暗黒経典4

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四章
1
次の朝、ドライブには絶好の爽やかな夏の朝であったが、秋葉は、まず自分の
アパートの近くにある杜宮のアパートを訪れた。
杜宮は、濃いグリーンのTシャツにブルージーンズという、いつもの軽装で待
っていた。後部座席に乗り込む杜宮に、秋葉が声を掛けた。
「おはよう、調子はどうだい」
秋葉の問に、杜宮は寡黙に答えた。
「ええ、良く眠れました」
「今日は、多分君に相当頑張ってもらわなけりゃいけないからねえ、なんと言っ
ても、君の超絶的なシャーマンとしての能力が我々の最大の武器だからね、しっ
かり頼むぜ」
秋葉の言葉にも、杜宮は微かに笑って頷くだけだった。
次に秋葉は陽子のアパートに回った。陽子も、白いポロシャツに、ブルーの綿
製のキュロットスカートという軽装で、アパートの前に出て待っていた。
「おはようございます」
明るい声で挨拶しながら、陽子は車に乗り込んできて、杜宮の隣に座った。
「おはよう、杜宮君、調子はどう」
陽子も秋葉と同じ事を聞くのに、ちょっと苦笑しながら杜宮は答えた。
「ええ、いいようです」
「そう、それは良かったわ。なんと言っても、今日の主役は杜宮君になる可能性
が強いもんね。ところで、朝ご飯は食べた?」
杜宮が、苦笑いしながら首を横に振るのに、陽子は、お姉さんぶって苦言を呈
した。
「やっぱりね、そんな所だと思ったのよ。だめよ、朝からちゃんと食べなきゃ」
言いながら、陽子は持参したバスケットから、ラップに包まれたサンドイッチ
を取りだし杜宮に渡した。
「はい、ちゃんと食べるのよ、コーヒーも有りますからね。先生、コーヒーは飲
みます?」
「ああ、貰おうかな、ついでに、僕にもサンドイッチを少しくれないか。僕も、
トーストを一枚かじって来ただけだからねえ」
陽子は、これだから男共は度し難い、という顔をしながらも、実はこういう場
合を予想して人数分作ってきたサンドイッチと、紙コップのコーヒーを、前の運
転席の秋葉に渡した。もっとも、さすがに秋葉も運転しながらの食事は難しいら
しく、もっぱらコーヒーを飲むことに一生懸命のようだ。
杜宮は、別に無愛想というのでもなく、にこにこしながら、しかし黙々とサン
ドイッチを食べている。そんな杜宮の態度は秋葉も陽子も慣れっこになっている
と見えて、特に話し掛けるでもなく、自分達は馬鹿話に打ち興じている。
こうして、秋葉は相沢の自宅を陽子と杜宮を伴って訪れた。車にはあまり詳し
くない相沢には種類の見当がつかない大型の四輪駆動車を駆ってで有る。
このランドクルーザーは、表向きは考古学者として、野外調査にあたる時、四
輪駆動車で野外キャンプの準備も整った車を持っているのが便利だ、という理由
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で準備してある物だが、実際の目的は違った。これは、大学の考古学研究室の助
教授、という表の顔の裏に、その昔、パレスチナにおける謀略戦で、ユダヤ問題
のつけを、パレスチナのアラブ人達に押し付けようとする、米国を始めとする勢
力に、ゲリラ的な抵抗運動をした過去を持つ秋葉が、日本でも大きな力を持つC
IAやDIAに何時寝込みを襲われても、逃げられるように準備した物である。
一ヵ月やそこらは、日本中を転々と出来るように、着替えや寝袋の他に非常食糧
もたっぷり積み込み、場合によっては国外脱出も可能なように、数百万円の現金
も隠してあった。
あいも変わらず律儀に半袖の白Yシャツにレジメンタルのネクタイをきっちり
と締め、鼻の頭に汗を浮かべている相沢を助手席に乗せて、一行は出発した。
サンドイッチがまだ有ったので、一人になってからは、朝食をちゃんと食べな
くなった相沢も、陽子手製のサンドイッチをご馳走になった。
取りあえず大通りに出て、巡航速度になると相沢は秋葉に尋ねた。
「さてと、今日は何処に行こうとしているのかな、一体、これからどうする積も
りなんだい」
「うん、今緊急の課題は、取り敢えず君のその常軌を逸した憔悴ぶりの原因を知
り、その原因を取り除くことだ。そのためにはまずその方法を知らなくちゃいけ
ない。それで、取りあえず寄らなくちゃいけないのは、茨城県の鹿島神宮だ。僕
の推測だと、そこにクトゥルー達のような、反自然の存在に対抗する手段のヒン
トと、ことによったらその手段そのものが有ると思うんだ。宮沢賢治の『原体剣
舞連』は知っているかい」
秋葉のあいも変わらずすぐに飛躍する問に、相沢は狼狽しながら頷いた。この
悍しい、恐怖の夜の夢に、宮沢賢治の美しい詩がいったい何の関係を持つのだろ
う。
「それなら、次の一節も知っているね。
むかし達谷の悪路王
まっくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ
一行置いて、
青い仮面このこけおどし
太刀を浴びてはいっぷかぷ
夜風の底の蜘蛛をどり
胃袋はいてぎつたぎた
というんだ」
相沢も、暗唱こそしていないものの、この一節も読んだ覚えはあった。陽子が、
後部座席から声を掛けた。
「先生、原体剣舞連なら私も大好きな詩ですけど、相沢先生の、そのひどい衰弱
ぶりと、いったい何の関係が有るんですの」
「うん、この一節に出てきた『悪路王』だけどね、一体何だか見当が着くかい」
日本史には、あまり詳しくないはずの陽子が、すっとんきょな声を上げて自慢
そうに言った。
「あっ、私それなんかで読んだことが有ります。確か、大和朝廷に反乱を起こし
て、坂上田村麻呂に平定された蝦夷の首領の、えーと、なんて言ったかな、そう
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そう、アテルイとかいう人物だった、というんじゃありません」
杜宮がにっこりと笑った。知っていたものらしい。秋葉も、感心したように言
った。
「おお、良く知っているね。ちょっと、反乱とか、平定とか、大和朝廷側の、征
服者的発想にとらわれているのが気になるけど、大筋はそういうことだ」
「その、蝦夷のアテルイと鹿島神宮とが、何の関係が有るんだい」
相沢が、如何にも不思議そうに尋ねた。ちょっと関係の見当が付かなかったの
だ。
「うん、まずね、さっき陽子君の征服者側の論理が気になる、と言ったよね。そ
こから話が始まるんで長くなるが、どうせ道中は長いから構わないか」
秋葉がこう前置きをして、お得意の大演説を始めた。
「大和朝廷は、蝦夷の側から見れば憎むべき征服者であることは分かるよね。同
じ征服者と言っても、単なる政治的な征服者では無い。むしろ、文化的な征服者
と言えるんだよ。いいかい、大事なことだから良く聞いてくれよ。つまりね、大
和朝廷は、弥生時代以降の農耕文化の体現者なのだと考えるんだよ。それに対し
て、蝦夷達は、縄文時代以来の狩猟・採集文化の、最後の体現者といえるんだ。
これは分かるよね」
三人は、一様に頷いた。しかし、問題をこんな角度から見たことのない相沢に
は、なかなか新鮮に響く議論だった。
「さて、現代の工業社会に居る我々は、良く田舎の田園風景を見て、ああ自然は
いいなあ、なんて言うよね。でもね、あれは大きな間違いなんだ。田園風景は、
決して自然な風景ではない。あれは、完璧に人間によって単一の生態系にされて
しまった、言わば、最も不自然な風景の一つなのだよ。そういう生態学的な意味
では、産業革命以降の工場風景も、それ以前の田園風景も、実は大差の無い不自
然な風景なんだよ」
「おいおい、話はいったい何処に行くんだい」
新鮮な話題に興味を引かれながらも、取り留めもなく広がっていきそうな秋葉
の話について行けなくなって、相沢が口を挟んだ。
「まあ、待てよ、話はちゃんと繋がるんだから。いいかい、世界中何処でもそう
だが、狩猟採集経済までは、おそらく人間は真に自然の一部だったんだ。それが、
農耕文明以降、人間は自然に対する征服者になっていく。大和朝廷と、アテルイ
の率いる蝦夷の対立は、日本に置ける自然と一体化する文化と、自然を征服する
文化との最後の対立だったんだ。アテルイ以後は、ついに農耕文化の征服に異を
唱えるものは居なくなってしまう。自然と一体化していく文化は、ついに日本の
土地から姿を消すんだよ」
三人は、ゴルフ場開発や工場などと結び付けて、とかく現代にのみ特有な現象
と考え勝ちな公害とか、自然破壊とかいう問題が、意外に根の深い構造を持って
いることを考えて、複雑な感慨に襲われた。
「さて、ここから、宮沢賢治と結び付いていくんだ。これは前にも言ったことが
有ると思うけど、賢治は良く言われるように、自然と一体化できる、言わば先祖
帰りのような超常感覚の持ち主だということになっている。けれどね、そういう
自然と一体化できる超常的な感覚は、農耕以前の狩猟採集経済のときには、人間
の誰しもが持っていた感覚、言ってみれば通常感覚だったんじゃ無いかと僕は思
っているんだ」
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秋葉がこう言った時、ちょうど二十四時間営業のファミリーレストランの看板
が目に入ったので、秋葉は、そのパーキングエリアに車を入れた。
「さてと、コーヒーでも飲みながら、小休止と行こう。どうせ、鹿島神宮には宝
物館が開く時間まで着けばいいんだ。時間はたっぷりある」
秋葉はこう言うと、さっさと店の中に入っていった。そこで、相沢と陽子と杜
宮も秋葉の後に続いた。秋葉は、運転しながらではさっきのサンドイッチをあま
り食べられなかったと見えて、ウェイトレスに朝からハンバーグを注文したが、
相沢は食欲が無く、コーヒーだけにした。それで、陽子の方はレモンティーを注
文し、若くて食欲旺盛な杜宮も、さっきのサンドイッチだけでは足りなかったと
見えて、トーストにカフェオレという一番まっとうな朝食を注文した。
「さて、話の続きだけどね、君は、ライオンや狼に狙われた鹿などが、ほとんど
覚悟を決めて食べられるように見える、という話を前にしたのを憶えているかい」
相沢は、頷いた。陽子も杜宮も、今度の旅行の目的と話がどこで繋がるのか、
興味深そうな顔をして身を乗り出した。
「これも前に聞かせたことのある議論の蒸し返しだけどね、本来、生き物が他の
生き物に食われることが絶対の悪なら、この世は、絶対の地獄になってしまう。
宮沢賢治が『よだかの星』何かで展開した議論だ。しかし、もしも、生き物が他
の生き物に食われるとき、別にそれを不幸だと思わないとしたらどうなる。この
世界は、有るがままで一つのコスモスになれる、と前にも言ったよね。昔、人間
も狩猟採集をしていて、本当に自然と一体化していたときは、今日自分が他の生
き物を食べて、明日は同じ自分が他の生き物に食べられる、ということを、自然
な循環として理解していたはずだ、ということだよ。こうして宇宙の大循環の中
に帰っていくことが出来た人々には、『個体』の牢獄に閉じ込められたものが感
じる、”死“への恐怖もなかったはずなんだ」
秋葉は、ハンバーグが目の前に出されても、それをほおばりながら演説を続け
た。陽子が、いたずらっぽく目を輝かせながら茶茶を入れた。
「それで、今先生が食べているハンバーグの肉も、自然の大循環の中に帰って行
くわけですね」
秋葉は、なおも平然とハンバーグを口に運びながら答えた。
「うむ、当然だよ。そして、数十年後には、僕自身も自然の大循環の中に帰って
行くのさ。ところでこれはね、今日のこれからの目的と、見かけほど無関係な話
じゃないんだ」
「話は、どういう風に繋がって行くんですか?」
何時もは寡黙な杜宮が、珍しく興味を露にして聞いた。
「うん、これは、杜宮にはまだ話していなかったかな?例の蠱魅騒鳴経を読んで
行くと、クトゥルーの邪神達は、今言った自然の大循環に反するもの、真のイデ
アへの、無限の上昇を続ける螺旋の漸近線を何処までも登り続けて行くことを止
め、努力を停止したために、無限に堕落して行った存在、という風に考えること
が出来そうなんだ。するとねえ、例の火焔土器にメッセージをこめた、旧石器時
代の大シャーマン達はもとより、縄文文化や、その継承者である、アテルイ達と
も反目し合う存在という風に考えることが出来る」
「それは、こういうことかな。道元なんかが『仏』は、久遠の過去に悟りを開い
て成仏したが、そのお蔭で、本来『仏性』を持つ我々も、その『仏性』に自足す
ることなく、成仏に向けて永遠に努力しなければならない、という風な事を言っ
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てるよね。クトゥルーの邪神達と言うのは、そういう無限の解脱への努力を途中
で放棄したために、堕落してしまった、と言うことかい」
前に、秋葉にこの議論を聞かされてから、この問題を自分なりに良く考えて、
道元と関連づけて納得し始めていた相沢が聞いた。
「そう、まさにその通りさ。そうか、そんな事を、道元が言っていたよな」
秋葉は、さすがは当代一流の仏教学者だ、と感心しながら言った。
「しかし、どんな大シャーマンだったのか知らないが、たかが旧石器時代の人間
に、仏教哲学でも最も発達した形での『仏性』論と同じ議論を、展開できたとは
思えないんだけどねえ」
「うん、その辺は、我々の近代的な考え方が、一種の足かせになって、我々の目
を真実から遠ざけているのさ」
相沢のもっともな疑問に、秋葉が頷きながら答えた。
「いいかい、良く考えてご覧よ。我々の子共の頃は、原始的な未開種族は、抽象
的に考える事なんか出来ないんだ、それだけ、頭脳そのものが幼いんだ、という
風に考えられていただろう。ところが、グリオールや、レヴィ・ストロースなん
かの文化人類学者の手で、いわゆる未開種族は、抽象的な思考の枠組みが近代人
と違うだけで、抽象的な思考能力のレベルそのものは、近代人のそれとなんら違
う所はない、ということが明かにされただろう」
「なるほど、旧石器時代の人間もそれとおんなじと言う訳か。抽象的な思考能力
では、現代人と変わらなかったと、君は考えてるんだね」
相沢が、納得しながら言うのに、秋葉はさらに意外なことを言い出した。
「いや、過激な意見かも知れないけど、物質的な事に関わり合う度合いが少ない
分、かえって昔の人間の方が、現代の人間よりも抽象的な思考能力では上だった
可能性もあると僕は思っているんだ」
「うーむ」
相沢は唸った。さすがにそこまで行くと、簡単には頷きかねるものが有るが、
言われている趣旨に、説得力が有ることも否めない。
陽子と杜宮は、さすがに当代の超一流学者二人の議論に付いて行くのが精いっ
ぱいで、目を白黒させて聞いている。
「ちょっと話がずれちゃったね。元に戻そう。要するにね、僕の考えでは、旧石
器時代からアテルイ達の時代まで、連綿として大自然と交流し、自然が語る一種
の『真言』に耳を傾けながら真の解脱を目指す精神が続いていたと思うんだ。こ
こでは、修験道などに吸収された、日本古来の山岳信仰なんかを考えて貰っても
いい。そういう精神に反対するものとして、クトゥルーの邪神達を考えることが
出来ると思っているんだ」
杜宮の瞳がキラリと光り、何事かを納得するように、深く頷いた。
「そうしてね、前にもちょっと言ったが、この火焔土器を生み出した大シャーマ
ンは、長年の修業の末に真の解脱・悟りに到達し、本来ならそれが人類全体の悟
りに繋がるはずだったんだ。道元にも、一つの梅の花が咲けば、それが全ての梅
の花の開花を示すように、一人の悟りは、万人の悟りに通じて行く、といった議
論が有るだろう。ところが、意外な障害が現れてそれが出来なくなり、人類が物
質文明の牢獄に落ち込んでいくことが、ある意味で必要になってしまった。つま
り、真の敵の目を欺くためにそういうことが必要になったという事情が有ったら
しい。このことは、火焔土器のメッセージを読みとって行くと分かる。そして、
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その事情というのが、いわゆる旧支配者、クトゥルーの邪神達と何らかの関係を
持っていたんじゃ無いかというのが、最近僕が到達した推論なんだよ」
「つまり、先生は、旧石器時代から連綿と続く、自然と通底する精神と、クトゥ
ルー達とは、対立する存在だと考えているんですね」
杜宮が、珍しく口を出した。
「うん、そうだ。彼ら、旧支配者達は、縄文や、旧石器時代の『自然の無限の大
循環』に抱かれてあることを肯定し、『個』の牢獄に閉じ込められずに、他の意
識と通底すること、を当然としていた魂とは相いれないものだったんだよ。そし
て、この大シャーマンの時代には、まだクトゥルー達と前面対決するには、機が
熟していなかったんじゃなかろうか。今の僕達には、この土器に込められたメッ
セージは、これ以上詳しくは読み解くことが出来ない。漠然としたイメージの形
でしか読めないよね。本当は、もっと具体的なメッセージが組み込まれて居るよ
うなんだがね、そこまではまだ読めない。ただね、相沢君の、その衰弱ぶりは、
とにかくなんらかの形で蠱魅騒鳴経を媒介にしてクトゥルーの邪神達に関係有り
そうだ。それなら、それに対抗する具体的な方法として、こうして自然と通底し
て生きた人々の代表に登場願うのが一番なんじゃないかと思うんだ」
「そんな都合のいい人物が居るんですの?」
陽子が、興味津々という感じで尋ねた。みんな、秋葉が今日のドライブで、一
体何処を具体的な目的地としているのか、全く知らないのだ。
「うん、それが『悪路王』という訳さ。さっき旧石器時代からの伝統を連綿と引
き継いだ最後の者達が、アテルイに率いられる蝦夷達だ、と言っただろう。それ
なら、自然と通底する伝統の継承者であり、しかも戦う憤怒神である『悪路王』
は、さっきから我々が求めている人物として一番相応しいんじゃないだろうか」
「ええ、アテルイの化身としての『悪路王』がそれに相応しい人物だということ
は分かりますけど、『悪路王』なんて、とっくの昔に死んでしまっているんでし
ょう。そんな人物に、どうやって頼るんですの」
陽子が、ちょっと意地の悪い表情で、からかうように秋葉を問い詰めた。
「うん、それがね、その悪路王の首が、これから行こうという鹿島神宮にあるん
だよ」
「悪路王の首だって!」
相沢が驚いたように叫び、陽子も息を呑んだ。杜宮は、いつもの神秘的で静か
な表情を崩さない。
「そう、鹿島神宮には、江戸時代初期の頃から、悪路王の首と称される像が有る
んだ」
「ああ、そうか、彫像が有るわけだね」
相沢が、何がなし、ほっとしたような口調で言った。陽子も、ちょっと詰めて
いた息をふっと抜いた。
「うん、そうだよ。まさか、本物の首が有るわけじゃないぜ。ただね、それがど
ういう経緯でそこにあるのかは良く分かっていないんだ。おまけに、その首が、
いかにも古代の蝦夷の面影を良く伝えていると思われるのに、何を参考にして作
られたのかも良く分からないんだ。しかし、それでも僕はね、農耕による物質文
明の侵略に最後まで抵抗した、縄文の魂の系譜を引く最後の生き残り、アテルイ
をモデルにしたといわれる悪路王の首に、結構期待しているんだ。縄文の魂に反
する、この蠱魅騒鳴経の悪影響に対して、対抗する具体的な方法になるか、少な
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くとも具体的な方法のヒントを、与えてくれるんじゃないかと思ってね」
「でも、そんな由来も分からない、ただの彫像にそんな霊力が期待出来るんです
の」
陽子が、小悪魔めいた、ちょっと悪戯っぽい笑顔に、目を煌めかせながら聞い
た。
「ああ、以前に、土御門の先祖達が、昔日本に渡ってきた蠱魅騒鳴経を封印する
のにも、聖徳太子の霊力を使っているだろう。日本の表の権力には、不遇に扱わ
れながら、裏で日本を守護している大神霊達、僕は悪路王もその一人だと思って
いるんだ。そう意味では将門の首塚なんかも候補になるが、縄文の魂との交感、
と言う点で、やっぱりアテルイ・悪路王の首の方がふさわしいだろうと思うんだ」
相沢は、あまりにも途方もない話なので、かえって納得してしまった。第一、
この事件全体が普通一般の常識では考えられない異常事の連続だ。それなら、ど
んな突拍子もない話でも、受け入れて、今は秋葉について行くしかないと覚悟を
決めたのだ。陽子も、さすがに意地悪な表情を引っ込め、納得顔になった。杜宮
の神秘な湖のような表情は、その湖面にさざなみ一つ立てていない。
「さてと、僕はちょっと電話を掛けてくるよ。折角鹿島まで出かけるんなら、出
来ればついでに見ておきたいものが有るからね」
秋葉が、電話を掛けに席を立つと、相沢は陽子に話しかけた。
「どう思う、今の話。僕はあんまり突拍子もない話なんで、半信半疑なんだが、
とにかく今は秋葉君を信じていくしか方法が無いからね」
陽子は、そんな相沢に同情するような目を向けて言った。
「はい、私は実を言うと、秋葉先生がこの土器を手に入れた経緯と、その後の解
読に関わっているんです。それで、今みたいな、突拍子もない話も良く分かって
いるんです。もっとも杜宮君はあれの発見者だし、シャーマンのメッセージを読
み取るのにも随分と力が有ったから、今みたいな話は私なんかより抵抗無いんじ
ゃない」
杜宮は、いつものどこか神秘的な微笑を浮かべながら頷いた。相沢は頭を抱え、
ため息を一つついた。
「いやはや、僕の愛する実証の世界は、また随分と僕から遠くに離れて行ってし
まったもんだなあ」
慨嘆しながら相沢が窓から外を見ると、これから行楽にでも出かけるらしい家
族連れが、大形のワンボックスカーで駐車場に入ってくるのが見えた。ドアを開
けて、七∼八歳の女の子が飛び出し、続いて雑種の犬が一匹飛び出してきた。そ
の犬と女の子がじゃれあう歓声が、窓ガラスを通してレストランの中まで響いて
くるような錯覚に襲われる。その光景に、相沢はしびれるような懐かしさを覚え
た。
秋葉が帰ってきた。
「残念ながら、もう一つの方は、やはり今日は無理らしい。さあ、腹ごしらえも
終ったところで、出発するとするか」
四人がレジに行くと、入れ代わりにさっきの家族連れが入ってきた。犬は、車
の中に置いてきたらしく、女の子の祖父母に両親、そして弟の六人連れだった。
相沢は、彼らの今日一日が、平和で健やかな楽しさに満ちたものであることを、
痛切に願った。
四人は再びランドクルーザーに乗り、出発した。
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「しかし、我々のそばに杜宮が居て良かったよ。今度の旅では、彼のその神秘と
交感出来る能力が、もの凄く重要なものになると思うんだ」
秋葉の言葉を無視するように、杜宮は黙って窓の外を見ている。相沢は、秋葉
ほどの者が、それほど高く評価する、まだ少年と言ってもいいような若者に、ち
ょっと興味を覚えて、後ろを振り返り、その横顔を盗み見た。
一端高速道路に乗ってしまうと、後は鹿島神宮まで一直線のドライブだ。その
間、相沢は、重なる神経の緊張に疲労が重なったのか、助手席でうつらうつらし
始めた。陽子と洸一も、ほとんどしゃべらなかったので、秋葉は今日一日の予定
を反芻しながら、慎重に運転した。
鹿島神宮に近付いたところで相沢は目を醒ました。そして、ちょっと気になっ
ていたさっきの秋葉の電話について尋ねた。
「うん、実はね、この茨城県にはもうひとつ、鹿島神社というのがあってね、こ
っちにも悪路王の首が伝えられているんだ。ただ、こっちは常に一般に公開され
ているわけじゃ無くてね、さっき電話で聞いてみたんだが、やっぱり今回は諦め
るしかなさそうだ。そっちの首は、実際に切られてミイラ化した首をモデルにし
たという言い伝えが有るもので、かなり凄いものらしいんだけどね、実はそっち
は僕もまだ見たことがないんだ」
「ミイラですか?」
珍しく、杜宮が興味を引かれたらしく、話に乗ってきた。
そんな杜宮を見て、秋葉がはっと気が付いたように言った。
「そうか、杜宮君の出身地は、日本のミイラの特産地だったな」
「ええ、そうですけど、特産地って言うのは、ちょっとひどい言い方ですね」
杜宮が苦笑しながら、頷いた。
「ミイラって、平泉の、奥州藤原氏ですか。あれ、でも杜宮君の出身地は、あっ
ちの方じゃ有りませんよね」
陽子が、頓珍漢なことを言って、満座の爆笑を買った。陽子は、ぷっくりとほ
っぺたを膨らませてすねている。
相沢が、笑いすぎの涙を拭きながら言った。
「いやいや、藤原三代のミイラも有名だけど、今話題になっているのは出羽三山
の即身仏のことですよ」
相沢は、暫く前から、その生命力に満ち溢れた、若々しい姿を眩しく見つめて
いた陽子の、意外にひょうきんな一面に、何か胸の中が爽やかになるような、一
陣の軽やかな風が吹き抜けたような思いを感じていた。
「いやはや、自称日本史には弱い陽子君だけあるね」
秋葉も、笑いながら言うのに、陽子が怪訝そうな顔で聞いた。
「でも、出羽三山の即身仏って、何ですの?」
「へえ、そうか、本当に全く知らないかねえ。結構、有名だと思うんだがねえ」
秋葉は、如何にも意外そうに言った。
「杜宮君、説明してやれよ。さすがに、あの辺に関しては、君の方が僕達よりも
詳しいんじゃないかい」
「ええ、いいですけど」
杜宮が、白い歯を見せた笑顔になりながら、おもむろに言った。その様子を見
て、相沢は、何処か神秘的に寡黙な若者の、やはり幼い少年らしい一面を見たよ
うに思った。
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「即身仏と言うのはですね、出羽三山、ことに奥の院の湯殿山を中心にして、ミ
イラ化した有徳の僧を仏として祀る事を言うんです。元は、空海の入定伝説から
展開してきた習俗なんですよね」
「死んだ後にミイラにしちゃうわけ?」
陽子が、如何にも気味悪そうに聞いた。
「いや、そういうのも有るんですけど、中心はですね、入峰修業と言うんですけ
ど、自分で山に篭って何年も木食行という、穀類を食べないで山菜などの山で採
れる物だけを食べる修業を行なった人が、なんと、自分が生きているうちに特別
に作られた塚の中に入って、要するに自発的に餓死しちゃうんですよ。木食行を
しているから、体中から余分な脂肪分と水分が無くなっていて、こうして餓死し
た上人を三年後に掘り出すと、自然にミイラ化しているという訳です」
「ええー、自分で、意志の力で餓死しちゃうわけ?なんか、物凄いのね」
びっくり仰天した陽子は、小さな声で叫んだ。
「そうです。こんな風にして即身仏になる人には、一世行人と言って、僧侶の身
分としては大した事のない、それも、元々は犯罪者だったりして、半分治外法権
に近かった山に逃げてきたような人が多いんです。そういう人達が、山での修業
中に目覚めて、飢饉なんかのときに、自分が仏となって世の人々を救おう、と発
心して即身仏を志すんです」
「へえー、そりゃ凄い!ジャンバル・ジャンなんか目じゃないわね」
陽子は素直に感心して、嘆声を上げた。
「でもね、先生、もしそうだとすると、この即身仏になった人達って、例の先生
の言う縄文の魂を受け継いだ人達として、とっても相応しいんじゃ有りません?」
陽子にこう言われて、秋葉も唸った。
「なるほどね、言われてみれば、修験道というのは、縄文、いや、おそらく旧石
器時代以来の山岳信仰に根差したものだし、出羽三山と言えば、熊野と並ぶ、修
験道の一大霊場だしね。その、即身仏になった人達だって、山に篭る修業の中で、
大自然と交流できるほどの心の転換が有ったから、犯罪者から、そんな発心を起
こすような回心が出来たんだろうからね。うむ、そのうち、出羽三山に行って、
色々と見聞を広めてくるのも、いい試みかも知れないね」
秋葉が。しきりに感心するのに、陽子は得意の絶頂にあって、しきりに自慢げ
に小鼻を動かしている。
やがて、車は鹿島神宮に着いたが、宝物殿が開くまでには今少しの時間が有っ
たので、秋葉は運転席で少し仮眠を取った。
2
宝物殿の開く時間になり、四人は大鳥居をくぐり、朱塗りの楼門を神域の中に
入った。朝の神域の森は青々とした緑に囲まれて深い静寂の中にあり、静かで近
寄り難いような荘厳さをたたえていた。
宝物殿に入る階段を登りながら、秋葉は小声で呪文を唱え、結界を張りめぐら
した。祈祷の最中に、他の人間に邪魔されないように、暫くの間他人が入ってこ
れないようにしたのである。
神宮宝物殿の一角に、悪路王の首はあった。それは一種異様な迫力のある、怪
偉な風貌で、見るものに圧倒的な印象を与えた。顔の真ん中で、縦に真一文字に
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割られた顔を、繋ぎ合わせてあるのも異様な感じを与えたし、何よりも、その太
い眉と厚い唇、異相とも言える大きな鼻、そして顔の全体から感じられる深い憤
りの念と、強固な意志、その全てが、畏怖すべき神として祭られる悲運の英雄の
風貌にふさわしい、威厳と悲劇性に満ち溢れていた。
「これは、まさに農耕民に浸食されていく自然の悲しみを圧縮したような顔だな。
確かに自然を守護する憤怒神、という感じだな」
相沢の言葉に、秋葉がちょっと意外そうな顔で言った。
「ほう、君がそんな優秀なインスピレーションの持ち主とは意外だね。でも、確
かに君の言う通りだな。この顔からは、深い悲しみが、怒りの相となって現れて
いるような印象を受けるね」
秋葉は、そう言いながら悪路王像の前に立ち、自分の右側に杜宮を立たせた。
そして二人の間に相沢が来るように立たせた。そうして、二人は手で印のような
ものを結び、瞑想に入った。二人がそうしている間に、二人の周りには一種のオ
ーラの様なものが漲り始め、近付き難い雰囲気が立ちこめていった。
かなり長い時間二人はそうしていたが、その間他の客は一人も入ってこなかっ
た。秋葉の張った結界の他に、二人の発するオーラそのものが、一種のバリアー
となり、他人の侵入を妨げているものの様だった。
秋葉が右足を踏み出し、どん、と一つ踏み鳴らした。そして右肩を前に出し、
一種戦士が戦いに赴くようなポーズを取った。もう一つ足を踏み鳴らすと、気合
い諸共右手の人指し指を相沢の方に、ぐいっと突き出した。そして、口早に呪文
のようなものを唱え始めた。それに連れて、悪路王の首が異様に光り始めるのを、
相沢は何か夢でも見ているような心持ちで見ていた。
そのうち、相沢は体中から大量の汗をかきだした。額からも、背中からも、ね
っとりとした不快な脂汗が吹き出てくる。そして、自分の体が無意識のうちに前
後左右に揺れ出すのを感じた。そして、明晰な意識のまま、心の表層だけがトラ
ンス状態に入って行くのを夢うつつの中で意識した。それは、夢の中で、夢だと
意識しながら夢を見続けているのに似た、不思議な経験だった。そして、相沢は
自分がすっかり忘れていた夜毎の夢の内容を、ぽつりぽつりと語り始めるのを、
心の奥底で人事の様に聞いていた。
相沢は、自分も忘れていた、夜毎の悍しい悪夢の内容を語り続ける。その生き
血を絞り出す拷問も、何より悍しい生きたままミイラにされて行く苦しみも、何
もかも話して行く。それを、側で聞いている陽子の顔が真っ青になって行った。
秋葉と杜宮は、印を組み続けるのに全精力を使っているのか、表情に変化はない。
相沢が一通り語り終えると、秋葉はポーズを解き、杜宮も印を解いた。秋葉の
額にも、杜宮の額にも、単にポーズを取り、印を結んでいただけにしては不可解
な程の、大量の汗が吹き出していた。陽子は、さすがに相沢が語った夢の内容の、
あまりのおぞましさに、顔面が蒼白になっていた。
「これは、誰かが意図的に呪詛を掛けているんだな。最初思っていたように、蠱
魅騒鳴経の不特定多数を対象にした呪いの毒気に当てられた、なんていうもんじ
ゃない。相沢君だけを狙った呪詛だ」
「でも、いったい、誰が、何のためにですの」
陽子が、相沢の夢の内容を知ったショックから立ち直り切れずに、かすれた声
で聞いた。そこには、相沢のようないい人間を呪ったりする邪悪な相手に対する、
真剣な怒りが含まれていた。
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「何のためかは分からん。でも誰がやっているのかは大体見当がつく。今の世の
中に、こんな大時代な呪詛が出来る人間は一人しか居ないよ。師尾だ。彼しか考
えられん。しかし、一体何のためなんだろう。相沢君に呪いを掛けて、師尾に一
体何の利益が有ると言うんだろう。……しかし、まあ、考えても分からんことは
分からん。師尾とは、どのみち、そのうちもう一度対決しなければなら無くなる
だろう。今、大事なのは、とにかく相沢君に掛けられている呪いを解くことだ。
呪詛返しをしてやろう。護摩壇も何もないが、この悪路王の首が有れば、下手な
護摩壇なんかよりずっと役に立つだろう。杜宮君、心の準備はいいかい」
杜宮は、神秘的な微笑を浮かべながら、無言で頷いた。
「ナマ サマンダ バザラナン センダ マカロシャナ ソワタヤ ウン タラ
タ カンマン」
深呼吸をした秋葉は、まず不動明王の慈救呪を声高に唱えた。不動明王に身辺
を守護し、自分の行力を高めて貰うためである。秋葉がその呪文を繰り返すうち
に、秋葉の額には玉の汗が吹き出してくる。それに連れて、これは何としたこと
だろう、悪路王の首の目がかっと見開き、不思議な緑色の光をたたえ始めたので
ある。
秋葉は、「臨・兵・闘・者・階・陣・烈・在・前」と、九字を切ると、
「ナゥマクサラバ タタキャテイビャク サラバモッケイビヤク サラバタタラ
タ センダマカロシャダ ウンキキウンキキ サラバヒキナン タラタカンマン」
と、今度は不動明王の大呪の真言を唱え始めた。
その真言に連れて、秋葉と共に独鈷印を結んだ杜宮の額にも、玉のような汗が
吹き出してくる。
そして、秋葉の真言の声が更に高まったとき、悪路王の首は諸悪を降伏する憤
怒の形相も凄じく、空中に飛び上がると、かちかちと歯を噛み鳴らしたのである。
丁度この時、遠く世田谷の師尾邸の地下室では、簡略にしつらえられた護摩壇
の火が急に吹き上がり、その奥に置かれた藁人形にその火が移りそうになった。
異変を察した師尾は、その書斎から地下室まで駆け降りてきた。
「おのれ、秋葉め、こしゃくな真似を」
あの、冷たい貴公子然とした顔が、怒りの形相で醜く歪み、慌てて護摩壇の前
に立つと、必死に呪いの言葉を唱え始めた。
しかし、相手の呪詛返しの力の方が強いものと見えて、次第に護摩壇の火は通
常の状態を逸脱し、遂に藁人形にその火が燃え移ったのである。
その藁人形には、相沢が知らないうちに師尾が手に入れていた相沢の髪の毛が
織り込まれ、師尾の呪詛を相沢に送り込んでいたのであるが、今は激しく燃え上
がり、その火は師尾目がけて襲いかかってきた。
師尾が慌てて九字をきり、清明印を描いた布をかざして、「渇っ」と一声高く
叫ぶと、火は静まって行ったが、藁人形は完全に燃え尽き、呪具としての役を果
たすことは出来無くなった。
しばらく、師尾は悪鬼の形相で歯噛みしていたが、気を取り直すとつぶやいた。
「不思議なこともあるものだ、いくら、あの秋葉の力が強くても、この私に、こ
れだけ見事に呪詛返しを行えるとは思えない。何か、超自然の存在が手助けした
ようだったが。まあ、いい」
師尾は、又しても冷たく凍り付いた表情に戻り、嘲りの微笑みを顔に浮かべて
言った。
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「どうせ、今更相沢の呪詛を返しても、もう手遅れだ。相沢の身体には、もう骨
の随まで私の呪いが染み込んでいる。あいつは、私が必要なときには、しっかり
と自分の役目を果たしてくれることは間違い無い。おそらく、秋葉も私の計算通
に動いてくれるだろう。全ては、もう手遅れなのだ」
こう、つぶやくように言うと、師尾は、新たな呪詛の準備に書斎に戻って行っ
た。
鹿島では、秋葉達が、どうやら呪詛返しが成功したことを悟って、ひとまず安
堵のため息をついていた。今では、悪路王の首もすっかり静まり返り、全くの人
形にしか見えない。秋葉は、汗を拭いながら言った。
「どうやら呪詛返しは成功したらしい。これで、相沢君の常軌を逸した衰弱ぶり
も快方に向かうだろう」
「ふーっ、良かった、一時はどうなることかと思いました。そばで見ていて、胸
がどきどきして、痛いくらいでしたわ」
陽子の顔にも、ようやく血色が戻ってきた。この呪詛返しの呪法の間、陽子は、
ほとんど息を止めながら、三人を見つめていたのだ。
「いや、まだ油断は出来ないよ。師尾が相沢君に呪詛を掛けた、その意図が分か
らん。理由の分からない呪いほど厄介なものは無いからね。何時また、再開され
るか分からん。そして今度は、ここに居るうちの誰を呪ってくるものか見当がつ
かん。このままでは後手後手に回ってしまうからね、これは、どうあっても、も
う一度師尾と全面対決する必要が有るな」
秋葉は、決意に燃えてこう言い放った。
3
上野の森の奥深く、東京国立博物館が閑雅な立たず舞いを見せている。その本
館は昭和十三年、渡辺仁の設計で建造され、日本趣味を基調とした東洋風の、い
わゆる「帝冠様式」の代表作と言われている。瓦屋根の勾配が美しく、一歩中に
入れば、地下にでも踏み込んだようなほの暗さの中に、ステンドグラスの薄明り
が差込み、ここでは時間も凍り付いたように見える。
この博物館の中に収められた、数々の日本有数の美術品の吐き出す往古の夢の
時間が、この建物の中の時間を支配しているかのように、ひっそりと、ひんやり
と、全ての時間は眠りに就いているのだ。
この本館の地下にある修復室では、今日も幾人もの作業員達が一心に古美術品
や、貴重な文化財などの修復作業に当っていた。地下室とは言え、掘り下げた中
庭に面した修復室には、窓から明るい夏の太陽が差込み、陰湿さは微塵も無い。
その内の一角、絵画や書の修復室では、今「蠱魅騒鳴経」の修復と、展示、研
究用のレプリカ造りが行われていた。
修復の基本原則は、今有るものに忠実に、現状を維持する、ということである。
虫喰いの穴の修復、剥離しそうな部分の固定、どの作業を取っても、ミリ単位ど
ころかミクロン単位の精度を要求される。根気と、細かい神経のいる作業である。
そして、展示や研究に使われるレプリカの制作もまた、慎重の上にも慎重を要
する作業である。虫喰いの穴から、染みの果てに至まで、本物そっくりに複製す
ることが要求されるからである。
全ては、縁の下の力持ち達の、謙虚な営みの積み重ねなのであった。
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「蠱魅騒鳴経」も、こうして丈夫な紙の上に固定され、虫喰いの穴を補修され
る作業と平行して、文字のかすれ具合から、紙の破れ具合まで、本物と寸分違わ
ぬ、と言っていい複製が制作されつつあった。
しかし、怪異はここでも起こり、作業員達の間では不吉な噂が囁かれつつあっ
た。この経典のある周辺で、特に誰もいないはずの夜中などに、忘れものを取り
に戻った作業員の耳にペタペタと、密やかな、しかしまぎれもない不可思議な音
が響くと言うのである。しかも、どんなに明るい日に作業をしていても、この経
典の周辺だけが不可解な薄暗さに包まれると言うのである。
この経典の修復と、レプリカの作成を指揮しているベテランの老人は、こうし
た不吉な噂話に耳を貸そうとしなかったが、囁かれる内容は、どうにも否定しよ
うがないのも事実であった。
「第一さ、あの経典の軸、ありゃ確かに人骨だぜ、賭けてもいいよ」
作業を中断して、トイレに立った、中堅の作業員が、自分のとなりに立った同
僚に、薄気味悪そうな顔で囁く。
「それだけじゃないぜ、あの経典の内容、あれはどう見てもまっとうな経典じゃ
ないよ。反魂だの屍食だのと、どうも厭な内容ばかり書いてある」
漢文にかなり心得のある同僚は、こう囁き返す。
補修作業中にも、指揮している老人の立った隙に、やはり密やかな声で、穏や
かならざる内容の囁きが交わされる。
「僕はね、あいつの作業をしていると、決って気分が悪くなるんだ。なんという
か、腹の中が冷たくなると言うか、全身がけだるくなると言うか」
「君もかい。実は僕もなんだ、あの経典に触った日に限って、身体中に力が入ら
なくなり、なんか悪寒がするんだ」
老人は、こうした密かな囁きに無頓着を装い、作業を督励していたが、それで
もやはり良心が許す範囲で、出来るだけ早く作業を終えようと言う態度ははっき
りしていたのである。
しかし、この外部からの注文には、老人にも不可解な点が有った。複製が三本
必要だと言うのである。一本は東都大学の研究、展示用、一本はスポンサーだと
言う元華族用として、今一本、しかも老人が直接手掛けているそれは、普通のレ
プリカの精度の範囲を遥かに超えて、ほとんど本物をもう一本作るような精度が
要求されたのである。しかも、それを作ったことは、老人以外の誰にも知らせな
いようにという注文がつくのである。これも、不可解なことと言えた。
しかし、さすがに困難な作業も、遂に終る日が来た。「蠱魅騒鳴経」は完全に
修復と強化を終え、二本のレプリカと一本の秘密裏に作られた精巧なレプリカは、
揃って東都大学と、師尾邸に運ばれたのである。
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