2016 年 9 月 26 日(関) 志村 真 「 心を配る 」(マタイ福音書 14:13~14) 1.先日、以前チャペルでご紹介したヘンリ・ナウエンの小さな本を読んでおりましたら、興味深 いことが書かれていました。 「愛の配慮をもって」 ( 『静まりから生まれるもの』あめんどう、太田和功 一訳、2004 年)というエッセイで、原題は「With Care」となっておりました。訳者の太田和先生は 「ケア」に「愛の配慮」という訳語を充てて、ナウエンの語りの意図を鮮明にしておられます。 このエッセイの中で、ナウエン先生は「ケア」の語源について、それがゲルマン系のゴート語の「カ ラ」から来ていると説明しておられました。元々の意味は「心を痛め、悲しむ」ということだそうで す。別の辞書を見ますと、 「ケア」の語源はラテン語の「クーラ」であり、その意味は注意、世話、心 配、関心、気遣い・・とあります。いずれにしても「ケアの本来の意味は、心を痛めること、悲しみ を経験すること、共に叫ぶこと」 (46 ページ)ということです。日本語では「心配り」とか「配慮」 「思いやり」とかいった表現を思い浮かべることができるでしょう。 (ちなみに、 「癒す」 「治す」の意 味を持つ cure も同じ語源 cūra です。 ) 2.さて、ヘンリ・ナウエン先生は「ケア」について、次のように語っておられます。少し長いで すが、皆さんと味わってみたいと思います。 「愛の配慮(ケア)をするとは、第一に、互いの傍らにい ること、そして、互いに真に向き合うことです。あなたのことを配慮してくれる人は、あなたに真に 向き合ってくれる人であること(が)分かるでしょう。彼らが耳を傾けるとき、本当に聴いてくれて います。彼らが話すとき、あなたに語りかけているのだとよく分かります。そして、質問を向けてく るとき、それはあなたのためであって、彼らのためにしているのでないことが分かります。彼らが共 にいてくれるとき、そこには癒しがあります。なぜなら、彼らはあなた自身が願うようにあなたを受 け入れるからであり、あなたが自分の人生を大切にするように・・励ましてくれるからです。 」 (49~ 50 ページ) またこうも述べておられます。 「言うべきことは分からないけれども、そこにいるべきだと分かるの で、 じっと黙って友の傍らに座ることのできる人は、 瀕死の心に新しい命をもたらすことができます。 臆することなく、感謝の思いから人の手を握りしめる人、悲しみの涙を流す人、心の底から突き上が る悲痛なため息をもらすことのできる人は、 ・・新しい交わりの誕生に立ち会うことができるのです。 」 -1- (55~56 ページ) 3.けれども、ケアは一方通行の、つまり A という人が B という人に単方向的に「心を配る」行為 ではないようです。そのことは二つの意味でそうだと言えるでしょう。一つには「心を配る」関係が 入れ替わるということがあります。さっきは A が B に「心を配る」ということであっても、それが入 れ替わって B が A に「心を配る」ということが起こります。ケアにおいては、言わば「送り手」と「受 け手」が場面によって入れ替わるということがあるのです。 けれども、ケアが一方通行ではないことは、今述べたケアにおける「送り手・受け手の入れ替わり」 だけではなく、もう一つの事柄があるように思います。それは、ケアにおいては、一見すると A が「送 り手」で B が「受け手」であるように思えても、そうではない「相互交流」があるということです。 励ましているようで励まされ、慰めているようで慰められ、癒しているようで癒されている。ケアに おいては関係は相互的である。決して一方的、単方向ではないということです。 そのことをナウエン先生はこう表現しておられます。 「見知らぬ人からパンをもらい、感謝の微笑み を返すことのできる人は、自分でも気がつかないうちに大勢の人を養うことができます」 (前掲書 55 ページ)と。それは、先生ご自身が重い障がいをもつ人との共同体「ラルシュ・デイブレイク」での 体験から確信されたことです。このことは前期のチャペルでお話ししました。もう一度、短く触れた いと思います。ヘンリは担当したアダムとの関係について、こう振り返っておられます。 「アダムは『君を愛しているよ』と言うことはできなかったし、わたしを自発的に抱擁したり感謝 の念を言葉で表現したりすることもできなかった。にもかかわらず・・わたしたちは・・真実に霊的 な愛で互いに愛し合っていた。わたしたちは心において結ばれた友人であり兄弟であった。アダムの 愛は純粋で真実だった。 ・・それは触れた者を誰でも癒す愛だった。 」 (ナウエン『アダム』宮本憲訳、 聖公会出版、2013 年、62 ページ、下線は志村) 4.新約聖書は、イエスが「心を痛め」 「悲しみを経験し」 「共に叫んだ」ことを、 「スプランクニゾ マイ」という単語を用いて表現しています。これは「内臓(スプランクノン) 」から派生したギリシア 語の動詞で、内臓(はらわた)が絞られるような激しい感情、心・胸の悲しみや痛みを表わしていま す。つまり、他者の窮状に直面したときの、単に心が動かされるというのではなく、はらわたが激し く反応するほどの共感を表わした語と言えます。 この単語は先ほど読みましたマタイ福音書 14 章 14 節で用いられています。イエスは多くの人々が 弱り果て、打ちひしがれている様を見て「深く憐れまれた(スプランクニゾマイ) 」とあります。その 人々の中には病気の人もいて、この人たちは残された力を振り絞って、あるいは家族や友人にかつが れて集まっていました。また、あまりもの空腹に倒れそうな子どもたちも沢山いたことでしょう。イ エスはこうした人々に「スプランクニゾマイ」なさり、癒されました。つまり、イエスはケアし、キ ュアなさったのです。何よりも、他者の痛みに共振して自らの内臓をも震わせたことこそ、イエスの あらゆる宗教的・社会的活動の源泉であったのだと思います。 そこで、先ほどの問いがイエスの「ケア」についても提起されます。イエスの深い憐れみに基づい たケア、あるいは癒しは、一方的・単方向的なものであったのか、という問いです。その答えについ -2- ては、少なくとも私は「いや、それは相互的なもの、双方向であった」と考えています。そして、そ れには私なりの根拠があります。 実はイエスは、ヨハネによる福音書 15 章の中で弟子をはじめとする人間を「友」と呼んでおられ るのです。 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。 」 (15:15)友とは対等で相互的であることを前提にし た関係です。ですから、イエスは他者と接する時、自分はその人の友であるという思いをもってそう なさっていたと思うのです。友と接するとき、人は相互に思いを共有します。友を励ましつつ励まさ れ、慰めつつ慰められ、癒しつつ癒される。そのような相互の関係です。イエスもまた、友をケアし 癒したとき、その人からケアされ癒されていたのではないでしょうか。イエスはそのような相互の関 係に、ご自分を開いておられたように思います。なぜなら、イエスは友なのですから。 掲載元:中部学院大学・中部学院大学短期大学部_チャペルアワー -3-
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