‐ ▼ 1郵卜〆 郡 ザ 野 村 武 二 先 生 を偲 ん で 風 呂 か ら出て来 た よ うな顔色 の よい、 一 寸 日本人離れ した顔 立 ちで、背が高 く、 なか なかハ ンサ ム な風貌、 これが私 の持 っ ている野村武 二先 生の印象 です。 野村先生 にお会 い してお話 ししたのはただの一度 だ けで 、多 分 1964年 で したか 、 一 連 の 演 奏 会 の為 に ヨー ロ ッパ か ら一 時帰 国 した折 に京都 の新 井 覚 先 生 のお 宅 で三 人 で一夜 を明 か した 時 で した 。 新 井 先 生 と何 とな く顔 が似 て い るせ い か 、 は じめ は二 人 が兄 弟 か な、 と錯 覚 を起 こ し ま した。 話 の 中心 は勿論 音 楽 で 、 あ の 頃数少 なか った レコー ドにつ い てで した。 カザ ル ス をは じめ フ ォイヤ ー マ ン、 ビ ア テ ィ ゴ ルス キ ー 、 マ ンシ ャル 等 、殆 どの もの は三 人共聴 い て知 ってい て 、話 が よ く合 い ま した。 今 の 時代 の 人 は大 変 で す 。 一 つ の 曲 に彩 しい 数 の 録 音 が あ って何 を選 んで い い の か途 方 に暮 が る。 昔 はいい 時代 で した。… エ ヘ ン.… 。 よ く聞 くフ レーズ で す ね。 私 も年 を取 りま した。 然 し、 そ れ に して も演 奏 家 (音 楽家 /芸 術 家 )と して見 た場 合 、 まだ カザ ル ス や ク ラ 、 イス ラ ー の右 に出 る人 はい な い 、 と′ と 得 て い ます 。 と、 い った具合 に楽 しい一 晩 で した。 武 二 先 生 の ご冥福 を祈 る と共 に、 睦枝 先 生並 び に立 派 な後 継 者 で い られ る朋 亨 さんの ご健 勝 を心 か ら祈 る ものです 。 2001年 7月 6日 松本 にて 社 団法 人 才 能教 育研 究 会 会長 豊 田 耕 兒 野村先 生 との 出会 い 野 村 先 生 を偲 ぶ 会 代表 司 馬 良 一 (1962年 ∼1967年 まで師事 現在、兵庫県立のじぎく療育センター院長) 昭和 37年 で したか、大学のオケで我流でチ ェロをやっていた時 のことで した。楽器の修理 を して くれてい た多久島氏 に勧 め られて、大阪音大の永井先生 のお宅で レッス ンをは じめ られて 間 もない野村武 二先生 を訪ね て行 ったのが 出会 いで した。生徒 は神戸支部長 で耳鼻科 の難波先 生 とバ リバ リ弾 いてた小学生 の福波君 と私 の 3人 で した。私事 で恐縮 ですが、長男、次男 が山 本剛史先生 にバ イオリンを教 わったこともあ り、神戸支部長 をしば らくや らせていただ きまし た し、私が長女 を連れて野村先 生にチ ェロの レッス ンを うけ に行 ってた とい う状態 で長年才能 教育研究会 にどっぷ り浸か つてお りました。そ んなある日、救急病院 にい た私 の医学部時代 の 同級 生か ら、こうい う方が運 びこまれたが君 の知 り合 いではないのか とい う電話 を うけ と りま ・ ・)、 した。 呼吸停止 で 、そ の原 因が肺が んによる圧迫 らしい (パ イプ姿 が似合 って ましたが・ 関西支部 の理事たちのおはか らい もあ り、神戸大学病院に転送 される ことにな りました。病巣 が拡がつてお り、手術す ることもで きず、お亡 くな りにな りました。私 もその病院に勤めてい たこともあ り、師 の最期 をみ とどけ ることがで きましたが、安 らかで、 ロマ ンの漂 つた、 どこ とな く誇 らしげな顔 に見 えました。 野村先生 か らはチ ェロのテクニ ックはもちろんの こと、音楽 の心 を教わ り、砂漠が水滴 を吸 い込 むように音楽 に飢 えていた私 の魂 を満足 させて くれたことに感謝 してお ります。今 日お集 ま りの 門下生、 ご父兄、友人 たちも同 じ思 い をお もちになってい るのではないで しょうか。没 後 20年 にあた り先 生 を偲ぶ コンサ ー トをやろうとい う声 が湧 き出 し、関係諸氏の ご尽力 で実 現で き、 うれ しく思 うと同時に代表 としてお礼 を申し上げたい と思います。 ベー トーベンのメヌエ ットはこうひ くんだヨ、白鳥はもっと歌 つて……。声が きこえて くる ようです。野村先生あ りがとうございました。飲みながら天国できいて下さい。 親友 !野 村武 二先 生 新井 覚 (社 団法人 才能教育研究会 教育部バ イオリン科 指導者) 思 えば本 当 に古 い 長 い 友達 で した。 15才 の 時、 旧制松 本 中学 の音 楽部 で の 出会 い で す 。彼 は始 め は ヴ ァイオ リ ン を持 って 来 て私 と一 緒 に第 1ヴ ァイオ リ ン を弾 い て ア ンサ ンブル をや ってい ま したが チ ェロの先 輩 が 東 京音 楽学校 (現 東 京芸大 )へ 行 って しまったので、数人 の ヴ アイオ リ ンの 中 で一 番 指 の大 い 野村 君 をチ ェ ロ に転 向 させ 、 これが 当 た りで彼 のチ ェ ロ は始 めか ら素 晴 ら しい音 で した。学制 が変 わ り新 制 高校 にな り卒業 す る まで の 4年 間、私 が 第 1、 高校 教 師 にな った北村 君 が第 2、 定 年 まで N響 で ヴ イオ ラ を弾 い た 河野 君 、 チ ェロが野村 君 で深志高校 弦 楽 四重奏 団 を組 み随分演奏 活動 を しま した。 そ の後彼 は東 京 フ イルハ ーモ ニ ー に入 団 し 1年 程 オケ マ ンを してお りま した が 、私 が 指 導 を してお りま した才 能教 育研 究会 京都 支部 に ど う して も弦 楽合 奏 団 を作 りた く、オ 能教 育 のチ ェ ロ科 の指 導 者 に推 薦 して故佐 藤 良雄 先 生 に 次 ぐ才 能教 育 2人 目の 指 導者 と して 京都 に迎 え ま した。期待 通 り彼 は沢 山 の 優 れ た生 徒 を育 て て くれ、私 の 目的 も達成 され てお ります 。彼 と一 緒 に作 っ た コ ンチ ェル テ ィー ノ ・ デ イ ・ キ ョウ トの第 23回 演奏 会 で私 の憧 れであ った フェ リ ック ・ ア ー ヨ とヴ イヴ ァル デ イの 四季 を共演 す るその 当 日ホ ー ル に出 か け る直前 に亡 くな った連 絡 が入 り愕 然 と し運 命 の い たず らで は済 ま され な い何 か を感 じま した。49才 の 若 さで あ ま りに も早 す ぎます。他 の 3人 は患 い は してお ります が 皆元 気 に してお り何 故彼 だ けが と残 念 で堪 りませ ん。思 い 起 こせ ば色 々 な こ とが 走 馬燈 の よ う に頭 を駆 け巡 ります。 とて も 1、 2ペ ー ジ に書 きつ くす こ とは出 来 ませ ん。私 は死 ぬ まで彼 の こ とを忘 れ る こ とは な いで しょっ。 彼 が 関西 に残 した功 績 は計 り知 れ な い ものです 。彼 の指 導 を受 け た多 数 の 方 々が プ ロ ア マ を問 わ ず 、更 に立派 にな って頂 く と共 に もっ と もっ とチ ェロ を愛す る人 の輪 を広 げ て行 くこ とが恩返 しになる と思 い ます。 : チェロ斉奏 フォー レ :エ レジー ′ a rIを セ G勁 ッ ヴィヴ ァルデ ィ :2つ のチ ェロのための協奏 曲 よ り第 1楽 章 」 ο κ σ ι lst/1rο υ θ /11`″ AИ ″I′i Cο πε οル″T7Clο Иο 77ο s′ `″ サ ン=サ ー ンス :自 鳥 α71 C Sα ′ ″ s:T″ `Sの `=Sα `れ ベ ー トー ヴ ェ ン :メ ヌエ ッ ト ト長調 Lυ B“ ルο υι π,Mれ ″ ′ れG Mayο 7 `′ 池田 洋子 │1雅 人 イヽ 上野 達弘 小河 伸年 小り 倉巌 佐谷 記世 司馬 良一 杉 山 実 鈴木 奈緒子 中川 俊寛 野村 朋亨 森田 健 二 柳 田 聡 壁瀬 宥雅 田中 伸 一郎 高瀬 恵理也 山口 真由美 河地 正美 山口 芽久美 ピアノ :財 津 早苗 ‖ チェロ独奏 エ ル ブ ロ ワ :哀 歌 D Hι ′ υ′ ′ πι `,PIα ` ポ ッパ ー :ガ ボ ッ ト ニ 長調 ι ′ :G′ υ ο オ ′ ι′ れDル ′ ο ′ D Pο′ ′ J.S.バ ッハ :ア リオ ー ソ 'ο I′ ″:A″ わsο IS B′ ε チ ェロ :高 瀬 恵理也 ピアノ :財 津 早苗 ◆ ラフマニノ フ:チ エロソナタOp.19よ り第 3楽 章 力177α れ蒻 り チ ク0′ S Rα ε げ Sο πク チェロ :野 村 朋亨 9′ ュ 34′ 777ο υ ι z′ れ チ ピアノ :小 杉 恵 <休 憩 > Ⅲ チェロアンサンブル ポ ッパ ー :2つ の チ ェ ロ の ため の 組 曲 Op.16 DPψ ′′ 4S′ ′ たル′Tω οC′ 77ο s O′ 16 野村 朋亨 。高瀬 恵理也 米原 徹 ポ ッパ ー :レ クイエ ム D Pο ′ ′″:R′ 7117`/77 壁瀬 宥雅 ・森 田 健 二 ・米原 徹 ピアノ :財 津 早苗 ブル ッフ :コ ル ・ニ ドライ λf B″ 夕ε ″:Kο 7 77ブ ′″ `ブ 野村 朋 亨 ・ 山口 真 由美 ・高瀬 恵理也 ・山口 芽久美 ・上野 達弘 ク レ ン ゲ ル :讃 歌 JKル 4g′ liワ 協42S 野村 朋亨 ・山口真由美 河地 正美・森田健二・壁瀬 宥雅・柳田 聡 米原 徹 高瀬 恵理也・佐谷 記世 司馬 良―・上野 達弘・中川 俊寛・山口 芽久美 │1雅 人・小倉 巌・田中伸一郎 小河 伸年・杉山 実・鈴木 奈緒子・小り SOLOISTS&PIA NISTS 野村 朋亨 (チ ェロ) Tomoyuki Nomura 5歳 より才能教育研究会でチェロを学び、7歳 か ら15歳 までの間、計 8回 海外派遣演奏団のソリス トとしてフィラデルフイアやニュ ーヨー クカー ネギーホール等各地 で演奏する。 1977年 17歳 よリフランス国立パ リ高等音楽院に留学。アン ドレ ナヴァラの薫陶を 受ける。チェロ科、室内楽科 を共にプル ミエール プリを得 て 1981年 卒業。在学中ニース夏期国際音楽アカデ ミー、クラーゲ ンフ ル ト音楽アカデ ミーで講習 を受け、 またラジオフラ ンス にて演奏する。卒業後はブー レーズ率 いるア ンサ ンブル アンテル コン タンポランヘ の参加 を強 く勧め られたが、父の急病で断念 し1981年 帰国。帰国後 1993年 まで才能教育研究会チェロ教室で指導に務 める。恩 師ゆず りの優雅 で力強 く情熱的な演奏 には定評があ り、 これ までにハ イ ドン ラロ シューマ ン サ ン=サ ー ンス ドヴ ォルザ ー クの協奏曲を演奏の他、国内各地での リサイタル も数多 く、また室内楽で も活躍。最近はオーケス トラの首席客演 も多数 つ とめるなど幅広 く演奏活動 を展開 し、各 々好評 を得 ている。チェロをアン ドレ ナヴァラ、フイリップ ミュレー、マ ダム=ニ コル デノー、ル ドルフ・マ ングルカ、佐藤良雄、野村武二の各氏 に、室内楽 をジャック パ レナ ン、ジェラール ジャリ、イヴ ォンヌ ロ リオの各氏 に、他 にウイリアム・ プリム ローズ、鈴木鎮―の各氏 に演奏法 を師事。 高瀬 恵理也 (チ ェロ)Eliya Takase 3歳 よリヴァイオリンを、父・高瀬乙慈氏 に師事。9歳 よリチェロに転向。故野村武二氏 に師事。京都市立堀川高校音楽科 (現 京 都市立音楽高校 )卒 業。相愛大学音楽学部器楽科弦専攻 3回 生中退。第 21回 民音室内楽 コンクール (現 東京国際音楽 コンクール) 弦楽四重奏部門入選。第2回 宝塚 ベ ガ室内楽 コンクール第3位 。 ニュー フィルハーモニー管弦楽団、宝塚歌劇場 オーケス トラを経 て、現在、京都市交響楽団に所属。 これまでに、河野文昭、柳田 耕治、上村昇、田中雅弘の各氏に師事。室内楽 を久合田緑、小栗 まち絵の各氏 に師事。 レス トロ アルモニコ弦楽合奏団、ア ンサ ンブル ソナーレ、アボバ 四重奏団、八軒康浩弦楽四重奏団のメ ンバー としても活躍。 杉 恵 (ピ アノ)Megumi Kosugi 京都市立芸術大学音楽部卒業。同大学大学院音楽研究科終了。在学中、同大学定期演奏会学内 リサイタル等 に出演。NHK洋 楽オー デイション合格。NHK FMリ サイタル出演。 ウィーン夏期音楽研修 に参加、 ロー ラン ド ケラー教授 の指導を受け、研修終了演奏 会に出演。 リサイタル開催のほか、下北山弦楽ア ンサ ンブルとの共演、奈良県新人演奏会、関西モーツァル ト協会例会等多数出演。 また、器楽、声楽の伴奏者 として も活躍中。 ピアプを神西敦子、古川五己、吉田輝子 の各氏 に、室内楽を荒憲一、岸辺百々雄 の両氏に師事。 4ヽ 財津 早苗 (ピ アノ) sanae Z激 tsu 京都市立芸術大学卒業。卒業演奏会、朝 日推薦演奏会、兵庫県新人演奏会、なにわ芸術祭 に出演。大阪フイル、関西 フイル、東京 ゾリステンとピアノ協奏曲を共演。1991年 より毎年 リサイタルを開催する他、伴奏、室内楽の分野で も活動 を行ってい る。 金澤綾子、金澤和孝、鈴木良一、園田高弘の各氏 に師事。 に、私がなかなか進去 ない生意気な子供そあうだな ヽ .し │め :∴ 111』 1轟 11凛 式裔 ここに先生が生前、冊子類 に寄稿 された文章 を二編転載 いた します。行間か ら汲み取れるのは 生徒なら誰 もが′ 心の中にしっか りと留めているとお りの、敬愛すべ き武二先生の姿です。 チェロとい う楽器 を愛 し、生涯真摯 に取 り組んでお られました。 私 の生 い た ち 止 ま り、 ニ コニ コ と私 の顔 を見 なが ら「あ なたの 野村 武 二 Dは 高 い で す Jと お っ しゃい ま した。 私 の全 身 は 冷 や汗 で び っ しょ りで した。 中学 二 年生 の 頃、 自己流 でバ イオ リ ン を始 め た 私 は 、やが て学校 の クラブで第一 バ イオ リ ンを弾 や が て 大 学 受 験 。 当 時 の チ ェ ロ科 は 定 員 四名 、 くよ う にな りま した。 その ク ラブ にはチ ェ リス ト ところが 受験 生 は五 名 、 しか も私 が一 番 レベ ルの が一 人 い たの で す が 、彼 が東 京 芸大 に入 って しま 低 い 曲 をや ってい るので 、 もうす っか りあ きらめ ったので す 。 そ こで 誰 かチ ェ ロ をや らな い か、 と て い ま した 。 や が て 発 表 の 日、 私 は 「 そ れ で い う こ とにな り、私 の 指 が太 い とい う こ とで私 が も・・ ・Jと 思 い 、学校 へ 行 ってみ る と私 の名前 や る こ とにな ったの で す。高校 二 年 の 時 だ った と が書 い てあ るので す 。 こん な にび っ く りした こ と 思 い ます 。楽譜 もまった く読 め な い の に、 その 日 はあ りませ ん。 そ の足 で す ぐ小 沢先 生 のお宅 に伺 か らア ンサ ンブルが始 ま りま した。 そ ん な事 をや い 、「 ど う して入 つたので す か ?J「 まあ い ず れ何 ってい る うち に私 はチ ェ ロの魅 力 か ら離 れ る こ と とか な るか と思 つて ナ」。 こ う して私 の 東 京 芸 大 が で きな くな って しまったのです。 太 平 洋戦争 直 の生 活 が始 まったのですが 、 そ れ は ひ どい もので 後 、 しか も私 の 両 親 は 明治 の 人 で したか ら、私 が した。 で もそ れ は ここで は書 きます まい 。 四年 も チ ェロ をや る こ とには大 反対 で したが 、私 は一週 終 了 の 頃、小 沢先 生 が 「 フル ブ ライ ト留 学 を受 け 間 のハ ンガース トライキ に よってや っ とみ とめ て てみ な い かJと お っ しゃい ま した。私 はそ の 日か もらい 、先 輩 の紹 介 に よ り東 京芸 大 の小 沢 弘教授 ら英 語 の 勉 強 を始 め ま した が 三 日 目 に して ダ ウ に師事 し、毎 月一 回松 本 か ら東 京 ヘ レ ッス ンに通 ン、 そ して 東 京 の オ ー ケス トラ に入 団 しま した。 う こ とにな りま した。高校 三 年 の四 月 の こ とです 。 あ ま り面 白 くな い生 活 を して い る時 、京都 支部 か そ の 頃私 はテ ニ ス もや ってい ま したので、毎 日学 らチ ェロ科 指導 者 の招 きが あ り、昭和 校 ヘ チ ェ ロ とラケ ッ トと学校 の カバ ン を持 って通 か ら助 教 と しての生 活 が 始 ま りま した。生 徒 数 三 い ま した。 しか し学校 で はほ とん どチ ェ ロ を弾 い 名 。 そ れ以前 、才能教 育 のチ ェ ロ科 は カザ ルス 奏 て い ま して 、授 業 には ほ とん どで ませ んで した。 法 で行 こ う とい う こ とで 、私 は佐藤 良雄先 生 に師 何 しろ大 学受験 まで に一年 しか なか ったので す か 事 しま した。 チ ェ ロの奏法 を教 えて頂 い たの は勿 ら。 論 で す が 、先 生 は カザ ルス の こ と となる と、時 間 31年 四 月 そ の 頃 の私 はオ 能教 育 には まった く関係 なか っ を忘 れ てい ろい ろお 話 して下 さい ま した。京都 に たのです が 、鈴 木鎮 一 先 生 指揮 す る松 本 弦 楽 団 に 来 てか ら も私 は毎 月一 回、佐 藤先 生 のお宅 に レッ チ ェロが無 い とい う こ とで 、私 が 時 々お 手伝 い に ス ンに通 い ま した。 さてチ ェ ロ科 の 方 は多少 生徒 参 りま した。 その第一 回 の練 習 、何 の 曲か忘 れ ま が殖 えた もの の 、一 向 に発 展 しませ ん。 そ こで神 したが 、チ ェ ロ は c絃 の Dの 音 か ら始 まるのです 。 戸 支部 、大 阪 、大 阪 第 二 支部等 にお願 い して教 室 とにか く偉 大 な先 生 の指揮 です か ら、私 はす っか を作 って頂 き、 や っ と何 とか チ ェ ロ教 室 ら しい形 り上 が ってい ま した。 先 生 の棒 が 降 りま した。 私 が 出来 た ので す が 、 困 っ た 問題 が お こ りま した。 はブ ー とDの 音 を鳴 ら しま した。鈴 木先 生 の 手 が 各支 部 とも発 表 会 、演奏 会 とい った もの は四 月 か 五 月 ぐらい にや るので す 。従 って私 は 、 あ ち らの ます。彼 は五 歳 か らチ ェロ を始 め ま した。皆 さん、 支部 の リハ ー サ ル 、 こ ち らの支 部 の本 番 と、 か け よ く「 よほ ど特 訓 した んだ ろ う」 とお っ しゃい ま 廻 らね ば な りませ ん。通 常 の レ ッス ン も乱 れが ち す。 で も考 えてみ て下 さい 、彼 は私 が寝 て い る 間 で 、父兄側 か ら苦情 が 出 る よ う にな りま した。私 に幼稚 園 また は学校 に行 き、彼 が帰 って くる頃 は の 家 内 は ピ ア ノ科 をや ってい ま したので相談 の結 私 は仕事 に出か け る、 とい う状 態 です か ら レ ッス 果 、 チ ェ ロ科 、 ビア ノ科 に よる新 しい支 部 を設 立 ンな ど してや れ るわ けが な いで し ょう。 ただ私 は した の で す 。 昭和 五 十 年 の 四 月 で した。「梅 田支 出か け る前 に「今 日は この 曲 とこの 曲 を練 習 しな 部 Jと さい Jと い う ア ドバ イス だ け は してお きま した。 言 い ます。 昭和 三 十 一 年 頃 の 京 都 と言 うか 関西 と言 うか 、 豊 田耕 児 さんが ベ ル リ ンで彼 の演 奏 を聞 い て下 さ 私 が チ ェ ロ を持 って街 を歩 い て い る と「 で っか い い ま した。 その後 お 目にかか ってい ろい ろお 話 し シ ャ ミセ ンだ ナ ーJ「 お い 、 あれ は ビ ワか 」「 あれ て い る と、「朋 亨 君 は な か なか 良 く弾 くけ れ ど、 ハ ー プや ろ」「 い や 、 あ れ は ベ ース ギ ター とい っ オヤ ジが教 えなか ったのが 良 か ったので しょうね て、 ギ ター の の い ち ば んで っか い や つ や J。 私 は ―J。 街 を歩 くのが何 とな く恥 ず か しい 毎 日で した。 で 「 どの 子 も育 つ 先 生 しだ い J「 どの 子 も育 つ 親 も時代 は徐 々 に変化 して きま した。佐 藤 先 生 が お しだ い 」「 どの子 も育 つ 私 しだ いJと 鈴 木 先 生 は っ しゃい ま した 、「野村 さん、昔 は音 楽 な んぞ や お っ しゃい ます。昔 の私 の大 変優 秀 な生徒 が 、突 るなや る な と言 つてケ ンカ した もの だが 、今 日で 大態 になって しまったの で す 。原 因 を 然 お か しな材 は 、や れ、や れ と言 つてケ ンカ して い る。面 白い 聞 い て み る と、「 お母 ち ゃんが う る さい か らや 」。 もの だ ネJ。 私 はお母 さん に手 を引 い て もらい ま した。彼 は今 、 あ る会社 のサ ラ リーマ ンで す 。 しか しチ ェロはい 私 の長 男 につ い て、 ち ょっ と触 れ てお きま しょ まだ に続 けて い ます。 う。現在 パ リ・ コ ンセルバ トワ ール で勉 強 して い 今 回 の ミュ ンヘ ン世界 大 会 、 チ ェ ロ科 は十 名程 の指 導者 と二 十名程 の生 徒 が 集 ま りま した。 そ し て 少 な い なが ら もチ ェ ロ科 な りの 成 果 を は た し た 、 と思 ってい ます。 た だ、 どこの 国 の先 生 方 に 聞 い て も「チ ェ ロ科 はバ イオ リ ン科 の援 助 が な い とや ってい け な い」 とい う こ とで した。 私 は 自分 自身 の 事 で な く、「世 界 の チ ェ ロ の発 展 Jの ため に、 バ イオ リ ンの先 生方 の ご協 力 を心 か らお願 い 致 します。 鈴 木 先 生 はお っ しゃ って い ます 、「私 は 来 世 は 三 歳 か らチ ェ ロ をや ります ので 野村先 生 、 ひ とつ よろ しくお願 い しますJと 。 (季 刊誌「才能教育」 50号 1979年 11月 より転載 ) チ ェ ロ 人 生 い う小 さ な町 で は め ず ら しい 存 在 で した。 と こ 野村 武二 ろ が 彼 が 東 京 芸 術 大 学 に入 つ て し ま っ た の で す 。音 楽 部 と して は 「サ ー 大 変 、 チ ェ ロが無 い 」 私 は 源 地 小 学 校 か ら松 中 を受 験 しま した 。 受 とい う事 に な っ た の で す 。 そ こで 兎 に角 楽 器 を 験 前 日、 急 性 肺 炎 で 四十 度 近 い 熱 を出 し、 ペ ニ 手 に入 れ よ う、 とい う事 に な っ た の で す が お 金 シ リ ン注 射 を して も らい 、校 長 室 で 試 験 を受 け が あ りませ ん 。 い ろ い ろ 考 え て 「名 演 奏 家 の コ ま した。 あ き らめ て い た の で す が 、 ど う い う わ ンサ ー トをや っ て何 とか 儲 け て み よ うで は な い け か 入 つて しま っ た の で す 。松 中 を受 験 す る位 か Jと い う事 に な り先 輩 野 々 山氏 の 御 尽 力 で 当 で す か ら、 小 学 校 当 時 は 常 に上 位 、「 オ レ は エ 時 の 名 バ リ トン 中 山悌 一 氏 の 招 聘 に こ ぎつ け た リ ー ト (今 で い う)な ん だ 」 とい う気 持 が 無 意 の で す 。 これ は 「音 楽 部 主 催 、 学校 後 援 」 とい 識 にあ っ た と思 う の で す が い ざ入 つ て み る と さ す が 松 中 、 エ リ ー ト揃 い 、 た ち ま ち 戦 意 (学 う形 に な り、 皆 さ ん 方 に はお 気 の 毒 なが ら「整 理 券 Jと い う形 で 何 が しか頂 戴 しま した。 そ し ?)を 失 っ て しま っ た の で す が 、 そ れ をたす て 大 成 功 、 当 時 の 金 で 一 万 何 が しか の 利 益 を得 け て くれ た の が 軍 事 教 練 、 しか し、私 の心 の 中 た の で す 。 ち ょう どそ の 頃 、 市 内 の あ る 楽 器 店 は空 白そ の もの で した。 そ して八 月 十 五 日、皆 に「八 〇 〇 〇 円 Jの チ ェ ロ が 一 本 ぶ ら下 が つて 意 さん も同 じ と思 い ます が 、私 は 「 ホ ッJと した い た の で 早 速 私 達 は そ れ を手 に入 れ 、 更 に 「電 思 い で した。 しか し一 方 食 糧 難 、 ま っ た く ヒモ 蓄 Jも 備 え ま した 。 私 達 音 楽 部 員 は そ れ こ そ ジ イ思 い を しま した ネ、 お互 い さ ま。 「 天 に も昇 るJ思 い で した が 、 さ て 、 誰 が チ ェ 松 中 二 年 か 三 年 か忘 れ ま した が 私 は 自己 流 で ロ を弾 くか 、 とい う段 に な っ て 困 っ て しま っ た バ イ オ リ ン を始 め ま した。 妙 な言 い 方 か も知 れ の で す 。 あ あ で もな い 、 こ うで もな い と云 っ て ませ んが 、私 は幼 稚 園時代 か ら音 楽 に は 秀 で て い た ら しし、の で す 。従 ってバ イ オ リ ン も 自 己流 なが らメ キ メ キ 巧 くな りま した。私 は松 中 の 音 楽 部 (ク ラ ブ )に 入 りま した。 正 確 に い え │ゴ 「深 志 高 校 併 設 中学 Jで した か ね。 私 は 学 業 よ リク ラ ブ 活 動 の 方 に熱 中 しま した 。 そ れ か ら誰 か 覚 えて い て下 さい ます か ね 、私 は テ ニ ス もや っ た んで す 。 学 校 の カバ ン、 バ イ オ リ ン、 テ ニ ス の ラケ ッ トを持 って 毎 日通 学 しま した。 そ して い つ の 間 にか 「深 志 高校 生 」 に な っ て い た の で す 。 先 に 申 しま した よ う に私 はす で に学 意 な ど全 く とい って 良 い 程 あ りませ んで した。 毎 日学校 で ホ ー ム ル ー ム に顔 を出す と (お 義 理 で )あ とは 部 室 で バ イ オ リ ンを弾 き、 息 抜 きにテ ニ ス をや る とい っ た毎 日で した。 当時 音 楽 部 に、 野 々 山 さん と云 うチ ェ ロ弾 ・戦 後 間 もな い 、 しか も松 本 と きが い ま した。 │ い る 内 に、 ふ と私 の 指 が 太 い の に気 づ き「 オ レ いの か ?J 指 が 太 い か らや っ て み る よ」 こ れ が 私 の 人 生 を 「ハ イ」 ・。 決 め る とは夢 に も思 わ なか っ た の で す が・…・ 「芸術 の道 は きび しい ぞ」 チ ェ ロ は 手 に入 つ た もの の 、 ケ ー ス が あ りま せ ん 。 母 親 か ら古 い フ トン袋 を も らっ て 私 は 自 「わか ってい ます」 分 で ケ ー ス を作 りま した。 弓 な ど勿 論 あ りませ 「親 はゆる して い るのか」 「ハ イ、 まあ なん とか」 ん 。 私 は バ イ オ リ ンの 弓 で や っ て い た の で す 。 「お まえは単位 が足 りない か ら卒業 出来 ない ん そ ん な 事 皆 さん 御 存 知 な い で し ょ う。 夏 休 み や 正 月休 み に帰 省 した野 々 山氏 に手 ほ ど きを受 け ま した。 も うそ の 頃 は 私 は チ ェ ロ に と りつ か れ て い ま した か ら殆 どの 先 生 方 か らに ら まれ て い ま した。 だ っ て授 業 に殆 ん ど出 な い ん で す か ら だぞJ ・………」 しば ら くして私 は 「・ 「 で も、 ど う して もチ ェ ロ をや りたい んです 」 岡田校長が 「 よ し、 わか った。単位 の方 は何 とか してや る か ら絶 対 チ ェ ロの 道 に進 む んだぞ 、 いい かJ私 この 位 の 年 齢 に は 今 で もそ う で す が 「軟 派 J と 「 硬 派 」 が あ り ます 。 ど う い う わ け か 私 は 「 軟 派 」 の チ ャ ン ピ オ ン と して 「 硬 派 」 か らず いぶ ん い じめ られ ま した。 思 い 当 た る 方 、 お あ は涙 が 出 て しか たが あ りませ んで した。真 島先 生も 「 よか ったな、頑張 れ よ」 と云 って下 さい ま した。 それか らは私 は毎 日 りで し ょう… … で も、 今 に して思 え ば 、 コ ンパ 八 時 間 の練 習 を して何 とか入 試 に成 功 したので (部 の )の 夜 、 裏 の リ ン ゴ 園 に リ ン ゴ を盗 み に す。 い っ て追 っか け られ た り、 部 室 で こ っ そ り酒 を 私 は 現 在 、 才 能 教 育 研 究 会 チ ェ ロ科 指 導 者 飲 ん だ り、 まあ 思 え ば あ ま り立 派 な 高 校 生 で は (教 授 )と して五 〇 名程 の生 徒 を教 えて い ます。 なか った よ うで す 。 会 長 の鈴 木鎮 一 氏 は 「 どの子 も育 つ 、育 て方 し 三 年 生 の 、 正 確 にい え ば 、 二 年 生 の 後 半 か ら だい」 と言 ってい ます。 私 の生 徒 か ら立 派 なチ 私 は 、「 自分 の 生 き る 道 は チ ェ ロ 以 外 に無 い J ェ リス トも沢 山 出 て い ます 。 しか し、「 どの 子 と思 う よ う に な りま した。 そ して 東 京 芸 術 大 学 も育 つ 、育 て方 しだ いJを わ た し自身 に行 って 入 試 をめ ざ し、 本 格 的 な勉 強 に と りか か りま し 下 さつたの は 岡 田校 長 と真 島先生 で は なか った た 。 三 年 の 四 月 か ら毎 月 一 回東 京 芸 大 主 任 教 授 で しようか。 私 は今 、 日に涙 をい っぱい ため な の も とヘ レ ッス ンに 通 う よ うに な りま した。 従 が らこれ を書 い て い ます。 って 先 に も申 しま した よ う に学 校 の 先 生 方 の 殆 ど とケ ンカ しま した。 一九八 一年 六 月十 日 「 野 村 、 こ こ は音 楽 学 校 の 予 備 校 で は な い ぞ J 「 で も東 大 の 予 備 校 で もな い で し ょ うJと い っ た具合 ですもそんな調子 だか ら「単位 」 な ども らえるはずがあ りませ ん。卒業 と入試は 日々に 迫 って来 ます。私 は岡田校長 に校 長室 に呼 ばれ ま した。そこには担任 の真島先生 もい らっ しゃ い ました。 「野 村 、本 当 に音 楽 (チ ェ ロ)で や っ て い きた (松 本深志高等学校同窓生による文集より転載) 己 言 0発 早 い もので、父が亡 くな って もう20年 が経 ちました。生前、彼が私 に語って くれた こと ですが、京都で才能教育チ ェロ科 の教室 を初めて開いた ときの生徒数 は、 たった3人 だった そ うです。それか ら20数 年、あ まりにも短 い期 間で したが、その間全盛期 には70名 を超 え る生徒 を指導 し、関西 にチ ェロとい う楽器 を広めたその功績 には本当に頭が下が る思いです。 父 野村武二は′ さか らチ ェロを、音楽 を愛 してい ました。 チェロの技術 よ りも、その楽器 に よって造 り出 される音楽 のす ば らしさを教 えた人で した。数多 くの門下生 の 中には、音楽 の 道へ進 まれた方 もい らっしゃい ます。で も他 の方面 で御活躍 の方 々が今 もなおチ ェロを愛 し、 このコンサ ー トを企画 して くださ り、今 日こうして御 一緒 に演奏 で きる ことを心か ら感謝 い た します。練習 も和気調 々 と行 われましたが、その音 のなかにやは り父が生 きているのです。 ふるさとに戻 ったような懐か しさで胸が いつぱいにな りました。本 日の曲目の中には、父 の 思 い出がた くさん詰 まってい ます。合奏 レッス ンを思 い起 こす第一部 の斉奏。彼が大好 きだ つた作 曲家、ラフマニ ノフ。 レッス ンで散 々 しごかれた小 品。共に学 んだ仲間に よるアンサ ンブル。そ して尊敬 の念 を込めた 『讃歌』。最後 にな りま したが、主催者や発起人 の方 々、 そ して コンサ ー トに御協力 いただい た皆様 に改めて御礼 申し上げます。本当にあ りが とうご ざい ました。 野村 朋亨 野村武 二 先生没後 20年 主催 野村先生 を偲 ぶ会 代表 司馬 良― 音楽監督 野村 朋亨 実行委員長 事務局 メモ リアル コンサ ー ト 壁瀬 宥雅 杉山 実 。河地 正美 会計 小倉 巌 印刷 佐谷 記世 出演者以外の発起人の方々 伊丹 裕子・ 上野 淑子 。ノ河 香代子・鹿島 伸元・ lヽ 出来元治・船橋 尚美 。森田日 ョ 営業品目 {バ イオ リン 0ヴ ィオラ・チ ェロ・ コン トラバス 販売・修理 弦楽器TANl瑕 WA e― mail info@gen… tanikawa.co.jp URL 班 L・ http://wwwogen― tal■lkawa.co.jp F感 住所 営業 時 間 日本興童損害保険代理店 042-749-4223 〒228-0803 相模原 市相模大野 3-1-29 17:00(日 曜 。祭 日定休 ) 10:00∼ アイ・ アール保 険 中川 アイ・ アール不動産 滋賀県知事免許(5)1752号 損害保険(楽 器 、 自動車 、火災等)0不 動産 に関 しては、 是非 当方 にご相談下 さ い、 誠実 に対応 させて頂 きます 代表者 〒520-2273滋 中川俊寛 賀県大津市羽栗 1丁 目 5番 1号 電話 FAX Eメ 077-546-1771 077-‐ 546-L7503 ール lr― [email protected]
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