近代建築理論研究会 20120516 加藤道夫研究室

近代建築理論研究会 20120516
加藤道夫研究室 伊良部 頌
Harry Francis Mallgrave, Modern Architectural Theory A Historical Survey, 1673-1968
4 新古典主義と歴史的相対主義(NEOCLASSICISM AND HISTORICISM)
1. Durand and Quatremère de Quincy
政治的、社会的変化
・フランス革命
プレモダンとモダンを隔てる境界線
旧体制(アンシャン・レジーム)の崩壊
貴族層、聖職者層の特権の崩壊
個人の権利と民主的統治の幕開け
ナポレオンによるヨーロッパ諸国の再編
ジャコバン派による恐怖政治!共和制!ナポレオン
軍事拡大
・産業革命
一八世紀まではイギリスの先行。アダム・スミス『国富論』
手仕事から機械化された生産様式へ
経済的圧力
都市の拡大、出現
労働者層の都市への集中、人口の増大
資本を有する中産階級の創出
建築における変化
新たなビルディングタイプ(証券取引所、銀行、工場など)の出現
新たな寸法体系の採用により伝統的な比例公式の適用が困難となる
権威の失墜 ex.:ルドゥー
新たな政治体制のための建築 ex.:サント・ジュヌヴィエーヴ教会のパンテオンへのコンバージョン
エコール・ポリテクニークとエコール・デ・ボザールの設立
!デュランとカトルメール・ド・カンシーによる教育
デュラン(Jean-Nicolas-Louis Durand; 一七六〇"一八三四)
一七九四年にエコール・ポリテクニークの教授となる
『比較建築図集』(一七九九#一八〇一)!世界中の建築の視覚的な比較を豊富に呈示
『建築講義要録』(一八〇二#一八〇五)
・デュランの理論
デュランの理論は同時代の出来事や彼の教員としての地位周辺の環境から知識を得たもの
エコール・ポリテクニークではその科学技術的な追求に合わせて建築教育における基礎の提供を担当。それ
は理論的というよりもより実践的な性質をもっていた
このことがデュランに建築の古典主義的基盤の再考、古典主義建築が近代産業社会に対してもつ関連性の再
評価をうながした
・三つの衝動(impulses)
ウィトルウィウス的な伝統に対する単純な疲労とその妥当性のゆらぎ
「感情的」#情動やキャラクターに関するという意味での「感情的」#な攻撃
構造理論の発展、そして建築実践におけるプロフェッショナリズムの新たな尺度!効率性と有用性が設計方
法における二つの目標
・デュランの戦術
建築は自然を模倣する(オーダーの人体による比喩)、または建築はロジェの始原の小屋のような仮説モデ
ルに倣うという見解を失墜させること
ウィトルウィウス的伝統における三つの原理#配置(用)、構成(強)、装飾#の価値と意味を問う。
はじめの二原理が重視される場合、そのような新時代において装飾は 軽視される。
「快楽が建築の狙いとなることはありえなかったのは明らかであり、また建築装飾がその目的となりえない
のも同様である。
公的な有用性と私的なそれ、個人と社会における幸福と保護。それらこそが建築の目的である」。
こうして装飾は「適切性と経済性」へと変換され、それらこそが「この術の研究と実践にわれわれを導きう
るただひとつの原理なのである」。
・適切性と経済性
・適切性、コンヴナンスconvenance
古典的な意味でのproprietyまたはdecorumというニュアンスをもつ
デュランはそれを構成に関わる目的に対して「堅牢であり、健康的であり、適切な」という意味をもつ語
としてより厳密に定義した
・経済性
財務上の抑制をことを言っているのではなく、
設計のコンセプトにおいて物質的手段を最小限にすることではなく視覚的にすっきりしていることや優雅
な精巧さを意味する
・設計手法
可能な形状要素の結合という単純な手続による分析的設計方法
グリッド!建築構成要素の基盤としての座標
分類の目的!さまざまなプランや量的なバリエーションを設計者に提供する
立面の様式はただ漠然とした古典主義であり、大抵はフランスやイタリアのヴァナキュラーな形状に類似
デュランにとって建造物の様式は何ら意味のあるものではなく、合理的な設計方法が主役
生徒たちに自習に適したパッケージを提供している
カトルメール・ド・カンシー(Antoine-Chrysostome Quatremère de Quincy; 一七五五"一八四九)
アカデミーの革命期の受難の後、教授となる
建築家ではなく、彫刻の教育を受ける
『系統的百科全書』の建築に関する項の執筆を担当
・理論
建築の諸前提の根本的な再考
・エジプト建築に関する二つの論文
・一つ目の論文(一七八五年)
「エジプト建築とはどのような条件をもつものであったのか、そしてギリシア人たちはそれから何を借用
したように思われるか?」という質問に答えたもの
エジプト建築とギリシア建築が一連の社会的、地理的な諸条件を建築における様式的な形状の決定要因と
して提示しているという相対主義的な説明
狩人、羊飼い、農民の三つの生活様式から発生したという人類学的、聖書的な前提
狩猟社会!洞窟のような天然の住居
農業社会!頑丈な木造の小屋
牧畜社会!テント
・二つ目の論文(一八〇三年)
すべての言語に当てはまる普遍文法における一般原理と特定の言語における独特な構文との違いを指摘
し、その差異を建築に適用
ギリシア建築の形(たとえばドリス式など)の起源をエジプト建築の原型に求めようとする人々の企てを
阻止する意図
たとえば柱は普遍文法に属するのでどこにでも現れるのに対して、ギリシアの三つの様式における特定の
構文はギリシア建築を他地域の建築よりも上に引き上げたもの
洞窟やテントと異なり、小屋の木造による構造は容易に改変が可能であり、高度かつ論理的な構造的発展
を遂げる能力をもつ
ギリシア建築を他のどの国の建築よりも高く引き上げたのは小屋固有の木材から石材への素材における転
位であるという主張
記念碑的建築は構造と材料の錯覚に基づく
!「実際、建築の本質#そして大部分は建築がわれわれを喜ばせる手段である#は、他の芸術と共同して
芸術をそのステージに登場することを可能にし、
そして建築に他の芸術と張りあう機会も与えるこの快い仮構、巧妙な仮面を取り去ることになれば、それ
を認識することは困難となるだろう」
それゆえに、古典主義建築の「幸福な隠喩」#原型的木造構造の模倣#が建築に優れた美的根拠を与える
※Mallgraveはenleverをin raisingと訳しており、これはおそらくen leverとの誤認による。
enlever cette agréable fiction$(仏、とりはらう)!en lever(仏)!in raising this agreeable fiction$
(英)
・その他の誤訳: charpente(仏、骨組)!carpentry(英、大工仕事)
・『系統的百科全書』の記事
初めに建築は伝統的作法において「定められた比率と規則に従う建造物についての術」として定義される
古典主義建築は二重の模倣である!概念化された小屋の演劇的模倣かつ自然、すなわち自然の一般原理と
法の比喩的模倣
「オーダーの諸原理、そしてわれわれの感覚の感じ方や判断の認知に対する調和の諸原理における自然の
一般的な模倣が建築に魂を与え、
そして建築をもはや模倣者でなく、まねでもなく、自然それ自身に匹敵するものである芸術としたのであ
る」
従うべき静的な規範としての自然から、動的な創造作用としての自然へ
また、当時代の建築(ルドゥーの作品をほのめかす)を厳しく批判
・カトルメール・ド・カンシーの「性格」(『系統的百科全書』内の記事)
性格を性格を「自然がそれによって客体それぞれに本質、特徴的な質、相対的な適切性を刻み込むしる
し」と定義し、
本質的性格(性格なるものdu caractre)、特徴的性格(ある性格un caractère)、相対的性格(その性格
son caractère)の三種類の性格を区別
性格のそれぞれの種類は物質的かつ精神的な表現で詳しく記述され、種/好み、外観/固有の変化、特性
/使用の適切性のような一般的属性を備える
本質的性格!もっとも本源的であり、また力や威厳のもっとも豊かな表れでもある。骨組構造のような建
築類型の表現や、三様式としての一般的様態において見いだされる
特徴的性格!建築作品の外観的特徴または独創性であり、その特有の様式のしるし
相対的性格!材料の表現豊かな使用、理想的かつ芸術的な質の援用、そしてふさわしさdecorumの規則を
順守することを通して生じるため、
相対的性格は建築の発展にとってもっとも実りのあるもの
「原型において簡素であり、手段において節度をもつ自然が、しかしながらいかに彼女の作
品の変化における組み合わせにおいて
無尽蔵であり変化に富んでいるかを見よ」
2. 多色論争(The Polychrome Debate)
ポリクロミーの"発見"
・十八世紀後半、StuartとRevettがその中にテセウス神殿が含まれる少数のアテネ寺院にある彩色された装飾の
外形(塗料の名ごり)を記録、
しかし遺蹟内における広範囲の塗料の存在は予測できず
・ヴィンケルマン!主にヘレニズム彫刻の大理石製の模造品を対象に取り組み、
彫刻における美の本質は白大理石という材質の高潔さにより強化されていく輪郭または形
であるという新古典主義的な見解を定義
白という色がもっともよく光を反射しもっともよく輪郭ないし外形を明確にするので、大
理石の白さの度合いは彫刻の美に影響するという主張
ヴィンケルマンのような見解は容易に建築へと転位、建築におけるポリクロミーに関しての古典期における
論及は軽視される
ウィトルウィウス!木造寺院のトリグリフに塗布された青色の蝋に言及
パウサニアス!二世紀に行われた旅行の報告において赤色と緑色のアテネの裁判所に言及
・ギリシア遺蹟の「白色」は一八世紀の終わりまで議論の余地のないものであり続けた
ギリシア建築は主に白いものと考えられ、広範囲にわたって色が使用されていたという多くの証拠が確認さ
れる場所や時代は
芸術的に未熟であるか、または辺境における退廃であると見なされた
「白い建築」説への反論
・「白い建築」は十九世紀に入りギリシアへの旅行者が増加したことにより反論を受け始める
第七代エルギン伯爵トマス・ブルース(一七六六"一八四一)!パルテノン神殿から装飾彫刻をはぎとり本国
イギリスに送るという計画。全員がポリクロミーの証拠を認識、
建築家William Wilkinsはプロピュライアとテセウス神殿(ヘファ
イスティオン)のエンタブラチュア上における塗料の痕跡を発見
・反論の第二波
コッカレル(C. R. Cockerell)、ドイツ人Cark Haller von Hallerstein、ロシア人Otto Magnus von
Stackelberg、デンマーク人Peter Oluf Brøndstedらの発見
アイギナ島で神殿のペディメント彫刻を発掘、彫像だけでなくコーニスのくり形にも色を発見
同グループはバッセのアルカディア神殿遺蹟を発見し、またも塗料の広範囲にわたる痕跡を見つける
この神殿の建築家はパルテノン神殿も担当したイクティノスであったため、この発見はもっとも重要であっ
た
・カトルメール・ド・カンシーの文献学的研究The Olympian Jupiter, or the art of antique sculpture considered
under a new point of view(一八一五)
フェイディアスによるクリセレファンティン(金と象
製)の名高い彫像#オリンピアとアテネの神殿内に
それぞれ置かれていたゼウスとアテネの巨大な彫像#の再構成が目標
新古典主義の権威たちによる衣と肌を表現するための二種の素材の使用への非難
(1)金と象
の多色使いがギリシア人の通常の慣習になじまない異質な嗜好を表している
(2)二種の素材の混合は”奇抜”であり、大理石のような一種の高貴な素材を使用することに比べて純粋で
はない
(3)その作品の芸術的価値においては、その素材の贅沢さが古代人に不当な影響を与えた
(4)色の使用が彫刻のもっとも「基本的な原理」である形状に反する「ある種の幻覚」を生み出している
上記の非難へのカトルメールの反論
これらの作品の歴史上のモデルは異質なものではなく、むしろギリシア時代初期の複数の実材料で彩ら
れ、飾られた原始的な木製の偶像であった
これらのマネキンの彩色や装飾は彫金による(金属を浮彫ないし彫刻する)技巧的なプロセスへと発展
し、
天候や時間による風化から守り、素材の欠陥を修正し、そして大きな表面の冷ややかさと単調さを軽減す
るために他の素材への彩色も継続した
ペリクレス期までに色の使用は、内容において象徴化されかつ宗教的慣行によって神聖化されたギリシア
彫像術の長い伝統となった
カトルメール以外にも、多数のポリクロミー擁護の著書が短期間のあいだに出版される
・アカデミーにおける論争
一八二五年までにはギリシア遺蹟への「白い眼差し」はおおかた過去のものとなる
しかし、ポリクロミー理論はアカデミーにおいて軋轢を招くこととなる
一八二〇年代後半に多くのフランスの学生によってアカデミーの理論における美的核心を攻撃するための口
実となる
積み上がりつづけるポリクロミーの証拠に直面したカトルメール・ド・カンシーによる比率の価値の防護に
よって、彼の権威は弱まることとなる
・ポリクロミー論への決定的な打撃!イトルフ(Jacques-Ignace Hittorff; 一七九二#一八六七)による小さ
なシチリアの記念碑の復元
イトルフのシステムは何かを装おうとしたわけではないが、推測以外のなにものでもなかった
イトルフが視覚的資料として提示したものは「芸術的」な復元であり、参照されるような発掘された証拠
はほとんどなく、
Tarquinia、ポンペイ、エイギナ、そしてエルサレムのような遠方の場所と時間から持ってきた複数の色と
装飾的モチーフのパッチワーク
を用いてシチリアの記念碑を再構成したものだった
芸術アカデミーにおけるカトルメール・ド・カンシーの最終的な後継者である歴史家Désiré RaoulRochetteが
イトルフによる復元への評価を「申し分ない復元」から「恣意的で仮説にもとづく思いつき」へとすぐに
変更し、
このことがこの学問領域での全面戦争につながる。
参照
「フランス啓蒙主義建築思想における「性格」について」白井秀和(http://ci.nii.ac.jp/naid/110003883048)
・性格という概念が、芸術或いは文学の領野で現れ、定着し始めたのは、(中略)、ルイ14世治下のフランス
においてであった。
・それは、デカルトの『情念論』に触発され、対象物が持つ内的活動に合致した外的表現を探求するものであ
り、転じて建築においては、建物のタイプが持つ性格と一致した外面と、建物の内部配置との適切な表現が目
指される。このような考えはすべて、心の内的感情が、それに合った、身体の外的な動きにより表現されるべ
きであるという観念に由来する。これは遠く、アリストテレスの性格論にその源を持つ。
・このデコルの仏訳語ビアンセアンスの流れをくむ性格論は「芸術は、魂の内的な活動の外面的な記録であ
る」という前述したル・ブラン教義に明らかなように、フランス・アカデミーにその概念を定着させてゆく
が、そこには、ルイ14世を頂点とする宮廷社会という階級位階秩序内での、所謂礼節という概念が大きく与し
ていることを忘れてはならない。
(p.163)
・1737∼1738年の『別荘の平面配置と建物一般の装飾について』の中でブロンデルは、既に、コンヴナンスの
意義の重要性を述べ、次いで1752年の『フランス建築』第1巻において、コンヴナンスについての議論を本格
的に開始した。ここでは、同時に性格という語そのものも使われる。「コンヴナンスは、建物の最も本質的な
部分と見なされなければならない。即ち、建築家が、建てるべき建物の威厳と性格とを釣り合わせるのは、コ
ンヴナンスによってである。$ここでコンヴナンスによって理解するものは、ウィトルーウィウスによってビ
アンセアンスと名付けられる。」更に54年発刊の『建築研究必要論』で、彼は、「コンヴナンスは、建てる術
において、いかなる操作にも先行する部分と見なされなければならない。コンヴナンスは、あらゆる種類に亙
る建物において、それらの建物の壮大さ、形態、布置、豊穣さ、簡素性を尊守しなければならないというビア
ンセアンスを指し示すものである。$家主の位階、威厳、豪奢さに応じて、同じ目的のために建てられる建物
に様々な形態を一定の原理の下に与えることになるのは、このコンヴナンスの精神によってなのである。」と
述べた。
・62年のアカデミー教授就任に前後して、建築における古典的オーダー、プロポーション重視といった旧来の
傾向に対し、ビアンセアンス、コンヴナンスに則って、建物の性格の重視に向かった転換点が、ブロンデルに
よってなされていったことは重要である。
(p.165)
・ここに述べられた建築用途の根本にある重要な思想は、第1巻で既に規定された「建物は、ひと目見て、そ
れが何であるか感知されなければならない。」である。こうした考えの源泉は、当時発展を遂げた博物学(自
然誌)にある。即ち、博物学者リンネやビュフォンの系統学(反系統学)の序列に参与したブロンデルは、外
観特徴という可視的要素に論拠を置き、これと社会的な目的性との合一を目指したのである。百科全書の建築
の項を執筆したブロンデルにとって、「分類すること」は、ビアンセアンスという17世紀以来のフランス古典
主義の規範に沿ってひとつの明確な秩序付けを行う際に必要不可欠のものであったと言える。「自然科学で発
展してきた諸観念を建築の理論に転用しようとした」百科全書派ブロンデルは、性格という可視的構造を、18
世紀の、王を頂点とする階層秩序と、増大してゆく社会的要素に対応する建築の社会的用途との交錯の中に重
ね合わせようとした。(中略)しかし、これらは共に、建物の性格が単に建物の外観を与えるだけでなく、外
部と内部を関連付けなければならないことへと究極的には収斂される。ここに完成されるのは、建物の類型学
である。(中略)ボフランにおいて未だ萌芽的であった性格概念は、ブロンデルのアカデミーへの参画により
影響力を得、大きく発展した。それは、古典的オーダー中心の思想から、建物そのものの性格を優先的に考え
ることから出発するという、今
に見られなかったものである。これは、啓蒙主義時代の分類学の発展、そし
て、社会的機能としての建築の多様化が重要な起因となっていることは繰り返し述べても良いことである。
(p.166)
・前ニ者の性格は、通常の人間の能力も、教育による効果も何ら影響を与えることのできない原因に依るもの
であるのに対し、第3の性格は、教訓的な理論たりうる。
(p.167)
※同著者のキャトルメール・ド・カンシーにおける「性格」の概念(http://ci.nii.ac.jp/naid/110007565778)も
※同著者のキャトルメール・ド・カンシーにおける「性格」の概念(http://ci.nii.ac.jp/naid/110007565778)も
参照。
『系統的百科全書』(一七八二"一八三二年刊行)について
ディドロ・ダランベールの『百科全書』の補遺版(本文4巻、図版1巻)の刊行を主導した出版業者パン
クーク(Charles Joseph Panckouche; 一七三六"一七九八)が、その経験を基にアルファベット順だった『百
科全書』を体系順に再構成し、さらに当時の最新知識を大幅に加筆し出版したもの。
神奈川大学リポジトリ(http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/4488)で全文閲覧可能
(カトルメール執筆によるArchitectureの第一∼三巻[014]"[016]のみ確認、"caractère"は[14-5]終わり∼[14-6]は
じめ)。
パンクックが集めた執筆協力者の大部分は、ディドロ=ダランベールの「百科全書」かその補巻で活躍した
知識人であった。(中略)フランス大革命の激動期に「ああ、自由よ!汝の名においていかに多くの罪がおか
されていることか!」という言葉を残してギロチンの露と消えたロラン夫人の夫であるロラン・ド・ラ・プラ
ディエールは1785年に「体系百科全書」の“マニュファクチュア・技芸と工芸”の諸巻を「百科全書」の同じ項
目と比較して次のように語っている。 「“技芸の全般的総覧”(体系百科全書の)と“百科全書”とでは、前者が
一つ一つの論説を手に取り、職人を導くばかりでなく読者各人を職人に仕立ててしまうほどの一連の完全な論
文であるのに対し、後者は種々の対象やそれらの間の特殊な関連や共通の関連を、大きな拡がりと大まかな
タッチで描いたにすぎない」と。(神奈川大学図書館貴重書目録『古典逍遥』)