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定
期
総
会
で
会 費 値 上 を 提 案
(年会費 三千円)
講師
植田 心壮 氏
講師
設立五周年を迎えた岡山歴史研究
本博文氏です︒同氏は県立津山高等
入 っ た か?﹂( 仮 題 ) の 講 師 は︑ 山
設 立五周 年 記 念 定 期 総 会 記 念 講 演
二宮 金次 郎
忠 臣 蔵
会の平成二八年度定期総会を下記案
学校の卒業生で東京大学史料編纂所
同氏は教職をへて︑元岡山市立オリ
定が赤穂城収城使︑③浅野内匠頭終
名が赤穂義士︑②足守藩主・木下公
歴研
展望
平成 27 年度の事業、決算報告。
何のために討ち入ったのか」(仮題)
新年度の事業計画、予算、役員改選
講師 山本博文氏(東京大学教授)
備前平野に春を呼ぶと
言われている西大寺会陽
は今回第五〇七会として
開 催 さ れ ま し た が︑ 今 回
は国の重要無形民俗文化財に指定決定
となって最初の会でありました︒
五百年以上前に始まった裸祭も日
本三大奇祭と言われる伝統行事になっ
ております︒ちなみに三大奇祭と言わ
れているのは︑﹁島田大祭帯祭﹂﹁西大
寺 会 陽 ﹂﹁ 岩 手 黒 石 寺 蘇 民 祭 ﹂ が あ げ
られております︒
岡山歴研も設立五周年という節目
として︑記念総会を迎えようとしてお
ります︒ご審議いただく議案には初め
ての会費値上げもあり︑会員の皆様に
ご理解いだだけなければならないもの
であります︒
記 念 講 演 で は︑ 津 山 出 身 の 東 京 大
学山本博文先生をお迎えして武士の世
界をお話いただくとともに︑地元から
植田心壮先生にお話いただくことを予
定しております︒
岡 山 歴 研 の 次 の 五 年 後︑ 一 〇 年 後
に向けて︑運営体制を整備しなければ
ならない時であります︒皆様のご協力
をよろしくお願いいたします︒
(会長 天野勝昭)
-1-
山本 博文 氏
内の通り開催致します︒
について造詣が深く︑
NHK番組
﹁先
の 教 授︒ 近 世 が 専 門 で︑
﹃忠臣蔵﹄
記 念 講 演 と し て︑﹁ 現 地 探 訪 二
宮 金 次 郎 は 生 き て い る ﹂﹁ 忠 臣 蔵 の
真 実 ︱ 何 の た め に 討 ち 入 っ た か?﹂ 人たちの底力 智恵泉(ちえいず)
﹂
で年末の風物詩﹃忠臣蔵﹄には必ず
(仮 題 ) の 二 題 を 予 定 し て い ま す ︒
エント美術館長︒岡山歴研設立当初
焉地・一関藩上屋敷は岡山藩中屋敷
﹁ 現 地 探 訪 二 宮 金 次 郎 は 生 き て 登場され︑おなじみです︒
い る ﹂ の 講 師 は︑ 植 田 心 壮 氏 で す︒ ①岡山出身四名と岡山藩士縁者二
か ら の 会 員 で す︒ 同 氏 は 昨 年︑﹃ 現
参加費 500 円
会則附則の改正(会費の変更)
2016 年 3 月15 日
話があるのでは︑と期待されます︒
記念講演 15 時 10 分~
「忠臣蔵の真実―彼らは
総会 12 時 45 分~
号
1 5
第
地 探 訪 二 宮 金 次 郎 は 生 き て い る ﹄ のすぐ近く︑などの事実があります︒
を著書を出版されました︒
赤穂・岡山両藩の﹁縁﹂についても
﹁忠臣蔵の真実︱何のために討ち
講師 植田心壮氏(当会会員)
場所 山陽新聞さん太ホール
「現地探訪 二宮金次郎は生きている」
日時 4 月 29 日(祝日)受付 12 時 15 分
記念講演 13 時 30 分~
平 成 28 年度 定 期 総 会 の ご 案 内
第 15 号
「歴研おかやま」
2016 年 ( 平成 28 年 ) 3 月 15 日発行
江戸後期の和製 ダ・ヴィンチ
小野 光右衛門
決意を固めた。そのことで光右衛門が大坂
まで行った時、黒崎村はこれを察知し、和
議を求めてきた。これによりこの事件は解
決した。この事件を解決したことで、光右
衛門の名は内外に知られることとなった。
小野家破産
村 民 に 慕 わ れ て い た こ と は、 文 政 二 年、
光右衛門三十五歳の時、小野家破産という
事態の中でも窺われる。光右衛門が庄屋を
金光図書館長 金光英子(会員)
)備中 の依頼で出仕している。さらに幕府の天文
一七八五
引き継いだ当時の村の年間経費は、銀七貫
あ っ た。 文 化 五 年 に は 氏 神 社 の 新 規 建 立、
匁 余 と い う 中 で、 借 金 は 四 貫 五 ○ ○ 匁 も
) の 庄 屋、 小 野 本 兵 衛 方と手紙でやり取りするなど、天文の知識
小野光右衛門は、天明五年(
国 大 谷 村(
蒔 田 領 飛 び 地:
現浅口市金光町
の後継として生まれた。十二歳の時、父を も持ち合わせていた。また測量や地図作成
亡 く す も、 後 を 継 い で 十 七 歳 で 庄 屋 役 と についても顕著な才能を発揮した。村人や
)には、大庄屋格に就任し
) に は、 大 庄 屋 本
一方、大谷村ではみんなが評議をし、田
可能となり、文政三年の村の収支決算をす れを聞き 伝えた村の者も次第 にかけつ け、
現総
社市
)の庄屋
り立てをしなかったので小野家の維持が不 同じ地区の者は全員五日間の奉仕をし、そ
た。この折、光右衛門は村内の農民から取 整 理 を 進 め た。 立 木 の 整 理 に あ た っ て は、
なり村の財政はほとんど破綻をきたしてい 畑や屋敷内外の立木を処分するなど借金の
はその度に新たな借金を背負いこむことと
不作、うんかの被害なども相次ぎ、大谷村 ころからこれらの願いを断り続けていた。
村との訴訟事件などがあり、また、木綿の
なった。以来、庄屋役、大庄屋を五十六年 家族に慕われ、
子弟の教育にも力を注いだ。 同六年には寂光院の造作、同十五年には他
天保五年(
ンチのような人物であった。
間務めた。大谷村だけでなく近隣の村々に 様々な分野に業績を残し、さながらダ・ヴィ
)算法
五十
歳
五十六
歳
) に は、 福 井 村(
六十一
歳
ませた後、十二月十六日に家を捨てて吉備 その数は数十人にも及んだ。それ故、ほど
総 に移した。この後、弘
井手村字川崎( 社現)
市
化 二 年(
)の八
月まで大庄屋役を務めた。その翌年、安政
後にした。春になったら妻子をつれて、か きた。そこで光右衛門は十二月二十七日に
津神社の神官の堀家光政を頼って大谷村を なく借金の支払いの目途をつけることがで
七十三
歳
五年十月、井手村で没し、大谷村の小野家
つて知りあっていた江戸幕府の天文方手伝 帰 村 し、 再 び 庄 屋 の 働 き を 進 め る こ と と
里見川訴訟
いの山本文之進を訪ねて仕官するつもりで なった。
あったという。
このことを知った村人たちは判頭が、ま
衛門を訪ね、再三再四帰村を求めた。光右 その一つは文化十年(
総代や縁者などが、一日~二日おきに光右 体にかか わる功績も大なるも のがあっ た。
光右衛門は大谷村のみならず、蒔田領全
光右衛門が二十一歳の時のこと。天領の黒
一八一三
)からはじまっ
崎村の横車に対して、理を通して少しも譲
衛門は、借金の支払いの目途がたたないと た里見川に関する訴訟事件である。この川
二 年、 隣 村 黒 崎 村 と の 境 界 論 争 が 起 き た。 たあるときには年寄りの代理が、あるいは
光右衛門が庄屋になってほどなく、文化
境界論争
の墓地に葬られた。
を 兼 ね る な ど し て、 安 政 四 年(
▲小野邸母屋跡(金光教本部所有)
らず、ついに翌文化三年には江戸に訴える
-2-
も大きな影響を与えた人である。
ま た、 和 算 に 精 通 し、
『 啓 廸(
けい
てき
つちみ
かどけ
) 役となり、住居を領主の役所に近い賀陽郡
指南大成』という和算の著書を出版した。 た。 更 に 同 十 一 年(
暦 数 に つ い て も 精 し く、 土 御 門 家(
小野光右衛門肖像画(部分)
(岡山県立博物館蔵)
▼
第 15 号
「歴研おかやま」
2016 年 ( 平成 28 年 ) 3 月 15 日発行
) に、 鉄 穴(
)事件
かん
な
弘 化 三 年(
鉄穴(
は大谷村の北端を東西に流れ、河口の川口 でもない。
付近は天領の阿賀崎新田村である。長い年
月のあいだに下流に土砂が積もり洲ができ
たが、そこを開墾して耕作地を作ったので
一 八 四 六、
六十二歳
いる。そのため、その地区では二倍の収穫
一八五○
)には賀陽郡井尻野村
を 得 る こ と が で き る よ う に な っ た。 ま た、
現総
社市
) の 田 地 が 開 墾 さ れ た。 安 政 三 年
) に 新 た な 用 水 路 を 作 り、 八 町 歩
嘉 永 三 年(
)事件 (
かん
な
鉄穴流しという製鉄方法がある。 (
ある。そのため、大雨の度に占見新田村や がおきた。
)、年貢増額のため、検地帳の手直し
約八百
アール
ことから、阿賀崎新田村と里見川に関係す 砂鉄と土砂とを選別する方法である。そこ
の間に立ち、その矢面に立った。光右衛門
は騒然となったが、光右衛門は領主と農民
が行われることとなった。このため、領内
一八五六
る二十五カ村との間で訴訟事件がおきた。 で問題となるのは、流された後の残土を含
八重村の田が冠水することとなった。この これは、土砂を水で流し、比重差によって (
この時、光右衛門は村の代表者として事の ん だ 水 で あ る。 光 右 衛 門 は 天 保 元 年
て事をすませたという。
日本で発達
した数学
暦 に
よって
は各村々を巡って、十のうち一~二を出し
)(
一 八 三 ○、
四十六歳
和算 暦象
光右衛門は、和算(
)と暦象(
)から湛井にある十二カ郷用水の樋
処理に当たるとともに、文化十四年(
三十三
歳
には、江戸まで行き二十五カ村の代表とし の本支配という役に任命されていた。十二
てこの事件の解決に尽力したのである。結 カ郷用水というのは、平安時代、妹尾兼康
果は各村総出の浚渫工事となったが、川底 の 手 に よ っ て 造 ら れ た と 伝 え ら れ る 用 水
に堆積した土砂の量をはかる測量は、数学 で、総社市の湛井に堰を作り、高梁川の水
いわれている。
先述したように、文政十四年三月に里見
川にかかわる紛争のため、光右衛門は江戸
へ出たが、その訴訟の合間をみて幕府の天
) の 門 を た た い た。
しぶかわ
かげやす
特に若い頃から数学を好んでいて、当時名 景佑は暦算、和・漢・蘭の諸学に通じ、ま
)に秀いでており、学者でもあった。 文 方、 渋 川 景 佑(
カ村を潤すという西日本でも有数の農業用
著として聞こえていた沢口一之の「古今算 た天保の改暦の立役者として活躍し、当時
の 和 算 の 本 を 買 い 求 め て 独 学 で 身 に 着 け た。そして、その高弟の因州侯の家臣で
「暦
)に後月 郡大江 作り御用手伝い」を勤めていた山本文之進
二十五
歳
岸までの用水引取期間については、鉄穴流
江戸公事をおこした。春の彼岸から秋の彼
の塾へ足繁く通い、ついに師匠を越えたと らも暦学問答を戦わせた。その手紙が何通
を師とすることができ、光右衛門はこの谷 とは気が合ったようで、大谷村に帰ってか
村(
現井
原市
しを中止するということでこの事件は落着
も残されている。それにより、故光右衛門
し た。 そ の 他、 嘉 永 六 年(
は、天文・暦象・和算に関する大家として、
一 八 五 三、
六十九歳
賀陽郡奥坂村にかかわる九カ郷の用悪水路
しだいに近郷に知れわたっていった。
家相 占い 方角
領主の井手の陣屋が焼失した際、方角や家
光 右 衛 門 が 大 庄 屋 格 に 任 命 さ れ た の も、
相の第一人者として絵図面を整えてよく調
一八三○
べ、普請役として働いたその功が認められ
)には大谷村の夕崎に、沼
新田開発
力した。
の事件も、その代表者としてその解決に尽
位置関係略図
) に は、
)で龍岡舎という塾を開いた谷東平 を師として、天文暦術を学んでいる。山本
起 き た。 こ の 時 も 光 右 衛 門 は 先 頭 に 立 ち、 た。 幸 い、 文 化 六 年(
上流の採鉱側と十二カ郷用水側とで紛争が
流れ込み、
農業に支障をきたすことになり、 法」や、佐藤茂春の「算法大元指南」など の 日 本 暦 学 界 の 第 一 人 者 と し て 知 れ て い
水である。この用水に鉄穴流しの土砂水が
天体の運行を
推算すること
▲測量具
さらに、
光右衛門は新田開発も手がけた。
天保元年(
に手を加えて新池を作り、新田を開墾して
▼
-3-
が得意な光右衛門が関わったことはいうま を分岐させ、その下流の十二の郷、六十八
▲光右衛門が使っていたコンパス
第 15 号
「歴研おかやま」
2016 年 ( 平成 28 年 ) 3 月 15 日発行
事を理由に一度は断った。しかし、土御門 印刷したが足らず、再版を重ね、千七百部
)
一 八 五 ○、
六十六歳
)に土御門家の入門状を受けること
)にも知れることとなった。土御門家 てきた。そのため、光右衛門は天保十四年
光右衛門にかかわる算額がある。算額と
算額
や が て 彼 の 名 声 は、 京 都 の 土 御 門 家 家はあきらめず、領主を介して入門を求め が発行されるに至った。
たからであった。
(
つちみ
かどけ
一 八 四 三、
五十九 歳
) と な っ た。 そ の た め、 嘉 永 三 年(
陰陽道のことを
司る役所の長官
というのは、平安時代に安倍晴明から出た (
ものとされ、幕末まで陰陽の頭(
を代々つとめた家である。
江戸時代に入り、 には土御門家の要請により京都へ上り、同 は、和算家が数学の問題を説き、神社・仏
天文、暦に関する実際的なことは幕府の天 家から裃・紋付一具、また盃・短冊などを 閣に絵馬として奉納したものをいう。これ
文方の手に移ってはいたが、形式的にはそ 拝領している。このことから光右衛門は土 は普通、神仏に感謝の意を表すと共に、数
小野光右衛門の墓
その教育に力を尽くしていることが窺え
十 三、四 歳 の 名 も な い 農 民 の 願 い を 受 け、
光右衛門に関係する算額の一つは嘉永六
)のもので、総社宮(
一八五三
と伝えられている。おそらく他の寺子屋と
る。この時には、童子教、実語教を教えた
年(
されており、光右衛門の門下生高木紋吉郎
総社
市
)に奉納
意図もあった。
れらを管理していたのは依然として土御門 御門家からも一目置かれていたことがわか 学の問題を説き、広く世に発表するという
さらに光右衛門の才能を聞きつけた出版
和算の入門書出版
家であった。この家は、天文・暦術・日取 る。
り・方位の吉凶、占いに関することについ
)
・ 祈 祷・ 加
ぼく
せん
ては、宮廷や幕府に対し伝統的な力を及ぼ
す と と も に、 民 間 の 卜 占(
他の者が 六問を解答している ものであ る。 同様に、読み・書き・そろばんの他、道徳
金 光 教 祖 が 後 年「 金 光 大 神 御 覚 書 」「 お 知
の 時 光 右 衛 門 は、 四 十 二 ~ 三 歳 で あ っ た。
に関する教育もしていたことであろう。こ
持などを仕事としている、いわゆる陰陽師 社は和算の本を出版したいと持ちかけてき
)に奉納されているものであ
一八五八
)のもので、吉
今一つは、安政五年(
る。これは、光右衛門の門人が四問を解答
らせ事覚帳」などを著すことができたのも、
れも版木が摩滅し、再版もままならず、な 備津神社(
たちの総元締めとして君臨していたのであ た。当時和算の入門書は二冊しかなく、そ
この土御門家が光右衛門の入門を求めて かなか手に入りにくくなったというのが出
しているものである。塾の絵も描かれてい
金光教祖のもとを訪ねてくる信者に対して
る。
きたのである。しかし光右衛門は、公的仕 版社の言い分である。当時は執筆者の経済
る 大 き な 算 額 で あ る。 何 れ も 小 野 以 正
岡山
市
的負担も多く、失敗するとそのつけは莫大
なお、光右衛門の娘柳は、三島中洲の母
伝えの一つである。
いということも、光右衛門の人柄をしのぶ
光右衛門の墓前の参拝を欠かしたことがな
月の一日、十五日、二十八日の月の式日に
本にあったといわれている。金光教祖が毎
ことも光右衛門の薫陶によるものがその基
の理解が早く、故事やことわざ等が豊富な
光右衛門
のこと
光右衛門は多くの弟子を育て、子女の教
教育者光右衛門
ものである。
なものになってしまうので一 旦は断っ た。(
しかし、入門書がないことを百も承知の光
一八五二
)に一応
右衛門は、和算の本を執筆することに同意
することとなる。嘉永五年(
一八五四
のとして、金光教祖のことについて触れて
)に 育にも力を入れている。そのことを示すも
原稿を提出した。さらに付録一巻を付すこ
とになり、それを加え、同七年(
計六巻を出版することとなった。
出版者は光右衛門の他、大坂心斎橋筋の おこう。金光教祖はその著書「金光大神御
﹁津の庄屋小野光右衛門様に
洲もそして光右衛門に触れた多くの人々が
衛門を尊敬し画賛で讃えている。方谷も中
を紹介し、学ぶように導いた。方谷も光右
である。光右衛門は、孫の中洲に山田方谷
て、 手 習 い さ し て お も ら い。
秋田屋太右衛門と、倉敷の太田屋六蔵、京 覚書」に、
都の天王寺屋一郎兵衛の四人で、財務的な
私 十 三、十 四、 戌 亥 と 二 か 年。
﹂
その薫陶を受けている。
事まで含めた規約を作り、出版の準備を進
と 記 し て い る。 こ の こ と か ら、 村 内 の
めている。もともとそれほど売れる内容の
本ではなかったが、結果的には、当初千部
-4-
▼
)の名前が記されているめずらしい
▲小野家墓地
第 15 号
「歴研おかやま」
2016 年 ( 平成 28 年 ) 3 月 15 日発行
や
は
ら
も
と
ロシア革命難民の子供達を
保護して帰郷させた人道的船長
か
茅 原 基 治
じ
一
( 八八五~一九四二・八・一八
)
治船長でした。
勝田社長と茅原船長は、ロシア人の子供・
婦人、米国赤十字社社員など約千人を、救
出する為、貨物船「陽明丸」
(一万一千トン)
きゅう
を、 急 遽 き(ょ 客
) 船 に 改 造 し( 手 記 に は、
米国赤十字社の人道的支援の事、任侠に富
める勝田社長の多額の材料寄付の事、そし
て大阪鉄工所因島工場の犠牲的奉仕で立派
革 命、 十 月 革 命 が 勃 発 し、 帝 政 が 崩 壊 し、 に 改 造 さ れ た 事 が 記 録 さ れ て お り ま す。
革命政府が誕生し、多くの亡命者や難民が 煙突に赤十字、マストに星条旗、船尾に日
こう
茅 原 基 治 は、 小 田 郡 甲 弩 の( 村
) 楠( 笠
岡市甲弩:矢掛町・井原市に近い)の茅原
出ました。
大正九年(
一九二〇
)七月九日陽明丸は、ウ
この混乱の中でひどい食料難に陥り、政 で回送しました。
章旗を付けて、神戸からウラジオストクま
正太郎の次男として明治一八年に生まれま
した。
北 川 尋 常 小 学 校 を 卒 業 し、 明 治 三 十 二 府はロシアの旧首都ペトログラード(サン
) 旧 制 金 光 中 学 校 へ 入 学、 明 治 クトペテルブルグ)のロシア中流家庭の子 ラジオストク港からロシア人の子供七七九
一八九九
弟を、ウラル地方に疎開させました。そし 名( 少 年 四 二 八 人、 少 女 三 五 一 人 )、 ロ シ
年(
て 数 ヶ 月 過 ぎ ウ ラ ル の 地 方 に も 寒 い 冬 が ア人婦人八七名、兵士七七名、米国赤十字
一九〇三
)に卒業しました。同校を
三十六年(
)
目指して出航しました。ロシア人と日本人
地元学童の柔剣道の試合を見せるなど交歓
陸 さ せ て、 市 内 の 小 学 校 で 茶 菓 子 を 供 し、 ク に 寄 港、 同 地 で 五 〇 日 間 滞 在 し ま し た。
-5-
卒業後、水夫として船舶業に就職、苦労し
子供たちの中には寒さと空腹で我慢できな 計九六〇人と乗組員(約六〇名)を乗船さ
て 後 に 船 長 試 験 に も 合 格 し ま し た。 そ の やってきました、ウラルの冬は寒く厳しく 社員一六名、米国YMCA派遣員一名、の
後、神戸市所在の勝田汽船(大洋日本汽船
陽明丸は同港で燃料、食料、医療品等を
船員との会話が通じない等、船内は大混乱
補給して、七月一六日サンフランシスコを、
字社派遣部隊が、子供達を救出して安全な 抜けてフランスへの最短航路を航海する予
していましたが、茅原船長は、救命胴衣の
当初は、インド洋からスエズ運河を通り
場所へとウラジオストクに保護しましたが 定でしたが、年少者の健康上、真夏のイン
)九月に米国赤十
戦火の勢いはいっこうに治まりませんでし ド洋を避け、太平洋を横断してサンフラン
た。
米国赤十字社は、戦況悪化の為、船で救 廻りの航路を選択しました。 下
( 図参照
八月五日サンフランシスコを出航してパ
船 せ(ん を
) 依 頼 し て き ま し た。 こ の 人 道 的
な要請に応じたのが、当時の勝田汽船の勝
た。
出する事を決め、米国を始め各国に救援を
同 年 一( 九二〇 七
) 月 一 三 日 に は、 北 海 道 室
依頼しましたが悉 こ
( とごと く
) 断られた 蘭港に入港したものの、現地当局には敵国
ので日本の船舶会社に難民救出のための傭 ロシアの子供達等の上陸を拒否する者も有
ナマ運河を通過、八月二八日にニューヨー
田銀次郎社長(第六代神戸市長、貴族院議
を行いました。
その間八月三一日の天長節 天
( 皇誕生日 )
の日に陽明丸が日章旗を星条旗より上に揚
員)であり、受け持ったのが同社の茅原基
よう
りましたが、茅原船長の尽力で子供達を上
) 綱引きなどの娯楽を実施して、徐々に子供
達と船員の親交が持てるように計らいまし
訓練や保健衛生の徹底の他、映画やダンス、
一九一九
▲陽明丸の航路図
シスコに寄港、パナマ運河を通り抜ける東
ました。大正八年(
くなりウラルの山中を彷徨する子も出てき せ出航しました。
)帝政ロシアでは、二月
一九一七
㈱ の貨物船の船長に就任しました。
大正六年(
茅原基治
▼
第 15 号
「歴研おかやま」
2016 年 ( 平成 28 年 ) 3 月 15 日発行
げた事に地元警察等から「米国国旗を侮辱 の書家)と会い、茅原船長の子孫を探して 国赤十字社や陽明丸船員の献身的な行為で
の消息を調べるとともに、モルキナの来日 て難民を救済した茅原船長の功績は後世に
この出来事をインターネットで知った南
茅原船長は、実直な性格で、出身校の金
残るものです。
いる事を強く告げた為、北室は、茅原船長 なされたものですが、幾度の困難を克服し
(く し
) た」と抗議された事、子供一七名
が集団脱走した事、一四歳の少年が衛兵の
の手助けをしました。
ぶじょ
銃暴発で死亡した事、一六歳の少女が病死
した事等の不祥事がありました。一方、在
業の一環としてモルキナを招待し南山高校
光図書館所蔵)と題する手記を年賀状代わ
一九三四 に
(
)
は「赤色革命余話・露西亞小児團輸送記」(金
山高校・中学校男子部(名古屋市)の生徒 光中学校の佐藤範雄校長(初代)に後年ま
た。同港から大西洋を横断して九月二七日
で茅原船長に祖父が救われた事についての
りに作成し贈呈しています。
米邦人から義援金約五二九ドルや慰問品が
にフランス・ブレスト港に寄港し、一〇月
講演を行う事になりました。
寄 せ ら れ る な ど 概 ね 友 好 的 に 推 移 し ま し は、学校側と話し合い承諾をして頂き、授 で 年 賀 状 を 出 し 続 け、 昭 和 九 年
一〇日には、
フィンランドのコイビスト
(プ
の苦労が克明に記録されており、茅原船長
この手記には、ロシアの子供達の輸送時
リモルスク)港に到着して、世界約半周の
平 成 二 三 年 二( 〇一一 一
) 〇月二六日に講演
三ヵ月間に及ぶ航海は終了し、下船した子 は実現し、翌日、一〇月二七日には、笠岡
うか
が
( う
)
の公平で人類愛に満ちた人物を窺
冊子「北川の人物~孫たちに語り
事ができます。
供達は、その後ロシアの親元に無事引き取 市甲弩楠を訪れて茅原基治船長の墓参も実
現しました。
継 ぎ た い 人 々 ~」( 発 行: 北 川 ま
戦前戦後、茅原船長の人道支援は長く忘
られました。
れ去られていましたが、平成二一年に救出 「九〇年前日本船が救った子供八〇〇人(産
ちづくり協議会、編集:北川の昔
ついた進行で、三名が本音を語られ、会場
北室南苑(書家)・NPO法人顕彰会
岡さんから「説明された内容を音声
に録音し、文章におこされたら簡単で
す 」 会 場 か ら「 成 程! さ す が 岡 さ ん 」
との声が。
鼎談を聴いて
楠 敏明(運営委員)
小説家の出発点は、富久さんはボケ
《手記》赤色革命余話・露西亞小児團
輸送記(縦一八㎝ 横一三㎝ 五三頁)
山 陽 新 聞 記 事 平 成 二 三 年 十 月 、) 産 経
(
新聞記事 平
共
( 成二三年六月 、
) 同通信「人」
欄 平
( 成二五年十一月 、)神戸新聞記事 平
(
成二六年一月 朝
) 日新聞記事(平成二三年
九月 )
北國新聞記事 平
( 成 二 三 年 二 月、九 月、
)
十月 室
) 蘭民報記事 平
( 成二二年五月、平
成二三年九月、十月、一一月、平成二五年
九月
TV B
( S 朝 日 平 成 二 三 年 三 月 () 北
陸 朝 日 平 成 二 四 年 六 月、 平 成 二 五 年 六 月 )
ラジオ(NHKラジオ国際放送)
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この一連の経緯については、新聞各紙が
さ れ た ロ シ ア 人 の 子 供 の 孫 に あ た る オ ル 経新聞)
、
「 日 本 人 船 長 の 功 績 に 光 」( 朝 日
を訪ねる会)より転載
から何度も笑いが起こり、サロン的雰囲気
《参考資料》
ガ・モルキナ(英語講師、ロシア難民子供 新聞)等の表題で報道して一挙にクローズ
の子孫の会代表)というロシア人女性が、 アップされました。この人道支援は、勿論、
ロシアを訪れていた北室南苑(金沢市在住 茅原船長だけでなく、勝田社長の英断、米
第十三 回 歴 研 サ ロ ン
歴史小説創作の苦心と喜び
二月二八日、小説家の富久豊氏、岡將男
で三時間が短く感じられた。
―歴史小説家による鼎談
氏、
平茂寛(本名:佐藤和久)氏による「歴
防止、岡さんは自分を取り巻く状況か
のことの原稿を頼まれ悩んでいる」と質問。 ら、そして静岡県出身の平茂さんは岡
参加者から「出版社から高梁と山田方谷
史小説創作の苦心と喜び」と題する鼎談が
行われた。三三名が参加。
司会役を兼ねた岡さんの軽妙かつ核心を
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第 15 号
「歴研おかやま」
2016 年 ( 平成 28 年 ) 3 月 15 日発行
山への恩返し
本書紀、続日本書紀を何度も読み返すとい
資料については、富久さんは古事記、日
ちに日本の歴史を知ってもらうために
これからについて、富久氏は子供た
文芸社・『闇人Ⅱ』文芸社
富久 豊氏
・
『闇人』
・
『滅びの音( こえ)』新風舎、
三氏の主な著書
場面が出てくるという。
だという。ス
う。岡さんは一次資料を読めるようになり
タートは三人
書いていきたいと結んだ。
視等日本語にはいろいろある。平茂氏は読
みやすさを考えて書くという。三人とも章
生の頃、俳句をやっていたのが文章の組み
無 頼 剣 』 学 研M 文 庫・『 悪 采
師 』 朝 日 新 聞 出 版・
『とっぱあ与力
斬る』招き猫文庫
時 代 小 説 文 庫・『 ね ぼ け 医 者 月 を
(一)』『(二)火事場の華』富士見新
茶人
を立てて書く。岡氏が書いた内田百閒は学 平茂 寛氏
・『隈取絵師』朝日新聞出版・『暴れ
『吉備邪馬台国東遷説』吉備人出版
簡単な「みる」についても、見、診、観、看、岡 將男氏
・『岡山の内田百閒』日本文教出版・
柄、場面に合った字を探すという。例えば
文体について、富久さんは手で書き、事
考にして書きあげる。
係を書く場合、自分のこれまでの経験を参
をもとにして書くとのこと。ただ、人間関
たいという。大方は二次資料から得た資料
とも歴史的文
章の中の、気
を引く
「一行」
が、あるいは
「二十行」が、
また一人の気
になる人物が
きっかけで書
き始めたと言
う。私の専門
の生物化学現
象のなぜ起き
立てに大きく影響していると岡氏は分析す
古代を書く富久氏にとって、古代をかく
を得ない。行き過ぎがないように躊躇する
出発して七百米程下ると丹頂鶴をデザイ
光珍寺にて記念写真
セントラルホテル内の旧杉山邸和室にあが
り 杉 山 真 子 専 務( お ふ く の 会 会 長 ) か ら、
岡山の近代産業発展に尽力された杉山岩三
で行われた。二五名の参加。案内は岡山市 たという西川。市民の献身的な努力で清水
ウォークが岡山市内の西川・枝川緑道公園 掘削、整備され、田畑の灌漑用水路であっ
屠 蘇 気 分 冷 め や ら ぬ 一 月 十 日、 新 春 二・四 キ ロ を 下 る コ ー ス。 江 戸 時 代 初 期 に
た川沿いの岡ビルは今でも岡山市民の台所
という店もある。戦後まもなくに建てられ
客確保のため十六時入店なら食事代は半額
ング等の店が並ぶ。飲み屋の中には早いお
る。更に下ると両岸には飲食店、ショッピ
歩き通した後の打ち上げで呑んだ岡山産の
市民の私は何かを得た気がした。約二時間、
市民でも知らない人がいるとのこと。倉敷
広場、十数個の巨石の石組みは圧巻。岡山
優しさが伝わる。ゴールは枝川公園の噴水
えた楠が凛と立ち、木肌に触れると強さと
ン し た 青 柳 橋 が 両 翼 を 広 げ て 迎 え て く れ 郎の話を伺う。ホテルの玄関には戦火に耐
観光ボランティアの磯島会長、倉田氏、華 がゆっくり、また勢いよく流れている。川
として健在。桃太郎大通りを挟む西川橋で
いる。宇喜多家菩提寺の光珍寺にお参りし、 てみよう。
山氏のベテランガイド三人。これに備前市 辺には百種類、三千八百本ある木々、名の
れた十二本の橋、水上テラス、都会の真ん
ビールは最高。桜の頃、新緑の頃また行っ
の神崎会長も参加した。
住 職 か ら 由 緒 を 聞 か せ て 頂 き、 記 念 撮 影。
運
( 営委員 工藤博
は犬、猿、雉、桃太郎の擬宝珠が飾られて
第十 三 回 探 訪 会 新 春 ウ ォ ー ク
▲
観光ガイドの片山会長、倉敷市観光ガイド ある作家達のモニュメントや碑文、架けら
西川・枝川緑道公園
が楽しみと異口同音。
ある。人物を創り上げ、書きあげていくの となるとどうしても天皇について書かざる
感を働かせて書くとのこと。将に人間力で
たのかと驚くことに似ている。想像力、五 る。
▲左から、平茂寛、富久豊、岡將男の三氏
南方の西川公園を起点に、枝川公園迄の 中とは思えない光景が続く。
)
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第 15 号
「歴研おかやま」
2016 年 ( 平成 28 年 ) 3 月 15 日発行
(過去 1 年以内)
平茂寛著
招き猫文庫
『現地探訪 二宮金次郎は
日本文教出版㈱
下の瓦橋 の
) 傍の陰涼寺の門にあがる蝶の
家紋や水墓の謂われを勉強した後、西川と
た。 八 ノ 橋 薬
( 研 堀 橋 、) 九 ノ 橋 2
( 号線
来訪されたとの説明に歴史を実感しまし
『ねぼけ医者 月を斬る』
岡將男共著
(社団)中国地方総合研
編集委員会代表
森山上志氏(会員)
川に架かる、十二ノ橋を訪ねてみてはいか
︱
発 行 岡山歴史研究会
会 長 天野勝昭
編集長 楠 敏明
事務局 〒701 1332
岡山市北区平山
電話
山本方
から承諾の上、掲載しました。(楠)
ちづくり 協議会発行の冊子「北 川の人物 」
る行為に感動しました。笠岡にある北川ま
年、茅原基治船長の人の息使いが感じられ
共産主義、帝国主義が渦巻く中の大正九
いた時代です。
ノーベルがダイナマイトの開発に没頭して
広場でほっ と一息入れ一回目 の解散で す。 進んでいたことも驚きです。世界史的には
希望者は清輝小学校近くの十二ノ橋(内田
れています。野田屋町公園で福田英子女史
ことは知られています。南方公園付近が一
見学して、杉山真子専務様から勝海舟、伊
を し て い た だ き ま し た。 七 ノ 橋 出
( 石 橋 ) 快なウオークを終了いたしました。暖かい
前のセントラルホテル内の旧杉山家和室を 春になって、お友達やお孫様とご一緒に西
在は万町跨
歴
研サロン
がでしょうか
第十四回
藤博文、大隈重信等幕末から明治の名士が
お知らせ
こ つ じ き
参加費 会員・一般とも 五百円
定員 六十名・要申込(事務局)
(旧国立病院跡)
乞食行脚の僧︑良寛を憶う
線橋の下で
す。二ノ橋
は現青柳橋
で旧山陽
道が通っ
ていまし
た。欄干に
講師 中山亘氏(会員)
日時 五月一九日(木)十三時半~
きらめきプラザ二階大会議室
場所
86
6
2
2
6
はタンチョ
ウ 鶴
( が
)
デザインさ
・
8
4
4
は、 江 戸 時 代 に 十 二 の 橋 が 架 か っ て い た
に出発しました。案内個所は五十ヵ所余あ
に、日本でも和算、暦学、天文学がかなり
心、探究心には只々驚くばかりです。同時
て父を失くした中での小野光右衛門の好奇
江戸後期、備中の田舎で、まして幼くし
■編集後記■
『中国地方の鉄道探見』
りましたがメインの西川の流れの途中に
別れて枝川緑道公園へ進み和風庭園や噴水
編集:北川の昔を訪ねる会
新春ウォーク案内記 西川・枝川緑道公園
岡山市観光ボランティア活動連絡会ガイド 倉田範生
昨年の十月、石尾副会長から西川緑道公
セントラルホテル
内の旧杉山邸和室で
生きている』
植田心壮著
園探訪ウオークのガイド要請がありまし
た。岡山が全国に自慢できる緑道公園をぜ
ひ身近に実感してもらいたいと、喜んでお
引き受けしました。西川は江戸時代初期に
岡山藩主池田忠雄が開削したものを、昭和
四十九年から九カ年をかけて緑道公園とし
て整備し、
昭和五十六年には「緑の都市賞」
を 受 賞、 平 成 十 八 年 に は「 日 本 疎 水 百 選 」
当日は、西川上流のキラメキプラザ付近
に指定されました。
●会員の出版物紹介●
橋)まで頑張り十三時三十分頃全員無事爽
杉山真子専務が説明
▲左から 石尾陽子副会長・磯島
善将様・倉田範生様・華山泰道様
女
( 性解放運動家 の
) 碑 を 見 て、 光 珍 寺 で
は石渡住職の宇喜多家菩提寺としての講話
に約三十名が集合し、三班に分かれて十時
発行:北川まちづくり協議会
語り継ぎたい人々∼」
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「北川の人物∼孫たちに
・
http://b.okareki.net/
▼
究センター
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ノ橋で勘解由橋とも呼ばれていましたが現
案内する倉田範生さん
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第 15 号
「歴研おかやま」
2016 年 ( 平成 28 年 ) 3 月 15 日発行