第8巻第2号 2008年3月 - 15年戦争と日本の医学医療研究会

Vol. 8 No.2 ISSN 1346 – 0463
March, 2008
Journal of Research Society for
15 years War and Japanese Medical Science and Service
15年戦争と日本の医学医療
15年戦争と日本の医学医療
研究会会誌
第8巻・第2号
2008年3月
目
次
第27回研究会記念講演日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会主催
27回研究会記念講演日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会主催
国際シンポジウム「戦争と医の倫理」特集
七三一部隊等の被害国国民として ・・・・・・・・・・・・・・・ 王 鵬
讲演稿“战争与医学伦理” ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 王 鵬
As a Citizen of the Victimized Country ・・・・・・・・・・・・・・WANG Peng
アメリカ人の視点から見た731部隊の戦後史 ・・・・・・・・・・・ダニエル・ウィクラー
1
5
9
11
关于“今后遭遇麻烦”的风险 从美国人的视角所看到的731部队的战后史
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 丹尼
威克勒
16
“The Risk of Subsequent Embarrassment” An American's Perspective. On Unit 731’s Postwar History
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Daniel Wikler
19
十五年戦争中の「医学犯罪」と私たちの今日の課題 ・・・・・・・・莇 昭三
22
“十五年战争中的医学犯罪”与今天我们所面临的课题 ・・・・・・莇 昭三
29
“The Medical Crime in the Fifteen Years' War” and Our Task Today ・・ AZAMI Shozo
34
十五年戦争と日本の医学医療研究会「戦争と医学」第五次訪中記録
Report of the 5th delegate to China from the Research Society for the 15 years War and
Japanese Medical Science and Service ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
案内
15年戦争と日本の医学医療研究会 (第24回) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
57
58
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
編集後記
Information
The 24th Meeting of the Society・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
57
Editorial Note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
58
15年戦争と日本の医学医療研究会
15年戦争と日本の医学医療研究会
Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service
March, 2008
Vol. 8 No.2 ISSN 1346 – 0463
Journal of Research Society for
15 years War and Japanese Medical Science and Service
15年戦争と日本の医学医療
研究会会誌
第8巻・第2号
2008年3月
目
次
第27回研究会記念講演日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会主催
国際シンポジウム「戦争と医の倫理」特集
七三一部隊等の被害国国民として ・・・・・・・・・・・・・・・ 王 鵬
讲演稿 战争与医学伦理
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 王 鵬
As a Citizen of the Victimized Country ・・・・・・・・・・・・・・WANG Peng
アメリカ人の視点から見た731部隊の戦後史 ・・・・・・・・・・・ダニエル・ウィクラー
1
5
9
11
关于 今后遭遇麻烦 的风险 从美国人的视角所看到的731部队的战后史
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 丹尼尔 威克勒
16
“The Risk of Subsequent Embarrassment” An American's Perspective. On Unit 731’s Postwar History
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Daniel Wikler
19
十五年戦争中の「医学犯罪」と私たちの今日の課題 ・・・・・・・・莇 昭三
22
十五年战争中的医学犯罪 与今天我们所面临的课题 ・・・・・・莇 昭三
29
The Medical Crime in the Fifteen Years' War” and Our Task Today ・・ AZAMI Shozo
34
十五年戦争と日本の医学医療研究会「戦争と医学」第五次訪中記録
Report of the 5th delegate to China from the Research Society for the 15 years War and
Japanese Medical Science and Service ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
案内
15年戦争と日本の医学医療研究会 (第24回) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
57
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 58
Information
The 24th Meeting of the Society・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
57
Editorial Note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
58
15年戦争と日本の医学医療研究会
Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第8巻2号
2008 年 3 月
第27回研究会記念講演日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会主催
国際シンポジウム「戦争と医の倫理」特集
七三一部隊等の被害国国民として
王 鵬
中国侵略日本軍七三一部隊罪証陳列館 館長
ご在席の皆さん、こんにちは!
まず日本の「戦争と医学」展実行委員会の招請に
より第二十七回日本医学会総会出展「戦争と医学」
展実行委員会主催の国際シンポジウムに出席するこ
とが出来たことを感謝し、この機会にアメリカハー
バード大学公衆衛生学ダニエル・ウィクラー教授、莇
昭三先生を初めとするご在席の学者の皆さんと、一
堂に会する機会をいただき光栄に存じます。
それでは招請をしてくださったご意向に沿い、七
三一部隊の歴史、七三一部隊が何をしたか、被害国
の国民として医の倫理をどのように考えるべきか、
という三点についてお話させていただきます。
一.七三一部隊の歴史について
「日本陸軍軍医学校昭和五十年史」によりますと、
一九三二年八月に三等軍医正として石井四郎が満州
(中国東北)に行きました。当時石井四郎と一緒に
満州に行った者は計三名で、その中には石井四郎か
ら片腕と言われた増田知貞がいました。行動の機密
を守るため石井四郎は「東郷一」の名前を用い、こ
れが、七三一部隊がかつて「東郷部隊」と呼ばれた
由縁でもあります。彼は哈爾濱から七十キロ離れた
五常県背陰河村に細菌実験場を建て、対外的には「中
馬城」といい、ここで最初の生体実験を始めました。
しかしこの細菌実験場の位置はちょうど当時中国東
北抗日連合軍の遊撃区内だったため、一九三四年九
月、細菌実験場で「被実験者逃走事件」が起こり、
一部逃走したものが東北抗日連合軍に加わりました。
石井四郎はこの事により秘密が漏れるのを恐れ、一
九三五年哈爾濱の南二十キロの平房を再度選択、こ
の地域を特別軍事区域とした後、一九三八年五常県
背蔭河村の細菌実験場を続々と平房地区に移しまし
た。
七三一部隊は哈爾濱平房地区に居座り拡大してい
きました。特に細菌兵器の研究、実戦では当時の「世
界ナンバーワン」でした。七三一部隊は更に当時の
日本国内の多くの医学人材を網羅し、平房の広大な
特別軍事区域において人間の医学研究の極限を逸脱
し、残忍非道にも健康な人を使い各種の細菌兵器試
験を行ないました。
七三一部隊は中国侵略日本軍に協力し、戦略的な
遠征作戦に出かけ、寧波、常徳、浙・ 鉄道沿線など
戦略要地で、大規模な細菌兵器による攻撃が相前後
して行ったほか、日本軍が一九四二年雲南保山で細
菌戦を実行、一九四三年山東省魯西で実行した細菌
戦もすべて七三一部隊が直接関与していました。
-1-
一九四五年日本が敗戦、降伏前に七三一部隊は大
量の証拠を湮滅、実験に使えなかった拘禁者をすべ
て殺した後、日本に撤収しました。関東軍参謀本部
作戦課主任・朝枝繁春は1一九四四年取材を受けたと
きにこう証言しています。
「一九四五年八月十日(石井日記においては八月
十一日)、石井四郎と新京(長春)軍用空港で会い
参謀総長の名で石井四郎に対し以下の事項を要求。
一、部隊は全面消滅、二、部隊隊員は速やかに日本
本土へ帰還する、三、あらゆる証拠は地球上から永
久抹殺。」
元七三一部隊の少年班隊員小笠原明氏は七三一部
隊展でこう証言しました。もう一人の溝渕と呼ばれ
た元隊員が「部隊が最後に 処理 したマルタは四
百四人」というのを聞いたと。
戦後さまざまな原因で七三一部隊は戦争責任追及
を逃れ、部隊長石井四郎は一九五九年喉頭癌により
東京で死亡、その後七三一部隊の歴史は長期にわた
り人に知られず一九八十年代になり日本の作家森村
誠一氏の『悪魔の飽食』など七三一に関するシリー
ズ書籍が出版され、七三一部隊の状況がついに徐々
に公にされました。
二.七三一部隊が行った具体例
(一)特別移送
大規模な人体実験を行なうため、七三一部隊は関
東軍憲兵と結託し、各憲兵隊は各地で捕獲した国内
外捕虜を秘密裏に七三一部隊に移送しました。この
ように被捕縛者を法廷で審理させず、直接七三一部
隊に送ったやり方は当時「特別移送」と言われてい
ました。七三一部隊設立初期は通りで一般人を無闇
勝手に捕らえ実験材料としていました。この手口は
「圏街(囲い込み)」と呼ばれていました。そのや
り口は憲兵にある通りの両端を封鎖させ、屈強な者
を選び検査と称して七三一部隊に送るというもので
した。
一九三八年一月二十六日 関東軍憲兵隊司令部警
務部は五十八号文書を出し「特別移送」通牒を制定、
移送者の標準を決めました(一九四三年三月十二日
「関憲高百二十号」文書を再発布)。この犯罪を隠
すため、関東軍憲兵隊はこの行動を「特移扱い」(特
別移送処理の意)とし、それにより「特移扱い」は
各地の憲兵隊が生きている人を実験材料にするため
七三一部隊に秘密裏に輸送することをさすようにな
りました。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(1)
October, 2007
李厚賓特別移送档案
李厚賓(彬)別名:敬元 男 一九一〇年六月二十九
日生まれ。出生地:安東省安東県九連城村一九三七年
五月、旧ソ連で訓練されたスパイ劉日宣によりスパ
イとなり、その後李厚賓(彬)は計四回ソ連へ入り、
六回仲間に情報を提供し、一九四一年八月八日東安
省虎林件虎林街四道街で捕らえられ、一九四一年八
月三十日「関憲高第八百六十八」号命令により、虎
林憲兵分隊が当人を特別移送しました。
(二)生体実験
目下、七三一部隊の元隊員の証言による生体実験
は約四十種類余りに分類されます。たとえば、細菌
注射、真空、凍傷、小腸と食道の直接縫合、人馬血
交換注射などで、七三一部隊が思いついたことはす
べて実践されました。七三一部隊元関係者の著述を
見たいと思います。
一)解剖実験に関する篠塚良雄氏の著述
資料:『日本にも戦争があった― 七三一部隊元少
年隊員の告白』P七六∼八三 篠塚良雄 高柳美知子
著/新日本出版社/二〇〇四年
篠塚良雄氏が属していた柄沢班は細菌の毒力を検
査するため、五名の中国人に生体実験と生体解剖を
行ないました。篠塚良雄氏はまず五人から採血し、
彼らの自己免疫能力を測定した。二日目、そのうち
の四名に四種類のペストの予防注射をしました。対
比させるため残り一人にはワクチンを打ちませんで
した。一週間後四名に再度予防注射をうち、まもな
く五名全部が重度のペストに感染しました。篠塚良
雄氏が初めて人体解剖をした男性はこの五名のうち
の一名で、インテリ風で明晰な頭脳を持っていると
感じられました。このワクチンを接種せず直接ペス
ト菌を打たれたその男性が最初に感染し、二∼三日
後高熱が出て、その後顔色が真っ青になり更に二日
後瀕死の状態で、顔色は徐々に黒く変わり始めまし
た。
特別班はまだ息をしているその男性を裸にし、担
架に乗せ解剖室に担いで行きました。全身ゴム製防
菌服でくるまれた細田軍医中尉が篠塚良雄氏に解剖
台上の男性を洗うように命令しました。そこで篠塚
良雄氏はゴム管から水を出し、なるべくその男性の
顔を見ないようにしながら、ブラシでその男性の身
体をこすりました。
手足を固定された男性は突然目を見開き、この凶
暴な行為を確認するように頭を左右に振りましたが、
身体はびくとも動かせませんでした。しばらくして
男性の目には涙がたまり、じっと天井を見据えてい
ました。彼は口を開き何か叫ぼうとしたかのようで
したが、すでにカラカラに渇いた口からはいかなる
声も聞こえず、唇だけが動いていました。細田中尉
は男性の首を触り、その後右手に握ったメスで頚動
脈に沿い切開、鮮血が流れ出ました。
ペストの痛みと生きながらにして切られた苦しみ
の中で、男性が左右に頭を振ると、下顎を締め付け
ていた頚部ピンが更にきつくなり、ついに男性の頭
- 2-
はぐったりしました。この時、止血鉗子を持ってそ
ばにいた江川技師は傷口をくくり頚動脈をめくった
後、カチカチと音をさせ鉗子で血管をはさみました。
その後すぐ男性の心臓にカンフル強心剤が打たれま
したが男性は微動だにせず、ただ口元が軽く痙攣し
ていました。
頸動脈から吹き出た鮮血はぽとぽとと流れ篠塚良
雄氏が持っていたメートルグラスに流れ込みました。
まもなく血は流れなくなり、ビタカンファ(カンフ
ル強心剤)が四本打たれましたがもはやその男性の
身体から鮮血を搾り出せませんでした。「鬼」男性
は最後に食いしばった歯の間から恨みに満ちたその
一言を搾り出し、その後さっと顔色がなくなり呼吸
が停止しました。細田中尉はメスを逆さに持ち男性
の上腹部から手馴れた動作で一気に下腹部まで切り
裂き、その後のこぎりで男性の肋骨を切断し内臓を
すべてあらわにしました。篠塚良雄氏は命令により
ピンセンットで切り刻まれた臓器の一部をすでに培
養基を入れてある容器に塗り、又他の切り刻まれた
臓器を挟んですでに増菌培養基でいっぱいのフラス
コに入れました。
二)安達でマルタを使い、行った細菌実験
資料:「『証言』七三一石井部隊」P九三−P九八/
郡司陽子著/徳間書店/一九八二年
郡司陽子さんの弟は、何度もマルタを使った実験
に参加。朝八時所属研究班班長が何の前触れもなく
近づき、彼らに「今日は演習を行なう」と言いまし
た。郡司陽子さんの弟は白衣の外側を武装してロ号
棟の東側すなわち「七棟、八棟」の特設監獄に通じ
る特別入り口の前で集合しました。それは鉄道でマ
ルタを下ろせる場所でした。そこに結集した時マル
タを輸送するためのトラックと隊員用のトラックが
止まっていました。マルタ用にしろ隊員用にしろト
ラックの後ろは鉄の箱のようで、鉄の箱の外側はテ
ントで覆われ、外から車内が見えないようになって
いました。
特別班看守の護送のもと演習に使うマルタが特別
入り口から出てきました、彼らは数珠繋ぎにぞろぞ
ろと出てきて、毎回約二十∼三十人で、中には中国
人、ロシア人、また中には女性のマルタもいました。
服装は平服でした。
九時ごろ車列が出発すると先頭は軍医達の車、そ
れに続いて隊員とマルタに分かれた二両のトラック
で、最後のトラックはベニヤ板防化服などの資材が
つまれていました。毎回四∼五台のトラックでした。
マルタたちは自分たちのトラックの有蓋貨車に座り、
隊員たちは自分たちの有蓋貨車の荷台の上に座って
いました。隊員たちはどこへ行くのか知りませんで
したが、大体いつも安達にある「七三一部隊」の野
外実験場でした。平房から安達まで約百二十キロ、
トラックで三時間近くかかり、荒漠とした原野でし
た。
その日、実験区域の中心部に柱が立っていて、そ
れを中心にベニヤ板(三尺X六尺)が放射線状に散
在し、中心から十メートル、二十メートルの所にあ
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第8巻2号
2008 年 3 月
り、ドア大のベニヤ板に夫々二本の木の棒が固定さ
れており、木の棒は土中に深く埋まっていました。
密閉したトラックから降りたマルタが縄を解かれ、
その後一人ずつベニヤ板を背に立ち、すぐマルタた
ちは後ろ手にくくられ、その後更にベニヤ板にしっ
かり縛られました。足には足かせがはめられ、部隊
隊員が再度彼らの位置と番号を確認しました。
マルタ達の表情は重苦しいものでしたが、抵抗せ
ず、あるマルタは目隠しを拒否し、屹然とベニヤ板
に立ちました。
あらゆる準備が整った後、隊員達はトラックに乗
り百五十m以上離れたところに潜み、そこで防化服
と防毒マスクをつけました。望遠鏡で観察している
者もいました。
程なく遠方から鈍いエンジンの音が聞こえ、それ
に伴い、黒い点が表れ、どんどん大きくなり、それ
が地面すれすれに飛行している九九式軽型爆撃機で
あるとわかりました。
飛行機は標的の中心である柱の周りに重さ二十K
g,三十Kgの爆弾を投下し、その爆発音は黒煙と
ともに耳を劈きました。飛行機が去り、黒煙が薄く
なると、隊員たちはすぐに現場に急ぎました。防化
服に身を包んだ者の眼前にはすさまじい光景が広が
っていました。そこはマルタの地獄でした。
マルタたちは一人の例外もなく飛ばされていまし
た。そのまま爆死したものもいたし、腕の無い者、
体中或いは顔一面血が流れている者、一面の苦しい
うめき声、血なまぐさいにおいで耐え切れぬほどで
した。
此の時隊についてきた記録班が冷静に写真や撮影
をしていました。爆弾の破片、爆破力、土壌の状況
を点検している者もいました。隊員たちはすでに死
亡、あるいはまだ息のあるマルタを一緒にトラック
に詰め込み、その後実験の痕跡を全く拭い去り、ま
るで何も起こらなかったようでした。これらすべて
のことが完了した後、隊員全員そこでスプレーのよ
うなもので消毒し、隊に帰りました。
部隊に帰ってから更に二度消毒、消毒風呂に入っ
てから着替え、それでやっと解散となりました。話
では、死亡した或いは負傷したマルタは夫々専門に
検査し、死体は消毒後死体焼却炉で焼かれたといわ
れています。このような実験は細菌弾の効果を見る
ためのものであることは間違いありません。防化服、
防毒マスク、身体に対する徹底消毒、その後下され
る「守秘令」はこのことを物語っています。郡司陽
子さんの弟はあの時の実験目的は細菌弾を如何に水
平方向に広げるかの研究のためだと思っています。
三)野外実験中に黄弾(イぺリット或いはルイサイ
ト毒ガス弾)射撃で起こった皮膚障害に関する臨床
症状観察報告(池田苗夫少佐報告)
資料:「七三一部隊作成資料」十五年戦争機密資料
集二十九、P四−P六/田中明・松村高夫 編・解説/
不二出版/一九九六年
昭和十五年(一九四十年)九月七日から昭和十五年
九月十日にかけ野砲四基(砲弾六百発)榴弾砲八基
(砲弾八百発)で黄弾(イペリット或いはルイサイト
毒ガス弾)を使い射撃実験を行ないました。
第一地区内に一ヘクタール百発、発射総数は千八
百発,総射撃時間は四十分、射撃方式はまず十五分
射撃、その後十五分休憩、更に十分再射撃。
第二地区内は一ヘクタール当たり二百発、発射総
数三千二百発。
第三地区内は一ヘクタール当たり三百発、発射総
数四千八百発。
被爆発物は実験地区内の野砲掩体、塹壕、観察所、
掩体状況観察所、特殊建築としました。
第一地区内に放置した被実験者はすべて丸刈り、
満州風着衣、顔面は覆いなし。
第二地区内に放置した被実験者はすべて丸刈り、夏
の軍服、軍靴着用、三名は顔面覆いなし。三名は
有り。
第三地区内に放置した被実験者はすべて夏季軍服
着用、二名は顔面覆いなし、三名は有り。
黄弾(イペリット或いはルイサイト毒ガス弾)射撃
実験後四時間、八時間、二十四時間、二日目、三日
目、五日目夫々一般症状(神経障害を含む)、皮膚
症状、眼部、呼吸器、消化器官の症状の病変経過を
観察しました。同時に水疱内溶液を人体に接種する
実験、血液図象、屎尿検査を行ないました。
第二章 病例
第一区域内被実験者の症状
二百八十七号
九月七日黄弾射撃後四時間で全身脱力、口腔周囲
赤くなる。
九月八日深夜一時虚脱感が見られ、その後頚部が
赤みを帯び、頬むくみ、まぶたむくみ、腕外側 赤
く、二十二時口腔周囲に粟粒ほどの水疱。
九月九日二十二時口腔周囲粟粒から米粒状の大小
様々な水疱。
九月十日十七時発熱三七度。肩甲部、頚下前胸部、
腹部、四肢、陰嚢赤みを帯び始め、同時に視力減退、
眼痛、結膜浮腫、角膜混濁、鼻水、咳、咽喉後腔赤
いなどの症状。
九月十一日十七時全身赤くはれ、陰嚢赤く痛む、
鼻水、声がかすれる、咳などの症状、頚部内側引き
裂き感あり。
九月十二日十時 顔部腫れ上がり痛み。頚部多数
硬い瘡蓋、肩甲部赤く、頚部水疱部分は膿疱化へ進
む。四肢、腹部赤い。陰嚢糜爛開始、陰茎多数硬い
瘡蓋、眼部症状徐々に悪化傾向:まぶた浮腫、結膜充
血浮腫の現象顕著。
三.被害国の国民として医の倫理をどのように考え
るか
被害国の国民として、七三一部隊が侵略戦争のた
め残忍非道の限りを尽くし大量の生きた人間を使い
人体実験をしていたと知ったときは、間違いなく誰
でも憤怒で胸が一杯になるに違いありません。
第一章 序
-3-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(1)
October, 2007
人類が疾病予防、健康増進。生命の質を高めるた
め行なう探索的創造的な人体実験は必要で、それが
医学の存在発展に必要な条件で、特に近代実験医学
が生まれてから科学的な人体実験は医学科学研究の
核となったことは理解できます。しかし、人体実験
は決してみだりにむやみ勝手に行ってはいけません。
そのため、医学の科学研究の実践に対しプラスとな
る価値選択を行なうことと、人道主義に必要な取り
決めは重要な意義を持ちます。
中国にも多くの医学の先達が、疾病治療の方法を
探るため自分の身体を使い実験をしました。たとえ
ば、中国古代の名医華陀は麻沸散(麻薬)の薬力研
究のためしょっちゅう自分で服用し、唇の知覚がな
くなるまで試しました。明時代の李時珍は、有毒の
曼荼羅草を自分の身体で試し、ついに中医の名著「本
草綱目」を完成させました。唐代の薬王といわれた
孫思邈は、医を行としながら薬草採取し自分で試し、
「千金方」を始めて完成させました。又中国の針灸
術は、最初の学習段階では殆ど全部自分に打ってい
ます。
世界の医学史を見ると皆同じで、例えば二千五年
世界ノーベル賞を受賞したオーストラリアの医学者
バリー・マーシャル教授も、ヘリコバクターピロリ
菌培養基液を飲み自飲実験で研究を重ね、ついに胃
潰瘍を薬で短期治癒可能な疾病であると立証しまし
た。記者がどうしてそういう方法を取ったのかたず
ねると、バリー・マーシャル教授はこう答えました、
「自分を胃潰瘍にし自分で治療してこそ、ヘリコバ
スターピロリ菌が一般に人体内にある病原体の一種
であると証明できるのです」。
医学のため自分を捨て他人に尽くしたこれら医学
の先輩たちは、自身の高潔な品性で人類の健康促進
のため心を砕き探求しました。彼らは後の世の手本
となったのです。このほか国内外の多くの進んだ考
えの人は自分の死後科学研究のために役立ててくれ
と献体を申し出ています。中国改革開放の中心人物
である鄧小平氏は、死後、他の人が明るさを得るた
め自分の角膜を役立ててくれと堅く言い残しました。
私たちはこれらのことから人の品性のすばらしい面
- 4-
を見ることが出来ると同時に、二つの共通点を見る
ことが出来ます。
(一)人体実験はすべて自発的に自分の身体を使っ
てする。
(二)人体実験の目的は、医学研究の、人類の健康
のため。これは七三一部隊のやり方と百八十度違い
ます。七三一部隊が行った人体実験は、【一】被実
験者は様々な残忍な実験方法で傷つけられ、最終的
に殺されました。【二】医学研究とは細菌兵器の製
造研究で、細菌戦を起こすことが目的でした。【三】
完全な無理強いで、合法かどうか、被実験者が望ん
でいるかどうか等些かも考えませんでした。【四】
必死で隠し、この歴史が永久に人に知られないよう
に望みました。
私たちは人体実験に反対しているのではありませ
ん。しかし人体実験は、一、医学、全人類の幸福の
ため、二、本人の同意が必須、三、倫理道徳を守ら
なければなりません。この三点の基礎の上にのみ成
り立つと考えます。これ以外は、どのような医学と
いう錦の御旗を掲げた人体実験も不道徳なものであ
ります。これらをないがしろにして人体実験を語る
のは七三一部隊と同じ轍を踏み、更に多くの罪のな
い人がごく一部の集団の利益のために尊い命を失う
ことになると思います。
以上です。ありがとうございました。
(日本語校閲 大阪府保険医協会副理事長 武田勝
文)
シンポジストの王鵬氏の略歴
1962年生
1983年ハルビン師範専門学校物理専門卒
1983年ハルビン市第100中学校教師
1986年平房区教育委員会幹事
1988年平房区監察局幹事
1992年平房区工業局党弁公室主任
1996年平房区衛生局副書記
1998年平房区紀律検査委員会党風室主任
2001年侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第8巻2号
2008 年 3 月
第27回研究会記念講演日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会主催
国際研讨会「戦争与医の倫理」特集
讲 演 稿
战争与医学伦理 大阪国际研讨会
王 鹏
侵华日军第七三一部队罪证陈列馆 馆长
女士们、先生们:
大家好!首先,感谢日本大阪保险医协会的邀请出
席第27回日本医学会总会出展 战争与医学 展国际
研讨会,也很荣幸能借此机会与美国哈佛大学公众卫
生学教授丹尼尔•威克勒(Danil Wikler)先生、日本
学者筋昭三先生及在座的各位学者相聚。下面,我将
遵照邀请方的意愿,就 731部队的历史 、 731部
队做过哪些事情 、及 作为受害国国民,应该怎样
思考医学伦理 这三点进行演讲。
一、 七三一 部队历史介绍
根据《日本陆军军医学校昭和50年史》中记载:193
2年8月,作为三等军医正的石井四郎去了满洲(即:
中国东北),当时,与石井四郎一同去满洲的一共有3
人,其中就有后来曾被石井四郎称为 左膀右臂 的
增田知贞。为了保守行动机密,石井四郎所用的名字
叫 东乡一 ,这也是 731部队 曾被称为 东乡部
队 的原因。他选择在距离哈尔滨70公里的五常县背
荫河镇建立了细菌实验场,对外称 中马城 ,开始
了最初的活体实验。然而,此处细菌实验场的地理位
置恰恰在当年中国东北抗日联军的游击区内,1934年9
月,细菌实验场爆发了 被实验者逃脱事件 ,部分
逃脱的人后来还参加了东北抗日联军。这使石井四郎
因恐秘密泄露而深感不安,为此,他于1935年重新选
址距哈尔滨南20公里的平房地区,在将该地区设定为
特别军事区域后,石井四郎于1938年将地处五常县背
荫河镇的细菌实验场陆续迁至平房地区。
731 部队盘踞哈尔滨平房地区期间有了很大的发
展,特别是在细菌武器研究和实战等方面创下了当时
的 世界第一 。 731 部队还网罗当时日本国内众
多的医学人才,在平房的庞大特别军事区域内,突破
人类医学研究极限,惨无人道地用健康人做各种细菌
武器试验。
731 部队配合侵华日军进行了战略性的远征作战,
先后在中国宁波、常德、浙赣铁路沿线等战略要地实
施大规模细菌武器攻击,此外,日军于1942年在中国
云南保山发动的细菌战、1943年在山东鲁西发动的细
菌战,也均有 731 部队的人员直接参与。
1945年日本战败投降前, 731 部队在销毁大量罪
证并杀死全部没来得及进行实验的被关押者后几乎全
部撤回日本。
关东军参谋本部作战课主任朝枝繁春在1994年接受
采访时作证说:他曾在1945年8月10日(《石井日记》
中是8月11日)与石井四郎在新京(长春)军用机场见
-5-
面并以参谋总长的名义要求石井四郎1. 部队要进行
全面的销毁;2. 部队队员尽早回到日本本土;3. 把
所有的证据从地球上永远的消除。
原 731 部队少年班队员小笠原明在 731部队展
中作证说另一位叫沟渕(同 渊 )的原队员曾讲述
过部队最终所 处理 的 马路大 总数量为404人。
战后,由于种种原因, 731 部队逃脱了战争责任的
追究,部队长石井四郎于1959年因喉癌死于日本东京,
此后, 731 部队的历史在很长一段时间内不被人知,
直至上个世纪80年代,随着日本作家森村诚一《恶魔
的饱食》等关于 731 的系列书籍问世以后, 731
部队的事情才逐渐为众人所知。
二、731部队所做的具体事情
(一)特别移送
为进行大规模的人体实验, 731 部队与关东军宪
兵队相互勾结,由各宪兵队将在各地抓获的中外人士
秘密移送到 731 部队。这种不将被捕者交到法庭审
理,就直接送到 731 部队的做法当年被称为 特别
移送 。 731 部队在建立初期,也曾做过到大街上
随意抓获普通百姓当作实验材料的事情,这种行径被
称作 圈街 ,所谓的 圈街 就是派日本宪兵将一
条街道的两边堵住,发现身强体壮的就以检查为名将
其送到 731 部队。
1938年1月26日,日本关东军宪兵队司令部警务部下
发了58号文件,制定了 特别移送 的通牒,并规定
了移送人员的标准(1943年3月12日以 关宪高120号
文件重新发布)。为了掩盖罪行,关东军宪兵队将这
个行动称为『特移扱い』
(即:特别移送处理之意。),
所以『特移扱い』成了各地宪兵队向 731 部队秘密
输送活人充当实验材料的隐匿称谓。
这是从黑龙江省档案馆发现的部分 特别移送 档案:
李厚宾特别移送档案
李厚宾<彬> 别名:敬元 男 生于1910年6月29日
出生地:安东省安东县九连城村 1937年5月被前苏联
培养的谍报员刘日宣发展为谍报员。此后,李厚宾<彬
>先后入苏4次,会同同伙提供情报6次,1941年8月8日
被捕于东安省虎林县虎林街四道街。1941年8月30日根
据 关宪高第八六八 号命令,由虎林宪兵分队将该
人 特别移送 。
这是李厚宾的遗像。
(二)活体实验
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(1)
October, 2007
2、在安达使用 马路大 进行的细菌实验
资料来源:《【证言】七三一石井部队》P93∼P98/郡
司阳子 著/德间书店/1982年
郡司阳子的弟弟曾参加过好几次使用 马路大 进
行的实验。早晨过了8点,所属研究班班长就会毫无前
兆的走进来对他们说: 今天进行演习!
郡司阳子的弟弟在白大褂的外面进行武装后,就在 四
方楼 的东侧即通往 七栋、八栋 特设监狱的特别
入口前集合,那里就是用铁道线运卸 马路大 的地
方。
结集到那里时,运输 马路大 用的卡车和队员用
的卡车已经等在那里了,无论是运输 马路大 用的
卡车还是队员用的卡车,车后部都弄的如同铁箱子一
般,那铁箱子外面罩着车蓬,从外边完全看不到车内
部的情形。
在特别班看守的押解下,演习中所要使用的 马路
大 从特别入口处走了出来,他们都排成一排象串珠
一样鱼贯而出,每次大概二、三十个人,其中包括中
国人和俄国人,偶尔还能看见女性 马路大 ,他们
穿的服装都是便服。
9点左右车队就出发了。走在最前面的是军医们的车,
接下来的分别是乘坐队员和 马路大 的两辆卡车,
最后面的卡车装的是胶合板及防化服装等资材。每次
通常使用四、五辆卡车。 马路大 们坐在他们卡车
的车厢里,队员则坐在自己车厢内的行李上。队员们
在车上时并不知道要去哪里,但那时经常去的是一处
设立于安达的 731 部队野外实验场。从平房到安达
大约有120公里,乘卡车需要近3个小时的时间,那里
是一片广漠的原野。
在那天实验区域的中心处竖着一根杆子,以这个杆
子为中心,胶合板(3尺*6尺)呈放射状散开,有的距
离中心10米,有的距离中心20米,在一扇门一样大的
胶合板上分别固定着两个木棒,木棒深埋在土中。
从密闭的卡车上下来的 马路大 被松了绑,然后让
他们一个一个地背靠着胶合板站好,随后, 马路大
们背在后面的双手被绑了起来,然后就被更加牢固的
绑在胶合板上。记得他们的脚上是带着脚镣的,这时,
有部队队员再次确认了他们的位置和编号。
马路大 们表情凝重,但却没有抵抗,其中有的 马
路大 拒绝被蒙上眼睛,毅然地站在胶合板前。
所有的准备结束后,队员们就乘卡车躲到了150米开外
的地方。然后在那里穿戴好了防化服及防毒面具。有
人用双筒望远镜进行观察。
不久,远处传来了很钝的发动机的声音,随之出现
了黑点,黑点不断扩大后我们才看清那原来是贴近地
面飞行的九九式轻型轰炸机。飞机围绕着 标的 中
心的杆子投下了重20公斤和30公斤的炸弹,爆炸声随
着黑烟冲进了人们的耳朵。在飞机飞走、黑烟淡去后,
队员们立刻朝现场赶去,展现在这群身穿防化服人员
面前的是一片凄惨的景象。那里是 马路大 的地狱。
马路大 们毫无例外的被炸飞了,有的被直接炸死
了,有的被炸断了胳膊,还有的身上和脸上在不停的
流着血,周围痛苦的呻吟声和血腥的味道让我们很难
受。
这时候,随队而来的记录班在冷静的照相和拍摄,
有的人还在检测着炸弹的碎片、爆破力的强度及土壤
目前,从 731 部队原队员的证言中归纳出活体实
验共有四十余种,例如:细菌注射、真空、冻伤、小
肠和食道直接缝合、人马血交换注射等等,只要是 7
31 部队能够想到的,他们就会付诸于实践。请看 7
31 部队原相关人员的描述:
1、篠塚良雄关于解剖实验的描述
资料来源:《日本也曾发动过战争̶̶原731部队少年队
员的告白》P76∼P83/篠塚良雄 高柳美知子著/新日
本出版社/2004年
篠塚良雄所属的柄泽班为检验细菌毒力,曾使用五
名中国人进行了生体实验并活体解剖。篠塚良雄首先
对五个人进行了采血,以此来测定他们的自身免疫能
力。第二天,对其中的四人进了四种鼠疫的预防注射。
为了进行对比,另外一人没有注射疫苗。一周后,对
前述四人再度进行了预防注射。不久,这五人全部感
染上了重症鼠疫。
篠塚良雄最初所进行活体解剖的男性,就是在这五
人中的一个。那是个知识分子类型的人,感觉上他的
头脑十分清晰。这个没有接受疫苗注射而直接被注入
了鼠疫菌的那个男人第一个被感染,并且在两、三天
后出现了高热,随后脸色开始发青,这之后第二天,
这个男人就已经进入了濒临死亡的状态,并且脸色开
始逐渐变黑。
特别班队员把那个一息尚存的男人赤裸裸的放在担
架上,抬到了解剖室中,全身已经被胶质防菌衣包裹
起来的细田军医中尉向篠塚良雄作出了清洗解剖台上
的男子身体的命令。于是,篠塚良雄让水从胶皮管流
出,尽量不去看那男人的脸,然后用小刷子刷洗了那
个男人的身体。
手脚都被固定了的男人突然睁开了眼睛,象要确认
这暴行一样左右转动着脑袋,身体却无法动弹。不久,
男人的眼睛饱含着泪水,直勾勾的看着天棚。他张开
了嘴仿佛要发出喊叫,可是从那张已经干裂至极的嘴
中却没有任何声音传出,嘴还在动着。细田中尉摸了
摸男人的脖子,然后挥动右手中拿着的刀沿着颈动脉
切了下去,鲜血立刻流了出来。
在鼠疫的病痛和活生生切割的痛苦中,男人左右摆
动着脑袋,这就使原本卡在下鄂的颈销更加紧缩,终
于,男人的头垂下了。这时候,握着止血钳子等在一
旁的江川技师绞拌了一下伤口,翻出了颈动脉后咔咔
两声用钳子夹住了血管。虽然这之后不久立即在男人
的心脏部位注射了樟脑强心剂,可是男人依旧一动不
动。只是嘴角出现轻微的痉挛。
从颈动脉涌出的鲜血嘀嘀嗒嗒的流了出来,流进了
篠塚良雄手中的量杯里,不一会,血便不再流。即便
打了四支维他康夫(樟脑强心剂),也没能从那个男
人身上再挤出鲜血。 鬼子 男人最后从牙缝里挤出
了这样一句充满憎恨的话,随后唰的一下面色消褪呼
吸停止。细田中尉反握手术刀从男人的上腹部轻车熟
路的下刀一直划到下腹部,然后拿出一把骨锯将男人
的肋骨割断,这样内脏就全部显现出来。篠塚良雄按
照命令用镊子夹起一部被切碎的脏器涂在已经放入培
养基的容器里。又夹起另一些被切碎的脏器放入已经
充满了增菌培养基的烧瓶里。
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第8巻2号
2008 年 3 月
眼痛、结膜浮肿、角膜浑浊,还伴随有流鼻涕、咳嗽、
咽喉后腔发红等症状。
九月十一日十七点全身弥漫性红肿、阴囊发红并疼
痛,还伴有流鼻涕、声音嘶哑、咳嗽等症状,颈部内
侧有撕破感。
九月十二日十点面部肿胀且有疼痛感,颈部多处出
现硬痂,肩胛部发红、颈部水疱部分向脓疱化转移。
四肢及腹部发红,阴囊开始糜烂、阴茎上出现多处硬
痂。眼部症状有逐渐恶化的倾向:眼睑浮肿、结膜充
血浮肿的现象非常显著。
的情况,队员们把已死的和还活着的 马路大 都一
起装进了卡车,然后再把实验的痕迹完全抹去,就如
同什么都没发生一样。所有的这些都完成后,全部队
员在当地用喷雾器一样的东西进行了消毒,随后就归
队了。
回到部队后,又进行了二次消毒,泡完了一个消毒
澡后换装,然后才终于解散。听说死的和负伤的 马
路大 被分别进行了专门的检查,死的尸体在进行消
毒后都被送到焚尸炉烧掉了,毫无疑问,这样的实验
是为了检验细菌弹的效果。防化服、防毒面具、对身
体的严格消毒以及随后下发的 保密令 都说明了这
一问题,郡司阳子的弟弟认为那次实验的目的就是为
了研究如何将细菌弹的效果横向扩大。
3、关于野外实验中用黄弹(芥子气或路易式毒气弹)
射击而引发皮肤伤害的临床症状观察报告(池田少佐
报告)
资料来源:《七三一部队作成资料》十五年战争极密
资料集29,P4-P6/田中明•松村高夫 编•解说/不二出
版/1996年
第一章 序 言
从昭和十五年(1940年)九月七日到昭和十五年九
月十日,用野炮四门(炮弹600发)、榴弹炮八门(炮
弹600发)进行了黄弹(芥子气或路易式毒气弹)进行
了射击实验。
在第一地区内每公顷发射100发,发射总数为1800发。
总射击时间为40分钟,射击方式为先射击十五分钟,
然后休息15分钟,再射击10分钟。
在第二地区内每公顷发射200发,发射总数为3200发。
在第三地区内每公顷发射300发,发射总数为4800发。
被炸物为实验地区内的野炮掩体、壕沟、观测所、
掩体状观测所及特种建筑。
在第一地区内放置的被实验者均光头、身穿满洲服
饰,面部无遮盖物。
在第二地区内放置的被实验者均光头、身穿夏季军
服、军靴,三名面部无遮盖物;三名面部有遮盖物。
在第三地区内放置的被实验者均身穿夏季军服,二名
面部无遮盖物;三名面部有遮盖物。
在黄弹(芥子气或路易式毒气弹)射击实验进行之
后的四小时、八小时、二十四小时、第二天、第三天
或第五天,分别对其一般症状(含神经障碍)、皮肤
症状、眼部、呼吸器及消化器官的症状的病变经过进
行观察。同时,实施了用水疱内溶液对人体进行接种
的实验和对血液图象、其屎尿的检查。
第二章 病
例
第一区域内被实验者的症状
二八七号
九月七日进行黄弹射击后四小时,开始出现浑身乏
力、口腔周围发红。
九月八日凌晨一点开始出现虚脱感,随后颈部发红、
面颊浮肿、眼睑浮肿、小臂外侧发红,二十二点口腔
周围出现粟谷大小的水疱。
九月九日二十二点口腔周围出现从粟谷到大米形状
的大小不等的水疱。
九月十日十七点发烧三十七度,肩胛部、颈下前胸
部、腹部、四肢、阴囊开始发红,并出现视力减退、
-7-
三、作为受害国的国民,如何思考医疗伦理
作为受害国的国民,当了解到 731 部队为了侵略
战争曾残忍至极地使用大量活人进行活体实验时,相
信所有人都会义愤填膺。
我们知道作为人类为了预防疾病、增进健康、提高
生命质量而进行的探索性和创造性的人体实验的实践
是必要的,它是医学存在和发展的必要条件,特别是
在近代实验医学产生以后,科学的人体实验更成为医
学科研的核心和医学发展的关键。但人体实验绝不可
随意,不可滥施,因此,对医学科研实践进行趋利避
害的价值选择与人道主义的必要规约就具有重要的意
义。
中国也有很多医学先贤为了探索治疗疾病的方法不
惜用自身进行实验,例如中国古代名医华佗为了研究
麻沸散(即麻药)的药力经常自己服药,直至嘴部完
全没有知觉;明代的李时珍身体力行尝试有毒的曼佗
罗草,最终完成中医名著《本草纲目》;唐代药王孙
思邈一边行医,一边采药亲自尝试,始成《千金方》。
中国的针灸术在最初学习阶段几乎都是用自身试针。
综观世界医学史,这样的先例也比比皆是,例如:200
5年世界诺贝尔奖获得者澳大利亚医学家巴里•马歇尔
教授狂吞幽门罗杆菌培养液,通过身体力行的研究终
使胃溃疡变成了一种通过施药可短期治愈的疾病。当
记者向他询问为什么这样做时,巴里•马歇尔教授回答
说: 只有让自己患上胃溃疡,再自己实施治疗,才
能证明幽门罗杆菌可以是普通人体内的一种病原体。
这些为了医学事业而舍己为人的医学前辈们以自身高
贵的品质为促进人类健康而苦心探索,他们足以成为
后世医者的楷模。此外,国内外有众多开明人士都承
诺死后捐赠自身器官用于科学研究,中国改革开放的
总设计师邓小平在医嘱中就强调死后要捐出自己的眼
角膜,以便让他人得到光明。
我们从上述事例中除了能够看出人性的闪光点外,
还可以看出两处共同点:一、人体实验均出于自愿并
实施在自己身上;二、人体实验其目的是为了医学研
究,为了人类的健康。这就与 731 部队的做法形成
了鲜明的对照。 731 部队进行的人体实验一是对被
实验者用各种残忍的实验方法加以残害并最终杀死;
二是医学研究以研制细菌武器和发动细菌战为目的;
三是完全强迫,从不考虑是否合法、被实验者是否情
愿;四是拼命掩盖,期望这段历史永远不为人知
我们并不反对人体实验,但人体实验只能建立在1、出
于医学及为全人类造福的目的;2、必须经过本人同
意;3、必须遵守伦理道德这三点的基础上。除此之外,
任何打着医学旗号的人体实验都是不道德的。抛开这
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(1)
October, 2007
些谈人体实验只会重蹈 731 部队的覆辙,只会让更
多无辜的人因为一小部分个别群体的利益而失去宝贵
的生命。
谢谢大家!
- 8-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第8巻2号
2008 年 3 月
Special artilcles of the international symposium organized
by the executive committee of the War and Medicine Exhibition
at the 27th general assembly of the Japan Medical Congress
As a Citizen of the Victimized Country
WANG Peng
Diretor, 731 Unit Musium
Unit 731 collaborated with the military police of
Kwantung Army. The military police captured people
to transfer them directly to Unit 731 in secret without
examination in court. This kind of treatment was called
“the special transfer,” the phrase coined to hide the true
meaning of the kind of treatment. At first, they
captured pedestrians in the way called “enclosure,” in
which military police officers block the both ends of a
road and capture healthy ones under the guise of
examination to transfer them to Unit 731. Afterwards,
“the special transfer procedure” was established, which
means the secret transfer of living persons to Unit 731
for experiments.
1. The history of Unit 731
In March 1932, Surgeon Major Shiro Ishii went to
Manchuria with Tomosada Masuda, the right-hand man
of Ishii, and two other persons. To keep the secret, Ishii
referred to himself as “Hajime Togo,” from which the
former name of Unit 731 “Togo Unit” came. Ishii built
a bacteriological experimentation camp (officially
“Zhongma Fortress”) in Beiyinhe, a village 70 km away
from Harbin, and came to perform experiments on living
human subjects.
But the camp was in the area
vulnerable to the attack by partisans and the subjects of
experiments escaped. In 1935, Ishii selected as a
special military area Pingfang 20 km southern of Harbin,
and in 1938 he moved the experimentation camp there.
Unit 731 enlarged its scale; especially it was the leading
research facilities in the field of studies on
bacteriological weapons and warfare. It gathered many
medical scientists from Japan. The level of atrocities
using healthy subjects was far beyond the acceptable
limit of human medical research.
Unit 731 collaborated with the Japanese Army. It
operated strategic expedition for massive germ attacks at
strategically vital areas such as Ningbo and Changde.
In 1942 the Japanese Army performs bacteriological
warfare in Yunnan Baoshan, and also bacteriological
warfare in Western Shandong in 1943, with all of which
Unit 731 were directly involved.
In 1945, Japan was defeated. Before the surrender,
Unit 731 destroyed a large amount of incriminating
evidence, killed all the captives not used as experimental
subjects, and went back to Japan. In an interview in
1994, Shigeharu Asaeda, the Area Army Chief
Operations Staff Officer, testified, “On April 10 in 1945,
I met Shiro Ishii at the Xinjing Military Airport, and, in
the name of the Chief of the General Staff, I ordered him
to dissolve Unit 731, to get back the members of Unit
731 to Japan and to extinguish any evidence from the
earth eternally.” Akira Ogasawara, a former junior
assistant of Unit 731, testified that another former
assistant called Mizobuchi had said, “The number of the
last marutas disposed of by Unit 731 was 404.”
Unit 731 has evaded responsibility for the war, owing
to various causes. In 1959, the commanding officer
Shiro Ishii died of laryngeal cancer in Tokyo. The
history of Unit 731 had remained unknown, but in 1980’
a Japanese writer Seiichi Morimura wrote a book on Unit
731, The Devil’s Gluttony, and since then facts
concerning Unit 731 finally came out little by little.
(P1: This is the documents of “the special transfer,”
discovered in the Archives of Heilongjiang Province.)
(P2: This is one of those people subjected to the special
treatment of procedure.)
2) Experiments on living human subjects
According to the testimonies by former members of Unit
731, there were about forty kinds of experiments on
living human subjects, including germ injection,
exposure of subjects to vacuum or frigid conditions, the
direct suture of the small intestine and the esophagus and
the transfusion of horse’s blood.
① an experiment of vivisection
(This episode was documented by Yoshio Shinozuka, a
former junior assistant)
Kakizawa Team, where Shinozuka belonged,
performed experiments on living human subjects and
vivisections to examine the infectious capacity of
plague bacillus. He injected four kinds of vaccine
into four subjects, and not into one subject for
comparison. Few days later, Surgeon Sub-Lieutenant
Hosoda vivisected the dying one, who had not been
vaccinated, and took measures for preservation of the
infected organs.
② Germ experiments
(This episode was documented by Yoko Gunji, whose
brother is one of those members of Unit 731who
bound about twenty or thirty subjects on boards put in
a radical pattern. At the center of the circle, they
dropped germ bombs. They loaded trucks with
subjects, some dead, and some wounded. They
obliterated the experiment, sterilized themselves, and
went back to the camp. They dissected or vivisected
the subjects, and after that they sterilized and burned
them.
2. Concrete examples of the crime of Unit 731
1) The special transfer
For large-scale experiment on living human subjects,
-9-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(1)
October, 2007
③ Experiments of yperit gas shells
(Surgeon Major Naeo Ikeda reported.)
Subjects were left in three sections. For comparison,
the clothes they wore and the numbers of yperit gas
shells shot were different from section to section.
From 1,800 to 4,800 shells were shot, with fifteen
minutes interval, in the duration of forty minutes.
After that, development of symptoms of subjects were
observed and recorded.
These medical predecessors have dedicated their own
bodies for the benefit of other people for the
development of medicine. In order to improve human
health and medicine, they have devoted themselves to
carry on research because of their noble moral character,
and they have become exemplars for their followers.
Moreover, in China or in other countries, many people
with enlightened views have left their bodies to medicine
after his or her death. Mr. Deng Xiaoping, the leading
figure of Reform and Liberation of China, firmly
demanded that his corneas be used for someone to
restore vision.
In these facts, we may find not only examples of
wonderful aspects of humanity but also two common
elements:
3. As a citizen of the victimized country, what do I
think medical ethics should be?
The heart of any citizen of the victimized country burnsd
with indignation when he or she knows that, in the
Japanese invasion into China, Unit 731 committed
appalling atrocities and performed medical experiments
on living human subjects.
For preventing diseases, enhancing health, and
improving the quality of life, exploratory and creative
medical experiments on living persons are necessary.
They are necessary for the further development of
medicine. Especially, after the birth of modern
experimental medicine, scientific experiments on living
human subjects are of critical importance to medical
scientific research. However, we should never perform
them needlessly and arbitrarily. Thus, it is important to
choose appropriate values that could contribute to the
medical scientific research, and at the same time to put
some humanitarian restrictions on them.
Many Chinese medical predecessors performed
medical experiments on their own bodies in search of
effective medical treatments. For example, a famous
doctor in ancient China Hua Tuo often took by himself
“ma fei san” (a kind of narcotic) to conffirm its potency
so many times that he lost feeling in the lips. In the era
of Min, Li Shizhen took poisonous mandrake by himself
and made out a famous classic of Chinese medicine Ben
Cao Gang Mu (Compendium of Materia Medica in
English). Sun Simiao, a great medical scientist in the
Tang Dynasty, botanized and tried by himself medical
herbs and made out Qian Jin Fang (Thousand Pieces of
Gold Formulae ). In addition, learners of Chinese
acupuncture sting their own bodies.
We can find similar facts in the medical history of the
world. For example, an Australian doctor Barry J.
Marshall drank liquid culture media of Helicobacter
pylori and proved that gastric ulcer is a disease that is
curable with medication in a short period. When a
reporter asked him why he had adopted such a method,
he answered that one can prove by developing ulcers on
one’s own stomach and curing them that Helicobacter
pylori is one of those pathogens which are in the human
body.
(1) A researcher performs human experiments voluntarily
using his or her own body.
(2) The purposes of human experiments are the
development of medicine and the enhancement of health.
These are in striking contrast to the case of Unit 731:
(1) In human experiments, subjects were injured by
various cruel methods and finally killed.
(2) The “medical” research was in fact the research for
production of biological weapons, and its purpose
was to conduct biological warfare.
(3) The experiments were thoroughly coercive; their
legality and subjects’ will were never taken into
consideration.
(4) Unit 731 desperately concealed these facts, hoping
them never to come out.
We do not deny human experiments themselves.
However, there are three necessary conditions:
1) Their purposes must be the development of medicine
and the happiness of humankind.
2) Consent by subjects is sine qua non.
3) Ethical rules must be strictly followed.
Any “medical” human experiment is immoral unless it
satisfies all of the three conditions. Ignoring them will
lead us along the same way as Unit 731, and again many
innocent people will lose their invaluable lives in the
interest of a small group of people.
(This English translation was made for the purpose that
Porf. Wikler understood the main content of Dr. Peng (Dr.
Azami)'s talk. Hence, the talk was not translated in its
entirety.)
- 10-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第8巻2号
2008 年 3 月
第27回研究会記念講演日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会主催
国際シンポジウム「戦争と医の倫理」特集
アメリカ人の視点から見た
731 部隊の戦後史
ダニエル・ウィクラー
ハーバード大学公衆衛生学教授
ク法廷は、この医学者達を裁き、研究者のための綱
領を制定しました。この綱領は、今日研究倫理の諸
原則の基礎となっているものです。そして、大半の
アメリカ人は医師団裁判のことを聞いたことがない
としても、医学研究に携わる人々ならばその大半は
このことについて知っています。そして、この犯罪
者達を裁き、医学研究の領域における倫理的に適切
な行為の規準として以降役立ってきたニュルンベル
ク綱領を策定する際に果たした貢献について、アメ
リカ人は誇りをもっていると言って良いと思います。
私は、アメリカで研究倫理について頻繁に講義を
していますが、通常その講義の最初に、ニュルンベ
ルク法廷におけるナチスの科学者達のスライドを見
せています。そのスライドを見せた後、講義を中断
して「皆さんのうち何人くらいの方が七三一部隊の
話を聞いたことがありますか、何人くらいの方がこ
の時期アジアで起こった出来事についてご存知です
か。」と聴衆に尋ねます。すると大抵の場合、一般教
養の聴衆が百人いて、手を挙げるのは一人か二人し
かいませんし、誰もいないこともあります。そして、
七三一部隊の話について知っている人も、なぜそれ
を知っている人がそこまで少ないのかを知っている
ことはまれです。なぜ少ないのか、それはもちろん、
アメリカがその話を隠そうとしたからです。
そしてこのことは、本当に満足のいく答えを与え
られたことのない、歴史的な難問を突きつけます。
すなわち、なぜ我々アメリカ人のドイツにおける振
る舞いは、日本における振る舞いとこれほどまでに
異なっていたのでしょうか。以下は、ニュルンベル
ク法廷がナチスの医師達の裁判で行ったことをまと
めたものです。
土屋准教授と西山先生、そしてその他の実行委員
会の皆様、お招き頂きありがとうございます。皆様
はまれに見る高潔な方々であり、このシンポジウム
にお招き頂き講演できることは非常に名誉なことで
す。この講演では、一人のアメリカ人として、七三
一部隊を初めとする細菌戦の研究を行った部隊の行
為を知ることに対する、アメリカ政府の対応につい
てお話したいと思います。しかし、私はこの歴史を、
合衆国を初めとする国々における戦後の研究倫理の
発展という文脈に位置づけるとともに、現在の実践
とのかかわりという観点からもお話したいと思いま
す。
まず初めに、あるアメリカの高官による発言をご
紹介しましょう。石井を初めとする七三一部隊の将
校達と最初に接触したのは、日本を訪れたアメリカ
の科学者たちでしたが、アメリカがどのように対応
すべきだったかという問題は、トップレベルで扱わ
れなければならない問題でした。国務・陸軍・海軍
三省調整委員会は、アメリカ政府のトップレベルの
委員会で、彼らが決定を下しました。彼らは出来上
がった報告に、
「大統領に要報告」という印をつけま
したが、トルーマン大統領が実際にそれを読んだの
かどうかは分かりません。そして以下の一節は、こ
の委員会の道徳的な熟慮を要約したものになってい
ます。
たしかに、政府は後になってひどく厄介なことに
なるかもしれない。[しかし、]ここから得られる情
報、とりわけ、細菌戦の人体に対する影響に関して
日本人から最終的に得られるであろう情報は、後の
厄介ごとというリスクを負うだけの重要性を持つ、
と我々はつよく信じる。
――R. M. Cheseldine 大佐・国務陸軍海軍三省委
員会(SWNCC)
・一九四七年
ニュルンベルク法廷における「医師団裁判」
(一九四六年十月二十五日∼一九四七年八月二十
日)
・被告は二十三人
さて、戦後六十年の今日、大変な厄介ごとを抱え
ていると言えます。そこで、その厄介ごとに遭遇す
るというリスクを負う事が正当化されるものだった
のかどうか、について考えましょう。現在の文脈で
注目すべきことは、ナチス・ドイツの政治的指導者
達を裁くニュルンベルク裁判は、連合四カ国、すな
わちソビエト、イギリス、アメリカ、フランスによ
って行われましたが、医師団裁判はアメリカ人のみ
によって行われた、ということです。ニュルンベル
起訴状では、千七百五十人の被害者が特定されて
おり、判決は以下のとおりでした。
・被告七名に死刑
・被告五名に終身刑
・被告四名に十∼二十年の懲役刑
・被告七名に無罪
法廷は「ニュルンベルク綱領」を制定し、以後の
- 11 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(1)
October, 2007
研究倫理に影響を及ぼすことになりました。
さて、戦後日本において我々アメリカ人が行った
ことは、もちろんこれとは全く異なっています。合
衆国細菌戦調査団から、終戦後すぐ科学者達が派遣
されました。彼らは内藤医師を初めとする指導者達
と面会し、今度は内藤医師が彼らを七三一部隊の別
の指導者達や科学者達に引き合わせました。そして
それから数日のうちに、七三一部隊の科学者達を人
道に対する罪によって告訴しない、それと引き換え
にソビエト側とは接触せずアメリカに協力する、つ
まりアメリカ側にデータやスライドなどの資料を引
き渡すよう約束させる、という取引をしました。
この取引の真相は、アメリカが告訴の免除に加え、
七三一部隊の科学者への資金提供も行っていたこと
を示す文章を、常石教授がアメリカ公文書館で発見
するまで、知られていませんでした。この資金提供
は、協力関係を維持するためのものと思われますが、
起こったことについて口外しないと約束する引き換
えとして資金を提供したということもありえます。
私が個人的に悩み、私が答えることのできない問題
は、以上の科学者たちの一部が戦後日本においてこ
れらの出来事について語らないのは、アメリカとの
取引で自分の受け取った資金と引き換えにそれを口
外しないと約束したからなのかどうか、ということ
でした。私はこの問題に答えることができません。
しかしこれは我々アメリカ人に付きまとう問題です。
ここで、実際に戦後法廷で医学戦争犯罪が扱われ
た例を二つ挙げましょう。しかし、どちらの例にお
いても、医学戦争犯罪について言及されているとい
う事実が実際に示しているのは、隠蔽行為があった
ということです。第一の例は、横浜での九州大学医
学部の裁判ですが、ここで我々が注目しているのは、
裁判は行われたものの、その裁判で医師達が裁かれ
たのは、捕虜となったアメリカ人パイロットに対す
る行為についてであって、起訴側は細菌戦の実験に
ついてはまったく言及していない、という点です。
第二の例ですが、以下の一連の出来事はとりわけ
皮肉です。東京戦争犯罪法廷では、数人のまったく
重要ではない下級戦争犯罪者の裁判が行われ、起訴
側は毒物を民間人に与えてその効果を調べたことに
簡単に言及しただけでした。そしてこの次に起こっ
たことは、重要な教訓を与えます。被告側が、この
主張に対して異議申し立てを行ったのです。被告側
は、このような行為はあまりにも残虐であり実際に
そのようなことが出来る人がいたとは信じられない、
と述べ、起訴側がそのような主張することが倫理的
に適切な行為ではないという理由で、起訴側に主張
を取り下げるよう裁判官に求めました。そして裁判
官は、「その通りだ。」と述べたのです。我々がこの
出来事について知ることが出来たのは、記者として
アメリカ軍に同行していた一人の若者がいたからで
す。彼は後に著名な小説家になったアーノルド・ブ
ラックマンで、かなりの年月を経た後、この出来事
に関する著作を出版しました。もしこの著作がなけ
れば、この事件は忘れ去られてしまったでしょう。
- 12-
では、なぜアメリカはこのように行動したのでし
ょうか。なぜ我々アメリカ人は、非常に不正なこと
を行った人々とこのような取引をしたのでしょうか。
歴史の記録に目を向ければ、そこにいくつかの理由
があるのが分かります。そしてその話には、これら
の決定がなされた政治的な文脈も含めなければなり
ません。残念ながら私は、歴史の記録において与え
られたその理由について、アメリカでは十分に検討
されて来なかった、と言わざるを得ません。ある高
官は、自分達が手に入れようとしている情報は非常
に価値のあるもので、これらの科学者達に支払う額
の資金など安いものであり、これは良い取引だ、と
述べました。この発言は、この問題の道徳的な側面
を全く無視しています。そして、もし犠牲者がアメ
リカ人だったならば、この高官は取引については全
く言及しなかったでしょう。この記録について第二
の点を述べますが、これは少し皮肉です。この高官
は、この情報が非常に有益であるが、七三一部隊の
科学者から買う以外にアメリカ人がこの情報を手に
入れる手段はない、と述べました。その理由が、我々
アメリカ人はこれらの科学者達とは違い非常に高潔
な倫理観を持っており、そのためこのような実験を
行なうことができない、だから何か別の方法を用い
てその情報を手に入れることは不可能だ、というも
のだったのです。もし我々アメリカ人がそれほど高
い倫理基準を持っているならば、そのような人々と
このような取引を行なうべきなのだろうか、という
ことをこの発言をした人が自らに問うことがあった
とは思えません。そして最後に、この情報は、もし
戦争犯罪の裁判で用いられたならば、この情報を誤
って用いるかもしれないソビエトを初めとする国々
の手に渡ってしまう、という懸念もありました。
このような決定を下した政治的な文脈に注目する
と、最も重要な要素が冷戦だったことは確かです。
この時期、アメリカはほとんどあらゆる分野で、旧
ソ連圏の脅威と見られるものとの争いを始めていま
した。ご存知の通り、日本占領政府では、民主化と
自由化を進める多くの政策が突然覆され、アメリカ
は戦争犯罪者として告発すべき人々を解放し、冷戦
における協力者に加えたのです。そしてこの意味で、
七三一部隊の科学者達との取引はより大きな現象の
一例であると考えられます。倫理的に不適切な仕方
で戦争を遂行した人々は、協力者としてはより有益
であるという決断が下されたのです。ここで、もう
一つの要素について言及しなければなりません。ア
メリカにも、第二次世界大戦中に細菌戦の研究計画
がありました。敵からの攻撃に備えてアメリカは細
菌戦の研究をすべきだ、と一部の科学者達は考えて
いましたが、別の科学者達は攻撃するための手段と
して細菌戦は有効だろうと考えていました。そして
この後者の科学者達は、戦後の細菌戦研究の継続を
強く熱望し、自分達の仕事がより重要で資金を出す
に値するものに見えるように、日本から得たデータ
が持つ価値を誇張したのです。
しかし、まだ問題は残されています。ドイツにお
いて、私達アメリカ人は科学者達を裁判にかけ、そ
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第8巻2号
2008 年 3 月
の一部を死刑にしましたが、日本ではこのようなこ
とは起こりませんでした。では、どのような理由で
二つの場所でそのように異なる政策を取ったのでし
ょうか。一つには、ドイツでも同様の取引がありま
した。一部の科学者達を裁判にかけた当時、アメリ
カ軍には裁判にかけるために戦争犯罪者を捜索して
いた部隊と、彼らを雇うために捜索していた部隊が
あり、両者はほとんど互いに争っている状況でした。
アメリカにとって有益になりそうなドイツの科学者
を特定し、アメリカで働かせるために移送する「ペ
ーパークリップ作戦」が始まっていました。今日で
も、この歴史の大部分は多くのアメリカ人に知られ
ていません。たとえば、アメリカがもっとも誇るべ
き功績の一つに、人類を月に送ったことが挙げられ
ますが、これもペーパークリップ作戦の直接の成果
でした。ナチスの宇宙計画は非常に進んでおり、我々
アメリカ人はその計画の指導者達と最も優秀な科学
者達を、アメリカに連れ帰りました。その一人が、
フベルトゥス・シュトルークホルトという人物で、
彼は戦争犯罪者でしたが、アメリカ空軍で働かせる
ためアメリカに連れ帰りました。そして退職時、彼
は NASA から「宇宙医学の父」と呼ばれたのです。
ナチスの主任細菌戦専門科学者であったクルト・
ブローメは、ニュルンベルクで裁判にかけられまし
たが、無罪を宣告されました。ペーパークリップ作
戦に従事していた将校は、彼にアメリカ国内での仕
事を与えましたが、戦争犯罪者がアメリカに入国す
ることを阻止しようとしていた別の将校達がこのこ
とに気付き、彼の入国を阻止しました。その結果、
軍は彼にドイツにあるアメリカ軍基地で仕事を与え
たのです。二年前にドイツのテレビで、ブローメが
非常に危険な実験を継続しており、その被験者の多
くが亡くなった、と主張する番組が放送されました。
これは、アメリカ軍の基地で起こったことです。し
かし、このようなことが起こったことを否定する歴
史家達もいます。
七三一部隊の科学者に免責と資金を与えるという
アメリカの決定を振り返ってみましょう。そこには
どのような道徳的な苦悩があったのでしょうか。残
念ながら、道徳的な苦悩があったことを示す記録は
全くありません。この講演の最初に、
「厄介ごととい
うリスク」を負う価値はある、というアメリカ高官
の発言のスライドをお見せしましたが、そこには単
なる戦略的な問題、すなわち逮捕されるかどうかと
いう問題があるだけで、そもそもそのような決断を
下すべきなのかどうかという問題はなかったように
思われます。そして既に注目したように、日本の科
学者達からデータを購入しなければならない理由と
して、
「アメリカの高い倫理基準」をある高官が挙げ
ていたことは皮肉です。
今日、アメリカは世界で最も優れた倫理観を持
つ国であり、他の国々を裁くことをやめることはな
い、という考え方をアメリカ人は好みます。皆様も
ご存知でしょうが、今アメリカ議会では、第二次世
界大戦中の「従軍慰安婦」問題の責任を回避してい
ることで日本を非難する決議案について、議論がか
- 13 -
わされています。
第百十回アメリカ議会、下院決議案百二十一号:
日本政府は……一九三十年代から第二次世界大戦
中まで、アジアと太平洋諸島の植民地支配と戦時占
領の期間に、日本帝国軍が、
「慰安婦」として世界に
知られている性奴隷制を若い女性に強要したことに
ついて、明瞭かつ曖昧さのない仕方で公式に認め、
謝罪し、歴史的責任を受け入れるべきである、とい
うことが下院の意見であることが決議される。
(現在ペンディング、アメリカ議会下院、2007 年
7 月 31 日に採択)
そして、日本の総理大臣がこの責任を回避してい
るという話が、ニューヨーク・タイムズ紙を初めと
する主要各紙に頻繁に載せられているということを
知って頂きたいのです。
そうして、七三一部隊の犯罪の隠蔽にアメリカも
加担していたという歴史が思い出だされることは皮
肉であり、なぜアメリカは謝罪をしないのかと問う
ことができるのです。
この取引をアメリカが認めてきた歴史には、いく
つかの重要な段階があることが分かります。一九四
八年に取引が行われました。一九四九年、ご存知の
通りソビエトが数人の七三一部隊の科学者を裁判に
かけました。アメリカはこの裁判を不正だと主張し
ました。民間人に対する戦争犯罪と実験に関する話
は偽りであり、共産主義者のプロパガンダだと主張
したのです。ジョン・パウエルというジャーナリス
トが、この取引に関する証拠の一部を出版しようと
しました。彼は長年に渡ってアメリカ政府により告
訴され、刑務所に入れられることはなかったものの、
自らの成果をアメリカで出版することは非常に困難
だと分かりました。一九八一年になってようやく、
ジョン・パウエルによる実質的な記事がアメリカの
新聞に初めて載りました。そしてこの記事によって、
アメリカ人は三十五年前に起こった出来事を知るこ
とができたのです。その後、アメリカ政府はこの事
実を隠そうとはしませんでしたが、同時に積極的に
語ることもありませんでした。一九九七年に、七三
一部隊の医師達の一部が、第二次世界大戦の記録を
もとにアメリカへの入国を認められない人々のリス
トに載せられましたが、この時アメリカがとった行
動が、過去に起こったことを認めた最初の、そして
今のところ唯一の、公式の行動でした。そして今日、
アメリカは以上の出来事が起こったことを否定はし
ませんが、同時に、起こったことを積極的には認め
ず、また遺憾の念を表明することも全くありません。
ここで、次のように問わなければなりません。
この問いは、きっと多くの日本人の方々も投げかけ
るでしょう。つまり、なぜこれらの出来事について、
かなりの年月が経過した今になって議論をするので
しょうか。それにはいくつかの答えがあります。第
一に、これらの出来事について語ることは、犠牲に
なった方々への敬意を示すことだと思います。人々
が、歴史的で悲劇的な不正を被ったとき、我々はこ
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(1)
October, 2007
の人々を甦らせることはできませんが、彼らに対す
る責任を負っています。第二に、自分達は将来二度
とこのようなことをしない、そして誰かがこのよう
なことをまたしようとすればそれを許さない、と心
に決めなければなりません。そして以上の出来事を
今取り上げることが、そのように決意する際役に立
ちます。第三に、このような不正がこれほどの規模
で起こる時、人々は自分達の社会でどのようにして
その不正が起こりえたのか、そしてどのようにして
自分達の政府がこの出来事に荷担したり、あるいは
許容したりするのか、と疑問に思います。そしてこ
れらの問いは、ナチス・ドイツに関しては十分に答
えられてこなかったのです。以上の問いは、戦時中
の日本に関してアメリカで問われることはもっと少
なかったのですが、多くの国々でも同様の出来事が
歴史に埋もれており、この問いはどの社会でも絶え
ず自ら問わなければならない問いなのです。多くの
人々にとって、この問いは自分達がそのような罪を
犯しうるかどうか、という問いではありません。し
かし、別の人々にとっては、この問いは、誰かがこ
のような罪を犯しているときにどうして沈黙したま
までいることができるのか、という問いなのです。
そして、我々はこの問いにはまだ十分に答えること
ができません。そして最後に、この問いを問うこと
には実践的な目的があります。このような出来事が
将来に起こったとしましょう。この時、それを起こ
した人々をどのように扱うべきなのでしょうか。そ
の答えは、その出来事が起こる前に決めておかなけ
ればなりません。そのようなことをするかもしれな
い人々に、もしそのようなことをすれば将来何らか
のリスクに直面することは避けられない、という警
告として機能する政策が必要なのです。我々は、こ
の目的を達成するためにどのような政策を制定する
べきなのでしょうか。
七三一部隊が起こした事件を振り返ると、いくつ
かの固有の理由があるように思われます。この事件
が恐ろしい不正を含んでいたことはもちろんですが、
この事件を注目に値するものにしているいくつかの
固有の特質があります。
第一に、この事件は日本人に対してではなく、日
本人ではない人々に対してのみ行われました。そし
て第二に、この事件は国家の有事の際に起こりまし
た。そして、医学研究で用いられた人間の被験者に
対する不正行為の歴史を振り返ると、そこには人種
差別主義と外国人への嫌悪が驚くほど多くの事例に
おいて要素となっていたことが分かります。それは、
七三一部隊だけではなく、もちろんナチスの医学犯
罪もそうですが、二十世紀の中ごろに起こった、ア
メリカの黒人に対する余り知られていないタスキー
ギーの実験についても言えます。
七三一部隊の実験が戦時中に行われたという事実
はまた、今問題にしている文脈では非常に重要です。
研究が戦時あるいは国家の有事の際に行われた場合、
その研究には、不正が行われるのではないかという
恐れを引き起こす性質があります。戦時に敵から秘
密を守ることが必要なのはもちろんですが、このよ
- 14-
うな実験を秘密にすると、自分達の倫理的な適切さ
について一般の人々がどう考えるだろうかというこ
とを気にかける必要がなくなります。倫理的に不適
切な実践が、
「我々は今戦争をやっているんだぞ!」
と言うことで正当化されてしまう、というリスクが
あります。しかし、戦争を行なう二者のうち、医学
研究において倫理的に不適切な実践を行なう側が、
戦争において正当性を持つ側ではない場合がありま
す。そして、国家の安全保障について語ることで倫
理的に不適切な研究における実践を正当化する人々
には気をつける必要があります。
以上の要素をまとめて、戦時や国家の有事、国家
の安全保障と、外国人への嫌悪や人種差別主義に目
を向けると、ここである懸念が生じます。今我々は
第二次世界大戦中およそ東アジアの中国大陸で起こ
った出来事について話していますが、一人のアメリ
カ人としてここにいる私の心には、これとは別の出
来事が浮かんできます。アメリカ人の歴史家である
アルフレッド・マッコイ教授は、キューバのグアン
タナモにあるアメリカ軍基地で、収容された捕虜に
対し行われた研究に関する本を出版しました。その
本によると、この研究は尋問方法を完成させるため
のもので、罪について責められているわけでは全く
ない人に恐ろしい苦痛を与えるものです。そして、
このことは全て、七三一部隊にも当てはまった記述
に合致しているのです。そして七三一部隊同様、ア
メリカ政府は、そのようなことが起こっていたとい
うことを否定しています。本当にそのようなことが
起こっていたのかどうかは分かりませんが、起こっ
ていたとすると完全に秘密裏に起こっていたのだと
いうことは確かに分かります。
まだ、いくつか答えていない問題があります。こ
れらには、研究倫理の研究に時間を費やす我々でさ
え答えていません。
・ どのような研究が、国家安全保障を理由に、あ
るいは国家の有事の際に正当化されるのか。
・ 外国の人々、とりわけ戦時において敵対する戦
闘員や市民を、我々はどのように扱わなければなら
ないのか。
・ 人間が研究に用いられるときには、例外なく常
に守られなければならない行動の規準とはどのよう
なものか。
・ 過失にともなう説明責任とはどのようなもの
か。どのような人が、過失に対する個人的な責任を
否定することが許されるべきなのか。命令を実行し
た場合でもなお過失を理由に課される罰とは、どの
ようなものであるべきなのか。
・ 不正な医学研究が行なわれないようにするた
めには、どのような国際的な制裁・職務上の制裁の
計画が整備されるべきなのか。
最後に、この講演を終えるにあたって、個人的な
意見を述べさせて頂きたいと思います。このシンポ
ジウムにお招き頂いた一人のアメリカ人として、私
は日本が自らの過去をどのように扱うべきなのかと
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第8巻2号
2008 年 3 月
いうことについて発言する立場にいません。しかし、
過去の世代の不正は、それがとりわけ隠蔽された場
合には、現在の世代の重荷としてそのまま残される
と言えます。七三一部隊の場合、私の同僚の一人が
述べたように、一度科学者達とこのような取引をし
たために、日本が抱えていた秘密が、我々の抱える
秘密にもなってしまいました。そして今日、アメリ
カは一つの問題を抱えています。我々アメリカ人は、
人間に対して恐るべきこと、先ほど王館長がおっし
ゃったようなことを行った科学者達と、取引をして
しまったのです。そして、このことが一般の人々に
知られれば恐ろしく厄介なことになるために、アメ
リカはどのような手段を用いてもこの真理を積極的
に隠さなければならないのです。そして、長年に渡
りこの真理を隠すために積極的に情報を操作した結
果、アメリカは最初に行なったあの取引に対して、
ますます大きな責任を負うことになっているのです。
アメリカ人が過去の不正を扱うことについて考え
る時、奴隷制度という悲劇的な犯罪について考えざ
るをえません。アメリカにおける奴隷制度は一八六
十年に廃止されましたが、重要な点で、我々アメリ
カ人は過去に起こった出来事を今になって認め始め
ています。一つ例を挙げましょう。アメリカで最も
すばらしい大学の一つであるブラウン大学は、大学
の過去に関する調査を行い、ブラウン大学創設の際
使われた資金が、奴隷制度から得た利益が元になっ
ていることを認める報告を公表しました。そして、
このような出来事は、アメリカのいたるところで起
こっています。一部の州知事は、州を代表して、過
去の奴隷制度の犠牲者に対し謝罪しています。この
ようなことはごく最近始まったばかりです。奴隷制
度が廃止されてから一世紀半が経ちましたが、なぜ
今になってこのような謝罪が行われているのでしょ
うか。ここで心理的に説明しようとする人がいるか
もしれませんが、私は道徳的に説明することも十分
可能だと思います。調査を行い、過去に何が起こっ
たのかを誠実に、率直に、そして正確に報告するこ
とによって、そして過去と対峙することによって、
我々は常々持ちたいと望んできた価値観を肯定する
のです。最も重要なのは、そうすることによって、
過去との共犯関係から若い世代を解放し、過去の不
正に対する責任を負う必要をなくすことです。この
ことは、隠蔽や共犯の伝統を保存するよう若い世代
に求めるのではなく、かわりに彼らをこの責任から
完全に解放することを意味するのです。
このシンポジウムを運営された実行委員会の皆様
は、日本においてこの過去と対峙することに主導的
な役割を果たしておられます。そして、このことに
よって、皆様は世界中から最高の敬意と名誉を受け
るに値します。皆様に講演する機会を与えて頂いた
ことに、深く感謝いたします。
- 15 -
ウィクラー教授との質疑応答
質問:
(広島と長崎への原爆投下に関する長い質問)
応答:申し訳ないのですが、その話は複雑で、私は
それについて判断できるほど十分精通していません。
だから、それについてはこれから研究したいと考え
おり、今十分なお答えができないことについてお詫
びいたします。
人々の戦意を喪失させるために、日本とドイツの
大都市を空爆するというアメリカとイギリスの軍首
脳達の決定は、戦争遂行の道徳性に関するより大き
な問題を提起します。その問題はこの原爆投下とい
う問題よりはるかに重要な問題であるように私には
思われます。この問題に関して、我々はこれまで以
上に真正面から取り組むべきです。
同じ質問者からの追加のコメント:
(アメリカでのあ
る被爆者のスピーチを聞いて感動したあるアメリカ
人が、広島を訪れたことについて。そしてウィクラ
ー教授に、アメリカでこの話を広めて欲しいと望む)
応答:原爆投下に関するこの問題は、アメリカでも
無視されてはいません。これについては広く議論さ
れていますが、とりわけあの戦争に参加した人々の
間では、沈黙を守るという伝統があると思います。
だから、この問題は確かに学者の著作で扱われるこ
とはありますが、一般の展示で原爆投下に賛成する
立場と反対する立場のどちらも本当に扱うことは非
常に困難なのです。スミソニアン博物館と呼ばれる
ワシントンの国立博物館が、最近この議論の両側が
公平に示されている展示を計画しました。しかし、
沈黙することを望む側は、博物館に非常に強い政治
的な圧力を加え、不幸なことに博物館の館長はその
圧力に屈服し、あなたが提起された問題を提起して
いた部分の展示を取りやめたのです。
一つだけ良かったのは、議論を検閲したという彼
らの行動それ自体が多くの衆目を集め、この行動と
ニュースを通じて多くの人々が道徳的な問題を意識
し始めたことです。おそらく、実際に展示が行われ
てそれを見た場合に比べて、より多くの人がこの問
題を意識し始めました。しかし、恥ずかしながら、
アメリカではこの問題について十分に議論すること
はできない、と言わざるをえません。
シンポジストのダニエル・ウィクラー氏の略歴
1945年アメリカ・ケンタッキー州生。1976年UCLAよ
りPH.D.取得、ウィスコンシン大学教授・WHOの上級
研究員などを歴任、現在もWHOの複数のプログラムの
コンサルタントを勤めている。
国際生命倫理学会の創立メンバーの1人であり、2代
目会長。主要研究領域は、分配の正義と医療資源の
配給の問題、人間を被験者とする研究の倫理、公衆
衛生に関わる倫理的問題等。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(1)
October, 2007
第 27 回研究会記念講演日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会主催
国際研讨会「戦争与医の倫理」特集
关于“今后遭遇麻烦”的风险
从美国人的视角所看到的 731 部队的战后史
Daniel Wikler
哈佛大学公共卫生系
――在法庭上制定 纽伦堡纲领 ,这影响到其
后的研究伦理。
今后遭遇麻烦的风险(2)
确实,今后政府有可能会碰到非常大的麻烦。
[但是,]从这里能得到的信息,尤其是最终能从
日本人那里获得的有关细菌战对人体影响的信息,
足够有值得招惹这个麻烦,冒这个风险的价值,
这一点我们深信不疑 。―R. M. Cheseldine上
佐・国务陆军海军三省调整委员会(SWNCC)・1947
年
战后对日本的美国的动向(7)
・美国细菌战调查团,在战争结束后立刻访问了
日本,会见了内藤良一等731部队的干部们。
・731部队的干部们,以免除刑事责任为条件,向
调查团提交了研究数据。
・由美国机密资金,向731部队的科学家们支付了
报酬。
概略(3)
1.美国对731部队的对应:简洁的历史。
2.围绕美国的对应的理解。
3.不仅局限于研究伦理的广泛意义上的731部队
问题。
4.从平房到关塔那摩(Guantanamo)。
对日本的美国的动向:战争犯罪法庭(8)
・1948年,对九州大学医学系的细菌战研究人员
的横滨审判。
→→审理了对美国飞行员俘虏的人体实验。
→→没有言及731部队或类似的部队。
・1946年,东京战争犯罪法庭:关于在南京的医
学实验的审理。
→→ 为了试验对有毒血清的反应,对民
间人俘虏进行人体实验 。
→→被告的异议申述:起诉方在采取着非
伦理的行为。证据不存在,是名誉损伤。
・判决:异议得到了承认。(出处:Daniel Bare
nblatt, A Plague Upon Humanity, Arnold Bra
ckman, The Other Nuremberg。)
战后研究伦理的起源:纽伦堡审判(4)
在美国,731部队的事几乎无人知晓(5)
・我在频繁地做关于围绕人体实验的研究伦理的
讲议。
・今天的研究伦理,追溯到审判了纳粹医生团的
纽伦堡审判和决定了研究者行动准则的纽伦堡纲
领。
・我每次讲议总结时都在问,有没有人知道731部
队的事,但知道731部队的人几乎没有。并且,为
何了解731部队的人如此少,知道其理由的人更是
寥寥无几。
对美国的对应的理解(9)
● 留在文件上的理由:
−因为廉价得到贵重情报的原因。
−因为美国很高的伦理基准阻碍基于对被实验者
的人体实验获得信息。
−因为公开审判有暴露危险信息的担忧。
● 当时的状况
−已经进入冷战;对苏联潜在能力的恐惧。
−有几个美国细菌战科学家仍然是新武器开发的
强有力的支持者;731部队的数据是继续确保资金
提供的手段。
战后对德国的美国的动向(6)
・在德国;
――纽伦堡审判里的 医生团裁判 →→1946年1
0月25日∼1947年8月20日。
――被告23名。
――起诉状特别指定了1750名受害者,其判决如
下。
――7名被告判处死刑。
――5名被告被判终身刑。
――4名被告被判10∼20年徒刑。
――7名被告被判无罪。
对德国的美国与对日本的美国(10)
- 16-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第8巻2号
2008 年 3 月
ch List)上。(拒绝入美国国境)
●美国已不否认隐藏之事,不过也没有积极地主
张有过隐藏或表明对隐藏之事的遗憾(regret)。
● 问题:美国为何向纳粹科学家宣布死刑,而向
日本的科学家反而支付钱了呢。
−回答:美国对德国的政策没有连贯性。
−因 曲别针作战 ,有几个纳粹战犯被转移到
美国,从寻找纳粹党员并要进行审判的美军调查
官手中逃跑了。
● 例:负责把美国人宇宙飞行员送往月球的美国
宇宙医学研究班
fuberutusu shutorukuhoruto作为纳粹党员,本
有他的罪,但后来由NASA被称为 宇宙医学之父 。
为何要谈731部队的事情?(15)
● 考虑到被害者。
● 为了不再重复这样的非人道之事。
● 为了提高我们本身对社会或政府的理解度。
● 为了理解极恶的非人道如何逃脱应受的谴
责;为了理解良心如何保持了沉默。
● 考虑为post-offense sanctions的方针。
对德国的美国与对日本的美国(11)
● 纳粹主要的细菌战专业科学家库尔特•布罗妹
在纽伦堡被告发,却被宣为无罪。
● 之后他被美军雇用,并有人建议让他在美国工
作。〔但是〕其他美国官员干扰他进入美国。最
终他在德国的美军基地得到了工作。关于他是不
是继续了他曾做过的实验,有很多争论。
731部队与研究伦理:怀疑论者(16)
●关于人体试验的研究的伦理,731部队告诉我们
的是什么?
−怀疑的目光:残酷的虐待曾发生过,但现在所
有的人都对这类行为的恶劣性不夹异议。
再关注731部队,也没有什么可值得学习的东西。
道德的困境?(12)
● 与731部队的科学家们做交易的美国官员,有
没有意识到道德问题?
−记录里一律没有提到道德性犹豫和苦恼。
−关于 遭遇麻烦的风险 的考虑,只不过是纯
粹的战略性东西。
−妨碍美国独自调查的所谓美国高贵的良心,在
这个情况就显出了其讽刺性。
731部队问题与研究伦理:提问的回答(17)
・支持使用人体做实验的研究伦理性基础,与数
年前比似乎也变得更不稳定。
――其理由并不因为广泛进行不正当的医学实验,
而是因为尚未找到对新问题的明确的回答。
・例:防止在出生时或幼年期感染HIV病毒的药的
治疗试验。按现在的规则,要求让被试验者受到
能利用的最好的治疗。但是,在非常贫穷的国家
里,即使有高价但有效果的治疗法存在,但人们
普遍必要的都是少费用的治疗法。
罪之时刻(13)
● 第110届美国议会,下院决议案第121号:
日本政府…从1930年代到第二次世界大战中,
对亚洲与太平洋诸岛的殖民地支配和战时占领期
间,日本帝国军把性奴隶制强行要求于年轻女性
的被世界所知道的 安慰妇 之事,应该去掉暧
昧,以明确的态度正式承认,谢罪,并要担起历
史的责任。下院决议以上意见。
(现在待处理,美国议会)
研究伦理:从新的视角(18)
纽伦堡审判以来,在使用人体实验的医学研究的
中心伦理性问题,一直被理解为可不可以为了集
体的利益而牺牲属于那个集体的个人的利益。
――但这个问题可以说,连在纽伦堡审判中也没
能成为最重要的问题。纳粹并没有为了纳粹这个
集体的利益而牺牲了各个纳粹党党员。纳粹为了
自己的集体(纳粹, 雅利安人 )的利益,牺牲
了他们所憎恶的集体(犹太人,斯拉夫人等)。
――医学研究有时会不可避开对被试验者的负担。
这样,如果说可以把它公平地分担,要用怎样的
办法才把这些负担公平分散,就成为问题。
有关隐藏731部队的美国的道歉?(14)
否认形式的变牵
● 1948年:刑事免责与报酬的支付。
● 1949年:美国指责在哈巴罗夫斯克进行的苏联
的731部队审判是假的宣传。
● 1956年:写了美国在朝鲜战争中进行了细菌战
一事的报道的记者约翰•鲍威尔被起诉。后来告发
被撤消。
● 1981年:鲍威尔出版了最初的关于731部队的
详细报告。
● 1997年:731部队医生们被登载于国防省的第
二次世界大战战犯 需要监视的人员名单 (Wat
731部队问题的特征(19)
从以上的观点来看,关注731部队所犯下的不正当
又极恶的医学实验,不只因为其研究的极度的残
酷性。与此同时,
――其医学研究只对日本人以外的人进行了。
――其医学研究在国家有事这样一个情况下进行
了。
- 17 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(1)
October, 2007
国家安全保障+对外国人的嫌恶+种族歧视主义
=?(22)
・对被实验者的医学研究在,
――为了国家安全保障,
――国家有事期间,
――对外国人,尤其在外国之地,
――对自己所歧视的对方,
而进行的时候,
进行不正当的医学实验的危险性尤其严重。
――在关塔那摩(Guantanamo)基地所进行的(2
003−2005?)有关讯问的心理学研究,能不能说
是其例之一呢。
・请参照Alfred McCoy, A Question of Torture。
由以上的理由,731部队的不正当的医学实验有值
得关注的价值。
分散研究负担(20)
到现在为止所进行的,许许多多极不正当的以人
体为实验对象的医学实验背后,隐藏着对外国人
的嫌恶和种族歧视主义。
――纳粹的医学战争犯罪
――731部队
――美国在Tuskegee的实验
伦理,研究,国家安全保障(21)
・为了国家安全保障所进行的研究,在以下情况
下有实行不正当的医学实验的危险性。
――为了国家安全保障所进行的研究,通常都在
秘密进行。
・有必要防止信息泄露到敌方,这是正当的。
・但因为秘密进行,一般人会失去批判这类研究
的机会,研究人员没有必要考虑对自己行为的正
当化。
――战争,有正当的和不正当的东西。
・如果所发起的战争是不正当的战争,那这时所
进行的牺牲人体的实验,就完全不能正当化。
――国家安全保障,并不在任何情况下都成为 王
牌 。
・说不定为进行战争或为得到信息的手段另外存
在。一部分不正当的医学实验在任何理由下也都
不能正当化。
留下的问题(23)
・什么样的研究,可以在国家安全保障的理由下,
在国家有事时被正当化?
・对外国人,特别在战时中对敌国的战斗员和市
民,我们应怎样对待,怎样照顾?
・当人被用于研究的时候,无一例外地必须要坚
持守护的行动准则究竟是什么样的东西?
・作为伴随过失的(说明)责任,应该维持什么样
的东西?对什么样的人可以允许否认对过失的个
人责任?就算执行命令也还因过失为由受到惩罚
的有什么样的东西?
・为了不再进行不正当的医学研究,应该整备计
划怎样的国际性制裁•职务上的制裁?
谢谢大家(24)
- 18-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第8巻2号
2008 年 3 月
Special artilcles of the international symposium organized
by the executive committee of the War and Medicine Exhibition
at the 27th general assembly of the Japan Medical Congress
“The Risk of Subsequent Embarrassment”
An American’s Perspective
On Unit 731’s Postwar History
Thank you Prof. Tsuchiya and Dr. Nishiyama and other
members of the organizing committee. You are people
of unusually high principle and it is a great honor to be
invited to speak to your symposium. In this talk I will
speak as an American mostly about the American
Government’s response upon learning of the actions of
Unit 731 and the other bio-warfare research units. But I
will place this history in the context of the postwar
development of the ethics of research in the United
States and the rest of the world and also in terms of the
implication for practices of our present-day.
Let’s begin with a statement made by an American
official. The initial contact with Ishii and the other
officers of Unit 731 was made by visiting American
scientists, but the question of how the United States
should respond was a question that had to be dealt with
at the highest levels.
This committee, the
State-War-Navy Coordinating Committee, was a
high-level committee of the U.S. Government and they
made the decision. They marked their results as
“Should be shown to the President,” but we do not know
whether President Truman actually read them. And
here in this paragraph we see a summary of the moral
deliberations by this committee and I’ll ask Prof.
Hamano simply to read the paragraph.
Well now, sixty years later, we can say that there is a
great embarrassment and we’ll see whether or not it was
justified to take it, that risk. This is a familiar picture to
anyone who looks into the history of research with
humans subjects. These are Nazi war criminals who
were put on trial at the Doctors’ Trial at Nuremberg.
Now for our…in this present context, it’s worthwhile
noting that although the Nuremberg Trials of the political
leaders of Nazi Germany were trials conducted by the
Four Allied Powers, the Soviet Union, England, the
United States and France, the Doctors’ Trial was put on
by the Americans alone. The Nuremberg Tribunal sat
in judgment of these medical scientists and then
composed a code for researchers, which is the basis of
today’s principles of research ethics. And although
most Americans have never heard of the Doctors’ Trial,
most people who do medical research do know about it,
and I think it’s fair to say that Americans are proud of the
role that we played in bringing these men to justice and
in formulating the Nuremberg Code, which has since
then served as the standard for ethical conduct in the
field.
Now I give lectures on the ethics of research (go
ahead)…ethics of research frequently in the United
States and usually I begin with that slide that you just
saw showing the Nazi scientists in court in Nuremberg.
But after showing the slide, I now pause for a moment
and I ask the audience, “How many of you have ever
heard of Unit 731 or how many of you know about the
events that occurred in Asia at the same time?”
Typically in an academic audience of a hundred, only
one or two people will raise their hands, sometimes none.
And even the ones who do know about the story rarely
know why it is that so few people know about it. And
the reason is, of course, that the United States tried to
hide it.
So this poses a historical puzzle, which has never
really been answered satisfactorily: why was our
behavior so different in Germany as opposed to Japan?
And I’ll ask Prof. Hamano to read this. This is a
summary of what the Nuremberg Tribunal did in the case
of the Nazi doctors.
Well, what we did in postwar Japan, of course, was
totally different. Scientists came from the bio-warfare
research facility in the United States almost immediately
after the war. They met with Dr. Naito and other
leaders…and he lead them in turn to other leaders and
scientists from 731. And within a few days, they had
made a bargain that the scientists in Unit 731 would not
be prosecuted for crimes against humanity or other war
crimes, and in exchange they would promise not to talk
to the Soviets and they would cooperate with the
Americans: they would give us their data and their slides
and other material.
The exact nature of the bargain was unknown until
fairly recently when Prof. Tsuneishi found a document
in the American archives showing that in addition to
immunity from prosecution, the United States offered
money to the 731 scientists. Now this was presumably
in order to secure their cooperation, but it is possible they
were also given money in exchange for a promise never
to talk about what had happened. So that the question
that has bothered me personally and for which I have no
answer is whether the refusal of some of these scientists
to talk about these matters in postwar Japan might have
been part of a bargain with the United States in which
they gave this, a promise not to talk about it in exchange
for the money that they took.
So a question that’s occurred to me is if we wanted to
know why these scientists never talked about it, is it
because they promised us in exchange for the money that
they wouldn’t and does that account for some of the
silence? In other words, do we bear some responsibility
for their refusal to own up to it?
I offer no answer to that question, but the question
stays with us.
OK? Now there were, in fact, two instances in
- 19 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
which medical war crimes were brought up in the
postwar tribunal. But in each case the fact that the
medical war crimes were mentioned actually shows that
there was an act of suppression. The first occurred in
the trial in Yokohama, the trial of medical faculty from
Kyushu University, and what we notice here is that
although there was a trial, they were tried for their
actions towards the American pilots whom they had
captured and the prosecution never mentioned any of the
bio-warfare experiments.
And the other instance was a notably ironic series of
events. In the Tokyo War Crimes Tribunal, there was a
trial of some low-level war criminals, very unimportant,
and the prosecution mentioned briefly that they had
given poisonous substances to civilians to see what
would happen. Now what happened is very instructive:
the defense attorney objected to this claim. They said
that this behavior would be so barbaric that they did not
believe that anyone actually could have done this, and
they asked the judge to stop the prosecution from making
these kinds of claims because it was unethical conduct on
the part of the prosecutor. And the judge said, “You’re
right.” And we know about this incident only because a
young man was present as a reporter for the U.S. Army,
who later became a well-known novelist, Arnold
Brackman, and many years later he wrote about this
incident, which otherwise would have been forgotten.
So why did the Untied State act this way? Why did
we make this bargain with people who had done very
wrong things? We can look to the historical record and
we find a few reasons given there, and also part of the
story has to be the political context in which these
decisions were made.
The reasons given in the
historical record that we have do not reflect very well on
the United States, I am sad to say. One official said that
the information that we were getting was very valuable
and the amount of money we were paying to these
scientists was very low so that this was a great bargain.
So that…that…that statement is simply blind to the
moral dimensions of this issue. And I think it’s safe to
say that if the victims had been American, that official
would not have made the mention about a bargain and
then left it at that.
In other words, if the victims had been American, he
would have said something about this being very wrong,
but he didn’t say anything. We can skip that: don’t
worry.
OK. The second remark in the record is a bit ironic:
the official here said that this information was very
useful and that there was no other way for the Americans
to get this information except by buying it from the Unit
731 scientists and the reason that it would be impossible
for us to get the information in any other way is that
we’re highly ethical, unlike these scientists, and because
we’re so ethical we couldn’t do these experiments. The
author of that statement does not seem to have asked
himself whether or not, if we had such high ethical
standards, we shouldn’t…we should be making bargains
like this with such people. And then, finally, there was
a concern that if this information was used in a war
crimes trial that the information would then be available
to the Soviets and others who might misuse it.
If we look at the political context in which these
decisions were made, the most important factor, certainly,
was the Cold War. This was a time in which the United
States was beginning a struggle in almost every field
against what it perceived as a great threat from the Soviet
Bloc. As you know, in the Occupation Government of
Japan many policies of democratization and
liberalization were suddenly reversed, and the United
States let people out of prison instead of prosecuting
them as war criminals so that they could be enlisted as
allies in the Cold War.
Also apart from Unit 731, in the Occupation
Government there were people in jail who were going to
be prosecuted as war criminals and they were let out so
they would become good allies.
So in this sense, the bargain with Unit 731 scientists
can be seen as one instance of a larger phenomenon: the
decision that the people who had waged war in an
unethical fashion would be more useful as allies.
So that what happened in the context of 731 is just a
part of a general pattern where instead of putting people
on trial for war crimes, we say, “You’ll be good allies for
us when we fight the Soviet Union.”
There is one other factor that should be mentioned:
the United States had a bio-warfare research program in
World War II. Some of the scientists thought that the
United States should study bio-warfare because we might
be attacked, but others thought it would be a good
offensive weapon. And members of the second group
were very eager to continue postwar…to continue
bio-warfare research after the war, and by exaggerating
the value of the Japanese data, they made their own work
seem more important and worthy of being funded.
But the question remains: in Germany we put the
scientists on trial and we executed some of them and
here nothing like that happened. So why is it that we
had such different policies in the two places? Part of
the answer is that in Germany we also made similar deals.
At the same time that we were putting some scientists on
trial there were units of the U.S. Army that were seeking
war criminals to put them on trial and there were other
units of the U.S. Army that were seeking war criminals
in order to hire them and the two were almost at war with
each other. A program called Operation Paperclip was
started in order to identify German scientists who would
be useful to the United States and to bring them back to
the United States to work.
Even today, much of this
history is unknown to most Americans. For example,
the…ah…one of the achievements of which America is
most proud, which is putting a man on the moon, was a
direct result of Operation Paperclip.
The Nazi
aerospace program was very advanced and we brought
the leaders and the best scientists back to the United
States. One of them, named, Hubertus Strughold, was a
war criminal, but we brought him back to work for the
Air Force and on his retirement he was called “The
Father of Space Medicine” by our National Aeronautics
and Space Administration.
The chief Nazi bio-warfare specialist was named
Kurt Blome and he was on trial at Nuremberg, but he
was declared not guilty. The Operation Paperclip
officers offered him a job in the United States, but the
officials who were supposed to stop war criminals from
coming into the United States found out and they
- 20-
prevented him from coming. So the Army gave him a
job at an American base in Germany. A film was
shown on German television two years ago that claimed
that Blome continued with very dangerous experiments
and that many of his subjects died. This was done at an
American base. But other historians denied that this
happened.
So if we look back at the decision by the Americans
to give immunity and money to the 731 scientists, what
kind of moral struggle do we see? I am sorry to report
that we have no record of any moral struggle at all. At
the beginning of this talk, I showed the slide that had a
statement by an American official saying that it was
worth taking the “risk of embarrassment,” but this seems
to have only been a strategic question, whether or not we
would get caught, not a question of whether or not we
ought to make the decision in the first place. And I’ve
already noted that it’s ironic that one official referred to
our “high moral standards in America” as a reason why
we had to buy this…the data from the Japanese
scientists.
Now Americans like to think that America is the most
ethical country in the world and we don’t stop from
passing judgment on others. You probably know that
there is legislation now being debated in the U.S.
Congress that would condemn Japan for refusing to
accept responsibility for the “comfort women” issues in
World War II. Perhaps you could read this.
And you should know that your Prime Minister’s
refusal to accept this responsibility is a story that appears
in the New York Times and other leading newspapers
very frequently.
And so it’s especially ironic then to review the
history of the American complicity in the cover-up of the
Unit 731 crimes and we can ask why it is that the United
States does not make an apology?
We can look at the history of American
acknowledgment of this bargain, at least in part, though a
few milestones. In 1948, the bargain was made. In
1949, the Soviets, as we know, held a trial of a few of the
731 scientists. The United States said the trial was
unjust; that all of the talk about war crimes and
experiments on civilians was false, Communist
propaganda. Now we know it was not false. In fact,
the Soviets had asked if we would join then in putting
these people on trial. One journalist, named John
Powell, tried to publish some of the evidence that he had
about this bargain. He was prosecuted by the U.S.
Government for many years and although he was not put
in jail, he found it very difficult to publish his results in
the United States. It was only in 1981 that the first
substantial article appeared in the U.S. press---by John
Powell--- that the American people could find out what
had happened thirty-five years before. After that, the
United States Government did not try to keep this secret,
but at the same time they didn’t talk about it very much.
The first and so far the only American official action that
acknowledged what had happened was in 1997, when
some of the doctors from 731 were put on a list of people
who should not be allowed into the United States
because of their World War II records. And the
situation today is that the United States does not deny
that these events happened, but at the same time it does
not agree that they have and certainly no regret has been
expressed.
So we have to ask the question, which is, I’m sure, a
question that many Japanese also ask: why talk about
these events now---so long---so many years later? And
here are several answers. The first, I think, to mention
is to show respect for the victims; when people have
suffered a historic and tragic wrong, although we can’t
bring these people back, we do owe them a debt, a debt
of recognition. Secondly, we have to be sure that in the
future we don’t do this again or we won’t tolerate it if
others are doing this again, and by revisiting these events,
this will help. Third, when an evil like this occurs on
this scale, it causes people to wonder how this could
possibly happen in their societies and how their
governments could possibly take part in these events or
tolerate them. And these are questions that have never
been satisfactorily answered in respect to Nazi Germany.
They are less often asked in the United States about
wartime Japan, but many countries have events of this
kind somewhere buried in their past and these are
questions that every society must continuously ask of
themselves. For most people, the question is not how
could…whether they could commit such crimes
themselves; the number of people who commit these
great crimes is always very small. But the question for
others is how could they remain silent as others are
committing these crimes? And this is a question which
we still have no satisfactory answer to. And finally, we
have a practical …a practical purpose: suppose events
like this occurred in the future, what should be done to
the people who did them? This is a question we have to
decide before the events occur; we have to have policies
in place that would warn anyone who would do such a
thing that if they do it, they’ll have to face certain risks in
the future. What policies should we enact now to that
purpose?
So there are some particular reasons, I think, to look
back at the 731 incidents. Of course, they were…they
involved terrible wrongs, but there were also some
particular qualities that made them of current interest.
First of all, they were carried out not on any Japanese,
but only on people who were not Japanese. And
secondly, they took place during a time of national
emergency. And if we look back at the history of the
abuses of human subjects of medical research, we find
that racism and xenophobia have been factors in a
surprising number of them, not only in 731, but, of
course, in the Nazi medical crimes and also the infamous
Tuskegee experiment on American Blacks that occurred
in the middle of the 20th century.
And the fact at the 731 experiments occurred during
wartime is also something of great and current
importance. When research is carried out during war or
at a time of national emergency, it has some properties
that should cause us to fear that bad things will happen.
It’s, of course, necessary in wartime to keep secrets from
the enemy, but when we keep these experiments secret,
that means we do not have to worry about what the
public will think of our ethics. There’s a risk that
unethical practices will be justified by saying, “We’re
fighting a war!” but that’s not always a legitimate
argument because sometimes the side that commits the
- 21 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
unethical practices in the medical research is not on the
right side of the war. And we have to be careful about
those who would excuse unethical research practices by
talking about national security.
When we put all this together, when we look at
wartime, national emergency, national security plus
xenophobia and racism, then we have occasion to worry.
So here today, we are talking about events that occurred
mostly in East Asia on the Chinese mainland during
World War II, but as an American coming here, what’s
on my mind is a different set of events. Prof. Alfred
McCoy, who is an American historian, has written a book
claiming that research was carried out at the American
base at Guantanamo in Cuba on prisoners who were held
there; that this research was used to perfect interrogation
methods and inflicted terrible suffering on people who
had never really been charged with a crime. And we
see that it meets all these descriptions that also apply to
Unit 731. And like Unit 731, the Government, the U.S.
Government, denies that it’s happened. We don’t know
if it’s really happening or not, but we do know that if it
happened, it happened in complete secrecy.
Secrecy. In other words, if things were absolutely
secret at Guantanamo…and so they deny it, of course,
but how do we know? …The U.S. Government.
Everything that happens at Guantanamo is secret .….No,
they say it didn’t happen, but are they telling the truth?
We don’t know.
So we have some questions that we have not
answered yet---even those of us who spend out time
thinking about the ethics of research. And Prof.
Hamano, perhaps you could just read these questions.
Finally, in closing, I’d like to make a personal
statement. As an American guest in this symposium,
it’s not my place to comment on how Japan should deal
with its past, but we can observe that the wrongs of the
past remain a burden on the present, especially if they are
covered up. In the case of the Unit 731, as one of my
colleagues observed, once we made this bargain with the
scientists, Japan’s secret became our secret. And now
the United States had a problem: we had just made a
bargain with scientists who had done things to human
beings that were terrible, the sorts of things that Dr.
Wang just told us about. And it would be terribly
embarrassing for this to become public knowledge so the
United States had to actively suppress the truth, no
matter what kinds of actions were required to do that.
And so for many years of active intervention in order to
suppress the truth, the United States began to take on
more and more responsibility for its initial action.
When an American thinks about dealing with the
wrongs of the past, inevitably one thinks about the tragic
crime of slavery. Slavery ended in the United States in
1860 but in important ways we are only beginning now
to acknowledge what happened. Just to give one
example, one of our best universities, Brown University,
conducted an investigation of its own past and put out a
report admitting that the money that was used to create
Brown University came from the profits from slavery.
And these events are occurring all over the United States.
Some governors of individual states have apologized on
behalf of their states to the victims of slavery in the past.
This has happened only just recently. Well. It’s been
almost a century and a half since slavery ended, so why
are these apologies occurring now? One might try to
give a psychological explanation, but I think there’s a
good moral explanation too. By doing an investigation,
reporting honestly and frankly what, exactly, happened
and by confronting the past, we then affirm the values we
wish we’d always had. Most importantly, it liberates
our young from complicity with the past and ends their
responsibility for these past wrongs. It means that we
do not ask our young people to continue the tradition of
secrecy and complicity, but instead make them
completely free of any of this responsibility.
The Committee that set up this conference is taking
the lead in confronting this past in Japan, and for this
they have the highest respect and honor from the rest of
the world. Thank you very much for the chance to
speak to you.
- 22-
十五年戦争中の「医学犯罪」と
私たちの今日の課題
莇 昭三
城北病院名誉院長、全日本民医連名誉会長
十五年戦争と日本の医学医療研究会名誉幹事長
(1)戦後六十年、改めて「戦時中の医学犯罪」を
問う意味
十五年戦争中に日本の一部の医学者や軍医による
医学犯罪が行われた事実は明確であるにもかかわら
ず、国、関係者及び医学界はその事実を認め、何が
問題であったかを今日まで明確にしていません。私
たちはこの事実を指摘し、戦後六十年、いまからで
も事実を明らかにし、殺害された人々に謝罪し、そ
こからの教訓を明確にする必要があることを指摘す
るーこれが今回の「戦争と医学」展の趣旨であり、
同時に私の発言の主旨でもあります。
以上の趣旨から、戦後六十年間日本の政府と医学界
は「戦時中の医学犯罪」についてどのような態度を
とってきたのか、当時医学者は「石井機関」等とど
のような関わりを持っていたのか、
「命令」や「上司
の指示」により行われた「生体実験」
「手術演習」等
ではその実施者の責任は問われないのか、アメリカ
政府による「731部隊」関係者の「免責」は戦後
の日本の医学界にどのような影響を与えたか、等々
を検討したいと思います。
一九三二年の背陰河から一九四五年八月の日本の
敗戦にいたるまでに、日本の医学者、軍医たちが、
多数の生体を材料とした実験や手術練習を実施した
ことは今日明らかとなっています。その舞台は石井
四郎が組織したハルピン近郊の平房の「七三一部隊」
をはじめとした細菌戦研究ネットワークや、生体で
「手術演習」をした各地の戦線の「陸軍病院」
、満州
医科大学や九州大学医学部外科学教室等々でありま
す。
これらの「医学犯罪」は、
「ハバロウスク裁判」
(一
九四九年十二月)
、一九四五年十一月からのGHQの
サンダース等の一連の調査報告書、そして「極秘・
駐蒙軍冬季衛生研究成績」
、遠藤三郎の「将軍の遺言」
、
極東軍事裁判記録等や、家永三郎、森村誠一、常石
敬一、近藤昭二等の日本人の研究者及び辛培林、歩
平等の中国人研究者等の研究、そして何人かの「医
学犯罪」にかかわった当事者たちの発言によって明
らかとなっており、その殺害した人数はナチスの医
師たちの強制収用所等での「医学犯罪」数以上の犯
罪行為でありました。
(2)政府、医学界の「戦時中の医学犯罪」に対す
る対応
日本政府の対応
上述のような「戦争法規違反」
、「非人道的」な国
家的、組織的な医学犯罪が行われていたにも拘らず、
戦後六十数年経過した今日まで、日本の公的な機関
や組織でこれらの犯罪が行なわれたかどうかさえも
十分に論議されていません。
日本の国会では、一九五〇年三月一日、衆議院外
務委員会で聴涛克己議員がハバロウスク裁判関連で
石井四郎等のことを質問しています。これに対して
殖田法務大臣は「・・最近伝えられておりまする細
菌戦術に関する日本人戦争犯罪人の問題につきまし
ては、政府としてはこれに関与すべきでない、こう
考えております・・」と答えています。そしてさら
に「・・政府はそういう事実を聞いてはおりますが、
これを調査する権能も持たず、またこれを調査する
必要もないのであります。
・・」と。つまり「七三一
部隊」の存在は知ってはいるが、その内容について
は関知できない、調査する必要がないと言う答弁で
ある。
また一九八二年四月六日の参議院・内閣委員会で、
榊利夫議員は「関東軍防疫給水部に所属していた軍
人軍属」について質問しています。これに対し外務
省の安全保障課長は「留守名簿という名簿がござい
まして・・昭和二十年一月一日現在で・・将校が百
三十三名、準士官、下士官、兵、これが一千百五十
三名である。それから・・技師とか技手、それから
属官でございますが、二百六十五名、合計千五百五
十です。それから・・・雇傭人が主体でございます
がこの方々が二千九名。以上でございます」
、「・・
それからなにぶん三十年以上もまえのわが国がまだ
占領下に置かれておりました時のお話でございます
ので、外務省といたしましてそのご指摘のような事
実、それに関する記録というようなものがあるかど
うか、この点は承知しておりません」と答えていま
す。
更に一九九七年十二月十七日と一九九八年四月二
日の二度にわたり栗原君子議員が参議院で、一九九
九年二月一八日には田中甲議員が七三一部隊関連資
料のアメリカからの返還(一九五八年)について質
問している。それに対して政府は「・・具体的な生
体事件などの史料は確認されていない・・」と無責
任な答弁をしています。
このように日本政府は一貫して今日まで「七三一
部隊」等の存在を曖昧にし、それへの関与と生体実
験等は否認し続けてきています。
日本医学会の対応
第二次世界大戦後、一九四七年九月に四十五ヶ国
- 23 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
の医師会が集い、「世界医師会議」が発足しました。
この発足した世界医師会議では、ドイツと日本の医
師会の関係者が戦時中に残虐行為を行なったことを
理由に、両医師会の加盟の可否が論議され、両国医
師会の加入には、それぞれの反省の意をこめた声明
が必要とされた経緯があります。このような事情か
ら日本医師会は一九四九年三月三十日の年次代議員
会で次のような声明を発表し、世界医師会への加入
を求めました。
「日本の医師を代表する日本医師会は、この機会
に戦時中に敵国人に対して加えられた残虐行為を公
然と非難し、また断言され、そして時として生じた
ことが周知とされる患者の残虐行為を糾弾するもの
である」
(一九四九年三月三十日・日本医師会長高橋
明)
この代議員会声明は、日本医師会が機関として「七
三一部隊問題」等に触れた唯一のものであります。
しかしこの声明は「時として生じたことが周知とさ
れる」ときわめて曖昧な表現であり、しかも残虐行
為をした当事者を「非難」するというきわめて第三
者的発言で対処したにすぎないと言えるます。
以上のように日本政府も日本の医学界を代表する日
本医師会も、戦後六十数年後の今日まで、すでに衆
知の事実となっている「七三一部隊問題」等の「戦
時中の医学犯罪」についてはその事実を基本的には
認めてこなかったと言って過言ではないのでありま
す。
「戦時中の医学犯罪」等に直接関与した医学者、
軍医、技術者は、当時の日本占領軍司令部(GHQ)
により「免罪」されたために(「九大生体解剖事」に
関わった一部を除いて)
、このような沈黙が保障され、
それらの医学犯罪行為が隠蔽され続けてきました。
今日医学医療の進歩の中で、改めて「医の倫理」が
国民的課題となっています。わたしたちは「医の倫
理」の当事者として、これからの「医の倫理」の指
針を探るためにも過去の経験から学ぶことが重要で
あると考えています。したがって戦後六十年、上記
の犯罪行為が不問にされて今日におよんでいる問題
点を明らかにし、
「戦時中の医学犯罪」等について改
めて政府として調査を開始すること、日本の医学界
として「戦時中の医学犯罪」が事実として存在した
ことを確認し、その教訓を踏まえて、今日の「医の
倫理」
「生命倫理」への提言をおこなうこと、が極め
て重要であると考えます。
(3)医学部「医局」等の「特殊研究」等への組織
的加担と日本の医学界の体質
「特殊研究」等への医学者等の組織的関与
「七三一部隊」等での医学犯罪は、当時の参謀本
部、陸軍省医務局等の公認のもとで実施されたこと
は確実であります。例えば、陸軍軍医学校は一九三
三年十一月二十二日に「調査研究に関する永久企画」
を決定しているが、そこでは「細菌に関する特殊研
究の為防疫教室職員を満州に派遣し研究に従事せし
む」と明記しています。
このようにして設立された「関東軍七三一部隊本
- 24-
部」には、軍医以外に「陸軍技師」という身分での
研究者が存在したことは周知のことです。例えば田
部井和、湊正男、岡本耕造、石川太刀雄、笠原四郎、
吉村寿人、秋元寿恵夫、二木秀雄等々がそれであり、
これらの研究者は七三一部隊本部の「第一部」の分
野別の研究班の責任者となっていました。上述の研
究者は京都大学医学部細菌学教室・生理学教室・病
理学教室、東京大学伝染病研究所、慶応大学医学部
細菌学教室、金沢医科大学細菌学教室、等々の研究
室の出身であります。このように「七三一部隊」で
の研究には幾つかの大学、研究機関から派遣された
医学者が関与していました。
この「関東軍七三一部隊本部」に派遣された陸軍
技師に関しては、特に京都大学医学部からの参加者
が目立つが、それは石井四郎自身が京都大学医学部
出身であり、病理学教室(清野謙次)で研究をして
いた関係からでしょう。この七三一部隊に生理学者
として参加した吉村寿人は戦後次のように記述(「喜
寿回顧」)しています。
「当時の医学部長戸田正三先生、清野、正路、木
村の諸先生のはからいによって私共京大の助教授・
講師級の若い者が八名(病理学三、微生物学二、生
理学二、医動物学一)がその軍属として派遣せられ
る事となった。
・・・誰もがどう云う部隊か知らずに
夫々の恩師の命令によって送られてきたのであ
る。
・・」と。これによれば、京都大学医学部長が率
先して「石井機関」に大学の若手研究者を送り込ん
でいたことがわかります。
「七三一部隊」の研究と表裏一体といわれる陸軍
軍医学校防疫研究室の論文集の一つに「陸軍軍医学
校防疫研究報告第二部」があり、八百三十七論文が
収録されています。これらの論文の執筆者は主とし
て軍医ではあるが、共同発表者や論文指導者には軍
医以外の民間研究者の氏名が多く見られます。これ
らの民間共同執筆者の所属は東京大学、慶応大学、
長崎大学、京都大学、大阪大学、金沢医大、北里研
究所、北海道大学、千葉医大、等々の医師となって
います。また「嘱託研究者」
「指導教官」という名目
で小島三郎東大教授、細谷省吾東大教授、内野仙治
京大教授、小林六造慶応大学教授、緒方規雄千葉大
教授、柳沢謙東大教授等が名前を連ねています。更
に、身分を「嘱託」
「陸軍軍医学校嘱託」
「陸軍技手」
とさまざまに記載した軍人以外の民間研究者約四十
名の氏名が見出されますが、これらは北海道大学医
学部から長崎医科大学までほとんどの研究機関が関
連しているようです。また、小島三郎東大教授、細
谷省吾東大教授、内野京大教授、小林六造慶応大学
教授、緒方規雄千葉大教授等はこの軍医学校の「委
託研究」を行なっており、これらの研究室に所属し
ていた医学者たちが陸軍軍医学校防疫研究室や「七
三一部隊」関連の研究に組織的に関わっていたとい
えそうです。
組織的関与の理由
このように軍部の研究に、特定の研究機関が関与
するようになったきっかけは京都大学医学部の場合
のように当時の七三一部隊関連幹部軍医の人脈での
個人的な関係があったことは確かでしょう。しかし、
「陸軍軍医学校防疫研究報告第2部」に見られるよ
うに、特定の教室、たとえば慶応大学細菌学教室(小
林六造教授)が深く関与しているような場合の理由
は以下のように考えられます。
当時は「国家総動員法」が施行され日本のすべて
の分野で戦時体制が強化されつつあった時代であり、
研究所や研究者も例外でなかったであろう。したが
って「細菌戦」
「化学戦」の研究に軍から要請があっ
た場合には断れなかったということは想像できます。
また、研究者としての良心を捨て、逆にチャンスと
ばかりにその機会を利用して研究成果の飛躍を図ろ
うとした心理情況も否定はできないと思います。更
に、教授個人の積極的な関与は、そこに弟子を送り
込むことによって自らの影響力が拡大できること、
一般では出来ない実験の成果を手に入れることがで
きるという側面も推定できます。当時は「科学動員
計画」という名目での研究者の研究内容と研究資金
の規制が強まった時代であり、軍部の「委託研究」
という名目での研究資金の獲得も研究者にとっては
大きな魅力であったに違いない。
更に、京都大学医学部の場合のように、戸田医学
部部長自身が病理学、微生物学、生理学等の教室を
纏めて「関東軍七三一部隊」と組織的に関与するよ
うになったのは、大学や研究所等の研究組織全体の
「軍学共同」をすすめる意図もあったと推定できま
す。
以上のような軍の命令、研究資金の誘惑、研究分
野の魅力、これらは研究室の主宰者であった研究者
にとってはその研究への協力や教室員の派遣は断り
きれない条件ともなったと推測できます。しかも当
時の医局講座制―非民主的な師弟関係―のもとでは、
主宰者である教授は医局員を意のままに派遣、研究
命令が下せる条件があり、軍部と結びつくことによ
るネットワークの拡大という事情も教室全体の「石
井機関」等への加担の要因ともなったのであろう。
知られていた「七三一部隊」の「特殊研究」
更に、この組織的加担の問題で指摘しなければな
らない重要な問題があります。それは日本国内の医
学関係者の中枢は当時「七三一部隊」で「特殊研究」
が行われていることを十分に知っていた可能性が強
いと云うことです。
一九四一年の第三十一回日本病理学会総会で、平
井正民陸軍軍医中佐は特別講演「日支事変に関連し
て行はれた病理解剖学的作業」をおこなっています。
その講演の冒頭で「特殊研究」が行なわれているこ
とを述べ、更に特殊研究で二百十八人を病理解剖し
たことを表明し、またこれまで実施した病理解剖標
本の一部を「軍医学校に送付」と述べています。当
時この病理学会総会に参加していた医師たちは、そ
の「特殊研究」が何かは推定できたはずでしょう。
また当時の学会雑誌には北野等が「森林ダニ脳炎」
の病原体決定で「猿の大腿皮下に注射して」病原体
を決定したという論文、学会誌等に頻繁に発表・掲
- 25 -
載していますが、これらの論文を読んだ医師は「猿」
が何であるかは十分推定できたはずであります。
また戸田正三京都大学医学部長や正路倫之助教授
は当時たびたび満州に出向いていたことが記録され
ています。小島三郎東大傳研教授も一九四一年以降
北京の一六四四部隊を訪れ、指導しています。これ
らの訪問は、その医学者の子弟たちが当地で何を研
究しているかをこれらの医学者たちが「弟子たち」
から聞かなかったはずがない。前述の吉村寿人は「喜
寿回顧」でこのような状況について次のような回顧
をしています。
「・・正路先生は満洲では寒気生理の研究に熱を
あげられ・・先生はこの満洲における研究や大学建
設のため度々満州へ出張せられ・・」
「・・先生には
部隊内の実情は自身が度々満州へ来られて十分に知
っておられた筈である。・・」「・・自分(正路先生
のこと)は石井部隊で何をやっているかうすうす知
りながら、圧がる君を無理やりに満州に送り、
・・」
(正路の吉村への陳謝の言葉)と。
一九四一年(昭和十六)四月二十一日、石井四郎
軍医少将が金沢医科大学で講演と映画上映を行なっ
ています。これは1936年から当時の文部省が実
施した高等教育機関での国体明徴施策としての特別
講義「日本文化講座」の一環として実施されたもの
であります。
石井は京都から列車で将校○名と
映写技術官4名を連れて金沢を訪れ、学生と教官と
陸軍第九師団の軍医を前にして「大陸に於ける防疫
に就いて」と云う演題で講演、映画上映をしたと記
録されています。この映写内容は不明であるが、当
時「朝鮮」「台湾」
「支那」からの留学していた十数
名の学生には出席を敢えて禁止して行はれています。
映写内容は当時の植民地からの留学生には見せたく
なかったからではないでしょうか。
聖路加病院の日野原重明先生が朝日新聞への連載
記事の「開戦日を風化させるな」
(二〇〇五年十二月)
で「・・私が京都大学の医局や院で学んでいた時の
ことです。大学の先輩で、ハルピン市の特殊部隊に
所属していた石井四郎軍医中将が、現地での捕虜待
遇の様子を収めた写真フィルムを持って母校を訪れ
ました。そのフィルムには、捕虜兵の生体実験が映
っていました。腸チフス、ペスト、コレラなど、伝
染病の病原体を感染させてから死亡するまでを観察
したものでした。見るに耐えられない行動を映した
映像の記憶に、今でも鳥肌がたちます。
・・」と書か
れています。この文面をみると、時期的にみても石
井が金沢医科大学で映写した同様の映画であったろ
うと推測でき、従って当時すでに多くの医学関係者
は石井四郎の持参した映像で「特殊研究」が行われ
ていることを知っていたのであろう。
以上のいくつかの事実からして、当時すでに日本
の医学界の中枢は「七三一部隊」や「特殊研究」の
問題は詳しくではないにしても知っていたと推定で
きるようです。とすれば、日本の当時の医学界はそ
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
れら非人道的な「特殊研究」をどのように受け止め
ていたのであろうか?が問題となります。
かつてアメリカの原爆開発のマンハッタン計画で、
その最終段階で原爆のもたらす影響を考慮したロー
トブラッド、レオ・シラード等が原爆使用の中止を
大統領に提言しています。これは、日本の医学研究
者たちは上記のような「特殊研究」を知りながら、
それを否定する医学者が一人も存在しなかったこと
と対照的であります。
日本の医学界が、以上のような「特殊研究」とい
う「戦時中の医学犯罪」への組織的なかかわりとい
う自らの歴史に向き合い、そこからなにを教訓とす
るかを明らかにすることこそが、医学界への国民の
信頼を強化する道であろう。いわんや「そのような
事実がなかった」とするのは「歴史」を冒涜するも
のであります。
(3)
「生体実験」
「生体手術演習」等に参加した医
師・医学者、軍医はどのように考えてそれを実施し
たのか?そしてその責任は?
十五年戦争中の日本の一部の医学者や軍医が行な
った医学犯罪の犠牲者は「細菌戦」も含めれば十数
万人と思われます。
医師・医学者、軍医たちがどうして犯罪的な「人
体実験」を行なったのか?
「七三一部隊」の「石川班」班長の石川太刀雄に
は、戦後私は医学生として病理学を習った経緯があ
る。当時は私には彼は普通の医学者であり、殺人を
するような人格には見えなかった。このように「七
三一部隊」に関わった医学者や「生体手術演習」を
した軍医たちは、日常生活の場では人殺しなどをす
るはずもない善良な人々なのであろう。しかし当時、
どうしてあのような「医学犯罪」を犯したのであろ
うか?
その理由はいくつか考えられます。
・「戦争状態」では「殺すか、殺されるか」である。
敵対する敵兵の「捕虜」や死刑が予定されている相
手方の捕虜を医学の発展、技術向上のために利用し
ても問題がないのでないか、という戦争状態―敵愾
心と民族差別―のなかで「医学犯罪」を行なうこと
を自ら正当化して実行した可能性が考えられます。
・また、軍事秘密というベールを利用し、一般には
出来ない研究によって「よい結果」がでれば医学や
武器の進歩となり、しかもその研究成果が自らの出
世に繋がるという功利主義的発想も犯行を矛盾なく
実施させた原因とも考えられます。つまり、
「先端的
研究」は「倫理規範」によって妨げられるべきでな
いという考え方です。
・また、
「撫順捕虜管理所」での元日本陸軍軍医湯浅
医師の発言に見られるように、捕虜を自ら「手術演
習」することによって、自らのステータスを確認す
るためにも実施された場合もあるようです。
・しかし以上のいろいろな理由よりもより優位に「実
験」や「演習」に参加させた理由は「上官の命令」
「上司の指示」であろう。
「七三一部隊」の第一部の
- 26-
「血清班」班長の秋元須恵夫医師は「医の倫理を問
う」の中で教授の命令に従わなければならなかった
と記述しています。上官(教授も含む)の命令を拒
否できない、拒否すれば「破門」されるか、軍法会
議に処せられるという理由からというのです。
命令による「生体実験、生体手術演習」への参加は、
当事者の責任が問われないか?
「私は、しぶしぶ上官の命令に従って生体での手
術練習をしただけである。部下は常に命令に従う義
務ある、従って殺人はやむをえなかった」という考
え方が一般的に言われています。つまり上司の命令
に問題があり、その執行者には責任がないという考
えです。
これまでも、現在も、違法行為についてはそれを
執行した側がいつもこのような抗弁を繰り返す場面
がしばしばありました。戦後、医学者たちの中国で
の「医学犯罪」を不問にしてきた日本の医学界も、
ほぼ同様の考え方−当時は戦争であったから、或は
上官の命令は拒否できなかっただろうからーであっ
たし、現在もそのような考え方が支配的であると推
測できます。
「・・私が戦時中に属していた部隊において戦犯
行為があったからとて、直接の指揮官でもない私が
何故マスコニ(ママ)によって責められねばならな
いの・・」
(吉村寿人。喜寿回顧)がその考え方の典
型です。
しかし、第一次世界大戦での「ランドベリー・カ
ッスル号事件」―ハーグ条約で保護されていた病院
船がドイツのUボートにより撃沈され、その病院船
からの脱出してきた救命艇にも発砲すべしという司
令官の命令を実行した下士官にたいする判決ーでラ
イプチッヒ最高裁の判決は次のよう言っています。
「上官の命令が民法、軍法に違反していることを部
下がしっていたなら、命令に従った部下も処罰を受
ける責任がある・・」と。
この判断は、上官はいつも道徳的に正しいとはか
ぎらない、従って人はいつも自分自身の行為に道徳
的責任があり、自らの道徳的判断を神に一任すべき
ではない、という考え方です。つまり「命令だから
責任がない」ということは、自らの道徳的判断を他
人に任すことは出来ないにもかかわらず、これまで
多くの人は上官や神にその判断を肩代わりさせて、
心労を逃れてきたと指摘しているわけです。その行
為の「法的責任」は命令した人にあるが、しかしそ
の行為の「道徳的責任」はその行為を行なった人自
身にも存在するということであります。
第二次大戦後のニュルンベルグ裁判でも「ニュル
ンベルグ原則―第四項」で「政府または上司の命令
にしたがって行為した者は、道徳的選択が現実に可
能であったときは、国際法の責任を免れない」と宣
言しています。
古来医師は、聖職者、裁判官とともにプロフェッ
ショナルと云われてきました。プロフェッショナル
とは、人間の行為の善悪の判断を、神に代わって「そ
の人」に一任することを人々が確認してきたそのよ
うな職業であります。つまり医師は人道に違反する
決定を絶対にしないという前提で、その人を「医師」
として社会が認知しているのであります。
「戦時中の医学犯罪」に関係した日本の医師、医
学者たちが、その行為について「人道に違反する」
とは考えていても、深刻に考えていなかったとすれ
ば、プロフェッショナルとは決していえない。いわ
んや「医局」等の集団への帰属意識ものとで生体実
験が行なわれたとすれば、
「医師」「科学者」とは云
えない。当時は「ニュルンベルグ規則」がまだ確立
していなかったとはいえ、そのような規則がなかっ
た時代であっても、医の倫理の原則「人の命を損な
わない」とうことが医師や医学者の判断基準の基本
的な原則であったはずであるからです。
(4)「七三一部隊問題」の戦後処理とその問題点
前に述べましたように、日本の政府や医学界は「七
三一部隊問題」は既に解決済みであるといってきま
した。しかしこの「解決済み」ということは「隠蔽
された」という意味では解決済みであろうが、これ
まで見てきたように「七三一部隊問題」はいまだに
その事実が具体的に明らかにされてはいなく、その
犯罪性も正式には論議されてはいないのであります。
当時の日本政府と軍は敗戦の一九四五年八月十五日
以前に、「戦争法規違反」など国際的な非難を恐れ、
いち早く「七三一部隊問題」の隠滅作業を行なって
います。しかしこのことが、戦後この問題が隠蔽さ
れた主要な要因ではなく、主要な要因は衆知のよう
にアメリカ政府の当時の政策によるものであります。
アメリカは細菌戦研究について当時のソ連のそれと
比較しての立ち遅れを克服するために「七三一部隊」
等の「研究成果」の入手がどうしても必要であった
といわれています。一九四七年一月、ソ連が「七三
一部隊」の生物化学兵器部隊関係者の尋問のために
身柄引き渡しを要求していることを知ったアメリカ
極東軍参謀部は、一九四七年三月に七三一部隊問題
については「・・すべての行動、取調べ、連絡は・・・
アメリカの利益を保護し、困難から防ぐために、最
大限の機密保持が必須である」
「GⅡの同意なくして
告発してはいけない・」と決定し、この参謀部の連
絡により、ワシントンDCの行政部は急遽石井らの
戦犯免責に関する最終決断を行なっています。
このようにして七三一部隊関係者に「免責」をあ
たえて調査された資料は、
「調査の結果集められた証
拠の情報は、われわれの細菌戦開発にとって貴重な
ものである。それは日本人科学者による数百万ドル
の費用と数年の研究成果である。
・・このような情報
は人体実験につきまとう良心の咎めに阻まれてわれ
われの実験室では得られないものである。このデー
タを入手するためにかかった費用は二十五万円であ
り、実際の研究コストに比べればほんのわずかの額
にすぎない」貴重な資料であった」、これは七三一部
隊員を一九四六年に調査したエドヴィン・ヒルの報
告文の一節ですが、当時のアメリカ側の情況を端的
に表現しているようです。
国会で日本政府が一貫して「私たちの関われない
- 27 -
問題」として「七三一部隊問題」を避けたのも、日
本医師会が「七三一部隊問題は決着ずみ」と公式態
度を表明したのも、このようなアメリカ政府の「免
責」が根拠となっているのであります。
また、七三一部隊で「医学犯罪」を犯した医学者の
多くが、戦後各地の大学医学部の教職につき、それ
ぞれの学会で戦後大きな影響力を発揮しはじめたの
も、この「免責」と深く関わっています。
一九五二年十月、第十三回日本学術会議で、政府
に対し一九二五年の「細菌兵器使用禁止に関するジ
ュネーブ条約の批准」を申し入れる決議案の提案(平
野義太郎、松浦一、福島要一)がなされました(十
月二十四日、第七審議(亀山直人議長)。この提案は、
北岡寿逸(経済学)
、木村廉、戸田正三(七部)、我
妻栄(法学)の反対討論で否決れました。この反対
を表明した木村廉、戸田正三はともに戦争中は陸軍
軍医学校防疫研究部嘱託研究員であり、七三一部隊
本部へ多くの若手医学者を組織的に送った人物であ
ります。このような戸田や木村の学術会議での態度
も「七三一部隊」の免責問題と深く係わっていると
言わざるをえません。
一九四五年六月に九州大学医学部でおこなわれた
アメリカ人捕虜への「生体解剖事件」は戦後極東国
際軍事裁判で審議されました。この事件は「捕虜虐
待」と同時に「医学犯罪」でもあったのですが、こ
の裁判では「捕虜虐待」の罪のみが問われ、ニュル
ンベルグ裁判のような「医の倫理」からの判断がな
されませんでした。この事件に関してその後、
「医学
の進歩はこのような戦争中の機会を利用してなされ
ることが多い。その許されざる手術を敢えて犯した
勇気ある石山教授が、自殺前せめて一片の研究記録
なりとも残しておいてくれたら、医学の進歩にどれ
程役立ったことだろうか」
(当時九大医学部解剖学教
授・平光吾一被告)という意見が「文芸春秋」に公
開されています。
このような戦後極東国際軍事裁判での「九大生体
解剖事件」の審議の過程やその後の日本医学界のこ
の事件にたいする対応にも、アメリカの七三一部隊
問題の「免責」が強く作用していると思わざるをえ
ません。
一九八六年、日本で血友病HIV感染事件が起き
ました。これも免責された七三一部隊員が中心とな
って設立された「日本ブラッドバンク」社(後のミ
ドリ十字社)の理念と深く関わっていると思わざる
を得ません。エイズ感染の危険を知りながら非加熱
血液製剤を販売しつくした会社の運営や当時の医学
界へのかかわりを見ても、この「免責」問題がある
ことを指摘しておきたいと思います。
このような戦後の日本医学界のいくつかの問題を
想起しても、
「七三一部隊」を免責するとアメリカが
確約した時点で、
「アメリカ軍が調査しているので七
三一部隊問題は解決ずみ」
、そしてそれは「関係した
医師・医学者の倫理上に問題がなかった」と問題が
すり替えられ、更に「戦時中の医学犯罪等」が一括
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
して不問にされ、何が問題であったか?そこから何
を教訓とするか?を今日まで明確にされてこなかっ
た主要な原因となってきたのであります。
(5)おわりに
過ぎ去った前の世紀は「戦争の二十世紀」であっ
たが、それは科学にとっては「戦争と科学」の時代
であり、国家権力が科学を積極的に「軍事体制」に
取り入れていった時代でありました。
今日、二十一世紀は「グローバリゼーションの世
紀」とも言われています。その特徴は新自由主義的
経済理論と軍事力によって世界の動向が左右できる
という立場であり、
「科学」はそのきわめて有効な手
段であるという認識が拡大していることです。それ
は湾岸戦争、イラク戦争をみればそれは一目瞭然で
す。したがって国家権力はかつてより以上に「科学」
を体制の中に取り込むことー「科学の商業化」
「科学
の体制化」―を進めています。
しかし一方、私たちには今日のこの「科学の体制
化」
「科学の商業化」は、結果的には弱肉強食の世界
を展開していることも知っています。そして結果と
して今、多くの科学者は「科学」の結果についての
「倫理」のジレンマを感じています。
このことは医学界でも同様です。遺伝子医療、先
端臓器移植医療は若い医師・医学者たちの眼を奪い、
それに引きずり回されているかに見えます。最近の
医療・医学をめぐる「倫理問題」の多発もこのよう
な状況の反映であるのでしょう。そして医療・医学
をめぐる「倫理問題」の多発から、日本の医学界も
現在必ずしも「国民」から信頼されているとは思え
ません。
その不信頼の理由は幾つか考えられますが、今ま
で述べてきたような「戦時中の医学犯罪」について
の日本の医学界の態度が大いに関係していと私は思
います。それは戦後「七三一部隊問題等」が明らか
になったにも拘らず日本の医学者、医師たちが彼ら
をかばってきた、胸の中に収めてきた、その卑屈さ
と関係していると思われるからである。わけて、も
しも当時「七三一部隊」で何がおこなわれていたか
を知っていたことが理由ならば、つまり公然の秘密
を共有していたことが理由で沈黙を守ってきたのな
らば、それはますます犯罪的であると言えます。そ
れは当時の医師・医学者たちが犯した「原罪」を戦
後の医師・医学者たちも曳きずっていると言わざる
をえないからです。
この点で指摘したいことは、これまであえて「戦時
中の医学犯罪」を不問にしてきた日本の「医学界」
とナチスに協力したことを反省するベルリン医師会
との差異であります。
戦後六十年、平和憲法を掲げた戦後の日本の歩み
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ー「村山談話」も含んだーに対し、ここへきてそれ
は「自虐史観」だ、あの戦争は正しかった、
「あの戦
争はアジア開放の聖戦論」まで飛び出す情況があり
ます。また日本とアジアの諸国民のあいだの心の溝
は依然として取り除かれてはいないとも言われてい
ます。たとえば従軍慰安婦問題への対応にはいまだ
にアジアの諸国民は日本の政府のそれへの対処に不
満をもっています。最近アメリカ下院でも日本政府
の従軍慰安婦問題への態度に非難決議がなされ、首
相の公式な声明による謝罪を求めているのもそれで
す。
このような溝を埋めて、新たな友好を確立するた
めには共通の歴史認識が必要です。その共通の歴史
認識には歴史的事実の共有が重要なわけです。
私たちには「七三一部隊」にかかわった一人一人
を裁く権限はありません。しかしその歴史を記憶し、
後世に伝えてゆく義務があるのでないか。
われわれに問いかけられているのは、過去の歴史
的事実とどう向き合うか、そしてそこから未来に希
望をどう伝えるかであります。
私たちは歴史認識を逆もどりさせないために、医
学界としても「戦時中の医学犯罪」をより正確に記
憶し、そこからの教訓を明確にしておくことが重要
であると思います。
ノーベル賞受賞者の湯川、朝永両博士とも、十五
年戦争中は軍事関係の研究に「嘱託」として加担し
ています。一人は海軍の原発開発に、一人はレーダ
ー開発に。しかしともに二人な戦後はそれを反省し
て平和運動の先頭に立ったことは知られています。
アメリカのフランツブラウ教授は5年前から、
「七
三一部隊問題」で日本医師会の反省を求めていま
す。それは「七三一部隊問題から目をそらすこと
は自らの品位を落とすこと」だという警告です。
今の日本の医学界に問いかけるものは、「戦時中
の医学犯罪」等をあいまいにしてきたことを反省
し、それが何であったか?を問い直すことであろ
う。
シンポジストの莇昭三氏の略歴
1927年生
1952年金沢大学医学部卒業。
石川勤労者医療協会・内灘診療所所所長、同城北病
院院長、全日本民主医療機関連合会会長、社会福祉
法人やすらぎ福祉会理事長、
「十五年戦争と日本の医
学医療研究会」幹事長等を歴任
現在:城北病院名誉院長、全日本民主医療機関連合
会名誉会長、
「十五年戦争と日本の医学医療研究会」
名誉幹事長
第 27 回研究会記念講演日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会主催
国際研讨会「戦争与医の倫理」特集
十五年战争中的医学犯罪
今天我们所面临的课题
与
莇 昭三
(1) 在战后 60 年的今天,为何重提 战争中的医学
犯罪 ?
*15 年战争中日本医生犯下了医学罪行,这确实是事
实,尽管如此,日本国、相关单位、医学界至今还未
承认这一事实,并未弄清楚问题根源在哪里。我们应
该指出这事实,指出-战争 60 年后的今天需要弄清事
实,认同从中吸取的教训-这就是这次 战争与医学
展的宗旨,也是我发言的主题。
*自 1932 年背荫河[1]开始直到 1945 年 8 月战败为止
日本医学者、军医用大量的活体实施了实验与手术练
习,这些事实逐渐暴露在光天化日之下,其主要的地
点是石井四郎组织的 陆军军医学校防疫研究室 、
731 部队 、细菌战研究网络以及用活体做 手术练
习 的各地战场的 陆军医院 、满洲医科大学与九州
大学医学部[2]。以下我把这些 人体实验 等总称为
战争中的医学犯罪 。
这些 医学犯罪 事实是在伯力审判[2](1949 年
12 月)、1945 年 11 月开始的 CHQ Murray Sanders 等
一系列调查报告[4]、 极密/驻蒙军冬季卫生研究成
绩 、远藤三郎的 将军的遗言 、远东军事审判纪录、
家永三郎、森村诚一、常石敬一、近滕昭二等很多日
本研究者以及辛培林、步平等中国研究者等研究,再
有一些参与过其 医学犯罪 的当事人发言中所得到
证明的。
森村诚一写的 恶魔的饱食 出版后,1982 年 4 月 6
日参议院•内阁委员会上榊利夫议员提出了 关东军防
疫给水部所属的军人军属 相关问题,对此外务省安
全保障科长回答说; 有个名单称为留守名簿•••昭和
20 年 1 月 1 日当时•••将校 133 名,准士官、下士官、
士兵 1153 名,还有•••技师、技手、属官 265 名,一
共 1550 名,另外有•••2009 名基本上都是佣人。 ••
•毕竟是三十多年以前的事,并且当时我国还在美国占
领下,为此我们外务省没有掌握有无您所说的那些事
实或者其相关记录。
另有 1997 年 12 月 17 日与 1998 年 4 月 2 日共两次
由栗原君子议员在参议院问过美国把 731 部队相关资
料(1958 年)退还给日本一事。对此政府回答说;
•••731 部队,正式名称为关东军防疫给水部。我们认
为没有资料有关该部队的活动状况和细菌战之间的关
联记载的。
又有 1999 年 2 月 18 日由田中甲议员提出了关于美
国退还资料的问题,对此当时野吕防卫厅长官回答说
•••我们没确认具体的人体事件等历史资料。
这样日本政府在国会上虽然承认 731 部队的存在,
可是一直否认与其干预与人体实验等。
*二战结束后 1947 年 9 月由 45 个国家的医生会组织了
世界医生会议 ,该会议上大家讨论过德国与日本
医生会的有关人员在战争中作了残暴行径,所以可不
可以让两国医生会加入,会上决议;两国医生会加入
时要提出反省声明。
日本医生会得知这些情况后 1949 年 3 月 30 日在年
次代议员会上发表下述声明,请求世界医生会允许日
本加入。
代表日本医生的日本医生会借此机会公开责难战
争中对敌国人施加的残暴行径,谴责被断言并被公认
为有时发生过对病人的残暴行径。(1949 年 3 月 30
日•日本医师会会长高桥明)
该年次代议员会的声明就是日本医师会作为一个机
构唯一提及过 731 部队问题 的声明。可是此声明
写得非常暧昧, 被公认为有时发生过的 ,就很难判
断他们承认不承认此事实,并且 谴责 残暴行径的
当事人,好像把自己当作为第三者而发言。
从这些报告与资料来看, 医学犯罪 的牺牲人数会
达到数千名,又从有关医生、医学者的人数来看,也
是与纳粹 奥斯维辛集中营 等强制集中营里的 医
学犯罪 相匹敌的罪行。
*但是直到战后 60 年的今天为止,日本官方还没有进
行充分的讨论和确认这些 违反战争法规 而 惨无
人道 的由国家组织起来的医学犯罪历史。
•1950 年日本国会众议院外务委员会上,由听涛克己
议员提问伯力审判时也提及了石井四郎。对此当时殖
田法务大臣回答说; 关于最近人们议论的细菌战术与
日本人战争罪犯问题,政府认为不应该干预••• 并说
政府听说过这些事实,但是政府没有调查权能,也认
为不需要调查•••。 他的答辩就是说,政府虽然知道
731 部队的存在,但其具体情况与政府无关,用不着
去调查。
*如上所述,日本政府也好,代表日本医生界的医师会
也好,到战后 60 多年的今天还不承认已经众所周知的
事实即 731 部队问题 等的 战争中的医学犯罪
历史。
对于直接干预上述 战争中的医学犯罪 等的医生、
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大学、长崎大学、京都大学、大阪大学、金泽大学、
北里研究所、北海道大学、千叶医大等。
另外以 嘱托研究者 指导教官 的名义有小岛三郎
东大教授、细谷省吾东大教授、内野仙治京大教授、
小林六造庆应大学教授、绪方规雄千叶大教授、柳泽
谦东大教授等。还有把自己的身份写成 嘱托 陆军
军医学校嘱托 陆军技手 的研究人员和不标示自己
所属单位•身份的医学研究者约达 40 名。
从上得知,当时小岛三郎东大教授、细谷省吾东大教
授、内野仙治京大教授、小林六造庆应大学教授、绪
方规雄千叶大教授等以陆军军医防疫研究室作为一个
窗口进行委托研究。
也可以说,属于这些研究室的医学者有组织地参与
过陆军军医学校防疫研究班与 731 部队 相关研究。
为此
陆军军医学校嘱托
陆军军医学校防疫研究
室嘱托
陆军嘱托 嘱托 等制度原本是为研究指
导、委托研究而成立的制度,但实际上发挥把教室或
特定大学医学部勾结起来的作用。
如上所述,我们可指出 731 部队研究 上有一些
特定大学医学部的研究室紧密参与。
医学者、技术人员,除了干预过九大活体解剖事件的
人以外,当时日本占领军 CHQ 给他们给予 免罪 ,保
障沉默,掩盖这些医学暴行。
当前随着医学医疗的进一步发展, 医疗伦理 问题
成了全国民的课题。我们作为 医疗伦理 当事人需
要探讨今后的 医疗伦理 指针,为了找出准确指针
应该吸取过去的经验和教训,为此我们认为此时此刻
必须展开把焦点放在 战争中的医学犯罪等 的讨论。
其论点如下;
1、 应该明确战后 60 年政府一直不予过问上述犯罪的
根源,并要求政府重新开始调查 战争中的医学犯罪
等情况。
2、 日本医学界应该承认 战争中医学犯罪等 确实
是事实,以此教训为基础,要提议今天的 医疗伦理
与 生命伦理 。
[注]
1)陆军省枢纽部从背荫河那段时期周知 石井部队
的存在。( 将军的遗言 75-86 页)
2) 满洲医科大学人体解剖事件 、 九州大学俘虏人
体解剖事件 等人体实验
3) 嫌疑细菌战用武器的准备以及使用,被起诉的原
日本军人案件相关公审材料
4) Report by Murrsy Sanders、 Report by Arvo
T.Thompson 、 Report by Norbert H. Fell 、Report
by Edwin V. Hill-美国国立公文图书馆
(2)大学医学部整体
的素质
医局
参与以及日本医学界
1、医学者等整个组织干预过 731 部队问题
731 部队问题 等无疑是当时参谋本部、陆军省医
务局等公认之下实施的。由 关东军 731 部队本部 、
南京 1644 部队 等所实施的人体细菌实验等都是石
井四郎提出主意后,几所大学、研究机关派来的医学
者有组织地参与过。
*众所周知 关东军 731 部队总部 里除了军医以外还
有 陆军技师 职位的研究人员,例如田部井和、湊
正男、冈本耕造、石川太刀雄、笠原四郎、吉村寿人、
秋元寿恢夫、二木秀雄等,他们主要承担总部 第一
部 各领域研究班负责人任务。这些研究者的母体是
京都大学医学部细菌学教室•生理学教室•病理学教室、
东京大学传染病研究所、庆应大学医学部细菌教室、
金泽医科大学细菌学教室等。
这些 关东军 731 部队总部 陆军技师由京都大学
医学部派来的人比较多,这可能是因为石井四郎本人
是京都大学毕业的,就任军医后还在病理学教室(清
野谦次)里继续研究的缘故。
*一般说与 731 部队 研究成为表里一体的陆军军医
学校研究室论文集之一有 陆军军医学校防疫研究报
告第 2 部 (不二出版)收录了 827 篇论文,这些论文
的执笔者主要是军医(包括在外各地的 防疫给水部
的军医),但是共同发表者、论文指导者当中也有很多
民间研究人员。
如看这些民间共同执笔者所属单位有东京大学、庆应
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2、为什么我们主张有组织地参与呢?
*如上所述,与 医学犯罪 紧密关联的军部研究项目
里有特定研究机构的参与,其开端可能是像京都大学
医学部那样石井四郎以及当时 731 部队相关军医领导
拉个人关系而发生的。
*但是像 陆军军医学校防疫研究报告第 2 部 所记载
的那样有特定的教室,比如说庆应大学细菌学教室很
多研究人员跟着小林六造教授进行干预。
其理由如下;
•当时日本施行 国家总动员法 ,强化了战争体制,
所有国民应该为增强战斗力服务,研究所和研究者也
不会例外。为此他们很难拒绝军方的要求,开始研究
细菌战 化学战 的筹备工作。也可能甚至他们抛
弃了研究者的良心,利用时代的潮流,以为这才是要
把自己的研究成果得到飞跃的好机会。
每个教授积极参与的背景就是要把自己的学生派到
那里,能扩大自己的影响力,并能得到一般做不到的
实验成果。
•当时政府通过 科学动员计划 的名义来加强控制研
究者的研究内容与研究资金,但军部的 嘱托研究
就能得到充裕的研究资金,这对研究者来说可能是很
大的吸引力。像陆军军医学校防疫研究室的 委托研
究 那样,那边肯定会有很 新鲜 的研究内容, 研
究费 也很丰富。
再有,像京都大学医学部那样,户田医学部部长亲
自统治病理学、微生物学、生理学教室而开始与 关
东军 731 部队 接触勾结。我们可以推测;户田要用
整个研究部门推进 军学共同 。[1]
我们可以猜测,军部的命令、研究资金的诱惑和研
究领域的魅力对研究室的资深研究人员成为不可拒绝
的条件,促使他们进行合作,派遣自己教室的人员。
并且当时的医局讲座制-非民主性师徒关系-之下,资
深教授有条件可以如意派遣自己教室的医局员,下研
究命令。这些网络的扩大也成为整个教师参与 731
部队问题等 的主要原因。
我们应该指出;如上所述,有各种各样要因互相交
叉的结果导致日本国内几个研究机构有组织而积极地
干预 731 部队问题等 。
日本医学界认真反思自己整个组织犯下的 战争中
的医学犯罪 历史,表明从中吸取到了什么教训,我
认为这才是国民对医学会加深信赖的大道。
3、 被闻名的 石井部队
在有组织地参与这一问题上我们还要强调一点,就是
731 部队问题等 确实是在中国战线上发生的,但
是日本国内骨干医学相关人员可能知道在那里所发生
的 特殊研究 内容。就是说,我们可以猜测;对当
时日本医学界领导层来说, 特殊研究 已经成为公开
的秘密。
[注]
[1]在战局推移中,东京大学有关人员对京都大学如此
行动觉得很着急,采用了对抗手段,就是东京大学积
极参与了 1934 年满洲国卫生技术厂的建设。
( 细菌部
队与自决的两名医学者 常石敬一•朝野富三、88 页)
[2] 特殊研究 (第 31 届日本病理学会、平井正民陆
军中校、特别讲演 与日支事变关联进行的病理解剖
学作业 (日本病理学会会刊、31 卷、1941 年)
[3] 日本病理学会会刊、34 卷、1、2 号、北野正次等
森林扁虱脑炎病原体研究 1944 年
[4]吉村寿人 回顾喜寿 、 日本医事新报 1941 年
-1004 号•消息栏目
[5] 731 部队 常石敬一、讲谈社、1995•7
*1941(昭和 16)年第 31 届日本病理学会大会的特别
讲演[2]中,平井正民陆军军医中校作了题为 与日支
事变关联进行的病理解剖学作业 的特别讲演。他在
讲演当中提及过 特殊研究 也讲到了 能进行特殊
研究的 218 具人体 把 200 具人体材料送到军医学校 。
另外当时的学会杂志[3]中有的论文让人推测到惨无
人道的活体实验。
*另外有记录写道[4];户田正三京都大学医学部长和
正路伦之助教授多次去满洲。还有的记录[5]写道;清
野谦次、鹤见三三应邀去平房。我们认为这些医学者
去那边后不会不问他们的徒弟在当地研究什么,又不
会不参观他们的 研究 。
(3)参与 人体实验 人体手术练习 等的医生•医学
者当时如何考虑而进行的?其责任何在?
15 年战争中,日本部分医学者和军医犯下的医学犯
罪情况,我们 战争与医学 展上详细地介绍。被杀
害的人数会达到数千人。
1、 医生•医学者为什么犯下 人体实验 的医学罪
行?
战后我是一个医学生的时候,曾经跟 731 部队总部
第一部石川班的石川太刀雄学过病理学。我的印象当
中他是个普通的医生,找不出杀死他人的性格。我觉
得 731 部队 有关医学者和进行过 人体手术练习
的军医们都本来是很善良的人,在日常生活中不会杀
死他人,那么他们为什么竟然犯下那么残暴的 医学
暴行 呢?
可能有几种理由。
•所谓的 战争状态 就是 你死我活 的状态。那时
代特有的感情就是把敌国的俘虏或者是被判死刑的俘
虏利用于医学发展与提高技术是完全可以的。并且如
能制造新武器的话,自己研究将为国家做出很大的贡
献,这种思想致使他们心中不矛盾犯下了罪行,就是
医学者也不能在处于战争状态的社会背景-敌忾心与
民族歧视-之外生活。
•另一方面,以军事秘密作为掩盖,自己研究如得 好
结果 能促使医学和武器发展,而且其研究成果又关
系到自己发迹,这种功利主义思想也成为他们不矛盾
犯下罪行的原因之一。他们以为, 先进研究 可以不
受伦理制约。
•另外,如 抚顺俘虏管理所 的原日本兵陈述和原日
本陆军军医汤浅医生发言那样,当时他们中间用俘虏
进行 手术练习 也成为确立自己社会地位的一种方
法。
•虽然会有各种各样理由,但最大的理由可能是 上司
的命令 。 731 部队总部 第一部 血清班 班长秋
元须惠夫医生在 问医学伦理 中写道,必须得服从
教授的命令,决不能拒绝上级(包括教授在内)命令,
如拒绝会被开除,或者是军法会议上被处理。
*还有,15 年战争当时金泽医科大学教授会的纪录中
有如下发言。 杉山教授要离开我们学校的话,我们要
考虑他的后任。我觉得渡边助教授也可以•••听说京都
病理助教授也能胜任•••还有在京都有位叫石川,研究
成绩好,他在石川部队工作•••如果我们跟他说要聘请
他的话,他会爽快地答应 (原文)。
这是昭和 17 年 1 月 19 日金泽医科大学例会上石坂
校长的发言,是选用第二病理学讲座的后任教授的情
况,对此校长的发言,他们如何讨论,没有记录,但
是我们应注意他作为被公认的一般用语说出 石川部
队 一词。
另有记录写道;1941(昭和 16)年 4 月 21 日石井
四郎军医少将在金泽大学作了讲演并放映了电影,这
是当时文部省从 1936 年开始的高等教育机关里推进
的国体明征政策的特别讲义 日本文化讲座 之一环。
石井从京都坐火车带领*个军官和 4 个电影放映技术
官访问了金泽,在学生与教官面前作了题为 关于在
大陆的防疫 的讲演,之后放映了电影。放映了什么
电影不明,但是我们应该瞩目他不许当时从朝鲜台湾
留学来的几名学生参加。
从以上一些事实来看,可以判断;当时日本医学界
的枢纽部虽然不那么详细但是毕竟知道 石井部队
731 部队 特殊研究 等。那么,当时日本医学会
对那些惨无人道的 特殊研究 如何考虑?过去美国
开发核武器的曼哈頓计划的最后阶段由 Roth Brad、
Leo Szilard(齐拉特)忧虑原子弹导致的后果向总统
提出停止使用原子弹的建议。当时日本医学研究者虽
然知道上述 特殊研究 ,但没有一个医学者否定 特
殊研究 的,当时日本医学界与美国他们的行动反差
尤为强烈。
- 31 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
2、 受 命令 参与 人体实验 人体手术练习 的
人可不可以不被追究当事者责任?
我是勉勉强强只好服从上级命令而做了人体手
术练习而已,部下总是有义务服从命令,所以杀人是
不得已的。 有这种想法。他们的思路是问题在于上级
的命令,为此执行人责任不大。
以前也好,现在也好,执行人往往是对自己的违法
行径反复辩护自己的。这种思路也是战后日本医学界
置于不理日本医学者在中国的 医学暴行 的主流思
想。看来他们的脑子里仍有这种念头。
但是曾经在一战当中发生的 Landberry Castle
号事件 -受海牙公约保护的医院船被击沉。莱比锡最
高法院对于服从 向医院船的救生艇开枪 司令官命
令的行为宣布如下判决; 部下知道上级命令违反民法、
军法的话,服从命令的部下也有责任受罚•••
此判决就是说;从道德角度来看上级的命令不一定
总是对的,每一个人对自己的行为该负有道德责任,
自己的道德判断不能交给上帝。 受命令,没办法 这
种思想就是把本应该由自己做主的道德判断推给上级
或圣人身上,逃避精神压力。就是其行为的 法律责
任 也许在于发命令的人,但是其行为的道德责任应
在于执行人身上。
自古以来医生与宗教家、法官一样被认为是
professional(专家),就是人们总是把人的行为好坏
让代表上帝的那个人来判断的。其前提就是医生决不
会做出违反人道的决定,在此前提下社会把那个人认
为是个医生。战后 1967 年、68 年原 731 部队军医的
池田苗夫发表了两个研究成果。两个论文中他写道,
所有的实验是对 猴子 做的。但他所说的 猴子
明明是人,使人一目了然。为什么池田把人说成猴子
呢?因为他知道这种 人体实验 是违反人道的实验。
但他没有深刻地认识到作为专家不许作的行为。
为此参与过 战争中的医学犯罪 的医生、医学者
虽然感到那些行为是违反人道的,但既然没有深刻认
识到这一点,他们已不可算是专家,甚至出于对 医
局 等集团的归属思想而进行 人体实验 的那个人
不能称为医生,又不能称为科学家。当时虽然还未确
立 纽伦堡审判规则 ,即使未有有关规则,医学伦理
的 不损害人命 原则应该始终是医生、医学者加以
判断的第一原则。
[注]
1) 流行性出血热的流行学调查研究 (传染病学会杂
志 41 卷 9 号-1967 年 12 月) 对流行性出血热,用虱
子、跳蚤进行的感染实验 (传染病学会杂志 43 卷 5
号-1968 年 8 月)
(4) 731 部队问题 的战后处理与其问题点
如上所述,日本国会和日本医生会说 731 部队问
题已经解决了。 但是他们所说的 解决 其实是 被
掩盖 而已,至今 731 部队问题还有很多事实还不清
楚。
当时日本政府和军部怕受世界各国谴责,在 1945
年 8 月 15 日之前就开始消灭 731 部队问题。可这并不
是问题被掩盖的主要原因。众所周知,当时的美国政
- 32-
府采取的政策就是主要原因。当时美国为克服细菌战
方面的落后,需要 731 部队等的成果。这与那以后刮
起决定全世界政治的东西冷战之风有关系。
早在 1946 年远东军事法庭的季南(Keenan)检察长
决定不办对石井等罪行告发的手续,但美国远东军总
参谋部得知苏联为盘问要求生物化学武器部队的相关
人员(1947 年 1 月 7 日)
,华盛顿行政部立刻决定有
关免除石井等战犯责任的最终决断。[1]
据我所知,接近我父亲的是美方,决不是其逆向••
•最要紧的就是父亲的部下没有一个人被审判为战争
罪犯这一事实,跟占领军作交易的父亲竟然有那么大
的勇气••• 这是 1982 年石井四郎女儿石井春海的发
言。
经过调查收集到的这些证据与信息,对我们开发细
菌战来说是非常宝贵的。那是日本科学家花费几百万
美元与好几年积累的研究成绩•••这些信息因有人体
实验带有的良心苛责,我们实验室得不到的。为得到
这些数据所花的费用仅仅是 25 万元,与实际研究成本
相比微不足道。这是 1946 年调查过 731 部队的 EDVIN
HILL(埃德文 希尔)报告的一段。它很清楚地陈述当
时的美方情况。
国会上日本政府一贯主张 是我们干涉不到的问题
而一直回避 731 部队问题,日本医生会正式表明 731
问题已经解决了 ,这些言论的根据就是此美国给他们
的免除责任。
另外在 731 部队里犯下医学罪行的很多医学者战后在
各地大学医学部任教,并在各个学会上开始发挥很大
的影响力,这也跟 免除责任 有密切关系。
1952 年 10 月第 13 届日本学术会议上做出决议(平野
义太郎、松浦一、福岛要一)
;就是会议是否向政府建
议 1925 年 有关禁止使用细菌武器的日内瓦条约批
准 (10 月 24 日、第七审议(龟山直人主持)
。对此
北冈寿逸(经济学)、木村廉、户田正三(七部),我
妻荣(法学)坚决反对,结果决议被否决了。众所周
知木村廉、户田正三都是陆军军医学校防疫研究部嘱
托研究员,向 731 部队总部推荐很多医学者,户田正
三说 这是四、五十年前已经解决的问题,如果有个
傻子要在日本制造那些不值实用的东西的话,我一定
好好劝告他不要干那么蠢事,所以请你们放心好。 这
些都是与免除 731 部队的责任有着密切关系。
1945 年 6 月九州大学医学部对美国人俘虏进行的
人体解剖事件 战后在远东国际军事审判被审议。
此事件又既是 虐待俘虏 又是 医学罪行 ,可此审
判中只追究 虐待俘虏 罪,没有像纽伦堡审判从 医
学伦理 观点进行审理。与此关联,有个发言公开发
表说 医学进步往往是这些战争中的机会带来的,石
山教授有勇气敢做那不允许的手术,他自杀前哪怕是
一片也好,如有他的研究纪录的话,不知对医学进步
发挥多么大的作用。 (平光吾一)
我们可以从中看出;九州大学解剖事件的审议过程
以及后来的日本医学界对此采取的态度都受到了免除
731 部队问题责任的影响。
1986 年日本发生了血友病 HIV 感染事件,我不得不
认为这也跟被免除责任的 731 部队成员成立的日本血
液银行公司(后绿十字公司)的运营管理方针大有牵
连。我在这里要指出;他们的运营当中也存在免除责
任。
想到二战后在日本医学界里所发生的这些问题,这
些问题已被变质加工了。就是从 CHQ 约定免除 731 部
队责任的那时刻,他们就开始说 美军调查过,所以
731 部队问题已经得到解决了。 有关医生、医学者
的伦理观没问题。,而通通不问战争当中的医学罪行,
结果导致他们至今没人明确 问题是什么?我们应该
从中吸取什么教训? 的情况。
[1] 死亡工厂
谢尔顿•H•哈里斯(SHELDON H.
HARRIS) P305
•••CHQ 为了得到细菌战资料,偏颇调查 731 部队问
题,用免除责任的结论
来作相抵。
(5)最后
上个世纪是 战争的 20 世纪 ,从科学角度来说它
是个 战争与科学 的时代,就是国家权力积极引进
科学而推进军事体制化 的时代。
今天 21 世纪也被称为 环球世纪 ,其特点就是新自
由主义的经济理论与军事力左右着世界动向,在此环
境当中很多人感到科学是一个非常有效的手段。看到
海湾战争、伊拉克战争情况就一目了然地能看到这些
潮流,国家权力比过去更积极地拉拢科学,使它进入
体制之中,以此推进 科学的商业化 、 科学的体制
化 。
但另一方面,我们知道此 科学的体制化、 科学的
商业化 带来的结果是弱肉强食的世界。为此今天有
很多科学家对 科学 的结果与 伦理 之间感到矛
盾。
医学界产生的情况也一样,年轻医生对基因治疗、
先端的脏器移植医疗都眼红,这些趋势在日本、中国
都一样。并且围绕医疗•医学最近发生很多 伦理问题 ,
也说明这一点。
尤其是通过看到最近发生的医学•医疗案件,我觉得
当前日本国民对医学界信赖不大。
其中会有几个理由,但我认为参与过 战争中医学罪
行等 的日本医生•医学者态度有关系。就是战后 731
- 33 -
部队问题等 被查出来以后,日本医学者•医生仍然还
要袒护他们,并他们把这事实关在自己心中的自卑感
也有关系。他们为什么感到自卑呢?如果他们当时已
经知道 石井部队 在作什么,即共有公开的秘密的
话,如果这就是他们始终沉默的理由的话,他们的沉
默是犯罪。医生犯下的 原罪 一直拖到战后的医生
们。
这里我要指出至今一直不问 战争中的医学犯罪
的日本 医学界 与反省与纳粹合作的柏林医生会的
反差。
*对于战后 60 年一直遵守和平宪法的日本走过来的路
-包括村山谈话-,当前有一小撮人说 那是自虐历史
观 那战争是正当的,那战争就是开放亚洲的神圣战
争。 有人说; 日本与亚洲各国人民之间的隔阂还没
消除 ,为填好隔阂再建立友好,一定要有共同的历史
认识。为得到共同的历史认识必不可少的就是共有的
历史事实。
我们没有权限审判 731 部队的每一个人,但我们有
义务要记住历史。要盘问自己如何对待过去的历史事
实,之后如何把希望传到下一代。我们医学界不要让
历史认识逆转,要准确记住 731 部队问题 、 战争
中的医学罪行 ,要弄清楚所得到的教训是什么。
诺贝尔奖获奖者汤川、朝永两位博士都是在战争中作
为 嘱托 参与过军事研究。一位参与过海军的核武
器开发,一位参与过雷达开发,但战后两位博士都作
了深刻反省而率先展开和平运动。
美国麦克•法兰兹布劳(MICHAEL J. FRANZBLAU)教
授 5 年前开始要求日本医学界对 731 部队问题作深刻
反省,他警告说; 避而不答 731 部队问题就是等于丧
失自身体面。
我认为日本医学界此时此刻需要深刻反省把 战争
时期的医学犯罪 敷衍过去的事,重新自问它到底是
怎么回事。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
Special artilcles of the international symposium organized
by the executive committee of the War and Medicine Exhibition
at the 27th general assembly of the Japan Medical Congress
“The Medical Crime in the Fifteen Years’
War” and Our Task Today
Shozo Azami
1. Reflecting on “the medical crime during the war”
60 years after the war
Points of my presentation today are
1. What attitude the Japanese Government and the
medical establishment have taken toward “the
medical crime during the war”,
2. Which kind of relationship some medical scientists
had with “Ishii Network” and the like, and whether
they knew “special research” was conducted,
3. Whether the practitioners were responsible for “the
experiments and the exercise of operation etc on
living human subjects” done by superior orders.
4. What effect “the immunity” granted by the U.S
Government to the members of “Unit 731” has had
on the medical establishment after the war.
It has come out today that Japanese doctors
performed “experiments and exercise of operation on
living human subjects” during the war. I will hereafter
call them “the medical crime during the war,” including
“experiments on living human subjects” by Unit 731,
“exercise of operation” in army hospitals and
“vivisections” at Kyushu Imperial University Faculty of
Medicine.
not only army surgeons but also civilian researchers
whose status were “Army Engineers.”
They came
from Kyoto Imperial University, the Institute for
Infectious Diseases of Tokyo Imperial University, Keio
University, Kanazawa Medical University etc.
Especially many came from Kyoto Imperial University,
partly because Shiro Ishii himself had gaduated from and
researched there, but also because, as Hiroto Yoshimura
wrote, Shozo Toda, the Dean of Medical School of
Kyoto Imperial University, and other professors sent
assistant professors as civilian personnels.
Moreover, Army Medical College’s Epidemic
Prevention Research Report Part Two, issued by Army
Medical College’s Epidemic Prevention Research
Laboratory, which was the core of Ishii Network, was
written not only by army surgeons but also by about 40
civilian medical researchers belonging to universities,
and professors also contributed to it as “faculty
advisers”.
From these facts, we can say that laboratories in
medical schools of some universities collaborated in an
organized way with the research of Ishii Network.
2. Some reasons for the organized collaboration by
particular research organizations
・Under the National Mobilization Law researchers could
not refuse orders from the army to prepare biological and
chemical warfare.
・They might try to take advantage of this opportunity to
advance their research.
・Professors could get ordinarily unavailable research
results by sending their mentees.
・In the age of “mobilization of science,” they could be
funded by the army for “research by temporary contract.”
・There was the undemocratic relationship inside the
medical offices between the professor and other
members.
2. Attitude of the Japanese Government and the
Japanese medical establishment toward the medical
crime during the war
The Japanese Government has consistently denied its
involvement in the medical crime at the Diet by telling
that there are no historical documents concerning Unit
731, the vivisection of POWs at Kyusyu Imperial
University etc. And the Japan Medical Association
once for all referred officially to “Unit 731” in 1949, in
the statement made for the purpose of entering the World
Medical Association, but their statement was very
ambiguous about the occurrence of cruel treatment, and
they also “criticized” those who had performed inhuman
cruel experiments as if they had nothing to do with those
crimes. While they have not denied the existence of
Unit 731, both the Japanese Government and the Japan
Medical Association have denied or not admitted the
occurrence of experiments on living human subjects etc.
and their involvement.
We must know the history of “the medical crime
during the war” to establish new medical ethics.
3. “Ishii Unit” was known
Furthermore, many of medical scientists who did not
collaborate with Ishii Network probably knew “special
research” was being carried out in the Chinese
battlefield.
・At the 31st Annual Meeting of the Japanese Society of
Pathology in 1941, Surgeon Lieutenant Colonel
Masatami Hirai delivered a talk on “special research”
and “the t subjects of experiments”.
・Masaji Kitano and Naeo Ikeda presented the paper on
research utilizing “ape” in Manchuria. Doctors could
easily tell what these “ape” were.
3. Organized collaboration of “the Medical Offices”
of Medical Schools with “Ishii Network” etc. and the
tendencies of the Japanese medical establishment
1. “The Kwantung Army Unit 731,” which was officially
approved by the General Staff, included as its members
- 34-
・ By record, Shozo Toda visited Harbin and Kenji
Kiyono visited Manchuria. They must have dropped in
on their mentees and seen what was being carried out
there.
・Shiro Ishii delivered lecture entitled “On Epidemic
Prevention in China” and showed a film. While its
content was not recorded, Taiwanese, Korean and
Chinese students were forbidden to attend the lecture
according to “the record of attendance.” From this fact
we can guess the content of the film.
・At faculty meeting of Kanazawa Medical University in
1942, President Ishizaka referred “Ishii Unit” in his
speech.
From these facts we comes to a conclusion that a
certain number of doctors and researchers at the time
knew, if not in detail, about “Ishii Unit”, “Unit 731” and
“special research.” Japanese medical scientists, being
aware of special research, did not criticize it. This is
quite contrast to the fact that Joseph Rotblat, Leó Szilárd
etc. petitioned the U.S President for not using nuclear
bombs because of the effects of their use on the world.
The Japanese medical establishment must face
squarely its organized involvements in the medical crime
during the war and learn important lessons to earn trust
of Japanese people. Denying these facts is just to
debase “history.”
On the one hand, it can be claimed that participants
were not responsible because they reluctantly followed
orders from superior officers and it was duty of a
subordinate officer. According to this idea, what was
wrong is the order given to them and they themselves
were not responsible. This idea has been and is still
dominant among medical scientists.
But we can argue in the following way. After the
World War 1, the Supreme Court of Leipzig handed
down a judgment on “the Llandovery Castle case” which
said that the subordinate officers who follow the order of
the superior officer are liable to punishment when they
know it is against martial law and civil law. This
judgment presupposes that the superior officer is not
always morally right and an agent is “morally
responsible” for his/her own deed. And after the World
War Two, at the Nuremberg trials the Principle IV of the
Nuremberg Code stated, “The fact that a person acted
pursuant to an order of his Government or of a superior
does not relieve him from responsibility under
international law provided a moral choice was in fact
possible to him.”
Like a lawyer and a member of the clergy, a doctor has
been traditionally called a professional. It means the
type of job which society has entrusted with judgment on
good and evil of human deeds in god’s stead. In other
words, being a doctor is a socially recognized profession
which is supposed to avoid inhumane decisions.
Although the Nuremberg code had not yet been
established at the time of the Fifteen Years’ War, “never
do harm to human life” is the basic principle of judgment
for doctors and medical scientists.
4. Why did doctors and medical scientists perform
experiment and practice of operation on living human
subjects? And were they responsible for their acts?
After the war, I have learned pathology from Tachio
Ishikawa, who belonged to “the Headquarters of
Unit731.” He seemed to me to be a good medical
scientist, not a person who had committed murders.
Like him, medical scientists involved in the crime of
“Unit 731” and army surgeons practicing “the exercise of
operation on living human subjects” are good persons in
an ordinary life who never commit murders.
Why did they commit “the medical crime” during the
war?
1. There seem some reasons for doctors and medical
scientists to commit the medical crime:
・ “War” is a “kill-or-be-killed” situation. Under the
situation they believed that it posed no moral problem to
utilize for medical and technical development “POWs”
who were enemy and above all those who would be
killed soon.
・ “Beneficial research results” under the veil of military
secrets contribute to the progress of medicine. They
believe “advanced research” should not be restrained by
ethical consideration.
・ They confirmed their skill through “practice of
operation” on POWs.
・ Above all, if they did not follow “orders from superior
officers” or “instructions by their mentors,” they would
face a court-martial or be “excommunicated” from the
clique to which they belonged.
5. Post-war settlement of “the case of Unit 731” and
its problems
The Diet and the Japan Medical Association have treated
“the case of Unit 731” as if it had been “settled,” but it
has in fact been “hidden.” What has made this possible
is the immunity from war crimes charges, which the U.S.
Government decided to grant members of the unit of
biological and chemical weapons so as to keep valuable
research results from the Soviet Union.
Taking
advantage of this “immunity”, the Japanese Government
has taken officially an attitude of avoiding dealing with
the issue of Unit 731 as if there were no need for doing
so.
This immunity has produced many problems:
・ Many of medical scientists committing the medical
crime at “Unit 731” got regular teaching position at
prestigious universities in Japan after the war and exerted
great influence on medical societies to which they
belonged.
・ At the 13th Science Council of Japan in 1952, a
motion to make a proposal to the Diet to ratify the
Geneva Protocol for the Prohibition of the Use of
Asphyxiating, Poisonous or Other Gases and
Bacteriological Methods of Warfare was voted down
under the pressure of Shozo Toda and Ren Kimura, who
were involved deeply in Unit 731.
・ Vivisections performed at Faculty of Medicine at
Kyushu Imperial University in 1945 was deliberated at
the International Military Tribunal for the Far East.
2. Then, did the participation in the experiment and
practice of operation on living human subjects because
of the order of the superiors put no responsibility on the
participants?
- 35 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
This case is not only “the torture of prisoners” but also
“the medical crime,” but unlike the court of Nuremberg
the latter aspect was not examined there from the
viewpoint of “medical ethics.” About this, Goichi
Hiramitsu, a former professor of anatomy at Kyusyu
Imperial University, stated “because medical progress
tends to be made on the occasion of the war, I wish Prof.
Ishiyama had left even a fragment of records, which
should greatly contribute to the progress of medicine.”
・ It is well known that there is the deep connection
between HIV infection of hemophiliacs and “the
immunity of Unit 731.”
The source of these problems in the Japanese medical
establishment after the war is that the immunity granted
to “Unit 731” by the U.S. Government has been
deliberately misinterpreted to be evidence of ethical
innocence of involved doctors and medical scientists,
and the medical crime during the war have not been
examined at all and no lessons have been learned from
them.
4. “The immunity” of persons involved in “Unit 731,”
granted by U.S. Government, has had negative influence
on the Japanese medical establishment after the war.
Although we do not have any right to judge each
person involved in the crime of Unit 731, we have duty
to remember the history of Unit 731. The questions are
what attitude we must take toward the historical facts,
including “comfort women” and what lesson we must
learn from them to bequeath hope to the future
generation. The uncritical and dishonest attitude of the
Japanese medical establishment toward “the medical
crime during the war,” which is quite contrast to that of
the Berlin Medical Association, invites distrust among
“Japanese people” who find the attitude of the former
quite irresponsible. And for the Japanese medical
establishment to contribute to the creation of friendly
relationship with people in other Asian countries, it is
necessary to share historical knowledge based on shared
historical facts.
What we demand from the present Japanese medical
establishment is to reflect the fact that they have avoided
facing squarely the medical crime during the war, and
think deeply and seriously about what that fact implies.
6. Summary and concluding remark
1. During these 60 years after the War, the Japanese
Government has denied its involvement in “the medical
crime in the fifteen years’ war” and the Japanese medical
establishment has never seriously criticized it.
2. Probably some of Japanese medical scientists
collaborated knowingly in an “organized” way with such
criminal acts.
3. They have evaded responsibility by insisting that they
had obeyed the orders by the superiors.
(This English translation was made for the purpose that
Porf. Wikler understood the main content of Dr. Peng (Dr.
Azami)'s talk. Hence, the talk was not translated in its
entirety.)
- 36-
15 年戦争と日本の医学医療研究会
「戦争と医学」第5次訪中調査団
2007 年 8 月 25 日∼9 月 6 日
刈田啓史郎、莇昭三、西山勝夫、西山登紀子、一戸富士雄、岡田麗江
吉中丈志、中川[末永]恵子、Suzy Wang[王錦徳]、土屋貴志
17:30∼18:00 ミーティング。
18:00 夕食へ。20:00 ホテル帰着。
活動記録
8/25(土)
岡田、13:20 中国国際航空 CA152 便で関西空港から
大連へ出発、14:50 大連空港着。大連大学附属中山
医院の遅心蘭元院長が出迎え。遅元院長と会談。
Wang、12:40(現地時間)ユナイテッド航空 UA851
便でシカゴ・オヘア空港から北京へ出発。
一戸、大阪入り。
8/29(水)
8:00 ホテル出発、マイクロバスで哈爾濱医科大学へ。
9:15∼11:50 李王坤・副学長、金暁明・病理学教授、
高歌今・教授兼国際交流処処長、劉英偉基礎医学院
外国語学部副部長(通訳)らと会見。
12:00 李副学長たちと昼食。
14:00∼15:52 鄭方・哈爾濱医科大学付属2院教授に
インタビュー
16:00 マイクロバスでホテルへ。途中 16:15 頃、満
州国陸軍軍医学校跡付近見学。17:00 ホテル帰着。
17:50 夕食へ。21:00 ホテル帰着。
21:15∼22:15 ミーティング。
8/26(日)
岡田、遅元院長にインタビュー。中山病院見学。19:40
中国南方航空 CZ3961 便で大連空港から哈爾濱へ出
発、21:05 哈爾濱空港着。
Wang、15:00 北京空港着。
刈田・末永、仙台から関空着。12:00、刈田、莇、西
山、西山(登)、一戸、吉中、中川、土屋、関空で集
合。15:00 頃中国国際航空 CA928 便で北京へ出発、
17:00 頃北京着(飛行機の出発が約1時間遅れる)
。
Wang、黄嵐庭・中国人民対外友好協会元理事と合流。
18:40 中国国際航空 CA1621 便で哈爾濱へ出発、20:20
哈爾濱着。岡田と空港で合流。朱星和・黒龍江省外
事辧公室対外友好服務中心接待部部長、哈爾濱医科
大学の金暁明教授(病理学)が出迎え、ホテルへ移
動。
22:50∼23:20 ミーティング。
8/30(木)
8:50 ホテル出発、マイクロバスで哈爾濱市社会科学
院へ。9:10 到着、鮑海春・院長、李宏君・副院長、
金成民・731 研究所所長らと会見。
11:00 金所長の研究室訪問。
12:00 昼食へ。
14:00 黒龍江省社会科学院訪問。辛培林・歴史研究
所研究員(元教授)、高暁燕・歴史研究所研究員、ダ
[竹かんむりに旦]志剛・北東アジア研究所所長代理、
王継偉・科研処外事科科長と会見。
17:00 夕食へ。金暁明・哈爾濱医大教授招待による
晩餐。20:30 ホテル帰着。
8/27(月)
8:30 ホテル出発、マイクロバスで平房の 731 部隊罪
証陳列館へ。9:15 到着。
9:30 会議室で王鵬館長と打合せ。
11:30 陳列館見学。
12:45 昼食へ。
14:00 館外施設(北崗焼却炉、兵器班跡、死亡隊員
焼き場、給水塔、隊員宿舎、毒ガス貯蔵庫、田中班
跡)見学。ロ号棟跡計測、高橋班解剖室跡付近見学。
17:40 陳列館出発。
18:30 黒龍江省人民対外友好協会主催の晩餐。21:00
ホテル帰着。
8/31(金)
9:00 ホテル出発、マイクロバスで阿城へ。10:00 頃
阿城着、金上京歴史博物館見学。
13:00 昼食へ。14:00 頃哈爾濱へ戻る。731 部隊細菌
陶器爆弾製造工場跡見学。
15:30 市内ショッピングモール見学。
17:00 夕食へ。黒龍江省人民対外友好協会および省
政府外事処職員を招いて返礼の晩餐。20:45 ホテル
帰着。
21:15∼22:00 ミーティング。
8/28(火)
8:30 ホテル出発、マイクロバスで黒龍江省档案館へ、
9:10 頃到着。
9:20 梁爾東・編研処処長らと会談。特移扱文書原本
等を閲覧。
12:00 档案館出発。昼食へ。
13:45 マイクロバスで移動、石井四郎旧宅、旧ヤマ
トホテル、旧日本領事館、哈爾濱医科大学発祥地(東
三省防疫処跡)見学。17:00 ホテル帰着。
- 37
9/1(土)
9:00(一部団員は 9:30)徒歩で市内見学。
12:00 ホテル出発、昼食。
14:00 刈田、莇、西山、一戸、岡田、中川、Wang、
黄、土屋、哈爾濱空港へ。[吉中・西山(登)は哈爾濱
泊]
16:30 海南航空 HU7886 便で太原へ、太原 18:50 着。
張興業・山西省対外友好協会副処長、石素雲・通訳
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
10:30 山西省人民検察院へ。11:00 着、史料調査。
12:45 昼食へ。
14:15 マイクロバスで山西省社会科学院へ。15:00
着、孫麗萍・歴史研究所所長ら歴史研究所スタッフ
と会見。
18:00 マイクロバスで夕食へ。19:00 山西省人民政府
外事辧公室職員を招いて返礼の晩餐。22:10 ホテル
帰着。
22:15∼24:00 ミーティング。
が出迎え。マイクロバスでホテルへ。19:30 頃ホテ
ル着、20:30 頃夕食。夕食後ミーティング。
9/2(日)
[吉中・西山(登)は哈爾濱より北京経由で帰国]
8:00 ホテル出発、マイクロバスで長治(旧ろ[さん
ずいに路]安)へ。11:30 頃着、太行太岳烈士陵園(抗
日・解放戦争犠牲者記念園)見学。12:30 昼食へ。
申和平・長治市人民対外友好協会主任らと昼食。
13:30 マイクロバスで長治2中(陸軍病院跡)へ。
郭新虎・長治2中教諭の案内で旧陸軍病院跡見学。
16:00 マイクロバスで太原へ。18:50 ホテル着。
19:00∼20:30 山西省人民政府外事辧公室主催の会
食。
9/5(水)
7:30 ホテル出発、マイクロバスで太原空港へ。
9:30 中国国際航空 CA1146 便で北京へ、10:40 北京着。
黄元理事、Wang と別れる。
16:20 中国国際航空 CA161 便で関西空港へ、20:00
関空着。西山、土屋、岡田は帰宅、刈田・一戸・末
永・莇は関空泊。
9/3(月)
8:30 ホテル出発、マイクロバスで山西省図書館へ。
9:30 着、図書資料閲覧・複写。
12:00 省図書館出発、マイクロバスで昼食へ。
14:00 マイクロバスで山西省档案館へ。15:00 着、所
蔵資料調査。
17:30 マイクロバスでホテルへ、18:30 帰着、夕食。
9/6(木)
刈田・一戸・末永・莇、帰宅。
なお、本調査並びに以下の各報告は、「平成 19 年
度科学研究費補助金(基盤(B))『日本における医
学研究倫理学の基盤構築を目指す歴史的研究』
(課題
番号 17320007)」の助成を受けて行ったものである。
9/4(火)
9:00 ホテル出発、マイクロバスで山西省档案館へ。
9:45 着、資料調査。
満州国及び戦時下の看護教育と看護
Ⅰ.遅心蘭老師へのインタビュー(2007/8/26)
前回の訪問時に十分ききとることが出来なかった
部分を補完し、更に不足内容を補充したいと考え聞
き取りをおこなった。いつもより暑い大連の夏に、
空港は大連での経済団連の会議などで混乱するであ
ろうからと常さん(中山医院の英語教師、日本語学
習中)や季さん(運転手)と一緒に空港まで出迎え
ていただいた。
文書資料はない。病院の庭の藤棚の下で約1時間 30
分聞くことができたが、私の不慣れで録音はできな
かった。
1.遅心蘭氏の看護の歴史
山東省ブンド県の出身(1925.10.30 生)で、13
歳(満 12 歳)のとき家族とともに大連移民となった。
家は大変貧しく、不動産など全くなかったが、向学
心に燃えていた。神明高校(トップの進学校で授業
料が高く、制服は羅紗の生地と決まっていた)は貧
しい中国人の入る学校ではないと校長より言われ退
学。再度日本人女教師(当時の中国人の状況をよく
解っていなかったと思うが)の勧めで、羽衣高等女
学校(中国人が 1/3 在籍)に入学した。
中国人の乗るバスの吊り広告に南満鉄道大連医院看
護婦養成所の「中国人、朝鮮人、ロシア人それぞれ
38
若干名看護学生募集」を見て応募し、受験した(満
鉄関係の看護婦養成所である満州医科大学付属医院
看護婦養成所や安東看護婦養成所は、入学資格は当
地の日本人のみで、後に不足のために内地からも積
極的に募集した。満大に朝鮮人の入学者名簿がある
が、当時植民地のため日本人として扱われた)
。当時
女性の就職は高島屋の女店員、タイプライター、看
護師などであったので学習したいと思ったのである。
看護学生募集は、春、秋2回行われ、1クラス 50
名程度であった。
17 歳(昭和 17)時入学。身長も体重も不足で、痩
せて虚弱児のようだったので、大友看護婦長が「役
立ちますか、中国人でもあり駄目だ」と拒否された
が、医師に「この子は、才能はあるし、よく働くし、
通訳にも役立つよ」といわれてやっと入学できた。
基本的に就学 2 年、卒後義務年限 2 年である。
中国人だからと大友看護婦長の指示で看護婦寮に
入寮できず、給食も食べられなかった。中国人が米
を食べたら軽犯罪に当たる時代でもあった。朝 5 時
の出勤で暗く、危険だと近所のコックさんに母が依
頼して一緒に出勤した。
看護の教科書は、南山堂出版、新撰看護学全書上・
下卷(通称赤本)各約 900 頁、2冊で下巻の付録に
産婆学(約 160 頁)がある。これは一般看護婦の応
用用のようである(この 2 冊は満大卒者が検閲を受
けて持ち帰ったものである)。産婆学には、他に表紙
が灰色のテキストがあったようだが実物の存在は不
明である。太平洋戦争が始まると担架運搬訓練も多
くなり、病院前の廣い庭で行った。この訓練に対し
てもユニフォーム、靴は古物しか与えられなかった。
担架訓練は当時の看護教育内容として写真で証明さ
れる事が多い。適格な患者運搬は重要な内容であっ
たようだ。従軍看護婦の中心である日赤看護婦用教
科書には、日赤の使命、陸・海軍制規や衛生業務が
前面に、多くの頁を当てて述べられている。満鉄関
係養成所の看護教科書の内容と異なる点である。
実習病棟及び勤務病棟は地下1階の満人病棟で、本
館の日本人病棟(中国人も高官やその子息は入院)
へは、原則出入りは出来なかった。満人病棟は、大
連ドックがあり、中国人をケガなどで入院させるた
めに必要であった。患者は、苦力で独身者が多く、
入浴しないので汚れていた。付き添う家族は殆どい
ない状態で、日本人医師、看護婦はそのため患者に
直接関わる事を嫌がった。沈氏は、医師に対して、
先に入院時問診をとって渡したり、汚い包帯交換を
したり、検査の準備、注射、通訳をしたりしてスム
ースに治療が行われるようにしていた。
ある時産婦人科の原医長に呼ばれ、助産師の検定
試験があるので通訳を依頼された。その直後から産
婆学の講義を聞くようにいわれ、無試験で許可され
たのである。すでに看護婦免許はとっていて成績は
皆が知っていたのである。講義は、週3回月、水、
金の夜であった。
資格試験は、関東州庁の代行機関であった大連医
院で行われ、250 人受験生のうち一番で合格した(3
日間実施で筆記、技術実施、医療器機の使用)
。満人
病棟で殆ど一人で様々な看護、医療経験が効果的で
あったと考えられる。また、ある医師は戦争に召集
されて行くとき、種々の困難があるが免許をとるよ
う勧めていたこともある。看護師、助産師免許を獲
った。病院養成所による卒業証書は中国人だからと
与えられなかったが、関東州庁の免状をくれたので
何処ででも働けるとうれしかったといわれる。収入
を考えて産婆の開業をしたいと思ったが、病院をや
められなかった。満人の処置は、全て行い、中国人
医師は満大卒で5∼6人いたが、遅氏は通訳をして
重宝だったのだ。また、入院している満人もやめな
いでと懇願している。中国人として辛い時期を一緒
に過ごしたということである。中国の土地に中国人
が安心して住めないのは辛い事であったといわれた。
資格取得後、帽子の赤筋から青筋に昇級したが、給
料は臨時雇用のままであった。青筋になれば、学生
の実習指導が課せられた。夜間実習は、日本人指導
者と違って学生を休ませて、自分で実施することが
多く、喜ばれたようだ。一方、母が脳出血で重湯が
必要なとき、友人や学生たちが自分たちのご飯を持
ち寄ってくれるという心の交流もあったのである。
1945 年8月15日以降、ソ連軍の侵入後は、石炭不
足もあり、病棟縮小、満人病棟は閉鎖した。以後、
ソ連人看護婦長、旅順の病院からの援助をうけたが、
- 39
看護婦不足となり、沈氏はこの期に、中国人看護婦
の養成を始めた。
2.満人に対する医療
満人病棟入院者は殆ど貧しい。シーツは汚れたま
まであった。珍しい病気は、研究観察のためにと施
療入院が勧められた。このような対処は、お金がな
いので仕方がなかったと考えている、と。細菌実験
は気付かなかったがなかったのではないだろうか、
と。施療患者で次の二人のことはよく覚えていると、
説明された。
・
(龍仁集、姉)は、発熱、腹水貯留を繰り返し、や
せていた。腹水穿刺を週に2,3回行い、解熱する
と病院の手伝いをさせる、の繰り返しであった。ソ
連軍の管理下になった時、このような病人は当然入
院させるべきだと継続入院をさせた。最終的に死亡
したが、解剖結果は、多嚢胞腎症で、病理標本があ
ったが、ソ連軍が書類、カルテと同様に不用として、
同時に処分したようだ。両親は死亡しており、
(弟)
は施療患者として入院させて欲しいと姉が希望した。
亀背、跋行 聾者で、元気な時は室内の入院患者の
洗濯、買い物のお手伝いなどをして少しの収入を得
ていたようである。
・夜間の満人病棟は、往診をしてもらえず、妊婦の
流産が多く、中国人の若い妊婦に対して悔しく、何
とか自分が対処して、夜が明けるまで状態維持をす
ることが屡々であった。産婆の知識は、ここで使う
ことが多くなってしまったようだ。
・ 外科教授は、日本人である社長に使用人の中国人
労働者の虫垂炎の手術を依頼された。しかし、患者
は手術を恐れ遅氏が一緒に行く事を懇願したので、
初めて本館の手術室に入ったが、その明るく広いこ
とに驚いたようだ。切開時、膿が術者の顔に飛び散
ったことに怒、術者の投げたメスが遅氏の左頬にあ
たった。1ヶ月もの治療期間がかかり、現在も傷跡
は残っている。
3.山西省の人民検察院でみた「文芸作品」の1つ
人民検察院にある「文芸作品」集の中に1看護婦
の自筆供述書を見つけた。1939 年の路安陸軍病院に
おける看護婦の中国人男性に対する生体解剖が供述
されていたのである。すでに報告されている内容で
はあるが、おぞましい状況が書かれており、看護婦
の苦悩もみえて、正視に耐えなかった。現在、特に
戦中の看護は、未だ明らかにされ評価されていない
部分が多い。江田いずみ他訳、細菌作戦で「…中国
人の一人や二人が生きようが、死のうが関係ない…」
と述べており、その根底に差別意識がハッキリと見
て取れるが、差別構造として、人種、従軍看護婦と
関連する軍隊、医師・看護婦関係、男・女の性別の
観点から精神構造を見てゆく必要がある。差別され
る自己はどのように自己を守るのか。戦争という非
情な人間関係の中にあっても、看護の行為を直視し、
看護の反省と今後の方向を明らかにする必要がある。
Ⅱ.大連大学付属中山医院
創立 100 年記念祭(2007 年 9 月 8∼9 日)
新装なった病院を案内していただいた。外装は、
重厚で優美な赤煉瓦が残されている。中に入ると近
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
なっている。歴史部分(過去)4 頁のみで、全体的
には、現在、未来に重点が置かれていると考えた。
文献
1.碓居龍太監修:新撰看護学全書、上・下卷、南山
堂書店 昭和 17 年
2.徳川家達: 看護教程草案(救護看護婦用)第
一卷(復刻版)博愛発行所 昭和 12 年
3.江田いずみ他訳:細菌作戦―B,C 兵器の原点 p.
251 同文館出版
(以上、岡田麗江)
代的に、大理石の柱と床は広々としており、フロン
トの一部はコーヒーラウンジがあり、緊張して働く
人達をリラックスさせているようだ。一般人も購入
できる漢方薬局が完備されていた。4階の階段教室
が改造され、展覧室になったようだ。写真、書物、
歴史的医療器具が大体年代にそって、展示されてい
る。この医院の特徴である絨毯が敷かれた外国人用
病棟は外来から最も離れた所にあった。
(8月26日
見学) 「百年 1907―2007」 記念誌
記念誌は、写真と一部説明文で構成し、60 頁から
黒龍江省档案館訪問記
2007 年 8 月 28 日、哈爾濱市内にある黒龍江省档
案館を訪問した。梁尓東所長はじめ館員の方々との
面談ができ、そこで今回の訪問目的を説明した。そ
れは、①1999 年 8 月 2 日に公表された当档案館に保
存されている関東軍憲兵隊の「特移扱」文書の現物
を閲覧させてもらうこと。②档案館に保存されてい
る邦文文献リストを閲覧させてもらうことであった。
その結果、
「特移扱」文書の閲覧は実現できたが、邦
文文献リストの閲覧は、リストが完成していないと
の理由で希望は叶えられなかった。なお、档案館に
保存されている外国語の文献資料は2万件あり、そ
のうち日本語が一番多いとのことであった。
「特移扱」文書について
1999 年 8 月 2 日中国黒龍江省档案館は中国侵略日
本軍関東憲兵隊の「特移扱」の文書を一般公開した。
この文書を発見したのは、侵華日軍第「七三一部隊」
罪証陳列館の研究者(当時)、現哈爾濱市社会科学院
731研究所長の金成民氏である。
「特移扱」文書が
作成された時期は、1941 年から 1944 年の間で、文
書に記載されている「特移扱」処理の対象者は 52
名であるが、関東憲兵隊司令官が署名して許可指令
を発したものは 42 名であった。
これまで関東憲兵隊が 731 部隊に生きた人間を送
り込んだ証拠の第一次資料となる文書は、日本軍が
その証拠となるものを徹底的に破壊したため、発見
されていなかった。また档案館がおこなってきた文
書の公開は、マイクロフィルムによる閲覧であった
が、今回我々には、
「特移扱」文書の現物を手にとっ
て閲覧できるようにしてくれた。現物を手にとって
見ることにより、
「特移扱」文書には、手書きによる
もの、タイプによるのもの、謄写版刷りによるもの
があることを確認できた。
なお、この文書に関する詳細な検討が以下の資料
でなされている。
中国黒龍江省档案館、中国黒龍江省人民対外友好協
会、日本ABC企画委員会編、
「七三一部隊」罪行鉄
証−関東憲兵隊「特移扱」文書−、中国黒龍江人民
出版社、2001.
( 刈田啓史郎)
40
黒龍江省档案館座談(概要)
07.8.28 9:19 AM∼11:30 AM
黒龍江省档案館会議室
梁爾東・編研処処長あいさつ
載偉?さん:保管処処長、日文資料
★さん:第一処処長、特移扱
西山事務局長あいさつ
梁:外事辧公室から調査テーマのリストをもらって
から調べた。特移扱文書は戦医研とは直接関係がな
いのではないか。特移扱は憲兵が人を捕らえて 731
部隊に送ったこと。1年間かけて調査した。ABC 企
画委員会等と一緒に作ったのが『罪行鉄証』で、原
本とまったく同じ。載さんがこれから原本を持って
きて見せる。
731 部隊の研究資料は、731 部隊が敗走する時に焼
却されたか、持ち帰ったデータは米軍に引き渡され
た。731 部隊の実験結果などは档案館にはない。731
部隊罪証陳列館が資料を持っている。医学関係の資
料は档案館は保管していない。
当時の哈爾濱医科大学の資料については、関連シ
リーズを編集する時に、やはり『老哈爾濱医科大学』
の本を参考にした。資料はここにはない。
档案館長も事前に知っていて関心を持ち、調べた。
目録はきちんとしていないので、希望する調査テー
マを知らせてくれれば、できるだけ何とかするよう
努力する。
西山:第1に、今年 4/8 の国際シンポジウムの時に
大川福松さんが、日本人も実験材料にされたと証言
した。憲兵隊等にその関係資料はないか?
梁:省档案館も初めて聞いた。
西山:だから、できるだけていねいに資料を見たい。
莇:特移扱になってはいないが、
『罪行鉄証』に日本
人の名前はある。
西山:第2に、医学関係の資料を管理しているとこ
ろは哈爾濱にないか?
梁:
『罪行鉄証』は長春から資料をもらった。黒龍江
省図書館にはないか?
西山:一昨年行ったが、図書館にはなかった。北安
刈田:目録を見ないと閲覧請求できないのだが。
梁:目録には未公開資料も含まれているので、見せ
られない。日文資料の目録も見せられない。整理が
終わらず、目録に入っていない資料もある。特移扱
文書もまだ目録に載っていない。
刈田:ここにある日文資料はおおよそ何点くらい?
梁:外国語資料全部で2万点くらい。日文だけだと
わからない。
載:日文資料が外国語資料の中では一番多い。だが、
日本語ができるスタッフは当館に2人しかいない。
刈田:一部分は整理されている?
梁:整理は全体としてやるので、閲覧させられない。
档案館は省図書館のところへ移転準備をしている。
来年に移転予定。
西山:一昨年は移転中ということで見られなかった
が。
梁:省図書館の移転が完了しなければ档案館を移転
できないので、ずっと準備状態。
莇:来年、再来年に来れば見られるか?
梁:具体的にはわからない。最終的にはインターネ
ットで目録を公開したい。日本語スタッフも補充す
るために探している。優先順位をつけて絞り込んで
要望を出せば調べる。医学関係はない。
刈田:直接に医学関係のことを調べているのではな
い。
梁:満鉄調査部の資料に医学関係はない。
刈田:衛生として含まれている。
Wang: 日文資料を優先してインターネットで目録公
開してほしい。
梁:テーマを書いてほしい。
岡田:満州国の赤十字資料はあるか?
梁:調べてみる。
西山:旧哈爾濱市街の地図・写真類はあるか?
梁:地図は扱っていない。測量局。写真集ある。
西山:
『老哈爾濱医科大学』を使って編集した時、場
所を確かめたか?
梁:わからない。
の陸軍病院の資料はないか?
梁:それは、北安の档案館に聞かないとわからない。
西山:第3に、
『老哈爾濱医科大学』を参考にするし
かなかったというが、黒龍江省史料委員会の知り合
いや連絡はないか……(質問取り消し)
。
目録もできるだけ目を通したい。
梁:当档案館は目録は見せられない。載さんはロシ
アへ行ったりして調べたが、なかなか手がかりがな
い。
一戸:档案館の手引き(指南)が 1990 年頃出版され
ているが、新しいものはないか?
梁:ない。もし陸軍病院の史料がほしければ、他の
档案館にこれからお願いして調べさせる。
一戸:ジャムス医科大学の史料が、ジャムスの档案
館にあるかどうか、確認してもらえるか?
梁:連絡を取ってみる。
西山:哈爾濱鉄路管理局档案館との連絡はあるか?
梁:档案館同士もあまり関わりがなく、まして鉄路
局は国家管轄なので、省とは関わりがない。
【特移扱文書閲覧】
梁:
『罪行鉄証』の特移扱文書は、長春の憲兵隊司令
部跡から発見され、黒龍江省に関連があるとのこと
で、長春から黒龍江省に送られた。状態のよいもの
だけ。档案館で金成民さんが再発見した。
*吉林省の『罪行鉄証』と由来は同じ
西山:
『罪行鉄証』に載せていない原本のページがあ
るが、省略の基準は?
梁:拷問の時に自白した関係者など、プライバシー
に関わる部分は省略しているところがある。白状し
たところは入れていない。
西山:日本語を読んで判断したのか?
梁:
『罪行鉄証』は、載さん、外事辧公室の日本語が
できるスタッフ、山辺悠喜子さんなどと一緒に編集
したが、省略するところを決めたのは档案館。日本
文で判断した。档案法には、プライバシーに関わる
事柄は公開しないという条文がある。
【目録サンプル閲覧】
哈爾濱医科大学
石井四郎旧宅、旧ヤマトホテル、旧日本領事館、哈爾濱医科大学発祥の地
パートの上階から宅を見下ろす形で写真を撮ること
8 月 28 日の黒龍江省档案館での調査が午前中に終
も危険極まりないと思われた。
了したので、調査団が希望した調査ポイントへの引
旧大和旅館は、ハルピン駅前広場から南東に延び
率を朱星和さんにお願いすることになった。私は、
る紅軍街を少し入った所の北角に外観はほぼ昔のま
第一に、日本の侵略中に開校されていた哈爾濱医科
まで、ホテル、龍門大廈貴賓楼として建っていた。
大学(以下、旧哈爾濱医大)ゆかりの地をあげたが、
ロビーには、瀋陽の旧大和旅館で見られたような日
その他の希望とホテルへ戻る経路が勘案されて、石
本侵略時の銘板などは見あたらなかった。
井四郎旧宅、旧ヤマトホテル、旧日本領事館、哈爾
旧日本総領事館は旧ヤマトホテルの斜交いにあっ
濱医科大学発祥地の順に案内して貰うことになった。
たので、駅前の地下街を通って向かい側にわたり2
石井四郎旧宅は 2004 年にも門前まで行ったこと
階建ての建物に向かった。爾濱鐵路局對外經濟技術
があるが、今回は朱星和さんに門をたたいて頂くな
合作公司の看板が貼られている玄関から建物内に入
どして、武警長官(中国人民武装警察部隊)宅にな
ったが、奥には許可なくして立ち入れない状況だっ
っていることが分かり、機密保持上、宅内を案内し
た。目抜き通りから見ると 2 階建てだが、玄関にお
て貰うことは不可能であることが判明し、周辺のア
- 41
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
いてある屋内見取り図では、3階建てのL字型の屋
内となっていたが、かつて日本軍に囚われた人々が
収監された地下室らしきものは見当がつかなかった。
この建物の外へ出ると、道路から直接半地下室に入
れる階段があった。半地下室の上には哈爾濱香港迎
賓婚紗の看板があり店舗として使われているようだ
った。入っていくと結婚式用の衣装の店で、入って
いた我々団員は衣装を熱心に勧められる客扱いをう
けてしまった。店舗内は一応隅々まで見たが定かで
はなかった。さらに外周を見て回ったものの裏側の
1階は零細な工場・店・倉庫などがあるらしいとい
う感触だけで、時間もないので素通りのみとなった。
東北烈士紀念館を見学した後、旧哈爾濱医大ゆかり
の地を探すために道外区に向かった。
第5次訪中調査で哈爾濱を訪問した目的の一つに
日本がかつての侵略中に哈爾濱で開校していた旧哈
爾濱医大の所在とその顛末をできるだけ明らかにす
ることであった。これまでの訪中調査では、皆目見
当がつかないままであったが、歩平中国社会科学院
近代史研究所所長から頂いた「老哈爾濱医科大学」1)
のコピー、現哈爾濱医科大学(以下、哈爾濱医大)
から留学している滋賀医科大学大学院生に教えて頂
いたこと2) 、滋賀医大が哈爾濱医大とは国際交流協
定締結関係にあること、滋賀医大創立 30 周年記念事
業時にお祝いのために来校された節にお会いした杨
宝峰学長(旧哈爾濱医大の歴史をお伺いしたが当時
はご存じでなかった)が現在も学長として活躍され
ているということで滋賀医科大学学長の吉川先生に
書いて頂いた親書が、今回の調査の手がかりであっ
た。
「老哈爾濱医科大学」には、旧哈爾濱医大関係者
の名簿や 1991 年の同窓会の記念写真や旧哈爾濱医
大の前身が哈爾濱医学専門学校(1926-36 年)の校
長がペスト学者の伍连德博士であったことが記され、
1936-46 年哈爾濱医大前門の写真も掲載されていた。
常石によれば、中国(1911 年 4 月に奉天で「国際ペ
スト会議」を開催したが、その議長は彼であり、1926
年に英語で書いた「肺ペストに関する研究」によっ
て東京帝国大学から医学博士号を受けている(国会
図書館請求番号: UT51-59-O733)3)。しかし、名簿
を伝にして事前に日本の旧哈爾濱医大関係者に接触
したりすることはできなかった。
滋賀医大留学生の資料にあった「坐落在哈尔滨市
道外区保障街的省级文物保护单位东三省防疫处旧址,
也是哈医大前身哈尔滨医学专门学校旧址」という表
題のついた写真を手がかりに、朱さんはマイクロバ
スの運転手と相談しながら道外区内の巡回を初めて
まもなくそれらしき建物を見つけてくれた。それは、
外観から、幼稚園か保育園のような児童施設らしか
った。朱さんが中に入って行きしばらくして女性を
伴って戻ってきた。
彼女は南勲幼児園の曽園長で、
「この建物が間違い
なく哈尔滨医学专门学校旧址である」と説明し、園
内を案内してくれた。道路の反対側の園庭に案内さ
れて、上の写真と同じ建物であることが分かり、訪
中4年目にして漸く、旧哈爾濱医大のルーツを現認
できた。この建物も遺跡として保存する予定だが、
幼児園の移転先がまだ定まっていないので、整備が
進んでいない。写真左手前に別棟の端が見えるが、
これは修復工事中(竣工が間近という印象を受けた)
で、伍連徳記念館として公開が計画されているとの
説明を受けた。
園長の話よると、「この幼児園は区立で、2003 年
開園。建物は保全のため外壁の色は変えられない。
園児数は 300 人、3 歳から 6 歳までを教育している
が、ついこの間までは 4 歳からであった。子供の教
育に当たる者は教育先生という。託児所では先生と
は呼ばない。幼児園には調理、掃除、保母の職種も
いる」
。職業病はと聞くと、「最も多いのは嗄声。腰
痛や頸肩腕障害はと聞くと其れもある。労働安全衛
生教育はやっていない」とのことであった。
老哈爾濱医科大学1)に掲載されている写真の
1986-1946 年の哈爾濱医科大学はどこにあるかわか
らなかった。
現哈爾濱医科大学
8 月 29 日は現哈爾濱医科大学の訪問日と予定され
ていた。案内された大会議室では、哈爾濱空港に迎
えにきてくれた金暁明・病理学教授が控えておられ
た。しばらくして、李玉坤(方方の下に土)副学長
が入室された。名刺交換の後、李玉坤副学長から歓
迎の挨拶がなされた。挨拶の概要は以下の通りであ
った。
42
下記のように李玉坤副学長から旧哈爾濱医大の卒
業生、鄭方教授が現役麻酔科医として活躍している
様子の説明があった。鄭方教授は自宅が大学の近所
で毎日のように自転車で大学へ勤務され、広い校内
も自転車を乗り回して活躍されているようであった。
早速確かめていただいたところ、鄭方教授は現在手
術に入っておられるが、午後には時間がとれるかも
しれないということがわかった。これを聞いた調査
団からの是非会わせて頂きたいという強い要望に応
えて、段取りが取られ、午後 2 時から懇談できるこ
とになった。
幸いに鄭方教授が現職で活動されており勤務日で
あったことから、会見場に赴いて頂くことができ、
また下記の会見録に示されるようにかなり踏み込ん
だ質疑ができ、当時の哈爾濱医大の状況を漸く知る
ことができた点で、今回の哈爾濱医大は大成功であ
った。
日中関係を慮った国際主義と愛国主義を巡る微妙
な意見交換から、異言語間の意見交換の難しさとと
もに、
「加害と被害の真相を一人一人についてまで明
らかにすることが恨みや報復の念の暴発を惹起させ
るかもしれない」という恐れを持たれている所で真
相の全体像を究明することの非常な難しさを痛感し
た。
教授との意見交換で、哈爾濱にあった満州国軍医
学校の場所がわかったので、帰路の途中、立ち寄る
ことができた。跡地と思われるところは鉄道の操車
場らしく見受けられた。
李玉坤副学長による歓迎の挨拶
1922 年、伍連徳設立の東三省防疫処、1926 年 9
月 8 日、哈爾濱衛生学校、1931 から哈爾濱医科大
学。1926 年から数えて 80 周年を昨年祝った。昨日
見学された旧跡は3年前まで小学校、現在は幼稚園。
伍連徳記念館を建設する予定で改修などを行ってい
る。しかし幼稚園の移転のために多額の費用が必要
という問題がある。哈爾濱市共産党副書記のトウさ
んが指示を出している。
今年、伍連徳の娘さんを訪問し、資料を頂いた。
北京から消毒盆などの事物を持ってきてくれた。昨
年、骨董品屋で伍連徳も写っている第3期卒業生の
写真を買った。
日本にいる卒業生にも事物があったらできるだけ
寄贈してほしい。1931-45 の哈爾濱医大の資料は全
然ない。1970 年代の文化大革命時代は 1931-45 年
のことはあまり話したがらなかったが、その後の開
放政策で転換した。
毎年の新入生 1200 人ほど。全国的に大学の入学
定員を大幅に増やしている。もともとは 600 人だっ
た。それでも 1200 人に抑えている。臨床専門の医
学生数は増やしておらず、約 300 人。公衆衛生、看
護、法学など。修士課程(卒後3年)は 800 人、博
士課程は 200 人ほど受け入れている。新入生 1200
人のうち、7年制で直接修士課程に入る学生が 100
人ほどいるのが特徴。残りの 1100 名と大学院 1000
人を毎年受け入れる。当大学の教員も病院の医師も、
11 年間の課程(学部+大学院博士課程まで)を終え
ている。
杨宝峰学長は、全国人民大会代議員に選出された
ことも有り超多忙で、今日は北京にいるので、お目
にかかれない。昨年、全国2位の表彰を胡錦涛総書
記から受けた。心不全研究の業績が大きく評価され
た。黒龍江省で最初の受賞。
病院の医療は、附属病院が5つ。第1・第2附属
病院は各 2600 床、第3病院(癌治療)は 2000 床。
第4病院は以前哈爾濱鉄道中央病院で、1600 床。第
5附属病院は大慶にある。第1附属病院の新外来は
8万平方、今年 5 月から。新外来は 1942 年の旧跡
のビルを壊して建てた。第2院の新棟、第3・第4
病院の外科病棟も建築中。
中国は大学合併期だが、当学は全然予定していな
い。合併しなければ中央政府の教育部直轄の大学に
なれない。今は黒龍江省直轄。国際交流をさらに発
展させたい。
参考
1) 中国人民政治協商会議、黒尤江省委員会文史資料
委員会 (1993) 老哈爾濱医科大学、黒尤江文史資料
第二十四楫、全 322 頁、黒尤江人民出版社
2) http://www.hljnews.cn/by_hljrb/system/2006/
02/21/000218633.shtml
3) 常石敬一 (2005) 戦場の疫学、全 224 頁、海鳴社
(以上、西山勝夫)
哈爾濱医科大学李玉坤副学長会見(概要)
李玉坤副学長による旧哈爾濱医大に関する補足説明
『老哈爾濱医科大学』口絵下の衛生学院時代から
の建物は新外来棟を作るために壊してしまった。学
生時代、校舎の後ろに立っていた黄色の建物は日本
人研究者のためのものだったと思う。記念館等は建
築中、図書館の一部に展示館を作りたい。档案館は
主に人事関係資料、歴史史料はほとんどない。要望
に応えて探したい。同窓会にも頼んで卒業生を紹介
したい。第2附属病院の鄭方さんが当時のことに詳
しいと思う。1996 年の 70 周年と 2006 年の 80 周年
の記念式典に鄭さんが出席したが、日本からも 20
名くらい卒業生が参加した。鄭さんは哈爾濱在住の
卒業生にも連絡できるかもしれない。
周殿原教授も同窓生とよく集まっているので紹介
したい。同窓会は 70 歳以上、1931-45 年の大学の
ことに詳しいと思う。日本にいる同窓生との連絡も
盛んに行っていると思う。周教授も 70 歳以上だが
調査団を代表して西山が、所属が哈爾濱医科大学
と国際交流関係にある滋賀医科大学であることを述
べ、学長の親書を手渡し、かつての日本侵略時哈爾
濱医科大学の真相解明が今回の訪問の主目的である
という趣旨と全日の哈爾濱医科大学発見の経緯を説
明する挨拶した。その際に、老哈爾濱医科大学1) を
提示しながら、それに掲載されている写真の
1986-1946 年の哈爾濱医科大学を見つけられなかっ
たことを述べたところ、同書をご存じなく、早速そ
のコピーを提供することになった。
- 43
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
記憶ははっきりしている。中国に内視鏡を導入した。
昔は軍の病院だったが現在は民間病院。今は外国と
の交流は大丈夫なはず。今年の同窓会は終わったか
もしれないが、来年来れば多くの卒業生に会えるだ
ろう。
中国文部省は各大学の授業に倫理学を入れ、学生
たちに倫理教育の理念を教えている。ほとんどの大
学や病院に倫理委員会が設置されている。倫理を知
って医療を行うため。倫理学は入試には役に立たな
いので、普及するまで時間がかかる。
莇名誉団長の挨拶の後、刈田団長以下、団員自己紹
介。その間のやりとり
李:友人が米国から帰ってバイパス手術が減ってい
ると聞いたが、日本は手術率はどうなっている?
吉中:日本はバルーンが世界でも一番割合が多く、
バイパス手術の率は減っているが、患者さんが増え
ているので手術数は横ばい。
李:国会議事堂は 1922 年頃に建てられたもの?
西山(登):今は正確に覚えていない(1936 年を思い
出せなかった)。
李:伍連徳記念館建設には多額の費用がかかるが、
大学内の意見も様々。北海道大学の陳列館を見学し
た時の印象をはっきり覚えているが、みなさんの要
望に応えられる記念館を作るよう、学長に進言した
い。オープンしてからも、資料を集める必要がある
ので、大学に送ってもらえたらありがたい。
(休憩)
質疑応答
西山:学生たちは平房の 731 陳列館を見学するカリ
キュラムがあるか?
李:ほとんどクラブ活動だが、入学直後ではない。
クラブはチューターの下で発足している。活動内容
はそれぞれ。
吉中:医学部のカリキュラムの中で、ニュルンベル
グ裁判、ナチスの医学犯罪に触れている部分はある
か?
李:中国の歴史教育は、大学に入ってからはほとん
どやっていない。高校時代まで。医科大学はほとん
ど医学史だけ。医学犯罪について一部は高校までに
触れてきている。倫理と歴史は科目が別々。
吉中:1931-45 年の資料は、現在ないということで
あるが、文革時代に失われた?
(李副校長が説明されようとした時にざわつく。
富国好調が鄭方先生が今手術場から出てこられて、
これからすぐに駆けつけてもよいということであっ
たが、午後に来てもらうことにしたということが伝
えられた。)
李:伍連徳が 1926 年に医学専門学校を創立したが、
1931 年 9 月 18 日以降、伍連徳は上海に移った。1937
年 8 月 13 日に上海侵略。伍連徳には三つの選択肢し
かなかった。上海で医学を続けるか、国民党につい
44
て重慶に逃げるか、海外へ亡命するか。海外に亡命
した。亡くなるまでマレーシアにいた。彼の愛国心
は今の人々に非常に影響を与えた。大学の教育でも、
伍連徳について教えていなかった点を反省している。
落ち度の一つと考えている。
1931 年からの哈爾濱医科大学はほとんど日本人
教師。日本の教育の影響が大きかった。文革期には、
31-45 年は日本に占領されたとして、その時期のこ
とを語らなかったし、哈爾濱医大卒業生と認めたが
らなかった。午後鄭方先生に聞けばわかる。卒業生
たちは母校として誇れなかったので、悩んでいた。
大学の資料室にも 31-45 年期のものはほとんどない。
多分大阪出身の新山博久先生は日中友好のために大
きな貢献をしたが、亡くなっておられると思う。
731 部隊のことは倫理教育に大きな役割をするだ
ろうが、一部分の人たちはそう思っていない。もし
若者に見せたら恨みという種を播くもしれない。市
政府は一昨年、代表団でポーランド・アウシュヴィ
ッツ収容所跡を見学した。731 陳列館もアウシュヴ
ィッツのように整備する計画があるが、意見は様々。
大人数で陳列館を見学させることはしていない(日
中関係などの国際関係への影響を考慮して)
。学生は
烈士記念館に行かせる。愛国教育というよりも、そ
の当時の歴史に興味を持つ学生が少人数で 731 陳列
館へ行っているというのが現状である。
ウ先生の知り合いが東京に住んでいて、八路軍の
看護婦として活躍していた。そうした事実を医療倫
理として学生に伝えてほしい。
「明るい剣」というド
ラマで、主人公が日本の医師に治療してもらった場
面があった。そういうこともあったという事実を隠
してはいけない。
吉中:15 年戦争期の日本の医科大学出身者で中国医
学界の重要な地位についた人はいるか?
李:医学の歴史の消極的な部分、731 部隊のことな
どを調べた人はいなかった。卒業生がやる研究は自
分の思い出くらい。「うれしいことばかり宣伝する、
悲しいことは宣伝しない」という諺がある。
政治に影響された人はほとんどいなかったが、卒
業生の中には、鄭さんや周さんのように、共産党の
部隊に行き活躍した。しかし、哈爾濱医科大学の歴
史は 1949 年 4 月からという人がまだ多い。1996 年
の 70 周年にようやく 1931-45 年の時期を医科大学の
歴史として公式に認めた。その時には新山先生も来
られた。
一戸:黒龍江省档案館に所蔵している史料を見ると、
旧満州国時代は中国の人々にとって恥部だろうが、
史料は史料として集めている。哈爾濱医科大学も 15
年戦争期の史料は事実として集めることが重要では
ないか。档案館の史料の中に教育概況という分野も
ある。そこに哈爾濱医科大学の史料もあるかもしれ
ないので、档案館に聞いてみたらどうか。
末永:日中戦争期に日本の軍医が治療をした事実は、
愛国主義教育に反するものではなく、戦争の歴史を
どう捉えるかということだと思うが。
李:愛国教育は世界各国で必要。国際精神と愛国精
神は並んで重要。愛国主義教育と国際主義教育の統
る。
岡田:旧哈爾濱医科大学の看護婦養成所は付属一院
のところにあったと書かれているが、当時のものは
何か残っていないか?
李:著者に直接聞いてもらったほうが確実。教師は
日本人が多かっただろう。調べて史料を増やしたい
という希望もある。
一としてペチューンなどは強調されてきたが、日本
の医師たちも延安で治療をした。ドラマの方針は愛
国精神と国際精神の両立にあった。
末永:侵略先での日本人の医療が日本の侵略に利用
され、日本の侵略を助けたことをみないといけない
のでは。
李:日本の軍医が八路軍の医師になったということ。
末永:哈爾濱医科大学の設立自体が日本の侵略、満
州国を強固にする狙いがあったと見るべき。
岡田:八路軍の看護婦として活躍した人の名前は?
李:調べて知らせる。いまは夫の病院を経営してい
刈田団長 お礼の挨拶
(終了)
鄭方教授(哈爾濱医科大学附属第二医院麻酔科)との会見記録(概要)
西山:中国人の存命同窓会会員数などは?
朱さんの要請で Suzy Wang が調査団の活動につい
鄭:中国では、哈爾濱、北京それぞれに同窓会。戦
て中国語で概要を説明した後、刈田団長が挨拶。
後の卒業生も入っている。活動がさかんなのは周殿
原・南方医科大学の広州の同窓会。周教授は 80 歳。
西山事務局長が会見の趣旨を説明。
私は 81 歳、国家終身教授になっている。
西山:1945 年までの学生数は?入学できたのはどの
鄭:旧満州国時代は、長春に新京医科大学、哈爾濱
くらい?
に哈爾濱医科大学、瀋陽に満洲医科大学、旅順に医
鄭:願書→省の審査→出願。400 人のうち 40 人しか
学専門学校があった。哈爾濱医大は 1926 年設立、哈
出願できない。10 人に1人。新京は2人に1人出願
爾濱医学専門学校として。第一代学長が伍連徳先生。
できた。
1935 年に哈爾濱医科大学に変えられた。第2大学長
1946 年に 16 大学が合併した。17 歳で入学。
は閻徳潤、第3代が植村秀一、第4代が家原小文治、
西山:中国人学生は全員寮に入っていた?
第5代は思い出せない。植村学長時代から日本人留
鄭:大部分の学生は寮。日本人と一緒。日本人も中
学生が増えた。
国人も各部屋にいた。中国人の室長もいた。
私は 1943 年4月入学。同級生は日本人 100 人、中
食べ物は違っていた。食堂の経営者が日本人だっ
国人 40 人、ロシア人 10 人くらい。4年制だが予科
たので、中国人にはトウモロコシやコーリャン、ド
が1年あって大学4年なので5年。教授陣はほとん
ングリなどを食べさせた。日本人は米。寮は 0.4kg
ど日本人。教務長は村上賢三・衛生学教授、金沢出
だけしか出ない、食べるものが足りないので、外の
身。人徳がすばらしい方だった。教育しているとき
食堂へ行って食べることもあった。出入りは自由。
には「真・善・美」とよく教えられた。その息子が
ロシア人学生はパンだがやはり 400g まで。寮は同じ
村上誠一で友達、金沢大学の麻酔科主任教授で同い
だが食べ物が違う。
年。65 歳で定年になった。ときどき文通して学術交
西山:石井四郎や 731 部隊の医師が来たことはなか
流している。村上賢三教授を中心に中日友好会を作
ったか?
った。寄付を募り、中国人学生に援助してくれた。
鄭:学生だから知らない。
クラスメイトと同窓会も作っている。同窓会の資料
岡田:卒業したのはいつ?
を自宅に保管しているのであとで見せる。
鄭:1948 年に卒業した。
同窓会は年に1回。去年横浜で開かれた時は参加
西山:戦うのは日本や満州国のため?
した。いま同窓会の会長を務めている。
鄭:そう。
在学中は戦争期。読書も勉強も非常に緊張した。
土日も休まずに勉強した。
「われわれは学びつつ戦う、 西山:東方遙拝はあった?
鄭:中学・高校まではあった。大学には東方遙拝は
戦いつつ学ぶのである」とよく唱和させられた。1944
ない。軍人勅諭も毎日唱和した。夕方決まった時間
年から臨床の授業を受けた。早く戦場に行かせたい
に、寮の部屋ごとに。室長が特務だったようだ(教
という考えがあった。戦後は多くの学生が八路軍に
授たちがこわがっていた。卒業してから撫順炭坑の
参加した(東北は解放が早かった)。本ばかり読んで
病院に勤めたが、病気で亡くなった)
。奉納殿はあっ
いたので 731 部隊のことは全く知らなかった。大学
た。
の教授や学生は、国籍に関係なく、すごく仲がよか
一戸:満州国皇帝には敬礼した?
った。日本人学生でも民族的優越感を持っていた人
鄭:それはない。
は少なかった。仲良く発展してきた。
刈田:寮や学校の中に憲兵隊が入ってきて取り調べ
1980 年に初めて日本へ行った。たくさんの同級生
ることはあったか?
と会い、家原省文治教授にもお目にかかった。その
鄭:そういうこともあった。
とき 93 歳。80 年のほか、83 年にも行った。85 年に
一戸:軍事教練は?
亡くなった。そのときの資料も見せる。歴史を直視
鄭:教練教師が3人いて、毎週3時間の軍事教練。
しなければならない。
西山:当時の教科書や風紀のきまりは残っていない
- 45
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
ルが高い。
西山:教官の兼任はあったか?
鄭:ない。
末永:農安の勤労奉仕は何年?
鄭:1943 年の夏。
末永:文革の時にどういうふうに過ごしたか?
鄭:開放政策まで日本との関わりはなかったから、
文革には影響されなかった。普通の生活をしていた。
岡田:卒業後は八路軍で働いて、哈爾濱医大に戻っ
たのはいつ?
鄭:卒業後は国共内戦だった、吉林省長春へ行って、
ペチューン医科大で働いた。八路軍には行かなかっ
た。
刈田:病院で中国人と日本人の患者の扱いは違って
いたか?
鄭:違いはなかった。同じ扱い。平等に扱った。
西山:大連満鉄病院は中国人を学用患者(「施療患
者」)として受け入れていたが。
鄭:覚えていない。病院のことははっきり覚えてい
ない。食べ物はたしかに日本人、中国人、ロシア人
と違っていた。
西山:食べ物の区別の理由は?
鄭:民族差別。でもみんなわかっていたから、理由
を説明されたことはない。配給。
西山:戦争が終わるまでに実地の臨床教育を受け
た?
鄭:臨床の授業を受けたが、実習は受けていない。
吉中:731 部隊について初めて聞いたのはいつ?
鄭:ペチューン医科大から哈爾濱に戻った 1955 年以
降のこと。いつか忘れたが、731 部隊の物語の映画
で。
刈田:戦後、46 年、47 年のペスト流行の経験は?
鄭:1946 年に長春でコレラについての調査をした。
哈爾濱にはいなかった。
土屋:1945 年から 48 年まで、大学はどうなってい
た?日本人教官は帰国していたのでは?
鄭:1946 年から大学は合併して長春の大学になった
ので、長春へ行った。長春に移った日本人教授もい
た。東北の大学が全部一緒になる。共産党の政策(哈
爾濱は解放されていた)
。合併する時は哈爾濱医大の
器材を興山の中国医科大学に全部移した。哈爾濱・
長春・瀋陽の3つに分かれたのが 1948 年。1945-54
年まで長春で日本人教授たちが仕事をしていた。朝
鮮戦争後、54 年以降に日本へ帰した。
か?
鄭:教科書はなく、ノートを取った。授業はとても
厳しかった。夜になると学生たちがノートをチェッ
クし合って補った。試験も厳しかった。合格しなか
ったら留年。日本人学生 100 人のうち 30 人くらい留
年した。
西山:ノートは残っていない?
鄭:解放後全部捨てて逃げた。教授の講義は非常に
早口の日本語でドイツ語も使った。生理学の渡辺教
授は「医学を学ぶ人は必然的に臨床から始まり、し
かし自然科学的にその基礎をなすのは生理学であ
る」といったことを筆記させる。産婦人科教授は全
部ドイツ語をしゃべった。
莇:村上賢三はよく知っている。村上誠一は1年先
輩。村上賢三が哈爾濱医大に行ったあとの後任に習
った。村上誠一の家に行って調べたい。
戦争が終わった時にどう思ったか?
鄭:とてもうれしかった。ただ、自分に解放感があ
ったのは、哈爾濱出身でなくて中国人として生きて
きた意識が強かったから。中国を再興するという気
持があった。でも、クラスメイトの中には満州人と
いう意識が強かった中国人もいた。彼らは、日本人
の支配がなくなって、再び漢人に支配される、と複
雑な気持ちだった。1980 年に日本へ行った時、村上
先生と息子さんが招待してくれて、金沢へ行った。
金沢大の麻酔科研究室も拝見した。82 年から村上先
生が中国へ来て、案内して回った。姉妹研究室とし
て、麻酔科の交流があった。87 年に村上先生が日本
麻酔科学会会長を務め、友好関係を保ってきた。
莇:満州で、陸軍病院に 40 人くらい医学生を集めて
教育したという記載があったが、そういう経験はお
持ちか?
鄭:陸軍病院へ行ったことはないが、先輩がペスト
流行で農安へ行ったことがある。防疫活動。私は勤
労奉仕で孫呉へ行って、射撃場の掃除をした。
一戸:憲兵隊の検閲資料で、哈爾濱医大生の勤労奉
仕時の手紙も出てきた。
西山:哈爾濱医大の沿革で満州国の軍医学校が出て
いるが?
鄭:満州国の軍医学校が哈爾濱にあった。林業大学
の裏側あたり。昔の建物等は残っていない。
西山:軍医学校の学生が哈爾濱医大に来たりするこ
とはなかったか?
鄭:ない。哈爾濱医大のほうが軍医学校よりもレベ
金上京歴史博物館訪問記
の案内人(日本語の説明は入館料とは別料金)によ
り、館内の資料の説明と、館外の遺跡の説明を受け
た。漢字を元に作られたとされる金代の文字には特
に興味がそそられた。
(刈田啓史郎)
2007 年 8 月 31 日、午前中の研究調査の空き時間
を利用し、哈爾濱南東約 50kmの阿城市にある女真
族がつくった金王朝(11-12 世紀)の遺跡、および
文物を陳列している金上京歴史博物館を訪れた。館
46
黒龍江省社会科学院での意見交流と今後の課題
8月30日、黒龍江省社会科学院を訪ねた。黒龍
江省は、中国東北部三省の中でも最も北辺に位置し、
面積は 45.4k㎡と日本の総面積の 1.2 倍に達する広
大な地域である。そして人口は約 3820 万人と日本の
それの 30%ながらも、漢族を中心に満族・朝鮮族・
モンゴル族などで構成している多民族地域である。
さらに地政学的にいえば、戦前は一時期日本の傀儡
政権「満州国」の北東部ソ満国境に位置し、 仮想敵
国 ソ連と常に軍事的緊張をはらんでいた地域であ
った。
したがって黒龍江省社会科学研究院の研究対象は、
当然のことながら「満州国」の政治・経済・文化等
の外に、関東軍第 731 部隊、
「満州」開拓民、ソ満国
境要塞、東北抗日連軍等も含まれており、長い研究
のもとすぐれた研究実績を残している。
今回の訪問でお会いした方々は旧知の間柄で、そ
れだけに率直な意見交流を行い得た。その方々とは、
長老格の辛培林氏(元教授で同社会科学院歴史研究
所研究員、『中国東北倫陥十四年史綱要』・
『細菌戦』
の共著者)、中堅の高暁燕氏(同歴史研究所研究員、
『日本軍の遺棄毒ガス兵器』(邦訳)の著者)、新鋭
の笪志剛氏(同北東アジア研究所長補佐、京都大学
留学経験者で『日本侵華戦争時期的化学戦』の共著
者)の 3 氏である。なおその外に、黒龍江省社会学
院外事科科長の王継偉氏の挨拶を受けた。
辛培林氏らとの意見交流の中で、次のことが話題
となった。われわれの会が中心的な役割を担った今
年の 4 月の国際シンポジウム「戦争と医の倫理」な
らびに「戦争と医学」の展示について、辛氏らも注
目し高く評価したことである。次に関東軍第 731 部
隊の各支部の中でも、現在遺跡が残っているのは孫
呉支部で、その研究の一端として楊伯林氏の『孫呉
蒙塵歳月』が紹介された。高氏からは、日本軍は東
北抗日連軍に対しても毒ガス戦を行なったことが指
摘された。また笪氏は、山西省での毒ガス戦の状況
を調査したことが説明された。その外、石井四郎の
日誌、関東軍第 731 部隊関係の米国からの返還資料、
ノモンハン事件での細菌使用の問題などが論議され
た。
この議論の中で、辛氏からは、生体解剖の際部下
たちは石井四郎ら上官の命令に従順に従ったのはな
ぜか、単に上官の命令だから疑問を持たずにしかた
がないと自分に言い聞かせて実施したのかとの重い
質問があった。
「戦争と医の倫理」の本質に関連する
問いである。そのことは、山西省の潞安陸軍病院で
生体解剖を実施した湯浅謙元軍医の告白、そして戦
後の医学責任問題と深く関連することなので、潞安
陸軍病院跡の訪問の項で後述したい。
ただここで改めて特に指摘しておきたい問題とし
て、軍医(または軍機関の研究者)として召集(ま
たは志願)以前に、すでに大学・医専での恩師から
の勧誘(事実上の命令)を受け、また準軍医養成の
- 47
ための医学教育を受けていた実態があることである。
関東軍第 731 部隊と京都帝大医学部との関係につい
ては、常石敬一氏らの優れた研究がある。辛培林氏
らの『細菌戦』の記述によれば、731 部隊の主な研
究者の出身大学・医専などで突出して多いのは確か
に京都帝大の 15 名である。そして次に多いのは東京
帝大の 6 名で、以下慶応義塾大学・慈恵医大・千葉
医大・岡山医専・熊本医専・東京薬専の各 2 名であ
る(各 1 名の大学・医専・薬専の 9 校は省略)。した
がって京都帝大同様、上記の各大学・医専などの 731
部隊との関係(なかでも教授の門下生への勧誘、時
には強力な圧力)
、そして医育面での軍陣医学につい
ての解明は、個別具体的になされるべきである。今
後の課題である。
そしてその問題との関連で、私は満州国立佳木斯
医科大学に強い関心を持っている。佳木斯は現在黒
龍江省(
「満州国」時代は三江省)に所在しているの
で、佳木斯医大についての研究や資料の存否を黒龍
江省社会科学院と同省档案館で尋ねたところ、残念
ながら研究は確認できず、また資料はないとのこと
であった。佳木斯医大について簡単に述べると、1940
年 6 月に関東軍軍医部や陸軍省医務局の強力な支援
を得て開学した大学(ただし修業年限は 4 年なので、
日本国内の医専に準ずる)で、学長は元陸軍軍医総
監・軍医学校校長の寺師義信軍医中将、学監は陸軍
大佐西村貞正、そして教務主任は京都帝大医学部教
授正路倫之助という布陣であった。そして細菌学の
教授と講師は 731
部隊の関係者が就任していた。そもそも佳木斯医大
の開学の目的は、日本人の満州移民を対象とした開
拓医の育成にあるとされたが、戦局の推移と共に佳
木斯が北辺のソ満国境にやや近いこともあって、事
実上軍医養成学校と化し、卒業生のほとんどは軍医
となって行った。こうした特異な性質を担った佳木
斯医大の医育には、学科目として「国防医学」
「開拓
医学」
「国民道徳」などと軍事色濃厚な学科があった。
このように、創立の経緯とその背景、開学目的、人
事、医育内容などからの佳木斯医大についての究明
は、
「戦争と医学」
、
「戦争と医育」という視点でみた
場合、きわめて大きな研究課題となるであろう。
黒龍江省社会科学院での意見交流を通して解明の
ための示唆を得たと共に、今後の追求すべき課題が
明確になってきたと考えられる。
(以上、一戸富士雄)
黒龍江省社会科学院会見(概要)
07.8.30(木) 14:15 PM∼16:50
黒龍江省社会科学院会議室
社会科学院出席者:辛培林・歴史研究所研究員(元
教授)、高暁燕・歴史研究所研究員、ダ(竹かんむり
に旦)志剛・北東アジア研究所所長、王継偉・科研
処外事科科長
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
ムでは、学生同士がインターネット会議をする。日
本側は医学生、中国側は歩平さんのところの若手研
究者が参加する。
Wang: IWG 文書もお渡しできる。
刈田:平房ではないところで陶器爆弾を作ったとこ
ろを再確認したい。
516 と 731 が共同で人体実験を行った軍医の名前
は?
高:名前はわからない。中央档案館の資料で見つけ
た。日本の捕虜の供述。
莇:ノモンハン事件で細菌戦を行った客観的証拠
は?
辛:文書はみつかっていない。
莇:背陰河の生体実験の資料はある?
辛:人体実験が本格的に行われたのは背陰河からだ
が、その前から少しあった。1936 年に秘密が漏れて、
天皇の許可も得て、平房へ移るが、細菌戦の拡大。
実戦に使ったのがノモンハン。中国でも 1942 年セッ
カン作戦等で行われた。
莇:日本軍の医師たちの心理状態を知りたいのだが、
辛先生の『細菌戦』109 ページに石川太刀雄丸が「人
体実験をするのがいやになって、鬱病を装って日本
に帰った」とあるが、その出典について辛先生は「平
房三角会の資料」と前回伺ったが、詳しく聞きたい。
辛:溝渕資料。それを中国語に訳して使った。
莇:溝渕資料の中にはなかった。
辛:調べなおしてみる。
莇:2回も伺ったのは、医療倫理の出発点として重
要だと思うから。
辛:731 部隊の元隊員に会って、なぜそんなに残酷
なことをしたのか質問した。
「私は軍人、指示に従う
だけ」と答えた。
一戸:ノモンハン事件の細菌戦について、瀋陽の裁
判の供述以外の、日文資料はあるか?
辛:『細菌戦与毒気戦』、ノモンハン事件の本などに
おける日本兵の証言。
西山:中央档案館で『細菌戦与毒気戦』の日本語原
文を見たか?
辛:見た。日本語で書かれていた。1980 年代。
一戸:ロ号棟のマルタに日本人は含まれていた?
高:ある本の中には誤って感染して解剖された例が
あるが、マルタではない。
一戸:731 各支部の孫呉以外の遺跡の状況の解説
は?
高:孫呉の遺跡は他のところと比べると残っている
ということ。残すためには費用がかかる。档案館も
要望を出している。牡丹江、林口、海拉爾の遺跡は
ほとんど残っていない。
一戸:9/18 事件の関東軍の主力が第2師団。その中
の連隊の陣中日誌を、仙台グループが解読中。資料
として公刊した時に差し上げたい。チチハルと吉林
への攻撃について毎日記している。仙台へ行った時
に満州事変の記念碑を見た。
末永:1944 年7月に陸軍から毒ガス使用禁止令が出
ている。それ以降使っていないという学者がいる。
でも『細菌戦与毒気戦』には、敗戦以後も使ってい
辛培林研究員あいさつ
刈田団長あいさつ
団員自己紹介
西山事務局長趣旨説明(2005 年訪中以後の経過を中
心に)
辛培林氏応答
辛:シンポジウムの資料は大阪保険医協会の原さん
から資料を送ってもらっていた。私が講演する 10
月の北海道のシンポジウムのことも、神谷さんから
連絡を受けていた。前回来た時に哈爾濱医大のこと
を聞いたので、コピーして去年の6月に歩平さんに
託し渡してもらった(
『老哈爾濱医科大学』
)。
西山:旧哈爾濱医科大の住所がわからなかったので、
滋賀医大に来ている留学生に調べてもらって、HP を
送ってもらったが、詳しい住所でなかったので、一
昨日朱さんに探してもらって見つかった。伍連徳の
遺跡。幼稚園を移転して伍連徳記念館を整備する。
西山:前回訪中以降の新発見は?
辛:731 部隊の細菌戦と化学戦を高さんと研究して
いる。手がかりがなければ難しい。去年、中国の新
聞に、石井日誌が発見されたと日本のテレビ局で報
道したということが載った。米国からの返還資料も
ある。中国の研究者ではそうした資料にアプローチ
するのが難しい。
高:東北淪陥史の本を準備中【淪陥=沈める>日本
に支配された】。資料を探すのが何よりも大事。辛さ
んが淪陥史の本3冊を出しているが、それに基づい
てもっと詳しく研究したい。516 部隊と 731 部隊は
人体実験については共同して行った。化学戦につい
ては 1937 年以降の実戦使用に注目していたが、それ
以前に東北の抗日連軍にも毒ガスを使っていた。中
国語の資料が見つかった。
ABC 企画委員会と一緒に、新京ペスト流行につい
て、長春の千早病院を調査した。遺跡になっている。
100 部隊についても調べた。要塞研究のために孫呉
にも行った。731 の孫呉支部にも行き、遺跡が残っ
ているのを確認した。関心があれば行ってみるとよ
い。支部のうち一番遺跡が残っているのは孫呉。孫
呉の研究者にも関心が高く、青少年の教育基地とす
る希望で、研究をしている。大川さんには 2005 年に、
ABC 企画の山辺さんの紹介で会っている。告白をは
じめたばかりの頃。大川さんの証言には疑問がある。
インタビューなどしたら送ってほしい。
だ所長あいさつ
西山:前回の訪中時に溝渕俊美さんの資料『平房燃
ゆ』を辛先生にコピーさせて頂き、それを頼りに、
溝渕さんやほかの隊員に会った。石井四郎の日記は
青木冨貴子さんが『731』にまとめたが、昨年 8/4
の帰国時にお会いした。日記は新潮社に保管されて
いる。国際シンポジウムの本を日英中で出版し、パ
ネルは日英中韓に翻訳するので、出版されたら差し
上げる。私と高さんが参加する福岡でのシンポジウ
48
ーはした。歩平さん、私、ダさんの3人で調べた。
ダ:
『侵華日軍毒気戦』に資料をたくさん収めた。証
言は、大久野島の研究所の会誌に日本語で発表した。
証言者は高齢だったので、存命かどうかわからない。
西山:調査は化学戦だけ?細菌戦については?石井
が太原にいたときのことについては調べた?
辛:太原の防疫給水部については一切調べていない。
山西省で案内してくれた人は、石井が太原にいたこ
とは教えてくれなかった。
ダ:山西省の国際旅行社の日本処所長の黄玉雄さん
が案内してくれたが、6年前なので移動しているか
もしれない。東京在住の〓さんから調査を始めた。
るという証言がある。どう解釈しているか?
高:禁止令については読んだことがない。
末永:吉見義明が資料を見つけた。
高:見ていません。
末永:何年まで日本軍が使ったと考えているか?
高:たとえば太原では敗戦後も使っている。67 名が
犠牲。遺跡が残っている。
西山:9/1 から太原に行くが、黄さんに訪問先を折
衝してもらっている。
高:山西省には化学兵器を使った場所が沢山ある。
西山:証言は中央档案館か、太原の档案館か?
高:中央档案館の『細菌戦与毒気戦』にある。
西山:太原の档案館の資料を調べたことは?
高:档案館には行っていない。被害者のインタビュ
西山事務局長あいさつ
哈爾濱市社会科学院訪問
8月 30 日(木)の午前中に哈爾濱市社会科学院を
訪問した。これまで省の社会科学院は各地で訪問し
ていたが、市の社会科学院を訪れるのは初めてであ
る。9時にマイクロバスで到着したところ、会議室
に座談の準備がしつらえられており、社会科学院側
と訪中団側の出席者の名札もすでに机の上に準備さ
れていて、丁重な歓迎を受けた。社会科学院からは
鮑海春・院長をはじめとして、李宏君・副院長、金
成民・731 研究所所長、楊彦君・731 研究所研究員ら
主要メンバーが勢揃いし、熱意あふれる会見となっ
た。とくに、金成民所長は9月初めにモンゴルで行
われる国際シンポジウム*直前の非常に忙しい時期
にもかかわらず、座談終了後も1時間以上にわたっ
て自室に訪中団を招き、貴重な資料を見せてくださ
った。市社会科学院挙げての熱烈な歓迎に、改めて
深く御礼申し上げたい。
金所長は、20 代の頃から平房の 731 部隊罪証陳列
館に勤め、故・韓暁・館長のもとで精力的に研究を
行ってきた、731 部隊研究一筋の歴史学者である。
『「七三一部隊」罪行鉄証』として日中両国で出版さ
れた、関東憲兵隊の「特移扱」文書を発見したのは、
まさしく彼である。
「特移扱」文書は吉林省長春(満
洲国時代は新京)の関東憲兵隊本部跡の地下で発見
され、1969 年に黒龍江省関係のものが黒龍江省档案
館に送られていた。それを 1997 年、黒龍江電視台と
731 罪証記念館が番組制作のための調査に訪れた折、
档案館から提供された資料の中から、金所長が見つ
け出したのである (その後、黒龍江省档案館と吉林
省档案館はそれぞれ所蔵史料を再調査し、2冊の『罪
行鉄証』として出版した)。韓館長が亡くなった後、
哈爾濱市の社会科学院に移り、731 研究所の所長と
して、中国・日本・韓国・ロシア・モンゴルなどの
研究者が参加する国際シンポジウムを企画するなど、
精力的に活躍している。
長年にわたって 731 部隊研究を専門的に行ってき
た金所長と今回会えたことは、研究の今後の発展に
- 49
とってきわめて大きな意義がある。それにしても、
哈爾濱は毎回のように訪れているにもかかわらず、
これまで金所長とコンタクトがとれなかったのが不
思議である。今回も王錦徳[Suzy Wang]さんからの紹
介がなければ、おそらく会えなかっただろう。中国
の縦割り社会の根深さを改めて印象づけられた。
*2007 年9月4∼5日、ウランバートルの国防科学
院で、日本・中国・韓国・モンゴルの4カ国の代表
団によって行われた国際会議。日本からは ABC 企画
委員会のメンバーらが参加。くわしくは、三嶋静夫・
ABC 企画委員会事務局長による報告(
「化学戦・細菌
戦の歴史事実を検証──日・中・韓・蒙代表がモン
ゴルで国際会議開く」『ABC 企画 NEWS』51 号 [2007
年 9 月 15 日]、pp.8-9)を参照のこと。
(以上、土屋貴志)
哈爾濱市社会科学院会見記録(概要)
日時:2007 年 8 月 30 日(木) 9:15 AM∼11:00 AM
場所:哈爾濱市社会科学院第2会議室
鮑海春院長あいさつ、社会科学院側出席者紹介
鮑:2001 年に金成民さんの 731 研究所を設け、研究
を始める。報告書なども発表し、国際シンポジウム
も行っている。2005 年哈爾濱で侵華日軍細菌戦毒ガ
ス戦シンポジウム、2006 年韓国で第2回会議。日本、
韓国、中国、ロシア、モンゴルほかの各地域からシ
ンポジストが参加している。第3回会議はモンゴル
のウランバートルで9月に行われる。細菌戦は中国
だけでなく隣国の国民にも災害を与えた。被害者に
は中国人のほか、ロシア人、韓国人、モンゴル人も
いる。それらの国の研究者も積極的に会議に参加し
ている。第4回会議は日本で開催すべきとの提案を
している。細菌戦だけでなく他の分野の研究を進め
ている。中国−ロシア、中国−モンゴルの国境の日
本軍要塞は比較的よく保存されている。たとえば虎
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
丈夫だろう。事前に連絡すれば。
莇:ノモンハン事件で細菌戦が行われた証拠文書は
あるか?ハバロフスク公判資料以外に。
金:陳列館に展示してある写真は日本から提供して
もらった。松本草平さんが書いた本にも記述がある。
鮑:その時はロシア兵だけでなく日本兵も被害を受
けた。日本兵がハルハ河の水を飲んだので。本は2
冊あるから見せる。
一戸:松本草平さんの本以外に、中国側による調査
資料はあるか?
金:中国とモンゴルの証言があるが、それ以外には
ない。
莇:731 部隊のロ号棟の幅と奥行は実測すると 150m
くらいの長方形だと思うが、幅と奥行は実際どうだ
ったのか?
金:実測した図はあるが、いま家にあるかもしれな
い [その後コピーを提供してくれた。一瀬敬一郎弁
護士作成の実測図と判明]。100 部隊跡から 1952 年
に人間と馬の骨が見つかった資料もある。
鮑:金所長は『侵華日軍細菌戦』という本を編集中。
それが出れば組織的な実態が明らかになる。手に入
りにくい資料もたくさん入っている。写真は 5000
枚くらい入っている。証言者の写真もある。関東軍
の要塞についての本も出る。
金:細菌戦の本は、来年今頃には出版されているだ
ろう。
西山(登):2001 年以前の 731 部隊研究は哈爾濱市と
してどのようにやってきたか?731 研究所の体制は
どうなっているか?国際シンポジウムの際に日本か
ら誰が来たか?日本での開催については?
金:9/3-7 までモンゴルの国防大学で開かれる第3
回会議で次回のことを決める。会議が終わる前に各
国代表と協議する。日本からはこれまで一瀬弁護士、
篠塚良雄さん、近藤昭二さん、松村高夫さんらが参
加している。
故・竹内治一さんとは何回も会っているので、15
年戦医研の趣旨は前から知っていた。これからも研
究交流をしていきたい。用意しておいた資料を渡し
たい。
(終)
頭、海拉爾、東寧の要塞。労工や慰安婦の問題につ
いてもこれから研究する。日本軍が最初に細菌戦を
行ったノモンハン事件(ハルハ戦争)についても
2006 年にモンゴルへ行って国際共同研究をした。ノ
モンハン事件に関しては細菌戦を主なテーマとして
研究を進めている。日本の友人や研究者との交流も
行い、院長・副院長も何度も日本を訪問し、熱烈な
歓迎と協力を受けている。国際研究をこれからも推
進したい。
刈田団長あいさつ
団員自己紹介
西山事務局長あいさつ、経過・趣旨説明
鮑院長返答
金(補足):国際シンポジウムの中国からの参加者の
中には生物戦の専門家の軍医もいる。
質疑応答:
西山:満州国陸軍軍医学校の跡周辺を見たが、満州
国軍医学校と哈爾濱医大の関係は、哈爾濱医大で聞
いてもわからなかった。誰か知らないか?日本支配
期の地図はないか?烈士記念館には展示されていた
が。
金所長:1943 年の地図がある。軍医学校と哈爾濱医
大の関係は知らない。哈爾濱医大と 731 部隊の関わ
りについては、農安ペストの調査のために医科大で
調べたことしかない。13-14 年前。今では証言者は
亡くなっている。
末永:農安のペスト調査は 731 部隊に関係すると思
って調べた?
金:そう。哈爾濱医大からも農安へ行った。誰が農
安に行ったか名簿がある。1946 年平房ペスト流行時
の資料もある。研究中だから一部分だけしかない。
最近もらった資料。
西山:資料はどこから手に入れた?
金:助手の楊彦君さんが主に哈爾濱市档案館で見つ
けた。省档案館だけでなく、哈爾濱市や黒龍江大学
にも档案館や図書館があって資料が沢山ある。
土屋:市や大学の档案館のほう省档案館より調べや
すい?
金:調べやすい。外国人でも外事処の人がいれば大
山西省社会科学院歴史研究所訪問
9月4日(火)の午後に山西省社会科学院歴史研
究所を訪問した。山西省の調査で現地研究者に会え
るのは初めてで大きな期待をもって訪れたが、それ
をも上回る熱烈な歓迎を受けた。2階の会議室には、
孫麗萍・所長、高春平・副所長をはじめ 12 名の研究
所スタッフが勢揃いし、予定時間を大幅に超過して
活発な質疑応答が行われた。
山西省档案館での調査がほとんど何もできなかっ
たことを考えても、社会科学院の方々に先に会えて
いれば、調査の見通しがつけられたと思われ、少々
50
残念ではあった。しかしながら、今後協力しながら
調査が行える見込みが立っただけでも、きわめて大
きな成果である。歴史研究所の皆さんに、改めて厚
く御礼申し上げる。
(土屋貴志)
山西省社会科学院歴史研究所会見記録(概要)
日時:2007 年 9 月 4 日(火) 2:59 PM∼17:30 PM 頃
場所:山西省社会科学院 2階会議室
山西省社会科学院側出席者:
孫:1500 くらい。
西山:被害の実態を示す写真はどのくらい。
孫:100 枚くらいある。たとえば日本軍が毒ガスを
放り込んだ穴の写真(第2部 p.171)。
西山:
『山西抗戦口述史』は何部くらい刷ったか?
孫:2500 部。
莇:中国各地 10 箇所以上の陸軍病院で手術演習が行
われていて、最初は大同の陸軍病院でないかと思う
が、客観的史料はほとんど持っていない。ろ安の例
でも、湯浅謙氏の告白のみ。大同陸軍病院の手術演
習は 1941 年の6月。陸軍中央から命令があったと思
われる。調査をして事実を明らかにしたいので協力
をお願いしたい。たとえば長治2中の郭新虎先生に
会って話を聞いてほしい。山西省档案館にも資料が
あると思う。
刈田:山西省档案館を訪ねたが、市や県の档案館の
方が史料はありそうか?
孫:ラクさんは太原市档案館で軍隊の史料をたくさ
ん見た。軍医の史料もあるかもしれない。たぶん省
より外国人は見やすいかもしれないが、10 年前に見
たので、変わっているかもしれない。対外友好協会
を通した方がいい。紹介の手紙は非常に重要。中国
人でも档案館を調べるのは難しい。関西大の石田さ
んは調べにくかった。
西山:太原市、長治市、大同市には社会科学院があ
るか?
孫:山西省、太原市、呂慮市の3カ所だけ。連係は
少ない。省は省全体を調べるが、市は市だけ。
西山:山西大学のほかに日本研究所は?
孫:山西大学一カ所だけ。ほかは日本語できる人が
いない。山西大学日本研究所に連絡を取るのがよい。
西山:山西医科大学はいつできた?
孫:山西医科大の前身は川至大学。1930 年代から。
西山:日本支配期のその医大の状況は山西医科大へ
行けばわかるか?
高:山西医科大第2附属病院は戦時日本人がよくい
た。そこに行けばわかるかも。今も日本の医科大と
の交流がある。
西山:当時日本軍が川至大学を接収し施設を利用し
た可能性は?
孫:調べてみる。
土屋:毒ガス戦について、趙健先生のあとを継いで
研究されているのが高先生?
張(外事処):趙健さんは山西省史志院にいて定年に
なった。社会科学院ではない。史志院に行った方が
史料はあるだろう。山西大学の葉昌鋼さんも研究し
ていたが定年になった。中帰連の人と連絡がある。
高:社会科学院で毒ガス戦を調べているのは自分だ
けだが、昨年研究しただけ。細菌戦についても、ネ
ズミに注射していたのを研究した。大同の炭坑で、
日本軍は苦力の疲労回復に阿片を吸わせたことにつ
いても研究した。
大連の旅順監獄では処刑した死体を日本人が解剖
し、実験していた。監獄は今ではなくなり、ロシア
の博物館になっている。
日本軍で毒ガスを使った兵士の名前は「沢昌利」
。
孫麗萍・歴史研究所所長、高春平・副所長、ラク[名
へんに隹]春普・近代史研究室主任、劉暁麗・現代史
研究室主任、馮素梅・副研究員、董永剛・助理研究
員、宋麗莉・助理研究員、趙俊明・助理研究員、李
衛民・助理研究員、王永紅・助理研究員、李国慶・
歴史所科研秘書
黄嵐庭・中国人民対外友好協会元理事による団員紹
介
刈田団長あいさつ
西山事務局長あいさつ・趣旨説明
孫所長あいさつ・スタッフ紹介
歴史研究所の研究者は 14 人。高級研究員が6人、
あとは中級研究員。全員が参加した『山西抗戦口述
史』3巻は 2003 年から編集を開始、2005 年の抗日
戦勝利 60 周年に出版した。1500 人にインタビュー。
11 市、119 県、130 郡に出向いて調査。口述、記録、
写真の原史料で構成。インタビューは全部で 150 時
間行った。表紙に趣旨が書いてある。だが、細菌戦
のことは少ししかない。『山西抗戦口述史』第2部
pp.274-276 に細菌戦、第1部 p.235 に軍医に関する
記述がある。
4月に4日間と 8/25-26 に関西大学の石田さんが
来て日本軍の山西残留について調べた。所員が日本
に行ったことはない。
末永団員、日本軍の山西省侵略史料4編を贈呈
孫:抗日戦争の時、山西省は全国的に注目された。
1937 年の人口は 1100 万人、1948 年は 1500 万人。戦
争時に人口が増えたのは、山西省、華北省、山東省
から難民が流入するとともに、抗日戦のために義勇
兵が全国から集まってきたため。共産党は山西省で
産業と人力の「大生産運動」を展開。山西省の抗日
戦は全国に先駆けて 1936 年 2 月、紅軍の長征から。
抗日戦の犠牲者は 200 万人といわれているが、山西
大学教授の調査によると 166 万人。
次の研究テーマは、山西抗戦民衆生存状態の研究。
日本の軍医については『口述史』第1部 p.235 に
載っている。董研究員が村人にインタビューしたが、
村人は話をした軍医の名前は覚えていなかった。ほ
かの記載は細菌戦について。
末永:防疫給水部の位置はわかるか?
土屋:軍事法廷、捕虜収容所、第一軍司令部、太原
監獄の位置もわかれば教えてほしい。
高:第1部の p.135-141 にインタビューがある人に
聞けば詳しくわかる。太原監獄は、日本軍は監獄と
はいわず「工程隊」と呼んでいて、あちこちにあっ
て中国人を捕まえていた。防疫給水部の場所は不明。
土屋:石井が軍医部長をしていた時のことを知る資
料はないか?
楊:石井の名前は聞いたことがあるが、具体的に何
をしていたのか知らなかったし、研究している人も
いない。資料はない。
西山:
『山西抗戦口述史』の写真はどのくらいの数?
- 51
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
自分で回想記を書いて中国語でも出版されており、
その一部を『山西抗戦口述史』に収録した。
孫:第2部 p.304 の史自強さん(1921 年生まれ)も実
は毒ガス被害者だが、本の中では毒ガスについては
証言しなかった。
ラク:日本軍の部隊が移動中に、重傷の兵士を死ん
だ兵士の死体とともに焼き殺したのを見たという中
国人の証言が多数あるが、そういうことは日本軍で
普通だったのか?
刈田:そういう事実があったのか、詳しく聞きたい。
孫:第1部 pp.229-231 に証言がある。インタビュー
の全部は掲載できていない。
高:阿片の売人 40 人がつかまって死刑になったが、
中に含まれていた日本人は処刑せずに追放した。2
年後、その日本人たちが戻ってきて、また阿片を売
っていた。そういうことについて自分は研究した。
岡田:日本軍が重傷兵を焼き殺した状況は?小隊の
移動?連隊の移動?
黄:自分も山東省にいたとき、日本兵が自殺するよ
う命令されて死んだことをたくさん聞いた。
刈田団長謝辞
黄元理事あいさつ
孫所長あいさつ
(終)
潞安陸軍病院跡での調査と今後の課題
9 月 2 日、山西省長治市を訪ねた。日中戦争時、
ここに潞安陸軍病院があったからであった。長治市
は、山西省の省都太原市の南東 231kmに位置し、
人口は約 310 万人という堂々とした中枢都市である。
日中戦争時、北支那方面軍はそこに第1軍司令部
指揮下の潞安陸軍病院を設置した。この陸軍病院は、
地元の中学校を接収し改修して使用した。それが敗
戦後ふたたび中学校として現在使用したので、われ
われはその長治二中を訪ね、校舎2階の特別室で、
郭新虎二中教諭から、旧潞安陸軍病院内での軍医に
よる中国人生体実験について詳しい説明を受けた。
郭教諭は、自らの勤務校の校舎における凄惨な生体
実験について、長期にわたって丹念に調査を続け、
さらに校地内に放置されていた生体実験関連と思わ
れる各種の遺物を収集していた。
郭教諭は、その特別室の壁面に、自ら製作した「侵
華日軍潞安陸軍病院照片与実物陳列」と銘うった一
連のパネルを並べ、一つ一つ説明した。その内容は、
この陸軍病院の解説や見取り図、湯浅謙元軍医の生
体解剖証言、生体解剖図、病室や将校食堂の写真、
陸軍病院に雇用されていた中国人労工の写真、さら
には出土した遺骨の写真などであった。そして部屋
の中央机上には、敷地内より出土した各種の遺物が
展示されていて、その中には注射器やメスと薬瓶、
医療用と思われる陶器、粉末の入ったアンプル、さ
らには短剣、菓子「八ツ橋」を入れた缶箱、囲炉裏
の木枠などもあった。
湯浅元軍医の証言を中心に構成された吉開那津子
著『増補新版・消せない記憶』によれば、潞安陸軍
病院は院長(中佐)のほか、軍医 8 名、歯科軍医 1
名、薬剤官 1 名、主計と庶務が各1名、さらには准
士官・下士官 20 名、看護婦 10 名、軍属数名の陣容
で、その多くは直接間接を問わず生体解剖に関係し
ていたといわれる。
湯浅軍医が着任したのは、1942 年 1 月末で、その
年の 3 月には早くも病院長からはじめての生体解剖
を命じられて実施した。その目的は、第 36 師団の野
戦部隊の軍医 11-12 名と潞安陸軍病院の新任軍医 5
52
名の手術演習で、新来軍医の技術習得のための集合
教育であった。その時生体解剖の対象となったのは、
戦場での普通の捕虜ではなく、八路軍に内密したと
思われる 2 人の被疑者であった。麻酔注射をうった
後、先ず虫垂の摘出、二の腕の切断、血管の縫合、
皮膚筋肉の縫合、腹部の正中切開、腸の縫合、気管
切開などを次々に実施していった。これらの手術演
習は、砲弾の破片による四肢の座滅創手術、腹部に
弾が貫通した場合の腸手術、喉頭に損傷を受けた場
合の溜まった血液を、穴を開けて取り出す手術など、
実戦に直接活用するための手術であった。そしてそ
の間、被験者はまだ呼吸を続けていたので、最後に
クロロエチールを静脈に注射して絶命させた。驚い
たことに、内臓器官がさんざん切り刻まれた人間が
まだ生命を維持していたという、残忍かつ厳粛な事
実がそこにあった。
このようにして湯浅軍医は他の軍医たちと共に、2
度 3 度と中国人に対する生体解剖を病院長に命じら
れるままに実施していき、敗戦の年の 3 月まで合計
18 名(吉開氏の先述の著書による)の生体解剖にか
かわったといわれている。なかでも 1944 年 1 月以降
は、潞安陸軍病院の副官(庶務主任)として、手術
演習の内容を計画立案し、各部隊の軍医たちを集め、
生体解剖を指導するまでになっていた。時には頭蓋
骨を切断して脳の皮質を取り出し、瓶に入れて病院
長に提出したという。
潞安陸軍病院での生体解剖は、関東軍第 731 部隊と
は違って実戦での日本軍負傷者の手術演習の名目で
実施されたが、その本質は国際法上において明確に
違反する不法行為であり、人道上絶対に容認できな
い残忍な暴挙という点で、731 部隊での戦争犯罪と
何ら変わることがない。湯浅元軍医の推測によれば、
このような軍医による生体解剖は潞安陸軍病院だけ
でも 30 人以上、中国全土だと 1000 人以上の軍医・
下士官・衛生兵・看護婦が直接かかわったはずと見
ている。
にもかかわらずこの軍医としての戦争犯罪について、
戦後湯浅元軍医以外告白した人はいないと言われる。
彼は自らの戦後体験として、潞安陸軍病院の戦友会
の席上、そのことを問うと、一緒に生体解剖をおこ
なった元軍医からは「こんな陸軍病院の恥をさらし
て、何だ!」と責められ、またある看護婦からは「忘
れていました」と言われたという。この生体解剖と
いうきわめて残忍な医学犯罪を、戦後誰にも自由に
言える情況のもとで、このような当事者に犯罪認識
の拒否・忘却の意識が生き続けている現実を、
「戦争
と医の倫理」という点からどう考えるべきだろうか。
このことは、先に述べた黒龍江省社会科学院の辛培
林氏の重い問いと深く関連している。
1. 前述のように、戦後の平穏な生活の中で、ごく
自然に 忘却している場合のケースである。この
異常な生体解剖体験は、当時の陸軍病院の中ではご
く日常的な一風景にすぎないという良心の麻痺感覚
が、戦後も 自然に 残存・延長している戦争認識
が、そこにあるのではないかと推測される。湯浅元
軍医は、生体解剖体験者の戦後意識に多く見られる
問題状況として、強く警鐘を鳴らしている。
2. なかには暗く重い戦争犯罪にかかわったこと
を、意識的に忘却しようと努めている人もいる。人
間にとって忌まわしい体験はできるだけ思い出した
くない心性のもと、体験事実から眼を背け意図的に
逃避しようとしているのである。
3. さらには、軍上層部からの命令である以上、こ
との理非を問わず 忠実に 任務を遂行するには軍
人としては当然との居直りの論理で、自己正当化す
る人々もいる。それは天皇制国家の臣民・軍人とし
て正当性のもと、ますます信念化される。その立場
からは、
「戦争と医の倫理」の問題は始めから拒否さ
れ論外なこととして黙殺されている。
4. さらに深く究明すべき問題として、自国民に対
して実行できえない生体解剖という犯罪が、なぜ中
国人などに対して平然と執行しえたかという点であ
る。近代日本の政府(そして多くの日本国民)のア
ジア認識には、 脱亜入欧 意識と相次ぐ対外戦争の
勝利による優越感と他民族蔑視の歴史観・アジア観
が、深く浸透していた。この歪んだ意識をますます
増幅させていったのが、大日本帝国陸軍軍医として
の皇軍意識とその使命感にあったと思われる。
5. 軍医として生体解剖に参加していた時点にお
いては、その非人間的な犯罪に何らの疑問をもたな
かったにもかかわらず、戦後、医師の根源的使命が
人間の尊厳性の確立にあることを自覚し、悔恨の念
を深くした元軍医は少なからずいたと考えられる。
しかしその多くは、身の保全その他の理由で自ら告
白し社会的発言をすることはなかった。
6. そうした医師として個人的な贖罪意識で良心
的に生きようとした人とは別に、この犯罪的な生体
解剖は中国での侵略戦争の中で生じた軍の組織的犯
罪であるとして国家責任を厳しく問うたのは、戦後
の湯浅元軍医の謝罪と反戦平和のための言動である。
- 53
「戦争と医の倫理」を究明する際の重要な問題提示
が、そこにあると考えられる。
7. さらに、この問題の根本解決のための一助とし
て、すでに欧米などでの一部で認められている良心
的兵役拒否の自由を国家として保障することが望ま
れる。そして入隊した場合でも、国際法に違反する
非人道的犯罪に対して上官への不同意権・抗命権を
確立することは、歴史的な緊急課題である。莇昭三
氏が『戦争と医療』で紹介している第一次世界大戦
時のライプチヒ最高裁判所の判例ならびに第二次世
界大戦後のニュルンベルグ国際軍事裁判所の判決に
照らせば、不同意権・抗命権の問題は、非人道的な
戦争犯罪防止のための必須要件といえるのではない
だろうか。
日本国民(とくに軍医)の戦争体験認識を「戦争
と罪責」
「戦争と医の倫理」の視点から、個別具体的
に解明することが、今後の研究課題となっている。
われわれは、郭教諭の詳しい説明にいくつかの質
問を行なったが、郭氏は次のように回答した。①、
写真の骨片は現在の校舎が新築された時に出土した
もの。②、生体手術演習についての証言資料は、山
西省監察院档案室と山西省高等法院档案室にある。
③、道路を渡っての向かいの校舎敷地内にも一昨年
6月に遺骨が発見された。④、陸軍病院の手術場が
あると思われる個所が現在工事中であるが、残念な
がら工事を中断して発掘作業に入ることはできない。
郭教諭の説明を受けた後、校舎とやや離れた陸軍
病院の唯一の残存物である「洗濯舎屋」
(兼将校の入
浴室)を見学した。間口 12m、奥行き 7m位の赤レ
ンガ造りの平屋であった。郭氏は説明の中で、これ
を保管したいが、どうなるか気がかりであるとのこ
とであった。
潞安陸軍病院の調査のために医学・医療関係者が
訪問したのは初めてとのことで、われわれを見送る
ために学校長を始め数人の教職員がこころから手を
振って別れを惜しんでいたことが、深く印象に残っ
た。
この長治二中の人たち、そして生体解剖させられ
た犠牲者とその遺族の苦悩と悲しみ・怒りの深さを
思うとき、日本人として直接何ができるのだろうか
と考えさせられた。本会員である末永恵子氏はこの
点に強く思いを馳せ、長治市外事弁公室を通じて山
西省と交渉中とのことであるが、目下のところ具体
的にはどのような結果になるかは未確定とのことで
ある。犠牲者の遺族の方々や地域住民にとって、最
適な形での実現を心から期待したい。その際、日本
政府、そしてわれわれ日本人として何らかの具体的
な協力が望まれる。
なお、この項の作成に当たっては、会員莇昭三氏
と末永恵子氏から訪問時の記録の提供を受けた。記
して感謝の意を表したい。
(一戸富士雄)
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 8(2)
March, 2008
山西省図書館訪問
件を閲覧・複写収集した。 (蒐集した資料の目録
は、作成しているので必要であれば参加者に問い合
わせをしてください)
・山西省図書館案内書による概略
図書館延べ面積 2000 余㎡
職員 170 人
山西省図書館独自情報、三晋文化情報網、山西省
図書館子供文化情報のセンターである。
各種文献、蔵書 240 余万冊(件)、孤本、珍本も
ある。
利用者 年平均 50 万人
(以上、岡田麗江)
朝 、8:30 マイクロバスにて出発し、9:30 到着。
太原市解放南路を少し入ったところにあった。丁度、
図書館の横の門からぞろぞろと高校生らしい学生た
ちが出てきた所であった。中国は秋期9月入学制ら
しく、次の受験にそなへて省が学習を援助している
とのことで、省図書館で実施しており、丁度、休憩
時間のようであった。
私たちは、すぐに私たち用にとわざわざ準備され
た1階の廣い閲覧室に通され、午前中、準備して頂
いていた資料を閲覧・複写した。
・中文、日文書籍(殆ど中文)25冊、 新聞 1
山西省档案館
同档案館(档案とは公文書を意味し、档案館は日
本で言う公文書館にあたる)は、山西省の省都太原
市朝阳街にある。衣料の卸売り商店が立ち並ぶ繁華
街の通りに面する一画にあるが、一歩館内に入ると
静寂に包まれていた。9月3日、閲覧室で見かけた
のは、従軍「慰安婦」の調査に九州から来たという
2名の日本人研究者とその通訳の3名のみであった。
事前に外事弁公室から閲覧申請をしてもらっていた
にもかかわらず、この日は史料をほとんど見せても
らえなかった。これは、九州の研究者も同様であっ
た。
翌4日に再び訪問し、閲覧を申請した。しかし、
戦争と医学に関連した史料で閲覧できたのは以下の
2点のみであった(書誌情報は、土屋貴志氏のメモ
による)。
・『陸軍衛生部将校陣中必携』
(著者、発行所、発行年等不明、表紙すりきれてい
て題名と「陸軍……」以外読めず、てのひら大、表
紙は深緑の布張り、和綴じ、厚さ約 1.5cm)
(整理番
号:T325、日偽事第 325 号)
・『山西省豫防虎疫報告書』
(山西省防疫委員会編 民国 27 年 中国語)
(整理
番号 T362、日偽字第 325 号)
この日の滞在時間は長くはとれず、また日文資料の
目録も一部しか見せてもらえなかったので、同館の
保存する戦争と医学関連資料のおおまかな内容も不
明のままである。
しかし、同館の Web サイト http://www.saac.gov.
cn/
dags/txt/2005-07/04/content_78498.htm に
よると恐らく戦時中の興味深い資料が保存されてい
ると推測できる。以下、このサイト中の文章を抄訳
しつつこの档案館の資料を概観したい。
同館が收藏する档案は、425 分野,278214 件であ
る。その資料群は大きく次のように4分割できる。
①民国档案(1911∼1949 年)閻錫山统治下の政治、
経済、軍事、文化の資料。閻錫山日記、蒋介石、李
宗仁、何応欽らの閻錫山宛て書簡や抗日組織の資料
54
もある。
②革命歴史档案(1922∼1949 年)革命根据地であっ
たことを反映する、政治、経済、軍事、科学技術、
教育、文化等の資料。毛澤東、周恩来、劉少奇、朱
德、劉伯承、鄧小平の関係資料もある。
③日文档案(1937∼1945 年),当時の山西省政権の
施政綱領、経済統制、資源調査、治安、アヘン栽培
方面の資料。日本の侵略者が山西人民を使役し、山
西の財富を掠奪し、山西の民族のなりわいを破壊し
た罪行の証拠である。
④中華人民共和国時期档案(1949∼1983 年)中共山
西省委、省人民政府、省人大、省政協などの資料が
ある。
以上が、同館が紹介する資料の概要の抄訳である。
③に分類される資料、すなわち日中戦争当時山西省
を支配した日本軍と日本企業の資料の中に、当時の
医学・医療・衛生関係の資料を確認し、閲覧するこ
とが次回の課題となろう。
さて、今回は、同館の責任者とも直接話ができず、
資料の出納担当者の対応に終始した。権限のない担
当者は、多くの資料を書庫から持ち出すことはでき
ない。したがって、これは外国人に利用に対してな
かなか、厳しい対応であると率直に感じた。
さて、このような外国人による中国の档案館利用
は、なぜ困難が伴うのか。この問題は、これまでに
訪問した黒竜江省・遼寧省・吉林省の档案館の閲覧
室が閑散としていた事実から推測すると、決して外
国人に対してのみの問題ではないかもしれない。
しかし、中国には資料の管理収集・整理・保存・
利用について定めた中華人民共和国档案法(1987 年
9 月 5 日成立、1996 年 7 月 5 日修正) とその運用に
関わる「中華人民共和国档案法実施弁法」(1990 年
10 月 24 日国務院批准 1990 年 11 月 19 日国家档案局
令第 1 号発布、1999 年 5 月 5 日国務院批准修訂、1999
年 6 月 7 日国家档案局令第 5 号重新発布)が存在す
る。
その後者の法律の条文「第四章 档案の利用と公
開」の中で、基本的に档案公開の開始時期は、档案
の作成された日より30年後となっている。したが
って日中戦争時の資料はおおむね公開の対象と言え
る。しかし、但し書きとして「档案中に国防、外交、
公安、国家安全等の国家の重大利益に関わる档案に
ついては,成立以来 30 年を経過したとしても、档案
館が、档案の公開は不適切であると認めた場合には、
上級の档案行政管理部門の批准を経て、社会公開の
延期を行うことができる」としている。档案の自国
民の利用については、
「中華人民共和国公民と組織は、
紹介状や職業証・身分証等合法的証明を持参の上,
公開された档案を利用できる」とある。しばしば、
中国の一般国民も档案館を利用できないという声を
中国国内のみならず日本でも聞くことがあるが、少
なくとも法的には中国人民には利用の権利が保障さ
れていることになる。
それから、注目される外国人に対する公開である
が、次のような条文がある。
外国人あるいは外国の組織については、中国が既
に公開している档案を中国の関係主管部門の紹介を
経て、保存している档案館の同意のもとに利用でき
る。
これを、解釈すれば中国内のしかるべき機関を通じ
て档案館に利用申請を行えば、档案館の裁量によっ
て閲覧が可能となるということである。まず、この
条文は外国人の利用を予定したものであり、
「外国人
は基本的に閲覧禁止」というような巷説を否定する
ものであることが確認できる。そのうえで、このよ
うな条文があるにもかかわらず、依然として档案館
の裁量の領域で外国人に対する門戸開放は進んでい
ないと言えよう。もちろん各档案館を統括する上級
レベルの意志も大きく影響しているであろうが。
以上のように外国人の利用について、法律は用意
されている。しかし、档案館の現場の実態は、遠方
から来た外国人利用者に対して必ずしも門戸を開い
ているとは言えない。これまで筆者が経験した他の
档案館で受けた対応――例えば、訪問の初回は、資
料は見せず、訪問回数が増えると見せてくれるよう
になる、あるいは、特定の日本人研究者・マスコミ
には見せるが、他の研究者にはほとんど見せない―
―を参照すれば、档案館の中に、法律の条文に従っ
て動くというより、相手によって対応を変えるとい
う側面があることは否定できない。
しかし、当然のことながら歴史事実を確定するた
めには、史料の裏付けが絶対に必要である。史料を
公開することにより歴史研究が進むだけでなく、日
中の研究者が相互に同じ史料を使いながら、歴史認
識を深めることは日中友好に寄与することにつなが
る。そして、日中双方の政府に言えることだが、い
ろいろな分野で情報公開をすすめることは、民主化
の推進の表明には欠かせない課題である。そのよう
な意味で、今後ますますの史料公開を希望したい。
(法律の条文は、中華人民共和国国家档案局HP
http://www.saac.gov.cn/zcfg/node_1670.htm より、
末永翻訳)
(以上、末永恵子)
山西省人民検察院
った。
帰国後、この『文芸作品』について湯浅謙氏に質問
したところ、裁判資料として準備された『戦犯筆供』
の下書き原稿とのことであった。また我々の対応に
あたった検察院の担当者によるとは、
「この下書きを
残し他の資料は中央に送られた」とのことである。
『戦犯筆供』の移動経路は不明であるが、現在は中
国第一歴史档案館に保存され、一部は刊行されてい
る。したがって、その『戦犯筆供』 の成り立ちを
知るための貴重な資料でもある。
日本の地方検察庁にあたり、建物は太原市の官庁
街の中に位置する。
ここには、かつて太原戦犯管理所に収容された戦
犯に関する史料があった。特に印象の深かった資料
を列挙したい。
・『罪犯名冊』
、すなわち太原戦犯管理所に収容され
た戦犯の名簿である。
・
『日本戦犯 文藝作品』戦犯の罪行記録である。各
戦犯が、戦時の殺人・強奪・生体解剖などの行為を
思い出しながら綴ったとみられる。その手書きの書
類がまとめて綴じられ、表紙には『日本戦犯 文藝
作品』と銘打たれている。綴じ込みの中には、付箋
がところどころに貼られ、戦犯を指導した者のコメ
ントが付されていた。いわゆる「認罪」の過程を示
す資料であり、どのように戦犯は学習したのかを垣
間見ることのできる資料である。また、別冊として
戦犯の文章を中文に訳した『(中文)文藝作品』もあ
太原での調査にあたっては、山西省対外友好協会
副処長張興業氏ならびに石素雲通訳、そして終始同
行していただいた黄嵐庭氏にたいへんお世話になっ
た。
(以上、末永恵子)
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ご案内
定期会務総会(第 9 回)
15 年戦争と日本の医学医療研究会(第 24 回)
日時 2008 年 3 月 23 日(日)11:00 ̶ 17:00
会場 京都大学医学部管理棟2階基礎第2講義室 京都駅から市バス 206 番東回り約 40 分、近衛通り下車
四条河原町、四条京阪から市バス 201 番東回り約 25 分近衛通り下車
資料代 1000 円
第 9 回会務総会(非会員の方は傍聴できます)11:00 ̶ 12:00
記念講演 13:00 ̶ 15:30
731部隊世界遺産申請登録の研究
金 成民
哈爾濱市社会科学院 731研究所 所長
金成民所長は約 20 年に及ぶ731部隊に関する研究をまとめられた中国語著作「日本軍の細菌戦」を5月
に出版される予定です。また、金成民所長は731部隊遺跡をユネスコの世界遺産への登録のために取り組ん
でこられました。これらの研究成果を、黒竜江省テレビ局を引率しての訪日調査の機会に、ご紹介頂きます。
中日通訳者を準備しますので活発な意見交換をお願いします。
一般演題 15:30 ̶ 16:30
戦時中の『科学動員』と旧制『国立金沢医科大学』
莇 昭三 金沢・城北病院
日本学術振興会科学研究費助成「日本における医学研究倫理学の基盤構築を目指す歴史的研究」実績報告
土屋貴志 大阪市立大学
金成民所長を囲む懇親会 17:30-20:00
連絡先:〒520-2192 大津市瀬田月輪町 滋賀医科大学社会医学講座予防医学部門
15 年戦争と日本の医学医療研究会 事務局 西山勝夫
E-mail: [email protected] FAX 077-548-2189
編集後記
例年であれば各巻の 2 号は 5 月発行であるが、予定をかなり早めての発行となった。本誌発行が予定よ
りも遅れることはしばしばであったが、早くなるのは今回が初めてである。それは「日本における医学研
究倫理学の基盤構築を目指す歴史的研究」という題目で、3 年前に日本学術振興会科学研究費助成を受け
て、多くの会員が参画した始まった研究の期限が 3 月 31 日であることとと関わりがある。本号に掲載した
十五年戦争と日本の医学医療研究会「戦争と医学」第五次訪中記録は、同助成を受けて昨年 8 月末から 9
月初旬にかけて行われた訪中調査関するものであったから、期限内に公刊することが望ましかったからで
ある。第 5 次訪中では哈爾濱市社会科学院を初めて訪問し、金成民 731 研究所所長等と意見交換したが、
そのことが契機になって、3 月に黒竜江書テレビ局取材班を引率して訪日したいという要請が同氏から入
ってきて、その対応に追われる中での本号の編集作業となった。このような事情で。掲載したい写真など
があったが、あきらめざるを得なかった。
また、本号では、昨年 4 月 8 日に、大阪で開催された「第 27 回日本医学会総会出展『戦争と医学』展実
行委員会主催の国際シンポジウム「戦争と医の倫理」の特集の掲載を何とかおこなうことができた。この
特集は、一昨年同国際シンポジウムの準備が始まったことからの目論見であり、できるだけ早く本誌で発
行しなけらばならないという事情があった。同シンポジウムの日本語ブックレットは前号でもお知らせし
たように既にかもがわ出版から出さているが、日中英 3 カ国版については、本誌への掲載を同実行委員会
から承諾を得ていたものである。経費や時間などの都合で、母国語以外の講演については、国際シンポジ
ウム直前に提出された原稿の翻訳版の域を超えたものにすることはできなかったが、同シンポジウムの国
際的意義の確認や評価を得るために敢えて本号で世に問うことにした。本誌に中国語の著作が掲載される
のは本号が初めてのことである。本号のような試みが、この分野での研究調査の国際協力に少しでも役立
てばというのが編集子の願いである。なお、英語版の校閲については浜野研三関西学院大学教授、中国語
版の校閲については、北海学園大学大学院生の張健華さんに大変なお世話になったことをここに記し深謝
の意を表したい。
投
稿
規
定
(2003年 3 月15日編集委員会)
会員の皆さんからの、論文・総説・随想・書評・資料解題などの積極的なご寄稿をお待ちしており
ます。その際には既刊号を参考にし、原稿には題目、キーワード、著者の氏名・肩書き・所属・連絡
先住所(以上は邦文、欧文)、電話・FAX・E-mail アドレスを記したものを先頭頁とし本文、参考文献
を記して下さい。2 万字以内を目安にレジュメ形式ではなく文章にして下さい。提出書式は、電子式
の場合はA4用紙に12ptで印刷したもの及びフロッピーディスク(フォーマット形式、使用ワープロソフ
トの種類・バージョンを記載の上)です。
手書きの場合は市販の400字詰原稿用紙に記入して下さい。なお図表はコピーしますので良質のもの
をお願いします。当分は手作りですので電子文書での寄稿にご協力の程を願います。
委員長
15年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
西山勝夫
副委員長 水野 洋
委員 若田 泰、末永恵子