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●目次●
第12回
=
目
次
あいち経営フォーラム
報告集
=
基調講演「伝統産業を生き抜く『正統派異端系』経営∼未来をひらく、私の一手」
講師:宮
由氏氏/(株)宮 本店 代表取締役(三重同友会・相談役)
―――――
3
第1分科会「時代に対応し、変革し続ける企業になろう」 ―――――――――――――――
報告者:美 馬
徹氏/関西金属工業(株) 代表取締役(大阪同友会)
9
<Ⅰ.経営者の責任>
第2分科会「夢と誇りの持てる、活力ある企業づくりへのあくなき挑戦」
報告者:大野 正博氏/(有)中部製作所 代表取締役(中川地区)
―――――――
13
第3分科会「将来の柱になる事業を今、見つけよう」 ――――――――――――――――
報告者:鳥 越
豊氏/(株)鳥越樹脂工業 代表取締役(一宮地区)
19
<Ⅱ.経営理念を実践する過程>
第4分科会「環境経営で企業革新をしていこう」
報告者:佐 藤
全氏/(株)ヴィ・クルー
――――――――――――――――――
代表取締役(宮城同友会)
24
第5分科会「金融機関と共に実現する経営計画」 ―――――――――――――――――― 30
報告者:青 野
徹氏/(株)ハンズコーポレーション 専務取締役(名古屋第1青年同友会)
大板 一志氏/大板会計事務所 所長(守山地区)
助言者:由里 宗之氏/中京大学 総合政策学部教授
第6分科会「事業継承を飛躍のチャンスに」
報告者:徳島 孝志氏/徳島興業(株)
――――――――――――――――――――
代表取締役(名古屋第3青年同友会)
40
第7分科会「誰もが働ける会社へ」 ――――――――――――――――――――――――
報告者:吉田 周正氏/(有)ヨシダ精工 代表取締役(熊本同友会)
46
第8分科会「社員の生きがい・働きがい」 ―――――――――――――――――――――
報告者:佐々木正喜氏/オネストン(株) 代表取締役(天白地区)
國本 晴久氏/(有)クリンテックサービス 専務取締役(西地区)
51
第9分科会「自分らしく生きる」 ―――――――――――――――――――――――――
報告者:伊藤 公雄氏/京都大学大学院 文学研究科教授
58
<Ⅲ.人を生かす経営の実践>
1
●目次●
<Ⅳ.市場・顧客および自社の理解と対応>
第10分科会「顧客満足の創造」 ―――――――――――――――――――――――――
報告者:加藤 昌之氏/(株)加藤設計 代表取締役(千種地区)
64
第11分科会「中小企業の海外対応」 ―――――――――――――――――――――――
報告者:小島 正憲氏/(株)小島衣料 オーナー(岐阜同友会)
74
第12分科会「新たなマーケットとして世界を見よう」 ―――――――――――――――
報告者:魚谷 禮保氏/大阪ウェルディング工業(株) 取締役社長(会外)
助言者:森
靖 雄氏/愛知東邦大学
78
<Ⅴ.付加価値を高める>
第13分科会「付加価値を創出する戦略経営」 ―――――――――――――――――――
報告者:阿久澤太郎氏/(株)東海製蝋 代表取締役(静岡同友会)
84
第14分科会「自信が生んだ、こだわりの新商品」 ―――――――――――――――――
報告者:秋竹 新吾氏/(株)早和果樹園 代表取締役(和歌山同友会)
90
第15分科会/見学分科会「5年間で、社員数・売上・共に倍増」 ――――――――――
報告者:高瀬 喜照氏/(株)高瀬金型 代表取締役(稲沢地区)
95
交流会
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――100
支部
西
尾
張
支
部
東
尾
張
支
部
南
尾
張
支
部
地区名
あま
海部・津島
一宮
稲沢
西春日井
尾張西青同
愛北
春日井
江南・岩倉
瀬戸
尾北
尾張東青同
知多
知多北部
豊明
尾張南青同
知多青同
第12回あいち経営フォーラム 参加結果
支部
支部
参加総数
地区名
参加総数
地区名
11
北
41
安城・知立
第 昭和
16
27
岡崎
1
34
天白
23
刈谷
支
34
守山
20
三 豊川・蒲郡
部
17
第1青同
29
河 豊田
支 豊橋
34
熱田
44
第 中川
部 西尾・幡豆
16
34
2
8
南
22
碧南・高浜
支
三河第1青同
14
名東
14
部
三河第2青同
13
第2青同
24
9
千種
14
名
会外
25
23
古 第 西
屋 3 港
12
26
支
参加者数小計
13
16
部 名西
17
第3青同
12
来賓
11
39
第 中区北
行政・一般
13
中村
29
4
支 東
講師・報告者
19
部 第4青同
事務局・関係者
37
27
第 中区南
参加者数総合計
19
5 瑞穂
支 緑
38
部 第5青同
23
2
参加総数
9
20
18
19
18
22
15
32
19
21
10
1100
5
2
13
21
1141
基調講演
伝統産業を生き抜く『異端系正統派』経営
∼
講師:宮
未来をひらく、私の一手
由氏氏/(株) 宮
本店
∼
代表取締役(三重同友会・相談役)
創業165年を誇る清酒メーカー6代目の宮 社長は、1894年、三
重同友会の設立と同時に代表理事に就任。以来「学んで実行」をモットー
に経営革新を続け、国内有数の優良酒蔵に育て上げました。宮 社長の企
業家としての歩みは、とりわけ、経営指針の社員と共有、
「労使見解」の精
神を生かした人間力重視の経営などの事例において、同友会が発行してい
る多くの書籍の中で何度も紹介されています。中同協の企業変革支援プロ
グラムの推進委員長として、自ら進んで、社員と共に社内で診断を実施。
「自社の強み、弱みを知り、社員と共有化することで、強みをさらにのば
し、弱みを強みに変え、新しい仕事づくりにつなげていくことができる」
と自らの実践経験を語る宮 社長の「次の一手」を学びます。
【会社概要】
株式会社宮 本店(http://www.miyanoyuki.co.jp/)
設立/1846(弘化3)年
設立/1951(昭和26)年
資本金/6,750万円
年商/38億円(平成21年度9月期)
社員数/68名
事業内容/酒類(清酒・合成清酒・焼酎・みりん・ウイスキー・リキュール類)並びに食品の製造及び販売
コメントをよく出せたものだと思います。
出荷が減少した理由は二つあります。
一つは、景気が悪くなったので、外で飲むのを
やめて、家で飲むようになったことです。これだ
けで大きく変わります。外で飲むときは高いビー
ルを飲みますが、家で飲むのはいちばん安い第3
のビールです。外では周りに勧められて1本余計
に飲んだりしますが、家では家族に止められて飲
みたくても飲ませてもらえません。単価も下がり、
数量も減っています。
第二の要因は、大手スーパーが販売した、海外
から入ってきた1本 88 円の第3のビールです。
月 1000 万本も売れています。国内のシェアは8%
もあります。それがビール組合の統計に全くカウ
ントされていません。
私はお隣の三重県楠町というところでお酒を
造っています。創業は 1846 年で、今年で 164 年
目、私で7代目になります。楠町は人口1万人の
街ですが、最盛期には 36 軒の造り酒屋がありま
した。今は当社1社しか残っていません。ですか
ら、「リーマンショックで7割、8割減った」と
言われていますが、当社は 36 分の1を生き残っ
て来ましたので、そんなに心配する必要もないと
思って仕事をしています。
「デフレ」とは、何か
今、デフレが止まりません。
今年の夏はとても暑く、7月・8月は清涼飲料
水が飛ぶように売れました。ところが、新聞発表
によりますと、いちばん暑かった8月のビールの
出荷高は、信じられないかもしれませんが、対前
年比でマイナス 0.3%です。ここで「ビール」と
いうのは、ビール・発泡酒・第3のビールを全部
合わせてマイナス 0.3%です。この発表と同時に
ビール組合が出したコメントは、「あまりに暑過
ぎて、昼の間にお茶を飲み過ぎて、夜ビールが飲
めなくなった」というひどいものでした。こんな
物語性がなくなっていく
世界的に 11 月の第3木曜日がボジョレー・ヌ
ーボーの解禁日で、
「この日の朝から飲んでいい」
ということになっています。日本では、今年は 11
月 18 日が解禁日で、この日の午前0時と同時に
空港から中継が始まります。空港でソムリエとキ
ャンペーンガールが並んで乾杯して、「今年のボ
3
●基調講演●
ジョレーは近年にない、良い出来です」と、毎年
同じコメントをしています。日付変更線の関係で、
世界でいちばん初めにボジョレー・ヌーボーを飲
むことができる国が日本です。フランスのボジョ
レー地方でもまだ飲めないうちに日本でのニュ
ースが世界中に配信されるので、イベントにして
いるのです。
そのボジョレー・ヌーボーに、昨年から異変が
起こっています。通常、ボジョレー・ヌーボーは
1本 3000∼3500 円します。去年、大手スーパー
からペットボトル入りのものが 980 円で売り出さ
れました。こんなに安いのには理由があります。
ペットボトルはガラス壜より軽いので、フランス
からの航空運賃が1本当たり 100 円安いのです。
では、運賃が 100 円しか安くならないのにどうし
て半額で売れるか。実は、「世界でいちばん早く
飲める」という付加価値に日本人は 2000 円を払
っていたのです。それが 980 円になりました。ペ
ットボトル入りのワインは世界で初めてですか
ら、輸入元はどれだけ売れるか不安でしたが、店
頭に並べてみたら2時間で売り切れました。しか
し、喜んで追加注文した分は、それから3日も経
つと1本も売れませんでした。解禁日に飲むこと
に価値があるのですから、3日遅れでは意味があ
りません。この結果、昨年のボジョレー・ヌーボ
ーの売上総額が大きく落ちました。今年の仕入れ
が始まっていますが、幾らのものが何本売れるか
全く分かりません。
これがデフレです。物語性も何もありません。
ただ壊されていくだけがデフレです。
デフレ時代を生き抜くために
マーケットに出すか、全く違う企業同士が連携を
組むか、その3つしかありません。それらを組み
合わせればもっと可能性は増えますが、とりあえ
ずはその3つしかありません。
外食産業業界では、ある老舗チェーン店が新興
勢力に価格競争で惨敗しました。そこで、その老
舗チェーンは質を落として量を増やした価格の
安い商品を出してV字回復しています。これが新
製品です。それをやらないと、価格競争では負け
続けているのです。
同じ商品を違う市場に売って成功した例もあ
ります。ICレコーダーはビジネスマン向けの商
品で、市場はほぼ飽和状態です。この商品を全く
新しい市場に 60 万台も売った事例です。その売
り先を聞いて驚きました。独居老人に売ったので
す。老人とICレコーダーとは、まずつながりま
せん。そもそも使えるかどうかも分かりません。
しかし、老人が使うのではありません。独居老人
の家族が購入して持たせ、病院や薬局での遣り取
りを医師や薬剤師に録音してもらうのです。それ
だけで 60 万台も売れました。全く新しい市場で
すから、相当高く売ることができたと思います。
最後の新連携ですが、行政が主導するビジネス
マッチングはなかなか成功しません。それは、各
社の強みや弱みが分かっていないからです。強み
と弱みとが分からないと、新しい連携はできませ
ん。同友会で企業変革支援プログラムを作るとき
にアンケートを取りました。会員に「あなたの会
社の強みは何ですか」と尋ねますと、皆が「無い」
と言います。そんなはずはありません。何の強み
もない会社なら、とっくに倒産しています。一転
して弱みを尋ねますと、あっと言う間に弱みばか
りがずらりと並びます。強みの分かった者同士で
連携しないとうまくいかないのに、強みを聞かれ
ても答えられない。
こういうデフレの時代に我々は仕事をしてい
ます。
どういうことが起こるか。5年前と同じ商品を、
自社の強みが分かっていますか
同じマーケットに、同じ方法で販売し続けていく
と、値段は必ず下がります。それがデフレです。
値段を下げないためにできることは3つしかあ
そういう私も、実は答えられませんでした。ほ
りません。違う商品を出すか、同じ商品なら違う
んの数年前まで、自分の会社の強みを言えない社
長でした。
数年前、ある大手量販店のバイヤーが工場見学
に来ました。今は全国一律で同じ商品が売れる時
代ではなく、エリアマーケティングを強化して、
中京地区の造り酒屋を回り、そのエリアで選んだ
お酒をそのエリアで売る、という仕掛けでした。
それで当社にもいらっしゃって、朝の8時から4
時間も工場見学をし、いよいよ商談というときに
私は当社の強みを尋ねられたのです。私は胸を張
って「鈴鹿川の清流と契約栽培の伊賀米、特殊な
酵母を使って作った大吟醸酒の香りが当社の強
4
●基調講演●
みです」と答えました。ところが、相手はきょと
んとして、「昨日行った酒屋さんと川の名前が違
うだけですね」と言われました。他に考えていま
せんから、本当に困りました。そこで、恥を忍ん
でそのバイヤーに当社を選んでいただいた理由
を尋ねました。わからなければ「聞いた者勝ち」
です。そのバイヤーが言うには、「宮 本店は日
本の造り酒屋でいちばん初めにISO9000 を取
っていますので、安心・安全が保証されています。
今日、工場見学をして、品切れを起こさない安定
供給が可能な規模と判断しました。しかも、モン
ドセレクションで 25 年間連続金賞を受賞してお
りストーリー性もある。安心・安全で、安定供給
が可能で、物語性がある日本で唯一の酒造会社、
というのが宮 本店の強みではないですか」と言
われました。唖然としました。自分では強みが全
く分かっていませんでした。
そこで、私が「同友会が新連携に向いている」
という理由ですが、同友会は本音で語る会ですか
ら、自分で強みが分からなかったら仲間に聞けば
いいのです。その答えはおそらく正しい答えでし
ょう。
強みが分からないと戦略は描けません。
戦略と戦術の違いを理解してから、強みを生か
して「誰が顧客か」ということを考えていきます。
このことも、相当に大きな問題です。顧客は誰で
すか。同友会は経営指針・経営理念に取り組んで
います。企業変革支援プログラムでも圧倒的に弱
いのが顧客の理解と市場の理解です。
当社の顧客は誰か
当社も大きな勘違いをしていました。数年前ま
では、当社の顧客は「20 歳以上の、お酒を飲む人
全員」と思っていました。間違いではありません。
ここが中小企業の矛盾ですが、本当に「お酒を飲
む成人全員」が顧客であるなら、当社の売り上げ
は1万倍以上になってもいい計算です。大切なの
は顧客の選定です。当社の主力商品は「清酒宮の
雪」と「キンミヤ焼酎」で、この2つが柱になっ
ていますが、この2つの顧客は全く別です。「お
酒を飲む成人」という括りでは同じですが、宮の
雪は「三重県の顔」というコンセプトで、中京圏
の代表的なお酒として地元の顧客に支持してい
ただくお酒が宮の雪です。一方、キンミヤは「下
町の酒屋を支える名脇役」というコンセプトです
から、表に出なくていい。飲んでいる人は「ホッ
ピーにあう焼酎がキンミヤであることを人に知
られたくない」と思って飲んでいます。完全に顧
客が違います。違うということになりますと、当
然、売る場所も売り方も違ってきます。そういう
ことをやっていかないと、顧客に情報が届きませ
ん。これが大切なことです。
一昨年から、当社は中国にお酒を輸出していま
すが、日本では4合壜で 5000 円する商品を出し
ています。関税がかかると中国では1万円になり
ます。そのお酒を出すと決めた時に、同業者から
は散々に言われました。当時の中国は最も発展し
ている沿岸部でも、平均の所得が月2万円を切っ
ていましたから、そんな国へ4合壜が1万円のお
酒を出すということは、「市場調査をしていない
のではないか」とまで言われました。しかし、当
社と他社とでは「顧客」の概念が全く違いました。
当社は、年間所得が 1000 万円以上言われている
中国人民の1%をターゲットにしています。1%
でも 1300 万人になり東京の人口よりも多いので
すから、全く問題ないと判断しました。その人た
ちがどんな店に行くのか、それが市場調査です。
北京でいちばん高い店は、人民の平均所得の1ヶ
月分以上もする、コースで3万円する高級料理店
です。その店に、大吟醸宮の雪を売っています。
一度、社員の皆さんに、自社の顧客が誰なのか
を聞いてみてください。その規定ができないと、
戦略と戦術を分けて考える
それで、当社の強みが分かりましたので、戦略
を描くことができました。これも企業変革支援プ
ログラムを作成する過程で分かったことですが、
戦略と戦術の違いを理解していない経営者が多
いのです。ここが区別されていないと、会社経営
はうまくいきません。戦略はトップが描くもので
す。戦術はフィールドで行うものです。例えばス
ポーツでは、戦略はトップである監督が考え、そ
の戦略を理解した選手がフィールドで戦術を実
践します。しかし、中小企業の経営者の多くが戦
略と戦術の違いを理解していないので、戦略を描
いたつもりになって戦術を書いてしまっていま
す。それでフィールドに入って行きますから、そ
こにいる選手にとっては邪魔な存在になりかね
ません。戦略と戦術は明らかに違います。自社の
5
●基調講演●
く違う答えが返ってくるような気がします。
最初に申し上げましたように、従来と同じ商品
を、同じ市場に、同じ方法で売り続けていると値
段はおそらく上がらないと思います。そうします
と、新商品を出すのか、新しい市場に打って出る
のか、新しいビジネスモデルを作るのか、この3
つしかありませんから、そのためには自社の強み
を理解し、その強みを生かした顧客は誰なのかを
まず明確にする。これがデフレに対応する手段だ
と思います。
商品開発もできません。広告宣伝も、マーケティ
ングもできません。
少子高齢化社会に対応する
ただ、これでも対応できない問題があります。
少子高齢化です。これは個人の力ではなんともな
りません。
少子化は論理的には止められます。子供が産ま
れれば良いのですから。しかし、少子化が進めば
人口が減りますから、間違いなく国内の市場は縮
小します。「少子化イコール内需の減少だ」と誰
もが思い浮かべます。「内需が減るなら外需だ」
と皆が言います。これは大きな誤りです。当社に
来春入社予定の学生にアンケートを取りました
ら、海外勤務拒否が6割もいました。原因は少子
化です。1.2 人しか子供がいない親が、我が子を
手元から離しません。中には東京支店への転勤ま
で拒否する社員もいました。そんな社員ばかりで
どうやって外需が取れると思いますか。
その一方で高齢化です。高齢化の要因は医学の
進歩です。私も人間ドックを 30 年以上も受け続
けていますが、40 歳を過ぎると再検査の嵐です。
そこでは生活習慣を改善するように言われ、お酒
を控えるように必ず言われます。そうやって高齢
化が進んでいくのです。それは同時に、当社の顧
客の減少を意味しています。高齢化で顧客が離れ、
少子化で新しい顧客も見込めませんから、「健全
な飲酒人口が極端に減っている」というのが当社
を取り巻く現状です。ところが、こういう時代に
もかかわらず、アルコール業界は真逆のマーケテ
ィングをしています。単価の高いビールから安い
第3のビールに切り替えています。安いからつい
多く飲む。それで健康を損ねてお酒を控えなくて
はならなくなる。また、清酒は1升瓶から2リッ
トルの紙パックになり、値段は下がっています。
値段を下げて短期間に大量に飲ませるこの方法
では、健康な飲酒人口がますます減少していきま
す。ですから、当社はこの路線は止めました。良
いものを、少しずつ、長く飲んでもらう。そのた
めに、4合壜で 5000 円の大吟醸を売っています。
5000 円の大吟醸を1日で飲み切る人はいません
ので、健康な人に飲み続けてもらうには、この方
宣伝の仕方が劇的に変わった
先程、広告宣伝の話をしました。今、テレビ局
はたいへん経営が厳しくなっています。その理由
は、不況のために企業がコマーシャルを出さなく
なっているからです。
しかし、私はテレビの見方が変わったからだと
思っています。今、ゴールデンタイムのドラマを
リアルタイムで見ている人はほとんどいません。
リアルタイムで見ている番組はニュースとスポ
ーツ中継の二つくらいしかありません。ドラマは
1週間分を録りためて、日曜日にまとめて見てい
ます。まとめて見ると何が違うか、といいますと、
コマーシャルを飛ばして見るようになります。最
近の機器は、そのための専用ボタンまで付いてい
ます。ですから、ゴールデンタイムのコマーシャ
ル料金は高い、という神話が崩壊しています。ど
の時間帯でコマーシャルを打っても飛ばれされ
るのであれば、飛ばされない本編に商品を出さな
いといけない、ということを考えます。BSでは
「吉田類の酒場放浪記」という番組があります。
吉田類さんがあちこちの居酒屋でお酒を飲んで
回る番組です。1時間の枠で4軒の居酒屋を回り
ます。そこでは、4軒のうち1軒には必ずキンミ
ヤが出てきます。その番組を私は録画で見ていま
すが、これは本編なので飛ばせません。これから
は、こういうことをどうやって仕掛けるか、だと
思います。お金をかけてゴールデンタイムを買っ
ても意味がない、ということに大企業も気付き始
めたのだと思います。この番組のスポンサーが洒
落ていまして、パンシロンです。吉田類さんがパ
ンシロンの宣伝をします。つい本編の続きかと思
って見てしまいます。この製薬会社も考えていま
す。
そんなことで、顧客は誰なのか、がたいへん重
要なことです。明日、会社で社員に聞いてみてく
ださい。きっと、皆さんが考えている応えとは全
6
●基調講演●
法しかないんです。少子高齢化の時代では、顧客
を大切にしていかないと、角をためて牛を殺すよ
うな方法では、あとで大変なことになると思いま
す。
社員満足は顧客満足
これまでは、商品開発や少子高齢化社会の話を
してきましたが、実は会社を経営していく上で3
つのキーワードがあります。一つは顧客満足(C
ustomer Satisfaction=
CS)、もう一つが社員満足(Employee
Satisfaction=ES)、3つ目が、
いま流行のCSR(Corporate Soc
ial Responsibility=企業
の社会的責任)です。この3つの観点から経営を
していかないと、企業は継続しない、と言われて
います。
今までは、顧客満足の話をしてきました。当社
は、
「日本国民全員に」ではなく、
「当社の商品を
本当に好きな人に」満足していただける商品を、
永く造り続ける。このことが、当社にとって顧客
満足を上げていくことになります。
一方、社員満足はどうやって上げたらよいか。
これはきちんとした調査をしないと量れません。
当社も既成の調査票を買って実施していました
が、これが間違いでした。給与・仕事の量・仕事
の質など約 20 の項目について、「たいへん満足・
やや満足・普通・やや不満・たいへん不満」の5
択で回答してもらい、毎年社員全体の平均を取っ
て、上がった、下がった、と、いかにも「やって
ます」という調査です。今から思えば、これは全
く意味がありませんでした。例えば給与ですが、
社長である私ですら、本音では「もっと欲しい」
と思いますから、ここで「たいへん満足」と答え
る社員がいたら眉唾です。逆に「たいへん不満」
という社員はとっくに会社を辞めていますから、
この回答もありません。5択に見えて実は3択な
のです。3択になりますと、数人の社員が気を利
かせて「やや満足」と回答したら、中小企業では
すぐに平均点が上がります。この調査に疑問を持
ったので、「社員満足日本一」と新聞で報道され
ている会社に調査に行きました。そこで聞いた方
法は、記述式で「あなたがこの会社に入社してい
ちばん嬉しかったことは何ですか」「いちばん悲
しかったことは何ですか」の二つだけ、というも
のでした。私は騙されたつもりでやってみました。
やってみて解りました。嬉しかったことのトップ
は「会社や商品を褒められたとき」で、全体の3
割もありました。逆に、悲しかったことはほとん
どが「商品へのクレーム」でした。顧客満足と社
7
員満足を分けて考えているうちはまだまだで、
「究極の社員満足は顧客満足である」ということ
が分かりました。
中小企業の社会貢献とは
CSR、企業の社会的貢献ですが、大企業は大
きな利益が出るとイベントを開催したりしてい
ますが、これは中小企業にはたいへん難しい問題
です。中小企業でいちばん多いのが、地域のお祭
りへの寄付です。名前と金額が貼り出されますか
ら、貢献度が分かりやすい。しかし、お金だけで
はないと思います。
私は健康のために、数年前から毎朝、散歩をし
ています。そのコースの中に、墓地へ行って帰っ
てくるコースがあります。始めた頃は、「宮 本
店の社長が毎日、先祖参りをするようになった」
と近所で噂になりました。そのうちに、朝早くか
らお墓参りに来ている地元の方々とも会話をす
るようになりました。2年前のことです、いつも
のように散歩に行きましたら、みんなが寄ってき
まして、「宮 本店が世界でただ1社、モンドセ
レクションで 25 年連続金賞を受賞した、と新聞
に出ている。楠の誇りだ」と言われました。その
時は本当に涙が出て、すぐ先祖に報告しました。
当社のような小さな会社が、私よりも人生のずっ
と先輩の方から「楠の誇り」と言われたときに、
地域の人から「この会社がここにあって良かった、
地元の誇りだ」と言われることが、中小企業にと
って唯一かつ最大の社会貢献である、と思いまし
た。そうやって考えますと、CSもESもCSR
も、実は身近な課題であることが分かりました。
私が目指す会社とは
最後に、いつもする話があります。私が目指す、
CSもESもCSRもできているような会社は
どんな会社なのか、という話です。その会社は、
日本ではありません。私は仕事は日本酒ですが、
●基調講演●
趣味はワインです。世界中のワイン愛好家が憧れ
る会社がフランスのロマネコンティです。安いも
ので1本で 20∼30 万円、高いものでは1本 100
万円以上します。たまたま機会がありまして、1
度だけ飲むことができましたが、その時は「もう、
死んでもいい」とまで思いました。
そのロマネコンティに2度、見学に行きました。
1度目はワイン仲間と行きまして、その時に「こ
の会社は当社が目指す会社だ」と思いましたので、
会社の研修費を積み立てて2回目は営業社員全
員を連れて行きました。行きますと、そこには小
さなブドウ畑がありまして、その真ん中にある十
字架の前で記念写真を撮るだけです。それが、ワ
イン愛好家にとっては聖地巡礼の証になるので
すが、その畑はブドウの種類ごとに囲ってありま
して、そのロマネコンティの畑で採れたブドウで
造ったワインだけがロマネコンティになるんで
す。そこでは、ブドウの質が変わらないように1
∼2日のうちに手でブドウを摘み終えます。社員
だけでは手が足りませんので、小中学校も休みに
して村中総出でブドウ摘みをします。そういう文
化なのです。ロマネコンティを摘む家系は代々決
まっていまして、1年に1回限りのパート労働だ
と思いますが、一見ただの主婦にしか見えないそ
の人はおそらく、ロマネコンティのためのブドウ
を毎年摘んでいることを誇りにしていると思い
ます。まして、ワインを仕込むその職人は、世界
一の社員満足度だと思います。
もしそのブドウに何かあって、畑のブドウが全
滅したとします。そうしますと、年間数百万人と
も言われているブルゴーニュへのワイントラベ
ラーはその1割も来ないと思います。ロマネコン
ティの畑の十字架の前で写真を撮るためだけに
行くのですから、それができないのであれば、誰
も行きません。地域貢献の視点で見れば最高の会
社です。顧客満足、一度飲んだら「死んでもいい」
と思わせるワイン。顧客満足で言えばこれ以上は
ありません。それを造っているワイン職人の社員
満足度は世界一。そのロマネコンティがなかった
ら、ブルゴーニュは終わりです。
この小さな畑でしか取れないブドウからしか
ロマネコンティが作れないのであれば、1年間に
つくることのできるワインは通常で 5000 本、最
高の年で 6000 本です。これを、1本平均 50 万円
で販売したとして、単純に掛け算をしますと 30
億円の年商になります。当社よりも少ないのです。
その年商 30 億円の会社が、顧客満足・社員満足・
地域貢献をやっているのです。
我々中小企業は、「こんな小さな会社に勤めて
いる社員に社員満足なんてあるはずがない」、
「う
ちの商品で本当に顧客は満足しているのだろう
か」、ましてや「社会貢献なんか大企業に任せて
8
おけばいい」と言っている場合ではないのです。
きちんとやっている立派な会社があります。それ
を見せるために、私は社員を連れて行きました。
それで、みんなで感動して帰ってきました。
その日の夕食では、社員は皆、ロマネコンティ
が飲めることを期待していたようですが、残念な
がらその期待には添えず、ギャラに対しての社員
満足はまだまだ低いな、と実感して帰ってきた旅
でした。
【基調講演・全体会スタッフ】
○実行委員長
宇佐美隆行(港地区)
中京高周波工業(株)・代表取締役
○副実行委員長
酒井 達也(岡崎地区)
さかい税理士事務所・所長
長尾 秀義(稲沢地区)
(株)ワールドクリーン・代表取締役
○司 会 高森由美子(西春日井地区)
○記
録
井上
一馬(愛知同友会事務局員)
(1100名が参加し、混雑する受付)
(分科会ごとに分科会会場へ移動する)
①分科会
第
<経営者の責任>
時代に対応し、変革し続ける企業になろう
~ 「蓄積された経営の英知」を活かして
報告者
~
美馬 徹氏(大阪同友会)
関西金属工業(株) 代表取締役
中同協経営労働委員会 副委員長
「同友会に蓄積された経営の英知」
を結集させた企業変革支援プログラ
ムは、自社の「同友会らしさ」の実践
度合いを確認でき、何をやるべきか、
気づきを与えるものです。会社のビジ
ョンを描き達成するため、プログラム
を活用して具体的なアクションプラ
ンを立て、激変する時代に対応した変
革をし続けられる企業をめざしまし
ょう。
【会社概要】
創 業/1962年
資本金/1000万円
社員数/12名
年 商/2億5000万円
事業内容
/食品用機器、化学用機器
の設計・製造・販売
http://kankin.com/
先週、八尾市の異業種交流グループで台湾視察
に行きました。台湾は中小企業の国で、殆ど中小
企業で国を支えています。しかし数年前から産業
空洞化が進み、7割の企業が中国など海外に出て
行ってしまい、日本と同じような問題を抱えてい
ます。ただ日本と違うのは、台湾の企業は海外に
目を向け、積極的に海外に出ていこうという姿勢
があることです。
日本の場合は、大企業グループのなかで育って
きた中小企業が多く、単独では動けない、
「受身」
の姿勢から抜け出せないという状況があります
が、これからはそれではだめで、中小企業一社一
社が自ら積極的に海外に目を向けて進出する、あ
るいは海外で市場を獲得する、といった動きが必
要だと感じました。
現に、中国から日本の製品を買いに来たりして
います。「日本のモノは高いから売れない」とい
うことは決してなく、いいモノは売れるというこ
と。逆に、必ずしも海外で安くつくれるとも限り
ません。
このように「外へ目を向ける」ことも取り入れ
ることで、日本の中小企業の可能性を引き出す切
り口はまだまだある、と感じて帰って来ました。
しかし、そうは言っても日本からは単独で外に
向かうのは難しいので、例えば数社で連携するな
ど、協力し合って進出しようと話し合ってきまし
た。
消費者を常に意識した設備製造
さて、我が社は八尾市で、主に食品製造設備に
関して、「問題・課題解決のご提案」というかた
ちで設備製造に携わっています。取り扱う設備は、
酒造からはじまり、食品関係、化粧品関係と、分
野・市場を少しずつ拡大してきました。ステンレ
スはさびにくく耐久性があり、一度導入すると 30
~40 年は持ちますから、その会社が伸びていかな
い限り、新たな発注はほとんど望めません。結果
として、必要に駆られて分野を広げていったとい
う事情もあります。また、容器だけでなく設備全
般を取り扱うことで幅広くニーズに応えられる
ようになろう、という考えのもと、ステンレス容
器を中心に、配管関係や専用機械・汎用機械の販
売や、お客様のニーズ・相談に応えて商品開発も
行うようになってきました。
設備の供給先は各メーカーですが、我が社は常
にエンドユーザーである消費者を意識した目線
を心がけて提案・開発を行っています。
10 年後のビジョンは掲げたものの…
私が同友会へ入会したのは 1990 年です。当時
はバブルの絶頂期で、人手確保の目的で入会した
のですが、先輩から「人を入れるためにはまず会
9
●第1分科会●
社を良くしなければ」と言われたのがきっかけで、
最初に経営指針の成文化を行いました。
その後バブルが崩壊し、数年間にわたって「足
下しか見ることができない」という低迷期を経験
しました。1999 年に、もう一度自社全体の見直し
を始め、2002 年に経営指針を再作成し、2003 年
には向こう 10 年間の自社ビジョンを発表しまし
た。当時は社員数8名でしたが、幅広い事業に対
応できる組織や体制をつくるために、規模として
36 名の会社をめざすことを決めました。社員数か
ら先に決めるという指針の作り方はある意味「邪
道」かも知れませんが、理念実現に向けて、客様
に満足いただける機能を維持するためにはこれ
くらいの企業規模は必要だ、と思って打ち出しま
した。それを軸に具体的な計画を肉付けしていく
形で進めました。
しかし数年は計画通り進んだものの、2005 年以
降は業績が伸び悩みました。2006 年には若干の組
織変更をして機能の充実を図りましたが、2009 年
には主要な職の社員が辞めていく事態になりま
した。
そのこともあり、2009 年に「企業変革支援プロ
グラム・ステップ1」発表に伴って、社員全員で
診断を行ったところ、経営指針が思いのほか浸透
していなかったことに気がつき、あらためて指針
を見直すことにしました。
「同友会らしい企業」の実践度をはかる「ものさし」
自社での実践を紹介する前に、同友会理念・運
動と「企業変革支援プログラム」の関連について、
おさらいをしておきます。
同友会運動は、特に労働争議など労使の問題に
直面する中で発展を遂げてきました。その中で培
われてきた考え方をまとめたものが「労使見解」
であり、
「三つの目的」
「自主・民主・連帯の精神」
「国民や地域と共に」という同友会理念です。
全国の経営指針成文化運動を見てみますと、う
まくいっているところ、そうでないところと開き
が見られます。この差は実は「労使見解」をきち
んとベースにしているかどうかにあります。「労
使見解」の第1章「経営者の責任」の中で「われ
われ経営者は資金計画、利益計画など長期的にも
英知を結集して経営を計画し、経営全般について
明確な指針をつくることがなによりも大切です」
と書かれています。全国での「明確な指針とは何
か」という議論をきっかけに始まり、広まってい
ったのが経営指針運動です。
しかしここ数年、「経営指針を作って、本当に
会社は良くなったのか」という議論が各地同友会
で増えてきました。せっかく指針を作っても引き
出しに入れっぱなし、という話も多く聞かれます。
それは、指針を実践しても、どの程度めざす企業
像に近づいているのか測るものが無かったのが
一つの要因としてあり、それで、共通の「ものさ
し」をつくってみよう、ということででき上がっ
たのが「企業変革支援プログラム」です。
売上・利益・自己資本比率などの外見に出る数
値だけを「ものさし」にするのではなく、社内の
人に対しての考え方、取引先や社会との関係、利
益に対しての考え方、そうしたものを取り入れて
「ステップ1」ができました。
「企業変革支援プログラム」の「変革」という
単語には大きな意味があります。時代の変化に対
応すると言っても、細かな戦術や枝葉部分の戦略
を変えるだけなら「変革」とまでは言えないと思
います。「変革」とは、戦略の根幹部分や、時に
は理念の部分まで踏み込んで考え方そのものの
転換をはかったり、事業領域の転換をもはかった
りするものだと考えています。たとえば、これま
でものづくりをしていた企業が製造をやめてサ
ービス業に転換するなど、大胆な決断をしていく。
そういった「変革」が必要な時代に突入している
と思います。
その中で企業として取り組むべきこと、同友会
として取り組むべきことを考えていきます。
企業として取り組むべきことの中では、経営指
針の全面的な見直しがありますが、その中で経営
理念の「社員の幸せ」「社会貢献」など考え方の
基本は恐らく変わらないでしょう。しかし環境変
化に即して、戦略やあるいは事業領域などを大幅
に変えていくことはあると思います。
そういう「変革」を行うのにまず必要なことは、
自社がどのような状態でどの立ち位置にあるの
か、を見極めることです。その上で具体的にどう
するのかを考えていくことが必要です。こうした
取り組みを「支援」するのが「企業変革支援プロ
グラム」です。
また同友会の活動や組織のあり方についても、
各社の変革や新たな経営課題の解決に結び付い
ていくように、
「変革」が求められると思います。
「企業変革支援プログラム」は同友会自体の変革
も目標としています。
「ステップ1」の意義と活用のポイント
では企業変革支援プログラム・ステップ1につ
いて、ポイントを説明します。
まず1ページの「発刊にあたって」に書かれて
いますように、プログラムは「労使見解」「三つ
10
●第1分科会●
の目的」「21 世紀型中小企業」といった見解・考
え方、いわゆる「蓄積された経営の英知」の一つ
の集大成です。
また同友会では、「労使見解」をベースにした
指針・採用・共育といった経営実践を進めていま
すが、成果がどれほど上がっているのか、それを
経営者自身で確認する「セルフアセスメント」を
行うための材料として、ステップ1があります。
自社の強みや弱みに「気づき」、それをもとにし
て変革のために実践すること、これが重要です。
またプログラムの運用と同友会運動とのかか
わりにも触れています。例会や普段の活動の中で
プログラムをお互いに使ってみる、さらには気づ
いた経営課題を例会テーマにしたり、新たな研究
会を立ち上げたりなど、同友会活動と絡めた活用
を勧めています。
さて、実際の診断は、まず経営者自ら行って下
さい。カテゴリーごとに0から5の「成熟度レベ
ル」をつけていきますが、決してレベルの「数字」
を追ったり競ったりするのが目的ではありませ
ん。自社の現状の姿のイメージを持つことと、な
ぜこのレベルなのかを考えていくことで、自社の
立ち位置や経営課題に気づくこと、これが最も大
切です。自分が今まで意識していなかった面の課
題が見つかることも多々あると思います。
また、次は社内で幹部社員や全社員にも実施し
てもらうことで、違う視点からも経営課題が見え
てきます。社長と社員の「会社を見る目」の違い
に驚くこともあると思いますし、社員に会社全体
のことを考えてもらう上でも大切な事だと思い
ます。
同友会の中で使う例としては、大阪では例会テ
ーマがプログラムの項目に沿って立てられるこ
とが多くなりました。企業にとっても同友会にと
っても、必要な課題をピンポイントで議論するに
は格好の材料です。また、増強やオリエンテーシ
ョンの場面などでも役立てられると思います。
均は 1.7 とかなりの開きがありました。自分では
「できている」と思っていたことが、社員目線で
は「全くまだまだ」というわけで、こんなにも認
識に差があるのかと愕然としました。レベルの差
が1を超える場合は、かなり大きな認識の落差が
あるということです。
他には 4-4「自社の強み、弱みの分析と把握」
では社長3に対し社員 1.4 です。これは、社長が
思っているほど自社の強みが社員に伝わってい
ない、社員が理解できていない、ということです。
5-5「新事業への取り組み」に至っては社長2に
対し社員 0.8 でした。自分としては事業拡大に頑
張っているつもりですが、社員からは「ほとんど
何もしていない」と思われているわけです。私が
「かなりできている」と思っていた部分が、社員
にとってはまだまだ不足であったり認識されて
いなかったり、という現実が浮かび上がってきま
した。
このように、社長と社員とで診断結果に大きな
差がある部分は、早急に実態を分析して対応すべ
き課題だと言えます。
逆に、社長よりも社員の方が高いレベルになっ
た部分もあります。例えば、1-4「企業の主要数
値の把握」については、社長3に対し社員平均は
3.1 でした。つまりレベル4「全社実践され改善
されている」とつけた社員もいるということです。
1-5「企業の社会的責任の自覚」については社長
2に対し社員 3.0 と社員の方が高く、「社会的役
割・責任」についての理解の仕方に開きを感じま
した。確かに個人的には地元地域に対しての取り
組みをやっていますが、会社としての取り組みで
はないと認識していました。
診断の結果、低いレベルの項目が改善すべき点
ですが、このように、経営者と社員とで大きなギ
ャップがある部分も重要で、その原因を分析する
ことが、自社の経営課題を発見する大きなポイン
トだと思います。そして発見した課題を経営指針
に落とし込んで、具体的な改善・実践につなげる、
これが「ステップ1」の企業での基本的な活用法
だと思います。
全社診断で浮き彫りになった社内のギャップ
さて、我が社では昨年 11 月に、全社で「ステ
ップ1」による診断を行いました。私の診断では、
理念に関する部分は比較的高く、戦略や顧客満
足・付加価値に関する部分が低くなっています。
このあたりが経営課題なのではないかと考える
ことができます。
これを社員による診断の平均と比較してみま
すと、社員の診断結果は思いのほか低いというの
が率直な感想です。またカテゴリーによっては大
きなギャップが見られます。例えば、3-3「労働
環境の整備」については、社長が3に対し社員平
11
●第1分科会●
ます。診断の全国集計結果は、同友会運動に今後
何が必要かを示唆しているのではないでしょう
か。
そこで同友会においては、例会で戦略や付加価
値をテーマとして事例を取り上げたり、戦略を学
ぶセミナーや研究会などを開催したりするなど
の展開も必要なのではと思います。
このように「企業変革支援プログラム・ステッ
プ1」は、自社の変革はもちろん、同友会運動を
も変革するための材料として、大きな意義を持っ
ています。
経営指針の成文化と実践・「プログラム」活用
による自社認識と変革の取り組み、これは中小企
業が今の時代を生き残り、発展を遂げるためには
「好き・嫌い」ではなく「やるべきこと」「しな
ければならないこと」だと思います。各社内での
取り組みはもちろん、ぜひ同友会内に広く「プロ
グラム」を広めて活用し、企業も同友会運動も変
革・進化をはかっていきましょう。
診断結果を分析し、具体的実践につなげる
もっと具体的に社内のギャップを調べていき
ますと、特に製造と営業の間で考え方にかなりの
相違があることが分かりました。自社ビジョンで
は元々、顧客ニーズに幅広く効率的に対応するた
めに、会社に多くの機能を持たせて部門ごとに分
社化することをめざしていましたが、社員数が少
ない間は分社化のデメリットもありますので1
つの組織でやってきました。しかし今回、製造・
営業の意識の差を発見したことを受けて、それぞ
れの部門を独立採算制にし、本格的な分社化へと
動き出しました。
1つの組織でいるあいだは部門間でお互いに
責任転嫁をし合うという状況もありましたが、組
織を分けることによってお互いが自分の部署の
仕事に対して責任を持つようになってきたと思
います。分社化の目的はあくまで会社の多機能化
ですが、分社化による責任感向上によってコスト
意識や採算性、社員増員の必要性などを社員が持
つようになり、社員が自分たちで仕事のあり方を
考えるように変わってきましたので、その効果は
大きかったと思います。
企業変革支援プログラムで自社の状態や問題
点・社員との意識の差を、私自身が明確に認識で
きたことが、分社化を早めるという具体策に踏み
切るきっかけとなりました。この判断が果たして
正しかったのかどうか、今後再びプログラムなど
による検証を行っていきますが、自社の状態や課
題を明確に把握し、社内で共有し、さらに変革の
ための方針や具体策を講じていくことは、今どの
企業においても必要な取り組みだと思います。
【第1分科会スタッフ】
○座
長
吉田 幸隆(知多北部地区)
エバー(株)・代表取締役
○室 長 荒川 仁詞(名古屋第4青年同友会)
(株)SBN・代表取締役
○責任者 池野 雅道(豊田地区)
(株)愛農流通センター・代表取締役
○グループ長
安部 敏朗(北地区)
磯貝 孝行(碧南・高浜地区)
倉野 義和(愛北地区)
辻
明 茂(中区南地区)
舩橋 裕之(愛北地区)
松田 良平(天白地区)
山本 明善(豊橋地区)
○実 行 委 員
林
俊 宏(天白地区)
平野 匡彦(名古屋第2青年同友会)
渡邉 雅弘(刈谷地区)
玉田 徳裕(豊明地区)
長澤 哲男(守山地区)
横井 光弘(名古屋第5青年同友会)
○労務労働委員会
青木 義彦(海部・津島地区)
大島 良和(江南・岩倉地区)
小森 隆幸(緑地区)
企業も同友会も「変革」を
さて、企業変革支援プログラムを、同友会とし
てどう活用するかですが、診断データを集約する
とどの同友会でもグラフは同じような形になる
ようです。すなわち、理念に関する部分は比較的
成熟度が高いが、戦略や付加価値については総じ
て低い傾向が出ます。
これはこれまでの同友会運動の中身そのもの
が反映されているものと思います。つまり、理念
経営を標榜する同友会運動が、経営理念や人間尊
重の経営に関しての学習は厚い一方、戦略や付加
価値向上についての学習は薄かったということ
です。同友会会員がめざす「強靭な経営体質」に
なるには、理念はもちろんまず必要ですが、利益
を上げるための具体的な戦略立てや商品やサー
ビス開発などが欠かせませんし、そうした企業に
ならなければ生き残れない時代に入ってきてい
○記
12
録
政廣
俊介(愛知同友会事務局員)
②分科会
第
<経営者の責任>
「夢と誇りの持てる、活力ある企業づくり」へのあくなき挑戦
~ 社長の想いを共有する、逆境こそ一番の修行期間 ~
報告者
大野 正博氏
(有)中部製作所
時代の転換期を迎えて、経営者の
器・自社の価値が問われています。経
営環境が大きく変わる中でも、経営者
と社員の間に揺るぎない「信頼関係」
があれば乗り越えて行けるはずです。
労使見解を学び、経営指針を確立し、
社員教育実践の中で、社内の直面する
課題と社員に真摯に向き合う姿勢か
ら「想いの共有」について学びます。
代表取締役
(中川地区)
【会社概要】
創 業/1930年
資本金/300万円
社員数/21名
年 商/5億8000万円
事業内容
/ボルト・ナット・締結部
品製造販売
http://www.tyubu.co.jp/
繊維機械などの産業に関わる機械の部品やネジ
を供給している会社です。メイン事業はボルトで、
そういう面では中部地方は恵まれています。工作
機械のビッグスリー(マザック、オークマ、森精
機)が集まっているからです。そんな恵まれた中
で商売をさせて頂いてきました。
会社概要
中部製作所は私の祖父が初代社長で、昭和 14
年に笹島で創業し、小さな旋盤を入れてコツコツ
とモノを作るところから始まりました。
私が三代目で、二代目は親父が4年前までやっ
ていました。48 歳で社長に就任したので、社長歴
から言えば皆さんよりも新参者だと思います。
会社は熱田区六番町にあり、事業内容は鋲螺商
でボルト・ナット・ビス(以下ネジ)の卸売と製
造販売をしています。創業者である祖父は工場を
営んでいましたが、親父の時代に工場を止め、卸
売に移って行きました。
その背景として、親父の時代は、中学生は「金
の卵」と呼ばれ、九州から集団就職で工場に来て
働いてもらっていましたが、正月に里帰りをする
と正月が明けてから誰も帰ってこない事態が起
こり、「これではいかん」と思い親父は商品を問
屋さんから仕入れて販売するという商社機能を
少しずつ取り入れていきました。
そして、工員に「機械をあげるから独立しなさ
い」と言って、機械を分け与えて独立させていき
ました。それからは最近まで販売商社として卸売
一本でやってきました。
現在、従業員は 21 名、年商5億4千万円、お
客様は産業機械が主です、工作機械・産業車両・
生い立ち
私の生まれは名古屋ではなく、滋賀県の近江八
幡市で、昭和 33 年に生まれました。近江八幡は
天秤棒で有名でして、近江商人の発祥の地と言わ
れ、「近江商人が通るとぺんぺん草も生えない」
「倹約家が多く、大豪州が多く生まれている」と
言われている町でした。高校を卒業するまでそこ
で暮らし、大学は名古屋に来ました。
21 歳の時に知り合ったお嬢さんがネジ屋の娘
さんで、そこから7年間お付き合いをし、28 歳で
結婚しました。大学を出てからは流通業の会社に
入社し、5年くらいサラリーマンをやっていまし
た。その当時の流通業は、毎年倍々ゲームのよう
に売り上げが上がって行きました。私が入社した
時の社員番号は 127 番だったのですが、今では
7000 番くらいになっているのではないかと思い
ます。
13
●第2分科会●
探すようになりました。
「これが入手できるかね」
ではなく、手に入ることはわかってしまい、量が
多い時はメーカーに直接値段を聞いたりするこ
とがあったりと、我が社はどんどんと単なる仲介
役という存在になっていきました。商社・小売
業・問屋業・流通業の俗に言う「中抜き」になっ
てきました。また、円高による空洞化がリーマン
ショック以後顕著になってきました。このままの
御用聞きだけでは我が社の存在自体が危うい、と
いう認識が生まれてきました。
入会動機
そして、結婚を期に先のことを考えた時、あと
2年すると 30 歳、その時になってからバタバタ
するのも嫌だし、頭を下げるのも 30 歳前の方が
良いと思い、結婚と同時に会社を退職し、お嫁さ
んの実家のネジ屋を手伝うことになりました。
入社当時は、従業員は全員で6人程でした。親
父が採用した方々ばかりで、全員が私より年上で
不安でしたが、とても喜んでいただけました。ほ
とんどの従業員は「この会社どうなるのだろう
か」「親父さんと一緒にこの会社も終わるのじゃ
ないか」「娘さん二人だけで後継ぎがいないし」
と思っていたのだと思います。
18 歳で名古屋に来て、36 歳になると名古屋が
第二の故郷に変わってきました。仕事だけをやっ
ていて、遊びを一緒にする仲間や相談する方がい
ないと人生楽しくない、と思い、そういったこと
ができないのかと思っていたときにこの会を薦
められ、良き仲間づくり、良き友人づくりがした
いと思い、二つ返事で入会をしました。
番頭の退社
私の会社には、祖父の代からよくやってくれて
いる親分肌の番頭がいました。私が営業部長をや
っていたとき、番頭は統括部長をしていました。
祖父の代から働いていて責任感も強く、頭も良い
番頭で、私には言いたいことを言ってくるため、
よくぶつかり合っていました。
入社して5~6年経ったときには、自分が社内
でいちばん売り上げを上げるまでになり、社員が
自分の言うことを聞いてくれるようになりまし
た。番頭も同じように話を聞いてくれるのではな
いか、と思い上司に話をしましたが、上司からは
「君は危険だね」
「裸の王様になりたいの」
「あな
たがそう思っているからみんながものを言えな
くなるんだよ」と言われました。
自分がいちばん働き、一番になることが大切だ
と思っていました。そこでも番頭とは意見が対立
していました。しかし、その番頭がいてくれたお
かげで会社は継続して営業でき、家族も無事に育
ったことを考えると、好きか嫌いかで言うと決し
て好きではないですが、非常に感謝の気持ちを持
つようになりました。そこで、自分が社長になっ
た後も定年の 65 歳まで働いてもらいたいと思い
ました。そこで番頭に聞いたところ 70 歳までは
やりたいということで 70 歳まで働いてもらおう
と思いました。
先代との関係
入会後は名古屋第3青同へ所属しました。そこ
では親父さんの悪口を言っているメンバーが多
かったです。私と先代の関係は、俗に言う「婿養
子」という関係でした。実際自分はそこまで喧嘩
をしていなかったですし、最後の最後までは言わ
ないようにしていました。親父もそれなりに気を
遣っていたようで、「言ったらいかん」と思うこ
とは言わず、お互いに遠慮をしながら今までやっ
てきたというところです。そのおかげで家庭も円
満で、業績も好調を維持できたのだと思います。
親父と 21 年間会社にいましたが、
「親父の好き
にすればいいよ」と言って、親父の下でやってい
ました。私が 48 歳の時に親父から「社長をやる
か」と言われ、やっと社長になったところです。
時代の変化
私が社長になる数年前から時代の変化があり
ました。昔は、機械メーカーでネジが必要なとき
は、購買部の担当者から「中部さん、こういうネ
ジが欲しいんだが手に入るかね」と言われ、毎日
のように御用聞きの営業をしていました。ネジを
覚えて一生懸命やればかわいがってもらえる。
「これが商売なんだ」と思っていました。程なく
してパソコンが入ってきてインターネットが普
及し始め、設計エンジニアが自分で欲しいネジを
14
●第2分科会●
パワーバランスの変化
しかし、その後ISOの所得やパソコンのデー
タを共有するといったことに取り組み始め、高齢
の社員や番頭はついてこられない状況になって
いました。しかし、番頭は相変わらず若い社員を
昔の価値観でしかりつけることが多く、社員から
「社長いい加減にして下さい」「番頭さんを辞め
させて下さい」「うるさくてたまりません」と言
ってくるようになっていました。
私が営業部長をやっている時は、社員は全員が
番頭の味方で、私も社員でしたが経営者の息子と
いうことで「番頭対私」でしたが、今では番頭か
ら社員が離れて行き、私が採用した社員が多くな
ってきたため、社内のパワーバランスが変わって
きました。
しかし、それでも祖父の代からここを支えてく
れた方だから、番頭は 70 歳まで使いたいと思っ
ていました。一生懸命やれば、70 歳まで雇っても
らえるというのを示したかったことと、先代があ
って今の自分があるということも示したかった
からです。自分のご先祖を悪く言っている人は、
自分の顔の上に向かって唾を吐いていることと
同じで、やはり先代があって今の自分があり、自
分が全てを築いてきたわけではないため、思い上
がってはいけない、と感じてほしかったのです。
そうしたことで、番頭とは意見が合わなくても自
分の中では大切にしていきたいなと思っていま
した
しかしあと一年というところでリーマンショ
ックが起こり、どうしても切らなければならなく
なった時は、とても辛いものがありました。
とができました。
売り上げが落ちたにもかかわらず黒字になれ
たのは、同友会で様々なことを学び、先手を打て
たことがいちばんの要因になったと思います。
自社の価値
運び屋をずっとやっていていいのか、自社の価
値は何なのか、モノを運ぶだけなら運送業が倉庫
を持って在庫を持てば全て商社も何も要らなく
なってしまう、万が一そんなことになった場合、
我が社はどう生き残るのか。
そう考えた時に、「ごみ屋をやりたい、ごみ掃
除をやりたい」と思いました。それはつまり、お
客様の困っていること、小ロットの細かなものや
短納期などのうっとうしいものはどこにでもあ
るため、それをかき集めてやっていけば何とか生
き残っていけるだろうと思いました。
量産品ばかりをやっていては海外の競争につ
いていけないと思い、それを社員に伝え、仕事を
取ってきてもらうようにしました。しかし、取っ
てきた仕事を協力工場に持って行っても、協力を
してくれませんでした。一つや二つだけの小ロッ
トで短納期の仕事は誰もやってくれませんでし
た。
人材と人件費
その中で、どう人を見極めるかを自分なりに考
えた時に、人に支払うお金を、人財(投資)とし
てみるのか、人件費(販売管理費)として見るの
かで見極めていきました。人財は同じ価値観を持
った方、会社にとってプラスになってくれる方を
人財(財産)として考えると、今後も雇っていく
べき人になりますが、人件費は販売管理費に入る
ため、利益を出すためには当然圧縮しなければな
りません。その考え方の下で、何とかリーマンシ
ョックを乗り切っていきました。
リーマンショック後は売り上げが8億円から
5億円に下がり5千万円の大幅な赤字を出しま
したが、人を見極め、番頭が退社し、同友会で学
んだ法人税の還付金等の知識を活用したことに
より、2期目には売り上げがさらに4億円まで落
ち込みはしましたが、1千万円程の黒字を出すこ
第二創業を目指す
社長になってから、以前から考えていた、工場
を立ち上げようと思いました。3年前から土地も
探していて、色々と悩みましたが、そこで見えて
きたこともあります。それはその土地それぞれの
価値です。同じ面積の土地でも場所によって、そ
の土地の周辺環境が違うのです。道路環境や価格、
利用価値が違うことに気づきました。
仕事は、65 歳の工員にやってもらおうと思いま
したが、その人だけでは人手が足りず、人を募集
して機械を買い、工場を立ち上げて第二創業を目
指しました。
15
●第2分科会●
てくれているのです。
彼はリーマンショックの時にビス関係の仕事
を取ってきてくれ、今では売上の 10%を占めるほ
どにもなっています。
しかし思うように人が集まりませんでした、最
初に採用したのはイラン人でしたが、たった3日
で「こんな仕事は嫌だ」と言って辞めていきまし
た。立ち仕事で暑いため、やっていられないとの
ことで、とてもショックでした。
今度は中国人を採用しました。この方は一年間
お客様の工場に修行に預けた結果、お客様のご厚
意で、使っていた機械と仕事を一緒に渡してくれ
ました。
経営者の器
その「ナンバー2」という自分より優秀な人を
何人使うことができるか、が経営者の器なのだと
思います。彼は、「早く祖国に戻り若者を育てた
い」と言っていますが、私は一生懸命に引きとめ
ようとしています。
また、会社は社長の器以上には大きくなりませ
ん。社長は「いかに自分の器を大きくするか」を
考えていくことが大切です。そんなに簡単に大き
くなるわけではないですが、自分の器は内側から
見るのでなく、外側から見て頂きたいと思います。
同じ器でも中から見るのと外から見るのとでは
大きさが違うのです。
自分の器が見えないときは、他の人の判断基準
(器)を見ることによって自分の判断基準と相手
の判断基準を比べると、自分の器が見えてきます。
しかし、社長の器だけでは人はついてこず、人と
しての魅力が必要だと思います。一方によらずブ
レない魅力を持つことが大切で、それは個人個人
が持っている「哲学」ではないかと思います。個
人が持っている哲学を通して、会社のことを考え
ると経営理念になるのではないでしょうか。
社内の付加価値向上
そんな中で工場がスタートしていきました。し
かし採算の合わない仕事を取ってきてもやって
いけません。何とかバランスを取ってやっていか
なければならないため、内製化を進め、外に出て
いくお金を少なくしていきました。
また、お客様に自社の商品をPRするため、ホ
ームページを作成することにしました。しかし、
業者に依頼すると高くつきますし、自分たちの更
新したい時にリアルタイムで更新できないのは
どうかと思い、社員に作ってもらいました。それ
はけっして格好の良いものではありませんでし
たが、社内で今いちばんPRしたいものをリアル
タイムで全て更新できるようにしました。
そういった取り組みを通し、社内の付加価値が
向上してきました。
ナンバー2
経営理念
私には右腕になるナンバー2がいます。現在 42
歳のエルサルバドル人です。彼は、エルサルバド
ルの首都・サンサルバドルの生まれで、その国で
一番良い大学に入学し、アメリカの大統領の奨学
金制度に受かり、アメリカで教育を受けたとても
優秀な方で、言語は母国語のスペイン語から英
語・ポルトガル語・イタリア語と言葉が堪能です。
その上、義理堅くてジョークがとてもうまく、い
つも感心しています。
そんな優秀な彼がなぜ我が社にいるかという
と、彼がアメリカの大学を卒業したとき、祖国で
は紛争が起こっていました。そこで、いつ兵役に
召集されるかわからないため、奥さんの知り合い
を通して来日し、我が社にきました。しかし、そ
んな優秀な彼は、10 年に1回、母国の外務大臣が
来日した際に必ず呼ばれ、いつも「なぜそんな小
さな会社で仕事をしているのか」と言われるそう
です。現に彼と一緒に留学した人は、自国へ帰り
官僚をやっているそうです。それでも彼は、日本
に来て雇ってもらえたことに義理を感じてやっ
我が社の経営理念は、「お客様の笑顔を絶えず
勝ち取る為、当社のサービスの向上に努め、社会
に認められる企業としての繁栄と従事する者の
幸福を追求します」となっています。これは当た
り前のことを掲げていますが、キャッチフレーズ
として「一流の“社会人”を目指す中部製作所」
ということを掲げています。
“社会人”
社会人の「社」とは、「社会に認められる」の
「社」です。お客様や社会にサービスを提供し、
お客様からどうやって呼ばれるのか「おいっ」な
のか「コラ」なのか、ちゃんとお客様から「○○
さん」と呼んで頂ける存在価値になりましょうと
言っています。
「会」とは、会社に対する価値観とは何かを示
したものです。会社とは一つのツールだと思って
います。会社とは、社員が成長し、満足と幸せを
16
●第2分科会●
て、5項目だけ付け加えました。行動指針は小・
中学生でも理解できる内容ですが、全ての項目が
できる人は少ないと思います。そして、仕事をす
る際は全て行動指針に照らし合わせて行います。
「なぜ売れないか」「どうして不良がでるのか」
「報告をちゃんとしていたか」など、仕事の中で
うまくいかないことを追求していくと、行動指針
のどこかに当てはまり、
「お客様が悪いのでなく、
あなたが悪いのですよね」となり、お客様のせい
にしないようにしています。
行動指針を 100%守れば絶対うまくいくと感じ
ます。人からは信頼され、素晴らしい人生を送れ
るのではないでしょうか。しかし、人には必ず苦
手なものがあります。そこで、行動指針はボーナ
スの評価基準にも使用し、全項目の中で苦手な2
項目を出し、それを1年間の活動目標とし、苦手
項目は3点、普通は1点、達成できたものは2倍
になり、その合計点でA~Cのランク付けをし、
ボーナスの金額が変わってくるようにしていま
す。
現実にするために存在し、共に発展する場である
と考えています。中にいる人間が生き生きのびの
びと働いている会社の方が良いはずです。
会社は人でしか成り立ちません。マネーゲーム
をしている会社もあるかもしれません。しかしお
金だけを儲けることが幸せなのでしょうか、関わ
りあう人はどんな人でも良いのでしょうか。「人
は常に素直な心で前向きであれ、共有の価値観を
持った者が集結し会社を形成する。」とあります
が、いちばんは素直な心だと私は思っています。
私の考える素直な心とは、自分が失敗した時、悪
かったと思った時に、人前で「すみません」と謝
れることだと思います。反省なくして進歩はあり
ません。そして前向きでなければいけません。そ
ういった同じ価値観の元に同じ会社で一緒に仕
事ができることが幸せなのだと感じます。
また、キャッチフレーズの前に「一流」と付け
ていますが、なぜ一流かと言うと、ネジは機関が
定めたJIS規格から外れるものはすべて不良
品となり、大阪で買おうが沖縄で買おうが全て同
じ品質が保たれています。そんな中、1つの会社
に 10 人の営業マンが同じネジを持って行き、
「買
って下さい」と言った場合、誰から買いますか。
その人にとっていちばん信頼のおける人、情報を
持っていそうな人、頼りになる人から順番に買っ
ていくはずです。ですから私たちは一流でなけれ
ばお客様に選んで頂けないのです。そういうこと
をいつも社員に伝えています。
社員との信頼関係
私の社長就任時、社員は 10 名程でしたが、一
時期 29 名まで増え、現在は 21 名となっています。
最近まではずっと中途採用をしてきました。そん
な社員を少し紹介させて頂きます。
中国残中孤児の孫の方は、現在 27 歳で工場長
をして頂いています。一家を支えるために、高校
に行かず 17 歳から働いていました。7年間ずっ
と夜勤で人と話すことをほとんど必要としない
職場で働いてきた経過もあり、コミュニケーショ
ン能力があまりありませんでしたが、一生懸命働
いて一家を支え、弟を大学まで通えるほどにし、
お父さんは大手の電機メーカーに就職すること
ができました。そんな彼は現在、一人で工場のこ
とは排水管から機械へのプログラミングなどす
べてを切り盛りできるほどの人財になっていま
す。
元臨床検査技師の方は、私が「自社
で商品を検査できるようにならなけれ
ばいけない」と考えていたときに面接
に来たので、今まで人の体を見てきた
のだから、
「ネジの一本や二本検品でき
るでしょ」と言い、商品の検査をやっ
てもらいました。しかし彼は「ネジが
こんな難しいものだとは思いませんで
した。以前の職場では患者さん相手に
上から物を言えましたが、今はお客様
の所に行くと教えられるばかりなので、
逆に面白い」と言ってくれています。
行動指針
一流の社会人になるために、行動指針を掲げて
います。これは毎日の朝礼で社員もパートさんも
全員で唱和をしています。5年間続けてやってい
るため、今では行動指針が書かれたカードを読ま
なくても唱和できるようになっています。
行動指針は、同友会のある会員さんが「あいど
る」にアップしたものをそのまま真似させて頂い
17
●第2分科会●
精神障害の方は、元システムエンジニアで、幻
聴が聴こえたり、「人がテレビから出てくる」と
言ってテレビに物を投げつけたりしていた方で、
病院を出てからは訓練所でフライス盤を習って
技術を習得したのですが、中々採用してもらえず
にいました。そんな中、我が社に面接に来て、彼
を採ることにしました。社員からは「なんであん
な人をとるの」と言われましたが、彼は面接の時
に過去の会社で失敗したことを素直に私に話し
てくれたので、「この方は素直な方だ」と思い、
採用を決めました。
この方は、社内でお金を貸し借りしている社員
がいることを知り、その社員のことを心配して私
に伝えてくれました。そうした社内のことを心配
してくれているのはありがたいと思います。
今では、昔にいた施設に呼ばれ、社会復帰できた
ことで講演を行うまでになっています。また仕事
においても、誰もが品違いを起こしていた仕事を
やってもらったところ、始めてから今までずっと
不良ゼロでやってくれています。彼は素直なので、
わからないことは全部聞いてくれます。そういっ
たこともあり、品違いがゼロになっています。ま
た、ホームページの更新もできるため、今ではと
ても重要な役割を担ってくれています。
上場のハウスメーカーで元営業マンだった方
は、我が社の行動指針に共鳴して入社を決めてく
れました。今では営業課長をして頂くまでになり
ました。
共同求人
「一流の社会人を目指したい」と思う人と一緒
に仕事がしていきたい、と思い、一昨年から共同
求人に参加して新卒採用を始めました。
採用基準は「素直な方」です。採用試験の内容
を少し紹介しますと、「ボルトとワッシャーとナ
ットを 20 個ずつ渡し、ボルトにワッシャーを入
れてナットで締める」という簡単な作業をしても
らいます。そこにはわざとワッシャーを一枚余分
に入れておきます。そうすると 20 セット作った
後に、見直す方、隠す方、余りましたと言ってく
る方、様々な人がいます。そこで隠す人は素直で
はない人だと思えるため、お断りします。
また、経営理念も語り、同じ価値観を持った人、
共感してくれる人を採用していきたいと思って
います。
しかし、中途でも新卒でも、経営理念を一度伝
えたからといって、入ってすぐに実行してくれる
わけではありません、実行できるようになるまで
言い続けていく、という諦めない姿勢が大切にな
ってくるのです。
また、10 年後の将来を見据えることができる若
い社員を育てることが社員教育だと思います。新
卒で入り、10 年後に自分はどんなポジションなの
か、未来が見えると「がんばろう」と思えると思
います。そこでナンバー2には年収 1000 万円を
取ってもらいたいと思っています。まだ、少し足
りないのですが、何としても出したいと思ってい
ます。
これからも、社員さんたちと共に良い会社を作
っていきたいと思います。
【第2分科会スタッフ】
○座
岡井 邦茂(港地区)
(株)ウエストコースト・代表取締役
○室 長 神田季久代(名古屋第4青年同友会)
アリス労務管理事務所・社会保険労務士
○責任者 古橋 孝太(名古屋第4青年同友会)
(株)雀おどり總本店・代表取締役
○グループ長
奥 村
修(西春日井地区)
加藤巳千彦(南地区)
川角 暁政(碧南・高浜地区)
北村 和也(尾張東青年同友会)
菅原 直樹(名古屋第4青年同友会)
鈴木 重雄(岡崎地区)
恒川 康典(中村地区)
村上 浩二(緑地区)
山口 幹生(熱田地区)
○実 行 委 員
阿部 敏也(愛北地区)
井本 佳宏(豊橋地区)
隅田 省三(北地区)
中星 良雄(名東地区)
島 宗
孝(中区南地区)
菱田 峰高(瀬戸地区)
○記
18
長
録
服部
勇佑(愛知同友会事務局員)
③分科会
第
<経営者の責任>
将来の柱になる事業を今見つけよう
∼
5年、10年先をみて今、手を打つ
報告者
鳥越 豊氏
(株)鳥越樹脂工業
会社の舵取りに悩んでいる方は多
いと思います。鳥越樹脂工業の鳥越社
長は従来 100%自動車関連の下請けに
不安を抱き、自社の機能を最大限いか
し、脱自動車を行ってまいりました。
その結果今では自動車関連の売上高
はそのままで、売上げ構成比を 40%ま
でにしてきました。5、10 年先をみて、
今まさに何をしなければならない
か?それらに気づき、実際に行動につ
ながる様な分科会を目指します。
∼
代表取締役
(一宮地区)
【会社概要】
創 業/1984年
資本金/1500万円
社員数/90名
年 商/12億9000万円
事業内容
/自動車用樹脂部品の設
計・製作及び試作、健康
美容器具デザイン設計
製作
http://www.torigoejyushi.co.jp/
り、さらに強固な経営体質を作っていこうという
ことで、そのうちの5ヶ所を1ヶ所にするため、
新しい工場を造成中です。大変な投資になります
が、「こういう時期だからこそチャンス」だとと
らえております。
もともとわが社は、1984 年、私が 28 歳のとき
に、自動車用の樹脂部品の試作品を作る会社とし
て個人でスタートしました。業界そのものが成長
期だったこともあり、創業以来、順調に業績が伸
びていました。体力と欲さえあれば誰でも独立が
できた時代で、欲があった私はすぐに独立をする
ことができました。設備投資をすることもなく、
作業工賃 1200 万円を稼いだことに味をしめ、や
ればやるだけ自分に返ってくるところから、この
仕事に興味を持ち、拡張していきました。
しかし、常に順調だったわけではなく、今まで
に二度の経営危機を味わっています。この二度の
経営危機を語らずには今のわが社を語ることが
できないでしょう。
将来の柱になる事業を始めよう
この分科会のタイトルにある「5年後、10年
後にどう手を打つか」は、実は自分自身も模索中
です。
前々年度の売り上げが 13 億円で、前年度(今
年6月)の決算が 200%アップの 27 億円、という
数字を挙げることができました。ここにきて、今
まで取り組んできた結果が一気に数字として表
れてきました。この成果を基に、会社を維持管理
し伸ばしていくという、大きな課題を背負ってい
ると思います。
二度の経営危機からの学び
わが社は一宮市に本社を構え、周辺の工場も含
め7ヵ所で生産・営業をしています。事業内容は、
自動車用樹脂部品の試作事業、自動車用樹脂部品
のオプションパーツ(小ロット・多品種の量産品)
事業、健康美容機器のデザイン施工、電子事業部、
の4つの柱で行っています。その中で、自動車関
連が 30%強、健康美容機器が約 50%、その他の
事業が 20%弱、という比率です。
東名高速道路の一宮のインターチェンジの近
くに、7か所の工場があるのですが、効率化を図
一社依存型
創業して 10 年間は、仕事を断るのが仕事とい
うくらい、何もしなくても仕事が入ってきていま
した。仕事を受けては徹夜をする、徹夜をしては
人を入れる、人を入れては仕事がくる。この繰り
返しで、売り上げは右肩上がりにどんどん伸びて
19
いきました。
そんな中で 1992 年から 93 年にかけて一度目の
危機が訪れます。その当時、2億 4000 万円ほど
あった約 90%以上がなくなる、という事態が生じ
ました。創業以来、拡張してきたのですが、その
背景には親会社の存在が大きく、営業をしなくて
も仕事は入ってきていました。しかし、1992 年に、
その親会社から「試作業界から撤退する」という、
方針が打ち出されました。そこで初めて、これは
大変だと焦りました。言葉では「売り上げの9割
がなくなる」と聞いても、本当にそんなことがあ
るのかと半信半疑で、納得するのに時間がかかり
ましたが、現実はその通りになってしまいました。
なぜこんな状態になったのかを冷静に考えて
みると、わが社が一社に依存していたこと原因で、
「なんとかここを打破していかなければいけな
い」と決意しました。そこで、創業以来、初めて
作業服を着ながら営業に出て顧客拡大を図りま
した。幸いにも他のカーメーカーの試作事業はま
だまだ必要とされており、営業していくうちに、
一社だった客先が徐々に増えていきました。わが
社の新技術や新工法が新規顧客に採用され、結果
的には2億 4000 万円からゼロになった売り上げ
が、5年間で8億円まで成長を遂げることができ、
結果的に会社は救われました。
これはやはり、当時の時代背景と、自分たちの
試作に対する取り組み方が真面目だったからで
きたと思います。
一業種依存型
第一回目の経営危機だった 1993 年に、私はこ
の同友会に入会しております。入会した頃は、生
きるか死ぬかの瀬戸際まで追い込まれていて、会
活動には参加する余裕もありませんでしたが、同
友会の仲間が「90%もの売り上げがなくなったの
に、よくやるな」と自分の話を聞いてくれたから
こそ、会にも顔を出すようになっていきました。
もう一回やってみようと思ったきっかけは、家族、
社員、そして同友会の存在が大きかったです。
売り上げが好調だった 1998 年に、5ヶ所あっ
た借り工場のうち3ヶ所をまとめて、念願だった
自前の本社工場を手に入れることができました。
しかし、喜びも束の間、移転の直後から二度目の
危機がやってきました。1998 年に自動車業界に変
革が起きたのです。業界全体の試作業務がアナロ
グからデジタルに変わっていきました。98 年度ま
では、試作車両一台につき、50 台から 100 台のテ
スト車両を作っており、それに取り付ける部品を
わが社で作っていました。しかし、デジタル化に
伴い、ある部品においては作る必要がなくなり、
20
あるいは作る必要がある部品でも 10 個が5個に
なり、5個が1個にと、どんどん仕事が減ってい
きました。
お客様は確かに増えていきましたが、その全て
のお客様が自動車業界であったことに気付き、こ
のまま自動車だけではダメになるのではという
不安が募っていきました。
人との出会いから得たチャンス
そんな時にある人物との出会いがありました。
その人物とは、草野球チームのメンバーの一人で
す。景気も思わしくない状況でしたが、野球チー
ムのメンバーを集め、自社工場の食堂で忘年会を
行いました。
その時、始めてお互いの仕事のことを話しまし
た。そのときのメンバーの一人が通販関係の企
画・開発の責任者だと分かり、彼から「健康サン
ダルを通販で売りたい」という思いを聞きました。
残念ながら、当時のわが社には健康サンダルを作
る技術も知識もありませんでしたが、調べれば作
ってくれる人がいるのではないか、と考えました。
彼に時間をもらい、作ってくれるところを探した
ところ、静岡で一社、健康サンダルを作ってくれ
る会社を見つけ出しました。私は彼と一緒に静岡
へと出かけました。初対面でしたが、彼の意を汲
んでくれて、そこからビジネスが始まりました。
この出来事をきっかけに、「今度は鳥越さんと
一緒にできる仕事はないかな」と言ってくれまし
た。わが社も「自動車だけではダメになる」と考
えており、誰でも気になる「健康」というキーワ
ード、また女性の社会進出に伴い「美容」が注目
されるようになるだろうという考えから、何かで
きないか、という思いを彼に打ち明けました。彼
の企画の中に、「現代の女性の骨盤は、生活習慣
の中から歪みが多く、骨盤の歪みから下半身が太
ってきたり、腰痛・肩こりの原因になったりもし
ていることが分かったので、骨盤を補正させる器
具を作ってみよう」という案がありました。そこ
で思いついたのは、「座るだけで、骨盤を矯正で
きる」というもので、「スリムクッション」とい
う商品がだんだんと形になっていきました。
これが、累計で 85 万個が出回るほど、大ヒッ
トを記録しました。今でも月に 500∼1000 個が売
れています。通販業界では「一つの商品が 10 年
以上市場で受け入れられているケースはまずな
い」といわれていますが、スリムクッションは 11
年目を迎えた今期も販売され続けています。
自動車に代わる新たな柱
こうして自動車から健康・美容機器の通販事業
へと移行していきました。わが社は、もっとも得
意としていた設計、デザイン業務を活かしながら、
この業界で着実に実績をあげていくことができ
ました。当初は売れるとは思っていなかったスリ
ムクッションがどんどん売れていく中、24 時間3
交代の勤務体制を取らなければ生産が間に合わ
ないくらいでした。
しかし、わが社には大量生産をする仕組みがな
く、このまま同じ物を作り続けていては他に何も
できない、と考えて、外注生産に切り替える決断
をしました。全ての生産権利を仕入先に一貫した
ことにより、わが社は新たな商品開発と製造の取
り組みを強めていくことができました。
厳しい時代に企業が生き残るためには
当時から競争が激しく、また変化も激しい時代
であったと思います。今はさらに厳しさを増して
いますが、私は、企業が生き残っていくために必
要なことは3つしかない、と思っています。
1つ目はもっと頑張ること。今やっていること
に対してもそうですが、「頑張っているんだ」と
いう思いがあるとするならば、それからさらにひ
と踏ん張りする、という強い想いが必要ではない
かと思います。
2つ目は、競争相手とのサバイバルに負けない
こと。どんな業界でも言えることですが、いろい
ろなところから見積もりを取ってとにかく安い
ところに発注されているのが大半だと思います。
それに負けないことが必要です。
3つ目は差別化の推進。これは、誰もがやりた
いことであり、これができればどんな厳しい経営
環境でもやっていけます。もし差別化をする技術
がなければ、徹底的に頑張るか、徹底的にライバ
ルよりコストを下げる、あるいはスピードを上げ
ていくしかないわけですから、自分たちの中でこ
の3つの中からいずれかを選択していくことが
必要になってくると思います。
私を再び奮い立たせた言葉
そういう私も、分かってはいても実践となると
なかなかできませんでした。1998 年に8億円あっ
た売り上げが 2002 年から 03 年にかけて5億円ま
で下がってきました。この頃が最も売り上げが下
がったと思います。この時も、自分では頑張って
いたつもりで、競争相手よりも安く・早くやって
いたつもりでした。しかし、「差別化の推進」の
部分を生み出すことができず、それが数字に表れ
ていたのだと思います。週に1は同友会の会合に
参加し、自分では学んでいたつもりでした。とこ
ろが、経営指針の勉強会に参加し、作成して発表
したところで、業績は一向に上がってきませんで
した。
ある日、妻が私に面と向かって「あなた、毎日
毎日、同友会に行って、何を学んでいるの」と言
ってきました。この言葉を聞いた時に、どんな状
態ならいいのかを聞いたところ、「資金繰りさえ
楽になれば」と言われました。その言葉を聞いて、
「よし、見てろよ」という気持ちになりました。
この時の妻の一言が、私を再び奮い立たせて同友
会での学びを「実践」に変えてくれました。
新規事業に取り組むためには
他との違いを知ること
新規事業に取り組むためには、他との違いを知
ること、あるいは、他の業界をしっかり見るとい
うことが大切です。自社の立ち位置や自社の強
み・弱みを知ることは、最低限必要だと感じます。
同友会の中でも「企業変革支援プログラム」とい
うものがありますが、こういうものを使って自社
を振り返るのも、わが社を知るひとつの手段にな
ると思います。私もまず一問だけ回答をしてみた
らかなりよい点数だったのですが、真剣に自社を
見ていくと「こんなによくない、ここに問題があ
る」というように、とんでもなく悪い点数がつい
21
てしまいました。そういった意味でも、わが社に
はまだまだ改善の余地があるのではないか、と思
います。
また最近は、建築関係、食品関係、健康と美容
関係の展示会に積極的に参加しています。参加し
ていると、こんなにいいものがあるんだ、こんな
に進んでいるんだ、この業界ではこんなに安くで
きるんだ、あるいはこんなに無駄なことをやって
いたんだ、と自分の中で他の業界を見ることがで
きるようになってきました。
素材から枝分かれして考えることができます。わ
が社の場合は、プラスティック素材である樹脂を
ベースにして、その先に何があるのかを考えるこ
とが重要になってきます。わが社が昨年の 12 月
に電子事業部を立ち上げた理由はまさしくこの
「たて」の経営の考え方から生まれました。
昨年9月に同友会の仲間から、プラスティック
成型を設計からできるかを聞かれ、「もちろんで
きます」と答えたところ、安城市にある某電子機
器メーカーを紹介され、その会社から仕事を依頼
されました。材料を発注し、設計して金型を作り、
「さあこれから生産をするぞ」という時に、その
会社自体が電子事業から撤退することが決まり
ました。電子事業に携わっていた社員も全員解雇
の通告を受けることになりました。その時、私ど
もの窓口だった電子事業部の責任者が、お詫びと
ともに、まだ1ヶ月しか付き合いがない私に 10
数名の社員の履歴書を持って、就職先を紹介して
いただけないか相談を持ちかけてきました。
そこで思ったことは、自分のことより部下のこ
とを考えられるこんな管理者や上司がいたら社
員はどう感じるのだろう、ということです。こう
いう人材がわが社にいてくれたら、と素直に感じ
ました。そして、基盤の会社からプラスティック
の仕事が来たわけですから、わが社に基板設計が
できる環境があれば、プラスティックの仕事も同
時に確保できるのではないか、と考えました。
「設
備投資をして、この事業をわが社で行おうと考え
ている」と話を持ちかけたところ、「そういう環
境を作っていただけるのならば一宮にいきます」
と5人の技術者が言ってくれました。電子関係を
やっている会社でプラスティックの設計からで
きるところは今までになかったことから、その会
社から樹脂の仕事も頂けるようになり、基盤の仕
事も設計からいただけるようになりました。まだ
スタートしたばかりではありますが、確実に事業
の柱として成り立っています。
「たて」の経営
そしてもう一つ、こういった取り組みをする上
で大切なことは、「たて」の経営が重要だ、とい
うことです。
「たて」があるということは、
「よこ」
の経営もあるということですが、「よこ」の経営
というのは、例えばコップを作っている会社でな
ら、ひとつのコップが愛知県で1万個売れたら、
次は東京に市場を拡大していくことを指します。
当然のことながら、このコップの需要がなくなっ
てしまえば、「よこ」の経営は大変危険になりま
す。
15 年ほど前の話ですが、奈良県にブロー成型で
食品関係の容器を作っている会社がありました。
この会社の2代目の社長がとてもカリスマ性が
あり、会社の強みであるブロー成型の技術を活か
してビーズ枕を開発しました。この枕が飛ぶよう
に売れ、この会社はわずか5年の間に2億円から
45 億円の売り上げに急成長を遂げました。この会
社は従来の業務をやめてビーズ枕一本に絞り、さ
らなる拡販のためアメリカへ進出しました。しか
し、あるトラブルが賠償金問題にまで発展したの
を機に、あっという間に倒産してしまいました。
これは、「よこ」の経営だけをやったがために失
敗した一例だと言えます。
では、「たて」の経営を先程のコップの例で考
えます。コップは本来、飲み物を入れるものです
が、ほかに何に使えるのかを考えると、このコッ
プに植木を入れるとか、「コップ」という一つの
「よこ」のリーダーシップ
新規事業をやるにあたってもう一つ大切なこ
とは、「よこ」のリーダーシップです。皆さんが
よく知っているのは、「たて」のリーダーシップ
だと思います。「たて」のリーダーシップは簡単
で、会社に戻ると我々は経営者なので、部下がい
て組織があり、その中で職権を利用し、リーダー
シップを発揮することができます。新規事業を取
り組むための重要なキーワードになってくる「よ
こ」のリーダーシップとは、経営者同士・部長同
士・役員同士がその中でいかにリーダーシップを
発揮できるか、ということです。
22
作をやってきたという本筋があったからです。こ
の本筋を忘れずにいろんな展開をしていくこと
が大切だと思います。新規事業だけに走ってしま
うといろいろ問題が起きてしまいます。わが社の
社訓に「意・努・夢」という言葉があります。夢
を実現させるためには強い意志と努力が必要だ
という意味です。これからも「挑む」の精神で突
き進んでいきたいと思います。
現在、同友会の仲間の中でも新規事業に取り組も
うとしているメンバーがいます。皆さんは、仲間
同士とはいえ経営者同士ですから、この同友会の
中で情報を発信して、お互いの得意としていると
ころを見出して事業へ結び付けていくことが可
能です。そして、誰がリーダーシップをとればい
いのかを、様々な条件の中で事業ごとに決めなが
ら進んでいくことが大切になってきます。今、新
しく水関係の仕事をやろうとしているのですが、
同友会を通して水のプロフェッショナルが自分
の周りにたくさんいるので、これからはビジネス
としての取り組みができるのではないかと感じ
ています。考え方を変えればビジネスチャンスは
身近にたくさんある、ということです。
とにかく経営者同士が「よこ」のつながりを持
つことが大事で、これからは「正しいか、正しく
ないか」という常識的な判断だけでは新しい発想
は生まれません。大事なのは、「この仕事を通じ
てお互いが楽しく幸せになるか」という部分を感
じながら、それを判断基準として行動していくこ
とが重要なのです。
【第3分科会スタッフ】
○座
長
○室
長
加藤三基男(瑞穂地区)
サン食品(株)・代表取締役
稲垣 善恵(尾北地区)
(株)夜明屋 EDソア・代表取締役
○グループ長
伊藤 孝修(中川地区)
伊藤 富則(春日井地区)
太田 昭男(岡崎地区)
大原 章義(あま地区)
笠原 尚志(豊明地区)
櫻井 知彦(名古屋第2青年同友会)
佐野 貴英(名古屋第4青年同友会)
冨田 敏夫(瑞穂地区)
松田 晋也(中川地区)
安田 正倫(緑地区)
○実 行 委 員
石川 英明(一宮地区)
岡崎 直人(南地区)
小島 匡人(西尾・幡豆地区)
戸苅 康成(豊川・蒲郡地区)
平野 弘男(港地区)
吉見 省吾(豊川・蒲郡地区)
渡辺 政志(知多青年同友会)
「挑む」の精神で突き進む
振り返ってみると過去二度の経営危機はどん
底でした。しかし、それと同時にツキの始まりだ
ったのだと感じております。「人は痛い目に合わ
ないと気付くことができない」ということが分か
りました。また、もうダメだと感じた時に、どれ
だけ本気で取り組めるかが重要となってきます。
本気で取り組めばたいていのことはできるし、が
むしゃらに頑張っていればきっと誰か助けてく
れます。アイディアは次から次へと出てきます。
また新たに考えていることは、中国と情報交換を
しながら農業で使う芝刈り機等の農機具のEV
化(電動化)を図ることです。これも、もちろん
わが社だけではできないので、同友会の仲間を通
じて一つの事業化に向けて取り組むことができ
たらな、とワクワクしています。
最後に、わが社が今あるのは、自動車業界の試
23
○受
付
三井
哲司(知多北部地区)
○記
録
下脇
真実(愛知同友会事務局員)
④分科会
第
<経営理念を実践する過程>
環境経営で企業革新をしていこう
~ 板金・塗装の下請業から人・車・地球を元気にするメーカーへ ~
報告者
佐藤 全氏(宮城同友会)
(株)ヴィ・クルー 代表取締役
中同協「Do Yu Eco」幹事長賞受賞企業
地球環境問題に中小企業家として
どう取り組むか。人類および企業経営
の根幹に迫る重大なテーマとなりま
した。報告者は「地救を元気にする企
業」を経営理念として確立し環境経営
を全社で実践、売上 40%増と200 万
円の経費節減、CO2 削減を達成した
「同友エコ」受賞企業。ソーラー式L
ED街路灯の開発など新たな仕事を
創っています。未来を創る、企業を強
くする「環境経営」と「企業革新」を
多くの皆さんで考えていきましょう。
【会社概要】
創 業/1973年
資本金/2400万円
社員数/35名
年 商/3億円
事業内容
/車体整備事業、LEDを
利用した製品開発事業、
バス専門のリサイクル
パーツ事業、インターネ
ットショッピングモー
ル運営
http://vi-crew.co.jp/
本日のテーマは「環境経営」ということで、私
どもが中同協の「同友エコ」で幹事長賞などとい
う大変な賞をいただいてしまったのですが、どの
ように会社を再建しどんな会社になったのかと
いうことと密接ですので、会社の紹介からお話し
したいと思います。
私は 1972 年生まれです。翌年に父が自動車整
備工場を創業し、のちにオートパルと社名変更、
そして 1994 年バスボディーセンターを竣工しま
した。私は 1995 年に入社します。その後 2006 年
にオートパルからヴィ・クルーが分社独立します。
父が社長であるオートパルは、バス・自動車の販
売・車検・点検、解体・破砕を行っています。私
が社長であるヴィ・クルーは、上記掲載の事業5
部門を行っております。
年商6億で6.5億のバス工場
バブルも崩壊した'94 年に、父が東日本でいち
ばん大きいバスボディーセンターを竣工しまし
た。大学から帰省した時に、山を崩して造成され
ており、「こんな田舎にこんなでっけえ工場をつ
くるのは誰だぁ」と聞くと「おめえの親父だ」と
言われて「あぁ何と親父か」と初めて知りました。
その翌年、父親から「会社が大変だから戻ってき
てくれ」という話で入社します。
当時の年商が6億円に対し6.5億円という年
商以上の投資で、運転資金に融資が回らず資金繰
りが非常に厳しくなっていました。
「あの会社はつぶれるぞ(世間の噂)」
バスに特化した1万平米もある工場に入庫す
るのは年間たった 1 台です。近所からは「あの会
社いずれつぶれるぞ」、取引先も「ヤバイから取
引やめよう」、売掛金の回収に行くと「大変なん
だろう、値引きをしてくれたら払ってやるぞ」、
とも言われ随分悔しい思いをしました。それでも
「現金取引で」とか「誰でも挑戦する時はあるか
ら頑張れ」と今までどおりの取り引きをやってく
れた会社もあり、苦しい時に支えてくれた取引先
というのは非常に大切だという思いが今も強く
残っています。現在でも一取引に一社で価格交渉
もせず、恩返しをさせてもらっています。最も辛
かったのは、社員から「ちゃんと給料もらえるの」
と聞かれることでした。
ボカシができない塗装会社から
販売・整備の会社が、いきなりノウハウもなく
バスボディーセンターをつくりましたので、すべ
て中途採用で募集し、管理職まで中途採用という
24
●第4分科会●
達成しました。何とか借金も返せる目途がつき専
務に就任した頃、ふと心に油断ができ自分の将来
や夢が描けなくなっていました。
また会社も父親のトップダウンで「俺の言った
とおりにやれ」というのを何とかしたいと悩んで
いる時に、同友会に誘われ「経営指針を創る会」
に参加をしました。
そうしたら凄い会議でして、雰囲気が全然ちが
って「あなたの会社のお客さんは誰ですか」とか
「現状認識が足りません」とか毎回言われ、最初
はとんでもない場違いのところに来たのかなと
思いました。5ヶ月間かけてつくるのですが、受
講者 20 人程に対して修了助言者団が 80 人とかも
の凄い人数で、実際に経営実践をしている経験者
ですから結構するどくて、ちょっと逃げようかと
思ってもズルッと引き戻されるのですね。そして
的確なところにズバッと厳しい質問が入ってき
ます。
しかし、この「経営指針を創る会」が私にとっ
て会社の大きな転機になりました。
第一はメーカーになるという決意、第二に事業
を通して地域や地球を元気にするというわが社
の使命を自覚、第三に量的拡大路線から質の深堀
への転換、という点です。
寄せ集めでつくった現場でした。技術もなければ
社風もなく、会社と社員は信頼関係ではなくお金
でつながっているという状況でした。
営業開拓でディーラーの下請仕事を受注し、フ
ロントドアの一部塗装を現場に入れました。そし
たら何と全塗装をし、色は合わない、目がバラバ
ラ、ゴミがついている、と最悪の状況で、たかだ
か5万円の仕事なのに賠償金を何十万円ととら
れる始末。隣の色と違わないように見せる“ボカ
シ”という塗装の初歩である作業すらできない会
社でした。「どうせ俺たちはこんなものだ」と夢
や希望もなく、働きがいも生まれない負の連鎖で
す。何とかしたいと考え、「3年後に東北でトッ
プになる」と宣言をし、何かある毎に話し、説得
をし続け、クレーム対策と改善を繰り返してきま
した。
大手バスメーカーの本社ビルへ飛び込み営業
「バス車体メーカーのサービスステーションに
でもなれれば」と考え、思い立ったその日の午後
に新幹線に乗り大手バスメーカーの新宿本社へ
直行しました。田舎者ですから「行けば入れる」
という感覚だったのですが、非常にセキュリティ
が高いビルで中へ入れず、固唾を飲んで見守ると
いう事態に陥りました。しかしここまで来て帰る
わけにもいかず、必死になってドアを叩くという
非常にシンプルな作戦に出ました。しばらく叩い
ていると受付の方がかなり嫌そうな顔で「どうし
ましたか」と出てきました。開けてもらった喜び
で、
「ぜひSSにしてください」と全部話すと「ち
ょっとお待ちください」と鍵を開けてくれたので
す。実はその日はメーカーのお盆休みの前日で、
屋上での納涼祭に権限ある偉い人たちが戻って
来て飲んでいたのです。「おもしろいなぁお前、
新宿でバスつくれると思うか。長年バス業界にい
てお前のようなヤツは初めてだ」とその場で群馬
工場の責任者に電話をして指定工場に使っても
らいました。翌年からはどんどんSSの契約がと
れ、それに伴い地元交通局からの仕事も増えて、
3年後には本当に東北で一番になることができ
ました。そして社員も「俺たちもやれば何とかな
るのかな」という気持ちに変わってきました。
掘り下げて可能性を探る
バス業界・メンテナンス業界・販売会社・地域
にとって自社はどんな会社なのか、そして環境面
から見直してみるとどうか、また外部環境や内部
環境も検討し、多角的な視点から強みや弱み・自
社の立ち位置などを分析しました。また、板金塗
装や整備という仕事を分解することで、デザイン
力・設計力・電装技術・開発力など自分では気づ
かなかった可能性を発見できました。すると、下
請でなくメーカーになってモノがつくれるので
はないか、と考えるに至り、メーカーになる決意
をしました。
宮城同友会の「経営指針を創る会」で
さらに3年後には東日本でトップになろうと
いう目標を掲げました。人の定着率も少しずつ良
くなり技術力もついて、お客さんに提案していけ
る体制ができ、実際に3年後には東日本トップを
25
●第4分科会●
何のために働くのか、誰のために働くのか
社内でいろいろと話し合ってきました。以前は
自分のため、自分たちの自己実現のため、お客様
に喜んでもらうため、と考えてきましたが、それ
はどっちなのという時に、別々のことではなく
「私たちは人・車・地球を元気にするために働く
んだよね」という結論に達しました。
走るほど地球は汚れ、鉄だって限られた資源で
あり、人口も減少していく。当社は車の病院的な
役割を果たし、資源の有効活用や環境製品の開発、
最終的には化石燃料を必要としない車づくりを
めざしていきたい。乗った人も健康で癒される空
間創造に努め、人・車・地球を元気にしていきた
い。私たちは常に生かされていることに感謝し、
社員とともに夢と感動を共有し、常に熱いハート
を持ち続けていく企業でありたい、と。
「何のために経営するのか」についても単に社
員の生活を守るためから、「生きる、暮らしを守
る、人間らしく生きる」の意味を考え社員のこと
をより深く考えた結果、やはり「人・車・地球を
元気にするため」なんだと経営理念を確立しまし
た。
真のお客さんは誰か
お客さんの定義も変わりました。今まではバス
会社がお客さんでしたが、バスに乗っていただく
方がわが社の真のお客さんではないかという結
論に達します。
実はこれが大きな変化で、バス会社がお客さん
の場合は「ちょっと予算ないのでパテでごまかし
て」と頼まれると「わかりました」とYESマン
だったのですが、乗る人がお客さんになったので
「いや、万が一脱落すると危険ですのできちっと
整備しましょう」と、お客さんにとっては少し面
倒くさい会社になったのです。
給料もバスに乗る方から頂くのだと変わりま
すので、バスに乗る人が減るとバス会社も要らな
くなり、バスの新車も要らなくなり、修理も必要
ない。結果として我々も食べていけない、という
状況になります。当然、手前にいるバス会社にも
喜んでもらう必要がありますが、また乗ってみた
いといわれる車をつくることが我々の仕事に変
わっていきました。
つまりこれまでは単なる商品やサービスの提
案でしたが、車内の過ごし方やバスのあり方など
のコンセプトを提案するように変わってきまし
た。
量の拡大から質の深堀へ
経営指針講座を受講する前は、完全に売り上げ
の規模拡大しか頭になかった私ですが、いろいろ
と気づかされていく中で、量の拡大ではなくて
「質の深堀り」という可能性を見つけました。ま
た下請け体質からメーカーになれる手がかりを
掴むことができ、新たな将来展望が描けました。
多くの人に助けられながら、地球があって、住
める環境があって、私たちは生かされている、と
いうことに気づかされ、自分の会社だけ良ければ
いいというのではなく、業界も悪いものであれば
変えていく必要があるし、地域も我々の事業を通
して元気にしていかなければいけない、という使
命を持つことができました。
「科学性・社会性・人間性」といわれますが、
わが社の経営理念は「社会性」を一番目にしてい
ます。
大企業と異なるメーカーへの挑戦
LED路肩灯を開発し特許を取得。ボディメー
カーの製造ラインで使用され、大手自動車部品メ
ーカーから総代理店の申し入れが来るなど、ヒッ
ト商品になっています。6年前は鉄と電球で、腐
食や球切れが頻繁に発生する定期交換部品でし
たが、「我々は大企業ではないので限りなく壊れ
ないモノをつくっても良いのではないか」「リサ
イクルができ資源循環できるものをつくってい
こう」と考えました。まだLEDは表示器の段階
で、照明器具になっていない時代でしたので、試
行錯誤をしてやっとの完成でした。
電気工事屋が、自分たちの商品を創りたい、と
いうことで、電気工事のノウハウと自動車のノウ
ハウを持ち寄って自然エネルギー活用型LED
街路灯も開発しました。同友会ネットワークで価
格決定権を持つブランドができました。
また、東北大学や他大学、白石市、仙台市、そ
して市内の中小企業を巻き込んで電気バスをつ
くる取組にも挑戦しています。
26
●第4分科会●
すことになったのがきっかけです。そこで「背伸
びをしない」「見える化が大事」という言葉が印
象に残り、「すぐできそうだな」と思えました。
社員に「面白そうな話を聞いてきた」と翌朝に
相談し、「ヴィ・クルー版ちょいエコ宣言」とい
う形で取組を始めました。
1 つは、新たに予算をつけるのではなく知恵を
出してやれるレベルでやろう。2つめは、身近な
ところから各部門で話し合ってやり続けよう、で
す。そして「見える化」で手書きのグラフを貼り
出しました。
大型の塗装ブースで焼き付けを行うのにもの
そして車体製造。現在はまだ二次仮装の段階で、
凄い熱を使うのですが、まめに消すとか休憩時間
内装や外装、骨を入れて強化することなどに取組
に電気を消すとか、そんなことから始めました。
んでいますが、将来的には、製造工場が空白地域
すると社員の意識が変わっていますから、電気も
である東北ブロックで地域のニーズにあったバ
ガスも去年より低いところに線がつきました。次
スメーカーになることを目指して技術やノウハ
の月はどうするか。ここからは考えないとダメだ
ウなどの蓄積をおこなっています。
ということで、社員がいろいろと話し合ったので
す。
新たな仕事を創る
楽しんで作業改善に
乗用車は中古部品を使うのが当たり前になり
ましたが、バスは中古部品市場が日本にはありま
せん。すべて新品部品を使っています。中古バス
を右ハンドルのまま海外へ出すからです。危ない
ですし私は海外へゴミを捨てていると思ってい
ます。しかし、日本は資源がない国です。すべて
輸入に頼っていますから将来的なモノづくりも
心配されます。ですから限りなく国内で資源が循
環できる取り組みをやっていく必要があると考
え、バスのリユース市場を創るためにインターネ
ットショッピングモールを立ち上げました。乗用
車の解体屋や整備工場に新しい仕事ができます
し、バス会社にとっても安価な修理が可能となり
ますし、国内で資源も循環する。三方良しです。
何となくショッピングモールをやりたいという
思いでつくったわけでは決してないの
です。
また、車内空間の創造や車内の過ご
し方の提案。例えば古いバスをレスト
アして移動式のレストランもつくりま
す。本格的な厨房機器も入れて、田舎
でお客さんが来ないお店のシェフがイ
ベント会場に行って料理するなど仕事
の提案も行っています。
焼付時間が1時間のところ、他の仕事で忘れて
70 分になったりしていたのを、きちっと時間管理
しようと取り組みました。その結果、またグラフ
がグッと下がったのです。すると社員はお互いに
楽しくなっていって、では「一定温度に達したら
一度ブースを切ってみてはどうか」と、試験も行
って品質も全く問題ないということまで確認し
ながら始めました。そうすると、もう「今までは
無駄使いしっぱなしの会社みたいな」ぐらいの差
になっていったのです。
エコ活動が結果的には作業改善に、そして社員
の意識改革になりました。楽しみながらやったと
いうのが一番大きく、どんどんやれるだけやって
「ちょいエコ」宣言
実は、
「同友エコ」はCO2削減とか
面倒臭そうな話だなと思っていたので
すが、たまたま環境部会に少し顔を出
27
●第4分科会●
みようみたいな話になって、電気・ガス・水道以
外のショートパーツ部品の節約にも取り組み始
めました。捨てる前に分別箱をつくると、捨てる
ものの中に新しいものが混ざっているのも発見
されました。結果的に会社全体の作業改善になっ
ていったのです。
今回、全国で表彰されて各地の方が見学に来ら
れたりして、社員は「大したことはやっていない」
と恐縮しながらも、「やっぱりすごいね、もっと
頑張ろう」とモチベーションが上がっています。
CO2削減プロジェクトが発足しISO取得な
ど将来の幹部輩出も期待されます。
施しています。
この先輩と後輩という関係をしっかりつくっ
ていくと、関わることの大切さというのにも気づ
きます。仕事を覚えたころに、隣の芝生が青く見
三位一体経営の結果
えて勝負をしたくなり、辞めた後の出戻り社員も
多いのですが、辞める時も戻る時も、現場や先輩、
このように全社一丸体制がとれるようになっ
上司、役員、そして最後に社長である私というよ
てきたわけですが、同友会の三位一体経営に取り
うにステップを踏んでもらいますので本人の腹
組んできた結果だと思います。
も決まってくるし、社内での信頼関係というのも
まず「うちの会社は何のために経営しているの
か」という根本をしっかりと明確にしていくこと。 非常に強くなってきます。
また採用も幹部が決めるようになったので、文
それを経営者だけの考えでなく社員とも一緒に
句も言えず、「どんな問題児だった人間でも何が
なって考えること。会社の目的が社員にとっても
何でも育てる」というような気概が社風を育んで
納得ができ、努力すべき社会的価値のある同じ目
いきました。
的になった時に、社員は自発的に考え働くように
なります。自社だからこそ実現できることに誇り
を持って取り組みます。ビジョンを掲げるという
のは非常に大事なことだと思います。そして毎年、 10年後のビジョン第2章
社員と一緒にローリングを行っています。特にア
クションプランは社員が殆ど自分たちで考えて
「10 年後のビジョンは大ボラ、5年後は中ボラ、
つくるようになっています。
3年後は小ボラ、直近は絶対やろうね」というこ
とで、いよいよ小ボラまで来ましたので、次の 10
年のビジョンを掲げました。走れば走るほど地球
を救う車をつくり始めるとき、すべての事業が一
強い信頼関係のある社風に
つに集約される。今までは可能性を多く追及しよ
うと拡散してきましたが、それらの取り組みで得
また共同求人で新卒採用を毎年するようにし
た技術や知識などを集約してモノづくりの未来
てきました。求人というと採用ですが、私にとっ
を創ろうということです。
ては社員教育だと思っています。今までは給料や
電気バスで得た電気設計技術は車体重量を考
休みの多寡で入社してきましたが、同友会の合同
慮したエネルギーの有効利用に、LED製品技術
企業説明会では、「自社はこんな理念を掲げてこ
は照明消費電力を押える設計技術に、ソーラーは
んな取り組みで、社員がこんなふうにやっている
予備電源技術に、ホームーページ製作はブランデ
会社なんだよ」と話をすることで、最初から自社
ィング構築力に、車体整備は困りごと解決能力を
のファンになって入社してくるようになりまし
伴った真のモノづくりに、と、大いに力を発揮し
た。
役立つものと確信する。ともに成長できる熱い集
自分の会社がどこに行くのかがわかって、こん
団を熱いネットワークづくりを目指そう、という
なことをやりたいという思いを持って入社して
ものです。
くるのですから、成長の度合いも全然違います。
毎年採用をすることで、1年先輩が新入社員を
育てます。教えるときが最も成長を促しますので、
常識を疑う
毎年採用するというのは実際しんどい部分はあ
りますが、やり続けないと社員教育を止めること
にもなるので、何が何でも採用をし続けようと実
我々中小企業の強みというのは、現場を持って
28
●第4分科会●
現場を知っている、ということだと思います。お
客さんの声がすぐ聞ける、それに対応できるとい
うこと。大企業と中小企業は役割が違うだけで、
相手が大きい会社だろうが何だろうが、ちゃんと
主張することは主張しないとだめだと思ってい
ます。最初に東京のメーカーにポンと行った時も、
たぶんそういう自分があったのだと思います。
「こうなるのが常識だよ」と言われているもの
をひっくり返す、これは実は非常識なのではない
かと、結果それが新しい仕事につながっていった
りするのではないかという気がしています。
掲げた旗は絶対に降ろさない
今やることを 10 年後につなげようと思うと 10
年後のビジョンには行かなくて、10 年後のビジョ
ンから逆算して手前に引っ張ってくると現状の
ままではいけないという取り組みになっている
と思います。リーマンショック、あわやリコール、
回収による莫大な赤字、人も採用できないのでは
ないかと思う時もありましたが、でも掲げたのだ
からその旗は絶対に降ろさないぞという覚悟で
やってきました。これが毎年目の前で起きている
問題に対症療法を積み重ねてきたら、多分 10 年
後のビジョンとは違った経営になってしまって
いるような気がしています。
と。最初は全然意味がわからなかったのですが
「自分は市民に優しいんだといっていてもやっ
ていることが暴力団なんだよ」ということなので
す。
「君の会社は車関係の仕事をやっているよね。
人や車がなくなれば地球は何の問題もないんだ
よ」という話をされました。そうしたら我々のや
っている商売は罪だな、と。商売しちゃいけない
というとどうしようもないですが、でもまず、
「そ
ういう現実をしっかりと受けとめた中で我々は
何ができるのか、何をしていくべきなのかをきち
んと考えなさい」と助言されました。
ですので、私の場合は、二酸化炭素や化石燃料
や有限資源の問題をどうするのかを深く考えて
先ほどの経営理念とビジョンに行きついたとい
うことです。
【第4分科会スタッフ】
○座
○室
理念経営のいち側面が環境経営
以上、私は環境経営をめざすというのではなく
理念経営をやっていく延長線上に環境経営はあ
るのだろうと考えています。地球環境問題をない
がしろにすると我々は生きていくこともできな
い。我々が生きていく限りはみんなが環境に取り
組んでいかなくてはいけないはずなのです。
「環境製品イコールエコで売れるよ」と、環境
製品をつくるのが目的になると単なる金儲けに
なってしまいます。そうではなくて、我々が地球
を守る、生命を守る、その一つの手段が製品や取
り組みだと思いますので、手段と目的を入れ換え
ないように、我々の仕事を通した使命感として取
り組んでいきたいと思います。
何事も楽しんで取り組めるかどうか、盛り上げ
るのも経営者の仕事だと思っています。
長
位田 幸司(名古屋第4青年同友会)
(有)位田モータース 専務取締役
長 手 縄
実(名西地区)
(株)共栄産業 代表取締役
○グループ長
秋山
鹿島
金江
金原
服部
○実 行 委 員
中屋
渡 邉
豊雄(名古屋第5青年同友会)
聡(一宮地区)
○記
美穂(愛知同友会事務局員)
録
加藤
一正(守山地区)
敏博(名西地区)
宏幸(守山地区)
好宏(中川地区)
勝之(稲沢地区)
市民に優しい暴力団にならない
経営指針を創る会で諸先輩方から言われまし
た。「市民に優しい暴力団になってはダメだよ」
(幹事長賞を受賞する佐藤氏/中同協総会にて)
29
⑤分科会
第
<経営理念を実践する過程>
金融機関と共に実現する経営計画
∼
経営危機から立ち直ったのは「管理会計」だった
厳しい環境下、日々の経営活動で
は、私たち経営者が常に「金融機関」
或いは「取引先」に対して、しっかり
自社の中長期計画とそれを裏付ける
財務計画を説明し、理解と支援を得る
ことが発展の鍵となります。今分科会
では「企業の財務体質強化とその成果
の活用事例」の会員実践報告と、金融
機関が企業に求めているものを研究
者からご助言頂きます。
報告者①
報告者②
助 言 者
∼
青 野
徹氏(名古屋第1青年同友会)
(株)ハンズコーポレーション 専務取締役
大板 一志氏(守山地区)
大板会計事務所 所長
由里 宗之氏
中京大学総合政策学部 教授
の売り上げをフランチャイズ化することによっ
て、売上高が2期で減っています。でも、内容を
見て頂くとわかるのですが、利益から何からすべ
て上がっています。
これは、たまたまこうなったのではなくて、狙
った結果です。管理会計を導入して細かな数字を
見ることによって、このように計画的にできるよ
うになります。では、時系列でお話させて頂きま
す。
報告:青 野
徹 氏
(株)ハンズコーポレーション
専務取締役
【会社概要】
創 業/2000年
資本金/2800万円
社員数/130名
年 商/7億円
事業内容
/整体・リフレクソロジ
ー院経営、FC展開、
スクール経営
http://www.taiseikan.net/index2.html
『イケイケどんどん』
∼ブームに乗って右肩上がり∼
ちょうど3年前です。どんな状況だったかと言
うと、計画も何もなくたまたま時代の波に乗るこ
とができたために、店をどんどん出すことができ
ました。時代背景でいうと、ちょうどその頃から、
スーパー銭湯などから「クイックマッサージ」と
呼ばれる新業態が出始め、「あんま」と言ったそ
れまでの暗いイメージから、明るくちょっとおし
ゃれで手軽なものになり、フットマッサージやア
ロマと共にショッピングセンターや人が集まる
場所への出店もポツポツ見られるようになると、
更にそれによってより認知度が高まり、癒しのブ
ームが文化になってきた頃でした。
その時代の波に上手いこと乗ったおかげで、う
ちの店はどんどん増えていきました。そして売り
上げもどんどん増えていくわけですが、この時に
は計画が全く無いので、なぜ伸びたのかが分から
ない。その時の当社は飛ぶ鳥を落とす勢いで、1
年間に 15 店舗を出店し、全国で 80 店舗という数
字にまで上がってきました。ただ、この辺まで来
各テーブルに泰誠館のファイルをお配りしま
した。それは、当時うちの会社が再生計画を出し
て実施した内容が入っています。役員会の資料も
当時のものをそのまま入れてありますので、もし
興味がありましたらどうぞご覧ください(※閲覧
後回収)。
まずは、資料の9期と 11 期のストラック図を
ご覧ください。9期の売り上げが7億8千万円、
変動費7千9百万円、限界利益が7億1百万円、
差し引きの利益がマイナス1億1千4百万円。11
期になりますと売り上げが6億7千万円、変動費
が8千万円、限界利益が6億6千2百万円、差し
引きの利益が7千2百万円となっており、2期で
売り上げがこのように変わっています。
当社はフランチャイズを導入しており、直営店
30
●第5分科会●
とによってどんどん
深みにはまっていっ
てしまい、気がつい
たときには負債が8
千万円です。
当時は役員1人1
人がそれぞれ別の事
をやっていて、リス
クを管理する機能も
なくバラバラになっ
ていました。役員会
とは名ばかりで、過
去の数字を見て、問
題点も「困ったなあ」
と言うものの具体的
な改善策もないまま、
その後は呑みに行っ
て終わり。こんな感
じでしたから、社長が独断で勝手に進めていても
問題が表面化するまで、はっきり言って状況が良
く分かりませんでした。
役員会が全く機能していない、つまりリスクに
対して全く予防策がなく管理能力がない、問題を
発見した時の対処ができない、何をしたらいいの
か分からない、という状態で、あれよあれよとい
う間に8千万円を失ってしまったのが現実です。
ると自分たちでも先行きを色々考えますし、周り
からも色々言われるようになってきて「マッサー
ジだけでは、将来ダメになるのでは」と思ったと
ころに、新事業をささやく人が現れたのです。
機能しなかった役員会
∼問題発覚、管理能力なしが表面化∼
業界では「ブルブルマシーン」といって、ちょ
うど3年くらい前に流行ったのですが、覚えてら
っしゃいますでしょうか。10 分間 500 円、ワンコ
インで「そこに乗っていると痩せちゃう」という、
あれを始めようとしました。なぜかというと、マ
ッサージは事業としてやっていくには人材育成
に時間がかかるからです。技術を教えて学科を教
えてそれから接客、理念を教えて、仕事に出るま
でに3カ月から半年かかります。FC展開には本
来向いていないのです。「時間」それが、つまり
参入障壁になるわけです。
でも「ブルブルマシーン」は機械さえあれば良
いので参入障壁が恐ろしく低い、つまり誰でも参
加できる業態でした。ですからあっという間に広
まってあっという間に廃れた訳です。そんな中、
社長が勝手に工場と 200 台分の契約をして、事務
の女性社員が勝手に支払をしていた…、笑い話に
もなりません。結局売り先がないのを何とかする
ためにこれ専用のお店を作って、ほとんど我々の
知らない処で話を進めていて、どんどん深みには
まって、なんのかんので負債が約 8000 万円です。
役員はどうなのかというと、役員はそのことを
全員知らない。200 台分の代金を払ってしまった
ので、売り先もないので、今度は店を出してその
投資分を補うようになるのですが、それをやるこ
会社存亡の危機 ∼「これはやばい!」∼
そうこうしているうちに、いよいよお金が回ら
なくなります。給料を払い、他の支払いをすると
お金がなくなってしまう。売り上げが7億8千万
円の会社で、借入れが4億5千万円で、1億1千
4百万円の債務超過に陥ってしまい、毎月の返済
は1千6百万円でした。普通に返済していては、
とっても追いつかないのです。
直営店の従業員が 100 名、フランチャイズを合
わせると 300 人を超える従業員やその家族の人た
ちのことを考えて、会社を潰す訳にはいかない、
と思い、必死で考え出すのですが、なかなか今ま
での思考パターンから抜け出せず、自分たちだけ
じゃ埒があかないと思い、私が尊敬している静岡
のある社長のところに相談に行きました。
決算書を持って行ったのですが、「自分を買い
かぶるな!そんな状況をお前一人で変えられる
わけがない!とっととやめて逃げろ!」と言われ
ました。私は「絶対この会社は潰せない!1年以
内にどうにかしてやろう!」と思ったのを覚えて
います。
その足で、知り合いの金融機関の支店長のとこ
ろへ行きました。支店長にも同じ決算書を見せま
31
●第5分科会●
いかけていかなければ本当の数字が読めません。
どこにどうお金が流れて、どこで足りないかが、
そこでやっと分かるようになりました。そうする
ことにより、キャッシュフローがどんどん改善し
ていきます。
したが、支店長が最初に僕に言ったことは「これ
はやばい!頼みこんでリスケをしろ!」です。そ
の支店長にリスケ(リスケジュール)を教わるの
ですが、「リスケ」という言葉自体も知りません
から、そんなふうに何とかする方法があるなら、
と具体的にどのようにするかを教わり、早速リス
ケに踏み切りました。
管理会計の導入② ∼具体的な対策へ∼
必死で考える
この時、キャッシュフローを改善しておかない
と支払が滞って会社が潰れてしまいますから、と
にかく高い金利でも借りられる銀行からお金を
借りました。いちばん高かった銀行からは、金利
7.14%くらいで貸りました。ビジネスローン並み
ですが、それを借りないと我が社が潰れてしまう
状況でしたから借りました。
それと共に、〆日等の支払い条件の変更、従業
員の給料日の変更等、支払いサイクルの改善もお
こないました。そうすることによって初めてお金
が少しずつ回ってくるようになりました。
もちろん計画通りにはいかない時もあります
から、その時は実数を打ち込み計画を修正しなが
ら、どこでどう補うかを話し合います。その為に
はキャッシュフロー、変動P/L(損益計算書)
が必要になるのです。それぞれの累計と単月で追
って行くこと、計画の進捗度を見ながら、取締役
会を月に2度開き、各役員がチェックしながら進
んで行きます。そして、1か月に1度は金融機関
に進捗状況の説明に行きます。金融機関と一緒に
チェックしながら前に進んでいくようになりま
した。
∼リスケを知り、銀行とのやり取り開始∼
しかし当時は、今のような「中小企業金融円滑
化法」というものはありませんでしたから、そん
なことをしたら金融機関はお金を貸してくれな
くなるし、担当銀行員の成績に響いて出世の道か
ら遠ざかってしまうので、非常に嫌がられるよう
な状況でした。でも当社はそれをやるしかないの
で、無理矢理に頼むしかありませんでした。
具体的には、取引のある全ての金融機関を集め
て最初にしたのが「平謝り」で、もうただひたす
ら謝りました。もちろんボコボコにされました。
ここでいちばん厳しかったのが、当時のメイン
銀行でした。普通はメイン銀行が仕切って、各銀
行にこうしようとか話を進めてくれるのですが、
本来ならいちばん動いてくれるはずのメイン銀
行が動いてくれずに、ほとほと困りました。でも
つい数か月前に知り合った金融機関の支店長に
後押しをして頂いたおかげで、他の銀行も待って
くれるようになりました。
管理会計の導入①
我社が立ち直った理由
∼自社の『いま現在のリアルな姿』を知る∼
∼枠組みを決め線引きが出来るモノサシ=管理会計∼
当社が具体的にどういう姿勢を見せたかとい
うと、とりあえず経営陣は有り金を全部会社に入
れ込み、給料はカット、そこから数字を見ながら
一つ一つ返済計画を作っていくのですが、そうい
う姿勢を見せて初めて、金融機関側が返済を待っ
てくれるようになりました。
そしてここで管理会計の導入です。
それまでの役員会では数字は見るのですが、決
算書にある過去の数字しか見ておらず、役員会が
全く機能していませんでした。しかも経営危機の
時には過去の数字は全く役にたちません。過去の
数字を見ても今何をしていいか判りません。本当
に必要なのは今のリアルな数字です。そのために
は、過去の決算書だけではなく、キャッシュフロ
ー計算書と変動の損益を見て「これを返済してこ
の売り上げを上げないと困る」というしっかりし
た計画を立て、その計画と見比べながら数字を追
しかし、それだけでは立ち直れませんでした。
当社が変わることができたひとつの要因は、当社
の営業スタイルにあります。本社とフランチャイ
ズ(暖簾分け)の関係により、FC(フランチャイ
ズ)にお店を売る際に、FCオーナーは金融機関
32
●第5分科会●
の創業者支援の制度を利用しながらお金を借り
てもらい、それを加盟金という形でハンズ本体に
お金を入れてもらう、という形を取るようにしま
した。これを計画的に実施することによって、最
終的に直営店 10 店舗のフランチャイズ化を行い、
お金が回り出して、危機を脱することができたの
です。
具体的な数字を見ながらPDCAサイクルを
回すことによって、改善されてくるようになりま
した。予算の枠組みを決めて資金の範囲内でのや
りくりをする、具体的には採算の取れない店は撤
退、効率の悪い店はテコ入れをし、良い店に人を
いれていくことができるようになりました。今ま
ではビルド&ビルドで、売り上げが悪くても引き
際が分からなかったものが、枠組みができたお陰
で思い切って切ることができる、いわゆる「スク
ラップ&ビルド」に変わってきました。
そうすると収益性にも変化が顕れ、お店の売り
上げ自体も変わってくる、中身がすべて変わって
くるようになりました。
金融機関との関係性① ∼関係性の構築∼
当社はリスケをした時点で、金融機関に対して
は何でもさらけ出していましたから、金融機関は
当社の「強み」から「弱み」から全部知っていま
す。そんな状況で収益が改善し始めると、今まで
は「敵」だと思っていた金融機関がだんだん「仲
間・支援者」に変わってきます。そして一緒に会
社を盛り立てて頂けるようになってきます。
管理会計を導入することによって、自社の計画
づくりと管理がしっかりでき、自社の「今」と「未
来」を数字として金融機関に示せるようになれば、
金融機関はリスケの最中でもお金を貸してくれ
ます。
これらの改善の進捗状況と数字を開示するこ
とにより、いちばん冷たかったメイン銀行がプロ
パー融資をしてくれて、そのお陰で他の銀行も
「右に倣え」とプロパーで貸してくれました。返
済計画は3年でしたが、1年でほぼ達成できた形
になりました。
これも、管理会計をやったおかげで、細かい数
字までチェックすることによりアイディアが産
まれて、具体的な改善計画に移した成果が出たの
だと思います。
金融機関との関係性② ∼相互理解∼
こうしたやり取りの中で、以前よりも金融機関
とコミュ二ケーションをしっかりとることによ
33
り繋がりが強固なものになりました。また担当
者・支店長が変わる度に関係を作っていかなけれ
ばいけない、ということも覚えました。
金融機関では不正と癒着を防ぐために通常2
∼3年ごとに担当者が替わりますが、日常的にコ
ミュニケーションをしっかりとることで、金融機
関側でも次の担当者や次の支店長に自社を引き
継いでもらえますし、必要な時に必要な分だけ支
援してもらえる関係が保たれます。また金融機関
は、こちらから情報を流すことによって、「お金
を借りるところ」というだけではなく「自社にと
って有益な情報提供して頂けるところ」にもなり
ます。
ちなみに、今では金利 1.3%で借りられる様に
なりました。さらに、今ではお金の貸し借りだけ
ではなく、情報のやり取りで内緒の話もしてくれ
ることもあります。実は、金融機関はお金を借り
るところだけではなく、リクルートからM&A等、
色々な情報の宝庫です。
色々な情報を提供してもらえるかどうかの関
係作りは、コミュニケーションを取ることによっ
て改善されてきています。
自社の現状、そして展望
当社は管理会計を導入し、経費の削減、別会社
を作るなど、お金の流れやお金の行き来を「見え
る化」することによって、より本部経費を抑える
ことができました。国の助成金のキャリア形成や
基盤人材なども使い、仕組みとして強固なものに
なりました。そして、最後に未来の会社のあり方
も計画できました。現在直営店 20 店舗・FC60
店舗ですが、これを直営5店舗・残りをFCにす
る、そしてエリアごとにエリアフランチャイザー
を導入して、管理を行ってもらう。本部はSV(ス
ーパーバイジング)機能と経理だけ、そんな形を
プランニングしています。
当社はこれからさらにお店を増やしていくこ
とを考えており、今期も今年の 11 月3日に徳重
店をオープンし、12 月1日に中村区の大型スーパ
●第5分科会●
が関与して1年経った頃、銀行さんが乗り込んで
くる事態がありました。
ちょうどリーマンショックの時で、業績は本当
に右肩下がりで2期連続の赤字でした。ただ、今
までいい時代が続いたので、「お金が足りなけれ
ば銀行が貸してくれる」と思っていたようです。
ひと月当たりの赤字幅が1千万円を超えてい
て、4千万円ほどの赤字になるところで、「この
ままの業績で行くと、銀行さんがつなぎ融資をし
なければ1年後に資金ショートして終わる」とい
う状況でした。しかし、役員の皆さんは決算書を
読めないものですから、その怖さが解らない。経
理をやっているお母さんだけが、「毎月通帳から
お金がどんどん減っていくので怖い」とおっしゃ
っていました。役員の皆さんは「業績が悪いのは
外部環境のせい」と自責の念が全くない人たちで、
「そのうち景気が良くなれば何とかなるんじゃ
ない」と、いつもいいお話をしていらっしゃいま
した。そんな時に社長であるお父様が病気で倒れ
たのです。
タイミング悪く銀行も支店長が交代されたと
ころで、「税理士さんも同席して頂いてちょっと
お話がしたいんですが」ということで、私は役員
さんと一緒に銀行と会いました。そうしたら「経
営計画を作って予算実績管理をしてないのはお
かしいだろう」と言われました。今まで何十年も
付き合ってきて、そんなことひと言も言ってこな
かったのに「いきなり」です。「ひと月以内に経
営計画を持って説明に来てくれ」と言われました。
決算書を読めない後継者が計画を作れるわけ
がなく、決算書の読み方から教えなければならな
い。そうするとひと月では無理なので、銀行さん
に「ふた月(時間を)下さい」とお願いし、了解
してもらいました。そして後継者と私とで毎週毎
週、計7回打ち合わせをして経営計画を作り、銀
行に話をする時のリハーサルもして、私も付き添
い1月末に銀行に行きました。
後継者が経営計画を説明し始めると、銀行はど
うも怒っていらっしゃるような雰囲気で、説明し
終わった途端「こんなバカな計画があるか」と怒
られました。「リーマンショックでみんなが売り
上げを減らしているのに、右肩上がりの計画を持
ってきて、何考えてるんだ」というようなことを
言われたのです。「売り上げ計画はブレても 20%
以内、どんなにブレても8割はキープして欲し
い」とおっしゃいました。
ただ、後継者をなんとかなだめすかし、やる気
にさせて銀行までやっと連れて行った身として
は、銀行ももう少し後継者を育てる視点というも
のを持って欲しかったと思いました。もちろん銀
行にも「そういうスタンスでやっても育たないし、
今まで育てるということを銀行もしてこなかっ
ー内に出店、12 月 12 日には名駅本店のリニュー
アル、そして 15 日には名張市のショッピングモ
ールに出店します。出店するにあたっても、管理
会計を導入して細かな数字を基に計画を立てて、
3年後・5年後はこうなると根拠のある数字を出
すことによって、金融機関はどこでもお金を貸し
てくれるようになりました。
「管理会計」を導入するだけで、自社を取り巻
く環境への考え方が変わり、資金を効率的に活用
し、金融機関とも信用・信頼の対等のお付き合い
が構築できます。先行き厳しい今だからこそ、一
刻も早い管理会計の導入をお薦め致します。
当社は管理会計を導入して、劇的な変化を遂げ
てきました。これは数字にも出ていますし、外部
環境に左右されない会社を作るための大きな一
歩になると思います。これからも将来に向けて、
管理会計に基づいて細かな数字を基に計画を立
てどんどん変化し続けていこうと思っています。
補足報告:大板 一志 氏
大板会計事務所・所長
【会社概要】
創 業/2004年
社員数/7名
年 商/5000万円
事業内容
/経営計画コーチング、
事業計画作成支援、起
業・事業承継支援、税
務会計顧問
http://www.ohita-kaikei.com/
青野さんの事例は、管理会計を導入して金融機
関との関係作りに非常に成功した例です。特に、
「ハンズコーポレーションに青野さんがいなか
ったらどうなっていたんだろう」と考えると怖い
お話ですが、実際そういう人材がいない会社もあ
ります。
事例1「絵に描いた餅は食べられない」
この会社は年商 10 億円、創業 50 年と非常に長
く続く卸売業で、創業社長はお父様、おじさんが
副社長、後継者のご長男は未だ経営には携わって
おらず、ルート営業だけをやっていました。ほの
ぼのとしたいい雰囲気の会社だったのですが、私
34
●第5分科会●
たのだから、これから一緒に育てましょう」とい
うお話をさせて頂きました。
しかし、その一件で後継者は経営から逃げてし
まい、その会社は現在経営者不在です。つなぎ融
資は出たので、まだなんとか現場レベルで動いて
いるという怖い状況です。
この事例の教訓は、「魂のこもっていない経営
計画は金融機関にはすぐ見抜かれてしまう」、
「絵
にかいた餅を持って行っても銀行は納得しない」
ということです。そして後継者の方にぜひ覚えて
おいて頂きたいのは、いざという時がいつ来るか
わからない、ということです。人間は、病気をし
たり何があるかわかりません。今、お父様が元気
で会社を引っ張っていても、突然経営に携われな
くなる可能性もあります。その時の準備というも
のをしておかなければいけない、ということを教
えてくれる事例でした。
事例2「次代を育て未来に渡す仕事」
介護事業をされている会社で、年商は1億2千
万円です。介護事業を創業して5年ですが、実は
その前もお爺様の代から繊維業を営まれていた
会社です。役員はお父様である会長、ご長男が社
長、社外役員としてお父様の経営者仲間が入って
いました。
繊維業は市場が縮小してきていますので、見切
りをつけて介護事業に参入しました。介護事業創
業時の借り入れ交渉は、会長であるお父様がなさ
いました。創業時より、後継者のご長男に社長を
譲り、社長には管理会計導入と役員会をきちんと
運営させること、そして期首に事業計画発表会を
することを課していました。
初期投資が大きかったので、最初の2期は赤字
でしたけれども3期目から黒字化することに成
功し、5期目に繰越欠損はありましたが、設備投
資と運転資金の借り入れ交渉を社長がおこなっ
て、融資を受けることができました。ずっと役員
会に出させて頂いた私は、融資を受けることがで
きたのは、この4年間に会長が息子である社長を
きちんと育ててきた成果である、と実感しました。
管理会計を導入しても、最初の計画はやはりブ
レます。思い通りの数字にならないのですが、続
けてやっていくと数字がブレなくなってきます。
そうすると、出した計画とほぼ同じ業績が出るだ
ろう、と安心できます。
それは銀行も一緒で、事業計画発表会には銀行
も出席しているので、銀行は知っているわけです、
その会計期間に何をするのか、どういう数字を狙
っているのか。それが1年後にきちんと出る経営
者、会社であれば、もう銀行としては離したくな
35
い、資金需要があるならいつでも貸します、とい
うような対応で、今もそういう関係が続いていま
す。
この事例で私が教えられたのは、経営者の責任
というか「仕事」です。経営者の重要な仕事とい
うのは二つ。潰れない会社を作ることと、優秀な
後継者を育てることです。潰れない会社というの
は継続的な黒字企業です。
実は「企業変革支援プログラムステップ1」に
紹介されていた、非常に印象的な言葉がありまし
た。
「若竹屋は祖先より受け継ぎし商いにあらず。
子孫より預かりしものなり」という、福岡同友会
の会員さんの会社の家訓です。まさに経営者が胸
に持っていないと、事業承継はうまくいかない言
葉だと思いました。
事例3「数字はなかなか変わらない」
創業 35 年の製造業で、年商は8千万円、歴史
のある会社です。お父様が会長、社長は数年前に
ご長男が事業承継し、外部環境の悪化で売り上げ
規模は下がってきていますが、何とか黒字経営を
続けています。
ここ数年で事業承継したばかりなので、お金の
管理はまだ会長がされており、社長といっても経
理のことを全く解らずに経営をしています。黒字
なので、社長は「お金は回っている」と思ってい
たのですが、ある時会長から「お金がないから運
転資金の借り入れが必要」と言われてしまいまし
た。そんな時に私のところにご相談に来られたの
ですが、社長としては「なんでお金がないの、銀
行に行って何をすればいいの」というところです。
なぜお金がないかというと、過去に借り入れた
運転資金の返済があるので、利益を出してもお金
がどんどん減っていってしまうのです。そこでま
ずとにかく銀行に行かなければいけませんでし
た。市場に関しては非常に先行きの良くない業種
だったので、「明るい材料がないまま銀行と交渉
をしても、多分お金は出ないだろう」ということ
で、管理会計の導入を決意して頂いて、まず事業
●第5分科会●
計画を作成してもらうことにしました。まだ決算
書を読めない社長さんでしたから、まずご自分で
説明できるようにする、ということを一緒にやり
ました。
計画を立てて、その計画に対して実績はどうだ
ったか、その数字を出すために社長が何をしたの
か、という議事録を毎月毎月作っていって、ある
程度それを実施した段階で、銀行に決算書と事業
計画書、毎月の役員会の資料を持って融資交渉に
行きました。
税理士が銀行の融資の交渉に立ち会うと、ある
程度の報酬が発生してしまいますので、通常は立
ち会いません。同席することはほとんど無いので、
税理士が必ずしも金融に強いわけではありませ
ん。
私の場合は、初回はきちんとサポートしますと
いうことで、当然行く前に練習もしました。練習
の上で銀行に行き、管理会計をやっているという
ことをきちんと説明して、その内容を資料でお渡
ししました。すると銀行の担当者がものすごくほ
めて下さって「これを作って頂いていると助かる
んです。融資の口実を作って頂いてありがとうご
ざいます」と。
一年後に結果が出ます。初めて作る計画はなか
なか計画通り行かないのですが、でも何とか 20%
以内のブレでおさまって、売り上げは 80%を達成、
黒字もキープということで銀行もほめて下さい
ました。更に1年経って、また運転資金の交渉を
したのですけれども、それでもきちんと出して頂
くことができました。
この事例の教訓としては、経営努力を「見える
化」することで、自社の格付けをキープできると
いうことです。銀行とのコミュニケーションとい
うのは非常に大事だと思いました。計画を立て行
動を変えても数字は簡単には動かないし、それが
すぐに結果に結び付くとは限りません。結果に結
び付くまでタイムラグがあることを考慮して早
めに行動を変えないと、生き残れない可能性があ
るとも思いました。
事例4「勘定合って銭足らず」
年商2億円、創業 10 年の印刷業です。社長は
創業者で、リーマンショック前は得意先1社への
依存率が 70%でした。リーマンショックで売り上
げが激減しどうしようかというのを、何とかそれ
までの業績が良かったので、当面の運転資金は貸
していただけました。そして顧問税理士と一緒に
再生計画を作りました。その計画は売り上げと利
益、そしてアクションプランです。そんな時に私
とその社長さんが出会い「管理会計専用のソフト
で計画の検証をしたい」という依頼を受けたので、
私はヒアリングしながら社長と一緒に再度計画
をチェックしました。
すると、その再生計画は、売り上げを達成して
も3年後に資金ショート、破綻してしまうという
ことが発覚してしまったので、中期の経営計画を
再構築しました。その方は同友会の方ではなかっ
たので、私は「理念から作りましょう」と進言し、
その社長は理念・方針・人事戦略・投資戦略とい
うことを色々練って、それを数字に落とし込んで
中期の数字の計画を作りました。
特に重要なのはキャッシュフローです。売り上
げ目標を達成したのに資金ショートしてしまっ
ては意味がないので、売り上げだけではなく、投
資でいくらお金がかかるか、新しい人を採用した
らいくらお金がかかるか、そういったことをすべ
て数字に換算して計画に落とし込む、それで死守
しなければいけない売上高をきちんと把握して
アクションプランに繋げる、ということをやって
頂くようにお願いしました。1年後「達成しまし
た。何とか黒字をキープして経営計画も順調に推
移しています。だけど依然厳しい状況なので、も
う一回中期計画の見直しをしたいのでお付き合
下さい」という嬉しいご連絡があり、今、中期計
画を一緒に立てているところです。
この教訓は、中小企業はキャッシュフロー経営
が非常に重要だということだと思います。会社は
赤字を出しても潰れないし、債務超過になっても
潰れないのですが、資金ショートすると潰れてし
まうのです。なので、まずキャッシュフローを意
識する、それも未来に向かってお金がどう動いて
行くのか、という事をきちんと経営者が把握して
おくことです。
数字の計画までシビアに
同友会の皆さんは経営指針書という枠組みを
ご存知なのですから、是非指針書をきちんと作っ
て頂きたいです。私は同友会に入って4年たちま
すが「経営指針書を持ってますよね」という話を
36
●第5分科会●
すると「うん、持ってる」
「計画はどうですか」と
言うと「計画は無いんだわ」と言われる方が割と
います。理念・方針・戦略までで指針書を作った、
という人もいらっしゃいます。数字の計画までき
ちんと作っていないと、それは指針書ではないで
すし、数字の部分をシビアにやらなければ会社は
潰れてしまいますので、是非計画も重要というこ
とをご理解いただきたい。
また昨日は、去年 11 月に「やはり景気が悪い
から、どうなるかわからず怖い、何とかしたい」
という相談を頂いた社長との打合せでした。経営
をきちんとやりたい、という話でしたので「管理
会計をちゃんとやったら」ということで、一緒に
中期計画を作りました。その社長は、経営計画を
立ててアクションプランを作って、頑張ってこの
8月に経営計画を達成しました。「達成したら銀
行の態度ってあんなに変わるんだね」と、昨日お
っしゃっていました。銀行に対して物を言えるよ
うになるのは、作った計画を実行したときです。
「これだけやって、これだけの数字を積みます
よ」と言ったことを実際に出すと、銀行の態度は
かなり変わります。
また、その方とは経営指針書を一緒に作ったの
ですが、「これがないと怖いよね。1年前はそん
なことはさらさら思わなかったけれど、1年やっ
て、これから5年先のことを一緒に作ったけれど、
今これがなくて経営している人たちって怖くな
いのかなあ」とも言っていました。
管理会計を1年間きちっとやって経験すると、
それがないと経営をするのが怖くなる、自分がブ
レるのが怖くなってくるのです。
銀行は味方、仲間はブレイン
経営指針書を作ってグループ会等の発表の場で
「自分はこれだけ出すんだよ」という自社の数字
を皆さんに開示して、自分にプレッシャーを与え
て下さい。そうすると同友会の仲間がブレインに
なってくれます。
私は今年の7月にグループ会で自社の今期の
数字を発表しましたので、あとこの 11 月 12 月と
でかなり捲いて行かないといけないので、今、自
分にプレッシャーがかかっています。必ず結果が
出てしまいますから、同友会の仲間から「やった
んか、数字はともかく行動計画やったんか」と問
われた時に、きちんと応えられるように、自分で
今プレッシャーをかけています。自社に管理会計
を導入して、より良い経営というものを実践して
頂ければ、同友会が楽しくなると思います。
助言:由里 宗之 氏
中京大学総合政策学部・教授
1982年京都大学文学部卒業
1984年京都大学経済学部卒業
1984∼96年大和銀行に在職
1990年ハーバード大学ケネディ行政
学大学院修了
1996年大阪市立大学大学院入学
1997∼99年米国銀行協会ストーニア
高等銀行研修所研修生
1998年 中京大学商学部専任講師、
助教授を経て
2005年より 中京大学総合政策学部
教授
私は、現在のりそな銀行に 12 年間おりまして、
銀行を辞めてから中京大学で教鞭をとり 12 年に
なります。その間、今年の6月まで瀬戸信金の監
事もさせて頂きましたので、金融機関側の本音と、
先ほどのDVDと、青野さん・大板さんお二人の
ご報告を捕捉させて頂く形でお話ししたいと思
います。
DVDに登場した三協信金・西村支店長の言葉
にもありましたが、金融機関は「会社を続けてい
くのか、それとも廃業するのか、経営者に本気で
考えて結論を出してもらわなければ、私たちは支
援できない」と考えています。まずは経営者本人
が真剣に会社経営と向き合う機会を作ってもら
おうとします。これは大板さんのご報告にも通じ
るところですが、一方で、どうして金融機関側が
破綻懸念先になっている会社を助けようとする
のか、という事情を補足していきたいと思います。
皆さんには今お付き合いされている税理士が
必ずいらっしゃると思いますが、是非、管理会計
を導入する意思表示をして下さい。そうすると会
計事務所も嬉しくなります。質の高いサービスを
提供させてもらえるからです。
「領収書を貼って」
「帳簿作っといて」だけではやりがいがありませ
ん。
経営に少しでも携わって、会社の発展に寄与で
きることが会計事務所の担当者の喜びになりま
すので、会計事務所の担当者を上手くブレインに
変えて下さい。次は銀行の担当者です。銀行の担
当者には色々な情報収集をする代わりに、毎月き
ちんと試算表を渡して経営状況を教えて下さい。
そして決算が終わったら決算書と経営計画書を
持って支店長に会いに行って説明する、それで銀
行を味方につけて下さい。
同友会の席では、簡単なものでいいですから、
37
●第5分科会●
化が位置付けられました。
金融検査マニュアルをめぐって
青野さん・大板さんのご報告の中でも、中小企
業と金融機関との関係性が、コミュニケーショ
ン・リレーションシップという形で出てきました。
金融機関にとっては、業況のよい安定した融資
先だけを支援するようにすれば、経営的には効率
がいいのですが、実は中小企業を助けなければい
けない事情、地域金融機関には中小企業に対する
「リレーションシップバンキング(リレバン)」
が金融庁から要請されている、という事情がある
のです。「破綻懸念先」とか「正常先」とか「実
質破綻先」とか、そういうものは金融検査マニュ
アルに書いてあります。このマニュアルは金融庁
が金融機関に検査に入る時の金融庁側のマニュ
アルですけれども、メガバンクから信用組合まで、
金融機関はこの金融庁の方針に一言も歯向かえ
ません。
金融機関の行動そのものを決めているこのマ
ニュアルは、1994 年に中小企業も大企業も十把一
絡げで扱う形ででき上がりました。その後の貸し
はがし、貸し渋り(2000 年頃)がすさまじかった
というのは覚えていらっしゃると思います。する
と、逆に全国各地で中小企業金融がガタガタにな
り、中小企業が潰れるのみならず、地域の金融機
関自身も潰れていく事態となりました。地域金融
機関の破綻が相次ぎ、「中小企業というのは決算
書が全て、とパシパシ切ったり、3期連続赤字だ
とか債務超過だとかになると自動的に処分した
りするなど、不良債権処理と言いながらそんなこ
とをしてしまったら、実際には生きられる会社も
生きられない」ということにやっと気がついてで
きたのが、2002 年4月の「金融検査マニュアル中
小企業融資編」です。
金融円滑化法の背景
今から1年ほど前に、亀井金融大臣が登場され
ます。当時の毎日新聞の論説に「亀井氏の術中に
はまった」とありますが、モラトリアム騒動がお
こりました。歴史上は関東大震災直後に発動され
た、中小企業への貸出に関して金利を含めてすべ
ての返済を一時停止する、というのがモラトリア
ムですので、その言葉を亀井さんが使ってしまっ
たために金融界は大騒動になりました。
金融行政としては「中小企業に対して理解のあ
る金融行政に少しずつ変えてきていますから」と
いうことで、去年の 12 月1日から施行されたの
が「中小企業金融円滑化法」です。
来年3月までの予定ですけれども、金融の業界
筋からは「延長されざるを得ないだろう」との話
が聞こえてきます。
金融円滑化法の中でより奨励されるようにな
ったのが、企業に対するコンサルティングです。
先ほどのDVDに出てきた銀行の支店長が融資
先の女性を半分泣かせながらも「こうしないとだ
めですよ」と言っていた、あれがまさに血の通っ
たコンサルティングです。そして、彼があの中で
一生懸命奨励していたのが数字を踏まえた経営
で、それが先ほどのお二人の発表にもありました
管理会計も含めて取り組む経営の立て直しなの
です。
わかりやすい理念・経営方針・計画を
実は、同友会のように経営指針や計画作りに取
り組んでいる中小企業は、条件変更(リスケジュ
ール)をしなくても今後1年間、3年間、と金融
機関に対してずっと計画書を出しています。ただ
金融円滑化法では「計画書は絶対に出さなければ
いけないが、1年間以内だったら提出を待ちます
よ」ということで、それが今ちょうど殺到してい
リレーションシップバンキングとは
金融行政上当局から「リレーションシップバン
キングの実施」を要請されているのは、地銀・第
2地銀・信用金庫・信用組合、要するに地域の金
融機関です。
中小企業に対して「赤字だから」とパシッと切
り捨てるのではなく、先ほどのDVDやお二方の
お話のようなやり取りを、どんどんやりなさいと
いうふうに行政の風向きが変わってきました。最
初は2年間の集中改善期間だったのですが、現場
の資金繰りと金融機関の支援がもう一つ改善し
なかったので、第二次リレバンということで 2005
年から 2006 年の2年間やって、それでも良くな
らなかったので、集中改善だけでなくてずっとや
りなさいということで、2007 年以降リレバン恒久
38
●第5分科会●
るのです。
金融機関側は今、非常に忙しくなっています。
大板さんの報告で紹介されたような、いい加減な
計画書がいっぱい出てくるという状態ですから、
そういう案件に押し潰されないように自社に対
して金融機関側の注意を引きつけ、「自社も忘れ
ないでね」というアピールが必要な状態になって
います。
金融機関側から見れば、ごちゃごちゃと一斉に
殺到してきている中だからこそ、「わかりやすい
理念」
「わかりやすい経営方針」
「わかりやすい計
画」がより大事になっているという事です。
金融マンも人の子、貸す気にさせよう
最後に、小堺圭悦郎著「借金の王道」
(2005 年、
ダイヤモンド社)という、タイトル自身が何とも
印象的な書籍から引用して紹介します。実は、書
いた方は元銀行マンで、非常に生々しく金融機関
側の本音が書いてあります。
「『貸す気にさせる』、
金融マンも人の子で取引先をより好みする」とい
うのは金融機関の本音です。
今は私が駆け出しの銀行マンだった頃と比べ
て、金融機関に対する金融庁側の要請はとんでも
ない数になっています。ましてやリーマンショッ
ク後、手を差し伸べなければいけない支援先は一
層増えているのに、労働行政からは残業管理が非
常に厳しくなっているし、守秘義務が個人情報保
護の関係で強化され、仕事を家に持ち帰るという
ことができなくなっています。そういう意味で、
データを持ってきてくれたところは本当に助か
ります。
「−『貸す気にさせる』なんて言い方しますと、
とてもいい加減な印象を受けるかもしれません
ね。『そうっすねえ・・・・。貸したいとか貸したく
ないとかで融資を決めてるわけではないでしょ
う?』もちろんそうですよ。でもですね、こと、
財務状態が良くない融資先の場合、断る理由はい
くらでもあるわけですよ。−中略−金融検査マニ
ュアルで自己査定が・・・・。決算書の各付けが・・・・。
融資を断る理由はいくらでもあるじゃないです
か。−中略−ダメだと思われるにきまってるじゃ
ないですか。まして過去の決算書だけで評価され
たら、そりゃもっともだってことになりますよね。
−」
つまり、過去の決算書しか用意していない会社
は非常に不利だということです。今の業績を、今
月はどうなのかピンポイントで進捗状況を落と
してくれている会社は、本当に金融機関側は両手
を合わせて「ありがとうございました」と言いた
くなるわけで、管理会計はそこに役に立つものな
39
のです。
「−業績が悪ければ悪いほど、資金繰りが苦し
ければ苦しいほど、逆に落ち着いて正々堂々とし
ていなければなりません。−中略−業績の良い会
社であれば、借りられるかどうかだけで言ったら、
計画書も何もいらないんですよ。過去3期連続増
収増益です、もうそれだけで十分じゃないですか。
−中略−悪ければ悪いほど、交渉に向かう際には
資料をバッチリかつ簡潔に作成し、オープンにし
ます。そして改善するのにどうしたらいいのか一
緒に考えてもらいましょう。−」
会社を潰したって、結局金融機関の赤字が増え
るだけですし、融資先がどんどん先細りしていき
ます。本当は潰したくないのです。その会社を潰
さないためにデータが必要で、大変忙しい中で、
本当に数字を出してくれた会社から順番に手を
差し伸べていく、というという実態を、しっかり
ご理解いただきたいと思います。
【第5分科会スタッフ】
○座
長
近藤 正人(名古屋第5青年同友会)
(株)アートフレンド・代表取締役
○室 長 二村 佐斗史(中区北地区)
イスクラアセットプランニング(有)・代表取締役
○責任者 長谷川 睦(中区北地区)
(株)長大商事・代表取締役副社長
○グループ長
青木 俊市(港地区)
足立 誕生(中区北地区)
出原 直朗(名古屋第2青年同友会)
蟹江 晃男(尾張南青年同友会)
木村 隆司(瑞穂地区)
杉本 敦永(中区北地区)
増田 喜久(稲沢地区)
村瀬 好毅(西地区)
山田
希(尾張西青年同友会)
○実行委員
石田 謙一(中区北地区)
今吉 智彦(守山地区)
○記
録
浅井
紀子(愛知同友会事務局員)
⑥分科会
第
<経営理念を実践する過程>
事業継承を飛躍のチャンスに
~
先代・先輩から引き継がれる『絆』とは
報告者
~
徳島 孝志氏
徳島興業(株) 代表取締役
(名古屋第3青年同友会)
絆づくりを意識した事業継承は、会
社の成長・発展につながります。とこ
ろが、受け継ぐ側・引き継ぐ側ともに、
自分の想いや、客観的に見た現在の状
況をお互いに伝えたり、話したりする
ことが少ないようです。この分科会で
は、事業継承に直面した徳島氏が思い
悩みながらどんな姿勢で何を目的に
挑んできたかに迫ります。
【会社概要】
創 業/1911年
資本金/4,800万円
社員数/33名
年 商/30億円
事業内容
/鉄スクラップ回収、冷凍
倉庫業
http://www.tyubu.co.jp/
前職はDJ
父は「業界の名物男」
徳島興業は、明治 44 年に設立された鉄スクラ
ップの卸売り問屋です。工場で加工する過程で出
る鉄くずや、破材・削り粉を回収したり、建物な
どを解体したときに出る鉄筋・鉄骨のくずなどを
加工したりして、大きなロットにして製鋼所に納
入する。これが会社の本業となります。それ以外
には食品などをお預かりする冷蔵倉庫業もやっ
ています。
私はこの会社に 12 年前に入社しました。それ
までは、クラブでDJをやっていました。それは、
夜な夜な街にレコードを持って出かけては酒場
で音楽をかける、という仕事です。音楽番組でZ
IP-FMの音楽の制作や、雑誌のライターの仕
事もやっていました。
ひところ、私がやっていたジャンルは非常に調
子がよかったのです。しかし、次第に衰退してい
き困っていたところ、父に「ふらふらしずにうち
の会社に来い」と言われました。救われたと思っ
て、会社には行くようになったのですが、DJに
未練があり、いいかげんな気持ちでいました。
私の父は現在、社長を譲って会長になっていま
す。父は昭和 11 年生まれの現在 74 歳になります。
父は大学4年生の時に私の祖父をなくし、急遽、
社長になったそうです。
当時は、ある物産会社と組んで名古屋の鉄くず
のシェア 45%を誇っていたと聞いています。しか
し、祖父の急死もあり、いろいろなことでもめて、
結果的に会社は8つに分かれてしまい、最後に残
った本体の徳島興業だけを父が引き継ぎました。
そのころは、かなり金融機関に冷遇されたり、
さまざまな苦労をしたり、という話も聞いていま
す。ただ、業界経験は非常に長く、51 年間社長を
やって私に譲った人物です。よって業界では名物
男で、また、話の長い男でした。とにかくよくし
ゃべるのです。冗談で、商社に若い子が入ると、
「新人は一回はおやじ(私の父)の所へ行って、
2時間ぐらい説教を聞いてこい」といわれるよう
な人でした。
後継者だった兄が急逝
私が入社した頃、会社には兄がいました。兄は
優秀な男で、会社の将来の跡継ぎとして有望視さ
40
●第6分科会●
現象が起こり、鉄の業界は景気が悪くなります。
冷凍倉庫のほうも口蹄疫が発生し、台湾・韓国と
もに豚肉が輸入禁止になります。それで、その事
業の仕事がほとんどなくなってしまうのです。
その後、私が会社に入るまでの 10 年間ぐらい
の間、ほとんど利益が出せませんでした。その時
に会社に累積した負債がそのまま残っていまし
た。
れていました。私の父は「サラリーマンにはなる
な」という教育をしましたので、自分の好きなこ
とがやれると思っていました。私が会社に入った
ときは、
「どうせ会社は兄のもの」だと思い、
「自
分は好きなことをやって過ごせばいいや」と考え
ていました。父に救われて入社できたのですが、
性根の部分は全然変わっていなかったのです。
ところが、入社して2年後です。まだ一緒に働
く従業員にも受け入れてもらえなかったのです
が、冷凍倉庫で荷物が入ってきた時に豚肉を運ぶ
作業もして、ようやく仕事の大事さというのがわ
かりかけてきました。今考えると、まだ甘かった
と思いますが、そんな気づきが出てきた時に、兄
がスクラップの山の前で事故で死亡してしまい
ます。
感情のある道具
徳島興業に入社してからは、会社の決算書をこ
っそりのぞいて、「大丈夫だろうか、どうやって
いこうか」と逃げ腰の時もありました。しかし、
兄の急逝により、私の結婚式も延ばしていたので、
とにかくあがこうと思ったのです。しかし、こん
な自分本位の考えでは、社員がついてきてくれる
わけはありませんでした。その上、私はスクラッ
プ業界のことをよく知らず、素人同然だったので、
社員に軽く見られていました。私はとにかく社員
に取り入ろうと、一生懸命に下手に出ました。何
とか私の言うことを聞いてもらいたかったので
す。
その頃の自分には反省しています。おそらく私
は社員のことを感情のある道具だとしか思って
いなかったのです。感情があるので、なだめれば
何とか上手に使える道具になるだろうと。そうい
うふうにしか思っていなかったような気がしま
す
「会社継がなきゃ男じゃない」
父はかなりショック受けていて何もできない
様子でした。葬儀は2日間で 600 名ほどのの方に
参列していただきました。部屋の中からロビーま
で花が並んで、階段を降りて下まで一周する、そ
んな状態だったのです。うちの会社は大した会社
じゃないと思って、私が小さい会場を手配してい
たら、予想以上に大勢の参列者がいらっしゃった
のです。
参列者の皆さんから、「ああ、おまえがおるの
か。おまえの会社はいい会社だから継ぎなさい。
おまえがやってくれるなら安心だ」と言われまし
た。その時に思ったのが、「この会社を継がなか
ったら、おれは男じゃない」ということです。私
で4代目ということは知っていましたし、これだ
け皆様に信頼されていている。そんな会社を私の
代で終わってしまうことは、間違っているんじゃ
ないかと思いました。それが、初めて経営者とし
てやっていこうという覚悟を持った瞬間です。
父が心筋梗塞で倒れる
しばらくしてスクラップ市場がだんだん好転
してきました。事業も少し好転してきたところで、
父がスクラップの専業商社では最大手の会社の
元名古屋営業所長を、うちの会社に招き入れます。
私が経営者になるためのいわゆる「コーチ役」で
した。その方とぶつかり合いながら仕事の実績を
上げていきました。しかし、そんなところで父が
会社は危機的状態
その時の徳島興業の状況というのは、実は非常
に厳しい状態でした。昭和の終り頃には、冷凍庫
事業で食肉の輸入販売をやっていました。ハムメ
ーカーに韓国や台湾から輸入した豚肉をハムの
原料として販売していたのです。
ところが、そのハムメーカーが倒産してしまい
ます。その時に数億の焦げつきが発生しました。
時はバブルの始まる前で、資産を売ったり、持っ
ている資産が値上がりしたりして会社を維持し
ていました。
しかしバブル景気の後、「鉄冷え」と言われる
41
●第6分科会●
心筋梗塞で倒れます。非常に不安なときを過ごし
ました。その時は、そのコーチ役の方も、私の実
情をよく知るだけに心配していました。
しかしその頃の私は、
「自分はできる男なんだ」
と勘違いしていましたから、「大丈夫だ。私はや
ってみせる」と社内で宣言していました。しかし
内心もの凄くプレッシャーを感じていました。
そんな矢先に、整理回収機構から呼び出しを受
けます。バブル崩壊後に三洋証券・山一証券・北
海道拓殖銀行という大きな金融機関の倒産があ
りましたが、その中の北海道拓殖銀行がうちのメ
インバンクだったのです。
だと身に染みました。
整理回収機構の呼び出し
実績に酔いしれる
整理回収機構では、取り調べのようでした。必
ず弁護士と同席です。やり取りを担当者がすべて
メモしているのです。借金をすることは犯罪なの
だろうか、と思わせるようなものでした。その時
に助かったのは、取引先の社長が「おまえは社会
経験がないから、俺がついていってやる」といっ
て、その場所について行ってくれたのです。
その頃、スクラップの在庫がたくさんありまし
た。債権回収機構に、「在庫がこれだけあり、こ
の相場で売れる。しかし、この在庫を全部処理す
るのに半年ぐらいはかかる。それまでは待って欲
しい」と頼みました。担当者の答えは、「そんな
ことは信用できない」というものです。その場を
切り抜ける事ができたのは、同行してくれた社長
が、「私が保証します」と言ってくださったから
でした。
それからも鉄くずの相場はどんどん上がって
いきました。そうすると、取り扱い数量は一緒で
も、値段が上がっていきますので、売上高が増え
ていきます。それにつれて利益も上がってくるの
で、とても仕事が楽しくなってきました。本当に
営業が楽しくてしかたがなかったのです。結果が
出るのでさらに一生懸命に営業をすると、実績が
残りました。
私は非常に調子に乗りやすい性格ですので、そ
の実績を社内や社外に誇示するようになってき
ました。社員には、「俺がこれだけ仕事を取って
きたんだから仕事をしろ」と言っていました。こ
のことは、かつて父親に言われて嫌だなと思って
いたことなのに、そんなことを今度は自分がやっ
ていたのです。
しらける社員
信用のなさを知る
社内外に自分の実績を誇示して、会社も好調な
時に同友会に出合います。同友会に入るきっかけ
は、高校の同級生の紹介でした。
その頃は自分に自信があり、さらに自分を高め
ていきたい意欲に満ち溢れていました。それで同
友会にも興味を持ち、経営者の勉強をしようと思
ったのがきっかけです。しかし同友会に入っても、
そういう実績を誇示してばかりいたような気が
します。
ただ、会社の中で起きていた状況は、そんな私
の気持ちとは裏腹のものでした。契約社員は、仕
事がたくさんあって忙しいためについてきます
が、正社員は「しらっ」としているのです。特に、
会社の中で私と父とが喧嘩をしているとそうな
のです。このことが、社員にもの凄く仕事をやり
づらくしていた事実に気づきました。父親と息子
が会社の中で喧嘩をするのは、周りが不幸になり
整理回収機構に呼び出しを受けたり、銀行に融
資を断られたりして、私は自分の実力のなさを思
い知りました。それでも会社の危機的な状況を救
わなければいけないので、退院した父と銀行回り
をしました。父と一緒に行くと、なぜかすんなり
と銀行からお金が出てくるのです。
また、父が株主になっている会社にも融資を頼
もうとしたのですが、私一人のときは簡単に断ら
れました。
「私どもの会社は銀行じゃありません」
と。その会社は預金が何十億円もあるような会社
でしたが、全く融資が出てこなかったのです。
断られた後、復帰した父と一緒にその株主の会
社に行ってみました。するとすんなりお金が出て
くるのです。このときに、「ああ、俺ってこんな
に信用がなかったんだ」と思い知りました。その
他にも、財務体質が悪いというのはいけないこと
42
●第6分科会●
ます。そう思いました。同友会でも労使見解とか、
社員との“共育”を経営課題の中心として勉強会
を開いている。この機会に社員との関係について
真剣に取りかかろうと思いました。
解釈するようになりました。
また、経営理念を深いものにするために、父の
言っていることを真剣に聞き、内容を噛み砕く努
力をしました。とにかく父と長く話し、父の考え
や会社の方向性を知ろうと努めました。そうして
経営理念ができ上がったのです。これはとても大
きい意義のあることでした。この経営理念を作る
過程で、私は父の思いを真剣に受けとめることが
できたのです。
それから入社してもらった社員には、会社の目
的や考え方を伝えるようになりました。例えば、
私たちの存在意義としてどんなことに役立って
いるかとか、私たちの頂く利益はどのように成り
立っているかとかです。だからこういう仕事を取
ってきて欲しい、と説明できるのです。伝え方が
上から命令して動かす形から、社員が納得して動
いてくれる方向性に変わっていったのです。納得
いく方向性は、理念がしっかりしているとできま
す。父の厳しい言葉も、「ああ、そういう意味な
のか」と理解できるようになってくる。そうなっ
てくると、社員はやりがいも出てきますし、会社
はうまくいきました。そして念願の1億円の利益
を出すことができたのです。
不正行為が発覚
社員が「しらっ」とした状況で働いている。つ
まり徳島興業で働くことにやりがいをまったく
見出していない。お金がもらえるので、しかたな
しにやっている。そんな感じの会社でしたから、
社内で不正が発覚します。かなりの額の横領と、
会社で仕入れた非鉄金属を盗んでどこかに売却
する行為が2件ほど発生します。それで、職場環
境や社内制度も含めて考えることにしました。そ
こで思ったのは、人の気持ちが会社に向いていな
いとだめだ、ということです。制度も人の気持ち
もきちっと整理しなければならないと感じまし
た。
それで、「ああそうか。これが必要なんだ」と
思ったのです。同友会の基本である経営指針の成
文化です。経営指針書をつくればお互いの思いが
伝わっていくのではないか、と思いました。父は
非常に厳しい言葉を使う人でしたが、それだけで
はやっぱり伝わらないのです。その奥底にはちゃ
んとした考えがあるので、社員にその内容を伝え
るいいツールになると思い、経営指針書の作成に
取り組みます。
約束を守り社員と一体
実はその頃、1億円の利益を出しても、銀行か
ら新しい融資がまだ受けられない状況でした。返
済が滞ることはありませんでしたが、過去の借金
を引きずり、利息は高いままで厳しい状態なので
す。そんな事情もあり、少しでも返済に回したい
というのが経営者の本音だったと思います。しか
し、みんなのおかげでこの利益を達成できたので、
労をねぎらいボーナスを払いたかったのです。
結局、父の反対を押し切ってボーナスを払いま
した。するとさらにやりがいが増したようです。
経営理念のおかげで、仕事は納得してやっている。
その上、成果が出てくると、さらにやりがいがあ
り社員が本当に生き生きと働くようになりまし
た。
良いことは続くものだと思いました。社員はお
金のためだけに、働いていると思われる方もいる
かもしれません。
その次の年の出来事です。リーマンショックの
影響から景況が冷え込み、工場の生産が非常に悪
くなりました。自動車の大減産があった影響で、
鉄スクラップの発生が減ってしまいました。取り
扱い数量が落ちれば、売り上げが下がっていきま
す。
締めたら最後は赤字という状態です。そんな時、
ボーナスを出す時期になりました。どうしようか
父の言葉を翻訳して指針書を作成
できた経営理念はほとんどが、父の言葉が社員
に伝わるように、現代流に書き喚えたものです。
特に「幸せのため」というところは明確にしまし
た。
「要は飯を食えればいい」という父の言葉は、
実は幸せをつくり上げるためのいちばん初めの
基本なのです。飯を食えなければ、幸せなんかに
なれるわけがない、父親は多分そういう意味で
「飯が食えりゃいいんだ」と言っている、と私は
43
●第6分科会●
と相談し、やはり出すことにしました。そうした
ら、今度は社員が逆に会社のことを心配してくれ
たのです。「こんな状況でボーナスを払ってくれ
るのかい」と。「会社の業績はみんなには責任は
ないから払うよ」と言ったら、彼らは本当に感謝
をにじませて受け取りました。そして次の日から、
もっと生き生きと働いてくれました。
社員を褒められる
この報告をする前、同友会の会員が私の会社に
見学にきました。そうしたら、「徳島さんの会社
の社員さんってみんなものすごく明るくなった
ね」と言ってくれました。もの凄く嬉しかったで
す。かつてはワンマン経営のせいか、出社しても
挨拶もしない会社だったのです。ヘルメットもか
ぶらず、制服も着ているか着ていないかわからな
い。その会社が今では、来客があるとすぐに、
「あ
あ、こんにちは」と言って、きびきび働いてくれ
るのです。「みんなわかってくれたんだな」と思
います。また父の思いを込めた指針書が、徐々に
社内へ浸透しているのを感じます。
このように、社員が会社の方針を全うしてくれ
たので、リーマンショック後のピンチも、大難が
小難で済みました。その後の3ヵ月間は、同業者
は大きな損を出したと聞きます。在庫を持たない
とものすごく忙しくなる業界のため、多くの会社
は在庫を抱えていたのです。しかし、我が社では、
社員がきちっと仕事をこなしてくれ、その点をク
リアしていたのです。おかげで自社では、その3
ヵ月間は一度も赤字を出さず、少し利益を出して
やり過ごせました。
金を返し、借り換えたのです。返済を完遂すれば、
会社の格付けは上がり、新規融資なら金利も安く
できたのです。こんな実績も残したので、ある日、
顧問税理士が、「利益も残っているし、そろそろ
退職金でももらって社長を交代したら」と父に言
い出しました。そうしたら、すんなり、「わかっ
た」と父が社長の座を譲ってくれたのです。
正直、一体いつになったら社長になれるのだろ
うかと思っていました。
父も 70 歳を過ぎていて、
同友会でも「事業継承を真剣に考えた方がいい」
とアドバイスもされていたのです。会社の内容も
よくなってきて、私自身も父の足りないところの
フォロー役だと思っていました。ですから、社長
交代の瞬間は驚きました。
ここから考えると、会社に実績を残すのは大き
いと思います。若い勢いだけで偉そうなことや難
しい理論を言っても説得力がありません。私の主
導で様々な課題を解決し、会社を軌道に乗せたこ
とで、父が「こいつに社長を譲っても大丈夫だな」
と思わせたのです。
語り続けてくれた父に感謝
これが、私が事業を継承した体験と現在までの
状況です。ひとつ言えるのは、経営者として会社
を経営していくことや、会社を発展させていくた
めに必要なこと、これらはすべて同友会で薦めら
れていることなのです。
事業継承で大事な部分が幾つかあります。これ
は経営者がやるべき仕事と一緒です。例えば経営
理念・経営指針書の共有です。この共有は、対象
が社員か後継者なのか、先代なのかというだけの
違いで、実は同じことをやっているということに
気づきます。そういうことを粘り強く真摯に実践
していくことが必要です。
それから、会社をつぶさないという信念。「も
っと会社を発展させていくんだ」という前向きな
気持ちを常に持ち続けることです。後ろ向きなこ
とを考えていると、社員はついてこないのです。
それをベースに、社長の思いや経営理念・経営方
針を共有できるコミュニケーションがとても重
要だと思います。
最後に、いちばん立派なのは、これをやれた私
ではありません。いつも語り続けてくれた父が最
も立派なのだと思います。
実績はすべてを動かす
それから、同友会での金融分野の学びを実践し
ました。ピンチをチャンスにする方法です。具体
的には、売り上げの急激な下落を利用して運転資
金に余剰を出させました。そのお金ですべての借
【座長のまとめ】
私は、愛知同友会で「2020 ビジョン」を作成
する担当です。2020 年のビジョンを作成するわけ
44
●第6分科会●
ですから、その先の 2030 年頃に、世の中がどう
なっているかを調査しています。その結果、過去
数十年で通用した常識はほとんど通用せず、これ
までの延長線での回復はありえないだろう、と厳
しい状況を予測しています。
その中で愛知県の経済はどうなるのか。3年前
(2007 年)をピークとすると、4年後には工業の
量産品は半分になると見込んでいます。
また、基調講演の宮崎さんの報告で「5年前と
同じ商品や値段では売れなくなる」とありました。
これは、ゆっくりと議論している状況ではないこ
とを意味します。
この忍び寄る近未来に対して生き残るために
何をやるべきか、と模索する中、ひとつのアイデ
アとして、事業継承を利用し、飛躍のチャンスと
捕らえて頂きたいと思います。
事業継承は、古き良きものを守り、そこに新し
いもの加え、ビックチャンスにしなければなりま
せん。
「準備万端だな」という時に継承できるケース
もありますが、諸事情により突然社長になってし
まったが、その社長という役職が「人を育てた」
ケースもあります。
事業継承のタイミングや状況はそれぞれです
が、間違いのないのは、思いや考え方と、理念や
哲学の共有です。この分科会では、これらが絶対
条件として結論づけられました。
この分科会のテーマにある「絆」という言葉は、
事業継承に最も相応しい言葉です。私たちのよう
な中小企業の場合、借り入れする時には保証人に
なるケースが多いのですが、それは「俺の会社だ」
というプライドがあるからできるわけで、このプ
ライドを引き継げる方との関係は「任せる」とい
うレベルでは成立しません。「絆」という関係で
結ばれていることが不可欠なのです。
「絆」とは、
人と人との強いつながりの意味です。「任せる」
と「絆」は決定的に違うことも確認させて頂きま
した。
激動の経済環境の中、維持発展していくために
は、遠慮をしている場合ではありません。次の新
しいことをしていかないと会社は持たなくなる
のです。
私も父との事業継承の時は大変でした。母が、
ケンカしている私たちを見て、本来の親子関係が
心配になったそうです。しかし右手で殴り合って
はいても、左手はがっちり握りあっていたことを
記憶しています。これも「絆」のひとつだと思い
ます。次代へ向けて「絆」をキーワードに、命懸
けの事業継承を実践されることをお薦めして、ま
とめとさせて頂きます。
45
【第6分科会スタッフ】
○座
長
山本 靖也(名古屋第3青年同友会)
(株)キョウエイ・代表取締役
○室 長 矢野 哲也(尾張東青年同友会)
矢野電産(株)・専務取締役
○責任者 谷口 祐介(尾張南青年同友会)
(有)谷口精工・代表取締役
○グループ長
浅井
野口
堀切
福島
草間
原田
平松
○記
録
八 田
孝一(尾張西青年同友会)
宏之(稲沢地区)
常夫(中村地区)
宗孝(中区南地区)
一成(三河第1青年同友会)
裕司(岡崎地区)
浩文(三河第1青年同友会)
剛(愛知同友会事務局員)
⑦分科会
第
<人を生かす経営の実践>
誰もが働ける会社へ
∼
報告者
社員は笑顔で働いていますか?∼
吉田 周生氏(熊本同友会)
(有)ヨシダ精工 代表取締役
プレジャーワーク(株)
代表取締役
経営戦略の柱である「働きがい」や
「企業の社会的責任」について深める
分科会です。障害者と共に働くこと
で、人を生かす経営力や企業体質が磨
かれるのはなぜでしょうか。吉田社長
は、4年前に半信半疑で障害者雇用を
始め、その人の特性や育った環境を理
解し、もっとも活躍できる場をつくり
出してきました。その行動と実践か
ら、人が輝く会社づくりのヒントをつ
かみましょう。
【会社概要】
(有)ヨシダ精工
設 立/1992年
資本金/300万円
社員数/8名(うち障害者雇用2名)
年 商/7000万円
事業内容
/樹脂製電材および自動
車内装部品組立加工
プレジャーワーク(株)
設 立/2009年
資本金/2000万円
社員数/32名(うち障害者雇用 21 名)
年 商/1億1000万円
事業内容
/樹脂製電材および自動
車内装部品組立加工
たT君と出会いました。きっかけは、知り合いの
養護施設の職員が「施設に入所しているT君に、
仕事の真似事でもいいから働くことを経験させ
てほしい」と連れて来られたのです。
当社では、これまで経験もないし仕事もありま
せん。本当は断りたかったのですが、「T君に一
生に一度だけでも働く経験をさせたい」と言う職
員の熱意に負けて、「3日間だけなら」と引き受
けました。
当社は障害者雇用に取り掛かりまだ数年です
が、地元テレビ局の取材を受けた時の映像があり
ますので、まずそちらからご覧ください。
≪映像≫
職場での朝の元気なあいさつ、仕分け、積み
下ろしなど納品準備の作業の様子。昨年建てた
A型事業所での作業風景、住まいとなっている
グループホームの様子が映像で流れています。
ダウン症の社員が仕事内容や周りの社員を
紹介しています。統合失調症の社員が「よい社
長に巡り合えたこと、それがいちばんです。社
長の一言で自信が持て、50 歳を過ぎましたが若
い者には負けられません」と笑顔を見せていま
す。
映像では、社員たちが次々に自分のことばで
働く楽しさを語っています。
一緒に働きたい
最初の驚きは、T君の礼儀正しさでした。彼は
「仕事は背広」と決めているようで、毎朝ビシッ
とした背広姿で出勤してきます。初日、会社のド
アをあけて「おはようございます。今日も一日よ
ろしくお願いします」というあいさつには、本当
にびっくりしました。なぜなら、うちに来ていた
アルバイトの大学生や高校生は、まともにあいさ
つもできなかったからです。このことをきっかけ
に、私は彼のことが大好きになりました。
納品先に連れて行くと、バックする車に近づい
たり、停めてある車の運転席に勝手に乗り込んだ
りして、クレームもありましたが、3日間の約束
が、あっという間に2週間、3週間と過ぎていき
ました。
出会い
私は、高校卒業後、就職してサラリーマンにな
りましたが、後から入ってきた大学卒の後輩に給
料の額を抜かれたことに腹を立て、会社を辞めま
した。そして、1992 年にヨシダ精工を設立し、妻
との二人三脚でスタートしました。
2005 年、先ほど映像でも元気にあいさつしてい
46
●第7分科会●
になり、利益が確保できました。プレジャーワー
クでは、引き継いだ仕事が徐々に回復し、事業の
柱となり、持続可能な道をつくることができまし
た。今は、ヨシダ精工とプレジャーワークの両輪
がうまく回っています。
一ヶ月ほど経ったある日、現場のリーダーの社
員が「彼をぜひ雇用してほしい」と言ってきまし
た。素直で明るい彼がいることで職場の雰囲気が
和み、みんなが彼を手助けしよう、やり易くして
あげようという気持ちが出てきて、社員の姿勢も
変わってきた、と言うのです。私も雇いたいと思
っていたのですが、社員の方からそう感じて言っ
てくれたのが嬉しくそれで彼の雇用を決めまし
た。
雇用にあたって、就労支援の方々にいろいろな
制度があることを教えてもらいました。トライア
ル雇用や特定求職者雇用開発助成金を活用すれ
ば、じっくり仕事を覚えてもらえるし、人件費の
見通しももつことができました。
欠かせない生活の安定
プレジャーワークは利用者枠を定員8名で始
めましたが、希望者が殺到し、秋には倍以上に増
えました。雇用契約を結び一緒に働く以上どんな
環境で育っているのかを知る必要がある、と思い、
全員の家庭を訪問しました。
家庭訪問で親御さんとの関係や日ごろの暮ら
しの状態がわかるにつれ、彼らが働くためには生
突然の世界不況
活するグループホームが必要だと感じ、立ち上げ
ました。ホームでは、きちんとした食事と衛生面
の習慣を身につけ、次第に彼らに笑顔が出てくる
T君の雇用をきっかけに、統合失調症の人、知
ようになりました。
的障害の人と一人ずつ実習から雇用へと増え、が
グループホームは、24 時間きちっとケアできる
んばってやっていこうとしていた矢先、リーマン
ショックが起こりました。長年の取引先から電話
職員体制をとりたいと求人を出しましたが、なか
なか住み込みで来てくれる方がいませんでした。
一本で「来週から仕事が無い」と言われ、自動車
それでホームレスを支援されている方に、ある女
部品の注文がぱたりと無くなりました。布団に入
性を紹介してもらい、面接を重ね採用しました。
っても目をつぶるのが怖くて、夜は眠れませんで
調理や衛生、簡単な健康管理の指導を行い、い
した。運転中には、「このまま対向車線に突っ込
よいよグループホームでの世話人としての生活
めば、ある程度のお金を残せるのでは」という考
えも頭をよぎりました。
が始まりました。しばらくして、その女性は買い
全社員を解雇しないと会社が存続できない状
物の際に金額に合わせて小銭を出せず、計算がで
況でしたが、社員を解雇して会社を残しても何の
きないことがわかりました。市の福祉事務所へ一
緒に行って判定してもらうと、グループホームの
意味もありません。どうすれば乗り切れるか、ま
入居者より障害の程度が重いことが判りました。
だやれることがあるのではないかと、解雇しない
方法を必死に模索しました。そして到達したのが、 現在は、グループホームの世話人ではなく入居者
となりましたが、「社長に出会えたから、こうし
障害者が働きながら生活支援を受けられる就労
ていられます」と感謝してくれて、時間があると
継続支援A型事業所(*)です。
会社に来て草取りを一所懸命にやってくれてい
(*)就労継続支援A型事業所
ます。
障害者自立支援法に基づく、一般就労が
ホームレスの中には、知的障害や精神を病んで
困難な障害者のための事業所。利用者は事
いる方が3割以上いる、という報告があります。
業所と利用契約のほかに雇用契約を結ぶ。
本人も周りも障害に気づかないまま地域で暮ら
し、身寄りがなくなるとホームレスなどの境遇に
2009 年 4 月、A型事業所「プレジャーワーク」
を設立しました。基準により職場指導員と生活指
導員の配置が必要でしたので、ヨシダ精工で一緒
に働いていた社員4人をいったん退職とし、プレ
ジャーワークで指導員として新たに採用しまし
た。また、それまでヨシダ精工の内職作業をして
いた方たちの中に、仕事が途切れたことや高齢を
理由に辞める方もいて、その作業をプレジャーワ
ークが引き継ぐことにしました。
こうしたことにより、ヨシダ精工では、人件
費・運搬費・車両代などの経費が十分の一くらい
47
●第7分科会●
を出してくれています。これまで、がんばっても
認められないことでストレスを感じていた人は、
知的の方から慕われることで自分の居場所を見
出し、元気にがんばっています。
陥る場合があり、生きていく環境によって人生が
大きく左右されるのを痛感します。
少しでも働きやすく
彼らからもらったもの
家庭環境や仕事の中でストレスを抱えてきた
人がたくさんいます。私は週に二日、グループホ
ームで朝食をつくり、彼らと一緒に食事をとりま
すが、そうすることで日ごろの様子がよくわかり
ます。
携帯電話の1カ月の利用料が月 10 万円以上に
なる人、キャッシングでお金を借りずにはいられ
ない人、物を盗ってしまう人など、問題を抱える
人もいます。注意をすると、時には激しく反抗し、
情緒不安定になることもあります。どうしたもの
かと考えるうち、そうした人たちの唯一の共通点
は、携帯電話を一時も離さないということに気が
つきました。
携帯電話について調べてみると、電磁波の規制
が、オーストラリアと日本では1万倍違っている
ことや、電磁波は子どもほど影響が大きく、5歳
の子が携帯電話で話している時は、頭全体が電子
レンジのような状態になることを知りました。ま
た、携帯電話の普及と躁うつ病の患者数が同じよ
うに増えているというデータもありました。
情緒が不安定なことと携帯電話はなんらかの
関係があるのではないかと考え、当社ではできる
だけ携帯を耳から離すよう、イヤホンの使用に切
り替えました。少しでもみんなが安定して働ける
ようにと思います。
みんなと一緒に働きたいとの思いでこの事業
所を始め、仕事をするためには生活の安定が欠か
せないとグループホームを立ち上げました。しか
も 24 時間の体制が必要で、たいへんなことも多
く、生半可な気持ちではやっていけません。とき
どき、なぜこんなことをしているのだろうと思う
ことがあります。基本は人が好きだからなのでし
ょうが、「人が好きというだけで、ここまででき
ますか」とよく尋ねられます。
最初は、会社を存続させるため、社員の雇用を
守るために、この事業に取り掛かりました。その
中で障害者の人たちと出会い接し、彼らのシンプ
ルな考えや生き方に強く感銘を受けてきました。
一緒に働き、生活を考え、時間を共にすることで、
彼らの成長するさまが見えてくるととてもうれ
しくなり、さらに何かをしたいという気持ちにな
ります。人が好きというのは、人が成長するさま
に自分自身がエネルギーをもらえるからだと思
います。
私は彼らから多くの事を学び、忘れてしまった
人間としての素直さに気づかされ、また、働くこ
との意味が大きく変わりました。昔なら、働くこ
との意味は「お金のため、ぜいたくのため」とい
う以外にはありませんでした。今は「自分も周り
も幸せになるため」と身をもって答えられます。
何のために生きているかと問われたら、昔は「食
べるため」でしたが、今は「自分の心を磨くため」
です。昔は本当にろくでもない奴だったのですが、
彼らと一緒に過ごす時間が私に大切なことを教
えてくれました。
一人ひとりに向き合う
悪いグループに騙され沖縄まで行き、お金を使
いはたしたところで放り出され、お腹がすいて万
引きをして居所がわかった人がいます。
携帯が好きで次々に新しい機種に変え、自分の
全財産をはるかに超える請求が来た人と、どう返
済していくのかを一緒に考え、請求先の会社と話
し合っていかねばなりません。
夜中に手首を切った写真をメールで送ってき
て「今から死にます」と言う人もいます。家にか
けつけ、傷口に絆創膏を貼り、落ち着くまで話を
聞きます。その人の真意は、さみしくて自己アピ
ールをしたいのだと思います。しかし、翌朝は何
もなかったように出勤してくるので、昨夜の出来
事は何だったのだろうと首をかしげることもあ
ります。
昨日と今日、朝と昼で状態が違う精神の人の対
応は、経験深いサービス管理責任者が適切な指示
チャンス、指導、環境
経営者として、働くことをしっかりと彼らに教
えたいと思います。プレジャーワークで成長し、
一般の企業に就職し働いている人もいます。働く
ためには、
「チャンス」
「指導」
「環境」が必要で、
これが揃えばかなりの人たちが働けます。本人の
働きたいという熱意はもちろん、養護学校の進路
指導の先生方や支援事業所の連携で、就労のチャ
ンスは広がります。
養護学校では窯業や木工に時間をかけて指導
しますが、その技術をいかして就職した生徒はほ
48
●第7分科会●
とんどいません。先生にパソコンを指導してはど
うかと持ちかけると、イメージが持てないようで、
軽度の知的の人がパソコン入力の作業をしてい
る現場を見てもらいました。入力している彼は、
こだわりが強いところがあるのですが、それが膨
大な量のデータを集中して正確に入力する作業
にうってつけなのです。周囲の思い込みで、子ど
もたちの可能性を固定化してしまわないように、
と思います。
熊本同友会の障がい者雇用支援委員会では、雇
用支援マップを作りました。33 社の掲載企業のう
ち 16 社はこれまで全く接点がなかった企業です。
「私たちは雇用も考えています」「実習を受け入
れます」
「2∼3 日の短期実習ならできます」
「まず
話を聞いてみます」という意思表示をこのマップ
に表し、各養護学校の進路指導部や就労移行支援
団体等へ配布しました。実際に正規雇用に結びつ
いた方は5名みえます。
「知らない、わからない」という会員が多いの
で、私が社員を同行して訪問します。いろいろ雑
談した後で、「いい社員さんですね」と言われる
ので「実は、障害者の人ですよ」とお話しすると
驚かれます。これからも、少しずつ理解を広め、
このマップの掲載企業を増やし、しっかりと雇用
に結び付けたいと思います。
また、自社で雇用できなくても、何かできない
かと思っている会員もみえます。障害者の人が描
いた絵に描いた気持ちを添えて、週 2000 円∼3000
円のレンタル料で会社に飾ってもらっています。
これなら在宅の方の仕事にもつながるのではな
いかと考えています。絵のレンタルが会員企業の
中で一周したら、地元のシャッター街を活用し、
展示販売で情報を発信するなど街の活性化にも
つなげます。
まだ、大多数の障害者が仕事に就けないでいる
中、みんなが自立できる道を拓いていきたいと思
います。
ました。翌朝、ノートにはびっしりときれいに書
かれた 48 人の名前がありました。2時間かかっ
たそうです。私が、名前を指して「この人はどう
いう人」と尋ねると、詳しく説明してくれました。
愚痴はなくなり、文字もきれいになり、今では7
人と日記の交換をするようになりました。
休憩時間の愚痴もなんとか無くしたいと、「良
いとこランキング」を実施しました。順番に当番
を決め、その人の良い所を1週間に3つ書くよう
にしました。当番の人は自分の良い所を3つあげ
ます。良い所があげられないと私が怒るので、一
生懸命探すようになり、愚痴が激減しました。
次に考えているのは「良いとこ投票箱」です。
お客様にいちばん元気なあいさつをしたとか、検
査でみんなが見逃していたものを見つけたとか、
そういうことを良い所として投票します。投票が
100 枚集まったらボーナスを出そうかなと思って
います。不満をなくすのではなく、目先を変えて
良いところをみんなで引き出すようにしていま
す。
働くことで幸せに
社員同士の人間関係のこじれもありました。ヨ
シダ精工での出来事ですが、社長が見ていないと
ころでいじめが起きていました。例えば、お弁当
を逆さにして、食べようとして開けると、ふたに
良いとこ探し
のりがくっついて、おかずもぐちゃぐちゃになっ
ている。食べようとした人が泣き出す。その泣く
一人ひとりに個性があります。毎朝私のところ
のが面白くてやっているのです。なぜそんなこと
に来て、15 分くらい愚痴を言う人がいます。愚痴
をするのでしょうか。それは、その社員が会社や
の中身は、昨日は風の音がうるさくて仕事になら
仕事に満足していないから、自分より弱い所に向
なかったとか、誰とも話さずに一日終わったとか、 かってしまうのです。いじめをしてはいけないと
取るに足らないようなことで延々と続きます。そ
注意するよりも、気持ち良く仕事ができる環境を
の人が終わると次の人が来て、また昨日のことを
つくっていかねばならないと思いました。
延々と愚痴ります。愚痴のオンパレードです。さ
一人ひとりの面談で共通しているのは、ここが
すがに私も嫌になり、愚痴る時間を他に使えない
いちばん楽しいし、やっと自分の居場所を見つけ
かと考えて、彼らが得意な「書く」という方法を
た、ということです。
「ほめられる」
「人の役に立
取り入れました。 例えば、AKB48 のメンバー
つ」
「必要とされる」、これは仕事をすることで味
の名前を一人ひとり書いてきてもらうことにし
わえます。この3つがあれば、人から愛され、幸
49
●第7分科会●
います。最近元気がないので彼に声をかけると、
毎日がつらいと言います。わけを尋ねると、つら
いのは仕事ではなく「駅のこと」だと泣き顔にな
りました。1年前に「彼女ができた」と本当に嬉
しそうだったのですが、実は駅を通る彼を騙しに
かかったグループの仕業でした。それに気がつい
た彼の両親は、敢然とグループに立ち向かい、彼
を守り切りました。今は、その町へ行くことも禁
止されていますが、彼女が悪い人だとわかりなが
らも、一方では断ち切れずにつらいのです。
そんな彼のおばあさんが臨終のときのことで
した。彼は「おばあさん、死んじゃあいかん。こ
んなに世の中は素晴らしい。空は青いぜ、鳥も鳴
いとるぜ、庭にはきれいな花も咲いている。死ん
じゃあだめだ」と泣いてすがりました。私は、彼
がこの世の素晴らしさを、青い空や、鳥の鳴き声
や、庭に咲く花で実感していたのだとハッとしま
した。
18 年間、私や社員は、彼からいろいろな気づき
をもらいました。そんな彼の今のつらさを、私は
どうなぐさめていいのかわかりません。会社の理
念に「共育」と掲げながらも、彼にちゃんとした
励ましも勇気づけもできなかった自分を恥じて
います。
「誰もが働ける会社づくり」、そして「社員は
笑顔で働いていますか」と問いかけた分科会です
【座長のまとめ】
が、吉田さんのように、社員と経営者がお互いに
愛しむ心が日々にある風土をつくることが大切
この分科会の座長を引き受け、初めて吉田さん
にお目にかかりました。その優しく透き通った目、 です。同友会で憲章制定運動が右肩にあるとする
ならば、左の肩には、誰もが働ける会社づくりの
柔和な落ち着きある性格に、こんな仏様のような
運動があってよいのではないか、そのように思い
経営者がみえるのか、いったいそれはどこから出
てくるのだろうと不思議な気がしました。また、 ます。
なぜこのように社員と関わることができるのか
とも思いました。実際に会社を訪問させていただ
【第7分科会スタッフ】
くと、そこには「人間吉田ワールド」がありまし
た。
同友会ではよく「人間尊重」「共に生き、共に
○座 長 杉浦 昭男(岡崎地区)
育つ」と言います。果たして今日の報告を聞いて、
真和建装(株)・代表取締役会長
自分たちはそれができているのか、ひょっとする
○室 長 岩田 竹生(名古屋第2青年同友会)
と良い経営者ぶって、観念的に素通りしているの
(株)丸二商店・代表取締役
ではないかと反省させられます。
○責任者 小出 晶子(稲沢地区)
T君が入社し、吉田さんは人間として経営者と
タイヨー機械(株)・代表取締役
して考え方が少し変わったと言われました。経営
○グループ長
冨 田
純(西地区)
の危機にぶつかり、社員を路頭に迷わさず、何が
中島 豊司(瀬戸地区)
何でもこの会社を再建するのだという気持ちで、
長江 保明(瀬戸地区)
社員と共にがんばられました。その中で、我が子
長谷川祐理(春日井地区)
を守り成長と幸せを願う母親のように、社員をい
服部佳嗣己(中区北地区)
とおしむ吉田さんの気持ちが生まれたのではな
水谷 隆文(昭和地区)
いでしょうか。それが吉田さんの体内に宿ったの
宮本 浩之(一宮地区)
だとすれば、初めてお会いした時に感じた不思議
さがすべて解消されます。
○記 録 岩附さとみ(愛知同友会事務局員)
私の会社に 18 年間勤めている知的障害の人が
せになれます。働くことが、その人の人生をよく
していきます。
プレジャーワークに移動した社員に、長く勤め
たヨシダ精工とどちらがよいかと尋ねると、プレ
ジャーワークの方が楽しいと答えます。やはり、
共に働く中で、人として何が大切かを気付かされ
ることが多いからだと思います。ある社員が、中
学1年の途中から3年まで不登校になっていた
自分の子どもをプレジャーワークに連れてきま
した。1週間くらいみんなと一緒に働いて、悩み
がふっきれたようでした。学校に行くようになり、
今は福祉の仕事につきたいとがんばっています。
そうなれたのは、やはりプレジャーワークで働く
みんなの力だと思います。
きれいごとや良いことばかりではありません
が、それも含めて私は彼らが大好きです。私にと
っても、やっと見つけた原点という気がしていま
す。私の名前は周生(しゅうせい)ですが、小さ
いころは、「修正(しゅうせい)しろ」などとや
じられ、学校へ行かなくなった時期がありました。
でも、今はこの名前が大好きで、周りの方に生か
されていることを実感しています。みんなに生き
る楽しみを伝えたい、それが私の今の原動力です。
50
⑧分科会
第
<人を生かす経営の実践>
社員の生きがい・働きがい
~
社員の成長こそが会社発展の原動力
報告者①
社員が働くことと人生の目的を重
ね合わせ、生きがい・働きがいを実感
できる企業であることは、経営者にと
っても大きな喜びです。厳しい経営環
境の中、経営者は今、何をすべきか。
企業規模に関わらず、企業の最大の資
源は人材であり、経営を発展させる原
動力は社員です。社員が人生をかけて
働く場として、社員一人一人の可能性
を引き出し、経営者と共に成長し続け
るヒントを学びます。
報告者②
~
佐々木正喜氏(天白地区)
オネストン(株) 代表取締役
國本 晴久氏(西地区)
(株)クリンテックサービス・専務取締役
勤務は 48 時間労働で、夏休みは無く、休日は
日曜日だけでした。とにかく、生きていく、食べ
ていくだけの生活でしたので、「生きがい」を考
える余裕は無かったと思います。
それより、早く仕事を覚えて、給与が上がるよ
うに必死でした。年収 60 万円になると結婚でき
ると言われており、結婚も夢のまた夢の時代でし
た。
生きていくのが精一杯のときに生きている価
値や意味を考える余裕はありませんでした。
それから 10 年が経ち、ようやく経済的に豊か
になった故に「生きがい」って何だろうと考える
ようになったのではないでしょうか。
「生きがい」がテーマになっているのは、豊か
になってきたという証だと思います。
報告①:佐々木正喜氏
オネストン(株)
代表取締役
【会社概要】
創 業/1971年
資本金/2000万円
社員数/75名
年 商/35億6000万円
事業内容
/金型部品製造販売
http://www.honeston.co.jp/
幸せ・不幸とは何か
「生きがい」を考える余裕
私が同友会に入会したのは、1979 年です。入会
後、経営理念作成を手掛け、1984 年に社員を巻き
込んで成文化しました。
成文化の途中に社員研修で討論を行いました。
討論のテーマは「幸せとは何か」でした。討論の
結果、幸せとは「給料が高い、ボーナスがたくさ
んもらえる、仕事が楽、休みが多い」の4つにま
とまりました。2回目の研修では「不幸とは何か」
をテーマに討論をしました。その結果「給料が安
い、ボーナスがない、仕事がキツイ、休みが少な
い」という逆の答えになりました。
そのとき社員に「給料が高くて、ボーナスが出
て仕事が楽で休みが多ければ本当に幸せですか」
「生きがい・働きがい」というテーマは大変難
しい問題です。生きがいとは何かを探しているう
ちに私自身わからなくなってきました。
私事ですが、今年は大学卒業 50 周年です。私
が大学を卒業した 1960 年は、初任給1万2千円
でした。この給与を2年半貯金して、39 万円でス
バル 360 が購入できました。
現在は、大卒の初任給を 20 万円としますと5
ヶ月で軽四輪が手に入ります。それだけ、量産化
でコストダウンもされていますが、当時は車に乗
るということが、夢のまた夢でした。
51
●第8分科会●
人がいたら、それをまともに受け取る人はいまい。
なぜならば、「生きがい」とはそのようなもので
あるはずはなく、もっと人生の価値につながるも
のだという暗黙の了解があるからだ。つまり、
「大
好きなもの」イコール「生きがい」とは言えない
のです。
「働くことが好き」なのは「働きがい」がある
のであり、「遊ぶことが好き」なのは「遊びがい」
があるだけにすぎず、それは「生きがい」ではな
いのです。
【「生きがいとは何か」(小林司著、1999 年初
版、2007 年第 37 版、日本放送協会発行)より抜
粋】
と聞きました。すると社員は「幸せだと思う」と
答えました。
私たちは、会社関係・友人関係・家族関係の3
つのグループに属しています。例えば、旧友や会
社から避けられ、当てにされていなかったら不幸
ではないでしょうか。
会社から、周囲の人から当てにされること、頼
りにされること無くして幸福はあり得ないので
はないでしょうか。社会の役に立つこと、誰かの
ためになることに喜びを感じられることが幸せ
でしょう。
生きがい≠大好きなもの
社内アンケートの結果から
経営理念は、標語のようなものではなく、会社
の存在意義を明確に示すことが重要です。会社は
何のために存在して、社員は何のために働いてい
るのでしょうか。
また、お客様はなぜ我々から品物を購入してく
れるのでしょうか。お客様が商品を購入してくれ
ることは、我々を支援してくれていることと同じ
だと思います。
個人の生きている意味、存在意義はどこにある
のでしょうか。会社の存在意義も個人の生きがい
も、団体か個人かの違いはありますが、同じよう
なものであると言えます。
「生きがいとは何か」を本で読んでみると大変
難しくなってきます。しかし、現在では「仕事が
生きがいです」「私の生きがいはゲートボールで
す」というようにです生きがいという単語がきわ
めて曖昧なままに、安易に使われています。
その例として、経済企画庁国民生活局の「新し
い女性の行き方を求めて(1987 年)」では、70
歳頃の老後の生きがいをどのようなことに求め
たいかを 20 歳から 60 歳の女性 655 人に 10 項目
のうち2つに丸をつけてもらったところ次の結
果を得ました。
趣味や余暇 71.9%、友人・知人との付き合い
33.4%、親密な家族関係 25.0%、子どもや孫の成
長 21.2%、仕事 11.8%、地域活動やボランティ
ア 6.9%となっています。
しかし、これでは「生きがい」というよりも「好
きなこと」「時間の潰しかた」に近い感じですの
で、予め提示してある 10 項目の選びかた自体に
問題があるような気がします。
(以下、引用)
もし、大好きなものが「生きがい」だというの
なら民謡「会津磐梯山」に出てくる小原庄助にと
っての「生きがい」は「朝寝、朝酒、朝湯」とい
うことになってしまうでしょう。
しかし、私の生きがいは「朝寝坊です」という
10 月に、全員参加の社員研修で生きがいのアン
ケートを実施しました。最低1項目、最高5項目
について回答してもらった結果、
「家族との生活」
が 20%、「旅行や食事」13%、「友達との交流」
12%、「子育て・子供の成長」10%、「趣味」8%
となっています。
ここまでくると、先程の経済企画庁国民生活局
の結果と似たものになっています。従って、著者
の小林司さんが指摘しているように「生きがい」
が曖昧になっているかと思います。
アンケート結果から、女性は現実(目先のこと)
を考え、男性は将来に夢を託したものが多いよう
に見られます。
「家族との生活」「旅行や食事」「友達との交
流」は、年代、既婚・未婚、勤続年数などに関係
なく、女性が圧倒的多数です。また、「子育て」
に関しては、子どもがいる人は男女関係なく
100%が上位3項目に書きこんでいます。子育
て・子どもの成長は子どものある人にとっては重
要な「生きがい」となっていると言えます。
次に「働きがい」ですが、「生きがい」と比べ
るとわかりやすいものです。
アンケート結果では、「客先に役立ったとき」
が 18%でトップでした。やはりお客さんから感謝
されたとき喜びを感じるのでしょう。これは、年
代が上がるにつれて割合が高くなっていますの
で、ある程度、経験にも関係があるでしょう。
続いて「給与・賞与」が 18%でした。これは、
年代、勤続年数に関わらず、女性のほうが高くな
っていました。第3位は「自分の成長の自覚」で
13%でした。「会社に貢献したとき」は男性のほ
うが高くなっていました。
52
●第8分科会●
「生きがい」とは
「生きがい」とは、国語辞典によると、「生き
ている意味や値打ち、価値。生きていることに意
義や喜びを見出して感じる心の張り合い。生きて
いる幸福・利益。生きている幸せや意義を感じる
こと。充足感」と書いてあります。
神谷美恵子さん(ハンセン病治療に生涯を捧げた
女性精神科医)の生きがい感を6つ紹介します。
1.人に生きがい感を与えるもの
2.生活を営んでいくための実益とは必ずしも関
ひろさちやさん(宗教評論家)の本を紹介します。
係はない
(以下、引用)
3.やりたいからやるという自発性を持っている
人間には生きがいなんて無い。人間の生きがい
4、まったく個性的なものであって、自分そのま
って何でしょう。そんな質問を受けることがしば
まの表現である
しばあります。哲学的で容易に答えが出せないよ
5.生きがいを持つ人の心に、1つの価値体系を
うな問題だと感じる人が多いかもしれませんが、
作る性質を持っている
私なら即答できます。
6.人がその中でのびのびと生きていけるような、
生きがいですか。そんなものはありません。生
その人独自の心の世界を作る
きがいについて、人生について、私の目を開かせ
この6つから、「生きがい」は、「お金」とは
てくれたのは、イギリスの作家サマセット・モー
区別して考えて自分の意思がなければならない、
ムの「人間の絆」という作品です。モームはひと
と言えるでしょう。
つの逸話をひいて生きる意味とはという問いに対
また、白石浩一さん(昭和女子大名誉教授)は、
する結論を導きだしています。
生きがいとは、生きる目標設定であると言ってい
逸話はこんな内容です。東方のさる国の王様が
ます。7つ紹介します。
人間の歴史について知りたいと考えます。そこで、
1.生きがいとは、生きる目標設定である。
学者に命じて人間の歴史を記した 500 巻の書物を
2.生きがいとは、目標への挑戦であり、闘いで
集めさせます。しかし、毎日政務に忙しい王様で
ある-自らの内なる因子(怠け心、甘やかし
すから、500 巻の書物に目を通している時間はあ
など)に対する闘い。
りません。王様は再び学者を呼んで、もっと短く
3.生きがいとは、確かな「手ごたえ」である-
まとめよと命じます。学者は命に従い 10 年もの歳
月をかけて 500 巻を漸く 50 巻にまとめ、王様に提
「生きているんだ」という鮮烈な実感、「生
出しました。そのとき既に政務の第一線から引い
けるしるし」
ていた王様には、50 巻を読む時間は十分にありま
4.目標は一生を賭けるに価するもの、生涯をか
した。ところが、今度は読む気力が萎えてしまっ
けて悔いのないものでなければならない-
ていたのです。
麻雀やパチンコではなく、もっとかけがえの
王様は、学者にもう少し短くならないかと命じ
ない1回きりの人生を過ごすために悔いの
ました。学者は更に、20
年の時をかけて 50 巻を
ないものを目標にする。
1巻にまとめあげました。それを持参した学者の
5.目標設定にあたっては、「洞察力」をできる
前で王様は臨終の床についていました。1巻の書
限り働かせるべきである。
物を読むことは到底叶いません。
6.目標把握は価値の創造である。
そこで学者は王様の傍に近づき、耳元でそっと
7.生きがいとは意識革命である-今までにでき
短い言葉を伝えます。王様、人は生まれ苦しみ、
てしまっている観念、お仕着せの価値観にと
そして死にます。これが人間の歴史です。それを
らわれた考え方、を突き崩す革命を起こす必
聞いた王様は人間の歴史がわかったという得心の
要がある。自分の意識を変える革命である。
表情を浮かべながら死んでいくのです。
白石さんはこのように言っていますが、果たし
「人間の絆」の主人公フィリップ・ケアリはこ
て、生きがい・働きがいはどう考えたらよいので
の逸話から、人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ。
しょうか。
ただそれだけの歴史を刻んでいく存在だというこ
と。人生に意味など無いのだということを発見す
るのです。もちろん、それは作品を通したサマセ
ット・モーム自身のメッセージでもあるわけです。
「生きがい」の考え方
人生に意味などない。生きがいも生きる目的も
何もない。モームが人間の絆で示した人生観は私
これまでとはまるで反対のことを言っている、
53
●第8分科会●
るべきか。結局は、私自身の生き方は、私自身が
今日生かされている、それで幸せです。
の心にしみるものでした。生き方の極意のように
感じられたのです。
(引用、終わり)
このように、生きがいについて色んな考え方を
する人がいます。哲学的に自分に対する革命だと
いう考えと、人生に生きがいなんてありません、
そのようなことに捉われることはありませんと
いう考え方の両方があるということをお伝えし
ておきたいと思います。
報告②:國本 晴久氏
(株)クリンテックサービス
専務取締役
【会社概要】
モチベーションとやりがい
社員研修の中で、金沢大学の尾関美喜先生(心
理学博士)に「モチベーションアップをどうする
か」というテーマで講演してもらいました。
その内容は、ある仕事が出されて「自分の力で
楽にできそうだ」と思うと、そんなにやる気はお
こらないが、「私の力だったらできるかもしれな
い」と思うと力が沸いて挑戦するでしょう。この
ように、目標が困難であればあるほど、その分だ
け達成しようと努力します。また、目標が明確で
あればあるほど焦点を定められます。
一所懸命やったらできたという達成感ややり
がいがモチベーションアップには簡単な手法で
す。一人ひとりの社員の成長こそが会社発展の原
動力ということになると思います。
「もしも高校野球の女子マネージャーがドラッ
カーの「マネジメント」を読んだら」では、生き
がいを与えるには、働きがいを与えるには、仕事
そのものに責任を持たせなければならない。その
ためには、1、生産的な仕事、2、フィードバッ
ク情報、3、継続学習が不可欠である仕事を与え
ることがモチベーションアップにもつながって
いくだろうとあります。
仕事は一人で行う仕事より、チームワークで行
う仕事も多くあります。社員研修で、子供が遊ぶ
ブロックを 139 個使って、チーム別に塔を作るこ
とを実施しました。8グループの中で、1つはリ
ーダーだけを集めました。そのグループでは、全
員がリーダーですから、誰がリーダーシップを取
っていいかわからず、なかなかできませんでした。
しかし、一人でも勤続年数の長い人がいると彼
が中心となって素晴らしい作品ができました。
これは不思議な現象ですね。リーダーの人が集
まってもなかなかうまくいかない。「2:8」の
現象、「2:6:2」や「3:4:3」とも言わ
れていますが、組織の発展を担っているのは、一
人一人の働き方そのものです。
モチベーションアップすること、常に会社の中
を改善していかないといけません。
生きがいはどうあるべきか。働きがいはどうあ
54
創 業/1989年
資本金/500万円
社員数/9名
事業内容
/自動車のアフターサー
ビス
http://www.cleantech-s.com/
自己紹介
私自身の紹介ですが、客観的に自分を見て、凡
人だと思いますが、それでいいかなと感じました。
しかし、自分自身に特徴がないことがコンプレ
ックスでもありました。
水滸伝物語の中に、宗江というリーダーがいま
す。
宗江は、魅力はありますが非常に凡人です。し
かし、人を殺すことも平気な人間が、宗江に頭が
上がらないのです。その時代の君主も宗江に頭が
あがりません。その宗江の魅力は、長所を見抜く
眼と、短所を見抜く眼でした。彼は「人を見抜く」
ということに対して群を抜いていました。
短所を見抜くので、自分の弱みを見抜かれてい
るのかもしれませんし、長所を見抜くので、その
人を最大限生かしてくれるのも宗江でした。
頭が上がらないうえに、自分を生かしてくれる。
これを読んだときに、宗江のような経営者になり
たいと思いました。
この仕事が好きだから
クリンテックサービスは、父が 50 歳のときに
脱サラして起業しました。私はまだ高校生でした
が、土曜日になると、観光バスのクリーニングの
仕事を友人と手伝っていました。
平成元年に父が脱サラし、今年で 22 年になり
ました。私は、愛知工業高校の建築科を卒業し、
建設会社で3年程勤めてから父の会社に入りま
●第8分科会●
した。当時は弟が父の会社を手伝っていましたが、
バトンタッチするように私がやるようになりま
した。
仕事は、車に道具を積んで中古車販売社へ行き、
そこで中古車を掃除して帰ってくる、という流れ
でした。仕入れた車が綺麗になって店頭に並ぶ。
そのお手伝いをしていました。
アルバイト感覚で手伝っていいた 20 代前半は、
仕事自体が楽しく、苦でもありませんでしたが、
同級生たちが大学を卒業し、就職していく姿を見
るようになり、自分の会社が恥ずかしい、という
気持ちになりました。将来も不安でしたし、友人
に胸を張って仕事を言える自分ではなかったこ
とを鮮明に覚えています。
それから、この会社を自分がやっていくと腹を
くくったのが 25 歳のときでした。フラフラして
いた自分に先輩が喝を入れられて、頑張ろうと決
意しました。
私が 25 歳から 30 歳までの5年間は、社員を入
れては辞められ、入れては辞められの繰り返しで、
定着しない状態が続いていました。家業から脱皮
できない。でも何をしたら良いかもわかりません
でした。それでも、この仕事が好きでこの仕事は
いい仕事だと感じていました。
15 年程前、若者の憧れの職業は美容師でした。
アイドルのヘアメイクなどを手掛けるカリスマ
美容師が騒がれていました。私はそれを見ていて、
「車を磨くことと髪を切ることとの間に何の違
いがあるのだろう」と感じていました。
自分の中で、憧れの車をピカピカに磨くことが
若い人たちの憧れの仕事になったら素敵だ、と思
うようになりました。
お客さまが待合室で待っている中、自分の愛車
が窓越しに綺麗になっていく。そのお客さまの喜
ぶ顔が見られる。それを誇りに思って仕事ができ
る社員がいて、うちの会社で働きたいと思う人が
いる、そういう会社にしたいと思うようになりま
した。
本格的な経営改善がスタート
誠実に仕事をやっていく中で、2005 年頃から仕
事をたくさん頂けるようになり、求人誌で募集し
て社員を雇用できる状態になりました。それでも
また雇用しては辞められる繰り返しでした。社員
が辞めてしまうのは辛かったです。どうしたら良
いかを考えていました。
ちょうどその頃から、今の部長である同級生と
一緒に仕事をするようになりました。
当時は歩合制の給与で社員のやりがいを引き
出していました。売り上げもどんどん伸び、社員
55
も給与が上がっていくので生き生きと働いてい
ました。今の部長も当時月給 60 万円程でした。
2007 年の 11 月に、突然父が倒れました。一命
は取り留めましたが、自分が会社を経営していか
なければならない状態になりました。
いざスタートを切ってみると、翌年の1月に母
から「給与が払えない」という悲痛な叫びを聞き
ました。青天の霹靂でした。売上は伸びているの
に、なぜか会社は火の車でした。
恥ずかしい話ですが、労働分配率が 70%を超え
ていたのです。この状況を改善しようと思い、周
囲の人に相談しました。すると、月次決算書を作
成しなさいと言われ、見よう見真似で作ってみま
した。経営者として何をすべきか模索していると
きに、同友会を紹介され、入会しました。
同友会に入会して初めての地区例会で、経営指
針書のことを知りました。そのとき、自分は意気
揚々と頑張ってきたつもりでしたが、目標もなく、
社員を漂流の旅に巻き込んでいたのだと深く反
省しました。その例会の感想で「経営指針書を作
りたいです」と答えたのを今でも覚えています。
経営指針発表会で成長
9月に入会して 10 月から指針講座に参加しま
した。講座に参加すると、理念を作る際に「Wi
sh List」を作成します。最初の宿題がそ
のリストを 200 個作成してくるというものでした。
80 個くらいまでは簡単に出てきましたが、そこ
でペンが止まりました。次の講座までの宿題でし
たので、移動中や食事中も考えました。
この「Wish List」は私の中でヒット
して、そのとき作ったリストは、現在 310 個まで
増え、いつも持ち歩いています。リストを持ち歩
くと、達成できた項目を消していくのが楽しくな
り、趣味のようになってきます。毎日、見返して
は思い出して、モチベーションが上がります。
社員にも「Wish List」を書いてもら
い、それも一緒に持ち歩いています。社員のリス
トを見ると、こんな願い事を持って仕事してくれ
●第8分科会●
ているとか、この夢応援したいなとか感じます。
経営指針の合宿講座に参加した際に、会社用と
個人用のマンダラ表を作りました。完成したこと
が嬉しくて、講座の帰りにA4サイズからポスタ
ーサイズに拡大コピーして、会社に貼り出しまし
た。当時は、私自身が現場の最前線で作業をして
いましたから、指針講座に参加するのも社員に申
し訳ないと感じていました。なので、少なからず
社員に還元したいという思いでした。
「やったぞ」という思いで張り出しましたが、
社員の反応は薄く、「また何か始まった」という
感じでした。それでも、次は指針発表会をすると
決めました。普段は作業着で仕事をしている職人
にスーツ着用で取引先も呼んでホテルで開催す
ることにしました。
父が 70 歳・創業 20 年という年に「何か形を残
して次のステップに行きたい、この時期を逃した
くない」という思いで、無理やりでしたが開催し
ました。
案の定、社員からは、大ブーイングでした。私
に直接は言いませんが、部長に「お金もかけて何
のためにやるのか理解できない」などと言ってい
ました。私は指針講座も受けていたので、指針発
表会の必要性も理解していましたが、それをうま
く社員に説明できませんでした。それが故に、社
員代表として部長が私にぶつかってきました。
指針発表会の前夜に部長に電話をして、「社員
の決意表明は部長が代表として発表してくれれ
ば満足だ。ただ、できれば全員が前に出て一言い
って欲しい」と言いました。部長は「本当に開催
する意味がわからない」と言いましたが、明日に
迫った指針発表会は引くに引けない状況でした。
そんなやり取りを2時間以上して、部長は「わか
った」と言ってくれました。この電話を終えたの
は午後9時でしたが、部長は全社員8名に電話を
かけ、指針発表会の説明と決意表明の依頼をして
くれました。私にはできなかいことをしてくれた
のです。
社員の決意表明はとても感動的で涙があふれ
ました。指針発表会に参加した取引先の部長から
「我が社の社員が、取引先をクリンテックサービ
スにして欲しい、と言っているのはなぜだろう、
と考えていましたが、それはこのような社員が働
いているからだ、と感じました。今度、新店舗を
出すが、社員の要望でクリンテックサービスにお
願いしたい」と言ってくれました。
いつも目の敵にされているにも関わらず、その
場でベタ褒めしてくれました。
同友会には、たくさん教えてくれる方がいます。
その中で色々やってみたら、何かが変わって、そ
れが実感できると思います。私は、考えることよ
り、やってみて心で感じるほうが、成長できるの
56
で、たくさん失敗しますが、とりあえず実践して
みます。それが自分の良さでもあると思っていま
す。
社長の仕事は夢を叶えるステージの用意
同友会は非常に優しい会だと思います。指針講
座もそうですが、共育講座もIT研究会も社員と
一緒に学べて、吸収して帰ってくると「安いな」
と思います。
共育講座に参加して変わったことがあります。
共育講座に参加しているときの、社員の反応は、
そんなに良くありませんでした。しかし、その後
の行動を見ていると、明らかに変化していました。
共育講座で他社の社長や社員と討論することが、
彼らの刺激になっていたのです。
ある社員は、月に一度の勉強会を開催してくれ
るようになりました。部長もいろいろなことを言
いながらも、行動が変わってきました。ありがた
いなと思います。
私が経営者としてモチベーションが下がった
ときに「Wish List」を見ると、自分が
頑張る理由が書かれています。経営指針講座を終
えて、直ぐに社員にもリストを書いてもらいまし
たが、そのときは文句ばかりで全く書いてくれま
せんでした。それから社員と話をする中で、昨年
の年末はスムーズに書いてもらえました。そのリ
ストは、自分のリスト以上にモチベーションが上
がります。自分の願い事は、叶わなくても私が我
慢すれば済むことです。でも、社員の願い事は、
私が頑張らなくては叶えてあげられないのです。
今、売り上げにいちばん貢献してくれている 24
歳の社員がいます。彼は 19 歳で結婚し、父親に
なりました。子供はもう5歳なので、父親として
は、私よりも先輩です。彼の願い事には、「30 代
になる前にマイホーム。部長の片腕になりたい」
と書いてあります。今のままでは、難しいですが、
これを叶えるためのステージをどう用意するか
が、私の仕事だと思います。
また、ある社員は「冬にボーナスがちゃんと出
る会社」と書いてありました。申し訳ないと思い
ましたが私が一生懸命やることで、何かが変わる
と思います。
社員もそれをわかった上で、いい会社にしてい
きたいという思いを持っているのも事実です。
既存社員のために新卒採用
2009 年のあいち経営フォーラムでは、新卒採用
の大切さを痛感しました。そして、ものすごく背
●第8分科会●
伸びをして、同友会の共同求人に申し込みました。
就業規則もない会社で大学生が働きたいと思
うでしょうか。ましてや、社員からは「私たちは
全員中途社員なのに、新卒を採用することは、私
たちが批判されているようだ」と捉えられてしま
いました。そんな空気が流れる中、「新卒採用す
るといいらしいよ」という説得力のない説明をし
ました。共同求人に参加した最大の理由は、今い
る社員が自社で働いていることに誇りを持って
欲しかったからです。
クリンテックサービスは職人仕事ですから、学
生の応募があるかどうかもわかりませんでした
が、蓋を開けてみると 150 名を超えるエントリー
がありました。
初めてのことで、会社説明会の準備だけでも追
われていましたが、その内容を社員と一緒に考え
ました。説明会では学生からの「この会社の良い
ところ、悪いところはありますか」という質問に
社員が上手く答えていきました。その度に社員の
成長を感じました。
採用は3次選考まで行い、最終的に2名の新卒
を採用できました。採用の過程で、これほど多く
の学生がクリンテックサービスで働きたいと感
じていることと、そういう会社で働いているとい
う魅力を社員に感じて欲しかったのです。
「採用に勝る教育なし」という言葉を教えても
らったことがあります。今回の採用過程で学力試
験は実施せずに、5分間で「Wish List」
を書いてもらいました。すると、学生の本音がた
くさん出てきました。純粋にこの学生を応援した
いなと思うリストもありました。
私は学生に「働く理由は教えて教えてあげられ
ない」と言いました。学校の先生が学ぶ理由を教
えてあげられないのと同じでしょうか。学ぶ理由
や働く理由は自分で見つけるものだと思います。
なので、私は、願いごとを叶えるステージを作る
のが経営者の仕事だと思います。
社員それぞれが自主的に
ある社員は、5分間で 25 個の「Wish L
ist」を書きました。その内容は、「英語が好
きなので1日 10 分の英語の勉強がしたい。外国
人のお客様が来店されたら英語でおもてなしが
したい」とありました。さらに、「英語のホーム
ページも作ってみたい」と書かれていました。社
員がこうしていきたいという思いを持っていま
した。
今回の報告をすることで、私自身が何か成長し
たいという思いで、今年の目標をもう一回見つめ
直すための社内ミーティングを行いました。「こ
れをやり切れたら今年1年自分に勝った」と言え
る目標を立て直して、それに対する行動計画も作
り、今年の行動目標を冊子にして 13 名全員で共
有しました。
また、自社がコーティング作業をした車が毎月
100 台 200 台と生まれています。それが車屋さん
に任せっ放しになっている状況でしたが、私たち
でもっと細やかなフォローをしたい、と感じてい
ました。その思いに共感してくれた社員が、10 月
に企画書を作成し、12 月にメンテナンスセンター
をオープンすることを決めました。
私自身、社員の思いを聞いて、少しずつ変化し、
打つ手が見えてきました。まだまだ、これから成
長していけるということを社員から教えてもら
いました。
そんな社員に答えていけるように私が成長す
ることが私のいちばんの仕事だと思います。
【第8分科会スタッフ】
○座
長
○室
長
○責任者
苅谷 邦彦(熱田地区)
(株)インデックス・代表取締役
林
守 道(江南・岩倉地区)
(株)マルトク・専務取締役
丹羽 昭夫(尾北地区)
(有)宝製作所・代表取締役
和田 康伯(中区北地区)
(株)ヒューマンリンク・代表取締役
○グループ長
浅井 正勝(西地区)
飯森 慶一(北地区)
石田 新一(尾張南青年同友会)
一色 重利(稲沢地区)
岡田 貴司(中川地区)
川 口
郁(知多北部地区)
北川 誠治(春日井地区)
船間 廣治(千種地区)
渡辺りつ子(中村地区)
○実 行 委 員
山中
村上
○記
57
録
浩晃(豊田地区)
昭太(北地区)
伊藤沙弥香(愛知同友会事務局員)
⑨分科会
第
<人を生かす経営の実践>
自分らしく生きる
∼
経営戦略としてのワークライフバランス
基調提言
「ワークライフバランスって何?」
ワーク(仕事)かライフ(生活)の二
者択一ではなく、両方をバランス良く
調和させることで誰もが持っている
能力を十分に発揮し、自分らしく生き
ていくことができるのです。そのため
に自社で取り組める事は何なのか。経
営者、家族、社員みんなが「自分らし
く生きる」ための経営戦略を考えま
す。
∼
伊藤 公雄氏
京都大学大学院文学研究科
教授
【講師プロフィール】
男らしさ などユニークな男性
問題の研究で知られる。1976 年京
都大学文学部卒業後、同大学院に
進む。2000 年より大阪大学大学院
人間科学研究科教授を経て、現
在、京都大学大学院文学研究科教
授を務める。男性学の視点から女
性問題に関する政策策定にも関
わっている。
②女性の就労継続が困難
愛知県のワークライフバランス推進の資料に
「男性の家事育児分担度が高い家庭ほど、妻の仕
事が続けやすい」という報告があります。出産を
契機に、働いている女性の7割近くが職を離れる
と言われています。30 代は育児がいちばん重要な
時期ですが、この時期に夫は長時間労働にさらさ
れて家事育児分担が進みません。結果的に女性は
就労が困難な状況になっていくわけです。
かつては、祖父母のサポートがあったり、兄弟
姉妹が子育てを手伝ったりすることもありまし
たが、核家族化・少子化が進んだ現在は不可能で
す。また保育所等々の整備が不十分なこと、「女
性は家庭で」という古い意識が残っていることも
課題です。
ワークライフアンバランスの影響
①お父さんは透明人間
『お父さんは透明人間』という本があります。
小学生がお父さんを描いた詩を集めたもので、そ
の中に「透明人間」という詩がありますので紹介
します。
「この頃お父さんは透明人間。全然見えない。
会社で透明人間目薬をさす。そうすると体が消え
て見えなくなる。だいたい 10 時間ぐらいもつ。
早く目薬の効き目が切れて欲しい、お父さんの姿
が見たい」という詩です。
この本では詩が時代別に整理されており、1950
∼60 年代までの詩には、子どもの目の前でお父さ
んが生活している様子がリアルに描かれていま
す。これが、70 年代からお父さんが子どもの前か
ら消えていきます。先程の詩は 80 年代の詩です。
日本の男性で週 60 時間以上働く人の数が 70 年
代後半から 80 年代にかけて倍になり、700 万人台
となりました。その内 20%を 30 代が占めており、
年齢別構成比が一番高くなっています。この状況
は 2004 年でも変わらず、このことが女性の就労
継続の困難さにもつながっていると言われてい
ます。
③夫婦関係にもマイナス
男性が育児参加できないことは、長い目で見る
と夫婦関係にもマイナスという研究があります。
子育てをしている 300 組の夫婦の追跡調査をした
研究です。
結婚後、夫は妻に対して愛情が高まり 20 年経
っても高い状態が続きます。しかし、妻のほうは
結婚後6年目ぐらいから急降下していきます。6
年目頃というのは子育て期間に入る頃です。育児
という大きな負担を自分一人で背負わざるを得
58
●第9分科会●
ない。そして子育て期間中に夫離れが起こるわけ
です。
それが回り回ると、いわゆる定年離婚、あるい
は熟年離婚になります。最後の子どもの結婚式で、
「もう子どもが片付いたからあなたともお別れ
よ」というパターンが結構多い。20 年以上連れ添
われた方の離婚が 20 年前の8倍に増えています。
男性にとってみれば怖い話です。
④少子高齢化の課題
性の管理職の多い企業ほど業績が良いというデ
ータが出されています。
またゴールドマンサックスのデータによれば、
日本で男女の雇用格差を解消できれば、日本の就
業者数は 820 万人上昇してGDP水準を 15%押し
上げられる、という試算があります。本当かなと
思いますが、日本のGDPを上げるためには、男
女で社会を支える仕組み、しかも男女平等の雇用
条件を作っていくことが重要だと認識されつつ
あります。
②日本の女性参画の遅れ
日本はこれまでに例のない少子高齢社会に突
入しています。1970 年ごろは 65 歳以上が人口の
現在の日本は、他国と比べて女性の労働参加が
7%で「高齢化社会」という言葉が使われました。
大変低い。
1970 年の経済先進国の女性労働力率を
その頃日本は6∼7%ぐらいでしたが、今は 20%
みると、世界トップ 24 の先進国の中で日本は2
ぐらいになり、さらに拡大していくわけです。
一方で、少子社会は経済が縮小する可能性が高い。 位でした。ところが 2000 年には 20 位ぐらいまで
お金を稼ぐ人、お金を使える人の数が減ります。 落ちます。この背景には、男性の所得の急上昇と
長時間労働化で、女性はそれほど働かなくてもい
高齢社会では、若い現役世代は税金や社会保障費
い仕組みを 70 年代に確立していったことがあり
の負担が大きくなって豊かな生活ができない。少
ます。しかし、これからはそんなことではやって
ない数で膨大な数の高齢者を支えるわけですか
ら、高齢者の生活も不安定にならざるを得ない、 いけない状況なのは、先程お話した通りです。
女性の社会参画の遅れは、日本経済の弱点の一
というのがこれからの日本社会です。
つだと指摘されています。昨年の世界経済フォー
ではどうするか。一つは年を取っても働く社会
ラムのデータによれば、女性の社会参画について
を作る。これは動き始めていますが、高齢者の働
世界 134 カ国中、日本は一昨年 98 位、昨年は 101
き方についての制度的枠組みがない。このままで
位、なかでも経済分野での女性参画は 102 位です。
は高齢者の過労死が出てくると危惧されます。
優秀な女性を活用できていないということです。
もう一つ、外国人に働いていただくという仕組
男女で社会を支え、女性の参画も含めたワーク
みです。日本の社会はこの選択を取ってこなかっ
ライフバランスが必要になっています。
たため受け入れが十分でない。外国人の人権に対
する整備、あるいは外国人と一緒に暮らすための
③政策の方向性
多文化共生教育もほとんどされていない。そこで
注目するのが女性の就労です。
こうした状況を踏まえ、政府は「仕事と生活の
調和憲章」を作りました。これは、オランダが政
労使の合意のなかで男女共同参画と女性の就労
男女で支える社会づくり
を確保しながら経済成長を達成させたことも、大
きな理由になっています。
①男女で社会を支える
この憲章では、最初に「就労による経済的自立
が可能な社会」が挙げられています。つまり、経
「家庭にいながら働く意欲を持っている女性が
済活動でみんながきちんと食べられる社会を作
働くと、265 万人の生産労働人口増を生み出す」
という調査結果があります。これが実現すれば、
外国人に頼らなくても 10 年ぐらいはなんとかな
る状況です。少子高齢社会だからこそ、「男女で
社会を支える」という仕組みを作っていかないと、
日本の社会はもたなくなるのは目に見えていま
す。
最近は女性の活躍に関する研究が進んでいま
す。経済産業省でも女性の従業員割合と企業業績
の相関を調査しており、女性従業員が多いほうが
業績が上がっている、という大変面白いデータが
あります。EU圏のマッキンゼーの調査でも、女
59
●第9分科会●
す。ただ繰り返し申し上げますが、女性の社会参
画の拡大とワークライフバランスを進めないと
日本の 21 世紀は危うい、ということは、社会全
体で明らかなのではないかと思います。
ろう、ということです。2番目が健康で豊かな生
活のための時間が確保できる社会。3番目が多様
な働き方・生き方が選択できる社会。これが政府
のワークライフバランスの方向性です。
経営戦略としてのワークライフバランス
パネルディスカッション
①ワークライフバランス推進の効果
パネリスト
赤塚 昌也氏(熱田地区)
(有)大久手工業所 代表取締役
石塚 智子氏(一宮地区)
(有)ソフィア企画 代表取締役
鈴木 雅貴氏(知多地区)
(株)カネマタ衣裳店 取締役
丹羽 良二氏(江南・岩倉地区)
みんなの保険事務所 代表者
服部 隆宏氏(一宮地区)
服部工業(有) 代表取締役
コーディネーター
伊藤 公雄氏
京都大学大学院文学研究科 教授
経営においてワークライフバランス実践がど
んな効果をもたらすか、についてお話します。
一つは従業員の定着です。安心して働ける職場
にするには、働き続ける従業員の満足度が重要で
す。二つ目に優秀な人材の確保です。従業員の意
欲、満足度、生産性向上に寄与すると考えられて
います。
これらは絵に描いた餅の部分はあるのですが、
内閣府には、「ワークライフバランスをうまく進
めた企業は、中小企業も含めて業績が向上してい
る」というデータもあります。
②個々に応じた時間管理
子育てや家事をしながら、妻の介護もしながら
管理職にまでなって話題になった方がいらっし
ゃいます。仕事を5時で終えて帰宅する選択をし
たわけですが、その彼が強調するのは時間管理の
問題でした。日本の職場はだらだらと働いていて
生産性が低くなっているのではないか、時間管理
の不十分性がワークライフバランスを妨げてい
る部分があるのではないか、ということです。
横並びの時間管理ではなく、個々の事情に応じ
た時間管理を行うことがワークライフバランス
推進に必要ではないかと思います。大企業の場合
は制度になってしまいますが、むしろ中小企業の
ほうがやりやすい部分もあるのではないでしょ
うか。
「自分らしく生きたい」
【伊藤】最初に、なぜ「自分らしく生きたい」と
感じるようになったのか、そのきっかけは何だっ
たのかをお話ください。
【服部】数年前、「トータルパーソン」という言
葉を耳にして、仕事・家庭・社会のトライアング
ルをバランスよく人生を生きよう、ということを
学びました。かけがえのない、たった一度きりの
人生ですから、仕事も遊びも一生懸命、全力投球
でやっているところです。
【赤塚】会社がどんどん悪くなっていき、「世界
中で俺がいちばん不幸だ」と思っていました。そ
うではないと同友会で教えてもらい、自分の境遇
まとめ
ワークライフバランスの達成で育児・介護が可
能になっていけば、子どもたちの成長にもプラス
ですし、女性の社会参画も支えられます。男性の
非人間的な労働を変えることにもなりますし、高
齢者の社会参画の課題解決にもつながっていく
のではないでしょうか。中小企業と地域社会の関
係でも、仕事以外の時間を使いながら地域とのか
かわりを作っていくこともワークライフバラン
スの課題であると思います。
もちろん絵に描いた餅のような部分がありま
60
●第9分科会●
や会社の状況を受け入れることができました。今
年3月に代表取締役になり、「これからが人生の
スタートだ」と思えるようになりました。自分ら
しさとは何か、これから考えていきたいと思いま
す。
【丹羽】家にいても、どこに行っても、仕事柄お
客様からの連絡が気になってしまって、ずっと携
帯を片手に持っている状態でした。ある時、友人
に「毎日つまらない人生なんじゃないか」と言わ
れ、このままじゃいけないのかなと思っていまし
た。今回「自分らしく生きる」という分科会があ
りましたので参加することにしました。
【鈴木】この分科会を選んだ時に、他の会員から
「鈴木さん、できているからいいじゃない」と言
われました。たしかに仕事も地域活動も頑張って
いるという自負もありますし、他からはそう見え
ているのかと思いました。
しかし、本当にそれだけでいいのかと自問自答
する機会が多く、ちょっとぶれる自分がいます。
それでこの分科会に参加させていただきました。
【石塚】私自身、経済的に比較的裕福な環境で育
ちましたが、仕事中心の父親の下での家庭環境は
散々なものでした。その父が 59 歳の若さで手遅
れのがんで突然亡くなりました。父が亡くなる7
年前に、弟が 20 歳で突然亡くなったこともあり、
「父や弟はなんのために生まれてきたのだろう、
本当の幸せってなんだろうと」考えるうちに「私
の人生って何だろう」と考えるようになりました。
父の死からは「自分がいつ天に召されても後悔
のない日々を送ること」、弟の死からは「私の使
命は何か、生かされている理由を日々問いかける
こと」を気付かされました。
も醜い部分もあって、それら相反するものを背負
ってこそ人間だと思っています。とにかく人間ら
しく生きていきたいと思っています。
【鈴木】使命を持って人の
役に立つことが自分らしく
生きるこだわりだと思って、
仕事も地域のこともがむし
ゃらにやってきました。
しかし、社内の人間関係
だとか、プライベートの時
間がほとんどないだとか、
自分のいちばん身近な環境
がどうなのか、と考えたと
き、「もっと肩の力を抜いてがんばれたらいいの
かな」と、これまでのこだわりを考え直している
のが今の正直な感じです。
【服部】自分のなりたい姿を常に考えています。
経営者であれば「尊敬される、威厳のある、影響
力のある経営者」、一人の人間でいえば「存在感
のある、男気のある、温かみのある人間に」とい
った具合です。究極的には、死を迎えた時に周り
の人たちの心に残る人間になりたいと思います。
【石塚】私は、人生を悔いなく生きることが「自
分らしく生きる」へのこだわりです。人生をどう
使うかを考える。今年は何をするのか、今月は、
今週は、今日は、というようにです。そのライフ
プランを叶えるためにはお金がいくら要るのか、
仕事はどれぐらいしたらいいのか、を考える。賃
金格差のある日本で私のライフプランを叶える
には、起業するのがいちばんの近道だと思いまし
た。
女性の場合、精神的自立と経済的自立が自分ら
しく生きることの必須条件だと考えています。
「自分らしく」のこだわり
「こだわり」を突き通すための障害
【伊藤】パネラー自身も、この分科会で「自分ら
しく生きること」を改めて考える機会になってい
る、というお話でした。次に自分らしく生きる上
でのこだわりについてお願いします。
【丹羽】プライベートでは、常に積極的に参加し
てとにかく楽しむことにこだわりを持って過ご
しています。仕事ではお客様の要望に応え、お客
様のためになるような提案を常に思っています。
【赤塚】経営者である前に
一人の人間であると思っ
ています。一生懸命生きよ
うとじたばたして、格好悪
いかもしれないですが、そ
れが美しい姿だと思いま
す。人間は強い部分も弱い
部分もあって、美しい部分
【伊藤】自分らしく生きるこだわりについてお話
いただきました。このこだわりを貫き通すために
どんな障害があるのか、お話をうかがっていきま
す。
【赤塚】自分の意識ですね。自分自身や自社に対
して、勝手に限界を作ってしまっている。同友会
の仲間から物事を一面的に捉えて判断しないこ
とを学びましたが、つい思ってしまいます。
自分の家族、社員の家族も守っていかなければ
なりません。自分の意識を常に強く持って、勝手
に限界線を引かないようにしたいと思っていま
す。
【鈴木】町おこしやボランティアはプラスの作業
で、喜んでくれる人がいて生きがいを感じます。
一方、会社に戻ると経営者としてマイナス面ば
61
●第9分科会●
かりに目がいってしまい、良くないサイクルを生
み出している自分がいます。社員にきつくなりす
ぎたり、外に目線がいってしまい社員とのコミュ
ニケーションが希薄になったりしがちです。二極
性的な自分がいると感じています。
【伊藤】先程、ワークライフバランスのなかで「地
域活動の重要性」を申し上げました。鈴木さんは
それを実践されているわけですが、むしろ会社内
でずれを生んでしまっているようです。アドバイ
スはありますか。
【服部】私も社会奉仕や国際奉仕にも取り組んで
います。様々な人に会うことで学ぶことがたくさ
んあります。経営者として「社会活動は将来の会
社のため、社員のためにやっているのだ」と理解
してもらうことが必要じゃないかと思います。
【伊藤】丹羽さんは結婚の問題で悩んでいるとも
お聞きしました。これからの人生設計も視野にい
れながら、今の障害についていかがでしょうか。
【丹羽】お客様あっての仕
事ですので、お客様の要望
にお応えしようとすると、
自分のペースで仕事をして
いるつもりでも、結局お客
様のペースに合わせていて
終わった頃には自分が気疲
れしていることが多いです。
一緒になる女性には幸せ
になってほしいという気持ちがありますから、今
の生活のまま結婚して幸せにしてあげられるの
かを考えると、ついネガティブな考えから抜け出
せない状態にあります。
【伊藤】丹羽さんが、いちばんワークライフバラ
ンスが悪い状態なのかなと。24 時間労働ですよね。
結婚しようにも家族がうまく営めるのか、夫婦関
係が維持できるのか、という壁にぶつかっている
ということだろうと思います。どうですか。
【石塚】働く気概のある女性と結婚すればそんな
心配は全然いらないと思いますし、全部自分で養
おうとか幸せにしようなんて、そんなの傲慢です
(笑)。「一緒に一緒に」です。
経営(ワーク)と人生(ライフ)のバランス
【伊藤】「自分らしさ」について、人生と会社経
営をどうやって結びつけていくのかお話しくだ
さい。
【石塚】会社を設立した年の5月に父が亡くなっ
て、新会社と実家の経営、子育てと家事が重なり、
どうすればいいのかという状態になりました。そ
こで、朝9時から夕方6時まで仕事をするのでは
なく、「自分のできる時に内職スタイルで社長を
62
やれば」と考えました。
予測できるあらゆることを前もって準備し、社
員と役割分担してやっていく。月間、週間の予定
表、クライアントごとの仕事の工程表を細かに作
って、自分がいなくてもいい仕組みを心掛けてき
ました。結果、社員でもお子さんが病気で出勤で
きないなら代わりの人が助ける仕組みになりま
した。
当社ではだいたい、入社5∼6年で結婚、出産
で休業、というケースになりますから、子どもの
成長にあわせて、在宅勤務や数時間の勤務など、
その時期にあった働き方をすることを認める就
業規則にしています。また同一作業は同一賃金と
しました。同じ作業なのに人によって値段が変わ
ると原価計算が難しくなりますし、別の人が代わ
ることが難しくなるからです。
社員には「チームソフィア」の一員として、お
互いに支え合う、目に見えないことにも涙とか汗
とか苦痛が秘められていることを察する、そうい
う優しい人になってほしいと常々言っています。
こうした企業づくりを続けてきたら、定着も良
く、誰も辞めていない状態になっています。愛知
県のファミリーフレンドリー企業にも認定され
ました。ワークライフバランスをやろうと思って
やったのではなく女性の雇用を守ってきた結果
が今のソフィア企画のあり方になったというこ
とです。
【伊藤】以前、ある男性経営者にインタビューし
たら、「せっかく手間ひまかけて鍛えた優秀な社
員が出産で辞めたらそのコストはどうするのか」
というお話を伺いました。そういう発想の転換が
ワークライフバランスの問題にも絡んできます
し、実際に石塚さんのところでは、女性の就業継
続を考えたら自然にワークライフバランスにな
っていったというお話でした。
【服部】人を人として扱
うことを念頭に、会社づ
くりを進めています。
まず就業規則や賃金規
定の整備です。かつては
自分も職人で、日給で働
いていました。1月、2
月になると給料が減って
しまい、生活が苦しいこ
とがあり、自分が社長に
なったら月給制度にしようと規定を改定しまし
た。
次に休日です。ある時、40 代で結婚していない
社員から「日曜日休みじゃないと彼女ともデート
できないよ」と言われました。これをきっかけに
日曜・祝日を全部休みにしました。
当社は設備屋ですから土曜・日曜・お盆・正月
●第9分科会●
がいちばんの稼ぎ時です。売り上げの目減りもあ
りましたが、「家庭が1番で次に仕事」になって
くれよ、という思いで、思い切って休日カレンダ
ーを変えました。
日曜日に突発で仕事が入る時もありますから、
「誰が休んでもいいように皆オールラウンドプ
レーヤーになってくれよ」と言っています。役割
分担・責任分担を指針書にうたい、自分たちで仕
事を取ってきて工程管理をし、見積もりや請求を
する仕組みを作って取り組んでいます。
次に将来ビジョンを持つことです。今のわが社
は将来のビジョンを明確に伝えていません。社員
が求めているのは、「単年でうまくいった」とい
う話ではなく、「自分の会社や生活がどうなるか
のビジョンが明確で、それを達成することで安心
して働ける会社」じゃないかと思います。今、京
都同友会の経営実践道場に通ってビジョンづく
りに取り組んでいます。
もうひとつ、返事や挨拶といった、しつけまで
含めた基本的な人間力、そして「傷一つでも、指
一本でも落としたらあかんぞ」と、命を大切にし
てほしいと伝えています。
【伊藤】「社員を巻き込みながら、社員の人間力
に期待する」というお話は、すごく参考になると
思います。石塚さんや服部さんは自分らしさの多
様性を見開いていると感じました。
もうひとつ、時間管理の問題です。「個人の能
力や事情に配慮しながらチームで動かしていく」
という形は、大企業ではなかなかできない。やは
り中小企業の工夫にはいろいろなヒントがある
と思いました。本日のまとめをお願いします。
【石塚】私たちは、近い将
来、社会の意識改革が進み、
性別や年齢、職業、身体状
況、国籍の違いなど、あら
ゆる分野で制度や慣行が
中立的になった時、すべて
の人がお互いの人権を認
め合い、自主的な生き方を
選ぶことができる共生社
会が実現すると考えています。同友会が最も大切
にしている人間尊重です。
人間尊重経営というならば女性、障害者、外国
人といった区別、差別をするのはどうでしょうか。
こうした人たちは働くことに制約を持った人た
ちだと思います。女性の場合は時間や場所、外国
人は言語、障害者はコミュニケーションの制約で
す。しかし、この制約は得がたい個性の一つであ
り、きめ細かな消費者ニーズを広いあげる高度な
アンテナにもなります。また女性や障害者が働き
やすい企業風土作りは、普遍的な働きやすさにつ
ながると思います。
63
ワークライフバランスを実現するということ
は一言で言えば多様な生き方を認めるというこ
とになります。当社のように仕事と生活の調和を
大事にする社長の下へは、「バリキャリ」と呼ば
れる人は来ませんし、上昇志向の社長の下へはそ
れに賛同する人が集まります。つまり、中小企業
経営者の自分らしさ、パーソナルアイデンティテ
ィーが、即コーポレートアイデンティティーにな
る、ということです。同友会では経営理念を作る
時に、「何のために経営するのか、何のために働
くのか、何のために生きるのか」が必ず問われま
す。まさに「自分らしく生きる」の追求ではない
でしょうか。
本日の分科会が「自分らしさ」とは何かを見つ
め直し、多様性が求められる成熟社会において企
業として変えてはならないものと、変化に合わせ
て変えるべきことを明確にして、経営戦略として
価値観の再構築をしていただく糸口となれば幸
いです。
【第9分科会スタッフ】
○座
長
○室
長
○責任者
光嵜 武司(一宮地区)
(有)ティーカード商会 代表取締役
荒井 由美(東地区)
Youing
代表者
倉田満美子(中区北地区)
(株)ラッシュインターナショナル・代表取締役
○グループ長
厚地 優彦(尾張西青同)
伊 藤
優(東地区)
井ノ口初博(尾張西青同)
小澤 杳子(昭和地区)
大原 浩幸(昭和地区)
加藤 誠治(碧南・高浜地区)
坂元 誉子(西地区)
杉原 繁樹(南地区)
高瀬 慎二(瑞穂地区)
高森由美子(西春日井地区)
服部 篤彦(尾張西青同)
久田 丈幸(名西地区)
松井 浩司(千種地区)
武鹿 正治(一宮地区)
山田 英之(熱田地区)
○記
録
多田
直之(愛知同友会事務局次長)
⑩分科会
第
<市場・顧客および自社の理解と対応>
顧客満足の創造
∼
お客様の感動が、更なるお客様を生む
報告者
加藤 昌之氏
(株)加藤設計
加藤氏は、顧客の要望を汲み取り、
他社にはない独自性のセンスと完成
度で、高い評価を獲得しています。ま
た顧客周辺の評判も高く、その評判が
評判を呼び、口コミでの依頼が舞い込
むことも少なくありません。加藤氏の
報告を問題提起に、社員満足(ES)
や、自社で扱う商品やサービスへの取
り組む姿勢と顧客満足(CS)に必要
な要素を磨くことを学びます。
∼
代表取締役
(千種地区)
【会社概要】
創 業/1986年
資本金/1000万円
社員数/14名
年 商/1億8000万円
事業内容
/工場・ビル等のオフィス
空間、マンション等の民
間住宅を中心に手がけ
る、建築設計事務所
http://www.katou-sekkei.co.jp/
設計から監理まで
選ばれる決め手は、対応の早さ
私は、建築設計事務所の経営をしておりまして、
入会 20 年になります。入会して経営の勉強をさ
せて戴いて、なんとか切り抜けてきました。顧客
満足は、中同協の前会長である赤石義博さんの著
書で学びました。
「企業の目的とは、顧客満足を通じて社会貢献
し、そして利益を出し企業存続させる」というこ
とです。きわめてシンプルですが、力強い言葉で
す。先ほど行われた宮崎さんの基調講演でもあっ
たように、顧客満足、社員満足、社会貢献、この
3つの要素を普段から私も意識しております。
今日の資料には、我が社の仕事がわかるように
作ったチラシを入れておきました。チラシにある
ように、我が社は市場の情報を収集・調査をして、
建物を企画・計画立案していきます。こうして顧
客から認められると、建築の基本設計に入ります。
そして具体的な実施図面を書いたうえに、その図
面をもとに工事業者に入札をして決めています。
その後、設計通りできているかどうかを現場でチ
ェックする、「現場監理」をしています。建物を
引き渡した後のアフターメンテナンスもおこな
っています。要するに、建設業といっても資本は
かからない商売です。いわゆる他の士業と同じよ
うなサービス業に分類されます。
我が社の実績を紹介します。まず。瑞端区内に
ある賃貸マンションの例です。これは不動産の投
資信託関連(リート)の商品で、リートバブルは
3年ぐらい前がピークで、リーマンショック後に
終焉を迎えました。そのリートバブルの少し前で
このマンションを手掛けました。
リート物件がまだ始まっていない時期に、それ
を名古屋でやる会社を紹介してもらい、そのコン
ペに参加しました。これが大変なコンペでした。
コンペが半年続き、競争に勝ってやっと仕事をも
らえると思ったら、次にまた数社と対戦する、と
いうコンペでした。次から次へ延々と対戦相手が
きます。半年間続きましたから合計では三十数案
も出していました。勝ち残ったというよりも、他
社があきらめたといったほうが早いかもしれま
せん。
自社が選ばれた理由
は「対応が早い」という
ことです。放置されるこ
とを覚悟で提出期限よ
り早く提出しました。方
針が変更されると、それ
もまた即対応しました。
事実、放って置かれるこ
64
計画を立てたらえらいことになる。そのうち崩壊
するから」と参加者にはっきりと言われました。
もっと足下を見て経営しなければと思い、いたず
らに社員を増やさず協力会社を作り、外注で仕事
をこなし、お客さんに迷惑かけないように仕事を
やりました。その時、良い助言を得て今では感謝
の気持ちでいっぱいです。
ともありました。しかし、このやり取りが何回か
続いた後、依頼主の社長から直接電話がかかって
きました。「何でそんなに早くできるのか。一度
会いたい」ということでした。
そこで、じっくりと社長の思いや考え方、建築
に対する夢などを聞くことができました。話を聞
いていくうちに、私のそれまでの計画案と社長の
思いと違うことがわかりました。そこで「あなた
の考えているのはこういう案じゃないですか」と
いうことをそれからも数回、重ねていきました。
そうして、社長がいちばん欲しいと思っている
イメージに到達し、その社長からは「これだよ、
これ」と評価を戴きました。社長の思いの奥底に
あるイメージを引き出すことで、コンペに勝つこ
とができました。
そのマンションは北向き住戸があり、名古屋の
常識ではあり得ないのですが、「このプランでも
いける」という裏付け調査を不動産屋からとりま
した。こうした企画案をスピーディーに出せるだ
けの情報網と、我が社に提案スピードを支える優
秀な社員がいたからだと思っています。
その後は、リートバブルが2∼3年くらい続き
かなり多くの物件をこなしました。しかし、リー
トバブルが崩壊しリート商品の仕事がゼロにな
り、すさまじい落差を経験しました。浮き沈みの
激しさを痛感しています。具体的な受注構成比で
平成 19 年はファンド系賃貸マンションが売り上
げの 45%と依存度が高かった。しかし、その3年
後は0%です、つまり市場は全く無くなってしま
いました。
「ファンド系賃貸の売り上げがゼロになっても、
会社が潰れないってどういうことですか」とよく
聞かれます。実は我が社は前回のバブル崩壊も経
験しています。そのバブルで大きな失敗を経験す
ることになるのですが、その後に同友会で「経営
指針に従い安定的に経営する」ことを学んでいま
したので、大いに役立ちました。
また、その頃に参加した景況調査会議で「ファ
ンド関係で数年の間に名古屋は賃貸マンション
の仕事が相当あります」と発言したら、
「加藤君、
それね、バブルだよ。そんなものに浮かれて経営
65
提案力で大手に勝った、
ライバル会社とのコラボレーション
次の事例は、他社とのコラボレーション、いわ
ゆる他社との協働連携でコンペに挑んだ話です。
どちらかといえ
ばこの物件は、我
が社にとってライ
バル会社との連携
です。コンペをす
ると大手が参入し、
たいていは負けて
しまいます。とこ
ろが、この物件は
地元の建設会社から直接、「どうしても受注した
いので協力しませんか」と呼びかけられ、協働関
係を結ぶことができました。お客さんは「フラン
スのイメージがほしい」とのことでしたので、フ
ランスのイメージを出し、経済性と、収益性を上
げられるプランを作り上げて提案した。この物件
も、素早い提案力が功を奏しました。大手は動き
が悪く、提案するのに時間がかかっていました。
ここでも提案力と速さが自社の強みだと確信し
ました。デザイン力とプランニング力と、それに
十分な事業収益性これが勝因です。こうして施主
のデザインのイメージを膨らませて「まちづくり
の視点」で訴えたのが決定的に大手との違いとな
りました。
社員も活躍し重要な役割を果たしました。大き
な会社と自社のような小規模な会社とが一緒に
仕事をしますと、往々にして下請けになってしま
いがちです。協働と言いながら、なかなかお客さ
んに会わせてもらえないこともあります。そこを
うまく調整し、施主と協働している各社とのコミ
ュニケーションを計って、諸問題を丸く収めてく
れました。
協働関係を保ち下請けに入らなかったことで、
加藤設計という看板を現場に掲げ、我が社をPR
することができました。それによって、いろいろ
な人から問い合わせが来るようになりました。
その一つの例は、この完成した建物を見て、同
じコンセプトで建ててほしいという依頼も舞い
込みました。後で聞いたら、それを口コミで紹介
した人が、このコンペ負けた会社の社員が自分の
知り合いを紹介してくれていたのです。ライバル
会社と協働でやっているのに、次の仕事も他のラ
イバル会社の社員が紹介してくれたのです。そこ
まで評価してもらい仕事をつないでいくことは、
普通ではあり得ないと思います。
お客さんのコンセプトを正しく掴む
最後は公開コンペで苦労して仕事を取ってい
く話です。
公開コンペでは、施主であるお客さんのイメー
ジや審査のポイントが分かりにくいこともあっ
て、いままでコンペを回避していました。
しかし、このコンペは施主による説明会があり、
会社の内容や社内事情などを聞くことができま
した。そこで、コンペに出されている内容が施主
の思いと少し違うことに気がつきました。設計士
には施主の気持ちを常に正しく掴むことが求め
られます。過去にもコンペで施主の要望とは違う
ことにした提案をしたところ、見事に施主のイメ
ージ通りだったことがありました。
他社は、コンペ要項に振り回されていたようで
す。コンペ要項の通りではなく、施主のコンセプ
トを正しく掴み提案した自社が仕事を取りまし
た。お客さんの考えている真意に気付き、企画変
更できたことが勝因です。
この時のコンセプトは私もアドバイスしまし
たが、社員のアイデアや役所との調整能力などで
絶大な力を発揮しました。現場に入っての打ち合
わせもやる気満々で、自分の時間を使ってまで現
場に行っていました。でき上がってくるのが楽し
くてしようがなかったようです。社員が熱心で施
主も安心できたようでした。施主のイメージ、気
持ちを正しく
掴み、竣工ま
で熱心に寄り
添っていく姿
に、社員の自
己実現への思
いを非常に意
識しました。
同友会で、自立型企業を学ぶ
同友会では「自立型企業」ということも学びま
した。下請けをやっていては大変ですので、なん
とか下請けをしない企業になることを考えてい
ました。
顧客から直接受注して要望やイメージを聞き、
66
予想を上回る作品づくりをすることで作品によ
って感動を与えることが求められています。また、
顧客の言うことを 100%聞いていても良い仕事は
できません。顧客の本当の狙いを掴み、他社にな
い感覚で作り上げた作品づくりで価格競争を避
けることが必要です。そのためには、自社に足り
ないセンスは他社と協働で補うことも自立型企
業づくりの一環です。
それからもうひとつとして、現場に自社の看板
を掲げることで、自社をブランド化する夢があり
ます。現場に自社の看板を掲げるということは、
施主の代理者として近隣住人などの利害関係者
との厳しい交渉をやりぬくことが求められます。
また、役所やいろいろな業者とも法的な問題や値
段的に厳しい交渉にもなります。こうして看板掲
げるということは全ての点において自社が責任
を持つという決意が必要です。それくらいの根性
がないとやれません。
この、「現場に看板を掲げる」ことで、その現
場が広告塔となり口コミで地域の住民に繋がっ
ていきます。従って、中途半端な仕事はできませ
ん。完成度を高めることが必要です。そのために
社員にも「たとえ赤字になっても妥協は一切する
な」と言っています。
自立型の社員を育てる
自立型企業にふさわしい自立型社員として、ゼ
ネラリストを育成することを考えています。自社
は、設計・監理・市場調査のように分野別に仕事
を行わず、構想から企画・設計・監理まで一貫し
て一人の社員に任せています。学生時代からあこ
がれて建築設計をやっている社員が多いですか
ら、自分で一貫してやれた建物の完成した喜びは
人一倍です。一つの分野に偏ると、やりがいを失
わせてしまうように感じています。
このように設計から監理までの一貫性を大事
にする方針は、求人の際も魅力を感じる人が多い
ようで、「そこまでやれる会社なら」と入社希望
者も多くいます。一貫でやるためには知識が必要
施主が次に建てる時には価格が上がる可能性が
あるからです。そうすると、トータルに見てお客
さんにとっては損になります。追加の仕事は、正
統性があるならば施主には必ずお金を出しても
らわなければなりません。施主・我が社・業者の
バランスをうまくとらないと仕事が長続きしま
せん。このことではよく社員に指導しています。
それでは社長である私の仕事は何かというと、
最初にお客さんと新規物件の内容を社員と一緒
に聞きます。それから、基本的なプランニングを
作るところまでで、その後は社員に任せます。そ
こで担当社員の作る図面の完成度を、施主の視点
で点検し吟味します。施主の気持ちを汲み取った
作品なのかどうか、図面をチェックします。顧客
の気持ちで社員を指導しています。究極的には、
社長の能力を超える作品が生み出せることを期
待しています。会社の長く続けるためには社員の
確実な成長が必要だからです。手がけた建物は永
続的にこの世の中に存在します。それが続く限り
会社を存続させなければいけません。そうなると、
私以上に能力を出せる社員をたくさん育成して
いかなければなりません。今の社名にある加藤と
いう名前も将来は消してもいいと思っています。
今の建築業界は、ピーク時の半分以下の会社数
になり厳しい業界です。当然、能力のある社員が
育ってこないと企業の存続が厳しいですし、加藤
設計で確立しているブランド性も繋げていきた
いと思っています。
私は、社員の作品づくりに協力し、社員の自己
実現を目指したいと思っています。設計士は、自
分の考えたものは最初から最後まで自分の思い
でつくりたいのです。その結果、良い設計図を作
ってくる社員が増えているのも事実です。能力は
早く身につけさせ、自立させる。新入社員の教育
もスピード勝負です。そしてこれも社長にかかっ
ています。自社の新入社員の席は、私の横です。
入社した4月は毎日が緊張の連続で、電話の応対
でも「何んだその電話のとり方は」「何んだその
話し方は」「何んだその態度は」と、朝から晩ま
でずっとその調子です。新入社員はそれくらいの
負荷をかけないと育たないです。
ですし、施主や近隣からは怒られる厳しい仕事だ
と説明します。しかし、「それでもやりたい」と
いう若い設計士が多くいます。
真剣に育てようと思うと、膨大なエネルギーで
教育しなければいけません。価値観や日常的な課
題は朝礼を活用して共有しています。我が社の基
準に比べてどうなのか、どんなやり方があったの
か、いつまでにやるのか、など、朝礼でケースス
タディをやります。
技術講習は社外研修もやりますが、社内でも能
力向上の研修はしています。今日も朝礼で高齢者
専用のマンションの講習を 30 分間行いました。
社外で講習を受けてきた社員がみんなの前でレ
クチャーをしますが、こういうことは確実に社員
が成長します。
建築の夢や素晴らしさを語れる社員に
営業社員はいないので、人前で話ができる社員
を育てていくことにも挑戦しています。
現場での会議では、設計士が司会をやります。
わが社の会議や朝礼で社員に司会をさせること
で実地教育をしています。そしてまた、監理者は
現場で施主といちばん長い時間合っていること
になります。この機会を利用して建築のよさや素
晴らしさを、施主に向けて話してほしいと普段か
ら言い聞かせています。
私は学生時代に大工さんのもとで働いたこと
があります。大工は休憩のときに施主に、いま造
っている建物の自慢話をします。この自慢話は、
あなたの家が素晴らしいものだという物語を話
します。このことで大工さんは、営業をしている
のです。そうして、お客から次のお客さんを紹介
して戴けることがあります。一昔前はそういうや
り取りの中で仕事ができていました。
与えられた現場監理をして帰ってくるだけで
なく、「次に建てるときはこうしましょう」と夢
や提案をして、次の仕事に繋げていける社員に育
っていければ私も嬉しいです。
顧客満足の要素∼三者の利益と社長の仕事
私は、施主・我が社・業者の三者の利益を考え
るバランス感覚を大事にしています。顧客の本当
の満足は大切なことですが、顧客だけを満足させ
て終わっているのではよくありません。
例えば、予算がなくなって業者さんに追加金額
を値切って泣かせる時があります。しかし、これ
でお客は喜ぶかもしれませんが、本当はよくあり
ません。その情報はすぐ業界に広まります。同じ
67
自社の課題は、社員の独立と家族問題のケア
とはいえ、失敗もあります。いちばんの失敗は
社員の独立です。それだけで仕事が減りますし、
私ども「士業」としての致命的欠陥です。社員は、
顧客と夢を語るなど直接打ち合わせをして顧客
との関係が深くなります。その上、売り上げが分
かっているので、一級建築士の資格を取るとどん
どんやめていく、という時期がありました。その
時はナンバー2からナンバー4まで退職しまし
た。しかし、独立しないように顧客とは会わせな
いようにするかというと、そんなことはありませ
ん。それでは設計士としてやりがいのない仕事に
なってしまいます。設計から監理まで一貫した仕
事は、社員のやりがいになりますので、続けてい
ます。
ですから、
「自社の強みは、組織の総合力だよ」
と理解してもらいます。朝礼の講習もその一環で
す。今日の朝礼でも高齢者関連のマンションを取
り上げましたが、市場の広がりや分析をしたり情
報を集めたりして、「ビジネスの組み立てができ
る組織の総合力で勝負しよう」と言っています。
デザイナーやライバル会社との強力な協働のコ
ラボレーションも、自社でこそ実現できます。複
数担当者制でサービス低下を防止し、私自身も施
主とのやり取りの時間を増やし、我が社の総合的
な力量をアップすることが、社員が独立すること
への対応策と考えています。
もうひとつは、社員が家庭の問題を抱えていて、
それを隠している時です。表面化してきた時は最
悪な状態になっています。その社員が退職するか、
ノイローゼになるかして、何かと支障がでてきま
す。これは、日頃からプライベートの話の相談に
も乗ったりして、コミュニケーションをとるとい
うことと、これも複数の担当者で任せるような組
織力で対応しています。
顧客のいいなりになってはいけない
「顧客満足から次の仕事が繋がる」ということ
ですが、お客さんが言ったことをすべて鵜呑みに
してはいけません。ほとんどいいなり建物か完成
しているにも関わらず「こんなもの引き取れな
い」という話になることもあります。
だから、本当の顧客満足は顧客の言いなりにな
るということではなく、顧客が抱えている問題を
掴みイメージを膨らませて創造し、「真の要望っ
て何だろう」と考えを深めることです。
例えば、住宅であれば施主の意見だけでなく、
家族や親戚、マンションや商業施設であれば使う
人や地域の人たちとの関係があります。いろんな
人の思いが重なっているところで建物が完成し
てきます。そこまで思いを巡らし、顧客のためを
思ってつくるということです。
顧客だけでなく、使用者や周辺の評価
建物は末永く世の中に存在しますから、顧客の
今現在の要求だけでなく、時間的価値観も追求し
て、普遍的なものは重視していく態度が必要です。
だから、建築の普遍性や素晴らしさを追求して
いくわけですから、それを伝えるための対話や考
えるための時間を持ってもらえるように、我が社
の仕事は素早い対応をします。そうして、真に顧
客が考えている建築を追求すれば、必ずお客さん
が受け入れてくれるという信念を持っています。
建物の普遍性を追求するのですから、お客さん
からの評価も当然ですが、私たちは建物の関係者
や周辺の評価も重視します。いろんなことを犠牲
にしてまで、顧客のいうことをそのまま鵜呑みに
したら、結果的にお客さんにいろんなしわ寄せが
きます。
例えば近隣からの苦情など、どんな難しいこと
でもしっかりと収めていかないと大変なことに
なります。そうでないと、お客さんと近所の方と
のトラブルが一生続いてしまいます。だから、周
辺の諸事情を踏まえ考えながら処理していきま
す。
しかし、悪いことばかりではありません。地域
周辺の方から「こんな素晴らしい建物を、私の近
所に建ててくれて、ありがとう」と近所の人から
言われた、とお客さんからうれしそうに電話がか
かってきました。地域の景観に配慮する顧客のコ
ンセプトが、地域に受け入れられたのです。
いままで無かった営業に力を入れる
このように、顧客や地域の人たちの口コミで仕
事が来ることを狙いながら仕事をしています。し
68
かし、最近では今までおこなってなかった営業に
も力を入れています。
今までのような、口コミだけでは一定の成長が
望めません。今まででも、営業面でもいろいろな
方策を試行しながらここまできました。リーマン
ショック後は市場が急激に縮小しました。この影
響で、口コミに頼るだけでなく、営業することに
も意識し始めました。
その一環として、自社の1階駐車場を地域に解
放するために、駐車場から事務所へと改造する方
向で考えています。まだ実績は多くありませんが、
最近、一般のお客さんがわが事務所を訪問してく
ることがあります。そのために最初に紹介したチ
ラシを作りましたが、店舗的な事務所に模様替え
を検討中です。
今年1月の経営方針の発表で「今までの戦略は
全部捨てる」と宣言し、「口コミ戦略から全員営
業で、一般顧客をとりにいく戦略」を社員に向け
発表しました。いわゆる営業開発の展開を打ち出
しました。
経営理念に盛り込んだ顧客満足
最後に経営指針書の話をします。かなり前に同
友会で経営指針を学び成文化しました。先輩会員
から「作りなさい」とアドバイスを受けて成文化
し、何年にもなります。経営理念は「安心、快適、
満喫空間の創造で、明るい未来社会に貢献しま
す」です。経営理念は会社の目的なので、今ここ
でお話しさせていただいたことが明確に盛り込
まれています。そして、経営方針を社員と共有し
たり刷り込んだりすることが、経営者である私の
仕事だと思います。経営指針書は、お客様との約
束や物件ごとの係数管理など、社員が自分たちで
判断して行動できるよう、できるだけ社員の裁量
で動けるようにしています。
今日は、基調報告とこの分科会でお話しした顧
客満足についての考え方が、非常にバッチリと重
なっています。
顧客満足や社員満足というのは、顧客や社員に
69
直接アプローチしていかないとうまくいかない
し、理想を展開することもできないし、他社と違
う作品をつくることもできません。
我が社においてこれからの経営課題は、企業の
社会貢献を中心に考えて実践していきたいと思
っております。
【第10分科会スタッフ】
○座
長
大竹美保子(熱田地区)
(有)クリエイトハーモニー・代表取締役
○室 長 水野 由里(熱田地区)
人事労務マネジメントひととき・代表者
○責任者 今川 康仁(名東地区)
(株)BSS・代表取締役
○グループ長
石 野
淳(稲沢地区)
伊藤 靖尚(瀬戸地区)
横 山
仁(西春日井地区)
森田 秀和(知多青年同友会)
林
美 希(中区南地区)
塚原 和彦(西地区)
駒 田
斉(東地区)
東端 俊男(港地区)
彦坂 雅司(名古屋第2青年同友会)
岡 田
泉(岡崎地区)
野々山達也(刈谷地区)
山口 雅生(豊橋地区)
岡地 昭洋(碧南・高浜地区)
曲師 吉晃(三河第1青年同友会)
○記
録
井上
誠一(愛知同友会事務局員)
⑪分科会
第
<市場・顧客および自社の理解と対応>
中小企業の海外対応
~
中国市場との関わり方を考える
報告者
小島 正憲氏
(株)小島衣料
国内市場の成長が大きくは期待で
きません。今後は海外市場を経営に取
込むことが多くの中小企業にも必要
になってきます。中でも成長著しい中
国は多くの方が関心を持つ国でしょ
う。今回は中国で長いビジネス経験を
有する報告者から中小企業の視点で
中国市場の最新状況と進出時の課題
を実践的に学びます。
~
オーナー
(岐阜同友会)
【会社概要】
創 業/1952年
資本金/1億3200万円
社員数/21名
年 商/34億円
事業内容
/レディース・フルアイテ
ム製造業
http://www.kojima-iryo.com/
そろって上がりましたが、「中国のバブル」とい
われているその中身をよく見ることです。たしか
にマンションは上がっていますが、土地はあまり
変化がありません。よってバブルが崩壊したとき
も日本が受けた打撃とは違います。
新聞に「不動産バブル」と書かれていたら、よ
く読んでください。マンションバブルのことしか
書いてなく、土地バブルとは書いてありません。
書いてあっても「住宅建設用地の値上がり」です。
このことも計算にいれながら、「バブルだから中
国に出ていくのをやめよう」と判断するのか、
「こ
ことここはバブル崩壊の現象がでるから、注意し
たうえで進出しよう」と判断するか。物事の捉え
方でおのずと対応がちがってきます。
マスコミ報道を鵜呑みにしない
中国市場との関わり方を考えるにあたり、現場
の実態をつかむことがいかに大切かということ
を、事例を交えてお話します。
①中国は人手不足
私は中国の現地視察で特に暴動の現場に足を
運びます。これまで中国全土で 100 ヶ所ほどの暴
動を見て回りました。ついでにその行く先々の小
売店、飲食店の店頭をウォッチしていると、それ
らがすべて求人募集をしているのです。つまり中
国全土で人手不足が起こっています。
なぜ人手不足なのか。実は中国はもぐり企業が
全盛で、正規の企業数とほぼ同数あると言われて
います。政府の統計は正規に登録した企業数を働
く人の数で割りますから、失業者がでてきます。
しかし正規企業と同数のもぐり企業が労働力を
吸収します。政府統計では「失業者がいっぱい」
となりますが、実際には人手不足が起こっていま
す。
②不動産バブルは起きていない
日本のバブルが発生したときは、土地も建物も
70
●第11分科会●
③建物は余っている
7年前に中国で土地を買いました。その条件に
「2年以内に開発しなければ没収」と書いてあり
ます。中国政府の土地売買フォームです。3年間
寝かせておいたら、「開発していないですね。没
収します」と言われました。さて、どうやって切
り抜けるか。そこで「半分は返します。残り半分
は建物を建てますから、没収ではなくお金を返し
てください」と交渉し、そのお金で建物を建てま
した。
発想を切り替えて、この建物を貸し出そうと考
えました。しかし 1000 ㎡、月 30 万円でも借りる
人がいない。最後は「ただでもいい」としました
が、それでもいない。ある時、ふと考えました。
「これ、私だけではないのでは。土地ころがしを
しようと思って買った人は、みんな建物を建てさ
せられたのでは」と。そこで、夜に車を走らせて、
あちこちの工場を見て回りました。どこも電気が
ついていません。残業していないのです。つまり
空き工場なのです。中国で建物が必要なら安く借
りてください。いっぱいあります。
その次に政府の言ってくることは予想できま
す。「この建物は稼働していない。これは開発と
はいわない、没収」です。だから早く売らないと
だめだと考え、昨年、売りました。結果、買った
ときの2倍で売れましたが7年もっていて2倍
の金額ですから、これをバブルとは言いません。
つまり、中国の土地は売りにくいし、買いにくい。
よってバブルは起きにくいのです。
って見にいきます。
1万人の暴動と報道されたとすると、その発端
は 10 人から 100 人くらい、理由も交通処理のま
ずさや土地騒動やストライキ、といった具合です。
後は野次馬です。それで1万人集まります。その
野次馬が石を投げる、パトカーを倒す、といった
行動に出ますから、それで「暴動」となるわけで
す。暴動になる原因と結果はまったく違うという
ことです。
以上のようにマスコミ報道を真正面から信じ
ていると間違います。こうした報道を鵜呑みにし
て中国への進出、ビジネス展開を検討することは
大変危険なことです。
海外展開の経験より
①ヒト・モノ・カネがそろった
1990 年にはじめて中国の武漢に進出した時は、
様々な条件がそろいました。
まず「人」です。人は 100 人募集したら 1000
「中国の外貨準備高が世界一」は間違いで、ト
人が応募して来ました。どれだけでも来ましたか
リックがあります。日本で外国と取引されている
ら人は心配いりません。25 名でスタートしました
方はご存知ですが、入ってきた外貨は預金してお
が、5年間で 10,000 名までになりました。 次
いて、いつでも外貨で引き出せますね。中国では
に「金」ですが、これは円高による為替差益で倍々
ちがうのです。すべての企業で、外貨が入ってき
になりました。進出当初は中国で稼いだお金は持
たら強制的に人民元に交換させられ、外貨はすべ
ち出せませんでしたが、途中から持ち出し可能に
て政府の外貨管理局に召し上げられます。しかも、 なりました。しかも、みなし外国税額控除のため
中国で外貨の6割を稼いでいるのは外資系企業
税金を払わなくて済みました。
なのです。
このように 1990 年から 95 年の5年間に中国進
資本が自由化になり景気が後退すれば、外貨は
出した企業は、こうした環境で儲けたのです。し
いっせいに中国から逃避するでしょう。だから
かし、それを見て後から進出した企業は、円安と
「中国の外貨準備高が世界一」はうそです。その
人民元高の逆風で、ほとんど撤退です。こういう
中身は砂上の楼閣でしょう。
情勢変化をしっかりみておかないといけません。
④中国の外貨準備高は外資のもの
⑤1万人の暴動の実態
②海外展開はハイリスク・ハイリターン
私は日本の新聞、中国の新聞やネットの情報を
いち早くつかんで、面白そうなことを現地に見に
行きます。先程お話したように、特に暴動にしぼ
海外ビジネスは「当たるも八卦、当たらぬも八
卦」です。外部環境がしょっちゅう変わります。
いかに戦略的に物事を描くことができ、戦術に長
71
●第11分科会●
けていたとしても、アゲインストの風が吹けば一
気に倒産しますし、逆にフォローの風が吹けば成
功します。こうした側面があります。これは中国
に限ったことではありません。
私は中国を始め、オーストラリア、タイ、韓国
など 10 の工場を建設しました。さらにヨルダン、
マダガスカル、ロシアへの工場調査も行っていま
す。私は経営者であり、技術者ですので、これら
の工場の立ち上げ、調査はすべて私自身が現地に
行って、私一人でやってきました。韓国では零下
25 度の中で、ミャンマーでは 42 度の暑さの中で
がんばり続けてきましたから、「負けない」とい
う自信をもっています。それでも、これまでの体
験からいえることは、海外展開は「成功するとき
はたまたま成功する、ほとんどは失敗する」とい
うことです。私自身の経験から言えば「1勝9敗」
です。通貨危機、政情不安定、テロなど、いつ情
勢が変化するか分かりません。ハイリスク、ハイ
リターンの世界だということです。
がリスクヘッジのいちばん確実な方法です。会社
を買ってくれる人がいるうちに、会社に買ってく
れる価値があるうちに、買い手を見つけることで
す。
これまでの海外の工場は、すべて私自身が独自
の資本で立ち上げました。また撤退した工場はす
べて売却し、1社も倒産させませんでした。始め
るのも終わらせるのも自分自身で責任をもって
行うことです。
生産拠点としての現状
①品質保証は困難
中国は人手不足状態ですから、働くところはい
っぱいあります。こういう状況でストライキを打
っていきますから、経営者側に勝ち目はありませ
ん。特に、中国へ工場進出を考えている方で、こ
れまでにストライキの経験がない方は、止めたほ
うが良いでしょう。私はストライキを受けた経験
がありますし、経営者側としてロックアウトもや
りました。今、中国でロックアウトをすると、新
たに募集しても誰もきません。また一ヶ所に集中
してストライキを行うのではなく、持ち回りスト
を行い、周辺一帯の工場での賃上げを行っていき
ます。
品質向上も望めません。人手不足ですから、同
じところで一生懸命努力しなくても、より賃金の
高い所へ移っていくのです。当社でもかつて1万
人の従業員がいましたが、現在は3千人です。解
雇したわけではありません。
このように人材が定着しませんから、現在はど
この工場でも品質低下に頭を悩ませています。こ
れからさらに品質は低下するでしょう。当社でも
一番品質が良かったのは 10 年前です。
当社のある合弁会社で、合弁相手の政府の役人
と話していると「小島さん、工場をやめて老人ホ
ームをやってはどうですか」と話されました。で
すから今、介護の勉強をしています。中国政府も
労働集約型産業はもう伸びないだろうと予測し
ています。
③撤退しやすく始める
こうした経験から、海外のビジネスは「初めか
ら辞めることを前提に組み立てる、できるだけ辞
めやすく作っておく」ことです。中国で夜逃げが
あるのは、会社は作りやすいのですが、様々な法
律があって辞めにくいからです。
合弁であろうと独資であろうと、仕事をするの
は現地の人ですから、その人たちにいい加減な夢
を語らないことです。あまり大ボラをふいている
と、いざという時に「仕事は、生活は、給与は」
と経営者として責任を取らなければなりません
から、辞めることができません。最初から「私と
やってもあまり儲かりませんよ、これまでの経験
から、いざとなったら撤退するよ」と話して、
「そ
ういう事業でもやろう、それでも私を見込んでや
りたい」という自立的なパートナーを見つけるこ
とです。
また皆さんは経営者ですから、事業が下り坂に
なっていく時は察知しますよね。こうした時に会
社を売るという選択を考えておくことです。これ
②中国からの撤退が始まっている
これは「自慢話」と取らないで聞いてください。
当社は百貨店のアパレルから製品を加工賃で受
注し、中国で縫製して日本に納めますが、その加
工賃が若干高くなりました。中国での加工賃では
ありません。受注する際の加工賃です。仕事はど
んどん入ってきます。納期もできた時に納めます
といっていますが、これでも受注できます。なぜ
72
●第11分科会●
か。他に受ける工場がなくなったのです。
実は中国の国営・民営工場はすべて中国の内需
に向きました。中国の内需を手掛けたほうが、日
本の仕事よりよっぽど良いのです。繊維はいちば
ん儲からない商売ですから、こうした傾向がいち
ばん早く現れます。おそらく今後、皆さんの業界
でも同じ傾向が現れるのではないかと思われま
す。
当社も来年の旧正月をすぎれば2、3割は従業
員が減っているでしょう。こうした事態を予測し、
バングラデシュのダッカに工場を作りました。お
手元に小島衣料の海外展開の沿革を添付しまし
た。かつて、私は東アジアを中心に、様々な所に
工場を作ってきました。これ以上展開先はないか
と思いましたが、バングラデシュに工場を立ち上
げました。もう、こちらへ行くしかないと思った
からです。
バングラデシュでの工場建設に際し、ミャンマ
ー、ジャカルタ、ダッカ、コロンボと回ってきま
した。驚くことに、行く先々で当社のお客様とバ
ッティングしました。大手企業を始め、皆、中国
からの撤退を静かに始めているのです。
今後の中国とのビジネス
私の経験から、「中国に工場として進出する場
合」はよく考えられたほうが良いと思います。工
場は立てずに借りて、しかも投資は5年で回収す
るくらいの計画で、「小儲け」なら可能性はある
かもしれません。しかし、どうせ命懸けで中国に
出ていくなら「大儲け」したいでしょう。そうな
ると、先程のお話のように厳しい状況がまってい
ます。
中国で工場を構えることの大変さと比べたら、
国内でさらに努力する、または他の国へ出ていく
ことをお勧めします、というのが私の意見です。
市場としての魅力はあります。中国は今、バブ
ルです。我々はバブル先進国ですから、バブル期
に何が売れたのかを考えれば当たります。だから
売り込むべきです。
粉ミルクの話は有名ですね。ある主婦が自分の
子ども用に、日本製のミルクを日本から買ってい
ました。ある時、中国製の粉ミルクにメラミンが
混ざっていることが問題になったとたん、日本製
の粉ミルクに注目が集まりました。その方がイン
ターネットで日本製の粉ミルクを販売すると、飛
ぶように売れました。このようなチャイナドリー
ムはあります。
私は一時、60 店舗の中国の百貨店に店舗をもっ
ていましたから、市場動向はよく分かります。良
いものならば絶対売れます。健康志向、安全志向、
日本で飛ぶように売れるものならば、前金で売れ
ます。売れ残るのは良いものではないからです。
いずれにしても、工場として進出するのか、市
場として売り込むのか、皆さん個々人の腕にかか
っています。中国の現地にしっかり入り込んで、
華僑とわたりあえる「和僑」となる気構えで臨む
ことが大切だと思います。
【第12分科会スタッフ】
○室
長
藤田 彰男(熱田地区)
赤津機械(株)・代表取締役
○座 長 山田 正平(西地区)
(株)飛球商会・代表取締役
○グループ長
石川 雄穂(三河第2青年同友会)
岩田 佳子(西地区)
加藤 孝治(中区南地区)
小山 邦彦(港地区)
酒井 重臣(稲沢地区)
東
孝 一(東地区)
前 田
修(西尾・幡豆地区)
渡 辺
毅(愛北地区)
○記
録
多田
直之(愛知同友会事務局次長)
(ライトアップされた夜のアトリウム)
73
⑫分科会
第
<市場・顧客および自社の理解と対応>
新たなマーケットとして世界を見よう
∼
報告者
助言者
誰でもできる!
グローバリゼーション
∼
魚谷 禮保氏
大阪ウェルディング工業(株) 取締役社長
森
靖 雄氏
愛知東邦大学地域創造研究所 顧問
今、世界では、新たな市場が日々生まれ拡
大しています。グローバル化が進むなか、同
友会の中小企業憲章草案にあるように「アジ
アとの共生」
「日本の伝統と長所に見直し」の
重要性は今後ますます高まってきます。中小
企業だからといって、世界の動きを無視する
ことはできません。今の世界には私たち中小
企業にとっても、新たな道やチャンスがある
のかもしれません。この分科会では、海外展
開を特別なものではなく、身近なこととして
前向きに考え、今後の経営判断に活かします。
報告:魚谷 禮保氏
大阪ウェルディング工業(株)
取締役社長
【会社概要】
創 業/1962年
資本金/3000万円
社員数/70名
事業内容
/耐摩耗・耐腐食・耐熱
金属表面改質、精密機
械加工
http://www.osakawel.co.jp/
なんで中国?
中国での仕事はじめは、ポンプに使う「スリー
ブ」という小さな部品の試作でした。現在では、
これが日本円にして年間 8,000 万円ほどの仕事量
になっております。
次に、自動車のベアリング加工用のカッターを
手掛けるようになりました。ベアリング鋼を 1000
度以上に熱すると少しやわらかくなります。それ
74
を1分間に 100 個以上カットするカッターです。
実はここに挙げた製品は2つとも日本で作って
いたら「骨まで削ってもまだコストダウンさせら
れなあかん」という状態の製品です。要するに「本
当はもうやめたいんだけど、色々といきさつがあ
ってやめられない」というたぐいの製品です。
当社も、あるお客様から年間千数百万円の注文
をもらっていたものが、バブル崩壊後、4∼5年
の間に 300 万円ぐらいに、本当にザルから水が漏
れるようにどんどん減っていきました。そんな状
況のなか、お得意先へ行くとこんなことを言われ
ました。
「コストを下げないかんから、申しわけないけ
ど、これからは安いところで作るんだ。」
日本ではバブル崩壊以降、どんどん、どんどん
安いものを好むようになりました。そういったな
かで、これまで通りに国内で作った製品というの
は、今のコスト感覚にはそぐわないものとなって
しまいました。そこで世界に目を向けてアジアだ
とか中東だとか、そういうところに持っていって
売ろうとしたときには、台湾、韓国、ヨーロッパ
に阻まれてなかなか売れないわけです。今でもや
っぱり日本製品のブランド力はすごいものがあ
るのですが、どうしてもコストが高くなると売れ
ない大きな原因です。
韓国や中国へ行ったり、日本国内であっても家
内工業的にやっているようなところに持ってい
ったりするなど、安くできるところへどんどん
●第12分科会●
我々の仕事が流れて行っているという実態があ
ったわけです。
今でもこういうことは留まることなく行なわ
れていると思います。ですが「ただ指をくわえて
見ているだけでは、何ぼ一生懸命に上を向いて走
っても、底から漏れていくのはなかなか止められ
ない、なんとかせんとあかん」とつくづく思い、
国内ではコストが高すぎて対応できないような
製品を上海で挑戦しようと思い立ったわけです。
中国は仕事の
中国で人気が出る理由
山
当社は産業用消耗部品を広範囲に作っていま
す。中国へ進出して 10 年たつなかで、あれもこ
れも「現地で安く」という需要が増えてきました。
ここでは当社が中国進出以降手掛けた仕事をい
くつか紹介したいと思います。
産業用機械部品の一つで「刃物」の依頼が来ま
した。日本ではコストが合わないけれども、200
個もやれば中国人なら 10 人か 20 人が暮らせるよ
うな、非常に付加価値の高い仕事です。最初5個
か 10 個の試作品からスタートしました。現在は
1カ月に 1500 個ほど、年間では1億円を超える
生産量になっています。
これに続くかたちで、掘削機のシリンダーの依
頼が来ました。私たちは掘削機は見たことはあっ
ても作ったことはありませんでした。
ですが、まずは当社の滋賀工場(マザー工場)
でやってみよう、ということで取り組みを始めま
した。依頼では、上海でやってくれという話でし
たから、まず滋賀工場でやってみて、もしできた
らそのマニュアルで上海でも作ろうと考えて、20
個を2カ月ぐらいで作ってみました。するとメー
カーも安心して、
「それだったら上海でやっても、
マザー工場が指導すればできるな」ということで
発注を頂きました。中国ではなかなか難しく、2
個試作を作るのに8カ月かかりましたが、そのと
きには損益分岐点を越えていましたから、どうせ
日本で作ったものは売れないのだったら、中国で
作って売れるものにしようというつもりでした
ので、粘り強く取り組んでおりました。そうする
と、2008 年には年間 1000 台を売って2億数千万
円の売り上げとなりました。
こういった例は、きっと氷山の一角だと思いま
すし、きっとこれから先はこれまで以上に、後を
追っかけて追っかけてコストダウンを迫られる
製品がどんどん出てくると思います。それに伴い、
これからはもっとそういった製品を狙ってコス
トの安い国で作る、ということがますます増えて
くるのではないでしょうか。
75
実際、海外へ注文したときには、ローカルの会
社からは不良品がたくさん送られてきます。100
個作ったら 10 個も 20 個も不良品があるのは普通
です。意外に思われるかもしれませんが、実はこ
こが日本の企業が中国へ行く一つのポイントに
なります。
当社では、たとえ中国で製造しても、不良品は
水際でとめようと、全数検査して良品だけを日本
へ送る努力をしていますし、納期もきちっと守っ
ていくようにしています。こういったことは、日
本の中小企業にとってみれば当たり前のことか
もしれません。ですが、海外、こと中国では大き
な強みとなりました。当社の場合もメーカーに大
変喜ばれ、あちこちの安い企業へ出していた発注
を、当社へ集約してくれるようになりました。
当社の中国工場で行なっている検査は、全数検
査です。機械部品というのはシャフトにはめたり
するので、100 分の1ミリとか2ミリとかいう、
ほんの少しのひっかかりがあったりしても、シャ
フトに傷を付けたり、入らなかったりする問題が
起こります。そこで中国工場では女性が全部手で
検査をしています。人間の手というものは 100 分
の1ミリを察知できますから、もし不具合が発生
しても、それを察知して取り除くことができます。
このように、日本の感覚に合った製品を出荷す
ることを徹底しております。その結果、上海から
送っている製品は、メーカーからも「もう検査は
必要ないよ」と言われるところまで信用を得るこ
とができました。こういう仕事のやり方をやって
いると、今年は別のポンプメーカーから年間
3,000 万円ぐらいの契約で受注が決まりました。
中国から仕事が回ってくる!
意外かもしれませんが、企業が中国へ進出する
際、汚水処理の問題は日本よりうるさく言われま
す。中国へ進出する上でクリアしなければならな
い課題ですから、進出企業も真面目に汚水処理に
取り組みます。汚水処理には水の中のリンとか窒
素とか、栄養価の高い部分を取り除く遠心分離機
が必要になりますので、進出してくる企業はみん
な遠心分離機を持って来ます。そうすると、ある
程度使った遠心分離機はメンテナンスが必要に
なります。ある日、その仕事が当社に持ち込まれ
てきました。
日本へ送ってメンテナンスをすると1カ月以
上かかります。一方、中国にいる私たちがやれば、
物によったら3日でできてしまいます。例えば金
●第12分科会●
今年になってからはコストも大体見えてきま
したし、メーカーにも自信を持って頂けたようで
す。こういった積み重ねの結果、カナダで 200 台
受注できるところまできました。ですが、実際は
200 台受注しても、我々の上海工場だけではでき
ませんから、メーカーさんの協力工場の仕事につ
なげています。言い換えれば、国外に出たことで、
これまで出ていく一方だった仕事を、国内へ呼び
戻す現象が起こっているのです。
曜日の朝に来たメンテナンスを、土曜日・日曜日
を全部返上して月曜日に出荷する、そういう体制
でやったこともありました。実はこれにはパフォ
ーマンス的意味合いもありまして、「中国人でや
って、これだけ早くできるよ、安心してください」
と、メーカーにそういうところを見せたわけです。
あるとき、1億数千万円の遠心分離機が中国へ
納まりました。安くやろうとするためにインドで
作ったりした部品を中国へ納めようとしたわけ
ですけども、組み上げてみたら部品がうまくでき
ていない。代替品を日本でつくったら3週間では
とてもできない、そんな相談が来ました。
当社では、この問題に日本と上海の両方の工場
で取り組みをスタートさせました。どうして両方
でやったのかというと、もし納期が遅れたら数千
万のペナルティがメーカーにかかってしまう、と
いう大きな問題があったからです。僕の提案で上
海と日本の両方で取り組み、もし上海の工場でう
まくできれば、そちらの部品を製品に組み込んで
いく段取りをとりました。実際、ふたを開けてみ
れば、上海の工場では1週間でできてしまいまし
た。一方その時の日本の状況は、やっと材料が入
手されただけでした。
そうして無事ペナルティをメーカーが免れて、
これが重役会議の中で大変話題になったようで
す。ある時私が呼ばれて伺った時に、こう提案し
ました。
「もう遠心分離機自体を中国で作りましょう。
最初は作るのに時間はかかるけど、中国で作らな
いと、コストが合わないでしょう。」
最初の2台を作るのに1年かけました。僕も遠
心分離機ってどんな構造か知らなかったのです
けど、メーカーと一緒ですから、図面さえあれば
部品を作るのは問題ない。そういったなかで、日
本ではふつう考えられないようなことが起こり
ました。発注元のメーカーが、当社の上海工場の
中に組み上げ用の工場を作るというのです。普通
ではなかなかこんなことはないと思いますが、こ
れも中国だから、ということでしょうか。そうや
って取り組みを続けた結果、現在では 120 台目を
作るところまでこぎつけています。
76
日本の中小企業が世界へ出ると…
中国で「コストは安い、でも水準は日本」とい
うものを作り出したら、中国の市場だけではなく
世界へ売れていく、これは当然だと思います。中
国では安過ぎるけれど、カナダだったらもう少し
高くても、日本企業の信用ある製品に対する需要
はまだまだあるということだと思います。こうい
うように当社では、中国で作ったものを中国で売
ることを目指していますが、その前段として今回
みたいにカナダで売れたり、あるいは中東やイン
ドで売れたりというような現象が起こってくる
わけです。
これが僕の新ビジネスモデルです。整理すると、
1番目は、重要部品は日本のメーカーで作ります。
いわば頭脳部分です。2番目は、日本品質で中国
コストの製品を当社の工場で作ります。ここで
80%くらい作ります。3番目は、足回りやカバー
といった部分を中国のローカルで作ります。そし
て、4番目が、組み立てです。これはメーカーが
当社の工場の中へ作った工場で行います。その上
で製品の良し悪しを確かめて市場へ出していく、
と、こういう段取りでやっています。この取り組
みは、最初は1機種で始まったんですけど、だん
だん力がついて、今は数機種を手がけてやろうと
しています。
こうして取り組んできた結果、日本、中国、中
東、インド、東南アジアへと、2008 年は掘削機を
1000 台作りました。また、遠心分離機は作り始め
て4年目にあたる 2010 年に 200 機の受注につな
がっています。
こういうことを話すと「中国へ進出して安いも
のを作るから、日本がどんどん空洞化するじゃな
いか」とよく言われました。でも私自身はむしろ
「そんな近視眼的な物の見方では日本はつぶれ
るぞ」と思っています。金のない人に高い物を「良
いから買え」と言ったって、買えないでしょう。
売るためには、私たちが努力して売れるところま
でコストを下げていかないと売れないじゃない
ですか。僕は日本でじっとしていたら本当に空洞
化してしまうけれども、海外へ出て「売れる製品」
●第12分科会●
つまり「コストの安い日本製品」を作っていった
ら、先ほどもお話したように日本の協力会社も忙
しくなってきます。そして、その相乗効果で当社
の上海の方も忙しくなります。これこそ空洞化を
防止する対策じゃないかと僕は考えています。
これに関して、仮に中小企業 100 社のうち、2
社か3社が中国とかアジアへ出て活躍したら、日
本経済に随分と潤いが出るのではいかな、と考え
ております。日本には 500 万社ありますから、15
万社ぐらいが出る計算になります。そう考えると、
少し実感を持って頂けるのではないでしょうか。
アジアのなかで、私たち日本の中小企業が持っ
ている基盤技術やノウハウは大変貴重なもので
す。事実、今回のことでも中国の人たちだけに作
らせたら、10 年かかっても日本のように精密で複
雑なものは完成できないでしょう。つまり、私た
ち中小企業が海外に行くことは、その製品に魂を
入れることだと僕は思っています。要所要所をき
ちっとチェックして、コストは安いけれども、日
本ブランドの顔を汚さないような良いものを、中
国をはじめとした多くの人の手を借りて作り、世
界に売り出していくのです。そういうふうにすれ
ば、今回のように私の会社とメーカーと日本の工
場だけでなく、今までの協力会社もみんな忙しい
状態に持っていけるのではないか、ということを
皆さんにも考えて頂きたいと思っております。
小さく作って、大きく育てる
では、どのくらいの会社を作ったらいいのでし
ょうか。失敗した企業を見ていると、何億円も ド
ン とつぎ込んでいるように思います。私たち中
小企業が、そんな大きいお金を出すことはとても
できませんし、たとえできたとしても、大変リス
キーな、ある意味 博打 と言えるでしょう。
私の場合は「減価償却」という考え方を重視して
います。日本の中小企業にも機械の償却部分があ
りますよね。まずは償却分を投資していけば安全
だと思います。
また私のところでは、月別の損益分起点を次の
ように決めております。
新しい会社を作った東営市を基準にした家賃
では、1000 平米(300 坪)で家賃が 10 万円、平
均賃金が3万 6,000 円ですので人件費は 15 人で
54 万円、鋼材材料費が 50 万円、それから、電気・
水道・電話料金が5万円、輸送交通費が 15 万円、
その他5万円、合計 140 万円足らずです。日本人
の渡航費や給料等はこの損益分岐点を超えて黒
字になるまで日本側のマザー工場が子供を育て
る意味で負担します。こんな小さな損益分起点で
やりますから、多少時間がかかっても、本体の工
場がものすごく痛いというものでもないわけで
す。
そして、このくらいでやりますと、操業して8
カ月ぐらいで黒字になっていきます。この8カ月
の間というのは、中国工場が世界に出せる製品を
作るための訓練期間ともいえます。そして、この
損益分岐点を超えたら、もうつぶれることは絶対
ないんです。ここから快進撃に入っていきます。
なぜ中国ではこういう計算ができるのか、と言
いますと、日本の企業が計画した物づくりを完全
に引き受けて立派なものを作る能力のある会社
が中国にはまだできていないのです。ここ十数年
の間に 4200 万社という膨大な企業ができていま
す。本当に雨後のタケノコのようにできています
けども、日本のメーカーの製品を請けて、しっか
りやれるようなところは、まだごく少数しかでき
ていません。ですから、私たちが行って、要所要
所を押さえてチェックして向こうの職人さんを
指導すれば、中国でも十分、世界基準のものづく
りはできるようになります。10 年間で三つの現地
法人をつくり、軌道に乗せてきました。当社はこ
こまできました。ここから先は、若い人たちに腕
をふるって頂きたいと思っています。いろいろと
四苦八苦することもあるとは思いますが、そうや
って会社を大きくしていくと、本当に足腰の強い
会社になっていってくれると思っています。
皆さん、どうでしょう。損益分起点は 140 万円
ぐらい。今、ご自分で作っている仕事で「採算が
合いませんよ」「そんなに複雑な仕事ではないで
すよ」というようなものを持っている会社は、中
国に会社を作っても大丈夫です。中国人はよく働
きます。ぜひそういう会社はスタートして欲しい
と思います。ボツボツやって、物ができるように
なったら、ほかの会社から引き合いがあります。
中小企業団地構想
ところが、出たいけども、なかなか怖くて、ど
うしていいかわからないという会社はいっぱい
あります。そこで、僕が提案しているのは「もし
77
●第12分科会●
中国へ持って行ける仕事が 150 万円ぐらいあった
ら、おたくの償却費を突っ込んで、スタートしま
せんか」というものです。また、初めのころは当
社の設備、体制も使って、しばらく一緒にやって、
目途がついたら独立してやっていく、あるいは協
力関係をつくってやっていく、というやり方もご
提案しています。
本(安部春之・魚谷禮保共著[2010]「中小製造業
の中国進出はこうありたい」日刊工業新聞社)には、
「ここで中小企業の日本工業園をつくって、それ
ぞれ足りない分を補い合ってやっていけば、非常
に集客力を持って、発展の道がまた開けるんじゃ
ないかな」ということを書かせてもらっています。
中国で企業をやろうと思ったら、何か一つ、ま
とまっていくためのものが必要です。日本人と中
国では常識が真っ逆さまです。向こうは社会主義
ですから、国家主権です。国家が計画して命令し
ます。日本は主権在民ですから、社会制度が全然
違う。文化も違いますし、食品も違います。そう
いうところへ行くので、中国人と日本人がほんと
うに結束して会社を発展させるためには辛抱が
必要です、結束する辛抱ともいえるでしょう。
「信頼の和を広げ 豊かな職場を作ろう」
これが理念です。僕のところには実を言うと 17
カ条ありますけど、全部を一々説明したって、誰
も頭に入りません。そこで、
「信頼の輪を広げ 豊
かな職場を作ろう」というように、非常に簡潔な
形にしました。全体がまとまるためのいわゆる
スローガン です。
偶然ですが、先ほどの宮 社長の講演にもあり
ましたように、当社も3つの実践項目を上げてお
ります。
一つ目が社会貢献度の高い物づくりをやろう
ということです。今、中国は国策として 2020 年
までに 13 億の人々を少し豊かにしよう、という
大きな柱を掲げています。当社も工場をつくって、
農村から来た人たちの収入―中国では相当の額
になりますが―を保証できていると考えていま
す。
製造業なら、社会貢献度の高い物づくりをする
のは当然ですが、同時に中国の国策を満たしてい
くようなことをやっていこうと考えています。
二つ目は、顧客満足度の追求です。先ほどから
言っていますように、お客様が世界で戦っている
のに、私たちだけが「日本はコストが高いから、
給料を払わないけないから、そんな安いものはで
きませんよ」これでは顧客満足ではないですよね。
メーカーと一緒になって、世界で戦えるものを作
っていくことが、商売をする上では大切ではない
78
でしょうか。そうすると、さっきのような広がり
ができていくわけです。
三つ目は、利益を調和よく配分することです。
中国が掲げる第1の国策に貢献しようと思えば、
当社も含めた会社が規模を拡大して、中国にまだ
何千万人もいる失業者の受け皿が必要ですし、同
時に社員の生活の安定と向上を図っていかねば
なりません。これを調和よくやっていこうという
ことです。
こういったことを、ことあるごとに社員の前で、
繰り返し繰り返し話しています。人を一人雇うた
びに、「おれは約束する、自分さえ儲けたらいい
という考えは一切ない」ということを話します。
色々なことがありますが、めげずに、粘り強く、
繰り返し繰り返しやっているうちに、やがて結束
につながっていきます。
中国情勢の本当のところ
ところで、中国の人たちは日本をどう見ている
と思いますか。最近ではあまり良い噂を聞かれて
いないと思います。きっと、ネガティブな印象を
皆さんお持ちなのではないでしょうか。
例を挙げましょう。愛知県といえば、やはりト
ヨタが有名です。皆さんのなかにもトヨタの仕事
をされている方がいらっしゃると思います。では、
中国の人たちはトヨタをどういうふうに言って
いるかと言いますと、率直に言って大変良い印象
です。
実は、中国には豊田佐吉の銅像が立っている工
場があります。そのくらい歓迎しているのです。
これを手本にして「中国のトヨタ」を作れと号令
しているんです。実際はそう簡単にできませんが、
追いつけ追い越せで、取り組みをどんどん進めて
います。この間、浙江省のあるしっかりした自動
車会社に日本円に換算して中国政府から 620 億が
出されました。「中国のトヨタ」を作れ、という
わけです。
日本は高度成長し、近代国家を作りました。そ
して日本人は勤勉で、自律性が高い、そして、切
●第12分科会●
磋琢磨して技術力の高い製品を生みだす国だ、と
いうのが大多数の中国人の感覚です。
今、尖閣列島の問題で騒いでいるのは、ほんの
わずかな人間だと思います。そのわずかな人間が
やっていることをバンバン報道して、日本人に実
際の中国を知らせることを阻んでいるのです。他
方で、大多数の中国人が前向きに考えて、日本人
と一緒にやろうとしていることは一つも報道さ
れません。こういった情報に踊らされていては、
中国進出はできません。
実態は行ったら分かります。日本を本当に尊敬
しています。小さな日本が、急成長し近代国家を
作った、これがアジアの印象であり目標です。私
たちが、かつてアメリカやヨーロッパへ向かって
走ったように、アジアは今、日本に向かって走っ
ているわけです。
今、中国の姿を見て迷っている人は、中国を少し
違ったスタンスから見直して、本当の中国を知っ
て欲しいと思います。
中小企業は
自覚
と
自信
グローバル化するか?しないか?
は 時代遅れ
を!
私は、日本の中小企業が、本当に 100 社のうち2
社か3社ぐらい東南アジアもしくは中国に進出
すれば、このアジアの技術水準を一変させてしま
うと思っています。
中小企業がしっかりしないと、技術はしっかり
しません。大企業がやったら、自動車はうまいこ
とできても、人間の生活を豊かにする産業機械全
般で見てみると、それは国のすみずみまで活躍し
ている中小企業がいなかったらできません。だか
ら、私たち中小企業が、自覚や自信を持ってアジ
アの大舞台で活躍する時代が、まさに 今 なの
だと思います。
助言:森 靖雄氏
愛知東邦大学地域創造研究所
顧問
1935 年生まれ。
1958 年。愛知大学法経学部卒業。
同大学経済学研究所および法
学研究所修了。地場産業振興
の研究で中小企業庁長官賞を
受賞。
1984 年から日本福祉大学経済学
部教授、
2001 年から愛知東邦大学経済学
部教授・学部長、
2009 年から現職。
79
はじめにお断りしておきますが、この分科会は
決して海外進出をあおっているわけではありま
せんので、誤解なさらないよう、お願いいたしま
す。
なぜ、私がこんなお断りをするかと申しますと、
「グローバリゼーション」と言うと、海外進出の
ことだ、あるいは、海外と取引することだ、と理
解なさっている方が、まだかなりいらっしゃるよ
うに思われるからです。
「日本がグローバリゼーションの波に巻き込ま
れる」と言われ始めた 1980 年代からすでに 30 年
経ちます。この 30 年の経過を考えると「わが社
はグローバリゼーションに参加するか、参加しな
いか」というような発想自体が、すでに 30 年ほ
ども時代遅れだということを、まず知って頂きた
いと思います。
皆さんも感じていらっしゃるように、今、日本
は商売が大変やりにくい国になっています。主要
な原因は、海外から安い製品がどんどん入ってい
るからでしょ?国内市場がすでに完全にグロー
バル化したからなんですよね。経営者はそれぞれ
一生懸命に会社を営んでいらっしゃるのに、なぜ
やりにくいのでしょうか。答えは、日本はすでに
グローバル化してしまっているのに、自分は グ
ローバル化とは違うところ で商売をしようとし
ている方がまだ随分いらっしゃるからです。
確かにグローバル化というのは、一つは日本の
企業が、取引の相手を国内に限らないで世界を目
指して商売をすることです。これは確かにグロー
バル化の一つの動きではあります。ところが、こ
ういう動きは日本だけが目指すとか、目指さない
という問題ではありません。ご存知の通り、すで
に海外の企業が日本に随分入ってきています。特
にここ2∼3年で目立ってきているのは、韓国の
企業や中国の企業です。日本の企業や、最近では
山林や原野を買い占め始めています。こういった
動きは、まさに「日本が否応なしに、グローバル
化してしまっている」ことを象徴する出来事です。
そんななかでグローバル化「する、しない」とい
うのは、全く世界の流れからかけ離れた論議だと
は思われませんか。
初めに申し上げたように、この分科会は決して
海外進出をあおっているわけではありません。む
しろ、海外進出を特別な目で見るような感覚自体
が時代と大きく隔たっており、経営者はまずその
視点を転換しなければならない、ということをお
伝えしたいのです。
●第12分科会●
言葉の壁
解消は簡単
その上で「海外で仕事をするか、しないか」は
一つの選択です。企業経営のグローバル化という
のは日本から「出る、出ない」という二元論で語
り切れるものでないことは先ほど申し上げた通
りです。ですので、仮に海外へ出ないのであれば
「出ずに国内でやっていく方法」を考えればいい
のです。そういう意味で、グローバル化というの
は、決して海外進出だけを指しているのではない
と考えて頂ければ…と思います。
一方、海外と取引する場合や海外へ進出してい
く場合、多くの人がおっしゃるのは「言葉の壁」
です。これについては、魚谷社長の著書のなかに、
通訳を非常に上手く使われている様子が書かれ
ています。非常に優秀な中国人の通訳です。では、
こういった人材を雇うには、中国で探さけなけれ
ばならないのでしょうか。その必要はありません。
国内に目を向けると、毎年数十万人の留学生が
大学を卒業しています。そうした彼・彼女らの就
職先はほとんどが決まっていません。つまり、日
本の言葉や習慣を肌身で学んだ優秀な人材を、日
本の企業はほとんど活用していないのです。
海外と取引をする際、その国で求人することが
まず頭に浮かぶと思います。そんなことはハード
ルが高くて、中小企業ではなかなかできないよう
に思われるかもしれませんが、今の日本では、国
内にいながらにして、非常に簡単に雇用できる環
境になっています。
そうした人たちを活用すれば、たとえ経営者自
身が英語や中国語ができなくても、言葉の壁には
十分に対応できるわけです。
経営者の仕事は
戦略
とです。基調講演の宮 社長もおっしゃっていま
したが、経営者である皆さんの仕事は「戦略を描
くこと」です。戦術は現場に任せればいいのです。
もちろん企業が小さいと任せる人がいないこと
もあって、経営者自身が戦術までやらないといけ
ない場面も少なくないと思います。ですが、少な
くとも経営者が「我が社をどうするのか」という
戦略を描くことなしには、企業の発展は見込めま
せん。「アレでできない、コレでできない」とい
う言い訳をしていても、戦略が描けるわけではあ
りません。むしろ、そういった次々と出てくる課
題を解決する方向を示すのが経営者である皆さ
んの仕事だと思います。
日本を含めた世界が「否応なしにグローバル化
している」という認識を持ち、またグローバル化
のために商売がやりにくくなっているカベを乗
り越えるために、皆さんは経営者として「何をす
るべきか」「何をしなければならないのか」とい
う視点で、それぞれの経営課題に向き合って頂け
れば、と思います。
【第 12 分科会スタッフ】
○座
長
○室
長
○責任者
○グループ長
石田 典子(豊田地区)
大野 伸幸(中村地区)
佐藤 清志(天白地区)
西川 正孝(名古屋第3青年同友会)
平松 孝章(中川地区)
水谷 文昭(西春日井地区)
村田千世子(中区北地区)
山内 一郎(豊田地区)
○実行委員
石 川
徹(安城・知立地区)
清水 由恵(中区北地区)
村田 貴彦(三河第1青年同友会)
安江 哲雄(緑地区)
○記
を描くこと
今日の分科会を通して、私が、経営者である皆
さんに大切にして頂きたいことがあります。それ
は「戦術と戦略をごちゃ混ぜにしない」というこ
80
大 西
徹(刈谷地区)
(株)末広鍍金・代表取締役
山内 俊和(稲沢地区)
(株)山内商会・代表取締役
籠橋 隆明(中村地区)
名古屋E&J法律事務所・代表社員
録
池内
秀樹(愛知同友会事務局員)
⑬分科会
第
<付加価値を高める>
付加価値を創出する戦略経営
∼
新しい炎(市場創造)を見つけるプロセス
報告者
阿久澤 太郎氏
(株)東海製蝋
あなたの会社の商品・サービス・市
場は時代にあっていますか?この分
科会は、危機意識を持ち打開策を模索
している方にお薦めです。それは一発
逆転劇ではなく、100年以上続く老
舗の会社が脈々と続けてきた足跡に
ヒントがあります。歴史に残る灯を創
り出すこと、即ち新しい価値の創造の
ため挑戦し続けているオンリーワン
企業に学びます。
∼
代表取締役
(静岡同友会)
【会社概要】
創 業/1877年
資本金/1000万円
社員数/35名
年 商/7億円
事業内容
/ローソク製造業
http://www.tokai-seiro.co.jp/
私たちの生きがい
創業 133 年の歴史の中で
私たちの生きがいは、私たちがつくった安全で
美しいローソクを通じて神様・仏様にお参りする
人を一人でも増やしていくこと、それによって日
本に固有の価値観を未来につなげていくことで
す。ですから、「神様・仏様に手を合わせないよ
うな世の中にしてはいけない」という想いが東海
製蝋の原動力になっています。その原動力でもあ
り、目標でもあるその想いを実現していくために、
新製品の開発を戦略の核に置いています。その戦
略を実行することによって目標に近づいていけ
る、ということです。
私たちの仕事について、象徴的なことが今年の
夏にあったので紹介します。
8月に出荷場に行ってみると、お線香とローソ
クのセットが 120 セットぐらい、個別に出荷され
る準備ができていました。私たちはメーカーです
から、ケースで問屋に出すことはあっても、個人
のお客様に個別に発送する機会はなかなかあり
ません。不思議に思って調べてみましたら、碧南
市の病院の理事長が、1年間に関連施設で亡くな
られた方 120 数名の方のご遺族に、ローソク・お
線香の進物セットに手紙を添えてお配りになる、
ということが分かりました。
東海製蝋は 1877 年に横浜で創業しました。そ
れまでは油問屋でした。開国が進んで交易が盛ん
になるとともに横浜に船が来る。その船底を照ら
すために、一斗缶に蝋を詰めたローソクのような
ものを最初はつくっていたようです。その後イギ
リスから、モールディングといいまして、パラフ
ィンワックスを型に注いで固め、そこから抜く洋
ローソクというものを日本で初めてつくった会
社です。それが、サンプルとして机の上にある「ダ
ルマローソク」です。「ダルマローソク」は、今
でも一つのブランドとして 44 アイテムあります。
第二次大戦中に工場が戦災で焼けてしまった
ので、富士宮市に疎開してきました。富士宮を選
んだのには理由があります。富士山に 40 年とか
60 年前に降った雨や雪は、伏流水となって富士宮
市に湧き出ています。この水は、年間通じていつ
採っても 14 度と一定です。この 14 度という温度
が非常に大事で、これによってローソクの肌のき
め細かさがつくられます。私たちはこの 14 度の
温度を自然に手に入れることができるのです。
81
●第13分科会●
製造してしまいます。
大切な日本人の価値観
これがお盆前に届きますと、お盆にはローソク
とお線香を供えることができます。それをいただ
いたご遺族の方々は、「こういう温かい環境の中
で故人を看取っていただいた、非常にありがたい
な」という温かい気持ちになれる。そういうもの
がそこにはあると思います。
そんな病院が地域にあり、ご仏壇にローソクを
お供えして御先祖様に感謝しながら生きていく
家庭が増えていく。そんな人々がつくる家庭や地
域社会が幸せでないわけはない。それこそが、私
たちがいちばん大切にしていかなければいけな
い日本人の価値観ではないかなと考えます。
インターネットで調べたところ、その病院の使
命が「人々の人生をより豊かにする」
、理念が「全
従業員の物心両面の幸福を求めると同時に、質の
高い医療と手厚いサービスを通して人々の人生
をより豊かにする」というものでした。経営者と
しても立派な方だと思います。もし私がそれをも
らったら、家族全員が他の病院には行かないので
はないか、と思います。
「すべての人間は同じ存在なんだよ」
そうしていると、会社の中が悪くなっていきま
す。営業には売り上げのために仕事をさせ、製造
には製造目標や効率化のために仕事をさせてし
まったことが原因です。
そこには消費者の存在はありませんでした。あ
るのは、自社の売り上げ、コスト、利益だけです。
製造からも営業からも、東海製蝋での仕事や製品
に対する誇りは徐々に薄れていってしまいまし
た。
本来の理念の意味に気がつくきっかけになっ
たのが、4年前に静岡同友会の富士宮支部の会員
に言われた一言でした。
支部で経営体験の発表をして、従業員との関係
に触れたのだと思います。その時にその方が、
「太
郎君、すべての人間は同じ存在なんだよ」と言っ
てくれました。私はその時、よく意味がわかりま
せんでした。仕事が等しく評価され、給料が上が
って待遇が良くなったり、褒められたりすればい
いじゃないかと。それが「人間としてすべて同じ」
、
という意味に解釈していたのです。しかし、その
言葉がずっと心に残っていまして、「同じ存在っ
てどういうことだろう」と考え続けていました。
理念の本質的な理解
経営理念の中心に据えているのが、「日本の灯
(ともしび)の歴史に残る製品をつくります」と
いうものです。私がこの言葉の本質を理解するこ
とができたのは、ここ2、3年のことです。それ
までは、ここに対する理解が未熟でしたので、起
こってくる事象に対して正しい判断ができませ
んでした。それまで私の解釈では、売れる製品が
市場に残る製品だと思っていました。よって優先
される価値観は売り上げであり利益でした。仕事
に対する社員のモチベーションも、増益によって
可能になる労働条件や環境の改善に尽きる、と勝
手に思い込んでいました。
ですから、本来の仕事をせずに偏った数値管理
ばかりやってしまうわけです。会議のたびに、営
業部門には「この売り上げではまずい」とか、製
造部門には「製造出来高が下がっているから、も
っと効率化を図らなきゃいけない」とか言ってい
るわけです。そうすると、営業は売り上げを作っ
てしまうようになる。例えば、海外製の安価なロ
ーソクと相見積もりになったときに原価を割っ
て受注する、ということをしたりするわけです。
また月末になると、条件をつけて問屋の倉庫に製
品を納めてしまう、などということもでてくる。
これは過度な流通在庫ですから全く動きません。
製造の方にも製造目標がありますから、ノルマに
近づけるためにクオリティよりも数を重視して
社員も矜持を持つ
3年前の夏、ある製品がお盆前によく売れて、
お盆の商戦に間に合わなくなりそうなことがあ
りました。弊社の製品は、機械でもセンサーがチ
ェックしますけれども、最終的に人の目で一本一
本見て検品しています。1日に何万本も目を凝ら
して確認するわけです。
その時、ある現場で私は、検品をしていた社員
に言ってしまいました。「もう十分きれいなもの
ができているし、機械が不良品をはじいているん
だから、検品しなくてこのまま出してもいいんじ
82
●第13分科会●
ゃないか。かわりに、もうちょっと生産を増やし
て欲しい」と。そう言ったら、その社員が顔を真
っ赤にして、目に涙をためてすごく怒りだしまし
た。
「社長はいつも『灯の歴史に残る製品をつくる』
と言っていますし、私たちもこの製品が他の会社
がつくる製品とは違うと思っています。この製品
がお客様のもとに行き、わくわくしながら使って
もらいたい。燭台に差した時に喜んで使ってもら
いたい。それが私たちの想いです。ですから、検
品を甘くするということは絶対にできません」と
言われました。
私は、あの例会で言われたのはこのことだった
のだ、と気がつきました。昇給だとか給料・賞与
というのは経営者の前提で、社員が働くモチベー
ションではありません。私たちが一生懸命働いた
成果である製品が、世の中のため人のために立っ
て、人に喜んでもらいたい、そのために仕事をし
ているのです。それは私も営業も製造もみんな一
緒なのだということに気がついて、いろいろな関
係がクリアになっていきました。
その時に考えたことが、「東海製蝋の仕事とい
うのは、本当は何なんだろうか。この理念の根幹
にあるものは何なんだろうか」ということです。
これはずっと考えていたことなので、すぐに文章
にできました。紹介させていただきます。
ローソクを灯せば日本が変わる
(以下抜粋)
私たちの願いは、1400 年以上前にわが国に伝来
し、日本人のアイデンティティ形成の一翼を担っ
てきた「灯の文化」を、未来永劫に継承していく
ことです。
ローソクを供える。香をたく。家族みんなで手
を合わせて祈る。大いなる神や仏を畏敬し、先祖
に感謝の誠を捧げる。ずっと繰り返されてきたこ
の生活の一片は、悠久の流れの中で私たちの精神
を浄化し続けてきました。そして、礼節を尊び、
寛容や謙譲、矜持を美徳として、真摯に努力する
ことを由とする日本人の価値観を構築してきたの
です。
開国後の日本を訪れた欧米人は、一般庶民のお
互いを気遣う心やホスピタリティの深さに大変驚
いたと記されています。
経済大国にまで発展した日本企業を支えたのは、
系列や年功序列、終身雇用などわが国独自の制度
でしたし、安心して生活できる地域コミュニティ
も、日本人が永い歴史を通じて磨いてきた価値観
の上に築かれてきたのです。
一方、現在の私たちを取り巻く状況に目を移す
と、悲惨な事件が連日紙面を賑わし、学校や職場
83
には陰湿な苛めが蔓延しています。シャッター通
りが象徴する地域経済の崩壊や製造業の国外移転
による産業の空洞化などにより、いま日本は危機
的状況を迎えています。
そして、これらの問題の多くは、これまで大切
に受け継がれてきた価値観が近年、蔑ろにされ
てしまったことに起因するものではないでしょ
うか。自由主義経済の御旗の下に、合理性や経
済性だけが偏重され過ぎてしまった結果の代償
はあまりに大きなものでした。
それ故、私たちが幸せを共有できる社会の実現
は、日本人の価値観に再び思いを馳せ、その礎で
ある文化や習慣、伝統を、子供たちを巻き込みな
がら積極的に取り入れていく運動を展開していく
ことによってのみ可能であると考えます。
私たちの取り組みは、
「良いローソクを安全に供
える」
「線香が使われる」
「神仏具の需要が増える」
「日本の美しい心が伝承される」という流れを、
永久の大河にしていく試みです。実に時間の掛か
る壮大な啓蒙活動ではございますが、業界人とし
てやりがいのある仕事と考えております。皆様の
お力をお貸しくださいますよう伏してお願い申し
上げる次第です。
(抜粋、終)
すべての仕事に誇りを
私たちの製品が世の中にどれだけインパクト
を与えるのか、これを社員みんなが知ることで、
東海製蝋におけるすべての仕事が誇りに満ちた
ものになります。どんな仕事でも、世の中をよく
するということにつながります。
例えば、なぜ私たちの製品がすばらしいもので
ある必要があるのか。これを考えることで、生産
性やクレームの発生率に変化が起こります。なぜ
私たちの製品を一人でも多くの人に使っていた
だく必要があるのか。これを考えた時に初めて、
営業は自分の売り上げの意味を知り、仕事ができ
るのです。すべてのことが目的ではなくて、世の
中を良くしていくという大義のための手段にな
るからです。
●第13分科会●
この理念の根幹というのはそこなのですけれ
ども、これを象徴する製品がここ 10 年ぐらいの
間に幾つかできてきましたので紹介させていた
だきます。
「リュミエール」という製品。8分間で完全燃
焼するローソクです。最大の特徴は、一回で使い
切りのできるサイズと、全てのローソクに均一な
太くて深い穴があいている点です。これによって、
消し忘れなどの心配もなく、お年寄りが燭台に差
したときでも、押し込んで割れてしまうというこ
とがありません。ですから、最後まで安心してき
れいにお使いいただけます。
そして燭台の「もえ」。これはローソクを最後
の1滴まで完全燃焼させる燭台です。たいていの
燭台では、ローソクが燃え切ることは無く、最後
は白く固まって残ってしまいますが、この燭台を
使うとそれが一切ありません。
環境変化と理念を織り交ぜ
なぜこういうローソクと燭台を創ったのかと
いいますと、ローソクをいつまでも使っていただ
き、日本の美しい価値観を未来に継承していくこ
とが、東海製蝋の存在意義だからです。そのため
には、生活環境や社会制度の変化に対応した製品
を開発する必要があります。それは例えば、共働
きの家庭が増えて、ローソクをずっとつけておく
ことができなくなったり、消し忘れが怖くなった
り、危ないからお年寄りにローソクを使わせない
ような傾向も見受けられます。ですから、一回使
い切りで燃え残りの心配もなく、掃除の手間も要
らないローソクを創ったのです。
さらに、住環境が変化しました。マンションが
増え、仏壇も小さくなっていく中で、可燃物であ
る仏壇の中で火を灯すということは、見る人によ
っては怖い。だからローソクを少しでも安全にお
供えしていただけるような燭台を創ったのです。
また、若年層の方々にもローソクを使っていた
だきたいと考えました。今までのように、ダルマ
のパッケージがついた長いローソクでは、若い方
には抵抗があるかもしれません。そこで、この世
代間のギャップをうめるため、パッケージをかわ
いらしいものにしたり、「あかりの宝石」など想
いを製品に込めたり、使う喜びを反映させたもの
を開発しています。
このように、ローソクを使ってもらうために弊
害となっているものを取り除くことが必要です。
これが今すぐに効果があるかというと、そうでは
ありません。これを続けていくことによって、何
年か先に効果が出てくる。ローソクを使う人が増
えてくるのです。
顧客に認められた付加価値
付加価値の話に移ります。例えば、先ほどの「リ
ュミエール」というローソクは、1グラム当たり
の単価が従来型のものと比べて4倍です。
「もえ」
の燭台も、同じ大きさの燭台の5倍から7倍の値
段がついています。
この付加価値というのは、私たちが「この値段
でつくって、この付加価値をつけて買ってもらお
う」と思ったものではありません。長い間かけて
お客様に認めていただいたものなのです。
大手メーカーは価格を戦略の核に据えること
ができますが、中小企業は価格を戦略の核にはで
きません。では、どうしたらいいか。大量に売れ
ないもの、面倒くさいもの、手間がかかるもの、
うまみがないもの、そういうものをわざとつくり
ながら、それを積み重ねていく。そういうことで
しか付加価値は生み出せないのです。
理念に沿っていることはもちろんですが、私た
ちが製品開発において大切にしているポイント
がいくつかあります。まず、「これまでになかっ
た製品」であること。これはさっき言った理念を
実現するための製品ですから、「こういうものを
作れば、理念の実現につながるね」という形で開
発します。それは誰にでも見えるニーズではなく、
理念にもある「小さな隙間でキラキラ輝く」ニー
ズを引っ張り出しながら、それを形にしていくこ
とで実現します。
(リュミエール)
84
●第13分科会●
この時代に生きた証を築く
2番目には、「まねのしにくいこと」です。私
たちは製品・パッケージをつくるにしても、自分
たちで設計、デザインをします。同じようなつく
り方は絶対にしません。新しい製品のパッケージ
も違うやりかたでつくるようにします。こうして
ノウハウを蓄積します。わざと高額な設備投資を
伴う難しいやり方でものをつくります。それらに
よって製品のオリジナリティーは強まり、競合他
社に対する参入障壁は必然的に高いものになり
ます。
3番目に、従業員のみんなに、「積極的に製品
企画に参加してもらう」というものです。「星の
しずく」という製品があります。このパッケージ
にはもともとキタキツネはついていませんでし
たが、事務をやっていた女性が宮沢賢治が好きで、
「どうしてもキツネを入れたい」ということでで
きました。こうすることによって、理念にありま
すように、「私たちがこの時代に生きていた証を
築く」ことになるのです。
私たちの製品は1年や2年で売れるものでは
ありませんが、一度市場に根ざすと長い間使って
いただけます。ですから例えば、結婚した女性社
員が嫁ぎ先の近くの仏壇屋に行った時にこの製
品があったら、「ああ、私がつくった製品だ」と
いうふうになるわけです。
てきます。
最後に、社員、顧客、専門店、消費者、問屋、
みんながかわいがってくれる製品であること、
「期待に沿う製品である」ことです。私たちの製
品は、こうやって長い時間を掛けて積み重ねてき
たので、ありがたいことにみなさんから期待され
ています。その期待に必ず応える製品で無ければ
ならないのです。すぐに売れる製品でなくても、
育てていきたいね、使ってみたいね、広げていき
たいね、という気持ちを呼び起こすような製品で
あること。これらのポイントを全部ミックスして、
魂の込められた製品ができあがり、数年を掛けて
育てていきます。
目先の利益で市場崩壊
ここ 10 年、デフレの時代に入ってから、市場
が短期的な利益を追求するようになっています。
一般的な話ですけれども、短期的な利益の追求と
いうのは、粗利益を優先させる論理に基づいて行
われます。販売価格が安くて、売りやすくて、な
おかつ粗利益が稼げるという商品。まともに考え
ると、そんな商品はないと思いますが、例えば仕
上げをしていない短いローソクを、「お値打ちで
すよ」といって問屋が持ってくるわけです。そう
すると、たくさん入っているということで消費者
に簡単にアピールできます。
事実、半製品のような商品が 10 年前、関西の
一部で出回りました。その後、ローソク・お線香・
仏壇仏具のすべてが売れなくなりました。ローソ
クが途中で割れたり、倒れて火事になりそうにな
ったりして使う人が減ったのです。ローソクを使
わなくなれば、お線香も使わなくなるし、仏具の
買い換え需要もなくなるのは、自然な成り行きで
す。
私たちは理念を込めて製品を紹介するので、
「ローソクなんか火がつけば同じ」というお客様
を怒らせることもあります。だけれども、そうで
はないということを言っていかないと、このよう
に市場が壊れてしまうのです。一度壊れた市場は
製品に物語を詰め込む
次に、「なるべくストーリーをつける」ように
しています。例えば「光源氏」という製品があり
ます。パッケージの正面に「声はせで 身をのみ
焦がす 蛍こそ いふよりまさる 思ひなるら
め」とあります。「源氏物語」の蛍の帖ですけれ
ども、光源氏が薄絹の袋に隠していた蛍をいっせ
いに放って、青白い光の中に玉鬘の美貌と心の動
揺を浮かび上がらせるくだりがあります。この和
歌は、強引なプロポーズを繰り返す兵部卿の宮へ
の玉鬘の返歌で、そんな情景をこの製品には詰め
込んであります。
紫色の芯で、ちょ
うどそのときの蛍
の光がそんな感じ
じゃないかな、と。
この話をつけたこ
とによって、これ
を売っていく営業
社員やお店の方々
は、この製品に対
する気持ちが違っ
85
●第13分科会●
なかなか再生しません。
ですから粗利は低くても、あるいは売るときに
説明が要ってちょっと面倒くさくても、そういう
商品を売って、ローソクを使う人を一人でも増や
していって、そういうところから消費者、顧客、
小売店、問屋、メーカーが利益を長期的に享受で
きる市場というものをつくっていくように方向
転換する時代だと思います。
価値観や文化をつくる
私たちの夢。それは、私たちの製品を扱ってくだ
さった専門店、問屋、使ってくださる消費者、み
んなが自分たちの仕事に誇りを持てるような新
製品を、今後も創り続けていくことです。そうし
た理念の実現です。
今、私たちは何とか耐え忍び生き残っています
けれども、廃業した中小メーカーも含めて私たち
が担っている役割は、ただローソクをつくること
ではありません。日本人が 1400 年の間、大切に
してきた価値観だとか文化をつないでいく媒体
としてローソクをつくっているのです。そういう
産業の一翼を担っている。この、私たちの大切な
思いを残していくためには、それを一緒に育てて
くれる、消費者、専門店、問屋、取引先、社会に
認めていただくための活動をしていく必要があ
ると思っています。
今は専門店の中で市場をつくる活動をしてい
ます。ただ、これはさまざまに変化していくもの
です。その変化に対応したローソクをつくってい
く、市場を選んでいくということが大切です。
【第13分科会スタッフ】
○座
長
○室
長
○責任者
菊谷 勝彦(守山地区)
(株)菊谷生進堂・代表取締役
川瀬 悦子(中村地区)
アピールクリエイト・代表者
伊奈 幸洋(知多青年同友会)
(有)丸安・代表取締役
○グループ長
伊原 多聞(豊田地区)
織田 幸男(熱田地区)
尾林 勝志(緑地区)
籠瀬 茂高(刈谷地区)
加藤 正明(中区南地区)
川田 健仁(知多北部地区)
北 村
誠(瑞穂地区)
島岡 弘征(熱田地区)
楯
正 基(天白地区)
長安 秀和(北地区)
野々部圭樹(稲沢地区)
吉 森
治(千種地区)
生かされていることに感謝
専門店の市場というのは一つの軸足ですけれ
ども、その一方でこういう産業にはこういう価値
観があるとわかれば、心の琴線に触れる出会いも
あるかもしれない。例えば、着物屋でローソクと
かお線香を扱ってみたいとか、和雑貨でこういう
ものを扱って深めてみたいとか、そういうところ
があるかもしれない。ですから、専門店市場に固
執するだけではなくて、そういう新しいところに
も私たちの製品を露出していかなきゃいけない。
専門店向けのローソクがあるということをほと
んどの一般の人は知らないわけですから、ギフト
ショーに出展したりすることで、そういう方に知
っていただく努力をしています。
これからも変化があると思いますけれども、そ
れにあわせて変化していきながらいちばん大事
なところ「ローソクを神様・仏様にお供えいただ
くことで、みんながご先祖様からのつながりの中
で生かされている。仲間たちのつながりの中で生
かされているということを感謝しながら生きて
いく」、そんな社会の実現に微力ながら努めてい
きたいと思います。
○記
86
録
八 田
剛(愛知同友会事務局員)
⑭分科会
第
<付加価値を高める>
自信が生んだ、こだわりの新商品
~
自分が作ったものは、自分で売っていきたい
報告者
秋竹 新吾氏
(株)早和果樹園
新商品は、ある日突然ゼロから生ま
れるものではありません。今ある経営
資源の強みを最大限に発揮すること
で初めて商品化が可能になります。早
和果樹園では、美味しいみかんにとこ
とんこだわった新商品を次々と開発
し、厳しいと言われる第1次産業にあ
って、全国から注目されています。
~
代表取締役
(和歌山同友会)
【会社概要】
創 業/1979年
資本金/6000万円
社員数/31名
年 商/3億7000万円
事業内容
/みかんの生産、共同撰
果、農産加工、出荷販売
など
http://www.sowakajuen.com/
みなさん、
「有田みかん」をご存知でしょうか。
有田みかんは、地域団体商標登録をされています。
今、日本でいちばんみかんの生産量が多いのが和
歌山県で、その和歌山県で生産されるみかん中の
50%以上を占めているのが有田みかんです。
みかんには生理的な周期があり、豊作年(表年)
と、花が少なくて実が付かない裏年とがはっきり
しています。不思議なことに、九州から静岡まで
全国同じように表年と裏年とが表れています。今
年はみかんの「裏年」に当たり、農林水産省から
「全国の生産量は 80 万トンを切って 79 万トン
台」という予測が発表されています。その中で、
有田みかんは8万トン以上の生産量があります。
全国の約1割を占める日本一の大産地で、我々は
そのみかんを生産している生産者でもあり、自ら
生産したみかんを加工・流通・販売にも取り組ん
でいます。
私が就農した昭和 30 年代はみかんの黄金時代
でした。その当時、「みかんが良い」ということ
で国の「果樹振興特別措置法」という政策で、そ
れまでみかんの産地ではなかったところにもみ
かんがたくさん植えられまして、私が就農して5
年後に、みかんの価格が大暴落しました。それま
で 100 万トンまでの生産量だったみかんは、最高
時には 360 万トンが作られました。私はみかんの
良いときに就農しましたが、その直後の大暴落で、
採算が合わない毎年を過ごしていました。今、国
87
は「力強い農業を育てる」という方針ですが、
「作
るだけでは成り立たない」というのが今の農業の
実態ですので、加工によって自分から付加価値を
付けて、そして販売もしていきます。それで、第
1次産業と第2次産業と第3次産業を合わせ、
「1+2+3=6」になりますし、「1×2×3
=6」でもあります。それが、農業の「第6次産
業」化と呼ばれていまして、今、国の施策の一つ
になっています。
一歩前へ踏み出す勇気
有田市はみかん栽培の歴史が 436 年もある、非
常に古くからの産地ですが、後継者が少ないとい
うことで、固い殻につつまれたような独特の雰囲
気があります。
早和果樹園は、昭和 54 年に7戸の農家が集ま
って早和共撰という共同撰果場を設立したこと
を創業としています。それから、私たちはハウス
みかんに取り組みました。それは、みかん農家に
とって安定した収入を得られる栽培方法のひと
つでした。冬にみかんがあふれている状態でも、
加温栽培することによって夏にみかんが採れる
ので、お中元やお盆の需要向けに高く売れました。
加温用の燃料がたくさん必要で、費用もかかりま
したが、それ以上に高く販売できました。露地み
かんでは表年・裏年の差がありますが、栽培の技
●第14分科会●
術が確立してからは毎年、露地みかんの最高時以
上の収穫がありました。それが高値で売れ、売り
上げも安定しましたので、「みかん農家は後継者
が少ない」と言われる状態の中でも、7戸の農家
に4人の後継者ができました。
30 代半ばの4人が「これから一緒に農業に取り
組もう」という姿勢になりましたので、それまで
は7戸の農家が個々に栽培して共撰に集め、市場
に出荷していたものが、次に夢の描ける農業にし
ていこうと、法人化しました。7戸の農家の夫婦
と後継者 17 名が少しずつ出資し、350 万円の出資
金で有限会社を設立しました。その「個々の農家
から組織の農業に変わる」というときに、大きく
考え方が変わりました。固い殻に包まれた農村独
特の考え方から、「一歩前へ踏み出そう」という
勇気が出た法人化だったと思います。
その5年後、東京のアグリビジネス投資育成株
式会社というところから投資していただき、3000
万円の資本金で株式会社へ組織変更しました。現
在は 6000 万円の資本金になっています。社員は
33 名になっています。業務は、みかんの生産と、
共同撰果、それからみかんの加工・販売に取り組
んでいます。
築かれている、非常に非効率な土地で栽培してお
りますが、排水がいいので雨が降ってもすぐに乾
燥し、それが美味しいみかんができる条件になっ
ています。最近は、温暖化の影響で有田でも夏か
ら秋にかけて大雨が降ることが多くなりました。
果実の成熟期に雨が多く降って土が濡れると、味
の薄いみかんになってしまいます。そういう美味
しくないみかんを1年でも出してしまうと、今ま
で美味しいみかんを求めてくれていたお客様が
離れてしまいますので、とにかく早和果樹園は
「美味しいみかんを」ということで、「マルチ栽
培」を行ってきました。
和歌山県が決めた基準で「糖度 12 度以上で、
酸が 1.0 以下」のみかんは「味一みかん」という
高級ブランドで出荷しています。それは、有田み
かんの中でも数%しか発生しないみかんですが、
早和果樹園は「マルチ栽培」によって収穫量全体
の 20%ほどつくれる能力があります。それをさら
に一歩進め、国の試験研究機関が開発した「まる
どりみかん」を採用しました。これは、マルチ栽
培のみかんの木の下にドリップを仕込んで点滴
灌水をする「マルチ・ドリップ栽培」で、最高級
の美味しいみかんが全天候型でつくれる技術で
す。「まるどりみかん」は、超高級小売店である
新宿高野の店頭にも並びます。新宿高野の社長さ
んは早和果樹園の若い社員が新しい技術を習得
し、一生懸命つくる様子を見てくれて、「有田み
かんだから、こんな天候だから美味しいみかんが
できた、というのではなく、生産者が一生懸命つ
くりあげたその心を、私たちはお客様に伝える役
割なのだ」と言ってくれました。
とにかく美味しいみかんを作る
みかんの全盛期は、ロットを競って大量出荷を
する時代でした。ある程度のロットがないと市場
では勝負できない状態でしたが、我々のような7
戸の農家の集まりでは市場シェアやロットとい
う面では歯が立ちませんので、初めから「とにか
く美味しいみかんを売り出すことが我々の存在
価値だ」と考え、みかんの撰果場をやって参りま
した。加工を始めてからも、「とにかく美味しい
みかんを使った加工品をつくっていこう」という
想いだけは創業当時と変わらずにやっています。
みかんの木が吸う水分をコントロールすると
みかんの糖度が上がります。みかんの木の下にシ
ートを敷き、それで水分をコントロールします。
有田みかんは、急峻な山の斜面に石垣で段々畑が
加工して付加価値をつける
有田の隣には、南部・田辺という大きな梅の産
地があり、ここの農家は、「南高梅」という高い
品質の梅を青梅の状態でも出荷していますし、梅
干しに加工もしています。梅干しも青梅もブラン
ドとして確立しています。私たちは美味しいみか
んをつくることばかりを考えてきました。十数年
前になりますが、有田市の中核みかん農家の所得
と、南部町の梅農家の所得とを比較するデ-タを
見る機会があり、年間 1000 万円くらい所得の違
いがありました。それには私も驚きました。
その頃、南部町長の講演を聞く機会がありまし
た。「南部町と田辺市には梅の加工会社が 200 社
くらいあり、特産の梅が町内をぐるぐると回って
付加価値をつけ、雇用など地域に貢献しています。
一方、有田みかんは 11 月頃から収穫が始まると、
雪崩の如く市場に出て行ってしまい、何も付加価
値がついていないじゃないか」。 私も個人でみ
88
●第14分科会●
産品を東京でアピ-ルしたい」と東京の有楽町に
アンテナショップを開設した年でもありました
ので、早和果樹園のジュースもそのショップに出
してもらいました。ショップが2月にオープンし
てから4月までの3ヶ月間は、「花粉症に効く」
といわれている北山村特産の「じゃばら」という
柑橘ジュ-スが売り上げのトップでしたが、5月
からは私どもの「味一しぼり」がランキングのト
ップになりました。アンテナショップでランキン
グトップになると、テレビや雑誌・新聞などに採
り上げられ、東京のバイヤーも注目してくれるよ
うになりました。
その年から、東京ビッグサイトで日本政策金融
公庫の「アグリフードEXPO」という商談会が
始まりました。「自分で販売したい」という農家
が出てきているのを見て、公庫が全国の農家を集
めた商談会を開催するようになりました。その後、
大阪でも開催され、東京で5回、大阪で3回、私
たちはその全部に出展しています。また、幕張メ
ッセでの超大型商談会「FOODEX」にも出展
するようになり、販路が拡がりました。
大手の百貨店にも入れてもらえるようになり
ましたが、棚に並べてあるだけではお客様の目に
は「高いジュース」としか映りませんので、「と
にかく飲んでもらおう」と試飲販売をすることに
なりました。社員全員で試飲販売に立つことにし、
取り引きの始まった百貨店・高級スーバーにはも
ちろん、地元の観光施設の土産物売り場や、和歌
山市内の百貨店、高禄道路のサービスエリア、こ
の近くでは伊勢内宮前おかげ横丁にも出かけて
います。お手元の 720 ミリリットルで 1260 円す
るジュースですが、スーパーで買って自分で飲む
には相当高い価格ですが、「お土産にはちょうど
いい」と買ってくださいます。とにかく、土・日・
祝日は年中、試飲販売をしています。それが一つ
の発信源になっています。特に地元の和歌山でや
っていますので、観光に来た方に持って帰っても
らい、美味しいと思っていただけたら、商品のラ
ベルを見て私どものところに注文をいただける、
という形で、少しずつ広がって行きました。もと
もとが販売を知らない農家の集まりですので、上
手な売り方も知らなかったのですが、時代にも恵
まれ、取り引きも増えまして、北海道から沖縄ま
で、また、ほんの少しですが香港にまでも出せる
ようになっています。
そして、試飲販売は社員が自らやっていますの
で、その社員にも自分で作った商品に想いがあり
ますので、飲んでもらうときの反応を楽しみにし
ています。そして「美味しい」と言ってくれるこ
とが本当にうれしくて、さらに一生懸命販売に取
り組むことができています。年間で 30 万個以上
の試飲カップを使っておりますので、社員は 30
かん農家をしている頃は、全然そういうことは考
えていませんでしたが、法人化してからは「有田
みかんに何か付加価値をつけることができない
か、加工をやってみたい」と考えるようになって
いました。
初めに「100%のストレートジュースを搾りた
い」ということで、JAの加工研究所にも聞きま
したが、「果汁専門に大量生産されている外国産
のオレンジが濃縮還元されて、それが 100%ジュ
ースとして売られている今、値段のレベルが違い
過ぎ、日本で搾るだけで損するよ」と言われまし
た。あまりにも「やめるほうがいい」といわれた
ので一時「どうしよう」と考えましたが、その時
に皆が前を向いていて加工を諦めなかったこと
で、今の早和果樹園があると思います。
日本にも、大手メーカーが作る果汁 100%のジ
ュースがありますが、生では出荷できないみかん
を原料にしています。我々が「味一みかん」の果
汁検査をするときに搾ってみる果汁は色も味も
全く違いますので、我々は「とことん美味しいみ
かんを搾ってみよう」ということになり、普通な
ら数%しか出荷されない糖度 12 度以上の味一み
かんを原料にすることにしました。搾り方も、一
般的に効率が良いとされ、世界のオレンジジュー
スの 90%以上が搾られている「インライン方式」
ではどうしても皮の油が入り、エグミが出てしま
います。早和果樹園が採用したのは、一つひとつ
皮を剥いてみかんを裏ごしする「チョッパー・パ
ルパー方式」という搾り方です。
自らの手で販路を切り拓く
もともとが、みかんを市場に出荷するだけの私
たちでしたので、美味しいジュースができました
が、売り先が全然ない状態でした。みかんを出荷
している青果の市場は「加工品のル-トは違う
よ」と、なかなか相手にしてくれません。
ちょうどその頃は、前のデフレが終息して、世
の中が「ほんもの・個性のあるもの・ちょっと良
いモノ」を求める風潮があり、和歌山県は「地場
89
●第14分科会●
「味一スーパープレミアム」は糖度 14 度以上
のみかんをしぼりました。糖度 14 度のみかんと
いうのは、小さなみかんで一つか二つはあると思
いますが、それを集めて、ジュースにはできませ
ん。品種と作る場所と、生産者の技術と、天候と、
それが上手く合った時にできるそのみかんを、ジ
ュースに搾りました。500 ミリリットルで 3150 円
です。それが売れています。「有田市は日本一の
みかんの産地だから、日本一のみかんのジュース
があってもいいじゃないか。看板でいいからつく
ろうよ」ということでつくりましたので、あまり
売れるとは思っていませんでしたが、それを買っ
てくれます。それには本当にびっくりしています。
この「味一スーパープレミアム」ができたことで、
それまでは「生のみかんを食べてもらうこと」を
目標にした品種改良を行っていた果樹試験場で
も、「外観は多少悪くても中身のいいものを品種
毎年1つの新商品を生み出しながら
として改良できるのではないか」という、加工と
いう視点での話が専門家からも出ています。新し
早和果樹園は、美味しいみかんをつくるという
いジュースをひとつつくることで大きな波及効
ことには自信を持っていますけれど、加工はゼロ
果があると思いました。
から始めましたので、とにかく「有田みかん」と
バイヤーからいちばん注目されたのが、「てま
いう大産地をバックにして、有田みかんのおいし
りみかん」です。これは3Sサイズの、生果とし
さを充分に表現するために、有田みかんに特化し
ては小さすぎる規格外のみかんですが、これが小
た加工品で勝負します。有田みかんには「糖度が
さいだけに非常に糖度が高く、味の濃いみかんで
高くて濃厚な美味しいみかん」という評価があり
す。その皮を剥いて、シロップ漬けにしました。
ますので、有田みかんという素材の美味しさを生
作り方は普通のみかんの缶詰と一緒ですが、缶詰
かした商品づくりをしていきたい、とこだわって
の場合は袋をバラバラにしていますが、これは丸
います。
ごとのみかんになっています。これが、成城石井
新商品と一口に言いましても、常時販売できる
で1ヶ月に 2 万 8000 本も売れるヒット商品にな
商品やヒット商品というものはなかなか出せる
りました。
ものではありませんので、
「出し続けていくこと」
「味一ジュレ」はみかんのゼリーです。水を1
が大事であるということで、私もこの7年間、毎
滴も入れずに、果汁 91%のゼリーにしました。美
年新しい商品をひとつ出してきました。
味しいみかんを使っていますので、とても美味し
「味一しぼり」をつくる「味一みかん」は発生
いゼリーです。「それがホンモノであることをお
量も少なく、天候による味の差も大きいので、味
一しぼりがつくれない年もありました。その年に、 客様がわかってくれる」という嬉しさがあります。
お中元に大手百貨店から、9個入りのギフト 6000
糖度がワンランク低い、糖度 11 度のみかんを使
セットの注文が入りまして、新しい工場で毎日、
った「味まろしぼり」というジュースも出しまし
朝の2時頃まで残業してつくりました。
た。しかしこれでも充分「美味しい」と言ってく
「黄金ジャム」はみかんのジャムです。オレン
れます。
ジのマーマレードはたくさんありますが、みかん
のジャムはあまりありません。「みかんのジャム
と言うと、ほとんどの日本人はオレンジのマーマ
レードを思い浮かべる。でもこのジャムは違う。
みかんは日本に溢れるほどあるのに、スーパーに
はみかんのジャムがない」と、高級食の本、「サ
ライ」の編集長も褒めてくれました。
万人以上のお客様と向かい合っていることにな
ると思います。商品をつくる場合も、お客様の声
が分かりますので、次の商品づくりの役に立って
いると思います。
今、超高級ホテルのザ・ペニンシュラ東京の各
部屋の冷蔵庫に「味一しぼり」が入っております。
720 ミリリットルのものは朝食に使われています。
シェフも高く評価してくれました。それから、ま
た、高級スーパーといわれている成城石井では、
店長の一押し商品として、早和果樹園の商品をシ
リーズで販売してくれています。農家がこういう
こともやっている、ということで、テレビや新
聞・雑誌に採り上げてもらえる機会が増え、全国
に広がったと思います。
早和果樹園のファンを増やしたい
(早和果樹園のギフトセット)
我々農家は、みかんをつくる「生産者」だけで
90
●第14分科会●
良いと思ってやってきましたが、今、後継者が生
まれず、世代が交代する度に農家が消えていって
います。特に私たちは“ミカンの黄金時代”に就
農しましたので、有田にも同級生が大勢います。
その同級生もほとんど、「長いことみかんをつく
ってきたけれど、私の代で終わりだ」という気分
になっています。販売を知らないみかん農家は弱
い立場にあったと思います。販売ということにな
ると農協や市場に任せきりで、自分たちが価格形
成に関わってこなかったことがその弱さにつな
がっているのではないか、と、加工品を販売する
過程で流通の厳しさを見て、そう思いました。
今は加工品を中心に商談をして販売していま
すが、青果のみかんは一時期にどっと量が出ます
ので、商談で全てを販売することは難しいですが、
これからはそういう能力もつけて、生産コストを
きっちり知り、自分が納得のいく価格で販売でき
るようにしていきたい、と思っています。
今は、早和果樹園のファンづくりに取り組んで
います。最終的なお客様ときっちり結びつきたい
ということで、これまではホームページやダイレ
クトメールで販売してきましたが、新しく自社の
アンテナショップを開店しました。小さなショッ
プですが、京阪神のお客様が一度生産現場を見よ
うと、休日に車で家族を連れて来てくれたり、バ
スで来てくれたりするようになりました。初めの
うちは「こんな高いジュース」と言っていた地元
の人たちも、ギフトなどに使ってくれるようにな
りました。
早和果樹園の園地にお客さんに来ていただい
て、収穫や撰果を体験していただきます。みかん
の品質を選ぶ「光センサー」にみかんを通します
とパソコンの画面に糖度や酸度が出ますので、す
ごく喜んでもらえます。一昨日の土曜日には、8
回目の「アグリファンクラブ」を催し、京阪神か
らお客さんが 300 人集まってくれました。300 人
でバーベキューをし、最後に餅投げをして、とて
も盛り上がりました。
私どもの本業は「みかんの生産」で、急傾斜の
畑でみかんを作っています。もともとは個人の農
家が栽培し、それを集めて共同出荷しておりまし
たが、加工を始めるにあたり「直営の農場にしよ
う」と、個々の持っている園地を会社が借り上げ
て、会社に生産部という部を設けました。作業は
全部が雇用労働で、会社でタイムカードを打って
畑に行くという形式でやっています。それを行っ
たことで、大阪から2名と、地元からも農業をし
たことのない人5名が新しく入社してミカン栽
培をしています。自分の流儀でやっている農家よ
りも、農業試験場からでてくるマニュアルに忠実
に栽培することで、とてもいいみかんが作れます。
大手のIT企業から、「クラウドを利用したI
91
CT農業をやってみないか」という話がありまし
て、早和果樹園でミカン栽培のデータづくりも始
まりました。新しい形のICT農業への取り組み
です。大きくミカン農業を変革できることを期待
した取り組みです。
今年の秋にはICTミカン誕生です。
経営理念は、「早和果樹園は、農の生産を基と
し、歴史ある食文化に更なる発展を期し、お客様
に満足を提供する。我々は夢ある仕事を通じ、や
りがいある充実した人生達成のため、誠意と努
力・責任を持って日々自己研鑽を行う。地域社会
に貢献する早和果樹園として永遠の発展を目指
す」としています。
【第14分科会スタッフ】
○座
長
今津 悠見(知多地区)
(株)アグメント 取締役
○室 長 野田眞太郎(中村地区)
(有)野田工業製作所 代表取締役
○責任者 星野 崇嘉(豊川・蒲郡地区)
(有)星野水産 取締役
○幹 事 服部 勝之(春日井地区)
(株)丸竹 代表取締役
○グループ長
秋田 邦博(名古屋第3青年同友会)
浅井佐知子(知多地区)
鵜飼 吉幸(名古屋第3青年同友会)
奥村 栄治(中村地区)
貝沼 尚幸(名東地区)
江津 和人(緑地区)
前川 浩之(緑地区)
安 田
仁(豊橋地区)
○録 音 鳥羽 良幸(中川地区)
○記
録
井上
一馬(愛知同友会事務局員)
⑮
第
<付加価値を高める>
5年間で、社員数・売上・共に倍増
~
営業なしで仕事が来る、顧客ニーズへの対応力
報告者
高瀬 喜照氏
(株)高瀬金型
厳しい経営環境を跳ね返す、『元気
がもらえる』製造業の企業見学分科会
です。営業をしなくても顧客の紹介で
仕事が来る、その秘訣は何でしょう。
現在、同友会のいう「三位一体の経営」
をめざして奮闘中です。5年前から共
同求人に参加し、新卒採用を続けてい
ます。今の最大の経営課題は社員との
「共育ち」だといいます。製造業離れ
の時代に、社員のやりがいを技術の向
上により引き出し、社員の定着率は大
変高いです。
~
代表取締役
(稲沢地区)
【会社概要】
創 業/1981年
資本金/1000万円
社員数/68名
年 商/2億5000万円
事業内容
/プラスチック用金型の
設計・製作、プラスチッ
ク部品の射出成型
http://www.takasekanagata.co.jp/
危機により合併してリストラをしていくようで
す。そうしたことが、今、業界内では話題になっ
ています。金型産業というのはそのくらい厳しい
現実にあるのです。
自社の紹介と今の経営環境
みなさんもご存知のように、ここ数年の世界的
な経営環境悪化の中で、製造業も非常に厳しいと
言われています。その中でも我社のような金型メ
ーカーはさらに厳しい状況にあります。製造業は、
日本の産業のベースです。日本から製造業が無く
なったら、日本のすべての産業が無くなってしま
うと思いますし、日本自体も大変貧しい国になっ
てしまうと思います。今、皆さんが生活できてい
るのも、日本が世界の中で魅力あるものを創って
きたからこそだと思うのです。だから私は、日本
人ならではの“ものづくり”を、これからもやっ
て行きたいと思うのです。
私は同友会に入会して 12 年になります。同友
会でいろいろなことを教えていただいて、今があ
ると思っています。会員同志お互いに教えあって、
協力して元気にやっていくことで、いろいろな問
題が少しずつ解決していくのだと思います。
先日、あるお客様から頂いた資料で、大手のプ
レス金型メーカーを取り上げていました。その資
料によりますと、日本で一番大きい金型メーカー
はタイの会社に買収されてしまい、さらにその一
部は中国の会社に買収されました。第二位と第三
位の会社は今年の末に合併するとのことで、経営
92
会社を始めたわけ
私の親は昭和 39 年に脱サラをして、熱間鍛造
の会社を始めました。私が小学校の一年生のとき
でした。150 トンのフレキションプレス機で真っ
赤に焼いた鉄をプレスして、機械の部品や自動
車・バイクの部品などを作っていました。子供な
がらに一社員のように、学校から帰ると家業を手
伝っていました。
中学を卒業して工業高校に進み、卒業すると家
業で馴染みのあった金型メーカーに就職をしま
●第15分科会●
した。稲沢にあった、プラスチック金型のメーカ
ーで、社員が 10 名ほどの会社でした。結果的に
6年間そこでお世話になりました。当時から、金
型メーカーは仕事には大変プライドを持ってい
ました。その会社は一人のリーダーが設計から製
作まで一貫して作っていくやり方でしたので、自
分で作った金型に対してとても誇りを持ってい
ました。職人気質というか「この金型はあの人が
作った金型だ」という言葉をよく聞きました。そ
ういう風土の中で仕事をするうちに、「自分もい
つかは独立して、自分の作りたい金型を思う存分
に作ってみたい」と思うようになりました。
現在、我社の社員は 68 名ですが、スタートし
たときは私一人でした。私が 24 歳のときで、工
場も自分で立てた7メートル四方の建物でした。
独立当時は仕事もまだ少なく、電話帳を見ては飛
び込みで営業をして少しずつお客様を増やして
いきました。その後、三年目からは現在専務とし
てがんばってくれている私の弟が入社して、一緒
にやってくれるようになりました。
真鍮の鋳物を切削して作っていたのですが、樹脂
化されて、耐熱性や強度のあるプラスチックを成
形して作られたものが用いられるようになりま
した。それが売上の中で一番多く、二番目が光フ
ァイバーのコネクタ関係などの通信機器です。そ
の他に透析や血液分析に使う医療関係機器の部
品、半導体の製造装置向けのバルブなどを作って
います。お客様としてはメーカーが多く、お客様
と打ち合わせをしながら金型から成型品まで一
貫して作っていくというやり方をしています。
現在までの客先の変化
経営理念と方針
昭和 56 年にスタートし、平成元年から 30 トン
の成形機を1台入れて射出成形を始めました。現
在では 35 台になっています。売上の2割が金型
で、8割がプラスチック成形です。
創業当時は自動車の部品をつくっている会社
からも仕事をいただいていました。当初は金型修
理の仕事から始まり、だんだん新規製作の仕事を
いただけるようになりました。その当時は試作を
何度も何度も繰り返して一つの製品を完成させ
ていましたので、試作の仕事が多くありました。
今はコンピュータの中でシミュレーションをし
ますので、試作の仕事は無くなってしまいました。
そんなふうに世の中の流れもあり、どんどん仕事
が変わっていきます。
平成になったころには映像音響関係の仕事を
いただいていました。大手家電メーカーの家電製
品や、カメラの部品をつくる金型です。しかしそ
の後、そういったものが海外展開していき、平成
8年頃までには全部無くなっていきました。その
後、いただいた携帯電話の仕事もすぐに中国に行
ってしまいました。
その後、自動車部品の樹脂化が大きく進み、仕
事がたくさん出てきましたので、我社も随分受注
しました。そして今、また車関係が海外に行って
しまい、なかなか仕事が出てこない状況です。5
年ほど前からは本当に少なくなり、現在は、車関
係はほんの少しだけです。
今、多いのは給水管の継ぎ手です。もともとは
93
我社の経営理念は、私が同友会に入会して経営
理念を初めて知り、それから勉強して創ったもの
です。「私達は、技術力と共存共栄の精神で、豊
かで明るい社会を支える企業を目指します。」
「私
達は、互いが協力して個々の能力を100%生か
し、ものづくり文化を支える企業を目指します。」
このような理念です。自分の思いをそのまままと
めたものですが、今でも変わらず我社の柱になっ
ています。我社は“ものづくり”の会社なので、
人が生活する中で世の中に役立つものを作って
いこう、豊かで明るい社会を支える一員になって
いこう、という思いが込められています。また、
社員にはいろいろな個性を持った人がいますが、
全員に自分の持っている能力を 100%生かし、も
のづくり文化を支える企業をめざして欲しいと
思っています。
私はこの“ものづくり文化”という言葉に、大
変こだわりを持っています。これは、戦略にも繋
がっていくことで“ものづくり”というものは単
に物を製造するということではありません。ネジ
一つでも何百年の歴史があり、種類もたくさんあ
ります。改善され、改善され、その時代の人が思
いを込めていろいろな工夫をして製造してきて、
今のネジがあります。そうした過去の伝統を大切
にして、作ったものも大事にして欲しいのです。
人の役に立つために作っているわけですから、使
う人は作った人の思いを感じて使って欲しいの
●第15分科会●
2)高機能部品とスーパーエンプラ
です。使ってくれる人を思い、人に役立つものを
作ろうと心を込めて自分の力を 100%出して作っ
てくれた人を大事にしたい、という気持ちを表し
ています。
次に方針はといいますと、「自分の仕事に『ほ
こり』を持ち、お客様に『信頼』される製品を提
供します。」という方針です。やはり、自分の仕
事に誇りを持つというのは、一人ひとりが自信を
持って生きていくということですし、非常に大事
なことだと思います。
高機能部品とスーパーエンプラ(スーパーエン
ジニアリングプラスチック)は、これから狙って
いるものです。高機能部品の材料はエンジニアリ
ングプラスチック(エンプラ)といい、その中で
も特殊なものがスーパーエンプラです。普通、ポ
リプロピレンやABS樹脂は成形温度が 200℃か
ら 250℃の間で成形しますが、我社のやっている
スーパーエンプラは 380℃から 400℃近い温度で
成形します。
金型の温度も 130℃から最高で 200℃
ぐらいまで上げます。そこまで温度を上げると金
型が壊れたりしますので、それに耐えられる金型
を設計したり、ノウハウの蓄積で量産していける
金型を作ったりしなくてはならないのです。そう
した、透析や半導体の部品を作るエンプラやスー
パーエンプラに、特に力を入れて新規開拓をして
います。
計画・戦略
1)金型と成形
我社は現在、金型と成形の両方をやっています
が、もともとは金型の製作のみでスタートしてい
ます。しかし、バブルの崩壊後などは顕著でした
が、仕事が減ってくると競争入札になります。仕
事を確保したいという各社の思いが、価格破壊を
起こしてしまいます。発注する側もそこを狙って
仕掛けますから、思う壺です。我社は、価格が下
がっても「製品の材料も手間も落としたくない、
良い製品が作りたい」と思うので採算がとれませ
ん。好きな金型を作り続けるためには経営が成り
立つように何かやらないといけないと、成形も手
がけることにしました。もともと、自分が作った
金型が調子よく動いているかどうか、よくお客様
の現場を見に行っていました。自社で良い型が作
れるのだから、それを使って成形もして経営基盤
を安定させれば、好きな金型も作り続けることが
できる、そんな思いでした。平成元年から成形も
スタートさせました。当時は苦言を呈する方もい
らっしゃいましたが、今となれば、両方やってい
るから生き残っていけるわけで、むしろ「成形も
やっているから良い型が作れる」とお客様に言っ
ていただけます。時代が変われば、ものの見方も
変わってきます。
3)小ロット製品の分野
小ロット製品の分野では、普通は樹脂の塊を切
削して製品を作る場合が多く、特に医療機器の部
品などは切削が多いのですが、金型を作ったほう
がコスト的に有利であるとお客様に提案します。
高い材料から削り出すと、材料も工賃も高くなり
ます。小ロットでも金型を作ると、2~3年のス
パンで見ていけば絶対に安くなります。何種類も
ある部品を、金型を作って統合して1回で成形が
できるようにするなど、お客様の側でもコストを
押さえることを求めています。我社はずっと昔か
ら、そうしたお客様のニーズに応えて開発をして
きています。
4)品質管理と客先対応
それまで少ない社員でやっていましたが、お客
様から品質管理を強く求められ、ここ数年は測定
の人員や設備などを充実させています。小ロット
でも量産していこうと思うと、品質管理を充実さ
せないと新規の仕事は取れません。
5)“人間力”と新規開拓
今、新しく受注できる仕事には、簡単にできる
ものはまずありません。そこには必ず何らかの問
題がありますので、それをクリアする知識と技術
が必要です。たとえば金型から抜いたものは、真
円のものは楕円になるというように、必ず変形し
ます。真円の完成品が必要であれば、それができ
る金型を作らなければなりません。そのために金
型を楕円に作る、または測定をしてその分の補正
94
●第15分科会●
へ進んでいます。
採用と共育インターンシップでの気づき
今“ものづくり”で会社の成長や社会貢献をし
ていこうと思うと、お客様への対応力や技術力は
絶対に必要ですが、それを支えるためにも「人育
て」は絶対に必要なことだと思います。これは、
同友会でいう「共育(共育ち)」です。我社では
「採用と共育」は継続して取り組んでいます。同
を入れた金型を作るなどします。また、シール部
友会に入会して 12 年になりますが、同友会でそ
がある部品など面粗度が必要な場合、ウェルドと
ういうことに気づかせていただいたと思います。
いって流れた樹脂が付くことがあるのですが、極
もともと自分は職人で、自分が好きで仕事をやっ
力ウェルドが無い製品が求められます。そのため
ていて始めた会社ですが、同友会で学び仲間に教
には金型を作って成形し、もう一度測定して寸法
えられながら、人を育てていくことに気づかされ
や構造を変えるなどして直してから成形してみ
ました。
る、それでも問題があればもう一度手直しをする、
我社は現在、新卒採用をして6年目ですが、な
という具合に金型を作り込んでいきます。そうし
ぜ新卒を採用する気になったのかをお話します。
て作り込むことで、お客様の求めている製品がで
今から5年半ほど前は、社員は 20 名ぐらいで、
き上がります。それは、まさに“人間力”といえ
中途採用ばかりでした。真面目な社員ばかりでし
るものです。良いものを作っていくという面白さ
たが、お客様からの多岐に渡る要望に対応しきれ
が無いと、ただ仕事だからやっているというだけ
ない現実がありました。たとえば不良品が出ても、
では今の時代の“ものづくり”の中ではまったく
それを少なくする対策が打てません。「まあ、こ
生き残ることはできません。問題を解決していく
んなもんだ」と対策を打つ必要性も感じない、と
のが誇りだと思い、お客様のために良いものを作
いったレベルでした。変わって行こう、良い物を
るという“人間力”があってこそ、新規開拓もで
作っていこう、という向上心がなかなか出てこな
きると思うのです。
い状態でした。納期を守ることについても同様で
すから、私と社員との間に対立関係ができていま
6)社員 80 名体制で
した。
社会から必要とされる“ものづくり”
そんな中、同友会のインターンシップで女子学
生を受け入れました。同友会のインターンシップ
現在、社員は 68 名ですが、これを 80 名体制に
では、学生に会社の経営理念なども説明します。
することが目標です。なぜ 80 名かといいますと、
そのときに、とても真剣に、熱心に学生が聞いて
会社として不足している部分を強化したいから
くれました。これから社会にでる学生が、新鮮な
です。具体的には金型製作の部署です。今でもや
気持ちで我社の経営理念を理解してくれました。
り切れないほど仕事はありますし、これから小ロ
2週間の研修の中で、ワイヤーカットやCAD(コ
ットの受注が増えるとたくさんの金型を作るこ
ンピュータ支援設計)などを体験していくのです
とになります。金型製作メンバーの技術力の強化
が、丁寧に説明をすると意外に上手くこなして行
も求められており、後輩がいてこそ先輩社員も育
くのです。その学生が偶然器用な方だったのかも
っていくと思うので、人員増加が必要です。その
しれませんが、興味を持ってやっていくことで本
他に、技術開発の部門も強化したいと思っていま
当に上手く仕事をしていくのです。社員と対立関
す。お客様と技術的な打ち合わせをしながら営業
係になっているときにはあたりまえなのですが、
ができるようにしたい、と考えてい
ます。5年ほど前から始めた新卒採
用も継続しており、来年の4月には
7名の新卒が入社します。同友会の
共同求人などで採用した理系の大卒
男子が4名、検品などの部署に高卒
女子が3名入社する予定です。お客
様の要望に沿った対応がきちんとで
きることをめざして、社員 80 名体制
(過去5年間の売上と社員数の推移)
95
●第15分科会●
ことです。何のために生きているのかと考えたと
き、人間は一人では生きられません。では、社会
とはどういうものなのでしょうか。一人では生き
られない人間が協力をしていく、というのが社会
だと思うのです。たとえば、歳をとったら自分の
ことが自分でできなくなります。しかし、そうい
うときは若い人が面倒を見てくれるわけです。人
の助け合いの中で社会はできていて、社会のニー
ズの中に仕事があるのです。製造業においては
「ニーズの中に仕事がある」というのが顕著に現
れています。我社は“ものづくり”の中でそのニ
ーズに応えていくということです。
それまで私は社員のことをなかなか信じること
ができずにいました。しかし、インターンシップ
を通じて、きちんと話せば理解されることに気づ
かされました。それから、新卒を採用して育てて
いけば、今の我社の問題点が解決できると確信し
ました。
経営者の役割
社員との「共育ち」で社会から必要とされる会
社をつくることが、経営者の役割です。今は大変
景況も悪く、この先どうなっていくのだろうとい
う不安もありますが、社会から必要とされるよう
な会社になれば、生き残っていけると思います。
そのためには社員との「共育ち」が必要なのです。
同友会がいつもいっていることですが、社員が人
間的に成長すれば技術的にも成長していく、技術
的にも成長しないとお客様のニーズにも応えら
れないし、それが人間的成長と相関関係にあり、
スパイラル状に成長できるのです。我社では技術
を習得してレベルが上がると、それが社員の自信
に繋がり成長しています。営業なしで仕事が来る
のも、お客様のニーズに応える技術力があるから
です。
認められて人は育つ
~役割を明確にした組織づくり
初めての新卒採用は、社員 20 名のときに同友
会の「共同求人」で6名を採用しました。そのと
き採用した社員が、いま主力になって活躍してい
ます。育てる経過の中ではいろいろ問題点もあり
ましたが、若い社員ばかりの部署を作るなど工夫
もして、結果的には良く育ってくれました。その
教訓として「人は認められて育つ」というのを実
感しました。一生懸命やったことが認められるた
びに少しずつ自信が付き、誇りが持てて成長して
いくのです。それは、技術面でもサービス面でも
同じですが、役割を明確にした社内の組織作りを
しています。
我社が幸運だったのは、初めての新卒採用が同
友会の「共同求人」だったことです。このときに
「労使見解」の「人を生かす経営」という考え方
を学び、「経営者は社員の人格を認めて共に成長
しましょう」という考え方に共感しました。結果
として「人は認められて育つ」ということを社員
と共に体現し、その後、毎年「共同求人」を続け
ています。理念をベースにして、人権のことまで
考えて求人活動をしている同友会の「共同求人」
に出合えたおかげだと思っています。我社の社員
の定着率は抜群に良く、退職者は本当に少ないで
す。ここ5年間で社員数は倍増していますが、退
職者は結婚退職を含めて数名です。
【第15分科会スタッフ】
○座
長
○室
長
○責任者
何のために仕事をするのか
これは、私がずっと会社の中で言い続けている
96
永井 良周(稲沢地区)
(株)ナテック・代表取締役
近藤 信夫(海部・津島地区)
(株)近藤機械製作所・代表取締役
岡嶋 幹雄(北地区)
(株)トータルサポート・代表取締役
○グループ長
青木
岩 田
兼澤
佐賀
土屋
寺川
昭憲(名古屋第4青年同友会)
進(一宮地区)
貴弘(三河第2青年同友会)
敏宏(北地区)
智勝(一宮地区)
幸伸(春日井地区)
○記
眞理(愛知同友会事務局員)
録
野副
交
流
会
(代表理事挨拶)
(分科会ごとに交流を深めます)
(他県会員・会外報告者紹介)
(肉のヤマトさんのローストビーフ)
(中同協経営労働副委員長・美馬氏による乾杯)
(まるは食堂さんのジャンボエビフライ)
(今回の交流会には約 700 名が参加)
(シュヴァインハイムさんのハム・ソーセージ)
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●交流会●
(いちまるさんさんの豚汁)
(定番となった参加者全員での後片付け)
(創研さんの味噌串カツ)
(宇佐美実行委員長、2年間お疲れ様でした)
【交流会スタッフ】
○責任者
長尾 秀義(稲沢地区)
(株)ワールド・クリーン 代表取締役
○司
高橋
会
妙子(瀬戸地区)
○協力企業(50 音順)
(有)伊勢勝(港地区)
(株)いちまるさん(愛北地区)
(株)折松(西春日井地区)
(有)三喜(緑地区)
(有)シュヴァインハイム(碧南・高浜地区)
スギ製菓(株)(碧南・高浜地区、三河第1青年同友会)
(株)雀おどり總本店(名古屋第4青年同友会)
(株)創研(名東地区)
名古屋貸物設備(株)(東地区)
(株)肉のヤマト(名西地区)
ばーばらラーメン屋(三河第2青年同友会)
(株)花井本店(名古屋第5青年同友会)
(株)まるは(知多青年同友会)
(株)山彦(稲沢地区)
(株)ワールド・クリーン(稲沢地区)
(雀おどり總本店さんのあんみつ)
(1年ぶりの交流に花が咲く)
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