- 1 - 100号記念 特別寄稿 私のオセアニア学ことはじめ その3 青柳まちこ

日本オセアニア学会NEWSLETTER
No.102(2012年3月5日)pp.1 - 10
100号記念 特別寄稿
私のオセアニア学ことはじめ
その3
青柳まちこ(立教大学名誉教授)
1.オークランドへ
1962年2月25日、朝の9時45分、TAIのプロペラ機はニューカレドニアのトントゥタ
空港を出発した。空港まで日本商社の木村さんが送ってくださる。こうして迎えられ、送
られて行く旅は何か自分が小荷物になったような気がするが、別れは常にもの悲しさを伴
う。
機内は恐ろしく暑い。空気の調整がうまくいってないためであろうか。客室乗務員の一
人が「日本の方ですか」と日本語で話しかけてきた。ヌメアとオークランドを結ぶローカ
ル線の中で、日本語を聞くとは思わなかったので驚いていると「私は東京に6年おりまし
た」とのこと、母は日本人で日本人を見つけると日本語の練習をしているのだそうだ。
高度が上がるにつれ島は姿を消し、飛行機はちりめんの様な藍色の海の上を一路南下す
る。これで南国ともお別れ、機内の暑さも一転して寒くなってきた。やがて眼下にノ
フォーク島が見え、昼食がすんだ頃にはいよいよニュージーランド北島が眼下に現れた。
厚い雲に覆われていたが、雲間を通して北端の弧を描いた砂浜に波が打ち寄せているのが
目に入る。
空港で移民局の係官が「お母さんの手帳を持っているか?」というようなことを聞く。
意味が分からないので、もう一度聞きなおすと彼は突然笑い出し、「これはニュージーラ
ンドジョークだ」という。何が何だかさっぱり分からなかったが、こちらは入国審査で緊
張しているのに、笑い飛ばされていささか不愉快であった。
その時、空港職員から、ドクター・ボーマーが市内の空港ターミナルで待っているから
連絡するようにと告げられた。ボーマー博士とは、例のモーレア島のナイ家で逢った雲突
くような大男Ralph Bulmer博士である。タヒチ島まで一緒の船に乗ってきたが、その時
に私がニューカレドニアに1週間ほど滞在するので、オークランドに23日に着くと話した。
この間違いに数日前に気がついたが、もうどうすることも出来ないと、そのままにしてい
たのだが、ボーマー博士はわざわざ乗客名簿を調べて迎えに来て下さったのだろう。空港
ターミナル待合室の奥のベンチから立ち上がった大男は、律儀に帽子を脱いで「ウエルカ
ム」と私を迎えて下さった。そして下宿先はもう見つけておいたからと、そのまま
Prebble牧師の家に直行することになった。
2.プレベル家の生活
プレベル家は、オークランド大学のあるサイモン通りに面した牧師館で、プレベル師は
4年前イギリスから赴任してきたというアングリカン教会の牧師さんである。子どもは計
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6人、一番下キャサリンだけが女の子である。陽気で活発なプレベル夫人は、この大家族
の上にさらに2人の下宿人を置いていた。私は3人目の下宿人である。翌朝、プレベル夫
人はこれだけの大家族の名前はとても覚えられないでしょうと、一家の名前と年齢を書い
た紙を持って私の部屋にやって来た。
3日目の夕食後、夫妻が映画に行かないかと誘って下さる。筋書きは日本人外交官に嫁
いだアメリカ人女性の話で、日本の風景がたくさん出てくるらしいから、私たちはあなた
が来たら一緒に行こうと先週から話していたとのことで、ご好意が嬉しく喜んで同行する
ことにした。8時開演というのに少し遅くなり、券を買うためにプレベル師が黒い僧服の
裾を翻して坂を駆け下りて行く姿が、何となく愉快であった。
映画は日本でも良く知られているグエン寺崎夫人の自叙伝『太陽にかける橋』であった。
私にとって面白かったのはニュージーランド人観客の反応である。玄関で靴を脱ぐと笑う、
グエンの入浴中に他の男性が入ってくると、一大事といった悲鳴をあげる、戦時中の疎開
先で憲兵が一家に軍用犬をけし掛けると、憤懣やるかたない声をあげるなど、実に素朴な
観衆の声が響く。
太平洋戦争が終わってまだ20年は経っていない。当時のニュージーランドに反日的な
空気が全くなかったわけではないであろうが、映画は好感を以って受け入れられたようで
ある。上映後、何人かの女性はハンカチを眼に当てていた。しかしプレベル師は、映画は
原作とは違うとしきりに首をひねっていた。そして彼らの娘、日米開戦時の暗号にもなっ
たマリコは、背が高く、絵が上手で上野の展覧会にも入選しているなど、映画にはない情
報を教えてくれた。
広い牧師館ではあるが、これだけ人数が多いと部屋が足りなくなり、階段の踊り場の一
角を仕切ってベッドを置いている男の子たちも居た。彼らのうち、当時13歳であった3男
のリチャードは、1973年に労働党から出馬し当選を果たした。1984年、David Langeの
もとで労働党が大勝利を収めると、彼はニュージーランドの財政改革に大鉈を振るった
Roger Douglasに従ってロジャーノミックスの実現に努力し、国有財産の処理などに係わ
る政府系企業大臣に就任した。後年ダグラスに従ってアクト・ニュージーランド党に参加
し、ダグラスを継いで党首になったが、この政党の衰退に伴って政界を離れたそうである。
長男のジョンもヴィクトリア大学の法学部の教授となり、最年少のマークは公共サービス
委員会の委員長を務めたとのことで、あの礼儀正しい坊やたちも、皆さん偉くなったなと
いう感がある。
3.ニューヘブリーデスからの看護士
私のニュージーランド生活は、こうして先ずプレベル家で始まった。2月と言えば南半
球は秋の初め、木枯らしが吹き銀杏の葉が風に舞って、時雨がさっと通り過ぎると、熱帯
から来た身には何か物わびしかった。公園の様に美しいと聞いていたオークランドの街も、
新旧取り混ぜた建物が鉛色の空の下に沈み、人々はコートの襟を立て帽子を目深に被って
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忙しげに歩いている。マオリが中央ポリネシアからこの地にやってきたのは、季節は何時
だったのだろう。冬だったら南国育ちの彼らはさぞ震え上がったであろうなどと考えた。
プレベル家での生活が始まって1ヶ月ほどたった頃、ニューヘブリーデス(現ヴァヌア
ツ共和国)から一人の若い女性が口唇口蓋裂の赤ちゃんを連れて、この家の住人になった。
長男ジョンが現在ニューヘブリーデスに滞在しており、そこで知り合った家の赤ちゃんの
障害をニュージーランドで手術するために連れて来たそうだ。彼女は19歳、モトウとい
う名でペンテコスト島出身、父はオーストラリア先住民で、戦時中その島に進駐し、母と
結婚したのだそうだ。「だから私の髪は普通と一寸違うでしょ」と髪の毛を指す。
ある日洗面所にあった彼女の緑色のプラスチック製石鹸箱に、築地有明館と書いてある
のを見つけ、これはどこで手に入れたのかと聞くと、サントの商店で買ったと言う。これ
は日本語の文字だと言うと、ツキジと書いてあるならどの字がTで、どの字がKかと聞く。
私がTもKもない、この字1文字でツキなのだと説明すると、彼女は目を丸くした。そし
て「私たちの文字は英語と同じ。ただスペルが違うだけ」と言う。私たちの文字と言う言
い方が何となくおかしかったが、彼女の西欧化の度合いは私よりはるかに自然で、英語の
会話も滑らかだし、ボーイフレンドへの手紙も英語で書くそうだ。しかし逢えば現地語で
話すそうである。
偶然に彼女のことがオークランド大学の人類学スタッフの話題になり、1週間に一度大
学に通って、彼女の島の言葉を録音することになった。給料も出るそうだ。帰宅した彼女
に「今日は何をやってきたの」と聞くと、言語年代学のスワッディシュの表を使っている
らしく、表を見せて「今日はここまで」と言う。
彼女は生まれた島のペンテコスト島、学校へ通ったエピ島の言語、それにピジン、さら
にニューヘブリーデスは、1906年から1980年に独立するまで、イギリスとフランスの共
同統治であったために、英語と少々のフランス語の会話が可能だそうだ。植民地に育つと
そういうものかなとは思いつつ、言語能力で引け目を感じている私には羨ましかった。
4.オークランド大学人類学科
当時、人類学科はサイモン通りにある、2軒ばかりのクリーム色の木造家屋に間借りし
ていた。プレベル家からはだらだらした坂を下って徒歩5分、絶好の立地である。授業は
大体午後2時から7時頃までの間に組まれており、午前中、学生の姿は殆どない。10時
と3時には教員、職員、それに居合わせた学生たちが共同の喫茶室に集まって来て、各自
紅茶かコーヒーを勝手に入れて、ビスケットを食べながらだべっている。こうした雰囲気
は、ハワイ大学の時間に追われた生活と比べると、かなり違和感があったものの、家庭的
と呼べるような暖かさがあった。
大学の制度はイギリス式というのだろうか、教授が一人、その下に上級講師と講師ら数
人で学科が構成されていた。教授はRalph Piddington先生、彼の著書An Introduction to
Social Anthropology上下2巻は、私のような初心者にはたいへん分かりやすく書かれて
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いたので重用していたため、是非お目にかかりたいと思っていたが、たまたまどこかの調
査中とのことであった。なおビッグス先生を招聘して、マオリ語の授業を人類学の科目に
取り入れたのも、ピディングトン先生だということを後年知った。
例のボーマー先生はパプア・ニューギニア西部高地の専門家で、数人の学生相手の大学
院授業では、その地の動植物に関する調査資料について話しておられた。私にとってなじ
みのない話題で、実の所よく理解できなかったが、これは後に Birds of my Kalam
Country(1977 Auckland University Press)として、現地協力者Ian Saem Majnepとの
共著の形で刊行されている。
しかしボーマー先生とのお付き合いは授業以外のところにあった。殆ど毎週末、自宅に
招いてくださるとか、お子さんたちと動物園に行くからと誘ってくださるとか、考古学者
の夫人ともども、異邦人の私を気に掛けてくださった。私のオークランド生活はボーマー
一家のお陰で本当に充実していたと思う。1985年、文部省の科学研究費を得て、久方ぶ
りにオークランド大学を訪れた時も、ボーマー先生は大学内の研究室を手配するなど、さ
まざまな面倒を見てくださった。しかし奥様は別の方で、幼い坊やを抱いて私のモテルに
現れ「皆があなたのお孫さんですかって聞くんですよ」と笑っておられた。
そのボーマー先生が癌のために亡くなられたと聞いたのは、それから間もなくのことで
ある。彼はカラムの人々に1人半分の男(身長は6フィート6インチ)と呼ばれていたそ
うで、JPS誌(97-4, 1988)に載っているビッグス先生の追悼文には「あの大男が死んだ。
タネの森の中で、赤松が倒れた。そして言葉を話す鳥も止まり木から逃げて行った」とい
うカラムの詩が掲載されている。
マオリ語の授業はビッグス先生である。彼はワイカト地方タイヌイ・カヌーの系統を引
くンガティ・マニアポト・マオリだそうであるが、その容貌は私が日本で見ていたテレビ
ドラマ「アンタッチャブル」のネス隊長を思い起こさせた。「アンタッチャブル」は禁酒
令の敷かれていた1930年代のシカゴを舞台にして、ギャングの親玉アルカポネと、それ
を取り締まるかっこよい連邦捜査官ネス隊長との戦いの物語で、ロバート・スタックとい
う俳優が演じていたそうである。
ハワイ語の授業では、幾つかの例文を習うと、次の時間にはそれを暗記してくることが
求められたが、マオリ語の授業はそれほど厳しくなかった。ビッグス先生編纂のマオリ語
入門書が教科書として使われており、私はプレベル家の同宿学生からそのお下がりをも
らって出席していた。
マオリ語はハワイ語と異なり、声門閉鎖音がないために発音は易しい。事実、子音と母
音からなるマオリ語は、日本人にとってまったく苦労なく発音できる言語の一つであろう。
「マオリ」ではなく「ミャーオリ」などと、苦しげに発音するヨーロッパ系の学生を見て
いると、この時ばかりは少しばかり優越感に浸ることが出来た。とはいえ文法はやはり難
しい。昨年本屋でこのビッグス著のマオリ語教科書が棚に並んでいるのを見て、懐かしさ
を覚えた。
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この大学にもう一人日本人がいると知らされ、紹介されたのが、当時岡山大学の助教授
であった石田寛先生である。石田先生はニュージーランド政府留学生として、地理の研究
室に所属しておられた。滞在は2年でマオリの農業を博士論文の題材としているという。
そんなわけで、マオリ語の授業では石田先生と机を並べ、宿題も相談して次の授業に備え
た。
石田先生にはその後、とんでもないご迷惑をかけてしまった。それはオークランド名誉
総領事の家で開かれていた4月29日の天皇誕生日祝賀会で、何故か猛烈な腹痛に襲われ、
一歩も動けなくなって、石田先生に背負われて車に乗せられ、病院に運ばれたという事件
である。オークランド病院で一夜を明かしたが腹痛の原因は不明だった。しかし診療費は
ただで、やはり福祉の国だと感激した。
5.マオリ学生の会
ある日のこと、大学内の学生組織の1つ、マオリ・クラブに出席してみた。この会合の
目的も知らずに出て行ったのだが、どうもマオリ新入生を対象としていたらしい。上級生
たちがこもごも立ち上がって、「ハエレマイ、ハエレマイ」と歓迎の辞を述べる。挨拶が
一通り終わると、マオリ・クラブの会長で英文学の先生が、ゲストスピーカーとして壇上
に上がった。内容は大学ではどのように勉強するか、試験にはどのように対処するかなど、
あまり面白くない話であったが、彼の次のような言葉が印象に残った。
「マオリ学生は非常に臆病で恥ずかしがり屋である。もし講義で分からない所があった
ら遠慮なく教師に質問するように」「学生は勉強する部屋を持たなければならない。その
部屋は静かで、あらゆる騒音から解放され、快適な条件で勉強できる場所でなければなら
ない」。至極当然な話だと思ったが、彼はさらに続けて「もしあなた方がこのような部屋
を見つけることが出来ない場合には、私やビッグス先生に相談するように」と言った。こ
こで私はマオリやアイランダーズは、時に市内で適切な住居を見つけるのは難しいという
話を思い出した。彼の話は熱狂的に迎えられた。拍手が何時までも鳴り止まないので、聴
衆がふざけているのかと思ったほどである。
6.学士、修士
そして博士?
帰宅してマオリ・クラブに参加した話をすると、プレベル夫人から「こんなの読んでみ
たら」と、出版されたばかりの雑誌Te Ao Hau (1961 Sep.)を手渡された。雑誌名はマオ
リ語で新しい世界の意味で、マオリ省によって1952年から76年まで刊行された2言語の季
刊誌である。この中に大学で挫折したマオリ学生の話が載っていたので抄訳してみよう。
題名は「学士、修士 そして博士」である。
私の名前はJohn Te Ngaere、村人すべてがマオリだったムルパラ(ムルパラはタ
ウポ湖からファカタネ方面に伸びるカインガロア森林地帯にある小さな村-注)で生
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まれ育った。私が通った村内のランギタヒ・カレッジはニュージーランドで一番と
思っている。ここで私はよく勉強したので奨学金を得てテ・アウテ・カレッジ
(1854年にアングリカン教会によって開設されたマオリのための中等教育施設。
ネーピア近郊にあり、初期のマオリ学者、政治家たちはすべてこの学校の卒業生-
注)に進学した。今でもテ・アウテ・カレッジは有名であるが、当時はこの学校に入
れば、教育ある人間だと人々からみなされたものである。
そのうち私はオークランド大学に行くべきだと考えるようになった。そこで学士,
修士そして博士号を取る。Apira Ngataのように議会に出よう。私はマオリの大きな
魚になる。やがて女王は私にサーの称号を与えるであろう、首相になるかもしれない。
そうしたら世界を旅してナセルや、ネールや毛、そしてフルシチョフにも会おう。
私の努力によってマオリの地位は引き上げられ、すべてのマオリは新しい家、車、
テレビ、冷蔵庫を持つようになるであろう。新しい世界では、マオリがつまらない、
苦しい仕事についているのは正しいことではない。マオリをすべての職業のボスにし
て、卑しい仕事はパケハのために残しておこう。教育によってすべてが可能になるわ
けではないが、私たちの苦しみは癒されるだろう。
私は資格を得て、オークランド大学に入学することが出来た。欲張ってマオリ、英
語、人類学、哲学の単位を取った。指導教官はこんなにたくさんの単位を取るのは無
理だと忠告してくれたが、私はマオリ語も英語も話せるし、人類学は易しいと皆が
言っているから大丈夫だと答えた。
大学生活は楽しかったが、授業は次第に難しくなってきた。最初に哲学を捨てた。
次に人類学であるが、この2つの科目の教師には好かれていないと感じた。その理由
は分からないが、多分2人とも私が修士とか博士を目指していると言ったので、嫉妬
を感じたのかもしれない。こうして私は人類学にも別れを告げた。
試験の時期が来て、私は猛勉強をしたが、ランギタヒやテ・アウテ・カレッジで私
を助けてくれた人々も神も私を見捨てたようだ。私は及第できなかった。夢、学士、
修士、そして博士になる夢は果かなく消え去った。そして私のマオリの福利向上に役
立ちたいと言う偉大なる計画も。
かなり極端から極端に走る青年のようであるが、このンガエレ氏が、今どうしているの
か会ってみたい気がする。
7.伴野奨学金
3月の初めのこと、荷物の搬送などでお世話になっていた伴野通商の社長伴野安伸氏が、
ニユージーランドに来られた。ホテルにお礼に伺い、ご馳走になって雑談をしていると、
突然「うちの店に来て働かないか」とおっしゃる。「学校は午後からだから、午前中は暇
でしょう」ということで、毎日午前9時から12時までの3時間、仕事は日本から来る手紙
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を英語に訳すといったようなことをやってくれればよいとおっしゃる。全く降って湧いた
ような話に乗っかって、次に週から伴野のオフィスの臨時職員となる話が決まった。
朝、伴野通商の事務所に出かけ、片隅に置かれた机に座って仕事が廻ってくるのを待機
する。しかし私の用事はさっぱりない。新聞をひっくり返して眺めているうちに10時の
お茶になる。せめて貿易についての知識を広めようと、その辺りに置いてある雑貨を眺め
るが、それでも間が持たない。まさに窓際族の心境である。
1週間に1~2度、大阪の本社から手紙が来る。ある時これを翻訳する仕事にありつい
た。内容はニュージーランド羊肉の買い付けの話だったが、貿易用語を全く知らずに訳し
た英文を、おそるおそるオークランド駐在事務所のボス久武さんに提出すると、その半分
近くを書き変えられるという運命にあった。さらに厄介なことに、当時のニュージーラン
ドでは通貨はポンド制である。1ポンドは20シリング、1シリングは12ペンスという不
便極まりない通貨で、1ポンド5シリング3ペンスのサンダルを3ダースなどというと、
もはや完全にお手上げである。
とうとう久武さんから、用がないから毎日来なくても良いと宣告された。ついにクビに
なったと思ったが、給料は変らないそうである。それではあまりに申し訳ないと言うと、
「社長はお金持ちだから大丈夫」と言われる。
社長のご好意はそれだけではなかった。久武さんが近々フィージーに転勤になるので、
後任が決まるまでそのフラットに住むことを勧められた。久武さんにポンソンビーにある
そのフラットに連れて行ってもらうと、台所、寝室、居間、風呂と揃っている。プレベル
家の生活も楽しいが、時には自分で日本食を作るのも悪くないと思い、4月28日、
フィージーへ出立する久武さんを見送ると、その日のうちにこのフラットへ転居した。フ
ラット代は1週間6ポンドだが、空き社宅だから会社持ちでよいと社長さんは言われる。
1960年代のニュージーランドは、社会保障の充実した世界でもっとも豊かな国の一つ
であった。大体1シリングが日本円で50円、1ポンドが千円位ではなかったろうか。石
田先生が「驚いた。ここではワイシャツが千円もする」と嘆いておられたのを覚えている。
敗戦後の貧しい日本から来た身には、ニュージーランドの物価高は身にしみた。当時東
京のある大学の助手をしていた夫の給料が、月1万5千円であったから、その落差は大き
い。それなのに私のような無能社員が、フラット代6ポンドを含めて、週給12ポンド、
約1万2千円の身分になった。こんな大金を手にしたことはなかったが、私はこれを伴野
奨学金と名付け、有難く頂くことにした。
伴野通商について当時は全く知らなかったが、インターネットで調べてみると、1930
年代、伴野権吉氏と義弟の長嶋亀代造氏の2人が創業者で、最初は日本の雑貨をオースト
ラリアに輸出し、オーストラリアから食料品を輸入する事業を始め、やがて太平洋一帯の
島々にも貿易を拡大して行ったようである。
伴野安伸氏がニュージーランドとの貿易を始めようと、南太平洋方面に進出したのは約
20数年前だそうだ。バンノ・ブラザーズという名で、この会社を知っている人も多い。
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ある晩ホテルのレストランで食事をしていたら、トンガ人のウエイターが寄ってきて、伴
野社長に挨拶し、2人がトンガ語で会話を始めたのには驚いた。
後に私がトンガに行った時、よく「バンノを知っているか?」「バンノは本当に良い人
だった」「バンノはまたトンガに帰って来るだろうか?」というような質問を受けた。バ
ンノが多くの現地の人々に好感を持って受け入れられていたことは確かである。
帰国後しばらくして、伴野通商が業績不振で他の商社に買収されてしまったと聞き、た
いへん残念であった。私は社長のご好意に対していまだに何も恩返しをしていない。
8.ンガルアワヒアのフイ(集会)
ニュージーランドの大学は休みが多い。イースターで1週間のんびりしていたら、すぐ
に5月の休暇になった。5月9日から13日まで、ンガルアワヒアという所でアングリカ
ン教会の大きな集会があり、おそらく全島のマオリが集まるので参加してみたらと、プレ
ベル夫人に勧められた。折よくビッグス先生から、友人Koro Dewes氏と学生1人と一緒
に行くから、その車でどうぞと誘いがかかった。
その時まで私はオークランドから出たことはなかった。さすがは羊の国、市街地を抜け
ると道の両側に羊牧場が連なる。ンガルアワヒアまで幹線道路を一気に南下する。アング
リカン教会は毎年各地で年次例会を開いているが、3年目ごとに全国的な大会を開いてお
り、今年はその全国大会に当たるのだそうだ。 ワイカト川の河畔に位置するこのンガル
アワヒアの会場はすばらしく立派で、広大なマラエを初め、幾つもの建物が建ち並んでい
る。
その時は知識がなかったが、このンガルアワヒアは、武蔵大学教授の内藤暁子氏が研究
しているマオリのキンギタンガ、すなわちマオリ王擁立運動の根拠地で、マオリ女王のマ
ラエがある。私たちが到着した頃から各地の参会者が、乗用車、キャンプ用トレーラーな
どで集まり始めた。あちこちで再会の挨拶が行なわれている。見ていると挨拶には3種類
あって、伝統的な鼻と鼻をこすり合わせるホンギ、頬にキス、または握手のみの挨拶で、
初対面の場合には握手だけのようだ。こうしていよいよフイが始まった。各地から来た牧
師たちが、入れ替わり立ち替わり挨拶をする。人によってはマオリ語と英語の2言語で行
なう。
その夜はンガティ・ポロ・マオリのコロ氏の紹介で、彼と同郷の東海岸ルアトリアから
来た人々の中にもぐりこんでマラエで寝ることとなった。屋内体育館のように広い場に
びっしりとマットレスが敷き詰められ、参加者は敷布と枕だけを持参してここに寝泊りす
る。私は何も持っていないので、オピというルアトリアのホテルで調理を担当している女
性の隣にもぐりこんだ。外気は冷えていたが、寝返りも困難なほどのすし詰め状態なので、
寒くはなかった。
話好きの彼らはちっとも眠ろうとしない。オピも「疲れた、疲れた」と言いながら、大
声でしゃべり続けている。そして扉を開けて知人が入ってくる度にガバと跳ね起きて、互
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いに頬を摺り寄せる。ついには私を揺り起こして、知人に紹介しようとする。とても寝て
いられたものではない。目を醒まして半身起き上がると、「ハロー、目がさめたか」と聞
く。揺り起こしておいてハローもないものだと思ったけれど、賑やかなこんな調子が12
時半の消灯まで続いた。
翌朝、私は10時のバスでムルパラに行くことになっていた。フイが面白そうなので、
もう少し居たいと思ったが、すでにオークランドを出る時バスの切符を買って来ている。
前夜の疲れで眠りこけている人々の間を縫って起き上がり、身支度をしてムルパラに行く
ために、彼らに別れを告げた。オピに「さよなら」と言うと、彼女は「私はさよならとは
言わないよ。だってきっとまた逢えるもの」と言って、私の両手を強く握り締めた。そし
て何故かその言葉通り、私はこのフイの会期中に、またもやンガルアワヒアに舞い戻って
来たのである。(続く)
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