1 創世記14章14∼24節 「勝利の報酬は主の祝福」 石原俊久 1.戦争が

創世記14章14∼24節
「勝利の報酬は主の祝福」
石原俊久
1.戦争が起こった
今日の14章の箇所の初めに国同士の戦争があったことが記されてい
ます。いくつかの国が連合し大国と戦ったことが記されています。聖書に
始めて現れた戦争の記事。ここには各国の王の名が記されています。国と
いう単位ができたときから人類は戦争に明け暮れてきました。それは、よ
り豊かな国になろうとして、あるいは国内の不満を解消するために外の国
を自分の国のものにしようとする行動です。このころから現在に至るまで
戦争の恐怖が完全に解消されたことはありません。日本は第二次世界大戦
があまりにも大きな他国と国民への犠牲のゆえに世界でもまれな憲法で
戦争を禁止する、という決断をしました。
しかしこの憲法もいまやなし崩しにされようとしています。新聞には今の
日本の状況に嘆き戦争でも起きれば良いと、思っている若者が増えてきる
と報じられていました。
武器ではなくスポーツで国同士が戦うのがオリンピックです。国同士が
戦うのですが最後には同じ競技を戦ったもの同士でそのわざをたたえあ
ったりします。オリンピックが平和の祭典といわれるゆえんですが、その
オリンピックの開会式の当日にロシアがグルジアに軍事侵攻したとのニ
ュースが飛び込んできて少なからず犠牲者が出たことを聞くにつけ人間
は懲りない存在だと意識させられました。
この戦争で、ソドムとゴモラの王がアスファルトの穴に落ち込んで出ら
れなくなり、国の全財産をとられてしまった、と14章10節にあります。
先回の13章で見ましたように、ソドムは非常に豊かであったとありまし
た。やはり、互いの財産を奪い合うための戦争であったのです。領土や財
産、そして奴隷となる捕虜を勝ったものが獲得する。
そこには隣国を敬ったり、人命を尊重するといったことは全く通用しま
せん。目の前の欲望のみが支配するまさに神のみこころとは正反対のとこ
ろに戦争が起こるのです。
この戦争にアブラムのおいであるロトも巻き込まれます。12節にロト
はソドムに住んでいたとあります。
13 章ではロトはアブラムと別れてソドムの近くまで天幕を張ったとあり
ました。ロトはソドムにさらに近づいて、ついにロトは天幕を捨て、ソド
ムの町の中に住むようになっ
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たのでした。アブラムが天幕生活をしているときに、ロトはソドムの豊か
な生活に憧れてソドムに自宅を構えたのです。
ロトは神の御心ではなく、自分の目の欲にしたがって潤ったソドムの地
を選びました。しかし、それは罪に近づくことになったのです。そして主
の介入がここにもあります。ロトもソドムの王たちの戦いに巻き込まれ、
全財産を奪われることになったのです。ロトが一番望んでいたものが取り
去られるのです。
神の介入はしばしばこのように行われます。見た目に豊かに思えるとこ
ろを選ぶのは人間の本能であり欲望でしょう。しかし、そこに住む本人の
心が神に向かっているかどうかが問われてくるのです。ロトはソドムの町
で神の御心に従った歩みをしていたのでしょうか。それともソドムの罪深
い生活にどっぷりとつかっていたのでしょうか。そのことはここには書か
れていませんが、しかし神の介入はソドムに住むロトの財産が戦争に巻き
こまれ奪われるという事実によって明らかです。主の祝福はロトにはなか
ったのです。
2.
アブラムの愛
今日読んでくださった箇所からアブラムはカナンの地で、おいのロトが大
変な目にあっているという知らせを受けました。そして自分のところにい
る318名を召集しロトの財産を奪ったものを追跡して彼らからすべて
の財産と奪われた捕虜、を取り返した、とあります。
アブラムから見るとロトの行為は明らかに神のみこころから離れた行為
であったように思います。しかしアブラムは自分の親類ということでロト
のために人を集め戦いに挑むのです。13章のところでロトと争いになっ
たときに「争いがないように」と促したのはアブラムでした。そしてロト
に行く先を譲ったのです。
アブラムはこのように謙遜でしたが、ロトのためには命を捨てるほどの決
心をする強さも持ち合わせていたのです。アブラムはもともとは単なる遊
牧民です。それが、王国を指揮する軍隊と戦って勝利し、奪われた財産を
取り返したということは、いったいどういうことなのでしょうか。アブラ
ムに軍事的なセンスがあったとは思えません。きわめて温厚で、羊を飼っ
たりロバを飼ったりするようなそんな遊牧民であったでしょう。また、他
人をだしぬいて自分の利を求めるような野心を持っていないということ
は13章でも明らかです。
そのアブラムがたった318人を指揮して、名うての王たちから戦利品を
うばう、ということが果たして可能なのか。
人間の価値観で物事を判断するならばそのことは不可能でしょう、しか
し、アブラムにはアブラムを大いなる国民とする、と約束してくださった
神が見方でした。聖書にはどのようにして勝利したかは、書かれていませ
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ん。しかし。神の介入がここにあったことはたしかではないでしょうか。
そして神の介入はさらに続きます。
2.メルキゼデクのなぞ
18節「さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってきた。
彼はいと高き神の祭司であった」
シャレムの王メルキゼデクとは何者か。アブラムという神のみこころにか
なった人に、突然現れる。このメルキゼデクという王。実はこのメルキゼ
デクほどなぞの多い人物はありません。
何しろ旧約聖書にはここと詩篇 110 編 4 節にしか登場しません。この箇所
が聖書学者のあいだでもなぞに満ちた箇所であるといわれるゆえんです。
メルキゼデクに関する情報があまりにもなさ過ぎるのです。
にもかかわらず新約聖書のへブル人の手紙においてはこのメルキゼデ
クこそはイエスキリストの型であると延々と述べられているのです。ヘブ
ル人の手紙 7 章をご参照ください。(395 ページになります)
7:1 このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハ
ムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。 7:2 またアブラハムは彼
に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王で
あり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。
7:3 父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、
神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。 7:4 その人
がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、
彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。
突然に現れ、その系図も示されず、ただ「いと高き神の祭司であった」
とだけしるされているのです。シャレムの王、とありますが、このシャレ
ムとは新約聖書においてはサレムとあります。後にダビデが治め、聖なる
都となるエルサレムをアブラムの時代に治めていた人物と伝承では伝え
られています。
しかしメルキゼデクの行動から彼がどのような人物であったかが想像
できます。
3.メルキゼデクとアブラムの行動
メルキゼデクはアブラムに祝福を与えます。
パンとぶどう酒による祝福をメルキゼデクはアブラムにするのです。そし
て、アブラムはすべてのものの十分の一、つまりアブラムの持ち物の十分
の一をメルキゼデクにあたえています 。イエスキリストの誕生から 2000
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年前、教会の誕生の 2000 年前にすでに聖餐式と献金の形が示されている
こと。このメルキゼデクという王がただものではないことを感じます。
ヘブル人の手紙には、このメルキゼデクがキリストの型として描かれてい
ます。
なぞの多い人物ですが、神がそのような人物を与えてくださった、と考え
るならば納得ができます。礼拝における、祝福と感謝の表し方が、ここに
はっきりとしめされているのです。
そして、メルキゼデクとアブラムに共通するもうひとつのことは、彼らは
平和を求めた、ということです。メルキゼデクという名は義の王、平和の
王という意味です。彼は 14 章のはじめの戦いが非常に大きな範囲で行わ
れたにもかかわらず、戦いに加わっていませんでした。ソドムの王ととも
にアブラムの前に現れたのにこの争いの中には入っていなかったのです。
これはサレムの国が、全く略奪する価値がなかったか、サレムが略奪する
ことをはじめから望まなかったからか、のどちらかです。とにかく侵略の
戦いには無関心であったのです。そして侵略されるほどのものもなかった
のかも知れません。ソドムが財産を奪われたのは、それだけの魅力があっ
たからと考えられます。地上の富を誇るときに神は時としてこのような刑
罰を与えらるのです。
アブラムもメルキゼデクも、この世の富には無関心であった、と考えられ
るのです。
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、
一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、ま
た富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)
メルキゼデクは「いと高き神の大祭司」と呼ばれています。神の祝福を知
っていたからこそこの世の富には目もくれなかった。それはアブラムも同
じでそれゆえにアブラムはメルキゼデクから祝福をうけ、十分の一をささ
げたのです。
4.ソドムの王から受け取らなかったアブラム
ソドムの王はブラムのそのような態度に対して財産はアブラムにとって
ください、といいます。しかし、アブラムは、そのことを拒否します。
20 節、「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ
とらない」というのです。
ソドムが取り戻した財産はたいしたものであったと考えられます。そして
アブラムはそれを手にする権利があったはずです。
しかし、13 章でも見たようにソドムは汚れた町でした。神からはなれた罪
に満ちた国でありました。
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アブラムは、確実に自分を富ませるであろう財産には目もくれようとはし
ませんでした。
そのような選択はアブラムには考えられませんでした。大いなる国民とす
る、と約束された神の祝福を超えるものはアブラムには考えられなかった
のです。ですからシャレムの王メルキゼデクのパンとぶどう酒は受け取る
ことはできても、有り余るソドムの財産を受け取ることはしなかったので
す。
アブラムとメルキゼデクの共通点はなんだろうと考えますと二人は徹底
して神の祝福に預かることにこだわりました。
この世の王たちは、そしてアブラムの親類のロトでさえ地上の富に目を留
め、争い奪い合いをし、戦争を企てました。少なからず命をも奪われたこ
とでしょう。しかしアブラムもメルキゼデクもそのことには関心を持たず、
むしろそのことから遠くはなれ、永遠の神の祝福を願ったのです。
私たちも月の初めに聖餐式を行います。パンとぶどう酒が配られます。こ
のパンとぶどう酒は、この世の何ものにもかえられないものとなっている
でしょうか。
結論
人生の勝利の報酬は「主の祝福」であって他の何物でもない
人間死んだら持っていくことができるものは何でしょう。お金、財産、そ
のようなものは置いてゆかなければなりません。
しかし、主を信じる者には永遠に持ってゆけるものがあります。
それが主の祝福と、祝福の形である永遠の命です。
私たちはそのことにこだわりたいと思います。パンとぶどう酒にこだわり
たいと思います。
神の祝福にこだわりたい。
主の祝福を超えるものは何一つないからです。
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