英国社会とサッカー

38 英国社会とサッカー
市橋 秀夫
はじめに
英国イングランドの近代サッカー1)は、社会や国家とどのような
歴史的関係を取り結んで展開してきたのだろうか。その検討が本稿
の課題となる。おもに取り扱うのは、英国サッカー草創期からプレ
ミアリーグ誕生期までとし、とくに階級社会、国家、国民生活、ネ
オリベラリズムと英国サッカーの関係、その関係の変化ということ
に注目してみたい。本稿では、英国サッカーは、そのときどきの経
済や社会のあり方に大きな影響を受けて形づくられ変容してきた歴
史的産物であることを明らかにしていくが、同時に、国家からの自
立性を堅持することにはおおむね成功してきているのではないかと
いう点、また、世界に悪名をはせたフーリガニズムについてもそれ
を一義的にナショナリズムと結びつけて論じることの困難などにつ
いても指摘していく。
1.草創期のサッカーと階級社会
19世紀中葉の近代競技サッカーの発祥は、英国というよりもそ
の中のイングランドである。サッカーの草創期に関する近年の歴史
研究で指摘され議論されていることは、フットボール協会(FA)
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39 創設当時である1850年代から60年代においてクラブ対抗の競技サ
ッカーが最も盛んに行なわれていたのは、かつて考えられていたよ
うなパブリック・スクールでも首都ロンドンでもなく、地方工業都
市シェフィールドとその周辺地域であったのではないかということ
2)
である。
世界最古とされるサッカー・クラブ(シェフィールドFC)も、
1857年シェフィールドで創設されている。シェフィールドFCは、
クリケットクラブの有志のメンバーが冬場のトレーニングのために
結成したものだった。彼らは地元の中産階級商工業者であり、若き
地方エリートであった。パブリック・スクール出身者はほとんどい
なかった。1862年のシェフィールドでは15のクラブが試合を旺盛
に展開し、それらのクラブ間の試合は「シェフィールド・ルール」
と呼ばれる統一ルールに則って行われていた。
シェフィールドのサッカー界のような活況はみられなかったもの
の、その後の近代サッカーの展開という点から見て重要なもうひと
つの拠点となったとされているのが、ケンブリッジである。こちら
はシェフィールドよりも早い1848年に学生を含む大学関係者でルー
ルが定められているが、その適用はごく狭い世界に限られていた。
パブリック・スクールや大学間で試合が準備された際には、その都
度合意したルールで試合が行われ、統一ルールと呼べるようなもの
はなかったようなのである。
1863年10月、ロンドンで FA が創設された際、シェフィールド
は4名の代表をオブザーヴァーとして送っている。同年12月には
「アソシエーション・フットボール」のルールが「ケンブリッジ・
ルール」をベースに制定され、脛蹴りやボールを持って走ることは
禁じられた。この FAルールとシェフィールド・ルールが完全に統
合されるのにはさらに時間がかかってはいるが、ここにボールを持
ったまま前に走るゲームではなく、ドリブルで前進することで展開
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する新しい蹴球ゲームが誕生したのである。以後、ラグビーとサッ
カーは二つの別種の近代「フットボール」としての歩みを始めるこ
とになる。
FA のアソシエーション・フットボールのルールは、ケンブリッ
ジ・ルールをベースにしながらもシェフィールド・ルールを取り入
れた面があり、しかも、そのそれぞれが既存の各種ルールの合成と
選択からなるものだったようだ。ただし、蹴るスポーツへの純化が
当初より進んでいたのは、どうもパブリック・スクール色の薄い
シェフィールド・ルールだったらしい。しかし、そのシェフィール
ドのサッカー界も、最終的には改良された FAルールを採用するこ
とになる。それは、トーナメント形式の FAカップ(フットボール
協会杯、1871年創始)の人気が定着したあとの1877年になっての
ことだった。
さらに進んで英国内でのルールが統一されたのは、1882年に英
国内の4つのネイション(イングランド、ウェールズ、スコットラ
ンド、アイルランド)のフットボール協会が集まったときである。
これが今日もなお、世界のサッカーのルールを決めている国際サッ
カー評議会(IFAB)の始まりであるが、この組織の名前に「イン
3)
ターナショナル」と冠されている点も興味深い。 それは当時、
「国際」ではなく、文字通り「ネイション間」であり、むしろ「民
際」と訳したほうが実態をよく表しているといえる。英国サッカー
の確立期、国家の関与干渉は一切なかったということは言うまでも
ない。
こうして辿ってみてくると、草創期のサッカーは、産業革命の伸
展に伴って自信を持ち、地域社会の屋台骨を支えるエリートとして
の自負心もあったであろう都市部の社会エリートがけん引したこと
がわかる。パブリック・スクールの卒業生と、地方都市の「高度職
業人」たる中産階級社会人がその先頭に立っていた。
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41 また、そもそも近代サッカーがシェフィールドで始められたの
は、クリケットがシーズンオフとなる冬場の身体活動としてであっ
た。であるとすると、サッカーという集団スポーツの実践は、帝国
主義の時代との結びつきを強調する枠組みよりも、地方青年実業家
たちが確立しつつあった新しい都市型ライフスタイル維持のための
余暇活動という点に注目したほうが実態に即しているかもしれな
い。健康なボディを維持することは、台頭しつつあった労働者階級
に対峙するために、あるいは来るべき帝国主義的競争に勝ち抜くた
めに求められていたという説明はいささか性急であろう。空間的に
も時間的にも密度とテンポが速く、規則正しくなってくる都市生活
を送る必要のあった若者エリート層にとって、サッカーの意義はな
によりも健康な身体の日常的な維持にあった。「男らしさ」
「勇気」
「忍耐」など帝国主義との関連が強調されがちな「アスレティシズ
ム」の特徴も、サッカーの場合には、第一義的には、ビジネスや家
庭といった日常生活の要請に応える範囲内で求められていたと捉え
るべきではないだろうか。サッカーにおいて追求された「男らし
さ」がラグビーのそれと異なり抑制されたものであることは、前者
が「脛蹴り」を「非文明的」として禁止した点にも表れている。
もう一点、ルールの国内統一が進んだ背景には、産業革命の進展
によるコミュニケーション網の確立があったことは押さえておかね
ばならない。異なるルールを持つ遠方のクラブ同士の交流試合の開
催促進には、鉄道網の広がりや整備された道路の拡充が不可欠だっ
た。
2.大衆社会の観衆スポーツとしてのプロ・サッカー
都市中産階級がイニシアティヴをとって英国近代サッカーの組織
化と国内統一は進んだわけだが、それはまもなく急速に、労働者階
級の観衆スポーツとして再確立されていく。
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1871−72年に始まった FA 杯は、たしかに当初、ロンドンおよ
びその周辺のパブリック・スクール卒業生からなるクラブによって
独占されていた。しかし、1880年代に入ると、地方の有力クラブ
が勝ち残るようになり、地方工業都市ブラックバーンの二つのクラ
ブが1883年から4年連続して優勝杯を受け取ることになった。
1883年に優勝したブラックバーン・オリンピックFC は、まぎれ
もない労働者階級選手で構成されるチームだった。11名の職業
は、織布工が3名、鋳鉄工が2名、機織り工、メッキ工、親方鉛職
人、事務員、居酒屋経営者、歯科助手がそれぞれ1名であったと報
じられている。中産階級主体のシェフィールドFC とは異なる文字
どおり「庶民」で構成されたクラブ・チームであった。重要なのは
ブラックバーン・オリンピックFC が示した「プロフェッショナ
4)
ル」な態度であると指摘したのはマシュー・テイラーである。
決勝に臨むにあたり、地元名士2名がそれぞれ100ポンドを出資
し、3週間の特別訓練期間が確保された。これはアマチュア主義の
見地からは「スポーツマンらしくない unsporting」やり方だった
が、決勝に勝つための強い意思が、チームを支援・応援したパトロ
ンとサポーターにも、支援された選手にもみられたという。
並行するように、労働者階級のリクリエーショナル・スポーツと
してのサッカーへの参加者も急増した。19世紀末から戦間期にか
けて、職場で、教会で、学校で、無数といっていい数のクラブが設
5)
立され、多種多様なリーグ戦やカップ戦が組織された。 サッカー
を自ら行う人の数は近年減少傾向にあるが、2015−16年度の全国
調査でもなお180万人以上が毎週サッカーを行っていると回答し、
水泳、陸上、サイクリングに次いで実践者が多い国民的スポーツの
地位を維持している。
次に、労働者階級が「観る」スポーツとしての近代サッカーの確
立をみてみよう。その背景には、第一に、賃金の上昇および労働時
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43 間の短縮(とりわけ土曜半休制度の導入)という、19世紀第4四
半期になってようやく産業革命の拠点的産業で働く労働者階級にも
もたらされるようになった生活水準の向上があったことは疑いえな
い。仕事の終わった土曜の午後、群衆のなかで体験するスリルと興
奮の凝縮された90分間が、労働者階級の人びとにとってどのよう
6)
な意味を持ったのか。 それは歴史的に十分に検討されてきている
とはいえない論点だが、1880年代以降の観戦者数の急増は、19世
紀後半に入って急速に確立が進んだ都市特有の労働と生活の要請
を、サッカー観戦というレジャーがうまく満たしたことを表してい
る証拠だろう。
サッカーの労働者階級化は、サッカーのビジネス化、すなわちプ
ロ化と手を携えて進んだようにみえる。有力クラブの間ではすでに
1870年代前半からグランドをフェンスで囲い、観客から観戦料を
徴収するようになっていたという。そこには、クラブ運営主体の側
の、多くの観客を集めたいという強い欲求、そして試合に勝つとい
う強い意欲があり、そのために必要な有力選手の獲得と保持、さら
にそれを可能にする経済基盤の強化という相互に関連し亢進するサ
イクルがあった。ただし、留意しておかなくてはならないことは、
経営主体は利潤を求めてはいたが、それもまた名誉心や愛郷心など
の満足すなわち効用(utility)を満たすためであったという点であ
る。
サッカーのプロ化は、以上のような需要・供給双方の要求に応え
て浸透し定着していった。イングランドでは1885年にプロフェッ
ショナリズムが容認され、1888年にはフットボール・リーグが創
設された。この新たに考案された「リーグ制」というシステムは、
即座に経済的な成功をおさめる好スタートを切った。その一方で、
選手の移籍や賃金には厳しい制限が設けられ、最高賃金の制限が撤
廃されたのは半世紀以上たった1961年のことである。つまり、サ
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ッカーでは、プロフェッショナリズムは確かに排除されなかった
が、かといって大歓迎されたわけでもなかったのである。
以上みてきたように、1880年代以降サッカーは、選手の側も観
客の側も労働者階級の比重が著しく増していった。プロ選手の第一
世代は多くが熟練労働者の経験を有していた。観客もまた、大半が
労働者階級で、とりわけ安定した収入を得ていた熟練労働者層が多
かったようである。ところが、運営する側(役員、株主、事務担
当)はといえば、それはおおむね中産階級によって占められてい
た。この点をとらえて、英国サッカーはブルジョワによる労働者階
級支配の道具にすぎなかったとする説も根強くある。しかし、プロ
化の進展はゲームにおける容赦ない勝利を最重要事とする労働者階
級文化の表象であって、中産階級のアマチュアリズムに体現される
スポーツマンシップやフェアプレイの表象とは言えない。選手を管
理し、観客から利益を得ていたサッカー界の中産階級もまた、こう
した労働者階級文化を前提としてクラブの管理運営をしていたにす
ぎない。
3.「豊かな社会」における英国サッカーと政府介入
サッカー観戦は、男性労働者階級の大衆娯楽としての地位を世紀
転換期に確立し、その地位を第二次大戦後の1950年代まで維持し
た。女性の観客がやや上回っていた映画鑑賞や、戦間期までにほと
んどの英国家庭で受信可能となっていたラジオ視聴に次ぐ、国民的
大衆娯楽であったといっていい。その間、選手にも、観客にも、そ
して経営サイドにも、階級構成や文化的態度に目立った変化が起こ
ったとは認められない。イングランドのサッカー界が大きな変容の
症候を見せ始めたのは、戦中戦後を通して着手された福祉国家体制
が国民のあいだに根付き、戦争を知らない若い世代が社会に出て働
き始めた1960年代、いわゆる「豊かな社会」を迎えてのことであ
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土曜日に実施されていたトップ・リーグから地域リーグまでのサ
ッカー世界に加えて、1960年には日曜日のサッカーが FA によっ
て公認された。文化的にピューリタンの影響が残る複合プロテスタ
ント体制の英国では、日曜日は神に祈る安息日であり、労働も遊び
もすべきでないという規範的態度が居座り続けていた。20世紀に
入ってそのような態度は次第に掘り崩される傾向にあったが、サッ
カー界がそれを公認したのはこのときが初めてだった。
プロ・サッカーにおける規制緩和も進んだ。最も重要だったの
は、1961年の選手の賃金上限規制の撤廃である。人気選手の存在
はこれ以降、熟練労働者階級のライフスタイルを維持したままの成
功者ではなく、こんにちでいうところの「セレブリティ」への道を
歩み始めることになる。移籍制限についても、訴訟となったのちに
一定の改善がなされ、選手側権限の拡充が実現していく。
政府のスポーツへの介入や支援が制度化されるようになったのも
1960年代である。13年ぶりに政権に返り咲いた労働党党首の首相
ハロルド・ウィルソンは、1964年に初代スポーツ担当大臣を任命
し、続いて諮問機関としてではあったが「スポーツ・カウンシル」
が設置された。「アーツ・カウンシル」が1946年に設置されている
ことを考えると、20年遅れでようやくスポーツは芸術文化に匹敵
する社会的役割を国家が認めたといえる。加えてウィルソンは、イ
ングランドで開催された1966年のワールドカップの際に、スタジ
アム設備整備費を中心に40万ポンド超の供与と貸付をFAに対して
実施したが、プロスポーツに対する政府の公費支援もこれが英国史
上初であった。1966年ワールドカップでのイングランド優勝を自
らの政治的資産にしようとする意図がウィルソンにあったことは言
うまでもない。
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4.英国サッカーの危機と変貌―サッカー場の「安全」
と「フーリガン」問題以降
しかし、1966年のワールドカップ優勝以降の時代は、サッカー
界にとっても、イギリス社会全体にとっても重苦しい時代となる。
サッカー・スタジアムにおける大規模人身事故とフーリガン問題で
ある。
1966年のワールドカップへの支援を除けば、英国政府がプロ・
サッカー界への干渉してきた徴は、サッカー・スタジアムにおける
人身事故への対応という点にわずかにみられるにすぎない。観客席
の崩落で25人が死亡した1902年のグラスゴー、アイブロクス・パ
ークで開催されたスコットランド対イングランド代表戦での事件に
始まり、1923年のウェンブレー・スタジアムにおける最初のFAカ
ップ決勝戦で1,000人以上が負傷した事件、1946年のFAカップの
試合で33人が圧死した事件(6万人の収容人数のボルトント・ワ
ンダラーズの本拠地バーデンパーク・グランドに8万5,000人が入
場)、1971年に再びアイブロクス・パークで66人が圧死した事件、
そのほとんどに政府は調査委員会を設置している。しかし、地方自
治体に法的許認可権を付与する「スポーツ・グランド安全法」を制
定して実質的な介入を政府が行なったのは、2度目のアイブロクス
事件の調査委員会の勧告を受けた1975年のことだった。
ワールドカップでのイングランドの優勝の前後あたりから、サッ
カーはスポーツに関心のない政治家からも注視されるようになる。
サッカー関連のフーリガン問題である。英国下院議会の議事録を検
索すると、サッカーとフーリガニズムとの関連への言及が最初に出
てくるのは1964年4月のことである。イースターの休日にイング
ランド東部のごく小さな海浜リゾート(クラクトン)で起こった若
者の族同士(「モッズ」と「ロッカーズ」)の抗争がセンセーショナ
ルに報道され、下院でも青少年非行と公共物破壊というフーリガン
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47 行為が取りあげられて議論された。その中に、試合日に特別運行さ
れた「サッカー列車におけるフーリガニズム」に関する言及がみら
7)
れるのである。 そして、1967年以降の議会では、<フーリガニズ
ム=サッカー観戦に伴う暴力行為>という図式でフーリガン問題が
語られる傾向が強くなる。
1960年代後半以降になってサッカーにおける暴力行為が目立ち、
「法と秩序」という国家統治に関わる問題として浮上していったの
はなぜだろう。暴力行為自体の存在が歴史的に新しいものではなか
ったことは、よく指摘されている点である。しかし、ピッチへの大
挙したファンの侵入や、ファン同士の暴力抗争は1960年代以降の
フーリガニズムの新しい特徴だったとされている。
フーリガニズム台頭の説明は、プロ化・商業化の進展によるクラ
ブと地域コミュニティとの乖離や、英国製造業の相対的衰退からく
る若者労働者階級の職場を中心とした伝統的な男コミュニティの弱
体化という枠組みで提起され、下層労働者階級が騒動の中心的役割
を果たしていると主張された。しかし、その後のさまざまな調査研
究では、伝統的な男性労働者階級文化の衰退テーゼへの疑問や、フ
ーリガンが実際には安定した職にある中産階級若者層も含む多様な
階級の構成体であった点などが指摘されている。さまざまな解釈が
なされる中で共通しているのは、攻撃的な男らしさの誇示、フーリ
ガン仲間のアイデンティティ意識、マスメディアがフーリガン問題
の広がりを誇大かつセンセーショナルに報道してきた点であるとの
8)
指摘がある。
圧倒的大多数のサッカー・ファンは、口汚く敵対的ではあって
も、身体的暴力行為に及ぶことのない「伝統的労働者階級」のファ
ンであったこともしばしば指摘されている点である。多分にメディ
アによって造形され流布された「民衆の悪魔」
(folk devil)として
のフーリガン像にこそフーリガン問題の深刻化の責任があるとの説
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も、一定の説得力がある。
サッチャー政権下の1980年代には、メディアにも煽られて、サ
ッカー場における安全確保の問題とフーリガン問題は解決に向かう
どころか重なり合って、きわめて深刻なイングランドの問題、ひい
ては海外では英国病の問題として受け止められていくことになる。
1985年5月11日、ブラドフォードFC のホーム・グランドでは、観
客席での火災で56人が死亡し200人以上が負傷した。5月29日に
は、ブリュッセルのヘイゼル・スタジアムにおけるリヴァプール対
ユヴェントスのヨーロッパ選手権決勝で、リヴァプールのファンの
攻撃から逃げようとして38人が倒壊する壁の下敷きになり死亡し
た。
しかし、英国のサッカー界にとって決定的な転機となったのは
1989年のシェフィールドのヒルズバラ・スタジアムでの96人がま
たも圧死で亡くなった事件である。1980年代後半の英国では、上
記の1985年の二大サッカー事件のほか、1987年のキングズクロス
地下鉄駅での大火災や1988年のテロ爆破によるジャンボ機墜落事
件など多数の死者が出る事件が相次ぎ、その中でヒルズバラ事件は
とりわけ世論の耳目を引くにいたったのである。
対応を迫られたサッチャー政府は当初、多くの識者が指摘してい
るように、安全確保という観点ではなく、フーリガニズム対策とい
う階級的観点からサッカー・スタジアム問題の解決を図った。スタ
ジアムの施設や設備上の不備やスタジアム管理体制の欠陥を問うの
ではなく、サッカー・ファンの行動と態度にあくまで問題と責任の
所在が求められた。提案されたのは、すべてのサッカー観戦者の登
録制の導入である。最終的にこの登録制は実現せず、全席椅子席化
など設備面での見直しによる対応が進められることになったもの
の、サッカーだけでなくスポーツにもアーツにも理解や関心を示す
ことがなく、どんな課題でも「法と秩序」の枠組みで整理を図ろう
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49 としたサッチャー政権の特徴をよく表した対応ではあった。
おわりに
英国のプロ・サッカー界では、1990年代以降、ビジネスとして
のサッカーをより意識した若い世代のクラブ経営者らが主導する形
でスタジアム施設の最新化や新設が進むと同時に、クラブ・マネジ
メントも一段と洗練化された。「プレミアムリーグ」はその流れの
中で創設された。観客も、階級色をやや薄め、ジェンダーおよびエ
スニック面をはじめ多文化化が進んだといえるだろう。英国のトッ
プレベルのサッカーは、いまでは、新自由主義的なグローバル経済
に積極的に対応する一大多国籍スポーツ産業でありエンターテイメ
ント産業へと変貌を遂げたようにみえる。
しかし、20世紀後半にいったん強まったかに見えた国家からの
プロ・サッカーへの介入は、英国サッカー界が自ら取り組んだ「構
造改革」によってふたたび回避され、今日に至っているように思わ
れる。これを、国家からの自立性が高いイギリス社会の伝統の持続
あるいはそれへの回帰とみなすのか、あるいは「法」に代えて「ガ
イドライン」を示し、自己責任を抱き合わせて民間企業や非営利団
体に権限移譲を行うことで社会のより効率的な統治を目指すネオリ
ベラル・ガヴァナンスの浸透とみるのか、評価は分かれるところで
あろう。
〈註〉
1)「サッカー協会 Football Association」のルールによる蹴球ゲームが
「アソシエーション・フットボール」(association football)(=協会
式フットボール)であるが、その前半部分を短くした呼称が「サッ
カー soccer」である。
2) この論点については、Adrian Harvey, Football: The First Hundred
Years, Abingdon, 2005 お よび Richard Sanders, Beastly Fury:
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The Strange Birth of British Football, 2009, Londonを参照された
い。
3) 8名が議決権を持っているが、うち4名は今日でもなお、結成当初
の4つのネイションそれぞれの代表によって占められている。残り
4名を国際サッカー連盟(FIFA)が出している。議決には、6名の
賛成が必要である。
4) Matthew Taylor, The Association Game, London, 2008, p. 44.
5) 市橋秀夫「イギリスにおける企業スポーツの発展と衰退―イギリ
ス職場スポーツ史研究の成果をふまえて」笹川スポーツ財団編『企
業スポーツの現状と展望』創文企画、2016年、148−170頁。
6) 90分という試合時間は1866年に始まったとされている。それまでは
3時間試合が多かったらしい。
7) HC Debates, 27 April 1964, cols. 80−81.
8) Matthew Taylor, The Association Game, London, 2008, p. 317.
(いちはし
ひでお
埼玉大学大学院人文社会科学研究科教授)
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