文化の多様性と対話する文明の創出 杜 維明(TU, Weiming) 西洋化と

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文化の多様性と対話する文明の創出
杜
維明(TU, Weiming)
西洋化と近代化を強化する意味でのグローバル化は、一体感と国境を超えた共同体が存在
する現実性を創り出した。しかしこの感覚は、未だ実体感に乏しく、せいぜい「仮想現実」
にすぎない。経済のグローバル化が誘発した一つの世界および一つの夢という虚構の感覚は、
文化のグローバル化とは明確に異なっている。事実、文化のグローバル化は、地域化と局所
化を推し進めるものなのだ。民族性、母国語、社会的起源、経済的地位、宗教に対するわれ
われの自覚は、「地球村」の中で顕しく増大している。その結果、アイデンティティに関し
てその認知と尊重を求めた多くの声が挙がっている。まさしくわれわれをして真の人間たら
しめる根源的な絆のすべてが、人間の道の根本的にして不可欠な相として浮上を繰り返して
いるのだ。
通常の生活の中でわれわれが経験する世界は、不協和音、緊張感、衝突、矛盾、目に見え
ない差別に満ちている。だがしかし、見せかけの抽象的な普遍主義による覇権主義的な支配
を、われわれは受け入れたくない。われわれは、閉鎖的な個別主義、特に悪質かつ攻撃的形
態をとる排他主義を拒絶する。普遍倫理の探求は崇高な作業なのだ。「己の欲せざるところ、
他に施すなかれ」、あるいは「あなた自身を確立するために、他人の確立を助けなさい。あ
なた自身の成長のために他人の成長を促す手助けをしなさい」などの基本原則は、個々人や
グループが平和的に共存するために必要な原則である。もちろん、特に人権など、維持し促
進される必要のある普遍的価値が存在する。にもかかわらず、完全に普遍化できる倫理原則
や価値はあまりも稀少かつ貧弱なので、頑固な思考様式を変える助けにならないし、心情に
関する個別主義的な習慣からわれわれを解放できない。まさに、われわれは違いの意義を認
め、また文化の多様性がわれわれの精神生活のみならず、われわれが通常経験している生活
の実体をも豊かにするという考え方に賛成する。対話は、抽象的な普遍主義と閉鎖的な個別
主義との広大な間隙を埋める、人道的かつ根気の要る方法である。
大量破壊兵器、環境破壊、社会崩壊に直面して、果たして人類は生存可能な種であるのか、
について、強い懸念が拡がっている。経済成長の軌道が加速するにしたがい、石油や水など
の地球資源が枯渇するといった強いフラストレーションも強まっている。皆承知のことであ
るが、生命は持続可能ではない。世界人口のうちのほんの一握りの、裕福で権力や影響力が
あり、情報、アイデア、技術にアクセス可能な人びとは、地球社会の幸福に対してもっと義
務感をもつべきである。風潮を変えるために彼らが涵養すべき信条、態度、行動とはどんな
ものなのか?重要な第一歩としては、著しく不平等な世界の 受益者たちが、正義、思いや
り、礼節、責務、社会連帯などの価値を身につけ、「経済人間」の精神構造を乗り超えること
を学ばねばならない。受益者たちは、対話する文明を創出する試みを行わなければならない。
それは、自由、合理性、合法性、権利、個人の尊厳とともにこれらの諸価値を涵養する健全
な環境を提供するであろう
対話する文明を育むための着実な努力を通じて、平和の文化が出現すると期待することは、
大変に難しいが、しかし人類の生存と繁栄はまさにここにかかっているのだ。われわれには
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まだ、正しい方向へとわれわれを導き、また人間の条件の難題にわれわれが立ち向かうこと
ができる十分な精神的資産がある。総合的かつ統合的な人道的視点に立った、対話を特徴と
する文明の構築の本当の可能性を探求することは、21 世紀の地球市民の共同事業として真
剣に考察するに値いし、未来を約束するものである。
通常われわれはこれらの精神的資産を枢軸時代の文明としての偉大な歴史的宗教の中に確
認する。すなわち西と東に、三つの一神教信仰、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教(イス
ラムに関して一言―ヘレニズムの考え方を西洋に紹介した中世のイスラム思想家たちの創造
的解釈なしに、ルネッサンスの出現を想像することは困難である)、南アジアには、ヒンド
ゥー教、仏教、ジャイナ教、シク教、東アジアには、儒教と道教がある。しかし、われわれ
は今日ではバハーイー教、神道、あらゆる原住民の遺産、そして影響力を増す新宗教の勢力
を認識もする。われわれは、あらゆる宗教伝統および精神的伝統の束縛力や破壊力に気づい
ているが、われわれの生活に対して深みのある意味づけを与えてくれる、それら伝統の啓発、
解放の理論や実践から利益を得ることができる。加えて、われわれは皆、フェミニスト、エ
コロジー、多元主義の各運動など、20 世紀後半に席巻した思想傾向の影響下にあり、また
それに負うているのである。
人類史の新しい現象である文化の多様性の認識は、文明間対話の貴重な機会を提供してい
る。われわれの時代の精神を象徴する対話は、抽象的な普遍主義と閉鎖的な個別主義との広
大な間隙を埋める、最も人道的かつ根気の要る方法である。対話は寛容から始まるが、認知、
尊敬、相互照会、相互学習もすべて不可欠な段階である。対話の第一の目的は、改宗させる
ことではなく、われわれの信仰の利点や特徴について表明したり、われわれの蓄積した伝統
に関する不公正な誤解を正そうとすることではない。これらはすべて正当かつ適切な行為で
はあるが、対話の第一の役割は、傾聴する術を養い、われわれの知的地平を広げ、自己反省
を深め、対話する文明の構築に向けてともに取り組むことである
そのような文明はあらゆる宗教指導者と精神的指導者がバイリンガルになることを求めて
いる。指導者たちは本来、自身の信仰共同体の独特な言語に慣れ親しんでいる。にもかかわ
らず、彼らはまた地球市民の言語を習得しなければならない。最近では、実質的にはあらゆ
る宗教指導者と精神的指導者たちは、政治的に関心があり、社会的に従事し、文化的に精通
した、事実上の公的知識人でなければならなくなっている。そうであってこそ、それら指導
者たちは、政府、マスメディア、学界、ビジネス、専門職、NGO、社会運動の著名な知識
人たちに影響を及ぼすことができる、社会にあって精神的悩みの解決に敏感であると共に責
任をもつという、宗教的な和音を奏でる者となるであろう。
われわれの日常生活の中に、精神的な次元を注入することなしには、調和は維持できない
し、達成することさえ不可能である。調和の反対は画一であり同一である。差異は調和の前
提条件であり本質的な特徴でもある。継続的な対話を通して達成され維持された文化の多様
性の中の調和は、人類の生存への希望であり、21 世紀における人類の繁栄の約束でもある。