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九州工業大学学術機関リポジトリ
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(一) 或る反ファシズム小説の波瀾の半世紀
宮島, 隆
1997-03-31T00:00:00Z
http://hdl.handle.net/10228/3543
Rights
Kyushu Institute of Technology Academic Repository
1
(一)或る反ファシズム小説の波瀾の半世紀
{平成8年10月30日 受理)
人文・語学 助教授 宮 島 隆
(1)Ein bewegtes halbes Jahrhundert eines
antifaschistischen Romans
Takashi MIYAJIMA
(1)
第1次大戦によって引き起こされた最も深刻な政治的な帰結は,ドイツに於ける政治
的,経済的な崩壊の渦中に,29年に始まった世界恐慌と相まって,疲弊し切った国民生
活の全体に,ナチス支配の出現を許したことにあった。このドイツ的特殊性は,ただド
イツのみならず,誰をも想定し得なかった現代の世界史的な悲劇であった。
ヨーロッパの多数の人びとにとって,第一次大戦の想像を絶する大量破壊と大量殺蹴
はかって体験したことのない出来事であり,作家たちが受けたさまざまな印象は,彼ら
の精神,行動を複雑に規定した。さらにひきつづき30年前後にはドイツ・ファシズムの
台頭が歴然たるものとなるや,身をもって体験した大戦による零落の憂き目に対する反
省と同時に,この不気味な勢力に対する緊急を要する文学的対決を迫られ,また人間と
しての行動目標とが問われることとなった。
しかしファシズムは,その台頭と同時に国粋的,軍国主義的文学の出版を称賛,促進
するばかりでなく,国家権力,経済権力を背景に国民生活のイデオロギー側面を支配す
るさまざまな可能性を強化して,組織的,心理的に巧妙な働きかけは,国民の中に軍備
拡張と排外主義的精神を浸透させる役割をはたしていった。かかる状況の中で一方では,
才能豊かで良心的ではあるが,内心反ファシズムの念を秘めつつも,時代の社会的,政
治的問題を回避し距離を置いた超時代的,内面的,瞑想的作家態度は,社会正義を貫く
力としては或る意味では無力であった。
1933年3月のファシスト・ヒットラーの権力掌握に先だつ1929年トーマス・マンは,「マ
リオと魔術師」において,反国民的,反ヒューマニズム的策動に対しての傍観的態度の
大衆を警告している。これは,時の国民的運命の存亡の岐路に立たされていると見た時
に,作家の創作活動を通じての社会的責務としての積極的自覚であった。
トーマス・マンの長男クラウス・マンは,1936年に反ファシスト文学「メフィスト。
或る立身出世の物語」を亡命地アムステルダムで書き上げた。既に歴史上経験し得なかっ
た程の文学者達の「大脱出」(Massenexodus)が始まっていた。クラウス・マンは1933
ワ 宮 島 隆
年の5月13日にドイツを去っていた。「亡命はミュンヒェンで始まった。プロイセンおよ
び帝国の他の部分は既にナチのテロにさらされていた。だがバイエルンはまだ抵抗して
いた。勿論もう長いことではなかったが…ユ933年2月一国会議事堂放火事件の直前,
そしてその直後には特に一シュプレー河畔からイザール都市へ住居を移し,政治的ま
たは人種的に危険を感じていた人ぴとが多数居た。ベルリーンだったら既に拘禁された
り,虐待されたりしたであろう人ぴとが,ミュンヒェンではまだ完全な自由を楽しんで
いた1,。」 しかし1933年5月10日には.ナチスの「文学・芸術政策」の焚元1}のためのブ
ラックリストにクラウス・マンの名も記載されていた2)。
亡命初期のクラウス・マンは、生活,活動の本拠地をアムステルダムにして.最初の
小説「北方への逃走」(1934年)“Flucht in den Norden”を:、1丁いたが,ヒロインは反ヒッ
トラーのための非合法闘争の中で,祖国を脱出する。やがて遭遇した牧歌的生活と愛情
問題心傷つきながら義務の叫び声に良心に目覚める少女,「それは私の心にかない,私
の心理学的好奇心と詩人二人間的共感の対象だったのだ3),」とクラウス・マンは云って
いる。
この約1年後に出版されたのは,作曲家ペーター・イリーッチ・チャイコフスキーを
主人公にした「悲槍交響曲」(1935)“Symphpnie Pathetique”であった。マンは1935年
7月,妹モーニカ・マン当ての手紙で次のように報告している。「rチャイコフスキー』
は原稿で出来あがりました…それは悲しいものとなり,恐るべき結末となりましたが,
しかし私がなし得た最高のものでしょう。そして私の体験から奇妙に沢山のことを私の
感動的なペーター・イリーッチの生涯の中に書き込めることが出来た次第です4)。」この
作品の中でマンは,べ一トーベンやバッハの様な巨人ではなく天才なるものの疑わしい
弱点をもつ芸術家,チャイコフスキーを選び,その姿に自分との同一性を,即ち,何処
にも寛げない,折りにふれて悩んでいる亡命者を,運命の共有者を見ようとしている。「私
は彼を愛しているからであり,彼のことを知っているからこそ彼を選んだのである…
まさに彼の天才なるものの疑わしさ,その性格の破産,芸術家そして人間としての弱点
こそ、彼を私にとって親しみ深く,理解出来る,愛するに値するものにしていたのであ
る…彼の神経症的な焦燥感,そのコンプレックスとその洗惚,様ざまな不安感と昂揚
する心,彼が生きて行かねばならなかうた殆ど耐え難い程の孤独,いつも繰り返し旋律
の中に,美の中に姿を変えようとする苦悩,私はこれらの全てを描写することが出来た。
その一つとして私に無縁のものはなかった…私が彼の全てを知らない筈があるだろう
か?彼の運命であったところの愛の特別のかたちを,それこそ私は知っていたのだ。そ
してこのエロスに伴っているインスピレーションと屈辱感,長い苦悩とかりそめの短い
至福に私はあまりにも精通していたのだ。人がこのエロスに忠誠の意を表すと,かって
あったこの社会では,人は異邦人となる。致命的な傷をこうむることなしに,人はこの
愛に身をゆだねることはないのだ…政治的な理由からではなく,どこにも寛ぎを感じ
たことも出来ず,どこにも祖国と感じるところがなかったが故に,彼は亡命者,追放の
身であった。どにいても彼は苦悩した。遂に名声がやって来た。しかしそれは.償いも
慰めも存在し得ない殉難に対する反語的な,たいていは遅すぎた補償なのである… 慰
めは存在しない。慰めのない,有名なペーター・イリーッチは慰めのない,ひそやかな
或る反ファシズム小説の波欄の半世紀 3
竺遂げるだろう・彼は麟をとげるのである・たくみに繊を守りつつ53才の時に・・。」
クフウス’マンのチャイコフスキーの姓とその運命に対するなみなみならぬ共感を窺
い知ることが出来ると同時に・マンの49年カンヌでの結末をも暗示するものであろうか.
この「悲槍交響曲」と他の彼の作品の販売数も,マンの長い経済的な苦境を抜け出せ
る融分な収入を彼にはもたらさなかった5).アムステルダムでの彼の活動の協プ]者は,
親友ブリ〃・ランツホーフ(Fh包H. Land・h・ff)であった.彼は以前べ,レリ_ンのキ_
ペンホイエル出版社の社長であったが,オランダの社会民主主義者,エマヌエル.クヴェ
リード(Emanuel Querido)と共に新しいドイツ文学のためのクヴェリード出版社を設立
し端にハインリピマン・財ン・フォイトヴアンガーアンナ・ゼーガース等のド
イツ亡命文学の主要は作品を出版して来た。クラウス・マンの諸作品もここから出版さ
れると同時に・彼は編集部の手助けもしたがそこからの収入も不安定であった。しかし
反ファシズムの文芸月刊誌「集合」(Die Sammlung)が,工935年7月には刊行見通しも
立ち、彼は編集責任者として.文学を通じての政治的,社会的責務を充足させる日々に
追われ・この雑誌はヨー一ロッパでの.有力な権威ある論集として認められることとなっ
た。ナチスの帝国作家会議議長,ファシスト作家ハンス・ヨーストは1933年10月ユ0日ナ
チス親衛隊長ハインリヒ・ヒムラーに書簡を送り,アムステルダムに極めていかがわし
い亡命者の月間論集が現れたこと,トーマス・マン氏の前途ある息子クラウス・マンが
その編集者であることを訴え,トーマス・マンを息子のかどで一時人質にすることを提
案している脱クラウスの活動が軌道に乗り出す状況を踏まえて,ランツホーフは更に小
説を書く可能性を含めた月々の充分確実な報酬を彼に申し出たがη,クラウス・マンにとっ
ては当面手がけるべきテーマが思い当たらなかった。そこでランツホーフはマンの親友
でもあったヘルマン・ケステンにこの案について相談をもちかけた。これに基づいてケ
ステンは1935年11月15日マンの新しい作品のための自分の思いつきを,次の様な手紙に
書いた。「あなたの新しい小説の新しい題材を捜しておられることをランツホープから聞
きました時.私自身も一自分のために一あれこれ考えているうちに,自分には大変
まずくしか書けませんでしょうが,あなたなら大変立派に書き上げることが出来ると信
じる或る題材に思い当たりました.要するに,第三帝国の同性愛の出世主義者のことを
お書きなるべきではないでしょうか。しかもあなたによって芸術的にとり扱おうと考慮
されている{そう聞いているのですが)国立劇場監督グリュントゲンス氏のイメージが
私に思い浮かぶのです。(タイトル:「劇場監督」)その際あなたが非常に政治的な楓刺小
説をお書きになることは考えておりません。一殆んど一非政治的な小説のことを考
えております。あなたの伯父上がすばらしい『逸楽境』(Schlaraffenland)を完成するに
役立ったモーパッサンの『ベラミ』(Bel−Ami)という小説が模範例でしょう。従ってヒッ
トラーもゲーリングもゲッベルスも小説の登場人物ではありません…隠されてはいる
が勿論感知し得る偉大な情熱のすべてがイローニッシュな(反語的表現)の鏡の中に映
し出されます.政治的描写はなく,社会的調刺,ある種の同性愛者たちに対する楓刺,
野心家の一たぶん一様ざまな野心家に対する識刺です。如何にしたら劇場監督にな
れるかを,首都に対して全般的に物語るのです。
こういう題材ならあなたは立派に成功なさると思います。それは第三帝国という雰囲
宮 島 隆
4
気によってより大きなチャンスがもたらされるものです・この件につ:’てランツホーフ
と乱しますと彼も同意見です.これで・繊1・小説でも堅うといワささやカ}な噸
に霊㌶:;;漂㌔魏あ成立のために一つの動機となつた竺1こ・
その運命に重大な意囎持っていた.クラウス・マンにとって甚だ不鰭なモァルノ1’説
というレッテルを貼られたこの小説1ま,姉の前の夫であ幟兄でもあった但ド優クスタフ’
クリュントゲンス等の難の人物の鰭を傷つ}するもの・スキャンダラス蝿味を掻き
たてるものとして,グリュントゲンスの遺醐続人としての養子ペーターゴルスキー
㌫慧懸漂班真㌶≧鷲㌘:翼=
退けられ,・メフィスト、の西ドイツでの出麟止が綻し斌これから糖経た竺74
マルティンゴレゴール・デーり編の整理中の酬集の中に先のヘル竺’ケスアン
の手紙が観された.エーベルハルト・シュパンゲンベルクによれば亘フウス’マン
唖初は小説の中に以上の様な提案を採り入れることをちゅう躇したよつだ1°1・しかし
ランツホーフは最初の主張を固執した。
(2)
だからブリ叶リヒ・アルプレヒトは云っている・「この小説に携わる都ま2つの歴史
に関係しなければならない.即ち,この書が酷る歴史と・この書そのの歴史とに関係
㌫蕊二㌶瓢鷲こ‡㌶㌶選㌫㌍こ
クラウス.マンがこの小説に込める意図が{可であれ・第三帝国の名優・プ゜イセンの
劇雛督グスタフ・グリュントゲンスの名誉を鯛し中傷するという風評は・難的な
興味をそそるのみならず魂判所での齢の対照となったこと1ま酒ドイツでは齢未
聞のセンセーシ。ンを巻き起こすこととなった・この・1・説での主人公ヘンドリグへ一
フゲンという人物が,雌のためのオポチュニスE或はナチ同調者として醐竺る
のだが,この人物によ嶋めく俳優のグリュントゲンスの轍を想起させると云つので
あり,従ってこれはモデル小説だと云うのである・ともあれ・「メフィスト・がカ}っての
友人であり,かっての義兄でもあったグリントゲンスの個人的継復讐の欲望のため
に書かれたという主張は,今日なお聞かれるレこれをめぐる訴訟は・暇闘的魂治的
文学1・,、の例としての文学の本質的基本的論髄もいささ蝿難にした・モデ・レ小説と
いうレッテルを悪義に解していなV・にせよこの小説の前刊行を行った「・ξリ日刊綱・
(研,P。h、e,T騨、eit。。g)}ま,人心を惹きつける宣伝文句のもと}こ1936年6月19日・ま
さにモデル小説である,と広告した。
・モデル小説.メフィスト…第三帝国の演劇小説グスタク・グリュントゲンスの
特徴をそなえた或る劇場監督でナチスの枢密顧問官が中心人物1ユ〕」
オランダ政府は亡鯖たちの文学的活動には批較的寛大であったが・政治渤は禁じ
ていた。しかし1934年に,或るドイツの作家がオランダの裁判で・友好国の国家元首の
或る反ファシズム小説の波欄の半世紀 5
名誉毅損のかどで一ヶ月投獄の判決を受けた。かかる公訴の背景にドイツ政府の存在が
予想されるなかで,オランダ政府はマスコミに対しても態度を硬化させていたので,ラ
ンツホーフも自分の出版活動にも慎重であったし,グリュントゲンスのみならずナチス
下の国立劇場からの提訴を恐れ,「パリ日刊新聞」の責任者の一人に彼は手紙を書いた。
クラウス・マンもランツホーフの忠告を受け,直ちに新聞社に電報を打った。「メフィス
ト」はこの新聞に連載される最初の小説であることは,マンにとって大きな名誉,喜び
であったのだ。しかし「モデル小説という言葉を貴紙の予告に認めた時は,私には驚き
以外の何ものでもありませんでした…貴紙の品位のために,『モデル小説』などで楽し
む気はない高尚な読者のために,結局私自身の名誉のためにも,私は抗議せざるを得ま
せん。rメフィスト,或る出世物語』を私が書いた時,或る特定の人間の歴史を物語る気
は全くなかったことを,はっきりと宣言せざるを得ません。或るタイプを叙述すること
が私に重要だったのです…貴紙の予告に私のメフィストが,今日ドイツで成功を収め
ている或る特定の俳優の特徴をそなえているという遺憾なことが書かれています…私
の幻滅,私の怒り,私の苦痛一それらがあまりにも盲目的で私的なものであるが故に,
私がその人のあれこれのことを悪く思う個人に向けられ,モデル小説という形式であだ
討ちするというのでしょうか…否,私のメフィストはあれやこれやの人物ではありま
せん。さまざまな特徴がその中に流れています。ここで重要なのは肖像でなく象徴的な
タイプなのです一生命力に満ちた,文学的に観察され形成された人物であるかどうか
も読者が判断するでしょう14)。」
1936年6月23日「メフィスト」の作者クラウス・マンが,次の様な電文の簡単な要約
の掲載を願っていること,即ち,自分の小説は「モデル小説」でないこと,小説の主人
公と考えられた人物は特定の人物と関連がないことをパリ日刊新聞は告知した。かくて
1936年10月メフィストの初版の2500部が出版されたが,「モデル小説」という好ましくな
いイメージを背負っての出発であった。しかし乍らこの小説の一連の人物像が,クラウ
ス・マンの交友関係の中の諸人物から推測出来るという意味では,かかる解釈も否定出
来ないし,止むを得ないとして,フリートリ・アルプレヒトは次の様は関係を指摘して
いる15)。ヘンドリク・ヘーフゲン=グスタフ・グリュントゲンス,ニコレッタ・フォン・
ニーグーア=パメラ・ヴェデキント,フェリックス・マルダー=カール・シュテルンハ
イム,ベンヤミン・ペルツ=ゴットフリー一ト・ベン,バルバラ・ブルックナー=エリー
カ・マンその他のことが容易に推測可能であり,見過ごそうとすることは無意味であろ
うし,かといって専ら小説の中の諸人物像の解明,穿さくに興味をひくことを意図する
作品だと決して云えない。「ましていわんやこの本が低級なモティーフから出て成立した
もので,作者のことが智められるような美学的に劣るということではない1閨。」
クラウス・マンはこの小説の最後で,全ての登場人物は人間の類型(タイプ)をあら
わすものであり「個人の人物描写(ポートレート)1%ではない,と締め括っていた。更
に自伝記・「転回点」の中で主人公ヘーゲンに関する経緯について説明している、「私が
小説に書いた枢密顧問官兼国立劇場総監督ヘンドリク・へ一フゲンは…グスタフ・グ
リュントゲンスの肖像であろうか… 私がグリュントゲンスを選んだことは一一彼が特
に悪人だと思っていたからではなく(彼は第三帝国の他の多くの高官たちよりも多分は
6 宮 島 隆
好い人物であったろう).ただ偶然に彼を特に彼をよく知っていたからに過ぎない識わ
れが以前に糖は関係であったが故に,彼の変り方・彼の堕落は私にとって小説を書く
には十分に大変奇妙で,信じ難く,夢のように思えたのである…かっては共に生活・
活動し,討論し,遊び,盃を交わし,計画をたてたりして親しい友だち関係を保ってい
たにも拘わらず,今では怪物の様な帝国元師の食卓についているのだ・そうして今では
この殺人者どもと共に盃を交わし,はしゃぎ討論しているではないか1㌦」しかしヘーフ
ゲンはかってマンの義兄であったグリュントゲンスとは様ざまな点で違っているし・似
ているところもあると仮定したところでグリントゲンスが「主人公」であるとは云えな
いし,時代批判的な試みであったこの小説では,個々のことが問題でなく,「タイプ」が
問題である,とマンは主張するのである。現実と文学的形象化の間をめぐる問題,「主人
公」選択の動機づけの問題は,以上の説明で読者には明らかにされているだろう。
姉エリ・一力・マンは手紙に非いている。「ところで実際にこの小説が成立した奇妙な時
代,その間にドイツが私たちには大変悲惨に思えたので・その姿を将来二度とこの目で
見ることをとても信じられなかったこの時代であったからこそ・クラウスが彼の小説の
中で登場する多数の人物に,当時存在しまたかって存在した支配者たちの多数の特徴を
重ねて行くことが必然的に起こったのです。それ故にこの作品はモデル小説とはとても
云えないのです19).」ドイツでは1933年にはヒットラーが政権を握り,ファシズムの嵐は
悪い予感を蔓延させ,亡命生活は全く楽ではなく亡命先の市民が必ずしも友好的とは限
らず,物質的,生活技術上のうんざりする程の問題のみならず,心理的な圧迫に恐怖感
がつきまとっていた。既にハインリヒ・マン同様にエリーカもクラウスもドイツの市民
権を剥奪されていた。rドイツは地獄だった。入ってはならない呪いの地域だ’” (亡命
者の)恐怖の夢は比較を絶した惨状だった2°)。」 だからドイツ連邦共和国の憲法裁判所
の訴訟判決が云う様に,芸術のための関心事からではなく,「憎悪感」から成立したもの
で,グリュントゲンスの個人的憎しみから書かれたものであろうか?この小説の成立史
はそのことを果して裏付けていたであろうか?
クラウス・マンは自分の最初の刊行本,短編集「人生を前にして」(Vor dern Leben)
1925でも自然主義的意味における肖像の類似性を得んと追求しようとはせず,人物を形
成するにあたっては「自分の周辺から取り出した真実の原像2D」にまでしばしば遡って
得ようと努めた,とプリトリヒ・アルプレヒトは指摘している・更に彼はリー一クの論文
「ヘンドリク・ヘーフゲン(クラウス・マンの小説主人公の原型)22)」を引き合いに出し・
リークの更に一つの論拠,即ち,へ一フゲンという人物はマンの1932の小説「無限の中
での会合点」(Treffpunkt im Unendlichen)に於ける才能に恵まれた神経衰弱患者・成
功したスター,権力を持った俳優グレゴール・グレゴリーが持つ本質的特徴を既に模範
としたことを紹介している。そしてナチの出世者ヘーフゲンという人物は「不成功の亡
命者の羨望と憎悪の幻想に端を発している2ユハ,」という様な主張は否定されている・と説
明している。
この様に作家と現実,詩的創造と人物との間の関係について論じられる時・トーマス’
マン1906年のエッセーrビルゼと私」でのマンの省察が繰返し参考に出される。リュー一
ベックに於けるある出版法違反訴訟の裁定に当って,rブデンブローク家の人々」が中傷
或る反ファシズム小説の波欄の半世紀 7
事件の例としてしばしば問題にされ,作中人物の一部が実在の人々に基づいて作られて
いるからであり,多感な青春時代に受けた印象に関しての人々や事情を,故郷の思い出
を呼び覚ましつつ描写していると云うのであった。トーマス・マンはゲーテが「ヴェル
テル」を書いたあとで,迷惑をかけられた本物のロッテとその夫とを宥めるのに苦労し
た例を引き合いに出し,「詩人は現実によって与えられた細部に非常に隷属していること
もあろうし,現実の決定的な特徴を熱心に従順に作品のために使うかも知れない。がし
かし… 現実の世界と芸術の世界とを永久に分け隔てる本質的差異は存続するであろう
…しかしまた,すべての真の詩人はその描き出す人物とある程度まで一致するという
ことが知られている。ある文学作品に現われる人物は全て如何に敵対関係にあるように
描かれていても,作者の自我の流出であって,ツルゲーネフがバザーロフのなかと同時
にパウル・ペトロヴィッチのなかにいるように.ゲーテはアントーニオのなかにいると
同時にタッソーのなかにもいる。しかし,このような一致は読者がそれを全く感じない
場合はもちろん,読者が,ある登場人物を描く際に詩人を満たしたのは嘲笑と嫌悪だけ
だと誓うであろうような場合にも,瞬間的には存在するものである鋤,」と述べている。
作家と文学創作上の人物との問に想像出来る部分的同一性について,「プデンブローク家
の人々」に対する様々な非難に対し,上の様にトーマス・マンは弁護していたのである。
この実り多い省察は時として等閑されたこともあったが,30年後に奇しくも長男クラウ
スの作品にも妥当とされる。この様な場合「現実の誘因をはるかに越えて到達する叙事
詩の本質への洞察を定式化したもの25〕」としてフリートリヒ・アルプレヒトは評価して
いる。更に「ビルゼと私」に対して論評を送って来たクルト・マルテンス当ての1906年
3月28日の返信の中で,マンは以上の様な事{青についてもっと詳しく述べている。「ぼく
は作家の基準を,登場人物や筋のからくりを発明するための才能などに置いていない…
r創案』(Erfindung)しか持っていないのなら,三文小説作家の域からそれほど遠く離れ
てはいまいというのがぼくの考えだ,と云いたい。またぼくは,非常に偉大な詩人のな
かにも,一生涯なに一つ新しいものは発明せず,伝えられたものを自分自身の魂でみた
し,これに新しい形を与えることしかしなかった詩人もいるのだと言いたい…ただし
ぼくが指摘したかったのは,現実とその芸術的模写とを事実上同一視してしまう誤った
風潮だ脳。」トルストイの作品さえも少くとも,マンの作品と同程度に自伝的なものの粋
を出ていない,と云うのである。「メフィスト」の場合は芸術家と現実,即ちこの現実と
はファシズム独裁という特殊な問題性が,就中作品の核心部分を形成していることを忘
れてはならない。反ファシズムという概念でもってこそ,この作品は適切に特徴づけら
れるべきなのだったが,モデル小説というレッテルを持った当初の出発が,十二分に評
価され得ないことにもなっていた。このことは確認さるべきだが,クラウス・マンが逼
迫した危機を認識する前に,「既に彼は自分の歴史的大地にとってはっきり現われた鋭い
勘を,つまり『市民社会の危機』を持っていたのである調。」更にこの小説は,伝統的家
系的遺産に対する作者との密接な関係に少なからず被っていることは容易に想像出来る。
後期ブルジョア芸術家の家庭状況に蔓延していた問題性に対するクラウスの嗅覚は,既
に若い頃から呼びさまされていただろう。叔父ハインリヒと父トーマスの諸作品をめぐっ
て,両者の文学的存在を市民と芸術家の間の関係にさかのぼり,以上の観点からこの二
8 宮 島 瞳
人の芸術家は異った態度を取ったことを自伝的回想録「転回点」の中で述べている・トー
マスの既に存在していた「ファウスト博士」が「メフィスト」に影響を与えたことは想
像に難くないし,父は生涯の精神的基盤となっている。ハインリヒは理想としたヴァイ
マル共和国の出発当社から甥の将来を志向させつつ,亡命の始まりからも模範的に影響
を与えたことは知られている。或る芸術家の立身出世の歴史をテーマにして自分自身が
書きたかったが手に負えないと云ってクラウスに手紙を書き,「メフィスト」の主人公の
ヒントを与え,ハインリヒ・マンの「逸楽境」を参考にする様に示唆したのはヘルマン・
ケステンであった。1936年2月8日の母に当てた手紙の中でクラウスは・先週ハインリ
ヒの「臣下」(Untertan)を大いに楽しみ乍ら読んだことを書いている・「文学的に全く非
凡であるだけではなく,絶対的に驚く程予言的本であります・つまり文章には全てのこ
とが表わされているのです2且)。」フリートリヒ・アルプレヒトによれば・この時期はメフィ
スト小説の仕事は初期の段階に止どまっていたので,「臣下」の読了は仕事にとって好い
結果をもたらすことは推測出来る。クラウス・マンにより取り上げられた手掛かりを求
めてっみれば,ヴォルフガング・ブークという人物がへ一フゲンと多くの点で親近関係
を示し,政治権力と俳優との関係がメィストの中に於ける様に結合しあっている。「特権
階級に近づく知識人は精神にて裏切りを犯す」という「精神と行為29)」というエッセー
から有名な言葉の精髄が,メフィストの基本的テーマと一致しているとするならば,ハ
インリヒ・マンに基礎づけられた伝統的精神とクラウス・マンとの密接な関係は十分に
証明され得るだろう3°ハ.1914年の第一次大戦が開始された時にかず多くの作家達が脆く
も体制に妥協的態度を示したのに反し,ハインリヒはドイツの民主主義的精神の伝統を
擁護しその尖端に立つ少数の人々の一人であった。同年に発表された「臣下」では社会
の精神的情況の分析に止どまるだけでなく,政治的経済的検証をも加え,ヴィルヘルム
ニ世を最高に頂く体制を批判し,権力関係から搾取関係へと問題は醐ll的に追求された。
かかる批判的態度がクラウス・マンの創作の価値判断に如何に生かされているだろうか?
(3)
ハインリヒ・マンの言動は反動勢力にとって決して無視することは出来なかった。心
魂を傾注したと云える情熱に迫力と説得力があったからである。「彼r臣下』の作家は」
とクラウス・マンはその予言的性格について語っている。「ナチスがまだr運動』として
確立する以前からその本質を見抜き,表現し,こきおろしていた。彼はドイツ共和国の
最も熱心な闘士にして擁護者,しかしまた同時に最も峻列なる批判者でもあった・今や
彼はまさに自分が再三非難し警告してきた誤謬のために,共和国が破滅して行くのを見
なければならなかった。崩壊は不可避だったのか。抵抗の諸勢力が結集していたら不可
避でなかったのだ3n。」「臣下」が構想され執筆された大戦前の時代と,それとは当然の
こと乍ら強く異った時代を創作の前提としてクラウス・マンは出発しなければならなかっ
た.この彼自身の諸前提を検討することは,H・ヘーフゲンとG・グリュントゲンすと
の関係も詳しく確定することが出来るであろう。ファシズム独裁成立の最初の年から・
ジャーナリズムの世界は激しい論争に満ちていた。「文化に敵対する反動の毒は単に政治
或る反ファシズム小説の波欄の半世紀 9
生活を腐敗させたのみではない。いわゆる『自由主義的』な知識人の志操と理念にも既
に解体の毒は廻りはじめていた…これらすべてのファシズム感染の徴候は,単に極右
の国粋主義的新聞ばかりでなく,流行に乗った哲学者,文学者らの尊大な特殊用語の中
にも認められた32)。」ヒットラーに捧げられた賛意住所録には,88名の作家が署名したが
「血胆い権力と契約してメフィストになった小市民コ3)」ヘーフゲンはこのことに由来する。
ゴットフリート・ベン,グスタフ・グリュントゲンスも以上の関連で考えられた。「普通
我われに専ら嫌悪感を起こさせる精神に対する裏切りの劇は,我われに只一つのこと教
えている。即ち裏切り者に対しては和解の余地がないことである。」これはべンとの有名
な論議の結末に於いての結語であった。小説「メフィスト」のベンヤミン・ベルツの原
像はこのべンと云われ,彼自身も回想記「二重生活」(Doppelleben)34)の中でも認めてい
る・マンは「転回点」の中でこう述べている。「知識人が(すべてでないが大多数が!)
反キリストに,すなわち精神と自由と文化の敵に取りいったのだ。そのひとり,私が特
に尊敬していたゴットフリート・ベンは,ついに進歩の理念をr人間の歴史最大の卑俗」
と誹誘するまでに至った。なるほど確実に進歩の敵ではあるが,だが同時にやはりある
種の卑俗さをまぬがれぬ勢力が勝ち誇って行進してくるというのに,実に珍妙な言辞だ
35)
D」 1933年五月ヒットラー一が政権を取った時に,尊敬する伯父ハインリヒ・マンが嫌
悪の念を持うて去っていったこの国家の芸術院会員としての役割を,ベンは続けようと
していた。クラウス・マンは時々ベンを訪問し交友関係を結んで居り,「彼は高度の知性
をそなえた人物であり…非の打ちどころのない教養を身につけ,きわめて礼儀正しく
今日では絶えて見ることの出来ないような美しい特性を持っていた澗,」とべンはマンの
印象を述べている。このべンのナチス治下の行動を許し難く思ったマンは,激烈な非難
の長文の手紙をペンに送った。ベンは亡命者達を私信で非難するのにあきたらず「公開
状でわれわれを諸責する3〒㌧ありさまであり,それは「ドイツ国民新聞」に公表され,
ラジオでも放送されたりした。ベンは痛ましくも自殺した故人クラウス・マンに敬意を
表するためにも1950年に厳粛に手紙を公表し,15年間も再読しなかったが,当時27歳で
あった人物の当時の状況に対する正しい判断,事の発展を正しく予見し,ベンよりも明
晰に見通していたことに,「今日ふたたび取りあげてみて,全く呆然としてしまった鋤,」
と回想している。マンはこの手紙の中で述べている。「父はその国でただ罵倒されるばか
りです。その国が世界において声望を得るように,あらゆることをやったのであります,
一あなたにとって大切であった外国の人びとも,きわめて鋭い抗議に力を尽くしてお
ります… もしおそろしく厳密な注意を払わないならば,非合理的なものへの余りにも
強い共感は政治的な反動へ通じるということは,実に今日ではほとんど避けられない法
則です39}。」ゴットフリート・ベンはみずから,33年のヒットラー政権獲得以来の50年ま
で全く真摯な態度で思想的遍歴を語っている。今日の我われはその背後に追いつめられ
た精神のあり方を窺い知ることが出来る。この様な精神の航跡は多少の相違があるにし
てもグスタフ・グリュントゲンすにあてはまるだろう。33年当時頃のマンは彼らとは反
対に立場にあり,ドイツに残っていた文家人たち変化の過程をありありと思い描くこと
は出来なかったし,正当性を自由に行使する状況には居れなかったが,反ファシズムと
いう倫理的な誇りとの間の精神的ジレンマがマンの反応に特別の色あいを添えている。
10 宮 島 陸
このことはメフィストのヘンドリク・へ一フゲンにも現れている・作家と登場人物の間
の一般的且つ微妙な関係は,トーマス・マンの「ビルゼと私」の中に見られた・パリ日
刊新聞の編集部に宛てて打たれ電文にの中にクラウス・マンは・「私の苦悩や怒りや幻滅
の対象は,特定の一人の俳優に向けるにしてはあまりに大きすぎるようです’”三年の
辛い月日の間我われが味わわされた認識と感情を一ある人物のなかに総括し・その人
物の姿で文学作品化しようとする場合一虚構の人物の形を通じてのみ可能なのです・」
と云っていたことを思い出せば.この言葉は正直に受け取らるべきであろう・「我われの
憎悪が積極的戦闘的になるののは,我われが敵に対しある種の類縁性を感ずる場合のみ
だ。まったく軽蔑している相手とは争はない4°)。」 マンの親近者に向けた感情の多様性
と深刻さとは、誤刺的距離を認識させつつ以上の言葉からも推測出来るのである。
既に故人となったグリュントゲンスの遺産相続人で養子のペーター・ゴルスキーが,
1963年3月ハンブルクの地方裁判所に小説「メフィスト」の出版禁止訴訟を起こしたの
であった。しかし,それより前1951年グリントゲンスは「転回点」の中に彼に関する人
物描写に歪曲があること,ヘンドリク・ヘーフゲンとの同一視を阻止すべきとしてクラ
ウス・マンの回想記の出版妨害するために,評論家クルト・リースの協力を得て様ざま
な策動を開始した。マン家に新たな困難な問題が生じたのはクラウスの亡き後の事だっ
た。
Anmer㎞gen
1)Klaus Mann:Der Wendepunkt. Ein Lebensbericht. Rowohlt,1984・
S.282
2)Uwe Naumann l Klaus Mann mit Selbstzeugnissen und
Bilddokumenten, Rowohlt,1984,S.58.
3)Der Wendepunkt, S.333.
4) ebenda, S.334−335. .
5)Eberhard Spangenberg l Karriere eines Romans・. Mephlstg・Klaus
Mann und Gustaf Grundgens. Ein dokumentarlscher Berlcht、旦us
Deutschland und dem Exi11925−1981, Mit 151 Abbildungen, edltlon
spangenberg,im EIIermann Verlag,1984,S・67・
6)Ube Naumann,乱乱o., S.61. Eberhard Spangenberg, a・a・o・, S・76・
7) Eberhard Spa皿genberg, a.a.o., S.67.
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或る反ファシズム小説の波欄の半世紀 11
8)Hermann Kesten an Klaus Mann. Brief vom 15,11,1935,−in:Briefe
und AIltworten,1922−1949,Herausgegeben und mit einem Vorwor亡
von Martin Georg−Delin, edition spangenberg irn Ellermann Verlag,
S.238−239.
9) Eberhard Spangenberg, a.a.o., S.185
10) ebenda, S.68.
11)Friedrich Albrecht:Klaus Manns“Mephisto. Roman einer Karriere
”,in:Weimal’er Beitrage.6/1988. S.978.
ユ2) ebenda
13) Abgedruckt bei Spangenberg, a乱o., S.89,
14) ebenda, S.90. Abgedruckt bei, Zur Ver6ffentlchung dieser Ausgabe
von Belthold Spangenberg in:Klaus Mann:Mephisto Roman einer
KarHere, Rowohlt.1988. S, XIIL
15) Fliedhch Albrecht, a.a.o., S.979.
16) ebenda.
17)Klaus Mann:Mephisto, a.a.o., S.344.
18)Der Wendepunkt, a.乱o., S.337.
19)Ehka Mann an Cult B⑪is, Abgedruckt bei Spangenberg, a.a.o., S.85.
20)Der Wendepunkt, aa.o., S.337、
21) Fhedrich Albrecht, a.a.o., S.979.
22)Werner Rieck:Hendrik H6fgen. Zur Genesis einer Romanfigur Klaus
Manns, in:Weimarer Beitrage,4/1969.
23) Friedrich Albrecht, a.a.o., S,980.
24)Thomas Mann:Bilse und ich, in:Gesarnmelte Werke, Bd. X, S.
Fischer Verlag,1974,S.16.
25) Friedrich Albrecht, a.a.o., S.797.
26)Briefe 1889−1936, hrg. v. Erika Mam, Berlin und Weimar 1965, S.77
u.78.Abgedruckt bei Werner Rieck,乱a.α, S.857.
27) Friedrich Albrecht, a.a.o., S.982.
28)Klaus Mann:Briefe, Hrg. von FHedhch Albrecht, Aufbau−Verlag
Belin und Weimar l988, S.233.
29)Heinrich Mann:Geist und Tat, in:Mann l Essays, Bd.1, Berlin]954,
S.14. Abgedruckt bei Fheddch Albrecht, S.1000.
30) Fridrich Albrecht, a.a.o., S.982.
3ユ)Der Wendep皿kt, a.a.o., S.261. ,
32) ebenda, S.284.
33)Klaus Mann:Mephisto, a.乱o., S.284.
34)Gottfried Benl1;Gesammelte Werke in vier Banden, Wiesbaden,
Limes,1961, Bd. IV, S.83.
35)Der Wendepunkt, aao., S.249.
36) GottfHed Benn:DoPPelleben, S.73.
37)Der Wendepunkt, a.a.o., S.289.
38) Gottfrled Benn:DoPPelleben, S.73.
39) ebenda, S.76−77.
Klaus Mann:Brief an Gottfried Benn von 9. Mai 1933. S.91−94. a.ao.,
40)Der Wendepunkt, a.a.o., S.253.