カール・ピアソンの日本への影響

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カール・ピアソンの日本への影響
椿 広計
はじめに
2007年リスボンで開かれた国際統計協会(ISI)総会は、カール・
ピアソン生誕150周年ということで、企画セッションが開催され、
ピアソンの各国への影響が紹介された。残念ながら「日本への影響」
という講演はなかった。筆者は、2001年にピアソンと漱石との関係
を再認識して以来、
「参考文献」に示すように、ピアソンに関係する
ことを書き散らしてきた。いまだに漱石に与えた影響には大きな関
心を持ち続けている。今回は、日本へのピアソンの直接・間接の影
響ということを通史風にまとめてみた。
1.数学・物理学者カール・ピアソンと菊池大麓の
『数理釈義』
ピアソン(Karl Pearson, 1857−1936)は、1857年3月27日ロ
ンドン北部に弁護士の息子として生まれた。ユニバシティ・カレッ
ジ・ロンドン(UCL)の附属学校(University College School)で
1866年から1873年まで初中等教育を受けた後、ケンブリッジ大学
に進学するが、直後に鬱状態となり2年休学し、1879年に数学試験
第3位で卒業する。この間、明治政府から留学生として派遣された
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菊池大麓(1855−1917)と1870年から1873年まで附属学校で、1873
年から1877年まではケンブリッジ大学数学物理学科で同窓となり
親友となる。菊池は帰国後、日本人初の東大理学部4等教授に任命
されるが、その後、東大総長、学習院院長、京大総長、文部大臣(男
爵)、理研初代所長と出世街道を走る。
一方ピアソンは、大学卒業後、1879−1880年はハイデルベルク大
学で中世ドイツ文学を研究し、1880年には Loki のペンネームで小
説 The New Werther を出版する。1881年からは、英国法曹院で弁
護士修業をする。高級な放浪の人生である。ところが1884年には、
ケンブリッジ大学からドイツ文学教授ポストを提供されたのが転機
となり、どういう気分か、ワードからシンボルの仕事に再び戻りた
いとして、UCL応用数学・力学の教授に着任する。彼の UCL の
前々任の教授はクリフォード(W. K. Clifford)であった。クリフォ
ードは、1875年頃、数学を知らない人のために数理科学を解説する
「数・空間・量・位置・運動・質量」の6章からなる書籍を計画した。
しかし、「数と空間」のみを完成させて、1879年に亡くなってしま
う。クリフォードは、この本をCommon Sense of the Exact Science
として、慎重な編集のうえ完成させることを遺言した。これを後任
のロウ(R. C. Rowe)教授が引き継いだのだが、彼も「量」の半分
と「運動」の草稿を残して1884年に死去したのであった。ピアソン
は、ロウからこれを引き継ぎ、1885年オリジナルの構想を改変し、
質量を除いた5章を補筆完成させ、序文を自身の名前で執筆する。
日本で本書を読んで共感した親友の菊池は、教員や数学を目指す
すべての者に内容を知ってほしいと考え、早くも1885年9月、東京
教育博物館で開催された東京府近県の初中等教員研修で、この本の
大意を講義する。1886年には、『数理釈義』として翻訳出版もされ
る。1887年には第2版を策定のための菊池とピアソンの往復書簡が
なされる。さらに、東京数学物理学会による物理学専門用語定訳を
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反映させたうえで、1888年翻訳第2版が出版される。『数理釈義』
は、現在国会図書館の電子図書としてインターネット上で閲覧可能
だが、菊池自身の著者序文の中に、自身とピアソンが親友であるこ
とも記載されている。文明開化の頃に、ピアソンの完成させた数理
科学書が、菊池によって黎明期のわが国数学教育界に広められた事
実は、感慨深い。
その後、英国と日本の二人の15歳の少年がこの本を読んで、人生
選択の影響を受けた。15歳で読んで感化されるというのはうらやま
しい才能であるが、二人とは、バートランド・ラッセル(Bertrand
Russell)と岡潔である。
その後、ピアソンは、1884年に亡くなったトドハンター(I.
Todhunter)教授のガリレオから当時までの力学・数学の歴史と科
学倫理の草稿の膨大な編集に1886年から1893年まで費やした。ピ
アソンは、英国を代表する幾何学者に指名され、微分幾何学の力学
への応用などについて構想する。一方、この間マルクスの『資本論』
の英訳などを試みたり、
「自由思想の倫理」といったシンボルではな
くワードの仕事も活発に行ったり、また政治活動なども行ったよう
である。
2.ピアソンの統計学者への変容
1891年2月から1893年11月まで、ピアソンは夜6時からロンド
ン公衆への公開講義を38回行う。彼の『科学の文法』に関する講義
である。その最初の8回が『科学の文法』である。1891年11月18
日には、文法を実現するための方法としてバラつきを視覚に訴える、
今日的に言えば「見える化」することを明確に意識してグラフィカ
ル統計の講義を行い、「ヒストグラム」という記述方法を提唱する。
1893年1月には、バラつきの数値尺度化としての「標準偏差」を提
案する。講義が終わる前の1892年には、『科学の文法』の初版が発
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行されている。この講義がきっかけとなって1894年から「進化論の
数理への貢献」と題する統計科学の基盤的論文を次々に発表し、ピ
アソンは統計学者となってしまう。
彼の統計学第1号論文は、本来は対称分布に従うべきデータが、
実際には均一でなく混合状態となっているために非対称になってい
る状況をどのように記述するか、という問題を扱っている。今日で
いう「クラスター分析」であるが、対称頻度曲線として誤差確率曲
線を考え、それをこの論文では「正規曲線」と呼ぶと記載されてい
る。実質的な正規分布という言葉使いの誕生である。統計科学第1
論文では、2つの混合正規分布を推論するためにピアソンは、今日
「モーメント法」と呼ばれる推定量を開発し、ウェルドン(W. F. R.
Weldon)から提供されたカニの体長分布に適用している。1895年
には、進化論に関する第2論文、すなわち4次までのモーメントを
想定した下での分布形記述としてのピアソン系分布を発表する。こ
の分布の中に、今日でいうt分布が含まれていたことが、ピアソン
の指導を1906年から受けたギネスビールに勤務していたスチュー
デント(Student、本名ゴセット W. S. Gosset)によるt分布の発
見につながった。1896年の第3号論文が相関・回帰理論である。彼
は、その後も回帰や相関に関する推測理論なども次々と発表してい
る。
「ヒストグラム」という最も基本的な記述統計手法提案以降、ピ
アソンによる近代統計学の基盤の構築のスピードは驚異的である。
1901年に発表したカイ二乗適合度検定は、人間が創ったモデルと
データとの整合性をチェックする初めての方法となっている。
しかし、カール・ピアソンの統計科学が、「科学の文法」という、
「事実の相関・順序関係の観察」
、
「想像力の支援に基づく現象への科
学的法則の付与」、「批判的精神を駆使して法則が妥当性を持つか否
かの検証」、「法則が妥当でないときに事実の周到かつ精確な分類」
を行うという循環的プロセスを実効化するために構築されたことは
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重要である。実際、「科学は依拠するプロセスによって科学となり、
どんなものでも科学の対象となり得る」という考え方は、統計学者
以外にも当時の多くの人々に影響を与え、20世紀前半の計量諸科学
の誕生を促す。
3.科学の文法を日本に伝えた夏目漱石
有名人で『科学の文法』を読んだ人間は多い。レーニンや、チュ
ーリッヒで特許関係の仕事をしていた無名時代のアインシュタイン
(A. Einstein)
、数理統計学の基本を創るフィッシャー(R.A. Fisher)
や(J. Neyman)等々である。しかし、何といっても明治の日本人
で『科学の文法』の影響を色濃く受けたのは、夏目漱石(1837−1916)
である。彼は、ロンドン留学中の1901年9月18日に、改訂されたば
かりの『科学の文法
第2版』を購入し、様々な書き込みを行って
いる。彼の第2章への書き込みと9月22日付の妻鏡子宛の書簡「科
学上の書を読み候。(中略)自分の考えた事がみんな書いてあった。
忌々しい」、帰国後、『文学論』の序の草稿にみられる「忌々しき
Pearson」
、有名な「私の個人主義」の中で「自己本位」に気づいた
一瞬に関する記述などが、漱石がピアソンの影響をうけて、文学を
「自己本位」の姿勢、つまり科学の文法に則った姿勢で研究を開始し
ようと決意したことを示唆している。
漱石は帰国後、東京大学で「文学評論」
・
「文学論」の講義を行い、
それぞれが出版されている。「文学評論」は、「その道の人は科学を
こう解釈する」という冒頭部分がまさに『科学の文法』の紹介であ
る。一方、立花太郎が1985年にまとめた「夏目漱石の『文学論』の
なかの科学観について」
(『化学史研究』第33号)によると、少なく
とも漱石の「文学論」においても、
『科学の文法』の引用が6カ所認
められるとのことである。立花は、ロンドン時代同宿だった池田菊
苗(〈味の素〉の発明者)が、漱石に『科学の文法』を読むように勧
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めたのだろうと推論している。池田がマッハ主義をドイツのオスト
ワルト(F. W. Ostwald)教授の下で学び、ピアソンの『科学の文法』
もマッハ主義の影響を強く受けていたことは確かである。
漱石の面白いところは、芸術を科学としてアプローチする際に、
『科学の文法』が用いる認識科学的立場だけでは不十分であること
をはっきりと、『科学の文法』の書き込みに残したことである。筆
者は、論理的悦楽と情緒的悦楽の最適化問題を設計科学的立場で論
じようとしたのが、漱石の文学論だと推察している。漱石自体が示
した新しい科学の文法、「設計科学の文法」に、筆者が関心をもっ
て10年経つ。「価値の選択、実現システムの選択、実現システムの
最適化、価値の社会への実装」といった漠然とした設計科学の文法
を漱石の構想から学んでいる。
なお、漱石は、ピアソンの『科学の文法』のことを弟子の寺田寅
彦にも伝えており、寺田の1917年の漱石への追悼文でも「文学の科
学的研究方法といった大きなテーマが先生の中に絶えず動いてい
た」と記されている。寺田の未完の『物理学序説』の絶筆部分は、
まさに、漱石の文学評論の冒頭部分を受けた Descriptive How に関
わる文章、科学の文法における Fact に関する文章であった。寺田
の弟子である中谷宇吉郎の『科学の方法』
(1958年)は、
『物理学序
説』が未完に終わったことを受けて書かれたものである。
「広い意味
で言えば、科学は統計の学問と言える」などといった独特の記述が
あるのも故あるところなのである。
4.シューハート−デミング−石川馨への影響
漱石以上に、わが国産業界に大きな間接影響を与えた人物がいる。
カール・ピアソンがその晩年1932年に王立統計協会で講演させたの
がシューハート(W. A. Shewhart)である。漱石は文学評論を科学
にすると決意したのに対し、シューハートは「生産工程を科学にす
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る」という決意を行った。統計的品質管理学の創生である。シュー
ハートが「品質管理の基礎概念―品質管理の観点からみた統計的
方法」で示した管理の3成分、すなわち「達成されるべき目標を規
定する行為」「規定された目標を達成しようとする行為」「目標が達
成されたかどうかを判断する行為」が、Plan-Do-Seeとして1930年
代後半には提示された。しかし、これをPDCAサイクルとして世界
に流布させたのは、1950年のわが国産業界に対して歴史的講義を行
ったデミング(W. E. Deming)と、わが国品質管理学第一世代の石
川馨、朝香鉄一らである。すなわち、わが国産業界が、戦後現実に
現場で展開した品質管理活動である。石川は、主著『品質管理入門』
(1989年)の中で、Plan-Do-Checkに加えて、「Action が日本には
必要」であったという言葉を残している。ただし、Check から
Action に至るプロセスでは、日本の現場に「改善」として浸透し
たシナリオ、
「問題解決型QCストーリー(テーマの選定、現状把握
と目標設定、要因の解析、対策の検討、効果の確認、標準化)」が埋
め込まれている。これが、日本の「問題解決の文法」と呼ぶべきも
のとなり、わが国ものつくり業界の国際競争力を支えた時期もあっ
た。現在は、世界の産業界(シックスシグマ活動におけるDMAIC
サイクル〔Define, Measure, Analyze, Improve, Control〕や初中
等教育界(PPDACサイクル〔Problem, Plan, Data, Analysis,
Conclusion〕)が、この種の汎用的問題解決シナリオを当たり前の
ように展開している。ピアソンの「科学の文法」の別な意味での進
化が戦後日本を起点として起きたという見方もできるのである。
おわりに
カール・ピアソンは、統計学者の間では、記述統計を創設した大
家ではあるが、彼の次の世代の天才フィッシャーのカイ二乗適合度
検定自由度についての批判を無視した偏屈な統計学者という程度の
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認識だったかもしれない。息子の E. S. ピアソン(E. S. Pearson)
のほうが、Neyman−Pearson 理論といった数理統計学の構築でか
えって有名になっているのかもしれない。
バーナード・ショウ(Bernard Shaw)は、カール・ピアソンが
政治活動を引退し、統計学者になったことを嘆いたようだが、20世
紀後半までの認識はそのとおりだったであろう。しかし、科学史家
ポーター(T. M. Porter)が、ピアソンの『科学の文法』こそ、ナ
レッジ・マネジメントの嚆矢と位置づけ、ピアソンの伝記 Karl
Pearson: The Scientific Life in a Statistical Age をピアソンが統計
学者になる前の時代を中心に、2004年に出版するに至り、国際的に
もピアソンの再評価が開始された。
〈参考文献〉
椿広計 (2005)「夏目金之助とKarl Pearson(特集:統計と歴史)」『統計』、
Vol. 56(10), pp.46−50.
椿広計 (2013)「統計を深く知る―古典統計科学対話:科学の文法から生
まれた記述統計学」『統計』、Vol.64(2), pp.50−53.
椿広計 (2014)「統計を深く知る―古典統計科学対話:統計と品質管理の
関係」『統計』、Vol.65(3), pp.33−37.
椿広計 (2014)「数理科学の機能(ミニ特集
数理科学の展開とその体制)」
『横幹』、Vol.8(1), pp.32−35.
(つばき
ひろえ
©2016 Institute of Statistical Research
独立行政法人統計センター理事長)