Modern Architectural Theory: A Historical Survey

近代建築理論研究会
2012.7.11 山岸吉弘
Modern Architectural Theory: A Historical Survey, 1673-1968 読解
使用テキスト:Harry Francis Mallgrave, Modern Architectural Theory: A Historical Survey, 1673-1968 , Cambridge University Press, 2005
■担当箇所
6 COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY
1. The British Style Debate 1840-1860
2. Viollet-le-Duc and the Debate in France
3. Gottfried Semper and the Idea of Style
■各節の論構成(上:第 1 節、下:第 2 節)
ⅰ導入
ⅰ導入
ⅱさまざまな議論
ⅲ万国博覧会の開催
コールの出現
ⅳラスキンの出現
ⅱヴィオレ = ル = デュクの
ⅲデュクの建築理論
ⅳデュクの建築理論
登場と活躍
(形成過程)
(発展・展開)
和文要約
1.1840 〜 1860 年における英国様式論争
<ⅰ導入>
ⅴまとめ
ⅴまとめ
凡例
・< >および【 】は要約者の注記。 ・下線の部分については補足あり。
・文中の○番号は要約箇所を示す。 ・太字は人物などについて補足あり。
① 1820 年代から 1840 年代のドイツ人建築家による様式に関する活発な論争は【前章を参照】
、同時代のイギリス
人建築家の間に広まる不穏な空気と並行するが、イギリスにおける議論は幾分異なり比較してあまり哲学的でない。
②そして、イギリスの議論における背景にはもちろん同国の先進的な工業化があり、1851 年の芸術と科学に捧げら
れた最初の万国博覧会でそれ(工業化)は結実する。
<ⅱさまざまな議論(ゴシック主義・折衷主義・ルネサンス主義…)>
【様式 - 1:ゴシック主義】③ケンブリッジ・カムデン協会(1843-)は教会主義者(ecclesiologist)であり、「ゴシッ
ク建築が唯一の教会建築である」と主張をしていた。④ 19 世紀の中頃までのイギリスにおけるゴシック・リバイバ
ルの風潮は、教会主義者が支配していたが、1852 年のウェルビー・ピュージン(1812-1852)没後は目立って後退
していった。ピュージンに代わるゴシック党として重要なジョージ・ギルバート・スコット(1811-78)は、ロンド
ンでも比較的に大きな建築事務所を構える建築家(出自は宗教家、つまり教会主義者)で、彼のゴシック建築に対す
る見解は、一つ目に復元(復元を忠実に行うこと)
、二つ目に現代(ゴシックの形態が現代的な要請に応え得ること)
の観点であった。
【様式 - 2:折衷主義】⑤トーマス・ホープ(1757-1820)の折衷主義の立場を明確にした著作は
有名であり、歴史家のピーター・コリンズが指摘してるように、今日の「折衷主義」の用語における軽蔑的な意味合
いではなく、創造的かつ現代的な過去の折衷であった。【様式 - 3:ルネサンス主義】⑥ルネサンス様式はウィリアム・
ヘンリー・リーズ(1786-1866)により擁護され、チャールズ・ロバート・コックレル(1788–1863)の設計で実
際に用いられた。⑦より記憶されるべき議論の一つはジェームズ・ファーガソン(1808-86)により 1850 年に始め
られた。⑧彼はゴシックと古典復古主義の両方に対して「常識主義の様式」という独特な議論で立ち向かう。それは
新しい形態と模倣の実践という中道を行くものであった。⑧同時期のエドワード・ラシー・ガーベット(-1898)は、
様式と構造は一体であり(ゴシック様式にはゴシック建築の構造)
、形態の模倣は偽りと考える。⑨彼の構造に関す
る推論は、イギリスで僅かに注目されていたようだ。1850 年秋のロンドンは翌年の大博覧会に関心が高く、
「建築芸
術」は他の応用芸術に加わるという地位から脱落し、「建築工業術(indusrial art)」になったと言われた。
<ⅲ博覧会とコール>
⑩大博覧会の議論において、建築史家は主に鉄とガラスの建築に焦点を当てるが、理論上の博覧会の効果がいくつ
かの点で誤解されている。⑪クリスタル・パレスは、
「本質的かつ普遍的に、人は工匠・職人・芸術家である」こと
を示したと言われた。⑫ヘンリー・コール(1808-82)はそのような人物である。多くの点で典型的なヴィクトリア
ンである彼は、⑬ 90 以上の芸術学校や美術館を運営し、そこで行われた教育と展示のモデルはヨーロッパ全土に広
まった。コールの業績は装飾芸術の市民権に対する基礎を築いたことにあると言われ、反対に堕落した芸術教育を回
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復させるのに 20 年を要するとも言われた。
<ⅳラスキン>
⑭コールを批判する一人がジョン・ラスキン(1819-1900)に他ならず、イギリスの論争はここにおいて新たな別
の局面に入ることになる。ラスキンの影響は多大であり、1849 年の『建築の七灯』の出版は建築を取り巻く情況に
衝撃をもたらした。⑮彼は中世の作品に対する視覚的な熟考により建築を理解していた。⑯装飾が概念のその中心に
はあった。⑰ラスキンが提案した装飾理論は表面的ではなかった。⑰装飾に関する根本的な問い、喜びをもってそれ
はなされるか?⑱『ヴェニスの石』
(全三巻、1851-3)の二巻には、
「ゴシックの本質」という重要なエッセイが含
まれており、後のアーツ・アンド・クラフツ運動のマニフェストとして機能した。⑲ゴシック装飾は自由な発明で、
生命の記号で、職人の幸福の証拠であるというラスキンの視点は全く新しかった。
<ⅴまとめ>
⑳修辞の領域においてコールはラスキンと戦うことはできなかった。現実主義者のコールは機械や新たな経済的・
社会的要請を抱え込み再編しようとした。感覚主義者のラスキンは変化を傍観していたが、それは 1849 年に対する
批判を主張していたのであった。
2.ヴィオレ = ル = デュクとフランスにおける論争
<ⅰ導入(フランスの情況)>
① 19 世紀中葉の英国理論におけるラスキンの重要性と、ヴィオレ = ル = デュクの影響によるフランスの情況は、よ
く類似した。②フランスでも、ゴシックの作品は 18 世紀を通じてさまざまな建築家に賞賛されていたが、それはほ
とんど構造的な有効性に対するものであり、ドイツやイギリスでみられたロマンティックな感覚は、革命という厳し
い現実により現れなかった。
<ⅱヴィオレ = ル = デュクの登場と活躍>
③ 1830 年代のゴシック運動の勢いを増大させたのは、ヴィクトール・ユゴー【詩人、小説家、劇作家】、フランソワ・
ギゾー【政治家、歴史家】
、プロスパー・メリメ【作家、文化財保護監督官】の三人であった。④メリメはヴィオレ =
ル = デュクの家族と親しく、若いヴィオレ = ル = デュクを育て、後にはデュクの友人の一人になった。⑤ヴィオレ =
ル = デュクは建築を志すがエコール・デ・ボザールへ入学せず、イタリアなどを旅行し、1837 年の帰国後は建築事
務所に勤めるが、3 年後、
(メリメの執り成しにより)26 才の建築家としてのデュクはヴェズレーのマドレーヌ寺院
を修復する委員会に推薦された。⑥数年以内に、
才能のあるヴィオレ = ル = デュクはフランス保存運動の主導者になっ
ていた。彼はマドレーヌ教会で経験を積み、そこは中世建築に関する考えを発展し試す実験室となった。
<ⅲヴィオレ = ル = デュクの建築理論と形成過程>
⑦ヴィオレ = ル = デュクが、彼の興味を建築理論に向けた最初は 1840 年代半ばであった。⑧論文「フランスの地方
建築における構造について、初期教会から 16 世紀まで」は伝歴史的な内容ではないが、ヴィオレ = ル = デュクがよ
く知る二つの建築【マドレーヌ寺院とノートル = ダム・ド・パリ】に焦点を当てることにより、歴史の構想を示して
いる。⑨ヴィオレ = ル = デュクにとってのゴシック建築は、平衡(材料のこれまで以上のより適切な使用に起因する)
の中にヴォールトの力が展開することのより適切な理解を起源とする、ほとんど神がかった【理論(構造解析)的で
はないという意味?】構造的な仕組みである。⑩レオンス・レイノー(1803-1880)は 1834 年に「建築」を記し、
「建
築の発展は構造的・技術的な発展」であり、建築は常に構造的効果の高い方に変化する、という。⑪レイノーの批判
は 1850 年代のヴィオレ = ル = デュクの位置付けを明確にする。⑫ 10 巻の中世建築辞典(
『11 〜 16 世紀フランス
建築の中世事典』
(1854-68)
)は、19 世紀の偉大な歴史的著述の一つとして存在する。⑬ヴィオレ = ル = デュクは、
レイノーの批判にも関わらず、ゴシックの様式を歴史的に特別視して扱った。⑭【ヴィオレ = ル = デュクにとって、】
「様式」の考えは主要な概念である(しばしば歴史家の「様式」と異なる)。様式は統一と調和の視覚的な記号である。
様式は自然に、或いは自然の法則に従って、発展する。⑮今や彼の理論は科学的機能主義ではなく理想化されたもの
を定義するためのものである。
<ⅳヴィオレ = ル = デュクの建築理論とその発展・展開>
⑯彼の理論的な展開は、鉄の使用に関する内容の第一講で明確になる(1866 年から 8 年にかけて執筆された)
。⑰
記念碑的芸術は、優美な外観を、調和の取れた比例を、優雅な形態を、独自の性質と印象を見せなければならず、材
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料との闘争や力と重さに対する抵抗を表すことになる全てを隠さなければならない。明らかに鉄は後者の範疇に含ま
れ、視覚的な使用は制限されなければならない。⑱ヴィオレ = ル = デュクは、どのように鉄を現代的な実践の中で視
覚的に導入するかを、建築家は新しい技術と構造の効果を取り込むことによって対応すべきことを、主張する(本文
の Fig.45(p.131)を参照)
。⑲ヴィオレ = ル = デュクは、屋根構造における鉄材の利用について、幾つかの作品を提
案する。理論的には美しいが、建築学的解決には現実性を欠いている。本文
<ⅴまとめ>
⑳ヴィオレ = ル = デュクの業績について現在は再評価の途上にあり、機能主義者としての彼の評価は一面的に過ぎる。
およそ彼は合理主義者の理論というフランスの流れを明瞭にした。彼の偉大な後継者であるオーギュスト・ショワジー
(1841-1904、エンジニアであり教師である)の著作『建築の歴史』
(1899)は、ヴィオレ = ル = デュクの理論的な
構築は良い建築のエッセンスであるという信念に、一致した証言である。ヴィオレ = ル = デュク以上にショワジーに
とって、建築の歴史は技術的な発展であり、良い形態はいつも機能の直截な表現である。高名なラブルーストの国立
図書館の読書室について、ショワジーは「比例の新しいシステムは創造されつつあり、調和の法則はまさしく安定の
法則である」と主張した。ヴィオレ = ル = デュクは彼の存在以上にうまくそれを言うことができなかった。
凡例
・- は問題設定。
・→は考察など。
■マルグレイブの意図(1)
:第 6 章の構成
- 第 6 章のタイトル “COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY”(世紀中葉の競合する志向性)の意味するところは?
→第 3 節の読解後に明確になる…?
■マルグレイブの意図(2)
:コール対ラスキン
- 第 1 節は、コールとラスキンを対照的に位置付けるが、ラスキンが中心か?
→コールは、大博覧会を企図した中心人物の一人。
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「数々のコールの仕事の中でも最も有名なのは、世界初の万国博覧会の仕掛け人」・「デザインの分野では、それま
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での装飾過多なものから機能的でシンプルな美しさを持ったデザインを提唱し、インダストリアル・デザインの
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流れを作った」
・
「デザイン学校の設立とデザインの教育の改革にも力をいれ、今日のイギリスのデザイン教育の
基礎を築いた」
(村上晃子・矢島國雄「ヘンリー・コールとサウス・ケンジントン博物館」)
→ラスキンは、批評家。美術・建築を中心に、社会、経済、政治問題にも執筆を行う。主著に『現代絵画論』など。
- コールとラスキンの比較を、大博覧会という具体的な事件を通して行う。水晶宮に対する理解の誤りとは。
→展示品は前近代的、建築(水晶宮)は近代的という見方。本文中の水晶宮に対する誤解とは?
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「大博覧会の研究が始まったのは 1950 年代からであり(略)ペヴスナーによる「装飾過剰な展示品」と、それと
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は「対照的に近代的な建築物である水晶宮」という評価(略)90 年代から現在にかけて、博覧会はさらに多彩なテー
マ下に研究されている」
(竹内有子「水晶宮の展示 1851 年大博覧会とヘンリー・コール 」)
- 大博覧会からコールとラスキンの「建築論」比較を行うことができるか?
→コールの「建築論」が不明確。コールは建築ではなくデザインが専門。ラスキンも多様な人間であり、比較不可能?
→コールとラスキンが同じ土俵に乗りうるのは「展示学」においてか。本文中のコールに対するラスキンの批判とは?
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「何よりも彼は(略)サウス・ケンジントン博物館の雑多な展示法には批判的であった」(堀川麗子「ジョン・ラスキンの
展示学」
)
→サウス・ケンジントン博物館は大博覧会後にコールが開く。
- ラスキンの「建築論」の核心は?
→『ヴェネツィアの石』第二巻の内「ゴシックの本質」にある。
「ラスキンは建築について言うべきことのすべてを要約している」
(モリス『理想の書物』
(孫引き)
)
・
「ゴシック
建築の様式の特徴を語るだけでなく、中世の職人と近代における工場労働者の仕事の質を対比的に論じ、後者の
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問題を痛烈に批判したうえで、
「労働における人間の喜びの表現としての芸術」の理念を示した」
(川端康雄「訳者解説」
『ゴシックの本質』)
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■マルグレイブの意図(3)
:ラスキンとデュクの扱い
- ラスキン対デュクの構図を採用しなかった理由は?
→ラスキンとデュクはいずれもゴシックに傾倒したという共通点を持つ。ペヴスナーが対置する。
「ヴィオレ・ル・デュクが歴史的に占める重要性が新しい建物に関するものであったのに、ラスキンのそれは
振るい建物に関してなのである。さらに言うなら、ヴィオレ・ル・デュクのゴシック様式への接近のしかたは
ラ シ ョ ナ ル
エ モ ー シ ョ ナ ル
合理主義的であるのに、ラスキンのそれは環状に訴えるものである」(ニコラウス・ペヴスナー / 鈴木博之 訳『ラスキンとヴィ
オレ・ル・デュク』
)
■マルグレイブの意図(4)
:ヴィオレ = ル = デュクの建築論
- ヴィオレ = ル = デュクの建築理論は空論か。
→古典主義建築を超える建築理論の探求がヴィオレ = ル = デュクのテーマ。
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「構造の理論性と論理的発展を基軸として、中世建築こそ構造と表現とが一致する正しい建築、すなわちギリシア
建築に忠実な建築であることを示そうとした」(飯田喜四郎『ゴシック建築のリブ・ヴォールト』)
「過去の様式を模倣するのではない合理的な建築こそが新しい時代の建築(略)中世建築の中ニ埋没してメランコ
リックな感傷にひたる懐古主義者ではなかった(略)ゴシック建築の主要部分がすべて構造的意味のあることを
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解明し、時代を超えた「良い建築」とは合理的建築なのだ」
(羽生修二『ヴィオレ・ル・デュク 歴史再生のラショナリスト』SD
選書 218)
- 鉄の利用は矛盾するか。
→ヴィオレ = ル = デュクは、当初は鉄の利用に消極的か。
「
(サントゥージェーヌ教会堂は全体として)、鉄とゴシック様式の融合(略)高く評価されていた(略)この記事
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(加藤耕一「サント = ジュヌヴィエーヴ図書
に即座に反応して激しい調子で反論したのがヴィオレ = ル = デュクであった」
館の鋳鉄の支柱とゴシック建築の支柱の関係 1850 年前後のパリに建設された 3 つの建築をめぐって 」)
■ヴィオレ = ル = デュクの修覆
マドレーヌ寺院:修復前(左)と修復後(右)
ノートル = ダム・ド・パリ:修復前(左)と修復後(右)
ピエールフォン城:修復前(左)と修復後(右)
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■ヴィオレ = ル = デュクのゴシック建築に対する理解
「リブ」が構造的発展の要になる(飯田喜四郎『ゴシック建築のリブ・
ヴォールト』)
・ヴォールは壁体により支持される。
・リブが荷重を担い、曲面天井は化粧になる。
・リブに集中する加重を一部の壁体(=柱)が受ける。
・残りの壁体部分は荷重から解放され、窓になる。
・柱に加わる力をフライング・バットレスで補強する。
→リブが喪失しても天井が崩落しない事例が存在する。
(建築修覆の現場から得られる知識)
→単純に区別できるものではない(静力学から?力学へ)
→当時の工匠は、デュクと同じようにリブが荷重を支える構
造材と考えていた。
■人物(※参考、Wiki などウェブ情報)
ウェルビー・ピュージン:イギリスの建築家。1834 年にカトリック教会に改宗してからは、ゴシック建築により情熱を傾けた。そのゴシック建築は、
もっとも高貴な「第二期尖頭式」の、すなわち 13 世紀後期から 14 世紀初期のスタイルのものでなければならないとしていた。1836 年に出版した
本『Contrasts』で建築界に広く知られるようになった。初期のネオゴシック様式の教会とは違って、ピュージンの教会は考古学的に正確なものであ
るものが多いが、塔の配置などは非対称的であり、これが英国の 19 世紀の教会デザインにみられる意図的な非対称性の先駆けとなった。
ジョージ・ギルバート・スコット:主に教会、大聖堂と労役場の設計、建物と改築に関連付けられているビクトリア朝時代の英国の建築家であった​​。彼
は、英国の 800 もの建物をプロデュースし建築したもっとも多彩な建築家だった。スコットは、セントパンクラス駅のミッドランドグランドホテル、
アルバート記念碑、そして外務連邦省、グラスゴー大学の主要な建物、そしてエジンバラのセントメアリー大聖堂など、多くの象徴的建物を建築した。
トーマス・ホープ :Dutch and British merchant banker, author. In 1809 he published the Costumes of the Ancients, and in 1812 Designs of Modern
Costumes, works which display a large amount of antiquarian research. A Historical Essay on Architecture, which featured illustrations based on early
Hope drawings, was published posthumously by his family in 1835. Thus Hope became famous in London’s aristocratic circles as ‘the costume and
furniture man’. The sobriquet was regarded as a compliment by his enthusiastic supporters, but for his critics, including Lord Byron, it was a term of
ridicule.
チャールズ・ロバート・コックレル :Cockerell had grave doubts about the wisdom of using Greek Revival architecture in nineteenth-century England.
ジェームズ・ファーガソン:建築史家。有名なフレッチャーの『建築史』よりも 30 年も早く浩瀚な『世界建築史』を出版した人であって、その深い建
築的思索と広く読まれた著作群とによって、ローマ時代のウィトルウィウスにも比された人物である。彼は大学で建築を学んだのではなく、ロンド
ンの高校を卒業したあとは全く独学で建築を学び、自費で世界の建築を調査研究した著作家である。アカデミズム出身の建築史家ではないわけだが、
しかし当時は建築家になるのもまた大学においてよりは建築家のアトリエで徒弟修業したことを考えれば、それほど不思議なことではない。ファー
ガソンが最初に書いた本格的な理論書は、1849 年の『芸術、とりわけ建築美に関する正しい原理への歴史的探究(An Historical Inquiry into the
True Principles of Beauty in Art, more Especially with Reference to Architecture)』。
エドワード・ラシー・ガーベット:English architectural theorist. The author of Rudimentary Architecture for the Use of Beginners and Students, the
Principles of Design in Architecture as Deducible from Nature and Exemplified in the Works of the Greek and Gothic Architects (1850), he argued
that style was linked to construction, and saw that modern methods of building would lead to a new non-Historicist style.
ジョン・ラスキン:イギリスの批評家。ロンドンの富裕なぶどう酒商の家に生まれる。父についてヨーロッパ大陸を訪ね、美しい風景や優れた美術、建
築に接する機会に恵まれたことが彼の将来を決定した。オックスフォード大学を卒業。1842 年王立美術院のターナーの作品が世評の攻撃を浴びたの
を弁護する目的で書き始めた『近代画家論』5 巻(1843 ~ 60)が彼の主著となった。ターナーやラファエル前派運動の理解者であった彼が、1877
年のホイッスラーの作品を今度は攻撃して名誉毀損(きそん)の罪に問われ、美術界での権威を失ったのは運命の皮肉であった。その間『建築の七灯』
(1849)
、
『ベニスの石』3 巻(1851 ~ 53)などヨーロッパ建築に目を向けた彼は、それらの基礎を支える労働者の生活に関心を示し、実践的立場
からの社会、経済、政治問題にも健筆を振るった。『この最後の者にも』(1862)はその方面での代表作。(前川祐一)
ヴィオレ = ル = デュク:フランスの建築家,建築史家。若年のころから,いまだ世に顧みられなかった中世建築に興味をひかれ,フランス各地を巡歴,
デッサンを残す。1836 ~ 37 年のイタリア遊学ののち,パリのサント=シャペル,ヴェズレー大聖堂,パリのノートル=ダム大聖堂,カルカソンヌ
の市壁などの修復を手がけて好評を博し,メリメの推輓(すいばん)もあずかって,53 年,教区建築総監督官に就任,以後フランス各地の歴史建築
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物の修復に大きな影響を及ぼした。ただし,ゴシッ
ク式建築の理想形を求めて彼自身が設計したパリ
のサント=クロチルド教会のあまりに端麗な建造
にうかがえるように,彼の修復法は現状から出発
する忠実な修理・復元というにはやや遠く,中世
建築術の技法をもとに彼自身の推論を加えた想像
的な改築に近い,という批判も浴びている。63
年,国立美術学校(エコール・デ・ボ・ザール)
の美学・美術史教授に就任しながら,学界の攻撃
によって翌年テーヌに席を譲ったのも,その理由
によっている。主著は,
『中世フランス建築事典』
Dictionnaire raisonné de l'architecture française
du XIe au XVIe siècle(10 巻,1854 − 69)。 彼
はこの中で個々のディテールの描写にとどまらず,
中世各期の建築原理とその変遷の考察にも努めた。
その視点は,したがって文明史的となり,家具・
武具・服装から生活用品にまで及ぶ『中世フラ
ンス調度事典』Dictionnaire raisonné du mobilier
français(6巻,
55)の中に反映されている。また,
デッサンの才能に恵まれていたので,前記2著を
はじめ,ほかに『ある家屋の歴史』Histoire d'une
maison(73)
,
『ある城塞(じようさい)の歴史』
Histoire d'une forteresse(74)など,建築史を中
心とするその著作には自身の筆になる精密な挿図を
多数収録している。
(月村辰雄)
国 立 図 書 館 の 読 書 室:Reading room of the Bibliothèque Nationale,
Paris, by Henri Labrouste, 1860–67.
■参考文献
(第 1 節)
・ 竹内有子「水晶宮の展示 1851 年大博覧会とヘンリー・コール 」『表
現文化研究』第 4 巻第 2 号、神戸大学表現文化研究会、2005.3。
・ 村上晃子・矢島國雄「ヘンリー・コールとサウス・ケンジントン博物館」
『明治大学学芸員養成課程紀要』、明治大学学芸員養成課程、2005.3。
・ 堀川麗子「ジョン・ラスキンの展示学」
『愛国学園大学人間文化研究
紀要』第 8 号、愛国学園大学、2006.3。
・ ジョン・ラスキン / 川端康雄 訳『ゴシックの本質』、みすず書房、
2011.10。
(第 2 節)
・ E.E. ヴィオレ = ル = デュック 著 / 飯田喜四郎 訳『建築講話』、中央
公論美術出版、1986.4。
・ 飯田喜四郎『ゴシック建築のリブ・ヴォールト』、中央公論美術出版、
1989.2
・ ニコラウス・ペヴスナー / 鈴木博之 訳『ラスキンとヴィオレ・ル・デュ
ク—ゴシック建築評価における英国性とフランス性—』
、中央公論美
術出版、1990.3。
・ 羽生修二『ヴィオレ・ル・デュク 歴史再生のラショナリスト』SD 選
書 218、鹿島出版会、1992.12。
・ 加藤耕一「サント = ジュヌヴィエーヴ図書館の鋳鉄の支柱とゴシッ
ク建築の支柱の関係 1850 年前後のパリに建設された 3 つの建築を
めぐって 」
『日本建築学会計画系論文集』第 611 号、日本建築学会、
2007.1。
・ 阿部良雄「歴史と構造 ヴィオレ・ル・デュク試論=連載Ⅰ」『エピス
テーメー』12 月号、朝日出版社、1978.12。
■図版出典
・ 羽生修二『ヴィオレ・ル・デュク 歴史再生のラショナリスト』SD 選書 218、鹿島出版会、1992.12。
・ 阿部良雄「歴史と構造 ヴィオレ・ル・デュク試論=連載Ⅰ」『エピステーメー』12 月号、朝日出版社、1978.12。
・(ウェブから拝借)
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