文芸学部報 111号 - 共立女子大学・短期大学

先般文芸学部報の編集者よ
り︑一面記事の原稿依頼があり
ました︒小生︑顧みますに共立
文芸学部報 第一一一号
編集責任者 染木泰子
二〇〇九年十一月一日
二 一
共立女子大学 文芸学部発行
東京都千代田区
一ツ橋二
もう一つ︑授業で格段に大切 ります︒一年次でデッサン・油
Ⅱ
うな性格をもった創作品だとい 動はそのまま四十年を経た現在 業制作です︒文芸学部に勤めた も知らずに唯絵筆を握っていた
でも忘れません︒改めて面会し と同時に︑実技制作をもって修 学生が︑四年の間に立派な作品
ではないかと思う︒身近にある
て一度は自らなるものを描くの
広い意味で︑人間︑生まれてき
話すのに驚いたのは︑もう今
︵?︶を 持って お 友 達 感 覚 で
あ る が︑最 初 か ら 親 し み
然敬語を使うのが当たり前で
相手が目上の人であれば︑当
に限らないと考える︒例えば
いて︑気になっているのは私
今時の学生の言葉遣いにつ
いだろうか︒
ら︑その方が大変な事ではな
敬語に直しながら話すとした
か使い分けながら︑あるいは
例えば話をする時に︑どちら
ても自然体で良いのである︒
れば︑わざわざ気を付けなく
自然と使えるようになってい
が上の人に対しては︑敬語が
る︒普段から自分よりも年齢
させる事は大事な要素であ
て︑また話題によっても適応
ではなかろうか︒
の雰囲気としては自然の流れ
と思うし︑またその方が家庭
り言葉を崩している方が多い
す家庭もあると思うが︑やは
の で︑﹁親 し き 仲 に も 礼 儀 あ
も変化していくものだと思う
かってくれば自然と言葉遣い
ないのと同じよ﹂等々︑また
表現出来なければ分かってい
い﹂﹁頭 で 理 解 で き て も 体 で
ので︑余り神経質になる事は ﹁今 の や り 方 で 合って い る﹂
り﹂を忘れなければそれはま
学生も﹁何か分かったような
ない︒家族の間でも敬語で話 ﹁感 覚 的 に 分 かった ん じゃな
た親しみが増す事にも繫がる
気 が す る﹂﹁今 の は 上 手 く 出
学生に話しかける時は結構
瞬間︑瞬間で気が付くように
葉遣いはかなり乱れている︒
個人的に接する場面では︑言
が︑実際動き出してしまうと
kyoritsu wu.ac.jp
している︒今観ると︑受験を意
る量感︵ボリューム感︶を表現
に大胆に色面構成し︑明暗によ
ていて︑全体に緑彩色を基本色
る︒人物の表情は明確に表現し
間で一気に描きあげたものであ
の受験に失敗した時︑自宅の居
ければ良いと思うことが多い
なところで使い方を間違えな
大事で無意識のうちに︑大事
が︑普段の生活の積み重ねが
る必要はないのかも知れない
使い分けている︒何も心配す
も出来︑言葉遣いもきっちり
ーツに身を固めきちんと挨拶
始まり︑服装もリクルートス
でも︑それが身に付くまでは
はり少しオーバーに感じる位
自然に感ずる事もあるが︑や
い︒周りから見ると時には不
て敬語で話さなくてはならな
年齢が一つでも先輩なら︑全
の で T・P・Oに 合 わ せ て 使
す・ま す 体︵調︶
﹂と 異 な る
手 紙 文・報 告 文 等 で は﹁で
ト 等 で は﹁で あ る 体︵調︶
﹂
︑
を 書 く 場 合 も︑論 文・レ ポー
なか使い分けも難しい︒文章
丁寧語︑謙譲語︑その他なか
なくして人格はありえない︒
葉なくして思考は無い︒思考
人となりが窺える︒従って言
によりその人の生活態度や︑
事だが︑言葉を大事にする事
日常生活においても言える
かも知れない﹂等々︑もっと
識して制作したとは思えない︒
のである︒逆に使い分けも必
必要なのかもしれない︒厄介
いこなせれば﹁美しい日本語﹂ 良い言葉遣いが出来れば︑人
特に体育の授業では︑実技
が伴うので説明の時はこちら
教授・運動生理学︶
︵さかぐち よしい
っていくと考えられる︒
間性を豊かにする事にも繫が
話になっている︒
等︑もう完全に友達同士の会
んなやり方もやってみたい﹂
﹁先生も一緒にやろうよ﹂﹁こ
テンションが上がってくると
作家としての顔がのぞいている
な事も多いが︑究極な願いは
に繫がっていくのだと思う︒
麗衣
作品になっている︒次の年︑め
要不可欠な事かも知れない
美しい日本語が使える大人に
も丁寧な言葉遣いをしている
︵紙にパステル 四号F︶ が︑色彩の密度の単純化︑構図
活にも慣れてきた頃の制作︒パ Ⅳ.
﹁薔薇図﹂
年齢差があっても付き合い
小品である︒粉末顔料にアラ は無理なく仕上がったと思う︒
が長くなり︑お互いに良く分
リは夕暮れの色調︑中間色が実
時 と 場 所︑相 手 に 合 わ せ
坂口
でたく芸大油科に入学した︒
が︑出来ればそう言う事が上
なって欲しいのである︒
︵油彩画 一〇〇号F︶
東京芸術大学油画科の卒業制
洋画で︑主に近代・現代の印象 と手の動きの捉え方︑制作の仕 が︑少しでもレベルの高い授業 ﹁あ々︑こ れ な ん だ﹂と 思 う 気 ている︒教授の批評﹁身体ごと 品になればと思う︒
に見事で︑特に紫色はその落ち
美 の 旅
瑞男
近藤
︵油彩画 十二号F︶ 着きから云って他に例を見ない ビアゴム︵接着剤︶を混入して 八王子校舎で写生︑デッサンし
滞欧作品である︒フランス・ のではないか︒この十二号の小 固めてある非常にデリケートな たものを下描きに制作した︒
︵油彩画 三〇号F︶
最近の赤い絵シリーズのきっ
ったことは事実で︑無意識に潜
で画面のどこかにその片鱗があ
いていると実に楽しいのである︒ が︑学生時代の作品から今日ま
う︒
中 学 時 代 か ら パス テ ル を 描 問いかけには説明の余地がない
た画家ヴィヤールに興味を抱い 体質的に馴染んでいるように思 かけの作品︒なぜ赤なのかとの
この作品は︑二年目となりそ ていたことを憶えている︒
ブ思考も持ち合わせていなかっ ろそろパリ・モンマルトルの生
Ⅴ
在的に赤が存在していたと思
Ⅳ
全体に黄色が基本色で︑黒の
が 表 現 と して︑あ る 程 度 の 完 成
度をもって出来たと思う︒小生に
う︒それがこの作品のように一つ
さをとり除き︑絶望感を画面の
的 な 作 品 で あ る︒赤 の 色 彩 が 画
おいて赤のシリーズの中で代表
教授・油絵/画も筆者︶
︵しばた けんじろう
面にぴたりと定着したと思う︒
裏に隠し包み込み︑むしろ少し
いっきり︑自己に満足できたな 対色によって不安感を︑曲線の
ら︑絵が涙であってもいい︒
※以下︑Ⅰ〜Ⅴ画像番号
ーモラスな雰囲気を創り出した
小生十八才の自画像である︒ に︑自画像と共に一つの参考作
︵油彩画 十二号F︶ かった︒本学の卒業制作歴習者
Ⅰ.﹁自画像﹂
でも空間の広がりと絵画的にユ
形を主にすることで画面から固
げに励んでいると思います︒思
自習室で卒業制作に最後の仕上 景の中で描かれた︒
この学部報が出版される頃︑ た︒
﹁混 沌 は 笑 う﹂は そ ん な 背
の気持ちは同じです︒
述 べ る に 精 一 杯 で し た︒
今 も そ だそうとする意思も︑ポジティ
を 豊 か に す る 勉 強 な ん で す﹂
と 酒を飲んだ︒一筋の光明を見い かも知れない︒
現 で︑
﹁絵 を 勉 強 し た こ と は 心 蹉跌であった︒夜は新宿でよく で︑余裕を持って楽しんだから 同時期のフランス的に洗練され ことを要求される︒小生には︑
生は気持ちをこめてつたない表 暗澹たるものがあった︒青春の 年 間 と い う こ と で 出 掛 け た の う︒確かこの頃は︑ボナールと 使用出来る為︑逆に慎重に扱う
いると思うのです︒卒業時に小 面︒将来のことを考えると誠に という間に過ぎた︒これは︑三 ス プ リ が 映って い る よ う に 思 度の輝きは優れている︒簡単に Ⅴ.﹁赤いテーブルの静物﹂
生をその間に送り出した事にな から先永遠の進化成長が待って 闘 争︑私 的 に は 母 親 の 死 に 直 パリに生活した一年目は︑あっ 品の静物画においても︑そのエ 材質︒発色は抜群で︑明度︑彩
ベトナムは︑海と湖と川
の流れ︑樹々の緑の美しい
国である︒人々は他国支配
やいまわしい戦争を経験し
ながら︑世にも可愛い水上
人形を守り続けて来た︒
はね廻る龍︑牛を使って
田 を 耕 す 少 年︑天 使 の 行
列︒みな水上を自由自在に
動いて驚かす︒天使の身長
は五〇センチメートル程︒
木造で彩色されている︒
︵こんどう たまお
教授・日本近世演劇︶
この作品は少々素描的表現だ
派︑特に後期印象派ゴッホ・ゴ 様に身が震えました︒啓示を受 をと頑張ってきました︒そして 持ちを強く持ちます︒同時に絵 真摯に画面に向かっている︒密
ナール辺りが好きで︑特にボナ に家族で出掛けた時の印象︶
て私小説的作風のピエール・ボ ル展を秋の一日川村記念美術館 六・七名︵歴習選考あり︶の学 持ちを自己に発見すれば︑これ なる決心がついた︒時代は安保
中心に︑ピカソ・マチス︑そし 思 い ま し た︒︵マ チ ス・ボ ナー を 迎 え ま す︒平 均 す る と 毎 年 かが分かって何かに感動する気 る﹂
︒こ の 一 言 で 小 生 は 画 家 に
ーガン・セザンヌの三大画家を けるという正に言葉の通りだと 時の経過と共に本年で三十五回 画制作を通じて何かを得る︒何 度があり︑その表現は優れてい Ⅲ.静物﹁果実﹂
も言いましたが小生の仕事は西 自然との語らい︑ボナールの目 わりました︒志を同じくする者 して決して多くはないにせよ︑ K・Y教授のもとで次席を頂い
えるのかも知れない︒
手に出来る人間になって欲し
四年次になると就職活動が
言葉遣いと言っても尊敬語︑ 来 た と 思 う﹂﹁感 覚 が 摑 め た
思うとかなり以前からの事で
E mail:
くないと思うのが︑親心と言
言葉遣いの難しさ
私は体育会系の人間なので
リンゴを描くのと同じように︑
gakubuho@bungei.
この作品は︑芸術大学二度目
お寄せ下さい
さて︑本題に入ります︒先に て心の揺さぶりは静かで深く︑ 了卒業出来るという一項目が加 を制作する姿に接すると︑数に 作 作 品 で︑日 本 画 壇 で 高 名 な
うことです︒
ある︒
何かいたずら描きみたいなもの
ご意見・ご感想を
を︒
学部報に関する
います︒というよりは︑そのよ 木﹂は初めてパリで観た時の感 にしている科目があります︒卒 絵を歴習した学生で︑本当に何 Ⅱ.﹁混沌は笑う﹂
ることから入るのが正しいと思 ール の﹁白 い ア ン ズ の 花 咲 く
弁願いました︒作品は唯鑑賞す
況・状態を少し述べることで勘
業であります︒その制作時の状
ものの︑自作を語るのは至難の
との注文でした︒共に快諾した
言二言コメントをもらえないか
として︑好きな作品を自選し一
ったことで︑もう一つのお願い
彩︶
︑実 技 担 当 が 主 な 授 業 で あ
部 芸 術 系︑専 門 は 西 洋 画︵油
持ちです︒小生の場合︑文芸学
とやはり一言では云い尽せぬ気
年を迎えます︒正直改めて思う
十七年︑同時に今年を持って定
女子大学文芸学部に勤務して三
賢治郎
柴田
Ⅰ
Ⅲ
水上人形の天使
第 111 号
共 立 女 子 大 学 文 芸 学 部 報
(1) 2009 年(平成 21 年)11 月 1 日(日)
絵 ってな ん だろう
学 長 紹 介
文芸学部長
染木
泰子
で す が︑共 立 で の 教 育 歴 が 長 原油高で値上がりした
く︑大学の諸事情をよくご存知 とは言え︑ グラム
だというだけでなく︑文学にも 円程度という安さであ
芸術にも造詣が深く︑しかも学 る︒なぜこの値段で売
部のこともよく分かっていてく れるのだろうか︒スケ
だ さ る の は 心 強 い か ぎ り で ールメリットもあろう
す︒先日たまたま学長室を訪ね が︑人件費の安さも大
の﹁学長塾﹂ いに寄与しているに違
とに︑学長は︑卒業式などの公 たときに︑ kyonet
こんなことを考える
式の場には出られても︑普段あ を取っている学生が英語の質問 いない︒
まり学生と接触する機会があり に来ていて︑丁寧に英文法の説
ませんから︑就任されてもう一 明をしてもらっていました︒学 とトマトの味も苦くな
年ほどにもなるのに︑入江先生 長の個人教授を受けるという体 る が︑そ れ は さ て お
が現在学長を務められていて︑ 験はそうそうあるものでもあり き︑秋にふさわしいメ
学部長の入江先生が共立女子大 ることを知らない人も多いかも ーがありますから︑ちょっと試 の不条理に思いをはせながら味 しながらしばらく炒める︒⑹ト
授でいらした河盛先生の祝辞
いた頃先輩の結婚式で当時教
仏文研究室で助手をやって
した︒私の力は微々たるもの
シスなべよこ﹂を立ち上げま
ボランティアグループ﹁オア
ました︒九年前に地域限定の
にどっぷり浸かる生活になり
グなど︶や居場所空間の提供
のエアロビ︑おやつバイキン
での勉強会︑お母さんのため
回親子ミニデイ︵講師を呼ん
ています︒子育て支援も月二
いことと感謝することができ
したが︑実はとてもありがた
れがあたりまえと思っていま
よくありませんが健常で︑そ
子どもたちもあまり出来は
ょっとこわい状態ですが⁝︶
が⁝
があり︑その中でいまだに忘
ました︒だからできる範囲で
をやり︑少しでも楽しく子育
お手伝いをしたいと思いま
なので︑たくさんの人の少し
て を やって 欲 し い と 支 援
れていないことばがありま
しています︒
の力をかき集めたら大きな力
回ってきて︑PTAを代表し
開催︑家事援助︑通院介助な
す︒高齢者対象のミニデイの
かけになりボランティア活動
する機会が増え︑それがきっ
百円という料金でお手伝いし
ど介護保険と別枠で一時間五
自分が子育てをしている時に
貰 い ま し た︒もっと 早 く
出 来︑い い 勉 強 を さ せ て
れ合う機会を持つことが
お 母 さ ん︑お 父 さ ん と 触
す︒素 敵 な 障 害 児 と そ の
る 手 伝 い も やって い ま
学校から学童クラブへ送
る方が増えればいいな︑と願
し︑理解をし︑見守って下さ
わって欲しいな︑と思います
多くの方にこの心地よさを味
の世界を広げます︒少しでも
しでも知ることがとても自分
者の世界︑障害者の世界を少
ても心地いいものです︒高齢
かった!﹂と言われる事はと
﹁あ り が と う!﹂と か﹁助
知ることができていたら私自
仏文学コース卒業︶
昭和四十七年度 文芸学部
ゆきこ
今 現 在 私 は 健 康 で︵あ ち
︵やまざき
っています︒
こち痛かったり︑物忘れもち
出来たと思います︒
身もっと優しく︑賢い育児が
の 依 頼 が あ り︑障 害 児 を
す︒
す︒﹁共 立 で は 良 妻 賢 母
共立女子大を卒業してもう
三人の年子を無我夢
になるのでは︑という発想で
て地域の会合や催し物に参加
ス語を選択し︑ちょっと教え
は今日まで少なくとも二十年に が︑このトマトには今日︑世界 さじ ︑フォンドヴォー カッ あがり︒こがさないよう注意︒
ムの交差│モソ人の﹁歌われ
直記
九年三月
号 二〇〇
ここに書いた材料や分量は全て を書いていることが多い︒しか らすほどになるまで考える︒こ ある︒冷たい紙上の文字列が生 と 一 緒 に 落 穂 を 拾った︒あ る
誠実に迷わせてもらう︒その時 てくれたことがある︒すぐボロ
民族文化研究﹄
る歌の音数律﹂│﹂﹃アジア
﹁秋 の 夜 長 の 過 ご し 方﹂に つ い れることがある︒
﹃鷗 外・漱 石 │ ラ ディカ リ ズ
研究者が﹁考える﹂のは︑蕎 間が足りないと︑何か恐ろしい ボロになってしまったが︑その 大石
麦 職 人 が 蕎 麦 を 打 つ の と 同 じ 失 敗 を 見 落 し た の で は な い か 藁のブランコに乗って夕陽を見
ム の 起 源﹄ 春 風 社 二 〇 〇
あのような思いで夕焼け空を
はなよ
そんなことである︒
国男
基揮
﹃森 羅 万 象
第二一回現代美術展
一 九 四 セ ン チ︶ キャン バ ス
に油彩
三月
・ ﹄
︵四
081102
他五点
del’ ex-
七×九一センチ︶紙にアクリ
﹃森 羅 万 象
ル絵の具
position PANORAMA D’ ART
CONTEMPORA IN JAPONAIS
2009日 本 現 代 美 術 の 展
﹁織田信長の居所と行動﹂ 藤
堀
人 物 の 居 所 と 行 動﹄ 京 都 大
井讓治編﹃稿本・織豊期主要
学文学部 六月
と 日 本 古 代 文 学 │﹄ 瑞 木 書
﹁音 楽 的 リ ズ ム と 言 語 的 リ ズ
房 二〇〇九年二月
新
﹃古 代 の 歌 │ ア ジ ア の 歌 文 化
遠藤 耕太郎
展 ︵リ ヨ ン・
山書籍工房
カストル︶ 三月〜四月
望│
│
二八日刊行
二〇〇九年二月
レーション・就業・貧困﹄早
﹃変 革 期 の エ ジ プ ト │ マ イ グ
岩﨑 えり奈
研究紹介
専任講師・西洋演劇理論︶ ︵今治市河野美術館︶ 二月〜
︵むらい
﹄
︵七 二 ×
081128
青弓社 二〇〇九年三月
﹃宝 塚 と い う 装 置﹄︵共 著︶
鈴木
九年三月
上げた︒そのときの印象が︑三
冒頭に書いたように︑筆者の 十年以上経った今でも真っ赤に
そのせいか︑研究が行き詰ま
に見えない道を踏み外し︑また る と 必 ず 故 郷 の 記 憶 が 去 来 す
することが多いが︑涼しい風に 知れぬ作業が幾夜
たりしながらせわしなく夜を徹 る︒こんな得体の
夏はエアコンをつけたり消し 目 に 見 え な い 道 を 探 す の で あ る︒子供の頃︑稲刈りの後は弟
まで書き続ける︒
ら集中力が出て︑早朝力尽きる やり直さなければならない︒目
しい︒筆者の場合は︑日没頃か 失敗した生地は捨てて︑一から るのかも知れない︒
う方法が自然に選ばれているら るも無残なものができあがる︒ は︑存外農民のDNAに由来す 考の迷宮に疲れて考えるのは︑
も︑書き手のバイオリズムに合 ある︒その道筋を違えると︑見 力に頼るという﹁仕事﹂の方法 れるものであろうか︒深夜︑思 須田
きだす人もある︒いずれにして にも︑正しい道筋というものが が︑時間をかけ︑最後は自然の 見上げる日が︑この先にまた訪
あれば︑夕刻から寝て夜中に起 同様︑
﹁考える﹂という﹁仕事﹂ ツ か ら は 随 分 離 れ て し まった
きて午前中に集中的に書く人も できるものではないというのと ルーツは農家である︒そのルー 蘇る︒
ってさまざまだ︒朝早くから起 く蕎麦粉を捏ねていれば蕎麦が
論文を書くといっても人によ ﹁仕 事﹂で あ る︒そ し て 何 と な と︑不安で仕方ない︒
たのだが⁝⁝︒
教授・西洋美術史︶ て一筆︑と言われて少し困惑し
︵いけがみ こうへい
風 情 も 季 節 感 も な い︒だ か ら ない︒実際︑そんな風に感じら れるようになるまで︑ひたすら を綯い︑即席のブランコを作っ
⑴鶏ぶつ切りに塩︑こ 自己流なので︑試す時は適当に し研究者が論文を書くのに何の れは全くの冗談というわけでは きた声となって対話に応じてく 年︑脱穀のあと︑父が稲藁で縄
部︑ナ ポ リ 周 辺 の カ ン パーニ たまねぎは薄切り︑セロリは適
円程度︵たぶんもっと安いの ねぎとセロリを入れ︑中火でよ
も あ る だ ろ う︶で あ る の に 対 く炒める︒しんなりしたらニン
留学先がイタリアであったの し︑輸入のトマト缶が︑昨今の ニクを入れ︑香りが立ってきた
をえず︑帰国後もかなりの期間 からである︒
身の回りのことは全部やらざる が値段に跳ね返っているはずだ
少々こだわりがある︒留学中は る︒きれいに洗うためのコスト 産される生のトマトが グラム またはオリーヴ油を熱し︑たま
る 方 な の で︑食 べ る こ と に は ようにきれいすぎるのも気にな るか想像に難くない︒日本で生 の容器にあける︒⑸鍋にバター
秋である︒食い意地が張ってい 一苦労である︒しかし︑日本の る︒どのような問題がそこにあ 入れてアルコールを飛ばし︑別
秋である︒秋と言えば食欲の それをきれいに洗い落とすのは 法滞在者で︑法の保護の外にあ る︒⑷肉を取り出し︑ワインを
には農薬がこびりついている︒ が雇われる︒彼らの大部分は不 入れて強めの火で焼き色をつけ
積まれ︑泥だらけでひどいとき リアにやってきた出稼ぎ労働者 を入れ︑小麦粉をまぶした鶏を
と同じ︶ではむき出しで店頭に ばアフリカやバルカンからイタ 熱してバターまたはオリーヴ油
ッパの八百屋︵スーパーは日本 の人手が必要なために︑しばし イス︒⑶鍋︵中華鍋が便利︶を
いに包装されているが︑ヨーロ 人間の手で行う︒短期間に多く まま︒ニンニクはつぶすかスラ
は野菜はきれいに洗われ︑きれ 多い︒トマトの収穫は基本的に 分に切る︒小さいものならその
たとえば︑日本のスーパーで ア︑シチリアやプーリア地方が 当に刻む︒マッシュルームは半
る︒
ろいろ考えさせられることもあ 生産されているが︑とりわけ南 外︶をふってしばらくおく︒⑵
ぼ毎日台所に立っていると︑い でいる︒トマトはイタリア中で しょう を し︑白 ワ イ ン︵分 量 アレンジして下さい︒
間︑週に何度か買い物をし︑ほ 移民や不法滞在者の問題が絡ん 作り方
は な る で あ ろ う︒二 十 年 も の の至る所で見られる経済格差と プ︑小麦粉適量︒
1
立ち上げ当初から多く
になるよう教育していま
す︒古 め か し い 言 葉 で す
が︑良 い 妻︑賢 い 母 と い
う こ と は︑今 の 時 代 で も
す ば ら し い こ と で す︒﹂
この言葉を覚えていなが
ら︑顧 み て ちっと も 良 妻
で は な く︑賢 い 母 に も な
Spezzatino di pollo alla cacciato-入れ︑フォンドヴォー︑ワイン
三十六年が経ちます︒在学中
中︑でも楽しんで育てている
マトが煮立ったらワインを戻し
た︑もうご存知でしたか︒先生 近いないぞ︑などと思わないよ うに見えますが︑ほんとは話し
︵ra鶏ぶつ切りの煮込み猟師風︶ ビネガーを入れ︑軽く煮立たせ
うちにPTA会長などの役が
れませんでした︒
好きで笑顔がチャーミング︑シ
は仏文学を学んだように記憶
っていません︒長男と長女が
文芸学部の入江先生が学長に ェイ ク ス ピ ア の 専 門 家 で す か 材料
年生以上の人たちの中には授業 なられたことは私たちとって幸 ら︑卒論のヒントになるような まねぎ ︑セロリの葉少々︑マ ころもち火を弱めて煮込む︒⑺
それぞれ第二外国語でフラン
教えてこられた方ですから︑二
エ リ ン ギ な ど で も 可︶
︑ニ ン ニ え る︒面 倒 な ら 一 緒 に 煮 て も
などで直接教えてもらった人も せです︒無論︑学長は大学・短 面白い話が聞けるかもしれませ ッシュルーム︵椎茸︑シメジ︑ マッシュルームを別に炒めて加
て やった こ と も あ り ま し た
1
ク かけ︑トマト缶 ︑白ワイ 可︒⑻塩で味を調え︑とろみが
1
共働きのためもあって︑料理歴 で︑ト マ ト は 始 終 買って い た ン カップ︑ワインビネガー大 ついて酸味が落ち着いたらでき
多いでしょう︒でも不思議なこ 大全体のことを考える立場の方 ん︒
公平
池上
独身生活を続け︑結婚した後は
あ た れ る 秋 は︑や は り 落 ち 着 も続く︒
中には実に軽や
とって︑かつては秋と言えば稲 じっと考える︒執筆が勢いづい か に 書 く 人 も あ
刈 り と 同 義 だった︒ 夜 は 寝 ている間と違い︑構想を練る︑ る︒見習いたいの
て︑朝 は 早 く 起 き る も の だっ 或いは推敲する際は︑全身全霊 は山々だが︑バイ
で考えなければならない︒三島 オリズムが違うの
のは高校に入った頃で︑それが 方をすれば︑眼窩の裏側がほの 似できるものでは
今まで続いている︒基本的に年 かに燃え︑その炎が両手の指の ない︒それに︑解
中夜型で︑特に研究紀要類の締 先まで伝い︑爪の一枚一枚がラ 決よりも迷いの方
D
は英語英米文学コースで長い間 うに︒
しますが知識としては殆ど残
学・短 大 の 学 長 に な ら れ ま し しれません︒あれ︑入江先生最 してみてはいかが︒一見厳しそ わうのも一興?ではないか︒
由紀子
山崎
鶏ぶつ切り グラム︑た てから肉を入れ︑ふたをしてこ
ボランティアのすすめ
その農家の原則に背き始めた 由紀夫風にもってまわった言い だから︑簡単に真
た︒
8
入江 和生 学長
文芸学部のみなさん︑前文芸 大学のために日々尽力されてい ません︒学長にもオフィスアワ ニューを一つ紹介したい︒世界 らトマトを入れる︒ヘラでつぶ
余ったソースをスパゲッティにかけました
華代
村井
四国の農家に生まれた筆者に く︒心底ほっとする︒そして︑
稲積まずして
切が集中する秋は︑朝まで論文 ンプのように煌々とあたりを照 が好ましい場合も
秋のポツダム
食欲の秋
高齢者ミニデイの様子
(前列中央が著者)
2
0
0
9
2009 年(平成 21 年)11 月 1 日(日)(2)
共 立 女 子 大 学 文 芸 学 部 報
第 111 号
ノ ワ・ジョゼ フ・ラーブ ル﹄︶ うていできないと知りつつも︑ ら な い︒だ か ら こ
さすらいを歌ったものが多いが の生涯をさすらいの身で過ごし
間はさすらい人たら
なぜそれまでして︑ひとはさ ざ る を 得 ず︑し か
が聴きたくなる︒歌曲にも旅や て取り上げている︒ルソーがそ 私は惹かれてやまない︒
そんな時には︑シューベルト も︑大いなるさすらい人をあえ 聖ブノワのこうした生き方に︑ そ︑それを求める人
するとそうした些事のなかにこ ちからの手紙は︑私を旅行気分 良い中学時代の思い出になるよ したお気に入りのものをセレク 行こうとするのを感ずる︒
い時間が少しくらいはある︒茜 好んで便せんで︑お気に入りの ったばかりの私に
色に変化する夕暮れの空を見上 ペンで︑手紙を書く︒昔から手 よりいっそう深く
げる瞬間︑いちょうや紅葉の赤 紙を出すのももらうのも大好き 届 く 言 葉 と なっ
や黄色の落葉でできたふかふか だ︒それはきっと手紙には送り た︒手紙はときに
の絨毯の上を︑ブーツでカサカ 手の手間ひまとやさしさがつま 時空をこえて故人
サいわせながら歩く瞬間︑今年 っていることを知っているから と現在の私をつな
ぎ止める︒もう一
小学校三年生時代の担任だっ 通は︑とても短い
こそは和菓子屋さんで月見だん だ︒
ごを買ってお月見しようかなと
考えている瞬間︒作家の芥川龍 た水野先生とは未だに文通を続 祖母からの手紙︒
ヴェルレーヌの﹁秋の歌﹂︒
音楽はおしなべて︑魂のさすら る︒彼は︑幼い頃から神の道に く︑人間の心の奥底には︑失わ 心︑無私の愛︑そし
いの歌である︒それを特に感じ 入ろうと心に固く決めていたの れた楽園への渇望がいまなお潜 て無限の忍耐を必要
詩作というもの
させるのは︑晩年に書かれた一 だが︑聖職者になるための勉強 んでいるからであり︑その渇望 とする︒
連のピアノ・ソナタだ︒いずれ にどうしてもなじめず︑また修 に目覚めるとき︑私たちは楽園
も︑いつ終わるとも知れず続く 道院に入っても︑そこが自分の への遙かな郷愁に捉えられるの が︑失われた楽園を
しまった︒散らばったその断 くとも︑ノヴァーリスの根源的 詩集﹃冬の光に﹄で締めくくる
今夜のさすらいの旅は︑彼の
片を集めねばならない︒
﹂
それゆえ︑楽園は見失われて すらい人であるほかない︒少な
﹁楽園は地上全体に散らばり︑ あるとすれば︑詩人もまた︑さ るのも︑むしろ当然だろう︒
長大な曲であるが︑その﹁天上 い る べ き 場 所 と は 思 え ず︑結 だろう︒ノヴァーリスは言う︒ ふたたび見出そうとする試みで を愛し︑またドーテルを愛読す
的 な 長 さ﹂︵シューマ ン︶は︑ 局︑その生涯を︑乞食さながら
すらいの旅そのものであること れ︑罵られながら︑ヨーロッパ
これらの曲が魂の果てしないさ の托鉢僧として︑人々に軽蔑さ
を物語っている︒汲めども尽き 中をさまよい歩いて過ごした挙
楽園の断片が地上のどこに散 プ・ジャコテは︑そう考えてい
日々︑な ぜ か 論 稿 の 筆 は 重
育とは何かを追い求めた
教師の位置﹂等々︑消極的教
いて﹂
︑
﹁消極的教育における
﹁ル ソーの 消 極 的 教 育 に つ
になる︒
ソーとはかなり長いつき合い
常識を疑えるようになった︒
やっと︑私は︑ルソー解釈の
始めて四半世紀になる頃に︑
ればならないものを︑格闘し
その頃には済まされていなけ
究の基礎固め段階を終える︑
型を脱ぎ捨てる︑すなわち研
度きちんと嵌った型を破り︑
ルソーは︑子どもをダメに
いて︑何ともお粗末である︒
というのよりもっと精確を欠
ーは﹁自然に帰れ﹂と言った
ことを白状したも同然︑ルソ
ミール﹄を読んだことがない
担当者が自身では一度も﹃エ
などと︒それは︑
﹁教育原理﹂
造があるともいわれるが︑一 ﹁消 極 教 育﹂を 推 奨 し て い る
教授・仏文学︶
︵むとう たけし
問 い を 継 承 す る 詩 人 フィリッ ことにしよう︒
ず湧き出る清冽な楽想に運ばれ 句 に︑疲 れ き り︑や つ れ 果 て
く︑これらをものしてすっき
た試しがない︒心の底からの
み に 従 う︑
﹁自 然 の 歩
ル ソーの 教 育︑そ れ は︑
を提案しているのであり︑そ
しの教育
と を 一 つ 残 ら ず す る︑﹁裏 返
一切しない︑それがしないこ
罪し︑それがしていることは
﹂を断
l’éducation positive
後ろめた
消極的教
育
ささえ覚
育﹂ で あ
よろこびがない︒﹃エミール﹄ うに﹁消極的教育﹂か︑と︒
は ほ ん と してしまっている﹁現行の教
l’éducation négative
り晴れやかな達成感が得られ
て︑私の魂もいつしか︑果てし て︑ローマで死ぬ︒自分にはと らばっているのか︑誰にも分か る︒そんな彼が︑シューベルト
ないさすらいの旅に出ている︒
果てしないさすらいの旅︑そ
ンス作家アンドレ・ドーテルの
げにわれは/うらぶれて/ 終生のテーマでもあった︒そん
こゝかしこ/さだめなく/ なわけで︑シューベルトを聴い
︵上田敏訳︶ なる︒じっさい︑彼の小説の主
とび散らふ/落ち葉かな︒ たあとは︑ドーテルが読みたく
芭 蕉 に も︑つ ぎ の 一 句 が あ 人公たちは皆︑ひとつの場所︑
ひとつの社会的地位に安住でき
よい続けるさすらい人にほかな
野ざらしを心に風のしむ身 ずに︑あてどなくこの世をさま
る︒
哉
えたもの
魂が暗い夜の中をさまよい出て ン=ジャック・ルソー﹄︑
﹃聖ブ
として令名を馳せておいでだっ た︒その混乱期に先生がどんな い︒
ばならぬ﹂といったが︑もしか 分かる︒旅先から出される友だ く見てきなさい︒
追悼
たが︑学生の期待に反して︑ど 身の処し方をなされたのか︑母
と
positive
の
négative
ら︑一貫してルソーの教育思
ーマ に︑教 育 哲 学 の 立 場 か
教育学の基本方途﹂などをテ
世界中に夥しい数の蓄積があ
のルソーの教育思想研究は︑
めには何もしないことによっ
でなければならない︒﹂
﹁はじ
期の教育は純粋に
﹁初
る﹃エミール﹄を中心として ﹃エミール﹄には確かに︑
書﹂として評価の定まってい
てあなたがたはすばらしい教
就中教職課程の罪は大きい︒
ことは﹁何もしない﹂ほうが
たがた﹂が今しているような
ることにしかならない﹁あな
なく︑ひたすらお化けをつく
手控えて﹁何もしない﹂では
ル ム の ネ ガ で あ り︑
﹁何 も し
フィルムに対するネガ・フィ
おいて積極的か消極的かを謂
その後に先生とお話をする機 歴任された︒なかでも︑国際文 た︒運転振りは︑実に手慣れた
想・教育理論を研究対象とし
り︑今更何が付け加えられよ
育を施したことになるであろ
ましということなのである︒
うのではない︒ネガティブな
の著者を裏切っているような
である︒
語は︑教育的はたらきかけに
こなる
私もまた︑秋の宵︑庭にすだ らない︒小説ばかりでなく︑彼
思えば三十五年︑いや四十
る︒こ れ を
之介は﹁人生を幸福にするため けている︒当時と何一つ変わら ﹁ま な こ を さ ら の
年になんなんとする遠い昔︑
ル ソー
判で押した
く虫の音を聞きながら︑自分の が 書 い た ふ た つ の 評 伝︵﹃ジャ
高村先生は︑軽井沢に別荘を
文学部哲学科教育学専攻の卒
研 究︑と
ように教え
には︑日常の些事を愛さなけれ ない文字︑一目で先生からだと ようにひらいてよ
こ の 間︑先 生 は︑図 書 館 長 お持ちであった︒ある年︑家内
業論文に﹁ルソーの自然人考
り わ け
がった︒右足を軽く引きずって 究﹂の完成を急がれていたので 会 が 得 ら れ た の は︑一 九 八 〇 化学部の開設に当たっては︑開 颯爽としたもので︑高速道路で
てきた︒女権拡張論に関心を
う︒そんなところでルソーの
う﹂と あ る︒ほ ら こ の と お
教育のネガは︑まさにポジ・
おいでで︑どうなさったのです あろうし︑長年構想を温めてい ︵昭 和 五 五︶年 四 月 に 本 学 文 芸 設準備委員として砕身された︒ も他車の追い越しは絶対許さな
寄せたことから距離をおいた
教育思想をめぐって論文を書
り︑親や教師は子どものする
︵はやし
過則勿憚改の心持ちなれば︒
広めてきた
かとお尋ねすると︑起き掛けに らっしゃったアメリカ文学専攻 学部教授に着任なさったときか 現在の国際学部の専任教員のう かったという往年の逸話を彷彿
時期もあったが︑それとてル
くという作業自体に倦んだ感
ことに手出しをせず︑子ども
全国の大学
足をくじいてねというご返事で の設置実現に向けて心を砕いて らである︒とはいえ︑すでに先 ち︑はたして何人の方がその功 とさせた︒訃報に接したとき真
ソーをアンチ・フェミニズム
じがあった︒ひらめきの豊か
のしたいようにさせ︑ただ見
の発見の
あった︒常々お歳よりはずっと おいでだったに違いない︒一九 生には功成り名を遂げられた風 績を評価されているかを想像す っ先に脳裏に浮かんだのは︑こ
のリーダーとして向こうに回
ならざるを自覚している同業
柴田賢治郎
教授・教育哲学︶
に︑﹁ル ソーの 人 間 学 と そ の ﹁ 子 ど も
若く︑永遠の青年というイメー 六一︵昭和三六︶年には文学博 格があって︑若い教員が気軽に ると︑うたた感慨に耽らざるを のときの軽井沢の濃い木立の緑
していたという意味の距離で
者に共有されている感覚では
守ってさえいればよいと︑ル
︵八 二 〜 八 七 年︶な ど の 要 職 を り︑方々を 案 内 し て く だ さっ
﹂
l’éducation négative
こか心ここにあらずの授業振り 校を捨てて他の大学院へ進み︑ ︵八 二 〜 八 八 年︶
︑
﹃共 立 女 子 大 ともども招待の栄に浴した︒中
察﹂の題を付けたのを皮切り
のころ先生は︑博士論文﹁ロー しには︑詳らかでない︒
と高原の涼風︑そして助手席で
あって︑かえって凝視してい
ソーは 言 い︑自 由 放 任 的 な
ス ト・ジェネ レーション の 研
一九九〇︵平成二︶年には︑ にこやかに微笑んでいらっしゃ
たのであり︑研究対象の埒外
ないかと思う︒
を別にする独立した教育・研究 ある縁で︑コンサートの休憩時 た︒当然︑お祝いの会が催され 奥様の美しいお姿であった︒
はじめて謦咳に接したのは︑ 組織で︑国立大学では先例のな に座席へ伺っていろいろとお話 たはずだが︑世間の栄華に疎い
けいがい
寂しい印象を受けた︒
た高村勝治先生が︑去る四月三 が︑このときばかりは︑実態が ア メ リ カ 文 学 専 攻 を 創 設 さ れ った︒幸いなことに︑先生とは
最後にお目にかかったのは︑
であった︒
みきお
画
négative ない﹂というのは︑だから︑
日に亡くなられた︒享年九二歳 年齢に追いすがっているような た︒英文学専攻とは定員・選抜 同じオーケストラの定期会員で 勲 三 等 旭 日 中 綬 章 を 受 け ら れ った︑これまた老いを知らない
に置いたということではない
本学特任教授でいらっしゃっ ジ が 定 着 し て い た 先 生 だった 士号を授与され︑六四年には︑ 話しかけられる雰囲気ではなか えない︒
ご冥福をお祈りする︒
から︑その時期も含めて︑ル
教授・英文学︶
型に嵌ったその先にこそ創
合掌︒
をうかがうことができた︒しか わ た し に は︑鮮 明 な 記 憶 が な
その後︑わたしの出身大学は し︑話 題 は 音 楽 に 限 ら れ て い い︒誠 に 申 し 訳 な い こ と で あ
一昨年の五月であったか︑ちょ 学部二年生のときであった︒英 いものであった︒
うど評議員会へご出席になる先 詩演習を担当された︒すでにヘ
生と本館一階の玄関先ですれち ミングウェイの翻訳家・研究家 廃学となり︑新設大学へ移行し て︑文学へ言及された記憶はな る︒
机の上の小さなさすらいの旅
そ幸せな瞬間はたくさん隠され に誘ってくれる︒冴えない日常 うに︒気をつけて︒ばば﹂この トして︒届いた人の喜ぶ顔を思
︵おおしま そにあ
に突如︑イタリアナポリの美し 手紙は私が中学の修学旅行で︑ い浮かべながら︒
夜の歌﹂︑そして﹃冬の旅﹄⁝︶︑ ノワ︵一七四八〜一七八三︶こ か︒何が私たちをさすらいへと 見つけ出すには︑子
専任講師・メディア史︶︵﹁さすらい人﹂
︑﹁さすらい人の たことは周知の通りだが︑聖ブ す ら い の 旅 に 出 よ う と す る の も︑隠された断片を
秋が近づくと︑遠くはなれた い景色の描かれた絵はがきが届 祖父母の故郷である東北へ行く
ているのかもしれない︒
恩師や友に思いを馳せることが いたときのうれしさといったら 直前に届いた手紙だ︒メモ用紙
秋の詩には︑旅やさすらいを
歌曲に限らず︑シューベルトの そ︑さ す ら い 人 そ の も の で あ 駆り立てるのか︒それはおそら 供 の よ う な 無 垢 な
よくある︒気候が心地よいから ない︒秘境好きの親友が出して の裏にたどたどしい文字で書か
なのか︑月の光を見上げる時間 くれた世界遺産マチュピチュか れている︒祖母はこの少し前に
が長くなるからなのか︑理由は らの葉書︒修士論文執筆中で煮 脳梗塞で倒れた︒麻痺が残った
よく分からない︒ともあれ︑普 詰まっていたとき︑リラックス 手を必死にリハビリし︑その不
段は忙しすぎて見落としてしま 効果のあるアロマオイルと一緒 自由な左手で一生懸命孫を思い
うような些細な出来事が愛おし に届けられた﹁無理しないよう 書いてくれたその短い手紙は︑
手紙の価値はおそらく︑どれ
宝物である︒
く思えたり︑なんということの に﹂と添えられた温かい手紙︑ 私にとって何ものにも代え難い
もう二度と届くことのない︑
ない︑いつもなら気にも留めな 心に染みた︒
いようなことに思いをよせるこ
﹁秋 の 夜 長﹂と て も 風 流 な 言 とも少なくない︒それこそが秋 忘れられない手紙もある︒祖父 だけ相手のことを真剣に考えた
筆書きされた封筒の宛名︑畑の の強さで決まると私は思う︒文
葉だ︒私もその風流さにあやか の夜長のなせる業だという人も 母からもらった手紙だ︒丁寧に か︑そのかけられた時間と思い
﹁み ん な 元 気 に 過 ご し て い る 野菜を育てるのは子どもを育て 章の上手い下手でもなければ長
りたいと願いつつ︑忙しさを言 きっといるにちがいない︒
い訳にして︑なかなかそのゆっ
たりとした時間を心ゆくまで楽 だ ろ う か⁝﹂
︑ぼ ん や り そ ん な ていくのと同じようなものだと さでもない︒これからも私はき
しむことは残念ながらできてい ことを考えながら私は手紙を書 書いてあった︒愛情を注いで育 っと時間をみつけては手紙を書
剛史
武藤
であった︒いま思い返すと︑こ 自分のことにかまけていたわた 学 百 年 史﹄編 集 委 員 会 委 員 長 軽 井 沢 駅 前 に 車 で お い で に な
手紙の道具立て
お気に入りの便せんとペン
とした瞬間に訪れる秋の心地よ あるけれど︑時間があるときは た祖父のその手紙は︑教師にな 緘︑切手はなるべく季節を意識 歌ったものが多い︒たとえば︑ れは︑私がこよなく愛するフラ
ない︒しかしそんな私にも︑ふ く︒メールや電話を使うことも てることの大切さを教えてくれ くだろう︒もちろん便せんや封
秋の宵、
さすらい人になって
十二愛
大島
高村勝治先生
幹夫
林
手紙がつむぐこころ
︵こうもと なかきよ
河本 仲聖
ㆊೣ൩ᙈᡷߩᔃ
第 111 号
共 立 女 子 大 学 文 芸 学 部 報
(3) 2009 年(平成 21 年)11 月 1 日(日)
︿日本語日本文学﹀
研修旅行
ンスの詩人のように︑ひたひた
と忍び寄る暗い冬に怯えて舞い
落ちる枯れ葉を眺めていると︑
漠としたもの悲しさに包まれて
しかし人間の一生八十年を一年
しまうかもしれません︒
︿造形芸術﹀
芸術の季節
験値を上げてゆきましょう︒与
俳優にとっても観客にとって 必 修 科 目 が あ り ま す よ︒そ し には慣れましたか︒自分の所属
︵下村︶
四年生はいよいよ卒論のラス ビスの行方を見守りたいと思い
〜ひと言ふた言〜
えられる情報だけでやり過ごす も︑ホームグラウンドは必要で て︑今履修している授業にきち す る コース は 足 場 の よ う な も トスパート︒どんな仕事も詰め ます︒
最後になりましたが︑文芸教
す︑悔いのないように︒
のではなく︑生活の範囲を一歩 す︒帰る家がなければ冒険旅行 んと取り組んで︑予定通りに単 の︒まずはしっかり足元を固め が肝心︒学生生活最後の仕事で
踏み出た世界を︑実際に感じ取 もできません︒演劇を専攻する 位を修得し︑四年生の時に卒論 る準備をして下さい︒
二年生は︑これからの一年間
︵細沢︶ が本当に学生らしい生活をおく 養コースはこの春︑岩﨑えり奈
りに行ってください︒なんとな 人でなくても︑居心地のいい家 執筆︑さらには卒業しやすい環
学生のみなさん︑芸術の秋で くぼんやり過ごしていると︑あ のような劇団を見つけられたら 境を整えましょう︒
る大切な一年になります︒学生 先生をスタッフに迎えました︒
に間に合わなかったからです︒
の本分は勉強︒図書館を活用す 待望の新人です︒ご専門はイス
講座のスゝメ
文芸学部の講座制度につい
るなど︑少し積極的になるだけ ラム社会と文化︒アラブやアフ て︑一年生の皆さんは入学した
その私が助手になり︑研修旅行 に例えるなら︑二十歳前後とい す︒巷では様々な関連イベント っという間に次の季節︵卒業︶ 幸せです︒そういう機会は学生
︿文芸メディア﹀
つわもの
リカの国々をフィールドワーク ばかりの初々しい頃︑ガイダン
三 年 生 は 来 年 の 卒 論 に 向 け する強者ですが︑食いしんぼで ス期間中の慌ただしい中で説明
で大学生活は充実します︒
て︑自分の研究対象を決める時 おっとりした先生です︒これま を聞いたでしょう︒右も左もわ
てはいかが︒
ンス期間中に講座の説明会があ
も始まっていない三月のガイダ
︵M︶ 三年生の皆さんは︑まだ新学期
普段からよく読む人や︑全く です︒いい加減な気持では続き お話を伺いに研究室を訪ねてみ なったでしょうか? 二年生・
しょうが︑一年間付き合う相手 た領域をご専門にしています︒ ときに講座制度が履修の目安に
みなさん︑本を読むのは好き 期です︒就職活動も気になるで で文芸学部がカバー出来なかっ からない時期︑履修登録をする
本を読む習慣
さあ︑ひ 時代でないと︑なかなか作れま
のお世話をすることになったの う年齢は正に春︑青葉が芽吹く が開かれています︒美術館での がやってきますよ!
ときかれたら︑やはり宝
﹁ス タ ジ オ ラ イ フ﹂に 移 籍 し て
宝塚ファンの学生が︑大挙して ですか?
すね︒ところが︑十年ほど前︑
塚歌劇団と答えることになりま
︵粕谷︶ は?
で は︑あ な た の 好 き な 劇 団
で︑分らないことばかり︒それ 四月を迎えたばかりです︒これ 大規模な展覧会や︑映画祭︑家 とまずそこから動き出しましょ せんよ︒
好きな劇団
︿劇芸術﹀
でも︑頼もしいコース委員のお からやってくる夏にどれ だけ穂 具 の 国 際 見 本 市 な ど︑多 く の う︒
そして秋にどれだけ豊かな実り います︒そこにぜひ足を運んで
日本語日本文学コースでは︑ かげで︑準備は着々と進んでい を伸ばし花を咲かせられるか︑ ﹁〜 芸 術 祭﹂が 各 地 で 催 さ れ て
大学生のうちは人生の中で最 いに気付かず通り過ぎてしまう
会えることでしょう︒その出会
現在は︑日本文学演習Ⅰの履 に出会えるか︑それはこの季節 みてください︒色々な刺激に出
ず参加できます︒編入生のみな
し ま い︑慌 て て 追 い か け た 結 読まない人まで様々だと思いま ませんよ︒
あなたには︑好きな劇団があ 果︑ミイラ取りがミイラになり すが︑私は本をたくさん読むこ
とをお勧めします︒
特に一〜三年生のみなさん!
った こ と を 覚 え て い ま す か?
︵須藤︶ て︑いろいろな知識と体験を貪 く︑多くを感じ取り︑それを活 りますか? 好きな作家︑好き ました︒
そして︑もう一つ︑心から愛
日のように接している︑という す︒知らなかったらネットで検 作業が待っていますよね︒
卒論を書く際には︑たくさん
︵葉椰子︶
朗報を一つ!
すでに︑晴れ
て講座修了証を手にした仲間が
います︒講座はあくまでも履修
の目安ですが︑自分の目的意識
を確認するためにはとても役に
は通じないよね︒今の文法に
近づいてきました︒四年生は来
立 つ 制 度 で す︒﹁使 え る も の は
従うということは︑意味重視
月に卒論提出が控えていて︑三 トレーニングをしてみてはいか 前指導で確認できる︒しかし︑ 次々﹂といった文字が︒図書館 広く深く物事を見る目を養う講
新しいサービス
︿司書課程﹀
ら︒
を 被 る の は 生 徒 た ち な の だ か います︒
新しく講座に登録した人も大勢
四月から心機一転とばかりに︑
︿教職課程﹀
教科指導等教育実習活動その
決断のとき
欲 に 吸 収 し て 欲 し い と 思 い ま かせる場にあるこの学生時代に な画家︑好きな作曲家⁝その人
つでもそのお手伝いをしますの ゆかなくては︒
感覚はやはり経験によって育 存 在 はみん な 持っているで しょ 索してみてください︒
︵鈴木︵国︶︶ の 本 を 読 ま な け れ ば な り ま せ
で︑気軽に足を運んでください︒
︵鈴木︵雅︶︶ つ も の で す︒経 験 の 分 の 感 覚 う︒好きな俳優ならいる? そ
ん︒何十冊という本を読む作業
貪欲に
は︑いつか必ず自分が生み出す う︑でもたとえば市川海老蔵が
人には意外と大変だと思いま
は︑普段から読み慣れていない
表現の手がかりとなります︒あ 本当に好きなら︑あなたは歌舞
︿英語英米文学﹀
﹁秋 の 日 の/ヸ オ ロ ン の/た
ら︑実は学生の頃︑私は研修旅
行に参加できませんでした︒編 めいきの/身にしみて/ひたぶ
らゆるものに触れ︑どんどん経 伎座に通うことになるでしょう︒
す︒原稿を書く前に本を読むだ
い る と い う︒
﹁一 番 長 い と き
の世界を生きていくというこ
年生は本計画書に向けて卒論ガ がでしょうか︒本は読み慣れれ 事務方を巻き込んで︑実習校︑ を設置・運営する自治体の財政 座群Bのどちらを選ぶか︑いく
けで疲れてしまう︑ということ ものは教職課程の履修を通じて
は二年半︑モソ人という母系
と︒でも︑人間は︑言葉で説
イ ダ ン ス を 行った と こ ろ で す ば︑スピードも速くなりさほど 教育委員会その他外部と緊密に 難から︑運営費の削減を目的に つ 選 ぶ か︑す べ て 自 分 次 第 で
三年生のうちに⁝
卒 論 の テーマ は︑歌 垣︒
社会の村にいたんです︒奥さ
明できないものをいっぱい持
ね︒四年生はもちろん︑三年生 疲れなくなってきます︒内容は 連絡を取りながらの準備作業は 図書館業務を外部委託するケー す︒今からでも遅くない︒今年
プロフィール
﹁歌 垣 は︑歌 を 掛 け 合って︑
んと行ったんだけど︑恋歌を
っている︒そういう人間同士
耕太郎 先生
︵准教授︶
学生にとっては一生の問題と
スキルが身につく講座群Aと
館に の履修状況次第で新しい道も開
館とか︶が増えています︒
けます︒
合い言葉は﹁講座へスゝ
教鞭を執られ︑昨年度から文
平成十七年度から短大文科で
遠藤耕太郎先生︒本学では︑
で︑にこやかにお話しになる
刺激を受けた︒言葉以外のも
﹁と に か く 仲 間 が い て︑
宿や旅行にあるそうだ︒
っかけは︑学生時代の合
分野に興味を持たれたき
は︑日本古代文学︒この
学部で学ばれた︒ご専門
先生は︑早稲田大学文
国 に 行った﹂︒中 国 の 少 数 民
い︒そこで︑三年のときに中
の歌は︑ほとんど残っていな
似て︑一人称と三人称がごち
ったんだけど︑古代の歌を真
い う こ と な の か︒
﹁授 業 で や
理 解 で き る﹂︒そ れ は︑ど う
られているのかを割と素直に
てみると︑日本の古代の歌垣 ﹃意 味﹄に 自 分 が ど れ だ け 縛
人 が 多 い︒例 え ば︑
の枠を対象化できる
印 象 を 伺った︒
﹁既 成
最 後 に︑共 立 生 の
る︒
れ た 写 真 が 載って い
に は︑奥 様 が 撮 影 さ
日本文学演習Ⅰ︑日本文学演
教養講座︑日本文学各論C︑
▽本学部では︑表現技法Ⅰ︑
い﹂
︵戸塚︶
で︑自 分 を 創って い け ば い
って く る か ら︒そ う い う 中
分が生きていく方法ってわか
も︑周りとの関係の中で︑自
こ と も︑も ち ろ ん あ る︒で
い︒怒られることも︑傷つく
ず に︑そ こ に 飛 び 込 め ば い
でいいと思う︒だから︑恐れ
どわからないんだよね︒それ
低修得単位数を見落としてはい
教養教育科目など︑科目毎の最
い︒総単位数に気をとられて︑
状況を今一度確認してくださ
残されているうちに︑単位修得
から︑三年生の学生生活がまだ
ば﹂元も子もありません︒です
な が ら そ れ は﹁卒 業 し な け れ
までのことと考えるべし︒でな など概ね好評なようです︒新サ
︵斉藤︶ と︒それも三年次の夏休み明け 地域の特性を活かしたサービス
いる学生もいるのではないでし 冊でも楽しんで読めるようにな 実習取り止め已む無しとの考え て身近な千代田区立千代田図書
ら夏休み前から就職活動をして
ければ︑何が何でも実習を果た ービスとしてコンシェルジュを
出すことは非常に良いことだと です︒読書の秋を満喫してみま ﹁教 育 実 習 放 棄﹂を 決 断 す る こ 情報技術を駆使したサービスや
ょうか︒
今年もあとわずかですね︒
思います︒しかし︑当然のこと せんか?
に向けて前々から計画的に動き
来年春から文芸教養コースに 反 故 に す る こ と な ど 許 さ れ ま は当然です︒指定管理者制度の
そんな学生は︑是非大学
と︑もっと強まるでしょう︒
で す︒卒 論 を 書 き 上 げ る
になった四年 生がいるは ず
︵沼田︶
地方公共団体等に限定されて メ! 講座でスゝメ!﹂です︒
かもこの経済不況下に殊のほか 間にも可能にしたのが指定管理
芸学部の専任となられた︒
の に 惹 か れ る 自 分 が﹃万 葉
族の間では︑歌を掛け合う習
習Ⅱ︑卒業論文ゼミナールを
く燃え上がってる中︑肩を組
ーストームに火を点けて︑高
半分ぐらいの直径のファイヤ
が山だった︒学園祭で︑校庭
ろ う か︒
﹁高 校 は︑周 り 全 部
い﹂
す︒多くの人に参加して欲し
合宿も旅行もやっているんで
大きかった︒だから僕は今︑
た長野県岡谷市︒
んで走り回ったんだけど︑そ
っていれば︑作業もしやすいで も あ ろ う︒就 職 活 動 と 教 育 実 館も一昨年五月に指定管理者制
卒論に取り組みながら︑
か らで は 難 し く なって し ま
院に来て く ださい︒働いて
たいという思いを抱くよう
できればもっと勉強してい
配置︑本探しの手伝いから観光
入試は来年二月︒
︵半沢︶
ば︑存分に勉強ができます︒
家庭の事情さえ許すなら
います︒鉄は熱いうちに⁝︒
実習前年度半ばまでには︑実 やイベントの案内など地域の案
す︒
時代の移り変わりとともに図
習生の配属クラス︑指導教諭の 内にも力を入れています︒
決定など︑既に準備万端整って
いるそれを︑学生の自己都合で 書館の在り方も変化していくの
ませんか︒英文には必修︑選択 進む一年生の皆さん︑もう大学 い︒直前の取り止めで最大の害 問題点も理解したうえで新サー
光陰矢のごとし
︿文芸教養﹀
秋は様々なことに適した季節 頭を過ったら︑迷わず在学中の 利用を大幅に増やしています︒
卒業後の進路を考えて︑それ すし︑いいですよね︒
習︑どっちを取るか︑万に一つ 度を導入してリニューアルし︑
大学院文芸学研究科情報
生まれ育った環境は︑先生
集﹄を研究するようになって
俗が残されているそうだ︒
ゃ混ぜの文章が作れるという
お生まれは︑諏訪湖に面し
のご研究に繫がっているのだ
いったのは︑そういう機会が
その後︑大学院に進まれ︑
ご担当︒
そして卒論執筆の際には︑何 厳しいとなれば︑それが理由の 者制度です︒共立の学生にとっ
の皆さんの中には︑もしかした ょう︒
が早くなってきていて︑三年生 むという習慣をつけておきまし いって過言でない就職活動︒し いた公共施設の管理・運営を民
が︑今は就職活動を始める時期 す︒たくさん手にとって本を読
業 に 向 け て 動 き 出 し て い ま す 読 み た い も の で い い と 思 い ま は︑実施直前の実習取り下げ︒
﹁新 サービ ス
ですから︑今のうちから読む から︒心構えも︑実習年度の事 進 む 民 間 参 入﹂
ふと開いた全国紙に﹁図書館 使う﹂に如くはなし︒
男女が結婚していくお祭り︒
歌っている場面に出くわした
が付き合うとき︑意味を重視
そして︑共立生へのメッセ
何とかなろう︑履修者の本務だ
自分の感情やなかなか言葉に
とき︑男が一人でビデオを回
と て も ス ムーズ に い
ージ︒
﹁学 生 時 代 は ま だ 狭 い
もう十一月︒今年も終わりに にもなりかねません︒
できないような相手への思い
し始めたら︑彼ら︑逃げます
も卒論︑そしてその先にある卒 恋愛小説でも︑推理小説でも︑ 想 像 以 上 に 大 変 で あ る︒問 題 ス︵全国の公立図書館の
ろう
をどう表現するのかというと
するだけではまずいんだ︒そ
こう
ころに興味があった︒ところ
よ︑普通︒ところが︑女性が
えん どう
のうちに︑言葉では言い表せ
が︑今までの研究史を押さえ
遠藤
﹁僕 は ずっと︑指 揮 者 に な
ない陶酔した気分になってき
った﹂と の こ と︒先
こに気付けるということ﹂
内面をどのように表すの
生の近著﹃古代の歌﹄ から︑異文化のことはほとん
て︒この体験は︑人間の
かを考えていく︑その基
をやるっていうのは︑言葉で
うまく言えないところが好き
になってると思う﹂
6
こと︒それって︑今の文法で
低く響く︑心地よい語り口
なんだろうな﹂
1
現在も毎年︑中国に行かれて
い る こ と に よって︑
りたかった︒やっぱり︑音楽
た
入生だったため︑参加申し込み るに/うら悲し﹂と詠んだフラ
と︑ここまで書いておきなが
とない機会です︒
生方との親睦も深められるまた
を再確認したりと︑中身は実に
濃く︑また︑参加した仲間や先 ︿フランス語フランス文学﹀ す︒我々研 究 室 の ス タッフ も い こそ︑その刺激を自ら捉まえに の 作 品 な ら 大 抵 知っている︑毎 しているのが﹁劇団夢彩色﹂で 四年生になったら︑卒論の執筆
ゆかりの文学者についての知識 勉強もしますよ︒
の歴史や風土の見聞をしたり︑ 緒に楽しみましょう︒もちろん 心のアンテナを常に大きく広げ いない︒単に季節的な話ではな
日本文学の舞台となった土地 さんもぜひ参加して下さい︒一 も時間が自由になる時期︑好奇 のは︑この時期たいへんもった
スの伝統行事です︒
行は︑三十年近く続く日文コー 修者なら︑学年やコースを問わ の過ごし方にかかっています︒
行を行っています︒この研修旅
毎年三月に︑二泊三日の研修旅 ます︒
2009 年(平成 21 年)11 月 1 日(日)(4)
共 立 女 子 大 学 文 芸 学 部 報
第 111 号