シニアの修学旅行(フランス編パート 2) 長田 成美 1 月 5 日パリ市内観光 3:30 頃目が覚める。昨夜話している内に寝入ってしまったようだ。起きてシャ ワー、寝むれないのでビールを飲みながら日記を書く。 6:50 朝食に行く。10階のレストランにズボンの破れた夫婦と同席。しっか り野菜、果物、ヨーグルトをいただく。部屋で味噌汁をいただく。味噌汁を飲 むとホッとする。日本人だなと感じるところだ。 9:00 ロビーに集合、バス乗車、小雨が降っている。ガイドは内川さん、頭頂 部が薄くなりスリムな体形のメガネの男性、たぶん 50 歳代くらい、軽妙なしゃ べり方、ドライバーはエミールさん。 内川さんの話では、北ヨーロッパは冬が雨期でその時期は鉛色の空が 12 月~ 2 月ごろまで続く。その反対に 5 月~8 月は晴天で雨は殆ど降らない。湿度が低 く夏の日差しをさえぎる木陰では涼しいし、石造りの家なので室内は過ごしや すいと言う。 パリは東西 12km、南北 9km でルーブル美術館のある 1 区から時計回りの渦 巻き状に 20 区に分けられている。 国立近代美術館 ポンピドゥ―センターの4階~5階を占める近代芸術の殿 堂で、外側にやたらパイプを巡らした建物で眺めるだけ。 パリ市庁舎 17世紀の初めに建設されたネオ・ルネサンス様式の建物であ る。 《ルネサンス様式=15~17 世紀初頭に、イタリアを中心に広くヨーロッパに普 及した建築・美術様式。古代ギリシャ、ローマ様式を復興させ、建築ではシン メトリー(左右対称)とバランス(調和)を重視した。大理石の床、円柱やア ーチ、絵画や彫刻で飾った壁など。代表例はサン・ピエトロ大聖堂、ルーブル 美術館、シャンポール城など。》 《ネオ・ルネサンス様式=19 世紀前期のヨーロッパで起こったルネサンス様式 の復興例をいう》 ノートルダム大聖堂 シテ島 (セーヌ川の中州にある島)に 1163 年に建設が始まり完成した のは 1345 年の壮大なゴシック様 式の教会。随所に施された繊細で 優美な彫刻と全体の色合いから 「白い貴婦人」と呼ばれている。 ここでは庶民の結婚式があげられ る。 「ノートルダムのせむし男」ヴィ クトル・ユーゴ原作の物語で映画化されている。ディズニー作品ではハッピー エンドで終わっている。 サント・シャペル 1248 年ルイ 9 世の命に よりキリストの聖遺物を収めるために建造さ れた教会で 1134 の聖書の物語を描いた延べ 600m に及ぶパリ最古のステンドグラスは圧 巻である。建造時の 70%のステンドグラスが 保存されている。 ルーブル美術館 かっての王宮を改装し、フ ランス革命後の 1793 年に開館。世界最大級、 最古級のフランス屈指の観光スポットである。 年間 900 万人の入場者数を誇り、すべてのフロアを鑑賞しようとすれば 1 週間 はかかるといわれている。 受付ホールのあるピラミッドは 1989 年当時のミッテラン・フランス大統領が 「パリ大改造計画」の中で建設したもので、目的は、押し寄せる膨大な観客の メインエントランスとして、入場者をその目的地へと分散させる機能を持たせ た。 ガイドの内川さんの解説を聞きながら 1:30 分の駆け足美術館めぐりであった。 まず、 ミロのビーナス(ギリシャ神話のアフロディーテ)紀元前 2 世紀 囲いもないフロアにあり、台座に乗っているのでかなりでかい。大理石でビ ーナスの高さは 204cm、近くで見るので圧倒される力強さを感じた。顔は今は やりの小顔、胸は巨乳ではなくお椀型で、すこぶるよろしい。ウエストは現代 からすると太目であり、腹部は腹筋で割れている。可なり、筋肉質の女性であ る。背後に回るとたくましいお尻で割れ目の下で衣が引っかかっているのが見 られる。この時代の女性は男と同じように肉体労働をしていたのでしょう。 サモトラケのニケ(エーゲ海のサモトラケ島)紀元前 2 世紀ごろであろうと言 われている。1863 年にたくさんの断片で発見、ルーブルで復元された。 現在は「ダリユの階段の踊り場」に展示されている。階段を上っていくと天井 の高い、広い踊り場の中央に翼を広げた顔、腕の無い大理石の女性像が台座の 上に立っている。全体の高さは 5.57m、像の高さは 3.28m あり、顔がなくても かなりの存在感である。戦艦の舳先に乗せられた台座、その上に舞い降りた勝 利の女神を表していると云う。足もとまで流れ落ちる薄いドレスを身にまとい 右足を前に出して軽やかに前進するようなフォルムが躍動感を表している。薄 いドレスの腹部には臍までリアルに浮き出して いた。一見に値する美術品でした。映画「タイ タニック」でヒロインが船の舳先で両手を広げ たポーズは「サモトラケのニケ」を表している と言われる。 また、スポーツ・シューズメーカーのナイキ は「ニケ」からという話は有名である。 モナリザ 今更説明するまでもないレオナル ド・ダヴィンチの代表作で 77cm×53cm の小ぶ りな作品である。展示場所は前面が広いホール の様な場所で目の高さにあり、たくさんの鑑賞 者が集まっており前に行くことができない。後 ろのほうで見るしかない状態であった。 民衆を導く自由の女神 ウジェ ーヌ・ドラクロア(ロマン派)1830 年に起ったフランス 7 月革命を主題 にした絵画で 259cm×325cm のサ イズである。 女性は自由を表し,露わになった乳 房は母性=祖国を比喩で表してい る。 絵の左側の銃を構えた帽子の男はド ラクロア自身であり、革命に参加で きなかったため絵画の中で参加している。現代でもフランスの象徴的な絵画で ある。 グランド・オダリスク ドミニク・アングル、(91cm×162cm)発表当時デフ ォルメした表現が批判されたが、曲線美を強調した裸体表現はアングルの代表 作となった。確かに背中がかなり長いけど女性の背中を官能的に表現している。 こちらを見る彼女の強い視線はなんなのでしょうか。 ベルサイユ宮殿フォーサード ナポレオン一世の戴冠式 1807 年制作、ダヴィット 6.3m×9.7m の巨大サイズ この絵画は 1804 年 にノートルダム大 聖堂で行われた実 際の戴冠式の様子 を描いたもの。皇帝 ナポレオン一世と 皇妃ジョセフィー ヌの戴冠式でナポ レオン自らがジョ セフィーヌに冠を 授ける。記念写真の ように細部までしっかり描かれている。3 年の歳月をかけて完成された。同じ構 図の絵がベルサイユ宮殿にあり、唯一か所だけルーブルの絵と異なる。それは、どこでしょうか? …パリに行って自分の目で確認 してください。 鑑賞時間 1:30 分なのであまり 見る事が出来なかった。 12:20 中華レストランへ スープ(野菜、卵)、酢豚、白身 魚の炒め物、チャーハン、鶏肉の 南蛮、青梗菜の炒め物、デザート (ネーブル)久しぶりのご飯や日 本食に近い中華でツア‐の皆さ んは大満足でした。今までの食事 で一番美味しかった。 14:00 ヴェルサイユ宮殿 パリ から 23km ほど西に在りバスで 30 分あまり、 ←ベルサイユ宮殿鏡の間 1661 年ルイ 14 世(太陽王)がパ リから宮廷を移すため選んだ場 所、当時は木も水も無い荒涼の地 であった。バロック様式でフラン ス絶対王政の象徴的建造物と言われる。《バロック様式=16 世紀イタリアで反 宗教改革運動の影響を受けて起り、 17 世紀のイタリアを中心にヨーロ ッパに展開した建築様式で、複雑な 曲線、壮大かつ動的、華麗で絵画的 な特徴を持つ。》 1687 年に「鏡の間」が完成。長さ 73m、幅 10m、高さ 10m の広間に 大型のボヘミアングラスのシャンデ リアが天井から互い違いに吊り下げ られ、その数 20 数基。578 枚の鏡が 埋め込まれた壁に囲まれた豪華絢爛 な大広間となっている。 マリーアントワネッツトの肖像画 第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるベルサイユ条約がこの鏡の 間で調印された。この時代の宮殿の内部は部屋と部屋が扉一枚でつながり、廊 下という通路がない。窓際側に大きな扉があり、それを開けるとヘラクレスの 間,豊穣の間、ヴィーナスの間、マルスの間、メリクリウスの間、アポロンの 間、戦争の間、王の寝室、平和の間、王妃の間、貴族の間等、というように繋 がりあっている。部屋の天井には天井絵、壁一面の絵画などその豪華絢爛さは 目を奪われるほどであった。その極みが「鏡の間」である事は言うまでもない。 貴族のこのようなぜいたくな暮らしがフランス革命の引き金になった。 約一時間の見学を終えてバスに戻る。強風が吹き荒れて庭園を見る元気はなか った。 夕闇がせまるころパリに戻り、セーヌ川クルーズのためにアルマ橋のホール・ ド・コンエランスに到着。 ↓ オルセー美術館 16:30 セーヌ川クルー ズ 小瓶のワインを買い 乗船、2 階建ての大きな船 で2階はオープンエア、 少し寒いので一階のガラ ス窓のある船室に戻る。 座席は 50%ほど埋まって いた。セーヌ川の右岸に はブルボン宮、ルーブル 美術館、左岸にはエッフ ル塔、オルセー美術館、 ノートルダム大聖堂がラ イトアップされて美しい。 下流に向かって下るとグ ルネル橋の下流側の中州 に「自由の女神像」が ピラケム橋 右手を高々と上げて立っていた。 ピラケム橋はパリで最も美しい橋と言われる。 これは、パリ在住のアメリカ人達 橋の上をメトロが走れる構造になっている。 がフランス革命 100 周年を記念 グットタイミングというか、クルーズ中に橋の して建造したもので少し小さい。 上を通過しているメトロに遭遇し撮影、珍しい 写真が取れました。 アレクサンドル 3 世橋は欄干の 飾りの像が金色で美しく輝いてい る。この橋はロシア皇帝ニコライ 2 世により 建設、寄贈された。 クルーズ船から見るエッフル塔はライト アップされて美しい。塔の右側に満月が写っ ていた。約一時間のクルーズを終え夕食のレ ストランへ向かう。 18:20 レストランへ、 狭いテーブル、小さい椅子に肩をすり寄せて座る。お 客さんも居ないので荷物を他の場所の椅子に置かせて欲しいと添乗員さんが交 渉するが断られる。頭にきて、ビールもワインも水も注文しなかった。ウエィ ターが肩をすくめていた。当たり前だ。お客さんの満足がお店の繁盛につなが るということを知らないのだ。 フランスから帰国してから新聞を見ていたらレストランのサービスが一番悪 いのがフランスと載っていた。世界最多の観光客(8300 万人)が押し寄せる国 さもありなん。 腹を立てながらの夕食は、ビーフの薄切り肉のグリル、マ ッシュポテト、野菜サラダ、果物のポンチ、いつもの固いパン、 1 月 6 日フリータイム 今日は一日フリータ イム、私と姉はオルセ ー美術館へ、妻と真理 子はショッピングでラ ファイエット・デパー トへと予定を立てた。まずタクシーでオルセーへ向い、そのあとデパートへ回 るルート。お昼頃コンコルド広場に集合ということになり、タクシーに乗車し た。3 人以下であれば普通料金で、4 人乗ると 2 割アップの料金だった。 9:30 オルセー美術館の入り口はかなりの人たちが並んでいた。チケットを 購入、一人 9 ユーロ。入口前の広場には猛り狂う馬、足をロープで繋がれ吠え る象、そしてオトナシイ犀の銅像が置かれていた。入館し正面の階段を上がる とフロアがある。そこに大きな銅像が置かれていた。高さ 3m ほどの黒い銅像、 戦闘用の仮面をつけ、防具をまとった戦士 が足下に組み敷いた奴隷と思しき 男に今まさに剣を振り下ろそうと している迫力に満ちた銅像面であった。 ←ターミナル駅当時の大きな時計 オルセー美術館はパリ万博のために建造さ れた古い駅舎を再利用した建物で 19 世紀中ご ろから 20 世紀初頭までの絵画、彫刻、装飾芸 術、建築、写真など壮大なモニュメントである。 最大の特徴は絵画で 1848 年~1914 年まで の新古典主義、写実主義、自然主義、印象派、 ポスト印象派など 4000 点余りを収蔵している。 ちなみにルーブル美術館は 1546 年から 1678 年のフランス王家の美術品を収蔵し、30 万点 以上と言われている。また 1900 年代から現代までの物は現代美術館があり、パ リはまさに絵画芸術の都である。 中央展示室は、駅 のプラットホーム があったところで 幅広く中央にずら っと彫刻が置かれ ていた。長さは 100m 位ではない かと、絵画は両側の 区画された部屋が 奥くまで続いてい た。右側の最初の部 屋には新古典主義 のリーダー、アングルの有名な「泉」163×80cm だけどこの絵のどこが良いのかわからない。 「画家のアトリエ」クールベ、3.6m×6m の大作で代表作と言われる。広いフ ロアに展示されている。クールベの生きたパリの時代は、まだアカデミックな 絵画が主流であり、いわゆる、官展で認められないと画家として認められなか った。そのようなサロンや権威に立ち向かい、独自の道を突き進み「リアリス ム」=写実主義という新たなジャンルを生み出した。画面左側には社会的弱者 が、右側には富裕層の人たちが、中央には絵を描く画家がおり、その絵を純粋 であるところの少年が見つめている。すべてに寓意がある。面白い 西洋絵画の世界だ。 「世界の起源」クールベ この絵画も パリに衝撃を与えた作品である。 「落穂ひろい」83.5cm×111cm「晩鐘」55cm×66cm ミレー クールベとならんで 19 世紀半ばのレアリスム絵画の代表者でバルビゾン村に定 住し、農民生活に取材した作品を詩情豊かに感傷的に表現し、大衆的な名声を 得る。バルビゾン派と言われた。 「オランピア」130.5cm×190cm エドァール・マネ 「草上の昼食」208cm×264.5cm エドァール・マネ この二つの作品はフラ ンスの美術界にスキャンダルをひき起こすとともに、若い前衛的な画家たちに 大きな影響を与えた。「オランピア」 「草上の昼食」 「オランピア」と「草上の昼食」は伝統的なテーマ《ギリシャ・ローマの神話, 宗教画、歴史画、物語画》だけに許された女性の裸体をマネはマネが生きてい た時代の風俗描写の中で表現した。例えば「オランピア」はティツィアーノの ヴィーナス像を同時代の娼婦の姿に移し替えた。物 議を醸すのも当然であった。裸婦の絵を描くことが できるのは伝統的なテーマを持った絵画でないと許 されなかったからだ。マネは「伝統的なテーマ」を 突き破ったのだ。 《印象派》 自然の一瞬の姿をパレット上で混ぜ合わせない絵 具の小さな筆触によってカンバス上に塗り重ねた。 光、大気、天候、季節によって明確に表現されてい た。 ←日傘の女 「ルーアン大聖堂」連作、「水連」「日傘の女」「サンラザール駅」「カササ ギ」クロード・モネ まだまだ、たくさん あった。印象主義美術運動の代表者である。 ポールマルリーの洪水↑アルフレッド・シスレー ←床に鉋をかける人々ギュスターヴ・カイユボット カミーユ・ピサロ カリブ海のセント・トーマス島で生まれる。セント・トー マスは私が 20 年前にワールド・カップ(トライアスロン)で行ったところだ。 ルノアール モネとともに印象主義のリーダー。 ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場 《ポス ト印象 主義》 印象主 義以降 の画家 を指す。 印象主 義を卒業し独自の様式を示すことに成功した画家 たちのことをいう。「ゴーガン」「ボナール」等 ←オヴェル・シュル・オワーズの教会 「ゴッホ」 印象主義の画家たちから印象主義の色彩を学び、そこからより強 烈な光りと色彩へと変化し、ゴッホ独自の内なる世界を表象することに成功し た。しかし内なる声はゴッホを死に至らしめた。 「セザンヌ」 自然と向き合う印象主義の方法を試みながらそこから発展して 独自の境地に達した。セザンヌの作品は印象派の画家と同じような透明感のあ る明るい色彩に満ちているが同時にそこを支配する時間はより永続的である。 《新印象主義》 「スーラ」 印象派の光をもっとカンバ スの中に表したい。それがス ーラの原点でした。 その一途の思いが光の粒、色 彩の粒をカンバスに一粒、一 粒均一に点描する。いわゆる 点描法を生み出した。その代 表的な作品は、「グランド・ ジャット島の日曜日の午後」 でした。この絵の完成には 3 年の時間が必要でした。 「ゴーガン」 タヒチでのゴーガンは幸せだったようだ。憧れの南の島で自由 に絵を描く生活であったが、フランスでの彼の絵は不評であった。それでも最 後の大作「我々は何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処へ行 くのか」を完成させた。 「ポール・シニャック」 パリに生まれたシニャックはモネの絵画を見て感動 し、独学で画家となった。さらに、大きな感動はスーラの作品だった。その緻 密な色彩理論に共感しスーラの点描に傾倒した。 19 世紀末には、印象派の系譜以外にも様々な傾向の美術が見られ、絵画にお ける人間復興と言える現象であった。それ以前は、絵画の目的は上流社会の要 求によって描かれた絵画であった。画家本人の感情・感性や絵に込める情感な ど皆無であった。そういう時代だからこそ自分の絵画に思いを込める画家たち が大勢現れた。「ロートレック」「アンリ―・ルソ―」「ルドン」「モロ―」 「シャバンヌ」など彼らの歩んできた道筋の先には「マティス」「ピカソ」 「ムンク」など 20 世紀の絵画の巨匠の存在がある。 12:40 までたっぷり 3 時間、絵画の世界にどっぷりと浸かっていた。大満足のオ ルセー美術館の散策でした。フランスに来た最大の目的が叶えられ何も言うこ とはなかった。 待ち合わせ場所のコンコルド広場まで歩いてゆく。セーヌ川を渡り川沿いに 歩くこと 15 分ぐらいで到着。中央にはオベ リスクが建っており、ロータリーになってひ っきりなしに車が走っている。 《コンコルド広場》↑ この名称で呼ばれるようになったのは 1830 年頃である。フランス革命時には革命広場と 呼ばれ、ルイ 16 世やマリー・アントワネッ トの処刑が行われた刑場であった。広場の中 央には、エジプトのルクソールから運んでき たオベリスク「クレオパトラの針」が置かれ ている。 無事、みんなと再会しここから、シャンゼ リゼ通りを凱旋門に向かってショッピングに向かう。残念ながらお店は殆どお 休みで、ウインドーショッピングになってしまった。 ↑ルイ・ビトンのパリ本店前 1 月 7 日 帰国日《凱旋門》 パリの象徴的な建造物の一つで、正式名称は「エトワール凱旋門」、シャンゼ リゼ大通りの最西端に位置し高さ 50m 幅 45m 奥行き 22m で 9.5 ユーロ払えば 屋上まで螺旋階段で上がれる。古代ギリシャ・ローマを模範とする新古典主義 様式の代表作である。ナポレオン率いるフランス軍がヨーロッパ連合軍に勝利 した記念に建てられた。 第 2 次世界大戦時にナチス・ドイツ軍のパリ占領に 際してハーケン・クロイツをかかげてドイツ軍兵士が凱 旋門を凱旋した。 1944 年 8 月 25 日、シャルル・ド・ゴール将軍は、パリ 解放の次の日に自由フランス軍を率いてパリに入城。 エトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで凱旋パレ ードを行い、シャンゼリゼ大道りを埋めつくしたパリ市民 から熱烈な喝采を浴びた。 現代では戦争ではなく「ツール・ド・フランス」最終ステ ージであり、シャンゼリゼ大道リがゴールとなる。最終ス テージはパリ郊外の町からゆっくりとしたスピードでスター トする。パリ市内に入るに従い集団のスピードは上がり、 シャンゼリゼの周回コースでは平均 50km/h のハイスピ ードで疾走する。ツール開催 100 回目となる 2013 年では凱旋門周回コースが採用され1周 6.8 ㎞を 10周する。選手全員はツール・ド・フランスのファイナリストの名誉を得ることと同時にシャンゼリゼの 勝利は生涯記録のきわめて大きなステータスとなるため、選手全員全力で勝利をもぎ取りに行く。 07:45 11:20 バスに乗車し空港へ 出国手続き、ハローキティのペイントをした飛行機に搭乗 台北乗継 福岡までの長旅になりました。 お疲れさん。 今回の航空会社は台湾のエバー航空でした。航空会社として初めてサンリオと提携し、ハローキティの 塗装やアメニティを施した「ハローキティ・ジェット」を導入した。機内サービスもよく料理も美味しかった。 スプーン、フォーク、ナイフ、ナプキンなどキティ—ちゃんプリントされ子供のお土産に喜ばれた。
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