第7回(6/25) パリの都市改造(オスマニザシオン) — 国家予算1年分の

横浜市立大学エクステンション講座
エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第7回(6/25) パリの都市改造(オスマニザシオン)
— 国家予算1年分の巨費の投下 —
1 パリの発展の条件
(1)都市発展の観点からみたパリの特異性
パリの諸問題を考察するとき忘れてはならないことは、この町が二千年の歴史を有
し、そのほぼ全期を通して歴代国家の政治的中心でありつづけたということである。
長い歴史をもつ都市は過去のしがらみを引き摺っていく。そのため、パリは「古代都
市」から、ついで「中世都市」からの脱却をしなければならなかった。端的にいって、
アメリカやシベリアにおける新都市の建設とは事情を異にする。
ケルト系パリジイ人がパリに定住したのが紀元前3世紀。彼らが、ここに侵入して
きたローマ軍によって追放されたのが紀元前 52 年のことである。パリはそれ以来、古
代 → 中世 → 近代 → 現代への長い道のりを、一度として破滅や灰燼に帰すといっ
たカタストロフィーを経験せずに歩みつづけてきたのである。
この連続性がパリの特異性を構成する第一の要素である。その連続性の要因をつき
つめていけば恵まれた自然的条件ということになろうが、諸事件との絡みあいのなか
でパリは都市として3つの機能を、つまり政治的機能、文化的機能、商業的機能をも
つにいたる。
(2)恵まれた自然的条件
パリの持続的発展を支えた要因については自然的条件と社会的条件に分けて考察す
る必要がある。まず、恵まれた自然的条件から述べることにしよう。
その一つは、ここが豊穣の地であるということである。パリは広大で肥沃な盆地の
中心に位置する。この盆地の面積は約 18 万平方キロメートルで、国土の3分の1、日
本の総面積の半分ほどに相当する。丘地はあっても高山はなく、その平均高度は 178
メートル。大西洋岸に近いことから気候は温暖かつ湿潤で、しかも土質の点で穀物と
くに小麦の栽培に適していた。盆地の北東部イル=ド=フランス、西南部のボースのい
ずれも、フランスはもとよりヨーロッパ有数の穀倉地帯である。ローマ軍が侵入し、
ついでフランク族がここに居を定めたのもそのためである。パリの運命はこの豊穣の
地とともにあり、フランス王国の歴代王朝がここに本拠地をおき、数々の内憂外患を
克服できたのも、この地に備わる経済力のおかげといえよう。パリは政治的中心にな
ることを宿命づけられていた。
第二の有利な自然的条件は、ここが要害の地であったことである。パリ盆地自体が
ケスタ地形をなし、パリはそのほぼ中心核に位置している。ケスタ地形は外側に急峻
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な崖を向けた同心円構造もち、パリ攻略を目指す外敵にとって攻めにくい天然の要害
をなしていた。また、パリを東西に貫くセーヌ川に川中島があって、ここは陣地を築
くのに好つごうであった。すなわち、この島は長さ1キロメートル、幅 300 メートル
弱もあり、人が居住するに十分な広さがあり、ここに「シテ」
(囲繞都市の意)が築か
れた。じっさい、シテ島は難攻不落の要塞となってフン族、7次に及ぶノルマン来襲
にもち堪えた。
第三の恵まれた自然的条件は、パリが有力諸河川の合流点に位置し、河川交通の要
衝の機能を備えていたことである。つまり、セーヌ、マルヌ、オワーズ、ヨンヌ、ロ
ワンの5つの河川がパリの近傍で合流しており、古来、この町を中継地とする河川交
易が盛んであった。かくて、セーヌ川はしばしば「パリの母」にたとえられる。セー
ヌ川は年間を通して豊かな水を湛え、しかも流れは緩やかであった。河川は穀物の輸
送はもとより、木材、石材(パリのかつての名産)
、塩、錫、樽酒の輸送にも適してい
た。すなわち、パリは集散的商業の中心都市としての成長を約束されていた。
(3)文化都市(聖都)としてのパリ
パリの発展はその文化的特異性を抜きにしては語れない。パリが宗教都市、文化都
市であることだ。パリとキリスト教の結びつきは、 250 年ごろにこの地で殉教したサ
ン・ドゥニの伝説とともに始まる。それは都市ローマが、そこで殉死した聖ペテロの
伝説とともに歩んだことに類似している。パリの宗教性は、5世紀半ばにフン族を撃
退したサント=ジュヌヴィエーヴの伝説でもって一挙に強まる。また、9世紀のノルマ
ン侵入に際してもパリ司教が防戦の精神的支柱となった。そうした背景に加え決定的
な出来事が生じた。すなわち、1103 年、ギヨーム・ド・シャンポーがパリ大聖堂付属
学校長に任命されて以来、パリは神学の府となった。すでに 13 世紀にヨーロッパ中か
ら学徒を集め、このころすでに、彼らだけで1万人を数えた。シテ島とセーヌ左岸の
サント=ジュヌヴィエーヴの丘は教会、修道院、学寮で埋めつくされた。
大学は国王とローマ教皇という聖俗両界の雄から二重の保護を受けて発展した。カ
ペー家の開朝(10 世紀末)以来フランス大革命にいたるほぼ一千年のあいだ、王権と
教皇権はおおむね良好な関係にあり、そのことがフランス国家の持続的拡大の基礎と
なっていた。パリの大学こそ、聖俗両権の蜜月状態の象徴でもあった。
(4)パリと王権の依存関係
パリの特異性を語るばあい、その首都機能の長期持続、とくに、それを支えた王権
との強い依存関係についてふれなければならない。パリは古代ローマ帝国のガリア支
配の拠点となって以来、西フランク王国、フランス王国の政治的中心でありつづけた。
歴代王朝によって踏襲されるこの機能はパリの成長にとって不可欠の要素となった。
長い歴史過程でときおりあらわれる王権の衰退がきまってパリの衰退を道連れにした
こともこのことを証明する。
パリと王権の濃密な依存関係は反面において、中世のフランドルやドイツの諸都市
がもったような市民自治をこの町から奪うことになった。自治権の観点からみて、こ
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れら北西ヨーロッパの諸都市は例外的であり、パリと比較するのは無理としても、パ
リは、フランス国内のボルドー、アンジェ、プロヴァンスの諸都市などが有していた、
憲章に基づく自治特権すらもっていなかった。このため、古くは 14 世紀のエティエン
ヌ・マルセルの乱(1358 年)
、マイヨッタン暴動(1382 年)など、パリは幾度も王権
との正面衝突を経験している。17 世紀半ばのフロンドの乱も広い意味でこの種の事件
に入れるべきであろう。
ブルボン絶対王朝は臣民の国家と国王への無制限な奉仕を強制した。パリに対して
最上位の管轄権を有していたのは国王とその重臣たちであり、ついで国家の租税機構
の長たる財務長官、パリ市総督、ヒエラルキーのいちばん下に都市行政を担う機構が
存在した。この末端機構すら念入りにも市民自治を制御すべく、シャトレの国王裁判
所と市役所に分かれていた。辛うじて市民的要素を代表したのが後者すなわち市役所
に拠を定めたプレヴォ・デ・マルシャン[注、商人の頭、パリ市長に相当]であるが、
王権は市長の選出や官吏の選任にあたって数々の干渉- 拒否権発動による選挙妨害
- を行ったため、パリの自治機能は実質的に奪われていた。
フランス革命は自由と民主主義を標榜したが、いうまでもなくパリが運動の中心で
あった。
「恐怖政治」が頓挫したあとは、その反省から、革命や暴動の恒常的発火点た
るパリはときの政府から異常なまでに警戒されるにいたる。第一帝政はパリに市長を
おかず、皇帝が指名するセーヌ県知事とパリ警視総監の2人が市行政を担当した。市
議会はおかれず、24 名から成るセーヌ県会がその代替機能をはたした。
七月王政初期の 1834 年、パリに市会がおかれ、県知事が市会議員を指名した。行政
単位としての各区に区役所があり、それを統括するため中央市役所がおかれた。区長
のみが選挙制に拠ったが、限られた数の有権者が選べるのは候補者までであって、最
終的に内務大臣がその中から区長を指名した。
第二帝政期になると、第一帝政期と同じく垂直的行政制度が復活した。内務大臣が
指名する県知事と警視総監による二頭政治がパリの行政を受けもつことになった。前
者は一般行政を、後者が治安警察を担当したが、ライヴァル関係にある両者はほとん
ど協力することがなかった。それがなんであれ、依然としてパリに自治が与えられて
いなかったことはいうまでもない。
首都対国家 ― いいかえれば、謀反のパリに対する反動の農村 ― という対立構図
は中世から 19 世紀末にいたるフランス史を貫く基本構図である。この対立は第二帝政
のパリ都市改造で一挙に頂上にのぼりつめ、パリ=コミューンにおいて爆発する。
(5)都市計画
近代都市の特徴は空間の組織化にある。むろん、中世都市にもそれに似た試みがな
いわけではないが、意図的というよりはむしろ自然に形成されてきたといったほうが
よい。中世都市の空間秩序は教会、封建勢力、ギルドと密接に結びついている。建築
物と街路は2権力つまり教会と封建領主の関係によってその占めるべき位置(教会堂
と城)が定まり、次いで第三勢力としてのギルドのあり方によって都市の個性が刻ま
れる。ヨーロッパの中世都市の地図にはくまなくこれら3つの構成要素の利害と対抗
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関係が貫徹している。都市そのものが3要素の対立・調和の象徴であり、変化がきわ
めて緩慢であること、部外者の闖入を想定していないこと、たとえ、たまさかによそ
者が混入しても統御可能であった点が近代都市とは明らかに異なる。最初は絶対王権
の成長が、次いで産業革命がこうした秩序を打ち破り、都市に根本的な転換を迫るに
いたる。
16 世紀までのパリはおおむねこうした中世都市の構図を描いていた。王権とその盟
友たる教会勢力はどっかり市街地の中心部に居すわる。これらと従属関係にあるギル
ドが王宮と教会堂に寄り添うかたちで取り巻く。パリは大国フランスの首都であった
ことにより、その成長テンポの速かった点だけが並みの中小都市とは異なる。17 世紀
を迎えたフランスの国制が絶対主義の色合いを帯びはじめると、この成長テンポに拍
車がかかった。
パリの平和的、持続的発展は好ましい都市環境の維持の観点からすれば、必ずしも
よい条件ではなかった。つまり、パリはロンドン大火(1666 年)の復興工事に類する
再開発の機会に恵まれなかったのである。防衛上の必要から構築された城壁は街の成
長を締めつける箍(タガ)の役目をはたす。たしかに、城壁はパリの拡大に伴い6度
も撤去と再構築を繰り返したが、そのつど、街がさらに発展してすぐに元の木阿弥状
態に戻った。そうした状況下での人口増大は必然的に都市スラムをもたらした。それ
でもときおり、ルイ十四世、ナポレオン一世のような英傑が登場し、大権をふるって
都市計画に着手するが、それぞれが度重なる外征に起因する財政的破綻のゆえに、実
行は先送りになってしまう。
ルイ十四世の都市計画上の治績は以下のとおり。
カルーゼル広場、テュイルリー公園、廃兵院、ゴブラン工場、天文台、ヴァンドーム広場、グラン・
ブルヴァール(初の環状大通り)などである。ナポレオン一世の治績はルーヴル宮修復、シャン= ゼ
リゼ大通り整備、証券取引所、フランス銀行、ヴァンドーム記念塔、凱旋門、カルーゼル凱旋門、
上水道、セーヌ架橋、堤防、公設市場、と畜場、運河、墓地整理、歩道整備、地番制施行など。
ルイの場合は絶対主義君主の常として王の権威発揚にかかわる事業が中心だが、ナ
ポレオンになると、それだけでなく本来の都市計画に類する事業が顔を覗かせている。
ここで重要なことは、ルイ十四世とナポレオンが絶対的権威をもつ権力者であり、
その指揮のもとにパリ都市改造が試みられたことである。第二帝政(1852~70 年)の
ナポレオン三世も、前二者に劣らぬ強権の保持者であった。パリに限らないが、首都
造営のような大事業は国家大権に依存せざるをえないし、それゆえにこそ実現可能で
あったともいいうる。後世のウィーンも、ベルリンも、ローマもそうである。二千年
の歴史の澱を除去するには、有無を言わせない大鉈が必要であった。
2 19 世紀半ばのパリ
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(1)急激な人口増大
都市の盛衰はふつう人口の増減で示される。18 世紀後半まで間断なく増大しつづけ
てきたパリ人口はフランス革命とナポレオン戦争の余波を受けてしばらく足踏み状態
になる。やがてウィーン体制の到来とともにヨーロッパは、4半世紀間つづいた戦乱
状態から解放された。敗戦国フランスもその例外ではなく、長期平和の恩恵に浴した。
かくて、パリは再び拡大のテンポを取り戻す。七月革命と二月革命の政変は大革命時
のような長期の内戦に発展せず、パリの膨脹にとって足枷とはならなかった。
ルイ=ナポレオンが権力の座につく 19 世紀半ばのパリはすでに 100 万都市になって
いた。パリがヨーロッパ屈指の大都市であったことはいうまでもない。1850 年当時、
100 万都市はロンドン(223 万)とパリ(105 万)しかない。100 万どころか 50 万都市
とてペテルブルグしかなかったから、英仏両国の首都がいかに頭抜けていたかがわか
る。ロンドンが 1801 年から 1850 年のあいだに 2.36 倍になったのに対し、パリは 2.1
倍であるから、成長率でみるかぎり、ロンドンにけっして引けをとっていない。時期
的に 50 年ほど成長が遅れていただけのことである。大雑把ないい方をすれば、19 世紀
の初めパリは 50 万都市であったが、半世紀後に倍増の 100 万都市になり、それから 30
年で再び倍増して 200 万都市になった。この 30 年の前半というのがまさにナポレオン
三世の治世に当たり、増分の大半がこの時期に達成されたことを考慮すると、この時
期が人口統計学のうえでいかに重要であったがわかる。
パリの成長は必ずしも産業革命と軌を一にしていない。その影響がないわけではな
いが、北フランスやアルザスの新興工業都市とくらべると、パリは産業革命の波に乗
り遅れている。それにもかかわらず急成長を果したのである。
工業化と人口動態の関連についてはジャック・デュパキエの研究 ― Jacques
Dupaquier, Histoire de la population française. 4 vol. 1988. ―が詳しい。彼は
1804 年の第一帝政期から 1911 年の百年余について、人口増の著しい2地域と停滞した
3地域とを比較する。人口増の2地域とはパリ地方と、ノール県およびパ=ド=カレー
県の北仏工業地帯である。停滞3地域はアキテーヌ西南部、ノルマンディー、ブルタ
ーニュである。細かい統計は割愛するが、注目に値することは、パリ地方の伸びが新
興の北仏工業地帯のそれを上まわっていたことである。いうならば、顕著な工業化な
しの成長- これが 19 世紀前半におけるパリ人口動態の第二の特徴をなす。
第三の特徴は社会増であることだ。ルイ・シュヴァリエの研究 ― Louis Chevalier,
La formation de la population parisienne au XIX e siècle. 1950.― によれば、1836
年から 1841 年のあいだにパリ人口は 69,823 人増えた。年当たりに換算すると 13,965
人になる。そのうち自然増は 16,864 人で、残り 52,959 人が社会増である。つまり自
然増と社会増の割合は 1 対3ということになる。1836 年から 1841 年までの期間は不況
のせいで人口増にブレーキがかかっている。考察期間をもう少し長くとってみると、
これより前の王政復古期(1815~30 年)で年増率5千人程度であったものが、七月王
政期(1830~48 年)で2万人強になる。ここから、七月王政期のパリへの人口流入が
いかに激しかったかがわかる。社会増の中身は働き盛りの成年独身男子である。シュ
ヴァリエは統計的資料の残存する 1831 年から 1851 年までの 20 年間を調査し、間借人
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の増大が社会増に貢献している事実を明らかにする。シュヴァリエはこのほか年齢別
の人口動態を分析し、19 世紀前半のパリの特徴は 15 才以下と 60 才以上の依存人口の
対生産人口比率が急落したこと、1860 年以降はその低下傾向が鈍化したことを示す。
これはパリ市民の漸次的な老齢化を意味する。
第四の特徴は、フランスの他の中小都市が近隣地域から移住者を迎え入れたのに対
し、パリは全国各地から迎え入れたところにある。その多くは故郷と縁切りをした者
であって、もし不況になって失業でもすれば、たちまち深刻な社会問題を招来する。
前にふれたように、パリは基本的に職人の町であって産業革命の波に乗り遅れた町
である。伝統的に多種の奢侈品生産を得意としていたが、そこでは小規模企業が支配
的であるとともに、分業と専門化が進んでいた。こうした特質は不況時の経営的耐力
のなさに直結する。また、パリは伝統的に消費の町であり、生産都市に特化していな
い。商業やサービス(特に知的サービス)部門の比重が大きく、就業人口のかなりの
部分をこの部門が引き受けていた。さらに、移住者を受け入れた部門として無視でき
ないのが建設業であり、このころ「パリの主産業は建設業なり!」と揶揄されるほど
であった。この部門は衣料、食品に次いで多く、常時、就業人口の 10~12%を引き受
けていた。
今までの記述を要約しておこう。19 世紀のパリは全国の農村地域から、仕事を求め
てやってくる大量の未婚の成年男子を受け入れた。彼らのうち大部分がここに定住し、
やがて家庭をもち、子どもをもうける。それが第三共和政下の出生率の上昇に結果し、
社会増は徐々に自然増に転化していく。景気動向に左右されやすいパリの産業構造は、
ここが社会不安の温床となりやすい体質をもっていたことに結びつく。
(2)都市環境問題
中世都市が具有していた秩序は洪水のごとき人口流入によってかき乱される。鉄道、
新聞、電信といった新たなコミュニケーション手段が発達したため、地域を隔ててい
た壁が一挙に崩れ落ち、住民のモビリティは限りなく高まっていく。かくて教会、封
建勢力、ギルドの三者構成体たる都市はしだいに統御不能に陥っていく。移住者は仕
事口と高賃金を求めるのみで、都市の諸制度や慣習に無頓着で、空間の秩序だった組
織化には見向きもしない。
パリへの急激な人口流入は雇用難と住宅難をもたらすとともに、都市環境を極限に
まで悪化させていく。行政当局は早急の対処を余儀なくされた。都市環境問題は①公
衆衛生、②交通、③安全、④住宅、⑤美化に区分できる。これらが相互に関連しあっ
ていることはいうまでもない。これらはそっくり、第二帝政のナポレオン三世とセー
ヌ県知事オスマンに託されることになる。ここでは④住宅と⑤美化は後まわしにし、
先に①~③について述べることにしたい。
環境悪化は人口密度の急上昇に起因する。行政的区域としての市域と市街化地域は
厳密にいうと重なり合わないが、それでも人口密度は人口増にほぼ比例して上昇する。
1800 年当時、パリの人口密度は 15,900 人であったが、1846 年には 30,700 人とほぼ倍
増。これは町全体の平均値であって、上昇傾向はふつう街区ごとに偏差をもって表わ
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れる。ルイ・シュヴァリエによれば,市役所を含むアルシ街区を筆頭に都心部8街区
が人口密度で6桁の数値に達していた。アルシのばあい、243,000 人で、これを1人当
りの占める空間面積に換算するとわずか5平方メートルにしかならない。これは住居
だけでなく、道路や空地を含めての数値である。1人の人間が縦横2メートル強の空
間に押し込められた状態を思い浮かべれば、どんなにか息苦しい状態であるかが想像
できよう。七月王政期にすでに都心部の過密は極限レベルに達していた。
公衆衛生の問題は一刻の猶予も許されない状況にあった。通りの真ん中を小川が ―
小川といっても自然の川ではなく、通りの中央部の低く窪んだところを生活排水や糞
便などが流れるのだ ― 街角ごとにゴミの山が築かれていた。街路は狭く、その両側
に屹立する建物の陰で採光と通気は惨めなほどに少ない。このような状況下で疫病の
発生は避けられなかった。パリは七月王政期から二月共和政期にかけての 1832 年、
1847 年、1849 年、3度のコレラ禍を経験する。それぞれ 19,000 人、5,000 人、19,000
人の死者を出した。罹患者は死者と同じほどおり、1832 年の人口は約 80 万人である
ゆえ、罹患率は5%となる。住民間にパニック状態が生じた。いずれのばあいも甚大
な被害を出したのは都心部である。1840 年、パリ警視総監フレジエはとくに危険地域
としてサン=トノレ、アルシ、シテ、サン=ジャック、サン=マルセルの5街区を挙げ
ている。
短期間に3度も病原菌の攻撃を受けたことは当局に、公衆衛生の維持に本腰を入れ
て臨むことを促した。1850 年に不衛生家屋に関する法律が制定され、貧民窟を監視す
るための委員会が発足した。
交通問題も昔からパリの懸案となっていた。パリが歴史的に多様な機能(政治、文
化、商業)を付加しつつ発展してきたこと、時の政府に都市計画の観点からこれらを
機能的に統合する努力が欠けていたことが根因である。すなわち、シテ(川中島)
、大
学(サント=ジュヌヴィエーヴ丘)、商業(セーヌ右岸)の集落がバラバラになってお
り、これらを繋ぐ道路がなかった。構造的欠陥の典型を挙げるとすれば、都心部に中
央市場があったことである。市場に出入りする馬車と荷車でこの界隈は人も車も立往
生するのがつねであった。ことに朝夕のラッシュがすさまじかった。
第二に、既存道路の状態がよくなかった。つまり広幅直線路が欠けていたことであ
る。シャン=ゼリゼ、若干の大通り、左岸の並木道など広い道路はあるにはあったが、
それらは例外的部類で富者の散歩道であるにすぎなかった。サン=トノレ、サン=タン
トワーヌ通りは当時、パリでいちばん広い通りであった。幹線路で7メートル、ふつ
うの市街路で2~3メートルしかない。しかも、これらはもつれあった状態にあった。
シテ島はまさに中世城郭都市の迷路の典型で、今日なお、北東の端にその面影を残し
ている。
第三に、セーヌ川を跨ぐ橋はその絶対数が少なかったうえに幅員が足りなかったた
め、馬車の通れる橋が限られていた。橋の袂は決まって交通の難所となった。
安全については、既述の病理のほかに犯罪と暴動の社会学的病理を指摘しなければ
ならないだろう。それらは市民の生命と財産を、そして平和を脅かしていた。
都心部の、狭く曲がりくねって昼なお光の射さない小路や廃屋の物陰は犯罪の舞台
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となった。夜間の独り歩きはとくに危険で、同時代の作家や警察文書にあらわれる犯
罪に関する記述や統計がそれを証拠だてる。19 世紀のパリは農村から雑業を求めて大
量の無産の民を引き寄せ、
「貧困の町」
「病人の町」
「犯罪の町」
「危険な町」
「犯罪の輪
光をもつ町」
「悪徳の化身」という異名をとっていた。
犯罪が貧困の私的表現であるとすれば、暴動はその公的表現である。19 世紀のパリ
は暴動と革命の恒常的発火点であった。19 世紀半ばになり、全人口に占める労働階級
の比率が高まると、金持ちたちは脅威を感じるようになる。文書に、
「素性の知れない
住民」
「都市の放浪者」
「穴蔵のような住居に住む者」という表現が頻繁にあらわれる。
ルイ・シュヴァリエは、1830 年代の文献に見えるパリ描写がしだいに陰気なものにな
り、労働階級が「危険な階級」とみなされたと述べる。そして、それまで多用されて
きた「人民 peuple」なる表現が廃れ、代わって「下層民 populace」が頻出するように
なったという。
3 第二帝政期のパリ都市改造の特質
第二帝政期のパリ都市改造はその実行者セーヌ県知事オスマンの名をとって「オス
マニザシオン haussmannisation」といわれる。だが、この呼称は問題が多い。まず、
その意味が曖昧である。すなわち、事業の全体(総合的都市計画)なのか、その一部
分たとえば道路整備なのか、あるいは美化策なのか、さらに固有の財政政策なのかが
不明確である。そして、これはオスマンを前面に出し、都市計画の真の発起人である
ナポレオン三世を霞ませることになる。さらに、オスマンもナポレオン三世も前代か
らの計画や方式を引き継いだにもかかわらず、第二帝政の都市計画の発意性を強調す
ることになる。これら自体が検討されるべきなのだが、ここでは細部に立ちいたらな
い。
第二帝政のパリ都市改造はこれまでのものと比べ、以下のような特徴をもっている。
第一に、その本質は都市の再生にある。それは既存施設の改善ないし付加といった
弥縫策の域を超え、将来を見越したグランドデザインを基礎に抜本的な再開発を企図
している。これほどの規模の都市再開発事業は史上初といってよい。いきおい、広さ
と深さにおいて類例をみないレベルに達する。以下、それを列挙してみよう。
街路整備、街路灯設置、区画整理、土地収用と分譲、建築規制、市域拡大、広場と大中小3種の公
園、セーヌ架橋、中央市場と各区公設市場、家畜市場・と畜場、上下水道、行政官庁舎、兵舎、公
設質屋、市内環状鉄道、駅舎、乗合馬車、教会堂、記念碑、劇場、学校、病院、美術館…
このほか構想倒れに終わったが、墓地移転と地下鉄がある。この結果、今日のパリ
の基本骨格と景観は概ねこの時代に形成されることになった。
第二に、上記と関連して本事業はコンセプトに都市の構造化の理念をもつ。つまり、
都市改造は交通、衛生、美化、人口分散、都市アメニティなど複合的要素の統合の一
大プロジェクトであることである。ひとつの事業は他の事業とのかかわりにおいて練
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られ、実行される。たとえば、最優先で整備対象となった道路は単なる人と車の移動
路というだけでなく、衛生、美化、アメニティの実現手段としても重視された。道路
地下は給排水管、ガス管、電信ケーブルのネットワーク基地となり、街路は散策やウ
ィンドウ・ショッピングの機能だけでなく、有事のばあい、戦略道路の機能さえもつ
ことになった。
「都市の構造化」の本質は分散と統合にある。官庁、学校、市場、病院、兵舎、駅
舎など公共施設を一方で分散をはかり、他方で機能的に統合していく。そして、もと
もとはバラバラであった政治、文化、経済の諸要素について区割りを図りつつ、それ
らを機能的に統合するといった、いわゆるゾーニングの観点が色濃く出ている。
第三に、この大規模な事業は強力な政府のリーダシップのもとできわめて短期間の
うちに断行されたことを指摘しなければならない。戦災復興や新都市造営の例を除け
ば、パリほどの歴史の古い都市が 17 年という短期間に大々的な衣替えを達成したとい
うこと自体が驚嘆事である。投じられた資金は公的なものだけで 25 億フラン、民間投
資を含めると 100 億フランを超え、当時の国家予算の5年分にも相当する巨額なもの
になった。第二帝政は普通選挙から生まれた史上初のファッショ政権ともいわれる。
都市改造は、立法、行政、司法の3権のすべてを一身に帯びた皇帝がこれを支えたか
らこそ実現できた事業だともいえよう。
4 事業推進方式
パリ都市改造には事業の推進方式にも特徴が認められる。これは「オスマニザシオ
ン」の意味内容とも絡む問題であり、後世の欧米各国の都市計画に大きな影響を与え
た。
第一の特徴は事業推進のための特別の組織編成に見出だせる。セーヌ県庁内の一般
事業部に埋没していた都市計画関連の部局は分離・統合され、県知事の直轄的指揮下
におかれた。縦割組織の弊害はこれによって大幅に緩和された。そうした効果にとど
まらず、この組織は計画を世論から隠し、非難を避けるのに役立った。また、人事を
重視するオスマン知事は責任者の選任にあたり、門地にとらわれず、試練済みの実務
家を抜擢した。
第二の特徴は公益優先の立場から私権制限の措置を徹底して実行したことである。
計画の立案策定は専ら行政当局が受けもち、実行を官・民で分担。土地収用令や費用
負担方式はオスマンの県知事就任以前に確立していたため、彼が主に依拠したのは行
政指導の手法である。すなわち、民間人に対して建物正面(façade)
、バルコニー、屋
根、庭園のタイプや装飾などは法律に拠らず、専ら行政指導を通して行った。
第三の特徴は公的支出と民間投資を絡ませる財政政策に見出だせる。都市インフラ
整備と公共施設の建造は公費(国と県で分担)でもって賄い、住宅建設などは民間に
任せた。収用予定地は当局が適正価格で買い取り、建物を取り壊し、インフラを施し
たうえ分譲地として売り出す。収用価格と分譲価格の差額(差益)が工事費の一部に
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繰り込まれる。ここまでが当局の仕事である。当座の費用は市財政からの繰入金と借
入金で賄う。前者は経常会計の繰越金を充て、後者は起債で賄われた。この仕組みは
長いあいだ人目につかぬよう配慮されていた。財政的仕組みと事業規模の拡大からい
って財政破綻は必至であったが、増税なしで行われたこともあって十年以上ものあい
だ、顕在化しなかった。つまり、事業が円滑に進むためには、①公的資金が確実に投
入されること、②収用→整備→売却のプロセスが順調に進むこと、③工事費と売却差
益が見込みどおりに落ち着くこと、④市債がスムーズに捌けること、の課題が速やか
に処理されなければならなかった。これら一つでも遅滞すると直ちに全体が停止する
といった、まさに綱渡りの難事であった。
計画は3次に分かれて実施された。はたして第一次計画ですでに7千万フランの赤
字を出したが、おりからの(1850 年代初頭の)好景気のおかげでなんとか凌げた。第
二次と第三次はそれぞれ2億3千万、1億8千万の赤字を出している。巧妙に隠され
ていたため、1866 年までは表面化しなかった。財政破綻の要因は無駄な土地収用、1860
年の近隣市町村の合併、収用費の高騰、建設費の高騰にある。
5 結果
都心部を東西に貫通するリヴォリ通りが完工したのは 1855 年。その壮麗さは世間の
驚嘆と賛辞を集め、それまで燻っていた工事への懸念や非難を吹き飛ばしてしまう。
そして 1858 年春に、セーヌ右岸を南北に貫くセバストポル大通りが開通したときもお
おむねこのような雰囲気のうちに記念式典を迎えた。都市改造は幸先よいスタートを
きったのである。しかし、何ごとにおいても感動には終りがある。世間の見方はしだ
いに賛美から非難に転じていく。住民は長すぎる工事が伴う様々な不便宜、立ち退き
がもたらす転居から徐々に非難の声を挙げはじめる。
パリ都市改造は功罪相半ばする結果に連なった。ここでは2-(2)の冒頭で述べた
都市環境課題①~⑤に照らし、
「功」から「罪」への順で考察することにしよう。公衆
衛生、美化、安全の項目ではたしかに大きな成果をみた。
①公衆衛生の観点からいうと、根治とはいかないまでもかなり改善されたことは否
定できない。スラム除去、道路拡幅、空地・緑地の増設のおかげで住居の採光と通気
は大幅に改善された。何よりも大きいのは上・下水道の整備である。その後のパリは
コレラを知らない。以後、汚物の街路への放擲や垂れ流しは全面禁止され、地下の管
渠を通じてのみ回収されることになった。公道の清掃、散水、塵芥処理も行政当局の
手に委ねられることになった。
③安全問題。都心から貧民窟が一掃され、そこが富裕階級の手に戻った。いたると
ころに設置された街路灯はパリの夜を明るく照らしだし、市民の夜間の行動を可能に
した。オスマンは光源にそれまでの石炭ガスに換えて水素ガスを用いた。白色の純な
光が照らす夜の街は眩いほどの美しさを湛えるにいたる。その副次的効果は大きい。
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夕べは市民の会食や観劇に当てられようになり、それまでは貴族や上層ブルジョアジ
ーの独占物であったこの主の慰安がしだいに、中小ブルジョアジー層にまで広がった。
また、直線の広幅道路は叛徒によるバリケードの構築や暴動の拡大を困難に(少なく
とも心理的に)し、軍隊の制圧行動を容易ならしめた。
⑤美化の点でパリは華麗なる変身を遂げた。道路は極力、直線化と拡幅が図られ、
可能な限り歩道が設置された。さらに、都心の歩道にはアーケードが設けられた。か
くて、道路は単に移動路であるにとどまらず、ウィンドウ・ショッピングや散策路と
もなった。歩道に張り出すカフェもこの頃に出現。整列美にこだわるオスマンは建物
の形状、高さ、装飾を徹底して規制した。同心円構造の道路や星型交差点もこの美観
に基づく。見通しをよくするため歴史的記念碑を道路でつなぐ手法もパリの美化に貢
献。第二帝政下で造営された公園や辻公園、街路樹など都市アメニティも美化の部類
に入れるべきだろう。
次に、
「罪」の面の検討に移ろう。②交通と④住宅の面では第二帝政の都市改造は効
果を挙げなかったばかりか、かえって状況を悪化させた。
②交通問題。都市改造は交通改善の観点からみると、ほとんど「焼け石に水」だっ
た。オスマンは「300 万都市になっても大丈夫」と大見栄をきったが、こうした自負を
嘲笑うかのように、すぐに交通はパンク状態に陥る。増大一途を辿る交通量が改造効
果を帳消しにしたのである。しかし、これはオスマンの見通しの甘さを示すものでは
あっても、計画の無意味さを証明するものではなく、したがって、
「罪」とするのは当
たらないのかもしれない。敢えて「罪」を問うとするならば、星型交差点であろう。
四方八方から寄り集まって来る馬車は、今日の自動車がそうであるように、ここで決
まって渋滞してしまう。
④住宅問題。第二帝政期のパリ都市改造は深刻な問題を積み残した。
まず、オスマンは増大一途の人口に見合う数の住宅を供給することに失敗したこと
を指摘しなければならない。建物はその絶対数こそ増えたが、それには店舗や事務所
を含んでいるため、住宅はさほど増えていない。大雑把にいって、帝政の全期を通じ
てパリが新たに獲得した住戸は 10 万戸である。
1世帯の家族数が平均3人であるため、
10 万戸は 30 万の人口増に堪えられることを意味する。ところがこの期間にパリ人口は
60 万ほど増えている。
それゆえ、単純計算だけでも、第二帝政の都市改造は住宅需要を満たさなかったこ
とになる。とくに、都市改造は貧困層に冷淡であった。さすがに社会派を自認するだ
けのことはあって、皇帝ナポレオンは貧困者に理解を示し、彼らのための住宅建設を
提唱し、一部を実行に移した(
「シテ・ナポレオン」
)
。しかし、この程度の施策で貧困
世帯の住宅問題が片付くわけでもなく、一方、それは一種の貧民収容所のような様相
を呈し、けっして評判はよくなかった。
第二に、都心の過密状態がいくぶん緩和された代わりに、市内周辺部と市外に過密
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が現れた。それどころか強制立ち退きと家賃高騰を通じて、住民の集団移動を促した。
人口のドーナツ化現象に拍車がかかり、セグレガシオン(階層別居住)がいっそうひ
どくなった。富裕層の市内西部への移動、貧困層の東部への移動の傾向は七月王政下
ですでに現れていたが、都市改造の結果、この流れに拍車がかかった。富裕層が都心
部を取り戻したのと対照的に、貧困層は都心部を離れ、市内東北部「パリのシベリア」
に向かった。要するに、都市改造は雑多な層からなる人間アマルガムを篩にかけ純化
し、こうして純化された住民の塊を東西にふり分けたにすぎない。かくて、市内東北
部が新たな社会不安の温床となった。宏壮な西部住宅街は華麗な都心部を挟んで、
「パ
リのシベリア」と対峙する。この対立構図はやがてパリ= コミューン騒動で火を噴く
ことになる。
第三に、パリの「華麗なる変身」は全国的レベルにおける人口分散をもたらすどこ
ろか、かえって首都への人口集中を促した。すなわち、都市改造は地方人のあいだに
「華麗なる都」「労働者の天国」「仕事は潤沢!賃金倍なり!」の風評を振り撒き、離
農現象を激化させた。さらに、首都の「華麗なる変身」は地方人のあいだに羨望と反
発を招くにいたる。帝政下の 1855 年と 1867 年にパリで開催された万国博覧会の見物
に訪れた人々に、首都の壮麗さを自らの眼で確かめる機会を与えた。もともと共和政
贔屓のパリに反感をいだいていた「田舎紳士」たちはたちまちデマゴギーの虜となる。
かくて、「莫大な国税がパリの美化に投入された」「パリ栄えて農村枯れる」などのス
ローガンが真実味を帯びるにいたる。
パリ都市改造の課題追求の達成度からみる方法とは別に、都市改造の事業自体が積
み残した所産を忘れてはならないだろう。それは建設ブームから建設不況への暗転が
大量の失業者を排出したことである。1847 年、1866 年、1872 年の調査によれば、パリ
の建設業就業者の対全就業者比率は常時 10~12%を維持し、66 年には最大値 12.7%に
達していた。建設業は第二帝政初期において景気を引っ張る牽引力の役割を果した。
村から出てきたばかりの、特別の知識や技術をもたない出稼ぎ労働者にとって、建設
現場での人夫仕事はまことにありがたい働き口であった。ところが、1860 年代半ばか
ら建設工事は停滞しがちになる。しょせんブームはブーム、建設活動が完全停止した
とき、特別の技能をもたない人夫たちを待ち受けていたのは失業である。1869 年 10 月
末、財政難から工事が全面停止に陥ったとき、建設業関連だけで約 10 万人が失業状態
に陥る。この効果は、かつて 1841 年から 1845 年にかけて建造された「ティエールの
壁」の工事が完工して路頭に投げ出された建設工の運命に似ている。このとき、おり
からの不況と凶作の連続で痛めつけられた労働者たちは二月革命で主役を演じたので
ある。60 年代末を迎えると、各所で暴動の再発が囁かれるようになる。
おわりに
論を閉じるにあたり、まとめをつけておこう。
パリが間断なき成長を遂げたのは、ここが一貫して首都であったためである。17・
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18 世紀において工業化なしにパリが大量の人口を引き寄せてきたのはこのことと関連
する。王権と依存関係をもちつつ成長してきたパリは自治をもたず、両者のあいだに
は絶えざる緊張があった。フランス革命後になると、この緊張関係は一挙に歴史の表
舞台に踊り出る。
パリの特異性は、そこが政治都市であっただけでなく、宗教(文化)都市でもあり、
商業都市でもあるといった多面性にある。さらに、ここに寄り集まる王族、貴族、官
僚、軍人、地主らの消費都市でありつづけたことも、パリの特異性のうちに含めなけ
ればならない。
1830 年代から始まるパリへの人口集中は産業革命―ただし、英・独のように顕著で
はない―の余波とみなしてかまわない。19 世紀の前半だけで倍増という人口の大洪水
を浴びたパリは、近代化のために抜本的な手術を必要としていた。
パリ都市改造の原案はすでにフランス大革命期にできていた(芸術委員会案)
。その
きっかけは教会財産の没収である。教会と修道院はパリ市内の各所に多くの土地を保
有していたが、これが国の支配下におかれた。財政難に悩む革命政権はこれを処分す
るに当たり、懸案となっていた道路整備を中心に再開発計画を策定する。しかし、計
画はおりからの政治的混乱と外戦に遮られ、長いあいだ実行待ちの状態になっていた。
着手されたのは七月王政下であるが、この時はまだ部分的な試行にすぎなかった。道
路整備の課題を引き継ぐとともに、都市インフラ一般の整備と組み合わせ、綜合的な
都市政策に仕上げた人物が第二帝政期のナポレオン三世とオスマン知事である。
フランス革命とナポレオン法典は所有権の原理を確立した。その過程で公益と私益
をどのレベルで調和させるかの問題が生じた。結局、一定額の補償と引き換えに私人
から土地を買い取り、これを公共のために供するという考え方が出てきた。その後し
だいに公益優先のほうに傾いていく。それは、土地利用について地権者と公権力間の
協議のかたちで始まり、次いで建築規制が後押しをし、さらに調整不能になったとき
市会による議決でよいことになり、最終的に公権力による一方的な公益性の宣言、土
地収用(1850 年のアルマン・ド・ムラン法)に帰着する。つまり、地権者の承諾を要
しないで不動産収用への道が開けたのである。
土地収用についていえば、概して地権者からする抵抗は弱かった。紛議を示す記録
は少ない。それどころか、再開発地区に指定されんとして陳情行動に出る者が跡を絶
たなかった。刷新後の分譲地において彼らが建てた瀟洒な建築物は、利益を生む格好
の投機手段となる。この住宅ブームは住宅購入競争というかたちで新興の中小ブルジ
ョアジーの間にも広まっていく。第二帝政のパリ都市改造は本質的にブルジョア的で
あるとする所以がここにある。
だが、パリ都市改造は市民の一部から怨念をもたれていた。それは貧民たちに強制
疎開を促した。
パリ= コミューン(1871 年)の叛徒たちの都心部やパリ市役所の占拠へのこだわり、
断末魔に臨んでの公共建築物の焼き討ちはある意味で、自由と自治を求める職人と労
働者による都市空間の奪還、復讐の儀式であったとみることもできる。このように、
公権力による大々的な都市空間の規制つまり近代都市の出現は社会学上の多くの負債
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を積み残したことになる。
パリの反抗的態度はコミューン弾圧後もしばらくつづく。1871 年 4 月の法改正によ
り普選に基づく市議会が誕生すると、市議会は県知事の諮問機関ではなくなる。政治
制度上パリは地方と同権となり、反抗の基礎の一つが消滅する。とはいえ、市議会の
権限はローカルな問題に限定され、国政への容喙はいっさい禁止されていた。国家と
首都の対立は一挙に解消せず、共和派が国と市の議会で安定多数を占めるにいたる
1880 年代初頭までつづく。その後のパリはナショナリズムの波に洗われ、事件のたび
に左右への揺れを見せつつも徐々に保守化していく。国家に対する反抗の拠点は、パ
リに代わり新たにスラム街が形成されたパリ市郊外に移動していく。
ところで、パリの反抗のもう一つの要因としての人口流入と貧困者の問題はいっこ
うに解決されなかった。パリ人口は 1921 年のピーク(290 万人)に達するまで増勢の
一途を辿っていく。当局が貧困者救済のための住宅、医療、公衆衛生問題に着手する
のはようやく戦間期に入ってからである。本腰を入れての取り組みは第二次大戦後を
待たねばならない。このように、福祉を念頭においた公権力による積極的な都市政策
は現代都市の課題として残されることになった。
[注]参考文献に関しては拙著『フランス第二帝政下のパリ都市改造』
(日本経済評論社、1997 年)の
巻末 「参照文献」の項(pp.405-416)を参照されたい。
(c)Michiaki Matsui 2015
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