日本二輪車産業史

日本二輪車産業史
0. はじめに
日本を代表する産業といえば自動車産業であろう。自動車は我々の生活になくてはなら
ないものであり、かつ、これらの産業において日本企業が世界を席巻している(していた)
ことは間違いないだろう。売上高 25 兆円を誇るトヨタ自動車をはじめ、多くの巨大企業を
抱える自動車産業は長く日本の経済、日本の製造業を支えてきた。日本の製造業の衰退が囁
かれるなかで、日本車の世界自動車販売シェアは 30%ほどを維持しており、日本メーカー
は依然強い競争力を持つと言われている。
しかし、一方で世界の二輪車市場において日本メーカーのシェアが 50%にも及ぶことを
知らない人は多いのではないのだろうか。国内において二輪車産業は昔から四輪車の陰に
隠れ、ニッチな産業であるとも言われてきた。しかし、日本の二輪車メーカーは世界の二輪
車産業の発展、普及において非常に重要な役割を果たしてきた。本論文では日本の二輪車産
業・企業がいかにしてその地位を得るに至ったのかを概観する。そのため、本論文では主に
1970 年代に日本メーカーが世界トップメーカーとしての地位を確立するまでに重点を置い
ている。
しかしながら、著者の実力ではその軌跡を整然と描くことができなかった。そのため、時
代ごとにトピックを取り上げ解説することで読者に二輪車産業発展のおおまかな雰囲気を
つかんでいただければと考えている。
1. 日本二輪車産業の現況
世界の二輪車市場は戦後急激な伸びを見せ、1974 年に年間販売台数 1,000 万台を突破し
た。その後、やや停滞していた 80 年代を越え、90 年代に入って再び拡大の様相を呈し 95
年には 2,000 万台に到達、2009 年現在は 5,000 万台程度に達している。特に、アジア・中
国市場での伸びは大きく 09 年の中国は 1,742 万台、
そして中国を除いたアジア地域は 2,202
万台となっている。一方、北米では 58.5 万台、欧州では 211.6 万台、そして日本では 43.4
万台である。このように、現在の二輪車産業はアジア、そして中国の旺盛な需要に依存して
いるといってよい。
日本の二輪車メーカーは本田技研工業(以下ホンダ)、ヤマハ発動機(以下ヤマハ)、スズ
キ、川崎重工業(以下カワサキ)の4社であるとする。メーカーとして市場に影響力を持っ
ている企業は実質的にこの 4 社である。これらの日本メーカーの現在の世界における地位
は表 1 においてよく示されている。表 1 から以下のことが読み取れる。
まず、競合メーカーの多い欧州ではやや落ちるものの、北米・アジア・中南米ではおよそ
50%のシェアを持っていること。そして、メーカーにとって主戦場は世界需要の 80%を占
めるアジア市場であり、国内市場は販売台数から見ると取るに足らないものであるという
ことがわかる。表にはないが生産についても同様であり、国内生産はわずかに 64 万台であ
る。つまり、世界で売れている二輪車の半数を占める 2,400 万台の「日本車」のうち 2,300
万台あまりは現地生産によるものである。これは、1970~80 年代以降、メーカーが一斉に
海外へと生産拠点を移した結果である。これに伴い、80 年前後まで盛んだった完成車輸出
も次第に減少し、現在国内では一部の上位車種を生産・輸出しているのみである。国内で販
売される車種であっても、低排気量の車種の多くは中国やタイ、インドネシアなどで生産さ
れ輸入(逆輸入)されているのである。
表 1 世界における日系メーカーのシェア
地域
全メーカー
日系メーカーのみ
日系シェア%
地域別販売割合%
世界における日系4メーカーの販売状況(2009年)(万台)
日本
欧州
北米
中南米
アジア
その他
合計
43.5
213.6
84.2
316.6
3961.6
321.2
4940.7
38.8
66.7
44
190.5
2050.3
27.2
2417.5
89.2
31.2
52.3
60.2
51.8
8.5
48.9
0.9
4.3
1.7
6.4
80.2
6.5
100
(環境庁「二輪車産業等の概況」より)
2. 二輪車産業発展の経過
①明治~大正
・輸入車による一般社会への浸透
二輪にエンジンを載せて走るオートバイを世界で初めて完成させたのはガソリンエンジ
ンの完成者としても知られるゴットリープ・ダイムラーであった。それは 1885 年のことで
あり、その後ヨーロッパではフランス、ドイツ、イギリスなどを中心に開発が続けられ、
1892 年には既にドイツなどで量産車が現れていた。
これらの製品が初めて日本に入ってきたのは 1896 年のことと言われ、四輪自動車よりも
早い段階であった。当時、自転車はすでに広く全国に普及しており、オートバイは「自動自
転車」と呼ばれた。そして、1910 年ごろになると欧米人や日本人の経営する商社による輸
入が活発になってくる。当時輸入されていたのはトライアンフ(イギリス)やインディアン
(アメリカ)
、NSU(ドイツ)などの先進メーカーの製品であった。もっとも、輸入初期の
オートバイは始動装置や変速機の付いていない非常に扱いづらいものであった上、極めて
高価であったので、ごく一部の趣味人のあいだで広まったに過ぎなかった。
こうした製品が実用性を持った輸送機器として認められるようになったのは大正時代に
入ってからであった。この時期には 1914 年にアメリカから輸入された「スミス・モーター
ホイール」が流行した。これはエンジンとガソリンタンクがついた動力車輪で、自転車に取
り付けると、二輪+動力車輪の三輪で簡単にオートバイとして乗車できるというものであ
った。大正期の数年間において盛んに利用され、
「自動自転車」の利便性を一般社会に浸透
する役割を果たしたと言われている。同時期には、始動装置や変速機付きの優秀な製品が輸
入されるようになった。当時輸入されたのはインディアン、ハーレーダビッドソンといった
アメリカ車、トライアンフ、カルソープ、BSA といったイギリス車、ABC などのフランス
車であった。しかし、当時においても一般人が簡単に購入できる価格ではなかった為、輸入
商社は官庁への納入を強く働きかけていった。1916 年にエールが逓信省の郵便・逓信用に
試験採用され、翌年にはインディアンが警視庁、ハーレーダビッドソンが陸軍に納入された。
このように官庁関係でオートバイが採用されることは社会的な有用性を実証することに繋
がり、一般への宣伝効果としても大きなものであった。
・国産への動き
先進国から輸入され、普及していくオートバイを国産化する動きは 1905 年ごろからはや
くも始まり、純国産のオートバイは 1909 年に島津楢蔵によって完成された。このオートバ
イは氏のイニシャルをとって「NS 号」と名付けられた。その後、1960 年代までオートバイ
製造を続けた宮田製作所の「アサヒ号」をはじめ、複数の企業で研究・開発が進められ、製
品化された。1924 年の「SSD 号」
、1926 年の「エーロファースト号」など優秀な製品も登
場したが、しかし、国産メーカーとして力を持つものは昭和の時期まで待たなければならな
い。
②大正~終戦
・輸入車全盛時代
大正の中期から昭和初期にかけてはオートバイの普及期といえるが、この時代にはアメ
リカ、イギリス、ドイツといったオートバイ先進国から様々なブランドが輸入された。背景
には 1000cc クラスの大排気量車の官庁への普及が進んだこと、新聞社の原稿輸送などにオ
ートバイが使われ始め、速さという点で四輪車よりも優れていると認められていったこと
などの要因がある。
こうした中で最も普及したのがアメリカのハーレーダビッドソンであった。1917 年に同
社製品が輸入された当初は、大手自動車販売代理店であった日本自動車が輸入元であった。
日本自動車は大口納入先として陸軍を開拓し、大量納入を実現したが、1924 年には三共系
列の貿易会社に輸入代理権が移った。同社の米国本社は日本市場を重視し、本社自らが日本
に乗り込む形で販売店網の形成と近代的なアフターサービス重視の販売戦略を展開し、都
市部のみならず地方にまでオートバイを浸透させるべく販売店教育にも努めた。その結果、
1928 年には米国以外でのハーレーの販売台数がオーストラリアについで日本が二位という
結果になった。ハーレーは耐久性などの点で優れた性能を誇っていたばかりでなく、巧みな
販売戦略を採用したことにより日本市場において絶対的な地位を占めることができた。ハ
ーレーは 1932 年、三共が米国本社から製造権を買い取って国産化を図り、
「国産ハーレー」
の開発・製造を経て「陸王」と名付け、陸軍に納入するようになった。
・国産オートバイ
輸入車によって市場が形成され始めた 20 年代にも国産化への努力は各地で行われてい
た。東京の安倍工業所、日本自動車大森工場、目黒製作所、名古屋の岡本自動車、大阪の中
川幸四郎商店、栗林部品店などから多くの製品(外国車の模倣車が大半)が市販された。業
界全体の生産量は 30 年代に年間 1,200 台から 1,700 台で推移し、1940 年の 3,037 台が戦
前における最大の生産量であった(軍用車含む)
。ところが、日本が戦時体制に入っていく
中で、まさに量産が始まろうとしていた民需用のオートバイ開発は 1937 年ごろにストップ
してしまうこととなる。四輪の自動車が 1918 年に公布された「軍用自動車補助法」によっ
て国策として産業育成が図られていったのに対し、オートバイに関しては産業としての保
護策が存在しなかったからである。民需用としての開発・生産は資材の割り当て等の面で困
難となっていき、
オートバイ開発は 1935 年ごろから軍需用に限られるようになっていった。
そして、1940 年にはオートバイレースが全面禁止となり、メーカーも軍需品の生産に切り
替えられ、終戦まで日本のオートバイ生産は軍用を除いては完全に停止することとなった。
・軍用としての発達
オートバイは第一次世界大戦のヨーロッパにおいて初めて軍隊で使われたと言われてい
る。主に連絡用などにサイドカー付きオートバイが盛んに利用されたという。日本において
も陸軍が軍用オートバイの開発に関心を示しており、1918 年にハーレーが納入されたほか、
日本内燃機、三共、岡本自動車などが軍用オートバイの開発に関わった。三共は 1932 年に
ハーレーの製造権を買い取り、米国から工作機械一式を購入して国産化に着手したが、「輸
入材料を一切使用しない」という軍の方針を満たした純国産車が完成したのは 1935 年のこ
とだった。その後テストを繰り返し、1937 年にはようやく「九十七式側車付自動二輪車」
として量産を開始し、前線にも投入された。
③日本二輪車産業の成立期(1945~1960 年)
・軍需産業から平和産業へ
1945 年 8 月 15 日の敗戦後、日本の経済、政治、社会は GHQ による強力な統制のもと
に置かれた。1930 年代末から戦時統制のもとにあった日本の産業界は、その方針を 180 度
転換して平和産業として歩みだすこととなった。1945 年当時、商工省自動車課にオートバ
イメーカーとして登録されていたのは陸王内燃機(三共が 1937 年に改称)
、宮田製作所、
昌和製作所、丸山製作所、目黒製作所の5社であった。生産資材の厳しい統制のもとで生産
が始まったのは 1946 年になってからのことであり、この年は陸王が 252 台、宮田が 15 台、
昌和が 3 台というありさまであった。その多くも警備用や報道機関用などに用いられた例
が多かったため、一般向けへの販売はほとんど行われていなかった。生産が年間 2000 台に
達して一般にも知られるようになったのは 1949 年になってからであった。
・スクーターの生産
軍需産業から平和産業への転換として最も特徴的だったのはスクーターの生産である。
スクーターは戦前の日本では全く生産されたことのない製品であり、従来のオートバイ企
業も注目していない分野であった。スクーターの生産に携わったのは富士産業と中日本重
工業であった。富士産業は戦時中に中島飛行機として戦闘機などの生産に携わっていた会
社(現・富士重工業)であり、中日本重工業は旧三菱重工業が財閥解体で三者に分割された
うちの一つで、こちらも軍用機を生産していた。これらの重工業企業も戦後は民需転換が企
業存続の条件とされたため、資材の残りを使って鍋ややかん、あるいは自転車やリアカーを
生産して食いつないでいるという状況であった。富士産業は米軍で使われていたスクータ
ーを 1945 年末に入手し、民需転換品目の一つとして検討し始めた。そして、車輪には戦闘
機「銀河」の尾輪を使うなど、資材難の中ではあったが 1946 年末には「ラビット」の名で
販売が開始された。中日本重工業でもやはりアメリカ製品をモデルに開発を続け、1947 年
に「シルバーピジョン」が発売された。これらの製品は庶民にとっては「高嶺の花」であり、
一部の金持ちにのみ買うことができる価格であったが、それでも販売開始からまもなく生
産台数はそれぞれ月 300~500 台に達するほどの人気であった。
・バイクモーターの普及
オートバイもスクーターも庶民には縁遠い存在であったこの時期の近距離交通手段はや
はり自転車であった。その自転車に小型エンジンを取り付けて改造したものが 1946 年頃か
ら現れはじめた。このエンジンは戦時中に無線機用発電機として製造されたものの残りで、
初めは自転車店やマニアが改造して取り付けていたが、これに浜松の本田技術研究所(現・
本田技研工業)が燃料タンクを取り付けるなどして製品化し、1946 年に発売した。1947 年
にはエンジンを自主開発した「ホンダモーターA 型」を売り出し、大好評となった。バイク
モーターは自転車に取り付けるエンジンであるという点で大正期に流行した「スミス・モー
ターホイール」と同様の製品であり、敗戦直後の日本も大正期と同様の需要があったことを
示している。1947 年にはホンダ A 型を含め 10 種類以上のエンジンが販売され「原動機付
自転車」の名称で日本中に流行した。
・オートバイ企業の勃興
1950 年に勃発した朝鮮戦争特需によって、日本は未曾有の好景気に突入した。そして、
1951 年に入ってからオートバイのメーカー数及び生産は急激に増加し、戦国時代ともいえ
る状況に入っていった。表 2 は二輪車生産台数の推移である。1951 年以降、生産台数が爆
発的に増加している様子が見て取れる。また、図 1 はメーカー数の推移である。1953 年に
はメーカー数も 80 社を超えるまでに増加した。ここにおいて戦後オートバイ産業の本格的
な始動とみることができる。
終戦直後の混乱の中で二輪車生産の主役となったのは確かにスクーターとバイクエンジン
であった。しかし、主役といっても 1950 年までの生産台数はスクーターの場合でも年間
6,000~8,000 台程度で、オートバイに比べると多いものの、産業として成り立つ規模であ
ったとは言い難い。ところが表 2 で明らかなように、1951 年にはオートバイの生産台数は
15,000 台を超えており、その後の二輪車産業発展へと直接的につながる第一歩と考えるこ
とができる。
表 2 戦後日本の二輪車生産台数(原動機付自転車除く)
年度
1946
1947
1948
1949
1950
1951
1952
1953
1954
1955
戦後の二輪車生産台数
250cc以下 250cc以上 スクーター
18
252
200
120
326
2,412
709
685
8,298
933
675
5,763
2,636
851
6,316
13,647
2,329
14,414
56,316
5,045
37,014
110,856
14,599
57,890
106,732
11,674
42,395
222,330
6,445
59,201
(日本自動車工業会編『モーターサイクルの日本史』(1995)より)
一方で、バイクエンジンを搭載した原動機付自転車も同時期に著しい伸びをみせている。
この普及に一役買ったのが 1952 年の「道路交通取締法」改正であった。それまではエンジ
ン付き自転車を運転するには「軽自動二輪車免許」が必要であったが、この時の改正で原付
の「運転免許」制が新設され、4 サイクル 90cc、2 サイクルの 60cc 以下の車については許
可申請するだけで無試験で運転ができることになった。さらに、許可年齢が 14 歳であった
ことも加わって、1953 年には過去最高の 12 万台以上が生産された。
・メーカーの淘汰
1951 年からにわかに盛り上がったオートバイ生産を担ったのは、好景気の波に乗って二
輪車産業に参入した多くの企業であった。その数は 1950 年~1955 年で 150 社にも上った。
ただし、そのほとんどは町工場程度の規模で、バイクエンジンを専門に造っているなど、量
産というには程遠いものがほとんどだった。
実際、図 1 に明らかなように 1953 年をピークとして退出する企業が続出するようになっ
た。造れば売れるという時代から、二輪車としての性能の良さ、部品の供給、修理などのア
フターサービスが求められる時代になったからだと考えられる。
図 1 二輪車企業数の推移
(宮部公明編『日本モーターサイクル史』
(1997)
、日本自動車工業会『自動車統計年報(年
表)
』各年版、および富塚清『日本のオートバイの歴史』
(2001)より作成)
特に、アフターサービスに欠けるバイクエンジンの場合は 1953 年以降、生産自体が急速
に減少していくこととなる。理由としてはエンジン付き自転車の強度の弱さが挙げられる。
当時舗装されている道路は少なく、走行中の車体へのダメージが大きかったことに加え、エ
ンジンの性能上昇により走行スピードも上昇していたことから、自転車の車体を流用して
いたエンジン付き自転車は車体の強度不足による事故が多発するようになっていた。さら
に、オートバイの普及につれて、そのシェアはオートバイおよびスクーターに奪われていっ
た。
メーカー数が頂点を迎えた 1953 年から 1960 年代にかけて日本の二輪車産業の主役とな
ったのは、バイクエンジンなどの販売で実力をつけたホンダ(本田技研)
、トーハツ(東京
発動機)
、スズキ(鈴木自動車工業)
、メイハツ(川崎明発工業=現在のカワサキ)や 1955
年に日本楽器製造から独立したヤマハ(ヤマハ発動機)であった。これらの企業はすべて戦
後から二輪車産業へ参入した企業である。そして、1951 年以降、続々と参入した多数のメ
ーカーは、これら有力メーカーの技術力・販売力の前に数年の間に転業・廃業という経緯を
たどった。
・モータースポーツの活発化
モータースポーツは二輪車企業にとって非常に重要な要素である。モータースポーツの
重要性はそこで培われる技術が市販車へもフィードバックされるということばかりでなく、
レースの結果は販売実績に大きく影響するという面にもある。特に、多数のオートバイ企業
が存在していた 1950 年代においては、レースの結果はユーザーにとってメーカーの信頼度
を計るという意味合いもあり、メーカーにとっては絶好の宣伝の場であった。
戦後初めて日本で開催されたレースは 1953 年 3 月に名古屋周辺の行動を舞台に開催さ
れたもので、正式名称は「全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード」
、通称「名古屋 TT
レース」であり、ホンダ、昌和など 17 社が参加した。同年 7 月には「第一回富士登山レー
ス」
、1955 年には「第一回浅間火山レース」が行われるなど、各地でレースが催された。こ
うしたレースで勝利を収め、製品としての優秀さを証明したのがホンダ、ヤマハ、スズキと
いったメーカーであった。
・原付「運転許可」の範囲拡大
1952 年の法改正に引き続いて 1954 年に「道路交通取締法」が、また 1955 年には「道路
運送車両法」がそれぞれ改正され無試験の「運転許可」だけで乗ることのできる原付の範囲
が 4 サイクル 90cc から 125cc に引き上げられた。この改正によって 125cc 以下の小排気量
車の販売にはずみがついた。
しかし、50cc 以下の車種はエンジン付き自転車がほとんどであったため、各メーカーは
エンジンとフレームを一体化してモペット化する技術を模索していく。
・各社による技術力向上
1951~1953 年を新規参入の時期だとすると、その後 1965 年ごろまでは業界への参入よ
り退出の目立つ時期であった。この時期はオートバイの普及に伴い、その実用面だけではな
く、レジャー・スポーツとしての側面に注目が集まった時期でもある。その中で企業を存続
していくにはユーザーの要求に応えるだけの技術力とアフターケアのための販売店網を整
える必要があった。これらの点で特筆できるのがホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキといっ
た現在にも続くメーカーであった。
とりわけ、ホンダでは 1954 年から世界のオートバイレースの最高峰ともいえるイギリス
の「マン島 TT レース」への出場を目標に掲げ、レースを見学するとともに先進的なオート
バイ工場などを視察し、優秀な部品や工作機械などを購入して独自の工夫を加え、生産ライ
ンに生かしていった。これらの努力は 1958 年にモペット型(エンジンとフレームが一体と
なった)バイクとして発売された「スーパーカブ C100」に結実した。ここにおいて実現し
た 50cc で 4.5 馬力という性能は、当時 125cc にも匹敵するものであり、文句なく世界最高
の性能であった。このスーパーカブは 5 万 5000 円で販売され、発売と同時に爆発的に売
れ、他メーカーを大きく引き離すきっかけとなった。ホンダはこの後、スーパーカブに加え
て、125cc の「ベンリィ号」
、250cc の「ドリーム号」を三本の柱として強力な販売活動を展
開し、二輪車業界のトップとしての座を不動のものとしていく。
・業界団体や行政の政策
この時期の業界団体の積極的な活動や行政の動きはとりわけ需要振興策と技術開発促進
の両面で非常に効果的であった。日本小型自動車工業会(以下、小自工)は 40 年代には物
資の確保、50 年代には外車輸入防止、輸出奨励、技術力強化に向けた活動に注力した。ま
た、先述の免許制度改正に加え、物品税の引き下げ、割賦販売制度の認可、レースの後援な
ど、行政も需要促進政策を実施した。各企業の開発競争に、こうした政策が加わって、1960
年には国内二輪販売台数がフランスを抜いて世界一となった。
④確立期(1960 年代)
・ヨーロッパのレース界における活躍
1960 年代は日本のオートバイ企業の実力が世界で認められるようになった時期である。
1950 年代末から日本メーカーは相次いでヨーロッパのレースに参戦するようになった。日
本メーカーによる海外レース初出場は 1958 年のヤマハによるアメリカで開催されたモト
クロスレース参戦であった。このレースでヤマハは 6 位入賞を果たした。そして翌年、つい
にホンダは目標として掲げてきたマン島 TT レース参戦を果たした。この大会でホンダは出
走した4台全てを完走させ、初出場にしてメーカーチーム賞を受賞するという快挙を成し
遂げた。1960 年にはスズキもマン島 TT に参戦し、ホンダとともに好成績を収めた。そし
て 1961 年にはマン島 TT の 50cc(スズキ)、125cc(ホンダ)
、250cc(スズキ)の 3 クラス
を日本勢が制覇したのである。ホンダは同年の世界 GP でも 125cc、250cc の 2 クラスにて
メーカーチャンピオンとなった。さらに、1962 年には世界 GP で 50cc(スズキ)、125cc(ホ
ンダ)
、250cc(ホンダ)の 3 クラスで日本メーカーが年間チャンピオンとなり、1963 年に
はヤマハも 250cc クラスで年間チャンピオンとなるなど、日本メーカーはほんの数年の間
に、世界のトップメーカーとして君臨することとなった。
・生産の大規模化、自動化、開発競争
ホンダは 1960 年にスーパーカブの単一機種月産 5 万台の大量生産工場として鈴鹿製作
所を建設した。これ以降、日本の二輪車生産は高度な自動化と規模重視の傾向が強まってい
く。さらにホンダは研究開発部門を分社化して本社の売上高の一定比率を毎年研究予算化
した。こうした日本メーカーの動きによって、欧米で成熟産業とみられていた二輪車産業は
再び技術革新期に入った。こうした動きは、国内メーカーの淘汰を促進した。
・海外に販売・生産拠点を設立
海外レースの勝利と連動して活発化したのが輸出の伸びであった。1950 年初頭から、日
本のオートバイはアジア、中南米、アメリカ等に輸出されていたが、商社に依存していたこ
ともあり、数量としては微々たるものであった。しかし、1960 年代に入るとホンダ・スズ
キ・ヤマハは海外市場の開拓に本腰を入れ、続々と販売会社や工場などの現地法人を設立し
始めた。レースへの参戦や生産実績においてやや出遅れていたカワサキ(川崎航空機工業)
も 1960 年に目黒製作所と業務提携(1964 年に合併)を行うなど、先行メーカーとの競争
を展開していたが、1960 年代に世界 GP に参戦、1966 年には海外法人を設立するなど、先
行 3 社と肩を並べて世界的メーカーへ仲間入りしていった。ちなみに、目黒製作所の消滅
により、戦前から続く二輪車企業はすべて倒産するか二輪車産業から撤退したことになっ
た。
・4 メーカーによる寡占の形成
海外で日本のトップメーカーが強力な販売戦略を展開していたこの時期、国内ではメー
カーの淘汰がさらに進行していた。日本経済は朝鮮特需の好景気に続く高度経済成長政策
を土台に成長を続けていたが、同時にオートバイに対する要求は高度になっていき、高い性
能と同時にデザイン性が求められるようになった。すなわち、四輪車の生産が活発化するに
伴い、オートバイは人やモノの輸送手段としての利用は少なくなり、スポーツや趣味の乗り
物としての価値が高まってきたのである。
そのような中で、1960 年には「道路交通法」の施行によって、125cc 以下の無試験での
「運転許可」制が廃止され、試験による運転免許が必要となった。さらに、50cc 以下では
免許年齢が 14 歳から 16 歳へ引き上げられるとともに、二人乗りができなくなった。この
ような逆風の結果、1958 年の 9 万台から 1959 年の 41 万台、1960 年に 111 万台へと急激
に伸びた 50cc の生産は、1961 年以降は急激に落ち込んだ。こうした 50cc の需要落ち込み
は弱小メーカーにとって大打撃であった。こうしたメーカーは 50cc が売れなくなったから
といって、簡単に大排気量車の生産に転換することはできなかったからである。
こうした事情の中で、ユーザーの需要に応えることのできなかったメーカーは次々と脱
落していった。1951 年から 1955 年までの間にオートバイ生産に携わっていたメーカーは
150 社にも上ると言われたが、
そのうち 1962 年まで生き残ったのはわずか 15 社であった。
そして 1966 年には現在の 4 メーカーの国内出荷シェアはおよそ 95%に達し、国内 4 メー
カーによる寡占体制が完成した。
・スポーツ・趣味としての車種分化、大排気量車の開発
日本の戦後モータースポーツは 1950 年代の「富士登山レース」「浅間火山レース」など
に始まるが、日本勢の海外レースでの活躍に刺激されて国内でもモータースポーツが盛ん
になり、1961 年には鈴鹿サーキットが完成、本格的なモータースポーツの時代が訪れた。
こうして、趣味としてのオートバイの普及が進むにつれて様々な種類が登場し、各メーカ
ーは競って個性豊かなオートバイを発売した。1959 年に発売された 250cc のヤマハ YDS1 やホンダドリームスーパースポーツ CB72 は高い人気を誇った。
また、各メーカーは大排気量車の開発を手がけるようになった。というのも当時、既に欧
米では高速道路網がかなり整備されており、高い速度での長距離移動が一般的におこなわ
れていたため、大排気量車で先行する欧米メーカーに対抗できる製品が求められたのであ
る。戦後、大排気量のオートバイは陸王など戦前からのメーカーが生産していたが、高価だ
ったこともあって普及しているとはいえない状態であった。そうした状況を打ち破ったの
が各社で発売された大排気量車で、1966 年のカワサキ W1、1968 年のスズキ T500、1969
年のホンダ CB750FOUR、1970 年のヤマハ XS-1 など、各社から相次いで発売された。こ
の時期以降、日本のオートバイは本格的に高速モデル化していくこととなる。
⑤日本を代表する産業へ(1970 年代)
・国内販売量の増加
70 年代はオイルショック後の不況期において、経済性に優れる二輪車が好まれたことな
どにより、国内市場での販売台数は増加した。一方で、任意保険料の引き上げ、ヘルメット
の着用義務化、大型二輪免許取得の難化(禁止に近いもの)など、二輪車をめぐる規制や制
度が徐々に強化されていった時期でもあった。
・輸出量の増大
日本メーカーは 1960 年代以降、海外のレースで活躍を続け、日本メーカーの技術の優秀
さは世界に知れ渡るようになっていた。その結果として 1970 年代の飛躍的な輸出量の増大
があった。日本メーカーの輸出台数は 1962 年に 20 万台を超えフランス・イタリアを抜い
て世界一となって以降、1968 年には 100 万台を突破し、1970 年代から 80 年代にかけて毎
年 200~400 万台の輸出量を維持することになる。国内ではこうした動きに対応するため、
生産体制の強化が各社で行われた。
・大排気量車開発の進行
この時代には、国内の様々なニーズに答えて、より細かい車種分化が起こった。1960~
70 年代にかけて、日本勢がモトクロスの世界大会においても優秀な成績を残したことから、
オフロード車に対する関心も高まっていった。50cc の分野ではファッション化が進行し、
女性ユーザーを意識したようなデザインが重視されるようになった。各社から 1975 年の
「スズキミニ 50」
、1976 年の「ホンダロードパル」
、1977 年の「ヤマハパッソル」などが
相次いで発売された。
一方、先述のとおり、舗装路をより高速で走行できる大排気量車の開発が一層進められた。
1969 年には名神・東名高速道路が開通し、国内においても高速交通時代にふさわしいモデ
ルが求められていたのである。国産大排気量車として象徴的なモデルが 1969 年にホンダか
ら発売された「ドリーム CB750Four」であった。このオートバイは二輪量産車初の並列 4
気筒エンジンを搭載し、
さらに二輪量産車として初めて公称最高速度 200km/h を達成した。
発売直後から CB750Four は世界の最人気車種となり、日本二輪車企業の技術力の高さを改
めて世界に知らしめることとなった。さらに、1972 年にはカワサキから Z1(900 Super
Four)が発売され、欧米で高い人気を博すなど、日本メーカーは中小排気量車で得ていた
高い評価を大排気量車の分野でも得ることに成功した。
⑥成熟期(1980~90 年代)
・50cc「ファミリーバイク」の普及
1980 年代には 50cc スクーターの爆発的なブームがおこった。先述のとおり 1970 年代の
車種分化の結果、スクーターはギア操作なしで簡単に乗れる上、車体もカラフルなものなど、
女性がファッション感覚で乗ることのできるものも多く発売された。50cc 以下の二輪車の
工場出荷台数で見ると 1975 年までは年間 60~80 万台で推移していたが、1976 年以降 81
年まで大幅な増加を示し、81 年には 287 万台とピークを示した。ただし、この急速な普及
はメーカー間の競争激化の産物でもあった。90 年代には 100 万台の水準にまで落ち込み、
その後も徐々に減少、
「若者のバイク離れ」の進むと言われる現在では 25 万台前後にまで
落ち込んでいる。80 年代は国内生産量、輸出量ともにピークを迎えた時期であった。
・HY 戦争
ホンダはすでにこの時期、世界のトップメーカーとしての地位を確固たるものとしてい
た。また、この時期のホンダは四輪へ集中的に経営資源を投下していた時期であった。こう
した状況を見て、ヤマハの小池社長はホンダに対し「盟主の座を奪う」と宣言し、 80 年に
は年間出荷台数 95 万台という計画を打ち上げた。実際にヤマハは 81 年にはホンダに肉薄
するなど追い上げを見せた。しかし、82 年にはホンダがおよそ 10 ヶ月で 45 車種を投入す
るなど反撃に出て、競争は泥沼化した。特に営業の現場では熾烈なダンピング合戦が繰り広
げられ、両社ともに疲弊した。結局、経営危機に陥ったヤマハは 83 年の 1 月末に敗北を宣
言、翌月には両社社長が会談を行った。両者の値引き合戦によって膨張した市場は以降、現
在に至るまで縮小の一途をたどることとなった。
・モーターサイクルスポーツブーム
オートバイによるレースは 1950 年代から継続的に行われてきたが、1980 年代にその人
気はピークを迎えた。オートバイレースの観客動員数も 1980 年代中頃から 90 年代中頃ま
では毎年 100 万人を超えていた。モーターサイクルスポーツを中心的に運営する MFJ(日
本モーターサイクルスポーツ協会)の会員数も 1980 年代入って急激に伸びている。ロード
レースの流行に伴い、レーサーレプリカと呼ばれる、メーカーがレース活動で得た技術を投
入し、ロードレーサーを模したカウリングを搭載したオートバイが流行した。ロードレース
を題材とした漫画などの流行もあり、いわゆる「走り屋」が出現するなど社会現象にもなっ
た。
・海外生産の増加
日本のオートバイは 1970 年代になって急激に輸出量が増加し、オートバイは日本の花形
輸出品目となった。その一方で、70~80 年代にかけて日本メーカーは積極的に海外生産を
推し進めた。この動きは、85 年の円高以降一貫して進行していった。特に、発展途上国で
は自国産業保護の観点から完成車輸入の制限や高関税率を課している場合も多く、こうし
た国への輸出はメーカーにとって不利だったため、当該国での生産拠点づくりを進めてい
った。
海外での最初の現地生産は日本からほとんどの部品を輸出し、現地で組み立てる「ノック
ダウン方式」で行われていたが、徐々に現地での部品調達率を高め、最終的には現地で素材・
部品の全てを調達することを目指すようになった。現地での雇用促進や産業育成にもつな
がることから、途上国ではこうした方式のほうが歓迎されるのである。
海外生産が増加した結果、完成車の輸出はその後減少し、生産部品の輸出が増加する結果
となった。輸出先としては、当時二輪車市場が活性化していた中国、インド、タイ、台湾な
どであった。
⑦衰退期?(2000 年代・現在)
・ブームの沈静化と国内市場の収縮
80~90 年代にかけての国内でのブームが沈静化すると、国内オートバイ市場は長期的な
需要低下の傾向が現れ、現在においても市場縮小はより深刻なものとなっている。オートバ
イの国内出荷台数は全盛期(1982 年の 328 万台)の 8 分の1にまで落ち込み、09 年は 42
万台である。この出荷台数激減の最も大きいウェートを占めているのは原付(50cc 以下)
の減少であり、51cc 以上の趣味性の高いオートバイは減少傾向にあるものの、およそ 30 年
で半減といったところである。
縮小する市場に対応して、生産設備の縮小だけでなく、本社機構にも大きな改革が行われ
るようになった。ヤマハが本社部門の改革やシステムサプライヤー制度(研究開発部門の権
限分散)へ移行し、ホンダは国内の二輪営業部門を本社から切り離し、国内での流通合理化
に取り組み始めた。
・海外市場
90 年代から国内市場の収縮が起こっていたが、対照的にアジア市場は急成長を遂げてお
り、日本の二輪車業界もその視点を海外に移していった。海外生産拠点の成長に伴い、90 年
代からホンダ・ヤマハなどでは海外からの一部製品の逆輸入が開始された。00 年代には海
外に生産設備だけではなく、研究開発部門を新設する動きも見られている。
・国内における規制の強化
様々な規制が国内の「バイク離れ」を加速させているという声もある。規制の主なものと
して、駐車取締の強化と相次ぐ排出ガス規制、騒音規制が挙げられる。2006 年 6 月に「改
正道路交通法」が施行されると、取締りの民間委託(「駐車監視員制度」の導入)が始まっ
た。その結果、特に都市部において路上に駐車せざるを得ない二輪車の駐車違反件数が激増
するという状況が生まれている。駐車監視員制度導入以前の 2005 年に比べ、2007 年の二
輪車駐車違反取締件数はおよそ5倍となっている。二輪車を受け入れている駐車場が圧倒
的に不足している中で取締りの強化のみが先行して行われてしまった結果である。また、多
くのユーザーが「路上駐車が(事実上)許されてきた」点を二輪車の利点として考えている
という側面もあり、このまま駐車場の整備が遅れると手軽なコミューターとしての二輪車
の魅力が損なわれてしまうのではないだろうか。
また、排出ガス規制は常に二輪車メーカーにとって大きな痛手であった。
「平成 10・11 年
排出ガス規制」では二輪車が初めて規制の対象となり、80~90 年代に隆盛を誇った 2 サイ
クル車がほぼすべて姿を消すこととなった。そして 07 年~09 年にかけての排出ガス規制
では世界一厳しいと言われる規制が敷かれ、多くの人気車種が販売終了に追い込まれた。こ
れらのケースでは、技術的に達成が困難というよりは触媒などの装着によるコスト上昇に
伴って採算が取れなくなり、販売終了に至ったものが多い。
騒音規制に関しても同様で、日本の規制は世界一厳しい水準であると言われている。
・メーカーの努力
ユーザーの高齢化が激しい。2003 年に 39.9 歳だったユーザーの平均年齢は 2011 年には
なんと 48.5 歳に上がっている。原因としてはまず、趣味の多様化、若者の貧困といった要
因により若年層のユーザーが減少していることが挙げられる。エコ志向、健康志向を追い風
とした自転車の人気も要因の一つにであろう。一方で、経済的に余裕のある中高年のあいだ
では「リターンライダー」と呼ばれる、若い頃オートバイに親しんだ人たちの回帰現象も起
こっている。一度オートバイを降りた人たちが第 2 の人生の趣味として再びオートバイに
乗り始めるケースで、主に大排気量車の需要を下支えしていると見られる。しかし、彼らが
再びオートバイを降りたあとの市場を支えるのはやはり若い世代でなくてはならない。メ
ーカーは若年層を中心とした新規ユーザーの取り込みを狙って、車検がなく扱いやすい
250cc のラインナップ拡張や、交通安全教室の開催などに取り組んでいる。特にホンダは
2014 年前半だけで 20 モデルを投入するなど、国内需要の喚起に積極的である。そして実
際に、ここ 2~3 年は 250cc 以上の二輪車において販売台数が徐々にではあるが回復してい
る。
3. ホンダ二輪車事業の歴史
第 2 章では日本の二輪車産業の形成・発展の歴史を概観した。第 3 章では戦後の黎明期
から 70 年代に二輪車産業が日本を代表する産業に発展するまでの時期においてホンダがど
のような行動をとっていたのかについて述べ、二輪車産業史への理解を深めることを目的
とする。本章においても体系的というよりはスポット的な叙述になってしまうことをお断
りする。
①ホンダによる市場の牽引
前章で国内二輪車市場において 60 年代中頃には 4 社による寡占が形成されたと述べた。
また、その過程は国内市場が急激に拡大する過程でもあった。図 2 はメーカー別国内生産
台数の推移、図 3 は主要 4 社の国内市場占有率の推移である。これらの図から、4 社による
寡占の形成といっても実質的にはホンダの一強であったことがわかるだろう。また、ホンダ
が巨大な国内市場を作り上げたのだということができる。
図 2 メーカー別国内生産台数の推移
3000000
2500000
ホンダ
2000000
ヤマハ
1500000
スズキ
カワサキ
1000000
その他
500000
合計
1969年
1967年
1965年
1963年
1961年
1959年
1957年
1955年
1953年
1951年
1949年
1947年
1945年
0
(日本自動車工業会『自動車統計年表』1958 年版、本田技研『世界二輪車概況』各年度版
より著者作成)
図 3 主要 4 社の国内生産台数における割合の推移
100%
90%
80%
70%
ホンダ
60%
ヤマハ
50%
40%
30%
20%
10%
0%
(同上)
スズキ
カワサキ
その他
4社
②ホンダの創業
本田宗一郎は 1906 年、磐田郡光明村(現在の浜松市)にて、鍛冶屋の長男として生まれ
た。尋常高等小学校を卒業後、東京本郷の自動車修理会社に修行に入り、ここで6年間修行
した後、22 歳の時に暖簾分けを許されて浜松に店を開いた。優れた技量と客扱いの上手さ
から、その後わずか 2 年ほどで従業員 50 名規模の会社にまで発展した。本田は 28 歳の時
にピストンリング製造の会社をおこし、戦時統制のもとで中島飛行機やトヨタ自動車など
に納入していた。しかし、戦争が終わると本田は持ち株をすべて売り払い、事業から手を引
いた。
終戦後は織機開発や製塩などの事業に手を出していたが、1946 年秋、本田宗一郎は陸軍の
放出した無線用小型エンジンを改良し、自転車に取り付けた。この製品は 400 台ほど製造され
たが、これこそが本田宗一郎が初めて手がけた二輪車であり、同時に浜松の二輪車産業の始まり
でもあった。陸軍放出エンジンが尽きると、初の自社製品「A 型エンジン」の開発に取り組み、
48 年には本田技研工業株式会社(以下ホンダ)を設立した。原動機付自転車に満足していなか
った本田は 49 年、外国製オートバイを参考にして初の本格的オートバイ「ドリーム号」を完成
させた。もっともこれは当初売れ行き不振でホンダは資金繰りが悪化した。しかし 52 年には「カ
ブ F 型」を販売し爆発的な売れ行きを見せ、ホンダは一気に業界のトップに躍り出ることとな
った。カブ F 型の販売においてホンダは全国の自動車販売店 5 万 5000 軒にダイレクトメール
を送付し、注文を受付けるという方法で販売網を拡大し、これが大成功であった。この戦略を立
てたのは 49 年に入社した藤沢武夫であった。その後、ホンダは大規模な設備投資を繰り返し、
綱渡り的な資金繰りの中で成長を続けた。
③藤沢武夫
本田宗一郎がいなければ現在のホンダは存在しないのと同様に、藤沢武夫がいなければ、ホン
ダの急激な発展は望めなかったと言われている。天才肌の技術屋で経営手腕の欠けていた本田
の参謀役として、本田から実印と経営の全権を任せられ、本田との二人三脚で会社を世界的企業
に成長させたのが藤沢であった。本田は技術に徹し、藤沢は経営・販売に徹することで、お互い
の職分を守り、経験と直感でものを考える本田と、理詰めで長いスパンでものを考える藤沢の相
互信頼がホンダを大きく発展させた。マン島 TT レースへの挑戦を助言し、宣言文を書いたのも
藤沢である。50 年代当時ホンダと競い合っていた丸正自動車やトーハツとの競争を勝ち抜くこ
とができたのも藤沢の巧みな経営手腕によるところが大きかった。
④スーパーカブ C100
57 年に各社は一斉にモペット(エンジンと車体を一体化した 50cc 以下の原付)を市場投入し
た。欧州市場では当時 51cc 以上に代わり、50cc のモペットが伸びていた。一方日本では 50cc 以
下の生産量は停滞し、むしろ 125cc や 250cc の生産が伸びていた。国内メーカー各社はバイク
エンジンとは異なる製品によって底辺需要を喚起するべくモペットの開発を進めたのである。
そこで 58 年にホンダが投入したのが「スーパーカブ C100」であった。スーパーカブはエンジ
ン型式、最高出力、女性にも乗りやすいスタイル、タイヤサイズにおいて競合他社の製品とは全
く異なるものであり、世界的に大ヒットした。特筆すべきはそのエンジン性能で、当時の 50cc
の市販車は 2 馬力前後だったのに対し、スーパーカブは 4.5 馬力を誇り、しかも丈夫、低価格と
いう製品であった。60 年にはスーパーカブだけのために「単品種大量生産」のための鈴鹿製作
所を建設した。
ちなみにスーパーカブは、改良を加えられながら現在でも販売されており、2014 年時点で
8,000 万台以上という、基本設計の変わらない輸送機器の 1 シリーズとしては世界最多生産・販
売台数を誇っている。
⑤レースにおける活躍
50 年代中頃~60 年代前半はホンダが社運を賭けて二輪レースに取り組んだ時期であった。54
年、ホンダは世界最高峰の二輪レース「マン島 TT レース」への出場を宣言した。当時は国内で
もレースが開催され始めたばかりであったが、その宣言文には「世界一でないと日本一になれな
い」と常々語っていた本田の世界一へ対する熱い想いが込められていた。そして 5 年後、宣言通
りホンダはマン島 TT に出場し、6 位に入賞、さらにメーカーチーム賞を獲得するという快挙を
成し遂げた。そして 61 年にはついに世界 GP 初優勝に加え、マン島 TT レースで初優勝し、有
言実行を果たした。ホンダはレースへ挑戦するなかで、レース用エンジンの技術史において重要
な功績を残しており、この時期は技術者としての本田宗一郎が最も光り輝いた時期であったと
いえる。
⑥アメリカ市場拡大と大型二輪車
50 年代中頃からホンダは本格的な輸出に向けた調査を開始していた。主戦場はアメリカに定
められた。当時のアメリカは二輪車普及台数が 1000 人あたり 2.7 台(57 年)と著しく低く、輸
入が急速に伸長していたからである。アメリカ市場はハーレーやイギリスのトライアンフ、BSA
といった大型二輪と、56 年から急速に輸入が伸びたドイツやイタリアからの小型二輪を中心と
した二層からなっていた。そして当時のホンダは小型車の輸出を計画していた。
まず輸出されたのは国内の技術開発競争が激しくなる中で開発されたホンダが手がけた初の
2 気筒車である 250cc4サイクル 2 気筒エンジンを積んだ「C70」であった。その後アメリカ向
けに改良された「C72」は堅実な作りや「神社仏閣スタイル」と呼ばれた独特のデザインで好評
であった。その後、スポーツ向けニーズの高まりに応え、60 年に「CB72」、68 年に「CB250」
が相次いで発売、輸出された。この頃にはすでにアメリカの 250cc 以下のクラスではホンダをは
じめとする日本車が席巻していた。すなわち日本車が小・中排気量、欧州車が大排気量という住
み分けがアメリカ市場では成立していた。もっとも、アメリカにおいても市場規模は非常に小さ
く年間 6 万台程度であった。
当初大排気量車を手掛ける計画はなかったものの、利益率の高い大型二輪車市販化に対する
要求がアメリカから寄せられるようになった。そこで、65 年に投入されたのが CB450 であっ
た。これがホンダの大排気量エンジンの始まりである。しかし、総合的にはトライアンフなどの
伝統的なイギリス車に勝つことはできなかった。当時の日本メーカーでは「高回転・高出力」こ
そが良いバイクの条件であるという考え方が支配的であり、CB450 の DOHC2 気筒のエンジン
はハイメカニズムの結晶でもあったが、欧州ではともかくアメリカではそうしたスーパースポ
ーツ的な性能は求められていなかった。一方その頃、スズキは T500、カワサキは 650W1 と、
他社も大排気量の開発を進めていた。
60 年代後半のアメリカ大型市場ではイギリスのトライアンフ、BSA、ノートン、ドイツの
BMW、カワサキの W1、そしてホンダの CB450 がしのぎを削っていた。そうして中で 69 年、
ホンダはついに世界初のビッグマルチエンジンを搭載した「ドリーム C750Four」を投入した。
開発の狙いは長距離高速走行をより快適に、より安全にこなすということ であり、100~
160km/h における余裕と、耐久信頼性に重点が置かれた。当時において 4 気筒 750cc が選択さ
れた理由はトライアンフの新モデルが 3 気筒 750cc であるという情報が入り、それに対抗する
ためであった。CB750Four の主要な特徴は市販車初の並列 4 気筒エンジン、4 キャブレター、
67 馬力の超高出力、最高速度 200km/h、高剛性フレーム、ディスクブレーキというハイメカニ
ズムであった。それでありながら価格設定も当時のアメリカ市場においては安めの水準で、欧州
車の開拓したアメリカ市場から覇権を奪うのに十分な競争力を持っていた。CB750Four の登場
は日本の二輪車産業が技術、販売において世界を征した証でもあった。
CB750Four の登場以降、各社の大型二輪車は 3~4 気筒のマルチシリンダーが主流となって
いった。また、日本メーカーも次々とアメリカの大型市場へ参入していった。72 年にカワサキ
が投入した Z1(900 Super Four)は CB750Four の OHC エンジンに対し、DOHC エンジンを
採用し、大ヒットした。CB750Four 以降、日本車は急速に北米市場に浸透、60 年代に日本車が
目標としてきたトライアンフ、BSA、ノートンなどのイギリス車は市場からほぼ消えてしまうこ
ととなった。
イギリス車は 59 年にはアメリカ市場の半分のシェアを占めていたが、66 年には日本メーカ
ー3 社(ホンダ・ヤマハ・スズキ)で市場の 85%のシェアに達し、60 年代末の日本メーカーの
大型二輪車投入によってイギリス二輪車産業の衰退は決定的なものとなった。その理由は明ら
かで、イギリスメーカーは技術開発に余念のなかった日本メーカーに対し、十分な開発投資をせ
ず、製品技術で立ち遅れていたのである。また、生産技術においても製品の均質化、フォードシ
ステム的なコストダウンを図った日本に対抗することはできなかった。
4. おわりに
現在、二輪車産業史において主要な論点は「浜松や熊本における産業集積」や「アジアの二輪
車産業の形成」
、
「完成車企業とサプライヤーとの部品取引関係」など様々であり、研究が進めら
れている。一方、本論文ではこれといった分析や研究などをおこなっておらず、ほぼすべてが既
存の研究からの引用であり、学術的な価値は皆無であると思われる。しかし、この論文を通して
日本を代表する産業である二輪車産業の歴史と現状への理解を少しでも深めていただければ幸
いである。
最後に。先日ネット上で「最も偉大なオートバイ 3 つは?」という話題を見かけた。
「日本で」
「市販車で」という条件のもとで私がこの問いに答えるとするならば、本論文でもとりあげた
「スーパーカブ」
「CB750Four」は外せない。これらはホンダが、ひいては日本メーカーが世界
へ進出するきっかけとなった象徴的な 2 台である。それではもう一台は何だろうか。GSX1300R
ハヤブサ、RG250Γ、GSX1100S カタナ、CB400Four、Z1、GPZ900R ニンジャ、Zephyr、SR400
等々、候補はたくさんあるもののなかなか選べない。もとより答えのない問いではあるが、あな
たの考える 3 台はどれだろうか。是非ともあなたの考えを教えていただきたい。
参考文献
日本自動車工業会『モーターサイクルの日本史』
(1995)
宮部公明編『日本モーターサイクル史』(1997)
富塚清『日本のオートバイの歴史』
(2001)
出水力『オートバイ・乗用車産業経営史』
(2002)
出水力『二輪車産業グローバル化の軌跡』
(2011)
佐藤百合・大原盛樹編『アジアの二輪車産業』(2006)
日本自動車工業会『自動車統計年表』各年版
本田技研工業『世界二輪車概況』各年度版
片山三男「日本二輪車産業の現況と歴史的概況」
(2003)
水川侑「二輪自動車産業における寡占体制」
(1)~(8)(2006~2012)
環境庁「二輪車産業等の概況」
http://www.env.go.jp/council/former2013/08noise/y081-10/ref01.pdf(2014 年 10 月取得)