政治経済学通信 - 東京大学大学院経済学研究科 柴田ゼミナール

政治経済学通信
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東京大学大学院経済学研究科
柴田ゼミナール ディスカッションペーパー集
2010年9月
『政治経済学通信』第 9 号
2010 年秋
目次
目指すべき状態に関する客観的真理の探求の試み
阿部晃大
1 ページ
岩田佳久
15 ページ
照屋健作
47 ページ
参川城穂
57 ページ
東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成
看護師のワーク・ライフ・バランス
―経済学からの視点とその課題―
国際金融システムをめぐる諸論点
―2008 年以降の動向と IMF を中心に―
戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―
横川太郎
81 ページ
資料編
為替と発券の自由について
クレマン・ジュグラー著,岩田佳久訳
109 ページ
看護師のワーク・ライフ・バランス
―経済学からの視点とその課題―(改訂版)
照屋健作
153 ページ
阿部晃大「目指すべき状態に関する客観的真理の探求の試み」
目指すべき状態に関する客観的真理の探求の試み
阿部晃大1
<目次>
1.問題意識
2.客観的な真理を探求することの妥当性について
2-1.何が問題とされているか
2-2.客観的な真理の探求の擁護
3.目指すべき状態に関する客観的真理について
3-1.先行研究について
3-2.目指すべき状態に関する真理についての仮説の提示
4.終わりに
5.参考文献
1. 問題意識
社会が何らかの危機的な状況に立っているという認識が共有されるようになとき、その
状況を打開するような方策を求める動きが生じる。「いかなる制度を構築するべきか?」こ
のような問いへの解答が求められる状況は、実際にしばしば発生している。
「いかなる制度
を構築すべきか?」という類の問いに答えようとするのであれば、目指される状態に言及
することは不可欠である。よってそのような問いには、いかなる状態が目指されるか、あ
るいはそれが定かでない場合なら、いかなる状態が目指されるべきなのか、という問いが
必然的に付随することになる。
さて、本稿では「目指すべき状態に関する客観的真理」について考察することを主題と
する。そのようなものが存在するのであれば、制度や政策を論じる上でそれを意識するこ
とが有用な場合があると期待することは、前節の議論からも分かるように自然な発想であ
る。そして、そのような真理が存在すると考えることが出来るという可能性を示すこと、
また、それがどのような性格のものでありうるかを提示することが、本稿の目指すところ
である。
1
東京大学大学院経済学研究科修士課程
-1-
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
とはいえ、
「目指すべき状態に関する客観的真理」という言明は、それ自体が既に議論の
余地がある代物であることを認めなければならない。まず、客観的な真理という概念が論
争的である。しかし、本稿の展望が、目指すべき状態に関して、それについての誰かの考
えに依存せずにそうであるような実在と対応するような、客観的な真理が存在する可能性
を論じることにある以上、客観的な真理が存在すると考えることやそのような真理を探求
することが出来ると考えることに対して懐疑的な議論を無視するわけにはいかない。
また、たとえ客観的な事実を探求することの妥当性が確認できたとしても、注意するべ
き点はまだある。それは、そもそも「目指すべき状態」たる状態が存在しなければ、それ
についての真理を云々することは出来ないという点だ。問おうとしている問いがそもそも
成立していない問いである可能性を常に意識しておく必要があるだろう。
これらの点を受け入れることが出来てはじめて、「目指すべき状態に関する客観的真理」
について議論することが可能になる。そこで、主題を論じていくにあたって、「客観的な真
理を探求することの妥当性について」まず論じ、その後に「目指すべき状態に関する客観
的真理について」論じることにしたい。
2. 客観的な真理を探求することの妥当性について
2-1.何が問題とされているか
科学論・科学哲学の分野において、科学が客観的な真理を厳正中立な方法で探求してい
るという描像に疑問が付されて久しい。野家啓一は、「現代の科学論は、「科学とは何か?
(What is science?)」という問いから、
「科学はいかに作動しているか(How science works?)」
という問いへとその舳先を大きく向け変えた」
(野家〔2006〕,p.193)と述べている。野家
は「科学的知識は公共的に所有されるものであり(公有制)
、その真理要求は科学者の人種
や国籍などとは無関係であり(普遍性)
、科学者は個人的利害から不正な手段をとってはな
らず(無私性)
、独断を排して信念を経験的・論理的基準に照らして吟味せねばならない(組
織的懐疑主義)
」(同書 p.189)という規範論が科学的実践と同一視された時代は終わり、
「現
代科学のあり方が規範的科学論が描き出した理想化された古典的科学像から大きく隔たっ
ていることは誰の目にも明らか」
(同書 p.197)になっていると述べている。野家が言及す
るような「科学論の最前線に位置している」
(同書 p.478)科学社会学、科学技術社会論と
いう潮流は2、科学的探求の実践が社会的・経済的・政治的な影響から中立でいられること
はないということを明らかにする限りで健全であろう。
2
金森・中島〔2002〕なども参照。
-2-
阿部晃大「目指すべき状態に関する客観的真理の探求の試み」
他方、科学的知識の理想像を解体しようとする試みが拡張されて、
「著名な科学社会学者
であるハリー・コリンズの「科学的知識の構築に際して、自然世界の果たす役割はほとん
「「現実とは」いわ
ど、或いはまったくない」という主張」
(Sokal〔1998〕邦訳 p.71)や3、
ゆる「事実の社会的構成の原因ではなく結果である」と言明するブルーノ・ラトゥールと
スティーヴ・ウルガー」
(ibid.)の主張のように、ラディカルなものになることもある。科学
者であるソーカルは、こうしたラディカルな主張に対して4、
「もっぱら社会的原因のみがそ
ういった説明(科学的な信念の形成の説明)に関与する――世界の存在様態は関与しない
――と主張されているならば、そう易々と同意するわけにはいかない」と述べる。
(同書 p.78)
ソーカルは、ニュートン力学が受け入れられるに際して、実在の動きについての予測の精
度が果たした役割など、いくつかの具体例を挙げて、客観的な実在が存在することや、実
在の働きが科学的な信念の形成に及ぼすと考えることを拒絶して、
「客観的科学知識の存在
を否定しても何も得られない」
(同書 p.80)と結論付けている。ソーカルは、客観的な真理
が存在することをそうと考えざるを得ないものとして積極的に肯定している。
もっとも野家は、そのようにソーカルがさしたる論証もなしに形而上学的な立場の一つ
である実在論を採用していることを批判している。そして、そのような素朴実在論的態度
は認識論的に見て問題があるとしている。科学哲学における認識論的関心は、人はいかに
して客観的知識を獲得しうるか、どのような知識や探求の方法が正当化されるか、といっ
た問題に注がれる。つまり、実在論を論証なしに用いることは、実在についての仮定が如
何にして正当化されうるかを十分に議論しないままにそれを仮定する点で不十分だとされ
ることになる。
ここまでの議論は、
(1)知識の探求を社会的状況や科学者(集団)の関心に中立的な方
法で実行できるのか(2)客観的な真理が存在すると考えることに妥当性はあるか、という
問題に関わるものであった。さらに、(3)ある知識が客観的真理であることやある方法論
が客観的真理に近づくものであることを確かめる方法はあるのか、という認識論の文脈に
おける「正当化の問題」が存在している。次に、このような議論が問題とする点を明らかに
したい。
知の探求において確かな基礎を求める「デカルト哲学的準拠枠」について、バーンスタイ
ンは「科学的研究の不変の規則・方法・基準と思われるものについて述べているいかなる言
3
原典および、原典で引用されている論文に当たることが出来ておらず、孫引きになってし
まっている。
4 『現代思想』Vol.26-13 のサイエンス・ウォーズを巡っての対談や、野家〔2006〕のサイ
エンス・ウォーズに関する章を参照。
-3-
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
明も、実際の科学的研究に即応せず、たんに「偽善的な一般論」にすぎないということが、
これまで明らかにされてきたのであり、このことこそ最近の科学哲学における実質的な研
究成果のひとつである」(Bernstein〔1983〕,邦訳 p.150)と述べている。
かつて論理実証主義者ないしは論理経験主義者によって唱えられた、ある種の知識や理
論から中立的な経験的事実を理論命題の検証や確証に用いることで理論体系を着実に真理
に近づけていくことが出来るとする方法論もまたデカルト哲学的準拠枠に沿ったものだっ
たといえるだろう。
ハンソンの「観察の理論負荷性」についての指摘は、人間があらゆる対象を解釈なしに観
察することの不可能性を説くものであり、理論と中立的な観察事実によって検証や確証を
行うという実証主義的な議論の一つの前提を突き崩すものであった5。
野家はこの議論をさらに進めて、認識は理論なしに成立しないのだから、理論によって
構成された観察事実によって理論が反証されることはないとしている6。もしも反証可能性
が存在しないのであれば、知識を実在と対応するものだと確かめる方法は存在しないこと
になるだろう。
クーンの共約不可能性についての指摘は、異なる理論体系の良し悪しについていかなる
場合でも判定できるような不変の判定基準が存在すると考えることに対する異議申し立て
たであった7。リチャード・ローティーも「諸言明が衝突し合うと思われるあらゆる点に関す
る論争を決着するに際して、いかにしたら合理的一致が得られるのかを示すような一連の
規則をわれわれが持ちうる」というデカルト以来の「認識論に支配的な考え」(『哲学と自然
の鏡』邦訳 p.368)である「共約可能性」への信仰をいましめている。そのような主張は、競
合する理論仮説の適否について合理的に判断する基準の存在可能性に対する疑義である。
そして、そのような主張は科学の実践の歴史において仮説を判定するのに合理的な基準が
5
論理実証主義・論理経験主義の議論とその問題点については、Caldwell〔1982〕が参考
になる。Redman〔1991〕の文献表も有用である。
6 観察の理論負荷性が反証の不可能性につながるという議論は、野家〔2006〕p.22 の他、
小林〔1996〕p.129 にも見られる。ハンソンの『科学的発見のパターン』(『Patterns of
Discovery』Hanson,1958)は未読でありハンソンがそのような主張を展開したのかどうか
は確認できていない。観察の理論負荷性の指摘はその認識枠組みを固定的に考えるもので
もなかったという意味でカントのカテゴリー論とは一線を画すると思われるがそこらの関
係は未整理である。野家はカントの議論を「知覚の概念負荷性」とみなして区別しているよ
うだ。(野家〔2006〕p.145)ちなみに、パースもハンソンと同様の議論を展開している。
(
『Some Consequence of Four Incapacities』Peirce,1868 参照)
7 バーンスタインは異なるパラダイム間の絶対的な理解不可能性として共約不可能性を理
解することをクーンの意図に反することだとみなしている。ここではバーンスタインのク
ーン解釈に拠っている。Bernstein〔1983〕参照。
-4-
阿部晃大「目指すべき状態に関する客観的真理の探求の試み」
存在しなかったことを論拠として展開されているのだ8。
さて、先述の(3)のような議論が問題点とする事項を以上で網羅できたと考えるのは
早計だろうが、以上で述べた議論をまとめれば以下のようになる。①絶対確実だと考える
ことが出来る知識は存在しないのではないか。②探求の方法についての合理的な基準など
存在しないのではないか。③理論を観察によって反証することは不可能であるから、事実
と命題の対応を真理とみなす考えは破綻しているのではないか。
2-2.客観的な真理の探求の擁護
前節の最終段落でも述べたとおり、客観的な真理の探求を可能だと考えることの問題点
が前節の議論で網羅されたと考えるべきではない。とはいえ、あらゆる考えられる問題点
を考慮してから出ないという戦略よりも、とりあえず動いてみてそれが問題を含むかを検
討するという戦略が有用な場合も多い。
そこで、本節では客観的な知識の探求を擁護する議論を展開したい。展開しながら、そ
の議論に問題がないかの検討に出来る範囲で努めるという形を取りたい9
10。
まず、(3)の①の主張を認めて、その正当性が疑い得ない知識などないという立場が受け
入れられる。その上でなお客観的な真理を追究する可能性を考えるのである。バーンスタ
インが述べるように、「パースにはじまり、他のプラグマティストを経て、クワイン、セラ
ーズ、ポパーなどに至る連続的な発展がみうけられるが、これらのひとびとは、基礎づけ
の要請というデカルト哲学に特徴的な考えに対して異議を唱えてきただけでなく、そうし
た基礎付けを求めないような、科学的知識についての別の考えを、素描しようとしてきた。」
(Bernstein〔1983〕,邦訳 p.150)
本稿で展開される議論は、上の引用でそのような探求の創始者として言及されているチャ
ールズ・サンダース・パースの議論に基本的に依拠している。パースの探求の理論は、前
節で展開された客観的な真理の探究に対する懐疑的な議論に対して、なお有効な部分が多
いように思われる11。
さて、絶対的に誤りえない知識が存在しないのであるから、まずは盲目的に信じること
クーンやファイヤーアーベントはそのような議論を展開した代表的論者である。Redman
〔1991〕参照。
9 気づかない問題点は多く残るだろうが、今後の批判的検討に委ねざるを得ない。
10 このように考えていたが、本節の執筆を最後に回してしまった関係で時間が足りなくな
ってしまった。前節で問題とされた部分に対する大雑把な反駁で終わってしまっている。
11 もっとも、これまで提示されてきたあらゆる懐疑的な主張に対しての有効性を主張出来
るような哲学的素養が備わっているはずもない。今後の大きな課題である。
8
-5-
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
から始めなければならない。もっとも、意図せずとも人間は様々なことを盲目的に信じて
いるものである。人がその性質についてどう考えるかに関わらず成立しているような性質
を持つような、何らかの実在が存在すると考えることは、客観的な真理を探求するために、
まずは盲目的に受け入れざるを得ない仮説である。これをまず受け入れることは、この仮
説が永遠に批判にさらされないことを要求するわけではない。真理の探求が進められた結
果、そのような仮説に疑問が付される可能性は常にあると考えるべきだろう12。ともあれ、
実在論を受け入れる際にまずはその妥当性を認識論的観点から論証する必要があるとする
主張は受け入れがたい。
((2)への反駁)
とはいえ、絶対確実でない知識を持たない状態から探求をスタートして、いかにして知
識を実在と対応するようなものにすることが出来るのだろうか。その問いに答える前に、
実在の性質について整理しておくのがよいだろう。
仮に人間の認識に未来永劫どのような形であれ絶対に影響を及ぼさないようなものがあ
るとしよう。しかし、そのような実在についての認識は絶対的に成立し得ない。そのよう
なものが存在すると考えることは、知識の探求においては意味をなさない。そのことから、
パースは、存在するものとは、人間の認識に実在的な影響を及ぼしうるものであり、それ
についての知識が成立しうるものだけだと考える。(CP.5.254.-258.)そして、パースは実
在に関して人間の認識が直観的に直接成立することを否定する。
(CP.5.259-263)パースは認
識を、実在的性質を持った対象と認識主体が関係を持った結果生まれるものであると考え
た。そのような認識過程をパースは記号過程として捉えようとする。パースの体系におい
ては、記号は、他の記号(思考など)と関係を持つことで新たな記号(解釈項)を生みう
るものであり、このような過程をここでは統一的に記号過程(semiosis)と呼ぶことにする。
このような関係を認識過程に適用すれば、ひとつの記号である認識対象は、解釈者の何ら
かの観点(これも一つの記号である)によりその記号の解釈項が生み出される。この解釈
項が認識である。解釈項もまた記号であり、再び解釈者の何らかの観点から、新たな解釈
項を生み出されることになる。このように、あらゆる認識(いわゆる理性的な把握ばかり
ではなく、感覚や感情もそこには含まれる)は記号過程の結果生み出された記号と捉えら
れる。そのような記号的把握において、実在的な性質とは、他のある実在的な性質の束を
持った記号と関係を持った結果、いかなる実在的な性質の束を持った記号を生み出すかと
いう形で捉えられることになる。
12
勿論、この根本的な仮説はラカトシュでいうところのハード・コアであるから、反証と
思われる事例によりたやすく放棄されると考えることは出来ないだろうが。
-6-
阿部晃大「目指すべき状態に関する客観的真理の探求の試み」
つまるところ、実在的な性質とは、他の媒体との関係によって生み出される結果がどの
ようなものであるかのことであり、実在的な性質を持つ対象が他のものと一切関係せずに
それ自体でどのような性質を持っているかというようなことではありえない。何故ならば、
人間の認識と全く関係せずにそれ自体で持っている性質は、人間の認識に影響を及ぼさな
いのだから、知識の対象とはなりえず、真理の探求の文脈では存在しないと考えても差し
支えないからである。
このように、真理の探求の対象となるのは、他の実在物と関係を持つことで実在物を生
むような、何らかの実在の性質であるから、ある知識が実在の性質と対応するものである
ためには、実在の性質の関係についての予測が、実在の性質によって生み出された実在物
と一致している必要があることになる。予測が一致しているかどうかを確かめるにも、生
み出された実在物の性質についての知識が必要となる。
さて、このようにパースの議論においては、観察の結果の見方に影響を及ぼすという観
察の理論負荷性の議論が受け入れられていることが分かる。しかし、だからといって反証
が不可能になると考える理由はない。観察の理論負荷性が反証の不可能性を帰結するとい
う議論は、アドホックな補助仮説の導入によって決定的な反証が不可能になるということ
なのではないかと思われる。
確かにそれはその通りだが、尐なくともそのような仮説なしには仮説体系が維持されな
いことが明らかになることも事実であり、それゆえ知識の探求が前進する方法が事実との
対応においてはなされないと考える理由はないといえるだろう。
((3)③への反駁)
さて、とりあえず前節で提起された問題について残るのは、(1)と(3)②についてどう考え
るかである。
(3)②については、明らかにその通りであると認めることになるだろう。ある段階で考え
付かれていて維持されている仮説体系について、その良し悪しを比較出来る明確な基準が
存在すると考えることは、客観的な知識の探求の成立可能性には関わらない。もっとも、
パースは望ましい仮説の基準をいくつか提示している。それは、客観的な真理の探求が人
間が最高善にかなった習慣を獲得することを究極的には目指しているという観点から提出
される基準である。そのような仮説の基準の存在は、あらゆる仮説を共約可能な形で比較
することが出来るような基準で探求が行われなければ、合理的ではないといった議論とは
質が違うことは明らかだろう。
(1)のような問題についても、それは客観的な真理の探究を不可能にするものではない。
認識関心や探求される領域の設定が恣意的であっても、そこにおいて客観的な真理を探究
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
することが不可能になるということはない。とはいえ、客観的な真理の探究の結果維持さ
れえない仮説を、政治的・経済的な圧力によって真理であるとするバイアスがかかってし
まうような事態への危惧は極めて正当なものである。パースは、客観的な真理の探究と実
践的な知識の探求を混同することを厳しく戒めた13。それは、その営為が客観的な実在の把
握という目標に向かって近づいていこうとする試みであるからであった。
3. 目指すべき状態に関する客観的真理について
3-1.先行研究について
「~すべき」という命題の性質を議論することを専門としているような学問分野はメタ倫
理学である14。そうした道徳判断の性格がどのようなものであるかといった問題について、
専門家の間でなんらかの合意が達成されつつあるかといえば現状はそのような状態からは
程遠いようだ。メタ倫理学の理論家の一人であるマイケル・スミスは、各論者の不一致を
並べ立てた上で「現状はあまりにも多様であるために、メタ倫理学の理論家たちが全員同
じことについて語っていると想定することはできないのではないか、と思わざるをえない
ほどである」
(Smith〔1994〕邦訳 p.8)と嘆いている。もっとも、スミスはその著作の中
で、そのような広範な不一致が彼の言う「道徳の中心問題」
(The moral problem)に対して
いかなるスタンスを取るかによって説明できるとしている。
「道徳の中心問題」とは、道徳
判断の客観性、道徳判断の実践に対する影響、信念と欲求の関係、それぞれについてどう
調和して考えることが出来るかという問いかけである。
メタ倫理学者の広範な不一致を分類する枠組みは他にも存在するようだ15。後学のために
その分類を引用させて頂くと、「「道徳判断は信念を表しているか」という問いに……肯定的
に答えるのが認識説であり、否定的に答えるのが否認識説である。…非認識説にはエアの
「情動説」(Ayer,1936)、ヘアの「指図説」(Hare,1952)、ブラックバーンの「擬似-実在説」
(Blackburn、1984)の他に、ギボードの「規範-表出説」(Gibbard,1990)がある。認識説
は「道徳判断は尐なくともときには真であるか」という問いに対して肯定的に答えるか……
によってさらに二つに分けられる。否定的に答えるのがマッキーの「誤謬説」(Mackie,1977)
例えば『連続性の哲学』第 1 章などを参照。
メタ倫理学における先行研究のサーベイは他の分野に輪をかけて不十分であることを初
めに断っておく。
15 Smith〔1994〕邦訳の樫則章による監訳者あとがきを参照している。この分類は
Alexander Miller,An Introduction to Contemporary Metaethics, Polity, 2003 によるとさ
れている。
13
14
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阿部晃大「目指すべき状態に関する客観的真理の探求の試み」
である。右の問いに肯定的に答える見解は、「そうした信念は、その構成に関して、人の意
見ないしは判断と独立の事実に関わるものであるか」という問いに肯定的に答えるか否か
によってさらにまた二つの立場に分類される。否定的に答える説は、「判断-依存説」ないし
は「最高の意見説」と呼ばれる(Wright,1988)。今述べた問いに肯定的に答える立場はさら
に「そうした事実は自然的事実であるか」という問いにどのように答えるかによって二つに
分けることが出来る。肯定的に答えるのが自然主義であり、否定的に答えるのが非自然主
義である。非自然主義者にはムア(Moore,1903)、マクダウエル(McDowell,1978)、プラ
ッツ(Platts,1979)、ウィキンズ(Wiggins,1987)らがいる。自然主義は「道徳的事実は他の
自然的事実に還元されうるかという問いに対して、肯定的に答えるか、それとも否定的に
答えるかによってまた二つに分類される。……還元されうると答える立場は、ハーマン
(Harman,1977)、レイルトン(Railton,1968)らの還元説と、ジャクソン(Jackson,1992)
らの分析的帰納説……とに分けられる。道徳的事実は他の自然的事実に還元されない独自
の自然的事実であると主張する非還元説は一般にコーネル・リアリズムと呼ばれ、スター
ジョン(Sturgeon,1986)、ボイド(Boyd,1988)、ブリンク(Brink,1989)、セイヤー-マッ
コード(Sayre-McCord,1988)らによって主張されている。」
さて、このような Miller のメタ倫理学説の分類を眺めてみると、一つの疑問が浮かんで
くる。道徳判断とは、一括りにされてもよいものなのかという疑問である。幸いにもヒラ
リー・パトナムの著作にこの疑問に対する同様の懸念が表明されている箇所を見つけるこ
とが出来た。「これ(「論理的真理は記述ではない」というの)と同様に、「倫理的真理は記
述ではない」と言えるかというと、事はそう単純には運ばない。なぜなら、いかなる種類の
倫理的言明を念頭に置くかによって、その答えは変わってしまうからである。」(Putnam
〔2004〕,邦訳 p.89,()内は引用者)本稿が問題としている言明である、「~すべき」につい
ても、明確な目的が与えられている場合には真偽が問える言明であると考えることが出来
るだろう。一方で、目的が明確にされていない状況で「~を目指すべきだ」という言明であ
れば、人間にはそもそも所与の目的が存在するのだという形而上学観を持っていない限り
は、先の場合と同様なし方で真偽を問うことが出来ると考えることは難しい。
スミスが展開する議論は、先述したような懸念にも対応出来る形になっているようだ。
その議論においては、道徳判断について、動機付けに関わるものと、正当化(規範)に関
わるものの区別がなされている。スミスは、動機付け理由が欲求と目的-手段に関する信念
とによって構成されるというヒューム主義者の議論を受け入れたる一方で、目的-手段関係
とは区別される規範的な価値判断についてもそれが真偽の問える信念であるとする立場を
-9-
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
採っている16。脈絡もなにもないが、現状把握していて今書ける範囲での先行研究について
の考察は以上である。
3-2.目指すべき状態の条件に関する真理についての仮説の提示
まずは、目指すという営為のあり方から何かしらの真理が導かれるかどうかを検討する。
目指される状態とは、一連の目的志向的行為において、その行為の帰結の期待がそれと出
来るだけ一致するように、行為を調整するもののことである17。目的の設定もまた、その帰
結の期待がそれと出来るだけ一致するように、高次の目的に調整されうる。このような階
層関係は構造上は際限なく続くと考えることが出来る。そして、その構造からも分かるよ
うに、目的は欲求とかけ離れたものにでもなりうるのであり、目指すことが出来るものの
性格から目指すべき状態についての条件を導く試みは失敗に終わる。
次に、目指すべき未来の状態についての判断が何らかの形で実在的な関係と関わる可能
性について検討したい。そうした可能性を頭ごなしに否定することは出来ない。そこで、
もっともらしい仮説を立てることが出来るか考えてみる。
仮説を立てる上で、それが満たすことが望まれる条件を考えておくことは有用である。
倫理的判断の原理を問う文脈において、常識的な道徳的判断との整合性が問われることが
多いが、これは考え付かれる仮説においても求められるだろう。もっとも、一方で常識的
な道徳的判断が不可謬であると考えることが出来ないということも意識しておくべきであ
るが。また、それが客観的な真理の探求の結果保持されている理論体系と整合的であるこ
とも望ましいといえる。そして、実在的な関係に言及する以上、未来における事象にも言
及していることも望ましいだろう。
ここでは一つの仮説として、「目的志向的な主体において、何らかの状態が目指すべき状
態として想定され続けるための必要条件が存在し、その条件は何らかの生命的秩序が存続
していることである。そして、何らかの状態が主体において規範的な意味で目指すべきだ
とされるとしたら、それはその主体が目指すべき状態として仮説的に想定し続けることが
出来る状態である必要がある。」というものを提示したい18。これは、敷衍して言えば、目
16
ここではこれ以上スミスやパトナムの議論を分析することは出来ない。他の先行研究の
整理とともに今後の課題としたい。
17 そのような行為が可能であると考えることは真理の探究の結果保持されている知識体系
とも矛盾しないかどうかについても議論することが望ましいが、これは今後の課題とした
い。
18 この仮説はパースの規範学の思想に影響を受けて提示されている。パースは究極的な目
的を追究しないことこそが道徳的な悪だと考えた。究極的な目的は反省によって達成され
- 10 -
阿部晃大「目指すべき状態に関する客観的真理の探求の試み」
的志向的な主体において、絶対的に目指すべきでないとされることになる状態が存在する
という仮説である。
この仮説の後半部分は、規範的な意味で目指すべき状態とされるためには、その状態が
後に目指すべきではなかったとされない必要があるという主張であり、目指すべき状態に
ついて規範的に言明することの正当性を受け入れるならば、妥当な主張であると言えよう。
前半部分は、未来における目的志向的な主体の判断と実在との関係に言及している。とは
いえ、このままでは主張が幾分曖昧である。それは、「想定され続ける」ということをどの
ように考えるかによって意味が大きく変わってくると思われるからだ。ある人間の個体に
おいて、「死」を目指すべき状態だと設定して、その状態が実現されるまではそれを望まし
いと想定し続けることは可能である。このような意味で「想定され続ける」ことを認めるな
らば、直ちに反証がなされたことになるだろう。よって、「想定され続ける」ことが、その
状態を実現した後にその状態を反省した場合にもその判断が主体によって是認されること
も含むと考える必要がある。
では、この仮説の妥当性の検討に移る19。まず、望ましい仮説の条件として考えていた常
識的判断との整合性であるが、価値判断の相対性や共約不可能性を保障しつつも、人間も
他のあらゆる生命も消え去ってしまった状態を絶対的に悪い状態だと考えることが出来る。
このことは常識に沿っているのだろうか。正直よく分からない。価値判断を育むどんな思
考習慣や規約についても、如何なる場合にもそれを排除する理由があると考えるのは錯誤
に過ぎないとする考え方は、一般的な常識に沿わないと感じるような常識的判断を筆者は
持っている。また、世界が非確定的であるということも考慮に入れれば、必要条件は存在
しても目指すべき状態が確定していないというこの仮説は、価値観が多元的であることを、
積極的に擁護するべきだという考えを推し進めるように思われる。このことは、スミスの
ように合理的な人が特定の状況でいかに振舞うかについての意見が一致することを信じる
からこそ反省と討論を繰り返すのだし、そのような一致を目指した検討により得られた合
意が規範的な価値判断として参照されるのだという考え方と大きく異なっている20。どちら
るものであり、それは美的な質であると主張した。そのような美的な質は各人において「発
展」させられるものである。そして、そうした状態で取られる行為は状況に対して依存的で
ある仮言的命題の束である習慣の確立であるとされる。
(CP.5.129.-5.136.,2.198-199 や伊藤
〔1985〕p.176-187,Stuhr〔1994〕などを参照。
)一方、Misak〔1994〕では、後述するス
ミスのような議論がパースの規範学の思想から導けることを示唆している。
19 とはいえ、どのような検討が必要であるのかについて採るべき指針が分からない。関連
文献に当たる必要あるだろう。
20 Smith〔1994〕邦訳 p.255 参照。
- 11 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
の考え方が優れているか、スミス以外の考え方、或いは他の仮説を含めて検討することは
今後の課題としたい21。
この仮説は疑わしい面も間違いなく存在している。その仮説が成立する理由が明らかで
ないこともその一つだ。そもそもその仮説は生命体であるための必要条件を、目指される
べき状態の必要条件として提示することで、それの対偶である、絶対的に目指されるべき
でない状態が生命体が存在しないということを帰結するような形をとることで、常識に訴
えてその主張に妥当性が存在するかのように見せかけているだけかもしれない。或いは、
この仮説は、想定され続けることを規範的であるための条件だと考えることから帰結する
に過ぎず、想定され続けることが規範的であると考える必然性はないのだから、そのよう
な仮説はまやかしに過ぎないという議論もありえそうだ。また、真理の探究の結果保持さ
れている知識体系との整合性を盾にして、その道徳的主張を特権化しようとする試みは、
歴史を顧みるに22、採用することを十分に躊躇させる性質のものだと言える。勿論、その仮
説はいつなんどきでも批判にさらされるべきものだ考えてしかるべきだが、そもそもその
ような仮説について考えること自体が傲慢ではないか。
(自分の力不足という面を除いたと
しても)そして、この仮説に全く確信を持てない個人的な理由としては、そのような倫理
学的主張を見たことがないことにある23。
今は、この仮説が暖めるべきものなのか捨てるべきものなのかを計りかねている。いず
れにしても、メタ倫理学関連の先行研究にあたる必要があるのは明らかだ。尻切れとんぼ
の感が否めないが、本稿の議論はここで終わる。
4. 終わりに
当初、本稿で展開される議論をパースの思想の帰結として描くつもりであった。しかし、
そうした構想に行き詰まりを感じ、今回は提出を見送ることを一度諦めた。しかし、ぐち
21
目的志向的な主体はそれが存在している限り、動的秩序を自己形成し続けている必要が
あるし、そのような秩序の自己組織化においては何らかの確定した主体概念が存在しない
というような議論を展開しなければ、生命的秩序や主体という概念を使う理由が説明でき
ない。とはいえ、今はそのことを論じる力も時間もない。そのような議論を展開する上で
は、清水博や多田富雄らの議論を参照にするつもりであった。もっとも、そうした議論の
信憑性も判断できないようなど素人が首を突っ込むべき領域かどうかは分からないのだが。
目的志向的な主体が社会であると考えるかについても検討する必要がある。
22 Redman〔1991〕の付録に収められている「存在-当為」問題の小史でも、そのような試み
に対して十分に慎重になるべきだと考える理由があることが説かれている。
23 類似性のある議論であれば、進化倫理学や或いは山下〔2005〕などが挙げられるかもし
れない。もっとも、倫理学の議論を単なる勉強不足ゆえに、見たことがない可能性もある。
- 12 -
阿部晃大「目指すべき状態に関する客観的真理の探求の試み」
ゃぐちゃのままでも考えたことを文字に起こして意見を仰いだほうが良いのではないかと
いう貴重な助言を頂き、改心して提出することにした。そういった経緯と自分の力不足か
ら、黄身のない卵で作ったスクランブルエッグのような代物になってしまったことをお詫
び申し上げる。
5. 参考文献
Alan D. Sokal〔1997〕"What the Social Text Affairs Does and Does not Prove", In A House Built on
Sand:Exposing Postmodernist Myths about Science, Oxford University Press.(河村一郎訳「『ソー
シアル・テクスト』事件が明らかにしたこと、しなかったこと」『現代思想』Vol.26-13 青土
社,1998)
Bruce J. Caldwell〔1982〕Beyond Positivism Economic Methodoligy in hte Twentieth Century, Unwin
Hyman Limited.(堀田一善・渡部直樹監訳『実証主義を超えて』中央経済社,1989)
Charles Hartshorne and Paul Weiss〔1965〕Collected Papers of Charles Sanders Peirce, Vol.Ⅰ-VI,
Belknap Press of Harvard University Press.〔引用時は略号 CP.巻数.パラグラフ〕
“Some Consequences of Four Incapacities” Peirce.C.S.〔1868〕CP.5.264-317(世界の名著 48,山
下正男訳〔1968〕
『人間記号論の試み』中央公論社)
Cheryl Misak〔1994〕"A peircean Account of Moral Judgement", in Perice and Value Theory, John
Benjamins Publishing Co.
Deborah A. Redman〔1991〕Economics and the Philosophy of Science, Oxford University Press, Inc.
(浦上博逵・橋本努訳『経済学と科学哲学』文化書房博文社,1994)
Hilary Putnam〔2004〕Ethics Without Ontology, Harvard University Press.(関口浩喜・渡辺大地・
岩沢宏和・入江さつき訳『存在論抜きの倫理』法政大学出版局,2007)
John J. Stuhr〔1994〕"Rendering the World more Reasonable:The Practical Significance of Peirce's
Normative Science", in Perice and Value Theory, John Benjamins Publishing Co.
Michael Smith,〔1994〕The Moral Problem, Blackwell Publishers Limited.(樫則章監訳『道徳の
中心問題』ナカニシヤ出版,2006)
Richard J. Bernstein,〔1983〕Beyond Objectivism and Relativism Science, Hermeneutics, And Praxis,
the University of Pennsylvania Press.(丸山高志・木岡伸夫・品川哲彦・水谷雅彦訳『科学・解
釈学・実践Ⅰ,Ⅱ』,岩波書店,1990)
Richard Rorty,〔1979〕Philosophy and the Mirror of Nature , Princeton University Press.(野家啓
一監訳『哲学と自然の鏡』産業図書株式会社,1993
- 13 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
伊藤邦武編訳『連続性の哲学』岩波書店,2001
伊藤邦武『パースのプラグマティズム』勁 草 書 房 ,1985
金森修,中島秀人編『科学論の現在』頸草書房,2002
小林道夫『科学哲学』産業図書株式会社,1996
野家啓一『
〔増補〕科学の解釈学』筑摩書房,2007
山下和也『オートポイエーシスの倫理――新しい倫理の考え方――』近代文芸社 2005
- 14 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成
岩田佳久1
<目次>
1.課題の設定
2.資金供給国
3.東欧諸国
4.国籍別かつ通貨別の債権分解の方法とその発展
おわりに
1.課題の設定
2008 年 9 月のリーマンショックで世界的に進化・拡大した世界金融危機はアメリカ-EU
間の大きな金融連関が危機の波及の媒介となった。EU の金融機関が保有していたアメリカ
のサブプライム・ローンからの損失がまず問題になったが、次には EU 内におけるドル資金
の逼迫が問題になった。EU 内の金融機関はドルで多額の資金を調達して運用していたが、
アメリカの金融危機の発生でドル資金市場が逼迫し、借り入れていたドル資金の繰り延べ
・返済が困難になった。これに対して、FRB から ECB をはじめとする諸中央銀行へ通貨
スワップという形で大量のドル資金が供給された。
ここで FRB は「国際的な最後の貸し手」
の役割を果たしたといえる。
外貨による資金調達・運用や国際的な最後の貸し手の問題は USD と EUR の関係が最も
重要だが、局所的には他の場所・通貨でも問題になる。本稿では複数の通貨が錯綜する東
欧諸国の実態をみる。
《略号の注記》
【国名】AT:オーストリア、BE:ベルギー、FI:フィンランド、FR:フランス、DE:ド
イツ、IT:イタリー、NL:オランダ、US:アメリカ、PT:ポルトガル、SE:スウェーデ
ン、GB:イギリス。
【通貨名】EUR:ユーロ、USD:米ドル、GBP:英ポンド、CHF:スイス・フラン、SEK:
スウェーデン・クローナ、HUF:ハンガリー・フォリント、PLN:ポーランド・ズロチ、
CZK:チェコ・コルナ、 EEK:エストニアクローン、LVL:ラトヴィア・ラッツ、LTL:
リトアニア・リタス 、FC:外貨、LC:現地通貨
【中央銀行名】FRB:アメリカ連邦準備制度、ECB:欧州中央銀行、SNB:Swiss National
1
東京大学経済学研究科博士課程所属。
- 15 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
Bank スイスの中央銀行。
【その他】MFI:通貨金融機関 monetary financial institutions、nonMFI:非通貨金
融機関
LAFB:外資系銀行の現地店舗(Local affiliates of foreign banks。以下と略記)
《地域の限定》
地域としてはバルト 3 国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ハンガリー、ポーランド、
チェコとする。南欧諸国は事情が異なると思われ、またスロバキアはすでに EUR 圏に入っ
ているので対象からはずした。
これらの東欧 6 カ国は 1990 年頃からのソ連圏崩壊以降の体制転換の過程で、USD が相
対的に大きな位置を占めたこともあったが 2000 年頃には EUR が急速に拡大した。その上
でこれらの東欧 6 カ国はそれぞれ事情が異なる。分析の概観をあらかじめ述べておけば、
まずバルト 3 国はスウェーデン(非 EUR 圏)系の銀行による EUR 建て債権が国内通貨建て
を 2-6 倍の規模で上回っている。ハンガリーとポーランドでは 2000 年代前半まで EUR
の比率は高くなく、自国通貨の方が数倍多かったが、2005 年頃からおそらく住宅ローンと
思われる CHF 債権が急速に増加し、2008 年には外貨建て債権がかなりの比率を占めるよ
うになる。チェコは国内金融機関の外資系の比率が約 96%とかなり高いにもかかわらず、
債権はほとんど自国通貨建てである。
《項目の限定》
通貨はいくつかの役割を果たすが、ここでまず金融機関の債権、特に銀行債権を中心に
検討する。外貨建て銀行債権の発生には便宜的に言って、貸し手と借り手の両方からの見
方があるようである。本稿では理論的に展開することはできないが、外貨建て債権を論じ
る際の前提として簡単に確認しておく。
【貸し手からの過剰資金アプローチ】
古典的な資本輸出論は、国内での過剰資金が輸出されて単純に外貨建て債権が発生する
というもので、資金の貸し手からみるアプローチである。東欧諸国については
Banincova[2009]の論述に見られる。そこでは一般論としてだが、外貨建ての貸出の利点は
外資系銀行からすれば為替リスクのないことと、本国の親銀行からの資金調達の容易さ、
が挙げられている(p105)。しかしこのアプローチは、Banincova[2009]がまさに焦点として
いるスウェーデン系銀行からバルト 3 国への貸出で矛盾が生じている。スウェーデンは
EUR を導入しておらず、SEK という自国通貨があるが、バルト 3 国へは EUR で貸し出し
ているからである。こうした通貨のギャップはバルト諸国以外にも大量に存在していた。
その結果、2008 年危機には外貨流動性不足がスウェーデンでも発生し、2007 年 12 月に
ECB から 100 億 EUR のスワップ、08 年 9 月に FRB から 400 億 USD のスワップの設定
を受け、その一部を利用して国内の銀行に外貨を供給している。
またハンガリーとポーランドで CHF 建て債権が急上昇した時期に、この両国に対するス
イス系銀行の債権はほとんど存在していない。この点も過剰資金アプローチの難点である。
- 16 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
【借り手からの資金調達アプローチ】
今回の金融危機におけるドル不足問題を扱ったものはほとんどこのアプローチによるも
ので、ある国の金融機関が低利の外貨を借りて、国内で貸し出すために外貨建て債権が発
生するという資金の借り手からみたもの。危機が起きてその外貨の市場が逼迫すると、そ
の国の中央銀行は外貨の供給には制約があるため、外貨流動性危機が発生することになる
(Allen and Moessner[2010]p5 など)。このアプローチでは危機発生時の外貨流動性供給が
焦点となる。
このアプローチに基づいて、危機時の中央銀行の流動性供給の観点から、通貨の種類を
考えると以下の3つのケースがあるように思われる。ただし本稿では債権のみから考える
ので MFI では債権の通貨と、調達した資金の通貨の種類は同じと仮定する。また資金調達
は短期、貸付は長期で、外貨の場合、外貨での資金調達の市場で逼迫すれば外貨流動性危
機が生じる、と想定する2。
①外貨建て債権を保有しているのが国内系の MFI であれば、外貨での資金調達の市場で
逼迫が起きたときには、自国中央銀行の外貨供給能力が問題となる。ここでは自国中央銀
行が弾力的に供給できる自国通貨と債権に用いられた外貨の2種類の通貨が現れる。
外資系の場合は 2 つに分かれ、
②必要な外貨の国の系列の MFI であれば、親銀行を通じて自国の中央銀行の流動性供給
に準じた外貨供与を受けることができる。ここでは債権に用いられた外貨は親銀行が立地
する本国の中央銀行が弾力的に供給できることになり、債権に用いられた外貨1種類の通
貨で完結するといえる3。
③しかしバルト 3 国に対するスウェーデン系の MFI のように、必要な外貨の国の系列と
は異なる MFI であれば、親銀行が立地する本国の中央銀行が弾力的に発行できる本国通貨
と債権に用いられた外貨の2種類が現れる。後者は通常、国際通貨として機能する通貨で、
親銀行の立地する本国中央銀行の外貨供給能力が問題となろう。
したがって外資系といっても③の場合は②と違って、①の場合に近くなる。
今回の金融危機の特徴は、アメリカと EUR 圏(+イギリス)との関係を基幹としながらも、
上記の③のタイプの MFI が特殊な地位を占めていたと思われる。従来の研究では現地通貨
と外貨という分類が軸だが、外貨を一括すると外資系銀行が本国と異なる外貨で貸し出す
③のケースが見過ごされるのではないか。本稿では十分に取り扱うことはできないが、可
2以上の想定は一般的には認められると思われるが、もちろん資金の調達・運用での通貨構
成や期間は多様で、完全には成立するわけではない。
3
②と③の場合、外国店舗の立地する国の中央銀行も自国通貨または当該通貨で外銀に流動
性供給を行うこともあり、自国通貨が供給される場合は、支店の立地する国の通貨が追加
され、②では2種類、③では3種類の通貨が現れる。しかし外銀の外貨流動性危機に現地
の中銀が現地通貨を供給することは大規模には行なわれないと思われる。
- 17 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
能な限りこの視点を維持して分析を行ないたい。
具体的にこの③のタイプを浮き上がらせるためには複数の角度から光を当てる必要があ
る。MFI の活動のすべての項目を検討することは不可能なので、本稿では債権の通貨別・
銀行国籍別の検討を中心に行ない、補完的なデータを加える。
具体的にはまず、主要な貸し手、または通貨の国としてアメリカ・EUR 圏・イギリス・
スイス・スウェーデンの保有する対外債権の通貨構成をみる。USD が圧倒的なアメリカを
除けば自国通貨以外の通貨の債権が多いことを確認する。
次に東欧諸国はまず、6 カ国の金融構造の特徴を確認した後に、各国ごとに次の順序で分
析する。外貨準備、為替レート(EUR にペグしているバルト 3 国は除く)、非金融部門への
通貨別債権構成、それらの通貨別金利、その国へ与信した銀行の国籍別構成(国籍別 BIS 報
告銀行による各国への与信 foreign claim。国内での債権とクロスボーダー債権をともに含
む)。
さらに最近、Maechler and Ong [2009]で外資系銀行の現地通貨建てと外貨建て、現地系
銀行、クロスボーダー債権を区分するデータ分析法を明確に示しているので、その方法に
基づいた分析も行なった。さらにこの方法を進めて本稿では新たな債権の通貨別分解を示
した。
その上で、本稿は完結した論考ではなく、東欧における通貨構成を視覚的に確認するた
めのデータ集の役割を主な目的とする。
《データの注記》
グラフについて:グレーはリーマンショックの時期を示す。2008M9 または 2008Q3 にな
る。ただし 9 月 15 日なので実際の影響はグレーの部分より後に生じる。
銀行の国籍と立地の区別について:本国・海外支店をあわせて国籍別に見る場合、たとえ
ば「スウェーデン系」というように「系」をつける。立地で国内の場合は国名のみの表示
とする。たとえば「ハンガリーの債権」という場合、ハンガリー国内に立地する自国系・
外資系をすべて含めた MFI の所有する債権のことである。
2.資金供給国
まずアメリカとイギリス。
- 18 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
アメリカ国内金融機関の対外債権通貨別
(billions USD)
2500
ユーロ圏金融機関から域外非銀行への債権・通貨別
Billions Euro
45000
CHF
GBP
USD
2000
対銀行USD
対銀行FC
対非銀行USD
対非銀行FC
1500
1000
EUR
JPY
30000
15000
500
2010Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
2002Q1
2001Q1
2000Q1
1998Q1
1999Q1
0
2010Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
0
アメリカのデータは BIS:Locational banking statistics/2A から 2D まで。アメリカで
USD が多いのは当然予想されるので他との比較に意味がある。EUR 圏のデータは ECB:
Statistical Data Warehouse から。EUR 圏は時期に応じて構成が変化するが、大きな加盟
国の追加は尐ないのでその影響はほとんどないと思われる。2000 年代初頭まで USD が相
対的に大きくなっているのはアメリカの IT バブルの影響だろう。しかし 2000 年後半のア
メリカのブームに USD は EUR と同程度であるよりも増えていない。理由は良く分からな
いが、EUR 建て圏外債権が同程度に増加したとみるべきかもしれない。次にイギリス。
データはイングランド銀行 Bankstats の
イギリス国内全金融機関による対外債権通貨別
(BillonUSD)
3000
GBP
EUR
JPY
2500
2000
C3.3。イギリス国内に立地する MFI が保有
USD
CHF
するイギリス国外に対する債権。あまり特
1500
徴はないが、外貨債権が多いことと、USD
1000
と EUR がほぼ同じことがわかる。続いて
500
スイス。
2010Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
2002Q1
2001Q1
2000Q1
0
600
スイス系銀行の国外債権 ・対銀行
CHF Billions
1000
スイス系銀行の国外債権・対顧客
CHF Billions
500
800
400
600
300
400
200
200
100
CHF銀行
Other銀行
Total非銀行
USD非銀行
Other非銀行
USD銀行
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
2003M01
2002M01
2001M01
2000M01
1999M01
1998M01
1997M01
1996M01
2007M01
2008M01
2009M01
2010M01
2004M01
2005M01
2006M01
2000M01
2001M01
2002M01
2003M01
1996M01
1997M01
1998M01
1999M01
1995M01
Total銀行
EUR銀行
1995M01
0
0
CHF非銀行
EUR非銀行
スイスの中央銀行のデータ。スイス系の国内・外国の店舗の合計、つまり国籍別の数値で
- 19 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
ある。非銀行への債権は銀行への債権の約6割。銀行への債権はアメリカのバブルにあわ
せて変動しているように見える。2000 年ころの IT バブルでは合計額の山に対して通貨別
では山が見えない。これは通貨不明の債権が山となって増えているからである(グラフで
は省略)
。EUR はその他通貨と同じレベルで USD に比べればかなり小さい。CHF もわず
かである。次にスウェーデン。
データはスウェーデン統計局のサイトから。
1200
スウェーデン銀行対外債権残高
(SEK billion )
1000
スウェーデン国内から外国に対する債権。
EU とは EUR 圏とは異なり、もっと広い。
EU内FC
EU内SEK
EU外FC
EU外SEK
800
600
スウェーデンは EUR に不参加で、EUR
は外貨となるので、EU 内に対する EUR 建
て債権の増加は容易に納得できる。EU 外
400
での外貨建て債権はおそらくアメリカ関連
だろう。EU 内の SEK 建て債権は 200 年代
200
半ばまで、外貨建てに比べて一定の額が存
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
2003M01
2002M01
0
在したがその後は停滞と見える。この債権
のほとんどは MFI 向けだが、どこの国かは
わからない。
3.東欧諸国
3.1. 東欧諸国概観
バルト3国は EUR 導入に向けて対 EUR 為替レートをペグさせている(リトアニアは
2002 年以降、ラトヴィアは 2004 年以降、エストニアはそれ以前から)
。他の国は変動相場
制だが EUR に強く連動している。
次に外資系の比率と債権の外貨建て比率の相関を見る。
東欧諸国の外国系銀行と外貨貸出の関係
100%
ラトヴィア
エストニア
外貨貸出比率
80%
リトアニア
ハンガリー
60%
40%
ポーランド
20%
チェコ
0%
0%
50%
100%
外国系比率
- 20 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
総資産
資産比率
貸出通貨比率
総貸出/総資産
(百万 EUR)
外資系
外貨
ポーランド
254,785
72.6%
33.8%
59.0%
チェコ
147,504
95.9%
14.1%
53.9%
ハンガリー
134,103
61.2%
64.6%
51.9%
エストニア
37,252
98.9%
85.3%
44.6%
リトアニア
29,715
85.1%
64.7%
64.2%
ラトヴィア
28,613
61.2%
88.4%
72.7%
データは国内 MFI に占める外資系の比率は ECB、貸出の外貨比率は後に見るように各国
中銀による。グラフでわかるように両者に相関はない4。
住宅バブルの観点から住宅指標を Hypostat のデータで見ると次の通り。
10
GDPに対する住宅モーゲージ負債の比率
0.4
0.3
0.25
Estonia
7
Hungary
Latvia
6
Czech
Estonia
Hungary
Latvia
Lithuania
Poland
5
Lithuania
0.2
住宅完成数
(1998-2002年平均に対する比率)
8
Czech
0.35
9
4
Poland
0.15
3
0.1
2
0.05
1
2008
2007
2006
2005
2004
2003
2002
2001
2000
2008
2007
2006
2005
2004
2003
2002
2001
2000
1999
1998
1999
0
0
1998
0.45
住宅建築とモーゲージともエストニアとラトヴィアで急速な拡大が見られる。GDP に対
するモーゲージ負債の比率はエストニアとラトヴィアの高さに隠れているが、他国でも上
昇している。その比率は 1998-2000 年平均に対してリトアニアで 2.7 倍、ハンガリー・ポ
ーランド・チェコで 1.6 倍から 2 倍弱へと増加している。
つづいて各国の分析にうつる。
データについて、東欧諸国のデータ出所はほとんど同一なので一括して示しておく。
4
ところで、チェコとハンガリーの外資系の比率について、ERBD(欧州復興開発銀行)は異
なる数値を載せており、
チェコは 2002 から 2008 年までほぼ毎年 85%で、ハンガリーは 2001
年以降、1 年おきに 60%台と 80%台が入れ替わる(Transition report 各年版)。いずれに
してもチェコは外資系が大きく、ハンガリーは相対的に外資系が尐ない、という特徴をも
つと想定した。
- 21 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
外貨準備、非金融部門への通貨別債権構成、それらの通貨別金利は各国中央銀行のウェブ
サイトから。
為替レートは、
EUR は ECB のサイト、
CHF は SNB、ドルは IMF:International
financial statistics(以下、IFS と略記)、その国へ与信した銀行の国籍別構成は BIS:
Consolidated banking statistics/ 9B Foreign claims by nationality of reporting banks,
immediate borrower basis による。各国の名目 GDP(季節調整済み)は Eurostat。GDP ト
レンドはホドリックプレスコットフィルタ(四半期λ=1600)。GDP トレンド月次値が必要
な場合は、四半期 GDP のトレンドをスプライン補間して求めた。
3.2. エストニア
3500
エストニア外貨準備(百万ユーロ)
3000
200,000
エストニア対顧客貸付残高(millon EEK))
スウェーデンからのスワップ
(2009年2月
2500
2000
150,000
1500
EEK
DEM+EUR
USD
100,000
07M11
1000
50,000
2010M04
2009M04
2008M04
2007M04
2006M04
2005M04
2004M04
2003M04
2002M04
2001M04
2000M04
1999M04
0
1998M04
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
2003M01
2002M01
2001M01
2000M01
0
1997M04
500
左の外貨準備について。エストニアは 2009 年 2 月にスウェーデンから 100 億 SEK(この
時点の為替レートで約 9.2 億 EUR)のスワップを受けた。グラフには比較のため EUR に換
算した額が棒グラフの長さで示されている5。一般的には他の通貨とペグしている方が外貨
準備の減尐は大きいと思われる。スワップの効果は精確にはわからないが、減尐額に対す
るその大きさや、外貨準備の減尐が止まっていることからなんらからの効果はあったもの
と思われる。
右の対顧客債権通貨構成について。90 年代末には EUR(EUR 以前は DEM)が自国通貨
(EEK)を圧倒している。EEK では 07 年 11 月をピークに債権が減尐するが、EUR はリー
マンショックまで続く。
債権のセクター別はわからないので金利のみを確認しておく。
5
スワップの棒グラフは長さだけが問題で、上下の位置は比べやすいように移動させただけ
である。
- 22 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
30
エストニア長期金利(%。総合。USD含む。)
30
エストニア長期金利(%。借り手別)
25
EEK企業
EEK
EUR
USD
EEK個人
EUR企業
20
25
20
EUR個人
15
15
2010M04
2009M04
2008M04
2007M04
2006M04
2005M04
2004M04
2003M04
2002M04
2001M04
2000M04
1999M04
1997M04
2010M04
2009M04
2008M04
2007M04
2006M04
2005M04
2004M04
2003M04
2002M04
2001M04
2000M04
0
1999M04
0
1998M04
5
1997M04
5
1998M04
10
10
個人向けで EUR と EEK の差が大きい。この差が債権の額に影響したとするなら、個人
向け貸出、その場合おそらくは住宅ローン、が EUR 債権急増に一定の役割を果たしたのか
もしれない。
8
エストニアへの外銀与信
(対GDPトレンド比)
6
FI
DE
SE
合計
4
2
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
2002Q1
2001Q1
2000Q1
0
BIS データ(9B)。BIS 報告銀行(国籍別)のエストニアへの与信(foreign claim)。エスト
ニア国内での債権とクロスボーダー債権を含む。圧倒的にスウェーデン系の MFI の債権で
ある6。
先に見たように SEK の債権はまったくといっていいほど存在しないこと7、エストニア
の外資系銀行の比率が約 99%、ということを考えればスウェーデン系の MFI がエストニア
に EUR 建てで貸し付けたと判断できる。そして金融危機による信用逼迫時にスウェーデン
の中央銀行はスウェーデン国内の銀行に USD、EUR といった外貨を供給した。スウェーデ
ンの中銀はエストニアに SEK でスワップを供給しているが、なぜ SEK なのか精確な事情
はわからない(次に見るラトヴィアでは EUR のスワップ)が、エストニアにおける必要性
6
フィンランド系も一定あるが、2003Q3 までしかデータがない。以下、ラトヴィアなどに
ついても同様。ただし全体の動向から見て、スウェーデン以外はわずかしかない。
7
本稿は債権を中心に検討しているが、負債(MFI 間、対非預金など MFI 負債)でも SEK
はごくわずかしかなく、ほとんどが EUR である。
- 23 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
というよりもスウェーデンの中銀からの供給可能性に応じたものかもしれない。
つぎにエストニアによく似ているラトヴィアを見る。
3.3. ラトヴィア
6000
ラトヴィア外貨準備(百万EUR)
5000
4000
3000
スウェーデン・デ
ンマークからのス
ワップ(2008M12)
2000
1000
2010M07
2010M01
2009M07
2009M01
2008M07
2008M01
2007M07
2007M01
0
07 年からしかデータが取れないためもあって、リーマンショック後の準備減尐がエスト
ニアよりも激しく見える。スウェーデンとデンマークが合計して 5 億 EUR のスワップを供
与した。エストニアの場合と異なって通貨は EUR だが、額はエストニアの約半分である。
準備の減尐額に比べてスワップの額は小さいし、その後も準備の大幅な減尐もあり、スワ
ップだけから見ればその効果は乏しいようである。
下左のグラフはラトヴィア国内の MFI が保有する国内非金融セクターへの債権通貨別構
成。右は GDP トレンドに対する比率。
4
14000
ラトヴィア非金融部門への
貸出通貨別 millionLVL
12000
10000
3
LVL
EUR
USD
8000
6000
ラトヴィア非金融部門への
貸出通貨別GDPトレンド比
3.5
LVL
EUR
USD
2.5
2
1.5
4000
1
2000
0.5
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
2002M01
2003M01
0
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
2003M01
2002M01
0
2004 年までは USD が EUR を上回り、2002 年では平均して USD は LVL の 88%に相当
した。その後、EUR が自国通貨(LVL)を抜いて急速に増加する。この過程はエストニアと
ほぼ同じで、時期はラトヴィアの方が若干遅い。右の GDP トレンド比で見ると、LVL はほ
ぼ経済規模と同じ(若干上回る)ペースで伸びているにもかかわらず EUR の伸びは経済規模
をはるかに上回っていると確認できる。また USD の 2004 年末からの減退も良く分かる。
次に金利。
- 24 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
25
ラトヴィア、非金融企業への25万EUR未満貸出。
(1年未満と変動金利)
20
ラトヴィア、住宅購入平均金利
LVL
LVL
EUR
USD
USD
2010M07
2010M01
2009M07
2009M01
2008M07
2008M01
2007M07
2007M01
2006M07
2006M01
2005M07
2004M01
2010M01
2010M07
2009M01
2009M07
2008M01
2008M07
2007M07
2006M07
2007M01
0
2005M07
0
2006M01
5
2005M01
5
2004M01
10
2004M07
10
2004M07
15
EUR
15
2005M01
20
非金融企業への金利は取引数が尐ないためか、一貫した系列が得られるのが 25 万 EUR
未満の貸出と、当座貸越のものだけである。大きな貸出は断続的である。ここでは小規模
の企業の金利を挙げる
住宅、非金融企業とも似た動きである。2004 年からのデータしかないが、その時点では
USD の若干金利が低く、その後は明瞭に EUR が低くなる。これは USD と EUR の債権額
の逆転と重なる動きである。もちろん債権の額は金利だけでは決まらないだろうが、ひと
つの要素としては意味があるだろう。LVL と EUR の関係では 2007 年が転機で、この年に
LVL と EUR との金利差が拡大し、LVL 建ての債権額も下落に転じる。しかし EUR 金利の
上昇は小さく、EUR 建て債権は急上昇を続ける。2007 年の EUR へのシフト加速と国内通
貨建て債権の減退という転機は次のリトアニアも同じで、バルト 3 国共通の動きである。
6
5
4
3
ラトヴィアへの対外与信(対GDPトレンド
比)
FI
DE
IT
SE
合計
2
BIS のデータ。エストニアと同じくスウ
ェーデンが圧倒的、ただしよく見れば
2005Q3 まではドイツも比較的多い。2000
年代前半は先に見たように USD が比較的
多かった時代であるが、アメリカ系銀行の
債権はほとんどない。つまり USD が多かっ
た時代はスウェーデンまたはドイツといっ
1
たアメリカ以外の銀行が USD で貸し出し
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
2002Q1
2001Q1
2000Q1
0
ていたことになる。
- 25 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
3.4. リトアニア
9,000
リトアニア外貨準備(百万)
6,000
USD表示
EUR表示
3,000
2006M01
2007M01
2008M01
2009M01
2010M01
2001M01
2002M01
2003M01
2004M01
2005M01
1996M01
1997M01
1998M01
1999M01
2000M01
1993M01
1994M01
1995M01
0
2007 年に外貨準備が急減しているが、それ以前の水準に戻っただけともいえる。次に
25000
1
リトアニア非金融部門への貸出
通貨別。期末残高, LTL million
20000
0.8
15000
0.6
リトアニア非金融部門への
貸出通貨別GDPトレンド比
0.4
10000
0.2
5000
企業EUR
家計EUR
企業Other
家計Other
企業LIT
企業Other
家計EUR
2009M03
2008M03
2007M03
2006M03
2010M03
2009M03
2008M03
2007M03
2006M03
2005M03
2004M03
企業LIT
家計LIT
2005M03
2004M03
0
0
企業EUR
家計LIT
家計Other
上のグラフをよく見ると LTL と EUR が交替で急増・減速を繰り返していることがわか
る。
LTL 貸付は 2007 年頃に減尐し始めるが、
EUR 貸付は加速する。
Banincova [2009]は 2007
年以降の信用収縮を指摘しているが、それは LTL で起きていることで、その後 EUR 貸出
が増加して、本当の信用収縮は 2008 年秋のリーマンショック後だった8。
セクター別に見ると非金融企業と家計がほぼ同様に伸びている。家計は住宅ローンが多
く、企業には不動産・建築業もあるので住宅バブルとはいえるだろう。ここでは住宅ブー
ム観点から家計への新規貸付額を見ると次のようになる。
8
Banincova [2009]はデータの対象が 2008 年より前なので時期的な制約である。
- 26 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
LTL_住宅
EUR_住宅
LTL_住宅以外
EUR_住宅以外
家計への新規貸付額(百万LTL)
1000
800
600
400
200
2010M04
2009M10
2009M04
2008M10
2008M04
2007M10
2007M04
2006M10
2006M04
2005M10
2005M04
2004M10
0
住宅ローンが EUR→LTL→EUR と交代していくことがわかる。次に金利。
14
リトアニア金利(%)
12
10
8
6
4
2
LTL_住宅
EUR_住宅
USD_住宅
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
2003M01
2002M01
2001M01
2000M01
1999M01
0
LTL_非金融企業
EUR_非金融企業
USD_非金融企業
新規貸付利率は新旧二つのデータがあり、旧は 2004 年 12 月まで、新は 2004 年 10 月か
ら始まる。2004 年までは錯綜しているが基本的に[EUR<USD<LTL]という金利の順に
なっている。住宅に関しては LTL と EUR との金利差の増減と各通貨の貸出額の増減が対
応している。リーマンショック後は LTL と EUR との金利差が大きく拡大する。他のバル
ト諸国もそうだが、EUR レートを維持するために LTL 金利の引き上げと外貨準備の減尐が
必然的にもたらされるということだろう。
5
他のバルト諸国と同じく、スウェーデン
リトアニアへの対外与信(対GDPトレンド比)
4
系銀行が圧倒的である。2005Q3 までドイ
AT
FI
DE
合計
SE
3
2
ツが比較的多いのはラトヴィアと同じ。
1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
2002Q1
2001Q1
2000Q1
0
- 27 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
3.5. ハンガリー
40,000
ハンガリー外貨準備(百万EUR)
1HUFあたり外為レート(2004-
2007年の中央値に対する比率)
30,000
1.4
ECBからのスワップ(EUR)
EUR
CHF
USD
1.3
1.2
20,000
1.1
1
10,000
0.9
0.8
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
2003M01
2002M01
2001M01
2000M01
1999M01
1998M01
2004M01
0.7
0
バルト 3 国と違い、EUR に正確にペグしておらずリーマンショック後 、為替レートが
下落した。しかしその見返りというべきか、外貨準備の減尐がほとんどない。スワップは
08 年 10 月に ECB から 50 億 EUR、09 年 1 月 SNB から不特定額の供与を受けている。実
際に引き出された額は不明なのでグラフには ECB からのスワップ額のみを示した。しかし
このスワップは厳密な通貨スワップではなく、ECB とは EUR 建て資産と引き換えに ECB
から EUR を得るというもの、また SNB とは EUR 引き換えに CHF を得るというもので、
外貨総額は増えなかったといわれている(Allen and Moessner[2010]p70)
。次に債権の通
貨別構成。
9000
ハンガリーMFIによるnonMFIへの貸付(loan)HUF
billion
HUF
CHF
12000
Euro
USD
ハンガリーMFIによるnonMFIへの
貸付と証券保有合計(HUFbillion)
9000
6000
6000
HUF
Euro
USD
CHF
3000
3000
0
2010Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
2010Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
0
貸付通貨別。2003Q1 以前には CHF は USD よりも尐なかったが、その急速に増加し、
2006 年には EUR を抜き、Loan だけなら 2008 年に HUF も抜く。ただし証券保有の形で
の資金供与は HUF がほとんどなので、合計すると HUF の額が上に移動する。
ところでリーマンショック後も CHF や EUR の債権が伸びすぎのように見えるのは HUF
のレート下落の効果である。loan だけを EUR 換算で見ると次のようになる(CHF-EUR
間の為替レートの変化は HUF に比べれば小さい)
。
- 28 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
ピークは 2008Q4 になる。もちろんこの
ハンガリー非金融部門への貸付(loan)
EUR表示(billion)
30
図では HUF 貸付の下落が過剰に現れる。
実際としてはリーマンショックの前後で
HUF 債権はほとんど変わらず、EUR は漸
HUF
Euro
USD
CHF
20
増傾向、
CHF は 08Q4 をピークに下落開始、
ということになるだろう。ハンガリーでの
(また次にみるポーランドでも)問題は
10
CHF の急増の性格だ。
2010Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
0
債権の通貨別構成をさらに非金融企業と住宅購入に分け、新規貸出(The amount of new
business)の額をみると次のようになる。
(企業は overdraft と repo を除く other loan。CHF
は家計しかデータがない)
ハンガリー貸出、セクター別・通貨別(millionHUF)
300
250
200
150
100
50
EUR非金融企業
EUR家計
HUF非金融企業
HUF家計
2010M07
2010M01
2009M07
2009M01
2008M07
2008M01
2007M07
2007M01
2006M07
2006M01
2005M07
2005M01
0
CHF家計
解約もあるだろうから単純にこの累積が残高にはならないだろうが、CHF 建て家計貸出
のみに傾向的増加、リーマンショック後の急減が見られる。
瑣末になるので更なる内訳は図示できないが、家計への CHF 貸付はほとんど住宅関連。
HUF と EUR 建ての家計への債権は Loans for consumption と Loans for house purchase
に区分されるが後者の住宅ローンは尐なく、前者のほぼ半分。
次に金利について。すべて新規貸出で Floating rate and up to 1 year initial rate fixation。
家計については住宅ローン。
- 29 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
ハンガリー貸出金利、セクター別・通貨別(%)
EUR非金
融企業
12
10
HUF非金
融企業
8
6
CHF住宅
4
2
EUR住宅
2010M07
2010M01
2009M07
2009M01
2008M07
2008M01
2007M07
2007M01
2006M07
2006M01
2005M07
2005M01
0
HUF住宅
CHF 建て住宅への貸出が低いとわかる。リーマンショック後 EUR 建て非金融企業以外の
すべての金利が上昇する。
5
1.5
ハンガリーへの対外与信(対GDPトレンド比)
DE
AT
BE
FR
IT
NL
4
ハンガリーへの
対外与信合計
(対GDPトレンド比)
1
3
2
0.5
1
0
2000Q1
2001Q1
2002Q1
2003Q1
2004Q1
2005Q1
2006Q1
2007Q1
2008Q1
2009Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
2002Q1
2001Q1
2000Q1
0
銀行の国籍別に対外与信を見ると乱高下やデータの欠落時期があるが、ドイツ・オース
トリア・イタリア・ベルギーが主要である。スイスの数値はこのグラフでは表現できない
ほど尐ない。2008 年 3 月末の時点でハンガリーに債権を持つ BIS 報告銀行のうち、スイス
系の銀行は約 0.64%でしかない。
この外資系の債権の通貨別構成は分からないので、CHF 債権の保有者はわからないが、
間接的には次のグラフでうかがい知ることができる。
ハンガリーnonMFI債権通貨別構成と外資系債権(billionEUR)
120
nonMFI債権
HUF
100
nonMFI債権
Euro
80
60
nonMFI債権
CHF
40
20
nonMFI債権
合計
2010Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2004Q1
2003Q1
0
外資系債権
合計
ハンガリー内 MFI の非 MFI への債権合計、そのうち CHF 建て、さらに外資系銀行の債
- 30 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
権の 3 者が同じ動きをしていることから、CHF 債権の増加に外資系銀行がかなり関与して
いると思われる。尤も、そもそもハンガリーでは外資系銀行が資産の合計の 61.2%を占め
るのだから当然かもしれない。とはいえこの 61.2%はリトアニアと並んで東欧 6 カ国では
最も低い。
3.6. ポーランド
80
ポーランド外貨準備(百万EUR)
2
PLNあたりのEURとUSDのレート
(1999-2005の中央値比。上がPLN高)
1.9
1.8
60
1.7
ECBからのスワップ
USD/PLN
1.6
EUR/PLN
1.5
40
CHF/PLN
1.4
1.3
1.2
20
1.1
1
0.9
2010M01
2009M1
2008M1
2007M1
2006M1
2005M1
2004M1
2003M1
2002M1
2001M1
1999M1
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
2003M01
2002M01
2001M01
2000M01
2000M1
0.8
0
ポーランドは ECB と SNB からハンガリーと同様の条件でスワップを得た(ECB からの
設定額が異なる)
。ハンガリーと同様に外貨保有が増えたわけではない
スワップで EUR と引き換えに渡された優良な EUR 建て債権と外貨準備の関係はわから
ないが、ECB とのスワップの EUR 設定額と外貨準備の減尐額がほぼ同じ額で、スワップ
締結直後に外貨準備が増加に転じ、まもなく為替レートも改善に向かう。次に非金融セク
ターに対する債権の通貨別構成。左が PLN 表示、右が EUR 表示。
80,000
300,000
ポーランド非金融部門への
貸出残高PLN表示(million)
ポーランド非金融部門への
貸出残高EUR表示(million)
60,000
200,000
40,000
100,000
20,000
非金融企業PLN
非金融企業EUR以外FC
家計EUR
非金融企業EUR
家計PLN
家計EUR以外FC
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
非金融企業PLN
非金融企業EUR以外FC
家計EUR
2004M01
0
0
非金融企業EUR
家計PLN
家計EUR以外FC
外貨通貨建ての債権は 2008 年末の時点で約 34%だが、2005 年では約 25%だった。その
- 31 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
上昇は「その他外貨」の急増(と EUR の微増)の効果である。
「その他外貨」の中身は記
されていないが、おそらくハンガリーと同じで CHF と思われる。理由は変化の様子がほと
んど同じこと、SNB がスワップで CHF を供与したのが、ECB 以外にはハンガリー・ポー
ランドの中央銀行ということである。
ところで、PLN のレート下落の影響でリーマンショック後に外貨貸出が過大評価されて
いるので、ハンガリーの場合と同様に EUR に換算すると右のようになる。リーマンショッ
ク直後、08 年 11 月以降、下落・停滞が始まると分かる。
0.6
3
ポーランドへの対外与信(対GDPトレンド比)
0.5
ポーランドへの
対外与信合計
(対GDPトレンド比)
0.4
0.3
2
0.2
0.1
1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
BE
IT
US
FR
NL
0
2000Q1
2001Q1
2002Q1
2003Q1
2004Q1
2005Q1
2006Q1
2007Q1
2008Q1
2009Q1
AT
DE
Portugal
2005Q1
2004Q1
2003Q1
2002Q1
2001Q1
2000Q1
0
外国系銀行の与信をみるとドイツ・イタリア・オランダが多くハンガリーの場合と多尐
似ている。またポーランドでもスイス系銀行の債権は極めて尐ない。2008 年 3 月末の時点
でポーランドに債権を持つ BIS 報告銀行のうち、スイス系の銀行は約 2.5%でしかない。
ポーランドはハンガリーと違って、自国通貨建て債権と外貨建て債権が同じように伸び
ているので、ハンガリーのときのような方法で外資系銀行の貸出通貨を推測するのは不可
能だ。ただ、外資系銀行の比率の高さから考えて、外資系銀行は PLN と CHF の両者で債
権を増加させたと考えるのが自然だろう。
3.7. チェコ
チェコは上述のとおり、国内金融機関における外資系比率が非常に高いが、債権の通貨
はほとんどが自国通貨(CZK)である。その理由までは本稿では検討できないが、実態だけ
を簡単に確認しておく。
- 32 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
1999M01
2009M01
2007M01
2005M01
2003M01
2001M01
1999M01
1997M01
1995M01
1993M01
0
2003M01
15,000
EUR
USD
CHF
2002M01
EUR
2001M01
USD
30,000
CZKあたりのEURとUSDのレート(19992005の中央値比。上がCZK高)
2.1
2
1.9
1.8
1.7
1.6
1.5
1.4
1.3
1.2
1.1
1
0.9
0.8
0.7
チェコ外貨準備(百万)
2000M01
45,000
為替レートはリーマンショックの前後で下落しているが、2008 年の上昇を打ち消して
2007 年の水準に戻っただけで、ハンガリーやポーランドと違って、実質的には下落とまで
はいえないのではないか。外貨準備はほとんど減っていない。
次にチェコの MFI の保有する債権の通貨別構成。左が債権全体の通貨別構成で、右が非
金融セクターに対する部門別・通貨別の構成。
1000
2000
800
600
CZK非金融企業
FC非金融企業
2009M01
2007M01
2005M01
2003M01
2009M 01
2010M 01
2007M 01
2008M 01
2005M 01
2006M 01
2003M 01
2004M 01
2002M 01
0
0
2001M01
その他FC
200
1999M01
EU R
500
400
1997M01
C ZK
1995M01
1000
1993M01
1500
チェコ通貨・部門別(CZK millions)
チェコM FI通貨別債権
(CZK Billions)
CZK家計(個人)
FC家計(個人)
まず左の図でほとんどの債権が CZK 建てで、
外貨の場合はほぼすべて EUR と確認して、
右の図を見る。
貸出債権のセクター別・通貨別構成は、外貨は非金融企業への債権で尐ないながらも一
定の比率を持っているが、家計向けの外貨債権はグラフに表示できないほど尐ない。
家計向けは債権 2000 年代に入って急増しているが、それは CZK 建てである。家計向け
債権がこれほど急増するのは住宅関連と思われる。詳細は分析できないが、ここで確認し
ておくべきことは以下の点である。
ハンガリーでは住宅関連債権が CHF 建てで急増し、ポーランドでも程度は劣るが CHF
- 33 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
建ての家計向け債権が増加した。チェコでも同様に家計向け債権が増加したが、その通貨
は CHF ではなく自国通貨だった。
5
チェコへの対外与信合計
(対GDPトレンド比)
チェコへの対外与信(対GDPトレンド比)
4
1.2
3
0.8
2009Q1
2009Q1
2007Q1
2008Q1
2006Q1
2004Q1
2005Q1
2002Q1
2003Q1
0
DE
2000Q1
FR
US
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
BE
NL
2001Q1
AT
IT
2004Q1
2003Q1
1
2002Q1
0
2001Q1
2
2000Q1
0.4
外資系の構成比は 2000 年代半ばに若干入れ替わっているがほぼ安定している。2000 年
代初頭にはベルギー・ドイツ・フランスが多く、後半にはオーストリア・ベルギー・フラ
ンスである。いずれも EUR 圏の銀行にもかかわらず増加が目立つ債権は EUR 建てではな
く CZK 建てである。
ところでチェコでも国内的には金融逼迫は生じていた。中央銀行の債権の状況は以下の
とおり。
チェコ中央銀行債権(CZK Billions)
60
900
政府
800
50
700
40
600
国内MFI
500
30
400
20
300
200
10
100
その他
非政府
2010M01
2009M01
2008M01
2007M01
2006M01
2005M01
2004M01
2003M01
0
2002M01
0
その他
資産
対外資
産(右目
盛)
(※対外債権は、他の項目に比べて不釣合いに巨大なので右目盛りに移した。水準が大幅
に違うことに注意)
リーマンショック直後に「最後の貸し手」として MFI に対してかなりの流動性供与を行
っている。
4.国籍別かつ通貨別の債権分解の方法とその発展
最近、Maechler and Ong [2009]が BIS と IMF のデータを使って、東欧諸国内における
債権の保有をクロスボーダー、LAFB による外貨建て保有、LAFB による現地通貨建て保
- 34 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
有、現地系の銀行の保有に区分する方法と結果を示している。まず 4.1 でその方法を再現し、
4.2 でその方法をさらに発展させる。
4.1 Maechler and Ong [2009]の債権分析法の再現
ここで用いた区分方法は Maechler and Ong [2009]と若干、異なるが基本は同じで、考え
方は以下の通り。
クロスボーダー債権は BIS:Consolidated banking statistics、table 9C:T、LAFB によ
る現地通貨建て保有は table 9A:L、LAFB による外貨通貨建て保有は table 9C:U(LAFB の
全通貨での現地債権)から table 9A:L を引いたもの。現地系の銀行の債権保有は IFS の国内
債権の項から上記 BIS の LAFB 保有全債権を引いたもの。したがって「現地系」とは正確
には BIS 報告 24 カ国以外になる。
若干の注意事項:通貨別は LAFB のみ分かるがそれ以外は分からない。BIS の table9 は
immediate borrower basis と ultimate risk basis とがあるが両者は同じ、つまりリスクの
移転はないと仮定した。実際、両者の差は小さい。政府・民間の区分は BIS の表では外資
系銀行のすべての債権についての分類しかないため、クロスボーダーと LAFB でも政府・
民間の区分は同じ比率で分配されると仮定した。国内債権は IFS で政府・非政府の区別が
あり、ここでは CLAIMS ON OTHER SECTORS を用いた。また外資系は BIS に報告され
る銀行に限られているため数値に矛盾が生じる可能性がある。主要な国の銀行は含まれて
いるものの、チェコでは債権保有額がマイナスになる項目があるなど若干、不整合の箇所
もある。項目がマイナスになる場合は 0 とした。Maechler and Ong [2009]でもその用に処
理されている。ただしマイナスがあまりに大きい、または長期にわたる場合はその系列全
体が無効と判断した。
以上の点は Maechler and Ong [2009]で注記されているのとほぼ同じである。さらなる詳
細は同論文を参考のこと。
ただし Maechler and Ong [2009]では民間部門を銀行と非銀行に区分しているが、本稿で
は民間部門を一括して表示した(IFS のデータでは銀行と非銀行が区分できなかったため)。
そのほか、表示の仕方などに若干違いがあるが、詳細は述べない。
以下の表の項目を改めて示しておくと、まずすべて民間部門で、①現地系銀行の保有
債権(通貨区分なし)、②LAFB による現地通貨(LC)建て保有債権、③LAFB による外貨(FC)
建て保有債権、④外資系銀行保有のクロスボーダー債権(通貨区分なし)。②と④は BIS に
元々記載されてある数値で、①と③は計算して求めたもの。そのため①と③ではマイナス
になって不整合が生じることがある。マイナスがあまりに大きい、または長期にわたる場
合はその系列全体が無効と判断した。特にチェコは明らかに数値に矛盾があるため②と④
のみグラフに表示した。
まず EUR 建てで表記したが、EUR にペグしていない国ではリーマンショックでレート
が下落し、現地通貨建て債権が下落したように表記されるため、現地通貨建ての表記も追
- 35 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
加した。
EUR 表記、非政府への貸出債権。単位は百万 EUR。
ラトヴィア(百万EUR)
エストニア(百万EUR)
16000
12000
12000
8000
8000
4000
4000
LAFB_LC
LAFB_FC
クロスボーダー
現地系銀行
LAFB_FC
2010Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2005Q1
2010Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
現地系銀行
2006Q1
0
0
LAFB_LC
クロスボーダー
リトアニア
15,000
ハンガリー(百万EUR)
40,000
10,000
30,000
20,000
5,000
10,000
2010Q1
現地系銀行
LAFB_FC
- 36 -
2010Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
LAFB_LC
クロスボーダー
2006Q1
2009Q1
2008Q1
0
2005Q1
現地系銀行
LAFB_FC
2007Q1
2006Q1
2005Q1
0
LAFB_LC
クロスボーダー
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
ポーランド(百万EUR)
100,000
75,000
チェコ(百万EUR)
100,000
50,000
75,000
25,000
50,000
2010Q1
LAFB_LC
2010Q1
2009Q1
2008Q1
LAFB_LC
クロスボーダー
2007Q1
0
2006Q1
2009Q1
25,000
2005Q1
現地系銀行
LAFB_FC
2008Q1
2007Q1
2005Q1
2006Q1
0
クロスボーダー
上記グラフを現地通貨表記にしたものは以下の通り。単位は 10 億。
ハンガリー(10億HUF)
12000
ポーランド(10億PLN)
400
300
8000
200
4000
100
0
現地系銀行
LAFB_FC
現地系銀行
LAFB_FC
LAFB_LC
クロスボーダー
- 37 -
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
0
LAFB_LC
クロスボーダー
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
2000
チェコ(10億CZK)
LAFB_
LC
1500
1000
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
クロス 500
ボー
ダー
0
この分析方法は正確なものと認められれば可能性の広がる方法だが、マイナスの数値が
出るなど不整合も多く、細部の分析は意味がない。傾向的な動きしか対象にできないが、
単調な増加ではなく、変動を伴いつつ増加している系列であれば、詳細を考察することが
できる。特徴的なことのみを簡単に記すが、最も特徴があるのは、リトアニアとラトヴィ
アで、現地系銀行が外貨、LAFB が現地通貨という一見、逆説的な関係が観察できること
である。
【リトアニア】まずリトアニアでは、各国分析の箇所で示した貸出通貨別のグラフでは
LC(LTL)建て債権は 07M10-11 あたりにピークがあるが、このピークはリトアニアにおけ
る LAFB の LTL 建て貸出のピークと一致する。リトアニアではその後 EUR 貸出が急増す
るが、それに伴い LAFB の FC 建て、クロスボーダー債権の増加は当然予想されるとおり
だが、同時に現地系銀行の債権も急増する。現地系銀行の通貨構成は BIS データでは不明
だが、総債権の通貨別構成を見れば EUR 建てと連動しているように見える。つまりリトア
ニアでは現地系銀行の債権は EUR 建て債権の変動と連動しており、尐なくとも現地系銀行
の貸出の変動部分は EUR 建てが主だったといえる。逆に 2006-7 年にかけての LTL 貸出
増加の担い手は現地系ではなく LAFB だったことになる。一見、逆説的な現象となってい
る。外資の比率は 2004-2008 年にかけて一定なので買収の問題ではないだろう9。
【ラトヴィア】
ラトヴィアでは現地通貨 LVL 債権は 2007M3 をピークに下落を開始するが、
現地系銀行は 2007Q4 から債権を急増させる。LAFB では LVL 建て債権は 2007Q2 がピー
クで Q4 から急落する。5 ヶ月ほどラグがあるが現地通貨の動向は現地系銀行よりもむしろ
LAFB の LVL 建て債権と連動している。
【ハンガリー】ハンガリーの CHF 建て貸出の担い手は、はっきりとはしないが現地系より
も LAFB の外貨建てとクロスボーダーの動きに近いように見える。ところが、現地系の債
権を LC と FC に分解するとまったく異なる結論が導かれる。この分解は次の 4.2 の項で行
なう。現地系 LAFB の HUF 建てが 2006 年前後で逆相関に近い動きを見せているが、これ
9
ERBD の Transition report による。
- 38 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
は買収などの問題かもしれない10。ただし、2006 年この現地系銀行の山はデータの不整合
と見なしたほうが良いだろう。
【ポーランド】2006Q4 から 2007Q1 にかけて現地系 LAFB の HUF 建てが逆相関になって
いるがこれは買収の可能性ではなさそうだ11。それの時期が買収の影響だったとしても、
LAFB が現地通貨建て債権を急速に伸ばしたことは間違いない。
4.2
Maechler and Ong [2009]の方法の発展
LAFB 債権の通貨構成が分かるのなら、その数値を各国中銀の通貨別債権構成から引け
ば現地系銀行の通貨構成も分かると考えられる。この点で、現地系銀行の債権の通貨別分
解は無理とした Maechler and Ong [2009]の研究をさらに進めたい。
【ポーランド】
ポーランドについては IFS の CLAIMS ON OTHER SECTORS(政府以外への債権)とポ
ーランド中銀のデータの MFIs loans and other claims on other domestic residents の表の
MFIs LOANS AND OTHER CLAIMS ON OTHER DOMESTIC RESIDENTS とがほぼ一
致する。後者には LC と FC の区別がある。そこで LAFB については上記の通り、非政府
の FC と LC を計算し、ポーランド中銀データの通貨別債権から引けば BIS 報告銀行の
LAFB 以外、つまりここでの想定では現地系銀行の LC と FC の額が分かることになる。整
合性が十分とは言えないが、Maechler and Ong [2009]の方法をさらに進めるための作業過
程の結果として現地系銀行をさらに通貨別構成に分解した表として示すと以下のようにな
る。
ERBD によればハンガリーの銀行資産の外資系の保有率は 2004 年 63.0%、05 年 82.6%、
06 年 82.9%、07 年 64.2%、08 年 84.0%である。ラグの問題のせいか、グラフの現地系の
資産の動きとはむしろ逆になっている。(たとえば 07 年は ERBD のデータでは現地系が増
えているのに、本稿のグラフでは現地系の貸出が減尐している)
11外資の比率は 2005-2008 年にかけて一定(ERBD のデータ)
10
- 39 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
ポーランド(10億PLN)
ポーランド(10億EUR)
100
350
300
80
250
60
200
150
40
100
20
50
0
現地系_LC
LAFB_LC
クロスボーダー
現地系_LC
LAFB_LC
クロスボーダー
現地系_FC
LAFB_FC
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
0
現地系_FC
LAFB_FC
現地系では 2005-2006 年に LC を伸ばし、2008 年に FC を延ばしているが、外資系の
大きな動きには及ばない。LC 建て債権では 2007 年以降の LAFB が大きく増加させた12。
FC 建ては LAFB とクロスボーダーの伸びが大きい。先に各国別にみたときに現れた CHF
と思われる EUR 以外の FC はこの二者、特に FALB が担っていたと思われる。なぜなら
EUR 表示での 2008 年の急上昇のあたりが、CHF(EUR 以外 FC)建て債権と良く似てい
る。
【リトアニア】
中銀データから MFI による非政府部門への貸付額が IFS とほぼ同じなので、同様にして
現地系銀行の貸付も LC と FC に分解できる。リトアニアはユーロにペグしているので EUR
表示だけ示す。
EUR 表示では LC 建て債権はリーマンショックで減尐しているが、
為替レートの影響で、
LC の世界ではほとんど減尐していない。
12
- 40 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
160
リトアニア(10億EUR)
120
現地系_LC
現地系_FC
LAFB_LC
LAFB_FC
クロスボーダー
80
40
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
0
先に推論したことがこのグラフで確認できる。つまり、2007 年までの LC 建て債権増加
は LAFB によるもので、現地系は 2007 以降に FC 建て債権を急増させていることがこのグ
ラフから確認できる。
【ハンガリー】
IFS のデータとハンガリー中銀の nonMFI への MFI 保有 loan 残高がほぼ一致する13ので、
それを元に現地系銀行の貸出を通過別に分解すると以下のようになる。
4.1 で用いた IFS のデータでは、現地系銀行の保有債権で 2006 年に不自然な山がある。
4.2 で用いたハンガリー中銀によるデータはそのような山はなくなだらかに上昇する。4.2
のグラフの現地系_LC と現地系_FC とを合計しても 4.1 のグラフの現地系合計のグラフに
ならないのは二つのデータにおける 2006 年前後の一時的な違いによる。
13
- 41 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
ハンガリー(billionEUR)
ハンガリー(billionHUF)
40
12000
30
8000
20
4000
10
現地系_LC
LAFB_LC
クロスボーダー
現地系_FC
LAFB_FC
現地系_LC
LAFB_LC
クロスボーダー
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
0
2005Q1
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
0
現地系_FC
LAFB_FC
外貨建て債権はクロスボーダー、現地系銀行、LAFB でほぼそろって増えているとわか
る。逆に HUF 建ては現地系で 2007 年以降、減尐している。しかし LAFB の HUF 建ては
外貨建てよりも水準は下回るものの、ほぼ同様の増加である。データの制度に問題は残る
が、CHF 債権による外貨建て債券の急増は資本の所有に関係になく共通の増加と判断され
る。それよりも現地通貨建てでの現地系と LAFB との対称的な動きが目立つ。
ラトヴィア、エストニアは現地通貨の比率が低過ぎるためか、データに不整合性が生じ
るので、今後の検討課題としたい。
4.3
発展させた方法の他国への適応
【ブルガリア】
周辺諸国の内、この発展させた方法が適応可能なのはとりあえず、ブルガリアとロシア
である。ブルガリアは東欧・南欧諸国の中でも外貨建て債権(そのほとんどは EUR 建て)
をかなり急速に増加させた国である。データが得られる 90 年代末以降、自国通貨(BGN)建
て債権が外貨建てを若干、上回りながら両者はほぼ同様の増加を示していたが、2008 年初
頭に逆転して外貨建てが上回る。資産に占める外資系の比率は 80%強14。
IFS の非政府債権総額と、ブルガリア中銀による非政府債権総額(通貨別分類がある)との
合計がほぼ一致する15ので、現地系銀行の債権を LC と FC に分解する。自国通貨(BGN)は
EUR にペグされているので EUR 表示の図のみを挙げる。
2003 年から 2008 年までの EBRD のデータによる。ただし 2005 年のみ例外的に 75%と
低い。
15 2005M3のデータが誤植のせいか妙な外れ値になっているのでスプライン補間の値で入
れ替えた。
14
- 42 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
2007 年末から現地系銀行が外貨建てに
ブルガリア(10億EUR)
12
対して BGN 建て債権を停滞させるのが特
徴的である。とはいえ、現地系 LC 建て債
10
権はハンガリーでは減尐、リトアニアでは
8
かなりの低水準だったのでブルガリアの場
6
合はその両国と比べれば穏当といえるだろ
4
う。次にロシア。
2
現地系銀行
現地系_FC
LAFB_FC
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
0
現地系_LC
LAFB_LC
クロスボーダー
【ロシア】
ロシア資産に占める外資系の比率は 20%ほど16。国内債権に占める外貨の比率は 5%前後
とかなり尐ない。IFS のデータに対してロシア中銀のデータは 1-2 割尐ない。そのため、
残差として求められる現地系の数値が尐なめに表示される可能性がある。つまり、現地系
の LC 建てはさらに上方へシフトする可能性がある。また、現地系銀行の FC 建ては過小評
価の影響か、尐しマイナスになるときもある。国内の通貨別債権データ17は 2006Q4 から。
他の東南欧諸国と異なり現地系が多いので、外資系の合計額も示しておいた(EUR 表示のグ
ラフのみ)
2003 年から 2008 年までの EBRD のデータによる。ただし 05 年と 06 年は 15%前後に
下がる。
17 正確には Loans, Deposits and Other Funds Placed with Organizations, Individuals
and Credit Institutions
16
- 43 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
ロシア(10億EUR)
ロシア(10億RUB)
300
8000
200
4000
100
現地系_LC
LAFB_LC
クロスボーダー
現地系_LC
LAFB_LC
クロスボーダー
2009Q1
2008Q1
2005Q1
現地系_FC
LAFB_FC
2007Q1
0
2009Q1
2008Q1
2007Q1
2006Q1
2005Q1
0
2006Q1
12000
現地系_FC
LAFB_FC
外資系合計
現地系銀行の現地通貨建て債権が圧倒的で、それに対して外資系はすべて合計してもそ
の半分くらいである。現地系銀行の外貨建て債権はかなり尐ない。リーマンショック前後
の変化はルーブルの下落があるので読みづらいが、現地通貨建てはリーマンショック後に
停滞と判断できる。外資系は合計すると 2008Q4 をピークに減尐を始めるが、クロスボー
ダーでの減尐が大きく、現地通貨建ては比較的維持されていると読める。
おわりに
銀行の所有国籍、立地の国籍、使用通貨には簡単な相関はない。つまり国外で活動する
銀行支店は本店の国の通貨を使用するとは限らない。また自国に立地する銀行が外国に債
権を持つ場合も自国の通貨建てとは限らないし、また相手国の通貨でもなく、第三国の通
貨が用いられることもある。また、4 節の債権分解の結果は、現地系銀行でも外貨債権の方
が多いことも、逆に外資系でも現地通貨の債権が多いこともあると示している。
あらためて各国の MFI の債権の通貨別状況を列挙しておくと、
①アメリカ国内の銀行は、USD 建てが圧倒的である。
②EUR 圏内の MFI が圏外に対する債権は EUR と USD がほぼ同額で、2000 年 IT バブル
の時には USD が EUR を上回った。
③イギリス国内に立地する MFI のイギリス国外債権は USD と EUR がデータのある 2000
年以降ではほぼ同額で推移した。
④海外支店を含むスイス系銀行では USD が圧倒的でアメリカのバブルに応じて変動した。
④スウェーデン国内の銀行の対外債権は EU 内で SEK 建てが一定程度存在するもののほぼ
- 44 -
岩田佳久「東欧諸国金融機関における債権の通貨別構成」
停滞傾向で、EU 内外の外貨建て債権が増加した。特に 2000 年代半ば以降、EU 内での外
貨建て債権の増加が最大である。
⑤バルト 3 国では特に 2000 年代半ば以降、スウェーデン系の MFI が EUR 建てで債権を
増加させた。ラトヴィアではかつて一定の比率を持っていた USD を EUR が逆転していっ
た。リトアニアでは国内通貨と EUR が交代しながら増加する様子も見られた。
⑥ハンガリーでは 2000 年代半ば以降、CHF 建ての住宅関連債権が急増した。しかしスイ
ス系 MFI はほとんど関与していない。CHF 債権を増加させた銀行の性格は不明だが、ハン
ガリー国内で銀行総資産の 61.2%を占める外資系の貸出が大きな寄与をしたと思われる。
この外資系 MFI のほとんどは EUR 圏内の国籍の銀行である。つまり EUR 圏内系の MFI
がハンガリー内で CHF の住宅関連債権を増加させたということになる。
ポーランドではハンガリーよりも小規模だったが、同様の CHF の住宅関連債権増加が見
られる。ポーランド国内の外資系比率は 72.6%でそのほとんどは EUR 圏内の国籍、スイス
系はほとんどない。
⑦チェコでは主に EUR 圏の外資系 MFI が約 96%と圧倒的な比率を持つにもかからず、国
内での債権のほとんどは自国通貨 CZK だった。2000 年代半ばから住宅関連と思われる家
計向け債権が急増するが、ハンガリー・ポーランドとは異なり、CHF ではなく CZK 建て
だった。
最後に、Maechler and Ong [2009]の研究の方法は本稿で示したように、もっと進んだ分
析が可能である。時間の制限で十分に計算結果の検討はできず、ほとんどグラフの表示だ
けになってしまったが、今後、可能な限り分析を深めたい。
債務の通貨別構成など、本稿では検討できなかった項目も多いが、今後の課題としたい。
参考文献
Banincova E. [2009] 「世界経済危機に至るバルト 3 国の信用拡大」
『経済論究』(134), 97-112。
Allen, William A and Moessner, Richhild [2010] “Central bank co-operation and international
liquidity in the financial crisis of 2008-9”, BIS Working Papers, No 310.
Maechler,Andrea M. and Ong, Li Lian [2009] Foreign Banks in the CESE Countries: In for a Penny,
in for a Pound?, IMF Working Paper, No. 09/54
McGuire, Patrick and von Peter, Goetz [2009] The US dollar shortage in global banking
and the international policy response, BIS Working Papers, No 291.
Scheiber, Thomas and Stix, Helmut [2009] “Euroization in Central, Eastern and Southeastern Europe
- New Evidence On Its Extent and Some Evidence On Its Causes”, Oesterreichische
Nationalbank Working Paper, No.159.
- 45 -
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
国際金融システムをめぐる諸論点
2008 年以降の動向と IMF を中心に
参川城穂1
<目次>
はじめに
1.IMF 融資制度の変遷
1.1 IMF コンディショナリティの意味
1.2 IMF 融資制度改革
2.国際金融市場の変遷
2.1 ユーロドルレートと原油価格
2.2 グローバルマネーと国際金融市場
3.国際金融システムと IMF
3.1 国際金融システムをどう捉えるか
3.2
国際金融のフレームワークと IMF
おわりに
1
東京大学大学院経済学研究科博士課程。
- 57 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
はじめに
国際金融システムは、その性質上国際通貨制度に規定される側面が強いといえる。国際
通貨制度は、国際金本位制、ドル本位制 、変動相場制と変化するにしたがって、ルールが
希薄化ないしは無効化している。国際金本位制下におけるルールは、ゲームのルールとし
てロナルド・マッキノンによって明文化されている2。国際金本位制下だけでなく、各々の
ゲームのルールを比較することで、基軸通貨特権、広義の通貨発行特権(シニョレッジ、
seigniorage)の存在を確認することができる3。1971 年の金・ドル交換性停止は、アメリ
カの有するシニョレッジが顕現した例といえるだろう。また、ビナイン・ネグレクト(無
策の策、benign neglect)の表出とみることも可能であろう。
基軸通貨ドルをめぐる議論として有名なのが、ロバート・トリフィンによって展開され
た流動性ジレンマ論である4。流動性ジレンマ論とは、基軸通貨がある特定国の通貨である
場合を前提として、金を裏づけとすることによって、信用の低下と流動性供給の不足とが
同時に解決できないことを説いたものである。信用度を維持したまま需要に合致した通貨
供給を行うには、裏づけとなる金の産出量もまた需要量と同量の増加が必要となる。しか
し、世界経済の成長率が高ければ高いほど、金の産出限界量によって成長を阻害されるこ
ととなり、世界経済の成長の足枷となってしまう。他方、世界経済の成長、すなわち需要
を完全に満たすために通貨供給を行うならば、金の裏づけを得ないこととなり、基軸通貨
の信用度が低下する。信用度の低下は金との交換レートに影響を与える。したがって、基
軸通貨の価値がさらに不安定化する。
こうしたジレンマの存在を解消するためには、特定国通貨を基軸通貨とするのではなく、
新たな準備通貨を創出する必要があるとの結論に至っている。流動性ジレンマ論は、やが
て特別引出権(Special Drawing Rights, 以下 SDR)の創設へとつながる。もっとも、SDR
自体は、基軸通貨ドルに代位するものとして創設されたのではなく、ドルを補完するもの
として誕生しており、トリフィンの描いた解決策とは異なるものとなった。しかし、近年
の世界金融危機を契機として、基軸通貨ないしは国際金融システムをめぐる改革の議論が
活発化してきている。SDR も新たな役割を担うべきとの提案がなされ、一般的にも注目さ
れるようになってきた。
こうした動向は国際金融システムの内部からではなく、国際金融システムにおけるプレ
イヤーからの提案にとどまっている。国際金融システムの内部すなわち IMF を始めとする
国際機関からはフレームワークを変化させるような動きは生じていない。
本稿では、上記の基軸通貨問題が国際金融システムにおいて極めて重要な問題であるこ
とを前提としながら、国際金融システムを支える機構として成立し、今日も存続し続けて
2
McKinnon[1993].
広義の通貨発行特権には、通貨発行者が通貨発行によって得る経済的利益に加え、通貨発行に
伴う減価等のリスクやコストを被らないことを含む。また、広義の通貨発行特権がすなわち基軸
通貨特権であるとする場合には、基軸通貨発行国全体の利益のことも含む。
3
4
Triffin[1960].
- 58 -
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
いる国際通貨基金(International Monetary Fund, 以下 IMF)がどのような役割を果たし
てきたのかを考察する。また、IMF の役割を考察するに当たって、次のことを中心として
位置付けたい。すなわち、国際金融市場の動向が、広く世界経済に影響を与えると考えら
れるようになってきていることを重視し、2008 年から 2009 年に掛けての外国為替市場、
商品先物市場の状況と照らすということである。また、最近の IMF 自体の改革についても
概観し、今後を展望する。
本稿の構成は以下のとおりである。まず IMF の融資制度の変遷を概観し、IMF の融資対
象がどのように変化してきたのかを確認する。このことによって、IMF の融資制度があく
までも既定の国際金融の枠組み内において変化しているに過ぎないことが明らかになるで
あろう。次に、変動相場制移行後の国際金融市場および商品先物市場の特徴を述べ、国際
的な資金移動の功罪について検討する。最後に、国際金融システムの現状と IMF の関係を
考察し、今後の課題を示す5。
1.
IMF 融資制度の変遷
ここでは、戦後の国際通貨制度、国際金融システムの支柱として機能してきた IMF の融
資制度に焦点を当て、その変遷を概観する。はじめに、融資の条件である IMF コンディシ
ョナリティについて確認する。
1.1.
IMF コンディショナリティの意味
今日では適用が当然視されている IMF コンディショナリティは、IMF 設立当時は存在し
なかった。IMF 融資の対象が先進工業国であったため、融資金の回収に対するリスクはほ
とんどないと考えられていたからである。また、IMF コンディショナリティは、IMF 協定
上も当初は規定されていなかった。IMF 協定上明文化されたのは、IMF コンディショナリ
ティが融資対象国に課されるようになった後のことである。融資条件の厳格化は、先進工
業国から後進工業国、発展途上国へと融資の対象が変化した結果であった。図表 1 は、IMF
の一般資金勘定の利用割合の推移を示したものである。1950 年代から 1960 年代までは 5
割弱から 5 割強、1970 年代では工業国の利用割合が 4 割を超えている。1980 年代以降は
工業国の利用割合が急減したことがわかる。
5
なお、本稿における統計資料は 2010 年 9 月時点で確認可能なものに限定している。
- 59 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
図表 1 一般資金勘定の利用割合の推移
先進工業国
新興・途上国
100%
90%
80%
70%
60%
50%
40%
30%
20%
10%
19
48
年
19
50
年
19
52
年
19
54
年
19
56
年
19
58
年
19
60
年
19
62
年
19
64
年
19
66
年
19
68
年
19
70
年
19
72
年
19
74
年
19
76
年
19
78
年
19
80
年
19
82
年
19
84
年
19
86
年
19
88
年
19
90
年
19
92
年
19
94
年
19
96
年
19
98
年
20
00
年
20
02
年
20
04
年
20
06
年
20
08
年
0%
(資料)International Monetary Fund, International Financial Statistics, various
issues, より作成。
図表 2 は、一般資金勘定の利用額の推移を示したものであるが、1950 年代の 4 億 SDR
に始まり、1990 年代の約 350 億 SDR にまで実に 88 倍の伸びを示している。図表 1 に示し
た一般資金勘定の利用割合の推移が、単純に利用額の増減によるものではなく、むしろ、
先進工業国以外の利用の爆発的な増加によるものだということがわかる。IMF 資金の利用
額のこうした変化は、IMF の融資制度に大きな変化を必要とさせるものとなった。コンデ
ィショナリティを課さない当初の融資制度とは別に、目的ごとに融資制度を新設し、融資
条件を細分化する契機となったからである。
- 60 -
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
図表 2 一般資金勘定の利用額の推移
100万SDR
先進工業国
新興・途上国
70,000
60,000
50,000
40,000
30,000
20,000
10,000
19
4
8
19 年
50
19 年
52
19 年
54
19 年
56
19 年
58
19 年
60
19 年
62
19 年
64
19 年
66
19 年
68
19 年
70
19 年
72
19 年
74
19 年
76
19 年
78
19 年
80
19 年
82
19 年
84
19 年
86
19 年
88
19 年
90
19 年
92
19 年
94
19 年
96
19 年
98
20 年
00
20 年
02
20 年
04
20 年
06
20 年
08
年
0
(資料)図表 1 に同じ。
コンディショナリティに対する評価をめぐっては、IMF 独立評価室(Independent
Evaluation Office of IMF, 以下 IEO)が 1997 年のアジア危機に際して課されたコンディ
ショナリティを検証し、危機収束のためには不必要であったと結論付けている( IEO
[2003]
)
。こうした結果を踏まえ、コンディショナリティのあり方が議論されてきた。高
木[2009]は、1997 年アジアと 2008 年ヨーロッパを比較し、IMF がコンディショナリテ
ィを変更させたのではなく、IMF の「哲学、それを提示する手続き」を変えることによっ
て、危機への対応を柔軟なものにしていると述べている6。
1.2 IMF 融資制度改革
ここでは、IMF 融資に伴うコンディショナリティの策定が、IMF 融資対象国の変化によ
ってもたらされたことを、IMF の主な融資制度を具体的に検討することで確認する。図表
3 は、2010 年 3 月時点での IMF の主な融資制度をまとめたものである。1980 年代以降、
融資の名称も一般的な名称から専門的な名称に変化している。
6
高木[2009]はまた、IMF の構造的コンディショナリティが、アジア各国の IMF への融資申
請を拒ませるものとして作用し、その結果としてアジアの外貨準備の積み増しが生じていると指
摘している。コンディショナリティの変更がない状態では、こうした作用を封じることは容易で
はないであろう。したがって、経済の発展度によって区別されない役割を果たすには抜本的な見
直しが必要となる。
- 61 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
図表 3 IMF の主な融資制度
IMF は、2008 年からの世界的な金融危機を受け、融資制度の新設や改革、資金源の二元
化などを行っている。2009 年4月 2 日にロンドンで開かれた G20 金融サミットでは、途上
国向け融資枠が 3 倍に増強されることとなった。G20 金融サミットに先立って 3 月 13、14
日に開かれた G20 財務相・中央銀行総裁会議の共同声明では、「IMF の資金基盤を大幅に
増加させる緊急な必要性について合意した」と明記された。新設された融資制度としては、
フレキシブル・クレジット・ライン(Flexible Credit Line, 以下 FCL と略記)がある。FCL
の新設から数ヶ月のうちにコロンビア、メキシコ、ポーランドが融資申請を行っている7。
FCL は、①強い経済的基礎的条件と制度上の政策的枠組みをもつこと、②政策を実行し
た実績があること、③政策を継続していくことができること、が条件として求められる一
方、従来型の融資のように融資割当額が予め決まっておらず、個別に設定される。また、
引出・返済期間についても、従来のものに比べ引出は短期、返済は長期となっている。良
好なパフォーマンスを有することが前提とされているため、コンディショナリティによる
構造改革等は規定されない。従来の融資制度では、より短期的な構造改革がコンディショ
ナリティとして規定されてきたため、融資申請国は急激な引締めや規制緩和によって経済
状態は悪化することが多かったが、FCL の利用により必要な資金の引出が短期化すること
で、流動性問題への対処が容易になる。また、仮に構造改革の必要が生じた場合であって
も、従来よりも長期的な観点から計画することが可能となるだろう。
ただし、FCL の新設を評価する場合、次のことに留意する必要がある。第一に、FCL の
7
なお、融資の締結は各々2010 年 5 月 7 日、5 月 25 日、7 月 2 日になされ、融資額は、23.22
憶 SDR、315.28 億 SDR、136.9 億 SDR となっているが、引出しは行われていない。
- 62 -
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
新設は、1999 年に設けられた予防的クレジットライン(Contingent Credit Line, 以下 CCL)
が、融資を必要とする加盟国の立場からすると融資条件が厳しすぎたために利用がまった
くなかったことを踏まえてなされたこと、第二に、FCL は融資額を予め決めていないこと
から、IMF の原資をこれまでの規模よりも大きくする必要があること、である。また、融
資の必要性が高くなればなるほど、個別対応的な融資制度だけでは、国際金融危機として
危機の規模が拡大した際には、有効に機能しない可能性が高いことにも注意が必要だろう。
図表 4 IMF の融資残高の推移
融資残高
100万SDR
80,000
70,000
60,000
50,000
40,000
30,000
20,000
10,000
19
48
19 年
50
19 年
52
19 年
54
19 年
56
19 年
58
19 年
60
19 年
62
19 年
64
19 年
66
19 年
68
19 年
70
19 年
72
19 年
74
19 年
76
19 年
78
19 年
80
19 年
82
19 年
84
19 年
86
19 年
88
19 年
90
19 年
92
19 年
94
19 年
96
19 年
98
20 年
00
20 年
02
20 年
04
20 年
06
20 年
08
年
0
(資料)(資料)International Monetary Fund, International Financial Statistics,
various issues, より作成。
図表 4 は、IMF の融資残高を示したものである。融資残高は、一般資金勘定の利用額の
推移と同様に 1980 年代以降増加傾向にあった。しかし、世界的な好景気を背景として 2006
年には融資残高は急減した。融資残高の急減は、基金である IMF の存続にとっては望まし
くないことを意味する。したがって、IMF はより融資の利用が見込まれるような融資制度
を新設する必要があったと考えることも可能であろう。
2
国際金融市場の変遷
IMF の融資制度に関する議論は後述する。ここでは、国際金融市場が国際貿易決済にと
もなう拡大ではなく、資本取引の活況によって拡大していることを確認する。特に、2008
年度の原油価格とユーロドルレートの高い相関性を示すことで、国際金融市場に変化が生
- 63 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
じていることを示す。
2.1 ユーロドルレートと原油価格
2008 年のいわゆるサブプライムローン問題を契機とした世界金融危機、世界同時不況に
いたる数年の間
(2005 年以降)
、世界経済は成長を維持してきた。国際金融市場においては、
新興市場国が BRICs 等の高成長国を有力な投資対象国として位置づけることによって、投
資機会の拡大を実現していたといえる8。また、こうした高成長国の存在は、世界経済の成
長にはアメリカが不可欠だとする従来の見方にも影響を与え、デカップリング論を生じさ
せた9。
図表 5 は、原油先物価格が史上最高値をつけた 2008 年度の原油価格の推移とユーロドル
レートの推移を示したものである。デカップリング論は、アメリカ経済が停滞したとして
も、新興市場国が世界経済の牽引役となることで、原材料の需要も増大させるという予想
に寄与した。その結果、2005 年以降、原油価格は急激な上昇をみせてきた10。改めて図表 5
をみてみると、回帰分析の結果、2008 年度の原油価格とユーロドルレートは、83%相関し
ているとおり、極めて近似した動向を示している。原油価格が史上最高値をつけたのとほ
ぼ同時期にユーロドルレートにおいてもユーロが史上最高値をつけた。国際金融市場にお
ける通貨の使用比率は、ドルが依然として第 1 位を占めているものの、石油輸出国機構
(Organization of the Petroleum Exporting Countries, 以下 OPEC)加盟国は、独自にド
ルからユーロへの決済通貨の変更を進めてきた11。OPEC 加盟国によるユーロへの決済通貨
としての需要の増大は、ユーロ相場の上昇要因となる。一方、ドルは基軸通貨としての役
割を減じていると解釈されることで減価要因となる。
8
BRICs は、ブラジル、ロシア、インド、中国、を意味しているものの、広義には新興市場国
の代表として捉えることができる。特に、実質ゼロ金利政策を脱することができない日本の投資
家は、より積極的な海外への投資を行っていた。
9
世界経済のデカップリング論は 2007 年に展開され始め、2008 年にはその非現実性に注目が
集まり、リカップリング論が台頭した。
10
外国為替市場の取引規模に比して、原油先物市場の規模は極めて小さく、相対的に小さな資
金が流入しただけであっても価格変動に大きな影響を与える(毛利[2010])。なお、国際決済
銀行(Bank for International Settlement, 以下 BIS)によると、外国為替市場での一日の平均
取引額は 2007 年 4 月の 3.3 兆ドルから 4 兆ドルに増加している(BIS[2010])。
11
BIS の報告書によると、2006 年に OPEC 加盟国の一部およびロシアがドルからユーロへの
保有資産の変更を行ったとしている。このとき、ドルの保有比率は 67%から 65%に低下し、他
方ユーロは 20%から 22%へと上昇したとされている。また、外国為替市場での取引割合もユー
ロが上昇、ドルが低下した。
- 64 -
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
図表 5 2008 年度の原油価格とユーロドルレートの推移
原油価格(左軸/ドル)
ユーロドルレート(右軸/ドル)
1.65
160
1.60
140
1.55
120
1.50
100
1.45
80
1.40
1.35
60
1.30
40
1.25
1.20
2008年4月1日
2008年4月10日
2008年4月21日
2008年4月30日
2008年5月9日
2008年5月20日
2008年5月29日
2008年6月9日
2008年6月18日
2008年6月27日
2008年7月8日
2008年7月17日
2008年7月28日
2008年8月6日
2008年8月15日
2008年8月26日
2008年9月4日
2008年9月15日
2008年9月24日
2008年10月3日
2008年10月14日
2008年10月23日
2008年11月3日
2008年11月12日
2008年11月21日
2008年12月2日
2008年12月11日
2008年12月22日
2009年1月5日
2009年1月14日
2009年1月23日
2009年2月3日
2009年2月12日
2009年2月23日
2009年3月4日
2009年3月13日
2009年3月24日
20
(資料)米国エネルギー情報局(http://www.eia.doe.gov/emeu/international/oilprice.htm
l), 欧州中央銀行(http://sdw.ecb.europa.eu/home.do)より作成。
一方、ドル建てで取引される原油相場にあっては、ユーロ相場の上昇によって割安感が
出ることになり、原油価格上昇の要因となる。こうした要因が、原油価格の動向に影響し
ていることは明らかだろう。外国為替相場は、経済のファンダメンタルズによって決定さ
れるという見方は、こうした動向を説明する上では有効ではないように思われる。ユーロ
ドルレートと原油価格というケースのみにしても、国際金融市場が実需を伴った決済によ
ってその主流を占められていない可能性を示唆すると考えられる。なお、図表 6 に示した
2009 年度の原油価格とユーロドルレートについては、51%の相関に大きく低下しているが、
ユーロ圏のファンダメンタルズの悪化を原因とするユーロドルレートの変動にいたる 2009
年末頃までは、強い近似性があることが確認できよう12。
12
アジア危機に続いては、1998 年ロシア危機、ブラジル危機が発生し、サブプライム危機に関
連する危機としては、財政収支赤字悪化によるギリシャ危機が生じた。これらの危機の共通点は、
危機発生国ではなく、危機の派生的影響により当初の危機当該国以外の国や地域で危機が発生し
ていることである。
- 65 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
図表 6 2009 年度の原油価格とユーロドルレートの推移
原油価格(左軸/ドル)
ユーロドルレート(右軸/ドル)
90
1.55
85
1.50
80
75
1.45
70
65
1.40
60
1.35
55
50
1.30
45
1.25
2009年4月1日
2009年4月9日
2009年4月20日
2009年4月28日
2009年5月6日
2009年5月14日
2009年5月22日
2009年6月1日
2009年6月9日
2009年6月17日
2009年6月25日
2009年7月3日
2009年7月13日
2009年7月21日
2009年7月29日
2009年8月6日
2009年8月14日
2009年8月24日
2009年9月1日
2009年9月9日
2009年9月17日
2009年9月25日
2009年10月5日
2009年10月13日
2009年10月21日
2009年10月29日
2009年11月6日
2009年11月16日
2009年11月24日
2009年12月2日
2009年12月10日
2009年12月18日
2009年12月29日
2010年1月7日
2010年1月15日
2010年1月25日
2010年2月2日
2010年2月10日
2010年2月18日
2010年2月26日
2010年3月8日
2010年3月16日
2010年3月24日
40
(資料)米国エネルギー情報局(http://www.eia.doe.gov/emeu/international/oilprice.htm
l), 欧州中央銀行(http://sdw.ecb.europa.eu/home.do)より作成。
図表 7 は、図表 5 に比べれば、相関性も低いが、ユーロの上昇と原油の上昇が同調的に
生じていることを示している。ユーロの上昇、原油価格の上昇、双方が世界経済の成長を
示すものだとすれば、ドルの減価もまた世界経済の成長のためには必要なものだという仮
説が生じる。減価することで世界経済に寄与するのだとすれば、安定的な外国為替市場に
は負の効果を与えることになるだろう。
- 66 -
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
図表 7 ユーロドルレートおよび原油価格の推移(1999 年 1 月~2010 年 5 月末)
原油価格(左軸/ドル)
ユーロドルレート(右軸/ドル)
160
1.70
1.60
1.50
1.40
1.30
1.20
1.10
1.00
0.90
0.80
140
120
100
80
60
40
20
1999年1月4日
1999年6月22日
1999年12月8日
2000年5月26日
2000年11月13日
2001年5月4日
2001年10月22日
2002年4月11日
2002年9月27日
2003年3月19日
2003年9月5日
2004年2月26日
2004年8月16日
2005年2月1日
2005年7月21日
2006年1月9日
2006年6月28日
2006年12月14日
2007年6月6日
2007年11月22日
2008年5月14日
2008年10月30日
2009年4月21日
2009年10月7日
2010年3月29日
0
(資料)米国エネルギー情報局(http://www.eia.doe.gov/emeu/international/oilprice.htm
l), 欧州中央銀行(http://sdw.ecb.europa.eu/home.do)より作成。
2.2 グローバルマネーと国際金融市場
ユーロドルレートと原油価格の間に高い相関性があることを確認したが、ここでは、ア
メリカドルおよびダウ工業株に焦点を当て、国際金融市場あるいは国際資金移動の動きを
検証する。図表 8 は、ダウ・ジョーンズ工業株の平均価格の推移を示したものである。1997
年に 6500 ドルを突破して以降、終値で 6500 ドルを下回ったことは今のところない。また、
図表 9 に示したニューヨーク金先物価格は、2001 年 4 月以降急激に上昇しており、投資の
活発化の証左といえよう。
図表 10 に示したアメリカの経常収支赤字の推移と照らすことで、
国際的な資金によってファイナンスされ、ダウ・ジョーンズ工業株価が支えられているよう
にもみえる13。2001 年以降の経常収支赤字の急増と金先物価格の急激な上昇との間にも近
似性をみてとることができよう。
13
この場合、1997 年以前の経常収支赤字の推移との相関性をどう捉えるかが問題となるが、今
後の課題としたい。
- 67 -
ious/gold.html)より作成。
- 68 -
1,400
1,200
1,000
800
600
400
200
0
2008年4月1日
2007年4月1日
2006年4月1日
2005年4月1日
2004年4月1日
2003年4月1日
2002年4月1日
2001年4月1日
2000年4月1日
1999年4月1日
1998年4月1日
1997年4月1日
1996年4月1日
1995年4月1日
1994年4月1日
1993年4月1日
1992年4月1日
1991年4月1日
1990年4月1日
1989年4月1日
1988年4月1日
1987年4月1日
1986年4月1日
1985年4月1日
1984年4月1日
1983年4月1日
1982年4月1日
1981年4月1日
1980年4月1日
2010年4月1日
2009年4月1日
図表 9 ニューヨーク金先物価格の推移(1980 年~2010 年)
2010年4月
(資料)Yahoo!Finance(http://finance.yahoo.com/q/hp?s=%5EDJI)より作成。
2009年4月
2008年4月
2007年4月
2006年4月
2005年4月
2004年4月
2003年4月
2002年4月
2001年4月
2000年4月
1999年4月
1998年4月
1997年4月
1996年4月
1995年4月
1オンス=ドル
1994年4月
1993年4月
1992年4月
1991年4月
1990年4月
1989年4月
1988年4月
1987年4月
1986年4月
1985年4月
1984年4月
1983年4月
1982年4月
1981年4月
1980年4月
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
図表 8 ダウ工業株平均株価の推移(1980 年~2010 年)
ドル
16,000
14,000
12,000
10,000
8,000
6,000
4,000
2,000
0
(資料)Chicago Mercantile Exchange(http://www.cmegroup.com/trading/metals/prec
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
図表 10 アメリカの経常収支赤字の推移
(資料)Bureau of Economic Analysis, Survey of Current Business, various issues,
より作成。
図表 11 は、アメリカドルの実効レートを示したものである。先行研究によれば、経常収
支赤字が対 GDP 比で 4.2%ないし 5%を超えると通貨の下落が生じるとされているが、ド
ルについてはこの限りでないことがわかる14。2004 年から 2007 年にいたっては、5%を超
える経常収支赤字となっているものの、ドルの大きな下落は示していない。ドルの減価が
目立つのは、2007 年後半からに過ぎない。また、名目実効では最安値を示しているが、実
質実効では、最安値を記録していない。
14
先行研究としては、Mann[1999]、Holman[2001]、Freund[2000]等があり、Mann[1999]
は、通貨下落の水準として、経常収支赤字の対 GDP 比率を 4.2%、Freund[2000]は、同 5%
と結論付けている。
- 69 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
図表 11 ドルの実効レートの推移(1973 年 3 月=100)
名目実効レート
実質実効レート
150
140
130
120
110
100
90
80
70
2010年1月
2009年1月
2008年1月
2007年1月
2006年1月
2005年1月
2004年1月
2003年1月
2002年1月
2001年1月
2000年1月
1999年1月
1998年1月
1997年1月
1996年1月
1995年1月
1994年1月
1993年1月
1992年1月
1991年1月
1990年1月
1989年1月
1988年1月
1987年1月
1986年1月
1985年1月
1984年1月
1983年1月
1982年1月
1981年1月
1980年1月
1979年1月
1978年1月
1977年1月
1976年1月
1975年1月
1974年1月
1973年1月
60
(資料)The Federal Reserve Board, Economic Research and Data.(http://www.fede
ralreserve.gov/releases/H10/Summary/)より作成。
3
国際金融システムと IMF
ここまでみてきたように、国際金融市場は、IMF 設立当時は大きく異なるものとなって
いる。そうしたなかで、世界的な危機に陥ったことにより、国際金融システムをどのよう
にすべきかが論じられるようになってきた。以下では、国際金融システムとは何かを検討
し、IMF の意義と限界を述べる。
3.1 国際金融システムをどう捉えるか
ここで、国際金融システムの変遷を概観し、
「国際金融システム」とはどういったものな
のか、どういったものとして捉えられてきたかを確認する。
「システム」という言葉は、特
に経済学的に使う場合、明確な定義はなされていないように思われる。異なる事象が生じ
た際に、同一の結果あるいは同一のプロセスを経るようにすることをシステムとするなら
ば、システムは制御機構であり、制御システムがシステムということになる。システムが
すなわち制御システムとして求められるならば、自由化が基礎となる資本主義経済とは相
容れないことになる。近年の資本主義の暴走、金融資本主義化の流れは自由主義経済下、
殊に新古典派経済学を基礎とする経済社会においては当然の帰結であるとの見方がある。
現行の国際金融システムは、国際金本位制下のようなゲームのルールをもたない。為替
- 70 -
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
相場はフロート制に移行し、管理下にはない15。1971 年の金・ドル交換性停止(ニクソン・
ショック)を機に、戦後構築された国際通貨体制は崩壊し、国際金融システムもまた市場
に委ねられる傾向が強まった。
「国際金融システムの市場化」という場合、政府等による監
督・管理が縮小されることを意味する16。
IMF はブレトンウッズ体制成立直後から、国際金融システムないしは国際通貨制度自体
によって代替される存在である。戦後の復興期(過渡的措置適用期)において、例えば英
米金融協定は、IMF による資金供給を完全に代替したものと考えることができる。IMF は
基金であるため、対極的な概念である銀行とは明確に区別される必要があるものの、直接
金融(市場)と間接金融(銀行等金融機関)との関係と同様に、その機能・役割が代替さ
れる。IMF の機能停滞は国際金融システムが円滑に機能していることの裏返しであり、IMF
の融資額が低調であっても、望ましくないこととはいえない17。むしろ望ましいことと考え
る方が自然である。しかし、IMF の存続には一定額以上の収入が必要である。IMF は国際
機関かつ基金であるため、民間企業と同様に(自由に活発に)資金を運用することができ
ない。したがって、融資に伴う金利収入が主たる収入源となる。先進国の市場が成熟し、
経済が安定している場合には、資金需要は減退する。資金需要の減退は、IMF の改革ない
しは廃止の動向を生じさせる。IMF 加盟国が出資することに必要性を感じなくなるためで
ある18。
しかし、2008 年からの世界的な金融危機、世界同時不況は IMF の必要性を高めるものと
なった。上記のとおり、IMF は国際金融システムが円滑に機能する限りにおいて、その役
割を縮小する逆相関ともいえる関係をもつ機関である。世界経済が好調である場合には、
IMF の本義的な役割から遠ざからざるを得ず、新たな資金需要を求める動きが目立ってい
たことは否めない。IMF の主要業務が、各国のサーベイランスだとされる一方で、IMF 自
体の財政状況の悪化により、投資勘定の新設等が行われたのである19。IMF は、尐なくとも
2008 年までについては国際金融システムを支える機関としては機能していなかったとみる
ことができる。
15
厳格な意味での完全変動相場制を敷いている国は現実には存在しないといえる。
もっとも、政府や公的機関を市場プレイヤーとして認める場合にはこの限りでない。
17
図表 4 に示した IMF 融資残高の急減に関連して、伊豆[2009]は、アジア危機の経験が「グ
ローバル・インバランス」
を助長し、
外貨準備の累増により IMF への融資が減尐したと主張する。
仮に、こうした主張が正しいのであれば、IMF 融資の停滞がすなわち世界経済の堅調さを示す
とはいえない。したがって、IMF 融資の減尐の原因がどこにあったのかを明らかにすることが
必要となってくる。
18
IMF の最大の出資国アメリカでは、メルツァーレポート(Meltzer Report)による国際開発
機関の改革案の提示を機に、国際機関の改廃論が展開された。IMF をめぐっては、国際復興開
発銀行(International Bank for Reconstruction and Development, 以下世銀)と重複する開発
途上国向けの(開発援助)融資が批判され、従来通りの業務に徹することが提言されている。
19
IMF 協定第三次改正第 12 条第 6 項は、準備金、純収入の分配および投資について規定して
いる。ここで注目すべきは、
「投資」という項目が初めて加わったことである 。投資勘定は 2004
年から設置準備が始まり、2006 年 4 月に設置された。
16
- 71 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
3.2 国際金融のフレームワークと IMF
そうしたなか、
2009 年に入ると IMF にも大きな影響を与える提案がなされるようになる。
SDR を基軸通貨化させることが望ましいとの提案がなされたのである。この提案は、中国
人民銀行の周小川総裁によるものである20。その内容は、次のとおり。
第一に、
「トリフィンのジレンマ」
(流動性ジレンマ)は、現在でも存在する。第二に、
国際通貨制度改革の最終的な目標は、個別国から切り離された国際準備通貨を創設するこ
とであり、ホワイト案を基礎としたブレトンウッズ体制の崩壊が意味するのは、ケインズ
的アプローチがより良いものであったということである。第三に、超主権的準備通貨
(super-sovereign reserve currency)は、特定国通貨を準備通貨とすることに内在するリ
スクを取り除くことができるだけでなく、世界的な流動性の管理も可能にする。グローバ
ルな機関により管理された超主権的準備通貨は、グローバルな流動性を創出し、コントロ
ールすることを可能にする。第四に、ケインズの提案に沿った新たな国際通貨単位の創設
には、時間的政治的なコストが掛かる。しかし、短期的には SDR が超主権的準備通貨とし
て機能できる可能性を潜在していることから、SDR の役割拡大に特別な考慮が払われるべ
きである。第五に、SDR の役割を拡大するために、①SDR と他通貨との決済システムの構
築、②SDR の貿易・投資・商品価格設定・企業会計等への使用、③SDR 建て金融資産の創
設、④SDR 価値評価の構成通貨の拡大等、が必要である。第六に、各国が、自国の外貨準
備の一部を IMF の管理に委ねる仕組みを導入することにより、国際社会の危機対応能力が
高まるだけでなく、SDR の役割強化の促進につながることが期待される。IMF が SDR 建
てのファンドを創設し、多様な投資家の求めに応じ、準備通貨の引受けや償還を可能とす
ることを通じて、徐々に現在の準備通貨を SDR に代替していくための基礎を提供すること
ができる、というものである。
こうした提案を、フレッド・バーグステンは「全ての関係者にとってプラスになる提案
である。ドル保有者は、直ちに資産の多様化を図ることができる。アメリカは、ドルの急
落を避けられるし、欧州は、ユーロの急上昇を避けられる。世界のシステムは、潜在的に
大きな不安定要素を取り除くことができる」と肯定的に評価する21。一方、伊豆[2009]が
指摘するように、上記 SDR 基軸通貨化の議論は、中国当局がアメリカに対して牽制する意
図に過ぎなかったという評価も尐なくない。
SDR 基軸通貨化の是非はともかくとしても、SDR を基軸通貨とすることが実現すれば、
国際金融のフレームワークは変化し、
IMF 設立当初のものに近づくことになる。
大田[2009]
20
2009 年 3 月 23 日付発表
(http://www.pbc.gov.cn/english//detail.asp?col=6500&ID=178、2010
年 8 月 25 日アクセス確認)
。
21
Bergsten[2009]。ただし、バーグステンの最近の見解は、
「ドルが国際準備通貨の中心をな
すことはアメリカの国益とならない」というものであり、利害を反映した評価である可能性が高
い点には留意が必要だろう。同様に中国人民銀行も世界第 1 位である 2 兆ドルを超える外貨準
備高を有し、人民元の切上げが求められている状況にあることから、必ずしも純粋な意味での基
軸通貨問題の解決を目的としていない可能性がある。ドルから SDR への代位は、ドルの減価お
よび人民元切上げ圧力を自国の負担を減らしつつ軽減することにつながるからである。
- 72 -
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
が指摘するように、IMF は現在までのところあくまでも個別に加盟国へ融資を行ったり、
サーベイランスを行ったりするに過ぎない。国際金融システムを支えるという役割を担っ
ていたと捉えた場合であっても、消極的な役割であったように考えられる。国際金融シス
テムが円滑に機能する場合には、IMF はその機能を弱めることになる一方で、国際金融シ
ステムの動揺には、IMF が国際金融システムを改革するような主体的な行動を起こすこと
ができなかったからである。
加藤隆俊 IMF 副専務理事は 2009 年 5 月の太平洋経済協力会議の講演で、アジアが今般
の世界経済金融危機の影響を大きく受けているとした上で、IMF の今後の改革の必要性を
説いた。その内容は主に、①財政・金融政策の厳格な監視を含む独立したサーベイランス、
②継続的な融資制度の改革(NAB 等の融資割当等)、③危機予防のための早期警戒システ
ムの開発、④現実に照らした統治機構の改革、である22。
サブプライムローン問題を契機とした世界金融危機は、危機発生前の金融状況の異質性
も露呈させている。韓国を始めとするアジア各国の急激な経済悪化は、各国の内在的な原
因というよりは開放経済であることによる外的要因によるところが大きい。統計で確認で
きる範囲では、韓国の失業率はアジア危機のときと比べると急増は示しておらず、アジア
危機時のように内生的な経済下降局面にあったとは考えにくい。また、経常収支の悪化(黒
字幅の減尐)については、原油価格高騰によるところが大きいとの指摘もある23。
一方、アジア通貨・金融危機に見舞われたことが今次世界金融危機の影響を和らげたと
いう一面もある。これは韓国以外の国に当てはまるのだが、アジア危機の教訓から金融セ
クターを管理可能な状態、すなわち規制下に置くことで、金融危機の影響を抑えることが
できたという。2008 年以降の世界同時不況とそれからの脱出にはアジアという牽引力が不
可欠との見方が多いのも、金融セクターの悪影響が比較的小さかったことによる可能性が
ある。このことからも、加盟国個別の対応だけではなく、より包括的な視点で国際金融シ
ステムあるいは国際通貨制度が安定的なものになるために機能する必要があると思われる。
なお、2010 年 8 月 30 日、IMF 理事会は FCL の期間延長、新たな融資制度である予防的ク
レジットライン(Precautionary Credit Line, PCL)の設立で合意した。PCL 利用に当た
っては、(i)対外ポジションと市場アクセス(ii)財政政策(iii) 金融政策(iv)金融セクターの健全
性と監督(v)データの妥当性の 5 分野で審査・検討される。審査は FCL ほど厳格でなく、基
準に満たない分野が 1 つか 2 つあっても承認される可能性があり、FCL のような利用の前
提条件はなく、
すべての IMF 加盟国が利用資格を持つ。
FCL の修正および PCL 設立は 2010
年 11 月に韓国ソウルで開かれる G20 会合での合意が予定されている。
22
http://www.imf.org/external/np/speeches/2009/051209.htm、2009 年 5 月 20 日アクセス確
認。なお、講演の内容は、IMF[2009]と同様となっている。
23
向山[2009]14-15 頁。
- 73 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
おわりに
2008 年以降の先進国、
途上国を問わない危機の発生により、国際金融システムおよび IMF
の再構築や改革が現実的なレベルで議論されるようになったのは事実である。IMF 融資制
度の新設や IMF の資金の拡大は、危機への対応策として有効に機能する可能性はある。し
かし、ここで IMF の存立を規定する IMF 協定を確認してみると、依然として実際の IMF
の役割と協定上の規定との間に大きな隔たりがあることを考えざるを得ない。
第1条
目的
国際通貨基金の目的は、次のとおりである。
(ⅰ)国際通貨問題に関する協議および協力のための機構となる常設機関を通じて、通貨
に関する国際協力を促進すること。
(ⅱ)国際貿易の拡大及び均衡の取れた増大を助長し、もって経済政策の第一義的目標
である全加盟国の高水準の雇用及び実質所得の促進及び維持並びに生産資源の開発に寄
与すること。
(ⅲ)為替の安定を促進し、加盟国間の秩序ある為替取極を維持し、及び競争的為替減
価を防止すること。
(ⅳ)加盟国間の経常取引に関する多角的支払制度の樹立を援助し、及び世界貿易の増
大を妨げる外国為替制度の除去を援助すること。
(ⅴ)適当な補償の元に基金の一般資金を一時的に加盟国に利用させ、このようにして
国内的または国際的な繁栄を破壊するような措置に訴えることなしに国際収支の失調を
是正する機会を提供することにより、加盟国に安心感を与えること。
(ⅵ)
(ⅰ)から(ⅴ)までの規定に従い、加盟国の国際収支の不均衡の持続期間を短縮
し、かつ、その程度を軽減すること。基金は、そのすべての政策及び決定につき、この
条に定める目的を指針としなければならない。
IMF の目的は、上記規定のとおりである。また、
「そのすべての政策および決定につき、
この条に定める目的を指針としなければならない」という文言は、IMF 原協定にはなかっ
た文言であり、改正によって付け加えられたものである。今次世界経済の急激な悪化は、
金融取引の自由度に一定の歯止めを掛けることの必要性をも検討する契機となっている24。
IMF は、その目的に照らし、新たなフレームワーク作りにおいても積極的な役割を担う必
24
ジェームズ・トービンにより提唱された為替取引税(トービン・タックス)を基とした「国際
連帯税」の導入の議論がにわかに盛んになっている。IMF も為替取引への一定比率での課税を
推進する方向で検討が進んでいるようである。ただし、「国際連帯税」は、課税によって得た資
金を途上国支援や開発資金に充てようとすることが目的として先んじていることから、トービ
ン・タックスの目的とは異なる点に留意したい。
2010 年 6 月、韓国当局は為替取引の制限を実施した。具体的には、
(i)銀行の為替デリバテ
ィブ上限規制、
(ii)外貨建て銀行ローン規制、(iii)プルーデンシャル規制、である。
- 74 -
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
要があろう。また、
「グローバル・インバランス」を原因とする主張に象徴されるように、
根源的な問題が必ずしも検討されていないことには留意が必要である。
低金利と「グローバル・インバランス」を原因とするバブルの醸成およびサブプライム
危機の発生の説明では、そもそも世界の流動性が過剰であることが軽視されているのでは
ないかと思われる25。「グローバル・インバランス」がすなわち外貨準備の積み増しである
とすれば、外貨準備積み増しの要因が、ドルペッグ(アジャスタブル・ペッグを含む)に
起因する為替相場維持コストと捉えることができる。為替相場維持コストによるバブルの
醸成が問題だというのであれば、コストが必要とされる為替システム自体に問題があると
いえるはずである。したがって、不安定な基軸通貨であるドルは世界経済にとって負の作
用を強くもたらすものである。こうした負の作用を払拭ないし軽減する試みが必要となる。
図表 12 ドル発行高の推移
( 資 料 ) Aggregate Reserves of Depository Institutions and the Monetary Base
(http://www.federalreserve.gov/releases/h3/hist/h3hist1.htm)より作成。
また、IMF 融資機能の増大は先進国への危機対応力増大となっている一方で、要件を満
たさない途上国については依然としてコンディショナリティが課されることとなるため、
25
ドルの発行量は変動相場制移行後に急増している。また、発行されたドルの保有は、中国、
日本を始めとする経常収支黒字国によってなされている部分が多く、基軸通貨ドルの過剰発行と
基軸通貨ドルを債権国が支えるという構図が確認できる。
- 75 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
総体的な危機対応力の増大とはいえない。構造的コンディショナリティは先進国を対象と
していないため、構造的コンディショナリティの内容は方向性が大幅に変更されない限り、
先進国への影響ははじめから小さいと考えられる。基軸通貨問題の解決を除く対応策は、
問題の形式をさまざまに変化させることはあっても、根本的な問題が解決しないことによ
り、常に問題へと連なる。つまり、今日の世界経済システムにおいては、危機の発生は必
然的なものといえるのである26。
本稿では、国際金融システムと IMF の関係が、必ずしも積極的な評価に当たらないこと
を示した。IMF がより積極的な役割を演じ、国際金融システムの安定に寄与し、世界経済
の成長を支援するためには、課題が残る。その課題を解決する方法として、今日までの IMF
の政策スタンスや、その背景を明らかにすることがあげられる。
26
本稿では扱わないが、2010 年になって急激に焦点を当てられてきた問題がある。ギリシャの
財政悪化によるデフォルト懸念が欧州危機として顕在化し、ユーロ相場を急落させたことは、危
機の規模の拡大傾向と循環的な性格を表すものと捉えることができるだろう。ここでいう循環的
な性格とは、景気循環とは全く別のものである。1990 年代以降の民間を主体とした金融危機以
前は、ラテンアメリカを中心とした累積債務問題等、公的部門の債務が問題となっていた。また、
1997 年のアジア危機では、翌年にロシアのデフォルト危機が発生し、2009 年のいわゆるリーマ
ンショックの翌年には、ギリシャのデフォルト危機が生じるなど、危機の類似性がみてとれる。
2008 年以降の危機対応の結果として、民間の負担を公的部門が肩代わりする結果となり、根本
的な解決法でないことから危機の規模がかえって拡大した。過剰な流動性の供給は、対症療法的
に有効となることはあり得るが、危機のリスクを低くするものとは考え難い。
- 76 -
参川城穂「国際金融システムをめぐる諸論点―2008 年以降の動向と IMF を中心に―」
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- 79 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
戦後アメリカ経済と資金運用者1
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―
横川太郎2
<目次>
はじめに
1. 部門別バランス・シートから見る戦後アメリカ経済
2. 戦後アメリカの金融システム
3. 資金運用者と金融市場の機関化
4. 資金運用者資本主義と金融市場の機関化の進展
最後に
はじめに
本稿の目的は戦後アメリカの金融システムの変遷を「金融市場の機関化」から捉え直す
ことにある。2007 年 8 月の短期金融市場の流動性危機に端を発するサブプライム金融危
機は、2008 年 3 月の 5 大投資銀行の 1 つであるベア・スターンズの救済、さらに同年 9
月のリーマン・ブラザースの破綻をきっかけに世界的な金融危機へと発展した。このよう
な危機に際して、投資銀行モデル、証券化、略奪的貸付、機関投資家、格付機関、商業銀
行の投資銀行化、アメリカの経常収支赤字といった様々な問題が指摘されている。特に投
資銀行と証券化の問題は盛んに取り上げられ、その問題点が指摘されてきた。ただ、果た
してサブプライム金融危機の本質は両者にあるのであろうか。確かにサブプライム金融危
機は、サブプライム・ローンを証券化した証券化商品が発端となった発生した金融危機で
ある。そして、その証券化とその関連業務において主軸的な役割を担い大損害を出し、救
済合併や破綻、銀行業への転換を余儀なくされたのは投資銀行である。そのため、サブプ
ライム金融危機を「投資銀行モデルの終焉」とする向きがあるのも事実である。しかし、
投資銀行の経営モデルは大恐慌前から戦後、さらに 1980 年代以降と時代と共に変化して
きており、確たる投資銀行モデルを想定することは困難である。サブプライム金融危機で
問題となった投資銀行の過剰なレバレッジの問題は、1980 年代以降の投資銀行に見られる
自己勘定取引の増大によってもたらされたものである。もちろん、投資銀行モデルの問題
点や証券化の問題点を論じることは、危機の原因を知り、制度設計を行う上で重要なこと
1
2
本稿は経済論学会 第 58 大会の事前予稿を増補・改訂版したものである。
東京大学大学院経済学研究科博士課程所属。
- 81 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
である。だが、投資銀行モデルが時代と共に変化してきたように、制度進化の背後には必
ずそれを促す資本主義経済の特性や性向が存在する。この面を論じなければ、危機対応や
制度改革は短期的な対症療法に終始することになってしまう。
そこで本稿では、ハイマン・ミンスキーの「資本主義の金融的発展段階」の議論とそれ
を推進する諸力としての「金融市場の機関化(Institutionalization)」を取り上げて戦後ア
メリカ資本主義の動態的進化を論じる。ミンスキーは 1980 年代以降の資本主義を「資金
運用者(money manager)」によって支配される「資金運用者資本主義」としていた
(Minsky[1989]など)。一方、1980 年代から遡った 50 年代から 60 年代のアメリカ経済
では、株式保有が個人投資家から生命保険、年金基金や投資会社などの機関投資家にシフ
トする現象が起こっており、これを金融市場の機関化と呼んでいた(SEC[1971])。この機
関化現象は株式のみならず債券などを含む有価証券全般で起こりうるもので3、かつ現象自
体も戦後の一時期ではなく、戦後を通じて進展し現在まで続いている可能性がある。つま
り、戦後のアメリカでは金融・証券市場における個人投資家の比重が低下する一方、資金
運用者の比重上昇、それに伴う資金運用者の影響力の増大が見られ、この「金融市場の機
関化」を元に資金運用者資本主義への移行を論じることが可能と考えられる。
本稿での結論を先取りすると次の 3 点となる。第 1 に資金運用者資本主義への移行にお
いて、ミューチュアルファンドが重要な役割を果たすこと、第 2 にサブプライム金融危機
は金融市場の機関化の延長線上にあり、個別事象の背後に存在する金融市場の機関化、資
金運用者の影響力を無視してはならないこと、第 3 に我々は金融市場の機関化が進展すれ
ばするほど、経済が不安定になるという矛盾に直面していることである。
本稿では、まず第 1 節で戦後のアメリカ経済がどのような変遷を辿ってきたかを各部門
のバランス・シートの推移から概観する。次に第 2 節で分析の枠組みとなるミンスキーの
理論について確認し、戦後アメリカの金融システム、すなわち経営者資本主義がどのよう
な特徴を持つものなのか検討する。そして、第 3 節で金融市場の機関化の定義とその進展
をみていく。最後に、第 4 節で資金運用者資本主義の特性について検討した上で、1975
年以降の資金運用者資本主義下での金融市場の機関化の進展について、特に投資銀行業務
の変貌に注目して検討する。
部門別バランス・シートから見る戦後アメリカ経済
1
1.1
負債からみた戦後アメリカ経済
戦後のアメリカにおける金融システムの変遷を論じる前に、まず経済主体ごとの金融資
産・負債の変遷を FRB の Flow of Funds から概観する。ここでは家計、企業、政府、金
融の 4 部門の全金融負債に対する金融負債と、金融部門の保有する金融資産に対する各金
3
Goldsmith[1969], pp.46-47.
- 82 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
融機関の金融資産の構成比を通じて、金融市場の構
造、経済主体の投資行動や資産選択の推移を明らか
にする。
まず負債では、戦後のアメリカ経済は政府部門の
負債比率が傾向的に低下し、他の 3 部門の負債比率
が増大するという推移を辿っている(表 1-1)。ただ、
その推移は部門ごとに違っており、いずれも景気後
退による変動を含みつつも政府部門の負債比率が
1946 年の 68.6%から 2009 年の 19.4%まで傾向的に
表1-1 各経済部門の負債の推移
家計部門 企業部門 政府部門 金融部門
1946 10.0%
18.2%
68.6%
0.9%
1950 17.1%
21.7%
55.9%
2.0%
1955 23.7%
23.4%
47.4%
2.6%
1960 27.6%
25.7%
39.5%
4.2%
1965 30.6%
27.5%
32.9%
5.6%
1970 28.6%
32.1%
28.1%
8.0%
1975 28.0%
33.0%
25.3%
9.9%
1980 29.5%
31.3%
22.8%
12.2%
1985 26.4%
29.9%
26.3%
14.6%
1990 26.0%
27.4%
25.3%
19.0%
1995 26.2%
22.4%
25.4%
22.9%
2000 25.7%
24.3%
16.9%
30.1%
2005 28.4%
20.5%
15.9%
31.5%
2009 26.0%
20.8%
19.4%
29.8%
出典: Flow of Funds Accounts , Board of
Governors of the Federal Reserve System.
低下したのに対し、家計部門は 1946 年に 10%だったものが、その後拡大して 25~30%前
後で推移し、2009 年には 26%となっている。企業部門の負債比率もまた 1946 年の 18.2%
から 74 年の 34.2%まで拡大したが、その後次第に比率が低下し 2009 年には 20.8%と政府
部門とほぼ同規模となっている。そして、戦後アメリカで最も負債比率が拡大したのが金
融部門だった。その負債比率は 1946 年に 0.9%だったものが、80 年代以降に大きく増大
し、98 年以降には負債構成で最大の部門となっている。注目すべきはその構成で、1980
年代以降にはほぼ半分を、1990 年代以降には約 7 割を政府援助法人(GSEs)やそのモーゲ
ージ・プール、資産担保証券(ABS)の資産プールといった証券化関連の負債が占めている
ことである。実際、2009 年の金融部門の負債のうち 73.4%が証券化関連の負債となってい
る。
そのため、第二次世界大戦直後の 1946 年の段階では全負債に占める政府負債の比率が
圧倒的に大きく、民間部門の負債を通じた投資・消費活動は低調だったことが分かる。こ
の関係は、ミンスキーも指摘するように金融市場に流通する金融資産の多くが比較的安全
性の高い公債によって構成されていたことを意味する(Minsky[1986a], 邦訳 92 頁)。その
後、戦時から平時への転換に伴って民間部門の経済活動が再び活発化し、民間部門の負債
比率が高まっていった。ただし、企業部門の負債比率は 1970 年代半ば以降、低下傾向で
あるから企業部門による負債を伴う投資はマクロの負債比率で見た場合には減尐傾向にあ
ることとなる。一方で家計部門は 1950 年代半ば以降、25~30%の負債比率を維持しており、
家計部門の負債による投資・消費が大きな比重を占めている。そして、戦後最も負債比率
を伸ばしたのが金融部門で、中でも特に証券化商品の登場により負債比率が大いに高まっ
た。これは本来、最終的な貸し手と借り手によって保有されている資産と負債が証券化を
介すことで資金循環表上の資産・負債の増大として現れていることによるものである。す
なわち、金融革新によって金融の重層化が進んだことで金融部門の負債比率が高まってい
ったのである。そのため、負債からみた近年のアメリカ経済は、金融部門での金融革新に
よる金融の重層化と家計部門の負債による投資・消費により構成されるものと特徴付けら
れる。
- 83 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
1.2
資産からみた戦後アメリカ経済
資産についてアメリカ経済全体をみる意味はあまりない。なぜなら、戦後一貫して金融
部門が最も大きな比率を占め続けているからである4。そのため、ここでは金融部門内部で
の金融資産の保有状況をみる。戦後アメリカの金融部門の資産の推移で特徴的なのは、預
金金融機関から年金基金、投資会社(investment company)5、保険会社などの機関投資家
へ金融資産がシフトしていくことにある(表 1-2)
。預金金融機関では、1946 年の金融機
関の資産全体(証券化関連機関の資産を除く)に占める各金融機関の資産の比率は、商業
銀行 49.9%、貯蓄金融機関 11.9%だった。しかし、商業銀行の比重は趨勢的に低下し、2009
年でも最大の構成要素であるものの 33.7%まで低下した6。貯蓄金融機関は 1970 年代末に
かけて比率を増大させたが、70 年代末以降の高金利と 80 年代の 2 度にわたる S&L 危機
によって壊滅的打撃を受けた。1977 年に 23.4%に達した比率は 2009 年には僅か 4.0%と
なっている。一方、機関投資家は 1946 年に保険会社が 21.7%、退職者基金を含む年金基
金が 3.1%、投資会社は僅か 0.2%を占めるに過ぎなかった。このうち保険会社を除く機関
投資家の比率は戦後を通して大きく増大した。年金基金は、1980 年代にかけて比率を伸ば
し、2009 年には 7.5%と 2 倍以上になった。さらに、投資会社の資産比率は 1980 年代以
降急激に高まり、2009 年には 18.4%を占めている。Flow of Funds のデータでは、Money
Market Mutual Fund(MMMF)、ミューチュアルファンド、クローズドエンド型、ETF が
投資会社に該当する。これらの投資会
社のうち、クローズドエンド型は大恐
慌以前に主流だった投資会社であり7、
ETF は 1990 年代に登場した比較的新
しい投資ファンドであるため、いずれ
も規模・影響力が共に小さい。MMMF
は 1971 年に誕生した短期金融資産投
表1-2 金融部門の資産の推移
商業銀行 貯蓄金融機関 保険会社 年金基金 投資会社 ( MMMF )
1946 49.9%
11.9%
21.7%
3.1%
0.2%
( 0.0% )
1950 46.6%
13.6%
24.2%
3.7%
0.3%
( 0.0% )
1955 41.6%
16.5%
24.1%
5.7%
0.4%
( 0.0% )
1960 37.9%
19.8%
23.0%
7.3%
0.7%
( 0.0% )
1965 38.2%
21.8%
19.9%
7.6%
0.7%
( 0.0% )
1970 39.9%
20.7%
18.0%
7.6%
0.7%
( 0.0% )
1975 41.1%
22.2%
15.4%
8.0%
0.7%
( 0.1% )
1980 39.4%
22.1%
15.6%
9.1%
1.9%
( 1.3% )
1985 35.5%
19.6%
15.0%
10.4%
5.6%
( 3.2% )
1990 33.4%
14.2%
18.0%
10.5%
9.2%
( 4.5% )
1995 33.0%
8.6%
19.5%
10.7%
13.2%
( 5.1% )
2000 33.3%
7.2%
16.5%
9.3%
16.8%
( 8.7% )
2005 34.1%
7.6%
16.8%
6.9%
15.3%
( 6.3% )
2009 33.7%
4.0%
14.8%
7.5%
18.4%
( 7.6% )
出典:表1-1に同じ。ただし、本表では証券化関連資産を含めていない。
1946 年段階の資産比率が政府部門 4.3%、家計部門 25.7%、企業部門 4.9%に対し、金融部門は 64.4%
となっている。これが 2009 年にはより先鋭化し、政府部門 3.9%、家計部門 7.6%、企業部門 0.6%に対し、
金融部門 72.9%と圧倒的な比率を占めている(FRB, Flow of Funds Accounts of the United States)。
ただ、
これは証券化関連資産を含んでいるため、金融の重層化の影響による面も多分に存在している。そのため、
ここからは金融部門の資産動向の実態に迫るため、証券化関連資産を除いて議論を進めていく。
5 投資会社とは、株主から出資された資金を組織の目的に合致した証券に投資する株式会社、信託、パー
トナーシップを指す。ミューチュアルファンド、クローズドエンド型、ユニット型投資信託、上場投資信
託(Exchange-Traded Fund; ETF)が主な SEC 公認の投資会社である(ICI[2010], p.216)。
6 実際には 1998 年に証券化関連機関の資産に比率の上で並ばれ、翌年以降は逆転されている。2009 年に
おける証券化関連機関の全金融機関に占める比率は 29.9%に対し、証券化関連機関を含んだ場合の商業銀
行の資産の比率は 23.6%となる。それだけ、金融の重層化の影響が大きいと言える。
7 クローズドエンド型は、1920 年代の株式ブームの中で株式を大量に買い付けると同時に株式を発行す
ることでブームを促進する役割を果たしていた。しかし、誕生してから日の浅い業態であったために規制
がほとんど存在しておらず、大恐慌において多大な損害を投資家にもたらし、その後下火になっていった
(北條[1989]
,30-42 頁)
。
4
- 84 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
資信託で、60 年代末以降の高金利の中で生じたディスインターミディエーションの中で受
け皿として資産を大きく伸ばした。ミューチュアルファンドは、戦後一貫してその規模を
拡大してきた。
1946 年に 0.1%であった資産比率も 2009 年には 9.9%にまで増大している。
そのため、戦後のアメリカ経済を経済部門間の資産シフトで見た場合、資産の預金金融
機関から機関投資家、とりわけ新興の年金基金や投資会社へのシフトがその特徴と考えら
れる。このような現象は「金融市場の機関化」と呼ばれている。そのため、戦後のアメリ
カ経済、ひいては金融システムの変遷の根底には金融市場の機関化が存在するといえる。
戦後アメリカの金融システム
2
本節では、第二次世界大戦後のアメリカ経済、とりわけ金融システムがどのような構造
を持って成立したかについて検討する。戦後のアメリカ経済に成立した金融システムを端
的に表せば、高い安定性を持った中にそれを内部から突き崩す不安定性の因子を内包した
システムだった。この金融システムの構造をハイマン・ミンスキーの「金融不安定化仮説」
と「資本主義の金融的発展段階」の議論を元に検討していく。
2.1
ミンスキーの「金融不安定化仮説」と「資本主義の金融的発展段階」論
ミンスキーの「金融不安定化仮説(Financial Instability Hypothesis)」は資本主義経済
の循環的変動を説明するための議論といえる。その議論の特徴は、資本主義経済の持つ不
確実性、すなわち期待を投資水準の決定に持ち込んだことにある。つまり、投資の意思決
定には、
「労働費用と短期利子率に依存する投資の供給関数、資本資産の価格から導出され
る投資の需要関数」だけでなく、
「資金調達の予想された構造と諸条件」
(Minsky[1986a],
邦訳 227 頁)を加える必要があるのである。この第 3 の点の核となる概念が「安全性のゆ
とり幅(margins of safety)」であり、その決定は「資金の借り手」に関する借り手自身と貸
し手の主観的な評価によってなされると言える。すなわち、資本主義経済では投資は外部
金融を伴うこととなるが、投資が増大すればするほど、外部金融の比率が高まり、そのこ
とによって資金の貸し手と借り手は共に将来の返済キャッシュ・フローの不確実性に直面
する。その結果、
「借り手による保護要求は資本資産の需要価格を引き下げ、貸し手による
保護要求は投資用の産出物の供給価格を引き上げる」(前掲,邦訳 232 頁)のである。
また、経済全体の金融不安定性を見る上では、内部金融に対する外部金融の比率が経済
全体としてどのような状態にあるのかが重要となる。それが資産ポジションの金融形態で、
資本資産からの所得キャッシュ・フローが元本・利子の返済額を上回る「ヘッジ金融(hedge
finance)」
、利子分のみを上回る「投機的金融(speculative finance)」
、そして、いずれも上
回らない「ポンツィ金融(Ponzi finance)」の 3 形態が存在する8。これらの 3 形態は、客観
8
そのため、投機的金融では近い将来の時点に債務履行のための負債の再金融か資産の売却が必要となる。
また、ポンツィ金融では金融債務の履行のためにさらなる負債が必要になり負債残高が累増する。
- 85 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
的な所得キャッシュ・フローの元利払いキャッシュ・フローに対する比率を示すものに過
ぎない。しかし、経済全体に占める投機的金融、ポンツィ金融の比率の増大は、利子率変
動に対する脆弱化と資金需要の増加を意味し、資金需要の増大は利子率上昇と安全性のゆ
とり幅の減尐を引き起こす。このようにして、投機的金融、ポンツィ金融の比率の増大は
金融構造の脆弱化を引き起こし、経済全体の不安定性を高めるのである。
景気後退後の経済が上昇に転じた直後の比較的安定的な時期には、金融契約は直前の景
気後退と不況によって保守化し、各経済主体は安全性のゆとり幅を大きく持つと考えられ
る。そこではヘッジ金融が優勢となるが、そのような経済主体は所得と支払いキャッシュ・
フローの間に差が生まれるだけでなく、それを現金などの流動性の高い資産で保険として
保有する可能性が高い。流動性が豊富に存在する状況では、短期金利は長期金利に対して
かなり低い水準にあると考えられ、そこでは「投機的金融」に乗り出すことで多くの利潤
を得られる可能性が高くなる。さらに投機的金融が展開されて資本資産価格が上昇すれば、
資本利得が発生するため、ヘッジ金融が優勢な金融構造では投機的金融やポンツィ金融に
とって有利な条件が存在している。資金の貸し手の銀行にしても旺盛な流動性需要の下で
資金調達を低利子で容易にできる。短期債務の比重を高めることで借り手と貸し手の双方
に利潤獲得機会を与えることから、安全性のゆとり幅が内生的に減尐し、
「頑強な金融構造
から脆弱な金融構造への移行が内部的に生じ」(Minsky[1986a], 邦訳 260 頁)るのである9。
このとき金融革新が重要な役割を果たす。投機的金融の展開には、借り手の経済主体と
貸し手の金融機関の安全性のゆとり幅を満たす金融商品が必要となる。金融機関が新たな
金融資産か金融資産の新しい利用法を開発することで、経済活動や過去から受け継いだ諸
資産を保有するのに利用しうる資金量が増加し、
投機的金融が可能になるのである。また、
金融革新は、中央銀行が金融引締めを企図して利子率を引き上げることでも生じる。利子
率の上昇は、家計や企業の現金残高保有の節約を通じて流通速度を高めることによって緩
和される同時に、新たな金融手段や現金資産以外の新たな代替的投資手段を生み出す金融
革新によっても緩和可能なことからその誘因が存在する10。
金融革新は既存の規制や制度の持つ穴やその想定外の金融資産の利用法を編み出すこと
で達成される。そのため、必然的に制度進化を引き起こし、その繰り返しと蓄積は経済を
支える制度基盤をも変容させる。すなわち、
「安定的で良好な制度的構造の存在が長期的な
経済成長を可能ならしめる一方で、順調な資本蓄積は、それ自らを支える制度的基盤を掘
り崩すような諸力を生み出す」(鍋島[2007],95 頁)のである。このことを論じたのが
9 詳しくは前掲,邦訳版第 8-9 章を参照。また、この議論を整理したものとして横川[2010]
,46-48 頁
も参照のこと。
10 資本主義経済における金融革新については、Minsky[1982], 邦訳 105-106, 254-255 頁を参照。ミンス
キーは金融革新の例として、不動産投資信託(REIT)や譲渡可能定期預金証書(NCD)、CP を挙げている。
また、ミンスキーは「企業家精神を持った事業家と金融家間の交渉の結果生じる『新結合』が、プロセス
及びプロダクト・イノベーションと同時に新たな金融関係と新たな金融制度につなが」り、
「生産と金融
における二組の『新結合』が経済発展の原動力となる」(Minsky[1990], p.52)とも論じている。
- 86 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
ミ ン ス キ ー 「 資 本 主 義 の 金 融 的 発 展 段 階 (The Stage of Capitalist Financial
Development)」の議論である。
ミンスキーの資本主義の金融的発展段階は、Whalen[2001]の整理に基づくと「商人資本
主義(Merchant capitalism)」
(1607-1813 年)
、
「産業資本主義(Industrial capitalism)」
(1813-1890
年)、「銀行家資本主義(Banker capitalism)」(1890-1933 年)、「経営者資本主義(Managerial
、
「資金運用者資本主義(Money-manager capitalism)」
(1982 年-)
capitalism)」
(1933-1982 年)
の 5 段階に分類できる11。このうち、本稿では経営者資本主義と資金運用者資本主義の時
代を、金融市場の機関化という連続性の上で捉えて論じる。これは各段階が相互に連続し
て存在するだけでなく、前後の段階においても同時に存在しているためである。つまり、
ある段階は前段階の中で生成・発展し、その経済・市場における影響力が顕在化した時点
でその段階に転換する。そして、その段階の中でも次なる段階の萌芽が生成・発展すると
同時にその段階自体は次第に衰亡へと向かっていく。これをミンスキーの变述から見てみ
ると、資金運用者資本主義は経営者資本主義段階の 1946 年にその萌芽が誕生したとしてい
る(Minsky[1996], p.363)。その後、市場における影響力を次第に強め、1966 年から 82 年に
かけて 3-5 年周期で繰り返されたインフレーションの阻止が初期の金融危機を引き起こし、
金融危機の脅威の中断がインフレーションを招くという悪循環を作り出す主な原因になっ
たとした(Minsky[1986b], p.291)。そして、1987 年 10 月 19 日、20 日の金融危機こそが資金
運用者資本主義の最初の金融危機となったというのである(Minsky[1989], p.395)。ミンスキ
ーは資金運用者資本主義への移行が、このような形で経営者資本主義の中で生じたと論じ
た。ただ、実際には断片的なものが多く、経営者資本主義の分析に関しては『金融不安定
性の経済学』を始めとした数多くの研究が存在するが、資金運用者資本主義の生成・発展
を射程に含んでおらず、肝心な経営者資本主義下での資金運用者の活動に関する議論が欠
落している。資金運用者資本主義の分析に関しても、証券化や金融市場の機関化が投資銀
行や商業銀行の活動に強く影響を及ぼすようになる 1990 年代以降の分析が為されないま
まとなっている。本稿が経営者資本主義、資金運用者資本主義の時代を、金融市場の機関
化という連続性の上で捉え直そうとするのはそれ故である。
2.2
経営者資本主義の経済構造
経営者資本主義の中での資金運用者の活動は次節で見るとして、ここでは戦後のアメリ
カ経済、すなわち経営者資本主義の時代について確認する。経営者資本主義の根底にある
のは、1933 年以降のニューディール改革と戦時経済下の諸政策である。これらの政策の結
果、出現したのが「頑強な金融構造」を持つ金融システムと深刻な不況を回避する「大き
11 各段階の日本語訳に関しては鍋島[2003]における整理に準じつつ、第 1 段階となる商人資本主義と
第 3 段階となる銀行家資本主義については Whalen の用語法を採用する。これらは、Minsky の議論では
元々、
「商業資本主義(Commercial Capitalism)」と「金融資本主義(Financial capitalism)」と命名され
ていた(Minsky[1990]; [1993])。
- 87 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
な政府」であり、これを背景として「企業の自己金融化」と労働者の賃金上昇に基づく「零
細貯蓄(small savers)の形成」が進展した。
グラス・スティーガル法(1933 年銀行法)、1935 年銀行法、1933 年証券法、1934 年証
券取引所法の 4 法によって構成されるニューディール型銀行システムは、大恐慌の教訓か
ら主に 4 つの分野における改革がなされていた。第 1 に、商業銀行業務と投資銀行業務を
分離させ、商業銀行に対し「健全銀行主義(sound banking)」を推奨したこと、第 2 に、「投
資家保護」の観点から証券の公募発行への事前の「情報開示(disclosure)」を徹底したこと、
第 3 に、投機的な信用利用による証券取引を制限したこと、第 4 に、連邦準備制度(FRS)
の機構改革・権限強化、預金保険制度、証券取引委員会(SEC)の設立を含む監督機能とセー
フティネットの大幅な拡充を行ったことである。その結果、企業の新規公募発行による資
金調達の困難が増し、私募発行や銀行貸出へ調達手段がシフトした(西川・松井[1989]
,
193-194,202-208 頁)
。そのため、金融市場において商業銀行が投資銀行に対し相対的優
位に立つこととなったのである12。
1941 年以降の戦時体制下では、戦争遂行のため公債発行残高が急増し、その発行と消化
を円滑に行うためにアメリカ国内の金融制度が総動員された13。その結果、政府・民間部
門の負債のほとんどが政府部門の負債となり、その公債の多くを商業銀行が保有した14。
戦後、平時への転換に伴い民間投資も復活し商業銀行業務も貸付業務へと復帰していった。
その際、銀行は自らが保有する国債の保有量を調節により資金逼迫時の流動性を確保が可
能だった。加えて、金融システムの中核を為し、大量の国債を保有する商業銀行の存在は、
1953 年以降に金融政策の独立性を取り戻した連邦準備制度にとって公開市場操作を通じ
た金融政策の有効な波及経路が存在することを意味していた15。公定歩合政策もまた連銀
窓口を利用可能な商業銀行を中心とした金融システムでは有効だった。戦後初期のアメリ
カの金融システムには、金融政策が有効に機能する条件が商業銀行を中心として存在した
のである。そして、経済が危機に瀕した時には中央銀行が「最後の貸し手」として介入し、
断固として金融危機の金融恐慌への発展を防いだのである16。
「財政赤字を伴う大きな政府」の存在もまた金融システム同様、恐慌と深刻な不況を回
加えて 1940 年投資会社法、1940 年投資顧問法の 2 法が制定され、投資会社、投資顧問会社は SEC へ
の登録を義務づけられ、投資家保護のための規制に服すこととなった(北條[1990]
,116-117 頁)
。
13 戦時の国債発行の急増と国債価格支持政策に関しては河村[1995] 66-80 頁,
[1998] 第 9 章 2 節に
詳しい。
14 1946 年の商業銀行の保有する財務省証券は銀行資産全体の約 56%(755 億ドル)に達していた。
15 戦時国債消化のための国債価格支持政策は、形式上 1951 年の財務省と連邦準備との間の「アコード」
により終了するが、実質的には 1953 年の「ビルズ・オンリー政策」の導入まで継続していた(西川・松
井[1989]
,220-227 頁)
。
16 ミンスキーにおける「最後の貸し手」は、
「
『問題含みの資産』を連邦準備の負債に変換すること」
(Minsky[1982],邦訳 11 頁)を意味する。その意味で中央銀行による流動性供給に加えて預金保険機構、さ
らには中央銀行を後ろ盾とした金融機関が、資金不足に陥っている経済主体の再金融に応じることをもそ
の範疇となる。そのため、ミンスキーの「最後の貸し手」は「金融のセーフティネット」の概念に近いと
言える。
12
- 88 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
避する役割を果たした。景気後退によ
り民間投資が減尐して企業の利潤が減
図2-A 企業の資金調達(内部金融/資本支出,1950-2009)
140.0%
130.0%
尐する際、財政赤字を増大させてそれ
120.0%
に見合った政府支出を行えば、企業の
100.0%
税引き後利潤は維持される。利潤が維
80.0%
持されれば債務履行は可能であり、経
60.0%
済主体は破産を免れるのである。また、
110.0%
90.0%
70.0%
出典: Flow of Funds Accounts, Board of Governors of the Federal Reserve System.
租税が法人所得税のような従量税であれば、いわゆるビルト・イン・スタビライザー機能
が働き、売り上げが減尐するときに課税額が減尐して利潤の維持に寄与する。このような
大きな政府の存在は景気後退を未然に防ぐか、もしくは軽度のうちに終了させることで企
業利潤を維持すると同時に雇用を維持し、家計貯蓄の増大を可能にするのである。
これらの「頑強な金融構造」と「財政赤字を伴う大きな政府」の下で「企業の自己金融
化」と家計部門の「零細貯蓄の形成」が進展することとなった。杉原信男は企業の自己金
融化の条件を、独占的超過利潤の得られる大企業で、多数の株主によって所有単位が構成
されることとしている(杉原[1954]
,192 頁)
。実際、戦後アメリカでは企業部門の独占
力が増大し、製造業における市場占有率や資本集中度の上昇、独占度の上昇に応じた利潤
率の上昇が生じ、独占的企業は大きな利潤をあげていた(坂本[1978]
,46-64 頁)
。その
結果、投資資金調達の内部留保化が 1960 年代半ばにかけて進展し、1950 年から 65 年ま
での企業の資本支出に占める内部金融の比率は平均で 101%となった(図 2-A)。この背景に
は、企業部門の独占度の増大、とりわけ当時の基幹産業である重工業部門と耐久消費財部
門で寡占体制が確立されたこと、第二次世界大戦により欧州の生産力が壊滅状態にあり、
かつ日本のキャッチ・アップ以前でアメリカ企業の競争力が強かったことがあげられる。
さらには冷戦下での軍事支出の恒常化、財政赤字を伴う大きな政府により、労働コスト上
昇を価格転嫁し易かったこともあげられる(北條[1990]
,97-98 頁)
。
家計部門の零細貯蓄の形成は、ニューディール期の全国労働関係法(ワグナー法;1935
年)に始まる労働政策により実現した。戦後、労働者側は雇用者との間で長期協約を結び、
「生産性上昇率に対応するほぼ 3%程度の自動的な賃上げとインフレに対する生計費調整
(COLA)を獲得した。
同時に、失業手当の企
業上積み(補完的失業
手当:SUB)や年金、
健康および生命保険、
労働時間短縮など付加
給付の新設ないし改善
にも成功した」
(春田・
表2-1 家計の所得分配(1929-1971, %)
最低所得層 低所得層 中位所得層 高所得層 最高所得層 最高所得層 最高所得層
20%
20%
20%
20%
20%
5%
1%
12.5
1929
13.8
19.3
54.4
30.0
18.4
1935-36
4.1
9.2
14.1
20.9
51.7
26.5
17.6
1941
4.1
9.5
15.3
22.3
48.8
24.0
15.0
1944
4.9
10.9
16.2
22.2
45.8
20.7
10.5
1950
4.8
10.9
16.1
22.1
46.1
21.4
11.4
1955
4.8
11.3
16.4
22.3
45.2
20.3
9.2
1960
4.6
10.9
16.4
22.7
45.4
19.6
8.4
1964
4.2
10.6
16.4
23.2
45.5
20.0
8.0
1967
4.0
10.8
17.3
24.2
43.8
17.5
8.4
1971
4.1
10.6
17.3
24.5
43.5
16.7
7.8
出典:U.S. Department of Commerce[1975], p.301, G319-336(1929-1964); U.S. Census Bureau,
Historical Income Tables, IE-3(1967-); 最高所得層1%はPiketty and Saez[2003], pp.8-9(1935-36は
1936).
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
鈴木[2005]
,155 頁)
。その結果、家計の所得の平等化が進展し、家計所得全体に占める
最高所得層 5%の獲得所得は 1929 年の 30.0%から 44 年に 20.7%、71 年には 16.7%に低
下した(表 2-1)
。この傾向は最高所得層 1%でより顕著で、1929 年に 18.4%だったもの
が、44 年に 10.5%、71 年には 7.8%まで低下している。反対に中位所得層 20%と高所得層
20%に上昇がみられ、中位所得層 20%では 29 年の 13.8%から 44 年に 16.2%、71 年には
17.3%まで上昇した。その上、直接的な賃金以外のフリンジ・ベネフィットや社会福祉政
策が拡大しており、これらの所得移転効果を考慮すると、実質的な家計部門の所得水準の
平等化は戦中・戦後を通じてより進んだと言える。このような中高所得層の増大と高所得
層の縮小は、必然的に家計当たりの貯蓄の尐額化・零細化を伴う。家計貯蓄の多くは戦時
中には、戦費調達のための公債保有に直接・間接を問わず向かっていた17。しかし、戦後
に平時への転換に伴って公債保有の必要性が薄れたことで、新たな流入先を求めることと
なる。この尐額化・零細化した家計部門の貯蓄が金融市場に流入する形態こそが、資金運
用者の活動と金融市場の機関化の進展を見る上で重要なポイントとなるのである。
資金運用者と金融市場の機関化
3
3.1
金融市場の機関化・機関投資家・資金運用者
本節では、経営者資本主義の中で金融市場の機関化がどのように進展したか検討する。
ただ、まずは金融市場の機関化、機関投資家、資金運用者の定義と 3 者の関係を検討する。
「金融市場の機関化(institutionalization)」は、高木仁によれば「金融・証券市場にお
ける個人投資家の比重低下と、機関投資家の比重上昇、貯蓄機能と投資機能の分離」
(高木
[2006]
,263 頁)と定義される。このような現象は当初、株式市場に限定されたものと
理解されていた18。しかし、Goldsmith も指摘するように、機関化は主要な金融手段の違
いにより影響を受けるが、一般的には株式より債券で、債券の中でも短期より長期におい
て進展し易いものである(Goldsmith[1969], pp.46-47)。つまり、当初の 1950 年代には株
式保有の機関化という形で金融市場の機関化が顕在化したが、この傾向は株式市場に限ら
ず、金融市場全体において生じる現象と考えられる。
金融市場の機関化を機関投資家の比重上昇とした場合、やはり機関投資家の定義が必要
になる。しかし、実は機関投資家にも固有の定義が存在する訳ではない。小林和子は、SEC
機関投資家調査や FRB の Flow of Funds、SEC の年次報告書等での機関投資家の定義を
検討し、
「機関投資家(institutional investor)」を定義している。それは、事業法人や政府
1939 年から 1945 年までの家計貯蓄のうち 33.5%(84 億ドル)が連邦債に、27.0%(67 億ドル)が商
業銀行預金に向かっていた。さらに他の非商業銀行金融機関による間接的な保有分が存在しており、これ
ら以外の不動産や社債、株式投資へと向かった資金はわずか 5.1%に過ぎなかった(Goldsmith[1955], I,
pp.299)。
18 1955 年の上院銀行委員会の報告書では、機関投資家による普通株投資の増大、とりわけその純買付額
の増大が指摘されていた(SEC[1971]
,抄訳 1-2 頁)
。
17
- 90 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
等以外の個人投資家にあらざる投資家で、一般大衆から相当額の資金を吸収し、これを普
通株(筆者注:有価証券と読み替えてよいと考えられる)に運用して利益をあげ、それを
主たる、もしくは収入源の一つとするというものである(小林[1982]
,100-105 頁)
。た
だ、この定義は、有価証券の運用により利益をあげ、収入源とするような機関をも機関投
資家に含む点で高い柔軟性を持つ一方、一般的な機関投資家と認知される機関との間に齟
齬を生む可能性がある。戦後のアメリカ経済では、ニューディール型銀行システム下で構
築された各金融機関の業務を制限するファイヤーウォールを乗り越える動きが存在し、実
際に規制の抜け穴や金融革新、規制緩和によってそれが進展してきた。つまり、年金基金
や投資会社といった主たる収入源が有価証券の運用である機関は問題ないが、1980 年代以
降の投資銀行のような新たな収入源の獲得のために自己勘定や傘下の子会社を通じた取引
に乗り出した機関も、有価証券の運用が収入の一部分を構成するため機関投資家となる。
金融機関のユニバーサル化が進んだ結果、主たる金融活動を特定しにくい状況が作り出さ
れているのである。このような齟齬を解消するには金融機関全体ではなく、運用部門・運
用主体を元に推進主体を捉える必要がある。
ミンスキーの資金運用者はこのような要請に応えるものと考えられる。ただ、ミンスキ
ー自身の定義は曖昧なものに留まっている。彼は資金運用者を年金、ミューチュアルファ
ンド、保険会社、銀行信託部のような金融機関であると定義することが多い19。もしくは
資金運用者をファンドマネージャーの同義としている20。これを『SEC 機関投資家調査』
を元に再整理する。同調査は機関投資家と彼らが管理するファンドを明確に区別する必要
性を論じている(SEC[1971], 抄訳版 61-62 頁)。つまり、ミンスキーの例では保険会社と
銀行信託部が資金運用者で、ミューチュアルファンドは資金運用者(投資顧問会社)に管
理される口座・ポートフォリオの1タイプに過ぎないことになる。ただ、ミンスキーが資
金運用者をファンドマネージャーと同義に扱っていることからも明らかなように、ミンス
キーにとって重要なのは運用マネージャーの方である。そのため、マネージャー別の機関
投資家を資金運用者と定義すべきであり、この定義により金融機関の業務多角化による参
入をより明確に説明することが可能になる21。
以上から本稿では「金融市場の機関化」を「金融・証券市場における個人投資家の比重
低下と資金運用者の比重上昇、それに伴う資金運用者の影響力の増大」と定義したい。こ
こで定義に資金運用者の影響力の増大を加えたのは、資金運用者の金融・証券市場におけ
る保有率が増大したとしても、それが経済システム全体に影響を及ぼさないのであれば、
経済の運動を決定する諸力を考える上では意味をなさないからである。資金運用者の影響
力が拡大することで初めて、経営者資本主義から資金運用者資本主義への移行を検討する
Minsky[1989], p.397; [1996], p.363; Minsky & Whalen[1996-7], p.168.
Minsky[1990], p.69; [1993], p.113.
21 そして、
『機関投資家調査』によれば、自己管理型年金基金、保険会社、投資顧問会社、銀行信託部の
4 形態が主要な資金運用者となる(SEC[1971])。
19
20
- 91 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
ことが可能になる。
3.2
経営者資本主義の中の資金運用者
第二次世界大戦直後、家計部門の
貯蓄の多くは国債と各種預金金融機
関への預金の形で保有されていた
(表 3-1)
。それが次第に非預金金融
機関にシフトすることになる。家計
部門の金融資産に占める非預金金融
機関の比率は戦後一貫して増大し、
その構成比は 1946 年の 10.6%から
65 年の 18.2%、
75 年の 23.6%、
2009
表3-1 家計部門の金融資産構成比(1946-2009, %)
非預金金融機関
預金金融機関
政府債券 株式・社債
MF
MMMF 年金基金
1946
21.1%
10.6% 0.2%
0.0%
2.4%
24.5%
36.4%
1950
21.5%
14.1% 0.4%
0.0%
3.2%
24.0%
40.3%
1955
20.7%
15.5% 0.8%
0.0%
5.1%
18.9%
44.8%
1960
20.9%
17.3% 1.3%
0.0%
7.0%
15.6%
46.2%
1965
22.4%
18.2% 1.8%
0.0%
8.3%
11.3%
48.1%
1970
25.1%
20.1% 1.8%
0.0%
10.0%
10.7%
44.0%
1975
31.5%
23.6% 1.1%
0.1%
12.7%
10.4%
34.5%
1980
29.9%
26.6% 0.8%
1.0%
14.8%
10.1%
33.4%
1985
27.5%
32.9% 2.1%
2.1%
21.0%
11.7%
27.9%
1990
22.0%
34.5% 3.5%
2.7%
22.7%
13.3%
30.2%
1995
14.1%
39.1% 5.8%
2.2%
26.6%
11.8%
35.1%
2000
11.1%
44.5% 8.1%
2.9%
27.5%
7.5%
36.9%
2005
13.9%
46.0% 8.9%
2.2%
26.2%
6.2%
34.0%
2009
15.3%
44.8% 9.8%
2.9%
26.2%
6.2%
33.7%
注)MF:ミューチュアルファンド。
出典: Flow of Funds Accounts, Board of Governors of the Federal Reserve System.
年には 44.8%と過半近くなった。
図3-1 機関投資家のグロス株式売買高(対機関投資家比,1965-1980年)
(100万ドル)
その中でも一貫して最大の構成要
70.0%
140,000
60.0%
120,000
素だったのが年金基金だった。こ
50.0%
100,000
40.0%
80,000
30.0%
60,000
20.0%
40,000
10.0%
20,000
の背景には 1950 年代に労働組合
が年金設立運動を展開し、企業年
金の設立・加入数が急増したこと、
さらには医療保障制度の拡充によ
る団体保険への加入といった社会
0.0%
0
1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980
年金基金(売買高,右軸)
MF(売買高,右軸)
年金基金
MF
注)機関投資家には、年金基金、ミューチュアルファンド、生命保険、損害保険が含まれる。
出典:SEC, Annual Report 各年より作成。
保障制度の拡充が存在した(北條[1990]
,94 頁)
。また、Brill と Ulrey によれば、零細
貯蓄層は伝統的に元本の流動性や安全性を重視し、また金融市場へのアクセスが困難な上
に、取引高が小さくコストが割高となる。そのため、金融市場を通じるより金融機関によ
って貯蓄のニーズを満たすとしている(Brill with Ulrey[1967], p.19)。
つまり、
経営者資本主義の中では零細貯蓄の増大、福祉国家政策による各種の保険制度、
年金制度の導入により、資金運用者の元に資金が流入する構造が作り出されていた。その
結果、経営者資本主義の中で資金運用者は次第に規模を増し、影響力を増大していったの
である。ただし、年金基金は資金運用者としては保守的な存在で、その投資行動が市場に
影響を与えるようになるのは 1970 年代以降のことであった。このことは機関投資家の株
式市場でのグロスの売買高に端的に表れている(図 3-1)
。非保険型年金基金は資産規模こ
そ大きい(表 1-2,3-1)が、長らく購入した株式を長期間保有するタイプの機関投資家で
あった。そのため、グロスでの株式売買高も 1960 年代後半には機関投資家全体の約 30%
に過ぎなかった。それに対し、ミューチュアルファンドは資産規模こそ小さいがグロスの
株式売買高は 1960 年代後半には 55%という高い比率を占めている。年金基金がミューチ
ュアルファンドに株式売買高で逆転するのは 1973 年であり、それまで金融市場の機関化
- 92 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
を牽引して来たのはミューチュアルファンドということになる。ミ
ューチュアルファンドがそのような性格を持つに至ったのは、一株
当たり純資産額で換金が可能で流動性・安全性が高いという商品性
にあった。このことは同時に常に買い戻し要求の可能性に晒される
ため、換金額を超える新株販売と換金を防ぐ運用成績の向上、すな
わち積極的な運用が必要なことを意味していた22。そして、積極的
な運用を続ける中で、ミューチュアルファンドは短期利益の最大化
を目指す現在の資金運用者の原型となっていったのである。
そのため、本節ではミューチュアルファンドの活動に注目し、そ
の活動から金融市場の機関化を 3 つの時期に区分する。すなわち、
金融市場の機関化が進展するが資金運用者の影響力があまり増大し
ない 1966 年まで、
資金運用者の影響力が増大していく 1975 年まで、
そして資金運用者の影響力が顕著となる 1975 年以降である。
1966 年までの金融市場の特徴は、相対的低金利、債券市場の相対
的低位の下で非預金金融機関の資金が株式市場へ集中したことにあ
った。これは企業の資金調達の内部金融化による社債需要の低下、
1933 年証券法による社債発行の機動性低下等が影響していた。一方
で株式は順調に上昇していった。これは企業部門の寡占的競争力に
よる利潤の確保と内部金融化傾向による一株当たりの利益および配
当の維持によるもので、このことが株式市場にさらなる資金を集中
表3-2 ミューチュアル・ファンド
の株式売買回転率
売買回転率
(1) (2) (3) (4)
1946 23.6
1947 19.0
1948 18.5
1949 17.0
1950 25.2
1951 21.8
1952 14.4
1953 13.1 16.4
1954 17.9 18.9
1955 14.1 15.7 15.9
1956
15.8 18.6
1957
15.0 18.8
1958
17.1 21.7
1959
16.4 19.8
1960
17.6
1961
20.0
1962
17.3
1963
18.6
1964
18.7
1965
21.2 21.8
1966
33.5 34.0
1967
42.3 40.7
1968
46.6 48.4
1969
49.8 51.0
1970
45.6
1971
48.2
1972
44.8
1973
38.9
1974
30.4
1975
35.8
1976
32.4
1977
32.2
1978
43.9
注:(1)19社平均、(2)(4)ICI会
員会社平均、(3)投資会社全
体。
出典:(1)(2)ICI[1962], p.108;
(3)Goldsmith[1973], p.150;
(4)SEC, Annual Report 各年。
させる好循環を生んだ。実際、1952 年から株価収益率とキャピタルゲインを含めた総利回
りは平均 16.25%に及び、社債収益率の平均 3.84%を大きく上回っていた。また、ミュー
チュアルファンドも 1950 年から 65 年の間に、資金が新規流入で年 10.6%増加しただけで
なく、株価上昇により年 10.7%の割合で資産価値が増大した(北條[1990]
,109-119 頁)
。
この時期のミューチュアルファンドの株式売買には 2 つの特徴がある。第 1 に株式投資が
ブルーチップス(blue-chips)と呼ばれる優良株に集中する傾向が存在したことである。優良
銘柄は収益性が高く、また安全性が高いため資金運用者に人気があり、そのことが更なる
需要増加と株価上昇を招いていた23。第 2 にこの時期の資金運用が「長期にわたって株式
を保有することを基本的な投資姿勢とし」、
「保有銘柄の売買は相対的に低水準」
(前掲,115
頁)だったことである。その株式売買回転率は 1966 年前後で明らかに変化している。表
22
ミューチュアルファンドに他にも(1)投資信託として専門家が運用することで、専門家のアドバイスを
受けにくい零細貯蓄層や十分に投資内容を吟味できない投資家に投資機会を提供すること、(2)株式投資
でも直接保有と違い、尐額でも分散投資が可能なことと言った特徴があり、このことによって多くの家計
貯蓄を集めることとなった(北條[1986]
,101-102 頁)
。
23 1958 年の調査では対象ファンドが保有していた人気銘柄 30 種の普通株時価総額に対する比率は
23.5%に及び、1964 年末の 425 社を対象とした調査でも約 20%が人気銘柄 30 種に投資していた(北條
[1990]
,121 頁)
。
- 93 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
3-2 の売買回転率の平均は(1)が 18.5%、(2)が 16.5%、(3)のうち 1955 年から 65 年が 18.9%
といずれも 20%を下回っており、長期保有を基調としていることが分かる。それに対し、
(3)の 66 年から 69 年が 43.1%、(4)の 66 年以降は 40.5%と 1966 年を境に売買回転率が 2
倍以上跳ね上がっている。
つまり、1950 年代から 1960 年代前半の株価が順調に上昇した時期には、ミューチュア
ルファンドは基本的に株式を保有したままで十分な配当と株価上昇益を得ることができた。
その株式売買も相対的に低水準で長期間保有の形態を取っていた。そのため、資金運用者
は戦後増大した家計部門の零細貯蓄が求める小規模で比較的安全な金融商品を提供したの
である。また、金融市場では長期の株式保有主体として優良株を中心とした株価の継続的
な上昇を下支えすることを通じて、金融的な安定性を作り出す役割を果たしたのである。
しかし、このような資金運用は次第に困難に陥り、それが明白となって運用手法が大きく
転換したのが 1966 年の景気後退だった。
3.2.1 資金運用の積極化と影響力の増大
1966 年は戦後のアメリカ経済における転換点だった。これは経営者資本主義を支えてい
た経済構造が動揺期を迎えたことに起因するものであった。金融政策による急速な景気後
退の回避は、その過程で資金供給を増大し、景気回復時のインフレの下地を作り出した。
そして、インフレ率の上昇は、金融引き締めを早期に実施する必要を生み、金利が上昇す
ることとなった(Minsky[1986a], 邦訳版 59 頁)
。また、企業部門の寡占的競争力も欧州
の復興、日本のキャッチ・アップにより動揺した。その結果、実質経済成長率の低下、消
費者物価指数の上昇、金利の上昇という 70 年代末のスタグフレーション状況へ次第に陥
っていったのである。このような実体経済の低迷、高インフレに対し投資会社もまた対応
を迫られた。企業競争力の低下は寡占的利潤を低下させ、企業部門に外部金融による資金
調達を必要とさせて社債発行が増大した。さらに財政赤字の拡大により国債発行も増大し
た。これらの資金需要の増大は株式市場に集中していた資金をシフトさせ、株価が上昇し
続ける前提条件を切り崩した。また、家計部門も実体経済の成長鈍化による実質賃金の伸
び率低下や高インフレに伴う金融資産の実質価値低下から資金運用の効率化が必要になっ
た。この時期にはレギュレーション Q による預金金利の規制が存在し、60 年代後半から
80 年代初頭の高インフレ期には実質預金金利がマイナスになった。そのため、家計部門が
資産を預金金融機関から引上げて他の金融資産に投資するディスインターミディエーショ
ンが生じた。そして、その投下先となったミューチュアルファンドが求められたのは、イ
ンフレ・ヘッジを可能でより運用効率高い、高リターンな金融商品だったのである。
かくして、ミューチュアルファンドは長期保有の株式投資戦略からキャピタルゲインを
重視した短期売買(パフォーマンス運用)に転換することになる。それが先述の売買回転
率の急激な高まりに現れている。このことは株式の取引高の増大を招き、資金運用者の市
- 94 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
場支配力を高めて従来の金融制度を大きく揺るがすこととなったのである。
3.2.2 資金運用者の影響力の顕在化
資金運用者の株式市場での取引高に占
図3-2 全取引所に占めるNYSEのシェア(1950-1978)
90%
める割合は、1966 年から 74 年にミュー
85%
チュアルファンドが平均 20%、全機関投
80%
資家では 42%に及んだ。このような取引
75%
高の増大は必然的に大口取引の増加を招
65%
70%
60%
く。機関投資家の取引は、一般投資家の
1950 1952 1954 1956 1958 1960 1962 1964 1966 1968 1970 1972 1974 1976 1978
全取引所取引額に占めるNYSEの比率
取引とは比較にならないほど規模が大き
いため、ブロック取引と呼ばれる大量売
全取引株式数に占めるNYSEの比率
出典:SEC, Annual Report 各年より作成。
買方式が採用されている。ただ、ここで問題となるのが取引の際にブローカーが徴収する
手数料で、アメリカの株式取引所で最大のシェアを有するニューヨーク株式市場(NYSE)
は伝統的に株式売買手数料を固定制としてきた。大口取引についても割引が禁じられてい
たため、資金運用者にも固定手数料が課されていた。そこで資金運用者はコスト削減を目
的に NYSE での取引を迂回し、他の方法による株式取引を模索するようになる。その結果、
国内にある地方取引所に取引が流出した他、店頭市場で取引所上場銘柄を取引する第三市
場、資金運用者同士で取引を行う第四市場が形成された。そのため、1950 年代には平均で
85%だった全取引所取引額に占める NYSE のシェアが、1969 年には 73%まで低下した(図
3-2)
。こうして、資金運用者の行動が発端となって NYSE の流動性と厚みが損なわれ、ア
メリカにおける株式取引システムの空洞化と取引所分散による取引所上場銘柄の価格の分
裂、価格情報の分断が引き起こされたのである。このような事態への対処のため、1968
年以降、大口手数料の段階的自由化が始まった。そして、1975 年 5 月 1 日に NYSE の固
定手数料制が廃止され、さらに市場統合のために全米市場システム(National Market
System; NMS)が導入されたのである(西川・松井[1989]
,282-283 頁;北條[1992]
,
169-173 頁;三木[2000]
,59-61 頁)24。
つまり、資金運用者は、1966 年以降その活動を活発化し、株式取引高が増大したことで
金融システムに対する影響力を強め、ついには現行制度を機能不全に陥らせて制度改革を
必要不可欠にしたのである。1975 年以降、資金運用者の活動はさらに活発化して市場支配
力を発揮し、市場構造ひいては経済構造全体に影響を与えていった。ただ、その背後では
従来資金運用者でなかった金融機関の資金運用者化や新たな資金運用者の登場という形で
の金融市場の機関化が進展したのである。
NMS は「市場間をコンピュータ・システムでリンクすることで投資家の注文の最良執行を実現しよう
とするもの」
(三木[2000]
,61 頁)である。
24
- 95 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
資金運用者資本主義と金融市場の機関化の進展
4
1975 年の NYSE の固定手数料制廃止と NMS 導入は、資金運用者の規模と活動が拡大
し市場支配力を発揮するようになった結果と言える。このような動きは 1980 年代以降よ
り本格化し、金融市場の機関化の進展とそれに伴う市場構造の変革が引き起こされること
となる。本節では、まず資金運用者資本主義の特性とそれが景気循環に与える影響を検討
する。さらに 1980 年代以降の活動について概観した上で、金融市場の機関化の進展につ
いて投資銀行業務に絞って検討し、サブプライム金融危機に繋がる金融市場の構造変化が
どのようにして引き起こされたか明らかにする。
4.1
資金運用者資本主義の特性
資金運用者資本主義において資金運用者は、前述のミューチュアルファンドによるパフ
ォーマンス運用にも見られるように、短期の配当・利子によるキャッシュ・フローと資産
価格上昇の組合せの最大化を目的としてポートフォリオを構成し、積極的に運用する25。
本項では、まず資金運用者の行動の持つ特性とそれによって資金運用者資本主義の下で資
本主義がどのような性質を持つことになるのかについて検討する。その後、さらに 1980
年代の景気循環への影響について論じる。
4.1.1 資金運用者の投資行動と影響
資金運用者の特性については、二つの側面から論じること必要がある。それは、第 1 に
資金運用者の投資目的に基づくものであり、第 2 に膨大な資金を運用することに基づくも
のである。
第 1 に、資金運用者は短期利益の最大化を目指すため、それに応じた報酬慣行を導入す
ることとなる。それは自己の運用するポートフォリオの利益に応じた成功報酬(ボーナス)
中心の報酬体系であり、運用成績が良ければそれに応じてボーナスが増加し、逆に損失が
出た場合には職を失うだけでそれ以上の責任を取る必要がないと言うものだった(久原
[2008]
,62 頁)
。つまり、
「業績報酬が取引の現在価値をベースに行われ、将来損失が出
てもすでに支払われたボーナスの返却を要求されることはなく、退職すれば済むため、リ
スクとリワードの関係が一方的」(久原[2010]
,49 頁)となり、高リスク・高リターン
志向の投資慣行が合理的になっていったのである。
ただ、これには資金運用者の受託者として責任の問題も存在していた。資金運用ファン
ドは拠出者の利益のために運用されており、資金運用者は保有資産に対する利益となる取
引を受け入れる必要がある。これは 1974 年に管理・運用の受託者責任を明記した
ERISA(従業員退職所得保障)法が制定された年金基金に典型的と言える。その結果が 1980
Minsky[1989], p.397. 他にも資金運用者資本主義の説明として、Minsky[1986b], pp.291-293, [1990],
pp.69-71; [1993], pp.111-113; [1996], pp.362-363; Whalen[2001], pp.814-815 なども参照。
25
- 96 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
年代の合併・買収(M&A)ブームであり、ブームにおいて資金運用者は保有株式を有利な価
格で売却する機会を得る一方、資金調達のために発行されたジャンクボンドを大量に購入
する役割を担ったのである26。
(石原[1994]
,121-127 頁;Wolfson[1994], 邦訳版 167-174
頁;西川・松井[1989]
,325-333 頁)
。また、年金基金は ERISA 法の受託者責任の下で、
ウォール・ストリート・ルールに基づいて株式の売却によって対象会社の経営に対し影響
力を行使してきた。しかし、1988 年にアメリカ労働省がエイボン・レターを出して議決権
行使を受託者責任に含めたため、90 年代以降、資金運用者は議決権を行使し、経営者に株
主利益重視の経営を行うよう圧力をかけるようなった(岩波[2010]
,113-114 頁)。
資金運用者による企業経営者対する短期利益最大化の絶え間ない圧力は、1980 年代以降
の企業に「株主価値」最大化を企業活動の推進目的として採用させることとなる。企業は
「ストックオプションを経営者のインセンティブとすることで、投資家と経営者の利害が
収斂」
(ケネディ[2002]
,233 頁)することとなった。経営者はダウンサイジング、間接
業務のアウトソーシング、吸収合併によって利潤を上げて、巨額の報酬を受け取ることに
なったのである。しかし、それは同時に「会社の存続に不可欠な忠実で終身雇用を保障さ
れるべき有能な従業員の切り捨て」(前掲,80 頁)るだけでなく、長期的視点に基づく投
資を困難にした。企業はもはやイノベーションや研究、人材育成を伴う長期の視点に基づ
いて経営されておらず、ミンスキーは資金運用者資本主義への移行を経済発展コンセンサ
スの崩壊さえ意味すると論じている(Minsky[1989], p.397)27。
第 2 に、資金運用者は巨額の資金を運用するが、その運用に際して採用しているリスク
管理手法に欠陥があった。資金運用者資本主義の下では、短期利益の最大化を目指して各
資金運用者が競争している。そのため、より収益の上がるモデルが開発されるとそれが採
用され、それが莫大な利益を生むことで更なるモデル開発が促進されて金融工学が発展し
てきた。しかし、その一方でモデルの持つ欠陥も幾度となく明るみに出ている。資金運用
者資本主義は、1987 年 10 月のブラックマンデー、1998 年 8 月の LTCM 危機と金融危機
を経験してきており、その経験を元にリスク管理手法の見直しが行われてきた。しかし、
実際には 2007 年 8 月以降のサブプライム金融危機の中で VaR(Value-at-Risk)モデルの不
備が明らかとなったように、リスク管理手法は未だ不十分なままである。VaR モデルは、
1980 年代の M&A ブームではレバレッジド・バイ・アウト(LBO)の手法が用いられた。LBO は買収先
の企業の資産や将来の所得キャッシュ・フローを担保にジャンクボンドを発行することで資金を調達し、
買収を行うものであった。実際、1986, 88 年のミューチュアルファンド、生命保険会社、年金基金による
ジャンクボンドの保有比率は 70%を超えていた(石原[1994]
,125 頁)
。
27 このようなミンスキーの視点に対し、Whalen[2002]は資金運用者が 1990 年代に長期のコミットメン
トに基づく資金供給と所有と支配に変化したこと、90 年代末に長期の投資主導型ブームがあり、それを
主導したベンチャーキャピタルによる資金供給をミンスキーは予見できなかったと論じている(ibid.,
pp.403-404)。しかし、長期保有によって企業に株主利益重視の経営への改善圧力をかけて、株価が上昇
したところで利益を得るという手法はミンスキーのいう資金運用者と何ら矛盾しない。また、1990 年代
末の IT バブルは、確かに投資主導型だった側面もあったが、その中心に存在した IT 関連企業はいずれも
公開間もない赤字企業ばかりで、その将来性が喧伝されることで株が買われ、ブームが作り出された側面
が強かった点に留意する必要がある(日本証券経済研究所[2009]
,24 頁)
。
26
- 97 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
資金運用者に「過去のデータに基づき推定最大損失額を最大の場合でもエクイティ(自己
資本)の範囲内に抑え、VaR が小さく収益性の最も高い業務分野に経営資源を集中させる」
(佐賀[2009]
,103 頁)ことを可能にする計量手法である。しかし、VaR モデルには、
第 1 に推計元となる過去のデータの抽出の期間や方法により VaR 値が変化してしまうこと、
第 2 に正常な市場環境での最大リスクを計量するため、異常な市場環境が出現した場合は
現実のリスクが VaR 値を大幅に上回る可能性があること、第 3 に VaR は将来の価格変動
を正規分布に従うと仮定してリスクを計量するため、参加者が同様の予想に基づいて同方
向に行動する場合には VaR 値を超えてしまう可能性があることといった問題が存在して
いる(前掲,104 頁)
。実際、サブプライム金融危機でも資金運用者の多くが VaR に基づ
いて一斉に証券化商品を売却したため、債券価格が暴落することとなったのである。
ここでの問題の本質は、モデルが正規分布に従うことを前提していることにあり、さら
には、そのモデルに従って膨大な資金が同時的に一方行に向かって移動することにある。
ミンスキーが指摘するように資本主義経済には不確実性が存在している。この不確実性と
は、依拠できる明確な確率の存在しない、確率によって計算可能なリスクとは峻別される
ものである(Minsky[1986a], 邦訳 227 頁)
。そのため、正規分布を採用することは不確実
性を排除することを意味している。そのようなモデルに基づいて保有ポジションの大量売
却が行われ、金融危機を誘発もしくは深刻化させているのである。
その上、資金運用者の場合、
「利益最大化とリスク管理の厳格化は矛盾する命題となりが
ちで、それが対立した場合、組織は利益最大化のほうを優先する」
(久原[2008]
,60 頁)
ことが指摘されている。そのため、リスク管理手法自体に欠陥があるだけでなく、短期利
益最大化を追求する資金運用者資本主義ではリスク管理手法が元々十分に機能しない傾向
にあることとなる。
4.1.2 経済の不安定化と最後の貸し手の肥大化
資金運用者資本主義の下では、資金運用者は短期利益最大化のため、短期の配当・利子
と資産価格の上昇の合計を最大化することを目的に行動する。そのため、資金運用者の投
資は全て金融資産の一種として扱われることとなり、企業の投資のための資金調達もまた
その例外ではなくなる。そのため、資金運用者による短期利益最大化を目指す投資の実施
は、利子率の変動を増幅することで、金融を伴う投資の支払いコミットメントに対して陰
に陽に影響を与えることになるのである(Minsky[1989], p.291)。さらに、企業経営者自身
も資金運用者の短期利益の最大化と利害を共にすることで、株主価値最大化を企業目的に
据え、長期的視点に基づく投資を放棄するに至る。これはまさに、ケインズの言うところ
の「投機家は、企業の着実な流れに浮かぶ泡沫としてならば、なんの害も与えないであろ
う。しかし、企業が投機の渦巻きのなかの泡沫となると、事態は重大である。一国の資本
発展が賭博場の活動の副産物となった場合には、仕事はうまくいきそうにない」
- 98 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
(Keynes[1977], 邦訳 157 頁)ということである。
資金運用者資本主義では、資金運用者のみならず経済全体が彼らに巻き込まれ、不安定
性を高めることとなる。では、その不安定性への対処はどうだろうか。経営者資本主義で
は中央銀行による「最後の貸し手」と「財政赤字を伴う大きな政府」の存在によって恐慌
と深刻な不況が回避されてきた。特に商業銀行中心の金融システム下では、中央銀行の金
融政策が有効に波及する経路が存在していた。しかし、絶え間ない金融革新は、金融シス
テムが構造変化を引き起こし、商業銀行中心のニューディール型銀行システムに綻びを生
んでいった。1966 年の金融逼迫はそれまでの資産管理による銀行経営から負債管理による
銀行経営への転換を引き起こした。流動性確保のために国債以外の負債に基づく金融手段
を用いることは、負債管理技術の発達を促し、新たな資金調達手段や金融手段を生み出す
源泉となる28。負債による金融は好況のうちは安定したキャッシュ・フローを得ることで
持続可能であるが、一度不況となればキャッシュ・フローが不安定となり持続可能性に疑
問が生じる。
特に現代のような時価評価もしくは市場による評価に常に晒される経済では、
負債管理に基づく債務と資産が両建ての増加は、不況時に時価評価に基づいて保有資産額
が激減するにも関わらず、債務額は変化しないため、負債が重くのしかかることとなる。
金融的な崩壊を防ぐために、ますます最後の貸し手と大きな政府による価格維持頼みの経
済になってしまうのである(Minsky[1990], p.71)。
この最後の貸し手と大きな政府の機能は、資金運用者資本主義となった現在も維持され
ている。しかし、その一方で金融革新により新たな負債金融の手段が開発され、それが危
機の原因となることで最後の貸し手は絶えず拡張を必要としてきた29。だが、この最後の
貸し手の拡張は、金融革新による流動性の増大を追認することを意味し、
「次に起こるべき
金融恐慌を前回経験したものに比べようもないほど大規模にするといった結果をもたら
す」
(Minsky[1982], 邦訳 259 頁)
。この傾向は、資金運用者の下で金融革新が急速に広ま
り、それに基づいて膨大な資金が移動する資金運用者資本主義ではさらに加速されること
となる。つまり、短期利益最大化に基づく資金運用者の投資行動の下で、金融革新が急速
に広まることを通じて膨大な資金が市場に流入することでバブルが発生し、それが崩壊す
ることで金融危機が発生する。金融危機に対し、中央銀行は最後の貸し手として介入して
恐慌の発生を防止するが、同時に危機を引き起こす一因となって金融革新を追認すること
28
実際、金融革新によって譲渡性預金(NCD)やユーロダラー、フェデラル・ファンド(FF)、さらにはコ
マーシャル・ペーパー(CP)などの短期金融手段が発達していった(西川・松井[1989]
,243-259 頁)
。
1966 年以降のアメリカ経済で再び金融不安定性が見られるようになったのもこの負債管理への移行が原
因だといえる。資産管理では手持ち資産により貸付増大に一定の限界が画されるが、負債管理では負債に
よる資金調達が可能となり、より投機的な金融が展開しやすくなるのである。そして、この種々の金融革
新の中で新たに流動性を供給したのが資金運用者であった。金融革新と金融市場の機関化の進展は表裏の
関係にあるのである。
29 実際、FRB は 1966 年に NCD を利用した銀行を、69-70 年には CP 市場を、74-75 年には米銀のオフ
ショア支店の負債を持つ経済主体を保護するため、その機能を拡張してきた(Minsky[1982], 284 頁)
。
- 99 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
となる。金融危機が去った後には大量の流動性が存在し、それらは新たな利潤を求めて別
の市場へと流入し新たなバブルを引き起こす。資金運用者資本主義ではブームとバースト
が繰り返され、その規模とそれに対する政策対応が拡大されていったのである。
このことはサブプライム金融危機において最も明白に現れている。従来、FRB のディス
カウント・ウィンドウは預金金融機関にしか開かれていない。しかし、サブプライム金融
危機ではこれが非預金金融機関に開かれることとなった30。その結果、FRB のバランス・
シートは 2008 年 12 月にはリーマン・ショック以前の約 2 倍の 2.2 兆ドルまで膨張し、保
有資産の 85%を占めていた財務省証券は 30%まで低下した。そして、各種ファシリティと
救済融資が大きなウェイトを占めることとなった。これらの資産は価値に一定以上の毀損
が出れば FRB に損失が出ることとなる(小立[2009]
,21-23 頁)31。これは金融システ
ムのゲートキーパーである中央銀行の健全性に問題が出かねない水準まで、最後の貸し手
機能が拡張されていることを意味し、事態が極めて深刻になっていることを示している。
4.2
1980 年代以降の資金運用者の活動
本稿では紙幅の関係上、1980 年代以降の資金運用者の活動については投資銀行に限定し
て見るため、まずここでその他の資金運用者の活動を概観しておく。まず年金基金につい
ては、前節で ERISA 法制定により受託者としての活動が活発化したことは見てきたが、
その影響力は制度改革によっても増大した。1978 年に ERISA 法が改正されたことで 90
年代に確定拠出年金(401(k)プランなど)が急速に普及した(図 4-A)32。確定拠出年金では
資産の運用対象を従業員が選択できる。そして、その受け皿としてミューチュアルファン
ドが選ばれたのである(牛窪[1999]
,
図4-A 年金基金の資産(1984-2009,10億ドル)
44-51 頁)
。その結果、ミューチュアル
5,000
ファンドの量的な拡大が引き起こされ、
4,000
金融部門における比率増大(表 1-2)、
3,000
80.0%
70.0%
60.0%
50.0%
40.0%
30.0%
20.0%
10.0%
0.0%
2,000
家計部門による保有が急拡大した(表
3-1)。直接・間接にミューチュアルフ
ァンドを保有する家計は 1980 年に
1,000
0
1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008
確定給付
確定拠出
確定給付(右軸)
確定拠出(右軸)
5.7%だったが 2009 年には 43%に達し、 出典:Flow of Funds Accounts , Board of Governors of the Federal Reserve System.
FRB は 2008 年 3 月のベア・スターンズ救済の際に、救済行の JP モーガン・チェースに緊急融資など
の公的支援を行い、さらに Primary Dealer Credit Facility による非預金金融機関への資金供与、ABCP
Money Market Mutual Fund Liquidity Facility や Commercial Paper Funding Facility などの短期金融
市場の流動性枯渇への対応、MBS 買取りプログラムなどを通じて流動性を供与した。詳しくは小立[2009]
を参照。
31 大きな政府という面では、
2008 年金融経済安定化法により不良資産救済プログラム(TARP)として最大
7000 億ドルという巨額の支出が行われた。
32 確定給付型と確定拠出型の保有資産比率は、
1984 年には 67%(589 億ドル):33%(287 億ドル)だったが、
95 年に 1:1 となり、2009 年には 38%(2105 億ドル):62%(3366 億ドル)まで拡大した(FRB, Flow of Funds
Accounts)。
30
- 100 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
そのうちの 78%が確定拠出年金としての保有を含んでいた。そのため、確定拠出年金資産
に占めるミューチュアルファンドの比率は、
1990 年の 8%から 2009 年の 51%に増大した。
さらに 62%の家計が退職金制度でミューチュアルファンドを初めて購入しており、家計に
直接保有する契機となっていた(ICI[2010], p.11, pp.80-81)。
また、1975 年の NMS 導入以降、取引システムは資金運用者のニーズに応える形で変化
してきた。すなわち、
「機関化の進展という環境の下で、システムを改変する交渉力をもつ
機関投資家の運用スタイルや執行戦略、これらの取引費用減尐に対する各取引システムの
有効性との相互作用の中で進展して」(三木[2000]
,68 頁)いったのである。
4.3
投資銀行業務の変貌
投資銀行は、金融市場の機関化の影響を最も強く受けると同時に、それを自己の収益機
会として活用した金融機関だった。ニューディール型銀行システム下での投資銀行モデル
は証券引受け、M&A 仲介、トレーディングといった伝統的業務により成り立っていた。
しかし、1960 年代後半以降、金融市場に変化が生じ、その中で投資銀行業務も変化してい
った。
証券引受けの分野では、大恐慌以前から「ブラケット」と呼ばれるピラミッド型の階層
組織制が維持されていた。しかし、1960 年代にかけて個人投資家向けのメリルリンチや機
関投資家向けのソロモンブラザースなど販売力に優れた新興勢力が登場し、60 年代後半の
社債発行の活発化、資金運用者の証券の売買回転率の増大の中で台頭していった。1982
年の一括登録制度の導入は引受け分野での変化を決定的にした33。一括登録制度により社
債発行が迅速化されたが同時に販売期間の短縮が必要になり、シンジケートを組織する人
的な繋がりより証券を投資家に売り込む能力が重要になったのである。その結果、1984
年にはソロモンだけで社債全体の 25%を引き受けるに至った
(西川・松井[1989]
,260-266,
357-361 頁)
。トレーディングの分
野では、1975 年の株式売買手数料
の自由化による影響が著しい。
NYSE の固定手数料制の廃止は投
資銀行のトレーディング業務、と
りわけブローカレッジ業務から得
られる手数料収入の減尐に繋がっ
図4-B NYSE会員業者の収入源泉(1975-1988, %)
60
50
40
30
20
10
0
1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988
た。証券会社の収入に占める手数
証券売買仲介手数料
トレーディング・投資
発行引受
その他収入(証券関連)
注:88年は1-9月。
出典:Hayes, Samuel L. and Philips M. Hubbard[1989] Investment Banking, p.370.
33 一括登録制度は、1933 年証券法で導入された新規公募発行証券への届出にかかる時間を大幅に短縮す
ることを可能にするもので、二年以内に発行予定の証券の金額・発行方法・引受業者などを SEC に対し
予め登録しておけば、簡単な届出のみで発行が可能となる。これにより機動的な証券発行が可能となり、
主に社債の分野で普及することとなった。
- 101 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
料収入は 1975 年には 50%に及んだが、85 年には 20%程度にまで減尐したのである(図
4-B)34。
この間の変化は個別の業務に留まらない。
元来、投資銀行業務は暗黙知により構成され、
その蓄積の多寡がレピュテーション、さらには業界内での競争力を決定づけるとされてい
た。しかし、1970 年代のコンピュータ化の進展が標準モデル手法の導入を促進した。その
結果、投資銀行業務の暗黙知の側面が尐なくとも激減し、競争が激化して多くの業務で利
鞘が減尐したのである(Morrison & Wilhelm[2007], pp.46-50)。実際、証券の引受手数料
は 1990 年代前半に株式で約 3%、債券で約 0.6%だったが、2000 年代半ばにはそれぞれ約
1%と 0.1%以下まで低下した(新形ほか[2009]
,55-56 頁)。
このような収益性の低下に対し、
投資銀行は 1980 年代に M&A 仲介業務を活発化させ、
自らは手数料を得ると同時に資金運用向けに高株価とジャンクボンドを提供した。さらに
資産管理業務や証券化、自己勘定取引などの非伝統的業務に進出していった。これらの業
務はいずれも資金運用者と深く関わるか、もしくは資金運用者そのものの業務だった。
資 産 管 理 業 務 へ の 進 出 で は 、 メ リ ル リ ン チ が 1977 年 に 導 入 し た CMA(cash
management account)の存在があげられる。CMA は 1971 年に登場した MMMF を核と
する総合口座で、口座の保有者は投資家として高利回りの MMMF で資金を運用し、投資
相談を受けると同時に、預金者として小切手の振り出しやクレジットカードの利用、現金
の引き出しが可能だった。つまり、CMA は実質的に「証券口座であると同時に銀行類似
口座」
(西川・松井[1989]
,285 頁)といえる。これは零細貯蓄層が求める元本の流動性・
安全性の条件を維持しつつも、高い利回りを狙えるという点で画期的だった。メリルリン
チにとって、CMA の収益性は口座手数料のみ(当初、年間 28 ドル)で決して高いもので
はない。
しかし、
このような総合口座の導入を通じて顧客の囲い込みが進むこととなった。
このような資産管理業務には他にもラップ口座(wrap account)と呼ばれるサービスも存在
していた。これらの資産管理業務の特徴は、
「ファイナンシャル・サービスを核とする長期・
包括的な資産運用サービス」を提供することにあり、これは紛れもなく資金運用者が長ら
,
く提供してきたサービスへの参入を意味していたのである(前掲,284-286 頁;牛窪[1999]
42-44 頁)
。
アメリカにおける証券化は、高インフレと金融機関間の競争激化の結果、1960 年代末に
機能不全に陥った戦後アメリカの住宅金融システムを再構築するために公的に整備された
ものだった35。そのため、当初は住宅金融の、それも政府保証がついたモーゲージを証券
化する形式をとっていた。それが 1980 年代に入るとモーゲージ以外の金融資産へ広がり
を見せるようになる。1985 年のコンピューター・リース債権を裏付けとした資産担保証券
(Asset-backed Securities; ABS)の発行を嚆矢に、キャッシュ・フローを生むあらゆる資産が
34
35
SEC, Annual Report より。
詳しくは井村[2002]を参照。また、証券化の技術や方式に関しては横川[2010],51-55 頁も参照。
- 102 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
証券化されていった。その過程において特に重要だったのが、1983 年のペイ・スルー証券
CMO(Collateralized Mortgage Obligation)の発行と 1986 年に導入された不動産モーゲー
ジ投資媒介体(REMIC)だった。CMO には「優先务後構造」と「超過担保」などのキャッ
シュ・フローを調節する仕組みが存在した。その結果、異なる償還期間、利回り、元利金
の支払いを行う複数のトランシュを持つ証券が発行され、投資家の需要に合わせた商品を
作り出すことが可能となった(パーベル[1989],51 頁)。さらに 1986 年に導入された
REMIC は、CMO の発行体を課税上実在しない物=「導管 conduit」として扱うことを定
めていた。その結果、発行体段階と受益者段階の両方で課税される二重課税が回避され、
投資を行う上での障害が取り除かれた(林[2001]
,219-221 頁)。CMO と REMIC の導入
は、証券化商品の商品設計の自由度を高め、資金運用者の望む商品の提供を可能にする基
礎となったのである。
投資銀行は、ABS 発行に際しての引受・販売業務のみならず、証券の構造が目的に合致
するよう発行体に対し、法律・規制・会計・税制全ての面で協力しており、証券化に欠か
せない存在だった(ぺーベル[1989]
,5-6, 21-24 頁)。その目的こそが証券化商品の最大
の需要者、資金運用者の望む金融商品の提供だった。つまり、投資銀行の下で「精巧な証
券が特定のファンドの目的に合致するように作り出され」(Minsky[1990], p.71)ていった
のである。その規模と拡大は第 1 節で見た通りである。
また、1990 年代末から 2000 年代初頭にかけての投資銀行は、PE(Private Equity)ファ
ンドへの LBO 融資や自己勘定での投資といったマーチャントバンキング業務の比重を急
激に高めていった(新形[2009]
,59-61 頁)
。実際、2005 年から 2007 年の LBO 融資は
世界の 10 大商業・投資銀行だけで 77.1%に及び、その額は 4887 億ドルに達した
(GAO[2008], p.47)3637。そして、投資銀行は証券化においても引受・分売のみならず、自
己保有により利益を得ようとした。商業・投資銀行によるサブプライム関連投資の残高は
2006 年に全体の 51.1%(2639 億ドル)を占め、同時に損失も全体の 53.3%(628 億ドル)
に上っている(表 4-1)
。本来、証券化されて最終投資家が保有しているはずのサブプライ
ム関連資産の 50%を保有していたということは、ウェアハウジング・ローンの提供や取引
在庫を考慮しても異常であり、投資銀行は明らかに投資目的でサブプライム関連資産を保
有していたのである。その結果がサブプライム金融危機での膨大な損失だった。このよう
な投資銀行による自己資金を用いた投資の増大は、
必然的にレバレッジ率を高める。実際、
5 大投資銀行のレバレッジ率は、2007 年に平均で 31.2 倍に達している(表 4-2)。特に救
済合併されたベア・スターンズや破綻したリーマン・ブラザースのレバレッジ率は終始高
具体的には、JP Morgan Chase($95.3bn), Goldman Sachs(58.3), Citigroup(56.2), Credit Suisse(54.9),
Bank of America(49.6), Deutsche Bank(47.4), Lehman Brothers(40.2), Merrill Lynch(33.5), Morgan
Stanley(28.9), Wachovia(24.4)で、世界全体で 6338 億ドルとなる(ibid.)。
37 また、投資銀行は対ヘッジファンド取引でも総計で 258 億ドルの収入を 2005 年に得ていた(Mustier
& Dubois[2007], p.89)
。
36
- 103 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
表4-1 サブプライム関連投資残高
2005
(%)
45.3
20.4
22.9
7.2
4.3
100.0
投資残高
2006
(%)
263.9
51.1
98.1
19.0
105.9
20.5
30.2
5.8
18.2
3.5
516.3 100.0
商業銀行・投資銀行
155.3
ヘッジファンド
69.8
保険
78.4
ノンバンク
24.6
ミューチュアルファンド・年金基金
14.8
合計
342.9
注)2007年は11月段階。
出典:IMF, Global Financial Stability Report, 2008 Spring, p.78.
2007
126.5
77.6
83.7
23.8
14.3
325.9
(%)
38.8
23.8
25.7
7.3
4.4
100.0
2005
-8.8
-6.7
-1.6
-0.6
-0.4
-18.1
(%)
48.6
37.0
8.8
3.3
2.2
100.0
損失
2006
-62.8
-26.9
-20.8
-4.8
-2.5
-117.8
2007
(%)
53.3
22.8
17.7
4.1
2.1
100.0
(%)
-28.8
41.3
-20.4
29.2
-15.1
21.6
-3.6
5.2
-1.9
2.7
-69.8 100.0
表4-2 アメリカ5大投資銀行のレバレッジ率
1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009
ゴールドマン・サックス
34
25
17
17
19
19
21
25
23
26
14
12
モルガン・スタンレー
22
19
18
20
22
22
22
22
23
24
24
26
31
32
33
13
17
メリルリンチ
28
28
29
31
34
29
25
23
21
18
15
20
19
22
32
33
12
リーマン・ブラザース
39
32
31
33
34
28
31
29
29
29
24
24
24
26
31
ベアスターンズ
32
29
30
32
33
33
30
30
33
28
28
28
27
29
34
平均
30.3 27.1 27.0 29.1 30.8 29.6 26.4 24.1 24.7 23.7 22.0 23.9 25.2 26.4 31.2 20.0 13.4
注)レバレッジ率30倍以上を斜線
出典:各行10-kレポート及びannual reportより筆者作成。
く、自己勘定取引に積極的に進出してリスクを取っていったことが分かる。
結局のところ、2000 年代の投資銀行は「株式等のトレーディング業務や大規模投資業務
が収入の大きな割合を稼ぎ出し…利益を追求することを直接の目的とし自己目的とする…
いかに効率的に大きな(巨額な)利益、ハイリターンを引き出すかが金融機関経営の最大
の動機となり課題となり目的となって」
(吉川[2000]
,144-145 頁)いたのである。そし
て、その変化を導いたのが金融市場の機関化だった。1970 年代以降、投資銀行は顧客とな
る資金運用者向けの商品を開発・販売していくと同時に、自ら自身も次第に資金運用者と
して行動するようになっていったのである。その結果がサブプライム金融危機での大打撃
であり、5 大投資銀行全ての消滅だったのである。
最後に
戦後アメリカに構築された経営者資本主義では、景気循環が緩和され、恐慌の激発や厳
しい不況に経済が陥らなくなった。しかし、このような安定的なシステムの内部には、
「金
融市場の機関化」の進展という安定性を掘り崩す要因が内在していた。本稿では金融市場
の機関化を「金融・証券市場における個人投資家の比重低下と資金運用者の比重上昇、そ
れに伴う資金運用者の影響力の増大」と定義し、それが零細貯蓄の運用や福祉国家政策に
基づく各種の保険・年金制度により促進されたことを見てきた。当初、安定的な経済成長
や企業の独占的利潤に支えられ、株価が順調に上昇したことにより、資金運用者は長期保
有を基調とした安定的な存在だった。しかし、1966 年以降、経営者資本主義は動揺期を迎
える。企業の外部資金調達の増加や財政赤字拡大に伴う国債発行の増大によって株価が上
昇し続ける前提条件は消滅し、家計も資金運用の効率化を迫られた。これに最も敏感に反
応したのがミューチュアルファンドだった。なぜなら、彼らは常に買い戻し要求に晒され、
換金額を超える新株販売と換金を防ぐ運用成績の向上が必要だったからである。ミューチ
ュアルファンドは積極的な運用を求められることから、投資戦略を長期保有からキャピタ
ルゲイン重視のパフォーマンス運用に転換した。その結果、株式売買回転率が急上昇し、
- 104 -
横川太郎「戦後アメリカ経済と資金運用者
―ミンスキーの資本主義発展論を「金融市場の機関化」から捉え直す―」
保有資産高においては年金基金をはるかに下回るミューチュアルファンドがグロスの取引
高では年金基金を上回る状況が作り出された。このことはミューチュアルファンド、ひい
ては彼らの投資戦略に追従した資金運用者全体の金融市場における支配力を高め、金融制
度を転換させるほどの力を発揮することになった。それが 1975 年の NYSE の固定手数料
制廃止であり、
以後、
金融システム全体の変遷に資金運用者が強い影響を与え続けている。
このような意味で、資金運用者資本主義への移行においてミューチュアルファンドは決定
的な役割を果たしたと言える。
サブプライム金融危機もまたこの延長線上に存在する。経営者資本主義が動揺期を迎え
たことで伝統的な投資銀行業務の収益性が大きく低下した。その中で金融市場の機関化が
進展し、資金運用者の影響力が増大したことは、必然的に投資銀行に資金運用者向け業務
への進出や自身の資金運用者化を促すことになった。その結果、彼らは証券化や自己勘定
取引などの非伝統的業務に乗り出していくこととなった。これは商業銀行にも見られたこ
とである38。つまり、金融市場の機関化が進展する中で、機関投資家だけでなく、投資銀
行や商業銀行の資金運用者化が進展していったのである。そのため、サブプライム金融危
機は、単なる投資銀行モデルの破綻や「組成販売型(Originate to distribute)」の金融仲介
システムの欠陥といった次元のみで論じてはならないのである。投資銀行が極めてリスク
の高い、危険なビジネスを行っていたことはそのレバレッジ率からも明らかである。組成
販売型金融仲介システムに欠陥があったことも明らかである39。しかし、このような業務
への進出や金融システムの構築の背後に金融市場の機関化、ひいては資金運用者の影響力
が存在することを忘れてはならないのである。
最後に資金運用者の影響力の増大と金融不安定性の関係について付言したい。今後、先
進国での高齢化が進展し、私的年金を含む資金運用者の運用ファンドへの需要は益々増大
することが予測される。アメリカにおける 65 歳以上人口の比率は 2000 年段階で 12.4%
だが、2050 年には 20.7%にまで上昇すると予測されている40。そのため、金融市場の機関
化は今後も続くと考えられる。しかし、一方で資金運用者資本主義の本での金融危機は深
刻化している。既に見てきたように、資金運用者資本主義では 1987 年のブラックマンデ
ーを嚆矢として幾多の金融危機が発生してきた。ブラックマンデーの際は実体経済へは大
きな影響はなかったが41、1998 年の LTCM 危機では 14 の金融機関が 36 億ドルを出資し
中塚[2002]は 1999 年に制定されたグラム・リーチ・ブライリー法の意義を、商業銀行による「伝
統的な投資銀行業務の証券引受といった証券業務ではなく、新しい投資銀行業務であるマーチャントバン
キング業務、すなわち、プライベート・エクイティと呼ばれる市場」への進出を可能にしたことにあると
している(中塚[2002]
,809-811 頁)
。
39 組成販売型の金融仲介システムの問題点については横川[2010]を参照。
40 U.S. Census Bureau, U.S. Interim Projections by Age, Sex, Race, and Hispanic Origin: 2000-2050
より。
41 NYSE での株価暴落は、資金運用者による「プログラム・トレーディング」という投資技法によって
引き起こされた。詳しくは Wolfson[1994], 邦訳版 178-187 頁を参照。
38
- 105 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
て LTCM を救済し、FRB を異例の金融緩和を行う必要に迫られた42。そして、サブプラ
イム危機では、2007 年から 2010 年までのアメリカの商業・投資銀行の実現・予想損失は
885 億ドル、全世界でのローン・証券の損失は 2276 億ドルに及んでいる43。資金運用者資
本主義におけるブームとバーストは、その規模を大きくしながら繰り返されているのであ
る。これは資金運用者への需要が増大し、金融市場の機関化が進展する中で、ますます経
済が不安定化するという矛盾に直面していることをも意味している。
この背後に存在するのは資金運用者資本主義の持つ資本主義としての性質で、それは既
に見てきたように高リスク・高リターンを志向する誘因を与える資金運用者の報酬慣行と
適応としての企業の株主利益最大化の目的化、それらによる経済全体の不安定化とそれ対
する最後の貸し手機能の肥大化などであった。報酬慣行上、資金運用者にとってリスクテ
イクが合理的な行動となるため、金融市場の機関化が進めば進ほどリスクテイクが増大す
る。さらにリスク管理手法の欠陥も伴って経済が不安定化する。その結果、損失が生じて
資金運用者と投資家の間で利益相反すら生じているのである。
このような状況に対し最近、導入が進んでいる運用マネージャーに対する報酬制限は、
ファンドの長期的なパフォーマンスを報酬決定に組み込むことでインセンティブ構造を投
資家側に引き戻すことを目的としていると言える。ただ、問題の根本的解決には、資金運
用者に対して、投資家である家計がパフォーマンス運用を要求しないことが求められる。
それには 1966 年以前のような長期運用で十分な利益を期待できるような実体経済に根ざ
した経済構造の再確立が必要だが、これは極めて困難となることが予想される。また、同
時に最後の貸し手機能の制度的原型は経営者資本主義時代に成立したものであり、現在そ
の肥大化が進んでいる。そのため、旧来からの金融政策・行政の枠組みの抜本的な見直し、
具体的には金融革新が引き起こされる分野に対し直接的な監督・規制を行える制度への転
換が必要と考えられる。これらの問題について短期的には対症療法で対応しつつも、
今後、
長期的な資本主義の方向性を模索していく必要があると考えられる。
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43 数字は 2010 年 4 月段階。IMF, Global Financial Stability Report, 2010 April, p.12.
42
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- 108 -
クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
《翻訳資料》
クレマン・ジュグラー『為替と発券の自由について』
訳:岩田佳久
<目次>
1.訳者まえがき
2.本文
1.訳者まえがき
本稿は”Du change et de la liberté d'émission”(1868年)の一部の翻訳である。この著書はリ
プリント版が2005年にAdamant Media Corporationから出されており、またgoogleブック
スから全文がダウンロード可能で、現在でも入手可能である。
クレマン・ジュグラーClément Juglar (1819-1905)は景気循環に関する研究の先駆者
として名高いがその著作はほとんど読まれていない。しかしそれでも、ジュグラー没後100
年の2005年にパリで行なわれたジュグラーに関するコンファレンスを契機としていくつ
も研究論文が出され、研究は多少なりとも進行している。その中の一つBesomi[2010]はジ
ュグラーに先行する景気循環論を収集し、ジュグラーの主張はすでに19 世紀前半には広
く存在したことを明らかにしている。Besomi は自身のウェブサイトではさらに進んでジ
ュグラーが景気循環論の先駆者というのは作られた神話だ、とまで表現している。
Besomiは、異常な現象としての恐慌をとらえる立場から景気循環論への経済理論の歴史
的な移行における過渡的な段階として「周期的(繰り返し起きる)恐慌」という考えがある
として、それがジュグラーだとする。この枠組みはシュムペーターと基本的に同じと言え
る。しかしシュムペーターはそれに加えて、景気循環論の貨幣的分析と非貨幣的分析との
分類に関して、ジュグラーを非貨幣的分析の項で論じている。ところが、なぜそこに含ま
れるのかはまったく説明していない。この分類についてはフランスの経済学史研究者から
シュムペーターへの反論もあるが、十分な論拠のないまま議論は放置されている。こうし
た状況は、ジュグラーを「景気循環論の先駆者」という枠組みだけから検討して、当時の
イギリスの通貨論争やフランスの発券独占をめぐる論争にかかわるジュグラーの研究・著
作を検討しないために生じている。
ジュグラーを「景気循環論の先駆者」として一言で片付けるのではなく、銀行学派の理
論的な流れの中で再検討することが必要であろう。ジュグラーの主著としては1889年の著
作が有名だが、通貨・金融理論ではここで訳した著作のほうが明確に述べられている。訳
者はこの点についての論文を作成中であるが、ジュグラーの著作はほとんど普及していな
いため、議論の前提としてジュグラーの著作をいくつか翻訳することにした。フランス語
は専門外なので十分な訳にはならないが、ジュグラーの議論の骨子が読み取れるように心
がけた。
- 109 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
”Du change et de la liberté d'émission”は全体で500ページほどあるが、今回は訳者が作成中
の論文に関係する2つの章(10章と15章)と序章・結論の計、約100ページを翻訳した。為替
相場の具体的な動向を追っていく箇所など詳細な実証の部分には意味がとりにくいところ
がいくつかある。訳者の語学能力の問題もあるが、たいがいのジュグラー研究者はこうし
た細部にはあまり意味がないと判断している。意味不明の箇所は破線の下線(
)で示
しておいた。特に10章は細部にわたる不明瞭な箇所が多く、あまり読む価値はないところ
も多い。そのため一部分、省略した箇所もある。意味があるとすればそれは、序章でもジ
ュグラー自身が述べているが、ジュグラーがこういう苦労をしていた、ということが分か
ることだろう。また、ジュグラーは国際取引も含めて金融取引で生計を立てていたことも
あって、実務的な記述もいくつかある。この長い10章で訳者が特に注目したのは274、283、
299、316ページである。
他の章は短いので特に説明は不要だろうが、若干、触れておくと、序章はジュグラーの
考え方の基本が分かる。その上でまだこの時期は、好況・恐慌・清算期という明確な局面
区分がまだない。この区分がはじめて出されるのはおそらく1886年の論文で、1889年の主
著(第二版)や1891年の論文で明瞭となる。15章ではジュグラーが銀行学派の考えにかなり
近いことが分かり、さらにジュグラーが非貨幣的分析に含まれることが当然と分かるだろ
う。その上で、銀行学派といってもいろいろあるだろうが、銀行学派の主要な人物とも違
う点があるように思われるが、今後の研究課題としたい。16章結論は、本著作のテーマで
ある発券の独占・自由をめぐる論争に対して、金融システムの発展における銀行券の歴史
的位置付けをもって応えている。国内決済システムをフランス銀行が集約すれば、発券の
自由が困難を引き起こすことはなくなり、対外的な不均衡はフランス銀行の割引率の引上
げで調整されるだろう、としている。
訳者は他にもジュグラーが百科事典の項目で書いた「商業恐慌」という文章を翻訳して、
『政治経済学通信』Vol.08に掲載した。これは若干の誤訳・誤植を訂正して2010年9月に
サイトで再度アップロードされる予定である。そこには最近、雑誌に掲載されたジュグラ
ーの英訳、最近のジュグラー研究などを新たに追加しておいた。
本文中に埋め込まれた(p272-3)のような注記は原書ページの境目である。また本文中、
イタリックで強調されている部分は実線の下線(
)で示しておいた。
訳語について。espèces は正貨、ただしcapital espècesは貨幣資本、conmptantは現金、
numéraireは正金としたが、一箇所で金貨幣としたところがある。
ここで挙げた文献は
Besomi, D. [2010]"„Periodic crises‟: Clément Juglar between theories of crises and theories of
business cycles" Research in the History of Economic Thought and Methodology, 28A
— [1886]“Des retours périodiques des crises commerciales et de leur liquidation”, in Le
25ème Anniversaire de la Société de statistique de Paris, compte rendu des séances, Paris,
- 110 -
クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
Berger-Levrault,
—
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2.本文
序章
イングランドとフランスで割引率が一年間にわたって 6%を上回り、大衆の注意を引い
たのは 3 年ほど前のことだった。困難な経験の中で人々は、割引率は混乱の真の原因では
ないか、大衆の繁栄の発展に妨害物ではないか、と考えた。イングランドほど見解は明瞭
ではなかったが、フランスでもフランス銀行の行動が非難された。しかし害悪の源泉が理
解されることはなかった。大騒ぎの中、信用貨幣流通の原理に関する調査会が開かれた。
それが終わる前にすでに、割引率は 2%に下げられていたが、事業は回復しなかった。こ
のことから分かるのは、割引率が非常に有利な最低値と見られている 4%以下に下げられ
たとしても、公式の割引率だけでは事業に活力を与えることはできないだろう、というこ
とだ。
同じ頃、倫理・政治学アカデミーが次のような問いをコンクールに出した。「信用貨幣
流通の条件の研究と、銀行券と他の信用流通手段との本質的な違いを明らかにすること」
アカデミーはその問い完全に解決されたとは見なさす、賞は授けられなかったが、3 つの
論文が評価された。(pⅠ-Ⅱ)筆者のものはその中の一つだった。すでに数年前、筆者は、
商業恐慌とその周期的再発を取り扱って、信用貨幣の重要性と危険性を記す機会があった 1。
19 世紀のはじめ以来、次々と影響力ある教義が現れてきた。状況に応じて、最も傑出し
た人々が一方の陣営、
他方の陣営へと分かれてきた。しかし今日では経験が積み重ねられ、
実際の経験から結論が得られる。研究すべきは、どんなに権威があったとしても、様々な
見解ではない。長い間提起されてきた、そして今なお持ち出されてくる反論すべてへの答
えは事実の観察の中にこそある。
時代を遡れば、それだけ多くの空白が目立つようになる。かつての調査には議論を論証
したり支持したりするための統計的な文書がかけていた。しかし今ではそうではない。フ
ランス・イングランド・合衆国についてこの半世紀にわたる統計表があり、論争に関連す
る主要な事実をすべての時期について検討することが可能だ。完全な形で貴重な文書があ
1
(原注)『商業恐慌とその周期的再発について』アカデミーから受賞
- 111 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
るだけではなく、さらに相乗作用で選りすぐれた結果が得られる。というのはそれらの文
書は慣習や組織、法律などが同じではない様々な国々から集められているからである。文
書が確かなものと認められるならば、統計結果はさらにその価値を増すだろう。筆者は、
統計調査には計り知れないほど適した条件で、ありがちな間違いも起こりにくい三ヶ国で
長期間の大量の数値を用いて作業をおこなう。
(pⅡ-Ⅲ)フランス銀行、イングランド銀行、合衆国の公式報告書、外国為替相場、諸商
品の市場価格、取引一覧、輸入・輸出、貴金属の動きをガイドにすれば、間違った諸理論
に従って道に迷うことはありえない。そのような諸理論は事実を調べないので、実際の知
識に修正されることもありえないのだ。
筆者が示したいのはこの比較研究の結果である。その目的は手元の証拠に基づいて実践
が与えるもの、実践が理論をどのように確認するかを見て判断できるようにするためであ
る。すべての科学的な議論の前提を得るために、筆者が公式の資料、たとえばフランス銀
行の文書、イギリス議会交換の数多くの二つ折り本、合衆国の Exécutive documents と
Hunt magazine、さらに銀行のバランスシートの様々な項目の動きに関する公式の表を綿
密に調べ、苦労して集めたことは無駄だとは思わない。この仕事ほど徒労と思われるもの
はないだろう。もしいくつかの個別の結果からすでに垣間見ていた法則を発見するという
希望が筆者を支えていなければ、この研究を何度も投げ出していたことだろう。
発券の統一または自由をそれぞれ擁護する陣営の中では、自分の擁護する理論を極端に
推し進めてきた。統一の論者は、銀行券はほとんど何の役割も果たさないと主張した。逆
に自由の論者は、それは生産の要だと、と主張してきた。かつては、富は貴金属の所有に
あるという考えで一致していた。しかし今日ではその反動で金属は何でもないと証明しよ
うとしたがる。
かつては過剰発行が非難されたが、今日では銀行による発券の慎重さが非難されている。
二つの非難には根拠があるのか?
が原因だろうか?
恐慌や混乱、大衆の富の発展の加速・減速はそのこと
そのような出来事が見られる国ではどのように事業が行なわれている
か、十分、検討されているだろうか?
確かにすべては現金で終わることになるが、(pⅢ
-Ⅳ)それは正貨が支払われる小売で言えることだ。しかし多くの場合、この最終段階に達
する前には原材料や製造品は信用で買われる。ここでかなり異なる二つの交換方法が用い
られている。現金での取引は価値と価値との完全な物々交換でしかない。その取引が実行
されるには正貨の所有が必要である。しかし信用取引の場合はそうではない。支払いの約
束だけで十分だ。つまり生産物を流通させるためにはかなり異なる二つの道具が存在する。
一つは信用貨幣、つまり信用を表す紙券。もう一つは金属貨幣、つまり現金を表す正貨で
ある。
この二つの特殊な道具は交換を媒介する役割を果たすものとして不可欠である。正貨が
どのように規定されていようとも、この二つは、動き回ることを求められている範囲では
完全に自立することができ、一方が他方に転換される必要はない。こうして商業手形は正
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
金を用いることなしに他の商業手形と直接に相殺できる。金属貨幣は一般に、流通の最後
の段階である小売で一度だけ取引を媒介する。同じ金額が持ち手を変えるだけで、交換さ
れる生産物の価値を越えることはありえない。他方、信用の場合、それぞれの取引で作ら
れた支払い約束は、契約された取引の数によって決まるのであって、清算された取引では
ない。その存在期間は非常に短い。生産物の持ち手変換に役立ち、生産物の価値に等しか
ったすべての支払い約束は、生産物が現金取引で消費者に渡ればすぐに、次々と相殺され
て流通から消える。
アダム・スミスは金や銀の有用性を、流通に用いられるが生産には用いられない道路に
たとえた。(pⅣ-Ⅴ)「信用取引は空中に道を開く。商業と産業が紙券の貨幣(la monnaie de
papier)を利用して、つまりイカロスの翼にぶら下がって、もっと高く上ることができるけ
れども、金や銀の堅固な土地に支えられている場合ほどには、商工業の歩みは確かではな
い」
これには誰も反論できない。しかし信用を利用して契約された取引と現金を利用した取
引には類似点は全くない。この二つには別々の道具が要求される。もし流通している信用
貨幣が取引の数を表すに過ぎないとすれば、取引は限られた数の貨幣手段(instruments
monétaires)しか要求できない、というアダム・スミスの主張には納得できない。商業手形
は支払い約束に他ならないが、もし信用貨幣が存在しなければ流通するであろう金属の役
割を商業手形がいかに果たすのか、つまり正貨を使用しなくてもすむ取引がどのようなも
のか、についてはまだあまり良く理解されていない。しかし銀行券流通について 1844 年
イングランドで定められた法規はこの原理を基礎にしている。過剰な発券が恐れられてい
たが、銀行券の発行の制限だけで十分だと考えられた。しかしそれとは別に、商業による
信用貨幣の発行の重要性、さらに銀行券は非常にわずかな金額しか用いられていないこと
には気づかなかった。信用貨幣に関するこの最も重要な区別はしばしばネグレクトされ、
数多くの間違いを生んできた。それで人々は、銀行が発券を利用して商業に与える信用に
ついていつも語る。しかし、まず、この信用はどの程度、事業で用いられているのか?
割
引の平均期間(40 日)はそのことを示している。割引それ自体は期限付きの支払い約束を一
覧払いの約束に転換することに他ならないが、それは銀行券または当座預金を用いて行な
われる。それは信用の流通に過ぎない。その信用とは銀行の信用に支えられた商業信用で
ある。割り引かれた手形とパリで現金化された手形の動きはその証明となるだろう。手形
の動きのバランスは恐慌のときに崩れる。人々は、手形の期限の違いから生じる空白を埋
めるために、銀行に対して決済の助けを求める。
観察から分かることは、恐慌は国内や対外関係における商業手形の相殺ができなくなる
ことから生じるということだ。それは価格上昇のために生産物の流通が遅滞した結果であ
る。均衡の破綻は再割引や繰り延べ、不利な為替によって示される。そうした状況では金
属正貨による決済が不可欠となる。
信用を使えば、販売の困難以外には、購入の制約はまったくない。取引を契約する際の
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
この便宜は、時折恐慌が均衡へと引き戻さなければ、市場では清算できないような高さま
で価格を引き上げる。
事態は次のように進行していく。
信用と信用貨幣を利用した生産物の容易な交換;-価格の上昇;-生産物の流通の
遅滞;-信用販売と現金販売での困難;-生産物が期限内に販売されず商業手形が相
殺されなくなる;-為替の不利;-金属正貨流出;-信用収縮と割引率上昇;-商
業恐慌;-価格下落;-貴金属流入;-恐慌の清算。
このように好況と恐慌とが交替して進行していく基礎には信用貨幣がある。信用貨幣は
銀行の助力がある国でのみ大規模に発達する。銀行のバランスシートを注意深く観察すれ
ば毎年の事業の状態を示すことができる。筆者が確認しようとしたことは、(pⅥ-Ⅶ)恐慌
の周期的再来を予測するのは不可能ではなく、恐慌が近いかまだ先かと見出すことができ
るかどうか、ということである。
上述のように信用貨幣は銀行の助力がなければ大規模には発展できない。しかし銀行の
助力は事業や信用の状態によってかなり異なる。その実例を合衆国に見ることになろう。
少し前に州として認められた地域、つまりまだ形成過程にある地域では、銀行券が大きな
役割を果たし、発券はかなりの額になる。しかし割引の額は非常に限定的である。文明化
の段階を上がっていけばすぐに、目に見えて事業が拡大していくが、発券は同じ程度には
拡大しない。ますます重要性を増していくのは当座預金である。ついに最高の段階に達し
たのがニューヨークで、そこでは事業の規模が巨大で、手形交換所では毎年 120 百万フラ
ンの振替が行なわれるにもかかわらず、銀行券はほとんど何の役割も果たしておらず、消
えかけている。ところが割引と当座預金の二つの額はバランスする。商業手形の相殺は銀
行が媒介して直接行なわれ、銀行券や正貨は用いられない。イングランドでもスコットラ
ンドでも同様である。個人銀行や株式銀行の銀行券流通額は事業の規模ほどには増加しな
い。しかし、支店網が国全体をカバーする 25000 の銀行業者や支店の業務において銀行券
流通が果たす役割がどの程度なのか。はっきり示していることは、法律上の制約があると
はいえ、王国内流通額合計に占めるその大きさは 1834 年以来ほとんど変わっていないこ
とだ。また、銀行の発券額もよく話題になる。しかしそれは事業の大きさの真の指標なの
だろうか?
そうではないことは確かだ。行なわれた用役を示すものは駅にある車両の数
ではなく、運行すなわち動いている列車の数である。発券された銀行券はポートフォリオ
にある限り、車庫にある車両のようなものだ。こうしてイングランドでは銀行券の流通期
間はすべての紙幣について短くなる、つまり、相殺の機構の完成度が高まるにつれて同じ
額の紙幣がますます速く動いて、銀行券を必要とする事業の大きさに比べてますます多く
の用役を果たしていることが分かる。ただし、大部分は小切手や振替を利用して当座預金
で行なわれているが。
銀行券の重要性は文明化の最高の段階ではマイナーな地位に低下するが、それでも流通
の歯車を動かす機構の中で不可欠の媒介歯車である。建物の建築に用いてやがて取り去ら
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
れる脆い足場のように、銀行券は大きな中心地の外、あるいは中心地の中においても、銀
行勘定で業務が行なわれるようになるまでは、事業の取引に役立つのは確かだ。
では、銀行券が商業手形などの信用貨幣と混同されたり、時期や場所によって支配的に
なったりマージナルな存在になったりするにしても、信用貨幣としての銀行券にはどの程
度に制限すればよいだろうか?
人々が貴金属の有用性や事業の中で貴金属の役割に気づ
くのはこのときである。合衆国のような新しい国、またスコットランドでもそうだが、そ
こでは銀行券流通額に対する準備の比率がいつでも小さい。年が経つにつれてその比率は
改善されるが、為替取引が行なわれる大きな事業中心地では振動はますます大きくなる。
(pⅧ-Ⅸ)この現象はパリやロンドンではかなり目立つ。恐慌の時には正貨の額は流通銀行
券の 3 分の 1 にまで減少したかと思えば、清算期には同じになり、さらに正貨のほうが上
回るまでになる。そのとき、貴金属は有利または不利な為替の影響で輸入されたり輸出さ
れたりする。
この状況では銀行券発行の最大値は準備の最大値によって決まり、事業の発展によって
決まるのではない。しかし混乱のときに過剰発券やバランスの喪失が見られるのはそこで
はない。為替の不利は信用貨幣(為替手形・商業手形)が外国で不足していることを示して
いる。実際、金が流出するのは、価格の上昇で生産物が倉庫や集積地にとどまり、先に振
り出された手形を相殺するための新たな手形を振り出すことができないためである。割引
率引上げで金価格を騰貴させて商品が交換において通常の役割を再び果たすようにさせる
ということは、銀行の金属準備を利用して信用取引を現金取引へ転換しようという行為を
やめさせる方法である。
使われている用語も大衆の間に間違いを引き起こしている。求められているのは正貨な
のだから、銀行の割引率引上げは市場利率の上昇を示しているのではなく、他の生産物の
価格に対する正貨の価格を設定する間接的な方法なのである。その証拠に割引率引上げに
は効果があり、物価が下落してすぐに正金は銀行の金庫に戻って来る。
不足しているのは貨幣資本(capital espèces)に他ならない。生産物の価格が下落すると
すぐに正貨が現れ、まもなく最大値に達するということは、正貨の消失は信用貨幣の混乱
に原因があることを示している。なぜならどのような恐慌とその後の清算期ほど、準備を
増加させる時期はないからである。
(pⅨ-Ⅹ)為替が平価にあり、準備への要求がまったくないなら、信用貨幣がお互いに容
易に相殺される限り、乖離を防止するための複雑な手段は必要ない。必然的に為替相場が
信用貨幣の発行と流通を正しく規制する。しかし、一覧払いが維持されていても銀行が多
数ある国では、為替が不利のときにすべての銀行がすぐに準備に影響を受けるとは思えな
い。為替取引が行なわれる場所の主要銀行がまず準備に脅威となる需要を受ける。確かに
不都合も生じるだろうが、割引率あるいはむしろ金価格の引き上げで効果的に対抗できる。
もし、信用貨幣の正しい水準を知り、それを平価に維持する方法を持っていたとしても、
それでもおそらく発券銀行が複数になることを恐れるだろう。しかし危険があるにしても、
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
その利点は研究する必要があろう。フランスには唯一の発券銀行と少数の支店がある。事
業の進展につれて、地理的近接性や確立した関係から、当地宛の割引が支配的になると思
うかもしれないが、実際にはそうではない。しかもパリ宛ですらない。支配的なのは支店
から支店宛の割引である。求められているのはむしろ割引を通じた相殺なのである。こう
することで費用がかかったり相場が変わりやすかったりする場所の為替を避けられる。新
しい事業の中心地のそれぞれの場所について銀行券流通額の大きさを観察できれば興味深
いだろう。しかし残念ながら、予期せぬ突然の一覧払いの要求から支店を守るために、す
でにずいぶん前から発券の主要な場所はパリに集中されてきた。(pⅩ-ⅩⅠ)その上で紙幣
の数や種類は次のことを示している。つまりフランスで銀行券は、小売よりもむしろ大き
な取引を媒介する信用の手段として用いられている。というのはすべての動きの中で
1,000 フランの大きな紙幣が支配的だからである。逆にスコットランドでは 5 ポンド以下
の小額紙幣が流通の大部分を構成している。そのため銀行券は信用の手段としてよりもむ
しろ流通手段である。信用をまかなっているのは当座預金である。建物はずいぶん前から
しっかり建っているが足場はまだ完全には消えていない。このことは原理的にどのような
役割を持っているのだろうか?
いずれにしても、フランスやイングランドでは長い間、銀行の過剰発券をはっきりと示
すことはできてこなかった。しかし筆者は過剰発券を示す同じ出来事をいつも観察してい
る。それは不利な為替や金属準備の枯渇などである。他にも過剰、というよりむしろ相殺
の欠如が存在するに違いない。過剰が銀行の行為でないとすれば、それは大衆による行為
だ。
批判の多くは特権的な銀行に向けられてきた。筆者は事実の直接的な観察によって、
人々が提案する治療策が、実際にどの程度、また、どのような成功を収めてきたかを探っ
た。この研究で筆者は、発券の統一または自由の制度の下で信用貨幣が流通条件を検討す
る。資本の利用しやすさ、流動的な公債の販売、為替修正のための外国宛の商業為替保有
の実際上の影響を研究する。ある場合にはその経験はすでに行なわれていたり、述べられ
たりしている場合もあるし、要求された改正ではどんな効果も持ち得ないだろうというこ
とメカニズムそれ自体が示す場合もある。
提案された改革に効果がないことはバランスシートの項目の研究からさえもしばしば
明らかになる。(pⅩⅠ-ⅩⅡ)1800 年以降、フランス・イングランド・合衆国をそれぞれ
別個に検討した後で、それらを関連付けたり、それらが変化して相互に影響、つまり銀行
のメカニズムを観察したりすることは有益だった。
これまでも諸市場の同調性は否定されることはなかった。筆者は最近の恐慌の間、イン
グランド銀行とフランス銀行のバランスシートを対置した。事実がそれに答えてくれるだ
ろう。批判できる、ないしは批判すべきことはこの同調性の根拠を利子率に求めようとす
ることである。実際には同調性は為替相場の直接的な影響の下にある。
この点に関しては、不幸なことにこれまでネグレクトされて来た実際の観察を行なうこ
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
とが必要だ。為替相場が信用貨幣の価値に関する真の唯一の指標ならば、そしてこの言葉
に銀行が発行した紙券(billet)だけでなく、事業の決済のために商業の内部で発行された紙
券(billet)も含めて考えるならば、発券の自由と統一のそれぞれの支持者たちは意見の一致
のための大きな一歩を踏み出したことになるだろう。中央銀行とその支店を通じてすべて
の銀行に厳しいコントロールが行なわれ、中央銀行・支店ですべての取引が頻繁な相殺で
決済されるようになれば、乱用の恐れは少なくなるだろう。流通にとどまることのできな
い紙券(billet)はすべてすぐにその発行元に送り返され、個別的な乱用はすぐさま明らかに
なるだろう。為替の不利と中央銀行の金属準備の低下に示される全般的な乱用つまり信用
貨幣の過剰が生じた場合、どこでも割引率が引き上げられて崩れた均衡がすぐさま立て直
されるだろう。恐慌が完全には避けられないのは確かだが、しかしその危険を知らせ、事
前に債務を残しておかないようにすれば少なくともその影響を緩和することはできるかも
しれない。
第 10 章
為替
(p271)貨幣がもっぱら貴金属または随時兌換可能な証券から構成されている場合、鉱山
からの世界市場全体への貴金属の供給を基礎としながら、商業の自然な発展において諸国
間で為替取引が行われ、流通手段と実際の必要との比率が決定される。この比率はどんな
科学によってどんなに慎重にしても論証されることはできない。
《貴金属の分配》
このように貴金属は特別な法則によって分配され、それぞれの国に一定の量が送られる。
それは事業の大きさや流通の状態に応じて変化する。問題は唯一、それぞれの国が貴金属
をどれだけの比率で持つべきか、ということだ。(p271-2)もしある国での保有が不十分な
らば、他の諸国はその不足を埋め合わせるように行動する。なぜならそれは最も利益が大
きい輸送だからであり、貨幣の根本原理だからである。この貨幣は正貨として流通するが、
先 進 国 で は 貨 幣 の 一 部 は 銀 行 券 ( 約 束 手 形 ) で 代 置 さ れ る 。 そ れ は 流 通 資 本 (capital
circulant) を構成する。資本はこうして二つの起源を持っており、明確に異なる特徴を持
つ。
1。金属流通は世界全体に貴金属を分配する法則によって決まる。
2。金属流通は各国内で他の商品に対する共通の価値尺度となる。
3。金属流通はすべての取引において、すべての時代で、すべての人々との間で、あら
ゆる場所で通常の交換手段となる。さらに金属流通はいつでも絶え間なくこの機能を果た
す。
ところが信用貨幣の配分は貴金属の分配を定める法則によっては決まらない。信用貨幣
は他の物に対する共通の価値尺度にはならないし、相対的な価値を計る基準にもならない。
つまり、信用貨幣は、貨幣の特性である普遍的な交換機能を持たないが、信用貨幣が受け
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
取られる場所ではこの機能をすべて果たす。
正貨と信用貨幣からなる流通資本の量を決めようと何度も試みられてきたけれども、成
功することはなかった。その用役は流通速度と取引の量に依存している。(p272-3)しかし
これほど変動するものは他にはないだろう。特に銀行券以外の信用貨幣は変動が著しく、
調べようとしても全くとらえることができない。金属流通にしてもその見積もり額は変動
が大きく、計算の基礎が不安定だと分かる。
《貴金属の流通》
1848 年イングランド銀行総裁モリスは金の流通額を 44,000,000 ポンド、銀の流通額を
11,000,000 ポンド、合計で最大 60,000,000 ポンドと推計した。
オーヴァーストンが 1857 年に行なった推計は、上記の推計とほぼ同じで、70,000,000
ポンドだった。しかし信用貨幣についてはおおよその額でさえも誰も推計しようとはして
いない。信用貨幣が流通して、商業取引の進行とともに更新され続けて、できるだけ金属
正貨や銀行券の利用を節約しながら期限には定期的に相殺されれば、貴金属は決済に不可
欠のものではないので、貴金属がやって来るのは金の生産国から、または他の交換手段を
持っていない国からだけだということが分かるだろう。しかしある国に貴金属を特に強く
引き寄せる条件がある。商工業が最も重要な役割を果たすようになった国は世界の決済の
中心地になる。(p273-4)特に流入は流出よりもかなり強い。1,000 ポンドの鉄鉱石を輸入
して、加工・輸出されればその価値は 10,000 ポンドになるだろう。綿花についても同じ
である。したがって当然ながら事業の中心地の為替は、輸出を一次産品の輸入額が上回ら
ない限り、他のすべての国に対して有利になるだろう。さらにイギリスは世界全体の貨物
集散地になる傾向があり、このことからも利益を得る。フランスやイギリスでは事業の 10
分の 9 は首都で手形を用いて行なわれている。そのためパリとロンドンは信用貨幣と金属
貨幣の中心地となっている。外国との為替取引の大部分が行なわれるのはロンドンである。
その際の決済は為替手形で行なわれる。それはロスチャイルドが 1832 年の調査でその機
構を報告したとおりである。
「私は大きな額で受け取り、他の人はもっと小さな額で受け取る。私は、リバプール・
マンチェスターなどでロンドンの銀行や商人宛に振り出された手形を証券取引所で買う。
毎週 7,000 ポンド、あるいは 10,000 ポンドの為替手形を買って大陸の私の会社に送る。
この手形に対して私の会社はこの国2宛の為替手形を買う。その手形はワインや羊毛などの
商品の発送に際して振り出されたものである。(p274-5)しかしもし外国でこの国宛の為替
手形が十分になかった場合には、パリやハンブルク、あるいは他の場所から金を送らなけ
ればならない。王立取引所宛ての為替手形の他に、これらの国から金を送らなければなら
ないのはそのためである」
(訳注)この調査はイギリスで行なわれたものなので、外国とか輸出とかはイギリスから
見た場合である。
2
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
《貴金属の移動》
ロスチャイルド(1832 年の調査)によれば、外国からの借入や小麦の輸入を控えれば、輸
出が輸入を上回り、世界中からイギリスへ規則正しく金の支払いがされることになる。
ほとんどいつでも為替は有利で貴金属はいつでもイギリスへ向かう。しかしすぐに国内
流通には使われなくなる。不作や外国の借入による金の輸出の場合以外にも、人々は金を
必要とする国々に金を輸出し、分配しようとし、そうして交換手段を供給してイギリス製
品に新しい市場をもたらすことになる。
この貴金属の移動はいつも存在していたが、最近になって目立つようになった。そして、
大衆の中に広く存在する流通の中から引揚げる代わりに、銀行に貯蔵された金属に目が向
けられるようになった。そのため、もし防衛策をとらなければ流通全体が危険にさらされ
ることになる。
人々は、割引率の引上げで損失を被るようになったので、信用手段や銀行システムの再
編成に注意を向けるようになった。(p275-6)それ以来、様々な方策によってこの問題を解
決しようと試みられた。しかしその際、重要な点がほとんど無視され、また取り上げられ
ても二義的なもとして退けられた。それは事業の運動を支配するもの、つまり外国為替で
ある。この点を述べていきたい。
《外国為替の観察の重要性》
フランス銀行やフランスの信用組織への批判を読むと、この点が空白になっているのを
見て驚く。そこでは議論は巧みで経済学の原理もよく援用されている。支払い停止は最悪
の方法として拒絶されている。支払い停止を防止するために唯一の手段としてフランス銀
行の資本の使用が提起されている。しかしここで重要な原因が完全に無視されている。そ
れは為替の運動に本来的に結びついたもので、金属準備を徐々に減少させたり増加させた
りするものである。それに対して、私的な利害を侵害するほど厳しいとも社会全体を深刻
な混乱から守る手段がとられなければ、不可避的に銀行券の兌換停止をもたらすものであ
る。
外国為替の研究が行なわれず、物事の真の原因に触れることがなかったため、対策が求
められても無駄に終わった。いずれにせよ、外国為替はそれにふさわしい重要性を持って
受け止められていない。しかし、外国為替が少なくとも触れられるだけの価値があるかど
うか、あるいは外国為替の役割は労力を割くことが無駄なものに過ぎないと何行か使って
述べておくべきかどうか、筆者は後ほど示したい。
(p277)この空白によって大衆には議論が非常にもっともらしく見える。しかし確かなこ
とに、問題の核心を後ろに隠したまま、そこに結びついた糸の端を解くことに専念するだ
けでは、困難な問題の周囲にある容易な問題を解決できるが、困難な問題は解決されない
ままである。
1696 年のイングランド銀行の設立以来、イングランドは比類なき繁栄の中で、それが原
因とまでは言えないが、結果としてわれわれが経験するものと同じような商業恐慌をいく
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
つも周期的に経験してきた。商業の混乱を経るたびに、その原因に遡って対策を見つけ出
そうとした。最も古いものではないが、この問題に関して最も完全な文書は 1810 年にま
で遡る。それは『地金報告』と呼ばれるものである。
報告は、正貨支払い再開のための 1819 年の法律以前に行なわれた。続いて 1832 年、
1840 年、1841 年、特に恐慌の直後の 1848 年、1857 年の調査は大衆の意見を揺り動かす
ような問題すべてに光をあてた。この丹念な調査によって主要な経済学者・銀行家・商人
の見解すべてについて大衆が聞くことができたが、しかし残念なことに大衆の間では無視
された。今日でも繰り返されるような批判・意義のすべてが詳細に示されているだけでな
く、あらゆることが委員会で調査されている。(p278)1810 年の有名な『報告』では、フラ
ンスではネグレクトされている為替の問題も深く議論され解決された重要なテーマの一つ
となっている。
意見の違いは様々で正反対であったりするにもかかわらず、驚くべきことに為替の問題
の重要性と、この問題を正す唯一の手段は割引率の引上げだということはほとんど一致し
ていた。特別な機構やシステムについて各自がそれぞれの提案をしていたが、達成すべき
目的はいつも同じだった。
筆者がイングランド銀行総裁に面会する機会に恵まれたときに、総裁は執務室で世界中
の為替相場の表を注視していたことを覚えている。彼は私にいくつかの国の相場が将来の
改善を予想させる兆候を示していることを見せてくれた。総裁にとっては為替相場こそが
イングランド銀行の偉大な規制者なのだった。
ロンドンの証券取引所で得られる王立取引所のデータだけで、筆者が注目する資料の重
要性を十分に理解できる。尤もコンソルや他の証券の取引によって、なおも為替のあて先
として名を残すいくつものフランスの都市で見られる一級の証券がなくなってしまうもの
ではないが。
(p278-9)筆者は、事業の状況を考察できるきわめて鋭敏な道具となる貴重な資料を持っ
ている。またこの資料は商業での負債が適切に相殺されていることを確認できるものでも
ある。その資料とは外国為替相場である。相場が平価よりもある方向、また逆の方向にず
れていけばすぐ、二つの場所での商業手形において一方が過剰となってバランスを欠いて
いることの証拠となる。世界の様々な市場での価格を調整するために有力なこの手段の重
要性は最近ではほとんど強調されていない。おそらく、ここで一言述べておくことも無駄
ではないだろう。
為替とは何か?
為替相場という言葉で何が理解されているのか?
外国と取引を行なうものは誰でも為替が何であるかを完全に知っている。しかし国内取
引に携わるものにとってそうではなく、為替の影響をいつでも考慮しているわけではない。
しかし為替ほど古いものはない。為替はもともと二国間の関係、また同じ国でも諸都市間
の関係から発生したものだった。ただし、そのときには商業手形は今日ほど容易には流通
しなかったが。
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
商業以外で例を挙げると、ある旅行者がレジャーまたは事業のために自国を離れる準備
をしているとしよう。彼は支出に必要な金銀を、量や重さのため、あるいは旅行中に起き
るかもしれない紛失や盗難のために、もって行くことができない。(p279-80)彼は、訪問国
の銀行に向けた、パリの銀行業者による紹介状を準備する。この信用状には彼に前払いで
きる金額がフランで記されている。彼はこの支払い約束を持って出発する。外国でその金
額を現金化する必要が生じたとき、フランスの貨幣は普通には通用していないため、この
貨幣を受け取ることができないということがありうる。その場合、計算してフランを外貨
に転換しなければならない。最も簡単な方法は、二つの国の効果に含まれる純金分と混合
分を計算して転換することである。この関係は固定されている。やっとここで為替の操作
が生じる。これは非常に変動しやすいがそれには理由がある。まずその人に支払うように
パリから指示を受けた銀行業者は前払いした金額を受け取るためにコルレス先からその金
額の正貨または為替手形を受け取ることができる。この正貨の方法は非常に費用がかかる。
というのは輸送費、リスク、保険料、利子の損失などを負担しなければならないからであ
る。この場合、為替が非常に不利な状態だと言うことができる。
第二の為替手形の方法は最も簡単で、最も一般的に採用される。この方法も最初の方法
と同じく不利になることもありうるが、有利になることもありうる。すべては為替手形の
需要と供給にかかっている。(p280-1)その人がいる都市とパリとの間での売買がバランス
していれば貨幣の輸送は不要で手形で決済され、為替は平価である。つまり、信用状に対
してフランスの貨幣で示されたのとちょうど同じ額でその国の貨幣が支払われる。ところ
が、買いが売りを上回れば、つまりパリで多く支払う必要があり現金をパリに送る義務が
生じるならば、為替は外国にとって不利になり、フランスにとって有利になる。フランス
は正貨を輸送する必要がないので輸送費の節約で利益を得る。売りが買いを上回る場合、
つまりパリから現金での送金が多く生じる場合、為替はフランスにとって不利で外国にと
って有利になる。商取引の場で毎日、変動する相場こそが、信用状に記されたフランス貨
幣の金額と引き換えに渡されるべき外国の貨幣の量を決めるのに役立つ。
《為替相場はいかに規制されるか》
為替は有利になったり不利になったりするが、その変化に応じて、外国に対する債務の
支払いのために求められる証券の量が増減する。銀行業者が為替手形を売買したり取引の
相殺を行なったりするために分析する為替相場は二つの場所の間だけではなく、世界中す
べての場所についてである。これは裁定取引と呼ばれている。
為替相場は本質的に変化しやすいものである。人々は毎日証券市場の相場でこれを見る。
(p282)すべては、相殺のために市場に持ち込まれる為替手形の需要と供給によって決まる。
これまで見てきたように「生産物は生産物によって支払われる」ということをいつも確認
することが必要である。為替手形は生産物を表しているに過ぎない。貨幣は差額として取
引に現れるに過ぎない。つまり非常にわずかな差額の支払いのためだけである。
よく知られているように、この相殺は商人ではなく、銀行業者の媒介で行なわれる。銀
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
行業者は手形の取引を行うが、その仕事は非常に繊細で、その本質は世界の事業すべての
ために直接・間接的に相殺を行なうことである。
実際には輸入の価額と輸出の価額がぴったり合う取引を見つけるのは不可能である。し
かし様々な場所の債権と債務を組み合わせることで、普通は容易に決済を行なうことがで
きる。つまりエキュ硬貨を輸送する必要が全くない。
逆に為替手形や信用状が不足していれば、為替は不利になる。どうやって正されるの
か?
銀行業者から信用を受けて新たに為替手形を振り出すことによって、である。しか
しもし生産物が期限内に販売できなければ、信用を更新するか、商品を引き渡して清算す
る必要がある。または商品の代わりに、あらゆる場所で需要され受け取られる価値変動の
少ない等価物が引き渡される。その等価物の特権を持つのは貴金属だけで、これを用いて
取引が行なわれることになる。
世界の様々な市場での金の分配はそれぞれの国の流通の必要、また、貴金属の代用とし
て使用される手段の完成の度合いに依存している。この有益な媒介手段、つまり価値以上
の額面を持つ銅や銀の補助貨幣、銀行券はそれぞれの国で非常に変わりやすい比率で均衡
が維持されているが、交換に必要な額を越えなければ、その均衡は壊れることはないだろ
う。こうしてはっきりと示されていることは、金や銀の価値は相対的な希少性やある国に
存在する量に依存しているのではなく、各自が必要に応じて利用する市場全般における相
場の価格に依存している。そのことは為替相場に示される。
取引が金属貨幣で行なわれ、政府や銀行が一覧払いの兌換のない紙幣を発行しなければ、
為替相場の極端な変動は、正貨の輸送にかかる輸送費、保険料、利子の損失といった費用
によって規制される。
貴金属はある地域における流通手段の価値と外国為替相場の真の規制者である。(p283
-4)さらに流通する紙幣の貴金属への完全な兌換と、貴金属の輸出の自由は為替の減価に
歯止めをかける。
その場合でも商業の状態から生じた為替の変動は正貨の輸送にかかる輸送費、保険料、
利子の損失といった費用によって規制される。
《為替の平価》
まず為替の平価という言葉によっては何が理解されているのだろうか?
正確に言お
うとしても無駄だ。問題は外国市場での金の価値にかかっている。為替の平価は、ある国
の正貨の価格を比較して計算され、さらに金の支払いに対するプレミアムを加えて求めら
れる。
これまで述べたことを確認するためには、パリ宛のロンドン為替相場の 1790 年からの
一覧表を見ればよい。1 ポンドに含まれる金の量はフランスの貨幣で 25.20 フランである。
相場が 25.25 フランに上がると為替はフランスにとって不利になる。なぜなら 0.05 フラン
だけ余分に払わなければならないからである。逆に相場が 25.15 フランに下落したら為替
はフランスにとって有利になる。なぜなら本来の価値よりも 0.05 フランだけ安くポンドを
- 122 -
クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
入手できるからである。ここまでは為替のごく小さな変動の話をしてきた。為替は正貨の
輸送費用の合計に等しくなるまで上昇することがある。それを超えることはないが。しか
し為替相場の一覧表を見れば、いくつかの国に対してはより大きな乖離が生じることに気
づく。これは検討する必要がある。(p285)この乖離の分析が最も良くなされているのはイ
ングランドの 1810 年の『地金報告』である。この問題について真の原理を確立した有名
な報告の結論をここで要約しておこう。
《地金報告の分析》
1797 年の支払い停止以降、イングランドでは価格が大きく変動し、以前よりもはるかに
大きな価格の上昇と下落が相次いで起きていた。金の価格も同様に振動し、この混乱の原
因を調べるように委員会が任命された。
証言によれば、1 オンス当たり 3.17 ポンド 10 シリング 1/2 ペンスという造幣局の規定
によって定められた金の価格は 1790 年には 4 ポンド 10 シリング、つまり 16%上昇した。
同じ時に、ハンブルクとアムステルダム宛の為替は同じだけ、つまり平価から 16-20%
下落した。
金の市場価格の非常に極端な上昇と、大陸との為替レートのかなりの下落という二つの
現象の原因は国内流通の状態だと考えられた。
数多くの証言では、金価格の上昇は金が希少だからとか、軍隊を維持するために欧州大
陸で特別の需要があるためだとか言われた。もしこの需要がイギリスでの金の市場価値に
影響を与えるのが当然だとすれば、(p285-6)この需要はまず大陸で目立つことはずだ。し
かし、イギリス市場での金の価格は上昇したものの、大陸市場での地金の価格はそれに応
じた上昇を見せなかった。
このことがはっきりと示していることは、外国市場の金の価格は、ちょうど為替相場の
乖離と同じ比率だけ、イギリスの価格を下回っていたことである。
戦争の影響についてフランシス・ベアリングは正当にも以下の事実に注意を促している。
つまり 7 年戦争やアメリカでの戦争の間には地金の価格には上昇はまったく見られなかっ
た。
1793-1795 年に純金の延べ棒の価格はいつでも 3 ポンド 17 シリング 6 ペンスだった。
1810 年の恐慌の前すでに、金の市場価格が造幣局の供給する価格を超えていた。しかし
それは流通していた正貨が磨耗したためで、そのことは周知のことだった。
金それ自体で表現された金の価格は金への需要の増減によって上昇することも下落す
ることもない。金 1 オンスはいつでも同じ純度の金 1 オンスと交換されるだろう。しかし
他の商品に対する購買力は変わりうる。つまり同じ量の金と交換に得られる他の商品の量
は増減しうる。貨幣で表現された金の価格のみが変動を被らない。
鋳造された貨幣はいつでも地金の金よりも大きな利点がある。(p287)というのは鋳造さ
れれば純度が刻印されており、小額にも分けられる。さらに販売が容易なので延べ棒の金
よりもいつも高い。その差は鋳造の費用による。1810 年には 1%ほどだった。しかしそれ
は価格の差の唯一の理由ではない。以下のように法律上の措置によって地金のほうに大き
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
な価値を生じることにもなった。
かなり軽くなってしまったもの以外の金はすべて融解することが禁止されていた。また
鋳造された金の輸出も禁止されていた。さらに金属貨幣でさえもその金が王国の金貨幣
(numéraire)に由来するものでないと宣誓されない限りは輸出が禁止されていた。そのた
め輸出可能な地金の貨幣と不可能な地金の貨幣との間には 1 オンス当たり 3-4 シリング
の差が生じていた。
こうした状況のために、鋳造された金が他の生産物に対して減価していると考えられた。
その減価はイングランド銀行の支払い停止の前にすでに起きており、おおよそ 5.5%になる
と見積もられていた。この制限のために金通貨は、その価格の動きから分かるように、不
利な立場におかれていた。1797 年以前はいつでも、造幣局で金貨の価格と呼ばれるものと、
市場価格との差はこの範囲を越えることは決してなかった。
(p287-8)イングランド銀行の支払い停止以降、金が本当に価値尺度だったのか、また、
まずイングランド銀行―さらに地方銀行―が発行する流通手段の他には価格の比較の手段
がないのでないか、疑問に思われた。
《物価に対する流通手段の影響》
もし金貨幣が磨耗によって重さが減ってしまったなら、または金の純度が下げられたら、
それに比例して市場では造幣局での価格よりも地金での価格の方が高くなるだろう。金兌
換が停止されている場合、地方の流通手段が過剰に発行されてしまったら同じ価格上昇が
見られるだろう。この過剰分は他国に輸出できない。また正貨に兌換もできないので流通
の中にとどまり、徐々に商品すべての価格上昇に吸収されるだろう。それはまさに貴金属
の全般的な増加が、ある一定の比率で、世界中の物価を引き上げる傾向があるかのような
ものだ。
過剰発行の結果、この流通手段と交換に得られる他の商品の価値は減少する。言い換え
れば他の商品の価格がすべて上昇して、地金の価格も一緒に上昇する。
(p288-9)同様に明らかなことは、ある国で生産物の価格が流通手段の増加によって上昇
しながら、別の国で現象が生じなければ、二つの国の貨幣の価値は同じではなく、為替は
前者が不利になるだろう。
地方で過剰に発券されてもロンドンの流通額が通常の範囲を超えなければ、物価は地方
で上昇するがロンドンでの変化はもっと少ないだろう。人々は価格があまり高くないロン
ドンで購入し、地方の銀行券を、その銀行券を発行しようとする銀行に戻そうとするだろ
う。つまりこの銀行券の発行はある一定の限度に制限されることになるだろう。
つまり、
1。すべての価格の全般的な上昇、
2。金の市場価格の上昇、
3。外国為替相場の下落。
貨幣が兌換も輸出もできない国で流通手段が過剰になった場合、上記のような結果が生
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
じるだろう。
先に述べたが、二国間の為替の平価とは、内在する価値において、他国の貨幣のある額
に対して正確に等しくなる貨幣の額のことである。つまり、同じ純度の金または銀と等し
い重さを含む貨幣の額のことである。
《金銀複本位制の為替に対する影響》
しかし、もしある国が価値の主な尺度として金を採用し、別の国が銀を採用していたら、
二国間の平価は金と銀の相対的価値を考慮することなしには算定できない。
(p290)二国での流通が金で行われている場合には計算は比較的容易である。逆に流通が
一つの国で金、別の国で銀ならば比較はもっと難しくなるに違いない。また二国の内、一
つの国で兌換できない無制限の紙幣が流通していたならば、正確な評価に達するのは難し
い。
ハンブルクのような単一の銀本位制の地域では、利子率や信用の状態、お互いの契約と
ともに、得になる方の金属を検討し、為替の確定の際にそのことを考慮に入れる。
ハンブルクでは貨幣についての論争を避けるために、支払いは銀行貨幣でなされる。そ
れは決められた純度の銀からなる。この仕組みは国内取引にはよいかもしれないが、イン
グランドのとの対外取引の場合には為替相場を確定するためには、通常、考慮されるすべ
ての事情に加えてさらに、二つの市場での銀価格の違いを考慮しなければならない。
フランスのような複本位制の場合、イングランドとの取引の場合には、単一本位制の場
合よりも為替の変動は大きい。為替の変動は、両国で普通に用いられる流通手段の変動に
影響を受ける。
しかしながら、支払い停止で正金の譲渡が不可能になって流通手段が減価している国で
も、(p290-1)このような事情によって為替の損失が生じることはありえない。輸送の費用
に限定されるだろう。しかし金プレミアムが恒常的に生じ、人為的な手段で制限されなけ
れば、これまでの費用に加えて、被ることになる損失を考えて現送した費用を加えなけれ
ばならないだろう。このような原因による為替の低下は、他の原因よりも大きな影響を与
える。他のもの、つまり貨幣利子、債権に対する債務超過、パニック、距離といったもの
が引き起こす為替の変動はわずかな比率に過ぎない。すべての要因が集まっても 10%にま
でなるのはまれである。しかし新たに流通手段の減価が生じた場合、その乖離は 25、30、
50%にも達する。そのような損失の負担を避けるためには、債務者たちには一つの方法し
かない。それは負債の返済のために商品を買って、自分でそれを輸出することである。
商業や二国間の支払いの状態から生じた為替相場の乖離の大きさは輸送費用、利子の損
失、他国への貴金属輸送の保険料によって上限が画される。
《戦争の時の保険料》
戦争の時には保険料はもっと上がるが、1810 年には 1.5-2%を越えなかった。ロンド
ンからハンブルクへの輸送の平均的なリスクは 5.5.%を越えなかった。いずれにしてもそ
れらが原因で為替の下落が 16-20%にもなることはありえなかった。(p291-2)商業の状
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
態によって国際収支が 4-5%でイングランドに不利になったと仮定しても、流通手段の担
い手、つまり銀行券の価値の変化から生じる減価は続くだろう。
《紙券の減価》
歴史は数多くの例を見せてくれる。その場合、減価が生じるのは紙券の過剰な発行によ
ってのみ、または紙券を発行した機関の支払い能力への不信が生じた場合である。スコッ
トランドでは 7 年戦争が終わって銀行の業務が過剰に発達した。そして銀行券に記された
一覧払いまたは利子付き 6 ヶ月払いの条項を使って、正貨への兌換を停止した。その結果、
減価を被った。
イングランド銀行が設立されたとき、貨幣の磨耗や削り取りとともに紙券の過剰発行が
あった。イングランド銀行は自分の資力を無限と信じて前貸しは割引だけでなく、物財を
担保にしたり、抵当貸付、さらに政府の需要すべてにも応じた。こうした行動の結果、ハ
ンブルク宛の手形は平価よりも 25%下落した。
地金での金の価格と外国為替相場は、長期で考えた場合、(p292-293)流通における信
用貨幣(monnaie de papier)が十分か過剰かどうか判断できる良い基準である。
この結論は非常に活発な議論の的になった。正貨の支払いは再開するが再開の時期はイ
ングランドの判断にまかせるという提案は、この目的を実現する手段が示されていないこ
ともあって、議会によって否決された。
1810 年の委員会は不利な為替の真の原因を示し、唯一の対策として支払い再開を提案し
たが、
戦争を継続するために政府にとって差し迫った必要性を十分に検討していなかった。
さらに、当時の法律は割引率の引き上げで金属準備を守るという方法を認めていなかった
ので、国際関係が遮断されている中では金の需要はすぐさまイングランド銀行の金属準備
を使い尽くすだろうということも十分に考慮していなかった。
イングランドだけでなく外国も含めた大陸駐留の軍隊に支払いをする必要があった。そ
のため通常の商業取引以外に、かなりの対外支払いが生じた。かなりの数のイングランド
製品を無理にでも輸出する必要があった。しかしこれは紙券発行という間接的な方法で行
なわれた。
国内価格の上昇は外国為替の下落と対応するが、事業の運動のかなりの分野に不確実性
が広がった。この状況の下で、(p293-4)すぐに投機は際限なく拡大した。その頃つくられ
た数多くの発券銀行がこの運動に新たな活力を加えた。この運動は 1810 年に恐ろしいほ
どのショックを受けたが 1816 年まで続いた。そのときに戦争が終わり、対外支払いの必
要も収まり、イングランド銀行や個人銀行による急速な発券によって促進された巨大な生
産は終わることになり、破滅を引き起こし、生産物の分配に寄与した紙券のかなりの部分
が消滅した。
このように、あらゆる犠牲を払っても満たさなければならず、しかし調査委員会が考慮
しなかったと思われる差し迫った必要の圧力のために、委員会の結論は採用されなかった。
しかし、こうした必要に注意を向ける代わりに、Bosanquet が貧弱な論拠を述べ立てたの
- 126 -
クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
はたいへん嘆かわしいことだ。彼はイングランド銀行による発券の継続が流通額を増加さ
せることを否定し、銀行券が他の商品に対して減価することも否定した。彼は、金の価格
だけは例外だと主張した。しかしその議論は認められるものではなかった。正しくは、需
要に対して金は希少さを増し、結果として価格が上昇したということだ。この状況が続く
限り、実現のための方法を示すことなく正貨支払い再開を勧告するのは不十分だった。紙
券をその価格に復帰させる唯一の手段は割引率の引き上げだった。しかしそれは役に立た
なかった。(p294-5)なぜなら、この手段は貸付需要における民間の投機を止めることにき
わめて有用だが、政府が戦争のような絶対に必要とする公的支出のために貸付を求める場
合には全く役に立たないものだからである。価格の上昇は政府の需要を止めることはでき
ないだろう。なぜなら価格は単に貸付の増加として現れるだけだからである。1800 年から
1805 年、流通額ですでに見たように(108 ページ)イングランド銀行による政府への貸付は
ほとんど銀行券の発行高に示されていると言える。
貸付額
流通額
1800
13,200,000
15,400,000
1805
17,200,000
17,600,000
1814
35,000,000
28,600,000
政府に与えられたこの新たな購買力は事業に比類ない活力を与え、その結果としての価
格の上昇を通じて、価格にかなりの混乱を生み出した。政府は間接的にすべての市民に対
して、別の形では得られない税金を課したことになる。この税金は投機によって増加し、
日々の支出の中に隠されながらも、徐々に徴収されるようになった。これは、1810 年と
1816 年の恐慌によって終わることになる、巨大な産業の活動の一つの原因にもなった。
1810 年の委員会の思慮に富んだ結論は、紙券の発行にいつも依存していた政府に戦争を
続ける手段を与えないものだった。そのため委員会の結論が実行されなかった。(p295-
6)支払い再開に関する調査での活発な議論の後、1819 年にその結論が採用されたが、その
ときにも為替の影響について証人たちの多くは正当に評価していなかった。彼らは 1810
年以降、イングランド銀行券の流通額は金の価格と関係がないと言って反論した。
たとえば 1816 年に流通額は前年同様に 27~26,000,000 フランの間で変化したが、金の
価格は 4 ポンド 16 シリングから 3 ポンド 18 シリングに下落した。為替は平価まで上昇し
た。しかしこの事実を見る際に、地方銀行券の流通額が考慮に含まれていない。地方銀行
券の流通額は正式に公表されず、評価することがいつも非常に難しい。ただ、確かな事実
としては 1790 年から 1810 年の間に銀行の数は 290 から 721 に増え、1813 年には 948
にもなったということである。
すでに 1810 年の委員会が印紙の表に基づいて地方の発券額を推定しようと試みて、
1809 年の 1 年間で 3,000,000 ポンドの増加、他方、イングランド銀行の増加は 1,500,000
ポンドという結果を出した。
1796 年から 1810 年にかけてイングランド銀行の流通額は 11,000,000 から 24,000,000
- 127 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
フランに増えただけだったが、同じ時に地方銀行は、最も知識のある人々によれば、
30,0,000 フランと評価された。
1810 年の恐慌とのその清算は 1813 年まで流通額の増加を抑えた。(p296-7)トゥック
によれば流通額はこの期間に 2 倍になったように見える。それは金の価値が紙券で 5 ポン
ド 10 シリングとして計算した場合である。
このように紙券が減価したため、価格の上昇は全般化した。土地の価値は三倍になり、
農産物に対して巨大な投機が発生した。地方銀行の数は増加し、1810 年に 721、1813 年
には 948 となった。混乱は秋に始まり、1815 年にも引き続き、最終的に 1816 年に完全に
恐慌となった。99 の銀行が破綻し、地方銀行券がかなり減少した。トゥックはその額を少
なくとも 20,000,000 ポンドと評価した。この減少額がいくらであろうとも、イングラン
ド銀行券の流通額は 26~27,000,000 ポンドの範囲でほとんど変わらなかったので、イン
グランド銀行券の増加によって補われることはなかった。こうした地方銀券の流通額の削
減という事態こそが、地金の価格と為替相場の平価への復帰という顕著な事態をもたらし
た。
以下の表は金価格・為替相場・銀行券の価値が、地方銀行の数とその銀行券と比べてど
のように変化したかをはっきりと示している。
《1798 年から 1816 年イギリスにおける金価格・為替相場・銀行券の変動の表》
金価
為替
格
ポンド
銀行券
地方銀
の価値
行数
シリ
ペン
パリ(フ
ハンブ
シリン
ング
ス
ラン)
ルク
グ
1797
3
17
10
20
1805
4
0
0
25.10
35
6
1809
4
11
0
20.10
29
1810
4
13
0
19.60
1812
4
16
0
1813
5
10
1815
5
1816
3
イングラ
ンド銀行
券流通額
百万£
290
政府
貸付
百万
£
11
11
19
17
17
6
17
19
28
6
16
17.60
26
0
16
0
18.30
26
0
14
6
0
18.30
28
2
17
27
18
6
25.20
38
0
19
27
724
24
16
23
948
24
19
紙券の価値の 1816 年に正常化されたが、それは紙券の過剰分すべてが消滅したという
ことだけで、全く自然にどんな立法措置もないまま生じた。理事たちは大衆の需要にこた
えることができたので部分的に支払いを再開し始めた。ただしまもなく 1818 年の恐慌に
よって中断することになるが。
パリ宛の為替も平価を越えて上昇し、26.10 フランの値をつけた。イングランドと大陸
- 128 -
クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
との取引が再開され、様々な場所での借入が行なわれ、それらはイギリスの国際収支を均
衡へと戻すことにもなった。そしてこれまでイギリスに不利だった為替は、有利へと変化
した。
(p298-9)危惧すべきはイングランド銀行券の流通額の過剰だけでなく、地方銀行券の過
剰も問題だ。1816 年の恐慌はその証拠だ。しかしそれ以外にも危惧すべきことがある。
1844 年の条例以降に起きた恐慌から分かることは、銀行が発行した手形以外でも、あらゆ
る起源の信用貨幣(papier fiduciaire)は流通すればすぐに、為替相場に同様の困難をもたら
す。銀行券であれ、商業手形であれ、為替手形であれ、あらゆる種類の支払い約束の手形
は、一覧払いの支払いを維持していても、その発行で生じる価格の上昇によって、信用手
段の発達の遅い外国との交換が難しくなるとすぐに同じ結果をもたらす。
為替相場は特に、諸国間の相殺を維持または促進するために、直接的・間接的に役立つ。
事業があまりに大規模に行なわれ、為替の乖離すべてが修正されそうにない場合には混乱
は避けられないだろう。商品の売値はその影響で上がったり下がったりして崩れた均衡を
いつでも再建しようとする傾向がある。
《不作・借入・戦時支出の影響》
通常にはありえないような生産物への需要があれば、為替を不利にする傾向がある。不
作、外国政府よる借入、戦時支出は困難の原因となる。(p299-300)それは商業の流れを
そらし、他国や他の生産物へと向かわせるからである。
借入については、ロスチャイルドは次のように断言している。支払いの最大の部分は商
業取引から生じた手形を利用して支払われるが、その商業取引は資金が多額に移動する結
果、生じたものである。要するにこの取引に従事する資本家の多くはポートフォリオの中
に様々な政府の証券を持っており、ある借入に新しく応募する場合には、通常、所有して
いる証券を取り替えるのであり、すべては投資の変更先に過ぎない。
不作については、小麦の輸入の場合、商人たちは外国に向けて手紙を書き、できるだけ
速く輸送されるように要求する。商人に宛てて外国で手形が振り出され、多数の為替手形
が同時に到着する。しかしこの場合にも、最初の支払いのみが正貨で行なわれるだけであ
る。正貨が流出するとすぐに貨幣の価値が上昇し、食料品を除いて、輸入は減少する。言
い換えれば、輸出が増加し、貴金属を流出させることなしに穀物に対して支払いが行なわ
れる。
戦争の時について は、 信用の資力が使い 尽く された場合、支払 いが 停止され紙幣
(papier-monnaie)が使用される。その場合、商業すべてを犠牲にして、政府に対して支出
をまかなう便宜を与えることになる。(p300-1)しかしそうではなく、正貨を使いつくして
新たな借入が必要になった場合、外国から助けが得ることができない生産物は全般的に下
落するだろう。その国の通常の信用が力を失ったとき、つまり信認の欠如のために流通し
ないときには、紙券の発行によって引き起こされた人為的な物価上昇は投機を刺激し、事
業をそこへ引き込む。この価格の上昇は国内市場ではかなりのものになるが、しばしば為
- 129 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
替の低下による緩和作用を完全に上回る。さらに他国に対しても、同様の取引を続けてさ
らに拡大するように駆り立てる。投機が好む不確実な取引の中に新たな刺激を見つけ出す
には、為替の下落が価格の上昇をかなり相殺するだけで十分だ。最近のアメリカの戦争で
は紙幣や銀行券の使用の最近の例を見ることができる。国庫の支出に紙幣や銀行券を使っ
て払うことで政府は、史上最も強力な軍備をつくり、維持することを可能にした。ただし、
この発券は正貨支払い停止を引き起こし、混乱をもたらしたことは確かで、その混乱は今
なお続き、流通する紙券の中で超過分がすべて国庫に回収されるまで続くだろうが。
このような混乱を生む主要な原因のほかに、(p301-2)為替が平価に近くとも正貨を流出
させる要因としては利子率や何らかの特別な状況が見られる。
実際には手形の過半は様々な時期に支払い期限を迎えとなり、そのため為替レートに新
たな影響を与える。
買い手は以下のことを考慮すべきである。
1。現金で為替手形を買ったときから支払われるまでに差し引かれるべき利子率。
2。支払期限までに被るリスク。つまり振出人と引受人が支払い可能であり続けるかど
うか。
長期と短期の手形の影響
一覧払いの手形の場合、手形振出地の金融市場の状態が為替に影響する。なぜなら状況
によっては、売り手が切迫していて、買い手が躊躇している場合もあるからだ。手形の金
額が受け取られるまでの利子は売り手か買い手かのどちらかの損失になる必要がある。こ
の損失は当事者のいる市場での相場の利率で計算される。
しかし、手形が一覧払いでない場合、買い手が考えなければならないことは、手形振出
地の利率がどうであるか、また利子率の差はどうか、ということである。
もし外国の利率が高ければ 60 日の手形には支払いを安くすることにこだわり、利率が
低ければもっと高く払うことも可能になろう。
(p303)一覧払いの手形の価格の変動は正貨による平価と呼ばれるものによって制限され
る。どんな場合でも、そこからの乖離は二国間の距離が遠くない限りは大きなものにはな
らない。しかし長期の手形の価格の変動にはどんな制限もない。なぜならその変動は、受
け取られる国の貨幣の価値の変動や、手形署名人の支払い能力に対する懸念に対応してい
るからである。外国為替に対する貨幣の価値の影響と、割引率のすべての変化はたいへん
重要である。
事業の全般的な状況を見るには、短期手形の価値から正確な結果を得られるだろう。他
方で、一覧払いの手形と長期の手形との違いは、一般に利子率を示しており、個別には信
用の堅実さを示している。
為替の変動は様々な国の利率に依存することがありうる。これらの利率は、価格が貨幣
の価値や信用の状態によって規制される長期の手形に影響を与えるだけではなく、一覧払
いの手形にも影響する。なぜなら利子率の上昇・下落は資本の運動を引き起こすからであ
- 130 -
クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
る。
投機家が為替取引を通じて金を流出させると非難されることがよくある。(p303-4)つま
り安いときに買って金を流出させ、高いときに売ることで、外国証券の価格差から利益を
得る、と。しかし事実として確かなことは、短期の手形を入手できるなら、つまり需給に
差があってその部分の取引ができる限りは、金は移動しない。金の輸出が示すことは、輸
出する人の品性には関係なく、その時点で取引のバランスが不利になっているため、外国
宛の短期手形が使い尽くされようとしており、需要に応えるためには金を送らなければな
らないということである。
にもかかわらず、両替ブローカーに利益のチャンスがないまま長期にわたって為替が正
貨による平価にとどまることがありうる。その間には、取引を決済するために絶え間なく
正金が流出することがありうる。
為替取引において、利益の得られる限度は非常に狭いもので、為替が平価にあっても、
外国市場に自分の支店があれば、またそのために特別な業務を組織していれば、非常に限
られた程度だが、利益を上げることができる。こうした会社は、手数料や経費を節約して、
正金をもっとよい市場に現送することができる。
実際には、為替が平価付近にあるときに正貨現送で大きな利益を得ようとすれば、遠く
の国に送る必要がある。(p304-5)先見の明のある銀行業者は、正金と交換に平価以下で為
替を買うために、その取引に適した事態の発生に備えて準備できる。
要するに、為替の価値のすべての要素について、国際的に相互に行なわれる取引の状況
を根本的に調べることが必要だ。その振動は非常に狭い範囲でも非常に変わりやすい。し
かし正貨を流出させる原因がある限り、銀行の金属準備を汲み尽くすには十分だ。最後に、
為替相場には貨幣の価値の乖離を示す、ある特別な状態がある。それは銀行券の減価だ。
イングランド・フランス・合衆国における為替相場の変動
為替相場の理論を説明した後、先の述べたことすべてについて事実を示す必要がある。
それは例として取り上げる三つの大国にある。
1800 年以降、パリ宛のロンドンの為替相場を調べたなら、その振動がかなり変わりやす
いと気づくだろう。研究する時期に応じて、主だった影響のいろいろな結果が次々と現れ
るのを見ることができる。(p305-6)つまり、支払い停止期の銀行の信用貨幣の減価、イン
グランドとフランスでの金銀複本位制の違い、商業恐慌の間の商業取引における不均衡。
混乱の原因それぞれに対して為替相場の乖離が現れるが、次の三つの時期に区分するこ
とができる。
1。1800 年から 1821 年までの支払い停止の期間
2。1821 年から 1850 年まで。金の輸入がフランスと世界全体で拡大し始めたとき。
3。1850 年から 1865 年までの大量輸入の時期。
支払い停止の期間には、イングランドの紙幣の豊富さや減価に応じて、相場は 26.10 フ
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
ラン(1816 年)から 17.60 フラン(1811 年)の間で変動した。さらに商業に課せられた制約に
よって決済や相殺が非常に困難になっていたが、商業の必要に応じても変動した。
正貨支払い再開以降、変動はまだかなり大きく、変動は 25.95 フランから 25.25 フラン
の範囲だった。
しかし 1850 年以降、いたるところで金が豊富になり、交換を促進するようになった。
為替の乖離は平価の上下 25 サンチームと非常に限定的になった。
(p307)うわべだけしか見なければ、この変化は単なる偶然や投機に見えるかもしれない。
しかし少し考えれば容易に理解できる。
支払い停止の間は次のような事態が見られた。まず、イングランド市場での銀行券の減
価と比例して、為替はかなり減価したにもかかわらず、特に 1816 年恐慌の後、紙幣の価
値と同時に平価に近づいた。続いて 1819 年恐慌の間には平価から遠ざかった。紙幣が存
在する一方で金は流通から消滅していたが、為替を改善したり、平時には存在しない乖離
を縮小させたりするために金を輸出することはできなかった。しかし、正貨支払い再開以
降、相場はかなり下落したが、1851 年まで相場の最大値が続いた。その高さは、他の場所
へ現送する費用を支払うのに必要な額をかなり上回っていた 3。しかし、そのときにはイン
グランドに不利になるのではなく、いつでも有利だった。
こうして、1800 年から 1821 年まで為替はイングランドではいつも不利で、1821 年か
ら 1850 年までいつも有利だった。パリ宛のロンドンの為替は 1850 年以降、有利と不利を
繰り返した。それは二国間の国際収支に対応していたが、乖離の比率は先行する時期とは
何の関係も持たなかった。
(p308)このような異常が生じる原因は明らかにいつもと同じで、必要な場所へ金を送る
ことの困難だった。
1800 年から 1821 年までパリ宛のロンドン為替はイングランドに不利だった。なぜなら
紙券が存在するのに流通には金がなく、金を現送することができなかったからである。
1821 年から 1850 年まで為替はイギリスで有利になった。なぜならフランスでは銀が流
通し、国内では金プレミアムが生じており、為替の乖離を改善するために十分な額の金を
得られなかったからである。困難な状況には耐えるしかなく、為替相場は輸送費用の額よ
りも上になっても放置するしかなかった。なぜなら銀はイングランドでは 40 シリング以
上では流通しておらず、この方法で負債を弁済しようとすることはできなかったからであ
る。さらに、金の為替平価は 25.20 フランなのに、銀の為替平価は 24.73 フランでしかな
かった。以上のような障害で乖離がいつも生じており、克服されることはなかった。
法律で固定された二つの金属の間の関係は維持されてはいなかった。金はフランス市場
ですぐにプレミアムを生じた。今でも思い出されるのは、金の輸入の前には、金コイン 1
個につき、20-40 サンチームの範囲でプレミアムを支払う必要があったことだ。しかし
3
(原注)相場の最大値の変動。1821 年から 1848 年まで、25.95 フランから 25.40 フラン。
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
1850 年以降、関係はまたもや変わり、今度は銀がプレミアムをつけてフランス市場から輸
出されるようになった。(p309)カリフォルニアやオーストラリアからの輸入のおかげで、
パリからロンドンへの送金は金の使用が可能になり、為替の最大値からは金プレミアムの
名残も消え去り、25.40 フラン、25.47 フランを越えなくなった。そして 1 ポンドあたり
20-25 サンチームの範囲で上昇・下降という振動をするだけとなった。その額は貴金属の
輸出・輸入の取引を引き起こすことができる以上の額だった。
1848 年、フランスで支払いが停止されている間、銀行券の減価と相関して為替は 26.70
フランに上がった。パニックがなくなると、為替は、二つの本位貨幣(イギリスの金、フラ
ンスの銀)から見れば通常の範囲での下落に回復した。1821 年から 1850 年まで続いたこ
の乖離は、想像されるような困難は生じなかった。商業は回避され、その結果価格は下落
した。
1850 年にはフランスからイングランドへの輸出は大きく発展したが、輸入は発展せず、
為替は 24.85 フランに落ち込んだ。しかしすぐにカリフォルニアの鉱山の影響が見られる
ようになり、金は至るところに広まり、貨幣流通でフランスを不利にしていた二つの本位
貨幣の乖離は突然、修正された。為替相場の最大値はこれまで 25.50 フランを下回ること
はなかったが、今では 25.25 フラン以下に落ち込み、(p309-310)最小値についても、か
つての最小値がほとんど現在の最大値にあたるようになった。この時期以来、最も高い相
場が 25.50 フランを越えたことがない。そして 1 ポンドあたり 20-25 サンチームの範囲
でのみ振動している。
この振動は毎年繰り返され、恐れられることもないし、極端な相場が重大な意味を持つ
こともない。毎年同じように貴金属が輸入・輸出され、毎年為替相場は有利だったり不利
だったりする。公式の相場表は行なわれた取引が記載されているが、その量は示されてい
ない。何らかの必要に応じて、上方か下方か乖離が生じるのが分かる。貴金属の輸入また
は輸出に利益が見つかればすぐに業者はその機会をつかみ、利益がなくなるまで利用し続
ける。割引需要が銀行の金属準備に襲いかかってこなければ、この動きは深刻な事態には
ならない。恐慌の清算期と回復初期には為替相場はいつも有利または平価。為替が不利に
なるのは後になってで、混乱に先立つ数年の間のみである。
為替相場が最も高くなるのは必ずしも恐慌と同じ年というわけではない。恐慌のときに
は需要が数多く、切迫したものだと言うだけで十分だ。乖離が金属の輸送費用と等しくな
るとすぐに(p310-1)取引が始まる。やがて競争によって、取引の量に応じて利益が減少し
ていく。このように乖離が最大になるのは必ずしも恐慌のときだとは限らない。
為替相場の上昇はそれだけでは状況の危険性を察知するのに十分ではない。同時に割引
と金属準備の動きを観察することが必要である。為替が、まず手形割引に対する商業の需
要の連続的な増加と対応し、次に金属準備の減少と対応するとき、それはもう確実に深刻
な事態だと言える。すぐに対策をとることが必要だ。
ここでロンドンを例に取ろう。ここは最大の市場で世界の取引の最も多くの部分が決済
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
されているからである。
しばしば忘れられることだが、為替の取引はほとんどいつも裁定や相殺として行なわれ
る。そして、それぞれの国ではすべての取引を、場所や商業的関係で最も優れたいくつか
の場所に集中して行なう。そういた場所には大量の需要と供給が存在し、取引相手を見つ
けるのが容易だからである。為替取引が大規模に行なわれる場所はヨーロッパでは非常に
少数である。ロンドン・パリ・アムステルダム・ハンブルク以外の市場は非常に限られて
おり、取引は最も近い場所で行なわれ、中心的市場の振動すべてに応じて変動する。
(p311-2)明らかな例外はいくつかあるが、諸市場は連動しており、それを示すのは容易
である。
以上のことを踏まえれば、フランスでは 1847 年恐慌以前、フランス銀行の正貨準備が
一定だったことが非常に驚きである。というのはそれ以前に繰り返し起きたイングランド
での恐慌の際に不利な為替の影響で正貨準備がすべて吸い取られるに違いないと思われる
からである。もしフランスで銀の代わりに金が流通していたら確かにそうなっただろう。
実際には人々は金を求めたが銀しか送ることができなかった。銀は 40 シリング以下で法
貨ではなかった。この方法が用いられなかったのは驚くことだろうか?
いたるところに金が流通している今となっては、人々は固執すべきものを知っており、
金属準備の低下がそのことを十分に明確に示している。
パリ宛のロンドン為替相場4-1800 年以前の公式の相場を得ることはかなり難しい。
1794 年から 1801 年はフランスではアシニャ紙幣の時代で、為替には空白がある。為替の
平価を見つけるには 1791 年にまで遡る必要がある。このとき以来、徐々に不利になって
いる。減価はかなりのもので、1793 年 1 月 1 日、紙幣発行が始まったときにもう、パリ
で 25.20 フランのアシニャ紙幣がロンドンでは 17 フランの価値しかなかった。同じ年の 8
月 4 日にはわずか 4 フラン!
もはや相場が立たないところにまで落ち込んだ。
(p313)1797 年の厳しい商業恐慌のときにイングランドは支払いを停止し、貴金属の流出
を減少させた。残念ながら筆者にはこの時代の為替の表がない。フランスではアシニャ紙
幣が除去されて金属流通が再開されていたけれども。1801 年に示された最初の相場から判
断すれば、直前の恐慌の清算はすでに終わり、最初の年を見る限りでは支払い停止は大き
な混乱をもたらさなかったように見える。1802 年に相場は 24.11 フランから 23.10 フラン
の範囲で変動した。大陸での戦争のさなかに減価したが、それは交易の困難や軍隊の維持
とは相関してはいなかった。アミアンの前に相場はほとんど平価に戻り、25.02 フラン
(1803 年 12 月 30 日)1804 年には 25.10 フランと 24.14 フランの間で揺れている。1807 年
までのこの相場から遠く離れることはなかった。しかし 1810 年恐慌が近づくころ、イン
グランド銀行の発券は 16,000,000-17,000,000 ポンドの狭い範囲での変動で安定してい
4
(原注)表 6
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
たが、地方銀行による毎日のような発券増加の影響で、25.10 フランへと為替は落ち込ん
だ。
1807 年
23.18 フラン
1808 年
21.16 フラン
1809 年
19.60 フラン
1810 年
19.60 フラン
1811 年
17.60 フラン
1812 年
20.06 フラン
為替の下落は 1811 年まで続いた。イングランド銀行が銀行券を 17,400,000 ポンドから
1810 年の 24,000,000 ポンドに増加させ、この過剰な発券も為替を悪化させた。しかし清
算が終わった後、平和が確実に見えた 1814 年には再び 23.40 フランまで上昇した。1815
年、ナポレオンのエルバ島からの帰還のときには 18.30 フランへ(5 月 19 日)と急落した。
新たに和平が締結されると、24.10 フラン(12 月 29 日)に戻した。その後、1815-1816 年
の恐慌の清算の後になってようやく平価に達し、それを上回ることができた(26.10 フラン、
1818 年 10 月 15 日)。1821 年の支払い再開までは、23.50 フラン(1819 年 1 月)と 25.85
フラン(1821 年 6 月)の間を変動している。借入によって大量の資本が移動しているのに、
通商関係が長い間中断されほとんど回復していないので他の方法では清算ができないため、
こうした為替の乖離は驚くことではない。イングランドの地方銀行券は恐慌と 1816-
1817 年の清算期に消滅し、イングランド銀行券の流通額は 1817 年に 29,000,000 ポンド
へと増加したけれども、わずかな部分しか補うことができなかった。支払いは停止されて
いたが、銀行券は平価へと復帰した。1819 年、25 年の恐慌でも止まらないほどの活況を
見せていた商業の運動には銀行券はほとんど十分ではなかった。
(p314-5)1825 年恐慌の間、金のプレミアムを考慮に入れれば、パリ宛のロンドン手形は
ほぼ平価(25.50-25.15 フラン)にとどまっていた。1837-39 年の二つの恐慌の間も同様
だった。本位貨幣の違いにもかかわらず、ロンドン市場とパリ市場の関係は 1837 年には
すでに大きくなっており、パリの代わりにロンドン市場が正貨を要求し、為替は 25.75 フ
ランにまで上がった。しかし 1839 年には 25.50 フランを超えなかった。相場のこの乖離
はフランス銀行の準備に非常に明瞭に現れている。つまり、1835 年から 36 年にかけては
203 百万フランから 90 百万フランへ減少し、1838 年から 39 年にかけては 301 百万フラ
ンから 207 百万フランへと減少しただけだった。恐慌の清算期にはすぐに為替は 25.25 フ
ランに下落した(1840 年)。
1847 年恐慌に先立つ好況の年に為替相場は 25.25-25.67 フランの間で変化した。1845
年には 25.82 フランまでも上がり、恐慌の年には 25.85 フランを超えなかった。この二つ
の相場は金属準備が最大値と最小値を付けた 2 つの年5に見られる。このことから分かるこ
5
(訳注) 最大値は 1845 年、最小値 1847 年。
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
とは、考慮すべきは相場の数字それ自体ではなく、取引される額の大きさやそうした行動
の継続である。毎年、銀行の準備は国内からと国外からの需要の影響を受けて増減する。
こうした運動のそれぞれが為替の変動によって決定されていることは驚くことではない。
(p315-6)とはいえ必ずしも、最も大きく乖離するのが、金属準備が最低の時、ということ
にはならない。平価を超えれば貴金属の輸出に利益が生じるということだけで十分だ。そ
のときには、そのチャンスをつかもうとする銀行業者には事欠かないだろう。
フランスで金の流通が広まって以来、銀に対する金のプレミアムは消え、パリ宛のロン
ドン為替相場が示す為替の乖離は簡単に説明がつくようなものではなく、一目見たところ
では驚くようなものである。平価から 20-25 サンチームしか離れず、金の流出が銀行の
金属準備を脅かすときはいつでも不利である。1857 年と 64 年の恐慌の年とそれに先立つ
数年間に為替相場は 25.40、25.47 フランとなり平価を 20 サンチーム越えただけである。
準備は、その前の数年間に同じ影響を受けた需要の高まりによって減少していたので、残
りの準備を汲み尽くすにはそれ以上は必要なかった。注意すべきことは、為替が不利にな
るときは、信用の使用が最も広がっているイギリス・アメリカ・フランスで同時にそうな
ることだ。信用を最も豊富に受け取った諸国民は信用を乱用し、不可避的に価格が上昇す
る。その結果、近代的産業を発達させるすばらしい手段を同じ程度には持たない国との間
で収支が不足することになる。生産物が流通しなくなるとすぐ、金を運ばなければならな
くなる。(p316-7)価格が下落して生産物の流通が回復しなければ、世界で最も大きな三カ
国の市場の金属準備は需要すべてに応じることはできなくなる。
合衆国の為替相場(略)
金プレミアム(略)
原因によって異なる正貨流出への対策
(p327)切迫した需要の影響を被ることなく、いつでも償還可能な状態で流通する信用貨
幣が流通する国では、金属正貨は流入と流出の二つの運動、つまりあるときは銀行の金庫
から引き出され、またあるときはそこへ戻されるという作用の影響を受ける。この振動に
は二つの原因があるが、正しく認識されていないことがよくあり、残念な間違いを生み出
してきた。正貨への需要が国で生じるか、あるいは国外で生じるのか、区別する必要があ
る。国外からの場合、正貨需要は外国為替の状態によって引き起こされる。国内からの場
合、ある場合には国内での必要のためで、別の場合にはまさにパニックによる。
(p327-8)どんな場合でも銀行の正貨を守ることに専念する必要があるが、その方法は非
常に異なる。
革命や国内暴動の結果生じるパニックの場合、対処すべき困難の原因と同様に激しい対
策をとるしかない。つまり支払い停止である。
銀行に求められる正貨が国内流通に必要とされている場合、つまり危機や大きな信用機
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
関がいくつか崩壊した結果、信認が喪失され、時折、大きく突然の需要が生じた場合には、
正貨は信用貨幣の代わりを果たすだけである。信用貨幣は、交換の決済に非常に大きな役
割を果たすが、このときは信認を喪失したために以前のようには容易に流通しなくなって
いるからである。このときに信認が失われていない信用貨幣が、減価のためにもはや流通
しなくなった信用貨幣の代わりを果たすことができれば、この流出の影響を緩和すること
は簡単である。
同じような状況でイングランド銀行が発券を増加させたのは賢明な措置で、
事業の決済のための通常の手段が不足していた市場を落ち着かせ、すばらしい成果をあげ
た。
最後に不利な為替の影響で金属正貨が流出する場合について。その場合、発券を増やす
どころではなく、(p328-9)信用貨幣の発行が過剰ではないか検討することが必要だ。ただ
しここで発券といった場合、単に銀行による発券だけではなく、商業が自己の取引の決済
のために流通させるすべての信用貨幣を含む。流通におけるこの過剰の削減が必要となろ
う。不利な為替の影響の場合にはこの削減が真の解決策だが、原因が国内にある場合には
役に立たたず、国内の需要を増加させさえするだろう。
もし外国為替が信用貨幣の流通額の過剰を示す良い尺度であれば、外国為替に基づいて
この流通額を調整できるだろうか、また不利な為替のために正貨が輸出される場合、この
流通額を削減することができるだろうか?
この削減は正貨の減少と同じ効果を生む。最も重要なことは一国にある正貨の量ではな
く、あらゆる産業部門のための資本であり、資本の額の増減を知ることだ。知っておくべ
きことは、銀行は自行の発券に基づいて行動するのではなく、大衆の手の中にある銀行券
に基づいて行動するのでもないことだ。さらに、商業によって発行された信用貨幣や、銀
行のコントロール外にある信用貨幣に基づくことも少ない。銀行が労力を割いているのは
自行の発券に関するだけではない。なぜなら大衆の手中にある銀行券については、非常に
厳しく制限してもわずかしか変化させることができないからである。金属準備は大きく変
動するのに(p329-330)銀行券はほとんど同じ水準を維持する。1844 年法の推進者の主張
とは異なり、銀行券流通額は金属準備の変動に従わない。
銀行券は流通すればすぐに直接的な方法では影響を及ぼすことができなくなると経験
的に認識されて、銀行券だけでなくすべての信用貨幣を減少させる間接的な方法が探求さ
れた。発見されたその方法とは割引率の引上げだった。この作用を説明するために、しば
らく事業での決済のメカニズムを確認しておこう。
諸国間の取引では生産物は他の生産物と為替手形の媒介によって交換される。貴金属が
輸入または輸出される場合はいつも、為替の有利または不利の影響を受けている。ただし、
金が唯一の交換手段である生産国との直接の交易は例外だが。
為替を用いて別の国に債権を移送する方法は非常に多様で複雑なので、たとえば金が一
つの国へのみ流入したとしても、混乱はその国だけで生じたと結論するわけにはいかない。
迂回的な方法をとる裁定取引によって、他の方法ではできないような均衡が実現される。
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
(p330-1)貴金属はイングランドではほとんどいつものように豊富だが、ある時点では流
出することもある。貴金属は 1 週間や 1 ヶ月ではなく、徐々に 5-6 年かけて流れ出す。
為替が示すのは貴金属が初めに引き寄せられる国で、最終的な行き先を速断するわけには
いかない。流通で過剰になって不要な金属のみが輸出される限りでは、これは事業にとっ
てすばらしい機構だが、様々な国の間で為替手形の相殺がバランスしなくなったために銀
行から金属準備をくみ出さなければならなくなると、その需要は世界中の貴金属の価格を
上昇させることになる。人々はコルレス先に手紙でこう伝える。
「あなた方にしなければな
らない送金にはすべて正貨を送ります。為替手形でも公債でも商品でもありません。正貨
を送ります。それがもっと利益になる送金です」
銀行業者にとっては最も有利な送金方法を探すのが利益になるので、すぐに貴金属を送
るか、貴金属を要求する。市場で為替相場がこの貴金属現送という手段を可能にするほど
になるとすぐ、国内の流通、特に銀行の準備から貴金属をくみ上げるだろう。銀行の準備
は流出・流入に応じて与えたり受け取ったり交互に行なう。
為替を修正するように努力がされているときに、それをゆがめるような逆の作用は生じ
ないか、疑問が生じるかもしれない。(p331-2)ロスチャイルドは、為替にはほんの短い期
間しか影響を与えることはできない、と断言する。つまり外国との収支のバランスのみが
為替レートを決める。金が輸出されるのは、それが、生産物を手放すことなくよりよい市
場に送ることができる商品だからである。もし急いで防衛策をとらなければ、つまり生産
物を流通に投じるようにさせて金や銀を引き出すのをやめさせなければ、銀行の金属準備
は完全になくなるまで引き出されるだろう。
1847 年に起きた興味深い事実がこの理論の実例を示している。リバプールで輸出のため
船に金が積み込まれた。そのときロンドンでの割引率引上げを知った。すぐに荷が降ろさ
れ、正貨はイングランド銀行の金庫に納められた。割引率引上げで金価格が上昇するため
輸出から得られる利益が減少する。それで人々は金を価格の減少した生産物に取り替える
ほうが良いと考えた。ある国に金を引き寄せる唯一の方法は外国人にその国で購入させる
ように価格を抑制することである。
為替を改善するためには正貨の価値を引き上げるだけで十分である。そうすれば取引が
制限され、価格は下がる。輸入はなくなり、輸出が利益になると見なされるだろう。そう
なれば為替の相殺が容易になり、為替は平価に復帰するだろう。
割引率引き上げで実現しようと望む目的は、(p332-3)ためらうことなく商品を交換に出
させるように、金の価格を商品価格と同じ比率で引き上げることである。重要なことは取
引のバランスではなく、取引の負債のバランスなのである。
生産物の価格が上がりすぎて事業を遅滞させ、価格の変わらない金属正貨の輸出をもた
らすとき、割引率の引き上げは、均衡を回復し両者の価格差をなくすための唯一の手段で
ある。割引引き上げによる銀行の信用供与制限は外国人への商業手形の販売を促す。商人
たちは、以前には外国商人に信用を供与していたが、今では制限する。同じ原因によって、
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
他の場合では輸出されないと思われる商品が発送される。つまり価格がどうであれ、仕向
け地宛に手形を振り出せるならばその商品は発送される。他方、輸入は止まる。要するに、
この制限には、最も明確で最も使いやすい形の資本、つまり金を外国に流出させずに強制
的に国内にとどめる効果がある。
無分別に信用取引は停止する。そのような取引は、支払い期限に決済できず、繰り延べ
または銀行準備を介して信用取引を現金取引に転換しようするものだった。(p333-4)銀行
がとった手段の結果、価格は下落し、恐慌が起きるのは確かだ。うわべだけしか見ない人
は混乱の原因すべてを銀行のせいだとするかもしれない。しかし銀行が行動を変えるのは、
以前は大衆が自分の信用貨幣を銀行券の装いを付けて流通させることのみを銀行に要求し
ていたのに、今やそうではなく、正貨を要求するように変化したからである。正貨の要求
は信用取引を現金取引に転換することが、それに応じることは銀行の本来の役割から完全
に外れている。
第 15 章
利子率、割引率、金の価格
(p450)これらの三つの用語は異なった意味を持っているにもかかわらず、通常、区別せ
ずに同じ考えを表現するために用いられている。利子率とは資本の貸付によってなされる
用役に対する価格である。忘れてはならないことは、資本には固定資本と流動資本がある
ことだ。
オフィス、工場、船舶、ドック、道路、港などは固定資本を構成する。
原材料、綿花、羊毛、絹、鉄、銅、同種の完成品、食料品、衣料、労働者が日々消費す
るすべてのものは流動資本(capital en circulation)となる。
その生産物がどのように使われるかによって区別される。(p450-1)その生産物が物的に
どのような状態にあろうとも、商売する者、つまり販売のために作って売る者の手中にあ
れば、それらはすべて流動資本(capital flottant)となる。利潤を求める代わりに利子のみ
を得ようとする者の手中に移れば、それは固定資本となる。
貨幣と金、貴金属は資本の本体(capitaux eux-mêmes)であり、他の生産物と交換されて、
他の資本を入手するのに役立つ。貨幣の形で保蔵された貨幣は何の役にも立たない。貨幣
は、あらゆる種類の資本を入手する手段としてのみ役立つ。
他の生産物を入手するために支出される貨幣の額は生産物の価格とともに変動する。貨
幣自体の価格が変動することは驚くことではない。
貨幣資本(capital en espèces)、それには金や銀が含まれるが、様々な価格での支払いに
あてられる。たとえば、土地や建物に固定化されたり、また、公債や産業証券、商業上の
証券に投資されたりして多かれ少なかれ永続的に用いられる。
資本化の利率はそれぞれの場合、様々な条件によって非常に異なっている。その条件は
ここで数え上げるに多すぎるが、それらを確認することは容易である。証券市場の相場や
- 139 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
不動産の販売価格、銀行で割り引かれる様々な種類の手形の割引率を見れば、それぞれの
取引は様々な利率で行なわれており、銀行によって設定された割引率とは多かれ少なかれ
離れていることが分かる。(p451-2)様々な種類の資本は当然ながらいくつも方向へ向かっ
て移動しており、利子率にかなりの差をつけてみても資本のわずかな部分だけしか移動の
方向を変えることはできない。
《資本の使用に応じて異なる資本化の利率》
公債については、支払いが確実と思われる諸国、イングランド・フランス・合衆国の資
本化の利率の違いがあることが知られている。スペインやトルコ債権の資本化の倍率をも
っと低くしても、支払いの確実性から得られるプレミアムのほうが利子率からの利得を上
回る。
不動産についても同じである。今日では取引が容易になっているものかかわらず、他の
不動産との間で価格が平準化されるように裁定取引が行われることはない。
貸付や資本の固定ではいつでも考慮すべき 2 つの点がある。それが行なう用役の価格と
償還の確実性に関するプレミアムである。この二つの条件によって諸国間の違い、さらに
同じ国の中でも諸個人間の大きな違いが生じる。
利子率の違いは、投資を求める資本の性質の違いと投資先の違いによって生じる。割引
とは、短期間、延期された支払いである。
もう一つの種類は年払いの証券である。
この二つの需要に対して、前者は流動資本によって供給され、後者は固定を求める資本
による。両者の間にはどんな関係もない。
(p453)利子率は各国の国内でも永続的に異なり、各国間ではなおさら違うが、その違い
とは別に、利子率を上下させる原因はどのようなものか。まず永続的な違いをもたらす原
因、次に一時的な違いをもたらす原因。
利子率を決めるものは何か?
確かにその答えはすでに出されている。つまり、需要と
供給という偉大な経済法則。しかしこの二つ要因はいくつもの条件によって修正される。
資本の蓄積によって
信用貨幣の程度によって
貴金属の量によって。
生産物の価格によって
いたるところで人々は資本を最も経済的に入手しようとしている。その代金として支払
われる価格は、借入によって実現できる利潤、または回避できる損失によって決まる。資
本の蓄積がかなり少なく、逆にその使用が容易で実り多い合衆国では、フランス・イング
ランド・オランダのような古い国よりも利子率が高いことは驚くことではない。利子率は
流通している貴金属や信用貨幣の量によって決まるのではない。信用貨幣の発行が最も豊
富のように見える諸国、合衆国、たとえばカリフォルニアでは他のどんな国よりも金属正
貨が普通に出回っているが、資本が安いと期待することはできない。(p453-4)初め、資本
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
が安いのではという印象を与えた豊富さは、それを上回る第二の効果の原因となる。つま
り、事業の活発さは激しく、すぐに需要が供給を越えて、利率を下げるどころか、引き上
げてしまう。
商品の価格が資本の利子率に与える影響はどの程度であろうか?
もし商品が買い手市
場、つまり需要がすくなければ、商業を企画する熱意は多くなく、その結果、資本はほと
んど需要されないだろう。もし価格が堅調ならば逆の事態が生じるだろう。少しばかりの
活況が見えれば、活動の熱中が現れるだろう。
利子率は資本が用いられる際の利益の高低によって決まることになる。その上昇は、商
業の成長や利益の増加の程度に対応する。
現実には、すべての商品と同じく、割引率は用いられていない資本の量によって支配さ
れる。資本が豊富であるだけでは十分ではなく、資本が需要されていることが必要だ。こ
のとき、現金は関係ない。信用への需要は、販売が容易になるか、価格が上昇すると期待
されるときにしか生じることはない。この条件がなければ、信用販売の事業は停滞する。
これは恐慌の清算期に見られることである。そのときには、貨幣資本は安値で供給されて
も、生産物の価格低下が事業の活況をもたらすことはない。(p454-5)すでに述べてきたこ
とだが、一国における貴金属や流通する銀行券の額はその国の生産力や富をあらわさない。
短期の商業利子率についても同じである。信用が広く行き渡った三つの大国、つまり合衆
国・イングランド・フランスのみを比較して見ると、利子率は商業手形の流通の容易さと
が逆相関だと分かる。信用の供給は事業を引き起こし、その数を増加させ、やがて需要が
優勢になる。このような過程を経ながら、三国の一般的な利子率は異なった状態が続くが、
その利率は生産された富の豊かさや大衆の繁栄の推移を正確には示していない。合衆国と
イングランドの国力すべての面での進歩と成長の進行はフランスよりもかなり速いが、3
つの大国の中で最も利子率が低いのはフランスというように。
利子率の変動はイングランドよりもフランスの方が小さい。それは投機もフランスの方
が小さいからで、また流通はフランスではほとんど金属貨幣によっており、さらに外国貿
易も少ないので数多くの混乱を免れているからである。
商業利子率、つまり割引率では永続的な上昇と一時的な上昇を区別することが必要だ。
永続的な上昇はむしろ繁栄の証拠である。
(p456)一般には、銀行の金庫の中にしまわれた貴金属の量によって、一国の正金の豊富
さを判断することが好まれる。筆者は、恐慌の後に観察される蓄積が信用貨幣の拡大と同
調することを示してきた。流通から引揚げられる金属は、アダム・スミスが考えたように
外国に流出するのではなく、銀行の金庫の中に逃避してくるのだ。銀行券は大衆の中で金
と交替するだけである。オーヴァーストンや元イングランド銀行総裁ウェゲリンはそれぞ
れ、この点に関してかなり異なる意見を唱えた。オーヴァーストンによれば、割引率と銀
行の金庫の中にしまわれた貴金属の量との間には何の関係もない。他方、ウェゲリンによ
れば、実務的に割引率は用いられていない資本の量によって支配される。そしてこの量は
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
イングランド銀行が保有する金属準備の量として示される。
こうした事実を見てみると、割引率が最も低いのは金属準備が最も多いときで、それは
恐慌の清算期にあたる。しかし、それは単なる偶然の一致ではないとしても、何の因果関
係もない。割引率が低いとすれば、それは割引き可能な証券の不足に起因することもあり
うる。その最善の証拠は、そのとき空っぽになった銀行のポートフォリオである。(p456
-7)発券銀行は割引をする際に正貨や銀行券を用いるだけではない。銀行は特に当座預金
を用いて業務を行なう。その場合、銀行の資本や準備に支えられた信用が流通するだけで、
(銀行券の)流通額とは何の関係もない。ニューヨーク州の諸銀行のバランスシートはそう
した事例を示している。ここでは、準備と銀行券流通額との関係は、存在したとしても、
一覧払いの負債全体(銀行券と預金)との比較では非常に弱い。金属準備の額に基づいて割
引率を調整しようと望むことは、準備に対する流通銀行券の額の比率を固定しようとする
ものであり、すべてが変動できなくなる。
銀行は金利に対して非常に限定された範囲でしか影響を及ぼすことはない。金利は、信
用販売の市場と現金販売の市場との格差によって決まる。ここでの信用とは商人同士が契
約し銀行がその流通を促進するものである。
商品資本は通常、現金と信用の両方で需要される。市場金利は両者のどちらかが優勢か
によって決まる。現金での購買が優勢の場合、将来に対する不安があるか、あるいは事業
を困難にして安心して投資できないような高い価格となっているとわかる。当地払いの商
業手形がまれになっており、金利は非常に高くなっている。(p457-8)反対に信用での購買
が優勢の場合、為替手形・商業手形は数多く、割引需要もいたるところで多く、金利は引
き上げられる。信用取引や取引で生じた支払い約束のうち、期限まで待たず割引を求める
ものは一部分でしかない。多くの場合、売り手は買い手が振り出した手形を期限まで保有
する。しかし売り手は現金を必要とすることがありうる。事業においては現金や銀行券、
当座預金といった流動的な資本が事業の進行の過程で充用されたりされなかったりしてい
る。最初に割引に用いられるのはこの流動的な資本である。人々がこの資本を貸し付ける
利率が(中央)銀行の金利を決める。関係が確立し信用取引の慣習があれば物事は以上のよ
うに進行する。反対に産業が未発達で信用取引もまれな国々では、(中央)銀行とその支店
が近隣の市場の水準まで割引率を引き下げる。そこでは基本的に社会的な資本が欠如して
いるので、金利を決めるのは銀行になる。銀行が市場金利を受け取るのか、与えるのか、
という非常に異なった状況を注意深く区別しなければならない。
人々は、銀行が自分の持つ資力すべてを使っても市場の利率を規定できないことを認め
たがらないようだ。(p458-9)しかし、確かなことには、ブローカーの仲介で行なわれる割
引の方がイングランド銀行によるものよりも多い。もっとはっきりした証拠としては、イ
ングランド銀行は市場金利を規定できず、イングランド銀行が市場金利から離れると取引
もイングランド銀行から離れていくことである。通常、事業は発券銀行の与える信用によ
って支配されると考えられている。しかし実際には発券銀行―とそれが行なう銀行券流通
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
―は信用取引のための証券(手形・為替手形など)を流通させるために設立されたものに過
ぎない。銀行は証券を現金に転換したり、新しい約束手形と引き換えたり、あるいは単に
当座勘定に貸方として記入するだけである。銀行が影響を与えることができるのは、商人
がポートフォリオの中に持ち続けることができず銀行に提示する手形に関してだけである。
そのため、銀行のところにやってくるのは過剰分でしかなく、それが事業全体に相関して
増減するに応じて利子率も上下する。はじめは驚くかもしれないが、しかし銀行の寄与の
程度は割引の平均期間によって十分に確認される。つまり 1850 年以降の好況または恐慌
の年では平均期間は 37-42 日で手形のユーザンス期間(90 日)の半分にも満たなかった。
かなりの部分は商人のポートフォリオの中に残り、そこから出て行く部分も、手形の振り
出しから支払期限までの期間の半分以上は商人のもとにとどまっている。
(p459-460)通常、事業に用いられる資本はすべて、公債や産業証券に固定される資本
とは別の法則に従うと説明される。
証券市場での資本化の利率は、割引率の影響を受けることがあったとしてもその変動に
従うことはほとんどない。
こうして利子が確定しているために、イングランドとフランスの 3%という利率は割引
率に従うことはない。割引率が 2.5%から 10%へと 7.5%変化しても、公債の方は 1 フラ
ン当たり 22 から 28 サンチームと約 1/4%の変化にとどまる6。
イングランドのコンソルでは 86 から 92 シリング、3.38%から 3.26%の利子の変動とな
る。
フランスの 3%公債では 66 から 71 フラン、4.50%から 4.22%の利子の変動となる。
証券市場や産業証券の資本化の利率の違いを考慮すれば、フランスとイギリスでの一般
的な利率は 4%から離れることはほとんどない、と言える。上や下へのずれは他の要因、
つまり清算期や恐慌の直前などに現れる事業の運動の困難に起因する。その場合、銀行の
バランスシートは異常な状態を示す。まず清算期には金庫に正貨が蓄積され、流通銀行券
の額に等しくなるまで増える。(p460-1)次に、恐慌の直前と恐慌の最中には正貨はすでに
徐々に流出しており、金属準備は一覧払いの銀行券の償還が危うくなるほどに減少する。
割引率が上下に動かされるのは、この全く異なる二つの状況の圧力によってである。その
二つは事業の運動と、国内と国外における相殺に密接に関連している。
割引率が 6%を上回ったならば、それは単に利子率を示しているのだけではなく、銀行
の正貨を守るために間接的な手段がとられた、と判断できる。
最近までフランスとイングランドでは利子率に対する制限があった。そのため銀行は、
割引で持ち込まれた手形の持つ保証の確かさが変動するので、それに対して自分が与える
用役の価格を適切に設定するために偽装された手段をとることを余儀なくされた。たとえ
ば手数料の名目で、利子率が自由化された場合と同じ効果を得た。フランス銀行は持ち込
6
(訳注)この 1/4%は【(28-22)/22≒0.27272…】という計算と思われる。
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
まれた手形すべてに同一の利率を適用するが、今日のイングランド銀行の場合はそうでは
ない。イングランド銀行は利率の最大限を設定し、顧客に応じて利率を下げることができ
る。支店では本店よりもいつも利率が高い。
1800 年以降、フランスとイングランドでは割引率の設定は様々な原則の影響を受けてき
た。
(p461-2)1839 年までイングランド銀行は法律によって利率を 6%より高くすることが
できなかった。1847 年に初めて 8%にまで引き上げられた。
フランスでは 1847 年まで割引率は 5%を越えなかった。
両国で割引率の設定が注目されたのは、割引の詳細についての数多くの規制や危機的な
瞬間に割引が完全に拒絶されるという事態が生じたためだった。恐慌のたびに、一覧払い
銀行券の償還が危機に陥るほどに金属準備が減少した。イギリスでは 1839 年に、
19,000,000 ポンドの銀行券が流通していたのに準備は 2,000,000 ポンドにまで減っていた。
1844 年の法律では銀行券の兌換性を常に維持するため、準備で保証されない発券は
14,000,000 ポンドまでで残りの部分は保有正貨と同じように変動させると規定された。し
かし銀行券流通額を減らすための有効な手段がないとわかり、保有準備を守ることを目的
として、割引率の引上げという手段が試みられたのはこの時期より後のことだった。イン
グランドではこの手段はより有効と見なされ用いられてきた。この手段の適用以降、実際、
恐慌が深刻であっても、準備が 1847 年以前ほどに落ち込むことはなかった。フランスで
はそれほど厳格な手段は有効ではないと言われ、フランス銀行が、現実には存在しない市
場の同調性を口実として、イングランド銀行の言いなりになっていると非難された。(p462
-3)以上の二つの意見は熱心に擁護されたが、議論は理論的な観点からのもので、現実を
十分に考慮したものではなかった。
混乱のときの銀行の状況を見逃してはならない。金属正貨が最大値に達するとすぐに減
少し始め、一覧払いの償還が不安に思われるほどにまでに減少する。そこでパニックが大
衆の中に広がれば銀行の信用は危険に陥るだろう。この事態を避け、銀行の準備を守るた
めに防衛手段を取ることを余儀なくされる。その手段は様々あるが目的は同じである。
人々は、恐慌の原因をすべて銀行券の過剰発行だとして、銀行券を銀行に戻すことで流
通額を減少させよう試みた。しかし実際には不可能だと分かって、次に期限に制約をかけ
ることで間接な手段で同じ効果を得ようとした。しかし同じく効果がないことが明らかに
なり、割引率の引き上げを最初は恐る恐るやってみた。効果があると分かり続いてこの手
段を少々乱用するようになって、わずかな変動にも割引率を上下させた。それ以前、19 世
紀の前半には金属準備の流出に直面しても何ら対策を取ることなく平然としていた。そし
て正貨がほとんどゼロにまで減ったときに取引と支払いを停止して、すでに混乱に陥って
いた市場にさらに混乱を増加させていた。
(p464)1844 年法の作成者は 1810 年の『地金報告』が記憶にあり、恐慌の唯一の原因は
銀行券の過剰発行だと信じていた。そのため、銀行券の最小発行額を 14,000,000 ポンド
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
とし、残りの銀行券は金庫の準備と正確に同じ額とすることが、果断な対策と信じた。そ
のときまで割引率の引上げについて語られることはなく、1825 年と 1839 年に少しの間、
わずか 5%と 6%に引き上げられただけだった。また 1839 年までは法律によって利子率は
制限されており、最終的に制限が廃止されたのはやっと 1854 年のことだった。
1847 年に経験的な知識に基づいて、この手段がはじめて用いられたが、準備を防衛でき
る手段として十分に考慮されたわけではなかった。この割引率の引上げの原因を割引の困
難と 1844 年法のためだとしたのはトゥックその人であった。トゥックは、準備が
10,000,000 ポンド以下に落ち込まないように非常に厳しい手段をとる必要があると認め
ながらも、4%以下に下げることがないならば、割引率の引上げは 6%で十分だと考えてい
た。ところが、1844 年の法律の下では、苦境を乗り切るための手段が少なくなり、利子率
と商業の状態の変動は少なくとも以前より激しくなっても緩和されることはない、とトゥ
ックは述べた。
《貴金属はその価格が上昇すればすぐに不可欠のものではなくなる》
しかしながら注意すべき一つの事実がある。(p464-5) 輸出のために積み込まれたばか
りの金が、イングランド銀行の割引率が引き上げられたため、船から降ろされるという事
態だ。金は不可欠のものではない。なぜなら金の価格が上がったときには金を降ろして代
わりに他の生産物を積み込んだほうが有利だからである。
明らかなことは、金が移動するのは、差額の決済や相殺の手段に不足があるため為替が
不利になる場所での取引のためだということである。取引で供給できる商品すべての中で、
他のどんな商品よりも有利に供給できるのは金である。周知の通り、生産物の販売は価格
の影響を受ける。ある国で大きな好況の最中に価格の上昇が何年も続いても、金は至ると
ころに需要と供給があり広大な市場を持っており、同じように変化することはない。しか
し割引率を引き上げて金の価格を他の価格と同程度に、またはそれ以上に引き上げればす
ぐに、費用の高くつくこの媒介手段への依存はなくなる。再び生産物が交換に供給される
ようになるが、しかし以前よりも低い価格で供給される。負債があるため早く換金しなけ
ればならない。(p466)そのため恐慌では価格が下落し、苦痛を伴うとともに、多くの場合、
大きな災害となる清算期を引き起こす。
これまで人々は非常に複雑な一連の状況について明確に示そうとし、長い論争を引き起
こしてきた。恐慌では、すぐに為替の悪化・ポートフォリオの増加・金属準備の減少をも
たらすことになる価格の上昇が注目される。その後まもなく価格の低下が続く。これらの
出来事それぞれに対して割引率引き上げの効果がどのようなものでありうるか、これまで
研究されてきただろうか?
貴金属が不利な為替の影響で流出するなら、割引率引き上げの効果はどのようなものだ
ろうか?
これは 1848 年の調査で提起された問題である。
「もし銀行券流通額が価格に影
響しないなら、そして、もし価格が流通額に作用しないなら、割引率の引き上げは価格に
影響を与えることなしに為替にどのような影響を及ぼすことがありうるのか?」この問い
- 145 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
にトゥックはこう答えた「為替に影響を与えるものは外国の利子率に比較して国内の利子
率が高くなることである。それは自国で供与される信用が減り、外国で供与される信用が
拡大することを意味している」このようにトゥックによれば利子率引き上げは信用に影響
を及ぼし、商品の輸出にはほとんど影響しない。
イングランド銀行総裁だったウェゲリンによれば逆に、利子率の引き上げは、為替に影
響を与えることがあったとしても、改善のためにはほとんど効果がない。(p467)彼にとっ
て長い期限を短くするほうが好ましい。しかしそれは投機が銀行で短期の手形を割り引い
てそれ以外のところで長期手形を割り引くという行動を妨げることにはならない。
オーヴァーストンは、高い割引率の下での正貨流出の停止を別のやり方で説明した。
「外
国に貨幣が引き寄せられると貨幣の量は減少し、国内に残った貨幣の価値が上がる。この
価値の上昇が流出を食い止め、そして流出した貨幣が戻ってきて均衡が再確立するまでそ
うした状況が続けられる」
この説明は非常に不十分である。なぜならもし正貨流出が国
内流通に残った正貨の価値をかなり引き上げるならば、1839 年に準備が 2,000,000 ポンド
まで落ち込むことはなかっただろう。
《正貨の流出はどのように作用するか》
因果関係をさほど研究しなくとも、銀行の機構を観察するだけで研究している事態を十
分に理解できる。大衆は自分の手形を割引に持ち込むが、それはまず当座勘定で貸方につ
けてもらうためである。続いて銀行券を得るためである。最後に正貨が求められる場合に
はその需要は目立ったものになる。そのときには、ポートフォリオの増加はまるでちょう
どバランスしているかのように金属準備の減少が対応していることがわかる。このとき求
められているのは信用の流通ではなく、正貨である。正貨が必要になるのは、いつもなら
他の生産物の販売で相殺される取引が相殺されなくなって、その差額を支払うためである。
(p467-8)販売されなくなったのは高価格のためで、支払いのための等価物が求められてい
るのである。価格が下落して再び生産物がいつものように売られようになるまで、貴金属
が流通全体から引揚げられる。人々が正貨に依存するのは、商品を引き渡さないため、ま
たは要求された価格で受け取ることを拒否しているからである。こうした状況では割引率
の引き上げの効果はどのようなものだろうか?
5、6%に引き上げられるだけでなく、7、
8、9%さらに 10%にも引き上げられれば、販売できないために手形の更新または新規の手
形割引を望む商人は、すべての費用を差し引いた後に自分に残された利益を検討するだろ
う。信用が動揺しても三ヵ月後にもっと良い条件で販売できる見込みがあれば、その商品
を保有し続ける。貴金属の価格が変わらなければそれを利用することもできる。しかし間
接的に貴金属の価格が引き上げられたときには、帳尻を合わせることはもう不可能になり、
販売可能な価格で商品を引き渡さなければならない。それは恐慌の清算を知らせる合図と
なり、それに伴う困難が発生する。
割引率の引上げで金の価格が他の商品の価格の高さと同じくらいまで上がってくるとす
ぐに商品が引き渡され、貴金属の流入も目立った規模になる。
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
《価格の低下はそれを終わりにし、貴金属の流出・流入の説明を可能にする》
貴金属の流出入の動きはこうして完全に説明できる。(p468-9)割引率引き上げも準備の
減少も、価格の上昇が続く限りは正貨流出を止めることできない。それらは恐慌の頂点ま
で続き、その後、多額の支払い停止となり、続いて清算が強制され、価格は減少し、すぐ
に準備が補充される。流出していた正貨は戻ってくる。その流入は急速で 2 ヶ月後には十
分な量に達し、もはやどんな不安も引き起こさず、さらに割引率を 5%にまで下げること
が可能になる。その 2 年後には準備は新たに最大値をつける。
恐慌の原因を資本の不足とする人々はこうした現象を理解できない。どのようにして資
本がすぐにすべて産業部門に十分なほど蓄積されるのかを説明することができないからで
ある。恐慌の間、資本が乏しくなるのは要求された価格で資本が買わないからである。価
格が下落すればすぐに資本は再び現れる。
ここまでくれば割引率引き上げの作用の仕方とその有用性が理解されるであろう。割引
率引き上げが商業にもたらす犠牲を間違って理解することなく、割引率引き上げが果たす
重要な役割をあらためて確認することが必要だ。なぜならそのことによって信用の体系す
べてが均衡に維持されるからである。割引率を 3 ヶ月 8%にしておくことは通常の状態(4%)
よりも 1%の負担増加になるだけである。他方、強いられて商品が売られる場合には損失
は 20%や 30%にも上る。
(p469-70)これまで長い間、割引(率)を不変にして、期限を減少させるという手段が用い
られてきた。多くの理事たちがその手段の支持者だった。しかしこの厳格な手段は商業に
資力を残さず、恐慌を防止するどころではなく、破局をもたらすだけである。全く希望を
失ってしまうようなやり方の代わりに、混乱から抜け出る別の手段を用いたほうがよい。
パニックに続いて金属正貨の流出が国内で起きようとも、為替の悪化の影響で対外的に
起きようとも、対策はいつでも同じである。割引率をすぐに引き上げることである。マク
ラウドは準備の水準に基づいて基準を打ちたてようとまでした。つまり、14,000,000 ポン
ドなら割引率は 4%にすべき。10, 000,000 ポンドなら 8%、8, 000,000 ポンドなら 10%と
いうように。
最近の恐慌では、この利率は流出を止めて流入を引き起こすに十分だった。割引率の引
き上げはむしろ金の価格の引上げと呼ばれるべきである。なぜなら求められているのは金
だからである。また、(中央)銀行以外、つまり貴金属が取引に用いられないところでは利
率の変動は大きくてもほとんど 1/4 から 1/2%に過ぎないからである。資本の唯一つの種類
だけが求められていることが分かる。それは貨幣資本(capital espèce)で、交換の差額決算
のみに役立つ。貨幣資本が主要な役割を演じるのは、正貨の価格を引き上げるだけで新た
な類の投機を終わらせることができるということである。イングランド銀行はこの有効な
手段を手に入れたが、最近少しばかり乱用している。(p470-1)ごく小さな準備の変動にも
すぐに割引率を上下させている。そのため市場に有害なショックを与えることがないわけ
ではない。重要な判断を行なう前にはバランスシートの三つの項目に注意を向けられるべ
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
きだ。金属準備と当座預金が減少しているときにポートフォリオが増加したなら、状況は
深刻である。もし不利な為替が事態を複雑にするようならば、ためらうことなくすぐに割
引率を引き上げる必要がある。これらの一連の特徴的な兆候の他にも、注意すべきことは
あるだろう。しかしポートフォリオの増加が小幅に過ぎないときに準備が減少した場合、
それは確かに注意すべきだろうが、今日イングランド銀行が行なっているような厳格すぎ
る手段をとるべきではない。
16 章
結論
(p472)これまで銀行のバランスシートを構成する諸項目を検討し、相互に影響しあうメ
カニズムを研究してきた。事実の観察が示すことは、信用貨幣、つまり実際に行なわれた
取引の結果、生じた商業手形の流通を助けることしか銀行はできない、ということだ。生
産物の輸送に鉄道が必要なように事業の取引には銀行の協力が不可欠なのは確かにその通
りだ。鉄道は生産物に取得という効果を与えるが、その物の産出には寄与しない。鉄道の
利用も、銀行が割り引いた商業手形の利用も、生産物の流通で生む便益は同じだ。
銀行が自分で作り出せる証券に対する貸付は自己資本の一部にあたるものに過ぎない。
その場合は直接貸付であって、信用の流通ではない。(p473)銀行の本当の役割は、期限付
きの支払い約束を一覧払いの別の支払い約束に変えることによって現金を作り出すことに
ある。さらに進めば銀行手形自体も取り除かれる。すべては、銀行に預けられた当座預金
を使って商業手形の直接の交換だけとなる。ロンドンとニューヨークの手形交換所はその
ように事態が進行していることをはっきりと示している。フランスではこのような制度は
なく、顧客に対してフランス銀行が現金化する一覧払いの手形が同じ結果に行き着くのは
もっと複雑な方法による。
銀行券流通額と準備との関係は非常に変わりやすく、法律的に決められるものではない
だろう。為替相場が示すことだが、銀行券が金と平価で流通しているならば、対策をとる
必要はない。先にふれたように、貴金属の価格を他の生産物と同じ関係にするには割引率
の引上げが最善の手段だ。
《諸市場の同調性が現れるのは利利率の影響か、それとも為替の影響か》
様々な市場の間に同調性が存在するかどうか、さらにそれはどのようなものか、疑問が
生じるだろう。商業活動の観点からはアメリカ・イギリス・フランスでの混乱の同時性は
否定しがたい。しかしこうした結果はどのような影響で生じるのだろうか?
いだけで資本の移動を引き起こすのに十分だろうか?
利子率の違
たしかにそうだろうが、(p473-
4)しかし金属の形での資本はすべての信用貨幣(為替手形・長短の商業手形)を使い尽くし
た後にはじめて輸出される。貴金属の分配が従う法則は、それぞれの地域にその商業活動
の発展段階に応じた正貨の額を保有させる。商業活動の発展段階は特に、信用の発展度と、
貴金属の使用を節約する銀行の決済システムの 完成度に基づく。こうして分配される貴金
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クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
属の額は金利とは全く関係がない。こうして平時には市場間でかなりの金利差が生じても
正貨の移動が起きない、という事態が観察される。
貴金属は為替相場に完全に依存し、為替自体は商業活動の状態の忠実な反映である。
発券銀行間の準備はいつでも同調している。国際関係の実際の推移はこのことを明らか
に示している。しかしこの同調性は為替相場に完全に従属している。パリとロンドンの市
場の同調性が以前にはあまりはっきりとは見えなかったのは、両市場の関係が広くなく、
二国の本位貨幣が異なっていたからである。
《中央銀行と地方銀行の準備は為替の作用で等しく影響を受ける》
大きな事業中心地の銀行で見られるような準備の流出がいくつかの銀行では見られな
いという例が挙げられることがある。(p475)確かにそうだが、しかしそれは為替取引が行
なわれない場所のことだ。
よく忘れられることだが、裁定や決済が行なわれる場合、どこの国でも容易に取引相手
が見つかるように、需要と供給が大量に存在して立地や商業関係の点で優れたいくつかの
場所に取引が集中する。こうしてヨーロッパでは市場の数はかなり少なく、そこでの為替
取引は大規模である。ロンドン・パリ・アムステルダム・ハンブルク以外では市場はかな
り限定的だ。中心地以外では取引は最も近い市場で決済され、すべてはその市場の振動に
従う。正貨が銀行の準備に蓄積され、まず引き出されるのはその市場である。1857 年ロン
ドンではスコットランドの銀行がイングランド銀行に与えた影響が見られた。混乱の頂点
だった 10 月 24 日と 11 月 21 日、銀行券流通額と準備は以下の通りだった。
1857 年
銀行券流通額£
準備£
10 月 24 日
4,200,000
1,600,000
11 月 21 日
4,300,000
2,000,000
流通に残ったのは 100,000 ポンド少なかったが、スコットランドの銀行への金での貸付
が 2,000,000 ポンドにもなったとき、(p475-6)イングランド銀行の準備は 400,000 ポン
ドしか増えなかった。全般的な不安の中で、債務を支払うには正貨が必要だった。という
のは、イングランド銀行券は当時(そして今でも)スコットランドでは法貨として認められ
ていなかったからである。地方銀行は銀行券流通額に対する準備の比率を 50%にまで引き
上げたが、国内信用貨幣は動揺しており、輸出に向かう金の他に、国内信用貨幣の代わり
に大量の正貨が必要だった。正貨への需要はすべてイングランド中央銀行に向かうので、
発券諸銀行の準備となるために国中に多くの正金が拡散することは明らかに不利である。
発券諸銀行の準備がイングランド銀行券で構成されればもっと節約されることになるだろ
う。
《ベルギー銀行。準備と外国為替保有高の変動》
ベルギーでは、為替の作用を正すためにポートフォリオに大量の外国為替を保有すると
いう巧みな運営によって、フランスやイングランドの銀行で準備が使いつくされるときに
も、準備が大切に守られてきた、と主張されている。実際にはそうではなかったと確認す
- 149 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
るには 1857 年のバランスシートをみるだけで十分だ。
1857 年
流通額
準備
ポートフォリオ
当座預金
1月
101
51
86
32
10 月
104
43
102
33
(p476-7)程度は小さいが、準備の減少とポートフォリオの増加というフランスやイング
ランドと同じ運動が現れている。この運動があまり目立たないのは、ブリュッセルが重要
な為替市場ではないからである。取引の大部分は国内のものである。その証拠に、1853
年から 1854 年に外国宛為替は 174 百万フランから 179 百万フランへと増加して一定の役
割を果たしていたが、1857 年には 22 百万フランへと落ち込んだ。1858 年の恐慌の清算
の間には 120 百万フランに上昇したが、そのとき以降、33 百万フランを越えたことがな
い(1866 年)。1864 年恐慌のときは 12 百万フランだった。こうしたやり方に希望を見出さ
すことはできないだろう。こんなに小さな額ではその程度の効果しかないからだ。
このようにいたるところで、銀行の準備は為替の影響を受けて増減する。主要市場以外
でこの運動があまり目立たないのは、地方の銀行はそうした需要をその地では管理してい
ないからである。諸事業は互いに密接に結びついているので、しばしば遠くで起きる事態
の余波を説明できない場合がある。
イングランドの調査では、地方の銀行は中央銀行ほど為替の変動に敏感でない、といつ
も非難される。大衆が利用できる正貨の貯蔵池はいくつもあり、大きなものも、もっと小
さなものもある。小さなところに人々が向かうのは為替相場が動いたときだけである。
(p477-8)あらゆる場所からの需要を受けて、中央銀行の準備が崩れされて流出していても、
その影響外にいれば自行の金属準備はわずかしか変動しない。
事態は次のようになるに違いない。手形が期限を迎えるとすぐ、決済が最も容易な市場
に向かう。正貨の輸出が必要な場合には中央銀行の準備、または船荷積みの場所から引き
出される。他の県銀行や支店はそのような要求には気づくことさえない。正貨の供給は、
県銀行や支店が応じるべき地方の必要を満たすことだけれども。
1857 年、スコットランドとイングランドで事態がどう進行したか見ることができた。ス
コットランドの銀行の金属準備がほとんど減少していないときに正貨需要がイングランド
銀行に押し寄せ、ロンドン宛の手形で決済を行なってきた主要な銀行の口座に向けて巨大
な額が発送された。
以上のことは、発券が自由な場合、為替の変動に無関心な銀行による発券の乱用の恐れ
があることを示している。為替の変動に対しては中央銀行のみが負担すべてを担っている。
これをすべての銀行で分担できれば発券の自由の問題は解決することになろう。グレー
ト・ブリテンでは手形交換所の仕組みによってほとんど解決されている。(p478-9)交換所
の数多くの水路では信用機関すべての間で恒常的にやり取りが行なわれ、非常に容易に全
国に渡って手形を流通させることができる。しかも同時に商業手形や銀行券が毎日交換さ
れてどんなときでも同じ水準を維持している。それは合衆国でも同様である。
- 150 -
クレマン・ジュグラー著/岩田佳久訳「為替と発券の自由について」
発券の自由が引き起こしうる不都合について何も恐れる必要はない。銀行券の流通は非
常に限定的である。というのは、銀行は自分の周りの範囲以外、国内や都市の他の銀行に
対しては当座勘定を使って支払いを引き受けるからである。様々な信用機関の間には確か
に競争もある。しかし競争は、諸機関の間で互いの債務の相殺によって相互にコントロー
ルを課すことで、必然的に本来あるべき修正を施す。
発券の自由は、割引率の低下よりもむしろ引上げる傾向を持つ、と非難されている。こ
の反論は非常に強力で、事実によって確認されるかのように見えることは確かだ。しかし、
ここでイングランドの議会での調査で示されたこと(筆者はフランスについてもそのこと
の証拠を持っている)すなわち、平均的な割引率は貸し付けられた資本が生み出す利益に相
関するということを思い出すならば、発券の自由の原理の明らかに务った点だとして不満
に思うにはあたらないし、そこにこの原理がもつ利点・利益の証拠を見るだろう。
二つのシステムが存在しうる余地がある。
(p480)《銀行券は、信用の進展の初期の段階と、当座勘定が普通に使用される段階では、
事業で果たす役割は同じではない》
取引が始まったばかりの国では、まずは現金で業務が行なわれる。しかし信用が生じる
とすぐ、支店を持ち発券を行なう銀行の利点が明らかになり、多数の信用機関が非常に大
きな業務を行なう。その後、商業手形の割引によって当座預金の使用が一般的になれば、
流通手段と一時的な資本という二つの役割を果たしていた銀行券は、資本としての役割が
徐々に少なくなる。大衆の手中に残るわずかな銀行券の役割は、日常的な購買において当
座預金による振替では清算できない部分のための計算貨幣として役立つ。
ポートフォリオ(割引と貸付)がこれまでにないほど絶え間なく増加するのに対して、銀
行券流通額は一定にとどまるか、または減少する。他方で当座預金は、銀行による貸付額
と同じ額まで増加する。この二つの額がバランスしたとき銀行メカニズムは最高の段階に
達する。徐々にこうした状態に至るのを可能にした銀行券はすでにほとんど存在しなくな
っている。流通に残った銀行券は、銀行では清算されない直接的な交換で生じる差額を決
済するために用いられるだけになっている。
イングランドでは合衆国と同様、(p480-1)すべての国が切望するような、最高度に発展
したこの信用システムに到達するまで、少なくとも初期の段階、さらに主要な産業中心地
から離れた地区ではその後も、発券に依存していた。この発券の目的は人為的に信用を拡
張することよりもむしろ、金属正貨よりもコストの安い手段を利用して流通の必要を満た
そうとするものだった。さらにこの発券では程々の利子率で貸し付けられたが、銀行業に
投下された資本に対して十分な利益を得ることを可能にした。多数の支店を持つが十分な
資産を持たない銀行が自己資本だけで割引を行なうのは難しい。自己資本に一定額の銀行
券を加えることで、銀行は資本の少ない場所でも低コストでの業務が可能で、また大都市
の資本を自行の利益のために用いながら人口の少なすぎる地区に支店を設けることができ
る。
- 151 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
銀行や支店それぞれが発券する額は少なく、しかも 5 ポンド以下の紙幣が多いので、銀
行券は銀行が与える信用の内、ごくわずかの部分でしかないと気づかざるを得ない。スコ
ットランドでも見られるが、通常の生活の範囲ではこれらの紙幣は交換に用いられ、金属
正貨の節約に役立っている。(p481-2)いずれにしても銀行券の流通は非常に限定されてい
るといっても過言ではない。なぜなら週 2 回、銀行間で銀行券を交換し、その差額は財務
府証券が受け渡される。
《フランス銀行は支店を利用して大きな手形交換所になり、発券した銀行の所在地外で
すべての信用貨幣が相殺されるようになりえないか?》
フランス銀行は、支店を利用すれば好都合だが、率先して大きな手形交換所をつくり、
毎日発券された信用貨幣がそこで毎日発券元に戻っていくようにできないのはなぜか。そ
れはすべての乱用を許さないだろう。支店は責任を持っておらず、その費用も負担しない
ため、巨大な事業の運動を集中させるだろう。当座勘定の使用はベルギーのように提携先
(comptoir intérésse)、または自由発券の銀行を利用して非常に小さな町にまで広がってい
くだろう。
原理的にはわずかな発券を利用するだけで商業手形の流通を促進できるだろう。その結
果、流通手段がまったく存在しなければ起こりえない交換も生じることになる。筆者は、
フランス銀行の支店間での割引手形の発展や合衆国の事業の運動を研究することでこの結
果を確認してきた。銀行が顧客の必要を越えて銀行券を流通させたならば、銀行券は手形
交換所に持ち込まれて、発行元に送り返されることになろう。各銀行の状況はこのように
してチェックされ、(p481-2)必要な場合にはフランス銀行が補足分を供給する立場にある
ので、フランス銀行は他の諸銀行に対して自行の準備を用意するように強いることができ
る。さらにフランス銀行は為替の不利のために必要が生じたら、割引率を引き上げて金に
その代価を支払わせるだろう。為替相場とフランス銀行のバランスシートは市場の本当の
状態を示し、フランス銀行の本支店の周辺以外の国全体に信用貨幣を流通させる管理と責
任は私的なイニシアティヴに任せることになるだろう。国内のあちこちからパリに集中さ
れた為替取引の影響が感じられたら、フランス銀行はその危険を知らせ、割引率の引き上
げで信用貨幣を平価に保つだろう。
(終わり)
- 152 -
照屋健作「看護師のワーク・ライフ・バランス―経済学からの視点とその課題―」
看護師のワーク・ライフ・バランス
-経済学からの視点とその課題-
照屋 健作1
<目次>
Ⅰ.緒言
Ⅱ.問題意識と研究方法
Ⅲ.本校の構成
Ⅳ.看護師の WLB の特殊性
1.WLB 研究の整理
2.看護師の WLB
Ⅴ.考察-看護師の労働分析と WLB のための課題
1.看護師労働不足問題
2.診療報酬制度の問題
3.看護師の労働供給行動
4.日本看護協会の提案するワーク・ライフ・バランス推進への課題
Ⅵ.小結
参考文献・資料
I.
緒言
2006 年度診療報酬改定をきっかけに新設された「7 対 1 入院基本料」により,更に看護
師が不足するようになった 1).また,様々な人が常に生命の危機に直面している医療現場
で,重労働・長時間勤務により離職する看護師がいる一方,医療現場に残された看護師が
更に激務に見舞われるといったことが新聞等で報道されている.こうした中,社団法人日
本看護協会(以下,看護協会とする)は 2006 年頃から潜在看護職の再就業支援策,2007
年には看護職確保定着促進事業というキャンペーンを打ち出し,2008 年からはワーク・ラ
イフ・バランス(Work-Life Balance:以下,WLB とする)という新しい看護師の働き方
を提案し始めた.この WLB は,看護師として存在する人達の労働面や生活面における様々
な権利を拡充するものであるが,本稿では WLB のための施策を病院が導入するとどのよ
うな事が起こるかを考察する.
II.
問題意識と研究方法
看護師の WLB については,事例紹介や看護師や病院の満足度等を調査する研究が近年
多く出てきている.その一方で,看護師を対象とした労働経済或いは WLB 導入による経
済的・経営的なメリットやデメリットについては,ほとんど議論されていない2.本稿では
1
2
東京大学大学院経済学研究科博士課程.
立教大学大学院ビジネスデザイン研究科特任教授は,雑誌『看護』のなかで,
「経営パフ
- 153 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
この看護師の WLB を経済学な側面からにアプローチすることによって,課題を明らかに
しようとすることが問題意識であり目的である.
III.
本稿の構成
看護師の WLB を考察するためには,WLB 自体が如何なるものかを整理する必要がある.
そもそも WLB という言葉は日本においては 21 世紀になってから多く使われるようになっ
ているが,その定義は抽象的である.そのため WLB に関する様々な議論が発生している
ので,WLB に関する定義を先行研究の中でまとめる.その上で,看護協会が提案する WLB
の具体策を概観し,看護師の WLB を定義することによって,その特殊性を明らかにする.
次に,看護師の働き方を経済学的に分析したものを整理する.そして,看護師の WLB に
どのような課題があるのかを考察していく.
IV.
看護師の WLB の特殊性
1.WLB 研究の整理
WLB の起源は,1997 年にイギリスで,労働党が政権交代のための政策転換の一つとし
て WLB キャンペーンを行ったことから始まった.
イギリスでの WLB の定義としては,
「年
齢,人種,性別にかかわらず,誰もが仕事とそれ以外の責任・欲求とをうまく調和させら
れるような生活リズムを見つけられるように働き方を調整すること」となっている 2).ま
た,WLB の行い方を研究している Gambles[2006]は「賃労働と労働以外の生活を調和さ
せること3」としている 3).
一方,日本における WLB は,内閣府が 2007 年末に「ワーク・ライフ・バランス憲章
4)」公表した.その
WLB の定義とは,
「国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら
働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高
年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる社会」とし,具体的
には,
「①就労による経済的自立が可能な社会,②健康で豊かな生活のための時間が確保で
きる社会,③多様な働き方・生き方が選択できる社会」としている.この具体策から,①
生活保護支出増加問題,②国民医療費増加問題,③尐子化問題・高齢化社会(介護問題)
に対する解決への方向性を示していることが分かる.
次に WLB の概念をまとめる.
看護師の WLB に関する先行研究では,業務の変換方法や管理の行い方 5~9)
(看護管理)
や WLB を導入した病院の事例紹介等があるが,それらのほとんどは,看護師の仕事に対
する情熱を失わせない或いは看護師の満足度を紹介しているものとなっている.また,看
護師の WLB に関する先行研究の中で,経済学的アプローチを行っているものはほとんど
ない.
一方,看護師に限らない WLB に関する研究は様々な分野から多くある.そのすべての
先行研究を整理することは本稿では行わないが,最近の研究による WLB の定義に関する
ォーマンスを高める WLB」という記事を連載で掲載しているが,まだ連載中ということ
もあり,本稿では扱わない.
3 筆者訳.原典では,
「Harmonising paid work with other parts of life」
.
- 154 -
照屋健作「看護師のワーク・ライフ・バランス―経済学からの視点とその課題―」
研究をここで紹介する.なぜなら,看護師の WLB を考察する際には,看護協会の定義す
る WLB とその他の WLB 研究との比較を行い,看護師の WLB の特殊性を導き出す必要
があるからである.
労働法からの WLB 研究では,
『男女平等政策』による労働条件の男女共通規制の改善や,
『仕事と家庭の両立支援策』でのすべての労働者を対象とした全般的労働条件の改善につ
いての研究が行われている
10).浅倉の
WLB の定義は,
「個人による選択の自由を阻害し
ないワークの実現,生命・健康の確保を不可欠の前提とし,家庭内のケア労働こそ,労働
とのバランスを保障されるべきライフの最優先に位置するもの 11)」とし,男女関係なく家
庭生活を中心とした働き方を政策的に検討している.
社会学的研究では,
「仕事と家庭(もしくは私生活)が両立し,そのどちらも犠牲にしな
いですむ社会 12)」を,WLB が達成できる社会としている.
労働経済学や人事・労務管理での研究の重点は,企業の WLB 導入の合理性という観点
から行われている 13~15).企業側の WLB 導入の究極的な目標は,
「仕事と私生活の調和と
いうコンセプトを,経営や人的資源管理の戦略に融合させることにある 16)」とする.そし
て,
「WLB 施策を経営戦略に融合させるということは,仕事と私生活の調和という考え方
が…<中略>…,組織文化の深い部分に統合される意味する 17)」とする.また,渡辺によ
れば,WLB には狭義と広義の二つ定義があることが示されている.狭義の WLB は,
「働
く女性の支援を念頭に,仕事と生活の調和や仕事と家庭の両立支援すること
18)」とする.
そして,広義の WLB は「男女性差に関係なく,しかもライフの概念に四つの生活(職業
生活・家庭生活・社会生活・自分生活のそれぞれ)を並列・充実させること
19)」とする.
渡辺は,広義を中心とした考え方の必要性を強調し,そのことを通じて企業組織の目標達
成への個人貢献を獲得するための人事マネジメントの必要性を論じている.
以上の先行研究をまとめると WLB は図表 1 のように考えられる.WLB は賃労働と生
活のコンフリクトを解消するためにバランスをとるということで考えられているが,ここ
では敢えて軸に仕事(労働)と(労働以外の)生活との二つに分けている.これによって,
より WLB での議論が明確に分けることができると考えられるからである.
WLB-1 は,
WLB が着目されはじめたころの概念で,
夫婦共働きの家庭が増加する中で,
女性が家庭を犠牲にしすぎないためのものである.企業の制度としては,コアタイムのフ
レックス制や出勤時間を規定より 1 時間遅らせたり,退社時間を 1 時間早めたりすること
で,女性の家事・育児に配慮するようなものが考えられる.WLB-2 は,女性が仕事以外
の様々な生活を中心に活動していき尚かつ,家計収入にプラスアルファで収入を得られる
ような概念である.家事・育児・介護を行うだけではなく,生活上どうしても必要となる
資金を得るために短時間労働ができることが想定できる.そして,WLB-3 は男女関係な
く,それぞれが仕事を中心に活動し,従来から問題となっていた長時間労働の是正やゆと
りの導入といった考え方である.それによって,夫婦間で起こるすれ違いや男性の家庭で
過ごす時間を増やすことで,家庭問題に配慮するような形となっている.そして,WLB-4
は仕事と生活の比重を生活に置き,男女性差関係なしに労働以外の生活を中心とした社会
がイメージできる.
このように一言で WLB といっても,対象や軸を設定することによって様々な意味合い
を持つ WLB が現れる.おそらく WLB 研究の究極的な概念は,WLB-4 のような社会をイ
- 155 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
メージしているであろう.しかし,日本政府が公表した WLB 憲章の内容と対比すると生
活中心ではなく,仕事を軸としてかつ男女区別をしないようにしているため,WLB-3 を
目標としていることが考えられる.
図表1 WLB の度合い
↓対象
その軸→
仕事(労働)
(労働以外の)生活
女性のため
WLB-1
WLB-2
男女性差なし
WLB-3
WLB-4
(出所)先行研究の整理より筆者作成.
以上,ここまで問題意識と WLB の先行研究を基に,WLB の定義を整理してきた.Ⅳの
2 では,看護師の WLB とは何かを考察する.そして,Ⅴにおいて看護師不足問題を経済
的に分析したものを整理し,今後の看護師の WLB における課題を考察していく.
2.看護師の WLB
図表 2 は,看護協会が提案する WLB の内容である.看護協会の主張は,これらすべて
を病院経営者に対して行って欲しいということではない.病院が看護師不足への解消,つ
まり看護師の確保方法は従来のような求人募集を行うだけではなく,看護師一人一人の生
活の仕方までを考慮して,人的資源管理を行って欲しいということである.その方法は図
表 2 の例のように,様々な方法があることを示しているのである.経営者の視点でこれら
を見ると,これらを行うには雇用コストの上昇は避けられず,離職コストや調整コストと
のバランスを計りながら行って行かなければならない.
ここから読み取れる看護師の WLB には,二つの意味があるように受け取れる.一つは,
就業している看護師に対してもので,長時間労働・煩雑な作業を軽減することによって看
護師の離職率を低下させようという試みを示していること.もう一つは,病院が働きやす
い環境にすることによって,就業していない看護師免許保有者を病院に復帰させようとす
る試みを示している.つまり,仕事量の多さやそれによる忙しさを看護師の総数を増加さ
せることによって解消していくという取り組みである.
この図表 2 と前章でみてきた WLB 研究の整理とを比較してすると,次のことが考えら
れる.看護師の WLB は,まず看護師を構成する人のほとんどが女性ということもあり,
当然女性を軸としている.また,生活に配慮しつつも看護職定着を目標としているもので
あり,看護師という仕事を中心とした生活を進めるものである.また,多様な勤務形態が
あるとしても,看護師の仕事の配分は時間シフト制であるので,一度働く時間帯が決定さ
れれば,それを変更することが困難になる.そのことを踏まえて前章の WLB の概念の分
け方とすれば,WLB-1 となる.看護協会の WLB 支援策には,男性にも配慮している記述
があるので WLB-3 となりそうだが,後で見ていくように,現状の看護師不足では,女性
看護師が WLB によって短時間労働ないし多様な働き方を選択すれば,その減尐した労働
時間や多様な働き方に対応するために男性看護師がそれらを補う立場になることが予想さ
- 156 -
照屋健作「看護師のワーク・ライフ・バランス―経済学からの視点とその課題―」
れる.そうなると,看護師の WLB は WLB-3 ではなく WLB-1 ということになる.
医療分野以外においては,
図表 2 WLB 支援策
制度
休業・休暇制度
雇用形態の
容易な変更
均衡待遇
多様な勤務形態
経済的支援
施設内の
環境整備
相談支援
例
時間単位の年次有給
リフレッシュ休暇・アニバーサリー休暇
法定以上の育児・介護休業,看護休暇
学校休業期間の休暇・時間休
男性のための配偶者出産特別休暇,育児休暇
パート職員から正規職員への登用
非常勤・パート職員と正規職員との均衡待遇
正規職員として
 労働時間の長さを選択できる制度
(短時間勤務,圧縮労働時間,ワークシェアリング)
 労働する時間帯を選択できる制度
(複数の勤務時間帯,フレックスタイム,時差出勤・就業)
 働く場所が選べる
(在宅勤務,勤務地限定制度)
 交代制の働き方が選択できる制度
(同一の病棟内で 2 交代制・3 交代制の選択,夜勤可能な時間に配置,
日勤専従・夜勤専従・交代制勤務)
 業務の多様性
(裁量労働制,一般的な病棟・外来等以外の働く場がある)
保育費,ベビーシッター利用料の補助
育児・介護休業中の有給化
就学・進学による学費補助
院内保育所の設置
学童のためのスペース確保
駐車場の確保
生活支援サービス(クリーニング等)
WLB 相談窓口の設置
(出所)日本看護協会編 20).
このことから,今後の看護師の WLB 研究を進めるためには,①看護師の WLB-1 を達
成するには何が課題なのか,②WLB-1 から WLB-2,3,4 の方向に向かわせる必要がある
かどうか,
③もし必要ならば,
その方法と課題を検討することが必要になってくるだろう.
以上,前章でみてきた WLB 研究の整理と併せて看護協会の提案する WLB を概観して
きた.本稿では,①看護師の WLB-1 を達成するためには何が課題なのかを考察していき,
②,③に関しては,今後の検討課題としていく.看護協会は,病院の WLB 導入によって,
人材を十分に確保でき,病院経営が順調そして上向きになり,そして,看護師の生活が充
実し労働意欲の向上といった形で成果がでてくるであろうとしている 21).
- 157 -
柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
看護協会が示すような状態になることは,看護師のみならず,病院経営者や様々な医療
従事者や患者にとって良いものとなるが,そうなるためには何が問題であるかを次の考察
で明らかにしていく.
V.
考察-看護師の労働分析と WLB のための課題
本節においては,次節での看護師の WLB 達成のための課題を明らかにするために,1
節では,看護師不足の現状とその理由をあげ,2 節,3 節では看護師労働を経済学的に研究
した角田[2007]による看護師労働問題を整理,紹介する.そして,4 節において看護協会
の提案する WLB の課題を考察していく.
1.看護師不足問題4
厚生労働省(以下,厚労省とする)が毎年発表する看護師国家試験の合格者数は,毎年
約 45,000 人(平成 13 年から平成 22 年までの平均)である.また,厚生労働省医政局『第
七次看護職員需給見通しに関する検討会第 6 回議事録(平成 22 年 7 月 16 日)
』によると,
平成 18 年から 20 年にかけて,看護職員増加数が年 31,000 人(新卒者に再就業者を足し
て,退職者を引いたもの)となっている 22).
看護協会によると就業している看護師数は,平成 10 年の約 61 万人から平成 19 年に約
88 万人と約 27 万人(准看護師は約 41.8 万人から約 41.1 万人と約 7 千人減)と増加傾向
である
23).しかし,厚労省医政局の議事録資料によると,平成
不足は約 56,300 人
23 年には看護職員の供給
24)
と試算されている5.現在,看護師数が増加しているにもかかわら
ず,看護師不足がある背景には,2006 年に新設された 7 対 1 入院基本料により,多くの
病院で看護師を雇用しようとする一方,看護師資格を保有しているが,看護師として働い
ていない人(潜在看護職員)が約 55~66 万人いるからである 26).
看護協会によると,毎年常勤看護職員の離職率が 11%後半から 12%前半程度あり,そし
て新人看護職員の離職率が毎年 9%前後ある 27).この離職率の高さが,看護師不足の要因
となっていると考えられる.また,
『2009 年看護職員実態調査結果速報』によると,看護
業務を行う中での悩み・不満を感じかつそのことで離職を考えたことがある項目上位 3 位
は,①医療事故を起こさないか不安である,②業務量が多い,③看護業務以外の雑務が多
いということが挙げられている 28).①の医療事故に関しては,看護師一人一人が技術・技
4
看護師不足を議論する際,統計上の問題に気をつけなければならない.第一に,現状の
看護師不足数を算出することは困難であること.その理由はページ数の都合上割愛するが,
看護師の労働力不足が議論される場合は,将来の需給見通しを利用している.第二に,厚
生労働省で議論される際,利用している統計は,看護師だけではなく,准看護師,助産師,
保健師などを含めた看護職員であるということ.この看護職員の総数において,需給見通
しや不足問題が議論されており,
看護職員の個別分野での議論はされていない.そのため,
看護師・准看護師だけでどれほど不足しているのかは分からない.ただし,助産師不足・
保健師不足という問題も発生している.平成 19 年での就業している看護師:准看護師:
保健師:助産師の割合は,64.43:30.01:3.52:2.04 である.
5 平成 27 年までの看護職員における短期的な需給見通しは,約 9 千人不足と試算してい
るが,長期的な見通しでは平成 37 年に約 4 万人から 12 万人の看護職員不足となると試算
している(数字は,参考文献の 25)より).
- 158 -
照屋健作「看護師のワーク・ライフ・バランス―経済学からの視点とその課題―」
量不足を認識しているということも考えられるが,②や③で挙げられているように,業務
の煩雑さも影響しているであろう.
その一方で,厚労省医政局議事録資料によると常勤看護職員が退職する理由6として,①
本人の健康問題②人間関係③家族の健康・介護問題④出産・育児⑤結婚⑥転居が挙げられ
ている 29).
悩み・不満を抱えるが離職はしていない看護師と離職した看護師とには,大きな違いが
ある.前者は,業務上での悩みであるが,後者は業務の不満からではなく,個人的な問題
が多い.ここから分かることは,多くの看護師は,常に何かしらの悩み・不満を抱えつつ
働き,そして離職する契機が個人的な問題となるのであろう.そして,看護の現場から一
度離れてしまうと,働いている時に感じていた不安などから復職しようとする気持ちにな
らないことから,潜在看護師が約 55 万人以上いるという状態を表しているのであろう.
2.診療報酬制度の問題
前節で,看護師不足の原因を考察したが,その中で多くの看護師が業務上での悩み・不
満を抱えながら働いていることが明らかになった.では,なぜ看護師は業務上で悩み・不
満を抱えるのだろうか.
角田は,現在の診療報酬制度が,看護師の業務内容を問わないものとなっていないこと
が大きな問題であると指摘する.一部の専従看護師(当該業務のみしか担当できない看護
師)を除き,入院基本料加算や入院基本料等には,担当する業務に関する規制は設けられ
ていないため,医療施設には診療報酬が入ってくる仕組みになっている.このため,極端
な例としてあげているが,医療施設が配置基準を基にして看護師を雇用しつつ,その看護
師に看護サービスとは関係のないサービスを生産させても,診療報酬をえることができる
としている.そのため,看護サービスでない周辺業務7のために診療報酬のつかない労働者
を雇用するより,人件費が高くなったとしても診療報酬点数がつく看護師を雇用してその
業務を行わせるというインセンティヴが経営者側に働くという結論を導き出している.こ
のことは,看護師本来の業務である看護サービスの生産に,その分労働力を投入できてい
ないことを意味し,さらには医療サービスの質を落とす状況(医療事故・医療過誤)を生
み出しているのではないかと危惧している 30).
周辺業務を看護師が行わなければならないことから,看護師には常に看護師が足りない
と感じることや看護師に忙しさを常に押しつけている状態となっている.そして,それが
医療事故に対する不安にもつながっていると考えられる.
3.看護師の労働供給行動
角田によると,看護師の労働供給は,女性(特に既婚女性)の労働力供給の法則を導き
出した「ダグラス=有沢の法則」で説明できるのではないかと推測している.
「ダグラス=
退職する理由のなかで,その他が 2 番目に挙げられている.その他の内容例は明記され
ていないので,ここでは省略する.
7 角田によると周辺業務とは,配膳,残食チェック,薬剤の分包,点滴注射液ミキシング,
病棟配置薬剤の在庫管理,薬剤の搬送,衛生材料の搬送,検体の搬送,ベッドメーキング,
心電図モニターの日常的な保守・点検である(出所は,病院看護基礎調査)
.
6
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
有沢の法則」とは,労働者個人ではなく,他の家族と共に構成される家計の視点から,既
婚女性の労働供給行動を説明しており,3 つの観察事実から観察される.第一に,妻の就
業率は,夫の所得が低いほど高くなる(夫の所得が高いと就業率が下がる)
.第二に,夫の
収入を一定とするならば,
妻本人に提示される賃金率が高いほど就業率も高まる.
第三に,
夫は,彼に提示された賃金率と無関係に就業する.そして,年齢階層別に分けてみると,
高校・大学卒業から 30 歳になるまでの女性の就業率は高くなり,30 代では就業率が下が
り,40 代では就業率が上がり,50 代以降になると就業率が下がるといういわゆる M 字曲
線ができあがるという 31).
角田は女性看護師が夫をもつと,就業率は下がることが検証されるものの統計上では有
意ではないという先行研究8を踏まえ,別の視点から検証をおこなっている.1989 年度ま
でに旧厚生省の『国民生活基礎調査』を使用して,看護職の免許を保有する者の内,看護
職以下外の職業につく者も含めた就業率と,看護職のみの就業率について,年齢階層別に
集計されたデータを参考にし,次のような結論を導き出している.つまり,1989 年調査結
果では,女性看護師の M 字型就労が見られる.この時期は,戦後 3 回目に起きた看護師労
働力不足が問題になった直後で,看護師の労働条件は多尐良かったはずである.しかし,
その時期にも M 字が観察されたということは,その後のそれ以上に労働条件がよくなって
いないことから,更に M 字がはっきりとした形で表れているのではないかと推測している
32).
また,看護協会の調査によると,現職の看護師が,医療の高度化・先進化に伴う長時間
労働や仕事の煩雑さに対して不満を持っているにもかかわらず,離職する三大要因9が「結
婚」
,
「出産・育児」
,
「転居」などが挙げられていることから,女性看護師が家庭に属する
ようになることが離職につながっているので,看護師にも「ダグラス=有沢の法則」が当
てはまるのであろうという結論10となっている.
8
この先行研究は,看護協会の会員調査を利用して,看護師の労働供給行動を実証してい
るが,夫の所得に関するデータがないため,夫の有無によって看護師の就業率が変動する
かどうかを分析するにとどまっている.
9 Ⅴの 1 の看護職員の離職要因上位 3 位と角田の離職要因上位 3 位は異なっているのは,
角田が利用しているデータが 1992 年の看護協会調べのデータを使用しているからである.
10 角田の考察は,という推測から入手できるデータが古かったり必要なデータがなかった
りしているため,論拠が弱くなってしまっていることは仕方がない.しかし,1989 年以前
の診療報酬改定により,いわゆる「駆け込み増床」によって看護師不足が引き起こされ,
需給関係から労働条件が多尐改善されていて,それ以降はまた労働条件が悪化していると
いう論理の建て方には,若干の違和感がある.労働条件とは賃金や福利厚生費といった付
加給付なのか,それとも労働環境のことなのかが不明である.賃金が一旦増加すると,賃
金の下方硬直性の観点からすぐに下がるということは考えにくい.福利厚生費は経営改善
のために削減されることはあるが,その当時の病院の福利厚生がどこまで充実していたか
ということも不明である.労働環境が悪化しているということは,非衛生な劣悪な状態で
働かせられているというイメージになるが,病院において衛生管理は経営合理化のために
おろそかにできない部分である.おそらく長時間勤務や仕事量の多さ・煩雑さといったこ
とを想定していると考えられる.しかし,むしろ当時から働き方の男女平等が考えられて
いた時期ではあったが,家計において夫の稼ぎ手モデルが主流であったことを考えれば,
労働条件が良いか悪いかは関係なく,当然「ダグラス=有沢の法則」も当てはまるし,女
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照屋健作「看護師のワーク・ライフ・バランス―経済学からの視点とその課題―」
労働集約的かつ労働参入規制がある業種の中で,看護師(看護サービス業)ほど,その
構成比のほとんどが女性という業種は他にはないであろう.
つまり,女性が多いからこそ,
看護師労働不足の問題が発生しやすい状態になっている.
4.日本看護協会の提案するワーク・ライフ・バランス推進への課題
本節では,ここまで考察してきた看護師の WLB の定義と看護師の労働分析を踏まえ,
Ⅳの 2 の最後で記述した看護協会が示すような状態になるのかどうかをここで考察する.
これ以降の WLB とは,正規職員として働いている看護師の多様な勤務形態或いは短時間
労働のことを想定している.
1) 看護協会が提案する WLB によって潜在看護師が復職し,看護師の総数が増加するか.
看護師の総数は増加するかもしれないが,大幅増ということにはならないであろう.な
ぜなら,
前節で角田が示したように,
「ダグラス=有沢の法則」
が看護師に当てはまるため,
既婚女性は復職するより家庭を優先的に考えるからである.また,離職した多くの看護師
は,離職した契機がなんであれ看護業務において様々な悩み・不満がでてくるということ
を知っているため,簡単には復職するという気持ちにはならないであろう.
保証所得(夫の所得)が低くかつ,短時間かつ日勤のみという選択肢があれば,復職す
る可能性が高くなる.ただし,短時間かつ日勤のみという勤務形態を選択する人が増えれ
ば増えるほど,独身女性看護師,新人看護師,男性看護師等に対して既婚女性看護師の労
働不足分をカバーさせなければならず,利用できない看護師には更に多くの仕事量をこな
していかなければならない状態となるであろう.
また,現在就労している看護師もその制度を利用しようとするため,利用しなくても良
い看護師或いは家計状況等によって利用できない看護師への負担は増加することになる.
2) 多様な勤務形態を導入することで病院経営問題はどうなるのか.
現在,大小問わず多くの病院が経営赤字である.赤字を解消するには,様々な経営努力
が必要だが,病院収入を増加させるには看護師 7 対 1 基準入院基本料を獲得することが達
成しやすい経営目標となる.その意味では,短時間労働を希望する看護師を採用し,病院
の総看護師の総労働時間を増加させることによって,7 対 1 基準をクリアするというイン
センティヴは働く.しかし,多様な勤務形態を希望する看護師が増加すればするほど準固
定費用の雇用コスト(有給・各保険・人事調整・教育等)が増加するため,病院の収支バ
ランスの状況によって多様な勤務形態を導入するかどうかの決定要因となる.
看護協会が発行している協会ニュース Vol.51433)(2010 年 4 月 15 日発行)によると,
多様な勤務形態を実施している 35 施設を調査したところ,多くの病院が,
「看護職員の中
途採用増加」
,
「定着率の向上」
,
「モチベーションの向上」において効果があり,また「医
業収益」や「職員一人当たりの医業収益」が増加したと回答している.しかし,その一方
で「人件費の増加」を経験した病院が,93.3%(30 施設)もあり,人件費比率の増加も 72.7%
(24 施設)が経験している.協会ニュースでは,多様な勤務形態と人件費の増加との因果
性の就業率における M 字型も表れていたはずではないだろうか.
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柴田ゼミナールディスカッションペーパー集『政治経済学通信』 Vol.09
関係は明らかではないし,多くの病院が「解決済み」や「問題視しない」ということから
大きな問題ではないとする.しかし,今回調査した 33 の病院が先行して多様な勤務形態
を取り入れたということは,おそらく経営的に体力がある病院であったのではないかと推
測可能である.他の多くの病院は経営赤字であることや,調査した病院の母数が極めて尐
ないということからも,他の病院にとって人件費増は大きな問題となってくるであろう.
3) 看護師の WLB によってすべての看護師の生活は充実するのか
上述したように,WLB を利用できる人とできない人によって生活が充実するかどうか
の差が現れる.どの看護師も WLB を利用できればよいが,病院経営者は誰もが利用する
と看護師管理が困難になってくるため,制度的に WLB 利用に関しての条件を設定するは
ずである.そのため,利用可能な人は,様々な配慮を受けることで仕事以外での生活も安
定・充実することができるかもしれない.その一方で利用不可能な人はその分を埋め合わ
せしなければならず,夜勤労働時間上限いっぱいに夜勤をさせられたり,残業や呼び出し
に対応したりしなければならない状況に追い込まれてしまうので,生活が充実するとは言
い難い.現に 2)で記述した協会ニュースによれば,
「一部の職員の夜勤負担増」といった
問題がでてきている.
VI.
小結
本稿を要約する.これまでの WLB 研究の整理することによって WLB の定義を考察し
た.様々な WLB 研究のなかで,働く女性への支援を念頭においた狭義の WLB と男女問
わず仕事と様々な生活のバランスを考える広義の WLB がある.本稿では,対象を女性と
男女性差なしというものに加え,
仕事中心と仕事以外の生活を中心という軸での分け方で,
4 つの WLB の定義を示した.そこから,日本の WLB 憲章が目標とする形は WLB-3 であ
り,看護協会の提案する看護師の WLB は WLB-1 であるということを整理した.そして,
看護師の働き方を経済的に分析したものを踏まえ,看護協会の提案する WLB にどのよう
な課題があるのかを考察した.
看護師不足を解消するためには,看護師の生産が必要である.しかし,看護師という職
業は,労働力のうち看護師免許を保有している者のみしか,看護師労働市場に参入するこ
とができないので,簡単には増産できないのが現状である.そのため看護師不足を解決さ
せるためには,看護師の WLB 推進することによって,看護師を辞めさせないことや潜在
看護師を復職させることが重要となる.
しかし,看護師の WLB 推進には様々な課題がある.こういった課題を解決するにはよ
り具体的な WLB の提案をする必要がある.
例えば,看護師の WLB は WLB-1 であるので,
これを WLB-2 への変更ないし拡大すること,すなわち仕事中心から仕事以外の生活中心
の働き方を考案ないし模索することである.当然,ここにも様々な問題(病院経営問題・
国民医療費増加問題・診療報酬制度問題)に阻まれる可能性がある.しかし,今,看護協
会が提案している WLB は,看護職独自の WLB というより,他業界の労働者の WLB を
そのまま当てはめているような感じである.そのためにも,本当に新しい働き方というこ
とを考えるためには WLB-2 まで広げた働き方の提案をすることも大事であろう.
本論とは内容が若干外れるが,WLB 推進と同時に男性看護師を増やすためのキャンペ
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照屋健作「看護師のワーク・ライフ・バランス―経済学からの視点とその課題―」
ーンを大々的に行い,
「看護師=女性の仕事」という見方を根本的になくす努力が必要であ
る.男性看護師が増加すれば,女性看護師も就業率が M 字型のような形になっても他の産
業の企業と同様に既婚女性支援策を行っていれば,離職率の増減による問題度が低下する
可能性があり,病院経営者が負担する離職コスト,人事調整コスト等が減尐する.当然,
男性看護師の働き方についての問題がでてくるであろうが,その時こそ看護師の WLB-3
に向けた推進活動・研究を行っていく時ではないだろうか.
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