谷崎潤一郎の出立期を問う ︱︱ ﹃幇間﹄における﹁暗示﹂ ︱︱

東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 23 号(2016)
谷崎潤一郎の出立期を問う
︱︱﹃幇間﹄における﹁暗示﹂︱︱
︱
A New Perspective on the Beginning of Tanizaki Jun’ichiro’s Literary Career
西 元
康 雅
*
︱
“Suggestion” in +ĿNDQ
Yasumasa NISHIMOTO
つたやうな慵げなぬるま水を、きら〳〵日に光らせながら、一直
﹃幇間﹄
︵
﹁スバル﹂明治四四年九月︶の文体に特徴的なことは、その
光の描写にある。情景は﹁暖かさうな靄がかゝ﹂り、﹁もや〳〵とし
が浮かんで、時々山谷堀の口を離れる渡し船は、上り下りの船列
触りがするかと思はれる柔かい水の上に、幾艘のボートや花見船
はじめに
線に吾妻橋の下へ出て行きます。川の面は、如何にもふツくらと
た藍色の光の中に眠つて﹂いた。昭和の谷崎の小説に通じる表現であ
を横ぎりつゝ、舷に溢れる程の人数を、絶えず土手の上へ運んで
る。それは、﹃刺青﹄における﹁日はうらゝかに川面を射﹂、或いは﹁朝
居ます。
した鷹揚な波が、のたり〳〵とだるさうに打ち、蒲団のやうな手
日 が 刺 青 の 面 を 射 て、 女 の 背 は 燦 爛 ﹂ と す る 鋭 い 光 の 描 写 か ら、 変
化を遂げたものと言えよう。
﹃秘密﹄
︵﹁中央公論﹂明治四四年一一月︶
における﹁映画の光線の、グリグリと瞳を刺す﹂ものとも異質である。
ものとは別様である。踊り字や平仮名が比較的に多い。むしろ、大正
視覚的に訴える表記もまた﹃象﹄、﹃刺青﹄、﹃麒麟﹄︵﹁新思潮﹂明治
四三年一二月︶をはじめとする初期作品に見られる漢語を多く用いた
千住の方から深い霞の底をくぐつて来る隅田川は、小松島の角で
中期の﹃柳湯の事件﹄︵
﹁中外﹂大正七年八月︶などに見られる踊り字
︶非常勤講師
Yasumasa NISHIMOTO
日本伝統文化学科︵ Department of Japanese Tradition and Culture
一とうねりうねつてまん〳〵たる大河の形を備へ、両岸の春に酔
*
270 (7)
谷崎潤一郎の出立期を問う――『幇間』における「暗示」――
や昭和初期の盲目三部作における句読点を極めて排除した長い一文を
見做される︿神話﹀の端緒であった。荷風は文末に、﹁此は谷崎氏が
品中第一の傑作﹂に﹃刺青﹄を挙げたことが、谷崎の文壇デビューと
かったふりを続けた。ある夜、三平は惚れた梅吉の部屋に呼ばれ、思
ムラグがあることを、そして﹃刺青﹄への評価は遡行してなされたこ
あらためてよく知られた一節を引用したのは﹃刺青﹄発表時から荷
風の﹃谷崎潤一郎氏の作品﹄が発表されるまで、ちょうど一年のタイ
執筆時を具体的に記している。
﹃䨁風﹄を公表する以前に書いて置いたものである﹂﹁九月三十日﹂と
偲ばせる。
﹃幇間﹄の梗概を以下に記す。三平はもと兜町の相場師であったが、
散財と放蕩で身を持ち崩し、かつての相場師仲間の榊原の助力で幇間
いを遂げようとするが、
梅吉は﹁肝心の所は催眠術で欺﹂し、三平も﹁女
とを再確認しておくべき必要があるからだ。谷崎が︿激賞﹀される以
になる。榊原や芸者・梅吉は三平に催眠術を嗾け、三平は催眠術にか
に馬鹿にされたいと云ふ欲望﹂のまま催眠術に従うという筋のもので
前に、
﹃幇間﹄が執筆・発表されたという事実を見落としては、作品
後から明治四五年あたりの事情を回顧したものだが、事実とはやや食
︵﹁中央公論﹂昭和七年九月︱八年三月、二
谷崎の随筆﹃青春物語﹄
回目以降の原題﹁若き日のことども﹂︶は、第二次﹁新思潮﹂創刊前
であり、固有名で語られる作家ではなかったことが透けて見える。
風の言を信用すれば、少なくとも鷗外において谷崎は﹁﹁刺青﹂の作者﹂
ゐるや否やを問はれた事のあつたのを自分は記憶してゐる﹂とする荷
知度は、
﹁ 或 る 会 合 の 席 上 に 於 て 森 先 生 が﹁ 刺 青 ﹂ の 作 者 の 出 席 し て
への正確な評価がなされ得ないのである。﹃幇間﹄執筆時の谷崎の認
ある。
本論は、﹃幇間﹄が﹁初期作品群﹂に括られるなかにあって、どの
ような資質を備えているのか、谷崎のライフワークにおける位置づけ
と併せ、考察するものである。
︿激賞﹀の功罪
一、
現在、
谷崎の文壇デビューは﹃刺青﹄︵﹁新思潮﹂明治四三年一一月︶
にあることが自明視されている。だが、
﹃刺青﹄以前にも、谷崎は﹃誕
い 違 う と こ ろ が あ る。 だ が、 そ れ が ゆ え に 積 極 的 な 意 味 が 見 出 せ よ
潮﹂
︵第二次︶誌上においてであり、
﹃刺青﹄と発表の場を同じくする。
治四三年一〇月︶
、﹃ The Affair of Two Watches
﹄
︵明治四三年一〇月︶
と戯曲・評論・小説を立て続けに発表していた。これらは全て﹁新思
認識を後年まで持ち続けていたからである。谷崎がその作風に自信を
き、七月︵?︶の同誌に﹁幇間﹂を書いた前後からだつた﹂との自己
年の三月﹁新思潮﹂が廃刊した後、六月の﹁スバル﹂に﹁少年﹂を書
う。というのも﹁世間に認められるやうになつたのは、翌明治四十三
にもかかわらず、﹃刺青﹄に至って﹁出発点﹂とされるゆえんが、永
深めたのは﹃少年﹄や﹃幇間﹄に至ってからなのである。この意味で、
生﹄ 明
﹁
﹃象﹄︵明
( 治四三年九月 、
)﹁門﹂を評す﹂︵明治四三年九月︶、
井荷風﹃谷崎潤一郎氏の作品﹄
︵
﹁三田文学﹂明治四四年一一月︶によ
笠原伸夫の﹁処女作﹁刺青﹂が燦然とかがやきだすためには、谷崎と
いえども一定の時間を必要とした﹂﹁
﹁少年﹂﹁幇間﹂が書かれなかっ
る︿激賞﹀にあることは、夙によく知られている。
﹁氏の作
荷風が﹁新思潮﹂掲載の作品名を具体的に挙げるなかで、
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 23 号(2016)
︵無署名﹁三田文学﹂明治四四年一〇月︶
、﹁此作の底から覗いて居る
章世界﹂明治四四年一〇月︶
、﹁大分評判の高い作である。一読して恐
現在、谷崎文学を知るうえでの手引きともいえる﹁別冊国文学 谷
崎潤一郎必携﹂において、前田久徳は﹃刺青﹄の︿解説﹀に﹁美の誕
作者の主眼の眼には鋭い同情に充ちた光りと皮肉な深酷な微笑とがあ
たなら、
﹁刺青﹂もまたまたむなしく埋もれたかもしれない﹂︵1︶と
生とそれへの拝跪を謳い上げ、
谷崎文学の出発を告げた実質的処女作﹂
る。記者は斯う云ふ種類の作品に欠乏を感じて居る文壇の現状に顧み
ろしく話の上手な人だと思つた。嘘も真実も一つに丸めて其上に目も
と高い評価をくだしている。他方、﹃幇間﹄には﹁三平の行為の外面
て、此作者の将来に一縷の望みを維いて置きたいと思ふ﹂︵無署名﹁早
する指摘は正鵠を得ている。
描写に収束してしまい、彼の内部風景や、そこに出現するはずの梅吉
稲田文学﹂明治四四年一〇月︶。
げた作品と認められていたと言えよう。
これらから、﹃幇間﹄は発表時において高評を得ていたことが分かる。
難しい﹁題材﹂を、﹁筆勢﹂の技術を以て、巧みな﹁話﹂に仕立て上
文な色彩光渾を施しポンと眼前にほうり出されたやうな感じがした﹂
の魅力の描出に成功していない﹂
︵2︶といわば失敗作の烙印を押した。
﹁実質的﹂の裏面には﹁形式的﹂なデビュー作が想定されるが、それ
は明示されていない。むろん、作家のデビューは評者の視点により複
層的に考えられ得るものだが、前田の評価に代表されるように、現在
の﹃幇間﹄評はあくまでも﹃刺青﹄をデビュー作と前提にしたうえで
は本郷の文科出身ださうですが﹁幇間﹂に書かれてある題材をよく御
物である﹂︵無署名﹁東京日日新聞﹂明治四四年九月一九日︶
、
﹁貴方
れてある、短い会話に、複雑な気分と性格を想像させる力は、老練な
巻いた華やかな空虚な濁りきつた空気が、渋滞のない筆勢で巧に描か
︿激賞﹀以前の、
﹃幇間﹄の同時代評は、どのようなものであっ
では、
たか。幾つか列挙してゆく。
﹁
﹁幇間﹂といふ不自然な生活、それを取
者注︶とも作者の表現したいと願った所のものは、ほぼ過不足なく表
葉足らざるフシなどは全くない。恐らく両作 ︵﹃少年﹄﹃幇間﹄の二作 論
ない。意図と実際の結果との間の裂け目も目につかない。心余つて言
の作品にありがちな、態度の乱れ、焦点の分散などがほどんど見られ
模索期の所産である。しかも共通して目につくことは、そういう時期
佐伯彰一は﹁文字通りの処女作ではないが、作家的形成期、あるいは
その後、伊藤整は﹁この作品は、それ自体としてほとんど後期のこ
の 作 家 の 諸 作 に 匹 敵 す る や う な 完 成 さ を 見 せ て い て、 多 分 こ の 作 家
存じなのには、ズツと昔幸田露伴氏や故斎藤緑雨氏などに不粋の世間
現し了せた小説なのである﹂
︵4︶と指摘したように、
﹃幇間﹄は、谷
成立しているのである。
見ずのを冷かされた赤門出身の若い文学士さんとは思へません﹂
︵丑
崎の後年の作品に匹敵するほどの傑作として挙げられていたのである。
したがって発表から時を経過した後に、﹃刺青﹄本文に記された﹁幇
間﹂の言葉も受け、次第に﹃幇間﹄はその副産物と見做され、単独で
の全作品の中で十指のうちに入るような作品﹂
︵3︶と述べた。また、
之助﹁東京朝日新聞﹂明治四四年九月二八日︶、﹁この間の﹃少年﹄に
てあります。
﹂
︵生田蝶介﹁白樺﹂明治四四年一〇月︶、﹁三平といふ幇
論じられなくなった。だが、
﹃幇間﹄は単独の作品として再検討され
あるやうに、やはり残酷にする快感と残酷にされる快感とがよく書い
間の性情や行動が湿ひの筆で鮮やかに描出されてゐる﹂
︵白石実三﹁文
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谷崎潤一郎の出立期を問う――『幇間』における「暗示」――
るべき余地を十分に残しているのである。
書き出され、終局的に佐伯は刃で喉笛を抉られ、﹁多量の血液が景気
と指摘した。はたして両者の﹁関係の緊張﹂は、全面的にポジティブ
機 能 と し て 働 い た の か を 明 ら か に す る こ と ﹂︵傍点は原文による︶
︵5 ︶
はなく、その出会いによって生じた関係の緊張がお互いにどのような
風との出会いで大切なのは、谷崎が何を受け継いだのかということで
作品に対して伊藤整が﹁スランプ時代に入ったという外はない﹂︵6︶
、
のなかで、長く分裂した作風を持つのである。それは、大正期の谷崎
至ったものと考えられる。その後、大正期の谷崎は︿達成﹀と︿激賞﹀
荷風の︿激賞﹀に応えるべく変容した作風を二つながらに抱え込むに
すなわち、荷風の︿激賞﹀が谷崎にもたらせたのは二系統の作風で
はなかろうか。自己流に模索し、達成していた﹃幇間﹄までの作風と、
よく迸つて、手足の指が蜈蚣のやうに戦いて居た﹂と閉じられる。
なものであったのだろうか。
論者は、﹁関係の緊張﹂が谷崎にはネガティ
野口武彦が﹁大正年間における濫作時代とでも称すべき一時期﹂︵7︶
中島国彦は当初、
胡蝶本﹃刺青﹄の表題が﹃少年﹄と題されていたのが、
荷風の︿激賞﹀を受けて変更がなされたことを明らかにしたうえで﹁荷
ブに働いていったことに目を向けたい。先取りすれば、谷崎は荷風の
と評価したことともつながっていよう。
うな表現が散見されることからうかがえる。
たとえば、﹃秘密﹄は﹁私の心はだんだん﹁秘密﹂などゝ云ふ手ぬ
るい淡い快感に満足しなくなつて、もツと色彩の濃い、血だらけな歓
楽を求めるやうに傾いて行つた﹂という末文で閉じられる。この一文
の前半は、﹁私﹂が﹁秘密﹂に関心を失ったという点で構成上におい
て必要であるだろう。だが、﹁もツと﹂以下の﹁血だらけな歓楽﹂に
は 飛 躍 が あ る と 思 わ れ る。 こ れ は、 荷 風 が﹁ 第 一 の 特 色 ﹂ に 挙 げ た
﹁ 肉 体 的 恐 怖 ﹂﹁ 肉 体 上 の 残 忍 か ら 反 動 的 に 味 ひ 得 ら る ゝ 痛 切 な る 快
へのアプローチとなり得る。それはまた、大正後期・昭和期において
谷崎が︿激賞﹀の桎梏から脱し、︿名作﹀を量産していく時期と接続
される問いなのである。
二、作中時間と催眠術
明治四五年二月﹂︶では﹁自分の身が急に案じられ、何時やられるか
成り金も出来るし、世間一帯が何となくお祭りのやうに景気付い
の下に、いろ〳〵の企業が続々と勃興して、新華族も出来れば、
明治三十七年の夏から、三十八年の秋へかけて、世界中を騒が
せた日露戦争が漸くポウツマス条約に終りを告げ、国力発展の名
も知れないと云ふ恐怖﹂から佐伯は﹁死ぬ、死ぬ﹂と連呼する。また、
て居た四十年の四月の半ば頃の事でした。
と﹁想像﹂をめぐらす。
﹃続悪魔﹄
︵
﹁中央公論﹂大正二年一月、原題﹁悪
魔︵続編︶
︶に至っては、
﹁癲癇、頓死、発狂などに対する恐怖﹂から
﹃幇間﹄の作中時間について谷崎は、和辻哲郎・木村荘太との対談形
叔母の﹁乳房の辺へ、グサツと刃物を突き立てたら、どんなだらう﹂
感﹂への谷崎からの呼応と見做すことができる。﹃悪魔﹄︵﹁中央公論﹂
したがって、﹃幇間﹄を分析することは、︿激賞﹀以前に育まれてい
た小説の萌芽、或いは︿激賞﹀により実現されなかった小説の可能性
声に応えるべく、過度な重圧を背負い、創作に影を落としたものと考
えている。それは、以後の小説において、取って付けたと思われるよ
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 23 号(2016)
た。末國善己は﹃幇間﹄本文について﹁これだけ具体的な年月︵日︶
代は綱吉の時代だね﹂とあらかじめ構想、及び作中時間を披露してい
め ら れ や う が、 馬 鹿 に さ れ や う が 一 向 苦 に し な い ん だ ﹂
﹁然うさ、時
式をとった﹁ REAL CONVERSATION
﹂︵﹁新思潮﹂明治四三年一一
月︶で、﹁僕は幇間つてものを書かうと思つてる。頭を擲られて耻し
及び広告の点数を調べると、①明治四〇年一月∼四一年九月︵処罰令
たのである。﹁東京朝日新聞﹂紙上で﹁催眠術﹂の見出しがある記事、
限 っ て は、 図 書 刊 行 物 と は 別 様 の 事 態 が 生 じ て い た こ と が 確 認 さ れ
めぐる書籍の刊行は殆ど見られなかった。しかしながら、新聞紙上に
﹃幇間﹄の発表時には、もはや催眠術がアカデミズムからも駆逐され
ていた。たしかに、管見の限りにおいても明治四四年を境に催眠術を
に①一三件、②二七件、③二七件と、処罰令、そして明治四四年以降
が設定されているにもかかわらず、﹃幇間﹄の物語内時間に着目した
明治四一年九月二九日、
﹁違警罪﹂にかわり﹁警察犯処罰令﹂︵全四
条四九令︶が公布、同年一〇月に施行された。この新設された処罰令
に、むしろ﹁催眠術﹂をめぐる記事や広告が増加していることが分か
の交付︶は三〇件。その後、
︵①と同じく一年八ヶ月の期間で比較す
の第二条一九には﹁猥リニ催眠術ヲ施シタル者﹂に﹁三十日未満ノ拘
る。例えば、明治四一年一〇月三〇日の﹁東京朝日新聞﹂は、法律の
論は、それほど多くない﹂︵8︶と指摘した。本論では腹案からの作
留、又ハ二十円以下ノ科料ニ処ス﹂と明記されたのである。したがっ
新設をめぐって﹁催眠術を害用して婦女を姦したり、金銭を瞞着した
ると︶②明治四一年一〇月∼四三年六月までは八五件。③明治四三年
て﹃幇間﹄が活字化されたのは催眠術が法で罰せられる時代に、作中
りする馬鹿者、横着者の実例は是迄少なかったが是からは取締りが出
中時間の移動を催眠術との関わりに求めたい。
時 間 は 処 罰 令 前 夜 に 位 置 付 け ら れ る。
﹃幇間﹄は催眠術の流行と取締
来やう﹂と強姦・強盗への催眠術の悪用防止の必要を報じた。ただし、
﹁東京朝日新聞﹂では明治四二年一一月八日から﹁催眠術の流行﹂と
いう連載を一八回にわたって掲載した。記者が、巷で評判の催眠術師
に拡散していくのである。
催眠術をめぐる新聞紙上の言説は犯罪防止にのみとどまらず、多方面
七月∼四五年三月までは八二件。また、
﹁読売新聞﹂においても同様
がせめぎ合うピンポイントの時期を描いたのである。
この、﹁警察犯処罰令﹂第二条一九の令文は、第二条一七﹁妄吉凶
禍 福 ヲ 説 キ 又 ハ 祈 祷、 符 呪 等 ヲ 為 シ 若 ハ 札 類 ヲ 授 与 シ テ 人 ヲ 惑 ワ シ
神水等ヲ与ヘ医療ヲ妨ゲタル者﹂に連なるものだ。したがって、新条
の所へと赴き、患者の評判、そして自らがその効果を体験・実験し記
タル者﹂
、同条一八﹁病者ニ対シ禁䓶、祈禱、符呪等ヲ為シ又ハ神符、
令は、医学や科学といったアカデミズムにではなく、新興宗教が嗾け
事にするという連載だ。以下、その表題をすべて引用する。
幽霊は偽物の写真﹂
︵同月二〇日︶、
﹁︵三︶▽如意を下せば夫で催
﹁
︵一︶▽でツぷり肥つた催眠先生▽手足が固着いて動かない﹂
︵一一月一八日︶、﹁︵二︶▽椅子に腰懸けた儘浅草見物▽ベラ坊な
る医療行為の訝しさへと差し向けられたものである。この時代の催眠
術については、一柳廣孝﹃催眠術の日本近代﹄からとりわけ多くの知
見を得た。なかでも処罰令、また﹁千里眼事件﹂の影響として、﹁明
治四四年︵一九一一︶以降、
催眠術関連書の出版点数の激減したこと﹂
︵9︶への指摘に注目したい。
266 (11)
谷崎潤一郎の出立期を問う――『幇間』における「暗示」――
談話▽催眠術の危険と弊害﹂
︵同月一四日︶。
眠に懸らねば魔睡薬﹂
︵同月一三日︶、﹁︵十八︶▽福来文学博士の
脱で中止﹂
︵同月一一日︶
、
﹁
︵十七︶▽日本榎五人殺しの犯人▽催
月一〇日︶、﹁︵十六︶全我的反抗を試みた記者▽先生も遂に冑を
﹁︵十五︶▽催眠術で飛行機の研究▽針を刺しても痛くない﹂
︵同
義和宮殿下の仮の御住居▽謹んで聞く心理学の説法﹂︵同月九日︶、
同窓の催眠先生▽患者より雀が可愛い﹂︵同月八日︶、﹁︵十四︶▽
仏の姿▽何でも治るとは駄法螺﹂︵同月六日︶
、
﹁
︵十三︶▽文相と
の 彼 方 の 字 が 見 え る ﹂︵ 同 月 五 日 ︶
、
﹁
︵十二︶▽両手を上て御陀
して当る﹂
︵一二月四日︶
、
﹁
︵十一︶▽東郷大将の旅順港見物▽襖
月二九日︶、﹁︵十︶▽富士の雪がバラバラ落つ▽畳の上で焚火を
▽威嚇れて身体は自由を失う▽草臥賃が二円とは安いもの﹂
︵同
と催眠術の講釈▽先生の上に馬乗りの記者﹂︵同月二七日︶、﹁︵九︶
▽抱く様にして擦つて呉れる﹂
︵同月二六日︶、﹁︵八︶▽くどくど
古臭い方法﹂
︵同月二五日︶
、
﹁
︵七︶▽幽霊の様に秘と入つた美人
︵同月二三日︶
、
﹁
︵六︶▽毎朝の便通は天下の奇蹟▽投薬や手術は
﹁
︵五︶
▽学者で雄弁家で而て議論家▽原語を振廻す灸と鍼の先生﹂
術に懸つて見る▽誰にでも出来る家庭催眠療法﹂
︵同月二二日︶
、
眠▽吃も盲も嘘の様に治る﹂
︵同月二一日︶、﹁︵四︶▽記者も催眠
も な い 身 長 治 療 法 が 語 ら れ る。 次 の 記 事 は、 よ り 通 俗 的 に﹁ 催 眠
が。 こ の 年 に 雨 雀 が 訪 問 し た と す れ ば、 お よ そ 二 七 歳。 伸 び る 筈
新 聞 ﹂ 明 治 四 三 年 五 月 三 日﹁ は な し だ ね ﹂ 欄 ︶ と す る も の が あ る
が 高 く な り ま す ﹂ と 但 し 雨 雀 君 は 余 り 丈 の 高 く な い 人 也 ﹂︵
﹁読売
雨 雀 君 も そ の 妙 技 を 煩 し た が 催 眠 中 主 人 曰 く﹁ ね、 貴 方 は 今 に 丈
に病身らしいが不思議に催眠術だけは神に這入つてゐる嘗て秋田
みすぼらしい古本ばかりを並べてゐる店がある主人は聾でお負け
新 聞 紙 上 の 背 後 に は、 娯 楽 の 対 象 と し て 催 眠 術 を 消 費 す る︿ 大
衆 ﹀ の 欲 望 が 見 え る。 別 の 記 事 に、﹁ 早 稲 田 の 鶴 巻 町 通 り に 真 の
にならない、いわば民間療法に姿を変えた催眠術の姿がうかがえる。
として語られている。ここから、健康に寄与すれば取り締まりの対象
上の疾病には﹁感化﹂
﹁矯正﹂をもたらすことができる健康法の一環
持ちながらも、﹁官能的疾患﹂
﹁生体内電流の変調・異常﹂という身体
載の最終回において、
﹁ 催 眠 術 ﹂ は﹁ 強 姦 詐 欺 ﹂ の﹁ 危 険 と 弊 害 ﹂ を
者は福来友吉の名前や紹介状を出すことで、信頼を得ようとする。連
上の評価を下していることである。特徴的なことは、実に多くの施術
の連載からうかがえるのは、﹁催眠術﹂による健康の矯正には一定以
夢見る様になる﹂﹁眼を開くと肩の凝りは確かに癒つて居る﹂。これら
れに先生は治療代を取らぬ﹂
、第四回でも﹁段々と雑念が亡せて全て
の患者は順々に先生の治療を受けたが皆癒つた〳〵と云つて喜んでい
伝するものが多い。たとえば、第三回の記事では﹁続いて来た五六人
これらの表題には、催眠術師たちを戯画化する言葉が目立つ。だが
一方で、記事本文においては催眠術師に好意的であり、その効果を喧
二八日︶。この記事の﹁紳士﹂は、
﹃幇間﹄の榊原を彷彿とさせるもの
る ﹂ ○﹁ 何 処 で ﹂
、 紳﹁ 待 合 で ヨ ﹂﹂
︵﹁ 読 売 新 聞 ﹂ 明 治 四 四 年 三 月
い の で、 大 悄 然 に 悄 然 た さ う だ ﹂ 紳 士﹁ 乃 公 な ら 直 に か け て 見 せ
事 一 口 伽 喃 々 坊 生 ○ 催 眠 術 下 谷 呑 気 生 ○﹁ 江 間 俊 が、 日 比
谷 倶 楽 部 の 懇 親 会 に、 雛 妓 を 集 め 催 眠 術 を や つ て も 少 も か ゝ ら な
術 ﹂ と い う 言 葉 が 用 い ら れ る 様 相 が 知 れ る﹁ 投 書 ﹂ で あ る。﹁ 時
る﹂
﹁福来博士の如きは患者をドシドシと此処へ向けて寄越す相だそ
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だ。﹃幇間﹄は科学に端を発した催眠術が通俗的な遊戯へと変貌する
時代にあったのである。
初期の谷崎に高浜虚子は﹁筆者の筆には科学者のナイフのやうな率
直な鋭さがある﹂
︵
﹁ホトトギス﹂明治四四年一一月︶と言及した。後
な 笑 ひ 方 を し て、 扇 子 で ぽ ん と 額 を 打 ち ま し た ﹂ と い う
Professional
語りによって︿騙す/騙される﹀という関係が末文に至って、鮮やか
に反転する。
﹃ 幇 間 ﹄ は 催 眠 術 と い う 同 時 代 の 現 象 の な か で の︿ 反 ︱
これまでの先行研究においては、﹃幇間﹄における催眠術はどのよ
うに語られてきたのか、確認しよう。たとえば、一柳は﹃幇間﹄につ
催眠術﹀を構造化し、提示するのである。
術に直訳せられたなまの科学と言はうか、ともかくも因は科学、果は
いては、
﹁催眠術はお座敷芸として消費される﹁だまし﹂のテクニッ
年、折口信夫も﹁科学風な材料を芸術式の手法に盛ると言はうか、芸
芸術﹂︵﹁芸術の具体化︱谷崎潤一郎氏を中心に﹂﹁白鳥﹂大正一一年
クとして還元﹂︵
︶ と 催 眠 術 を 主 題 と し た 小 説 と は 見 做 さ な い。 末
二 月 ︶ と 評 し、 両 者 と も に﹁ 科 学 ﹂ を 谷 崎 に 見 出 し て い る。
﹃幇間﹄
における催眠術の特徴を検討することは、谷崎の小説における﹁科学﹂
國善己は、﹁催眠術のもつ男性性が、︿男﹀を犯すというグロテスクな
︶ と、
﹃ 幇 間 ﹄ を 男 の 欲 望 か ら 読 む。 ま た 野 崎 歓 は
つかが明らかになるだろう﹂とし﹁問題は他人に催眠術をかけたいか、
﹁谷崎﹁幇間﹂における催眠術の扱い方がいかに際だった独自性をも
露呈させた﹂
︵
戯画を通して、明治社会が形成していた、︿男﹀社会の欲望と内実を
三、暗示のメカニズム
への考察と連動しているのである。
だがこれらに共通するのは、
﹃幇間﹄において、催眠術にかかった﹁演
それともかけられたいか﹂︵ ︶と三平の演出の在り様を問うている。
︵
﹁スバル﹂明治
催 眠 術 を 作 品 に 取 り 入 れ た 小 説 に 森 鷗 外﹃ 魔 睡 ﹄
四二年六月︶がある。﹃魔睡﹄は男の医師が夫人に一方的に催眠術を
出﹂をした三平の様相については、詳しく分析されていない点にある。
論﹂大正
かけた︵かもしれない︶という当時の催眠術の在り様を典型的に描い
てみせた作品である。また、岩野 鳴﹃催眠術師﹄︵﹁中央
八年六月︶では、竹内楠三の著書から﹁催眠の暗示と云うことに余ほ
ど興味をおぼへ﹂た男が﹁
﹃心理学研究所﹄と云ふ看板を掛け﹂、にわ
三平に対し梅吉が仕向ける︿催眠術=性暴力﹀の場面を引く。
快楽が催眠術をかけられた三平にあることが特徴として見出される。
ひきかえ﹃幇間﹄は、①主に催眠術をかけるのは梅吉という女であ
ること、②催眠術の行使者の社会的階層が芸者や商人であること、③
稲妻を染め出した白縮緬の長襦袢一つになり、折角めかし込んで
解かれ、赤大名のお召を脱がされ、背中へ雷神を描いて裾へ赤く
かう云はれると、裏地に夜桜の模様のある、黒縮緬の無双羽織
をするすると脱ぎます。それから藍色の牡丹くづしの繻珍の帯を
﹁此処はお前さんと妾と二人限りだから、遠慮しないでもいゝわ。
さあ、羽織をお脱ぎなさい。﹂
何より、三平は催眠術にかかっていないのだ。むしろ催眠術を逆照射
来た衣装を一枚一枚剥がされて、到頭裸にされて了ひました。そ
かに﹁催眠術の先生﹂になる。
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する。これを端的に示すのが﹃幇間﹄末文である。﹁三平は、卑しい、
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谷崎潤一郎の出立期を問う――『幇間』における「暗示」――
れでも三平には、梅吉の酷い言葉が嬉しくつて嬉しくつて溜りま
せん。果ては女の与へる暗示のまゝに、云ふに忍びないやうな事
に女達はきゃツきゃツと笑ひ転げます。
﹃幇間﹄において、むろん性行為には及ばない。ただし、三平が衣服
を脱がされ、裸になる。すなわち﹁暗示﹂による行動ばかりが露骨に
きには﹁云はれると﹂﹁云へば﹂などと﹁言葉﹂が介在し、その後に
ある。これまでの引用から分かるように、三平が暗示をかけられると
をします。
﹁顔を撫でる﹂﹁睨み付ける﹂ことによって暗示にかける、また三平
が催眠術から﹁我れに復﹂るのは、
﹁旦那が耳元でぴたツと手を叩く﹂
描かれているのである。その過程の描写が、
﹃幇間﹄では仔細に描か
三 平 は 奇 行 を 繰 り 広 げ る。
﹃幇間﹄作中に三度記された﹁暗示﹂の二
︵傍線は論者による。以下の引用部も同じ︶
ことによる。これらは、催眠療法で知られているメスメルの治療にお
れている。したがって、谷崎の関心は催眠術よりも、その術語である
つをこれまでに引用した。残る一つの﹁暗示﹂が、催眠術と関わらな
ける術式と大差ない。ただし、谷崎の暗示には科学にはない特異性が
﹁暗示﹂に差し向けられていたと考えられる。
﹁あ、こりゃ、こりゃ﹂
いがゆえ、谷崎における﹁暗示﹂の関心の在処を物語っている。
の性意識は交錯しないのである。以下、
﹃幇間﹄における﹁暗示﹂の
留意したいのは、梅吉が仕掛ける﹁性暴力﹂が、三平において﹁嬉
し﹂さに転換していることだ。すなわち催眠術において、三平と梅吉
表現方法について、検討する。榊原が三平を﹁睨み付け﹂た後、暗示
な気になります。
蕩の血が湧き上つて、人生の楽しさ、歓ばしさを暗示されたやう
と陽気な三味線に乗つて、都々逸、三下り、大津絵などを、粋
な節廻しで歌はれると、子供ながらも体内に漠然と潜んで居る放
を仕向ける場面を引く。
三平の顔を掌で二三度撫で廻し、
﹁そら、もう今度こそかゝつた。もう駄目だ。逃げたつて、どう
したつて助からない。
﹂
ある。また、﹃幇間﹄の暗示とは﹁楽しさ、歓ばしさ﹂という﹁快楽﹂
ここから、歌や言葉が、
﹁血﹂を刺激し、﹁暗示﹂を生むというメカ
ニズムが見えてくる。暗示は言葉を介して、段階的に遂行されるので
さう云つて居るうちに、三平の項はぐたりとなり、其処へ倒れ
てしまひました。
を変えた後の楽しげな姿から書き出されていたのだ。
ところで、なぜ谷崎潤一郎は暗示に関心を抱いたのであろうか。暗
示の定義をめぐって、福来友吉は﹁暗示の効果を知るために、自発的
に 直 結 し て い る の で あ る。 し た が っ て 、
﹃ 幇 間 ﹄ は、 三 平 が 幇 間 に 職
面白半分にいろいろの暗示を与へると、どんな事でもやります。
﹁悲しいだらう。﹂と云へば、顔をしかめてさめざめと泣く。
﹁口
惜しからう。
﹂と云へば、
真赤になつて怒り出す。お酒だと云つて、
水を飲ませたり、三味線だと云つて、箒を抱かせたり、其の度毎
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 23 号(2016)
に戯れることは、催眠術を作に取り入れる前段階であったと言えよう。
し、﹃幇間﹄の前作﹃少年﹄において、光子と少年たちが﹁狐ごつこ﹂
術者の暗示に対してだけは、一言一句といへども聞漏らすことなく行
﹁狐ごつこ﹂においても、縛られる狐役は光子から信一へと反転して
︶とする。中村古峡は﹁施
動します﹂
﹁催眠状態が有らゆる自発的精神活動の休止して居る状態
いた。﹃幇間﹄の同時代評に﹁﹁少年﹂には少年の幇間がゐました。こ
活動を無にすることをねらつていた﹂
︵
︶と定
であることが分かると、此の状態が最も暗示に感じ易い﹂
︵
のたびは銘打つた幇間であつて、その幇間がよく表はれてゐます﹂︵丑
之助﹁東京朝日新聞﹂前出︶というものがある。いま振り返れば﹃少
年﹄から﹃幇間﹄への展開をとらえた的確な評と言えよう。
﹁魔術だの、催
﹃幇間﹄に続く﹃秘密﹄にも、催眠術書は登場する。
眠術だの、探偵小説だの、化学だの、解剖学だのゝ奇怪な説話と挿絵
に富んでいる書物﹂の一つとして、
﹁自己暗示﹂により女装に没入す
るための手段となっている。
︵﹁新小説﹂大正六年一月︶
大正時代に入ると、たとえば﹃魔術師﹄
では暗示がメスメリズムや幻術とともに記される。また﹃ハッサンカ
ンの妖術﹄︵﹁中央公論﹂大正六年一一月︶では﹁心身を分解し、精神
を虚空に遊離させる﹂ところの﹁魔法﹂が、﹁催眠術﹂を凌駕してい
三平は梅吉が望むような答えを﹁自発的﹂に﹁いろいろと口走﹂っ
ていく。会話を通じた暗示は、催眠術者の思うがままに誘導する。暗
人の愛﹄
︵﹁大阪朝日新聞﹂大正一三年三月二〇日︱六月一四日、﹁女性﹂
のである。そして、大正期においてもっとも暗示を描いた小説は﹃痴
く。もはや﹁催眠術﹂を直接の主題にせずとも、暗示を描いてみせる
示によって全ての自家意識を喪失したかのようでありながら、統御さ
同年一一月︱一四年七月︶なのであった。
ントに混交し、その見極めが難しい作品を描く創作の手法を谷崎は暗
示を通じて獲得したのである。
おわりに
で、グツト一と息に睨められると、折々悚然とするやうなことが
強く凄じく、おまけに一種底の知れない深い魅力を湛へてゐるの
した。なぜならその眼は女のものとは思はれない程、烱々として
と多量にそれが含まれてゐるのだらうと、私はいつもさう感じま
もし実際に動物電気と云ふものがあるなら、ナオミの眼にはきつ
れた﹁意識﹂を併せ持つ状態が描かれるのである。両者がアンビバレ
彼はいろいろと口走ります。
[中略]
﹁梅ちやんの為めならば、命でも投げだします﹂とか、﹁梅ちや
んが死ねと云へば、今でも死にます、﹂とか、尋ねられるまゝに、
こんな言を、梅吉は云ひ出しました。
﹁それぢや、催眠術にかけて、正直な所を白状させてよ。まあ、
妾を安心させる為めだと思つて、かゝつて見て下さいよ。﹂
梅吉の催眠術にも、三平は次のような言葉で応答する。
義した。三平もまた、
﹁自発的精神活動﹂を放棄したごとく振る舞う。
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﹃ 幇 間 ﹄ を 措 い て、 谷 崎 に は 催 眠 術 を 主 題 と す る 小 説 は な い。 た だ
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谷崎潤一郎の出立期を問う――『幇間』における「暗示」――
あつたからです。
﹃痴人の愛﹄では、ナオミの﹁眼﹂が象徴的に語られている。譲治と
の諍いにおいて、ナオミは﹁殆ど敵意をさえ含んだ眼つきで睨めツく
︶になぞらえ
らをする﹂﹁物凄い瞳を据ゑて私の顔を穴のあくほど睨め﹂る。とり
わけ﹁ナオミの眼﹂の﹁睨﹂む行為が﹁動物電気﹂
︵
られている点に着目したい。﹁動物電気﹂が、他者の自家意識を衰弱
させ、思いのままにするという点で譲治においては暗示として機能す
るのである。
注
︵1 ︶ 笠原伸夫﹃谷崎潤一郎︱宿命のエロス﹄︵冬樹社、昭和五五年六月︶。
︵2 ︶ 千葉俊二編﹁別冊国文学
︵平成一三年一一月︶。
谷崎潤一郎必携﹂
︵3 ︶ 伊藤整﹃谷崎潤一郎の文学﹄︵中央公論社、昭和四五年七月︶。
︵ 4︶ 佐 伯 彰 一﹁ 芥 川 と 谷 崎 ︱﹃ ひ ょ っ と こ ﹄ と﹃ 幇 間 ﹄ と ︱﹂︵﹁ 解 釈 と 鑑 賞 ﹂
昭和三三年八月︶。
︵5 ︶ 中島国彦﹁作家の誕生︱荷風との邂逅﹂︵﹁国文学﹂昭和五三年八月︶。
︵6 ︶ 伊藤整﹃谷崎潤一郎の文学﹄︵前掲︶。
︵7 ︶ 野口武彦﹃谷崎潤一郎論﹄︵中央公論社、昭和四八年八月︶。
︵8 ︶ 末國善己﹁失効される︿欲望﹀︱﹃幇間﹄における明治 年の位相について﹂
︵ ︶ 一柳廣孝﹃催眠術の日本近代﹄
︵前掲︶。
︵ ︶ 末國善己﹁失効される︿欲望﹀︱﹃幇間﹄における明治 年の位相について﹂
︵前掲︶。
︵9 ︶ 一柳廣孝﹃催眠術の日本近代﹄︵青弓社、平成九年一一月︶。
年九月︶。
︵﹁谷崎潤一郎作品の諸相﹂専修大学大学院文学研究科畑研究室、平成一三
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︵ ︶ 野崎歓﹁谷崎潤一郎
谷崎潤一郎と太鼓持ちの戦略︱﹁幇間﹂試論﹂︵﹁ユ
リイカ﹂平成一五年五月︶。
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昭和期の﹃吉野葛﹄
︵
﹁中央公論﹂昭和六年一︱二月︶にも触れてお
きたい。津村がお和左を見初めたのは﹁僕は、大方あの手紙の文句、﹃ひ
びあかぎれに指のさきちぎれるよふにて﹄と云ふ︱︱︱あれに暗示を
受けたせゐか、最初に一と眼水の中に浸かつてゐる赤い手を見た時か
ら、妙にあの娘が気に入つたんだ﹂と、幼くして没した母が書き残し
た言葉による暗示が新しい母のイメージを創出するのである。所謂﹁古
典回帰﹂と称される時代であるが、暗示が変化を遂げ、作品のなかで
機能し続けるのである。
以上、本論は﹃幇間﹄における催眠術に着目し、谷崎が自己流の術
語として﹁暗示﹂をどのように小説の言語に組み入れていったのかを
検討したものである。﹃幇間﹄を谷崎の出立期と見立てることで、暗
示が変奏しながらも大正から昭和の作品を貫くものであることが跡付
けられた。谷崎は畢生、暗示を希求する男たちを描き続けたのである。
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︵ ︶ 福来友吉﹃催眠心理学﹄︵成美堂書店、明治三九年三月︶。
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たします。
二〇一六年刊行予定︶掲載のコラムと記述に若干の重複があることをお断りい
※ 本 論 は﹃
︿ 変 態 ﹀ 二 十 面 相 ︱ も う ひ と つ の 近 代 日 本 精 神 史 ﹄︵ 仮 ︶︵ 六 花 出 版、
※谷崎の引用は全て初出に拠る。なお、旧漢字は適宜改め、ルビは省略した。
で、治療効果が上がる﹂ものとして催眠療法に用いた。
見出し﹁これを豊富かつ強力に保有する者が病人に一部を分け与えること
こすものであったという。転じて、メスメルは動物電気を生命力の根源に
たものであり、カエルの筋神経標本が起電機の働きで、脚の痙攣を引き起
︵ ︶ 中村古峡編﹃変態心理学講話集 第壹編﹄︵日本精神医学界、大正七年八月︶
。
︵ ︶ 荒俣宏﹃世界神秘学事典﹄︵平河出版社、昭和五六年一一月︶によれば﹁動
物電気説﹂とは、一七九一年にイタリアの動物学者・ガルヴァーニが唱え
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