dissertation. University of Hawaii at Manoa. Takahashi, Naoko. 2009. Syntactic complexity of komu-compounds. Working Papers [Kiyo] at Nagoya University of Foreign Studies 36:169-193. Toratani, Kiyoko. 1998. Lexical aspect and split intransitivity. CLS 34: 377-91. Tsujimura, Natsuko. 1996. An introduction to Japanese linguistics. Cambridge, ― 220 ― MA: Blackwell. Source of Data Daijirin [Japanese dictionary] 2nd edition. [Matsumura, Akira (ed.)]. 2005. Tokyo: Sanseido. ― 221 ― 「上海市外来流動人口管理政策」の 実効性に関する研究 虞 萍 はじめに 1985 年以来、上海市人民政府および関連部門は外来流動人口の管理に関 する一連の法律の条文を制定し公布した。これによって、上海市の発展に 確かな効果を得たが 1、外来人口の増加、優秀な人材の不足という問題は相 変わらず解決されていない。目下、上海市の三人に約一人は外来流動人口 である 2。これはなぜであるのか。そこにはどのような問題が存在している のか。大量の外来者が上海市に居住するようになったことは、上海市民の 生活にどのような影響を与えたのか。上海市は外来流動人口をどのように 調節し、管理すべきであろうか。 現段階では、上海市の外来流動人口の拡大とその特性、戸籍改革をめぐ る上海市の試行弁法、流動人口における出産管理問題、上海市の外来流動 人口が労働市場の低層に押しとどめられている実態の分析等に関する先行 研究がある 3。しかし、 「上海市外来流動人口管理政策」の実効性に関する 一歩踏み込んだ実証的な研究はない。 以上一連の疑問を解くため、小論はまず時代に沿って、上海市人民政府 が定めた外来流動人口に関する管理政策と関連させて、上海市人口変遷の 状況について具体的に分析する。次に、上海市の外来流動人口が従事する 職業と全体の資質を通して、外来流動人口管理政策が社会に果たした推進 作用、ないしは不足な点について論ずる。さらに、外来流動人口の増加が 受入地と送出地にいかなる影響をもたらしたのかを考察したい。小論の目 ― 223 ― 的は、中国における多文化接合現象を考察するための背景調査として、上 海市の人口状況を客観的な資料から明らかにし、その問題点を私なりに指 摘しようとするところにある。 一 「上海市外来流動人口管理政策」の制定におけるプロセス―上 海市人口変遷の状況を通して 1 建国初期–改革開放前 1852 年に 54 万人しかいなかった上海 4 は、1950 年 1 月、その人口はすで に 498 万人を超えた 5。1950 年当時、農村では人は多いが土地は少ないた め、大量の労働力が余剰となり、農業政策は不安定であった。その不安定 性は、当時の農民の利益を常に侵害し、農民の農業労働に従事する積極性 を損なった。その上、生産力のレベルは自然災害に対処する能力をほとん ど持たなかった。そのため、1950 年代初期から、毎年大量の農村人口が都 市に流入するようになった。1953 年に、上海市の人口はすでに 620 万人に 達していた。 農村人口が都市と工業建設の重点地区へ盲目的に流出する現象に直面し て、1953 年 4 月、国務院は「勧止農民盲目流入城市的指示」(「盲目的都市 流入の制止に関する農民への指示」 )を出し、初めて「盲流」という概念を 打ち出した。しかし、この指示の発表は「盲流」という現象を完全に制止 したわけではない。1956 年末、国務院は「防止人口盲目外流的指示」(「盲 目的流出の防止に関する指示」 )を公布した。そして 1957 年初に再度補充 的な指示を出した。しかし、その年、上海市の人口は約 690 万人に上った。 1958 年 1 月 9 日、国務院は「中華人民共和国戸口登記条例」 ( 「中華人民 共和国戸籍登録条例」 ) を公布した。これは新中国の戸籍管理制度が正式に 確立されたことを意味し、中国の都市と農村の二元化社会管理制度の始ま りであった。当時、都市部の市民が農村に流入する行為に対しては特に条 例はないが、しかし農村の人々が都市に入るときには厳しく管理されるよ うになった。 「中華人民共和国戸口登記条例」 が公布して以来、上海市の市 ― 224 ― 民は農村の人々と比べて、特殊な「優越感」を湧き始めた 6。 同年 1 月 17 日、国務院は嘉定県、宝山県、上海県を上海市に編入させた。 これによって、65 万人が上海市の戸籍になった。12 月 21 日、川沙県、青浦 県、南匯県、松江県、奉賢県、金山県と崇明県も上海市に繰り入れられて、 数百万人が上海市の戸籍に変わった。さらに、浦東県も上海市の下に新設 された 7。これによって、上海市の基本的な構造が創出されたと言えよう。 2 改革開放以降–1980 年代 1978 年の改革開放以降、中国の農村人口が都市に流れ込む現象はより普 遍的になった。1984 年 10 月 13 日、 「国務院関於農民進入集鎮落戸問題的 通知」(「農民が集鎮へ戸籍を移す問題に関する国務院の通知」 )が公布さ れた。この通知は「戸籍改革の大事件」であり、戸籍制度改革の前触れと も言われた。以来、農民は都市に入って働いて、商業を営むことが可能に なった。 農村人口が盲目的に上海市に入ることを制御するために、表 1 で示した ように、1985 年から、上海市人民政府は一連の外来流動人口の管理に関す る政策を打ち出した。例えば、1985 年 1 月 1 日、 「上海市外来寄住戸口管理 試行辦法」(「上海市外来者居住戸籍管理に関する試行弁法」 )が実施され た。この「試行弁法」によると、以下の三項目に該当する者で、上海市で 6ヶ月以上居住したい人員は上海市で外来居住戸籍を登録することができ る。 (一)区・県の人民政府あるいは市政府の各委員会、事務室、事務局の 許可を得て、周辺地区から上海市へ来て、企業・国家機関を創立しようと する指導者および業務責任者。 (二)上海市の企業、国家機関の入札募集 で、周辺地区から招聘してきた建築、施工人員。 (三)上海市商工業行政管 理部門の許可を得て、周辺地区から上海市に来て、就労する者・企業家・ サービス業を創業する個人経営者で、上海市に固定住所のある者。 ― 225 ― (表 1)上海市人民政府によって公布された主な上海市流動人口の管理に関 する政策一覧表 施行期日 1985. 1. 1 -1988. 12. 1 政策名称 「上海市外来寄住戸口管理試行辦法」 (「上海市外来者居住戸籍管理に関する試行弁法」) 1988. 7. 1 「上海市暫住人口管理規定」 (「上海市暫定居住人口管理に関する規定」) 1994. 2. 1 「上海市単位使用和聘用外地労働力管理暫行規定」 (「上海市における企業と国家機関の地方労働力の雇用管理施行 に関する暫定規定」) 「上海市藍印戸口管理暫行規定 8」 (「上海市藍印戸籍管理施行に関する暫定規定」) 1994. 9. 15 -1998. 9. 16 「上海市流動人口計劃生育管理暫行規定」 (「上海市流動人口計画出産管理施行に関する暫定規定」) 1994. 10. 1 「上海市流動人口衛生防疫管理暫行規定」 (「上海市流動人口衛生防疫管理施行に関する暫定規定」) 1996. 9. 1 「上海市外来流動人口管理条例」 (「上海市外来流動人口管理に関する条例」) 1998. 9. 17 「上海市外来流動人口計劃生育管理辦法」 (「上海市外来流動人口計画出産管理弁法」) 1998. 10. 26 -2002.4.1 「上海市藍印戸口管理暫行規定(修改)」 (「上海市藍印戸籍管理施行に関する暫定規定(修正)」) 1998. 12. 1 「上海市外来流動人員租賃房屋治安管理辦法」 (「上海市外来流動人員の賃貸借治安管理弁法」) 2002. 6. 15 「引進人才実行『上海市居住証』制度暫行規定」 (「人材導入のための『上海市居住証』制度施行に関する暫定規 定」) 2002. 9. 1 「上海市外来従業人員総合保険暫行辦法」 (「上海市外来業務従事人員総合保険施行に関する暫定弁法」) 2004. 8. 30 「上海市外来従業人員総合保険暫行辦法(修改)」 (「上海市外来業務従事人員総合保険施行に関する暫定弁法(修 正)」) 2004. 10. 1 「上海市居住証暫行規定」 (「上海市居住証施行に関する暫定規定」) 2009. 2. 12 「持有『上海市居住証』人員申辦本市常住戸口試行辦法」 (試行期間は 3 年) (「『上海市居住証』所持者の当市常住戸籍申請に関する試行弁 法」) 出所:彭希哲、郭秀雲、趙徳余「戸籍制度与上海人口管理改革思路探討」表 1(盧漢龍主 編『上海社会発展報告 <2009>:深化社会体制改革』社会科学文献出版社、2009 年、p.75) および中国上海網 www.shanghai.gov.cn(2010 年 9 月 29 日最終確認)より作成した。 ― 226 ― 当時、外省市から上海市に来て、企業・国家機関を創設するときの外来 居住人員の数は、プロジェクトの許可審議機関により企業と事業の性質、 規模、投資金額によって確定し、区・県の公安機関の再審査で決められ た。外来居住人員は所属部門、あるいは募集・招聘部門により専属担当者 を指定し、資料を作り、上海市の許可した機関の証明あるいは募集・招聘 部門の証明に基づき、会社所在地の公安派出所に登録申告し、集団戸籍を 作り、 「外来居住戸籍登記簿」と個人向けの「外来流動人口居住証」の交付 を受ける。申告部門は専属担当者を指定し、 「外来居住戸籍登記簿」を管理 しなければならない。外来個人経営者は、上海市の商工業行政管理部門か ら交付される営業許可証で、固定住所の戸主と一緒に居住地の公安派出所 に登録を申告し、単独で戸籍を作り、 「外来居住戸籍登記簿」を交付され る。外来居住人員が所属する部門あるいは単独で戸籍を作った外来居住人 員は、 「外来居住戸籍登記簿」で規定に基づき食糧部門から穀物供給の手続 きを経て、副食品供給部門に副食品の供給手続きを取る。農業戸籍の人口 の食糧は自弁しなければならない 9。 1984年に中国政府が農民の法的手続を経て都市に入り仕事することを許 可して以来、わずか 4 年間で上海市の外来流動人口は 106 万人を上回った。 当時、上海市の戸籍人口は 1262.42 万であった。農民にとって、都市に入っ て仕事をすることは生活水準を改善する一つの近道である。一部の農民は 都市に入って努力した結果自分の企業を持つようになった 10。しかし、当 時都市に入るときの手続きが複雑であるため、一部の貧しい農民は依然と して法律に背いて、こっそりと都市に入って不法就労していた。「盲流」と いう現象は上海市に限らず、中国都市のいたるところに現れた。 一時滞在者の管理を強化し、彼らの合法的権益を保障し、社会秩序を守 るため、上海市人民政府は「中華人民共和国戸籍登録条例」と「中華人民 共和国治安管理処罰条例」などの関連規定に従って、1988 年 7 月 1 日から 「上海市暫住人口管理規定」 ( 「上海市暫定居住人口管理に関する規定」)を 施行した。この規定の第二条と第三条は次のように規制している。 「上海市 ― 227 ― に 3 日以上滞在する外来者および上海市街区・県の間で 3 日以上滞在する上 海市民は、暫住登録を必ずしなければならない。16 歳以上(16 歳含む)の 者の一時滞在期間が 3ヶ月を上回る場合は、居住地の公安派出所で『暫住 証』を申請しなければならない。家族連れの場合は、居住地の公安派出所 で『居住戸籍簿』を申請しなければならない。 」 この「規定」は 1985 年 1 月 1 日から実施された「上海市外来寄住戸口管 理試行辦法」の各条例よりいっそう詳しくなった。しかし実際に上記のよ うに施行するならば、もし上海市で 3 日滞在し、あるいは上海市の市民が 当市の街区・県の間で 3 日以上滞在すると登録しなければならないならば、 政府の関連機関は莫大な作業量を抱えることになる。また現実には、上海 市に出張機会が多い者および上海市民の中で、移動登録を行わない者もい た。 改革開放以降、中国の都市と農村の経済格差がますます大きくなった。 経済格差のみならず、一部の上海市の市民は、戸籍による都市部特有の「優 越感」をさらに増して、外来者を目障りとし、 「巴子」(「田舎者」)「巴子」 と称し、彼らが早く都市から離れることを望んでいた 11。 3 1990 年代以降 1990 年、当時の上海市委員会書記兼市長である朱鎔基は、「上海市は人 材の縁故採用と地方化 12 の弊害を防止し、できるだけ多くの地方の大学卒 業生が上海市で働けるように募集し手配すべきである」、と呼びかけた。そ の年の秋には第一陣の 2,600 名あまりの非上海籍大学生が上海市の各関係 部門で働くようになった。また、1994 年、出稼ぎ農民工は上海市の合法的 な出稼ぎ労働者になり、上海市は 2 万枚以上の「就労許可証」を発給した。 1994 年 2 月 1 日、上海市外来流動人口に関する管理政策「上海市藍印戸 口管理暫行規定」 ( 「上海市藍印戸籍管理施行に関する暫定規定」)が施行さ れた。第四条で、以下の三種類の人員は上海市で藍印戸籍を登録すること ができると定めた。 (一)上海市に合法的な固定住所があって、外国の商 人、香港・マカオ・台湾人で、上海市での投資額が 20 万ドルに達し、プロ ― 228 ― ジェクトの竣工・開業もしくは経営が 2 年以上している、あるいは外省市 の部門もしくは個人が上海市での投資が 100 万元に達し、プロジェクトの 竣工・開業もしくは経営が 2 年以上の者は、その本人(海外投資家は除く) あるいはその親族もしくは雇用している外省者は、1 つ「藍印戸籍」の申 請を許可する。投資額が倍増するにつれ、藍印戸籍の申請の数も倍増でき る。(二)外国人は上海市で外商住宅を購入し、その建築面積は 100 m2 以 上の場合、購入者もしくはその配偶者の直系親族、あるいは三世代以内の 傍系親族は、1 つ「藍印戸籍」の申請を許可する。(三)上海市に来た市外 の人で、上海市の国家機関・企業・社会団体もしくは個人経営者に雇用さ れ、高卒以上の学歴で、管理能力あるいは工芸技能があり、上海市の一つ の部門に連続して 3 年以上雇用され、且つ仕事の実績があり、上海市に合 法的な住所がある者は「藍印戸籍」の申請を許可する。2 年後に、その配 偶者と 1 名未成年子女の「藍印戸籍」の申請を許可する。「藍印戸籍」を 5 年以上得ている者には、公安機関で上海市常住戸籍の申請を許可する 13。 この暫定規定の目的とは、外資と外省市部門あるいは個人の投資を吸収 し、優秀な人材を導入することであるが、しかし金額で査定する内容は外 国人と一部の豊かな外来者に、上海市に入る便利さを提供したに過ぎな い。本条例は、前二項の人員の教育レベルに対して何の制限もない。しか も 1985 年に定められた「政府部門の許可を得て、上海市における外来居 住戸籍の申請を許可する」という事項を廃止した。そのため、前二項の人 員は経済力さえ備えれば、上海市の「藍印戸籍」を獲得することが可能と なった。その上、5年後に公安機関に上海市常住戸籍の申請ができる。第三 項の人員の学歴に関しても「高卒以上の教育レベル」は求めるのみで、ま た「工芸技能」という概念も曖昧であった。 1998 年 10 月 26 日、上海市人民政府は「上海市藍印戸口管理暫行規定」に ついて修正を行い、特に「藍印戸籍」の定義について修正を行った。その 結果、この規定は外国人には適用されなくなった。修正後の規定は、元の 第四条に基づき、投資金額を地区によって調整した。まず、 「上海市が 100 ― 229 ― 万元のプロジェクトの竣工・開業もしくは経営が 2 年以上」という条件を 「市街地と浦東新区で 100 万元を投資し、上海市の嘉定区、閔行区、宝山区、 金山区、松江区と南匯県、奉賢県、青浦県における投資が 50 万元、あるい は崇明県での投資が 30 万元に達し、プロジェクトの竣工・開業もしくは経 営が 2 年以上」に変えた。このような投資金額を地区によって分類する修 正は、あまり多くの資金を持たないが上海市で投資したい、あるいは大き なリスクを背負う勇気はないが上海市で投資してみたいという外省者に投 資の好機を与えた。修正後の第五条はこのように規定している。 「外来者個 人は上海市で分譲住宅を購入し、その建築面積あるいは家屋の総価格は下 記の規定の一つに合う場合、その本人、配偶者、本人と配偶者の直系親族 に 1 つ『藍印戸籍』の申請を許可する。 (一)市内で 70 m2 以上、あるいは 浦東新区で 65 m2 以上の住宅を購入。 (二)市街地で 35 万元以上、あるい は浦東新区小陸家嘴地区で 32 万元以上の住宅を購入。 (三)閔行区、宝山 区、嘉定区で 18 万元以上、あるいは浦東新区小陸家嘴地区以外の内環状線 内で 16 万元以上の住宅を購入。 (四)金山区、松江区、浦東新区内環状線 以外と南匯県、奉賢県、青浦県、崇明県で 10 万元以上の住宅を購入。」修 正後の第五条は、上海市で分譲住宅を購入し、 「藍印戸籍」を獲得しようと する外来者にとっては逸しがたい好機であった。 このような 1994 年 2 月 1 日から実施する「上海市藍印戸口管理暫行規定」 の大幅な修正は、長年上海市に居住したい外来者に再度夢を実現する可能 性を与えた。金額を下げたことは他都市の企業あるいは個人が上海市での 投資、あるいは住宅を購入することに有利になった。とは言うものの、1997 年、上海市の外来流動人口の中で、月収が 301-500 元の人は 35.20 %、501800 元の人は 32.7 %、1,000 元以上の人は 5.80 %に過ぎなかった。1998 年に おいて、たとえ全国で比較的平均収入の高い上海市の住民でさえ一人あた りの可処分所得は8,773元 / 年しかなく、上海市農村の住民の一人あたりの 可処分所得は 5,407 元 / 年であった 14。そのため、修正後の「暫定規定」は 住宅購入の金額を引き下げたとは言え、当時の外来者にとって、上海市で ― 230 ― 住宅を購入することは経済的に決して容易なことではなかった。表 2 で示 したように、2000 年に上海市で住宅を購入した外来者は全体の外来流動人 口の 4.48 %を占めるのみである。2000 年、上海市の外来流動人口は 387.11 万に達した。そのうち、経済活動に従事しているのは 284.28 万人で、総 外来流動人口の 73.4 %を占める。全体的には商業・飲食業といったサービ ス業の比率が上がり、建築関連業界の比率が大きく下がった。それに、外 来者の居住期間は明らかに延長し、居住時間が半年以上の人は約八割を占 める。外来流動人口の中で、20-34 歳の人は全体の六割以上になった。ま すます多くの外来者が家族単位で上海市に入るようになり、その比率は 77.5 %に達した 15。 (表 2)2000 年上海市における外来流動人口の居住タイプ 居住タイプ 外来流動人口(万人) 比率(%) 総計 387.11 100.00 私有家屋の賃貸 141.03 36.43 宿舍、飯場 77.46 20.01 公有家屋の賃貸 53.47 13.81 社宅の賃貸 37.70 9.74 友人の家に下宿 19.24 4.97 その他 17.53 4.53 購入住宅 17.36 4.48 仮家屋の賃貸 15.13 3.91 ホテル、旅館、宿泊施設 5.32 1.38 水上の船 1.90 0.49 医院 0.97 0.25 出所:上海市人口普査弁公室編『上海市 2000 年人口普査資料 外来流動人口普査 数据』(中国統計出版社、2002 年、p.157)より作成した。 一方、1999 年以降、大学に進学するというルートを使って上海市に入る 農民出身の学生以外、多くの中卒あるいは小卒の農村出身の若者が農業を 放棄し、次から次へと上海市に入り、第二次・第三次産業 16 に従事するよ ― 231 ― うになった。ハイエンドの人材を吸収するために、2000 年、当時の上海市 市長徐匡迪はこのように指摘している。 「人材の集まり、豊かな人材地の建 設の目標とは、上海市を人材価値が最も実現できる都市にし、優秀な若者 があこがれる都市にすることである。 (中略)上海市は形式に拘らなくて 人を使い、少しゆったりし、少し寛容でなければならない。 (我々は)さ まざまなことを受け入れる寛容な心で、国内外の優秀な若者を作り上げ、 上海市に引きつけ、上海市に創業できるように呼び寄せ、上海市のために サービスする雰囲気と環境を作らなければならない。 」当時の上海市委員 会書記黄菊も次のように指摘している。 「新しい上海人は世界に生活の場 を求めることができる人たちであり、世界人、中華人である。上海市は 元々移住都市で、人材が柔軟に活動できるという過程の中で、新しい移住 都市となり、一群の『新上海人』を形成しなければならない。(中略)上海 市は世界の最も優秀な人材を入れることができる雅量を持たなければなら ない。同時に、人材の自由自在な行き来を促す流水になるべきである 17。 」 この年の年末に、上海市は約 3 万人の「藍印戸籍」を許可し、卒業後国内 に残って働く大学院生の中で、14.05 %の人は上海市で働くことになった。 それは各省・市の中で最も高い数字であった。同年、上海市出身ではない が、高校卒業後上海市の大学へ進学する人は 6.7 万人に達した。 2002 年 3 月 25 日、上海市人民政府は藍印戸籍の申請休止に関する通知を 突然公表した。その理由としては、 「ここ 3 年間、藍印戸籍政策は上海市の 不動産市場および企業誘致、資金導入に積極的な作用を発揮したが、しか し上海市の経済と社会の発展に伴い、藍印戸籍の招致申請条件と申請人員 の数は上海市居住人口総量の要求に適応しなくなった 18。」一夜にして藍印 戸籍政策は取り消された。一部の外来者は上海市で家屋を買う決心をする のに遅かったと嘆き、運命が悪いと自身を責めていた。1994 年から実施さ れた「上海市藍印戸口管理暫行規定」は、1998 年の「修正規定」を経て、 2002 年 4 月 1 日に約 8 年間の実施期間の幕を下ろした。その間に約 4.2 万人 が上海市藍印戸籍を取得し、それらのうち、住宅購入者は 88 %、投資者は ― 232 ― 10 %、中・高級技術者は 2 %に過ぎない 19。言うまでもなく、藍印戸籍政策 は予期していた外来投資者と技術者の吸収効果を果たさなかった。世間を 更に驚かせたのは、一部の外来者が上海戸籍を得た後、上海市で購入した 家屋を高値で売却して、収益を得たことである 20。 現実では、上海市の外来流動人口はどのような教育と文化の水準になっ ているのか。彼らはどのような職業に従事し、またどのような状況に置か れているのか。次は、 「上海市外来流動人口管理政策」は外来流動人口に求 めている教育と文化の水準を分析しながら、 「上海市外来流動人口管理政 策」の妥当性を検討したい。 二 「上海市外来流動人口管理政策」と現実社会のジレンマ 1998 年 10 月 26 日に実施された改正後の「上海市藍印戸口管理暫行規定 (修改) 」は、1994 年 2 月 1 日に公表された「上海市藍印戸口管理暫行規定」 の中の第六条に規定された藍印戸籍を申請する外来者の教養の程度を、元 の「高卒以上」から「中級以上の専門職の職階を持つこと」に変えた。そ れに加え、当時、上海市外来流動人口政策の中でも特に出稼ぎ労働者の学 歴については特別な規定を設けなかった。2000年の上海市人口センサス資 料である『外来流動人口普査数据』 ( 『外来流動人口センサスデータ』)の統 計結果によると、当時上海市の外来流動人口の学歴はそれぞれ以下の通り であった。 「大学院卒 0.2 %、大卒 1.3 %、短大卒 2.2 %、高卒 8.7 %、専門 学校卒 2.5 %、中卒 55.2 %、小卒 24.6 %、識字班出身 0.5 %となっており、 学校教育を受けたことがない者は 4.8 %であった。」21 このデータから見る と、上海市全体の流動人口の中で、中卒者は半分以上を占め、短大卒以上 の学歴を有する者は 3.7 %に過ぎない。これに対して、この年、上海市戸 籍人口の教育水準はそれぞれ次の通りである。 「短大卒以上 11.36 %、高卒 23.89 %、中卒 38.20 %、小卒 19.65 %、識字班以下は 6.9 %であった。」22 また、上海市戸籍人口のうち、すでに成人教育を終えた人の教育水準は以 下の通りである。 「大卒 9.0 %、短大卒 43.7 %、高卒 25.9 %と専門学校卒 ― 233 ― 21.4 %である。 」そのため、全体的に見ると、外来流動人口の教育水準は上 海市の戸籍人口のレベルよりはるかに低いと言える。 2000年の外来流動人口の教育水準と上海市戸籍人口のそれとの格差から 見ると、上海市国家機関・企業・国家機関・社会団体、あるいは個人経営 者に雇用される外来流動人口に対して、学力に関する制約を設けないよう な改正は上海市の都市文化の需要から乖離しており、上海市の文明建設に もふさわしくない。このことはこの規定の不足点を反映している。 人材流動を促進し、国内外の人材が上海市で仕事し、あるいは創業する ことを奨励し、都市の綜合競争力を高めるために、2002 年 6 月 15 日、上海 市人民政府は「引進人才実行『上海市居住証』制度暫行規定」(「人材導入 のための『上海市居住証』制度施行に関する暫定規定」)を実施し始めた。 当規定が適用する対象は以下の通りである。 「学士以上の学歴、あるいは特 殊な才能を持つ国内外の人員であり、その戸籍あるいは国籍を変えないこ とを前提に、上海市で働く、あるいは創業する人員。」その際、「上海市居 住証」の有効期限は 1 年、3 年と 5 年に分けられた。 上海市外来流動人口の合法的な権益を保障し、上海市の人口管理を規範 づけ、人口の情報化建設を促進し、政府のサービス水準を高めるために、 上海市人民政府は 2004 年 10 月 1 日に「上海市居住証暫行規定」(「上海市居 住証施行に関する暫定規定」 )を実行し始めた。2005 年末まで、10.67 万名 の国内外の人材が上海市の居住証を獲得した。そのうち、外国籍の人材は 2,800 名で、国内の人材は 10.39 万名であった。上海市の居住証を獲得した 人材の中で、大卒以上は 73.3 %を占めており、大学院卒以上は 8.2 %を占 めている 23。2008 年上半期まで、上海市はすでに 556 万枚の居住証(「臨時 居住証」を含む)を発給した 24。 外来流動人口の文化資質をいかに高めて、上海市、外省市および外国国 籍の人材の才能をいかに有効的かつ最大限に発揮するかは、上海市が今後 発展するための一つの重要な課題であろう。 ― 234 ― 三 「上海市外来流動人口管理政策」が外来流動人口の受入地と送出 地にもたらした影響 1994-2002 年の間、投資あるいは住宅購入を通じて上海市藍印戸籍を獲 得した人は外国人あるいは比較的豊かな外省市の人であった。そのため、 彼らの中の多くの人は上海市の中心地で家屋を購入した。また、上海市に 残って働く高学歴者あるいは専門的な技能を持つ外来者の収入は比較的高 いため、彼らが上海市で家屋を購入するときには往々にして便利な場所を 選ぶ。一方、上海市の市民は都市建設、家屋の取り壊しで元の居住地を離 れざるを得ない。彼らは立ち退く際、多少の「補助金」を受け取るが、し かし上海市の家屋価格の上昇率に見合わない額であるため、 「補助金」で 元の場所に新居を購入することはできない。そのため、家屋の使用権を欲 しがる 25 上海人はやむなく郊外の住宅を購入するほかない。上海市の市民 は喪失感を抱きながら以下のように嘆く。 「今日、内環状線内(つまり市の 中心地) では英語が話され、中環状線と内環状線の間では標準語が話され、 外環状線内では上海語が話される 26。 」このように、上海市の市民の「周辺 化」現象が深刻になっていることが窺える。 2001 年 5 月、国務院は正式に「上海市都市の総体企画(1999-2020)」(「上 海市城市総体規劃 <1999-2020>」 )に対して、原則的に同意し、「上海市を 近代化された国際的大都市および国際経済、金融、貿易、水上運輸の中心 として建設する」 、という案を明確にした。この「企画」の全体的な目標の 中で上海市の人口配置に対しては次のように構想している。 「上海市にお ける 2020 年の総人口は約 2,000 万の規模で、都市空間の発展と重要なイン フラ建設を考慮する。 (中略)人口配置を合理化し、市街区の人口規模を 厳しく制御し、市街区の人口を近郊地区に移動させる速度を高め、農村人 口が新市街と中心の鎮に集中するように引きつける。市街区の常住人口は 2010 年までに 850 万人以内に抑え、2020 年には 800 万人以内に抑える。」 表 3 で示したように、 「企画」を実施して以来、上海市では、2008 年の市 街区の常住人口(652.97 万人)は 2000 年のとき(693.04 万人)より約 40 万 ― 235 ― 人減ったが、しかし、上海市 2008 年の常住人口はすでに 1888.46 万人に上 昇した。上海市の中心地である黄浦区、静安区と盧湾区の 2008 年の人口密 度は 2000 年の時より少し緩和されているが、居住期間が半年未満の外来流 動人口を除いても、郊外地区の外来流動人口は 166 万人以上に増加し、人 口密度は 1,950 人 /km2 から 2,539 人 /km2 に増えた。浦東新区の外来流動 人口は依然として全市一位で、松江区の外来流動人口は 30 万人増加し、閔 行区、嘉定区、南匯区もそれぞれ 20 万人増加した。表 4 で示したように、 2008 年の外来流動人口は 2007 年の時より緩和されたが、しかし居住期間が 半年以上の外来流動人口は依然として増え続けている。自らの意志で上海 市に居住する外来流動人口以外、三峡市民 27 の一部は政府の政策によって 上海市に転居したのであった 28。 (表 3)2000 年と 2008 年の上海市各区・県の土地面積、常住人口、外来流 動人口および人口密度 29 年 2008 2000 2008 地 区 土地面積 総人口 年末常住 (km2) (万人)30 人口 2000 2008 户籍人口 外来流動 居住時間が 人口密度 (万人)31 人口 半年以上の (人 /km2) (万人) 外来流動人 (万人) 2000 2008 口(万人) 全 市 32 市 街 地 6,340.50 1,640.77 1,888.46 1,391.04 387.11 517.45 2,588 2,978 普陀区 54.83 105.17 108.71 86.83 23.11 18.25 19,181 19,827 徐匯区 54.76 106.47 98.22 90.01 23.31 13.90 19,993 17,936 杨浦区 60.73 124.38 119.48 108.16 19.68 13.63 20,481 19,674 長寧区 38.30 70.22 66.83 61.37 16.27 11.57 18,334 17,449 閘北区 29.26 79.86 74.50 69.61 14.40 10.35 27,293 25,461 虹口区 23.48 86.07 78.11 79.35 14.38 9.41 36,657 33,267 黄浦区 34 12.41 57.45 53.89 60.74 9.43 9.15 46,293 43,425 盧湾区 8.05 32.89 27.45 31.01 4.85 4.16 40,857 34,099 静安区 7.62 30.53 25.78 31.00 4.64 3.46 40,066 33,832 289.44 693.04 652.97 618.08 130.07 93.88 29,906 27,219 33 総計 / 平均 35 ― 236 ― 近 郊 地 区 36 浦东新区 532.75 240.23 305.70 194.29 73.28 93.43 4,509 5,738 閔行区 370.75 121.73 180.47 91.50 48.10 74.06 3,283 4,868 松江区 605.64 64.12 107.42 55.04 19.05 51.74 1,059 1,774 嘉定区 464.20 75.31 103.42 54.36 25.40 45.97 1,622 2,228 宝山区 270.99 122.80 140.63 84.69 37.44 40.37 4,532 5,189 青浦区 670.14 59.59 78.98 45.83 16.82 32.92 889 1,179 南匯区 677.66 78.51 106.21 74.31 12.42 32.81 1,159 1,567 奉贤区 687.39 62.43 80.84 51.70 13.06 28.84 908 1,176 金山区 586.05 58.04 64.56 51.87 6.08 14.02 990 1,102 崇明県 1,185.49 64.98 67.26 69.34 5.40 9.41 548 567 総計 / 平均 6,051.06 947.74 1,235.49 772.93 257.05 423.57 1,950 2,539 出所:上海市統計局編『上海統計年鑑(2009)』(中国統計出版社、2009 年、p.35、 p.38)、『上海市 2000 年人口普査資料 外来流動人口普査数据』 (前掲、p.11)お よび上海市人口普査弁公室編『上海市 2000 年人口普査資料 全部人口普査数据』 (中国統計出版社、2002 年、p.3)より作成した。 (表 4)近年上海市の人口変遷 37 年 年末常住人口 戸籍人口 38 外来流動人口 居住時間が半 外来流動人口 居住時間が半 (万人) [A] (万人)[B] (万人)[C] 年以上の外来 の比率(%) 年以上の外来 流動人口 [C/A] 流動人口の比 (万人) 率(%) [A-B] [(A-B)/A] 2000 1,608.63 1,309.63 387.11 299.00 24.06 18.59 2006 1,815.08 1,347.82 627.01 467.26 34.54 25.74 2007 1,858.08 1,378.86 660.30 479.22 35.54 25.79 2008 1,888.46 1,371.04 642.27 517.42 33.06 27.40 出所: 『上海市 2000 年人口普査資料 外来流動人口普査数据』 (前掲、p.143 左図) および『上海統計年鑑(2008)、(2009)』(前掲)より作成した。 明らかに、現在の人口増加の勢いが続くと、2020 年上海市の総人口を 2000万に抑えることは不可能になる。短期間で急速に増加した外来流動人 口は、上海市の人口密度の急騰を招いた。これは環境を破壊する可能性を 高めるだけでなく、上海市民の生活にマイナスの影響を誘発し、上海市の ― 237 ― 社会的治安状況にも影響する。実際のところ、上海市民は上海市の社会の 治安と環境保護問題をますます憂慮し始めた 39。上海市の 2008 年の刑事案 件と治安案件は、2007 年より減ったとは言え、依然として、それぞれは 134,116 件と 523,601 件がある 40。うち、外来流動人口の犯罪率は犯罪総数 の 70-80 %になっている 41。また、2008 年の「主要城市道路交通噪声監測情 況」 ( 「主要な都市道路の交通騒音に関する監視測定情況」)によると、上海 市は全国的に下から二番目である 42。林業用地面積と森林面積が元々全国 で一番少ない 43 上海市は、現時点では、過剰な外来流動人口に耐える基盤 を備えていない。 表 5 で示したように、2008 年、上海市における都市の 1 人当たりの可処 分所得も、また農民の純収入も全国のどの都市よりも高い。全国の農民の 純収入は都市居住者の 1 人当たりの収入の三分の一にも満たない。農民が 都市に入って仕事を探し、生活を改善しようとする意欲を持つことは周知 の事実である。同時に、上海市の人口密度は全国のどの都市よりも高く、 その密度は第二位の天津市の約 3 倍で、全国平均人口密度の 21 倍以上であ る。人口の過密化は上海市の環境衛生に大きく影響している。それに加え て「万博」を迎えるため、近年の上海市はまるで「巨大な工事現場」のよ うに、街全体が建物を取り壊し、再建するという状態に陥った。 (表 5)2008 年中国の各省・市の人口密度および経済状況 44 地区 人口密度 都市人の 年末の 農民の 比率(%) 面積 総人口 (万 km2)(人 /km2) 可処分所 純收入 [A] [B] / 得(年 / 元)(年 / 元) (万人) [A] [B] 全国 132,802 960 138 15,781 4,761 30.17 上海 1,888 0.63 2,997 26,675 11,385 42.68 天津 1,176 1.13 1,041 19,423 7,911 40.73 北京 1,695 1.68 1,009 24,725 10,662 43.12 江蘇 7,677 10.26 748 18,680 7,357 39.38 山東 9,417 15.67 601 16,305 5,641 34.60 ― 238 ― 河南 9,429 16.7 565 13,231 4,454 33.66 広東 9,544 17.79 536 19,733 6,400 32.43 浙江 5,120 10.18 503 22,727 9,258 40.74 安徽 6,135 13.96 439 12,990 4,202 32.35 河北 6,989 18.77 372 13,441 4,796 35.68 重慶 2,839 8.24 345 14,368 4,126 28.72 湖北 5,711 18.59 307 13,153 4,656 35.40 湖南 6,380 21.18 301 13,821 4,513 32.65 遼寧 4,315 14.59 296 14,393 5,577 38.75 福建 3,604 12.14 297 17,962 6,196 34.50 江西 4,400 16.69 264 12,866 4,697 36.51 海南 854 3.39 252 12,608 4,390 34.82 山西 3,411 15.63 218 13,119 4,097 31.23 貴州 3,793 17.6 216 11,759 2,797 23.79 广西 4,816 23.6 204 14,146 3,690 26.09 陝西 3,762 20.56 183 12,858 3,137 24.40 四川 8,138 48.76 167 12,633 4,121 32.62 吉林 2,734 18.74 146 12,830 4,933 38.45 寧夏 618 5.18 119 12,932 3,681 28.46 云南 4,543 39.4 115 13,250 3,103 23.42 黑龍江 3,825 45.45 84 11,581 4,856 41.93 甘粛 2,628 45.4 58 10,969 2,724 24.83 内蒙古 2,414 118.3 20 14,433 4,656 32.26 新疆 2,131 165 13 11,432 3,503 30.64 青海 554 72.12 8 11,640 3,061 26.30 西藏 287 122.84 2 12,482 3,176 25.44 出所:21 世紀中国総研編『中国情報バンドブック(2009 年版) 』 (蒼蒼社、2009 年、p.362-365)より作成した。 中国は 1999 年に大学生の募集を拡大して以来、大学生は絶えず増加し、 2009 年に卒業した大学生は 610 万人に達して、15-17 %は農村出身である。 農村出身の学生にとって、都市の大学へ進学することは都市に入る最もよ い方法である。これは彼らだけの夢ではなく、一家全員が貧困から脱却す ― 239 ― る一つの手段であった。しかし、中国の大学生は短期間で急増したものの、 就職先の確保が追いついていない。そのため、 「大学の卒業は失業の始ま り」と言われ、 「大学の卒業生は低収入グループに入る」という状況になっ ている。統計によると、北京市の 10 万人の「蟻族」45 のほか、上海市、天 津市、広州市、武漢市などの大中都市にも多くの「蟻族」が存在し、全国 では 100 万人以上の「蟻族」が存在している。 「蟻族」、「農民」、「農民工」 および「リストラ者」は、中国社会の「四大弱者層」に分類された 46。長 年累積した大学生を含めて、目下中国では 860 万の大学卒業生が就職活動 をしている。 言うまでもなく、 「蟻族」は中国の社会経済改革に伴う社会構造問題の 産物である。しかし、多くの「蟻族」は都市住民の就職に大きな圧力を与 えた。一部の外来者は上海市での所得は上海市民より少ない。しかし、彼 らは大都市での居住を望むため、そうした悪条件でも構わずに働く。彼ら のこのような観念は上海市民を非常に困惑させている。上海市における多 くの「80 後」 ・ 「90 後」世代 47 の若者は、少ない給料で会社勤めをするより も、むしろ「ニート」になるほうがましと考えるようになった。会社経営 者から見れば、上海人を雇おうが、外来者を招聘しようが業務上はあまり 大きな差がない。そのため、彼らは従業員の雇用コストを抑えるため、外 来者を積極的に雇用する。これも近年上海市の失業率が上昇している一つ の原因であろう。同時に、国家のヒューマンリソースの浪費とも言えよう。 一方では、上海戸籍の大学生の就職難問題がある。他方では、上海市人 民政府が海外、ないしは上海を除く全国から更に多くの人材を吸収する。 2006 年 1 月 1 日、上海市で「鼓励留学人員来上海工作和創業的若干規定」 (「留学生が上海に来て労働あるいは創業することを奨励するための若干の 規定」 )が実施された 48。また、2009 年 2 月 12 日、上海市人民政府は「持有 『上海市居住証』人員申辦本市常住戸口試行辦法」(「『上海市居住証』所持 者の当市常住戸籍申請に関する試行弁法」 )を実施し始めた。この弁法に よると、「居住証を戸籍に変更」するため、次の五つの条件を満たさなけ ― 240 ― ればならない。(一)上海市居住証を所持して満 7 年が経過していること。 (二)上海市都市・鎮社会保険に加入してから満 7 年を経過していること。 (三)居住証所持期間中に、法に基づき上海市で所得税を納付しているこ と。 (四) 上海市で中級以上の専門技術者として働いているか、あるいは技 師(国家二級以上の職業資格証明を所持する)以上の職業資格を有し、か つ上海市が必要とする専門および職種である。 (五)法的犯罪およびその他 の不良行為を記録されていない者。なお、この新政策は初めて試行期間が 明確にされ、その期限は 3 年である。このような公布方法は初めての試み であり、都市の安定した発展を促進させる作用を持っている、と考えられ る。 「持有『上海市居住証』人員申辦本市常住戸口試行辦法」はすでに実施さ れが、しかし目下多くの外来流動人口は上海市の戸籍を依然得られていな い。そのため、一部の外来流動人口は次世代の教育が保障できないため、 子供を産む勇気がない 49、と言う。このような状況も今後中国の国際競争 力に影響する可能性がある。外来流動人口はほとんど 21-39 歳の間に集中 しているため 50、彼らの故郷は彼らが出稼ぎに出ることで労働力が不足し、 このことは彼等の郷里の発展にとってマイナスである。 おわりに 以上論じたこととその他さまざまな状況を考えて、以下の問題点を指摘 したい。 第一に、現在、中国の国勢調査は 10 年ごとに行われている。そのため、 上海市における近年の外来流動人口の全体的な文化資質および上海市での 居住期間などについて詳しいことを知るには、去年行われた第六回目の全 国国勢調査の結果を待つしかない 51。2005年に上海市1%人口サンプリング 調査が行われたとは言え、資料公開は 2 年後の 2007 年になった 52。同じく、 国勢調査の結果公開も2年の年月が掛かっている。10年に一度の国勢調査、 それに集計から結果公開まで 2 年間の年月は、上海市のような発展速度が ― 241 ― 速い都市には適切ではない。統計資料が迅速に公開されないために、法律 に速やかに反映されず、 「暫行規定」 、 「試行弁法」という名付け方が多く なっていると思われる。 「暫行規定」 、 「試行弁法」といった法律条文のタ イトルは人に不安感を与える。字面からでもこれらの法律条文はいつでも 変更される可能性がある、と推測される。情況が許す限り、中国は大都市 をより頻繁に調査し、調査結果をより素早く公開すべきである。そうして はじめて政府部門が人民生活に合致した法律を作れるようになる。これは 都市建設に役立つだけではなく、農村の発展および中国全体の社会繁栄に とっても重要なことである。 第二に、外来流動人口の教育水準を重視しないで、投資額と分譲住宅の 購入額で上海市の「藍印戸籍」の申請可否を決めるような「上海市外来流 動人口管理政策」は、上海市の文明度に大きなダメージを与えた、と言わ ざるを得ない。また、1993 年から 2008 年まで、上海市の戸籍人口の自然 成長率はすべてマイナス成長であり 53、それに加えて近年高齢化現象も加 速した。2008 年、上海市 1391.04 万の戸籍人口の中で、60-64 歳は 86.07 万 人、65-79 歳は 161.06 万人、80 歳以上は 53.44 万人である 54。つまり、近 年の上海市は約六人に一人が 65 歳以上の高齢者である。一部の学者は、上 海市が 2020 年に「高齢社会」に突入し、2025 年以降は「超高齢社会」に突 入すると懸念している 55。高齢化に対する対策がなお当市局によって検討 され、定まっていない。 「藍印戸籍」制度はその典型的な例として挙げる ことができる。同時に、 「藍印戸籍」制度は、上海市の住宅価格を高騰さ せた一つの要因であると言っても過言ではない 56。 第三に、ほんとんどの農村出身の大学生は卒業後都市に残って就職し、 出世・創業の機会を探ることを望んでいる。しかし、農村出身の大学生が 卒業後、自分の故郷に戻り、郷里の建設に貢献することのできる条件を、 国と社会が保障すべきである。そうすることによって、上海市外来流動人 口の無制限な増加を制止することができるだけではなく、その上、上海市 民の失業率が緩和されて、都市と農村の発展速度も均衡を保ち、都市と農 ― 242 ― 村の経済格差を縮小することができる。都市空間の発展とインフラ建設を 有効に調整しなければ、市場配置と人民の本当の需要は乖離する結果にな る。 2006 年 12 月 26 日、1,000 万人の情報を保存できる「上海市居住証情報シ ステム」が正式に発足し、居住証制度は上海市で全面的にスタートした 57。 しかし、現時点で上海市はそれだけの外来流動人口を受け入れるハードウ エアとソフトウェアが備わっているとは言い難い。 「2007 年、ロンドンの金融専門家グループが発表した世界の金融都市番付では、 1 一位ロンドン、二位ニューヨーク、香港が三位、シンガポールが四位―東京は 第十です。前年の九位から一つ下がりました。これから、三十位の上海が追いか けてくる」、と2005年に日本の総務大臣を務めた竹中平藏が分析している。 (竹中 平藏、幸田真音『ニッポン経済の < ここ > が危ない!』文芸春秋、2008 年、p.9。 ) 拙稿「人口移動による上海方言の弱化現象に関する一考察」 『愛知大学国際問 2 題研究所紀要』第 136 号、2010 年 11 月、p.95-118 に詳しい。 若林敬子『中国の人口問題と社会的現実』ミネルヴァ書房、2005 年、p.287-322。 3 神山育美「社会主義市場経済体制下における社会流動の制度的障壁:上海市の戸 籍制度改革を事例に」『一橋論叢』第 135 巻第 2 号、2006 年 2 月号、p.200-216。厳 善平「増大する流動人口と都市の『繁栄』 :上海市を対象に」 『中国―社会と文 化』2008 年第 3 号、2008 年 7 月、p.1-10。 上海市は 1930 年 7 月 1 日に成立されたため、小論ではこれより前の時期を「上 4 海」と称す。以下同。 鄒依仁『上海人口変遷的研究』上海人民出版社、1980 年、p.91。 5 筆者は 2010 年 9 月 9、10 日に、上海市に在住している 5 組の 70 歳以上の上海市 6 戸籍の夫婦にインタビュー調査を行った。うち、2 名(男性 1 名、女性 1 名)は生 まれつきの上海人で、4 名(男性 2 名、女性 2 名)の人は江蘇省の出身で、1930 年 代に上海に移住し、4 名(男性 2 名、女性 2 名)の人は浙江省の出身で、1940 年代 に上海に移住した。4名の男性は紡織関係の商売で上海に移住し、4名の女性は配 偶者として上海に移住した。彼らは上海に入った当初は大変苦労したが、しかし 8 名共に「早めに上海に移住したため、先見の明があった」 、と歓談した。なお、 ― 243 ― インタビュー調査は、2008-2010 年度愛知大学国際問題研究所共同研究プロジェ クトの助成によって実施された。記して感謝の意を表す。 熊月之、周武主編『上海:一座現代化都市的編年史』上海書店出版社、2007 年、 7 p.530、p.532、p.534。 「藍印戸口」とは、常住戸籍と暫定戸籍の間に設けられて、臨時に許可する戸籍 8 のことである。小論では、「藍印戸口」を「藍印戸籍」に和訳する。 1953 年 10 月、中国の中央政府が「食糧の計画買い上げと計画供給に関する決 9 議」(「関於実行糧食計劃収購与計劃供応的訣議」)を公布した:虞注。 『 財富人生』と『財富人生Ⅱ』(『財富人生』節目組編、上海教育出版社、2003 10 年)の中で紹介されている多くの企業家は農民出身で、彼らは裸一貫で身代を築 き上げた。 筆者は 2010 年 9 月 11 日に、上海市に生まれ育った 50 代、60 代の 10 名(うち、 11 男性 5 名 < 共に 60 代 >、女性 5 名 <60 代 3 名、50 代 2 名 >)の上海市民にインタ ビュー調査を行った。彼らは自身が上海市民であることをうれしげに語り、 「上 山下郷運動」の苦しさも話した。「農村より都市が住みやすいため、やはり都市が いい」、と全員一致した。なお、彼らが言及している「上山下郷運動」とは、中 国で、1968 年以降、毛沢東の提唱によって、都市の青年を地方での労働につかせ たことである。 「 人材の地方化」とは、上海戸籍を所持している者のみを採用しようとする傾 12 向を指す。 上海公安年鑑編輯部『上海公安年鑑(1994)』中国人民公安大学出版社、1994 13 年、p.392。 上海市統計局編『上海統計年鑑(2009)』中国統計出版社、2009 年、p.156、 14 p.164。 上海市人口普査弁公室編『上海市 2000 年人口普査資料 10 %抽様調査数据』中 15 国統計出版社、2002 年、p.57 左図。 中華人民共和国国家統計局の区分によると、 「第一次産業」とは、農業、林業、 16 牧畜業、水産業を指す。「第二次産業」とは、採掘業、製造業、電力、ガスおよ び水の生産と供給業、建築業を指す。「第三次産業」とは、第一次・第二次産業 を除く産業を指す。(中華人民共和国国家統計局編『中国統計年鑑』中国統計出 版社、2009 年、p.79。) 熊月之『上海人的過去、現在与未来』(上海証大研究所『上海人』学林出版社、 17 2002 年、p.72。) ― 244 ― 中国上海網 18 http://www.shanghai.gov.cn/shanghai/node2314/node3124/node3199/ node3201/userobject6ai1094.html(2010 年 5 月 18 日最終確認) 。 彭希哲、郭秀云、趙德余「戸籍制度与上海人口管理改革思路探討」 (盧漢龍主 19 編『上海社会発展報告 <2009>:深化社会体制改革』社会科学文献出版社、2009 年、p.69。) 上海市地方志弁公室、当代上海研究所編『上海改革开放 30 年図志―総合巻』 20 上海人民出版社、2008 年、p.272。 上海市人口普査弁公室編『上海市 2000 年人口普査資料 外来流動人口普査数据』 21 中国統計出版社、2002 年、p.253 左図を参照した。 初出は上海市人口普査弁公室編『上海市第五次人口普査数据手册』中国統計出 22 版社、2001 年。底本は李友梅主編『上海社会結構変遷十五年』上海大学出版社、 2008 年、p.15。 初出は『2005 年上海市国民経済和社会発展統計公報』 。底本は『上海社会結構 23 変遷十五年』前掲、p.16。 「 戸籍制度与上海人口管理改革思路探討」(『上海社会発展報告 <2009>:深化社 24 会体制改革』前掲、p.88。) 中国の法律によると、土地は国のものである。そのため、市民が家を買って 25 も、土地の所有権ではなく、土地の使用権しか有しない。 筆者が 2009 年 5 月 1 日、9 月 5、6 日、2010 年 2 月 19 日、2010 年 9-12 日に、上海 26 市で行ったインダビュー調査の結果による。 「 三峡」とは、中国長江中流域の三峡(重慶市から湖北省宜昌市)一帯に建設 27 中の大型重力式コンクリートダム工事を指す。1993年に着工し、2009年に完成さ れた。洪水抑制・電力供給・水運改善を主目的としている。小論では、これらの 地区に住んでいた住民のことを「三峡市民」と称す。 2000 年 8 月 17 日に第一陣の三峡市民が崇明県に移住して以来、2002 年末まで、 28 上海市は合わせて 1,305 戸、5,509 人の三峡市民を上海市の 7 つの区・県と 69 個 の郷と鎮に安置した。うち、崇明県は 277 戸、1,211 人、金山区は 193 戸、817 人、 南匯区は 194 戸、811 人、奉賢区は 193 戸、808 人、青浦区は 162 戸、689 人、松江 区は 165 戸、686 人、嘉定区は 121 戸、487 人であった。その他の 1,900 あまりの 人(1.45 人 / 戸)は非農職場に推薦された。2003 年、国務院は新たに 2.5 万人の 移転任務を全国の11個の省市に下達した。上海市も重慶市万州区からの2,000名 の移民を受け入れた。そして、2004 年 9 月までに、移転任務を完了した。 ( 『上海 ― 245 ― 統計年鑑 <2005>』前掲。) 中国政府は 2000 年の時、上海市における外来流動人口を区・県に分けて居住 29 時間を詳細に統計するという作業をしなかった。そのため、本表の中には2000年 時の「総人口」と「外来流動人口」のみ表記する。これらのデータに基づいて、 2000 年の上海市各区・県の人口密度を算出した。 調査月が違うため、本表の中の 2000 年の総人口数(1640.77 万人)と表 7 の中 30 の 2000 年末の常住人口数(1608.63 万人)に誤差がある。なお、この程度の誤差 は各区の 2000 年から 2008 年への人口変化の分析にそれほど大きな影響を与えな い、と考えられる。 2008 年の戸籍人口 1391.04 万人と、市街区の戸籍人口(618.08 万人)と近郊地 31 区の戸籍人口(772.93 万人)の総数である 1391.01 万人には、若干の誤差がある。 市街区は 2008 年の外来流動人口の多い方順に配列している。 32 このような上海市における市街地と近郊地区の区分方式は、2001 年から実行 33 された。2000 年の市街地と近郊地区の人口は 1640.78 万人である。このデータは 2000 年全市総人口数(1640.77 万人)と一致していない。2000 年の市街地と近郊 地区の外来流動人口は 387.12 万人である。このデータも 2000 年の外来流動人口 (387.11 万人)と一致していない。 2000 年、南市街区(老西門街道、半淞園路街道、董家渡街道、小東門街道と豫 34 园街道を含む)は黄浦区に合併された。 人口密度は平均値であり、その他のデータは総計である。 35 現南匯区と奉賢区は 2000 年のときにはまだ南匯県と奉賢県であった。 36 『 上海統計年鑑(2009)』(前掲)の「表 3.1 主要年份常住人口」 、 「表 3.3 主 37 要年份外来流動人口」、「表 3.4 戸数、人口、人口密度と平均期望寿命(19782008)」と「表 3.5 各区・県土地面積、常住人口および人口密度(2008) 」の中の データが一致されていないため、すべてのデータに誤差がある。 本表の戸籍人口は上海市から離れて、あるいは市外へ半年以上外出している上 38 海市の戸籍人口を含まない。 2005 年に行われた「上海市第五回大衆安全性サンプリング調査」の結果による 39 と、上海市民が最も関心を持つことは以下の通りである。 「就業と失業 (23.8 %) 、 社会のモラル(18.8 %)、社会の治安(13.7 %)、給料・待遇(12.8 %) 、住宅 (8.3 %)、環境保護(7.1 %)、腐敗(7.0 %)、教育(4.9 %) 、土地収用(3.5 %) 、 その他(0.1 %)。」2 年前のデータと比べると、上海市民の間では治安と環境保護 問題への関心が高まった。(樊佳佳『目前市民最関心的社会熱点問題分析』上海 ― 246 ― 統計局、2006 年 3 月 27 日。上海統計網 http://www.stats-sh.gov.cn/2005shtj/tjfx/ jdxx/userobject1ai1486.html <2010 年 5 月 18 日最終確認 >。 ) 『 中国統計年鑑(2009)』前掲、p.470。 40 張煒、林慧、周翔、銭文漪「上海市流動人口中的未成年人犯罪問題調査」 (全 41 刊雑誌賞析網 http://qkzz.net/article/3dd82824-f86e-4563-9812-8ed120ae3edc.htm <2010 年 5 月 18 日最終確認 >)。 『 中国統計年鑑(2009)』前掲、p.413。 42 『 中国統計年鑑(2009)』前掲、p.416。 43 本表は人口密度の多い方から順に排列している。 44 「 蟻族」という言葉は、北京大学の「中国と世界研究センター」の博士研究員 45 廉思を中心とした調査団が 1 年半の調査を経て編集・出版した『蟻族―大学卒 業生聚居村実録』(『蟻族―大学卒業生集団生活村の実録』陝西師範大学出版 社、2009 年)という本から生まれた。ほとんどの「蟻族」は農村出身で、大学の 高等教育を受けたが、しかし臨時の職業にしか従事できず、失業あるいは半失業 状態に陥っている。彼らの平均月収は 2,000 元未満で、大中都市と農村を接合す る地区にある賃料が安く狭小で、衛生状態の悪い賃貸住宅に住んでいる。年齢は 22-29 歳に集中し、「一人っ子政策」が施行されて以降の最初の世代である。 『 蟻族―大学卒業生聚居村実録』前掲。 46 1980 年と 1990 年以降に生まれた人を指す。 47 「 上海市鼓励出国留学人員来上海工作的若干規定」(沪府発 [1992] 23 号)と「上 48 海市引進海外高層次留学人員若干規定」(沪府発[1997] 14 号)は同時に廃止され た。 筆者が 2009 年 5 月 1 日、9 月 5、6 日、2010 年 2 月 19 日、2010 年 9-12 日に、上海 49 市で行ったインダビュー調査の結果による。 上海市人口普査弁公室編『外来流動人口普査数据』各年、中国統計出版社。 50 1949 年新中国成立後、1953 年、1964 年、1982 年、1990 年と 2000 年に五回の全 51 国人口センサスを実施した。2000年、387.11万の外来流動人口が上海市での居住 時間は以下の通りである。15 年以上 1.4 %、10-14 年 3.8 %、5-9 年 12.9 %、1-4 年 37.5 %、6-11 个月 21.9 %、1-5 个月 13.7 %、1 个月以下 8.8 %。 ( 『上海市 2000 年人 口普査資料 外来流動人口普査数据』前掲、p.143 左図。 ) 上海市 1 %人口抽様調査領導小組弁公室、上海市統計局人口与就業統計処編 52 『2005 年上海市 1 %人抽様調査資料』中国統計出版社、2007 年。 1993-2008 年、上海市戸籍人口の自然増長率はそれぞれ-0.80 ‰、-1.40 ‰、 53 ― 247 ― -2.06 ‰、-2.29 ‰、-2.41 ‰、-3.03 ‰、-2.27 ‰、-1.90 ‰、-2.71 ‰、 -2.61 ‰、-3.24 ‰、-1.16 ‰、-1.46 ‰、-1.24 ‰、-0.10 ‰と-0.75 ‰と なっている。(『上海統計年鑑 <2009>』前掲、p.36。) 『 上海統計年鑑(2009)』前掲、p.39。 54 王桂新、殷永元『上海人口与可持続発展研究』上海財経大学出版社、2000 年、 55 p.188。一般的に言うと、65 歳以上の高齢人口が総人口の 25 %以上占める社会 は「高齢社会」と称し、この比率が 30 %以上になると、 「超高齢社会」と呼んで 差し支えない。(大渊寛『少子化時代の日本経済』日本放送出版協会、1997 年、 p.167。) 2002 年 4 月 8 日、 『人民日報』第 3 面に発表された「停辦藍印戸口 難抑申城楼 56 市上揚」( 「藍印戸籍を中止しても上海市の不動産市場を抑制することはできな い」)と題するが述べているように、藍印戸籍が中止されても上海市の住宅価格 の上昇を抑えることはできなかった。このことについては別稿で論ずる。 『 上海改革開放 30 年図志―総合巻』前掲、p.289。 57 ― 248 ― Unité syntaxique du français et unité morphologique du japonais dans le syntagme appelé prépositionnel Yuki TAKEI 1. Introduction Les aspects morphologiques et sémantiques participent grandement à une analyse de la structure des langues. Les particularités syntaxiques, morphologiques, et sémantiques sont donc liées étroitement les unes aux autres, ou plutôt se soutiennent entre elles, non seulement à l’intérieur des langues mais aussi dans leurs apparences. Quelle que soit la théorie méthodologique retenue ou pratiquée, il est nécessaire d’accepter la vérité linguistique. La méthode d’analyse syntaxique appelée Analyse en Constituants Immédiats (en abrégé analyse en C.I.) par les linguistes structuralistes américains s’est trouvée devancée par l’apparition de la Grammaire générative. Toutefois, Touratier a réexaminé l’Analyse en C.I. en y ajoutant le point de vue phonologique, sémantique, et notamment morphologique. Il démontre qu’“en réalité, l’analyse en C.I. n’est qu’une simple méthode qui permet d’analyser fonctionnellement les phrases, en tenant compte du contexte syntagmatique des unités qui les constituent et de l’appartenance de ces dernières à des paradigmes fonctionnels, c’est-à-dire à des classes de fonctionnement syntaxique” (Touratier, 2005, p.5). Il propose ainsi une ― 249 ― méthode empirique d’analyse syntaxique en se fondant sur le fonctionnement des unités linguistiques. Ce travail1 a pour but de présenter la méthode de Touratier en prenant le français pour exemple, et de l’appliquer au japonais afin d’examiner la pertinence de ses arguments. Il a permis d’attester la cohérence de sa méthode d’analyse syntaxique, et de faire apparaître quelques particularités linguistiques en français et en japonais surtout dans le syntagme dit prépositionnel ou adverbial. 2. Définitions méthodologiques 2.1. Notions fondamentales de l’analyse en Constituants Immédiats (C.I.) Il est notoire que Bloomfield a énoncé la terminologie des constituants immédiats. D’après Touratier, l’analyse en C.I. est “une analyse syntaxique qui organise(nt) et hiérarchise(nt) les uns par rapport aux autres tous les morphèmes qui constituent une phrase, en précisant comment ces morphèmes se combinent entre eux, comment ces combinaisons de morphèmes se combinent à leur tour en combinaisons plus vastes, et comment ces combinaisons plus vastes forment des combinaisons de plus en plus vastes jusqu’à se réunir dans la combinaison ultime et la plus grande, la phrase, qui est donc vraiment conçue comme un tout organisé et hiérarchisé” (ibid., p. 27-28). Pour préciser chaque combinatoire morphématique et chaque unité syntaxique qui forment la phrase, il y a trois notions fondamentales à présenter : la construction, le constituant et le constituant immédiat. Par exemple, la phrase de Touratier Ce tout petit garçon aimait les gâteaux à la crème est décomposable en douze morphèmes ; Ce / tout / petit / garçon / aim- / -ait / l- / -es / gâteaux / à / la / crème /, ― 250 ― « les deux morphèmes tout et petit ou la et crème forment une construction, à savoir tout petit, qui est l’épithète du nom garçon, ou la crème, qui est le complément du nom gâteaux. De même, les quatre morphèmes Ce, tout, petit et garçon ou les six morphèmes l-, -es, gâteaux, à, la et crème forment une construction, qui la première, est le sujet du verbe aimait, et, la seconde, le complément d’objet du même verbe aimait. » (Touratier, 2005, p. 28) La première notion, la construction, est donc “un groupe de morphèmes qui, à un niveau quelconque, forme une unité syntaxique en se combinant entre eux” (ibid., p. 28). La deuxième notion, le constituant, se définit comme “tout morphème ou toute construction qui fait partie d’une construction (plus grande)” (ibid., p. 28). Dans la phrase précédente, « les constituants de la construction l-es gâteaux à la crème sont d’une part tous les morphèmes qui se trouvent dans cette construction, à savoir l-, -es, gâteaux, à, la et crème, ainsi que la construction la crème, […], la construction un peu plus grande à la crème, […], la construction encore plus grande gâteaux à la crème, et enfin la construction l-es. Cette construction a donc dix constituants. La construction aim-ait l-es gâteaux à la crème aura les mêmes constituants, plus les deux morphèmes aim- et -ait, et plus la construction aim-ait. Elle a donc 10 + 3, soit treize constituants. » (Touratier, 2005, p. 28) La troisième notion, les constituants immédiats, est, d’après Gleason, “un des deux (ou plus de deux) constituants qui forment directement une construction” (Gleason, 1969, p. 109), autrement dit, “les plus grands de ces constituants qui forment cette construction rien qu’en se combinant entre ― 251 ― eux, ou les plus grands de ces constituants qu’il suffit de combiner pour obtenir ladite construction” (Touratier, 2005, p. 29). En reprenant la phrase citée précédemment, Touratier précise la notion de constituants immédiats : « […] la construction l-es gâteaux à la crème […] s’obtient en combinant la construction l-es, qui est un des constituants de ladite construction, avec la construction gâteaux à la crème, qui est aussi un des constituants de ladite construction. On dira donc que les deux constructions l-es et gâteaux à la crème sont les deux constituants immédiats de la construction l-es gâteaux à la crème. On peut dire, dans ces conditions, que faire l’analyse syntaxique d’une phrase donnée comme Ce tout petit garçon aimait les gâteaux à la crème consiste à chercher les deux C.I. de cette phrase, en l’occurrence Ce tout petit garçon et aimait les gâteaux à la crème, puis, à considérer chacun de ces deux C.I. comme des constructions dont on va aussi chercher les C.I., en l’occurrence pour la première construction les deux C.I. Ce et tout petit garçon, et pour la seconde les deux C.I. aimait et les gâteaux à la crème, et à recommencer l’opération jusqu’à ce que tous les C.I. obtenus soient indécomposables, c’est-à-dire ne correspondent pas à une construction, mais à un morphème. » (Touratier, 2005, p. 29) En dehors de ces trois concepts opératoires, il ne faut pas oublier deux autres notions très importantes pour la description et la théorie syntaxique. Il s’agit de la construction endocentrique et de la construction exocentrique, notions définies également par Bloomfield. Du point de vue du fonctionnement linguistique, Bloomfield précise ainsi ces deux sortes de relations syntaxiques ; « Chaque construction syntaxique nous présente deux formes libres (et quelquefois plus) combinées en un syntagme, que l’on peut appeler ― 252 ― syntagme résultant. Le syntagme résultant peut appartenir à une classe formelle autre que celle d’un constituant quelconque. Par exemple, John ran n’est pas une expression nominale (comme John) ni une expression verbale conjuguée (comme ran). C’est pourquoi nous disons que la construction anglaise acteur-action est exocentrique : le syntagme résultant appartient à la classe formelle de constituant non-immédiat. Par ailleurs le syntagme résultant peut appartenir à la même classe formelle que l’un (ou davantage) de ses constituants. Par exemple, poor John est une expression de nom propre, de même que le constituant John ; les formes John et poor John ont, dans l’ensemble, les mêmes fonctions. Par conséquent, nous dirons que la construction anglaise qualité-substance (comme dans poor John, fresh milk, etc.) est une construction endocentrique. » (Bloomfield, 1970, p. 183) Les constructions exocentriques sont “des constructions qui ne peuvent pas commuter avec un de leurs constituants immédiats” tandis que les constructions endocentriques sont “des constructions qui commutent avec un de leurs constituants immédiats” (Touratier, 2005, p. 30). 2.2. La commutation Au-delà des notions fondamentales pour l’analyse en C.I. précédemment définies, il convient d’énoncer un critère qui permette de trouver la bonne analyse en C.I. d’une phrase donnée et de prouver que l’analyse est pertinente. En effet, “que l’on segmente les constructions ou que l’on regroupe les constituants, le critère décisif de l’opération est […] la commutation” (ibid., p. 31). Afin de mieux comprendre les explications de Touratier sur ce principe de la commutation, il est pertinent de présenter ici ses commentaires d’une phrase formée des onze morphèmes suivants : Le vieil homme qui habite ici all-a à la mairie ― 253 ― « on réunira probablement sans hésitation l’épithète vieil et le nom homme, qu’elle qualifie, comme le disent les grammaires scolaires, le verbe habite et son complément de lieu ici, le radical verbal all- et son morphème de passé simple -a, l’article la et le nom mairie sur lequel il porte. » (ibid., p. 37) et il poursuit : « Il est possible de justifier et d’objectiver l’intuition qui regroupe ainsi des morphèmes par paires et les considère donc comme les constituants d’une construction, en remplaçant tous ces groupes de morphèmes par un seul morphème, qui, bien que de signification différente, semble avoir le même rôle syntaxique que les morphèmes regroupés et entretenir avec le reste de l’énoncé les mêmes rapports qu’eux : Le vieil homme qui habite chasseur ici radote all- a à la court mairie Aix Les commutations que représente le tableau précédent nous donnent une nouvelle phrase : Le chasseur qui radote court à Aix qui ne contenant plus que sept morphèmes, semble néanmoins avoir la même structure que celle dont nous sommes partis, c’est-à-dire a l’air de s’organiser syntaxiquement comme elle : chasseur est en effet le sujet du verbe court, comme homme l’était de alla, radote est le verbe intransitif de la subordonnée relative, comme l’était le verbe transitif habite, court est le verbe principal comme l’était alla, et Aix est son complément de lieu, comme mairie l’était de alla. » (ibid., p. 37-38) Cette opération de regroupement doit être répétée sur les morphèmes de la nouvelle phrase “jusqu’à ce qu’on n’ait plus rien à regrouper, c’est-à-dire ― 254 ― jusqu’à ce qu’on soit arrivé à la construction maximale dernière qu’est la phrase elle-même”, et dans cet exemple, “on arrive ainsi finalement à deux constructions, qui ne peuvent être que les deux constituants immédiats de la phrase” (ibid., p. 38) comme le montre le tableau suivant : Le vieil homme qui habite chasseur radote essoufflé coureur ici all- a à la court mairie Aix là-bas boite Paul Ce tableau de commutations permet d’avoir l’analyse en C.I. de la phrase à étudier. Touratier détermine que la phrase du haut a en réalité “deux constituants immédiats, étant formée par la combinaison du paradigme qui a pour modèle le nom propre Paul avec le paradigme qui a pour modèle le verbe intransitif boite, paradigmes qui sont effectivement représentés dans la phrase par respectivement la construction Le vieil homme qui habite ici, et la construction alla à la mairie. Ces deux constructions, qui sont donc les deux constituants immédiats de ladite phrase, ont elles-mêmes chacune deux constituants immédiats. La construction Le vieil homme qui habite ici combine en effet deux paradigmes, celui de l’article Le, et celui qui a pour modèle le nom coureur, et qui est représenté dans la phrase par la construction vieil homme qui habite ici, la construction alla à la mairie combinant, elle, le paradigme qui a pour modèle le verbe intransitif court avec le paradigme qui a pour modèle l’adverbe de lieu là-bas, et ayant donc comme constituants immédiats la construction verbale alla et le syntagme prépositionnel à la mairie. La construction alla combine les deux morphèmes all- et -a, et la construction à la mairie, la préposition à ― 255 ― et la construction nominale la mairie, qui est formée, elle, du morphème la et du lexème mairie. Quant au syntagme vieil homme qui habite ici, il est formé de deux constituants immédiats, à savoir la construction vieil homme, qui a pour modèle le nom chasseur et qui combine le morphème adjectival vieil et le morphème nominal homme, et la subordonnée relative qui habite ici, laquelle a deux constituants immédiats, à savoir le relatif qui et la construction verbale habite ici, elle-même combinant le morphème verbal habite et l’adverbe de lieu ici” (ibid., p. 39). 2.3. Représentations graphiques Le déroulement de la commutation présenté dans le 2.2. permet de trouver la bonne analyse en C.I. d’une phrase à étudier. Toutefois, sa pratique s’avère rapidement délicate dans l’organisation en constituants immédiats de la phrase, si elle n’est expliquée que verbalement. Il existe alors des systèmes de représentations graphiques pour s’accommoder de cette difficulté. Par exemple, des systèmes composés d’une barre ou d’une parenthèse servent à indiquer le point de séparation de chaque constituant immédiat. L’intérêt de ces systèmes est de ne pas prendre d’espace pour représenter la construction de la phrase, mais par ailleurs, de nombreuses barres ou des parenthèses ajoutées dans la phrase empêchent d’identifier facilement les différents constituants immédiats et de constater la nature syntaxique de chaque constituant. Aussi l’adoption pour ce travail du système dit “Arbre”, conçu par Chomsky, permet de bien comprendre l’assemblage des constituants d’une phrase et les catégories syntaxiques auxquelles appartient chaque constituant. Voici l’arbre de la phrase “Le vieil homme qui habite ici alla à la mairie” représentable à l’aide de la méthodologie de Touratier2 : ― 256 ― P SN Dét SV V N N Adj V SP N Sub vieil homme Passé Prép P ProSN Le Sprép qui SN Dét N P : SV V Adv habite ici all - a à la mairie Figure 1 : “Arbre” Les étiquettes principales indiquent : SN (le syntagme nominal), SV (le syntagme verbal), Sprép (le syntagme prépositionnel), SP (le syntagme propositionnel), N (le second constituant immédiat du SN). La figure 1 exprime que “la souche correspond à la construction la plus vaste, à savoir la phrase, et les nœuds terminaux aux constituants ultimes ou minimaux, à savoir les morphèmes. Les nœuds intermédiaires correspondent alors à des constructions, et les embranchements qui partent d’un nœud et aboutissent à deux (ou plus de deux) autres nœuds indiquent que les nœuds inférieurs sont les constituants immédiats de la construction qu’est le nœud supérieur. Tous les nœuds reçoivent une étiquette qui désigne la catégorie syntaxique à laquelle appartient le nœud concerné. […] Et l’on relie par un trait vertical en pointillé chaque morphème de la phrase à son nœud terminal, le trait en pointillé indiquant expressément qu’il ne s’agit pas d’une décomposition ― 257 ― en constituants immédiats, à la différence des embranchements qui relient les nœuds entre eux.” (ibid., p. 54). Il est visible que la représentation dite arbre ne présente plus la difficulté évoquée précédemment et qu’elle montre clairement la catégorie syntaxique à laquelle appartient chaque constituant. 3. Théorie des constructions principales et fonctions syntaxiques 3.1. Structures syntaxiques du français 3.1.1. Le syntagme nominal (SN) En appliquant les notions fondamentales de l’analyse en C.I. vues dans le 2.1., le syntagme nominal se définit comme la plus petite construction qui est toujours formée de deux constituants immédiats. Par exemple, dans la figure 1, le SN le vieil homme qui habite ici est pourvu de l’article le et du syntagme vieil homme qui habite ici comme constituant immédiat, et le SN la mairie, de l’article la et du lexème mairie. Ces combinaisons de deux morphèmes ou de plus de deux, cadrent ainsi avec un paradigme. Touratier précise que “toutes ces constructions à deux constituants immédiats sont des constructions exocentriques, c’est-à-dire qu’elles ne peuvent pas être remplacées par un de leurs constituants immédiats”, et il fait remarquer que “le second constituant immédiat d’un SN exocentrique ne peut pas être étiqueté SN” (ibid., p. 116-117). En effet, il arrive qu’un SN exocentrique contienne un SN endocentrique comme dans les cas dits expansions, ce qui conduirait à dire que le SN est à la fois une construction exocentrique et endocentrique. Afin d’éviter cette contradiction, la construction nominale combinée avec le déterminant est souvent appelée membre nominal (en abrégé MN) ou groupe nominal (en abrégé GN). Certes, de telles appellations sont distinctes ― 258 ― de celle de SN, mais il est important de mettre une étiquette qui nous permette de montrer, de façon simple et claire, que le second constituant immédiat d’un SN est, quelle que soit l’organisation du second constituant immédiat, une construction endocentrique. Effectivement, la construction nominale combinée avec le déterminant est susceptible de recevoir un simple lexème ou une construction formée d’un adjectif et d’un lexème comme vieil homme, ou encore une construction formée d’un adjectif et d’un lexème précédé du relatif comme vieil homme qui habite ici. Ainsi, “le second constituant immédiat du SN peut être de structure très variée”, et “dans la combinaison d’un nom et de toutes les expansions […] il peut recevoir un nom syntaxique, […] un nom qui n’est pas donné par le lexique, mais qui est formé syntaxiquement ou […] grammaticalement” (ibid., p. 118). Puisque le second constituant immédiat du SN est un nom syntaxique, il semble plus juste et simple de l’étiqueter N, comme le fait Touratier, plutôt que MN ou GN. Voici sa représentation graphique : SN Dét SN N N Dét Adj N Figure 2 : le second constituant immédiat du SN, N syntaxique 3.1.2. Le syntagme verbal (SV) Le syntagme verbal contient au moins un verbe qui est lui-même indispensable pour former le SV, mais pour le reste de la structure du SV, tout dépend de la nature du verbe, ainsi que le précise Touratier : “les verbes qui sont toujours intransitifs ne commutent pas avec les verbes qui sont ― 259 ― toujours transitifs ; ils n’appartiennent donc pas à la même classe qu’eux. Les verbes qui sont toujours intransitifs commutent avec la construction que forment les verbes qui sont toujours transitifs et leur complément d’objet” (ibid., p. 152). C’est-à-dire que le plus petit syntagme verbal sera formé du verbe intransitif et que, lorsque le verbe n’est pas intransitif, le syntagme verbal sera formé du verbe transitif et de son ou de ses compléments en tant que syntagme verbal un peu plus grand par rapport au premier. Toutefois, il convient de réfléchir à la nature et au comportement du verbe qui sont souvent des points de discussion dans le domaine de la sémantique. Car s’il est vrai qu’on peut distinguer les verbes en deux catégories, à savoir les verbes intransitifs et les verbes transitifs, il est également vrai qu’il existe “des verbes transitifs qui peuvent être employés intransitivement et […] des verbes intransitifs qui peuvent être employés transitivement” (ibid., p. 153). Pour reprendre les terminologies concernant la théorie de la valence inventée par Tesnière, les actants du verbe représentent un certain nombre d’éléments associés à un verbe pour former une phrase. Ils pourraient donc être équivalents au nombre des constituants immédiats et/ou des constituants pour former un syntagme verbal. Les verbes sans actants sont les verbes qui “sont connus dans la grammaire traditionnelle sous le nom de verbes impersonnels” (Tesnière, 1968, p. 239), les verbes monovalents, les verbes à un actant qui “sont connus dans la grammaire traditionnelle […] sous le nom […] de verbes intransitifs” (ibid., p. 240), les verbes bivalents, les verbes à deux actants, à savoir les verbes transitifs, et enfin, les verbes trivalents, les verbes à trois actants que “la grammaire traditionnelle ne […] distingue pas des verbes à deux actants” (ibid., p. 255). A l’aide de ces terminologies, l’intransitivation et la transitivation deviennent pertinentes. En prenant la paire d’énoncés Il mange en face de Il mange un fruit pour ― 260 ― exemple, Touratier donne une description concrète sur l’intransitivation : “le verbe manger est sémantiquement bivalent, ce qui veut dire que normalement il sera syntaxiquement transitif. Mais si pour une raison ou une autre il est syntaxiquement intransitif, cela ne l’empêchera pas de continuer à être sémantiquement bivalent” (Touratier, 2000, p. 124). Quant à la transitivation, c’est “une autre figure grammaticale, qui consiste, elle, à construire transitivement un verbe monovalent, c’est-à-dire un verbe dont le sémantisme n’appelle qu’un seul actant et donc correspond normalement à une construction intransitive” (ibid., p. 124). Par conséquent, la structure du SV dépend de la nature du verbe transitif ou intransitif, le verbe transitif pouvant se comporter comme un verbe intransitif, et vice-versa. Voici l’arbre d’une phrase contenant un verbe transitif qui forme une construction exocentrique et qui reçoit aussi une construction endocentrique (Touratier, 2005, p. 159). P SN : N SV SV SPrép V SN Dét Dét Pierre reçoit s Prép N SN Dét Plur - es N Adj amis avec une Figure 3 : SV avec Circonstant ― 261 ― extrême N gentillesse La phrase indiquée dans la figure 3 montre que le SN ses amis est le complément d’objet du verbe reçoit et que le SPrép avec une extrême gentillesse est une expansion du SV reçoit ses amis. C’est-à-dire que le SV formé du verbe reçoit et du SN ses amis est une construction exocentrique, mais que le SV formé du SV reçoit ses amis et du SPrép avec une extrême gentillesse est, lui, une construction endocentrique. A ce propos, il est utile de signaler ici que le SN Pierre comporte une particularité. Le SN est formé théoriquement d’un déterminant et d’un nom, également appelé nom syntaxique. Mais il est possible d’observer un SN formé d’un seul nom, sans son déterminant comme dans cette phrase. Le nom propre appartient bien au paradigme du SN, et l’étiquette double SN : N montre clairement cette particularité. 3.1.3. Le syntagme prépositionnel (SPrép) Pour comprendre la nature du syntagme prépositionnel, il faut d’abord reconnaître, avec Touratier, deux sortes de prépositions et les distinguer clairement : les prépositions vides et les prépositions pleines. Les prépositions vides n’ont qu’un contenu grammatical comme de ou à3, elles n’ont pas la moindre signification, et sont donc des morphèmes fonctionnels. Par opposition, les prépositions pleines sont chargées, elles, d’un contenu sémantique comme pour, sur, avec, etc. qui sont aussi appelées des morphèmes relationnels. Elles forment ainsi “avec le SN avec lequel elles se combinent une construction exocentrique, c’est-à-dire qui ne fonctionne ni comme une préposition seule ni comme un SN seul, mais qui appartient au paradigme de l’Adverbe. Elles forment donc un syntagme qui, contenant un SN, est plus qu’un syntagme nominal.” (ibid., p. 120). Ainsi, il importe de ne pas confondre ces deux prépositions parce que leur différence se manifeste notamment au plan syntaxique. Par exemple, ― 262 ― il est admis que la fonction syntaxique d’expansion de N au de est une préposition vide. Dans ce cas, la préposition de forme une construction endocentrique, et non pas exocentrique comme dans les SPrép, avec un SN auquel s’ajoute un morphème. Touratier note qu’“il est cependant impossible de faire commuter avec un SN sans de, dans la mesure où un SN complément de nom a besoin en français de voir expliciter sa fonction de complément de N par cette préposition” (ibid., p. 121). Dans la figure 4, il est remarquable que la fonction syntaxique de de, à savoir, l’expansion de N maison est marquée par les embranchements eux-mêmes partant du SN de son fils, et que par conséquent, il n’est pas nécessaire d’étiqueter de de l’appellation préposition vide ou de celle de morphème fonctionnel. SN Dét N N SN Dét la maison de-son N fi l s Figure 4 : SN expansion de N Contrairement à la fonction syntaxique indiquée par la préposition vide dans la figure 4, une construction exocentrique formée d’un SN et d’une préposition dite pleine est présente dans la figure 3 précédemment représentée. Le syntagme avec une extrême gentillesse “ne peut commuter ― 263 ― avec aucun de ses constituants immédiats” (ibid., p. 172). Pour former un SPrép, il faut une préposition et un SN et cette combinaison est théoriquement indispensable. Toutefois, le SPrép ne contient parfois qu’une préposition, donc pas de SN, comme le montrent ces deux exemples repris par Touratier : « Les uns attendent les emplois, les autres courent APRÈS (Académie) Il a pris son manteau et s’en est allé AVEC (Académie) » (ibid., p. 172) Les prépositions ne sont pas accompagnées d’un SN dans ces exemples, mais les éléments linguistiques qui devraient être indiqués par le SN ont été déjà mentionnés ou évoqués dans le contexte antérieur ou dans la situation énonciative. Dans ces conditions, la préposition “peut remplir, à elle seule, le paradigme du SPrép, […] elle est le seul constituant du SPrép” (ibid., p. 173). Par conséquent, le double étiquetage (SPrép : Prép) permettra de ne pas omettre la particularité de ce type de préposition. 3.2. Structures syntaxiques du japonais 3.2.1. Le syntagme nominal (SN) Les exemples précédents en français montrent que le SN est avant tout une combinaison d’un article et d’un nom, mais que le nom propre se définit comme l’unité unique qui commute avec cette combinaison, ce qui permet de la représenter avec l’étiquette double SN : N. La langue japonaise fait partie des langues sans article, c’est-à-dire que le SN en japonais peut être formé au minimum d’un seul nom. Mais cela n’empêche pas que le nom japonais forme un syntagme nominal tout ― 264 ― comme le nom propre français, le nom appartient, simplement, lui seul, au paradigme du SN. Il est par conséquent possible de désigner le nom japonais dans le schéma de l’arbre, à la manière du nom propre français, à savoir SN : N, ainsi que le montre la figure suivante. SN : N SN : N /ie/ « maison » /kuruma/ « voiture » Figure 5 : SN en japonais Par ailleurs, le syntagme nominal en japonais peut avoir une expansion de N. Dans ce cas, le /no/ appelé particule par la grammaire traditionnelle est susceptible de remplir la fonction d’expansion de N. Par exemple : マリの家 マリの車 La maison de Marie La voiture de Marie マリ の 家 マリ の /mari/ /no/ /ie/ /mari/ /no/ « Marie » « génitif » « maison » « Marie » « génitif » 車 /kuruma/ « voiture » Le /no/ suivant le nom propre /mari/ « Marie » indique, dans chaque cas, une relation syntaxique d’expansion de N, /mari/ « Marie ». Il est tentant de dire que ce /no/ est l’équivalent de la préposition de, celle-ci étant “l’indication de la possession comme le dit trop facilement la grammaire traditionnelle, à propos de Pierre, dans le livre de Pierre, où Pierre serait ― 265 ― le possesseur du livre en question” (ibid., p. 120), mais le /no/ n’a aucun contenu sémantique ainsi que le de français. Ce n’est que /mari/ « Marie » précédé de /no/ « génitif », à savoir le SN au génitif qui “entretient une certaine relation sémantique avec le N auquel il se rapporte, c’est-à-dire avec lequel il forme une construction” (Touratier, 1994, p. 191). De fait, dans /mari-no-ie/ « la maison de Marie », il serait possible d’interpréter non seulement une relation de possession entre /ie/ « maison » et /mari/ « Marie », mais également une relation d’utilisateur. La même observation peut être faite dans les exemples suivants: 未来の家 未来の車 La maison du futur 未来 の /mirai/ /no/ « futur » « génitif » La voiture du futur 家 未来 /ie/ « maison » の 車 /mirai/ /no/ /kuruma/ « futur » « génitif » « voiture » Le /mirai-no-ie/ « la maison du futur » peut vouloir dire « la maison où l’on habite dans son avenir », ou encore « la maison techniquement évoluée que l’on peut imaginer dans le futur ». Une analyse identique peut être faite du SN /mirai-no-kuruma/ « la voiture du futur ». Ainsi, dans ces exemples, le /no/ japonais, quelle que soit la terminologie traditionnelle, indique la fonction syntaxique d’expansion de N qui peut être représentée comme suit : ― 266 ― SN : N SN : N SN : N N /mari/-/no/ « Marie »-« génitif » SN : N N /ie/ /mirai/-/no/ /ie/ « maison » « futur »-« génitif » « maison » la maison de Marie la maison du futur Figure 6 : SN expansion de N japonais La fonction d’expansion de N est marquée par les embranchements dans chaque syntagme nominal ainsi qu’en français. Par contre, le nom japonais constitue, à lui seul, un syntagme nominal et chaque syntagme nominal doit donc être étiqueté SN : N. Chaque premier constituant immédiat est une expansion de N dans ces deux SN : N de la figure 6. Il est donc représenté dans la figure 6 avec la double étiquette SN : N. 3.2.2. Le syntagme verbal (SV) La structure du SV japonais dépend de la nature du verbe tout comme le SV français. Toutefois, les compléments du verbe japonais sont toujours pourvus des éléments linguistiques appelés particules par la grammaire traditionnelle, comme le /no/ « génitif » que l’on a vu précédemment. Par exemple, la phrase ci-dessous est décomposable en plusieurs morphèmes : マリが友達に本をあげた Marie a donné un livre à son amie. マリ /mari/ が 友達 に 本 /ga/ /tomodati/ /ni/ /hoN/ を あげ た /o/ /age-/ /ta/ « Marie » « sujet » « ami » « datif » « livre » « accusatif » « donner » « accompli » ― 267 ― La justification d’identification de chaque morphème de cette phrase peut se faire avec les commutations suivantes : /mari/-/ga/ « Marie »-SU /tomodati/-/ni/ « ami »-DAT /hoN/-/o/ /age-/ « livre »-ACU « donner » /hoN/-/o/ « livre »-ACU /joN-/ « lire » /ta/ ACO /da/ ACO /jomu/ « lire » /neru/ « dormir » Figure 7 : Tableau des commutations de la phrase /tomodati/ « ami » est pourvu de /ni/, et /hoN/ « livre » est pourvu de /o/. Les grammaires traditionnelles appellent ces /ni/ et /o/ particules, mais en pratique, /ni/ soudé à /tomodati/ « ami » indique le datif et /o/ soudé à /hoN/ « livre » marque l’accusatif. Le verbe « donner » est un verbe trivalent, il est donc normal de voir que ces /ni/ et /o/ expriment les fonctions de complément du verbe « donner ». Cela revient à dire que le syntagme verbal de la phrase donnée est formé d’un verbe et de ses deux compléments de verbe et que, par conséquent, ce syntagme verbal appartient à la construction exocentrique. Il est donc possible de représenter le syntagme verbal de la phrase par la figure 8 ci-dessous. Les fonctions complément de verbe sont déjà marquées par les embranchements partant du SV. Par conséquent, /ni/ et /o/ n’ont pas besoin d’une étiquette et doivent être dessinés accolés aux noms. ― 268 ― SV SN : N SN : N V V /tomodati/-/ni/ « ami »« datif » /hoN/-/o/ « livre »« accusatif » /age-/ « donner » Aco /ta/ « accompli » “ a d o n n é u n l i v re à s o n a m i e ” Figure 8 : SV en japonais avec deux compléments de verbe Les fonctions de /ni/ et /o/ sont aussi explicites dans l’arbre que dans la chaîne parlée. Il est clair que /tomodati/ « ami » est le complément indirect du verbe /ageru/ « donner » grâce à la présence de /ni/, et que /hoN/ « livre » est le complément d’objet direct du même verbe à l’aide de /o/. Toutefois, en japonais, l’ordre des compléments de verbe est plus libre qu’en français. Effectivement, il est possible de permuter les deux compléments de verbe dans la phrase étudiée parce que la nature de chaque complément de verbe reste identique grâce aux morphèmes « datif » ou « accusatif ». L’ordre montré dans la figure 8 est tout de même considéré comme la norme par la grammaire traditionnelle. 3.2.3. Le syntagme Adverbial (SAdv) Bien que la notion de SPrép existe de façon évidente dans la langue japonaise, son application ne semble pas convenable. Dans le cas du français, les prépositions, dites pleines, qui ont un contenu sémantique faisant également partie des morphèmes relationnels, forment les SPrép. Or, dans la langue japonaise, si la particule indique la nature de la préposition pleine, elle n’a pas la même nature syntaxique que la ― 269 ― préposition pleine du français. Ainsi qu’il a déjà été exposé, la préposition française est capable de remplir à elle seule le paradigme du SPrép. Par contre, dans la langue japonaise, l’élément linguistique dit particule ne peut pas apparaître sans suivre un SN comme dans la phrase de la figure 7. Assurément, parmi les particules, certaines peuvent être considérées comme des morphèmes fonctionnels et d’autres jouent le rôle de morphèmes relationnels. Il est par conséquent possible de dire que les particules /no/ « génitif », /o/ « accusatif » et /ni/ « datif » observées jusqu’ici peuvent être considérées comme des morphèmes fonctionnels. Toutefois des particules ayant un contenu sémantique pourront éventuellement former une construction du SPrép. Par exemple, si le Circonstant /daigaku-de/ « à l’Université » est ajouté dans la phrase analysée plus haut, elle devient : マリが大学で友達に本をあげた Marie a donné un livre à son amie à l’Université. を あげ た /mari/ /ga/ /daigaku/ /de/ /tomodati/ /ni/ /hoN/ /o/ マリ が /age-/ /ta/ « Marie » suj. 大学 « univ. » で «à» 友達 « ami » に 本 dat. « livre » accu. « donner » aco. Le /de/ で est bien une particule qui a un contenu sémantique et qui se traduit par à dans à l’Université. Ce /de/ で exprime donc le lieu où se déroule l’action de « donner ». Ainsi ce SV contenant un circonstant peut être représenté comme suit : ― 270 ― SV SV SPrép SN : N Prép SN : N SN : N V V /daigaku/ /de/ « université » « à » /tomodati/-/ni/ « ami »« datif » /hoN/-/o/ /age-/ « livre » ACU « donner » Aco /ta/ « accompli » “ a d o n n é u n l i v re à s o n a m i e à l ’ U n i v e r s i t é ” Figure 9 : Compléments de verbe et Circonstant japonais Mais cette représentation pose deux problèmes terminologiques. D’abord, le /de/ で japonais n’étant pas entièrement identique au à français, les entrées en italique dans la figure 9 ne semblent pas justes. Le /de/ で, défini comme particule par la grammaire traditionnelle japonaise, est en effet un morphème ayant un contenu sémantique qui peut être considéré comme un morphème relationnel. Ce /de/ で est alors capable de former avec un SN : N une construction de SPrép, mais ce morphème ne peut pas remplir, à lui tout seul, le paradigme de SPrép. C’est-à-dire que, dans le cas du japonais, l’unité morphologique /de/ で ne fonctionne ni comme une préposition seule ni comme un SN seul. La combinaison d’un SN et de l’unité morphologique entre dans le paradigme de l’adverbe, et elle forme le syntagme prépositionnel, à savoir une construction exocentrique qui est plus qu’un syntagme nominal. D’ailleurs, le /de/ で du japonais semble présenter une ressemblance avec les exemples en latin et en allemand étudiés par Touratier. Celui-ci estime que “dans ces langues, la préposition n’est qu’un des deux morceaux du ― 271 ― signifiant discontinu d’un morphème”, et propose “l’appellation de syntagme adverbial (en abrégé SAdv), dans la mesure où, d’une part, les adverbes sont bien des morphèmes, et où, d’autre part, les prétendus syntagmes prépositionnels commutent […] avec des adverbes” (ibid., p. 174). Par conséquent, il aurait été prudent d’employer l’étiquette SAdv à la place de SPrép dans la figure 9. Dans la construction dite SPrép en japonais, l’élément linguistique qui permet d’exprimer la notion de préposition n’est pas une unité syntaxique comme en français, mais une unité morphologique. C’est donc une particularité japonaise. Ensuite, se pose naturellement le problème de l’étiquette Prép qui représente l’unité linguistique, mais qui ne semble pas acceptable. Toutefois, quel que soit le choix de l’étiquette, il est évident que le SAdv est une construction exocentrique qui est notée à l’aide de deux embranchements partant du SAdv. La représentation du SAdv n’est donc pas fausse. En remplaçant le circonstant /daigaku-de/ « à l’Université » de la phrase précédente par les circonstants ci-dessous, chacun des SV est peut être représenté de la façon suivante : SV1. 誕生日に友達に本をあげた “a donné un livre à son amie pour son anniversaire” 誕生日 に /taNzjoobi/ /ni/ « anniversaire » « pour » 友達 に 本 を あげ /tomodati/ /ni/ /hoN/ /o/ /age-/ « ami » た /ta/ dat. « livre » accu. « donner » aco. SV2. 同情心から友達に本をあげた “a donné un livre à son amie par pitié” 同情心 あげ た /doozjoosiN/ /kara/ /tomodati/ /ni/ /hoN/ /o/ /age-/ /ta/ « pitié » から « par » 友達 « ami » に 本 を dat. « livre » accu. « donner » aco. ― 272 ― SV3. 約束として友達に本をあげた “a donné un livre à son amie comme promis” 約束 として /jakusoku/ /tosite/ « promesse » « en tant que » 友達 に 本 を あげ /tomodati/ /ni/ /hoN/ /o/ /age-/ « ami » た /ta/ dat. « livre » accu. « donner » aco. Dans le SV1, le /ni/ に précédé de /taNzjoobi/ « anniversaire » indique le résultat, la raison ou la cause d’une action qui se traduit ici par « pour », il est un morphème relationnel, donc différent du /ni/ に du « datif » lui-même étant un morphème fonctionnel. Le /kara/ から du SV2 exprime le point de départ temporel et spatial, il est traduisible en « par » dans le SV2. Quant au /tosite/ として du SV3, il constitue un seul morphème, et il est équivalent à « en tant que » sémantiquement. Ces remplacements permettent de constater qu’en japonais, le morphème ayant un contenu sémantique forme le SAdv en se combinant avec le SN, et qu’un morphème ne peut pas seul appartenir au paradigme du SAdv, même si cela est possible dans certains cas du français. Il est donc évident que la place de Prép dans la figure 9 n’est pas celle d’une préposition, mais d’une unité morphologique. Toutefois, mettre l’étiquette d’unité morphologique ou de morphème relationnel ne serait pas pertinent car cela est déjà compris dans les notions fondamentales de l’analyse en C.I.. Par conséquent, le signifiant de chaque élément linguistique, à savoir celui du morphème relationnel comme /de/, /kara/, ou /tosite/ sous l’étiquette Prép est un choix raisonnable d’étiquette ; il est préférable à son omission ou à l’appellation souvent rencontrée de postposition qui entraînerait une confusion syntaxique en japonais. La figure 9 pourrait être améliorée et représentée comme suit : ― 273 ― SV SAdv SN : N SV /de/ SN : N SN : N V V /daigaku/ - /de/ « université »« à » /tomodati/-/ni/ « ami »« datif » /hoN/-/o/ « livre » ACU Aco /age-/ « donner » /ta/ « accompli » “ a d o n n é u n l i v re à s o n a m i e à l ’ U n i v e r s i t é ” Figure 10 : Compléments de verbe et Circonstant japonais 4. Conclusion Ce travail a permis non seulement de mettre en valeur la méthodologie de Touratier qui modifiait l’analyse en C.I. de Bloomfield, mais également d’accentuer les particularités et les différences syntaxiques et morphologiques dans les langues française et japonaise. Cependant, tant que cette méthodologie ne peut s’appliquer complètement ou ne s’applique pas de façon pertinente, il est difficile de préciser l’aspect linguistique de chaque langue. Seules quelques unités morphologiques dites particules ont été mises en évidence dans les structures syntaxiques du japonais. Il serait certainement possible de redéfinir d’autres éléments linguistiques appelés particules avec une méthode identique. NOTES C’est une partie extraite de l’Analyse morphologique et syntaxique de la particule 1 TE en japonais contemporain à laquelle nous avons apporté quelques explications et des exemples précis, en insistant sur la différence entre le français et le japonais. 2 Les étiquettes en italique et la construction dans le SP de cette phrase diffèrent de celles proposées par Chomsky. Pour plus d’explications, voir les chapitres 2 et 7 dans l’Analyse et théorie syntaxique de Touratier (2005). ― 274 ― Ici, il s’agit de à qui indique le «datif». 3 BIBLIOGRAPHIE BENVENISTE, E. (1975). Noms d’agent et noms d’action en Indo-européen, Paris : Maisonneuve, 174 p. BLOOMFIELD, L. (1970). Le Langage, Paris : Payot, 524 p. [éd. origin., Language, (1961). New York : Rinehart and Winston, traduit de l’anglais par Gazio, J.]. CHOMSKY N. (1956). Three models for the description of language, I.R.E. Transactions on Information Theory, 2, p. 113-124. COYAUD, M. (1979). Thème et sujet en tagalog : comparaisons avec le mandarin, le coréen et le japonais, Bulletin de la Société de Linguistique de Paris, 74.1, p. 113-139. DELTEIL, A. ; SEKO, Y. ; TAKEI, Y. (2006). Japonais – Manuel de première année, Publications de l’Université de Provence, 234 p. GLEASON, H.A. (1969). Introduction à la linguistique, Paris : Larousse, 379 p. [éd. origin., An Introduction to Descriptive Linguistics, (1955). Holt : Rinehart and Winston, traduit de l’anglais par Dubois Charlier, F.]. HAGÈGE, C. (2001). La structure des langues, Paris : Presses Universitaires de France, 127 p. (1e éd. : 1982 ; 6e éd.). HAGUENAUER, C. (1951). Morphologie du Japonais Moderne I, Paris : Klincksieck, 425 p. KINDAICHI, H. ; MAËS, H. (1978). Phonologie du japonais standard, Travaux de linguistique japonaise, VII : Phonologie du japonais standard, Université de Paris VII, p. 9-37. MAËS, H. (1975a). La terminologie grammaticale japonaise, Travaux du groupe de linguistique japonaise, I : Problèmes terminologiques, Université de Paris VII, p. 45-58. MARTINET, A. (1995). Éléments de Linguistique Générale, Paris : Armand Colin, 223 p. (1e éd. : 1960 ; 3e éd.). NIDA, E. (1958). The identification of morphemes, Readings in linguistics, I, Joos, M. (éd.). (1958). Chicago & London : The University of Chicago Press, p. 255-271. RUWET, N. (1968). Introduction à la grammaire générative, Paris : Librairie Plon, 452 p. ― 275 ― SUZUKI, S. (1996). Keitairon Josetsu (Morphologie, Introduction), Tôkyô : Mugi Shobô, 324 p. 鈴木重幸. 形態論・序説, 東京 : むぎ書房. TAKEI, Y. (2008). Analyse morphologique et syntaxique de la particule TE en japonais contemporain, Thèse de doctorat, Université de Provence, Lille : Presses de l’A.N.R.T., 363 p. TESNIÈRE, L. (1968), Éléments de syntaxe structurale, Paris : Éditions Klincksieck, 670 p. (1e éd. : 1959 ; 2e éd.). TOURATIER, C. (1977). Comment définir les fonctions syntaxiques ?, Bulletin de la Société de Linguistique de Paris, 72. 1, p. 27-54. TOURATIER, C. (1993). Structure informative et structure syntaxique, Bulletin de la Société de Linguistique de Paris, 88. 1, p. 49-63. TOURATIER, C. (1994). Syntaxe latine, Louvain-la-Neuve : Peeters, 754 p. TOURATIER, C. (1996). Le système verbal français, Paris : Armand Colin, 253 p. TOURATIER, C. (2002). Morphologie et Morphématique – Analyse en morphèmes, Publications de l’Université de Provence, 322 p. TOURATIER, C. (2000). La sémantique, Paris : Armand Colin, 191 p. TOURATIER, C. (2005). Analyse et théorie syntaxiques, Publications de l’Université de Provence, 331 p. ― 276 ― 中国映画経営の現状に見る政府方策の問題点 楊 紅 雲 はじめに 経済の高度成長に伴い、物質的に裕福になった中国は豊かな文化生活を 求める層が急増している。これは、社会主義国家の国民教育の道具として その役割を果たしてきた文化産業の多様化、商業化が求められる時代の到 来を意味している。ところが、長い間統制体制に縛られてきた文化産業は まだ脱皮の過程にあり、時代に遅れがちであることは事実である。映画産 業でいえば、1990 年代半ばから体制改革が進められてきたにもかかわら ず、いまだに自由に作品を企画し、製作できるような環境が整えられてい ない。その上、年産何百本の作品は大半が赤字だという、あってはならな い事態はまだまだ続きそうである。 本稿は産業的観点から中国映画の歴史を背景に、その経営の現状を考察 した上で、現行する中国政府の映像政策、経営方針、及び産業振興対策に ついて分析し、その問題点を指摘するものである。 1.文化事業から文化産業への歴史 1.1.映画は文化事業の一つ 1.1.1.事業としてのスタート 1949 年新中国成立後、映画は社会主義中国の文化事業の一環として本 格的なスタートを迎えた。当時の中国政府は社会主義国家を建設するにあ たって、ソ連の国づくりを手本に、映画を国の政策に奉仕する重要な宣伝 ― 277 ― 道具と見なした。アメリカなど反共産圏映画の上映を禁止し、政府によっ て製作されたドキュメンタリー映画、ニュース映画、或いは『白毛女』1 (1950 王浜/水華監督)のような作品だけを上映していた。1966 年までは、 計 600 本以上の農民、解放軍、労働者を称える劇映画と 8,300 巻以上の短編 プロパガンダ映画を製作、上映した。中でも国民教育の一環として、入場 無料の露天上映が多く行われていたためか、1960 年頃には映画鑑賞者数は 10 年ほど前の建国時の 5,000 万人から、4 億数千万人へと増加した。 1.1.2.停滞期―文革時代 1966 年から 1976 年までの 10 年間は、中国で文化大革命 2 が行われ、いわ ゆる文革時代であった。多くの文化人、映画人は吊るし上げられ、映画の 製作、上映も厳しく制限されていた。それまでの中国映画の 90 %以上、計 589 本ほどが「毒草」とされ、上映禁止になり、劇映画の製作も僅かな「革 命電影」しか撮れなかった。1972 年に公開された『紅色娘子軍』3(1971 謝晋監督)はその一例である。 当時の映画業界において、ほとんどの映画会社は文化大革命に巻き込ま れ、映画作りができない状態に陥ってしまった。中国西北地域最大規模の 映画会社―西安電影製作所 4 の年代記(1966 年)には、図表 1 の内容が明記 されている。 これによると、3 月に中央政府からの共産党のリーダーは、社員が毛沢東 著作を学習する情況を見に西安電影製作所へやって来た。そして、6月に社 員大会が開かれ、社内の革命闘争の「厳しさ」が指摘されたと同時に、映 画『桃花扇』5(1963 孫敬監督)とその監督が批判の的とされた。さらに、 7月に「人民日報」で映画『桃花扇』を批判する文章が公表され、9 月に 文革準備委員会、10 月に文革臨時委員会、西影連合指揮部などの大衆組織 が設立された、11 月から社内の映画創作活動が完全停止となり、闘争が深 刻化していった。 その結果、年頭の 3 月に国家文化部から年産劇映画 3 本、科学教育映画 ― 278 ― 図表 1 西安電影製作所年代記(1966 年) 注:西安電影製作所 編(2003)『西影 44 年―1958-2002』p.54 25 本といった「生産任務」は通達されたが、年末には結局 1 本ずつしか完 成できなかった。当時、中国のほとんどの映画会社は似たような情況にあ り、中でも北京電影製作所などはもっと速いスピードでもっと酷い情況に 置かれていた。文化大革命は中国の映画界に「空白の 10 年間」とも言われ る時代をもたらしたのである。 1.1.3.復興期 1976 年 10 月 6 日に「四人組」6 が逮捕され、文革の時代は終わった。その 後の数年間、映画界は批判され弾圧された映画人の名誉回復を行い、職場 に復帰させ、業界従来の創作秩序を取り戻した。とくに、1978 年に改革開 放政策 7 が実施され、海外の映画作品も鑑賞できるようになり、映画は再 び大衆娯楽の中心となった。1980 年代は日本でも人気を博した『黄色い大 地』(1984 陳凱歌監督) 、 『古井戸』 (1987 呉天明監督) 、 『芙蓉鎮』 (1987 謝 晋監督)、 『紅いコーリャン』 (1987 張芸謀監督)などを含む秀作は次々と 公開され、大きな反響をよんだ。当時の国産映画は多くの観客に感動を与 ― 279 ― えていたばかりでなく、外国映画祭のチケットもたちまち売り切れる盛況 であった。ことに、 「第五世代」監督 8 の作品は注目されるようになり、中 国映画界は充実した回復ぶりをみせた。しかし、1989 年の天安門事件 9 は 中国映画の世界進出にブレーキをかけることになり、海外との合作映画本 数は激減した。 1.2.文化産業への転換 1.2.1.映画界の体制改革―事業から産業へ 1980 年代半ばから、中国映画は斜陽化現象が現れ、娯楽産業の多様化、 国民生活様式の変化、外国映画の流入、テレビ産業の急成長に伴い、ほと んどの映画会社は経営不振に陥り、業界全体は低迷の一途を辿った。そこ で、映画界はさまざまな試行錯誤を続けながら、再生の対応策を模索して いた。1990年代に入ってから、中国政府は映画を国家事業から民間企業へ、 統制体制から市場体制へと製作体制の改革を行い、経営理念も思想性・健 全性の重視からビジネス・娯楽性の重視へと新たなメカニズムを導入した。 実際、このような体制改革は映画会社にどのような変化をもたらしたの かは、図表 2(西安電影製作所改革前の組織図)と図表 3(西安電影製作所 改革後の組織図)を比較してみれば一目瞭然である。まず明らかに言える のは、改革前(図表 2)の社内において、共産党委員会(略して「党委」 ) は最高のリーダーであり、社長もその指導と管理の下に置かれている。し かし、改革後(図表 3)の社内では、経営の代表である社長は共産党の代 表である党委とは並列の関係にあるばかりでなく、創作活動にかかわるす べての部門の総責任者でもある。つぎに言えることは、図表 2 の組織図は 旧体制の国営企業のモデル図とも言えるほど党と経営の上下関係、そして 創作部門(芸術中心)と生産部門(生産基地) 、人事行政部門(行政系統) が均一的に配置され、いかにも官僚機関の一部であるように仕組まれてい る。これとは違って、図表 3 の組織図は新体制の民間企業のモデル図とも 言えるほど党・経営分離、創作部門重視の方針の下に、組合と監察部門を ― 280 ― 新たに加えた市場体制であることがわかる。 図表 2 西安電影製作所改革前の組織図 注:西安電影製作所 編(2003) 『西影 44 年―1958-2002』p.358 図表 3 西安電影製作所改革後の組織図 注:西安電影製作所 編(2003) 『西影 44 年―1958-2002』p.358 ― 281 ― 1.2.2.産業としての成長 2002年から中国映画は急成長の時期を迎えるようになった。国産映画市 場が安定し、国産映画は 2003 年からほぼ毎年シェア全体の 60% を保ち続け た(2007 年は 55%) 。封切り本数、興行収入、スクリーン数のいずれも勢 いよく増えていった。 図表 4(映画封切本数の推移)でわかるように、2002 年(100 本)から 2007 年(402 本)までの封切り本数は大幅に増加し、5 年間で 4 倍の増産を 果たした。 図表 4 映画封切本数の推移(2002 − 2007) 年度 2002 2003 2004 2005 2006 2007 封切本数 100 140 212 260 330 402 前年度比の増加本数 ― 40 72 48 70 72 注:表中データは国家広播電影電視総局電影事業管理局による。 また、図表 5(興行収入の推移)の通り、封切り本数の増加に比例する ように2007年度の興行収入は4年前の4倍近くに増加した。テレビ放送権、 海外への配給権の売却などを加算すると、60 億元を越える市場規模に成長 したと言われている。 図表 5 興行収入の推移(2003 − 2007) 年度 2003 2004 2005 2006 2007 収入額(単位:億元) 9.2 15.1 20.6 26.4 33.2 前年度比の増収額(単位:億元) ― 5.9 5.5 5.8 6.8 注:表中データは国家広播電影電視総局電影事業管理局による。 さらに、図表 6(スクリーン数の推移)で示したように、2004 年度だけ で 815 枚のスクリーンが増設され、その後も安定したペースで増加した。 ― 282 ― 図表 6 スクリーン数の推移(2003 − 2007) 年度 2003 2004 2005 2006 2007 枚数 1,581 2,396 2,668 3,098 3,591 前年度比の増加枚数 ― 815 272 430 493 注:表中データは国家広播電影電視総局電影事業管理局による。 1.3.映画産業の現状 1.3.1.体制改革の深化 2002 年以降、業界の産業化は急速に推し進められるようになった。2004 年に政府の「わが国の映画産業の発展を加速させる若干の意見」が発表さ れ、民間資本に業界参入の門戸を広く開放した。これにより、2008 年末に は、全国 300 余りの映画会社のうち民間会社が 75 %を占めるに至った。 1990 年代半ばから 2010 年 5 月末まで、全国 29 の一級(省級=中央に直属 する)映画会社のうち、27 社はすでに民間企業へ転換、すなわち「転企改 制」10 が推し進められた。また、275 の二級、三級(副省級、市級)映画会 社のうち、177 社も同様に市場体制へと改革を行った。さらに、52 の省級 映画館のうち 38 館、419 の副省級映画館のうち 255 館も体制改革が行われ、 今後もさらなる改革が期待されている。 1.3.2.管理体制の緩和 現在、中国の映画産業は国家広播電影電視総局電影事業管理局(国家ラ ジオ映画テレビ総局映画事業管理局)に管理されている。すなわち全国の 映画製作、配給、興行など映画市場の管理から、関連法律法規の作成や検 閲制度の実行、及び映像産業の発展のための企画立案、海外との映像文化 交流など、映像文化にかかわるすべてのことはここによって一括管理が行 われている。 作品検閲の厳しい中国ではあるが、21 世紀に入ってから、政府の審査基 準が徐々に緩やかになってきたことは確かである。2002 年 2 月、政府は新 ― 283 ― 「電影管理条例」を発表、映画市場のさらなる開放を提唱した。2004 年 8 月 から、新たな審査規定が実施され、脚本段階での審査は簡潔になった。ま た、以前はすべて中央政府で実施されていた審査作業がある程度、各地方 の政府機関で出来るようになった。その後、完成フィルムの審査でも同様 に、各省での審査が可能となり、最終段階では許可証の発行が中央政府で 行われることになっている。とくに、政府は 2009 年から、 「文化産業振興 計画」、 「映画産業繁栄と発展の促進に関する指導意見」 、 「文化産業振興と 発展繁栄への金融支持に関する指導意見」 、 「国有映画上映館改革発展の促 進に関する意見」など一連の産業促進政策を次々と打ち出している。ただ し、歴史題材の映画、記録映画、海外との合作映画は、今も尚必ず中央政 府で審査を受けなければならないことになっている。 1.3.3.近年の業績 2008年度、中国では406本の国産映画が製作され、総興行収入は国家広播 電影電視総局電影事業管理局によれば43億元に達している。前年比で30% も伸び、5 年連続で毎年 25 %以上の伸び率(図表 5 を参照)を保っている。 2009 年度、年間製作本数は劇映画 456 本、TV 映画など 208 本。総興行収 入は 62 億元で、興行収入が 1 億元以上の国産作品は 12 本。映画観客数は約 2 億人に達し、スクリーン数は年間 626 枚も増加した。 2010 年度は 6 月 30 日までの半年間で、全国の興行収入実績はすでに 48 億 元を超え、2008 年の年間収入を上回っている。その中、国産作品は 21 億 元、海外の輸入作品は 27 億元となっている。上半期すでに審査に通過した 作品は 288 本、新造の映画館は 149 館があり、スクリーンも新たに 596 枚が 増加した。その上、年末までの製作本数は 500 本、興行収入は 100 億元、ス クリーン数も 1,000 枚ほど増加すると予測されている。 近年、毎年 400 本以上製作している中国は、インドと米国に次ぐ世界 3 番 目の映画生産国となっている。興行収入も年年増加し、配給システムの整 備や興行施設の建設にも力を入れている。国産の映画作品にも企画の商業 ― 284 ― 性、ジャンルの多様性が求められるようになった。とくに目立った現象は、 監督名で映画が売れているとも言われているほど、今の中国映画は個性的 な大物監督たちによって支えられている。例えば張芸謀と馮小剛の両監督 はそうである。前者の作品は常にヒット作を飛ばし、彼が監督した 『英雄』 (2002) は中国商業映画の第一号と称され、中国映画の興行成績を塗り替え た。後者は中国映画界のヒットメーカーとも言われ、ほぼ毎年 1 本のお正 月映画を撮り、新作『唐山大地震』 (2010)もまた大ヒットの記録が期待さ れている。 一方、わずか 5、6 年で急発展を果たした中国映画界は今も尚さまざまな 問題を抱え、国産映画の 7 割がコストの回収ができない状況にあることは 事実である。言いかえれば、年産 400 本以上にもかかわらず、元が取れて 儲かっているのはたったの 120 本ほどしかないということになる。このよ うな矛盾の根底には何か究明すべき原因がある。映画業界全体はまだまだ 発展の途上にあることは間違いない。 2.国家統制体制が映画市場経営に与える影響 2.1.中途半端な市場体制 1992 年秋に、中央政府は「社会主義市場経済体制」の構築を明確にして 以来、中国映画業界は体制改革の試行錯誤を繰り返してきた。改革が行わ れた映画会社のほとんどはそれまでの社会主義計画経済体制の伝統から脱 皮できず、大量の不良債権を抱えながら、失業問題が発生しないように市 場体制の軌道への乗換えを試みた。しかし、映画は社会主義国家の文化事 業として、国家統制体制の中に長い間組み込まれ、伝統的な計画経済体制 と強く結びついたため、計画経済体制から市場経済体制への転換において は他の業界よりも難しいところがあった。その切り札として、政府は「放 権譲利」 (権利分散・利潤譲与)という形で会社側に経営権、自主権を譲 与し、各映画会社に「独立採算制」と称して、 「所長責任制」を実施した。 すなわち所長は会社の実権者であり、企業経営の総責任者でもあることが ― 285 ― 認められたのである。一方、これらの国営企業統制体制に慣れてきた経営 者たちはいきなり自由競争の市場に放り出され、それに対する認識や知識 の欠如、及び実践経験の不足が大きな問題となり、如何にしてその経営基 盤を築いていくべきなのかについて、戸惑うばかりであった。 1999 年に業界最初の株式会社―西影股份公司が設立され、さらなる体制 改革を先導した。これは、政府が企業に法人財産を自由に処分する権限を 与えることで、企業が市場に向けて自主負担・自己発展・自己制限などで きる法人になることを目指し、株式会社制を通じて新たな国家と企業関係 を創出することを目的としたものである。ところが、伝統的な統制体制の 下で形成されてきた国営企業の保護政策は基本的に変わることなく、会社 は市場経営を行いながら、国家の管理を受けなければならない、という統 制経済体制と市場経済体制とを併存する「双軌制」が形成された。その結 果、従来の国家管理システムは旧態依然としたものであり、映画会社は 「企 業的経営」と「事業的管理」の両方が要求されることになった。 これは「放権譲利型」改革の限界の現れである。ここでは国家の権益が 侵食されることは許されないがために、真の自主経営のメカニズムは形成 されないからである。このシステムは中国映画の体制改革を中途半端なも のにした。従って、国家と市場との適切な関係の確立は、政府主導型体制 から民間主導型体制への転換問題を解決するために不可避の課題である。 2.2.作品企画への制限―イデオロギー的牽制 文化産業の発展と繁栄を大きく影響する要因の一つは、イデオロギーの 衝突である。文化産業は国家事業として成り立つ時、その価値は統制され たカテゴリーの中での役目を果たしているかどうかにある。しかし、自由 競争の市場に送り出され、文化産業として栄えていくには、作品一つ一つ の商業価値が問われることになる。また、消費者(層)に合わせた営業戦 略や経営方針を定め、絶え間なく大量に良質な文化商品を提供していかな ければならない。人民服しか生産しない会社は永遠にファッションの世界 ― 286 ― に入れないのと同様に、決まったジャンルや限られた内容の映画しか撮れ ない環境では自由な発想ができないし、傑作や秀作の続出も望めない。 現在の中国において、映画を含む文化産業は統制体制の下で市場経済を 展開している。市場経済の競争原理は表現の自由を要求するが、国家の統 制体制が真正面からそれを阻止し、両者は常に衝突する。その結果、映画 企画の領域には「危険地帯」が生み出され、作品ジャンルの単一化をもた らしてしまう。図表 7(2010 年上半期国産映画作品興行収入ベスト 10)に 見るように、興行収入ベスト 10 に入った国産映画は半分以上が時代劇であ り、残りはほとんどコメディーのようなものしかなく、他のジャンルは見 当たらない。いくら素晴らしい映画でも同じようなタイプばかり出てくる と観客もそのうち飽きてしまうだろう。 図表 7 2010 年上半期国産映画作品興行収入ベスト 10 单位:万元 順番 作品名(原題) 興行収入 1 叶问 2 宗师传奇 23,235 2 大兵小将 16,078 3 锦衣卫 14,365 4 越光宝盒 13,179 5 全城热恋 13,165 6 杜拉拉升职记 12,881 7 喜羊羊与灰太狼之虎虎生威 12,685 8 孔子 10,108 9 花田喜事 2010 6,142 10 未来警察 6,003 注:表中データは国家広播電影電視総局電影事業管理局による。 ― 287 ― 2.3.統制体制による市場の独占 統制体制と自由競争は相克の関係にある。しかし、現在の中国映画産業 は統制体制の下で自由競争が推し進められている。その誰にも対抗できな い存在である統制機関こそが利益を独占し、根本から自由競争を妨げてい る。例えば、中国の映画産業を一括管理する国家広播電影電視総局電影事 業管理局には、直属の機関として中国電影集団公司、ムービーチャンネル (CCTV6)11、中国電影合作製片公司、中国電影輸出入公司、中国電影海 外普及センターなどがある。中でも、中国電影集団公司は中国最大の映画 グループ会社であり、その傘下に中影集団数字電影院線有限公司(デジタ ル・シネマ配給会社)があり、全国農村部 37,000 のデジタル・シネマ(8 億の農村人口)と中小都市部 10,000 のデジタル・シネマを独占している。 また、ムービーチャンネルは全国 8 億人の TV 視聴者を占有している。さら に、輸出入会社、マーケティング会社、撮影所、2 次配給会社など約 35 の 子会社を持っている。映画製作のほか、国内の劇場スクリーンのおよそ半 分を保有するなど、国内市場において、製作、配給、興行のすべての面で 大きな力を握っている。このグループ会社の売り上げだけで、常に全国の 50 %強を占めると言われている。 このような独占経営は国家広播電影電視総局直轄の映画会社であるから こそできたことであり、自由競争の市場原理に反している。これこそは統 制経済の産物であり、民間の映像事業の発展を大きく阻害している最大の 官僚システムである。その結果、作品の配給、興行という流通段階に入る と、国産映画の年産量が大幅に増加する一方、大半の作品は主要配給系 列に入れないため、実際上映されるチャンスがもらえないまま放置されて いる。例えば、2008 年の国産映画は 406 本と世界第三位の生産量になった が、主要映画館系列で上映されたのは 100 本ほどしかなかった。このよう な理不尽な環境に置かれ、製作側も単純に観客のためにいい映画を作ろう といった強い情熱と信念を持たなくなり、作品の品質というより、作品の 運命を心配して人脈作りに気を取られてしまう。このような現実が変わら ― 288 ― ない限り、産業としての中国映画は低迷し続けるに違いない。 自由競争ができる健全な市場体系を構築するために、自由競争の環境を 提供し、民間企業が主導となる経済システムを構築することは不可欠であ ると思われる。 3.現行の政府方策の問題点 3.1.ハリウッド志向の危険性 市場経済体制に乗り出した中国映画界は、一貫してハリウッドに追いつ こうと対策を練り続け、それを唯一のライバルとしてきた。韓国政府のよ うに、身近な日本などのアジア市場をターゲットにし、アジアから世界へ と確実にその影響力を拡大していく方針とは違って、中国政府はその正反 対の施策を講じてきた。しかし、今になってこのハリウッド志向の危険性 はすでに一目瞭然である。 常にハリウッドを追い越そうとしか考えてない中国映画界は、すでに 「超大作病」にかかっている。図表 8 に示した通り、今年度上半期の国産作 品興行総収入は 21 億元となったが、興行収入ベスト 10 作品だけで約 12.8 億 元、その 60% 以上を占めている。 実際、上半期の製作本数も 288 本あり、約 9 割の作品の興行収入の合計は 総興行収入の 3 分の 1 にとどまっている、ということになる。同じような現 象は 2009 年にも起こっている、年産 456 本もの作品の内、興行収入ベスト 10作品は国産映画興行総収入の67.36% を占めている。この驚くべき事実は 大作重視の悪果であり、健全な産業構造の構築を大きく妨害している。ち なみにアメリカ映画の産業構造はとてもバランスよく構築されており、そ の企画、製作から宣伝、配給、興行まで自由競争に適したシステムができ ている。しかし、現段階の中国映画市場において、それに匹敵できるよう な要素は何一つないにもかかわらず、政府の指導方針はついに莫大な資金 をごく少数の超大作にかけて勝負しがちである。 結局、製作する側にも悪影響を与えてしまい、大作にかかわることがで ― 289 ― 図表 8 2010 年・2009 年上半期国産映画興行収入ベスト 10 実績比較一覧 順番 2010 年 1 − 6 月 2009 年 1 − 6 月 作品名(原題) 興行収入 / 万元 作品名(原題) 興行収入 / 万元 1 叶问 2 宗师传奇 23,235 赤壁下 26,000 2 大兵小将 16,078 南京!南京! 16,673 3 锦衣卫 14,365 游龙戏凤 11,400 4 越光宝盒 13,179 疯狂赛车 11,000 5 全城热恋 13,165 喜羊羊 1 8,550 6 杜拉拉升职记 12,881 家有喜事 2009 4,050 7 喜羊羊 2 12,685 东邪西毒终极版 2,700 8 孔子 10,108 爱得起 2,150 9 花田喜事 2010 6,142 高兴 1,920 10 未来警察 6,003 铁人 1,850 合計 国産映画総興収の 60.41% 127,841 国産映画総興収の 67.36% 86,293 上半期国産映画総興収 211,613 上半期国産映画総興収 128,120 前年同期 + 65.17% 83,493 注:「中国電影報」(2010 年 7 月 15 日)記事による。 きる僅か少数の製作者も莫大な投資の回収しか頭になく、逆に大作に届か ない大多数の製作者はつくっては赤字という現実に直面しなければならな いため、意欲的に作品に取り組むことができない。これは製作本数だけ増 加しているように見えて、質が伴っていないという中国映画の現実へと繋 がった。興行側も同じような傾向にあり、映画館はますます豪華になって いく。超大作の場合、ほぼ全国一斉に公開されるが、その他の小さな作品 の場合は、一斉公開ではなく、地域ごとに、あるいは一部の 2 次配給会社 によって公開される。このように、超大作がスクリーンを占拠しているた め、中小資本の作品が常に排除されるような窮地に追い込まれてしまう。 中国映画経営の現状について、中国電影家協会による 2010 年版「中国電 影産業研究報告」と「中国電影芸術報告」には次のような記述があった。 昨今は都市部のシネマ・コンプレックスで高い料金を徴収し、莫大な製作 ― 290 ― 費をかけた「超大作」を見せる傾向が強いが、これが中国映画全体のレベ ルを下げている元凶であると分析している。さらに、 「誰でも気軽に映画館 に足を運べるようでなければ、健全な映画市場とはいえない」とし、一部 の金持ち向けに超大作を作る「貴族路線」を変更し、農村部にも配給でき るような作品を多く製作すべきである、と提案している。 3.2.配給網のアンバランス 現在、全国の配給網は中央政府の直属会社である中国電影集団公司電影 発行放映分公司と華夏電影発行有限責任公司によって統括され、計 36 の院 線(2 次配給会社)から構成されている。中でも「四大三小」12(中影、保 利博纳、华谊、上海东方、华夏、光线影业、橙天)といった七大系統の配 給会社が根幹であり、各系統の配給本数はそれぞれ異なる。図表 9(2009 年度中国七大配給系統実績)の通り、2009 年度各系統の配給本数、興行収 入、市場規模のいずれもかなりの格差が出ている。中影一社だけで年間 16 本も配給し、国内市場の半分近く 44.66% を占めているのに対して、橙天は 1.99% のシェアしか持ってなく、配給作品も 2 本しかなかった。当然興行収 入も少なく、5,690 万元だけであったが、中影はその 47 倍近く、266,029 万 元もあった。また、他の 6 系統の興行収入の合計(約 229,838 万元)でも中 影の実績(266,029 万元)に及ばない。さらに、この七大系統のうち、海外 の映画を輸入できるのは中影と华夏だけで、他の会社には輸入権が許され ていない。このように政府直属の配給系統が市場を独占する仕組みを考案 したのは当然政府機関であり、逆にこの仕組みを民間系統に利益を譲る形 へと改善、改革する場合、当然中央政府の許可がなければ実現できないわ けである。 ゆえに、配給市場のこのような「格差」問題が解決されない限り、国内 シェアの独占や業界の腐敗は避けられないし、業界全体の発展も望めな い。現存の配給網に含まれているさまざまな矛盾と、理不尽なやり方及び 広がる収入の格差に対して、不満や怒りを禁じえない映画人は大勢いるは ― 291 ― 図表 9 2009 年度中国七大配給系統実績 配給会社 国内シェア 配給本数 興行収入(輸入作品込み/万元) 中影 44.66% 16 266,029 保利博纳 11.78% 12 34,643 华谊 11.80% 4 33,740 上海东方 7.62% 9 21,782 华夏 6.75% 6 118,129 光线影业 5.54% 6 15,853 橙天 1.99% 2 5,690 説明:表中数字は「中国電影報」 (12 月 20 日現在のデータ)による。 ずである。これは政府機関の失策と言わざるを得ない。 3.3. 興行市場のアンバランス 現行の「電影管理条例」13 第一章(総則)第一条に、 「为了加强对电影行 业的管理,发展和繁荣电影事业,满足人民群众文化生活需要,促进社会主 义物质文明和精神文明建设,制定本条例」 (映画業界の管理を強化し、映 画事業を発展、繁栄させ、国民文化生活の需要を満たし、社会主義物質文 明と精神文明の建設を促進するため、本条例を制定する)と明記し、国民 の文化生活を満足させることを一つの目的としている。しかし、現状から 見ると、国民に映画という娯楽を提供する場所としての映画館はたいてい 大都市に集中している上、一般国民の収入ではとうてい届くことのできな い高い入場料金が定められている。事実上、映画料金は物価以上に上昇し ている。1989 年頃の映画館入場料金は 0.25 元であったが、2000 年頃は約 10 年間でその 100 倍になった。図表 10(中国と外国の映画入場料金と国民平 均収入一覧)でわかるように、中国は他の外国に比べ、驚くべき高料金に なっている。アメリカ人は月収の 440 分の 1、日本人は 200 分の 1 があれば 映画館に入れるが、中国人の場合、月収の 40 分の 1 が必要である。 ― 292 ― 図表 10 中国と外国の映画館入場料金と国民平均収入(主要都市)一覧 国家/地域 映画館入場料金 ($) 主要都市一人当たり 入場料金/月収 の平均月収($) アメリカ 7 3,100 1/440 イギリス 11 2,360 1/220 フランス 9 2,000 1/200 ドイツ 7 2,100 1/300 カナダ 6 1,900 1/300 インド 1.5(大都市) 150 1/100 シンガポール 4 1,770 1/400 スイス 8 3,320 1/400 日本 13 2,800 1/200 韓国 7 1,000 1/150 マレーシア 3 315 1/100 香港 8 2,100 1/250 中国 6 250 1/40 注:表中データは「大衆電影」2006 年 3 月上旬号による。 これは 2006 年の実情であるが、その後も上昇し続け、2009 年の全国平均 入場料は入場券 1 枚 30 元となった。現在、北京市では大人が 60 元から 70 元 は普通で、最新型シネコンの場合、80 元、90 元という日本とそれほど変わ らない料金まで登場している。3D 版の場合はさらに高い。 また、映画館の建設や配置においても地域的格差の問題が大きい。全国 の映画館数は 2002 年の時点で 1,000 軒余りであったが、2009 年に 4,700 軒ま でに増えた。しかし、これらの映画館はほとんど大都市に集中し、映画館 のない中小都市は 350 以上を数える。例えば遼寧省では、人口 140 万の撫順 を含む 8 都市には映画館が全くない。中国には、人口 500 万人以上の都市が 30 余り、それが沿海部に集中している。中には 1,000 万人の都市もいくつ ― 293 ― かあり、これら大都市の人口は合計約 4 億人と推定され、全国映画興行総 収入の 90 %以上を占めている。言いかえれば、13 億人の市場と言っても、 実際の映画ターゲットは 3〜4 億人程度で、一部の限られた富裕層だけの市 場と言える。今後は中小都市、農村部への劇場整備が急務であろう。 さらには、図表 11 に示した通り、中国人の一人当たりのスクリーン数は 日本よりも、アメリカよりも遥かに少ない。日本は約 1.3 億人で 3,062 枚の スクリーンを持っているのに対して、中国は日本の10倍の人口13億人で日 本とそれほど変わらない数のスクリーンしか持っていない。一方、映画産 業の強さで世界映画市場を制覇し続けるアメリカでは、3 億人の人口でな んと 30,825 枚ものスクリーンを所有している。これは明らかに中国のスク リーン増設が遅れているとしか言いようがないのである。 図表 11 中国・アメリカ・日本の「1スクリーン当りの人口数」 国名 中国 アメリカ 日本 人口(単位:億人) 13 3 1.3 スクリーン数 3,098 30,825 3,062 注:表中数字は 2006 年度のデータ 出典:http://www.chinabe-cinema.com 3.4.海賊版 DVD の問題 今年の上海国際映画祭で「映画の新しい配給ルート」についてのフォー ラムが開かれた。2009 年の中国海賊版 DVD 市場規模は 400 億元(約 5,350 億円)になっていたことがわかった。これは同年の劇場映画総興行収入約 62 億元(約 800 億円)の数字に比べ、約 6.5 倍という驚異的な規模である。 映画業界は興行業績を上げるために必死でさまざまな工夫をして、やっと 2010 年も 100 億元(約 1,330 億円)を超える見込みとなったが、それにして もまだ海賊版市場の 4 分の 1 でしかないのである。 業界では 2010 年上半期 6 月までの総興行収入は 48 億元を超えながら、実 際70%の国産映画作品は赤字であると言われている。その原因の一つとし ― 294 ― て海賊版 DVD の問題も挙げられる。そもそも映画大国のアメリカでは、劇 場興行収入は映画総収入の20%で、DVD など映像関連製品の売上げはその 80 %を占める。しかし、中国では海賊版の氾濫により、映画製作側は大半 の収入を失っている。 まさに、中国では海賊版 DVD は映画の天敵であり、海賊版が消滅しない 限り、健全な映画市場の構築は難しい。上映中の映画の海賊版 DVD が、映 画館の入場料金より何倍も安い価格で、店や路上(もしくは映画館の前) で売られたりする、このような現実に直面し、それを一日も早く変えてい くことは業界にとっての急務であろう。 ところで、なぜ中国では海賊版 DVD の市場規模はここまで大きくなった のか、それに関連する法律法規などは存在しないのだろうか、中国人は大 きなスクリーン、快適な音響環境を有する映画館は嫌いなのだろうか。言 い換えれば、中国人は海賊版の画質の悪さをよく知っていながら、映画館 に足を運ばない理由はいったいどこにあるのだろう。前述図表 10(中国と 外国の映画館入場料金と国民平均収入一覧)でわかるように、中国人は映 画館に入るためにアメリカ人と同じような(1 ドルの差)料金を払わなけれ ばならないが、月収はアメリカ人の 11 分の 1 しかない。格差社会の中国に おいて、現行の映画館入場料金は大多数の中国人にとって高すぎるからで ある。要するに、貧乏人でもそれなりの娯楽が必要である。生活レベルは まだ中、低層にある大多数の国民は映画を観たいが、映画館に入るための (金銭的)余裕がないため、路上で海賊版 DVD を買ってしまう。ゆえに、 この不適切な料金設定は海賊版 DVD が続出する原因の一つと言えよう。 3.5.検閲 現行の「電影管理条例」 、 「電影審査規定」など映画関連の政策法規には厳 しい内容がある。国産の映画であれ、海外との合作映画であれ、国家「指 導」のハサミは検閲の形で必ず入ってくることが事実であり、検閲の段階 で公開のチャンスを失った作品も少なくない。 「電影管理条例」 第三章の第 ― 295 ― 二十四条「国家实行电影审查制度」の内容に、 「国務院広播電影電視行政部 門の電影審査機構の審査を受け、許可されなかった映画は、その配給、放 映、輸出入ができない(未经国务院广播电影电视行政部门的电影审查机构 审查通过的电影片,不得发行、放映、进口、出口) 」と明記している。その ため、現在の中国では、映画の撮影、配給、上映及び輸出入は、すべて政 府の許可が必要で、この許可を得るために、国家の映画審査部門の審査を 受けなければならないのである。特に審査の対象となる具体的な内容(計 10 原則)について、第二十五条に定められている 14。 ・憲法の定める基本原則に違反するもの。 ・国家の統一、主権、領土に損害をもたらすもの。 ・国家機密漏洩、国家の安全、名誉、利益に損害をもたらすもの。 ・民族憎悪、差別感情を煽動、民族団結を破壊するもの、或いは民族の風 俗習慣を侵害するもの。 ・邪教迷信を宣揚するもの。 ・社会秩序を撹乱、社会の安定を破壊するもの。 ・猥褻、賭博、暴力を宣揚、或いは犯罪を教唆するもの。 ・他人を侮辱、誹謗、他人の合法的な権利を侵害するもの。 ・社会道徳、民族伝統文化を損害するもの。 ・法律、行政法規、国家が規定するその他の禁止事項を含めるもの。 以上の内容から言えることは、この審査とは主として 「政審 (政治審査) 」 であり、作品の政治的方向性や社会的思想性は政府の基準に適しているか どうか、を審査する。その過程において、特に重要視されるのは 「黄」 (エ ロチック)、 「賭」 (賭博) 、 「毒」 (麻薬) 、 「邪」 (邪教)の内容が含まれてい るかどうかである。 ちなみに、このような審査は脚本段階、試写フィルム段階、完成フィル ム段階と三段階に分けて行われる。脚本段階の初審が通れば、「撮影許可 ― 296 ― 証」が発行され、撮影段階に入る。その後、試写フィルムと完成フィルム の審査を受け、何も問題がなければ正式な「上映許可書」が発行され、一 般公開になる。逆に審査で何か不適切な内容が含まれていると判断された 場合、まず「保留」とされ、撮り直しするなど修正してから、再審査を受 ける形で最終的に上映になるかどうかが検討される。もし禁映となった場 合、いかなる団体や個人もそれを配給、上映、輸出入することができない。 また、海外の映画祭などに出品する際も、審査を受けるのが普通である。 このような検閲制度の実施によって、政府は映画作品の内容を制約する ことができ、社会全体への悪影響を防げると同時に、政府にとっての「不 都合」も避けることができる。その反面、相当な費用をかけて製作した作 品が「上映禁止」となった場合、投資側、製作側にとって大きなリスクに なることは明らかである。合作映画の場合、外資の回収ができなくなるば かりでなく、イメージダウンと信用問題もかかわってくるし、中国映画の 世界進出に悪影響をもたらしてしまう。 実際、映画産業を発展させるには、肝心なことは資金を集めることなど ではなく、人材の優れた発想、映画人の創造性を引き出すことこそが最も 重要な課題である。政府は映画の管理体制を緩め、自由に創作活動ができ るような環境を提供してさえいれば、業界全体の活性化へと繋がっていく に違いない。 結語 以上は中国映画 60 年の歩みを経営という視点から考察し、とりわけ近年 の産業状況と政府の方針、政策に注目した。そこにアンバランスな産業構 造が目立ち、中国映画界は配給網、興行網の再編、海賊版 DVD の氾濫、業 界内の「超大作」志向、政府の企画や製作に対する制限、及び検閲など、 さまざまな問題を抱えている。 このような諸問題に関する改善策が検討され、中国映画産業がますます 発展することを期待したい。 ― 297 ― ※ 本論文は「日本映像学会第 36 回大会」 (2010 年 5 月 30 日/日本大学)で の発表原稿に加筆訂正を施したものである。発表原文の要約は「日本映像 学会 第 152 号大会概要集」に掲載されている。 注 『白毛女』(はくもうじょ)は、共産主義模範劇の一つで、悪辣な地主に圧迫さ 1 れ貧農たちが共産党によって解放され、地主を打倒するまでの姿を描いた作品。 文化大革命期間中でも模範劇の一つとして上映されていた。 2 文化大革命は毛沢東が劉少奇から実権を奪うために起こした政治、文化闘争。 1966 年から 1976 年まで 10 年間ほど続けられ、数百万人から数千万人の死者を含 む 1 億人もの被害者を生み出したと言われている。正式名称は「無産階級文化大 革命」であるが、略して「文革」とも書く。 『紅色娘子軍』 (こうしょくじょうしぐん)は、1971 年に中国工農紅軍女子特務 3 連隊の実話に基づいて製作した京劇版映画。女性農民が紅色娘子軍を組織し、地 主を打倒する姿を描いた。文化大革命期間中、上映が許された模範劇の一つ。 4 西安電影製作所は 1958 年 8 月 23 日に設立された中国西北地域最大の映画製作 所。文化大革命時代はその製作活動がほとんど停滞状態にあったが、1980 年代か らは『古井戸』(1987 呉天明監督)、『紅いコーリャン』(1987 張芸謀監督)、 『菊 豆』(1990 張芸謀監督)など質の高い作品を次々と製作した。1999 年に体制改革 の先頭に立ち、「西影股份公司」を設立、中国映画業界においての株式会社第一 号となった。 『桃花扇』は西安電影製作所が 1963 年に完成した作品で、当時の文化部電影事 5 業管理局の審査を受け、通過したにもかかわらず、のちに「人民日報」で「反動 映画」と指名され、監督が吊るし上げられ、自殺に追い詰められた。 「四人組」とは江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人のことを指す。文化大革命 6 時代後期において、彼らは中国共産党指導部で大きな権力を握り、政敵を迫害、 追放した。1976 年に毛沢東の死後 1ヵ月足らずに全員が逮捕された。 7 改革開放政策とは鄧小平の指導の下、1978 年以来進められてきた中国の基本政 ― 298 ― 策。概ね中国国内体制の改革と対外開放政策を含む。 「第五世代」 監督とは主に 1978 年に北京電影学院に入学した陳凱歌、田壮壮、張 8 芸謀など中国1980年代を代表する映画監督たちのことを指す。彼らの作品は中国 映画に革新をもたらしたばかりでなく、世界の映画界にも衝撃を与えた。 ここで言う天安門事件は 1989 年 6 月 4 日に天安門広場を中心に起きた、民主化 9 運動の武力弾圧事件のことである。この学生を中心とした運動が「反革命暴乱」 として鎮圧された。それ以前、1976 年 4 月に天安門広場で民衆による周恩来追悼 をめぐって起きた騒乱事件もあった。 「転企改制」とは従来の国営企業が民間企業に再編成し、市場経済体制のシス 10 テムを整えることを指す。 11 ムービーチャンネル(CCTV6)は 1995 年に創設され、1996 年 1 月 1 日から放 送を始めた。中国国内では一般的に 6 チャンネルと言われて親しまれ、全国をカ バーする唯一の映画専門チャンネルとして、視聴率はここ 10 年間、中国の全ての テレビ・チャンネルの中で第 2〜3 位と高い水準にある。収入は、広告収入と視聴 料で、現在の視聴者の数は 8 億人を超えている。 「四大三小」とは中影(中国电影集团公司电影发行放映分公司)、保利博纳(保 12 利博纳电影发行有限公司)、华谊(华谊兄弟传媒股份有限公司)、上海东方(上海 东方影视发行有限责任公司)、华夏(华夏电影发行有限责任公司)、光线影业(光 线传媒有限公司) 、橙天(橙天嘉禾娱乐集团有限公司)のことを指す。 13 現行の「電影管理条例」は 2001 年 12 月 12 日の国務院第 50 回常務会議によって 決定され、2002 年 2 月 1 日から実施された。 14 第二十五条の原文: (一)反对宪法确定的基本原则的; (二)危害国家统一、主 权和领土完整的; (三)泄露国家秘密、危害国家安全或者损害国家荣誉和利益的; (五) (四)煽动民族仇恨、民族歧视,破坏民族团结,或者侵害民族风俗、习惯的; 宣扬邪教、迷信的; (六)扰乱社会秩序,破坏社会稳定的; (七)宣扬淫秽、赌博、 暴力或者教唆犯罪的; (八)侮辱或者诽谤他人,侵害他人合法权益的; (九)危害 社会公德或者民族优秀文化传统的;(十)有法律、行政法规和国家规定禁止的其 他内容的。 ― 299 ― 重要参考文献 許南明・富瀾・崔君衍 編(2005)『電影芸術辞典』中国電影出版社 西安電影製作所 編(2003)『西影 44 年―1958-2002』陝西人民美術出版社 成平・呂唯唯 編(1995)『中国電影図誌』珠海出版社 ―(1999)『上海電影志』上海社会科学院出版社 張駿祥・程季華 主編(1995)『中国電影大辞典』上海辞書出版社 ―(1996)朝日新聞社文化企画局 編 ―(2005)『中国電影年鑑 2005 増刊―中国電影百年特刊』中国電影年鑑出版社 ―(2008)『中国電影年鑑 2008』中国電影年鑑出版社 中華人民共和国国家統計局 編(2007)『中国統計年鑑 2007』中国統計出版社 ―(1996)『韓国映画祭 1946-1996―知られざる映画大国』朝日新聞社 ― 300 ― ウォリス島の民話( I ) 塚 本 晃 久 本稿で取り扱う話は、1991 年以来ポリネシア西部のウォリス(Wallis)島 1 — 南緯 13 °17’ 、西経 76 °10’ に位置する孤島で、約 250 km 南西に位置す るフトゥナ(Futuna)島とともにフランスの海外領土のひとつを成す — で行っている、同島の言語ならびに口承文学に関する調査の過程で記録し たものである。原文として掲げたテキストは、いずれも MD に録音した ものを文字化し、明らかな言い誤りや無駄な繰り返しを省き、場合によっ ては論理関係を明確にするための書き直しを行って作成したものである。 また、読みやすくするために、長いテキストには段落をほどこした。さら に、内容に合わせて適切と考えられるタイトルを付した。訳は原文と比べ れば、センテンス間の対応関係が分かるようなものにしてある。固有名詞 を始めとして、いくつかのウォリス語の単語をカタカナ書きにする場合に は、g[ ŋ ]+母音は上付けしたン+ガ行音の文字、‘[ ʔ ]は促音を表すッ (ただし、語頭に起こる場合は上付けする)で表記した。テキストの作成 にあたっては、サコ・マキリナ(Sako Makilina)さん(女性、1985 年 10 月 14 日生まれ、ヒヒフォ[Hihifo]地区ッアーレレ[‘Ālele]村出身)が献身的 に協力して下さった。また、ウォリス島に滞在する際はいつも、ギラン・ ド・ラジリ(Ghislain de Rasilly)司教を始めとするヒヒフォ地区ラノ(Lano) のカトリック教会の方々が日常の生活のお世話をして下さる。語り手の 方々はもとより、協力して下さった方々すべてに感謝したい。 ― 301 ― ネズミとオオコウモリ 語り手:コーリオ・フォトフィリ(Kōlio Fotofili)、男性、1944 年 9 月 5 日 生まれ、ヒヒフォ地区ッアーレレ村出身 記録日・記録地:2003 年 3 月 17 日、ヒヒフォ地区ラノのカトリック教会の 僧院にて 原文: Ko te kumaá mo te peká, ne‘e nā kaume‘a i te temi ‘āfea. Pea hoko leva ia ki te tahi ‘aho pea lele mai iá te kumaá o tu‘u i te fu‘u mei kae sio‘i e te peká. Pea ui age leva e te peká ki te kumaá: “E mata lelei ‘ou ki‘i kapakaú. Mai mu‘a kau ‘ahi‘ahi.” Pea haga iá te kumaá o ‘avage tona ‘ū kapakaú ki te peká. Pea lele iá te peká. Pea sio te kumaá ki tana kua mavae maí te fu‘u meí. E lelei ta‘aná lele. Pea ina kole age leva ki te peká ke toe lele mama‘o. Lele iá te peká mo te ‘ū ki‘i kapakaú, lele ki te tahi fu‘u mei. Peá na ui mai leva ia ki te kumaá: “Nofo lā koe he ko ta‘aku ē ‘alu i ‘ou ki‘i kapakaú.” Pea ‘alu ai leva foki iá te peká ia o taka mo te ‘ū kapakau ‘aē o te kumaá kae totolo leva te kumaá ia. 訳: 昔、ネズミとオオコウモリ 2 は友達でした。ある日、ネズミが飛んで来て、 パンの木 3 に止まり、オオコウモリがそれを見ました。オオコウモリはネ ズミに言いました: 「お前の羽は見事だな。試してみたいから、貸してく れよ。」ネズミはオオコウモリに羽を貸してあげました。オオコウモリは 飛びました。ネズミはオオコウモリがパンの木から飛び立つのを見まし た。見事な飛びっぷりでした。ネズミはオオコウモリにもっと遠くまで飛 んでみるように頼みました。オオコウモリはその羽で飛び、別のパンの木 まで飛びました。そして、ネズミに言いました:「さようなら。俺はお前 の羽で行くことにするよ。 」そうして、オオコウモリは行ってしまって、 ― 302 ― ネズミの羽で飛び回るようになり、ネズミは地面を這うようになったので す。 カラエとヴェカ 語 り 手: フ ァ ラ キ カ・ マ テ レ・ フ ォ ッ イ マ パ フ ィ シ(Falakika Matele Fo‘imapafisi) 、女性、1929 年 7 月 21 日生まれ、リク(Liku)村出身 記録日・記録地:2004 年 3 月 26 年、ハハケ地区リク村の語り手の自宅にて 原文: Ko te fāganá, ko te fāgona o te kalae mo te veka. Ko te ‘ū tama nāua ia. E kau tagata nāua. Pea tālaga leva ia nāua ke fai ha nā ‘umu magisi. Pea ui age e te kalaé ki te veká: “Kumi koe te ‘ū magisí kae au fai au te faigaohí.” Fai pē ki ai te veká. ‘Alu te veká o teuteu te taló, te ‘ufí, te kapé. Kae ‘alu te kalaé ia o fai te faigaohi. Pea hoko ki ta nā fakatahi atú mo faka‘afu ta nā ‘umú, kakaha pea ta‘o te ‘umú. Pea ui age e te tama ‘aē ko kalaé ki te tama ko veká: “Tā tālaga tāua ki ta tā ‘umú. Kā moho te ‘umú peá ke kai koe te ‘ū faigaohí kae au kai au te ‘ū mo‘i magisí.” Ko te kalaé ‘aia. Ui age e te veká: “Pea fai pē ki ai.” Moho te ‘umú, kai e te kalaé te ‘ū magisi a te veká kae kai e te veká si‘i ū faigaohí. Ko te ‘ū lo‘i ta‘e ‘ātea ia. Mamaha te taí pea ui age e te veká: “Tā olo tāua o fāgota.” Olo. Ko te olo ‘aia a nāua o fāgota i te lauhakaú, ‘alu te veká ia o takataka i te faha‘i ‘aē ne taka ai kae ‘alu te kalaé ia. Kua mamaha te taí pea kua i ai te fo‘i ga‘ega‘e e tu‘u ‘ava mai pē ia. Ta‘ana pē ‘aia ‘alu atu o ‘ai tona va‘é ki te fo‘i loto fı̄gotá. Māpunu te fo‘i fı̄gotá. Pea pāui leva te kalaé o kole ki te veká: “Veka, veka fulu memea! Kumi mai si‘a tā maka tea mo silisili tāne‘a. ‘A ‘au sona nekaneka ‘a ‘aku sona vekaveka.” Ko tona ‘uhigá, kāpau e foa te fo‘i fı̄gotá pea kai e te veká takua tona kakanó kae kai pē ia e te kalaé tona ga‘así. Pea tali mai e te veká: “Tai ē, tai ē! Fānake ke vave kae lōfia ai ia ihu o kalae. Kai te ‘ufí, kai te kapé kau kai pē si‘i lū ta‘é.” Ko tona ‘uhiga ‘aia o te fāgotá. Pea fai pē ― 303 ― te kalaé i te kole kiā veká ke mai he maka kae fai pē ia veka ia ki te taí ke loloto ke mate te kalaé, mo te loloto mai o te taí o malemo ai kalaé ia pea mate ai ia kae ha‘u leva ia veka ia pea ha‘u ai au. 訳: このお話はカラエ 4 とヴェカ 5 についてのお話です。ふたりはまだ年の若い 青年でした。ふたりは友達でした。マンギシ 6 のッウム 7 をしようと話し合 いました。カラエがヴェカに言いました: 「お前はマンギシを探してくれ。 僕はファインガオヒ 8 を用意するから。 」ヴェカはそうすることにしました。 ヴェカは行って、タロ 9、ッウフィ10、カペ 11 の用意をしました。一方、カ ラエはファインガオヒを準備しました。ふたりがまた一緒になって、ッウム に火を付けると、ツウムは熱くなって蒸し焼きになりました。若者のカラ エはもう一方の若者のヴェカに言いました: 「ッウムについて話し合いをし よう。ッウムが出来上がったら、お前はファインガオヒを食べてくれ。僕は マンギシを食べるから。 」そうカラエが言いました。ヴェカは言いました: 「そうしよう。」ッウムが出来上がると、カラエがヴェカのマンギシを食べ、 ヴェカがファインガオヒを食べました。それは糞で作ったファインガオヒ でした。潮が引くと、ヴェカが言いました: 「魚とりに行こう。」行きまし た。ふたりは行ってラウハカウ 12 で魚とりをしましたが、ヴェカは自分が 歩いている場所を離れずに歩きまわり、カラエはひとりで歩いて行きまし た。潮が引くと、ンガッエンガッエ 13 が殻を開いていました。カラエは歩い て行って、その貝の中に足を突っ込みました。貝は殻を閉じました。カラ エは大声を上げてヴェカに頼みました: 「ヴェカ、クリーム色の羽のヴェ カ! 白い石を探してターネッア 14 を叩いてくれ! ソナネカネカ 15 はお前 のもの、ソナヴェカヴェカ 16 は僕のものだ。 」その意味は、もし貝が割れた ら、ヴェカが肉を食べ、カラエが殻を食べるということです。ヴェカは答 えました: 「海よ、海よ! 速く上がって来い。そして、カラエの鼻が水び だしになってしまえ。ッウフィを食べ、カペを食べ、僕は糞のルー17 を食べ ― 304 ― たんだ。」魚とりということはそういうことだったのです。カラエはヴェ カに石をくれと頼み、ヴェカはカラエが死ぬように海に深くなれと言いま したが、海は深くなってカラエは溺れて死んでしまい、ヴェカは来て私も 来ました。 ヤドカリとキウ 語り手:コーリオ・フォトフィリ(Kōlio Fotofili)、上の「ネズミとオオコ ウモリ」の語り手。 記録日・記録地:2003 年 3 月 17 日、ヒヒフォ地区ラノのカトリック教会の 僧院にて 原文: Ko te fakamatala ‘aení, talatuku o ‘Ālele mo Vaitupu ki te motu ‘aē ko Nukutapu. Ne‘e fihi ia ‘Ālele pea mo Vaitupu i te motú talu mai pē ia i te temi paganí. Pea ne hoko leva ia ki te tahi ‘aho pea ui age e Ma‘ufehi ki te haha‘i o Vaitupú ke natou mavae maí te motú. Pea ui age e Heu, mole mavae maí te motú he ko to natou motu e tu‘u matatau mo Vaitupu. Pea vete ai leva iá te fihi a nāuá o nā fakapaupau ke fai ki ni manu. Pea ne ha‘u leva ia Ma‘ufehi o fono mo tona koló pea tonu ai e te haha‘i o tona koló ke natou to‘o te fo‘i ‘ugá. Pea ha‘u ia Heu i te ‘ahó ia o tālaga‘i mo te haha‘i o tona koló ke natou to‘o te kiú. Pea nā tālaga ai leva i te kogame‘a ko ‘Alā, kei tu‘u pē nei pē te kogame‘a. Mavae ai iá te lele ‘aē a te kiú pea mo te fo‘i ‘ugá. Pea nā tālaga i te afiafí e nā momoe pē i te fenua lahí. Pea moe te ‘ugá, pulou pea ‘ala ake pē te kiú i te pō‘uli o sio ki te tuku ‘aē a te ‘ugá ta‘aná tonu kei tuku pē te fo‘i ‘ugá ia. Ka kua ‘osi mavae te fo‘i ‘ugá ia i to‘oná ga‘asi o ‘alu. ‘Aho ake, ui e te kiú kei moe pē te fo‘i ‘ugá pea lele. Lele. Lele atu ki motu. Kae fēia te pāui mai a te fo‘i ‘ugá: “Kiu, kiu, kiu, lele noa. Kua ma‘u Nukutapu e Ma‘ufehi. ” Pea liliu ake te kiú kua lainoa he kua ina ‘ilo‘i ko te fo‘i ga‘así ia ‘aē kei puloú kae kua ‘osi ‘alu ― 305 ― te fo‘i ‘ugá ia. Ko te ki‘i fāgana ‘aia o Nukutapu ne tuku fakaholo mai i te ‘ū kuí. 訳: この話はヌクタプ島 18 に関するッアーレレ 19 とヴァイトゥプ 20 の伝説です。 異端の宗教の時代からッアーレレとヴァイトゥプはその島のことで争って いました。ある日、マッウフェヒ 21 がヴァイトゥプの人々に島を去るよう に言いました。すると、ヘウ 22 は島を去ることはない・ ・ ・というのも、 それはヴァイトゥプの真正面にある島だからだと言いました。そこで、ふ たりは動物が決着を付けるようにして、争いを解決しました。マッウフェ ヒは来て、自分の村の人々と話し合いをしましたが、マッウフェヒの村の 人たちはヤドカリにすることになりました。ヘウは、その日、自分の村の 人々と議論をして、キウ 23 にすることにしました。ふたりはッアラー24 で 話し合いをしましたが、その場所は今でもあります。キウとヤドカリの競 争はその場所で始まりました。キウとヤドカリは、その晩、本島で寝よう と話し合いました。ヤドカリは寝て伏せましたが、キウは夜中に目を覚ま し、ヤドカリを見て、ヤドカリがまだそこにいるものだろうと思いました。 しかし、ヤドカリはすでに殻を離れて行ってしまっていました。夜が明け ると、キウはヤドカリがまだ寝ていると思い、飛び立ちました。飛びまし た。島に向かって飛びました。しかし、ヤドカリは大声でこう言いました: 「キウ、キウ、キウ! 飛んでも無駄さ。ヌクタプはマッウフェヒのものだ。」 キウは戻って姿をくらましました。というのも、殻だけが伏せていて、ヤ ドカリはすでに行ってしまっていたことが分かったからです。それが、先 祖代々、伝えられてきているヌクタプの話です。 ヒナと魚 語り手:ハーニシ・モイセセ(Hānisi Moisese) 、男性、1940 年生まれ、ヒ ヒフォ地区ヴァイララ(Vailala)村出身 ― 306 ― 記録日・記録地:2002 年 9 月 10 日、ヒヒフォ地区ヴァイトゥプ村の集会所 にて 原文: Ko ení leva, kāiga, te tahi ki‘i fāgana faka‘ala‘ala pē o te afiafí. Kā mole fe‘auga pea koutou kātaki age pē ki ai he ko te ‘alu‘aga foki o te fakatevili. Ko te ‘alu‘aga o te ki‘i fāgana leva ‘aení e kita fai atú, ko te taumātu‘a. Ne‘e nonofo ai pea fānau, ko te ki‘i ta‘ahine ko Hina. Pea ne‘e masiva i te ‘ū koloa faka-Papālagí kae ne‘e i ai ta natou ‘ū koloa ne‘e natou ma‘u ko te koloa faka-‘Uvea. Nonofo, nonofo, kua vaivai foki si‘i ‘ū fo‘i mātu‘á ia ka ko te ki‘i tama si‘i ‘aē ko Hiná, e kei veliveli. Fokifā pē ia, kua ha‘u te ki‘i ta‘ahiné i te tahi ‘aho o fakasiosio atu, kua mate te matu‘á ia. Peá na haga leva o vaelua te mo‘i koloa o tanu ‘aki te matu‘á. ‘Osi mai pē te ‘aho e tolu pea toe ha‘u ia o fakasiosio mai, kua mate te finematu‘á ia. Peá na haga o vaelua te koloa o toe ‘aumai o fakakoloa ‘aki tana fa‘eé. Pea nofo toko tahi ai leva te ki‘i ta‘ahiné. Nofonofo peá na haga leva o fai pē te aga faka-‘Uvea a tātou o ‘ave leva tona koloá o tāla‘ā he kua fualoa foki. Pea ‘alu ake pē ia o takotakoto pea mā‘umoea. Fokifā pē te fo‘i ua ia mo te tu‘ani matagi kua tō. Viligia kātoa te koloa ‘aia o puli noa ‘osi. ‘Ala ake lā te ki‘i ta‘ahiné ia, mole kei sio ia ki he koloa ia. Pea tagi mamahi si‘i ki‘i ta‘ahiné. ‘Ā foki lā tona kei velivelí pea mole hina tahi ke falanaki ki ai. Ko ia foki lā ia, ne‘e tonu ko tona koloá ne falanaki ki ai tona ma‘ulí. Ko ia lā ne‘e ‘ita mamahi ai o tagi. Pea ulu atu pē ki fale, ma‘u te mo‘i lama, ma‘u mo te mo‘i lega peá na haga o fafa‘o ki te ipu. Pea hifo ifo ia ki te ‘oné o kila atu ki te loto taí, e i ai te maka e tu‘u mai i te loto taí. Pea hifo. Tana hifo atu pē ‘aia o kaku ki te fuga maká o tu‘u ai. Tu‘utu‘u, fai pē tana ‘ū fakakaukau. Tagi. Fai leva ‘aē si‘aná tagí: Teletele mai hina ika e ‘uō ke tafea mai Tokelau ― 307 ― Tali e te pone. Kā ne ko te temi ‘aia, ko te poné, ne kei hihina ‘osi ia. Pea fehu‘i ai e Hina: “Pone, e ke tele mai ‘aená koe ko he ika tele poto pe ko he ika tele vale?” Pea tali atu e te poné: “Hina, ko au ko te ika tele vale kae kuau tele mai pē he kuau mālie‘ia pē si‘au tagí.” “‘Io, hōhō mai.” Mafuli ia Hina o to‘o te mo‘i lamá, vali ‘uli‘i kātoa te poné. Pea ui atu e Hina: “‘Alu.” ‘Alu ai lā te poné. Tou sio pē lā tātou, ko te ika ‘uli pē lā ia e nonofo mo tātou i hení, ko te pone. Pea tu‘u. Tana tu‘utu‘u ‘aia pea tagi: Teletele mai hina ika e ‘uō ke tafea mai Tokelau Tali e te manini. I te temi ‘aia, ne hina pē te maniní, he‘eki he ki‘i pulepule ne kua taka i ai. Pea ui atu e Hina: “Manini, e ke tele mai nā ko he ika tele poto pe ko he ika tele vale?” “Hina, ko au ko te ika tele vale pē kae kuau mālie‘ia pē si‘au tagí.” “Hōhō mai.” Mafuli mai ia Hina o to‘o iá te mo‘i lamá o tohi ‘aki pē. Ko ia lā, tou sio kua pulepule ai te maniní ia. Ui atu e Hina: “‘Alu.” Tu‘u. Tana tu‘utu‘u pē ‘aená pea toe tagi: Teletele mai hina ika e ‘uō ke tafea mai Tokelau Toe tele te poné. Ka kua ‘osi ‘uli te poné ia. Tele te poné. Toe ui atu e Hina: “‘Io, pone. E ke tele mai nā ko he ika tele poto pe ko he ika tele vale?” “Hina, ko au ko te ika tele vale kā kuau mālie‘ia si‘aú tagí.” “‘Io, hōhō mai.” To‘o te mo‘i lega o ‘avahi tona ‘ū kapogá o vali ‘aki. Ko ia lā tou higoa iā ‘aho nei ko te pone ‘afiga mea. Pea toe tagi ai leva ia Hina. Tagi lā ia: Teletele mai hina ika e ‘uō ke tafea mai Tokelau Tele te fonu. Ui atu leva e Hina: “Fonu, e ke tele mai nā ko he ika tele poto pe ko he ― 308 ― ika tele vale?” “Ko au ia ko te ika tele vale kā kua tele mai pē au ko ta‘aku pē sio mai ki tau tu‘ú.” “‘Io, hōhō ki te faha‘i ‘aē age o nofo ai. Fakalogologo mai.” Kae tu‘u pē ia Hina. Tagi: Teletele mai hina ika e ‘uō ke tafea mai Tokelau Tele te fai. Ne ko te iká ia ne kei taka fuafua ia. Tali ia Hina: “Fai, e ke tele mai nā ko he ika tele poto pe ko he ika tele vale?” “Hina, fakalelei tou lotó he ko au ko te ika tele vale ia kae kuau tele mai pē au i taku kua sio mai ki ‘ou matá.” “‘Io, hōhō mai.” Mafuli ia Hina ia o tuku iá te ipú mo te legá mo te lamá ki lalo kae hōhō ake leva te faí, kua pipiki ake pē ki te fu‘u maká. Hihiki Hina o tu‘u i te fo‘i ‘ulú. Ko ia lā kua lēsili ‘osi age tona lahí kote‘uhí ne‘e tu‘uli ia e Hina. Pea ui atu e Hina: “‘Alu lā he kuá ke laulahi.” ‘Alu atu ai ia fai ia. Kae ui atu leva e Hina ki te fonú: “Hōhō mai lā koe, fonu.” Hōhō mai pē ia fonu pea heka ia Hina, ‘alu te vaká. Olo, olo, olo. Ui mai e te fonú: “Hina, kā kuá ke fia inu koe, ko ená pē te talua‘i niu e tau i toku ikāmuli o inu hou fo‘i niu.” ‘Aená o inu tona fo‘i niú, pea lea mai te fonú: “Hina, kaá ke fia kai tona kano‘i niú, peá ke haga o tuki‘i i toku paletaí.” Mafuli ia Hina, hiki te fo‘i niú, tuki‘i ki te fo‘i ‘ulu o te fonú. Kua tapalutu foki te fonú o tō ai ia Hina. Fai, fai te fonú, kua toe ‘ofa foki i te fekāuga‘aki a si‘i ki‘i ta‘ahiné. Ha‘u o fakaheka, olo. Ta nā olo atu pē ‘aená o hake i te fenua ia e i ai te fo‘i vaitafe. Hake ai. Ko te fuafua pē ‘aia e te fonú te kua tu‘u o te ‘ū va‘e o Hiná ki te kelé peá na fakahifo atu. “Pea ko tau hake ‘aē ko te vai ‘aení, ko te vai o te tautēhina. Pea ko te vai e mole hoko mā‘anu‘i. E le‘ohi mai pē iá te vaí.” Pea hake ai leva ia Hina. I tana hake atú, e i ai te kau le‘o e nofo ‘aki mai. Pea kua ‘osi sio mai te kau le‘ó ia kā mole he‘eki ‘ilo‘i ia e Hina te kau le‘ó. Ko te hake atu pē ‘aia te ta‘ahiné o nofonofo pē i te fuga vaí pea hifo ia o mā‘anu. Tana ‘aia hifo o mā‘anu kae nofo iá te kau le‘ó ia i te vākai foki ia o te ta‘ahiné i tona finemuí. ‘Osi te le‘o ia ‘aia pea ― 309 ― hahake iá te kau le‘ó ia. Olo atu ia o fetaulaki atu mo te kau le‘o ia ‘aē e hifo maí pea tala age e nātou: “Tou liliu tātou. Si‘aki ta‘a koutou olo ki te vaí, mole he me‘a ia e fai i te vaí. Tou liliu tātou. Tou ui age kiā Si‘aki ke mālōlō noa ia, mole he tahi ia e ‘alu ki te vai.” Kae tā ko ta natou haga ‘aia o kākaa‘i te kau le‘ó kae olo o taki toko tahi ifo nātou ki te vaí, ko ta‘a natou ‘aia fai, ko te olo ifo pē ia o fakasiosio iá te ta‘ahiné i te temi fuli, mole kei tala ia ki te ‘aliki o nātoú. Hoki fokifā i te tahi ‘aho, e ha‘u ta‘aná tama fekau a Si‘aki. Ko te pule leva ko Si‘aki. Kua fekau ia e Si‘aki ke ha‘u te tagata kehe ia o ulu kehe mai o fakasiosio te kau le‘ó. Ulu mai lā te tamá ia, mole sio ia ki te kau le‘ó, ko te ta‘ahiné ia e mā‘anu i te vaí. Pea liliu ai te tamá ia o fakahā age kiā Si‘aki e mole ‘ilo‘i te kau le‘ó ia pe e nonofo i fea he kua pupuli ia, kā ko ení te ta‘ahine e mā‘anu i tou vaí pea ko te ta‘ahine finemui ‘aia. Pea tā atu ai te lali. Mā‘opo‘opo te fenuá kātoa, tā te fata. ‘Amo ia Si‘aki, hifo ki te vaí. Hifo atu lā ‘aia, e mā‘anu mai te ta‘ahiné i te vaí. Pea mo‘oni foki te palalau ‘aē ne‘e fai e te tamá. Pea ko te finemui o te ki‘i ta‘ahiné, ‘aia ne‘e sio mai ai ia Si‘aki pea tuku fakalogologo te fatá ki lalo. “‘Aua na‘a koutou logoa‘a kae tuku kau ‘ahi‘ahi fa‘si‘i te va‘akau pea kāu fasi‘i nei au pea pā te va‘akaú, kae kila mai pea ko te ta‘ahine mālama pea kā e mole kila mai ‘anai ia pea tou feholaki, ko te ta‘ahine temonio.” Pea mafuli mai pē Si‘aki o fakamapā te va‘akaú pea ‘oho te ta‘ahiné i te loto vaí o kila mai. Pea ui atu pē ia e Si‘aki tā ko te ta‘ahine mālama. “Tou olo, tou olo ki ai.” Omai ‘aená o to‘o te ta‘ahiné e Si‘aki o taupau, nā ‘ohoana ai leva. Pea ko te fafine sinifu fuli o te fenuá, ne fa‘ofa‘o fuli ai leva ia nātou ki te fo‘i fale e tahi. Pea kua ui e si‘i haha‘i fafiné ko to‘o natou fale ‘aia e nonofo ki ai. Ko ta natou nonofo fakatahi ‘aia ki te falé pea penisini leva ia tu‘a ia o tutu. Mate kātoa te kāiga fuli ‘aia ne nofo i si‘i loto falé. Kae nofo ai leva ia Hina pea mo Si‘aki o fakahaha‘i iá te fenua ‘aia o kaku mai kiā ‘aho nei. Ko tona gata, kāiga. ― 310 ― 訳: 今晩、目を覚ましているためのお話をもうひとつ。もし、良くなければ、 お許し下さい。慌ただしい中でしたことですから・・・。今からするお話 ですが、ある夫婦のお話です。暮らしていると、ヒナという女の子が生ま れました。外国の物はありませんでしたが、ッウヴェア 25 の物は持っていま した。ずっと、ずっと暮らしていると、お父さんとお母さんは年を取りま したが、ヒナはまだ小さな子供でした。突然のことですが、ある日、女の 子が来て見ると、お父さんは亡くなっていました。財産を半分にして、お 父さんを半分の財産と一緒に葬りました。三日経ってまた来て見ると、お 母さんが亡くなっていました。財産を半分にして、また持って来て、お母 さんのために供えました。そして、女の子はひとりで暮らしました。 ずっと、ずっと暮らしていましたが、長い時間が経ったので、ッウ ヴェアでするように、持ち物を持ち出して日に当てました。そして、行っ て横になり、居眠りをしてしまいました。突然、雨と突風が起こりました。 持ち物は全て吹き飛ばされて、完全になくなってしまいました。女の子が 目を覚ますと、持ち物は見えなくなっていました。女の子は悲嘆にくれて 泣きました。まだ小さくて、頼る人はいませんでした。そういうわけで、 暮らしていくにはその財産に頼らなければならなかったのです。それで、 悲しい怒りに見舞われました。女の子は家に入り、ラマ 26 を手にし、レンガ 27 を手にし、それを瓢箪に入れました。そして、海岸に行って海を見ると、 海の中に岩が立っていました。女の子は行きました。岩の上まで行き、そ こに立ちました。立って考えました。泣きました。そして、唄いました: お魚さん、北から流されて泳いでいらっしゃい。 ポネ 28 が答えました。しかし、その頃、ポネはまだ真っ白でした。ヒナは 聞きました:「ポネさん、サッと泳いで来たけれど、あなたは泳ぐのが器 用、それとも、不器用?」ポネは答えました: 「ヒナ、僕は泳ぐのが不器 ― 311 ― 用。けれども、あなたの唄が気に入って泳いで来たんだ。」「そうなの。こ ちらにいらっしゃい。 」ヒナはラマを取って、ポネを真っ黒に塗りました。 そして、言いました: 「行きなさい。 」ポネは行きました。そういうこと で、私たちと一緒にいるポネは黒いのです。ヒナは立ちました。立って唄 いました: お魚さん、北から流されて泳いでいらっしゃい。 マニニ 29 が答えました。その頃、マニニは白い色をしていて、まだブチの 模様が付いていませんでした。ヒナは言いました: 「マニニさん、サッと 泳いで来たけれど、あなたは泳ぐのが器用、それとも、不器用?」「ヒナ、 僕は泳ぐのが不器用。けれども、あなたの唄が気に入って泳いで来たん だ。 」「こちらにいらっしゃい。 」ヒナはラマを取って描きました。そうい うわけで、マニニはブチになったのです。ヒナは言いました: 「行きなさ い。 」ヒナは立ちました。立って、また唄いました: お魚さん、北から流されて泳いでいらっしゃい。 ポネがまた泳いで来ました。ポネはもう黒い色をしていました。ポネは泳 ぎました。ヒナは言いました: 「そうね、ポネさん。サッと泳いで来たけれ ど、あなたは泳ぐのが器用、それとも、不器用?」「ヒナ、僕は泳ぐのが 不器用。けれども、あなたの唄が気に入ったんだ。」「そうなの。こちらに いらっしゃい。」レンガを取り、ポネのエラを開いて塗りました。それで、 今、ポネ・ッアフィンガ・メア 30 という名前でよんでいるのです。ヒナはま た唄いました。唄ったのです: お魚さん、北から流されて泳いでいらっしゃい。 ― 312 ― カメが泳いで来ました。ヒナは言いました: 「カメさん、サッと泳いで来た けれど、あなたは泳ぐのが器用、それとも、不器用?」 「僕は泳ぐのが不器 用。けれども、あなたが立っているのを見たから、泳いで来たんだ。」「そ うなの。こちら側に来てそこにいてちょうだい。静かにしていてね。」ヒナ は立ちました。唄いました: お魚さん、北から流されて泳いでいらっしゃい。 エイが泳いで来ました。エイはまだ丸い頭をしていました。ヒナは答えま した: 「エイさん、サッと泳いで来たけれど、あなたは泳ぐのが器用、それ とも、不器用?」 「ヒナ、気を悪くしないでね。僕は泳ぐのが不器用。けれ ども、あなたの目を見たから、泳いで来たんだ。 」「そう。こちらにいらっ しゃい。 」ヒナは瓢箪とレンガとラマを下に置きましたが、エイは体を岩に ピタリと付けました。ヒナは下りて、エイの頭を踏みました。そういうこ とで、ヒナが踏みつけたためにエイは平たくなったのです。そして、ヒナ は言いました: 「行きなさい。大きな幅の体になったでしょう。」エイは行 きました。ヒナはカメに言いました: 「こちらにいらっしゃい、カメさん。」 カメは寄って来て、ヒナは乗り、舟は発ちました。 ずっと、ずっと、ずっと行きました。カメは言いました: 「ヒナ、 もしノドが渇いたら、僕の甲羅の後ろに椰子の実をふたつ繋いだものがぶ ら下がっているから、それを飲んでね。 」そこで、椰子の実を飲みました が、カメが言いました: 「ヒナ、もし実を食べたかったら、僕の甲羅の肩 で叩いてね。」ヒナは振り向いて、椰子の実を振り上げ、カメの頭に叩き 付けました。カメは気が動転して、ヒナは転げ落ちてしまいました。やが て、カメは女の子が泳ぎ回っているのを見て可哀想になりました。カメは やって来てヒナを乗せ、ふたりは行きました。そうして、ふたりは行き、 川がある国で陸(おか)に上がりました。陸に上がったのです。カメはヒ ナの足が地面に着いたと考えて、ヒナを降ろしました。「陸に上がったら、 ― 313 ― すぐそこにある池だけれども、ある兄弟の池なんだ。その池では水浴びを してはいけないんだ。見張りが見張っているよ。 」それから、ヒナは陸に 上がりました。 陸に上がると、そこには見張りたちが構えていました。見張りたち はヒナを見ましたが、ヒナは見張りたちにまだ気づきませんでした。女の 子は陸に上がると、池の縁にただボサッと座っていましたが、やがて下り て行って水浴びをしました。下りて行って水浴びをしましたが、見張りた ちがいて、その女の子の美しさをじっと見ていました。見張りの時間が終 わり、その見張りたちは山の方に向かいました。行くと、下りて来る見張 りたちと出会って言いました: 「帰ろう。行くのはやめてしまえ。池では 何も起こっていないよ。帰ろう。シッアキにはただボサッとしているよう に・ ・ ・池に行く者は誰もいないと伝えよう。 」けれども、それはその見 張りたちを騙すために言ったのでした。そして、自分たちは一人ひとり池 に下りて行きましたが、それはいつも女の子を覗き見するために行っただ けで、主には何も伝えませんでした。 そして、突然のことですが、ある日、シッアキの使いが来ました。 シッアキというのが長でした。シッアキは別の男に別の道を通って来て、 見張りたちを伺うように命じたのでした。その男が来ると、見張りたちは 見当たらず、女の子が池で水浴びをしていました。男は帰って、見張りた ちは姿をくらましてしまって、どこにいるのか分からないとシッアキに伝 えました。そして、池では女の子が水浴びをしているけれども、きれいな 女の子であると・ ・ ・。そこで、ラリ 31 を打ち鳴らしました。全ての人が 集まり、輿を作りました。そして、シッアキを担ぎ、池に下りて行きまし た。下りて行くと、女の子が池で水浴びをしていました。男の言ったこと は本当でした。シッアキの見た女の子は大変きれいで、輿を静かに下にお ろしました。「音を立てるな。私に枝を折ってみさせてくれ。もし、私が 枝を折り、枝がポキリと音を立てて、女の子がこちらを向いたら、生身の 女の子だ。もし、その時、こちらを向かなかったら、みんな逃げよう。テ ― 314 ― モニオ 32 の女の子だ。 」シッアキが音を立てて枝を折ったところ、池の中 にいた女の子はハッとして、こちらを向きました。そこで、シッアキは生 身の女の子であると考えました。 「行こう。女の子のところに行こう。」み んな帰って来て、シアッキが女の子を手に入れ、世話をしましたが、ふた りは結婚しました。その国のすべてのめかけは、大きなひとつの部屋に入 れられました。可哀想に、その女たちはそれが自分たちの住む家だと思い ました。みんなその家に集められましたが、外にガソリンをかけられ、火 を付けられました。その家の中にいた者はみんな死んでしまいました。一 方、ヒナとシッアキは暮らし、今に至るまで国に子孫を残しました。みな さん、おしまいです。 注: 1. ウォリス島の言語では同島のことをッウヴェア(‘Uvea)とよぶ。しかし、西 方のメラネシア南西部、南緯 20 °〜22 °、東経 164 ° 〜167 ° に位置するニュー カレドニア(New Caledonia 仏 Nouvelle Calédonie)島の東海岸に沿って約 100 km 離れたところに列を成して並ぶロヤルティー諸島(Loyalty Islands 仏 Îles Loyauté)の北端にウヴェア(Ouvéa)という名前の島が存在することから、 それと区別して前者を東ウヴェア、後者を西ウヴェア、または、前者をウォ リス、後者をウヴェアとよぶことが広く行われている。本稿ではウォリスと いう名前を採用したが、この名前はヨーロッパ船として同島を初めて訪れた ドルフィン(Dolphin)号の船長の名前に由来する。 2. Pteropus sp. 体長 17 cm、翼開張 60 cm ほどの大きさになる。 3. 「パンノキ」Artocarpus altilis(Parkinson)Fosberg. 高さが 10〜20 m になるク ワ科の常緑高木。直径あるいは長さが 15 cm 以上の大きさになる球形ある いは楕円形の実は芋類・バナナ等とともに重要な主食となる。木材は家屋を 建築したり、舟を製作するのに利用される。樹皮は樹皮布の材料として、ま た、樹皮の繊維をよった紐は漁網を編むのに使われる。葉柄が結膜炎の薬と なる。 4. 「セイケイ」Porphyrio porphyrio Linnaeus. ツル目クイナ科セイケイ属の鳥。 全長 37〜50 cm で、腹部は青みがかった色をしているが、翼から背部にかけ て黒みを帯びている。下尾筒は白く、歩く時に尾を上下に動かすので、よく ― 315 ― ウォリス ↓ フトゥナ → ヴァヌアトゥ フィージー ニュー カレドニア サモア ←ニウアフォッオウ トンガ オークランド ニュージーランド ウェリングトン クライストチャーチ 地図Ⅰ. (Wurm Stephen A. and ShirÔ Hattori, eds, 1981, Key to Map Plates に基づいて作成) 目立つ。くちばしと額板ならびに大きな足は朱色をしている。飛ぶことはあ まりなく、一般に歩き回って活動する。 5. 「フィリピンクイナ」Gallirallus philippensis Linnaeus. ツル目クイナ科クイナ 属の鳥。全長 25〜30 cm で、翼と背部は茶褐色、白い斑が散在し、腹部と脇 ― 316 ― 腹は白黒の横縞模様になっている。胸部には淡褐色の横帯があり、喉ならび に眉斑は灰色、頭頂ならびに後頸、過眼線は赤褐色をしている。また、虹彩 は赤色、くちばしは淡赤褐色、足は灰褐色をしている。注 4 のセイケイと同 様に、飛ぶことはあまりなく、一般に歩き回って活動する。 6. 主食として食べることの出来る芋類・パンノキの実(注 3 参照) ・バナナ等 の総称。 7. 伝統的な料理法。地面に掘った穴の中に石を並べ、火を起こして石を熱し、 その上に葉でくるんだ調理済みの食べ物ならびに芋類・パンノキの実・バナ ナ等を置いた後、枝と葉、土をかぶせて蒸し焼きにする。そのような方法で 作った料理、ならびに、以上のように整えた穴のこともッウムという。 8. 調理した食べ物を葉にくるんでッウム(注 7 参照)で蒸し焼きにした料理の 総称。 9. 「サトイモ」Colocasia esculenta(Linnaeus)Schott. サトイモ科の多年草。茎は なく、地下に出来る球茎に長さ 1 m ほどの葉柄が付き、その先に長さ 50 cm ほど、幅 30 cm ほどの大きさの葉が付く。球茎ならびに吸根が主食となる。 また、葉と葉柄も食用になる。多くの品種がある。今日では、同じサトイモ 科の多年草であるヤウティア(Xanthosoma sagittifolium Schott)も広く栽培さ れている。ヤウティアは20世紀になってからもたらされたもので、サトイモ によく似ているが、主として根茎のまわりに出来る吸根を主食とする。 10.「ダイジョ」Dioscorea alata Linnaeus. ヤマノイモ科の多年性蔓植物。芋が主 食となる。芋は円柱形をしたものが最も一般的に見られ、30 kg ほどの重さ になるものもあるが、品種が多く、芋の形・大きさもさまざまである。 11.「インドクワズイモ」Alocasia macrorrhiza(Linnaeus)Schott. サトイモ科の多 年草。サトイモに似ているが、より大型で、長さ 1 m 以上、直径 15 cm 以 上になる茎に長さ 1 m ほど、幅 60 cm ほどの大きさの葉が付く。茎と根茎 が主食となる。 12. ウォリス島を取り囲む珊瑚礁。地図 Ⅱ. 参照。 13. シャコガイ科の二枚貝。シラナミガイ(Tridacna maxima[Röding])とヒレ ジャコ(Tridacna squamosa Lamarck)が一般的に見られる。両者とも潮間帯 から水深 20 m ぐらいまでの珊瑚礁に生息し、シラナミガイは殻長 30 cm ほ ど、ヒレジャコは殻長 40 cm ほどに成長する。食用となる。 14. 無意味語。このカラエの言葉に続く箇所で、語り手が説明しているとおり、 ガッエンガッエを指している。 ン ― 317 ― ヌクロア島 ヌクテアテア島 ヴァイララ ヌクタプ島 ヴァイトゥプ アーレレ ツ ヒヒフォ地区 ラノ リク ハハケ地区 アカアカ ムッア地区 地図Ⅱ. (Burrows, Edwin G., 1937:9 に基づいて作成) 15. 無意味語。ンガッエンガッエの肉を指している。 16. 無意味語。ンガッエンガッエの殻を指している。 17. 刻んだ肉類(鳥獣・魚貝類の肉)に細かく削った椰子の果肉から絞り出した 汁をかけ、塩で味付けをした上でタロ(注 9 参照)の若葉に包み、さらにバ ナナの若葉にくるんで口を閉じ、ッウムで料理したもの。外側のバナナの葉 はいわば器の役割を果たすもので食べられないが、内側のタロの葉は肉類と ― 318 ― 一緒に食べる。 18. ウォリス島を取り囲むサンゴ礁の北東部に位置する小島のひとつ。地図 Ⅱ. 参照。 19. ウォリス島の北東部に位置する村。地図 Ⅱ. 参照。 20. ウォリス島の北東部に位置する村。地図 Ⅱ. 参照。 21. アーレレ村を支配していた酋長。 ッ 22. ヴァイトゥプ村を支配していた男。酋長の身分ではなかった。 23. ムナグロ(Pluvialis dominica fulva Gmelin チドリ目チドリ科)をはじめとす る何種類かの渡り鳥。全長 25〜35 cm の鳥で、だいたい上面は淡黄褐色、下 面は白い。 24. アーレレ村は南側から順番にンガームッア(Gāmu‘a)、ッアラー ( ‘Alā)、カー ッ レヴァ(Kāleva)、マレラパ(Malelapa)のよっつの部分に区分されているが、 その南からふたつめの部分。 25. ウォリス島のこと。注 1 参照。 26. トウダイグサ科の高木であるアカギ(Bischofia javanica Blume)の樹皮を絞 り、その樹液にやはりトウダイグサ科の高木であるクワイノキ(Aleurites moluccana[Linnaeus]Willdenow)の実を焼いて作った煤を加えた黒色の染 料。刺青ならびに樹皮布等の彩色に使用する。 27. ショウガ科の多年草であるウコン(Curcuma longa Linnaeus)の根茎から作っ た顔料。ウコンの根茎を磨り下ろし、水を加えて漉し、沈殿させた後、水を 取り除き、上層部に沈殿したきめの細かい抽出物をッウム(注 7 参照)で蒸 し焼きにして作る。オレンジ色をしており、椰子の実の油とともに、顔・手 足・毛髪などに塗り付ける。皮膚に対する薬用効果もあるとされている。 28. ニザダイ科の魚。Acanthurus sp. 全体的に黒い色をしたものが何種類か見ら れる。 29.「シマハギ」 Acanthurus triostegus Linnaeus. ニザダイ科の小型魚。成長すると、 全長 20 cm ほどになる。白い体に黒い横縞がある。 30.「黄色い脇のポネ」という意味。モンツキハギ(Acanthurus olivaceus Schneider) のこと。ニザダイ科の小型魚で、全長 25 cm ほどになる。成魚はほぼ全体が 黒い色をしているが、鰓孔後方に長楕円形をしたオレンジ色の斑紋がある。 31. 木の塊の一側面をくり貫いて、幅が狭く、底の深い器のような形にして作っ た木製の太鼓。くり貫いた面を上にして置き、脇に立って側面をこん棒のよ うな形の撥(ばち)で叩いて鳴らす。集会等のために人を徴集する合図を打 ― 319 ― ち鳴らすのに使われる。 32. < ラテン語 daemonium. 霊的な存在。死者の霊魂で、時に、人によって目撃 され、多くの不可解な出来事がその仕業とされるほか、数々の言い伝えに登 場して超人的な活躍をする。 参考文献 阿部宗明(監修) 1987 原色魚類大圖鑑.東京:北隆館. 内田清一郎 島崎三郎 1987 鳥類学名辞典.世界の鳥の属名種名の解説・和名・英名・分布. 東京:東京大学出版会. 奥谷喬司(編) 2004 改訂新版 世界文化生物大図鑑.東京:世界文化社. 日外アソシエーツ編集部 2004 植物レファレンス事典.東京:日外アソシエーツ株式会社. バードライフ・インターナショナル(総監修)山岸哲(日本語版総監修) 2009 世界鳥類大図鑑.東京:ネコ・パブリッシング. 堀田満(編集) 1989 世界有用植物事典.東京:平凡社. 益田一(解説・写真) 1987 フィールド図鑑 海水魚 <補訂版>.東京:東海大学出版会. 山階芳麿 1986 世界鳥類和名辞典.東京:大学書林. 吉井正二(監修)三省堂編修所(編) 2005 世界鳥名事典.東京:三省堂. Bataillon, P. 1932Langue d’Uvea (Wallis): Grammaire-Dictionnaire Uvea-Français, Dictionnaire Français-Uvea-Anglais. Paris: Geuthner. Burrows, Edwin G. 1937Ethnology of Uvea (Wallis Island). Bernice P. Bishop Museum Bulletin 145. Dick Watling 1982 Birds of Fiji, Tonga and Samoa. Wellington: Millwood Press. ― 320 ― Malau, Atoloto, Atonio Takasi & Frédéric Angleviel 1999101 Mots pour comprendre Wallis et Futuna. Publication du Groupe de Recherche en Histoire Océanienne Contemporaine. Nouméa: Île de Lumière. Pratt, Douglas, Phillip L. Bruner & Delwyn G. Berrett 1987A Field Guide to The Birds of Hawaii and the Tropical Pacific. Princeton: Princeton University Press. Service Territorial de la Jeunesse et des Sports 2003 Un Herbier: Wallis & Futuna. Nouméa: EIP Nouméa. Whistler, A. Arthur 2009Plants of the Canoe People: An Ethnobotanical Voyage through Polynesia. Lawai: National Tropical Botanical Garden. FAKAMĀLŌ E au fia fakamālō lahi ki te haha‘i fuli ne‘e natou tokoni mai i te fa‘ufa‘u o te gāue ‘aení, tāfito kiā nātou ‘aē ne‘e natou fai te ‘ū fāgoná — ko to natou higoá, e tu‘u i te fakamatala ki te fāgona taki tahi — pea mo Sako Makilina, ‘aē ne‘e ina fakamahino mai te ‘ū me‘a faigata‘á, pea mo Moseniolo Lolesio Fuahea, Moseniolo Ghislain de Rasilly, Pātele Falakiko (François) Jaupitre, Felela Mikaele ‘Akile‘o Kaikilekofe mo te kau felela mo te kau gāue fuli i Lano, ‘aē ne‘e natou tali lelei au i taku ‘alu ki ‘Uveá pea mo natou tauhi au i te ‘aho fuli. ― 321 ― 文法記述における形式と意味について ―可能表現を中心に― 呂 雷 寧 1.はじめに 文法記述は形式と意味のいずれを基準にすべきであろうか。これは多く の文法家により古くから議論されてきた問題である。 文法記述をする際、形式と意味はいずれも無視できない重要な二側面で あり、両者は相互に依存し、補い合う関係にある。本稿では、意味だけに 依拠した文法記述法は妥当ではないということ、すなわち文法記述の一次 的基準は形式であり、意味は副次的基準として援用されるべきであるとい うことを指摘する。 2.張の結果可能表現 意味を基準とした文法記述は数多くなされてきた。可能表現について言 うと、その代表的な例として張(1998)が挙げられる。 張は、日本語と中国語の対照研究という立場から、日本語に無標識の可 能表現が存在するとしている。そして、これを「結果可能表現」と呼び、 次のように定義している。 <結果可能表現>とは、動作主がある状態変化を実現しようとして動 作を行う場合、動作がなされた後、主体的または客体的条件によって、 動作主に意図された目的、即ちある出来事またはある種の状態変化が動 作主の思い通りに実現することができるかできないかを表わす可能表現 ― 323 ― である。 (p99) 張は「結果可能表現のポイントは動作によって引き起こされる状態変化 に置かれている」としている。そして、 「有対自動詞表現」は状態変化を表 すことが多いため、日本語の結果可能表現の主流であると述べている。次 の有対自動詞表現(1) 、 (2)はいずれも、張の言う結果可能表現である。 (1) 腕が痛くて手が上がらない。 (2) 水と油はよく混ざらない。 (張 1998:89) (張 1998:280) 張は、 (1)には「手を上げようとしても」という動作主の意図を示唆する 他動詞表現が潜在するとしたうえで、 (1)は「動作主には手を上げようと する意図があるが、残念ながら腕が痛いので、その意図した手が上がると いう状態変化が実現できない。 」 (p89) という意味であると述べている。そ して、 (2)についてもこれと同様の説明ができるという。 張はまた、「動作主の意図した出来事は動作主の動作が行われた後、動 作主の思い通りに実現した、または実現しなかったという意味を表わす」 (p188)過去形の結果可能表現もあるとして、次の例を挙げている。 (3) 解熱剤を飲んだら、熱が下がった。 (張 1998:176) (3)は、張によれば、 「 『解熱剤を飲む』という動作が行われた後、動作主 (解熱剤を飲む人)の思い通りに『熱が下がる』という出来事が未実現の状 態から実現済みの状態に変化したという意味を表わしている」 (p176)と いう。 さらに張は、結果可能表現の条件が満たされれば、無対自動詞も他動詞 も結果可能表現になり得ると述べ、そのような例として次の(4)、 (5)、 (6) を挙げている。 ― 324 ― (4) たくさんの睡眠薬を飲ませても、あの人は死ななかった。 (張 1998:108) (5) あやまっても、許してくれない。 (張 1998:227) (6) もう少しまけてくれれば買うよ。 (張 1998:135) これらの文を結果可能表現とする理由について、張は次のように述べて いる。 まず(4)について、 「動作主は『たくさんの睡眠薬を飲ませる』という 動作を手段にして、 『あの人が死ぬ』という状態変化を引き起こそう(即ち あの人を殺そう)とした。ところが、 『たくさんの睡眠薬を飲ませる』とい う動作が行われても、 『あの人が死ぬ』という意図は思い通りに実現できな かった、言わば動作主の意図が結果的に実現不可能であったという意味を 表わしている」 (p108)という。 (5)については、 「動作主(あやまる人)が『 (相手が)許してくれる』 こと(意図した状態変化)を実現するために、 『 (相手に)あやまる』とい う動作をしようとする。しかし、たとえ『あやまる』動作が行われるとし ても、 『 (相手が)許してくれる』という動作主の意図した目的が実現でき ない」 (p115)という意味を表しているという。また(5)は、可能のマー カーが用いられた次の(7)に書き換えられても、「本来表明しようとして いた意味は基本的に変わらないと感じられ」 、 「 『相手があやまる人を許す』 という事態が成立し得ないという意味においては」 (p116)、両者は相通じ ているという。 (7) あやまっても、許してもらえない。 そして(6)については、 「 『 (この商品を)買う』という事態は未実現の 状態から実現済みの状態への転換という『状態変化』の一つとして捉えら れるので、 『 (値段を)もう少しまける』という動作主(すなわち商売をす ― 325 ― る人)の意図する目的であり得る」 (p135)と述べている。 以上から分かるように、張が言う「意味」は単に統語論レベルにとどま らず、語用論レベルにも及んでいる。意味をこのように捉えたうえで、上 記のような論理を展開していくと、可能表現の枠はどんどん広がっていく ことになろう。すなわち、ある動作あるいは状態が誰かの目的に関わるよ うなものとして捉えることができれば、その表現はすべて可能表現という ことになる。したがって、可能の意味に対する張のこの捉え方には問題が あると言わざるを得ない。 張の主張における最大の問題点は、形式を完全に度外視し、意味を可能 表現であるか否かの唯一の判断基準とするところにある。「可能の形式」 は「可能の意味」と同様に、可能表現に欠くことのできない要素である。 張のように形式を無視すると、可能表現はその範囲がぼやけ、文法カテゴ リーとして掴み所のないものになってしまうであろう。 3.意味を基準にした文法記述法の問題点 文法記述において、形式と意味はいずれも無視できない重要な側面であ り、両者は依存し合い、補い合う関係にある。Jespersen(1958:23)が言 うように、 「文法家はいずれの面をもおろそかにすべきではない、いかなる 言語の文法構造も、その全貌を伝えるには機能、形態共に必要だからであ る」 。また、仁田(1997:73)が言うように、文法記述は、「文の有してい る観察可能な<表現形式>を、当の文が担い表したであろう<意味内容> を過不足なく指定できる形で、分析・記述するものでなければならない」。 つまり、 「文の表現形式と文の意味内容とを有機的・統合的に分析・記述す る務めが、文法記述には存する」 。その中で、形式は「意味内容を統一のあ るものにするために、構造化しているのである」 。 意味だけに依拠した記述は、さまざまな問題を引き起こす恐れがある。 以下では、①概念の外延の無限拡大、②概念間の混同、③意味把握の主観 性の差による文法記述の個人差、④諸言語間の文法構造の同一化、の 4 点 ― 326 ― から、意味だけを基準にした文法記述法が妥当ではないことを論じようと する。 3.1 概念の外延の無限拡大 意味だけを文法記述の基準にした場合、形式の異なる同意表現がすべて 同じ文法カテゴリーに入ることになる。そして、外延が無限に拡大するに つれ、概念が把握できなくなるという問題が生じてくる。このことを、可 能表現、使役表現、受身表現の例を挙げて論じることにする。 3.1.1 可能表現とその同意表現 可能表現には、許可・禁止を表す表現、認識上の可能・不可能を表す表 現(1)がある。本節では、これらの表現とその同意表現を取り上げて検討す る。 まず、許可・禁止を表す可能表現について見てみよう。 (8) 会員は、会費を年 3 回に分けて支払うことができる。 (9) このプールは会員以外利用できない。 (8)は、 「会員」に関しては「会費を年 3 回に分けて支払うこと」が許可さ れるという意味を表している。これに対して(9)は、「会員以外」は「こ のプール」を「利用する」ということが禁止されていることを意味してい る。 (8)における「許可」 、 (9)における「禁止」はそれぞれ次のように、 許可表現、禁止表現によっても表すことができる。 (8) ’会員は会費を年 3 回に分けて支払ってもいい。 (9) ’このプールは会員以外利用してはいけない。 「許可」の意味を表すという点においては、 (8)と(8)’は相通じてい る。同様に、 (9)と(9) ’はいずれも「禁止」という意味を表している。 したがって、張のようにもっぱら意味に依拠すれば、 (8)’と(9)’はいず ― 327 ― れも可能表現であると言えよう。つまり、 「てもいい」を用いた許可表現、 「してはいけない」を用いた禁止表現が可能表現の枠組みに入ることにな る。さらに、 「かまわない」 、 「してはだめだ」などを用いた表現もすべて可 能表現になってしまう。 認識可能表現とその同意表現についても同じことが言えよう。認識可能 表現はある事柄の成立が可能かどうかという認識上の可能性の有無を表す 表現である。換言すれば、認識可能表現によって表されているのは、話者 の判断から見た、ある事柄の成立する可能性があるか否かということであ る。次の(10)は「うる」による認識可能表現で、話者の判断により、 「そ れ」が「ヒントになる」可能性があるという意味を表している。 (10)しかしそれが、小さな素粒子の世界がどんなものかということを考 えるときのヒントになりうる……。 (金子 1980:71) こういった可能性を表すことができるものとして、認識可能表現以外、助 動詞「だろう」 、 「かもしれない」を用いた推量表現、 「ことが(は、も……) ある」 (以下は「ことがある」類と称する。 ) 、 「公算がある」、 「恐れがある」、 「可能性がある」 を用いた表現を挙げることができる。以下、これらの表現 がどのように可能性を表すかを考察する。まず、推量表現について見てみ よう。 (11) その後、台風はまっすぐ中国東北区方面に向かう見込みだが、 ひょっとすると向きを次第に東寄りに変え、北日本に近づいてく るかもしれない。 (寺村 1984:235) (11)’その後、台風はまっすぐ中国東北区方面に向かう見込みだが、 ひょっとすると向きを次第に東寄りに変え、北日本に近づいてく ることがあり得る。 ― 328 ― 上の文はいずれも、事柄が成立する可能性の有無を話者の判断により表 している表現である。 (11)と(11) ’における「かもしれない」と「得る」 は、文体の違い、あるいは可能性の大きさや判断の根拠の客観性などにお ける違いを除けば、 「台風は……北日本に近づく可能性がある」という意味 を表す点で共通していると思われる。同様に、上の(10)は「だろう」を 用いた推量表現(10) ’に言い換えられても、 「それが……ヒントになる」 可能性があることを意味している。 (10) ’ しかしそれが、小さな素粒子の世界がどんなものかということを 考えるときのヒントになるだろう……。 以上から分かるように、推量表現は認識可能表現と同様に、ある事柄の 成立する可能性の有無を表すことができる。したがって、意味が文法を規 定する唯一の基準であるとする立場を取れば、このような推量表現は可能 表現の枠組みに入るだろう。 次に、 「ことがある」類について見てみる。仁田(1981)は、「ことがあ る」類は、 「タ」形を受けて「体験の有無」を表す以外に、事象成立の「可 能性」といった意味を表すと指摘している。つまり、 「ことがある」類を 用いた表現は、認識可能と同じ意味内容を表すことができるのである。以 下、具体例を挙げて、両者を比較してみよう。 (12) 熟練した運転手でも事故を起こすことがある。(仁田 1981:90) (13) ときとして人間は打算的になることがある。 (仁田 1981:91) 上の(12) 、 (13)はいずれも、 「事故を起こす」、 「打算的になる」といっ た事象の成立「可能性」の存在を述べている。これらの文における「こと がある」を「得る」に入れ替えると、それぞれ次のような可能表現になる。 ― 329 ― (12) ’ 熟練した運転手でも事故を起こし得る。 (13) ’ ときとして人間は打算的になり得る。 (12) ’ 、 (13) ’はいずれも認識可能表現であり、事象成立の可能性を表すと いう点においては(12) 、 (13)と同じである。このように、「ことがある」 類を用いた表現は、それが「可能性」を表す場合、意味を唯一の判断基準 とすると、可能表現の枠に入ると言えよう。 ところで、仁田(1981)が言うように、 「ことがある」と同種の意義・働 きを有していると見られる表現形式に、 「公算がある」、 「恐れがある」、 「可 能性がある」などがあるが、これらの形式も事象成立の可能性を表すこと ができるのである。したがってこれらの表現も、 「ことがある」類と同様 に、意味を、文法カテゴリーを設定する際の唯一の判断基準とする理論に 従えば、可能表現の枠組みに入れることができるであろう。 3.1.2 使役表現とその同意表現 使役表現は、 「-(s)aseru」によって作られる使役動詞を用いて、「人やも のがある事態を何らかの形で引き起こすことを表す形式である」 (益岡他 1992:105) 。動作主体に働きかけて、ある事態を引き起こすように仕向け るというのは、使役表現の基本的な意味である。こういった意味内容は、 使役動詞のみならず、他動詞、 「~てもらう」を用いた授受表現でも表し得 る。 次の使役文(14)と他動詞文(14) ’を見てみよう。 (14) 日本の小学校は小学生を三時に帰らせる。 (14) ’ 日本の小学校は小学生を三時に帰す。 「小学生」が「帰る」という動作をするように仕向けるという使役の意味を 表す点において、他動詞文(14) ’と使役文(14)は共通している。次の他 動詞文(15) ’も使役文(15)と同じように、 「ゼリー」が「固まる」とい ― 330 ― う状態になるように仕向けるという使役の意味を表している。 (15) 母はゼリーを冷蔵庫に入れて固まらせる。 (15) ’ 母はゼリーを冷蔵庫に入れて固める。 また、「~てもらう」の表現もこういった使役の意味を表すことができ る。益岡他(1992:88)も「 『~てもらう』の表現は使役表現(働きかけの 使役)に対応する場合」があるとしたうえで、 「花子に代わりに行っても らった」という文は使役表現「花子に代わりに行かせた」に対応するとし ている。 このように、使役を含む他動詞表現、 「~てもらう」を用いた授受表現は いずれも、使役の意味を表すことができるので、もっぱら意味に依拠した 文法記述では、これらの表現は使役表現に入り得る。 3.1.3 受身表現とその同意表現 上で述べた事柄は、受身表現にも当てはまる。つまり、意味だけに頼る と、受身の意味を含む表現は、すべて受身表現ということになる。 日本語に受身の意味を含む動詞がたくさん存在していることは、これま で多くの研究者によって指摘されてきた。 森田(1996:345)は、 「語によっては、その意味が受身文型を要求する もの、また、語義そのものに受身的要素が含まれているため、ことさら受 身文型を取らないが、意味的には受身そのものを成すものなど、いろいろ である」としている。そして、受身の意味を含む例として、森田に「預か る」 、 「掛かる」 、 「捕まる」 、 「受ける」などが挙がっている。「預かる」につ いて、森田は以下のように説明している。 「預ける/預かる」の対応で、 「B ニ C ヲ預ける」「(B ハ)A カラ C ヲ預 かる」文型を構成している。このうち「預かる」は、A → B の関係で C が B のもとへと動くのであるから、B にとっては C を受け入れる側に立 ― 331 ― ち、これは一種の受身的側面を帯びてくる。したがって、 「預かる」自体 に意味として受身の意味が含まれてしまい、そのため、ことさらそれに さらに受身「られる」を添えることはナンセンスである。(p345) 杉本(1991)は「捕まる」 、 「授かる」のような動詞は受動的意味を持っ た動詞であるとし、これらの動詞を受動詞と呼んでいる。 一方、金田一(1957:239)は、インド・ヨーロッパ語の「中相態」とい う概念を用いて、 「中相態とは、 『受動的な意味をもった、受動態ならざる 自動詞』という意味」であるとし、 「日本語では、この中相態の言い方が好 まれ、動詞の中には『中相動詞』というべきものがたくさん存在する」と 指摘している。受身の意味を含む自動詞は、有対自動詞が主流である。森 田(1995:116)では、有対自動詞が表す意味はしばしば「他動詞の伝え る行為や現象が実現した結果」に当たるとされている。したがって、有対 自動詞表現は動作主の働きかけによって動作の受け手に引き起こされた変 化・結果を表すことがある。こういった場合の有対自動詞表現は、受身の 意味を含意すると考えられる。 次の具体例を見てみよう。 (16) 泥棒は警察に捕まった。 (16) ’ 泥棒は警察に捕まえられた。 (17) 切手がいっぱい集まった。 (17) ’ 切手がいっぱい集められた。 (16)は、 「泥棒」に生じた自由な状態から「捕まった」状態へという変 化を表している。この「捕まった」という変化は、 「泥棒」が自ら起こした 変化ではなく、「警察」の「捕まえる」という動作によって引き起こされ た結果である。したがって、 (16)は、受身表現(16)’に通じ、受身の意 味を含意していると考えられる。 (17)も、そこに動作主が存在している ― 332 ― と考えられ、動作主の「集める」という行為によって動作の受け手である 「切手」に起こった「集まった」という状態変化を表している。(16)と同 様に、 (17)にも「切手」の「集められた」という受身の意味が含意されて いると思われる。 (16)と(17)のような有対自動詞表現は、受身の意味を含意している ため、意味だけに基づいて文法カテゴリーを設定しようとする理論に従え ば、受身表現に入れられるべきであろう。 実際、張(1998)は、無標識の可能表現、すなわち結果可能表現という理 論を打ちたて、有対自動詞表現が結果可能表現の主流であるとしたうえで、 (16)と(17)のような有対自動詞表現について以下のように述べている。 仮に……(中略)……受け身の標識を用いず、受け身の意味を表わす 有対自動詞表現を「無標識の受け身表現」であるとすれば、有対自動詞 はどのような場合に、どのような性格の受け身を表わしているのか、何 故にそれらの自動詞に受け身の意味が表わせるのか、自動詞によって表 わされる受け身の意味と受け身の助動詞「れる(られる)」を用いる受け 身表現の意味とどのように違うのか、そして、無標識の受け身表現には どのような使用条件が加えられているのかなど、解決されなければなら ない問題は多々ある。 (p265) どうやら張は、可能の意味を含む有対自動詞表現を可能表現とするのみ ではなく、受身の意味を含む有対自動詞表現を受身表現と考えているよう である。このような考えを取った場合、張が結果可能表現としている次の (18)と(19)は、受身の意味も含んでいるので、受身表現でもある、とい うことになる。 (18) 腕が痛くて手が上がらない。 (=(1)) (19) 水と油はよく混ざらない。 (=(2)) ― 333 ― 同様に、有対自動詞表現である(16)と(17)も、受身表現であると同 時に、可能表現でもあるということになる。 さらに、有対自動詞表現だけでなく、無対自動詞表現と他動詞表現も受 身の意味を含むことがある。 (20) 親分の言うことを聞かないと、あなたは死ぬよ。 (21) 花子は赤信号を無視したので、警察から注意を受けた。 (20)における「死ぬ」は、主体(あなた)が「危険を犯す」ことによっ て「死ぬ」というのとは別に、 「親分」などによって「殺される」という意 味を表すと解釈することもできる。後者の場合、 (20)には受身の意味が含 まれる。 (21)も能動文として表現されているが、主体(花子)が自ら警察 からの注意を受けようとして受けたのではなく、主体の意志にかかわらず 無理やり受けさせられたという意味を表している。そこには、 「警察に注意 された」という受動的意味が含まれている。したがって、意味を唯一の基 準とすれば、 (20)と(21)は能動文であると同時に受動文でもあるという ことになる。 同様に、 「~てもらう」の表現も受身の意味を含むことがある。「~ても らう」について、益岡他(1992)は使役表現だけでなく、受身表現に対応 する場合もあると指摘し、 「皆に絵を誉めてもらった」という文は受身文 「皆に絵を誉められた」に対応するとしている(p88) 。意味だけを基準に すれば、「~てもらう」の表現は使役表現であると同時に、受身表現にも 属することになる。ちなみに、寺村(1982)は「…モラウ、アズカル、授 カル,等の動詞は, 『受身的意味をもつ動詞』とはいえても,『動詞の受身 形』ではない」(p212)と指摘し、受身の形式が備わることを受身表現の 前提としている。 3.2 概念間の混同 前述したように、意味だけに依拠すれば、同一の表現が同時にいくつか ― 334 ― の文法カテゴリーに属するということになる。そうなると、概念間に混同 が起こり、各概念は互いに区別が付かなくなる。したがって、そのような 文法カテゴリーを設ける意義もなくなると思われる。 ある事態に対して記述を行う際、視点によって、その表現形式が異なっ てくる。その典型的な例として、能動文と受動文の違いが挙げられる。同 じ事態を記述する能動文と受動文はまったく異なる対立的な表現形式であ るが、それによって表される意味内容は同じ真理条件的意味を有してい る。したがって、意味に依拠した場合、能動文と受動文の区別がなくなり、 両者は同一の表現範疇に属することになる。能動態と受動態はそれぞれ個 別の文法項目として存在する必要もなくなる。 そしてこのことは、能動態と受動態に限った問題ではない。上の考えを 敷衍すれば、同一の事態を叙述する異なる種類の表現は、いずれも同じ真 理条件的意味を表すので、同じ文法カテゴリーに属するということにな る。 3.3 意味把握の主観性の差による文法記述の個人差 意味の主観的性質も、それを文法記述の一次的基準にできない理由とし て挙げられる。意味の主観性は意味の伝達のみではなく、意味の理解にも 現れる。同じ意味を伝達しようとしても、伝達者によってその言語表現が 異なることがある一方で、同じ表現でもその意味に対する受け取り方はさ まざまである。 例えば、レストランの食事の席では、 「太郎」という人が次のように発話 したとする。 (22) 私はお酒が飲めません。 この発話を聞いた人々の理解はおそらく一様ではないだろう。まず、太郎 のことをよく知らない人は次のような意味で捉えるであろう。 ― 335 ― 1)太郎は体質的には酒を受け付けない。 2)太郎はまだ二十歳になっていないので、酒を飲んではいけない。 そして、太郎は酒が飲めるという事実を知っている聞き手なら、おそら く次のことを思い浮かべるだろう。 3)太郎は今日体の調子が良くないので、酒を飲んではいけない。 4)太郎は今日車で来ているので、酒を飲んではいけない。 5)太郎はこの後、大事な仕事があるので、酒を飲んではいけない。 …… さらに太郎の発話を婉曲な表現として受け取り、それに応じて何らかの 行動を取る聞き手もいるかもしれない。例えば、太郎に酒を勧めている人 は、おそらく 6)のような言外の意味を受け取ることにより、これ以上勧 めることをしないだろう。太郎に酒を注ごうとしている人は 7)のように 受け取り、注ぐのを止めるだろう。また 8)のように、太郎の発話を太郎 の願望として理解する人もいるだろう。さらに、太郎の側にいる店員は 9) のように受けとめ、すぐさまソフトドリンクのメニューを持ってくるかも しれない。 6)私に酒を勧めないでください。 7)私に酒を注がないでください。 8)ソフトドリンクを注文したいのですが。 9)ソフトドリンクのメニューを持ってきてください。 このように、同じ文であってもその意味に対する理解には個人差があ る。それゆえ、このような捉えどころのない意味を文法記述の基準にした 場合、記述の仕方に個人差が生じてくる。例えば、上の「私はお酒が飲め ― 336 ― ません。」という表現は、1)~9)のごとく異なる意味として理解される 可能性を秘めているため、幾通りもの文法カテゴリーに入れられよう。1) と捉えられる場合、可能表現とされるが、2)~5)の場合は不許可・禁止 表現となる。一方、6) 、7) 、9)の場合は命令表現、8)は願望表現として 分類されるであろう。 意味の主観性という性質により、聞き手の理解した意味と話し手の伝達 しようとした意味が食い違うこともしばしばある。誤解がその典型的な例 である。例えば、日々緊張した生活リズムの中で、ストレスが溜り、のん びりした田舎生活に憧れているある都会人が、ある田舎に住んでいる人に 向かって、 「素敵なライフスタイルですね。 」と言ったとしよう。貧困に悩 まされている田舎の人だったら、きっとこれをアイロニーとして捉え、か らかわれた気分になるだろう。この場合、田舎の人の理解した意味は都会 人の伝達しようとした意味から大きくずれている。まさに誤解の典型例で ある。 文法記述の意義は、言語表現をより理解しやすくするためにそれを統一 性のあるものにするということにある。しかし、客観的に捉えることの困 難な意味を基準にすれば、文法記述は理解しやすくなるどころか、より複 雑になり、場合によっては混乱を招くことにもなりかねない。 3.4 諸言語間の文法構造の同一化 異なる言語を有する人々が互いに交流できるのは、ことばの意味が通じ 合うからであろう。こういった相通じる意味を基準にすれば、世界の言語 はみな同一の文法構造を有するものとして記述されることとなり、そもそ も諸言語間の文法比較が無意味なものになってしまいかねない。どんな言 語にも、他とは異なるものとして記述されるべき文法的特質が存在するは ずである。 まず、翻訳の観点からこれについて考えてみよう。ある言語で表現され た文章の内容を他の言語になおす場合、訳文は原文と同じ意味を表すよう にしなければならないと考えられる。したがって、もし文法記述の基準が ― 337 ― 意味であるならば、訳文は原文と同一の文法カテゴリーに属する表現とな るはずである。しかし、実際には、翻訳の目標言語ではまったく異なる文 法カテゴリーに属するとされる表現に訳されることが往々にしてある。ま た、1 つの表現が幾通りもの表現に訳されることもしばしばある。このこ とを、受身表現が日本語と中国語の間でどのように対応するかを観察する ことによって確認しておこう。 (23) 花子が街を歩いていたら、突然名前を呼ばれた。 (23) ’ 花子正在路上走着,突然听见有人叫自己的名字。 (24) これにはいくつかの要素が含まれている。 (24) ’ 这包含着几个要素。 意味だけを基準とした考えでは、 (23)の訳文(23)’、(24)の訳文(24)’ はいずれも原文と同じく受身文のはずである。しかし実際には、(23)’と (24) ’は中国語において典型的な能動文とされている。 これに対して、受身文と能動文のいずれにも訳され得る場合がある。次 の受身文(25) ’ 、能動文(25) ”はいずれも、 (25)の訳文として考えられ る。意味だけに依拠すれば、両者はいずれも受身のカテゴリーに入れられ ることになるので、能動文と受身文の区別が付かなくなる。 (25) 太郎は昨日の火事で家を焼かれた。 (25) ’ 太郎的家被昨天的大火烧了。 (25) ” 昨天的大火把太郎的家烧了。 また、日本語には、 「主体が、直接に関与していない出来事から間接的な 影響(普通は、被害)を受ける」 (益岡他 1992:102-103)迷惑受身という 特殊な受身表現がある。意味を唯一の基準にすれば、迷惑受身の中国語訳 も迷惑受身ということになる。これは、中国語にはこういった文法カテゴ ― 338 ― リーが存在しないことと矛盾する。次の迷惑受身文(26)は能動文(26)’、 (26) ”として以外に訳しようがない。 (26) 太郎は父に死なれて学校に行けなくなった。 (26) ’ 父亲死了,太郎无法上学了。 (26) ” 死了父亲,太郎无法上学了。 一方、能動文として表現される日本語は中国語に訳される際、能動文よ りも受身文が適切な場合もしばしばある。 (27) 太郎は雨に濡れた。 (27) ’ *太郎淋湿雨了。 (27) ” 太郎被雨淋湿了。 そして、(28)のように能動文と受身文のいずれにも訳される能動文もあ る。 (28) 太郎は昨日の火事で家を焼いた。 (28) ’ 昨天的大火把太郎的家烧了。 (28) ” 太郎的家被昨天的大火烧了。 日中両言語の受身表現をそれぞれ 1 つの楕円で表すと、それらの関係は次 の図 1 のように完全には重ならない。両者には、共通の部分もあれば、共 通でない部分もある。 ここで、受動態が存在しないと言われる言語について述べておきたい。 例えば、オーストロネシア語族のイトバヤトン語には受動態は存在しない (近藤 2005) 。また、パマ・ニュンガン語族に属するワルング語やジャル語 にも受動態はない(角田 1991) 。これらの言語は受動態を有しないにもか ― 339 ― 日本語 中国語 図 1 受身表現における日中両言語の関係 かわらず、受動的意味は存在すると言われている。これは意味を唯一の基 準とした記述法の不適切性を主張するうえで、有力な根拠となるものであ ろう。というのも、意味を基準にした場合、受動態のない言語は存在しな いことになるからである。 以上から、いくつかの言語事実が明らかとなった。すなわち、諸言語は 必ずしも同じ文法カテゴリーを有しているとは限らない。たとえ類似した 文法カテゴリーを有しているとしても、その内包と外延においてまったく 一致しているとは限らない。したがって、異なる言語においては、同一の 事柄が必ずしも同種の表現で表されるとは限らない。このことは、意味の みを基準にした文法記述法が妥当ではないということを如実に物語ってい る。 4.一次的基準としての形式 形式を一次的基準とすれば、上述したいくつかの問題を避けることがで きる。まず、各言語にはそれの特有の文法カテゴリーがあるという事実を 説明することができる。次に、意味基準によって引き起こされる文法記述 の個人差を避けることができる。基準となるものは、客観的なものでなけ ればならない。形式は観察可能なものであり、それに対する判断には個人 差が生じにくい。そのため、文法記述の基準として形式がより相応しいと 考えられる。 また、形式の客観性により、同一の表現が同時に異なる文法項目に属す ― 340 ― るといった、概念間の混同も避けることができる。つまり、1 つの文は 1 つ の形式しか有しないため、形式を基準にした場合、任意の文は 1 つの文法 カテゴリーにしか入れられない。 以上の理由により、文法記述の基準としては、意味よりも形式のほうが 重視されるべきであると見なされる。 5.副次的基準としての意味 意味は、文法記述の一次的基準としては相応しくないが、文法記述に欠 くことのできない要素である。文法記述において、意味は副次的基準とし て援用されるべきであり、つねに形式を補う役割を果たさなければならな い。意味のこうした役割として、類と類の区分、類の下位分類などの基準 として用いられることが挙げられる。 5.1 類と類の区分 文法記述の際、類と類の区分には意味が必要である。なぜならば、形式 だけに依拠した文法記述では、かけ離れた意味を表す表現を、同一の文法 カテゴリーに入れてしまうことになるからである。このことは、ある文法 カテゴリーの外延を不適当に拡大すると同時に、別の文法カテゴリーの外 延を縮小するということを意味する。この問題を解決するには、副次的基 準としての意味の役割が必要となる。 類と類の区分における意味の重要性は、日本語の「(ら)れる」、中国語 の“让”という形式を通じて説明することができる。両者はいずれもいく つかの文法カテゴリーのマーカーとして用いられているが、これらのカテ ゴリーの間には混同が見られない。そこで大事な役割を果たしているのが 意味である。 「 (ら)れる」を用いた表現は、それの表す意味によって、受身表現、尊 敬表現、可能表現、自発表現の 4 つの文法カテゴリーに分かれている。も ちろん、意味は主観的な性質を持っている以上、いずれの項目に属するか は捉え方によって揺れが生じるケースもある。しかし、これらのケースは ― 341 ― あくまでも周辺的であり、この 4 つの文法項目を区別するには大した支障 がない。 中国語の助動詞“让”は、使役表現と受身表現との 2 つの文法カテゴリー のマーカーとしての役割を担っている。 「让」 を用いた表現がいずれの項目 に属するのかを判断する際、やはり意味に頼らなければならない。次の例 を見てみよう。 (29) 花瓶让妹妹不小心打碎了。 マーカー“让”があるので、 (29)はまず使役表現、または受身表現に絞る ことができる。しかし“让”だけでは、いずれの表現なのかは判断できな い。中国語母語話者が躊躇なく(29)を、 「花瓶は妹によってうっかり壊さ れた」という意味を表す受身文として捉えるのは、やはり意味が働いてい るからである。 場合によっては、その文の意味だけでは不十分で、さらに文脈の意味が 援用されなければならない。次の(30)は文脈なしでは使役表現と受身表 現のいずれにも捉えられる曖昧な文である。 (30) 面包让妹妹吃了。 (30) ’ 面包让妹妹吃了,因为我不饿。 (30) ” 面包让妹妹吃了,所以我只好饿着。 (30)は(30) ’のように、 “因为我不饿” (なぜなら、私はお腹が空いてい ないから)という表現が加わると、 「パンは妹に食べさせた」という意味を 表す使役表現にしか捉えられない。一方、 (30) ”のように、 “所以我只好饿 着”(だから、私はお腹を空かせているほかない)という表現が後続する と、 「パンは妹に食べられた」という意味を表す受身表現となる。 ― 342 ― 5.2 類の下位分類 文法記述における副次的基準としての意味の重要性は、また類の下位分 類にも現れている。このことを、可能表現、受身表現、 「~ている」を用い た表現を例にとって、確認する。 これまで、可能表現の下位分類に関する研究が多々行われてきた。そし て、 「能力可能・条件可能」 、 「可能の被動・価値の被動」、「能力可能・許 容可能・受容可能」 、 「能動的可能・受動的可能」 、「主体の可能・客体の可 能」 、 「能力可能・認識可能」など、さまざまな分類が提案されている。こ れらの分類はいずれも、可能表現の枠組みのうちにあるという前提の下、 意味に基づいて成されたものであると考えられる。 受身表現の下位分類も同様である。日本語の受身表現は一般的に、直接 受身と間接受身(迷惑受身)と 2 つに分類されている。その分類の基準は やはり意味である。このことは次の例を比較してみれば明らかとなる。 (31) 太郎は先生に論文をほめられた。 (32) 太郎は先生に論争相手の論文の方をほめられた。 単に形式から見た限りでは、 (31) 、 (32)はいずれも、 「(ら)れる」を用い た受身文であり、両者の間に形態的差異は見られない。その差異はもっぱ ら意味にある。 「~ている」を用いた表現について分析する際にも意味が援用されてい る。益岡(1992:114-116)は、 「~ている」の用法を次のように 6 分類し ている。この分類はやはり「~ている」によって表されている意味に依拠 している。 (33) 音楽を聴いている。 (動きの継続の状態) (34) トラックが止まっている。 (動きの結果の状態) (35) 走者は何度もコーチの方をうかがっている。(反復状態) ― 343 ― (36) その記事は既に読んでいる。 (完了状態) (37) 花子は 2 度カナダを訪れている。 (経験・経歴) (38) 鴨川は京都を流れている。 (対象の属性) 6.おわりに 本稿は文法記述における形式と意味の関係について論じた。文法を記述 するには、形式と意味はいずれも不可欠な要素である。形式は文法記述の 一次的な基準で、意味は副次的基準として形式を補う役割を果たす。これ は形式と意味の最も理想的な関係であると考えられる。 注: (1)「認識の可能」は金子(1980)による。 参考文献 青木伶子(1995)「使役―自動詞・他動詞との関わりにおいて―」 『動詞の自他』 須賀一好・早津恵美子編,108-121,ひつじ書房 今井邦彦(2001)『語用論への招待』,大修館書店 太田朗他(1972)『英語学大系 3 文法論Ⅰ』,大修館書店 金子尚一(1980)「可能表現の形式と意味(Ⅰ)―“力の可能”と“認識の可能” について―」『共立女子短期大学紀要(文科)』第 23 号,62-76 金田一春彦(1957)「時・態・相および法」『日本文法講座Ⅰ総論』 ,223-245,明 治書院 小泉保(1990)『言外の言語学―日本語語用論―』,三省堂 近藤健二(2005)『言語類型の起源と系譜』,松柏社 杉本武(1991)「ニ格をとる自動詞―準他動詞と受動詞―」 『日本語のヴォイスと 他動性』仁田義雄編,233-250,くろしお出版 高橋太郎(2003)『動詞九章』,ひつじ書房 張威(1998)『結果可能表現の研究―日本語・中国語対照研究の立場から―』 ,く ろしお出版 角田太作(1991)『世界の言語と日本語』,66,くろしお出版 ― 344 ― 寺村秀夫(1982)『日本語のシンタクスと意味 第Ⅰ巻』 ,くろしお出版 ―(1984)『日本語のシンタクスと意味』Ⅱ , くろしお出版 中島悦子(2007)『日中対照研究 ヴォイス―自 ・ 他の対応・受身・使役・可能・ 自発―』,おうふう 成瀬武史(1978)『翻訳の諸相―理論と実際―』,開文社 仁田義雄(1981)「可能性・蓋然性を表わす擬似ムード(文法研究の諸問題) 」 『国 ,東京大学国語国文学会,88-102,至文堂 語と国文学』58(5) ―(1997)『日本語文法研究序説―日本語の記述文法を目指して―』 くろ しお出版 広田紀子(2007)『翻訳論 言葉は国境を越える』,上智大学出版 彭飛(1990)『外国人を悩ませる 日本人の言語習慣に関する研究』 ,和泉書院 牧野力(1980)『翻訳の技法』,早稲田大学出版部 益岡隆志他(1992)『基礎日本語文法―改訂版―』,くろしお出版 森田良行(1995)『日本語の視点~ことばを創る日本人の発想~』 ,創拓社 ―(1996)『意味分析の方法―理論と実践―』 ,ひつじ書房 呂雷寧(2007)「可能という観点から見た日本語の無意志自動詞」 『言葉と文化』 第 8 号,187-200,名古屋大学国際言語文化研究科日本言語文化専攻 ―(2010)『現代日本語における可能表現の研究―無意志自動詞を中心に ―』名古屋大学大学院国際言語文化研究科 博士論文 鷲尾龍一他(1997)『日英語比較選書 7 ヴォイスとアスペクト』 ,編者:中右実, 研究社出版 W.F.Leopold, O.Jespersen, C.E.Bazell(1959)『英語学ライブラリー(36) 形態 か機能か』佐藤一夫訳,研究社 ― 345 ― 湯 谷 祐 三 一 『天台四教儀集註』等の仏書、『太平記』 要法寺版は『論語集解』『文選』(直江版)等の漢籍から、『法華経伝記』 *3 ― 364 ― 要法寺円智日性による 『倭漢皇統編年合運図』と『太平記鈔』の刊行 一 『太平記』や『沙石集』などの各種の典籍を相次いで 京都の日蓮宗の古刹要法寺は、江戸時代初期の慶長年間に、 古活字版で刊行したことでも知られ、今日それらは要法寺版と呼ばれている。そうした刊行活動を主導したのが、当 時この寺に住持した学僧円智日性(一五五四~一六一四)であった。 この要法寺版及び日性については、つとに新村出氏により大正九年四月に「要法寺版の研究について」として紹 介され、後に同氏『典籍叢談』に収められた 。次いで、川瀬一馬氏が要法寺版の典籍について書誌学的基礎調査を 行い、その全貌が明らかになった 。 *1 『太平記』の古活字版研究の観点から、小秋元段氏による要法寺版研究もなされており、文献学的研究 最近では、 は着実に深化を続けているといえよう 。 *2 二 『沙石集』などの日本の軍記や説話集、さらには日蓮の伝記である『元祖蓮公薩埵略伝』にいたるまで、実に多様な 典籍を刊行しており、これらの典籍が刊行書目に選ばれた理由については、それぞれに個別の事情もあろうが、大 局的には、刊行に関わったとされる日性の興味のありか、学問の一端を示すものと考えることができよう。 『編年合運』と略称する)という一種の この要法寺版の中に含まれる典籍に『重撰倭漢皇統編年合運図』(以下、 年表がある。これは、上段に日本の記事、下段に中国の記事を一年ごとに編年に配置して、彼我の出来事を対照さ せたもので、ある事件の起きた年号・干支などを即座に知ることができる便利な年表である。 『私聚百 筆者は、中世の仏教説話集『私聚百因縁集』研究において、その年代記的記述について考察する過程で、 因縁集』と『編年合運』との間に興味深い一致が見られることに注目した(以下、前稿とする) 。 『太平記』や『太平記鈔』、 『元祖蓮公薩埵略伝』に附属する『蓮公大師年譜』などの、他の要法寺版とさ その後、 れる典籍と、 『編年合運』との間には関係性があることに気付き、それは『編年合運』自体の諸本の成長過程とも関 係することがわかってきた。本稿では、これらの事柄について、現在までに知り得たところを少しく紹介しておき たい。 以下に言及する要法寺版とそれに関係する典籍の刊行などについて、前記川瀬・小秋元両氏の研究に依拠してま とめたのが次の年譜である。特記無い限り、記した典籍は要法寺版と認められているものである。 天文二十三年(一五五四)日性生まれる。 慶長五年(一六〇〇)『法華経伝記』十巻五冊(国会図書館蔵) 慶長五年(一六〇〇)『重撰倭漢皇統編年合運図』上下二巻(最終記事より刊行年推定) 慶長六年(一六〇一)『元祖蓮公薩埵略伝』一冊(覆刻整版のみ存) ― 363 ― *4 慶長七年(一六〇二)『太平記』(五十川了庵による刊行―要法寺版ではない) 慶長八年(一六〇三)『重撰倭漢皇統編年合運図』上下二巻 慶長八年(一六〇三)『太平記』(五十川了庵による刊行、要法寺版ではない) 慶長十年(一六〇五)『重撰倭漢皇統編年合運図』上下二巻 慶長十年(一六〇五)『太平記』(使用真名活字から要法寺版と認定、底本は慶長八年版) 慶長十年(一六〇五)『沙石集』 慶長十二年(一六〇七)『太平記』(要法寺版ではない) 慶長十四年(一六〇九)『太平記』(要法寺版ではない) 慶長十五年(一六一〇)『太平記』(日性が慶長十年版を増補・整備したもの) 慶長十五年(一六一〇)『太平記鈔』(刊行年は推定) 慶長十六年(一六一一)『重撰倭漢皇統編年合運図』上下二巻(慶長五年版とは別種の活字を使用、整版本の底本と なる) 慶長十九年(一六一四)日性没。 慶長五年の『法華経伝記』は現存する要法寺版の中でも最も古いとされる典籍であるから、その同年の刊行とさ れる『編年合運』も要法寺版刊行史においては、最初期の典籍であるということができる。 また『編年合運』は、年表という工具書としての性格上、これ自体を読んで楽しむというよりも、様々な歴史的 事象を考察する上での座右の参考書であると同時に、研究過程で新たに知り得た情報を逐次書き込んでおく記憶装 置としての役割も期待される。 三 ― 362 ― 四 上下対照の年表という体裁を古活字で再現するのは決して容易なことではなく、他の典籍の刊行よりも手間がか かるのではないかと思われ、それを敢えて最初期に刊行したことの意義が、今改めて問われるべきではないか、と 筆者は考えている。 『太平記』や『太平記鈔』、『沙石集』といった所謂文学書とは異なり、『編年合運』の記述内容はこれまで特に検 討の俎上に乗せられたことはなかったが、むしろ、この書こそ、要法寺版刊行にいたるまでの日性の文献研究の足 跡を示すものではなかったのか。 『太平記鈔』や『蓮公大師年譜』などの他の資料との記述の比較や、 『編年合運』諸本の本文の展開相を検討 以下、 することによって、日性の文献研究の一端、就中、これまで取り上げられなかった『編年合運』と『太平記鈔』の 密接な関係について報告する。 二 『編年合運』は、神話・伝説上の古代から刊行時の慶長年間に至る長大な時間を扱い、更に和漢両国の様々な記事 を対照併記する浩瀚な年表であることから、その細部に至るまでの詳細な吟味には時間を要する。 『漢 前稿では、中国古代の夏・殷王朝の王の総数や王朝の期間のみに絞って、日中の文献を対照させてみたところ、 書』 『帝王世紀』などから北宋司馬光の『稽古録』に継承される数字が、日本では室町時代後期まで一般的に用いら れていたが、室町後期になって、元の『文献通考』に代表されるような新しい数字が急に日本の文献に登場するよ うになることがわかった。そしてその新しい数字を記す代表的文献が『編年合運』なのである。 ここでは前稿で言及し得なかった『太平記賢愚抄』や慶長五年古活字本『編年合運』などの記述を含めて、改め て記載の変遷を図表にまとめて左に示す。 ― 361 ― 一七王・四三二年 一九王・四三二年 夏(王・年) 三〇王・六四五年 『冊府元亀』 (四庫全書本) 三〇王・六二九年 三〇王・六二九年 殷(王・年) 北宋司馬光撰『稽古録』 晋皇甫謐撰『帝王世紀』 資料 北宋一〇一三年 北宋一〇八六年 晋 成立・刊行年代 一七王・四五九年 一七王・四四一年 一七王・四五八年 二八王・六四四年 二八王・六四四年 二八王・六四四年 二八王・六四四年 元黄鎮成撰『尚書通考』 元馬端臨撰『文献通考』 元陳櫟撰『歴代通略』 元胡一桂撰『史纂通要』 十四世紀初頭原撰か 一三三〇年序 一三一九年上表 一三一〇年 一三〇二年自序 (記述なし) 一七王・四三九年 古写本『拾芥抄』 ○ ○ 三〇王・六二九年 一五四三年 ○ 一七王・四〇三年 一五六七年頃原撰? 一四二三年以前 乾三撰『太平記賢愚抄』 慶長年間刊行か? 周崇撰『三国一覧合運図』 古活字版『編年合運』※ 三〇王・六二九年 三一王・六四四年 古活字版『拾芥抄』 一七王・四三二年 二八王・六四四年 △ ○ 一七王・四五八年 二八王・六四四年 一六一一年頃原刊? 一五二二年頃原撰? 一七王・四五八年 整版本『編年合運』※ △ 蓬左文庫蔵『編年合運』 一七王・四五八年 二八王・六五四年 一六五三年刊本のみ 二八王・六四四年 一七王・四五八年 二八王・六五四年 『私聚百因縁集』※ 一七王・四五八年 一七王・四五八年 ※古活字版『編年合運』は国立国会図書館蔵本(慶長五年刊本とされるもの) 。 ※整版本『編年合運』は寛永八年(一六三一)刊本(慶長十六年古活字版の覆活字整版本とされるもの)を使用し、慶長十六 年古活字版で記述の一致を確認した。 ※『私聚百因縁集』は鎌倉期正嘉元年(一二五七)の跋文を持つ。 五 ― 360 ― 六 殷の総年数を見るに、 『稽古録』までの「六二九年」が、元代の資料になると「六四四年」に変化していることが わかる。日本の資料に目を移すと、古写本『拾芥抄』や『三国一覧合運図』など、十五世紀初頭までの資料が「六二 九年」とするのに対して、一五〇〇年以降の資料においては「六四四年」に変化していることがわかる 。百年程度 の時間差を置いて中国元代の年代説が日本に普及したと思われる。夏の総年数が「四三二年」から「四五八年」に 変化しているのも同様の事例である。 ここで興味深いことは、十四世紀初頭に原撰された有職故実書『拾芥抄』が、古写本においてはすべて「六二九 年」説であるのに対し、古活字版として刊行された『拾芥抄』では「六四四年」となっていることである。これは 明らかに古活字版刊行に際してある種の「改訂」が加えられたことを示している。古活字版は、古写本をそのまま 活版化するのではなく、古写本の記述に批判的検討を加えた上で刊行しているのである 。 称する)であり、中国の典籍では元胡一桂撰『史纂通要』と全く一致する(表中に○で示した) 。 実は、慶長五年古活字本と比較してみると、整版本には誤刻ではないか思われる数字の相違を示す箇所がある。後 びその底本とされた慶長十六年古活字本)にいたって急に異なる数字を示すのはいささか奇異の感がある。 この「六五四年」という数字は、中国側にはその根拠となるような資料は見当たらず、その由来は全く不明であ る。原型とおぼしき蓬左本や慶長五年の古活字本が正しく「六四四年」説をとっているにも関わらず、整版本(及 とするのに対して、整版本『編年合運』が「六五四年」と異なる数字を記すことの意味を考えておきたい。 次章以下で述べるように、その記述内容から考えて、蓬左本『編年合運』は古活字本『編年合運』のかなり直接 的な原型ではないかと筆者は考えているが、ここでは、蓬左本『編年合運』や古活字本『編年合運』が「六四四年」 *7 ― 359 ― *5 (一 この古活字本『拾芥抄』と夏・殷の王数・総年数において全く同じ数字を記すのが、蓬左文庫蔵『編年合運』 〇一―一三、蓬左本『編年合運』と略称する)や慶長五年古活字本『編年合運』 (以下、古活字本『編年合運』と略 *6 醍醐天皇の受禅・即位の年月日は、『資朝卿記』等により文保二年二月二十六日受禅、同三月二十九日即位と知られ 4 ており、『編年合運』の諸本は以下のように記す(傍点は筆者による)。 4 蓬 左 本『編年合運』文保二年条「二月廿六受禅、三月廿九即位」 う 。 本を覆刻した整版本の類が、江戸期を通じて何度も刊行されていることから、使用にあたっては注意が必要であろ *9 このことは、整版本『編年合運』と全く同じ数字を記す現存『私聚百因縁集』の成立を考える上で、少なからぬ波 七 ― 358 ― 古活字本『編年合運』文保二年条「二廿六受禅、三廿九即位」 4 整 版 本『編年合運』文保二年条「二廿六受禅、二廿九即位」 日性撰とされる『太平記鈔』巻一(一〇頁上)にも「一御年三十一ノ時御位ニ即ケ奉、文保二年三月廿九日ノ御 即位也」とあり 、日性自身正しく即位の月日を認識していたことがわかるが、ひとり整版本のみ三月を二月に誤っ 慶長十六年古活字本については、その使用活字が従前の『編年合運』と異なることが指摘されており 、この古活字 版本が「二月」とするのは、このような字画を欠いた慶長十六年古活字版を底本としたためであろうと推定できる。 「三」の三画目が欠けて鮮明に印字されておらず、一見「二月」と刻されているように見える。このことから、製 が判明した。その内の一種(一〇五―六)では、正しく「三月」と刻されているが、もう一種(一〇五―七)では、 て記している。この部分を蓬左文庫蔵の二種の慶長十六年古活字版『編年合運』で確認したところ、興味深い事実 *8 翻って、整版本(及び慶長十六年古活字本)の記す殷の総年数「六五四年」は、その根拠となる中国資料が見たら ないことから、あるいはこれを慶長十六年古活字本の製作において発生した誤記ではないかと推定する余地がある。 *10 紋を投げかける(表中△で示した)。 八 『私聚百因縁集』の「六五四年」について、元代に成立した『文献通考』の「六四四年」説の流布の影 前稿では、 響を受けたものと考え、現行『私聚百因縁集』の鎌倉期成立に疑義を表明したが、この「六五四年」が慶長十六年 古活字本『編年合運』の誤記載に由来する数字であるならば、現行『私聚百因縁集』の成立は、さらに引き下げら れて、慶長十六年(一六一一)以降ともなる可能性が生じることになり、この点、考察を継続したいと思う。 総年数をとっても『編年合運』と全く異なることが、表から明らかであり、 『編年合運』の成立時期及びその成長過 程を詳細に考察する上では、年代的・記述的隔たりが大きいように思われる。 『国書総目録』などで『編年合運』の一伝本として挙げられていながら、慶長五年古活字本との よって本稿では、 関係については何も知られていない蓬左文庫蔵『編年合運』(江戸初期写本二冊、一〇一―一三)の記述を比較対象 に取り上げることによって、『編年合運』の成立状況を考えたい。 蓬左本は内題を「重撰皇統編年合運図」とするのみで、慶長五年版にあるような撰者名の記載はない。その成立 ― 357 ― 三 『編年合運』の成立について、川瀬氏は、「この倭漢合運図は日性の発明による編著ではなく、この種の編著には 室町時代に僧侶の手でできてゐたものがあって、それに日性が増補を試みたものである」と述べられ 、小秋元氏が してできたものと考えられている。 「何らかの依拠本があったにせよ、一応、日性の編著と認めてよい」とされるごとく 、日性がある種の年表に増補 *11 「室町時代に僧侶の手で」作られ、日性が「依拠本」に採用できた可能性のある著作として、前稿でも言及し、前 記表中にも示した、大岳周宗(一三四五~一四二三)の『三国一覧合運図』があるが、その記述は夏・殷の王数・ *12 時期は、大永二年(一五二二)に相当する明嘉靖元年条に「第十一、今上帝、十六歳即位」 ( 世 宗 で あ る ) と あ り、 これ以降、中国の記事はほとんどなくなり、日本の記事も少なくなり、墨色の異なる別筆の記事が増えることから、 この年が蓬左本『編年合運』の底本の書写年次に近いであろうと推定される。 一方、慶長五年古活字本を同様に検討すると、永禄十年(一五六七)に相当する明隆慶元年条に「今上帝載 」と あり(穆宗実名載 )、これが古活字本『編年合運』の底本の書写年次に近いであろうと考えられる。つまり、蓬左 本と比べて、こちらは四十五年間分増えていると思われるが、しかし、その間の中国記事を見てみると、中国国内 の記事は見当たらず、いくつかの和冦と朝鮮王朝の記事があるのみである。 後に示すように、古活字本は蓬左本を略述したような記事を持ち、一方、記事の種類は、古活字本の方がはるか に増加していることから、古活字本は蓬左本『編年合運』を利用し、更にそれに記事を大幅に増補して成立してい ると考えられる。 蓬左本の原本の成立が先に述べたように大永二年(一五二二)だとすると、これは日性の生まれる三十二年前で あるから、蓬左本の原本に日性が関与することは不可能である。 しかし、それでは現在の蓬左本に日性の関与は 全くないのかというと、そうではなく、次章で述べるごとき『太平記鈔』との比較検討から、蓬左本において既に 日性によると思われる記事が多数増補されている、と筆者は考えている。 (続群書類従所収) 次に、古活字本『編年合運』刊行の翌年、慶長六年に刊行されたとされる『元祖蓮公薩埵略伝』 に附属された「蓮公大師年譜」と、 『編年合運』との関係を検討しておく。まず『元祖蓮公薩埵略伝』とは室町時代 末期に成立した日蓮の伝記資料である。その撰者については、内題下に「埜釈承慧撰」とあり、末尾に「永禄丙寅 秋九月十二日」の記載があることから、証誠院承慧日修が永禄九年(一五六六)に編纂したことが明らかである。 しかるに、 『大日本史料』(慶長十九年二月二十九日条)所収「日宗著述目録」には、 「日性、円智院承慧」として、 九 ― 356 ― 一〇 『元祖蓮公薩埵略伝』も列記していることから、あたかも日性の著述のごとき印象を与えるが、これは明らかに日性 と承慧を同一人物と誤認したことによる記述であって、同じく、 「御書注、円注トモ云、十八、永禄八年中秋ノ序ア リ」とあるのも、永禄八年(一五六五)は日性十一歳の年にあたることから明らかに間違いで、承慧日修の永禄七 年自序『安国論科註』二冊と、日性の慶長十四年成立『祖書円智註』十八巻十八冊を混同したことによる誤記であ ろう。 『元祖蓮公薩埵略伝』と『編年合運』との関係について、この書に附属する「蓮公大師年譜」は『群書解題』 さて、 の解説(小林智氏執筆)に依れば、本体の略伝よりも古く永禄七年以前の成立とされているものであり、この年譜と 『編年合運』とを比較すると、干支と日本・中国の元号の対応関係は両者全く一致することから、むしろこちらの年 譜こそ『編年合運』のごとき年表を座右に置かねば記すことのできないものであることがわかる。 また、年譜に存する日蓮関係の記事、即ち日蓮の年齢・行動・著述に関する記事は、生誕及び入寂の記事を除い て、 『編年合運』には全く見られないが、日蓮関係以外の記事、即ち天皇の即位や社会現象などの記事は両者同文的 に一致するものが多く見られる。 『編年合運』にない記事も年譜に記されていることなどから、蓬左本『編年合運』のごとき年表だけ その一方で、 を用いて、 「蓮公大師年譜」を作成することは不可能であるが、年譜の成立の下限である永禄七年(一五六四)以前 に、蓬左本『編年合運』のごとき年表が成立しており、承慧日修のような学僧により、日蓮宗の寺院において利用 されていたことは間違いないだろう。 『元祖蓮公薩埵略伝』の刊行に際して、加筆補正を施すようなことはなかったのであろう それでは、日性自身は、 か。附属する「蓮公大師年譜」には、後堀河院の崩御を文暦元年としたり(正しくは前年の天福元年) 、藤原定家の 没年を仁治元年とするなど(正しくは仁治二年)、蓬左本『編年合運』では正しく記されている情報を誤記したと思 ― 355 ― われる箇所があり、刊行に際して日性の目が隅々まで行き届いているとは言い難い。 しかし、一箇所、年譜の建長三年条には「師年三十歳、依周書異記、仏滅二千二百年」という記事があるが、蓬 左本『編年合運』の同年条には「撰続后撰集」とのみあって、仏滅後の経過年が記されていない。ところが、古活 字本『編年合運』の同年条には「撰続后撰集」とあり、その下段に「世尊入滅二千二百年」と明記されている。 次章でみるように日性の『太平記鈔』では特に天文二十二年が仏滅後二千五百年にあたることを明記しており、や はり古活字本『編年合運』にもその旨記載があることから、日性の仏滅後の経過年に対する関心の高さがわかる。こ のことから、 「蓮公大師年譜」の仏滅後経過年の記載は、あるいは日性自身の補入によるものではないかと思われる。 そうだとすると、逆に日性が仏滅後の記述に用いた資料が『周書異記』であると判明し、日性の年代算定の根拠 の一つが明らかになったと言える。ともあれ、日性はこうした方法で、蓬左本『編年合運』のごとき年表に対して、 継続的に記事を増補したり補正したりする作業を行っていたと考えられ、その結実として慶長五年古活字本『編年 合運』の刊行がなされたのである。 四 次に、その文中に編者名は明記されてはいないものの、今日では日性撰として諸家異論のない古活字本『太平記 鈔』 (慶長十五年刊行と推定されている)と『編年合運』との関係について考える。 まず検討するのは、頓死した日蔵が冥途で醍醐天皇と出会ったという、所謂「日蔵入冥」説話である。この事件 が起こった年紀については、 『太平記』の諸本間で、延喜十三年(九一三)とするものと、承平四年(九三四)とす るものの二説が対立しているが、日性は『太平記鈔』巻二十六において、そのどちらも取らず次のように言う。 一一 ― 354 ― 一二 一延喜十三年、誤ナリ、当年ヨリ後十八年ヲ過テ延長八年ニ崩御ナリシニ、如何ントシテ当年冥途ニテ値ヒ申 スヘキヤ、去ホトニ上人ノ冥途ニ往クコトハ天慶四年ナリ(中略)具ニハ元亨釈書第九巻ニアリ、亦広クハ扶 桑記第二十五巻ニ見ヘタリ。(二〇七頁下) 生存中の天皇に冥途で遇うわけがないという至極明解な理由に基づき、延喜十三年説を否定した上で、 『元亨釈書』 や『扶桑略記』といった確実な典籍を参照して年紀を確定するという日性の注釈態度がよく発揮された一例と言え るが、『編年合運』諸本の天慶四年条は次のようになっている。 蓬 左 本『編年合運』―「将門之党、藤原純友滅、賀茂行幸始」 古活字本『編年合運』―「純友滅、日蔵往冥途」 整 版 本『編年合運』―「純友滅、日蔵往冥途」 蓬左本の段階ではなかった日蔵の記事が慶長五年刊行の古活字本に出現したのである。これは何を意味するので あろうか。色々な資料に接する中でたまたま目した日蔵の記事を何気なく補入したとは考えにくく、やはり、 『太平 記』の逐語的注釈を行う過程で発見した事実の要点のみを『編年合運』に増補したと見るのが自然であろう。同様 の事例は、『太平記鈔』の成立年代の根拠とされている記事にも見られる。 大集月蔵経第九巻ニ、仏滅度ノ後ヲ五百年ツヽ五ツヽニ分玉ヘリ。 (中略)然レハ五々二千五百年ノ時分ノ事ナ リ、去ル天文二十年カ第二千五百年ニアタレリ、夫ヨリ已来タ慶長十五年マテハ五十九年ニ成ルナリ( 『太平記 ― 353 ― 鈔』巻三十一「一闘諍堅固」、二三七頁上) この記事によって『太平記鈔』の成立が慶長十五年であることが推定されているのであるが、文中にある天文二十 年(一五五一)が仏滅後二千五百年に当たるという記述は、『編年合運』諸本の状況を見ると、蓬左本『編年合運』 には見られず、古活字本『編年合運』天文二十年条に記載されていることがわかる。 これなども機械的に仏滅後の経過年を記したというよりも、 『太平記』に記される「闘諍堅固」を注釈する過程で、 『太平記』に描かれた十四世紀の南北朝の動乱が、まさに仏滅後二千年から二千五百年にかけての「闘諍堅固」の時 期に含まれることに気付き書き加えたものであろう。 このような、蓬左本『編年合運』にはなく、古活字本『編年合運』に初めて現れる記事として、呉服の将来年代を 記す『太平記鈔』巻三十九「一呉服部我朝ニ来、応神三十七年ニ来ルト日本紀ニ見ヘタリ」(二七四頁上)や、光厳 院の死去年月日を記す『太平記鈔』巻三十九「一七月七日、貞治三年甲辰ノ歳ソ」 (二七五頁上)などがあるが、こ れらの記事の内容を見ると、手当たり次第に資料を抜き書きして、無目的に『編年合運』に転記したとは考えにく く、やはり『太平記』注釈作業の過程で調査確認した事柄を、蓬左本『編年合運』のごときものに記入していたと 考えられるのである。 さらに、既に蓬左本『編年合運』に記載されている記事の中でも、日性自身によって書き入れられたのではない かと推定できる記事もある。蓬左本持統天皇三年条の「始正月卯日大学寮献御杖」という卯杖献上の記事は、 『太平 記鈔』巻二十四(一七〇頁下)に「日本紀ニアリ」として見られるものであり、蓬左本推古天皇十一年条の「始置 十二階」も、 『太平記鈔』巻二十四(一七一頁下)に「推古天皇十一年十二月ニ始テ十二階ノ官位ヲ置カル」とある ことに対応している。 一三 ― 352 ― 一四 このあたりの年中行事に関する『太平記鈔』の記述は、 『公事根元抄』に拠るものであると日性自身が断っている が、日性が『公事根元』を手に取るのも『太平記』注釈の目的があったからであり、そうして得た記事情報を手元 の『編年合運』に書き込んで成立しているのが現在の蓬左本『編年合運』という可能性があるのである。 一方、これとは反対に、依拠した年表に記されている記事をそのまま踏襲したと思われる記載もある。中国への 仏教伝来に際して、後漢の明帝(顕宗)が金人を夢に見たという逸話の年紀について、 『太平記鈔』巻二十四には次 のように記される。 一後漢ノ顕宗帝永平十四年、 (中略)明帝ノ夢ノ事ハ一天下ニ隠レモナキ事ナレトモ、如何ナル故ニヤ、年代ニ 異説カアルソ、訳経図紀第一ニハ三年ト云、編年通論并僧史略ニハ永平七年トアルソ、去レトモ永平四年ト云 ヲ正説トスヘキ者也、十四年ノ義用ルニタラス(一九一頁下) 『太平記鈔』においては、引用する資料名を明記する傾向がかなり強く見られるが、この部分では、異説(永平七 年説)については、 『訳経図紀』や『僧史略』の名を挙げるものの、肝心の自説(永平四年説)については何ら根拠 となる資料を提示せず、ただ「正説トスヘキ者也」と述べるだけである。 (大正蔵五二巻、八一四頁中)に見 実は永平四年説を掲げる仏教資料は、元代子成撰・師子比丘述註の『折疑論』 られるもので、全く一般的な説とは言えないが、 『編年合運』の諸本ではすべて永平四年条に金人の夢を記しており、 さらに大岳周宗の『三国一覧合運図』においても同様であることから、日本中世の和漢年代記の世界においてはこ の説が流布しており、日性もそれに従ったのではないかと思われる。 最後に、 『太平記鈔』と『編年合運』の諸本の関係が端的に把握できるような事例として蒙古襲来の予兆を記した ― 351 ― 『太平記鈔』巻三十九と蓬左本文永三年(=至元三年)条を並記する。他の『編年合運』は蓬左本と同じ記述を持つ ので略す。 一文永弘安両度ノ戦、本朝ノ文永ト元朝ノ至元トハ同年ニ改元ソ、文永三年ノ本朝国史ニ蒙古高使大船三艘ト 記セリ、次宋元通鑑第十六巻至元三年元賜日本国王書トノセテ、則其書モ載タリ、然レハ両朝ノ記少モ違スル コトナシ(『太平記鈔』二七二頁上) 蒙古高使来大舩三艘、二朔降于泥、元賜日本国王書(蓬左本『編年合運』) 『太平記鈔』の記事の中に含まれていることがわかり、加えて 一見して、蓬左本の二つの記述内容(傍線部)が、 『太平記鈔』では、 「本朝国史」と『宋元通鑑』の二つの典拠資料名を挙げていることから、 『編年合運』を見て『太 平記鈔』が書かれることはあり得ず、 『太平記鈔』のごとき記述から抄出転記したのが『編年合運』の記述であると 判断できる。 しかし、先の検討のごとく、蓬左本は慶長五年古活字本に先行して存在しているものであるから、慶長十五年に 刊行された『太平記鈔』を蓬左本が直接参照することは勿論不可能である。このことから、次のように考えざるを 得ない。『太平記鈔』―より正確には後に『太平記鈔』として結実する日性の『太平記』注釈の集積―は、慶長十五 年に古活字版『太平記鈔』として刊行されるはるか以前から継続して成長を続けてきたものであり、その研究過程 で得られた年紀は、逐次蓬左本のごとき『編年合運』に書き込まれており、そうして記事量の増加した『編年合運』 を慶長五年に古活字版で刊行したのである。 一五 ― 350 ― ところで、『太平記鈔』の成立過程については、近時小秋元段氏は次のように言われる 。 一六 『太平記鈔』は当初慶長七年刊本を底本として成立し、のちに慶長十五年刊本の本文に対応させるため見直しが 行われ、記述の一部が改められたと見ることができる。(中略)恐らく日性は慶長七年刊本を手にしてすぐ注釈 を開始し、慶長十五年刊本の刊行に合わせて『太平記鈔』を今日見る体裁に整えたのだろう。 (傍線は引用者に よる) 『太平記鈔』の成立が慶長七年古活字版『太平記』の刊行以降であると強調されておられるようだが、こ つまり、 れは本稿の検討を踏まえると首肯できない。 蓬左本『編年合運』にはない日蔵の記事が、慶長五年古活字本に初めて記載されていることが示すように、少な くとも慶長五年までには、日蔵に関する注釈活動は完了していたのであり、その他、前述の検討のごとく、蓬左本 『編年合運』自体に既に『太平記』注釈の過程で得られた知識によると思われる記事が多数存在していることから、 慶長七年以降に草卒として『太平記』注釈に取りかかったとは考えられないのである。 『太平記』の注釈的研究こそ、実はライフワークのごとき仕事ではなかったろうか。彼は他の学 日性にとっては、 僧のように教学研究の道に沈潜するだけではなく、外典の読解・注釈とその記事の編年配列に精力を傾注していっ た。それは僧侶としての立場からも、決して矛盾した活動ではなく、古代から現代に至る歴史の移り変わりを正確 に把握することで、「諸法実相」の法華経説が展開すべき世界の変化の相を明らかにしようとしたとも思われる。 そうした意味で、要法寺版刊行史が、『編年合運』で幕を開け、『太平記鈔』で事実上の打ち止めになっているこ とは、単なる偶然の結果と見るべきではなく、日性の著述刊行活動の始まりと完結を意味していると考えるべきで ― 349 ― *13 あろう。 従来、『編年合運』は多数の要法寺版刊行書目の一種として列記されるだけの存在であって、『太平記』や『沙石 集』といった所謂文学書とは異なり、使用された活字の種類が問題になることはあっても、その内容が検討される ことは皆無であった。 しかし、およそその文中に何らかの紀年を持つあらゆる典籍は、すべて年表上に記載され得る、また記載される べき性格を有するものであるから、ある典籍の記述を批判的に検討するには、信頼するに足る年表を座右に置くこ とが不可欠である。逆に様々な文献に接することで、その中の記事を自分だけの年表に記録しておきたいという動 ― 348 ― 機も生まれる。 日性にとって『編年合運』とは、単なる刊行書目の一つというものではなく、それまでに心血を注いできた『太 平記』などの文献研究の成果を逐一盛り込んだ年表なのであって、彼自身にとって最も使いやすい参考文献であり、 成長し続ける知的データベースであった。 一七 『時慶記』や『慶長日件録』には、刊行なった『編年合運』を手にして貴顕を訪問する日性の姿が記録されてい る 。慶長五年古活字本『編年合運』には、日性が『太平記』の注釈を始めとする古典研究の過程で得た歴史知識が 新村出氏『新村出全集』第八巻「要法寺版の研究」一七四頁(筑摩書房、一九七二年) 満載されており、その意味では、満を持して世に問うた日性の著作であったと言えよう。 *14 *1 (ABAJ、一九六七年) 。 川瀬一馬氏『増補古活字版之研究』 一八 (新典社、二〇〇六年) 、同氏「要法寺版をめぐる覚書」『芸文研究』九五号(二 小秋元段氏『太平記と古活字版の時代』 〇〇八年) 。 『私聚百因縁集』の成立時期(二)―『拾芥抄』 『倭漢皇統編年合運』等へ及びたる『文献通考』の影響から―」『名 拙稿「 古屋外国語大学外国語学部紀要』三六(二〇〇九年二月) 志云六百二十九年(中略)邵氏経世 この「六四四年」について、王鳴盛撰『十七史商榷』では「左伝云商載祀六百、律 金氏通鑑前編又改為六百四十四年、更不知其何拠、胡渭洪範正論又於六百四十四年之外欲更進一年(後略) 」と述べるが、 今回、邵雍『皇極経世書』及び金履祥『通鑑前編』を確認したところ、 「六百四十四年」の記載は見当たらなかった。 なお、古写本『拾芥抄』における甲種・乙種の二系統について、そこに記される中国王朝の王数や年数を比較したとこ ろ、乙種の方が典拠に近く、甲種よりも先行して成立したのではないかという、通説とは逆の結果が出た。王数や年数の相 違は、文献の系統分類において有効な指標足りうるのではないか。拙稿「 『明文抄』と『拾芥抄』の諸本―その「唐家世立 部」の記述をめぐって―」 『愛知文教大学比較文学研究』九(二〇〇八年一一月) 。 ちなみにこの『史纂通要』には一四一二年刊行の朝鮮活字版(癸未活字使用)があり、韓国国宝に指定されている(ソウ ル大学所蔵) 。この典籍が日本の古活字版刊行の時期以前に日本に将来され参照されていた可能性が考えられる。 以下『太平記鈔』の引用にあたっては、蓬左文庫蔵慶長十五年古活字本を使用し、現在まで唯一の活字翻刻である『国文 註釈全書』第二巻の当該頁数を記した。 「活字・系図とも〔慶長五 前掲小秋元段氏「要法寺版をめぐる覚書」では、慶長十六年古活字本『編年合運』について、 年〕刊本とは別種である。要法寺の刊行書と認められるか、留保が必要だろう」とされる。 整版本『編年合運』の江戸期における流布状況については、栗田元次氏「倭漢編年合運と聖世紹胤録」『史学研究』九―一 (昭和一二年六月)に詳しい。また、古活字版及び製版本の書誌については朝倉治彦氏「要法寺版『和漢合運』素描︱若き 友人へ」 『国学院大学近世文学会会報』一五号(二〇〇九年三月)も参照。但し、これらの諸論には写本の『編年合運』へ 前掲川瀬氏『増補古活字版之研究』増補篇七〇一頁。 の言及はない。 ― 347 ― *3 *2 *4 *5 *6 *7 *8 *9 *10 *11 。 前掲小秋元氏「要法寺版をめぐる覚書」 前掲小秋元氏『太平記と古活字版の時代』一一四頁。 西洞院時慶『時慶記』第二巻(時慶記研究会翻刻・校訂、平成十七年、臨川書店)の慶長七年の条には、「一世雄坊来入、 年代記板校二冊給、又扇子五本給也」 (七月十二日) 、 「一三順取次年代記一部遣候、昨日世雄坊へ代ノ義尋ニ遣、様躰聞候 間、代ノ義申遣候」 (八月十八日) 、 「一元鑑へ柿一折遣候、又年代記約束候間遣候」(八月二十三日)、 「一世雄坊へ先度年代 記ノ替艮十四匁申付候、又再返候」 (十一月八日)などの記事が見え、船橋秀賢『慶長日件録』 (史料纂集、山本武夫氏校 訂、続群書類従完成会)の慶長十年の条には、 「次要法寺上人被来、也足軒同心也、新板和漢合運図被恵之」(十一月六日) とある。これらのことから、日性が西洞院時慶や舟橋秀賢などに『編年合運』を披露すると共に、その販売に関する取り次 ぎなどを依頼していた様子がうかがえる。 一九 ― 346 ― *14 *13 *12 執筆者一覧(掲載順) 中井 政喜 中国語学科教授 森川 正博 英米語学科教授 加藤 潤 菊地 俊一 藤井加代子 山田 敬信 梅垣 昌子 余 求真 Yannick DEPLAEDT 総合教養・教職課程教授 英語教育学科教授 英米語学科准教授 総合教養准教授 英米語学科准教授 中国語学科招聘講師・ 北京外国語大学中文学院講師 フランス語学科招聘講師 英米語学科非常勤講師 中国語学科非常勤講師 フランス語学科非常勤講師 中国語学科非常勤講師 総合教養非常勤講師 中国語学科非常勤ランゲージチューター 日本語学科非常勤講師 高橋 直子 虞 萍 武井 由紀 楊 紅雲 塚本 晃久 呂 雷寧 湯谷 祐三 編集委員会 委 員 長 委 員 森川 正博(英米語学科) 山田 敬信(総合教養) 船越 達志(中国語学科) 水田 澄子(日本語学科) 小山美沙子(フランス語学科) 佐々 輝夫(英語教育学科) 名古屋外国語大学 外国語学部 紀要 第40号 発 行 2011年 2 月 1 日 発行者 名古屋外国語大学 愛知県日進市岩崎町竹ノ山57番地 〒470 - 0197 TEL(0561)74 - 1111 印刷所 株式会社 荒川印刷 名古屋市中区千代田二丁目16番38号 〒460 - 0012 TEL 052-262 - 1006㈹
© Copyright 2024 Paperzz