みどりのゆび - Textt

みどりのゆび
(1)レオナルド
がれきが空から落ちてくる速度が遅いように感じるのは、レオナルドがこの街になれたせいな
のか、それとも神々の義眼のせいなのか、はたまたHLを覆う濃霧のせいかもしれない。
大きな塊が地面と衝突する度に砂埃が舞い上がり、レオナルドはたまらずゴーグルを目にかけ
、だるだるのトレーナーのネックを口元まで引き上げた。皆レオナルドが金がなくて古着しか買
えないのだと誤解しているが、これは簡易マスクになって便利なのだ。
赤いオーラが砂埃と霧の中に見える。ブラッドブリードだ。
レオナルドは緊張から唇をかんだ。
永遠の虚、HLの中心、ユグドラシルの向こうから、ブラッドブリードはやってくるという。
レオナルドは、自身でもあの濃霧の中の赤い翼の渦を見ているが、いざ街中でブラッドブリー
ドに出現されると、毎回「唐突だな」と思わずには居られない。
今回も警官隊が素早く対応したようだが、即座に手に負えなくなりライブラに要請が来た。も
っとも要請が来るのとライブラが現場に到着したのはほぼ同時であった。
ライブラはライブラで、漁師が編んだ漁網のように正確で強固なネットワークを持っていて、
こと血界の眷属に関しては素早い。
「おい、陰毛! どうだ!?」
「池! 池の真ん中の浮島にいます!」
いちいち陰毛って呼ぶなよと思いながら、レオナルドはザップに必死につかまってランブレッ
タから振り落とされないようにした。
天才の名を欲しいままにするザップは、レオナルドの弱さに関して若干無頓着で、後から救護
の形でつじつまを合わせるようなところがあった。
「池ぇ?」
「この間の区画クジで! フォレストパークの一部がここにぶっ飛んできてるんです!」
「なんていい加減な街だよ」
その意見に関して、レオナルドもおおむね同意だ。
ビルとがれきと街路樹に囲まれた場所から、突然開けたあたりに出る。唐突に始まるフォレス
トパークだ。
遮蔽物がなくなったのを警戒したザップが、わざと遊歩道まで下がる。
「おい、読めるか!?」
「くそ、まだ! 見えないっす!!」
「そうか、よし」
何がよしだよ?とレオナルドが思った瞬間、ランブレッタは最高速度まで駆け上がり、赤い熱
い糸がレオナルドをす巻きにして持ち上げた。
「うぇぇええええ!!? なにすんだあんた!!!!」
「くず餅ぃ! パァアアアアス!!!」
抗議虚しく、レオナルドはザップの血法で円盤投げよろしく放られる。石畳、芝生、兎型のつ
げの木などなどがレオナルドの横目に映っては通り過ぎる。地面すれすれの滑空は義眼の向こう
の観察者にもスリルをもたらしているだろうか!?そんなことはどうでもいい!
「うおぉぉぉ!? あーーーーぶーーーーーねーーーーーー!!!」
ばよん、とネットで受け止められた感覚があり、自分が助かった事は分かったが、レオナルド
は既に死に瀕した気分だ。
「なんて無茶を! でも迷っていられません。いきますよ!」
投げ飛ばされた先に居たのはザップの兄弟弟子ツェッドだ。池の縁にいた彼が、血法で編んだ
ネットでレオナルドを受け止めたのだ。
義眼もないのに、ザップにツェッドの場所が正確にわかるのは、同じ流派でなにか交信術でも
あるのかと疑いたくなる。
『斗流血法応用・逆さ泡鉢さらに逆』
若干腑に落ちない技名を言われた後、レオナルドになにか粘るものがまとわりついた感触があ
った。呼吸が少し重苦しい。
「いいですか、水の中から近づきます。諱が読めるところまで来たら教えてください」
そのまま手を引かれたかと思うと、レオナルドはツェッドと共に水中に没した。
「!!!!!」
「大丈夫です。息をして。濡れませんが、時間を少しでも持たせる為に空気を圧縮してるので苦
しく感じると思います。まずは僕の手を頼って。この手を離すとレオ君は浮き上がってしまう」
レオナルドはツェッドの作る空気の繭をまとって水中に居るのだった。肝心のスマホが濡れな
いようにか、顔周辺だけではなく全身をくまなく包まれている。
ツェッドの手首だけがレオナルドの膜の内側にあり、レオナルドが浮き上がらないように引っ
ぱっている。普通に考えて凄い力だ。
やがてツェッドの手首からするすると赤い糸が伸びてレオナルドの足首に巻き付き、膜から飛
び出していくと、池の底に突き刺さった。
そっとツェッドが手を膜から離す。
「うお、なるほど……」
「レオ君、いきますよ」
水中のツェッドは、当然ながら機敏だった。レオナルドは空気のスーツを着ているので水の抵
抗を感じて体が重い。
自然を模した人工池の底は、砂とヘドロが積み重なり、全て鈍色でまろやかな形をしている。
魚は居るのかも知れないが、今は見当たらない。
レオナルドは気配を感じて水面を見上げた。
赤いオーラが散っているのがわかる。
「ツェッドさん。この泡鉢、ちょっと魚眼レンズみたいにできませんか。多分この距離なら水面
に浮けば行けます」
物理的に近くに居ても、眼球に血界の眷属が映らないと、さすがに諱は厳しい。通常なら建物
の中に居る人物の眼球を借りて対象を見たり、視野を支配できるのだが、ブラッドブリードに間
接行為はなぜか行えないのだ。鏡に映らないことと関係があるのかも知れない。水面から顔を出
さずに相手を見ることができたら、それに越したことはない。
「……次回の参考にしますね」
次回かい。
レオナルドが考える間もなく、体が急激に持ち上がる。巻き付いていた血糸が伸びる感触に続
いて、水が大きく持ち上がるのがわかった。
レオナルドはツェッドを信用してスマホを取り出した。
「いいですか、入力が終わったら全力で逃げてください! 糸は左右に振り切れば、切れるはず
です!」
頭が水面に上がったと同時に、ツェッドが血を三叉槍に変化させて握り、レオナルドを水しぶ
きに隠すように飛び出す。
同時に向こう岸からザップが自らの血法を使い、棒高跳びの要領で吹っ飛んできたのが見えた
。
「カグヅチ 刃身ノ壱 焔丸」
『斗流血法』
「シナトベ 刃身ノ伍 突龍槍」
技名と突風と火花が炸裂し、応戦したブラッドブリードの禍々しい声が耳を突き抜ける。
かの眷属は、かつて紐育によくいた若者の懐かしい姿をしていた。毛糸の帽子に短髪、黒い肌
、厚い唇。だぼついたTシャツ、大ぶりのネックレス……
レオナルドは目をこらして一文字ずつ確実に入力を始める。
息を殺して二度目の確認を終えて、送信ボタンを押した。
「よし……!」
緊張から一瞬解放されて思わず声が出た。
同時に背筋に冷たいものを感じてレオナルドは固まった。ブラッドブリードに気づかれたのだ
! 今までレオナルドの役割に気づかれたことはないが、それでもいつも彼らは「何かをしてい
る」事には気づいて、戦闘能力のほとんど無いレオナルドにも牙を向けてくる。
赤い理知的な瞳がレオナルドを射貫く。このまま見つめてはいけないとガンガン警鐘が鳴るが
、首が動かない。
義眼の力を開こうにも、縫い付けられたように体の自由がきかなかった。
そこにおちゃらけた大声。
「おい、オールドスクール・ファッション! 今何年だと思ってんだよ! 今に生きろよ!? あ、死んでるのか。 紅蓮骨喰!」
対象に斬りかかるかと思ったザップが、レオナルドの予想に反して骨喰を池に突っ込んだ。
0.5秒後、池の水が突沸して爆発する。
空気の膜をまとったままだったレオナルドは、火傷もなく岸に吹っ飛んだだけだが、その膜が
着地と同時に破れたのを感じて、無意識で蒸気の向こうにツェッドを探した。
義眼に映る分断されたブラッドブリード。肉片は灰になって消えてゆくが、本体は超速再生で
あっという間に元に戻ってゆく。
再生スピードは早いのに、右手が再生しない、と気づいた瞬間にレオナルドは叫んでいた。
「ツェッドさん! 後ろ!」
手首から先がツェッドの頸椎を狙って鋭く迫るところを、突龍槍が弾いた。
しかし、今度はレオナルドに向かって方向転換をし、凄いスピードで向かってくる!
「レオ君!」
ツェッドがまだ熱い池の上に滑り込んで空斬糸を伸ばし、血界の眷属の右手を絡め取った。
レオナルドの眼前で青白い右手が細切れになる。耳の奥で心臓が早鐘を打ち、どっと血が下が
る。
「だから! 俺を無視するなぁあああ!」
ザップが本体を大蛇薙で切り払い、再びの時間稼ぎを試みている間、半身が熱湯に浸かってま
っ赤になったツェッドが叫ぶ。
「レオ君! もう! 逃げなさい! あなたの勝利条件は逃走と生存だ!!」
同時に風編みを最大風速で繰り出し、レオナルドを遊歩道まで吹っ飛ばした。
飛ばされながらレオナルドは斗流の「七獄・天羽鞴」の轟音を聞き、クラウスとスティーブン
が走ってくるのとすれ違った。
レオナルドは一人、遊歩道で悔しさに打ちひしぎ、頭の縮れ毛をつかんで涙を堪えた。
「ぐえ」
頭を、チェインが存在希釈の軽い体重で踏んでいった。
顔を上げると、カメラ片手にクラウス達を追いかけていく彼女が、視線を前に戻す瞬間だった
。
ひらりと片手で挨拶をされた。
程なくクラウスの咆哮が聞こえ、密封は成功したようだ。
レオナルドは立ち上がり、膝を払うと走り始めた。スティーブンに冷水を作ってもらって、ツ
ェッドを冷やさなくてはならないと思ったからだ。
ツェッドの容体は広範囲の軽度の火傷であった。とっさに熱湯に入らないよう『逆さ泡鉢さら
に逆』で空気の膜を張ったらしいが、周りの空気も熱されていた為、それで火傷を負ったらしい
。
といっても、元は水棲生物のツェッドなので、火傷がどれくらいで治るのか心配をした。
タイミング良く現れた幻界病棟ライゼスに、レオナルドとザップで無理矢理押し込み診察をし
てもらった。ザップはあれでいてツェッドに対して親切なところがある。
Dr.エステヴェスの見立てでは飲み薬を飲んで三日ほど水槽で大人しくしていればいいとの事だ
った。
ツェッドを送るついでに皆で事務所に帰り、水槽の前まではそれなりにしおらしくしていたレ
オナルドとザップは、事務室のドアを開けてソファに座った瞬間から険悪な雰囲気になった。
「おい。お前、斗流を舐めてんのか」
「まさか」
ギルベルトが気を利かせた渡してくれた温かいおしぼりで、レオナルドが顔を拭くと、ザップ
が逆手アイアンクローでロックする。
「がっ!」
濡れたおしぼりで鼻と口を押さえる所行にレオナルドは白黒したが、酸欠になる寸前で手が離
れた。
ぼとりとおしぼりがレオナルドの膝に落ちる。目の前にはザップの右手があった。
「なにすんですか、アンタ! 死ぬでしょうが!」
「……クソが。誰がテメーを死なすかよ。頭の陰毛を本来の場所に移植すんぞ!? いいか、BB
戦でお前が死ぬときは、」
ばしん、と乱暴に扉が開く。
どっと重い気が流れて、ザップが言葉を切った。レオナルドは気に当てられて腹がビリビリと
した。
発生源は、今扉を開けて入ってきたライブラのリーダー、クラウスだ。
「なんだ、入れよクラウス。後がつかえてる」
後ろから仕方ない風情でスティーブンがクラウスを押し込むように入室させると、クラウスの
気配が少し緩み、レオナルドは丹田に力を込めなくて良くなった。
「すまない」
クラウスはスティーブンに謝ると、つかつかとソファの前まで寄り、レオナルドを見下ろした
。眼鏡の中の瞳は鋭い。
レオナルドは少し身構えたが、怒られるのなら甘んじて受け入れたいと思い、居住まいを正し
た。
「レオ。私はミシェーラ嬢に君のことを頼まれている。君が無事でなければ、私は彼女に申し訳
が立たない。君の勇気を侮っているわけではない。ただ、どうか『私たちを盾にする勇気』を持
って欲しい。——君の気性から言って難しいのは承知しているが、頼む」
「すいません……」
ザップの舌打ち。
レオナルドはとうとううなだれた。
自分はいくら傷ついても耐えられると思っているが、他人を自分より前に置くのは本当に苦手
だ。それを『仲間を盾にする勇気がない』と言われてしまうと、ぐうの音も出ない。信頼してい
ないのとほとんど同じように思われた。
「クラウス。少年も反省しているようだ。ザップからも締め上げられたようだし、とりあえず今
日は解散でいいだろう」
ザップが立ち上がり、スティーブンに二、三話すとレオナルドの顔も見ずに事務室を出た。
スティーブンが顎をさすりながら、気の抜けた顔をする。彼流の気の使い方だろう。
「少年。あれはザップの八つ当たりだ。君が声を上げたのは確かに軽率だと思うが、池を沸騰さ
せてツェッドの退路を一つ消したのはザップだからな」
「……」
レオナルドは困った気持ちになった。
ザップが池の水を沸騰させたのは、結局レオナルドを手っ取り早く退却させ、ついでに煙幕を
張ったのだ。ツェッドを信頼しての技だ。それなのに、レオナルドはその場にとどまりツェッド
を呼んでしまった。スティーブンはザップのミスだと言うが、レオナルドにはとてもそうは思わ
れない。おかげでツェッドはしなくていい怪我をした。
スティーブンがため息をついて肩をすくめた。
「言い訳はしない、と。わかった。では罰を与えることにしようか。この後僕の仕事を手伝って
もらう」
「スティーブン。君の仕事は懲罰ではない」
「それは正論だが、今言うことじゃないだろう。少年は無料奉仕、僕は職務でやるに決まってる
だろ」
「む、では私も手伝うとしようか」
「職務として? それはそれは。頼むよ」
ギルベルトの手でいつの間にかセッティングされた紅茶と軽食を傍らに、それから深夜まで三
人で粛々と書類を捌いた。レオナルドは慣れない仕事ではあるが、義眼の力も投入してやりきっ
た。
体の疲れに、頭の疲れが追いついて幾分か楽になった気がした。
スティーブンに手持ちの最後を渡し、レオナルドが長く息を吐くとクラウスと目が合った。だ
が彼の視線はすぐオールドマックの影に隠れた。仕方なしに、その向こうの窓を見やる。HLの深
夜は赤い光りが多い。自動車のテールランプ、信号、消防、警察、異界人が放つ光、ビルの航空
障害灯……。レオナルドの義眼には光の詳細が映っているが、もはや習い性で全てを流してしま
える。
特殊な呪が施されている窓に、伸びをしたスティーブンの腕時計が映り、赤以外の色でちかっ
と光った。
終わりの合図だろう。
「うーん。意外と優秀だな。そういえば、少年は記者志望だったか。ま、助かった」
書類をファイルに綴るとスティーブンは立ち上がり、椅子にかけていたジャケットに腕を通す
。
「帰るのか」クラウスが椅子を半分引きながら訊ねる。
「ああ。ミセスヴェデットが朝食を作ってくれる日なのでね。家を空けているとそれはそれで悪
いから。失礼する」
「レオはどうするのかね」
「あの、できれば朝までここに居させてもらえませんか。早朝バイトが入ってますし、この時間
歩いて帰るのも却って物騒ですから」
「そうか。では毛布でも持ってこよう」
悪いから俺が取りに行きます、というレオナルドを制してクラウスが立ち上がり、スティーブ
ンに続いて部屋を出てしまった。
レオナルドは所存がなくなり、各々の机に配られていた軽食の皿を集めて簡易キッチンに置い
た。
改めてソファに腰を下ろすとどっと疲れが出て、たまらずスニーカーと靴下を脱いだ。
右足の親指の爪の中が出血している。押すと痛みがあるが、黙っていればそれ程でもない。
「足、速くならないとなあ」
ツェッドの声を思い出す。『逃走と生存が勝利条件』……。
義眼の特性上、前線に一度は立たなくてはならない。あの苛烈さを目の当たりにしながら撤退
するのがレオナルドの役割だ。
要は仲間を盾にする前に、逃げ切ってしまえばいいのだ。
ソファの前のラグに素足を下ろし、屈伸をし、ふくらはぎの筋を伸ばしてみる。
「ふん! ふん!」
声を出すのは暗くなりそうな自分の気持ちを奮い立たせる為だ。少し間抜けなくらいがいい。
「レオ」
「あっ! クラウスさん! ありがとうございます」
扉をくぐるように入ってきたクラウスが、ブランケットをレオナルドに渡すと、少し微笑んだ
。笑うと言っても目元が緩んだと感じる程度だが。
レオナルドを馬鹿にして笑っているわけではないのは、クラウスの人柄を知れば誰にでもわか
ることだった。
「今日は寝た方がいい」
「はい……そっすよね」
なんとなく、クラウスがトレーニングに付き合ってくれるのではないかと思ったレオナルドは
、肩を落としてぼすりとソファに座った。
クラウスがソファの前で体を少しかがめ、レオナルドの顔をのぞき込むようにした。
「悔しい、だろうな」
「クラウスさん」
「ミシェーラ嬢が、君は前進しかしない亀の騎士だと」
「あいつそんなこと……」
レオナルドはちょっと困った。まさか妹がクラウスと、自分の人となりについて話していると
は思わなかった。
いいかね、と断りながらクラウスがレオナルドの隣に腰掛ける。クラウスの質量が圧倒してい
るので、図らずもソファのクッションが傾いで、レオナルドはクラウスにもたれかかるようにな
ってしまった。
慌てて上半身を起こそうとすると「そのままで」と肩に大きな手を置かれた。
「いや、でも、ちょっとこれは恥ずかしいっす」
「そんなに頼りないかね」
「クラウスさんのことを頼りないって言う人は、ザップさんのお師匠さんくらいです」
「そうか」
さりげなく抵抗しようとしても、手がびくとも動かない。レオナルドは諦めて体を預けた。
クラウスの体は温かい。
レオナルドは、体の中から眠気が引き出されてくるのを自覚していた。脱力しながら口を開く
。
「——悔しいです。俺の力は、練習とか修行とか、そういうので身につけたものじゃないから…
…ブラッドブリードを目の前にして逃げるのが……怖いです」
「私の力は、私が欲しくて得たものではないよ、レオ」
優しい声に、レオナルドが目を上げると、クラウスは遠くを見るような目をしていた。
「ラインヘルツの血の、誰にこの術式が出るのかは全く分からないのだ。私の前に出た男は大叔
父にあたる方だ」
「そのひとも牙狩りに?」
「ああ。だが私が生まれるより前に亡くなっている」
レオナルドはぼんやりと考えた。ヴァンパイアハンターを代々輩出している家の者の寿命は、
長いとは思われない。
「……怖くはないですか」
少し沈黙があった。レオナルドは少し意地悪な質問だったかなと思った。
「ああ、怖い。だから私はブレングリード流血闘術を極めようとした」
クラウスのような偉丈夫でも、怖いのだ。いや、順番が逆なのかも知れない。怖いから鍛錬の
成果で偉丈夫になった。
「俺も、できますかね」
「私には、才能があった。私は普通ではない」
言外に否定されてしまったが、レオナルドはふふ、と笑ってしまった。クラウスが気高いこと
は承知だが、自らを持ち上げるのは珍しい。客観的事実と言われればその通りではあるが。
「私は、この才能を、血を生かさなければならない。背負ってしまったものを、下ろす勇気がな
いんだ」
ノブレス・オブリージュな言葉が出てくると思ったレオナルドは、当てが外れて少し目を見張
った。
「下ろす、勇気」
「そうだ、だから君の気持ちはわかるつもりだ。仲間を敵前に残したくないのだろう。人が傷つ
くよりも、自分が傷つく方がいいと思うだろう」
レオナルドに強烈な眠気が来た。クラウスの体にさらにしなだれかかっているが、起こそうに
も上手く行かない。
クラウスの手が、肩から腕へとするりと落ちて、さらに引き寄せられる。
「だから、どうか。私を君の一部だと思ってくれないか」
「え……?」
「レオ、私は君に出会えて自由になった」
「じゆう」
「卑怯だと言ってくれて構わない。私は、密封の力の為に、組織で一番最後に死ななければなら
なかった。スティーブンによく言われた。『君を今失うわけにはいけない』と。今でも言われる
が……、今はここに君が加わっているんだ、レオ。君は、私たちの一番最後に死ぬべきだ——ザ
ップが君に言いかかっていただろう。先ほどは彼に言われるのがたまらなくて、焦ってしまった
。私が言いたかったのだ。告白する。死の自由は、私を安らかにする。累々たる屍を前に、最後
の一人にならない自由は私の誇りを守る。私は君を守って死ぬ」
「……それは、いやです……」
「知っている。だから、レオ。私を君の一部にしてくれ。私が死ねば、君はいずれ死ぬだろう」
「ひとは、必ず死にます。おれは、この、目を、ミシェーラと、クラウスさんにあげたい……で
も、それは……よけい、おも、たいって、」
レオナルドは頭を撫でられているなと思ったが、もうそれ以上どうにもならなかった。
夢うつつに、神々の義眼を思う。この目を持つことは、世の修羅を見ることだ。神々が運命づ
けるのか、それとも人間の時代がそうさせるのかはしらない……。
どちらにしろ、既にレオナルドはこの眼を持ちライブラと邂逅し、運命を共にすることは決定
されている。覆らない。
「大丈夫だ。私はそう簡単に死ぬつもりはない。私が強くあれば、最後の一人になる順番は遠く
なる……死なないよ。死なせはしない」
死ぬの死なないの、物騒な寝物語を耳に残してレオナルドは本格的に睡魔に誘われていった。
横たえられた感触、ブランケットの柔らかさ。そっと手を持ち上げられ、指先に感じる温かさ
。
祈りみたいだとレオナルドが思ったのが意識の最後だ。
(2)ツェッド
ツェッドは皆の心配が大げさだなとは思ったが、納得するならいいかと黙って治療をされ、水
槽に運ばれた。
修行をしていた頃は火傷はしょっちゅうで、師匠が作り出した業火をくぐることもしてきたの
に、と思い出して少し面白くなった。
兄弟子(認めたくはないが)のあの焦りよう。あの人は変なところで情が深いから、しょっち
ゅう愛人に刺し殺されそうになっているし、恨みを買ってトレーラーにはね飛ばされるのだろう
。
水槽の中で泡を吐いて見つめる。
ツェッドに愛について教えたのは、生みの親であるオブライエン伯爵だ。
伯爵は、師匠の裸獣汁外衛賤厳によって滅殺された。次に再生されるのは千年以上も後らしい
。ツェッドの寿命を誰も知らないが、多分自分は生きていないだろう。
『愛と生と死は不可分だ。故に私は愛を持たない』
オブライエン伯爵の言葉の意味を時々考える。
水槽の中の無辜な生き物であったツェッドは、まさにつがいを持たない楽園の住人だった。た
だ従順で、知識を欲し、生命に正直に生きていた。
だが、伯爵がツェッドに向けたものは、愛と呼べるものではなかったか。
不思議なことに、伯爵を滅殺した裸獣汁外衛がツェッドに強いてきたものも、愛ではないのか
。
どちらも、ツェッドに生きることを教えた。
混迷した生き物にしか見えないザップでさえも、ツェッドの生を守ろうとする。
生きることとは、誠に度しがたい……。
「いいかね」
口から出す泡の数を数えるのも馬鹿らしくなってきた頃、クラウスの声がした。
「どうぞ」
水槽から繋がるインターホンで答えると、ドアが開いて、観葉植物をくぐるように巨漢が現れ
た。ここはライブラの内部であるし、特にリーダーであるクラウスがいちいち許可を取らなくて
もいいとツェッドは思うが、クラウスはクラウスのルールがあるのだろう。
彼は水槽の前に椅子をおいて座った。普通サイズの椅子に彼が座ると、「ちょこん」という表
現がぴったりだ。座面が足りない。
「具合はどうかね」
「悪くはないです。驚かせてすみません」
「いや、いいんだ」
ツェッドが時計を見ると、午前五時だった。あのまま事務所に居たのだろう。
クラウスが本棚に目を走らせたので、ツェッドは訊ねた。
「なにかお探しでしたか。そういえば、先日お借りした本なら机の上です」
「いや、ここに聖書があるのを思い出してね」
「ああ。伯爵が僕にヘブライ語を教える為に使っていて。その本は我が師に焼き払われましたけ
れど、こちらの書庫にもあったのでここの本棚に移させてもらいました。懐かしくてたまに読み
直します。最近知りましたが、ブラッドブリードは聖書が苦手だと思われているらしいですね」
「正確には十字架だな」
「……何故でしょうか。伯爵の部屋には十字架も普通にありました」
ツェッドは思い出しながら、もしかしたらあの部屋にあった十字架や銀製の猟銃は伯爵を倒し
にやってきた人間のものではないか、と気づいた。今更過ぎる。
「人間は縋るものが欲しいのだ。信仰が厚ければ神に誓う。信念があればそれに従う。血界の眷
属が十字架に弱いのではなく、対峙する人間が縋る為に必要なのだろう。よすがはこの世にとど
まる力になる。それがいつの間にか彼らを倒すのに必要なものとされるようになったのではない
かな」
「なるほど。あなたには、縋るものや信念はありますか?」
純粋な好奇心がツェッドを駆り立てていた。
「ある。私は人界を守る。最後の一人にはならない」
「あなたは人ですか?」
クラウスが水槽越しにまっすぐ見つめてきた。
「人で、あろうとしている」
「僕にもそれは許されますか」
「無論」
間髪おかずにクラウスが返事をした。ツェッドは触手をゆらりと動かす。クラウスの顔に別の
影を見る。
「僕は血界の眷属に作られました。彼は師匠に焼き払われました。……この話をすると兄弟子は
顔をゆがめます。親殺しについて生きたのが面妖に思われるらしいです。僕は、そのあたりの機
微には少し欠けています。たゆたうように与えられた命を生きて……、知恵を与えられれば鵜呑
みにし、業を与えられれば研鑽します。仲間を与えられれば、その中で生きます。今回も僕は役
割に尽力しただけで、レオ君を何が何でも救おうとか、自分が犠牲になることで何らかの愛や忠
誠を示した、という事ではありません。でも、死なない限り生きます。生きることに尽力します
。理屈はそんなにないのです。あなたがたは、生きようとすること、生かされることに理由を欲
しがっているように思います。まさに、愛や、忠誠心といった……僕には少し理解しがたい」
「それでも、君は人だ」
「何故」
「君が『生きる』ことを信念とし、私が人だからだ」
ツェッドはなんだか嬉しくなって、水槽の中でくるりと回った。火傷が少し引きつった。
「三段論法ですね! ありがとうございます。議論の是非はともかく、クラウスさんとお話しす
るのは気持ちがいいです」
「ザップやレオナルドではだめかね」
「ダメではありませんが、兄弟弟子は特に僕には複雑すぎて。しかし、持てる欲の全てに忠実な
あの人こそ、人間であるという気はします。不思議なことに」
少し間があった。
「レオナルドはどう思う」
クラウスがわざわざ問うたので、こちらが聞きたい答えなのかとツェッドは気づいた。
「レオ君、ですか。彼も人ですね。とても気高い。彼が天上の楽園に居て、知恵の実を囓ったこ
とを咎められれば、言い訳はしないでしょう。でも、彼のつがいと共に実を囓ることはする。そ
んな気がします……。柔らかくて、優しいのに頑固ですから、レオ君と話すと、時々自分がなに
を話していたのかわからなくなりますね。……その点において、何故か兄弟弟子と同じなのが僕
にも解せませんが」
クラウスの口元の牙がうっすら動いた。姿勢は動かないままだったので、ツェッドに感情の動
きはよく分からなかった。
「生まれや、姿形が違っても……いや、よそう。君の様子を見に来ただけだ。ミスエステヴェス
の言うとおり三日で良さそうだ」
「聖書はいいですか?」
「もう、私には要らなくなった。こんな時間に申し訳なかった。もうしばらくすればギルベルト
が朝食を持ってくるだろう。失礼する」
「ええ」
クラウスは立ち上がると右手を出し、自分たちの間に水槽のガラスがあることに気づくと手を
握り、水槽に拳を押し当てた。ツェッドはそれに倣って内側から同じようにガラスに触れた。
部屋を出るクラウスの背中を見て、三段論法が許されるのなら、ツェッドとクラウスは「人で
ありたいなにか」でもあるなと考える。
ツェッドの感覚が正しければ、クラウスは出自が自分に似ている。
彼は、人間と血界の眷属の間に産まれたダンピールだろう。クラウスから直接聞いたことはな
かったが、眷属と生活を共にしてきたツェッドには確信めいて理解されていた。
ダンピールについては調べたこともあった。何故なら、血界の眷属に作られた同胞ではないか
といっとき思ったからだ。
ダンピールは結果的に吸血鬼ハンターになることが多く、多分この街に散っているライブラ構
成員か、ライブラ母体である牙狩りという組織にも混じっていることが推測された。
調べを続けているある日、ツェッドは自分の指の形に気づいたのだ。水かきのある……地上で
は本来生きられない己のこの姿。
『同胞なき生は 諦念の死よりも ときに過酷だ』
師の言葉が蘇り、ツェッドはそれ以上は求めなくなった。
次の世代を紡ぐこともできない自分は、目の前の状況を生きるだけだ。
伯爵に与えられ、斗流に生かされ守られている、今生を。
ギルベルトが部屋に現れるまで、ツェッドは再び泡を数え始めた。
(3)チェイン
(3)チェイン
「あー……。止めるべきだった。見るんじゃなかった」
チェインは公園横の街灯の上で後悔していた。
好奇心は人狼も殺す。
チェインは人狼局からの帰り、出向先であるライブラでの上司の姿をみかけて、つい追ってし
まったのだ。
存在希釈をしてまで。自身の淡い恋心が恨めしい。
その上司ことスティーブンは、独自の調査の最中だったらしい。
こういうことをするとは知っていたのだが、目の当たりにすると衝撃度が違う。
警察署内でするとは大胆だし、人気のない廊下でさっと女性の体を縫い止めるように覆い被さ
って耳元に囁く様など心臓に悪い。しかも女性署員はスティーブンの足に自分の足を絡ませてタ
イトスカートを……
「あー! うわー!! 別にね、全然ね、いいのよ。これが昼間にやってるどろどろのソープオ
ペラだったら全然! でも主演男優が! 知り合いってか、ぶっちゃけ好きな人とか真面目にい
たたまれない! しかも! 一人じゃなかった一人じゃなかった一人じゃなかった! 同じ署内
で! どんだけドロドロやねん、どんだけHLPD女性署員は男に飢えてるんだよ! てか、あの
署員B、ダニエル警部にも粉かけてただろ! 私知ってる!! てか署員C男じゃねえか!? あ
ーーーー三本立て見ちゃったよおおお! 署から出るまで追っかけた私が悪いよーどう考えても
わるいー頭が悪いー」
なによりチェインが悩むのは、この叫びを誰にも言えないことだ。人の口に戸は立てられない
以上、チェインがその場にいたことすら誰にも話せない。チェインにだって諜報員としての矜持
はあるのだ。
そこに偶然通りかかった、生汚い銀髪を見逃さなかった。
万が一にもこの情報を漏らせはしないが、鬱憤を晴らすことはできる。
ひらりと街灯から舞い降りて、縦に一回転をしながら目当てに着地し、容赦なく存在希釈を解
除して全体重をそのつむじにかけた。
「っだぅ!!!」
「またつまらぬものを踏んでしまった」
ザップは地面にめり込んだがすぐに体勢を立て直して、まっとうな因縁をつけてきた。
「おぅてめえコラ犬女! 街中で現れていきなり踏むとはいい度胸じゃねえか! 乳がでかけり
ゃ何でも許されると思ったら大間違いだからな!」
チェインが距離を取って地面に着地すると、がに股でずんずん間を詰められた。下から舐める
ように睨んでくる。正しいヤンキーだ。
「……アンタ意外と巨乳には興味ないよね」
「なに言ってんだお前、大きさじゃねえ! お前のはつかめなくてつまんねえから興味ねえんだ
よ!」
ザップが下品な指の動きでチェインの胸を強引につかむ動作をするが、当然すり抜けるだけだ
。
「ほう」
「なにが『ほう』だよ、なんかの箱に入ってる首かよ!」
「銀猿は変に知識あるよね。小説読んだり、映画とかよく見るのね。あー超・興味ない情報を仕
入れてしまった」
「おまえな!?」
にゃーん。
場違いな鳴き声にザップが自分の足元を見た。なつっこい黒猫がごろごろと喉を鳴らして足に
頭をすりつけている。HLで純粋な野良猫は珍しい部類だ。
「クソ袋から鰹節に転化したっての?」
「なわけあるか。んおぁ? おー、猫依存症のところに連れてってやろうか? そしたらもすこ
し金貸してもらえそうだなー」
チェインはすうっと自分の存在をさらに消しにかかった。動物は嫌いだ。
ザップが黒猫を抱きかかえる。右手にはジッポライターを握って。
目の高さにあがった黒猫に血糸が巻き付いて出火した。
「な、」
チェインはなんなのだ、と言おうとしてすぐに事態を察した。
聞くに堪えない声を上げ、黒い猫は炎に包まれたまま総毛立てて走り出した。だが、絡まった
ままだった血糸が締まって、胴と四肢がばらばらになり、紙になり灰になった。頭蓋だけが燃え
続け、不吉な声を発し続けている。
それをたぐり寄せて、容赦なくザップが踏みつけた。合皮の靴の下で黄色い炎が一瞬高く燃え
上がり、やがてぶすぶすと炭になる。ザップがつばを吐いて厄を落とした。場は一瞬騒然とした
が、チェイン達に声をかけるものはいない。HLはこの程度の騒ぎは雑音の範疇だ。
「おい、犬女。これ、奴らの使い魔だぞ。連絡頼むわ。おりゃあ一応呪術に罹ってねえか調べて
からにすっから」
チェインは舌打ちをして携帯電話を取りだした。本来ならSSの為に指の一本も動かしたくはな
いが、仕方がない。
『Sだ。なにがあった』
ライブラの電話口には何故かスティーブンが出た。警察署からどんなに飛ばしてもまだライブ
ラ本部につけるような時間ではないはずだし、携帯ならまだしも、彼が事務所の電話口にいきな
り出ることはまずない。
チェインはなにも言わず通話を切った。
渋い顔でザップを見る。
「……ごめん、SS。呪われてるの私だわ」 「謝るなら人のこと貶めるんじゃねえ」
ザップはジッポライターをしまうと、そのまま何事もなかったように歩き始めた。
チェインはその場を3回まわり、公園内に入ると、適当なベンチに腰掛けた。
存在希釈をレベル4にまで落として、因果を外す作業を始めた。
周りの景色が消え、体は腹まで地面にめり込み、次第に知覚できる光も遠くなる。
孤独と静寂がチェインを取り囲むが、外郭でいつも通りのHLが通り過ぎていく。卵の中に自分
はいる。
朝、恐ろしく汚い部屋でいつも通りに起床した。はじめに眼に映ったのは枕と自分の指。よだ
れをシーツでぬぐって足で床の缶をのけてから立ち上がり、顔を洗いに行った。鏡に映る自分は
いつも通り寝ぼけていた。歯ブラシの穂先が潰れているのを見て、新品を下ろして歯を磨き、う
がいをして顔を洗い、それから化粧水を。ゲル状の乳液をたたき込んで、昨日切れてしまった唇
の傷を確かめる。顔を拭いたタオルはおととい洗濯したかな?という感じの、一見は汚くはない
が人には貸したくない感じの……
どこだ、どこだ。
クリーニングから引き上げてきた7着のカッターシャツの3着目に袖を通して、ボタンを下か
らはめていく。胸のところで弾けて「あ」と声を上げた。諦めて4着目のビニール袋を取る。パ
ンツスーツ。いつもの。朝食はローファットミルクとローテーブルに置きっぱなしのカロリーバ
ー。味はしない。異常も感じない。置きっぱなしの化粧鏡。ファンデーションの中は空。買い忘
れていてリキッドタイプの試供品の封を切る。アイメイク。リップは保湿力のあるもの。中履き
から外履きへ替える。パンプスに薄く傷が目立ってきていたが、見えない見えないとぶつぶつ言
いながら履いた。
ちがう、ちがう。
どこだろう、どこでこの因縁に絡まれたのか。
自家用車の類いも公共の交通機関も使わない。いつもどおり、存在を希釈して跳ね飛んで、踏
んだ街灯の数は15。3番目のLEDが抜かれていた。人狼局。入り口はない。ドアも窓もはめ殺
しのビルの一角。いたのは局長と副局長、フレイヤ、オリガ、ジャネット。「ねえ、昨日の女子
会でお土産もらったんだけど、アンタ先に帰ったじゃない? これ」渡されたのは縦長の紙袋。
ビニール紐の取っ手、紙袋の中程につつましく印刷された店のロゴ。「白ワインだって。ドイツ
産の甘いやつ」「ありがとう、ロッカーに置いておこう」紙袋を上からのぞく。ワインのラベル
は。
『Sckwarze Katz』(黒猫)
ここ。これだ。分かりやすい呪詛の糸。これを渡したのはフレイヤ、それを渡したのは店員。
あの店は女子会で初めて使った。幹事はオリガ、招集のメールを出したのはエメ姐……、いやち
がう。
人狼局に、フレイヤという名の人狼はいない。そもそも「フレイヤ」は人の名前ではない。欺
かれている。
人狼を欺く高度な術者だ。しかし、チェインが術者に直接受けた呪詛ではない。チェインより
も先があるような呪詛だ。ということは、存在希釈では払えない。
チェインは一段階存在希釈を戻した。もう一度ベンチの上。自分は座っている。第三段階。勘
の鋭いものならチェインの存在に気づく程度、幽霊レベル。
先がある、つまり通ってきたものを媒介しなければならない呪詛。あるいは過程において強化
される呪詛……。
自分が見た幻。恋の。愛おしい人の、幻滅する姿。断ち切ったのは、この世で一番嫌いな異性
。
テンプテーション。
魅了の魔法を一体誰の元に届けたかったのだ?
ドイツワイン、二度の黒猫、フレイヤ、3人と戯れた思い人……。
「指輪」
次は指輪がキーワードになるはずだとチェインは思い至った。
「ニーベルンゲンの指輪だ。ドイツ語なのはそのせいかな」
ドイツ、指輪、とくればもうチェインの近くには一人しか該当者が居ない。いや、彼はナック
ルだが、他に指輪をつけているのはK.Kになる。彼女の出身は少なくともドイツではないはずだ。
極東の名前を持つK.Kの夫も該当しない。
チェインは存在を可視程度に戻した。通りかかった異界人がびくりとしたが、そのままそそく
さと立ち去った。
「出向先ボス宛かあ……」
それにしても、血界の眷属からの呪いとは。ライブラのリーダーは、呪われるだけの仕事をし
ているとは思うが……内容がテンプテーションとはどういうことだ。
「呪詛、あるいは……連絡?」まさか、とチェインは自分の下らない発想を一笑に付した。
「おい、雌犬」
はっと目を上げると、立ち去ったはずのザップがいた。
すうっとザップの指先から血糸が伸び、チロチロとチェインの唇の前で揺れる。す、と顎のあ
たりにザップの右の人差し指が添えられた。今は見えるだけの希釈なので、ザップはチェインに
触れられないが、ポーズからして明らかに。
「呪い、解いてやろうか?」
確かに、死ぬほど嫌いな異性のキスは、この呪いを解くのに有効なのだろう。もしくは呪いの
バトンを次に回す。
それにしてもザップは若干りりしい作り顔をしているが、まとうオーラが禍々しい。神々の義
眼がなくても見える。弱みを握るのと性的な接触を同時にできるという、うすら汚れた思考が。
それにしても、この野生児の勘の鋭いこと。
チェインは存在希釈を解いて実在すると、思い切りザップの唇を蹴った。
「うばべっ!」
「足にキスすれば充分でしょ」
チェインの記憶から、署内で3人と戯れた出向先上司のビジョンが消える。代わりに、署の前
を通りかかったスティーブンがダニエル警部からドーナツショップの紙袋とコーヒーを受け取る
場面が現れた。ライブラの電話に出たのはいつもの交換手だ。
「あ、本当に呪いが解けた。サンキュ」
「き、さ、ま……」
地面に伏して尻だけ高い位置にある無様な男の頭の上に乗りながら、チェインは人狼局に連絡
を入れた。
(4)ギルベルト
健啖家の主人の為に、使用人が山盛り焼いたスコーンを、ギルベルトはペーパーを敷いた籐の
籠に移す。今事務所に詰めているのは三人、ツェッドは部屋に一人。事務室では人の出入りを考
えてローテーブルに置く分は一回り大きな籠に。
蜂蜜とクロテッドクリーム、ベリージャム。ジャムナイフ。いっそ最初からフィリングとして
挟んだ方が親切かとは思うが、そのままに。取り皿。紅茶はワゴンを出すときに淹れればちょう
ど良い。
ポットに湯を入れ、コージーをかぶせた。扉を上げてワゴンを押す。事務室までの道のりは直
線だ。構造上おかしいが、HLではそういった空間歪曲が日常茶飯事に行われている。絨毯がワゴ
ンの車輪を安定させ、振動はごくわずかだ。
絨毯の暗紅色を見つめながら、ギルベルトは先ほど人狼局から届いた情報を思案していた。
『血界の眷属からの呪詛が、クラウス氏宛に行われた。術式の意図はわからないが、魅了の呪い
である。呪詛のキィ・ワードを精査した結果、クラウス氏の生誕に深く関係があると我々は判断
した。また、この呪詛はほとんど害のないものであることも判明した。呪詛の過程で、巻き込ま
れた者に認識の齟齬が起こるが、最終的な目的人物であるクラウス氏にこの術は無意味であると
我々は結論づけた。故に、術式自体が血界の眷属からのメッセージであると判断する。留意され
たし。』
諜報機関である人狼局は、当然ライブラのことも知り尽くしているようだ。こちらにチェイン
・皇を出向させていることもあり、ライブラとの関係は良好であるが、それ以上に事を構えると
面倒なのだと暗に言ってきている。
血界の眷属からの呪い自体は珍しくない。現にあの生きたはた迷惑「剛運のエイブラムス」に
も幾重にも呪いがかけられている。
ギルベルトは事務室の扉の前まで立つと、自分は情報を隠してよい立場にはないと腹を決めた
。
スティーブンには特に知らせなければならない。
ただ、ラインヘルツ家に深く関わることである。ここにいるレオナルドをツェッドの部屋に連
れるかどうかは、クラウスの判断を仰ぎたい。
部屋に入れば三様にいつもの場所にいる。ギルベルトの入室に、レオナルドが立ち上がって「
手伝いましょうか」と言い、スティーブンは一瞬目を上げたがまた書類に没頭し始めた。ギルベ
ルトの主人は画面から顔を出さない様子から、何をしているのかすぐにわかった。
レオナルドの申し出を丁重に断り、まず主人に紅茶をサーブすべく、クラウスの執務机の横に
つけた。コージーを取り、専用のカップに注ぐ。
「坊ちゃま」
クラウスがギルベルトに目もくれず、しかしすまない、という意味で右手を軽く挙げた。
ギルベルトの意見を正直に言えば、極悪な盤上遊戯である。しかしこの遊戯の上達もまた情報
収集の役に立つのだと思うと、そうそう目くじらも立てられないのであった。
「ご実父の方面から、連絡があったようです」
ギルベルトがラインヘルツ家で、特にクラウス付きになっているのには理由がある。
再生者であるギルベルトは、生まれつきこの体を有していたわけではない。
話の発端は半世紀近く前に遡る。
ラインヘルツ家の当時の牙狩りの名は『クラウス』。便宜上、彼をシニアと呼ぶ。彼は現在の
クラウス・V・ラインヘルツの大叔父に当たる。
シニアは突出した牙狩りではなく、血界の眷属を滅殺をする際の、歯車のうちの一人であった
。適性はもちろんあり、ラインヘルツの名を汚すようなこともなかったが、時に生き延びる為に
冷徹な男だった。
シニアには一つの懸念があった。
兄ラインヘルツ公がもうけた3人目の子供に、滅獄の血が出ているのだ。
それも女児に。
滅獄の血は、血界の眷属にとってこの上なく『甘い』。
血界の眷属を、その名の下に永遠に閉じ込める密封術を可能にしているのは、この甘い血なの
だ。他流派の血法や血闘術と違い、眠らせることが叶うのは、ラインヘルツに顕現するこの血が
、眷属にとって非常に魅惑的だからに他ならない。
女性に滅獄の血が顕現するのは、記録上、希であった。
ラインヘルツ家は他の多くの貴族と同じく男系であるためだが、傍系で出ていたとしても、こ
の世で生き延びた確率は低いと思われた。
女性には、やがて月経が訪れる。
甘い血の香りが、血界の眷属を引き寄せるのだ。
血を流す器官を取り払ってしまう方法も、もちろん検討されたが、シニアとその兄のラインヘ
ルツ公は、別の手段を講じた。
幾重も結界を張り、12になった彼女を塔の先端に閉じ込めたのだ。
太陽の側に。
若かりしギルベルトには、それはあまりにも残酷な仕打ちに思えた。
明らかに彼女は囮である。
家の者達は心を痛めた。
彼女の成長がなるだけ遅くなるようにと奥方の配慮で、ただでさえやせぎすな少女だったのだ
。
赤みの強い金髪、ラインヘルツの庭のように深い緑の目。
フローラ・ラインヘルツ。
子供の頃は茶目っ気が強くお転婆だった。
教養を身につけはじめた頃には、知性と誇りが瞳の奥に宿り、細くとも背筋の美しい少女だっ
た。
その姿をギルベルトが見ることができたのは、14歳までだ。時折メイドと共に菓子を塔の上
に運んだり、彼女の慰めの為に塔のすぐ下の果樹園で、木に登って踊って見せたりしたのだ。
皆で遠目に笑い合い、フローラは後日踊りの様子を描いた紙を、塔の上からばらまいた。
使用人を生き生きと描いたその絵は、自由への羨望がほの見えて、ギルベルト達を少し切なく
させた。
そして、15歳を境にフローラはほとんど塔に籠もりきりになり、同じくして領地の周辺で小
競り合いが頻発しだした。
来るときが来たのだ。
厚い結界を幾重も見透かして、血界の眷属がフローラを見つけたのだ。
夜陰に紛れ偵察に来る使い魔たち。
朝日であっさり灰になるもの、聖水で皮膚がはがれおちるものは、ギルベルト達、ラインヘル
ツ家のコンバットバトラーでも対処できた。
やがてブラッドブリード自身が現れ、牙狩りがラインヘルツの庭にやってくる。
塔の周りの果樹園は処分され、ラインヘルツの庭が後退する。
フローラをなぐさめるものが遠くなると、ギルベルトの胸は痛む。ラインヘルツの庭の一部は
、今や墓地も同然だ。
幾夜の激戦を越え、時には眷属同士がフローラを巡って争いを始める。
襲撃は満月の夜を中心に、わき出るように起こり、ラインヘルツ家を疲弊させた。
やがてラインヘルツ公が耐えきれなくなり、クラウスシニアに一方的に怒りをぶつける事が多
くなる。
その度にシニアは一回りも年上の公に「ラインヘルツが領地を賜る理由をお忘れか」と怒鳴り
返し、黙らせていた。
二人の間に流れる沈黙は、フローラへの哀れみと怒りでもあった。
牙狩りの組織はシニアのやり方を気に入っていた。なんと国からも援助をとりつけ、ラインヘ
ルツが万が一にも怖じ気づかないよう退路をふさぎにかかっていた。
金銭や領地、地位の保証などはともかく、その損失の大きさから、メイドは次第に雇い入れる
ことも難しくなり、手が足りなくなる。
一年もすると、ギルベルトはコンバットバトラーと言うよりは既に戦闘もこなす家事係だ。
塔の上のフローラが17歳になった頃、急に襲撃が止んだ。
静かな夜がついに三度満月を越したとき、疑いは確信に変わった。
何者かがラインヘルツ領の夜を制したのだ。
だとしたら、残る者は高位のブラッドブリードか、恐ろしい夜族であろう。
相当の緊張を持って過ごさなければならないと思うが、クラウスシニアがこの様子を見て、牙
狩りとしての警戒を解いたのだ。
牙狩りの組織から派遣されていた者も帰り、時にはシニアが遠征に行く。
しかし、フローラはまだ塔を下りることを許されず、眷属の襲撃がないというのに、ラインヘ
ルツ公は日に日に浮かない顔になっていった。
ギルベルトは、最初のうちクラウスシニアの不在を恐れたが、それも杞憂とわかると、牙狩り
が夜を勝利したのだと思い込むことにし、美味しい紅茶の研究に邁進した。なにかに集中してい
ないと身が持たないと感じたからだ。
ラインヘルツ家は徐々に平静を取り戻し、メイド達も再び増え、庭の木々も傷跡が言えてきた
頃。
クラウスシニアが亡くなった。
気まぐれに現れた長老級ブラッドブリードの犠牲者。牙狩りの棺桶、百のうちの一基としてラ
インヘルツ家に帰還した。
フローラは19歳になっていた。
その日フローラは塔を下りることを許され、ギルベルトは5年ぶりに彼女を見た。
美しかった。
やせぎすだった少女時代の名残は、ほそいうなじに残るのみで、額はなだらかで広く、頬はま
ろやかにふくらみ、色味の薄かった唇は朱が鮮やかに差していた。ジンジャーブロンドは抜ける
ように白い肌に映え、その色は深い緑の瞳の縁取りにふさわしかった。
塔を下りきったフローラは、目を伏せて葬列に加わった。
フローラに常に着いていた侍女以外は、皆彼女のその姿に息をのんだ。
フローラは一目見て妊婦とわかる姿だったのだ。
皆どういうことかと困惑し、風に煽られた糸杉のようにざわざわと不安が渡っていく。
祭壇と棺にかけられた牙狩りの布とラインヘルツ家の旗。その上に供えられた十字架。
葬儀を執り行っている神父の声が震えていた。
ギルベルトは最前にいるラインヘルツ公に目をやった。
公は顔色も血の気もなくして頭を垂れている。
指が震え、やがて顔を上げる。
「ああ!」
ラインヘルツ公が苦しげな声と共に、隠し持っていた銃を、娘のフローラに向けて放った。
ギルベルトはラインヘルツ公が声を上げるよりも前に、彼の前へと走り出している。
フローラに付いていたと思った侍女が、黒く小さな塊に分裂する。黒い羽のない翼が数百も現
れ、フローラを被った。
「間に合った」ギルベルトは思った。
しかし、鋭い熱さが胸を貫き、固い頭蓋を前に出せば良かったと後悔が走る。口径が大きいの
だ、ギルベルトを貫いた銃弾はフローラに届くかと思われた。
いや、届かなかった。フローラはコウモリ達に守られ、立ち尽くしている。
ギルベルトは地面に倒れ、悲鳴を聞く。視界は葬列の足が乱れる様しか映さない。
次第にブラックアウトする。
耳はまだ生きていた。
肺に血液が流れ込んで呼吸が困難だ。
黒い世界に、浅くて頼りない自分のいきれだけが響いている。
いや、声がきこえる。男の声。やけにはっきりと。
「ラインヘルツ公。これが貴殿の気持ちですな。わかりました。しかし、覚えておいて欲しい。
私はフローラを愛している。私はラインヘルツ家に危害を加えない。厄災ももたらさない。友好
の証に、この忠義な男にささやかな復活を」
ギルベルトは自分の体が宙に浮いたのを微かに感じた。抱えられたのだろう。
祭壇で神父が聖書をひたすら唱えている声がきこえる。
それとは別の、男の声。
「このパンは神の子の肉、葡萄酒は不死者の血」
ギルベルトの口に湿ったなにかが当てられた。口を開かされ、かけらを詰められる。
やがて視界が回復し、胸が熱く鼓動を打つのがわかる。
肺に入った血液が口に逆流し、むせた。口に入れられたなにかはどこかに消えていた。
苦しい。熱い、痛い! ギルベルトの中で、体を貫かれたときよりも更に酷い痛みが暴れてい
る。先ほどはひたすらに熱いだけで、後に生体の自己防衛で次第に意識が混濁したのに対して、
今ははっきりとした意識に激痛が走る。痛みに気が狂いそうなのに、此岸にひたすら引き戻され
る。この世にある地獄の苦しみだ。体が元に戻ろうとしているのがわかる。咳き込む。
ギルベルトは自分の喉が頼りない笛のように鳴ったのを聞いた。
「偽物の復活だ。この男は体を切られても戻る。体を割いてバラバラにしない限りは、苦痛と共
に元に戻る。私の息子が死ぬまでは、この呪いは有効だ。私の息子を殺すな、牙狩りのラインヘ
ルツよ。彼の血も甘いだろう。私は、息子に殺される為に在る」
ラインヘルツ公の慟哭が聞こえる。
ギルベルトは苦痛の中で、ようやくクラウスシニアが何をしたのか、ラインヘルツ公の涙はな
にか悟った。
ラインヘルツのラプンツェルは蠱毒の壺だ。
塔の上の姫君は、まさしくブラッドブリードの花嫁。ラインヘルツが捧げる、滅獄の生け贄で
あった。
葬式後、フローラと共に彼は塔を下り、ラインヘルツの森の中で暮らした。
成り行きからギルベルトは二人の世話係としてあてがわれ、そのまま生まれた子供の執事にな
った。
フローラは息子を生んで一年ほどで鬼籍に入る。
ギルベルトは吸血鬼が涙を流すことを知り、彼らと自分たちで何が違うのか時々わからなくな
った。彼らは人間を喰らいながら、人間になりたいと切望するひたすらに呪われた存在に見えた
。
その後、フローラの息子、小さなクラウスはラインヘルツ家に戻り、ラインヘルツ公の長男の
、末の息子として育てられている。
つまり、クラウス・V・ラインヘルツは、現ラインヘルツ公の三男として育てられているが、
生母はラインヘルツ公の妹御になるのだった。フローラと現ラインヘルツ公は20も年が離れて
おり、既に男児が二人いたのも幸いした。
その血統からか、クラウスの成長は異常に早かった。見た目だけでなく知能も通常の成長より
何段階も速く、実質的飛び級制度のあるドイツの高等教育を受けられる年齢になるまでは、ライ
ンヘルツ家の中で育った。
なまじ人よりも賢く産まれたクラウスは、幼い頃からうすうす自分の出自に疑問を持っていた
ようだった。
現ラインヘルツ公も夫人も、彼の兄たちも、クラウスを分け隔てた愛情で接したということは
なかったが、顕現してしまった滅獄の血により、特に早くからブレングリード血闘術の準備を始
めたことも関係があるだろう。
困難に当たる度に、歯を食いしばって、老けていく彼の目にどれほど悲しみを覚えただろうか
。
その記憶も今は遠い……。
ギルベルトの言葉にクラウスは投了のボタンをクリックし、相手に謝罪のメッセージを送った
。
「私宛、かね? 『実父』からだと?」
「ええ。こちらを」
ギルベルトはワゴンに乗せていたタブレットをクラウスに示した。
クラウスが画面の文字に目を走らせて、カップを持っていない手で顎を撫でる。
「この呪詛は、私に意味がないという。ではなぜ発動したのだ。この手のものに誤作動はありえ
るだろうか」
「わたくしからはなんとも……。人間のすることでしたら、そういったこともありますが、あち
らの筋となると」
「呪詛の通り道はわかるかね?」
「剣呑な話をしているじゃないか?」
いつの間にか、ライブラの副官であるスティーブンがクラウスのデスクの前まで来ていた。こ
んこん、と右の中指でクラウスの執務机を叩く。
「スティーブン。すまなかった」
ギルベルトは主の求めに応じて、スティーブンにタブレットを渡した。
彼はタブレットの中身を読むと、苦々しい表情を隠しもせず「こういうことは早く言ってくれ
。いくら君の家の問題だと言われようと、君はライブラのリーダーなんだ。個人の問題としては
処理できない」といった。
「承知している。ギルベルトは儀礼的に私に先に知らせただけだ。どうか気を悪くしないで欲し
い」
「わかった……クラウスはこの『メッセージ』ってなんだと思う」
「ふむ。すぐにはわかりかねる」
「『今』届いた、ということに僕は注目するね。昨日と今日、何が違うかといえば、この呪いが
届いたか届かないか……。クラウスの心境の変化などを聞きたいな」
「心境、か」
「そう。それから『実父』とギルベルトさんは言いましたね。それは筋、ということですか。本
人ですか」
ギルベルトは話に参加を余儀なくされたので、じっと考えた。
「ご本人……。場合によっては。彼はいまだ眠りについておられるはずです。しかし、なにかの
切っ掛けで術が発動するようにしていたのではないか、と聞かれたら、『わかりません、そうか
もしれない』とお答えするしか」
「なるほど、クラウスの意見は?」
「……発動条件は術者の望み次第では。望みか。私の父は、何を私に望んでいた?」
「健やかな成長です」
ギルベルトはこれだけは素直に言える気がした。
あの短い一年間。森の中で夫婦と一人息子は、人間らしい愛に満ちあふれた時間を過ごしてい
た。やがてフローラが病に落ちることを夫婦の双方が知っていたのではないかと思う。
クラウスが眼鏡のブリッジを触って位置を直した。珍しい仕草だが、ギルベルトはクラウスが
困ったときにする動作だと知っていた。
「だ、そうだよ。私の成長か。……そうだな、確かに。彼は私がブレングリード流血闘術を極め
、この手で密封されるのを待っていた。そういう男だった」
「ふむ。と、いうことはイニシェーションか」
ギルベルトはスティーブンの手法に舌を巻いた。
そして思い当たることがあるなと感じ、同時に少し困ったと考えた。
「それで、クラウス。心境の変化の方は?」
「あの!」
ソファの方で声が上がった。レオナルドだ。彼は律儀に退室のタイミングを計っていたらしい
。
「俺、ツェッドさんにおやつ持っていきますね! ええと、すいません、ギルベルトさん。どれ
をもっていけばいいですか?」
——ドイツの春はまだ足踏みをしている最中で、下草はまだ新芽を隠し、常緑の花木も葉が古く
陰鬱な色合いだが、南西の庭はそろそろヒナギクが満開になる。そこはラインヘルツ家次男の庭
であった。
ラインヘルツの男は皆、庭をめいめいが持っている。一族の血は、根っからの園芸狂だ。いく
つもの品種の育成権ももち、そこからずいぶんな上がりもある。一族の男として、クラウスも1
0歳になれば東北の森をもらう約束であるとギルベルトに話してくれたのは記憶に新しい。
兄弟とギルベルトの3人は庭園までの道のりを軽い足取りで歩いていた。
クラウスと一回り違うラインヘルツ家の次男坊は、普段寄宿舎暮らしで滅多に顔を出さない為
、クラウスはここぞとばかりにあれやこれやと質問攻めにしていた。兄の方も面倒がらずに全て
の質問に答えていた。彼はのんびりとした学者気質で実際これからも大学に進学する。
途中で庭師が通りかかり、彼は礼儀正しく帽子を取って一礼した。彼の帽子の下の髪は先日ま
での根雪を思わせる白さで、天辺に行くに従って薄くなっている。少し前になるが、父上と同じ
だなとクラウスはギルベルトに言い、次男殿は同じ連想から自分の将来を案じて相談に来たこと
があった。
「ああ、これは坊ちゃん。お帰りなさい。クラウス様もご一緒ですな」
『庭師いらず』などと言われるラインヘルツ家だが、さすがに総面積10ヘクタールにもなる
土地を管理するのに庭師を置かないわけにもいかない。
庭師は兄弟を見て楽しげに秘密ごとを打ち明けた。
「少し困ったことになりましてな。東屋で猫が子供を生んでいたのです」
「ねこ?」
クラウスが期待に満ちて兄の顔を見た。6歳にして、18歳の次兄と10センチと目線の変わ
らないクラウスの輝きに、次兄は笑い「そうだよ、クラウス。にゃーと鳴くあの猫だ。見に行こ
う」と言って、にゃーにゃーと猫の真似をし始めた。
クラウスはきょとんとして、それから兄に倣って自分も猫語で喋り出す。
2匹の猫はすぐに笑いながら駆けだした。
柔らかな枯れ草を蹴散らした先に、丸太作りの東屋がある。今の季節はただの地味な茶色だが
、これから夏に向けてツタが絡まり、そこに咲く白い花々が目を楽しませる場所だ。
その東屋のテーブル下に段ボールがあり、中に汚れた毛布と猫たちがいた。段ボールと毛布は
どう考えても庭師の差し入れだろう。近くに水入れと餌も置いてある。
母猫は黒猫で、のぞき込むと威嚇されたが、産まれたばかりの子供を舐めるのに忙しいらしく
、しばらくすると観察者達の存在を許したらしかった。
子猫は全部で5匹。黒もいれば縞模様もおり、白い面積が多いブチ模様の子猫もいた。
生まれたての子猫は、猫というより鼠のようで、クラウスは戸惑い顔をしていた。
次兄がそれに気づき微笑みながら教えてやる。
「ほんの2週間もすると目も開くし、耳も大きくなって猫らしくなるさ。そっとしておいてやろ
う」
「兄さん。母猫は黒なのに、色んな模様の赤ちゃんが生まれるんだね」
「ああ、でも法則はあるんだ。生まれる可能性のある色・模様と、この母猫からは絶対に生まれ
ない模様はある。ただ、父猫はここにいないし……」
次兄は言葉を切るとちろりとギルベルトを見て咳払いをした。
「猫は色んな父親の子を一度に産めるからね。子供がどんな色や模様で産まれるかは、予測困難
だ」
クラウスは頷いて、だまった。
ふうっと、その時にクラウスの目に何かが宿ったのをギルベルトは見た。
「クラウス」
「はい」
「ここは私の庭だから、この猫も私のものになると思う。でも今なら君に1匹か2匹進呈できる
けども、どうする?」
クラウスは少し間を置いて首を振った。
「私はヤグルマギクを育てます」
小さな花壇でギルベルトと共に育てている、ヤグルマギク。青と、桃色。隣り合えば次に出て
くる色の予測が困難になる、だから楽しみだとつい先日笑い合った。遺伝の勉強の第一歩……。
ギルベルトは、クラウスはやはり気づいたのだと思った。
自分が、兄たちと違うと。
クラウスとて、ラインヘルツの血を引いているが、今彼に色濃く出ているのはその『父親』の
素質であった。
人にそぐわない成長と、その強靱な精神。そして、下あごの牙。ブラッドブリードが伸びるの
は上あごの犬歯だが、クラウスは違うあたりがまた、「人間でも、吸血鬼でもない」という証明
のように思われてギルベルトには時折切ない。
揺れる瞳でクラウスは「小さな生き物を、私はまだ守れません」と言う。
次兄は灰色の瞳を曇らせた。
「クラウス、先生は厳しいかい?」
「少し」
「すまない。本当なら、こんなおぞましいことは……」
次兄がはっと息をのんで、ギルベルトを一瞬見た。それからわずかにかぶりを振って、クラウ
スの左手を両手で包んだ。
そのクラウスの左の拳には、無数の丸い傷がある。ここから血を流すブレングリード流血闘術
の為だ。
クラウスはじっと動かない。
「クラウス。猫たちは私が責任を持って育てるよ。君は君の都合のいいときに猫を見に来るとい
い」
次兄はクラウスの頭を撫で、もう一度「すまない」と小さく呟いた。
クラウスは顔を上げて、頭にあった手を取った。
「ヒナギクを見に行きましょう。春祭りより先に咲くのは兄さんの庭だけです」
クラウスの胸に去来した寂寥と、決意をギルベルトはただ見守るしかできなかった。
しばらくして、母猫は独り立ちした子猫を置いてどこかに去ってしまったが、次の夏から次兄
の庭園は、5匹の猫が守る「ラインヘルツ・カッツ」という名前になっていた。