「嫌いだった」 2015.11 全校修養会 祈祷会 お話 <聖書> 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、も う裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れ て、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に 導かれてなされたということが、明らかになるために。 (ヨハネによる福音書3章19~2 1節) <お話> 私は中学1年生の頃、捜真が好きではありませんでした。どちらかというと嫌いでした。 中学1年生という多感な時期であったためか、反抗期であったためか、折々で感じる捜真 関係者の「捜真信仰」のような、とにかく、捜真はいい学校なんだ、という雰囲気が嫌い でした。入学式で初めて聞いた「捜真ファミリー」という言葉もなんだかうさんくさく感 じたし、愛だとか信仰だとか、すべて薄っぺらい偽善のような気がして、嫌でした。 中1や中2の時、私は嫌なことがあるとすぐ逃げていました。特に当時は勉強から、学校 から逃げていました。だから、いろいろな先生に叱られました。礼拝もやはり好きではあ りませんでした。中学生の頃を振り返ると、当時の私はすべてがいい加減で、投げやりな 生き方をしていたと感じます。 そんな私に転機が訪れたのは高一でした。部活でもめごとがあり、友人関係でとても悩 んだことがありました。今までうまく築けていたと思っていた友人関係が張りぼてだった ことを思い知りました。私にとってこの経験は、正直なところ、耐え難いほどの苦痛でし た。たぶん、捜真で生活していた中で、一番つらく、できれば思い出したくない出来事で す。自分のそれまでのあり方すべてを否定されたような気がして、何とも言えない、苦し いような、悔しいような気持ちがしました。今後どうやって友人と接していけばよいだろ う、自分はどうあるべきなのだろう…。考えたくないのに考えなくてはなりませんでした。 ふとした時にそのことが頭を占領して、自分がひどく孤独に感じました。自分の中にあっ た芯がふにゃふにゃと揺れて、定まらない感じでした。 そんな私を救ったのは、意外なことに聖書の言葉でした。このお話のために、無理に神 様と結び付けようとしているのではありません。本当に、聖書に、そして礼拝で語られる お話に助けられたのです。とても不思議なことなのですが、聖書の言葉や礼拝の言葉とい うのは、悩んでいることがあると、やたらに頭の中に入ってくるし、なにかと自分に身近 に感じるのです。何も悩みがない時に、何気なく聞いていた言葉たちが、苦悩の中にある ときに聞くと、考え方を変えてくれたり、助けてくれたりするのです。当時の私には、全 校礼拝で先生が語る言葉も、生徒礼拝でクラスメートが語る言葉も、同様に、心にしみわ たっていきました。悩みはすぐには私の中からは消えてくれませんでしたが、少しずつゆ っくりと自分の芯を確立することができました。私は確かに神様に近づくことができたの だと思います。 私たちは、捜真女学校という校名の意味を知っています。真理を捜し求める学校、とい う意味です。では、 「真理」って一体何でしょうか。辞書を引くと、「どんなに時間が経過 しても変わらない物の考え方」 「どんな人間にとっても絶対に定義の変わらない物の考え方」 とあります。では、それはたとえば何でしょうか。 「地球は丸い」というのは、一見いつで も変わらない世界の常識に思えるけれど、江戸時代の人たちには常識でもなんでもありま せん。果たして、 「地球は丸い」は真理でしょうか。 私は6年間、捜真で過ごしてきたけれど、この「真理」という言葉の意味がいまだにう まくつかめません。この先一生かかっても、つかむことはできないのかもしれません。け れども、 「真理を捜し求める」の意味は、少しだけわかったような気がします。私がこの学 校で、自分の芯を見つけたように、真理という世界の芯のようなものを捜すことなのでは ないかと思います。そしてこのことは、あの頃神様に近づくことができたように、神様に 近づくための一歩となるのだと思います。 中学生のころ、私は捜真が嫌いでした。高校三年生の今、私は捜真が大好きです。綱引 きに全力で挑み、負けて大泣きする高三A組が大好きです。全てのイベントを楽しもうと する68期(高三)が大好きです。そして何よりも「私」を作ってくれた捜真が大好きで す。あと数カ月で卒業ですが、大切に過ごします。 (高三 R.N.)
© Copyright 2024 Paperzz