国産技術への転換点に位置する木曽川水系最古の大型発電所 旧八百津

至久田見
N
83
八 百 津 町
荒
川
旧八百津発電所資料館
418
八百津町
ファミリーセンター
●
●
八百津大橋
八百津町役場
358
●
長野県
至可児市兼山
八百津橋
人道の丘公園
杉原千畝記念館
●
福井県
川
曽
木 83
富山県
至美濃加茂市
国産技術への転換点に位置する木曽川水系最古の大型発電所
旧八百津発電所
至五宝滝
381
蘇水峡橋
蘇
水
丸山ダム
岐阜県
八百津町
峡
至御嵩町
愛知県
明治末期、木曽川水系で最も早く建設された本格的発電所が旧八百津発電所だ。わ
が国の大容量・長距離送電の先駆けの一つだが、当時の計画における限界や矛盾、欠
陥もはらんでいた。それらを克服する過程で、日本の水力発電技術は欧米からの自立へ
かじを切る。ターニングポイントに位置し、自立期の技術水準を示す数々の遺物が残る
同発電所は、貴重な電力産業遺産として平成10年に国の重要文化財に指定された。
旧八百津発電所本館
(現 八百津
発電所資料館)と放水口発電所
(手前の小さい建物)。明治 44 年
(1911 年)竣工。竣工時最大出力
7,500kW は当時 の日本 で 第 3
位。昭和 49 年
(1974 年)運転停
止。昭和 53 年に関西電力から
八百津町へ譲 渡。平成 10 年重
要文化財に指定。レンガ造外壁
モルタル塗りの本館は 2 つの切
妻屋根をもち、手前側は母線室
(1
階)と配電室
(2 階)、後方は 1 ~
2 階吹き抜けの発電室。
水の土木遺産/旧八百津発電所
●
23
明治期最高電圧、初の国産鉄塔で
旧八百津発電所は、明治 40 年完成の東京電灯駒橋発電
所
(55kV、75km)に始まる大容量、長距離送電時代の幕開
けを飾る発電所の一つである。名古屋までの 43.4km を明治
期における最高電圧の 66kV で、日本で初めて国産鉄塔
(川
崎造船所製)を使用して送電した。66kV は大正 3 年
(1914
年)に猪苗代水力が 154kV で送電を開始するまで最も高い
電圧だった。しかし、同時期に長良川発電所が 33kV で約
50.4km を送電していたことなど、他の発電所の送電距離と
送電電圧に比べると、距離が短いにもかかわらず高い電圧を
使用しており不均衡な設計であった。
鉄道は開通しておらず資材輸送は船で行った。
当時空前の大
工事として注目を浴びたせいか、発電機の回転子を載せた船
が日章旗とちょうちんでにぎにぎしく飾られている。
米国製水車の破裂事故から学ぶ
竣工に先立つ工事完了検査の際に死傷者の出る大事故が
起こった。4 台
(1 台は予備)の水車のうち 1 台の試運転にか
大型発電所黎明期に建設
かったとき、回転数を調整する調速機が働かず轟音とともに
岐阜県加茂郡八百津町の中心部から、同町出身の杉原千
水車を覆うケーシングが四散。噴出した水にもまれて、検査
畝の記念館へ向かうバスで約 5 分。蘇水峡の渓谷美を刻ん
に立ち会っていた技師ら2名が死亡、2名が負傷した。その
だ木曽川が川幅を広げ穏やかな流れに変わるあたりに、旧
後の調査で事故原因は米国モルガン・スミス社製水車の性
八百津発電所資料館
(旧八百津発電所本館)がある。明治 30
能が劣るためと実証された。
年代末、名古屋市における電力需要が急増。名古屋電灯
(株)
当時大型発電所の水車はほとんどヨーロッパ製で、アメリカ
は需要に供給が追いつかず新規契約を謝絶する状況だった。
製を選んだ水車選定の誤りが指摘された。しかし、この事故の
こうした時期に大型発電所の建設をめざして設立された名
原因究明などの過程で日本人技術者の技術力が評価され、そ
古屋電力
(株)が、明治 40 年末
(1907 年)に着工したのが旧
の後の国産技術の向上に役立つことになる。残った 2 台(予
八百津発電所
(当時の呼称は木曽川発電所)である。
備水車 1 台は除く)
のアメリカ製水車は大正 9 年、同 10 年に
当時は水力発電の専門技術が確立されておらず、港湾、鉄
再び破損事故を起こし、大正 11 年~同 13 年に国産メーカー
道などの土木技術者が設計に当たった。河川本流における高
である電業社製水車に交換された。この水車はヨーロッパ製
堰堤建設技術に未熟だったことや、木曽材の筏流送をはじめ
水車の模倣を基本としながら、ヨーロッパの一流メーカー製水
とする河川輸送に配慮したことから、ダム式発電所の開発適
地でありながら、水路式発電所として設計された。上流の恵
那市にあった取水口から約 9.7km に及んだ水路工事
(総延
長の約 60%がトンネル)は立地選定の誤りなどから難工事と
なり、総建設費と工期は予定の倍近くに増えた。この負担な
どによって名古屋電力は経営が悪化。発電所建設は、同社を
吸収合併したライバル会社名古屋電灯が引き継ぎ、明治 44
年 12 月に完成させた。この吸収合併に手腕を振るったのが
しずも
後の電力王・福沢桃介で、八百津完成の後、賤母、大桑、須原、
よみかき
桃山、読書、大井、落合と、次々に発電所を建設。旧八百津発
電所は木曽川電源開発のトップを切った発電所であった。
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●
水とともに 水がささえる豊かな社会
館内には巨大な水車と発電機が並ぶ。
このうち一組の水車と発電機は技
術の推移を示すものとして、昭和60年EXPO`85国際科学技術博覧会に
出品展示された。
取材協力:八百津町教育委員会
参考文献:
『岐阜県重要文化財旧八百津発電所保存修理事業報告書』1998 年
八百津町発行
「旧八百津発電所(八百津町郷土館)−産業技術上の評価につい
て−」加藤博雄、高橋伊佐夫著『日本の産業遺産』所収 1986
年玉川大学出版部刊
車にはない機構が追加されるなど、はるかに高性能に改良さ
れていた。また、米国ゼネラルエレクトリック社製の発電機は
大正 12 年ころ、芝浦電気(現東芝)
によってコイル巻き変え
が行われ、国産技術によって発電所総出力が 7,500kW から
9,600kW へと増強された。
これらの水車と発電機は、旧八百津発電所資料館内に今も
残されており、明治 40 年代の欧米の技術水準と、自立を果た
しつつある日本の技術水準を示す貴重な資料となっている。
類例のない連成水車をもつ放水口発電所
八百津発電所の設計においては、木曽川の洪水時の水位を
実際より高く見積もったため、放水口位置が高く未利用の落差
が残っていた。電力需要が増加した大正 6 年に、この残存落
差約 6.7m を利用した放水口発電所が設置されたことも八百
左奥の八百津発電所の放水口から出た水は、写真手前の放水口発電所
を取り巻く水槽に溜まり、再び水車を回してから木曽川へ放流される。
津発電所の大きな特徴だ。発電後に放水した水を再び水槽に
溜め、放水口発電所の左右に置かれた水車を回してから木曽
水没した状態で運転さ
れる放水口発電所の連
成水車
(日立製作所製)
。
写真は左側のもの。二輪
の露出型水車 2 台をつ
なげてある。
川に放流した。
当時欧米では低落差用プロペラ水車
(カプラン水車)
が開発
されつつあったが、その開発力は日本にはなく、既存のフラン
シス水車を発電機の左右に 2 台ずつつなげた類例のない連
成水車を考案。発電機と左右合計 4 台の水車の回転軸は計
27 mにも及んだという。この
「極端な例」
と評された連成水車
は、既存技術を導入改良して極限まで高度に利用するという日
本の産業技術の特徴を示す典型例とされている。
レンガ建物も貴重な遺構
放水口発電所の発電機
(日立製作所製)。シャ
フトの両側に連成水車
があり、発電機を回す。
発電所本館は、外壁はモルタル、内部は漆喰で塗られたレ
ンガ建造物だ。発電室は熱がこもらないよう12m もの軒高の
吹き抜けとなっており、建物の約半分を占める送電棟は吹き抜
け側から見ると中 2 階という造り。送電棟の1階は母線室、2
階が配電室という設計だ。この建物も歴史的に貴重な遺構で、
2 階の配電室の床は
「防火床」
という近代初期の重層建築に用
重要文化財指定一覧 4 所
発 電 所 本 館:発電機棟(発電装置 3 基、走行クレーン 1 基を含
む)及び送電棟、水圧管路(水圧鉄管を欠く)5 組、
放水路からなる。
放水口発電所:発 電所建屋(発電装置 1 基、走行クレーン 1 基
を含む)1棟、水槽からなる。
水槽(鉄筋コンクリート造桁橋 7 基、門扉、開閉装置 1 式を含む)、
余水路、雑種地(門柱、煉瓦塀、擁壁、管理用階段を含む)
いられた工法が採用されている。通常のレンガ建物では床や
梁を木造にするため火災に弱い。その対策として、鉄骨の梁を
かけその梁間をレンガによる連続アーチで埋めて床を支える
手法が使われた。愛知県半田市にある旧カブトビール工場や、
迎賓館赤坂離宮など他のレンガ建築における現存例は限られ
ている。産業史ばかりでなく建築史の上でも貴重な遺産であ
り、重要文化財にふさわしいといえる。
4 つ並んだ上部貯水槽のゲートと余水路(手前の溝)。これらの施設は、
発電所敷地とともに平成 17 年に重要文化財に追加指定された。
水の土木遺産/旧八百津発電所
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