Japan Association for Malaysian Studies JAMS News 日本マレーシア学会会報 No. 48 2011.3.28 東北関東大震災にあたって(宮崎恒二) .................2 巻頭言 「ブーム」社会の行く末(多和田裕司).........2 特集 エジプト政変と東南アジア 特集「エジプト政変と東南アジア」にあたって(西芳実) .. .. ..4 中東政変はマレーシアでどう受け止められているか(鈴木絢女)6 インドネシア:「中東」への相反したイメージ(見市建). . .. ...8 エジプト政変とインドネシア政変(増原綾子). . .. .. .. .. .. . ...10 オンライン・メディアの影響力とは(伊賀司) .. .. .. .. .. . .. ..16 エジプトにおける東南アジア留学生の歴史と イスラム復興運動(國谷徹). .. .. .. . .. .. .. .. .. . .. ...20 経済分野からみたマレーシアと 中東湾岸諸国の繋がり(福島康博). . .. .. .. .. .. . .. ...22 第 19 回 JAMS 研究大会報告 マレーシアの転換点をどう捉え、どう描くか(金子芳樹).. .. ..25 マレーシアにおける公正なる秩序の構築(西尾寛治). .. .. . .. ..26 自由研究報告(田村慶子). .. .. .. .. . .. .. .. .. .. . .. .. .. .. .. . ..28 研究会報告 JAMS 関西地区の活動について(多和田裕司). . .. .. .. .. .. . ...29 事務局より........................................32 【巻頭言】 「ブーム」社会の行く末(多和田裕司) 東北地方太平洋沖地震に寄せて 日本マレーシア学会会長 宮崎恒二 2011 年 3 月 11 日に発生した東北地方太平洋沖地震は未曽有の大災害をもたらしました。震災ならび に津波で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。また、被災された方々や被災地の皆さまには、 心からお見舞い申し上げます。災害や避難所の状況に関する映像を目にするだけで心が痛みます。しか し、現地の方々の苦悩と悲しみはいかばかりかと思いを巡らさずにはいられません。 マレーシアにも被害を及ぼした 2004 年 12 月 26 日のスマトラ沖地震と津波の折りには、膨大な数の犠牲 者を生み出した津波の恐ろしさに打ちのめされましたが、同時に日本マレーシア学会の会員も積極的に関 与したように、その復興支援活動の国際的な広がりにも大きな感銘を受けました。それから十年を経ずして 同じようなことが日本でも起きようとは思っても見ませんでしたが、今回の災害に際しても、救助隊が各国か ら派遣され、救援物資や経済的な支援が海外から寄せられ、また、世界各地からのお見舞いのメールが 個人に送られてくるなど、世界がつながり、相互に助け合うことのできる時代に生きているのだという思いを 強くします。 会員の皆様におかれましても、この惨事を力強く乗り越え、またその経験を世界に伝え、生かしていく役 割を担っていただきたいと願う次第です。 「ブーム」社会の行く末 多和田裕司(大阪市立大学) 春の訪れとともにまたいつものようにプロ野球のシーズンが始まろうとしている。根っからのタイガース ファンとしてはチームの仕上がり具合が気になって、仕事が溜まっているにもかかわらず、ついついス ポーツニュースに見入ってしまうのだが、悲しいかな今年はタイガースの情報が流れる度合いがかなり 少ないように感じられる。原因は「佑ちゃん」である。どのチャンネルでも早稲田大学から北海道日本ハ ムファイターズに入団した一年生投手の動向がまず報じられる。「佑ちゃん入寮」「佑ちゃん北海道上 陸」・・・そしてそれを追っかけるオバサマたち。野球よりも「佑ちゃん」がニュースなのである。プロ野球 はいま「佑ちゃんブーム」なのだ。 考えてみれば、日本ではずっとなにかの「ブーム」が続いている。日本中がスプーンを握りしめた超 能力ブーム、たけしや紳助がテレビで毎日しゃべりまくっていた漫才ブーム、最近の韓流や多摩川に 流れ着いたアザラシまで、ありとあらゆるところにブームなるものが沸き起こる。おそらくコンパでの一気 飲みや街で目にする行列なども、みんなで同じ行為・行動をとるという意味においてはブームと通底す るものであろう。 翻ってマレーシアにはブームがない。マレーシアに関心を持つようになって 30 年近くになるが、いま だに「これがいまブームだ」というものに出会った記憶がない。安易な比較文化論は慎まなければなら 2 JAMS News No.48 (2011.3) ないが、過去 20 年の日本とマレーシアを比べたときに、日本には数々のブームがあったのにたいして、 マレーシアにはブームと呼べるようなものはなかったというのは、おそらく間違いないのではなかろうか。 自分とは逆の立場の、日本のことをよく知るマレーシア人に聞いても、たしかにその通りだという。 理由はいくつか思いつく。たとえばブームの支え手としての人口の多寡、ブームに費やすことのでき る経済的余裕の有無、ブームを仕掛けるマスメディアの規模や影響力の相違などなど。そしてなにより も大きな要因は、日本が言語、文化、宗教(無宗教)などにおいて世界でも例外的に同質的な社会で あるのにたいして、マレーシアはまったく逆に例外的に多様な社会であるという点であろう。人々の背景 が多様であるがゆえに、マレーシアではたとえば昨年末のスズキ・カップにおけるような一瞬のお祭り騒 ぎは生まれても、それはブームになる前に終わってしまう。 もちろんブームのある社会とない社会ではどちらがよいかという話ではない。どちらの社会も地理的、 歴史的な与件のなかでの出来事の累積によっていまの姿があるにすぎない。ただ、なにかよく訳もわか らない間に、そして何も考えずに、みんながみんなひとつのことに熱狂する状況に身をおくことに、ある 種の嫌悪感や多少の気味悪さを見いだしてしまう自分にとっては、ひとりひとりがバラバラで違う方向を 向いているマレーシアのような社会のほうにこそ居心地の良さが感じられてしまう。 よそ者のこのような身勝手な思いは、たぶんマレーシアの人からは相手にはされないであろう。多様 性にともなうマイナス面が文字通りそこに暮らす人々の生存を賭けた国家的アポリアとして存在してきた 社会にたいして、多様性の魅力についてのナイーブな賞賛が「お気楽な」他者理解にしか過ぎないも のであることは十分承知している。 しかし、である。同質的な社会と多様な社会というふたつの社会の間に優劣はつけられないとしても、 具体的なある社会が、自らがおかれた条件のなかで今後どちらの方向を目指すべきかという議論は、 十分に可能であろう。資源や食料に乏しく、加速化するグローバル化のなかで人材の創造性が生み出 す独創的な価値のみに頼らざるを得ない日本社会にとっては、いうまでもなく同質的な社会から多様な 社会への転換が必要とされるはずである。そこではマレーシアが経験したような、言語や文化や宗教の 違いによる摩擦や対立が生じるかもしれない。しかしそれを越えてなお多様な個のぶつかりあいによる 創造の道を目指すべきだと思う。 最後に、数年前に出版されたある本のなかで、社会学者の見田宗介が日本人の心性の現れとして 取り上げた短歌を紹介して稿を閉じたい。自分にはその歌が、ブームが繰り返される社会の末路を暗 示しているように感じられてならない。 「犇めきて海に墜ちゆくペンギンの仲良しということの無惨さ」(見田宗介『社会学入門』(岩波新書) 98 頁より抜粋) 【この巻頭言は 2011 年 3 月 9 日にご寄稿いただきました。3 月 11 日以前の状況をもとに書かれていますが、そ の内容は現在の状況においてもいっそう重要なメッセージであると考え、加筆・修正なしで掲載させていただきま した。(編集部)】 3 【特集 エジプト政変と東南アジア】 特集「エジプト政変と東南アジア」にあたって(西芳実) 特集「エジプト政変と東南アジア」にあたって ――新しいイスラム世界認識の夜明け―― 西芳実 チュニジアの「ジャスミン革命」に始まり、エジプト イスラム・ネットワークによって結ばれたイスラム世 政変へと発展した中東地域の政治情勢の流動化 界の中に位置づけられた。イスラム世界の中心は は、今後の世界のあり方を確実に変えるものである。 中東であり、周縁たる東南アジアは中東のイスラム 中東地域は長らく民主化の波から取り残された地 教徒の動向の影響を受ける、いわば風下の存在と 域と見られてきたが、中東は特殊で権威主義体制 して注目された。 はなくならないとの認識はいまや過去のものとなっ 本特集では、エジプト政変が東南アジアでどのよ た。街頭に出て政権批判を行う人びとの動きが一 うに受け止められているかをマレーシア、インドネシ 国を越えて及んでいく様は、「革命」が地域全体の アの両国について様々な角度から論じた論考を 6 秩序や規範を変えていく可能性を感じさせる。 本集めた。これらの論考から伺えるのは、中東情勢 かつてフセイン政権下のイラクに対して空爆を実 の影響は宗教上のものであるというより政治・経済 施した国際社会は、その後のイラクに安定的な民 上のものであるということである。 主化がもたらされなかったことを見ていたはずだが、 東南アジアの人々にとって、今や中東世界は教 政権転覆を恐れて一般市民に対する武力行使を えを請う対象から自分たちの呈示するモデルが流 辞さないリビアのカダフィ政権に対して空爆に踏み 通しうる場所へと変わりつつあるようにみえる。ある 切った。中東情勢の変化とそれへの対応は、これ シンポジウムで、海外駐在経験の長い社会人参加 までも何度か世界秩序の再編のきっかけをつくっ 者が「イスラム国家の中でもっとも民主化されている てきた。現在、中東で起こっていることは、中東地 のはマレーシアだ」と発言するのを聞いた。このこと 域だけの問題ではなく、現代世界の全体にかかわ は、イスラム世界の外ではイスラム世界の手本は東 る問題である。では、これらの動きは東南アジア地 南アジアにあるとの認識があることを意味している。 域にどのような影響を及ぼすのだろうか。 インドネシアのユドヨノ大統領も、イスラム教徒の住 東南アジアは中東と歴史的なつながりをもつ地 民が多数派を占める国家で穏健な形の民主化が 域である。本特集で國谷徹が述べるように、東南ア 達成され、その後も安定的な政治状況が続くインド ジアのイスラム教徒にとって中東は聖地メッカやイ ネシアは中東の民主化のモデルとなりうると発言し スラム学の権威アズハル大学がある地である。 ている。ユドヨノ大統領は以前にもイスラム映画の 9.11 事件以降は、国境を越えて広がるイスラム・ 発信地としてのインドネシアというアピールをしたこ ネットワークやイスラム世界秩序に関心が寄せられ とがある。マレーシアのイスラム国際大学設置など るなかで、中東と東南アジアの結びつきはいっそう とも考え合わせれば、東南アジアをもってイスラム 注目されるようになった。中東と東南アジアはともに 世界の発信地とするあり方がますます強められて 4 JAMS News No.48 (2011.3) いるように見える。 が問われている。中東研究者の多くが今回の政治 このように、中東の民主化をめぐる動きは、中東 変動を予測できなかった理由として、革命が組織 と東南アジアの結びつきを考える上で、これまで論 的な動員によって実現したのではなく、携帯電話 じ得なかった事柄を検討する機会をひらいている。 やインターネットといった情報通信技術の発達が決 本誌が本特集を企画したゆえんである。本特集で 定的な役割を果たしたことが指摘されている。ツイ は、中東政変が東南アジアに飛び火するのかしな ッターやフェイスブックを通じてばらばらの個人が いのかという問いに答えるのではなく、むしろ、中東 結びつけられて広場に参集し、それが大きなアピ 政変を通じた中東と東南アジアの結びつけ方の再 ールとなったというところから、「ネット革命」という言 考をめざしている。 葉も生まれた。しかし、多くの論者が指摘するように、 中東の動向はマレーシアにどのような影響を及 ネットは道具でしかない。伊賀司はマレーシアの経 ぼしているか。鈴木絢女は、マレーシアの関心は野 験を踏まえて、ネットが反政府運動のツールとなりう 党もしくは反政府勢力の運動がどこまで成功する るのは、オフィシャルなメディアの規制が強い状況 かに向けられているとする。また、福島康博は、マ 下でネットが代替メディアとして機能する限りにおい レーシアの地域開発計画に中東湾岸諸国からの てであると指摘している。また、増原綾子は、政変 投資が重要な資金源として想定されており、資金 の成否は大衆動員力にではなく軍や政治エリート 提供国の政情不安として関心が向けられていると の判断とその調整力にあることをインドネシアの経 する。 験から指摘している。 インドネシアにおける中東イメージを考察した見 ネット革命の意義を考えるとするならば、国境を 市建は、インドネシア社会が中東の動向に対して 越えて互いの様子を観察し、参照し、披露しあう状 距離を持って他者として観察していることを指摘す 況を支えていることが挙げられるだろう。ネットを利 る。また、植民地統治下の東南アジアと中東との結 用する中東の人々の姿は、長い衣に象徴されるイ びつきについてまとめた國谷は、東南アジアの スラム教やアラブといった記号に覆い隠された中東 人々が中東から近代化とイスラム教の折り合いのつ の人々の生身の姿を想像させるものだった。 け方を学ぼうとしていた点に注目している。 中東政変は、中東の人々を理解するのにイスラ このように、現代の中東と東南アジアを密接に結 ム要素の理解を深めるだけでは不十分であることを びつけているのは、経済関係であったり、統治体制 改めて確認させるものだった。このことは、中東と東 の類似性であったりする。 南アジアの結びつきを理解する上でも同様である。 今回の中東政変の特徴の一つは、宗教が争点 中東を中心とし、東南アジアを周縁とする世界観で となったり、宗教組織が表舞台に出てきたりしてい は理解できない結びつきが重要であることが、今回 ないことである。そこでは、貧しい民衆が宗教組織 の政変の影響を見ることで明らかになったように思 に結集して政権を打倒するという古典的な革命像 う。 5 【特集 エジプト政変と東南アジア】 中東政変はマレーシアでどう受け止められているか(鈴木絢女) 中東政変はマレーシアでどう受け止められているか 鈴木絢女(マラヤ大学ポスドク研究員) チュニジアの果物商による焼身自殺をきっかけと 非常大権を持つ大統領制によって特徴づけられる したチュニジア、エジプト、リビア、イエメン、バーレ ムバラク政権期のエジプトと、言論、結社、集会の ーン、サウジアラビアなど中東諸国における政変は、 自由に法的制限がある一方で、強力な野党の存在 「イスラムと民主主義は相容れない」というこれまで によって特徴づけられる議会制のマレーシアとでは、 の「常識」を覆したとされ、世界中から驚きを持って 政治体制の性格が異なるうえ、米国の関与の程度 観察されている。 も異なる。しかし、ムバラク大統領退陣直後には、 とはいえ、失業率の高さや経済停滞、長期政権 マレーシアの野党勢力が、長期政権、経済格差、 や汚職の蔓延といった共通項がある一方で、各国 汚職、メディアのコントロールといったキーワードで の政変をもたらしている政治のダイナミクスには大 マレーシアとエジプトをくくり、マレーシアにおいて きな違いがある。たとえば、チュニジア、エジプトで 同様の政変が起こりうると示唆した。 は、経済状況に不満を持つ若者が大統領の退陣 これに対して、ナジブ・ラザク首相は、エジプトの を求め、これを軍隊が、そして、政権変更後も自国 民主化へ向けた動きを歓迎する一方で、マレーシ の影響力を残せると見た米国が反対派を支持する ア政府による『国民第一(People First)』を原則と ことで、政権転覆が達成された。他方で、米国の同 した政策の実施を強調し、エジプトで起きたような 盟国であるバーレーンでは、政治や経済における 政変はマレーシアでは起こりえないと繰り返し述べ 優位を持つスンニ派に対するシーア派の不満がス ている。ナジブは、エジプト政変の最中に行われた ンニ派王制への反対運動として噴出したが、今のと 州議会補欠選挙で与党国民戦線が勝利したことに ころ、同国の王制は米国の支持を受けて持続して も触れ、野党によるエジプトとマレーシアの関連づ いる。また、サウジアラビアにおけるデモンストレー けを否定した。 ションは、主に立憲王制下での国王の権力の制限 このような関心の高さにもかかわらず、現在まで を求めるものである。 のところ、エジプト政変の実質的な波及効果はマレ マレーシアでは、政府による市民への武力行使 ーシアにおいては限定的である。これは、両国の が国際社会の非難の的となっているリビア、そして、 内政と外交の性質の違いに加え、マレーシア人の 長期政権が転覆したチュニジア、エジプトへの関心 エジプト政変への反応が一様でないことによってい がとりわけ高い。なかでも、エジプトの政変は、マレ る。 たとえば、野党連合の中核を担う人民正義党 ーシアの国内政治にどのような影響があるかという (PKR)顧問アンワル・イブラヒムは、一連の政変を 観点から盛んに議論された。 「イスラム世界において独裁から民主主義への変 もっとも、選挙違反の横行や政党の禁止、強い 6 JAMS News No.48 (2011.3) 化の風が吹いている」とし、エジプトがトルコやイン ドネシアのような「ムスリム民主主義国」となると評価 し た 。 ま た 、 PKR や 汎 マ レ ー シ ア ・ イ ス ラ ム 党 (PAS)のメンバーは、金曜日のお祈りの後に国立 モスクから米国大使館まで行進し、政権転覆に慎 重な姿勢を示していた米国に抗議した。 このようにエジプト政変とイスラムをつなげる勢力 がある一方で、世俗主義を強く主張してきた民主行 動党(DAP)は、汚職やメディアのコントロール、失 業、インフレといった問題の喚起に終始し、野党連 合の構成政党でありながらも、PKR や PAS との共 同歩調はとらなかった。エジプト政変そのものは、 世俗的な若者を核とした運動であったという見方が 有力ではあるものの、今後ムスリム同胞団が民主化 したエジプトにおいて担う役割によってはエジプト でイスラム化が進むという見方もあり、このような変 化がマレーシアに与える影響を危惧する人も多い と見ることができる。 7 【特集 エジプト政変と東南アジア】 インドネシア(見市建) インドネシア ――「中東」への相反したイメージ―― 見市建(岩手県立大学) 大学は教員に欧米の大学への留学を奨励している。 本号の特集はチュニジアを発端とした中東政治 の激変をきっかけにしている。インドネシアにとって 筆者は同大学幹部から「いま中東に行ってもどうし 重要だったのは、数千人の在エジプト留学生の脱 ようもない。日本でもどんどん留学生を受け入れて 出といった非常に直接的な事柄に限られた。メディ くれ」と耳打ちされたことがある。 アではアジア経済危機をきっかけとした 1998 年の しかしより一般的には、アラビア語の優位性が制 政変との対比や、エジプトのムバラク大統領とスハ 度化され、聖地がアラビア半島にあるイスラームに ルトを比較する記事などが目立ち、インドネシアの おいて、アラブと「中東」の中心性が簡単に揺らぐこ 現状や政権への不満と結び付けるような動きは皆 とはない。現代インドネシア社会における宗教的な 無であった。したがって、中東の政変の影響は極め 権威や憧れの土地としての「中東」について非常に て小さかったといえるだろう。もっともこうした冷静で 象徴的だったのが、2008 年に大ヒットした映画『愛 客観的な態度は現在の中東との関係を示している の章句』(Ayat-ayat Cinta)であった。同映画は元 ともいえる。そこで本稿では近年のいくつかの現象 エジプト留学生による同名のベストセラー小説を映 を踏まえつつ、インドネシアの中東への多分に「ア 像化したものであり、インドネシア人留学生ファフリ ンビバレントなイメージ」を概観してみたい。 をめぐる恋愛ドラマであった。ファフリはまわりの複 「中東」(Timur Tengah)という曖昧な地域概念 数の女性に「モテモテ」で、物語のなかではトルコ はインドネシアでもよく使われる。そこでより具体的 系ドイツ人が第一夫人、コプトキリスト教徒のエジプ にイメージされているのは、サウジアラビアへの巡 ト人が改宗して第二夫人となる。同映画がヒットした 礼、サウジアラビアを中心とした湾岸諸国への出稼 一つの理由は華麗なベールを纏う女性のファッショ ぎ労働、エジプトへの留学、イエメンのハドラマウト ンであり、アズハル大学、ナイル川、「アラブ式」の 地方出身のアラブ系インドネシア人、といったところ 結婚式などエキゾティックな憧れの対象としての「ア だろう。あまり行儀のよろしくないアラブ人観光客、 ラブ」や「中東」そのものであった。他方でエジプト というイメージも上位に入るかもしれない。労働者の 人男性はしばしば乱暴で「狂信的」な存在として描 受け入れ先としての「中東」のイメージはこの十数 かれている。憧れとコインの裏表の偏見も垣間見ら 年であまり変化をしていないように思われる。インド れるのである。また、「狂信的」なエジプト人男性を ネシア人労働者の虐待や劣悪な労働環境につい 諫め、「中東」の男女と堂々と渡り合う主人公のあり てのニュースが断続的に伝えられている。短期滞 ようはインドネシア人の自信の表れ、および「中東」 在の「中東」出身男性が一時婚と称してインドネシ との関係の変化を示しているといえるだろう。 映画『愛の章句』の大ヒットのあと、イスラーム的 ア女性を買うケースもしばしば問題視されている。 他方、宗教的権威としての「中東」との関係は変 なイメージを売り物にする映画やテレビドラマが数 化しつつある。留学先としての「中東」の地位は相 多く作られるようになった。『愛の章句』に見られた 対的に低下している。ジャカルタの国立イスラーム ようなベールのファッション化は定着し、2000 年頃 8 JAMS News No.48 (2011.3) から登場していたテレビ説教師(拙著『インドネシア 教的な権威としてまた憧れの土地として、またとき イスラーム主義のゆくえ』第 4 章を参照)は手を替え に経済的な格差に基づく暴力性を伴うイメージとし 品を替えメディアに登場している。なかでも中東と てインドネシアにおいて想像されてきた。マスメディ の関係を考えるうえで、近年注目すべき「メディア・ アによるイスラームのコンテンツ化や政治における コンテンツ」がハビブたちである。ハビブ(ハバイブ、 イスラーム的シンボルの利用によって宗教的権威 インドネシア以外ではサイイドと呼ばれることが多 たる「中東」のイメージがしばしば顔を出すが、それ い)は預言者ムハンマドの子孫とされるアラブ系住 はあくまでインドネシアの文脈において消費されて 民のことである。ハビブはその血統からインフォー いるのである。中東政変への突き放した態度もこう マルな宗教的社会的名望家として尊敬を集めてき した背景から理解することができるだろう。 た。とりわけジャカルタではブタウィ人の宗教伝統と 結びつき、ハビブに率いられた小規模な宗教集団 が数多くある。こうした集団は神秘主義(スーフィズ ム)に見られるアッラーの名を繰り返し唱える修行 (ズィクル)や聖者の墓や廟などへの参詣(ズィヤー ラ)などの宗教実践を行ってきた。こうした集団によ るズィクルが、大規模化しテレビで生中継されるよう になったのである。 もっとも成功したハビブ・ムンズィールは弱冠 38 歳、インドネシア生まれだがハドラマウトに留学し、 彼の集会ではしばしばハドラマウトの師匠からビデ オメッセージが送られる。ムンズィールの人気とそ の宗教的権威は「中東」から得られていることは間 違いない。もちろん預言者ムハンマドの生誕祭(マ ウリド)をはじめとする宗教の祝祭に大きな集会が 開かれ、初期イスラーム史を紐解いた講話がなされ る。しかしながら同時にテレビ局は「平和なインドネ シア」といった企画としてズィクルを中継し、ムンズィ ール自身も毎回国民としての責任ある行動を支持 者に求め、ジャカルタの治安当局やインドネシア政 府への感謝の言葉を忘れない。ジャカルタ特別州 知事、ユドヨノ大統領もその名を冠したズィクルの 団体を持っており、ムンズィールは大統領らと共に イベントに参加することもある。 以上の例が示すように、「中東」や「アラブ」は宗 9 【特集 エジプト政変と東南アジア】 エジプト政変とインドネシア政変(増原綾子) エジプト政変とインドネシア政変 増原綾子(亜細亜大学) 中東にもついに民主化の波が訪れている。中東 方に基づいて両政権の支配構造と政変の共通点・ 諸国には王制や独裁が多く、石油のような豊富な 相違点を明らかにしながら、独裁政権崩壊の政治 天然資源の存在によって、あるいはイスラーム的な 過程とその後の民主化について考察することが本 政治文化の下で、民主化は起こりにくいとされてき 稿の目的である。 た 1 。しかし、今年 1 月 14 日には 23 年続いたチュ ニジアのベンアリ政権が、2 月 11 日には 30 年続い 支配構造 たエジプトのムバラク政権が民主化を求める反政 中東の地域大国であるエジプトと東南アジアの 府運動によって倒され、リビア、イエメン、アルジェリ 地域大国であるインドネシア、この両国において民 ア、バハレーンといった国々にも反政府運動が拡 主化運動によって崩壊した政権は、いずれも大統 大するなか、中東における民主化が期待をもって 領であるムバラクとスハルトに権力が集中した政権 議論されるようになった。 であった。ムバラクもスハルトも軍人出身であり、前 本稿では、今回エジプトで起こった政変につい 者は 1981 年に、後者は 1968 年に大統領に就任 て、1998 年のインドネシア政変との比較を試みる。 し、両者ともに、強いカリスマ性や個性の持ち主で なぜ、エジプトの政変とインドネシアの政変を比較 あった前任者(ナセル及びサダト、スカルノ)とは対 するのだろうか。イスラーム教徒が多数を占める国 照的に、地味で現実的な性格でありながらも 30 年 家の民主化の先行事例として、オバマ米政権はイ 間支配者として君臨し続けた。 ンドネシアに注目しているが 2 、比較政治学的に見 彼らは広範な人事権を握り、分配/弾圧策を巧 てもエジプトのムバラク政権とインドネシアのスハル みに使い分けながら支配した。大統領として政府・ ト政権の支配構造には共通点がある。エジプトとイ 軍部の高官と与党幹部の人事権を掌握し、重要な ンドネシアにおける独裁政権とその終わり方を地域 政策には大統領自らの意思が強く反映された。政 横断的な視座から分析することで、中東研究者が 治的多元性のきわめて低い、より独裁的な国家と 提示するものとは異なる視点やインプリケーション は異なり、両国ともに複数政党制が認められていた を提示することができるかもしれない。こうした考え が、政党活動は制約を受け、選挙は政府による介 入を受けて与党が常に圧倒的な勝利を収めた。エ 1 中東諸国における民主化阻害要因については、福 富満久「中東・北アフリカをめぐる民主化研究:オリエ ンタリズム的リサーチ・フィールドから国家へのアプロ ーチへ」『早稲田政治公法研究』第 82 号(2006 年)、 67-101 ページに詳しくまとめられている。 2 http://www.whitehouse.gov/the-press-office/201 1/02/11/remarks-president-egypt(2011 年 3 月 14 日)。 ジプトでは国民民主党が、インドネシアではゴルカ ルが政権与党として立法府の絶対多数の議席を占 め、政権与党と弱小な野党で構成される議会は形 骸化し、その立法機能と政府監視機能は失われ、 10 JAMS News No.48 (2011.3) 行政府が立法府に対して極端に優位な状態が継 胞団、インドネシアのナフダトゥル・ウラマーやムハ 続した。政権与党は独裁者本人の支配を支えるの マディヤー)であり、イスラーム団体に対して政府は みならず、独裁者の親族(ムバラクの次男ガマール、 硬軟織り交ぜた締め付け策を講じた 6 。 スハルトの長女トゥトゥット)への権力委譲を視野に 支配構造の点から見れば、ムバラク政権とスハ 入れて、彼の親族の政治基盤としての役割も果た ルト政権には上で述べたような共通点が存在した した 3 。 が、もちろんのことながら相違点も存在した。両国 経済においては、両国ともに大統領の親族とそ の地政学的な位置や外国への依存度、軍の政治 の取り巻き(クローニー)の実業家との癒着や政府 的位置である。 高官の汚職が問題とされ、国民の間には大統領親 同じ親米政権でありながら、米国にとってイスラ 族に近い実業家が大規模企業グループを形成し、 エルと平和条約を結んでいる同盟国としてのエジ 国の富を独占することへの強い不満や批判があっ プトの重要度はインドネシアの比ではない。地政学 た 4 。他方で、政府主導の開発に伴うインフラ整備 的な条件の違いによって米国から多額の経済援 や食糧及び生活必需品への政府の補助金 5 は国 助・軍事援助を受け、米国に依存しているエジプト 民の不満を抑える上で効果を発揮した。エジプト、 と、一定額の援助を受けつつも米国の影響力から インドネシアともに、政府は「分配」による国民の慰 自立的であろうとするインドネシアとは大きく異なっ 撫を重視したのである。しかし、大統領による権力 ている 7 。 と富の独占や政府高官の腐敗、自由と政治参加の 両国における軍の政治的位置付けも異なる。エ 制限、人権抑圧は国民を反政府デモ・暴動へと駆 ジプトにおいて軍は対イスラエル戦争を戦ってきた り立てることもあり、こうした異議申し立ては当局に 対外防衛の役割を担い、警察と治安部隊が国内の よる弾圧を招き、犠牲者を出すことにもなった。イス 治安維持と国民の統制のために利用されてきた 8 。 ラーム教徒が国民のほとんどを占める両国におい 抑圧機構としての警察と治安部隊が国民に憎まれ て、ムバラクとスハルトが最も警戒したのは、国民の る一方で、「国民に対して銃口を向けたことがない」 支持を受けるイスラーム団体(エジプトのムスリム同 軍隊として、また政府とは一線を画した「中立的な」 3 6 同胞団については、横田貴之「エジプトにおける民 主化運動:ムスリム同胞団とキファーヤ運動を中心に」 『中東研究』(2005/2006 Vol. II)、37-52 ページ。 7 伊 能 、 前 掲 書 、 149-152 ペ ー ジ 。 Leo Suryadinata, Indonesia’s Foreign Policy under Suharto: Aspiring to International Leadership, Singapore: Times Academic Press, 1996, pp. 138-143, 153. 8 Risa Brooks, Political-Military Relations and the Stability of Arab Regimes, London: International Institute for Strategic Studies, 鈴木恵美「エジプトにおける政権政党・国民民主党 の組織体系」『現代の中東』No. 35(2003 年)49, 54 ページ。 4 鈴木恵美「煮詰まるエジプト社会と新しい政治運動 の模索:ポスト・ムバーラクのシナリオ」『中東研究』第 500 号(2008/2009 Vol. I)、48-49 ページ。 5 エジプトにおける食糧への補助金については、伊 能武次『エジプト――転換期の国家と社会』朔北社 (2001 年)、66-72 ページ及び、土屋一樹「エジプトの パン行列再来」『現代の中東』No. 45(2008 年)36-42 ページを参照。 11 【特集 エジプト政変と東南アジア】 エジプト政変とインドネシア政変(増原綾子) 存在として、エジプト軍は国民から一定の信頼を得 重要なツールになった 10 。改革を求める学生や知 ている 9 。他方で、インドネシアの軍は、ゲリラ闘争 識人が主体となったデモや集会は徐々に拡大して によって独立を勝ち取ったという輝かしい歴史を持 いき、大衆動員と並行して民主化勢力と政権側と つものの、独立以降はもっぱら国家の分裂を防ぐ の間で対話・交渉が行われるようになった。効果的 ための統合の道具として、またスハルト体制下では な対話と交渉が行われるためには両者の間で信頼 国民に対する抑圧装置の一部として対内的な治安 感を醸成するための時間が必要である。インドネシ 維持を担ってきた。スハルトによる強権支配の一翼 アの場合には、1998 年 3 月初めにデモが始まって を担った軍は国民の警戒と不信の対象であった。 スハルトが 5 月 21 日に辞めるまで、2 ヵ月半程度の 時間があった。この間、デモや集会と並行して改革 の具体的な中身をめぐって対話・交渉が行われた 政変過程 エジプト政変とインドネシア政変に見られる共通 が、政権側において交渉の主な担い手になったの 点は、平和的で、宗教色の薄い、緩やかなネットワ は、改革運動に共鳴した与党議員らである。彼らは ーク型の動員に基づく民主化運動が 30 年間権力 議会機能の向上や大統領権限の抑制などを主眼 の座にあった独裁者を平和裏に退陣させたというこ とした政治改革で一致し、揃ってスハルトに対して とである。 退陣を求め、改革とスハルト退陣の広範な合意が 形成される中でスハルトは辞任を余儀なくされたの イスラーム教徒が国民の圧倒的多数を占めなが であった。 ら、民主化勢力におけるイスラーム色は薄いもので あった。同胞団やナフダトゥル・ウラマーといった両 エジプトの政変ではフェイスブックによる速やか 国の代表的なイスラーム団体は民主化勢力の重要 な大衆動員が行われたことが大きな話題を呼んだ。 な一角を構成したものの、両者とも運動の前面に出 フェイスブックのようなSNSを使った民主化運動は ることはなかった。両国の民主化運動は特定の組 エジプトでは数年前から始まっていたと言われ 11 、 織やリーダーシップに率いられたものではなく、政 今回の政変ではフェイスブックの呼びかけによる動 治改革と独裁者の退陣という要求で広範囲の人々 員手法は短期間で多くの人々をデモに集めること を緩やかに結び付けた運動であった。 インドネシア政変は「インターネットを使った初め 10 Edward Aspinall, Gerry van Klinken and Herb Feith (ed.) The Last Days of President Suharto, Clayton, Australia: Monash Asia Institute, 1999, pp.73-75. 11 鈴木恵美「煮詰まるエジプト社会と新しい政治運動 の模索:ポスト・ムバーラクのシナリオ」『中東研究』第 500 号(2008/2009 Vol. I)、50-53 ページ。鈴木恵美 「ムバーラクのエジプト:その治世における変化」『中 東研究』(2010/2011 Vol. II)、56-57 ページ。 ての革命」とも呼ばれ、普及し始めたばかりのEメー ルやチャットは、デモ参加者が情報を共有し、連携 をとり、国際社会との間でメッセージをやり取りする 1998, pp. 39-40. 9 『朝日新聞』2011 年 2 月 13 日朝刊。 12 JAMS News No.48 (2011.3) に成功した 12 。1 月 25 日の最初の大規模な反政府 は 1993 年であり、彼女が党内で影響力を固めな デモから、わずか 18 日間でムバラクは退陣してい いうちに政変は起こった。政変の際に民主化勢力 る。民主化勢力のほとんどがムバラクの退陣までは と結び付いた与党議員は、スハルトの長女の影響 政権側との対話を拒否するという態度をとった。 力の拡大を恐れ、それに反発したグループであっ た。同じ翼賛与党であっても、党の動向次第では エジプトにおいて民主化勢力と政権側との対話・ 政変の行方を大きく左右すると言えよう。 交渉を難しくした理由としては、両者の間で交渉の チャネルがほとんどなかったということも挙げること 対話・交渉がほとんど行われないまま、政権側と ができよう。インドネシア政変では、政権与党ゴルカ 反政府勢力側が対峙したエジプトでは結局、「中立 ル内部に民主化勢力と対話・交渉可能な「ハト派」 的な」軍が調停者として登場することになった。軍 の議員グループが存在し、彼らが党内で主導権を は大統領の退陣を発表すると同時に、憲法を停止 握ったことで与党議員が多数を占める議会の場で して議会を解散、軍最高評議会が一時的に権力を スハルト退陣の道筋がつくられていった 13 。議会は 掌握するという超法規的な措置を行った。議会が スハルトに辞任を勧告し、スハルトはその勧告を受 大統領に辞任を勧告し、スハルトがそれを受け入 け入れる形で辞任した。エジプトの政変では、政権 れて辞任、ハビビ副大統領が大統領に昇格すると 与党・国民民主党の内部から民主化勢力と対話・ いう法に則った形で決着したインドネシアとは異な 交渉が可能なグループが出現したようには見えな っていた。 い。すでに 2000 年より 10 年にわたってムバラクの 次男ガマールが大統領権力の継承を見据えて与 民主化過程 党を自らの権力基盤としつつ、党内で影響力を固 現在(2011 年 3 月半ば)、エジプトでは軍が招集 めつつあったと言われている 14 。与党内が大統領と した憲法改正委員会が憲法改正案を提示し、それ その親族に対する支持で一枚岩だったのであれば、 を国民投票にかけることになっている。大統領に権 民主化運動に呼応する動きが与党内からは出てく 力が集中した政治システムを改めるために、大統 るのは難しいであろう。他方、インドネシアではスハ 領の任期を 2 期までに制限し、大統領権限を議会 ルトの長女トゥトゥットがゴルカルの幹部になったの がチェックする議会主導型の共和制を構築すること を目指すと発表された 15 。大統領権限の抑制と議 12 Newsweek, February 21, 2011, pp. 22-25. 会の復権とを主眼とした政治システムの改革は、ま 13 拙著『スハルト体制のインドネシア――個人支配の 変容と一九九八年政変』東京大学出版会(2011 年)、 215-268 ページ。 14 鈴木恵美「煮詰まるエジプト社会と新しい政治運動 の模索:ポスト・ムバーラクのシナリオ」『中東研究』第 500 号(2008/2009 Vol. I)、57-58 ページ。鈴木恵美 「ムバーラクのエジプト――その治世における変化」 『中東研究』(2010/2011 Vol. II)、59-61 ページ。 さにポスト・スハルト期のインドネシアが目指した民 主化の方向性でもある。 ハビビ政権はスハルトから権力を継承した直後 13 【特集 エジプト政変と東南アジア】 エジプト政変とインドネシア政変(増原綾子) から政治改革の実行に着手した。権力委譲から 4 大統領の権限を抑制し、同時に立法府の権限を向 日後の 5 月 25 日には政治犯の釈放を発表し、5 上させるという制度改革が行われたのであった。現 月 26 日には政府非公認の独立系労組の活動を許 在のエジプトでも、これに近い形での制度改革を進 可、6 月 5 日には報道統制の要となっていた出版 めようとしていると考えられる。 物発行許可制を廃止した。民主的な選挙制度と議 上で述べたように、インドネシア政変では民主化 会制度の確立を目指して、政党法、総選挙法、議 勢力と連携した与党議員がスハルト政権崩壊に寄 会構成法の改正案を準備するための学者から成る 与したということもあって、彼らは統治権力を引き継 改革委員会が内務省内に組織され、委員会の提 ぐことを改革勢力側から認められた。副大統領に昇 案に基づいて上記 3 法の改正案がつくられ、9 月 格したハビビ大統領はスハルトの側近であったし、 に国会に提出された。3 改正案は翌年の 1999 年 1 新内閣の閣僚の多くは前内閣からの留任組であっ 月に成立し、政党設立の自由化や任命議席の廃 た。国会も解散はせず、国民協議会議員の一部が 止・縮小など国民の政治参加を保障する制度が整 縁故主義による任命であったとして辞職した程度で い、同年 6 月には新しい選挙法に基づいて自由で あった。インドネシアの改革勢力は旧支配勢力の 公正な選挙が実施された。さらに国会は 1998 年 9 払拭ではなく、政治制度改革を優先したことがわか 月に報道の自由を確立するための新報道法を可 るだろう。他方、エジプトでは、ムバラク時代の政権 決、10 月にはデモや集会の自由を認める法律を 与党が議席を独占する議会では効果的な改革は 可決した。1998 年 11 月の国民協議会総会では人 期待できないという考えから、議会を解散し、選挙 権憲章が採択されたほか、大統領の権限を抑制す を行って旧支配勢力の払拭を先に進めようとしてい るために大統領の非常大権の廃止や正副大統領 る。政変過程において政権与党がとった行動の差 の任期を 2 期 10 年までとする決定も採択された。 が、両国における民主化過程に影響を与えたと言 その後の国民協議会年次総会においても、大統領 える。 公選制、大統領の立法権や人事権の制限、国会 今後のエジプトの民主化過程について同胞団の の機能向上のための様々な規定が定められていっ 政治的影響力の拡大やイスラエルとの外交関係の た 16 。大統領に権限が集中し、議会が立法機能及 展開に注目が集まっている。しかし、こういった問 び政府監視機能をほとんど果たせなかったことがス 題以外にも、インドネシアの民主化過程において ハルト大統領による独裁を助長したとの反省から、 起こった様々な問題がエジプトにおいても看過でき ない問題として立ち現われてくる可能性がある。 『朝日新聞』2011 年 3 月 8 日朝刊。 インドネシアにおける一連の政治改革については、 川村晃一「1945 年憲法の政治学」佐藤百合編『民主 化時代のインドネシア――政治経済変動と制度改革』 アジア経済研究所(2002 年)、56-63 ページ。 15 一つには、民主化に伴う政治の不安定化である。 16 14 政治の不安定化の要因はいくつも考えられるが、こ こでは次の 2 点について論じたい。第一に、大統 JAMS News No.48 (2011.3) 領と議会との関係性である。インドネシアでは政党 と紛争とが連動していることが示唆された 17 。イラク 設立の自由化によって多くの政党が設立された。し においてもフセイン政権崩壊後、旧支配勢力の一 かし、選挙で過半数を取れる政党はなく、大統領は 部が武装闘争の形で抵抗したと言われ、イラクの安 複数の政党から成る連立内閣を組閣せざるを得な 定を阻害する大きな要因の一つとなった。 くなった。円滑な政権運営を進めていくために他党 民主化過程における政治の不安定化と並んで からの支持を得なければならなくなったからである。 大きな問題となるのが、軍の統制すなわちシビリア 議会の支持を取り付ける必要も出てきた。議会と対 ン・コントロールの問題である。エジプト同様にイン 立すれば法律や予算の成立に支障が生じ、また議 ドネシアにおいても軍は政治・経済に大きな役割を 会の支持を完全に失えば大統領が国民協議会に 果たしてきた。スハルト時代に軍人が重要な政治ポ よって解任される可能性も出てきた。実際に 2001 ストを占め、軍ビジネスが幅を利かせていたことに 年 7 月には議会の支持を失ったワヒド大統領が国 国民の批判が集まり、ポスト・スハルト期においては 民協議会特別総会で解任されている。議会優位の その既得権の縮小や治安維持装置としての軍の役 政治システムがつくられたことで、スハルト時代には 割を低下させ、さらには軍を文民統制の下に置こう 考えられなかったような大統領と議会の対立が頻 とする改革が進められた。しかし、軍は改革に抵抗 繁に起こるようになり、その度に政策決定は滞った。 し、軍による抵抗は政治的混乱を招いた。東ティモ エジプトにおいて今後、議会のエンパワーメントを ール騒乱、アンボンやスラウェシの紛争への軍の どこまで進めるかは不明であるが、大統領と議会と 関与も指摘されており、そのことは民主化過程にお の関係性が変化することによって政治が不安定化 ける文民統制の確立の難しさを示している。エジプ する可能性は否めない。 トにおいても民主化の進展は軍がそれまで享受し 政治が不安定化する第二の要因として、旧支配 てきた地位や利益を手放すことを意味するようにな 勢力に対する処遇を挙げることができる。インドネ るはずである。軍がそれをどのように受け入れるの シアにおいては、スハルト大統領本人の訴追は結 かを注視していく必要がある。 局行われず、旧支配勢力に対する制裁的措置も限 エジプトにおける政変と民主化は中東地域全体 られた範囲内にとどまったが、「スハルトを裁判にか の国内政治・国際政治に影響を与えるのみならず、 けよ」という要求は少なからずあった。スハルト退陣 よりグローバルな視野から見た民主化という現象に 以後、マルクなどインドネシア各地で起こった宗教 も大きな意味を持つ。地域横断的な視点に立った 紛争(キリスト教徒とイスラーム教徒の抗争)に旧ス 分析が今後も求められよう。 ハルト政権関係者が関与したことが指摘されている。 確たる証拠はないものの、スハルトへの訴追が迫る 17 村井吉敬「地方騒乱を考える:マルク騒乱の背景」 国際金融情報センター『インドネシア政治・社会・経済 の現状と見通し』(2001 年)、78-94 ページ。 たびに紛争が激化しており、旧支配勢力への処遇 15 【特集 エジプト政変と東南アジア】 オンライン・メディアの影響力とは(伊賀司) オンライン・メディアの影響力とは ――サイバースペースとリアルスペースの間―― 伊賀司 * 今年に入り中東情勢が大きく動き、長期間続い 影響力を巡る問いかけを考える際に、マレーシア た権威主義的体制が動揺をきたしている。チュニジ やインドネシアなどの東南アジア諸国のオンラン・メ アのベン・アリーやエジプトのムバラクが大統領の ディアを巡る状況は非常に興味深い事例を示して 座を追われた「革命」の背景には、若年層を中心に くれる。 広がったフェイスブックやツイッターなどのソーシャ 既に過去のJAMS Newsで筆者自身が紹介し ル・メディアが大きな役割を果たしたと伝えられてい たように 1 、マレーシアではオンライン・ニュースサイ る。だがその一方で、ソーシャル・メディアの影響力 トやブログによる情報提供がアブドゥラ政権期以降、 について懐疑的であるか、「革命」の要因としては、 急速に進んでいった。また、2008 年総選挙におけ 数ある要因のうちのマイナーなものの一つに過ぎな る与党の国民戦線(BN)の事実上の敗北ともとれる いとする見解も散見される。 大幅な議席の減少が起こった要因の一つに、オン こうした議論を筆者なりに、いささか単純化してま ライン・メディアの活動があったことも指摘されてい とめれば、そこで語られている論点は「インターネッ る。マレーシアでオンライン・メディアが注目される トという新たな情報通信技術によって登場した(ソー 背景として、政府・与党が免許制度(代表的なもの シャル・メディアを含む)オンラン・メディアには政 が、印刷機・出版物法に基づく出版免許)や資本 治・社会的な変革を起こす力があるのか」、という点 所有などを通じて新聞やテレビなどの主流メディア になるだろう。ただし、オンライン・メディアそれ自体 を統制下におくことでBN寄りの情報が主流メディ は、印刷メディアや放送メディアと同様に、あくまで アに溢れている状況下で、オンライン・メディアが中 情報を媒介する手段であるという点は確認しておく 立的な情報や野党、BNに批判的なNGOの活動 必要がある。つまり、オンライン・メディアが何らかの などを伝える代替的な情報源となっていることに留 政治・社会的インパクトを持つためには、特定の条 意しなければならない。こうしたマレーシアの主流メ 件と行為主体の下で運用される必要がある。したが ディアとオンライン・メディアの間に報道の範囲や内 って、上記の問いと関連して、もしオンライン・メディ 容を巡ってギャップが存在する状況は、権威主義 アに何らかの政治・社会的な変革を起こす力があ 的体制を維持している諸国では一般に見られる傾 るとすれば、「どのような条件の下、いかなる主体に *神戸大学特別研究員 よって運用されることで、その影響力が最大化され [email protected] News No.36、2006 年。伊賀司「サイバースペースとリアル スペースの間で―マレーシアにおけるブログの展開」 JAMS News No.38、2007 年。 1伊賀司「アブドゥラ政権下のメディア」JAMS るのか」、という問いが同時に投げかけられる必要 がある。こうしたオンライン・メディアの政治・社会的 16 JAMS News No.48 (2011.3) 向である。しかしながら、こうした権威主義的体制下 し、インターネットの検閲を行わないことを宣言して の主流メディアとオンライン・メディアの間のギャップ 以降、政府は現在までのところ検閲につながるウェ について、その程度には国によって違いが見受け ブ・サイトの登録制を行っていない。この例に見ら られる。典型的な例として我々はシンガポールとマ れるような政府規制の差は、両国のオンライン・メデ レーシアの事例を挙げることができる。 ィアの政治・社会的インパクトの差に大きな影響を 与えていると言えるだろう。 周知のようにシンガポールは、マレーシア以上に 国民の間でのインターネットの浸透度が高い。だが、 しかしながら、2009 年 4 月に発足したナジブ政 マレーシアにおいて政府・与党から独立したオンラ 権以降のマレーシアでは、政府のメディア規制がさ イン・ニュースサイトの開拓者であるマレーシアキニ らに強化される傾向が見られている。2009 年 4 月 や、そのライバル的存在として近年急速に台頭し の就任演説でナジブ首相はメディアに対する寛容 つつあるマレーシアン・インサイダーのようなニュー な姿勢を示し、前政権下で拡大した自由な言論空 スサイトをシンガポールは依然として持つことができ 間を維持する趣旨の演説を行っている。しかし、新 ていない。また、アブドゥラ政権期のマレーシアのよ 政権発足後の実態は、政府のメディア統制が再び うに、ブログが一般にも広く認められてかなりの程 強化されつつあると言わざるを得ない。特に、ナジ 度の政治・社会的なインパクトを与えるといった事 ブ政権にはマハティール政権でも見られなかった 態は、シンガポールで大規模には観察されるに至 オンライン・メディアへの統制にも踏み込もうとする っていない。 意図が政権発足当初から見え隠れしていた点は特 こうしたマレーシアとシンガポールとの違いを生 筆すべきであろう。ナジブ政権の意図が典型的に み出している要因の 1 つとして考えられるのは、政 示されているのが、新政権下で起こった省庁再編 府のインターネット規制の差であろう。その一例とし である。マレーシアにおいてインターネットを含む て、シンガポールでは、放送法が政党や ISP(イン 情報通信分野を規制する直接の官庁は、マレーシ ターネット接続業者)などはもちろんのこと、ブログ ア・コミュニケーション・マルチメディア委員会 のオーナーをも含む「インターネット・サービス提供 (MCMC)である。マハティール、アブドゥラ両政権 者」が政治や宗教関連のウェブ・サイトを開設する 下で MCMC は設立当初から旧エネルギー・コミュ 際にメディア開発庁(MDA)への届出・許可を義務 ニケーション省の外局(2004 年 3 月からは、エネル づけている。ウェブ・サイトの登録制を導入している ギー・水利・コミュニケーション省)であった。しかし、 シンガポールに対し、マレーシアでは、マハティー ナジブ政権発足後の MCMC は、伝統的に放送メ ル政権期にマルチメディア・スーパー・コリドー ディアや映画を規制してきた情報省を中心に新設 (MSC)プロジェクト成功のためにマルチメディア保 された情報・通信・文化省の下に置かれた。この 証章典(Multimedia Bill of Guarantees)を発表 MCMC を巡る省庁再編は、従来のインフラ整備や 17 【特集 エジプト政変と東南アジア】 オンライン・メディアの影響力とは(伊賀司) 産業育成の観点から捉えられてきた情報通信政策 を開催し、オンライン規制に反対する共同の宣言を が情報統制や政府広報の色合いを強く帯びるよう 採択している。このようなオンライン・メディアを含む になったことを意味している。新設された情報・通 メディアの自由を守ろうとする最近の動きの活性化 信・文化省は、テレビ、ラジオからインターネットに は、マレーシアにおける「市民社会」の活動が定着 至る幅広い分野で新政権が掲げる「1 マレーシア・ しつつあることを感じさせるものである。実際のとこ キャンペーン」(別の見方からすれば、政府の「プロ ろ、マレーシアのオンライン・メディアの政治・社会 パガンダ」)の司令塔として大きな役割を果たしてい 的影響力の拡大は、こうした「市民社会」の拡大と る。 軌を一にして進んできたとも言えるだろう。1998 年 他方で、検閲(センサーシップ)の側面から言え のアンワル副首相の政府・与党からの追放をきっか ば、MCMC によるサイバースペースの監視が強化 けに始まった改革運動(「レフォルマシ運動」)から される中、以前はポルノグラフィでの犯人検挙に専 2008 年 3 月の総選挙を経た、この 10 年余りの間 ら使用されてきたコミュニケーション・マルチメディア に、オンライン・メディアをより有効に活用してきたの 法が、ナジブ政権に入って政治的内容のコメントに は、主流メディアをコントロールする政府・与党の側 適用される例が増えている。また、今年 1 月に入り、 ではなく、野党や政府に批判的な NGO などの「市 内務省はオンライン上での扇動行為に関する「ガイ 民社会」を形成する主要なアクターであった。こうし ドライン」を新たに発表した。さらに同時期に内務省 たマレーシアの事例からは、オンライン・メディアの からは、出版物の定義をオンライン・メディアにまで 政治・社会的な影響力は、政府のオンライン規制と 広げることで、印刷機・出版物法を改正する法案を ともに、オンライン・メディアを活用する「市民社会」 議会に提出することが目指されていると報道されて の在り方によって大きく左右されることが示唆される いる。つまり、内務省内では現在、オンライン・メデ であろう。 ィアにも免許制を適用することが真剣に検討されて いるのである。 インドネシアの事例 ナジブ政権下でメディア統制を再強化、拡大しよ 現在のインドネシアの事例はマレーシアとは異な うとする政府の動きに対し、野党や NGO などの側 ることは言うまでもない。スハルト体制崩壊後のイン では反対運動が活発化しつつある。例えば、NGO ドネシアは、メディアに対する政府からの圧力は改 の独立ジャーナリズム・センター(CIJ)は、ナジブ 善され、メディアの自由化は大きく進んだ。そうした 政権以降のメディアのモニタリング活動を活発化さ 中で、オンライン・メディアと主流メディアとの間の関 せ、年次レポートを出版するようになった。また、上 係を考える際の最近の興味深い事例として、2009 記のような政府のオンライン規制拡大の動きに対し、 年から 2010 年に起こったプリタ・ムルヤサリに対す 今年 2 月に入って NGO が集まってワークショップ る社会的な支援運動の盛り上がりを指摘することが 18 JAMS News No.48 (2011.3) 万ルピア)が集まった。この事例(特に PritaⅡ)で できる。 この事例は、オムニ国際病院の患者であったプ は、オンライン・メディアを通じてサイバースペース リタが診療に対する不満を述べた E メールをオンラ で始まった運動が拡大していくにつれ、主流メディ イン上で公にしたところ、病院側が 2008 年に新た アを巻き込みながらさらに大きなものとなっていた に導入された電子情報・商取引法に基づいてプリ 点が興味深い。 タを告訴したことに始まる。この告発に基づいてプリ タが 6 月に収監されたために、ブログやフェイスブ サイバースペースとリアルスペースの間 ックを使った彼女の釈放の呼びかける運動が盛り 本稿で見たマレーシアにおけるオンライン・メディ 上がった(PritaⅠ)。当時のインドネシアでは大統 アを取り巻く状況からは、オンライン・メディアの影 領選挙が始まっており、ネチズンたちの支持を得た 響力は、(主流メディアを含めた)政府のメディア規 い候補者たちも実際に収監されているプリタを訪れ、 制や「市民社会」の在り方に左右されることがわか 同情を示した。こうした社会的なプリタ支援の運動 る。また、オンライン・メディアから始まった運動は、 の盛り上がりを受けて、検察は刑事事件での起訴 主流メディアをも巻き込むことでさらに大きな運動 を取り下げ、プリタは釈放された。しかし、プリタ釈 になっていくことも、インドネシアの事例から示唆さ 放後に病院側は民事訴訟を起こし、名誉棄損でプ れる。 リタを再び訴えた。その結果、プリタは 2 億 400 万 こうした事例を前に筆者自身は、オンライン・メデ ルピアにのぼる賠償金を科されることになった。こ ィアを見るときには、サイバースペースの中で起こ のニュースを聞いたネチズンを中心に、プリタの支 っていることだけではなく、リアルスペースとの兼ね 援運動が再び盛り上がり、プリタを支援するため、 合いの中で何が起こっているのかを常に意識する 少額のコインを集めようとする募金活動が行われる こと、換言すれば「サイバースペースとリアルスペー ことになった(PritaⅡ)。この募金活動は、最初は スの間」で起こっていることに注目する必要があると ブログやフェイスブックを中心としたオンラン・メディ 考えている(2011 年 3 月 15 日脱稿)。 アでの呼びかけから始まったものの、次第にテレビ や新聞なども募金活動を積極的に報道するように なり、TV One のように番組内で募金を呼びかけて 運動に直接関わるようになったテレビ局もあった。 募金活動は大きく盛り上がりを見せ、インドネシア 全土からコインが集まった。最終的にコインだけで 当初の予想を超えて 6 億 1500 万ルピア(そのほか の紙幣や小切手などを含めると全体で 8 億 1500 19 【特集 エジプト政変と東南アジア】 エジプトにおける東南アジア留学生の歴史とイスラム復興運動(國谷徹) エジプトにおける東南アジア留学生の歴史とイスラム復興運動 國谷徹 エジプトの政変は東南アジアのムスリムにとって、 東は、第一次世界大戦といわゆるアラブ反乱、そし 恐らく我々が想像する以上に身近に感じられたの て 1924 年にはサウード王家によるメッカ占領といっ ではないか。カイロのアズハル大学にはインドネシ た激動の中にあった。そんな中、当時のあるインド ア、マレーシアからそれぞれ数千人の留学生が在 ネシア人留学生によれば、「メッカでは宗教しか学 学している。両国にとってエジプトは最大の留学先 ぶことができないが、カイロでは政治についても学 の一つなのである。今回の事件に際しても、インド ぶことができた」のである。 彼らが学んだのは政治だけではなかった。当時 ネシア・マレーシア両国政府はそれぞれ自国の留 学生を安全のために一時帰国させる措置を取った。 エジプトは、ラシード・リダーらが発行した雑誌『ア 本稿では、留学を通じた東南アジアとエジプトの関 ル・マナール(灯台)』を中心として、いわゆるイスラ 係の歴史について述べてみたい。 ム復興運動の中心地であった。ナポレオンの侵入 東南アジアからエジプトへの留学が盛んになっ 以降、急激かつ直接的に西洋列強の脅威にさらさ たのは 20 世紀の初頭、特に 1920 年代のことであ れたエジプトでは、19 世紀末以降、イスラムの復興 る。1904 年にオランダの外交官が視察した際には、 によって西洋に対抗し、自立と発展を勝ち取ろうと アズハル大学にオランダ領東インドからの留学生 するイスラム復興思想が生まれた。アフガーニーや 14 人が在籍していたことが報告されている。一方、 ムハンマド・アブドゥによって提唱され、アブドゥの ウィリアム・ロフの研究によると、1920 年ごろにはマ 弟子ラシード・リダーらが広めたこの思想は、イスラ レーシア・インドネシアからの留学生は 100 人弱、 ム世界が西洋列強の支配下に置かれているのはム 1925 年には 200 人以上に達し、同年には彼ら留 スリムがクルアーンの教えから逸脱し堕落したため 学生の互助組織も設立されたという。 であると論じ、クルアーンへの回帰・信仰の純化を それまで、イスラム諸学を修めようと志す人々が 説くとともに、理性的思考によるイスラム法の再解 目指したのは、もっぱらイスラムの聖地メッカ・メディ 釈を主張し、近代社会に適合し得るイスラムのあり ナであった。遅くとも 18 世紀ごろには、著名なウラ 方を模索するものであった。当時カイロはイスラム マーに師事すべくマレー世界の各地から聖地へ向 世界における出版の中心でもあり、この思想は広 かい、やがて自らもウラマーとして名をなすに至る 範な影響力を持った。 人々が多数現れていた。ところが 1920 年代以降、 東南アジアからの留学生もこのイスラム復興思想 メッカに代わってカイロへの留学が注目を集め始め に多大な影響を受けた。当時インドネシア人留学 た。これは、カイロへの留学がより新しく、魅力的な 生との関わりが深かった人物の 1 人にタンターウィ 経験をもたらすものであったためである。当時の中 ー・ジャウハリーがいる。彼はインドネシア人学生の 20 JAMS News No.48 (2011.3) 受入れ・指導に熱心で、留学生の集会にもしばし 抗を目指し、そのための手段としてイスラムの ば出席し、留学生らの尊敬を集めていたという。当 価値観の復興によるイスラム世界の再活性化を 時エジプトを代表するクルアーン解釈学(タフシー 主張するものであったが、これに対して、エジ ル)の専門家であったタンターウィーは、「科学的ク プトよりも早くから植民地化されたマレーシ ルアーン解釈」なる方法を提唱し、西洋近代の科 ア・インドネシアにおいては、西洋への対抗と 学や技術の発展は全てクルアーンの中に既に示さ いう側面はあまり強く主張されず、むしろ、近 れている、との論によって近代科学の導入・近代化 代化・ 「発展(kemajuan)」とイスラムの価値観 の推進を主張した人物である。つまり、西洋の近代 との調和を唱える論調が目立った。ある意味で 文明はもともとかつてのイスラム文明の成果を継承 は、東南アジアの人々はエジプトからのイスラ して発展したものであるし、近代科学の知見は全て ム復興思想をより柔軟に解釈し、受容したとも クルアーンにおいて予見されている。従って、イスラ 言える。現在においてもなおエジプトがマレー ム世界は西洋近代科学の成果を取り入れることで シア・インドネシアからの留学生を多数引き付 西洋に対抗し、発展への道を歩むべきである、とい けているのも、ひとつにはこの、「西洋化・近代 う思想である。タンターウィーの著作は東南アジア 化とイスラムの価値観をいかに調和させるか」 のいわゆる近代派、カウム・ムダの間で広く読まれ という問題が現在でもなお重要性を失っていな たといわれ、ムハマディアに代表されるイスラム近 いためではないかと考える。 代主義運動に大きな影響を与えたと思われる。ち なみに、ことイスラムに関しては極めて疑り深いオラ ンダ植民地政府は、彼の著作が植民地のムスリム の間に論争を引き起こすことを恐れ、その植民地に おける出版・流通を禁止した。 以上のように、20 世紀初頭、東南アジアからの 留学生がカイロで学んだことのうち、最も重要であ ったもののひとつが、ラシード・リダーやタンターウィ ーらのイスラム復興・改革思想であった。その影響 は、東南アジアにおいても、ミナンカバウで発行さ れた雑誌『アル・ムニール』を皮切りとするイスラム 系出版物を通じて広まった。 当時のエジプトにおけるイスラム復興・改革 思想は、最終的な目的としては西洋列強への対 21 【特集 エジプト政変と東南アジア】 経済分野からみたマレーシアと中東湾岸諸国の繋がり(福島康博) 経済分野からみたマレーシアと中東湾岸諸国の繋がり 福島康博 ∗ マレーシアは近年、中東諸国、とりわけ湾岸協力 れた GCC 企業との覚書によれば、サラワク州のタ 会議(GCC)に加盟する 6 ヵ国(UAE、バハレーン、 ンジュン・マニス・ハラール・ハブ(Tanjung Manis クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビア)と Halal Hub)への投資が行われる。これにより、同 の結びつきを強めようとしている。この背景には、連 地がハラール食品企業の工業団地としてグローバ 邦政府が進めている五つの長期的な地域開発計 ルなハラール・マーケットに対するハラール食品の 画、すなわちイスカンダル・マレーシア(IM)、北部 供給地という役割を担うことが期待されている。 回 廊 経 済 地 域 ( NCER ) 、 東 海 岸 経 済 地 域 FTA 交渉を見据えた両者間の FAECITC の締 (ECER)、サバ開発回廊(SDC)、およびサラワク 結に至るまでには、多様な活動が存在している。マ 再生可能エネルギー回廊(SCORE)があり、GCC レーシアの閣僚・国家元首級の人物による GCC 各 諸国から企業進出や投資をこれらに呼び込もうと躍 地への訪問としては、2004 年にアブドラ首相(当 起になっている。また、GCC 諸国とマレーシアとの 時)が、2006 年にはサイード国王(当時)が、それ 間の資金経路となるべく、GCC 諸国資本のイスラ ぞれドバイの政府系海洋不動産開発会社であるナ ーム銀行のマレーシアへの進出を容認している。 キール社(Nakheel Properties)の本社を訪れる 2011 年 1 月 30 日、ナジブ首相やムスタパ国際 などしている。また、マレーシア貿易開発公社 通産相らが UAE のアブダビを訪問し、GCC との間 (MATRADE)は、2008 年から毎年「マレーシア・ で経済・商業・投資・技術協力に関する枠組協定 サ ー ビ ス 展 示 会 」 ( Malaysia Services (FAECITC)に署名した。この協定により、GCC 諸 Exhibition)というイベントを UAE 国内で主催し、 国の企業がマレーシアに進出するのと同時に、マ マレーシアの企業や商品・サービスを GCC 諸国に レーシア企業による GCC でのイスラーム金融、建 紹介する活動を行っている。これらの取り組みの結 設、石油、天然ガス分野への投資・進出が見込ま 果、2007 年から 2010 年 11 月にかけてのマレーシ れている。また FAECITC は、今後両者間で締結 ア・GCC 諸国間の貿易額(輸入額+輸出額)は、そ を目指す自由貿易協定(FTA)に先鞭をつけるもの れぞれ 284 億リンギ(2007 年)、397 億リンギ として位置づけられており、FTA は 1 年から 1 年半 (2008 年)、272 億リンギ(2009 年)、302 億リンギ をかけて交渉を行う予定である。 (2010 年 1-11 月)という変遷をたどっている。また、 マレーシアが GCC 諸国との連携で積極的にな 2010 年末現在、GCC 諸国で進行している計 341 っているのは、一つにはオイルマネーの呼び込み 億リンギに上る複数の建設プロジェクトに対してマ を狙ってのものである。豊富な資金をマレーシアに レーシア企業が参入している。 呼び込むことによって、マレーシア経済の活性化を 他方、GCC 諸国の企業によるマレーシアへの進 目指している。また呼び込む資金の一部は、近年 出・投資も行われている。進出・投資の中心となっ マレーシアが力を入れているハラール産業に振り 向けられようとしている。FAECITC と同時に締結さ ∗ 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 22 JAMS News No.48 (2011.3) ているのが、五つの長期地域開発計画である。早 を取得した GCC 諸国からの富裕者が多く暮らして い段階から進出を行っているのが、アブダビのアル おり、GCC 資本の各イスラーム銀行は、こうした ダー不動産(Aldar properties)やムバダラ開発社 人々を対象として出身国への送金サービスや資産 (Mubadala Development Company)、ヨルダン 管理サービスなどを提供している。 年々結びつきを強めているマレーシアと GCC 諸 のミレニアム・デヴェロップメント・インターナショナ Development 国との経済関係であるが、必ずしも常に順風満帆と International)といった不動産開発業者である。 いうわけではない。とりわけ 2009 年は、11 月 25 日 これら外国企業は 2008 年、IM のうちシンガポー に発生したいわゆるドバイ・ショックが象徴している ルに隣接する地域をイスカンダル金融地区 ように、GCC 諸国の景気悪化が両者間の経済関 (Iskandar Financial District)として金融機関等 係を停滞させた。具体的には、ナキール社の親会 を誘致するべく、当該地域の不動産開発に着手し 社であるドバイ・ワールド社(Dubai World)と同じく ている。これ以外にも、複数の GCC 諸国の不動産 ドバイのダマク不動産(Damac Properties)が、同 開発業者が長期地域開発計画に参入した。 年に IM の土地開発から撤退した。また、GCC 諸 ル 社 ( Millennium GCC 諸国の企業がマレーシアに進出して業務 国の合弁企業によるマレーシアのイスラーム金融 をする際の懸案事項の一つが、両地域間における 機関の株式取得の計画が、頓挫した。他方、UAE 資金経路の確保である。この点についてマレーシ に進出していたマレーシア企業の中には、経営が ア政府と中央銀行(BNM)は、イスラーム銀行法を 急激に悪化した企業もあった。 2004 年に改正し、外国資本のイスラーム銀行に対 さて、今般の中東・北アフリカ諸国における民主 してイスラーム銀行業ライセンスの発行・進出を可 化市民運動が、マレーシアと GCC 諸国間との経済 能とした。この結果、2011 年 3 月現在、アッラージ 関係にいかなる影響を与えるのかを考えてみたい。 ヒー銀行(サウジアラビア資本)、クウェート・ファイ 両者間における経済関係の今後は、GCC 各国に ナンス・ハウス(クウェート資本)、アジア・ファイナン おける(1)政治体制の転換や政権交代などを含め ス銀行(カタール、サウジアラビア、クウェートによる た政治情勢、(2)内戦やデモ、騒乱などに対する 共同出資)、およびユニコーン国際イスラーム銀行 治安の維持・回復能力、および(3)インフラ、物流、 (バハレーン資本)の 4 銀行がマレーシアに進出し 外国人労働者を含めた労働力、工場等の生産手 ている。4 銀行が支店の設置している地域は、クア 段といった各経済要素、という三点の動向がどのよ ラルンプールやシャーアラムなどのクランバレー地 うになるか、そしてこれらの動向によって GCC 内外 域、ジョホールバル、ペナン島、コタキナバル、およ の政府・民間企業等の経済活動がどのようなものに びクチンで、マレーシアの主要な経済地域であり、 なるか、といった点にかかってくるであろう。もちろ クランバレー地域を除けば各長期地域開発計画の ん、これら三点の動向の不安定感が長引くに伴っ 対象地域である。とりわけペナン島は、NCER の対 て、GCC 諸国の経済・企業活動が停滞し、これが 象地域であるのと同時に、マレーシア・マイ・セカン マレーシアとの経済関係を悪化させることになる。 ド・ホーム・プログラム(MM2HP)で長期滞在ビザ この関係悪化は、マレーシアにおいては長期地域 23 【特集 エジプト政変と東南アジア】 経済分野からみたマレーシアと中東湾岸諸国の繋がり(福島康博) 開発計画を含めた GCC 諸国からの投資および 政府系投資ファンド(SWF)が、「富の偏在の象徴」 財・サービスの輸出入への影響という形で顕在化 などと目され、解体されることも想定されうる。そのよ すると考えられる。 うになった場合、こうした経済主体からの投資を頼り GCC 加盟 6 ヵ国のうち、デモやストなど住民の行 にしているマレーシア経済、特に長期地域開発計 動、政治運動が表面化していない国は、わずかに 画は、場合によっては計画参入企業選定の再検討 カタールのみで(3 月 13 日現在)、住民が国王の を迫られることになることも考えられよう。 退任や政治改革を求めている国(クウェート、 最後に、筆者の研究上の主たる関心事であるイ UAE)、住民運動を受けて実際に内閣改造を行っ ス ラー ム金融 に ついて、一 点触 れて おきた い 。 た国(オマーン)、政治・経済的不満からイスラーム GCC 諸国のうち、バハレーンには、イスラーム金融 の宗派間対立に発展している国(バハレーン、サウ の会計基準制度を定める国際機関であるイスラー ジアラビア)といったように、国ごとに状況がまちま ム金融機関会計・監査機構(AAOIFI)が存在する。 ちである。そのため、GCC 諸国と一括りで議論を行 バハレーンは、一連の民主化市民運動が起きてい うことは必ずしも適切ではないものの、政治・社会の る国々のうち、スンニ派とシーア派によるイスラーム 不安定化が経済停滞を招くのは自明であろう。 の宗派が対立軸となっている数少ない国の一つで 治安の急激な悪化は、短期的には外国人企業・ ある。これは、他国のように経済問題や政権への不 労働者の国外退去を促すことになる。民主化運動 満には還元できない構造的な問題を孕んでいるた の過程の中で、特に国内治安の悪化が著しくなっ め、政情不安の解消には時間がかかることが予想 たリビアやエジプトでは、実際にマレーシア人やマ される。バハレーンの問題は、必ずしもグローバル レーシア企業、およびマレーシア企業に勤務する なイスラーム金融の会計制度に対し、直接的で致 外国人労働者が国外退去する事態に至っている。 命的な打撃を与えるほどのインパクトはない。しか GCC 諸国では、現状において国外退去が必要な しながら、事態が長期化すればバハレーンの影響 ほどの治安悪化は発生していないものの、今後の 力が低下する一方で、同じくイスラーム金融のガバ 事態の推移によっては、そのような状況も発生する ナンスに関する国際機構であるイスラーム金融サ 可能性もあるだろう。 ービス委員会(IFSB)を擁するマレーシアのプレゼ GCC 諸国での政情不安定化は、それがどの程 ンスが上がることも想定されよう。 度長引くのかによって、中期から長期的の影響を 与える。政治・社会の不安定化が各国の企業や投 参考文献 資ファンドの経営・運営の悪化を招けば、マレーシ 福島康博 2008 「中東資本のイスラム金融機関に アへの進出・投資のあり方にも変化が生じるだろう。 よるマレーシアへの進出の現状と課題」『国際学 レヴュー』19 号、141-166 頁。 また、チュニジアやエジプト、リビアのように、GCC ―――― 2010 「インドネシアとマレーシアにおける 諸国の現政権(いずれも絶対王政ないしは首長 イスラーム金融制度」(財)国際貿易投資研究所 制)が倒れて新政権や暫定政権が発足した場合、 (編)『世界金融危機とイスラーム金融』(財)国際 貿易投資研究所、47-76 頁。 旧政権を支えた政府や王族・首長に連なる企業や 24 JAMS News No.48 (2011.3) 【第 19 回 JAMS 研究大会報告】 マレーシアの転換点をどう捉え、どう描くか 共通論題(1)「ポスト・マハティール期の方向性:政治・経済の変動とベクトル」から 金子芳樹 質問、コメントが寄せられ、報告者との間で次のよう 第1日目の共通論題セッションは、マハティール な議論が交わされた。 時代が終わった後のマレーシアの政治、経済、外 交の動きをトレースしながら、何が、いかに変化した 政治面に影響を及ぼす要素としてエスニシティ以 か、しつつあるか(していないか)を整理し、その上 外に階級的要素の比重が増した。貧富の格差拡 で同国が進もうとしている方向を探ることを目的とし 大と共に中間層の拡大が目覚ましく、既に 4〜5 割 て設定された。 を占めるともみられる。中間層が様々な面でマル 強いリーダーシップと明確なビジョンの下に新経 チ・エスニック化を促進しており、長年固定的であ 済政策(NEP)を推進・制御し、現在のマレーシア った政治構造が流動化している。 の枠組みと個性を築き上げたともいえるマハティー 経済面では、憲法 153 条の改正にまで踏み込ん ル首相が退いた後、同国がどこに向かうかに衆目 だ原則の転換は容易ではないが、新経済モデル が集まった。アブドゥラー、ナジブ両後継政権は、 (NEW)で NEP のネガティブな面が指摘されてい 基本的には前政権の路線を継承するとし、抜本的 るように、アファーマティブアクションの対象の再設 な体制や政策の変更を主張しようとはしなかった。 定などを含めて、情勢の変化に対応する現実主義 しかし、国内外で変動の波は着実に押し寄せ、変 的な政策がとられるのではないか。 化を促す圧力は予想以上の速さで高まってきたよ 外交面では、政権の個性と情勢変化が重なって うにみえる。実際にも、2008 年の総選挙結果を象 政策にも変化がみられる。アジアにおける多国間 徴として、種々の変動やその兆しが観測できる。 外交への姿勢には不透明な面も多いが、アフリカ これらの変化は、構造的な転換なのか、一過性の を対象とした南々協力や TPP などの経済自由化 変転なのか、それとも政権の個性なのか。政治、経 に向けた多国間協力については従来になく積極的 済、外交の各分野から分け入って、この問いに迫 な取り組みがみられる。 最後にフロアから、国家としてのマレーシアの今 ろうとしたのが同セッションである。 まず、中村正志会員から政治、吉村真子会員か 後の方向性について、マルチ・エスニックな面をア ら経済、鈴木絢女会員から外交の各分野について ピールする重要性や小国としてのソフトパワー発現 の報告があった。報告内容は別項の報告要旨に譲 の必要性などが指摘された。 るが、著者は各報告から、ポスト・マハティール期の 転換期を迎えているマレーシアで、何が、どのよう 7年余りの間に、各方面でマレーシアが、一過性と に変わろうとしているのか。視点の設定そのものも はいえない構造的な変動期を迎えていることを強く 含め、各自に向けられた問いといえよう。このセッシ 印象づけられた。 ョンが、各分野における今後の分析の一つのヒント になることに期待したい。 次に、討論者の小野沢純会員(拓殖大学)から、 各報告が提示した変化の内容にさらに踏み込んだ 25 【第 19 回 JAMS 研究大会報告】 共通論題(2)(西尾寛治) 共通論題(2)「マレーシアにおける公正なる秩序の構築:近現代における諸相」 西尾寛治 アディル(公正/正義)概念からマレーシア社会 必要な資質として注目されたが、その要因は複数 にアプローチする試みは、JAMS 第 17 回研究大 集団の併存という不均質な社会状況に求められる 会の共通論題(テーマ「『アディル』をとおしてみた こと、③植民地体制下で民族の多様化(非ムスリム マレーシア、インドネシアの社会」、2007 年 12 月 6 も含む)や政治・行政の脱イスラーム化が進行し、 日、獨協大学)や東南アジア学会第 81 回研究大 それと対応してアディル概念の脱イスラーム化が進 会のパネル(テーマ「マレー世界におけるアディル 展した。 (公正/正義)概念の展開」、2009 年 6 月 7 日、京 篠崎報告「越境に伴う不当な暴力への対処:海 都大学)として企画され、趣旨説明の報告要旨が 峡植民地の華人の事例」は、「同郷性に基づいた 示すように、一定の研究成果をあげた。だが、植民 移民ネットワークの形成が、移動コストの削減、安 地期以降の「公正/正義」概念の変容やその過程 全性や心理的自由度を保証し、移住活動を促し におけるヨーロッパ諸国など非イスラーム的要因の た」とする先行研究に対する批判を出発点とした。 影響については、今後の検討課題とされた。今研 すなわち、同郷性は必ずしも移民の安全を保証す 究大会における共通論題(2)は、そうした検討課題 るものではなく、同郷者を搾取の対象とした同郷者 の解明を一歩進めようとする試みであった。 も存在した点に注目し、そうした同郷者の不当な暴 坪井報告「英領期スランゴルのマレー人社会に 力を回避(=公正な社会状況創出)するための対 おけるアディル概念」は、植民地行政の末端に位 策について考察した。報告では、その対策が「移住 置づけられたプンフルに関係した陳情書 先の行政・司法制度の活用」と「出自国の公権力と (Selangor Secretariat Files に含まれる)を史料 の関係構築」の 2 つに分類された。そのうち、前者 として、当時のマレー人社会の「アディル」概念にア には、華人保護を目的とした諸制度(シンガポール プローチした。報告では、陳情書の丹念な分析をも の華人保護署 Chinese Protectorate、華人保護 とに、プンフルに対してアディルが使われる事例は 官 Chinese Protector、ペナンの華人保護官補佐 少なく、アディルが使用される対象は主にイギリス Assistant Chinese Protector)や裁判所の活用 植民地政府(非ムスリム)であったことが示された。 が含まれる。後者には、中国国内に設置された保 プンフルに対してアディルが使用されている 2 事例 商局や華人商業会議所が含まれ、海峡植民地とマ は、いずれも移民の流入で人口が増加したケース ラヤについては、イギリス国籍の活用や華人商業 で、その要因としてプンフルの「公正さ」をあげてい 会議所の設立などが指摘された。篠崎報告は、こ るという。以上のような点を指摘した上で、坪井報 れらの対策を個別に考察した上で、結論として次の 告は次の 3 点を結論として提示した。①現地人は 3 点に言及した。すなわち、①海峡植民地華人は 植民地統治に敏感に反応し、地方行政に積極的 公権力を積極的に活用したこと、②頼りない公権力 に関与していたこと、②アディルは社会秩序構築に に対してもチャンネル構築を試み、公権力に責任 26 JAMS News No.48(2011.3) を履行させようとしたこと、③頼りがいのある公権力 で留意したいのは、18-19 世紀に暴力の支配する 構築のため、自ら組織化し公権力に働きかけたこと 時代(紛争の慢性化、海賊の横行)を経験しながら、 である。 マレーシアでは公権力に対する信頼・期待度が高 以上 2 つの報告が植民地期を論じたのに対し、 く、「公正/正義」は公権力が実現すべきものと認 Omar Farouk 報告「Malaysia and Muslims in 識されている点である。このことは、イギリス植民地 Mainland Southeast Asia」は、現代の事例を取 支配が公権力に対する信頼を助長する方向に作 り上げた。報告では、最近の調査結果をもとに、カ 用したことを示している。したがって、今後はこうし ンボジアのムスリム社会の現状とそれに対するマレ た側面の解明を進める必要がある。坪井報告が取 ーシアの支援の様子が、画像資料も用いながら紹 り上げた陳情書という制度も、その事例のひとつと 介された。共通論題のテーマとの関連では、次のよ いえよう。 うな興味深い指摘があった。すなわち、国内ではム 第 2 点は、多様な民族集団、とりわけ移住者たち ラユ人性やイスラーム性を強調しているマレーシア の「公正/正義」観念の与えた影響である。篠崎報 が、国際支援活動では非ムスリムのカンボジア人留 告は華人系移民に焦点をあてたが、インド系移民 学生の受け入れにも積極的であるという点である。 についても同様の研究が必要となろう。 討論者の宮崎恒二会員は、坪井報告が言及し 第 3 点は、マレーシアの国際支援活動と「公正 た多様な集団を包摂する社会とアディル概念との /正義」観念との関係である。小国マレーシアは、 関連性に関してコメントした。そうした社会では、し イスラーム性を基軸として国際社会で存在感を示し ばしば外部性をもつ存在が調停者の役割を果たす てきたと考えられる。だが、Omar Farouk 報告に ことを期待されると指摘し、坪井報告の結論の妥当 よれば、より開かれた国際支援活動(政府主導か 性を強調した。その後の論議では、山本博之・金子 民間ベースかは不明ながら)を展開しているという。 芳樹両会員が篠崎報告にコメントし、華人系移民 このことは、マレーシア社会において現在進行しつ の「公正」観念が植民地期及びそれ以降の「公正」 つある一定の変化を反映しているのかもしれない。 概念に影響を与えた可能性を追究することの重要 もとより「公正/正義」は人類の普遍的価値だが、 性を強調した。 どのような状態を「公正/正義」と認識するかは、エ 以上の報告とコメントは、今後の「公正/正義」 スニック集団によってかなり相違する。とはいえ、国 概念をテーマとする研究の方向性に、ひじょうに有 王制度、NEP、国民文化の論議などの事例は、マ 益な示唆を与えてくれるものであった。少なくとも以 レーシアが「公正/正義」な秩序の構築に意識的 下の点があげられよう。第 1 点は、イギリスの秩序構 に取り組んできた国家であることを示唆しているよう 築者・維持者という側面に注目することの必要性で に思われる。 ある。坪井報告・篠崎報告は、いずれも現地人(移 民を含む)が社会秩序構築のためにイギリス当局に 積極的に働きかけていたことを指摘している。ここ 27 【第 19 回 JAMS 研究大会報告】 自由研究報告(田村慶子) 自由研究報告 田村慶子(北九州市立大学) 12 月 12 日(日)午前は、16 人のフロア参加者を 員は、自然災害が多発するインドネシアを事例に、 迎えて 3 本の自由研究報告が行われた。 当該社会がこれまで抱えていた課題が災害によっ 第一報告は、長谷川悟郎(桜美林大学) 会員の て見えやすくなったこと、復興・再建がよりよい社会 「カピット・バレー流域、イバンの妖怪グラシと護符 の実現を目指す好機になったことを「災害がひらく 信仰」であった。この報告は、2008 年から 2009 年 社会」と述べ、社会の固有性や他の社会とのズレに の 11 ヶ月間に行ったカピットのロングハウスでのフ 意義を汲み取ることで理解を深める試みなどが地 ィールドワークを基にしたものである。報告者は、住 域文化研究に期待されていること、さらに災害対応 民の 1 人が一世代前にグラムシから授かったという の地域研究の可能性として、学術研究を豊かにし 吹き矢と一本の歯を護符として所有していたことを ながら人道支援の実務の現場にも貢献する地域研 ヒントに調査を進めて、カピット・バレー流域のイバ 究の道を考察した。 ン人村落地も一般的にはキリスト教化が進んだとさ この 3 本の自由研究報告には特にコメンテーター れているが、若者を含めて多くの住民はいまだにグ を置かず、報告の後はフロア参加者と報告者との ラムシを信じており、イバン人の間で受け継がれる 自由な意見交換を行った。 神霊信仰がいかに根強いかを明らかにした。 フロアからは、長谷川報告に対しては、神霊信仰 第二報告は、荒川朋子会員の「マレーシアの軍 においてイバン人のリーダーシップはどういう時に 事行政-最近の組織状況と PKO センター設立に 発揮されるのか、キリスト教と伝統的信仰はどのよう ついて」 であった。マレーシア軍の活動は、領土 に共存しているのか、グラムシ信仰が顕著になった 保全という狭義の防衛よりもゲリラ対策を中心とする 背景には、政治・社会情勢の変化などの影響はあ 治安維持にその力点が置かれてきた。他方では、 るのかといった質問が出された。荒川報告に対して 設立期より国連平和維持活動への派遣実績を積 は、マレーシア軍事行政の特徴と報告者が考える み、近年は PKO センターも設立した。報告者は、 点が実証されていないのではないか、国防の位置 マレーシアは日本とは異なり、建国以来「軍事行 づけの変化を明示すべきなどの指摘がなされ、 政」「国際協力行政」「治安行政」が一体となってい PKO センターの特徴は何かなどの質問が出された。 ることに特徴があり、さらに、時代に先駆けた公共 最後の西報告には、情報のネットワーク作りなどで 政策の実践国でもある側面を、国連平和維持活動 地域研究が果たす具体的役割への提案や、防衛 センターを例として明らからにした。 大学でも海外に出るときは地域研究者に話を聞くこ とがあり、その必要性は高まっているという意見も出 第三報告は、西芳実(立教大学)会員の「災害支 された。 援と地域研究:インドネシアの事例」であった。西会 28 JAMS News No.48 (2011.3) JAMS 関西地区の活動について 多和田裕司(関西地区担当運営委員) 2010 年度の JAMS 関西地区の活動として、 テーマ設定、人選などはこれからであるが、2010 年 2010 年 11 月 20 日(土)、大阪市立大学において 度と同様の形で実施したい。 関西地区研究会を開催した。当日は、上田達さん それから、計画というほどのものではないが、会 (摂南大学外国語学部講師)ならびに櫻田涼子さ 員の皆さん、とくに博士論文や修士論文を準備中 ん(京都大学文学研究科グローバル COE プログラ の皆さんからのご要望があればこちらで適宜調整 ム研究員/筑波大学人文社会科学研究科文芸・ して発表の場を提供したいと思っている。マレーシ 言語専攻プロジェクト研究員)のおふたりを発表者 アを対象とする研究の場合、おそらくどの分野でも としてお迎えし、「住まいと住文化」を共通テーマと 研究者の数はかぎられている。必然的に、博士論 してご報告頂いた。 文や修士論文作成のさいには、専門分野の指導 おふた方とも文化人類学を専門とする研究者で は指導教授から受けることはできても、マレーシア あるが、それゆえにいずれのご報告も長期のフィー についての情報や助言を得ることはなかなか難し ルドワークにもとづいた、調査地の臨場感に溢れる いのではないだろうか。たとえ少人数でも同世代の ものであった。かつてスクオッターであったある集落 何人かが集まって情報交換したり刺激しあったりす を事例に「住まうこと」を通してあらたな共同性が編 るような機会はとても重要だと思うし、振り返ってみ 制される過程(上田報告)や、ある華人家族の住居 ればそもそも JAMS のはじまりもそんなところからの 使用の例をもとに、所与の環境(住宅)から固有の スタートだった。関心のある方は遠慮なく多和田ま 物語を持った空間(家)への変遷の分析(櫻田報 でご連絡下さい。 告)など、たんなる個別事例の報告にとどまらない 2010 年度関西地区研究会発表要旨 興味深い論点が提示された。それぞれのご報告の 内容については、下記掲載の報告者自らにまとめ 「スクオッター集落と村:コタキナバルのあるカンポ て頂いた要旨をご参照願いたい。 ンの事例から」 今回の研究会は、残念ながら運営委員(多和 田)の広報不足により参加者は少数にとどまったが、 上田達(摂南大学講師) なかには関東方面からご参加下さった会員もおり、 2020 年までに先進国となる国家ヴィジョンを掲 少数であるがゆえの中身の濃い議論ができたので げるマレーシアでは、経済発展を具現化すべく都 はないかと思う。 市空間の再編が進む。同ヴィジョンにおいて進めら 2011 年度についても、ひとつの共通テーマを設 れる開発はスクオッター集落を改変すべき対象の けた上での研究会を秋頃におこなうつもりでいる。 一つと捉える。これに対して、政府はスクオッターを 29 【関西地区】 JAMS 関西地区の活動について(多和田裕司) 数え上げ、その数をゼロにすることを目標としたゼ 起きた集落外の土地に住む人々の立ち退き要請と ロスクオッター政策を打ち出す。マレーシア政府が それへの住人たちの反応が示された。立ち退きの プロジェクトとして掲げる上述の計画は、各州が実 対象者とそうでない人々が用いる「ローカル 施する具体的な施策の中で現実化する。発表者は (lokal)」という言葉で指示される共同体は、出自 まず、スクオッターをめぐる政府の取り組みについ や言語といった共通の属性から構想されるのでは て概観した。 なく、法や政治によって成り立つ集落がつなぎとめ 次に、発表者は自身の調査している集落の事例 ている。そこに居を構えた人々は、一時的な居住 を挙げて、こうした政策がどのような形で具現化して 地に住む自分たちを、諸外国からの不法移民に対 いるのかを示した。発表者が調査を行っているのは する「マレーシア国民」として、あるいはナショナル 東マレーシア、サバ州のコタキナバル中心部にある な語りにおいてマレーシア国民を形成する主要民 集落である。同集落は 1970 年代に公有地に建設 族である「カダザンドゥスン」として、「私たちローカ されたスクオッター集落であったが、今日までその ル」であるという。つまり、集落が居座ることによって 場にあり続けている。これまでに何度か行政による 媒介される共同体は、2020 年ヴィジョンの描く経済 対策が講じられたことがあったものの、政治や法の 発展と相容れぬ集落のはかないステイタスの上に、 複層的な介入によって撤去や退去を凌いでいる。 その内実は違えど、ヴィジョンの描く国民と相似の 発表者は、オランダの科学技術の社会学者ホメル 像を結んでいると発表者は述べた。 ズ が 提 示 し た 「 居 座 り ( obduracy ) 」 ( Hommels 《参考文献》 2008)という概念に依拠しつつ、居座りを可能にす Hommels, Anique. 2008. Unbuilding Cities: る種々の力学の作用を描き出した。発表者によると、 Obduracy in Urban 1)法的側面からのステイタスの認知、2)政治家個 Change. MIT Press. Sociotechnical 人や政党組織による政治的な介入、3)道路や水道 の布設に伴う物理的な改変のそれぞれが集落の持 低価格住宅におけるマレーシア華人の住宅改造と 続に関連しているのだという。これらの力学の上に、 住まいの諸実践 か つ て の ス ク オ ッ タ ー 集 落 は 居 留 地 ( native 櫻田涼子(筑波大学研究員/京都大学研究員) reserve)へと格上げされて――数字のうえでスクオ 櫻田による報告では、これまで人類学において ッターの数は一つ減ったことになるが――、そのま 看過されてきた近代住宅に焦点をあて、マレーシ ま居座っている。 ア政府が近代化を目指す過程で計画造成された 最後に、発表者は、集落が変わらず一定の場を 住宅団地に暮らすあるマレーシア華人家族の民族 占め続ける際に立ち現れる共同体のあり方につい 誌的記述から、住宅とマレーシア華人の関係につ て言及した。事例として同集落において 2009 年に いての考察をおこなった。そこでは、低価格住宅に 30 JAMS News No.48 (2011.3) 給を開始したのである。 居住する華人家族が狭さを乗り越えるために、ある いはライフサイクルと家族関係の変化を受け止める 以上のようなマレーシアの住宅政策と、低価格 ために行われる住宅改造の過程と、その後の変化 住宅についての特徴である行政指導価格、取得に した内部構造をどのように生きたのかという住まい 係る所得制限等の概況が説明された後、1980 年 をめぐる諸実践を提示し、所与の空間である住宅 代にジョホール州に造成された住宅団地に現在も が固有の場所である家へと変化するプロセスが明 居住するあるマレーシア華人家族の事例が紹介さ らかにされた。 れた。そこでは 1986 年に住宅を購入した後、長男 報告ではまず、人類学における住まいの研究の が出稼ぎに出て仕送りを開始し、長男が結婚する 系譜が明らかにされた。その上で人類学、民族建 直前に住宅改造が実施され、長男夫婦に子どもが 築学、人文地理学における近代空間や近代住宅 生まれると再度住宅が改造されるという過程が住宅 に対するまなざしが確認され、今日のように近代的 内部空間の見取り図と共に示され、居住する成員 住環境があふれる時代においては、近代住宅を のライフステージの変化と住宅の物理的変化の関 「均質空間」という行き止まりの場所として否定的に 係をバイオグラフィカルに紹介した後、2004 年以 とらえる視点から研究を始めるのではなく、近代住 降に整備された住宅前面部のテラスにおける日常 宅という場所において、人びとがどのように日常生 実践が示された。テラスの多様な使用実践からは、 活を営むのかという生のプロセスを明らかにする視 1)低価格住宅という狭い住空間を外延化すること 点が必要であることが強調され、本報告における研 により狭さから生じる諸問題が乗り越えられたという 究視点が明らかにされた。 点と、2)画一的な住空間に「内と外」、「祖先と子 孫」といった秩序原理がもたらされたという点が示さ 次にマレーシアの住宅政策についての言及がな れた。 された。1971 年以降のマレーシアでは、国家開発 政策が農村開発から工業開発を中心とした政策へ 以上のような事例報告から、住宅とその周辺に と転換していく過程で、農村から都市へ流入する人 配されたモノとの絶え間ない交渉から所与の環境 口が増加したことは自明であるが、都市人口が増 (住宅)を固有な物語と時間をもつ場所(家)に作り えるにつれ都市部における住宅不足が社会問題と 変えるプロセスの一端が明らかとなった。つまり、空 して顕在化した。国家開発政策が大きな転換点を 間を巧みに利用することにより、近代住宅は時間的 迎えるのと同時に、マレーシア政府は、住宅事情の 継続性をもった固有の場所としての家となりうること 向上を通じ社会の安定や国民統合を目指す「持ち が示されたのである。 家 化 に よ る 民 主 主 義 ( Home-ownership Democracy)」を掲げ、低所得者層を供給主体と 想定する低価格住宅(Low Cost Housing)の供 31 【事務局より】 〈会費納入のお願い〉 2010 年度(2010 年 4 月 1 日~2011 年 3 月 31 日)の年会費 3000 円を未納の会員は、下記の銀行口座また は郵便振替口座にお振込みください。複数年度分の一括振り込みも受け付けています。 銀行口座 郵便振替口座 UFJ 銀行 永福町支店(店番号 347) 口座番号 00120-8-14794 口座番号 普通 3775170 加入者 JAMS 口座名義 JAMS 〈会員メーリングリスト〉 JAMS からの連絡は原則としてすべて会員メーリングリストにより行われます。また、会員メーリングリストは会員 どうしの情報交換のためにもご利用いただけます。会員メーリングリストへの登録希望者は、お名前と登録希望 メールアドレスを明記の上、件名に「JAMS メーリングリスト登録希望」と書いたメールを事務局までお送りくださ い。なお、登録するメールアドレスは会員名簿に掲載されているものに限ります。 〈会員情報の変更〉 会員名簿の記載内容に訂正・変更等がありましたら、事務局まですみやかにご連絡ください。 〈原稿募集〉 会報『JAMS News』の編集部では、会員のみなさんからの原稿を随時募集しています。投稿をご希望の方は 事務局までご連絡ください。『JAMS News』についてのご意見やご感想もお待ちしています。 JAMS News(日本マレーシア学会会報) No.48 2011 年 3 月 28 日発行 (年 3 回発行) 発行:日本マレーシア学会(JAMS) http://jams92.org/ 編集:日本マレーシア学会事務局 山本博之、西芳実 〒606-8501 京都府京都市左京区吉田下阿達町 46 京都大学地域研究統合情報センター 山本博之研究室内 Email: [email protected] 会長:宮崎恒二 運営委員長:西尾寛治 事務局:山本博之(事務局長)、西芳実(総務)、坪井祐司(会計)、篠崎香織(会員 情報・ML 管理)・新井和広(ウェブサイト) 学会誌編集部:金子芳樹(編集委員長)、穴沢眞(副委員長)、山本博之 研究連携ウィング:田村慶子(大会担当)、金子芳樹(関東地区)、中村正志(関東地 区)、多和田裕司(関西地区)、冨沢寿勇(研究企画)、黒田景子(研究企画)、 吉村真子(研究企画) 社会連携ウィング:川端隆史(ウィング長)、井口由布、西尾寛治、山本博之 会計監査:永田淳嗣
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