インドへのまなざし ―文学作品に見る「地域大国」インドの輪郭― 小松

インドへのまなざし
―文学作品に見る「地域大国」インドの輪郭―
小松久恵(大阪大学)
報告要旨
1.序
「インド」のイメージはどのように作られ、それはいかに変容してきたのか。本研究の目
標は、様々な形式の文学作品を広く検証し、それによって「インド」の輪郭を明らかにす
るところにある。本報告では、その目標に向けての研究方法の提示を試みる。
文学作品を検証する際、書き手はどこに立って「インド」を見るのか、書き手のまなざし
の 方 向 に 留 意 し 、 (a) 西 洋 か ら み た イ ン ド 、 (b) イ ン ド 内 部 か ら み た イ ン ド 、 (c) そ の ど
ちらにも分類しきれない、境界上からみたインド、という3方向に分類する。そこに描か
れ た「 イ ン ド 」を 比 較 考 察 す る こ と で 、
「 イ ン ド 」の 輪 郭 が 浮 か び あ が っ て こ よ う 。主 に 取
り 上 げ る の は 、イ ン ド と 西 洋 と の 接 触 が 強 ま っ た 19 世 紀 後 半 か ら 20 世 紀 前 半 の 作 品 で あ
り、当時作成された小説のみならず、旅行記や滞在記、または自伝や日記、雑誌投稿など
のノン・フィクションにも注目する。
2.西洋からみた「インド」
19 世 紀 の 後 半 か ら 、 西 洋 、 特 に 英 国 女 性 た ち に よ る イ ン ド へ の 接 触 が 始 ま っ た 。 (a)布 教
目 的 の 伝 道 団 所 属 の ミ ッ シ ョ ン 女 性 、(b) 夫 の 任 務 に 従 っ て や っ て き た 奥 方( Memsahib)、
(c) 「 啓 蒙 書 」 執 筆 目 的 の ジ ャ ー ナ リ ス ト と い う よ う に 、 女 性 た ち は そ の 渡 航 目 的 に よ っ
て大きく分類される。
(a)と (b)の 女 性 た ち は 共 に 、 イ ン ド で 長 く 生 活 し 滞 在 記 を 残 し た 。 し か し 、 自 ら 志 願 し て
やってきたミッションの女性と夫に付随してやってきた女性とでは、残された文章世界に
大 き な 差 異 が 見 ら れ る 。(a)の 女 性 た ち は 、家 庭 教 師 や 看 護 学 校 の 教 師 な ど 、様 々 な 立 場 で
イ ン ド 社 会 に お い て 教 育 活 動 を 行 っ た 。Forbesの 研 究 で は 、彼 女 ら の 生 徒 に 向 け る 視 線 は
概 し て 冷 淡 、無 関 心 で あ っ た こ と が 指 摘 さ れ た i 。し か し 、南 イ ン ド の 看 護 学 校 に 派 遣 さ れ
た ミ ッ シ ョ ン 教 師 の 日 記 に は 地 元 住 民 や 生 徒 と の 交 流 の 様 子 が 明 ら か で あ り ii 、 彼 女 ら の
視 線 が 決 し て 一 方 的 で な か っ た こ と が 推 測 さ れ る 。 一 方 、 (b)の 奥 方 た ち に よ る 作 品 に は 、
インド社会から距離を置いた、観察者としての視線がより明らかである。それらの作品は
こ れ ま で 多 数 出 版 さ れ て お り iii 、 そ の 中 で 彼 女 ら は 毎 日 の 生 活 や 地 方 へ の 旅 行 等 を 通 し て
インド社会を観察している。昨今はそういった文献の再読、再評価が始まっており、それ
らの検証、分析を今後の研究課題とする。
(c)の 作 品 と し て 、 1927 年 に 出 版 さ れ 国 内 外 で 大 き な 話 題 と な っ た Katherine Mayoに よ る
M o ther India を 取 り 上 げ る が 、そ の 作 中 に は イ ン ド 社 会 に 対 す る 啓 蒙 意 識 が 非 常 に 顕 著 で
ある。アメリカ人ジャーナリストであるメイヨーはインド各地を視察した後に、自身が見
た幼児婚の実態、女性の地位の低さ、衛生観念の欠如などを紹介し、インドの後進性を強
調、自治には不適当であると結論づけた。この作品に対してインド社会からは大きな反論
が 起 こ り i v 、 ま た こ の 著 に 対 す る 反 論 と し て 『 シ ス タ ー イ ン デ ィ ア 』、『 フ ァ ー ザ ー イ ン デ
ィ ア 』、『 マ ザ ー ・ イ ン デ ィ ア へ の 答 え 』 な ど 多 く の 作 品 が 相 次 い で 出 版 さ れ た 。 Sinhaの
指 摘 に よ れ ば 、メ イ ヨ ー は 英 国 当 局 か ら 旅 行 の 資 金 や 手 配 な ど 、様 々 な 便 宜 を 受 け て お り 、
『マザー・インディア』執筆の目的が英国統治の正当化にあったことが推察される v 。し
かし意図的にある部分が誇張されているとはいえ、メイヨーの作品に表れたインド表象は
非常に興味深い。それに対するインド社会からの反論とあわせて、さらなる検証を行うこ
とでインドイメージの成立と変容過程が浮かび上がると思われる。
滞在経験を基にした女性たちのインド描写を検証すると同時に、文学者による旅行記の検
証 を 試 み る 。20 世 紀 の 後 半 か ら 、イ ン ド 出 版 界 に お い て 旅 行 記 や 紀 行 文 の 出 版 が 相 次 い だ
v i 。そ こ に は 近 代 か ら 現 代 に か け て 著 名 な 文 学 者 た ち に よ る「 イ ン ド 」が 収 め ら れ て お り 、
それらの検証は文学者たちが求めた「インドらしさ」の解明につながると思われる。たと
え ば 、 イ ン ド 研 究 者 で も あ る William Dalrympleは 6 年 間 の イ ン ド 滞 在 経 験 を も と に 、 日
常風景ならびにインド各地での出来事をつづった。詳細な調査や観察に基づいたダルリン
プ ル の 描 く 「 イ ン ド 」 と 、 た と え ば 一 旅 行 者 と し て 神 秘 や 精 神 世 界 を 探 求 し た Allen
Ginsbergの「 イ ン ド 」は 大 き く 異 な る 。し か し 、帰 属 社 会 に は な い 何 か を 求 め て イ ン ド を
訪れる、という意味では、両者のインドに向ける視線の根底には共通点があるとも言えよ
う 。ア ン ソ ロ ジ ー に 収 め ら れ て い る 近 代 の 作 品 か ら 、V.S. Naipaul 、Paul Theroux、Ruskin
Bond等 、西 洋 圏 の 著 名 な 現 代 文 学 者 に よ る 旅 行 記 を 検 証 し 、そ こ に 表 れ る「 イ ン ド 」を 明
らかにして、西洋文化に存在してきた「インドイメージ」とその変容を考察したい。
3.インドからみた「インド」
では、インド内部から見た「インド」はどのように描かれてきたのか。ここでは女性に
よる作品を中心に扱うが、自伝や日記などの文献を後世に残すことができた彼女らは、当
時の識字率、教育の普及率から考えると、非常に限られた階層、いわゆるエリート層に集
中していることが明らかである。インド社会において、彼女らのような社会的あるいは政
治的な指導者たちが「インド」に向けるまなざしには多くの場合、理想の前に立ちはだか
る過酷な現状に対する苦々しさが込められ、書き手と「インド」との間には明確な線が引
かれている。たとえば、インド西部出身者を中心としたクリスチャン女性の自伝が多数存
在しているが、そこではキリスト教によって救済されていないヒンドゥー女性は「可哀想
な 」「 救 わ れ る べ き 」 存 在 と し て 描 か れ 、「 救 わ れ た 」 自 身 の 立 場 と 区 別 さ れ て い る v i i 。 あ
るいは社会改革、独立運動に指導者として参加した女性たちは、その文書において社会問
題 に 対 す る 自 身 の 理 想 と 、そ れ に 向 け て の 働 き か け を 主 題 と し て お り v i i i 、そ の い ず れ の 作
品でも「導くべき哀れな大衆」と自己が明確に区別され、大衆へ一方的なまなざしが向け
られている。
そのまなざしの一方性は、獄中記においてより顕著に見られる。投獄という経験は、収監
者にとって日常とは全く異質な生活形態を意味し、同時にクラスを超えた非日常的な交流
をもたらす。政治犯としてAクラスに収監された女性たちは、Cクラスに収監される一般
囚人を目の当たりにするが、それは恵まれた生活を送ってきたエリート女性たちにとって
は 、滅 多 に 経 験 し え な い「 他 者 」と の 遭 遇 で あ っ た と い え よ う 。Hansa Mehtaや Urmiladevi
Shastriら は 、一 般 囚 人 の 衛 生 観 念 や 道 徳 心 の 欠 如 、知 的 文 化 レ ベ ル の 低 さ を 嫌 悪 し 、距 離
を 置 こ う と し た i x 。 ま た Vijaya Lakshmi Panditは 、 自 身 の 世 話 係 と し て 任 命 さ れ た C ク
ラスの少女と間近に接しながらも、心情的には一切交流をもたなかった x 。エリート女性
たちにとって、一般囚の女性たちは「導くべき哀れな大衆」ではあったが、彼女らに同じ
インド女性としての共感を抱くことはない。彼女らのこの心情と、先に取り上げたメイヨ
ーの主張はどのように類似し、またどのように相違しているのか。彼女らの視線を、イン
ド内部からのものだと明確に分類することができるのか、注意深く検証したい。書き手が
大衆に向ける視線には、意図しないままに書き手の自我や社会認識等、非常に興味深い事
象が多く表れている。報告者が入手し検証したこれらの文書は、ごくわずかなものでしか
ない。しかしより多くの文書が当時の雑誌やあるいは女性団体の会報等に掲載されている
と推測され、さらなる資料を発掘収集し、より詳細な検証を行いたい。
では限られたエリート層ではない、一般の女性たちは「インド」をどのように見たのか。
ここではいかなる問題意識が所在するのかに留意し、ごく一般的な無名のインド女性が自
分 自 身 な ら び に「 イ ン ド 」を ど の よ う に 認 識 し て い た の か を 検 証 す る 。中 心 資 料 と し て 20
世 紀 初 頭 の 北 イ ン ド で 人 気 を 博 し た 主 要 3 雑 誌「 Stri Darpan」、
「 Grihalakshmi」、
「 Chand」
を 分 析 す る が 、 そ こ に 寄 せ ら れ た 女 性 た ち の 主 張 は 、 (a)社 会 問 題 を め ぐ る も の と (b)家 制
度 内 の 問 題 を め ぐ る も の の 二 点 に 大 別 さ れ る 。(a)は 社 会 活 動 家 や 教 育 者 な ど に よ る も の で 、
女 子 教 育 の 普 及 や 寡 婦 問 題 、女 性 隔 離 制 度 問 題 な ど が 論 じ ら れ た 。そ の 中 で は 特 に 、1920
年代を中心にして西洋文化に対する批判と自国文化の正当性を主張するものが顕著である。
たとえば西洋社会での高い離婚率や未婚女性の増加をあげ、モラルの逸脱や家庭軽視を批
判し、それと対照的に貞節で家庭的なインド女性を賞賛した。また女性雑誌はこぞって女
子教育の普及を謳ったが、同時に西洋かぶれの、家庭を顧みないような自我の発達を非常
に 恐 れ て い た 。ゆ え に 社 会 問 題 を め ぐ る 論 文 で は 、
「貞淑」
「家庭重視」
「 高 い 精 神 性 」な ど
の「 イ ン ド ら し さ 」が 繰 り 返 し 謳 わ れ て い る 。(b)は 匿 名 に よ る 投 書 で あ り 、も っ と も 多 く
の 投 稿 欄 を も っ て い た 1930 年 代 の チ ャ ン ド 誌 の 読 者 投 稿 に は 、毎 号 10 通 前 後 の 手 紙 が 掲
載された。そこでは寡婦の惨状や婚家の非道など、ごく私的な問題が切実かつ赤裸々に語
られ、
「 イ ン ド 女 性 ら し さ 」と い う 社 会 規 範 に 縛 ら れ た 女 性 た ち の 惨 状 が 明 ら か に な っ て い
る。女性たちの多くは、自らの境遇に対してあきらめと嘆きの声を上げるのみであり、そ
こから抵抗や怒りの声を読みとるのは容易なことではない。彼女らが社会規範による束縛
をどの程度知覚していたのか、資料の再読に努めたい。
4 .「 境 界 上 」 か ら み る 「 イ ン ド 」
インドを見つめる上で、その書き手の立場が西洋にもインド内部にも完全には属さない場
合 が あ る 。た と え ば 、(a)外 の 視 点 を も ち な が ら 内 部 か ら 見 る「 イ ン ド 」で あ り 、あ る い は
(b)移 民 社 会 か ら 見 る 「 イ ン ド 」 で あ る 。 (a)の 例 と し て 、 近 代 イ ン ド で 社 会 活 動 家 と し て
活 躍 し た Cornelia Sorabjiを 取 り 上 げ る x i 。 ソ ラ ー ブ ジ ー は 英 国 留 学 か ら の 帰 国 後 、 女 性
や子供の権利のために法律家として活動しながら、社会改革を主張し続けた。彼女は国の
独 立 よ り も 社 会 の 改 善 こ そ を 重 視 す べ き だ と 訴 え 、2 で 取 り 上 げ た『 マ ザ ー・イ ン デ ィ ア 』
を支持したことで、当時の指導者層、知識人、エリート女性らからこぞって批判された。
ガンディー並びに国民会議派主導の独立運動が盛んであった時代に、ソラーブジーが流れ
に反対する意見を唱え続けた点は特筆すべきである。インド内部で活動しながらも、ソラ
ーブジーは「インド」ならびに「インドらしさ」に拘泥することなく、広い視点をもって
活動した。彼女の主張を 3 の前半で取り上げた、インドエリート女性たちのそれと比較考
察することで、それぞれが描いた「インド」像がより明確になることが期待されよう。
ま た 現 代 イ ン ド に お い て 、海 外 経 験 が 豊 富 な 作 家 や 映 画 監 督 が 見 る「 イ ン ド 」を 考 察 す る 。
作家たちは海外経験によって得られた知見と比較しながら、インド社会を否定、自虐、軽
視、あるいは賞賛、正当化といった複雑に入り混じった視線で描く
xii
。また映画監督の
Anurag Kashyapは 、 話 題 作 「 Dev D」 x i i i に 関 す る イ ン タ ビ ュ ー で 、 作 品 が 広 く 受 け 入 れ
ら れ た の は 「 イ ン ド が 自 己 憐 憫 ( self-pity) の 国 」 で あ る か ら だ と 語 っ た 。 複 数 の イ ン タ
ビ ュ ー 記 事 に お い て 彼 は こ の self-pityと い う 言 葉 を つ か っ て お り 、 現 代 の イ ン ド 表 象 を 考
察する上で、この言葉はひとつの重要なキーワードとして留意される必要がある。
(b)の 例 と し て は 、昨 今 広 く 取 り 上 げ ら れ る よ う に な っ た 移 民 文 学 に お け る「 イ ン ド 」を 考
察 す る 。帰 属 社 会 の 文 化 が 最 も 強 く 表 れ る 場 と し て の 結 婚 、な ら び に 恋 愛 に 注 目 し x i v 、文
xv 学 作 品 に 表 れ る 「 イ ン ド 」 の 特 徴 を 検 証 し た い 。 特 に 移 民 社 会 を 描 い た 文 学 作 品 は 、 無
数に存在しており、適切な資料の選択が必要となる。以上取り上げた資料はかなりの広範
囲に渡るものであるが、これらを注意深く検証していけば、地域大国「インド」の輪郭が
重層的に浮き上がってくることが期待されるであろう。
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ガ ン デ ィ ー は こ の 著 を 、初 め か ら 汚 い も の 、古 い も の を 見 よ う と 言 う 意 図 で イ ン ド を 訪
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xi
「 Dev D」2009 年 1 月 後 半 の 封 切 り 後 、毎 日 の よ う に メ デ ィ ア に 取 り 上 げ ら れ て お り 、
映像など海外の映画からの影響が多く見られた作品であると同時に、現代インド都市文化
の モ ラ ル か ら 逸 脱 し た 部 分 を 描 い た と し て 高 い 評 価 を 得 た 作 品 。も と も と 191 7 年 に 発 表
さ れ イ ン ド 人 か ら 広 く 愛 さ れ て き た Devdas と い う 悲 恋 小 説 が ベ ー ス に な っ て い る 。
xiii
英 国 ム ス リ ム コ ミ ュ ニ テ ィ が 描 か れ た 例 と し て Nadeem Aslan, Maps for lost lovers,
2005. 英 国 シ ク コ ミ ュ ニ テ ィ の 例 と し て Bali Rai, Rani & Sukh, 2004.米 国 ヒ ン ド ゥ ー( ベ
ン ガ ル ) コ ミ ュ ニ テ ィ の 例 と し て Jumpa Lahiri, the namesake, 2003.な ど
xiv