6 フラの名前 わたしたちのあいさつのポーズは、コポックのつくりぬしで

 6 フラの名前
わたしたちのあいさつのポーズは、コ
ポック
のつくりぬしであるオコジョの
かっこうをまねたものです。
「ノンノです」「アチャポです」「カ
ユケです」となのって、それぞれ右手をあげ
てから、「3人あわせて」というところでキョロキョロ左右を見るのがそれです。あ
のヒトはおちつきのないカムイなんです。
きめのポーズもまねっこです。りょうほうのこぶしをまるめて、むねのまえでおり
まげて、ポカンととぼけたようなかおをするのです。「なにがおこってるんだろ
う?」といったふうに。
こればかりは何回やってもおかしくて、じぶんたちでふきだしてしまいます。だか
ら、はじめて見るヒトは、ふきだすところまでがわたしたちのあいさつだとおもって
いるかもしれません。
午前のライブを終えると、フラグランスはお昼の休憩に入る。この時間を利用して、
サポユポはチラシに載せるための文章を三人に書いてもらう。自己紹介、趣味、好きな
食べ物、最近起こった出来事、家族のこと、気になること、なんでもよかった。フラの
ヒトとなりがわかるというので毎回好評だったし、それと知って三人も熱心に取り組ん
でいた。
もっとも最初のうちは乗り気ではなかった。カフェのテーブルに広げられた白紙を前
に、彼女たちは陶器人形のように固まってしまったのだ。「あっ、筆記具?」だれかが
気づいた。「書くものがないんだね?」
「ありますよ」とアチャポは言って、サラニ
(背負い袋)からペンを取り出した。
一つはシャープペンシルの芯を爪楊枝に紐でくくりつけたもので、一つはボールペンの
芯を先端から四分の一ほどの位置で断ち切ったものだ。「コタンに戻れば鳥の羽ペンも
あるんです。インクのほうがかさばるんで、普段は持ち歩いたりしないですけど」
「字は書けますよ」聞かれてもいないのにカ
ユケが言う。「学校でちゃんと習った
んです。ひらがなとカタカナ、全部書けます。アイヌ語表記もバッチリです。カ
ユケ
のシの字は小さく書くんですよ。知ってました? 漢字はぼちぼち覚えるところです」
では、なんでそんなに浮かない顔なのか?
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「だって、こんなでっかい紙!」ノンノが紙を指差して、なじるように言う。「埋め
るの一苦労じゃないですか。一苦労どころじゃないな。三苦労や五苦労はある。みんな
が読めるようにしなきゃいけないんでしょ? どんだけ大きく書けばいいのか。一文字
がわたしたちの頭ぐらいになるよ。それをこの紙いっぱいだよ!」
なるほど! それで気後れしていたのか。「えーと、あの、世の中にはコピー機って
ものがあってね、小さなものを大きくできるんだ」「きみたちの書きやすい大きさで書
いてくれればいいからね。あとは機械におまかせだ」「二十倍三十倍に拡大するから、
なるべく濃い字のほうがいいね」
へええっ! 三人はいたく感銘したようだ。「そんな便利なものがあるなんて、やっ
ぱり都会は違うな。ついでにわたしたちも大きくしてもらおっか!」「乗った! そっ
ちのほうが早いかもね。そしたら大きな文字も普通に書けて、もう拡大する必要もない
し」「みんな、どうして変な顔してる? この二人、冗談言ってるんですよ。だよね? おもしろくなかったみたいだよ。難しいな」
白い巨大なカンバスに三人はおそるおそる足を踏み入れた。自分たちなりに考えてき
た文章を綴りはじめ、書いたり消したりを繰り返した。強調したい箇所を袋文字にした
り、影をつけたり、文字のまわりを星、月、花、笑顔や、蔓草と渦巻のアイヌ紋様で
飾ったりして、次第に調子が出てきたようだ。必要に応じてイラストを添えたが、彼女
たちの文字自体がそもそもイラストじみていた。山やお日様、電車、ビル、ファンの似
顔、おにぎり、アイス、ミミズ、チョウのイラストとしっくり溶け合っている。真っ白
な場所に放り出されて、最初はあれほど覚束ない様子だった彼女たちも、今は多くの親
しいものに取り囲まれて、心地よく寛いでいた。チラシは毎回楽しいものに仕上がっ
た。
わたしのなまえはアチャポといいます。いつもげんきでまえむきです。おしゃべり
とフルーツと友だちとウポポ(うた)が大好きです。かみはてんねんパーマです。ピ
ンク色のふくをきているので、それを目じるしにしてください。
わたしはカ
ユケです。ふくはブルー。かみはまっすぐのばしています。のんびり
おさんぽするのがしゅみで、それはいろんなヒトとめぐりあえるからです。アゲハ
チョウさん、キンポウゲさん、オタマジャクシさん、ふんすいさん。お日さまはいつ
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も笑って、あたたかくあいさつしてくれます。かぜさんはほっぺをやさしくなでて、
げんき? といつもたずねてくれます。みんな、気のいいカムイなんです。
ノンノです。ショートのかみと、きみどりの服でやっています。はりきりすぎるの
が玉にきずでしょっちゅう破ってしまいますが、そのたびに「すごくノンノだね」と
言われてしまいます。わけがわかりません。(ちなみに破れるのは服だけですよ)
三人の特徴のある名前は以前からサポユポたちの尽きせぬ関心の的だった。
「ノンノだけはわかる。有名だものな。響きがかわいいよ。そりゃ、雑誌の名前にも
なるわけだ」「『花』って言っても、そんなに匂いは強くないよね? ほのかに甘みは
あるんだけれど、どこかえぐみが残っているような。野の花のような」「ノンノさんは
野の花のようなヒトだ!」「ちょっと無邪気で、あどけない感じはあるね」
「アチャポはなんだろう? 意味はわからない。わからないけれど、かわいらしい名
前だってことは間違いない」「ふっくらとして愛嬌があるんだよ。彼女にピッタンコな
名前だよ」「はっちゃける感じとみずみずしさ、その両方を現わしている。これはフ
ルーティーな匂いだよ」「同意。潤いのある甘い匂いで、どこにいてもすぐにそれとわ
かるんだ。それぞまさにアチャポ!」
「カ
ユケは難しいぞ。これはどっちかと言えば甘みが欠けているような」「きりり
と引き締まった感触はある。柑橘系の匂いじゃないかな。リフレッシュしたいときに最
適な」「そこへ甘味料が加われば、もう病みつきになっちゃう感じじゃないかな」「一
見すると地味だけれども、一度知ったらもう忘れられなくなるんだ」
「ぼくは答えを言っていいんでしょうか?」キンダイチ少年がおずおずと口をはさ
む。「それとも、やめたほうがいいですか? みなさんのお楽しみを奪っちゃいけませ
んもの」
しかし、いつかは真実と直面しなければならないのだ。わかった、言ってくれ、キン
ダイチ少年!
「匂いの意味はありませんよ。ノンノさんだけはかろうじて匂いに関係していると言
えますが、匂いそのものを表わしているわけじゃない。ほかの二人に関してはまったく
関係ありません」
キンダイチ少年は便利だった。フラグランスの言動でわからなことがあれば、彼女た
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ちを煩わせることなく気軽に尋ねることができるのだ。三人が顔を輝かせながら口にす
る「ピリカ・ワー!」が、「いいね!」「きれい!」「元気よ!」といった肯定的な意
味を表すことも、ライブを始める前に三人がぶつぶつ唱える文句が、自分たちを守って
くれるよう、その場にいるカムイたちにお願いするお祈りだということも、キンダイチ
少年が教えてくれた。「あくまでも独学なんですけどね」「初心者に毛も生えていな
い」「ぼくごときが講釈たれるなんて、まったくおこがましいことですよ」などと謙遜
するが、サポユポ諸氏にとって重宝すべき存在なのは間違いない。
「ノンノ」は「花」で決定だ。では、アチャポは? カ
ユケは?
「アチャポはごく基本的な語彙ですから、アイヌ語を習いはじめたときに割とすぐに
出くわすんです。カ
ユケは正直わかりませんね。独立した単語ではないはずです。な
にかの合成語、あるいは短縮形なんでしょう」
だから、アチャポは?
「えーとっ」キンダイチ少年はなぜか困っている。「ぼくの口から言うのはちょっ
と。あんまり女の子っぽい名前じゃないんです。『なんでまたそんな名前を?』って、
最初は耳を疑いましたもの。ダメです。ぼくの口からは言えません! 本人から直接聞
いてください!」
改まって名前の意味を聞かれて、アチャポはケタケタ笑いだした。「やっぱり! だ
れか言うと思ってた。女の子っぽくない! アハハハ! 受ける!」
アチャポです。このことばはアイヌ語で「おじさん」をイミします。じぶんでいう
のもなんですが、めんどうみがよくて、みんなにたよられる性格なのです。じょうだ
んで「おじさん」「おじさん」よばれてるうちに、それがよび名になりました。ア
チャポと呼ばれるのはいやなどころか、むしろうれしいくらいです。したわれている
気がしますから。みんなもアチャポとよんでください。みじかくアチャでもいいです
よ。
カ
イユ
ユケです。このなまえはごせんぞさまからもらいました。ほんらいはカ
ケ。カ
カムイ(まもりがみ)がとてもユ
カム
ケ(きょうりょく)なヒトで、一
生めぐまれていたんです。わたしはそのごせんぞさまの生まれかわりらしいので、な
まえもそれにあやかりました。まったくおなじなまえはよくないので、ちょっとい
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じってカ
ユケです。(「シ」はハッキリはつおんしないのがただしいです)
ややくるしいりゃくしかたなので、もっといいよびかたがあったら、それにかえた
いとおもっています。なにかありませんか?
ノンノです。名前のとおり花のような性格の女の子です。うそです。わたしがあん
まり女の子らしくないんで、メンバーにむりやりつけられました。もっと女の子っぽ
くなりなさいってことで。自分で言って照れます。ノンノなんて。どこのヒト? っ
てかんじです。それでも、この名前で生きていれば、いつかちゃんとした女の子にな
れるかもです。あっ、その前にフチ(おばあさん)になっちゃう?
「匂いを意味しているのは本名ですよ」ノンノがさも当然といったふうに言う。「ア
チャポ、カ
ユケというのは、あくまでもポン・レ。なんですか、偽名? あだ名? そう、芸名!」
では、本名は? フラグランスの三人はついぞ教えてくれなかった。あまり美しい名
前ではないからと。
「アイヌのヒトたちは伝統的に子どもにはわざと良くない名前をつけたと言います」
キンダイチ少年が解説する。「悪い魔物に連れていかれるのを防ぐために、汚物の名前
などをつけて目をつけられないようにしたんです。子どもはあの世に近くて、それだけ
死にやすい存在ですからね。コ
ポック
もそうなんじゃないでしょうか」
「そうそう。わたしたち、すぐに死んじゃうからね!」アチャポがあっけらかんと言
う。「だから、汚い名前が多いよ。子どものときだけじゃなくて、一生そう。わたした
ちのソンノ・レ(本名)も汚いんだ。汚い汚い! 聞いただけで、みんな、鼻をつまん
じゃうもの!」
それでは、「Fragrance」というよりも、「Smell」「Stink」の
ほうが実情に合っているかもしれない。
「失礼な!」アチャポが怒りだす。「女の子にむかってスルメだなんて! わたした
ち、そんなに臭い? ちゃんとお風呂に入ってるよ! 入れるときはさ」
「いや、その、あの」キンダイチ少年が動揺する。「なんかちょっとおかしいな」
アチャポです。さいきんのマイブームはマンゴーです。はんぶんに切って中味をム
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シャムシャたべながら、おつゆがいっぱいたまったイタンキ(おわん)に、かたまで
ドップリつかるんです。からだじゅうがヌルヌルしてきもちよくて、おはだもスベス
ベになります。アリさんがたかってくるのがなんてんですが、それはきょうだいにお
いはらってもらいます。アリさんはたべません。ニガくておいしくないのです。
カ
ユケです。わたしのペットはいも虫です。なまえはニョロ。イボイボがとても
かわいくて、さわっているだけでしあわせになります。みなさんも一匹いかがです
か? なやみのたねはすぐにチョウチョさんになってしまうことです。どこかにとん
でしまったら、わたしのことなんかすぐに忘れちゃうんだろうな。さびしいな。で
も、しょうがない。またあたらしいニョロをかわなくちゃ。
ノンノです。きょうはトイレが近いです。近いといってもきょりがじゃないです
よ。おなかがずっとグルグルしてます。きのうひろい食いしたものがくさっていたの
かもしれません。柿かアジフライかブルーチーズかあんドーナツか中トロが。おもし
ろい味だとおもったのが実はくさった味だったのかも。みんなもひろい食いには気を
つけよう! とりあえず匂いはよくかぐこと!
チラシの内容はサポユポの間でも賛否両論だった。
「あの子たち、ちょっと正直すぎると思うんだ。思ったことはなんでもそのまま書い
ちゃう感じで」「でも、変にチェック入れたら、つまらないものになるよ。自然体がフ
ラの魅力なんだ。先入観にとらわれないで、鬼が出ようが蛇が出ようがドンと受け止め
るくらいの覚悟でいなくちゃ」「自分らはそれでいいだろうさ。ファンなんだもの。だ
けど、人類の圧倒的多数は彼女たちのファンじゃないんだ。自然体を自然に受け止めら
れないヒトがいる。自然に受け止めることを故意に拒むやつもいれば、悪意を込めてね
じ曲げる輩もいる」「有名になればなるだけ厄介ごとも増えるのさ。前途多難。デ
ビューもしていないのに気が早いか」「おれたちはフラを守れるんだろうか? あの子
たち、基本的に無防備なんだよな」
故郷のドングリ山からたった三人でこの巨人の町を訪れる彼女たちは、常に携行する
耳かき程度の杖とおたがいのほかはなににも頼っていないように見えた。コ
ポック
は集団行動を好むというが、三人では集団として弱い。この三人で携帯音楽プレーヤー
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と携帯スピーカーを運び、重いお弁当も持参する。サポユポが荷物を預かっておこうと
申し出ても丁重に断ってきたし、おいしいサンドイッチを作ってきてあげると提案して
も首を縦に振らなかった。
「差し入れは大歓迎ですけど、それでも弁当は持ってきますよ」ノンノが言う。「自
分たちでできることはなるだけ自分たちでやるんです。自分たちの力でどこまでできる
か試してるんですよ。三人でそう決めたんです。アチャが決めて、カシュがそれで行き
ましょうって賛成した。わたし? ウンウンうなずいたの」
遠方から通うスタイルも負担が大きいはずだった。朝早くドングリ山を出発して、日
が暮れる前に帰宅する。移動だけで都合六時間かかるし、なにかと慌ただしいので事故
の危険も大きい。前日に都内に出て一泊すれば楽だろうし、ライブ後も一泊して翌日帰
ればいいのである。こんなに小さな体ならどこにでも寝泊まりできるだろうし、都内に
住んでいるという同胞の住まいに厄介になれるはずが、彼女たちは断固として現行のス
タイルを崩さなかった。「日が暮れる前に家に帰る。それが狩猟民族なんですよ」とア
チャポは説明した。「ま、わたしたちは狩猟民族というよりは拾集民族ですけどね。ア
ハハハハ!」
「大人のヒトたちと約束したんですよ」事情はのちにカ
ユケが明かしてくれた。
「毎回きちんと帰宅するという条件で、こっちに出るのを許してもらってるんです」
しかし、「たった三人」というのは厳密に言えば事実ではなかった。彼女たち以外に
もコ
ポック
はいたのだから。しばらくはだれもそのことに気づかなかった。それら
のコ
ポック
たちはフラグランスのステージを遠く離れて、木の枝、薮の中、フェン
スの編み目、自転車の荷台、自販機の上に潜んでいた。五人六人で固まって、フラグラ
ンスを応援するわけでもなく、声すらかけないでおとなしくしていた。サポユポが彼ら
を発見したのは、フラのライブを楽しむのと同時に観客の様子もうかがうようになって
からのことだ。
フラよりだいぶ年上の男性が多く、草木や土に容易に紛れてしまうような地味な色の
服を着ていた。まれにハラシュク、シブタニあたりの若者と遜色ないオシャレな身なり
をしているグループもあって、その中にはフラの三人と遠目には見分けがつかないよう
な女性も混ざっていた。彼らはフラの身内なのか? 都内に住んでいる同胞なのか? サポユポたちは彼らの存在をフラの三人に教えたが、反応はいたって薄かった。「いま
すね」「知ってました」「知った顔ばかりですよ」
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挨拶はしなくていいのか? 「いいんです」
なにか気まずい間柄とか? 「ソモカ(まさか)」
話しかけても大丈夫か? 「それはどうぞ。ご自由に」
近寄ると、そのコ
ポック
たちは緊張した素振りは見せたものの、接触を避けるつ
もりはないようだ。「こんにちは」と挨拶して、フラグランスは知っているのか、ライ
ブを見に来たのかと尋ねるが、返答は要領を得ない。とぼけた顔をして、「あの子たち
は知っている」「通りかかったんで見ている」「休んでいるだけ」などとのたまうの
だ。だいたいが素っ気なかったが、今風のファッションをしている者はそれなりに会話
が成立した。「がんばってるよね」「応援してるんだ」などと嬉しそうに語るが、それ
でもフラグランスとじかに接触する気はないようだ。「わたしたち、ここにいないこと
になってるんだ」というのが理由だった。
フラグランスと同様、ほぼ全員が長いクワ(杖)を持っていたが、なかには先端が鋭
く尖ったものがあった。なにかと尋ねると「オ
」だという。「槍ですね」とキンダイ
チ少年。「武器ですよ」
「あのヒトたち、護衛って言うんですか? わたしたちを守るのが仕事なんですよ」
アチャポが種明かしをしたのは、だいぶあとになってからのことだ。「なにもかも自分
の責任でやる。それで上のヒトと話はついたんですけど、やっぱり放っておけないって
ことでしょうね。三人だけじゃ危ないって。見くびられたような気もしますが、感謝し
なくちゃいけないですよね。こっちは本当に危険ですもの」
地味な色の服を着てオ
を構えた、寡黙なヒトたちが護衛なのだ。フラがドングリ山
を出発したときから、一定の距離を保ちながら常に背後に貼りついて、移動中もライブ
の間も離れない。なにかあったらいつでも飛び出せるように待機して、無事に帰宅する
のを見届けるまで気をゆるめないのだ。
「友だちもいるよ」ノンノが楽しそうに言う。「朝方、『行ってきまーす』って挨拶
してきたヒトが知らんぷりして混ざってるの。目が合うと、プイッて横を向いたりして
さ! おかしいの」
護衛とは思えない者も混ざっているが?
「あれはこっちに住んでいるウタリ(同胞)」とカ
ユケ。「わたしたちみたいなも
のは珍しいですからね。見に来てくれるだけでありがたいです。ウタリがいるってだけ
でもう心強いですね」
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フラグランスを身守っているのはサポユポだけではなかったのだ。
フラグランスです。
わたしたちは今とてもじゅうじつしています。
ゆめにむかって一歩をふみだしたからです。
ここでいうゆめというのは夜みるものではありません。
そうであればいいのにというねがいのことです。
(サポユポのヒトにおしえてもらいました)
わたしたちのゆめはスッピンドーさんみたいに
おおぜいのおきゃくさんのまえで、うたっておどる歌手になることです。
大きなかいじょうをそれよりも大きなよろこびでいっぱいにすることです。
このゆめをじつげんするためにわたしたちはなんでもやるつもりです。
まだまだ先はながいですが、3人できょうりょくしあって、くじけず、ひるまず、
どりょくしていこうとおもっています。
がんばります!
おうえんしてください!
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7 「スウィートシト」
わたしは、お父さんとお母さんと、たくさんの弟、妹と一緒に、あるポロク
(大き
なヒト)のチセ(家)に居候している娘でした。
ポロク
の家族は、立派な顔立ちをした旦那さんと、上品な物腰を持った奥さん、若
木のようにしなやかな息子さん、小鳥のように愛らしい娘さんの四人でありました。
旦那さんと息子さんは山には狩りに、川には漁に出かけて、まるまる肥えたシカやウ
サギ、脂ののったサケを獲ってきました。奥さんと娘さんは山菜を採り、畑を耕し、刺
繍やお掃除をしながら、二人の帰りを待ちわびました。家族四人でおいしいものを毎日
食べて、もうなにを食べたいともほしいとも思わないで健やかに暮らしていたのです。
わたしたちの家族は大勢でしたが、蕗の葉一枚に全員が隠れられるほど小さいので、
ポロク
たちの邪魔にならないようにひっそりと暮らすことができました。梁の上で食
事をし、睡眠をとり、食べ物をあさるときや遊ぶときに、垂らした糸を伝って下に降り
るだけです。わたしたちの一族は「コ
・ポ
・ウン・ク
れておりましたが、わたしたちのようにポロク
「ウマ
キ・カ・ウン・ク
(蕗の下のもの)」と呼ば
のチセに寄宿している者は正確には
(梁の上のもの)」と呼ばれるべきだったでしょう。わた
したちは梁の上から、来る日も来る日もポロク
の家族を見守り続けました。雪降り積
もる冬の年も、山と川が輝く夏の年も、わたしたちはポロク
の家族と一緒でした。山
で見たカムイたちのしぐさを息子さんが滑稽に真似するさま、普段は真面目な旦那さん
が顔をくしゃくしゃして笑うさま、奥さんが樹間を渡る風のような声で昔ながらの歌を
うたうさま、娘さんがチセの中をつむじ風のように舞い踊るさまを見て、わたしたちも
心の底から楽しみ、一緒になってはしゃぎました。わたしたちの歌と笑いは常にポロ
ク
とともにあったのです。
少なくとも娘さんはわたしたちの存在に気づいていたようです。なにかを食べるとき
は必ず小さなかけらを残して、チセの隅にこっそり置いてくれましたし、編み物をする
際に余った布や、矢じりを作るときにできた小片なども捨てないで取って置いてくれま
した。どんなにささやかなものであっても、わたしたちに役立たないものなどないとい
うことを知っていたのです。わたしたちがチセの外に出ているときに姿を見られること
もありましたが、いつもすぐに目をそらして知らんぷりをしてくれました。それでも我
慢できなくなることがあって、チラリと横目でこちらをうかがったりします。その際、
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口もとにうっすら笑みが浮かぶので、わたしたちを見てるんだな、とわかるのでした。
たまに丸ごともらえるシト(団子)も非常に楽しみでした。ご先祖さまを供養するシ
ヌラッパや、コタンをあげて行なわれるイオマンテの際に、たくさんの料理とともに作
られて、ヌサ(祭壇)に山盛りにされるのですが、近所のポロク
たちがうち揃い、歌
えや踊れやで大いに盛り上がっているときに、娘さんはシトを三個四個、こっそり梁に
のっけてくれるのです。ウバユリの澱粉でできたシトが一個あれば、優に家族全員が満
腹になれます。わたしたちはすぐにはかぶりつかないで、積み上げたシトの山をためつ
すがめつ眺めるのです。食べ物があり余っているという贅沢な気分を思う存分満喫した
上で、おもむろに食事に取りかかるのでした。
「本当にいいチセに巡り会えた」父さんはしみじみと語ったものでした。「いつ狩り
に行っても獲物がないということがない。心根の正しいアイヌでなければできないこと
だ。だれに対しても恥ずかしくない立派なアイヌだからこそ、カムイたちも喜んでお客
さんになってくれるんだ。仲間との付き合いを欠かさないから、『これ食べないか』
『余ったから少し分けよう』と、食べ物だって集まってくる。おかげで、わたしたちも
食いっぱぐれることがない。ありがたいことだ」
弟たちはポロク
に憧れて、小枝や蔓で弓矢を作って狩りの真似事をしますが、もち
ろんそんなものでは間抜けな虫くらいしか獲れません。みんなで大笑いしましたが、わ
たしや妹にしたって似たようなものでした。魚の小骨を針にして刺繍の真似事をし、不
調に終えた狩りを終えて帰宅する弟たちを、「まあまあ、ご苦労様」「すぐにごはんに
しましょうね」などと言って出迎えたりするのですから。ポロク
本であり、憧れの的でもありました。ポロク
はわたしたちのお手
とともにある幸福な日々が永遠に続いて
いくものと、わたしは信じていたのです。
ところが、そんなある日のことです。日が暮れて、ポロク
の父子が帰宅しました
が、その手にはなにも持っていません。こんなことはついぞなかったことです。父子が
真っ青な顔をして言うことには、山にはいつの間にか棘だらけの柵が張り巡らされて、
ここで狩りをするどころか、山に入ること自体が禁止されたというのです。川に行けば
岸にも川底にも灰色の石がぎっしり敷き詰められ、おまけに上流が巨大な柵で堰き止め
られてしまったために、サケも川を上ることができなくなりました。そこまで来ること
ができたサケにしても、許可なくしては一匹も獲ることができないのです。「違反した
ら即逮捕だぞ」火を噴く棒を持ったヒトたちがそう言って脅してきました。「これから
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はわれらが大ニホン帝国の一歯車として、おまえら蛮人も規律正しく生きていかにゃな
らんのだからな」
「大変な時代になったものだ」ポロク
の旦那さんはいつになく深刻な顔です。「こ
れでは食べるものがない。どうやって生きていけばいいのか」
頭にカラスを乗せたヒトたちがコタンを訪ねてきました。同じポロク
ら、このヒトたちはわたしたちがよく知るポロク
ぶ、まったく別のポロク
でありなが
を「エゾ」「アイヌ」「土人」と呼
でした。わたしたちのポロク
は彼らを「シサム」と呼びま
したが、忌々しそうに口にするときはそれが「シャモ」となまりました。わたしたち
は、シャモが頭に乗せているカラスがいつ暴れだすかと気が気ではありませんでした
が、あとで聞いたところによると、それは「ちょんまげ」と言われる、髪を結った飾り
ものだということです。
「なにを食えばいいかだって? なにバカなことほざいてやがる!」シャモの大将は
ポロク
たちの訴えを鼻で笑います。「このエゾ地には自然の恵みがあふれかえってい
るじゃないか。シカは鉄砲で撃って工場で缶詰にするから、それを買って食えばいい。
サケは網で一網打尽にして新巻鮭、切り身、フレーク、トバとして売りだすから、好き
なやつを買って食えばいい。内地のうまい食いもんもこれから大量に入ってくるし、輸
入物のチーズ、ワイン、フルーツだって店頭に山積みされるんだ。どうだ、すごいだ
ろ? 金を払うだけで、それがみんな、おまえらのものなんだぜ! 金? うん、それ
はちゃんとした仕事につけば、お給料という形で支払われる。ということで、これから
仕事を割り当てる!」
シャモたちはコタンのポロク
を並ばせて、一人一人に仕事を割り振っていきまし
た。
「ミナテカイヌの親爺は炭坑に行って石炭を掘れ。仲間がたくさんいるし、活気とス
リルがあって楽しいぞ。息子のセンタカイヌは兵隊になって大陸に渡れ。銃をぶっ放し
て、おもしろいように人殺しができるし、うまい中華料理だって食い放題だ。中国娘も
かわいいぞ! クーニャンっていうんだ、ニャンニャンニャン!」
「わたしたちがここを離れてしまったら、妻と娘はどうなるのですか」ミナテカイヌ
の旦那さんが言います。
「仕送りすればいいし、ここにだって働き口はいくらでもあるぞ。観光地の土産売
り、呑み屋の女給、ゴルフ場のキャディー、スーパーのレジ係。そんなところで働かせ
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たくないだと? なにを贅沢言ってやがる。このご時世、仕事があるだけでもありがた
いと思え!」
生木を裂かれるような思いで、家族は引き離されてしまったのでした。残された母娘
はたちまち苦境に立たされました。奥さんは缶詰工場で休む間もなくこき使われて、つ
いに病気になって寝込んでしまいましたし、居酒屋で働く娘さんはたちの悪い酔っぱら
いによってたかって乱暴されて、歩くことができなくなってしまいました。それを知っ
てシャモの出稼ぎ者が食べ物を運んでくるようになりましたが、「だが、ただでいい目
を見ようと思っちゃいけないぞ」と言って、身動きもままならない娘さんにさらにひど
い乱暴を働くのです。
コタンのほかのチセでも事情は似たようなもので、残る者はか弱い女子どもだけだっ
たので、どんなに悲鳴をあげようが助けを呼ぼうが、駆けつけてきてくれる者はいませ
ん。
「おとなしくしていれば悪いようにはしない。これからもきちんと面倒を見てやる」
とシャモの男は言いましたが、どうやら内地には妻も子どももいるようでした。「だか
ら泣くな。こわがるな。おれにはいつも笑顔を見せろ。おれのいい子ちゃんでいるかぎ
り、大事に扱ってやるから。いいな、おチビちゃん?」
「わたしはそんな名前じゃない」立つことのできない娘さんは、それでもむきになっ
て言い返しました。
「おまえの母親がそう呼んでなかったか? チビちゃんとか? それじゃ、本当の名
前はなんて言うんだ?」
娘さんの本当の名前はチピヤ
。けたたましく鳴きながら、空を上へ下へと行き来す
る小さな鳥からつけられた名前でしたが、それをこの男に明かす気はないのでした。
ポロク
に寄生しながら、必要以上に関わり合いにならないようしていた父さんも、
これにはさすがに黙っていられなくなったようです。「ポロク
とは距離を置いてつき
あったほうがおたがいのためなんだ。深く関わり合って、ろくなことが起きた試しはな
い。だが、これはあまりにもひどすぎる。ポロク
があまりにもかわいそうすぎる」
父さんは眠っている男の耳もとで、「恥を知れ」「ご先祖さまが泣いているぞ」「ろ
くな死に方をしないだろう」「鳥もいない、木も生えない、じとじと湿ったヤチ・ネ・
モシ
を永遠にさまようことになるのだ」とささやきました。男の良心に訴えて、悔い
改めてくれることを期待したのです。しかし、父さんの警告も男には通じなかったよう
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です。「ここには変な虫でもいるのか?」「夜中にキイキイやかましくてよ」「眠れな
くて気分が悪い」と男は不機嫌になって、かえって状況が悪化したほどです。
耳に砂を入れたり、鼻にネズミの糞を詰めたり、さんざん嫌がらせをしましたが、そ
れでも男を追い払うことができません。「この家にはなにが取り憑いてやがるんだ?」
「まったく胸くそ悪い家だぜ!」と言って、さらに娘さんをいたぶる口実を男に与えた
だけでした。
「これ以上あのシャモをのさばらせておけない」父さんはある日ついに決断しまし
た。拾い集めた針、釘、矢じり、楊枝を息子たちとともに持って、眠っている男の寝床
を訪れたのです。耳もとで「起きろ!」と叫んで、男がパチリと両目を開けたところ
へ、それらの尖ったものを一斉に見舞ってやりました。男はコタンじゅうが起きてしま
うほどの絶叫をあげてチセを飛び出し、あたりの野山をさんざん転げまわった挙げ句、
タタキみたいなグチャグチャな肉のかたまりとなって野垂れ死んだということです。
「ここはもう終わりだ」父さんは唇を噛みしめて言います。「平和な日々は失われ
た。これ以上ここにいてもいいことはない。食い物は手に入らず、わたしたちは飢えて
しまうだろう。よそに移ったほうがいい」
「このヒトたちを見捨てていくんですか?」母さんが猛烈に反対します。「これま
で、わたしたちにさんざんいい目を見させてくれたではありませんか。それを役に立た
ないからと見捨ててしまっては、あのシャモたちと変わりませんよ。今度はわたしたち
が恩返しする番です」
わたしたちはかつての幸せな生活を取り戻すためにできるだけのことをしようと決め
ました。
「旦那さんと息子さんをまず連れ戻さなくては」父さんは言います。「家族が揃わな
いことにはなにも始まらない」
弟たちを連れてミナテカイヌ・ニ
パが働いている炭坑に赴くことにしました。チセ
に戻ってくるよう説得し、シャモたちがそれを阻むようなら、目玉に片っ端から針を突
き刺して、旦那さんが逃げる手助けをします。息子のセンタカイヌはどこか遠くに行っ
てしまったようなので、連れ戻すことは難しいかもしれませんが、それはまたあとで考
えることにいたします。とりあえずはミナテカイヌ・ニ
パを連れ戻すことに全力を傾
けることです。
「奥さんと娘さんを養わなくてはなりません」母さんは言います。「二人は外に出ら
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れませんし、あのシャモもいなくなったので、食べ物がもう手に入らないもの」
妹たちを連れて近所を歩きまわって、ありったけの食べ物をかき集めることにしたの
です。これは大変な重労働でした。ポロク
が食べる量はわたしたちとは比べものにな
らないぐらい多いのですから。おまけにドングリでもイモムシでもなんでも食べるわた
したちと違って、ポロク
は好き嫌いが激しいのです。
「わたし、もうちょっと遠くまで行ってみる」わたしは言いました。シャモが娘さん
に語っていたことを思い出したのです。「あの山、あの谷のむこうには、ものすごいた
くさんのヒトがいる。ものすごい大きなコタンがある。食べるものもたくさんあるは
ず」
弟三人、妹三人を割り振ってもらって、わたしたちはクワ(杖)を手に意気揚々と出
発しました。「抱えきれないほどの食べ物を持ってくるよ!」
これまでほとんどの時間をチセとその周辺でのみ暮らしていたわたしたちにとって、
森も山も川もなにもかもが目新しいものでした。二つの山、三つの山を越え、二つの
谷、三つの谷を渡っても、なお山と谷が果てしなく続くように思えました。けれど、見
渡すかぎりを埋めつくす木々がある場所で突然、断ち切られたように消え失せると、そ
こに現れたのは黒々とした川でした。黒い水と思ったそれは、しかし実際は水ではな
く、氷なみに堅いものです。ただし冷たくはありません。森を真っ二つに切り裂いて、
右に左にどこまでもどこまで続いていました。
そこへいきなり嵐のような音が轟いたかと思うと、これまで見たこともないほど大き
なキキ
(虫)が目の前を駆け抜けました。チセかと思うほど大きくて、磨き抜かれた
タシロ(刃物)のようにピカピカ光り輝いていましたが、なぜか羽根が見当たりませ
ん。わたしたちが度肝を抜かれて立ちすくんでいると、さっきのよりは小さなキキ
それでも信じられないほど大きなキキ
、形のそれぞれ異なるキキ
、
が、思い出したよ
うに一つ二つ三つと駆け抜けていきます。空を飛んでいるわけではありませんし、地を
這っているわけでもない。体の下に丸い玉を四つ、あるいは二つぶら下げて、それをす
さまじい勢いでまわしているのです。「なんだろ、ク・サポ(お姉さん)」「恐ろしい
よ」「キキ
とは違うの?」「帰ろうよ!」弟たち妹たちは不安がります。
「これはシャモの仕業に違いない」わたしは確信しました。「シャモというのはなん
とまあ、恐ろしい力を持っていることか。森を黒い帯で切り裂いて、ばかでかいキキ
を走らせる。こんなことができるなら、食べ物もきっとすごいはず。行きましょう」
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黒い帯に沿ってしばらく歩くと、ある地点で森が切れて、下へくだる土の道が現れま
した。川のせせらぎに混じって、なにやらにぎやかな音楽と笑い声が聞こえます。日が
沈み、あたりはすっかり暗くなっていましたが、ここで引き返しては悔いが残ります。
わたしたちはなおも進むことにしました。暗い道を下りきると、川のそばの空き地に件
の大きなキキ
がずんぐりたたずんでいるのが見えます。その前には、おそらくはシャ
モとおぼしい若い男女が数名いて、焚き火を囲んで飲み食いし、大いに騒ぎまくってい
ました。「ホッカイドーッ! デッカイドーッ!」「ホッカイドウは最高だな! 自然
は豊かだし、食いもんはうまいし!」「明日はどこ行こう? クマ牧場でも見るか? 温泉に入るか?」「カニ食おうカニカニ! ギャルと温泉とタラバガニ!」「先にガソ
リン入れなきゃヤバいぞ! ガス欠寸前! こんな僻地に置き去りにされたくないから
な」
かたわらに置かれてある四角い箱は絶えず音楽を吐き出していましたが、それはいっ
たいなんという音楽なのか。空を切り裂く雷鳴と、木々をなぎ倒す暴風雨、地面を揺さ
ぶるトゥクシ
(アメマス)がまとめて襲いかかってくるかのようです。
「ニッネカムイ?」妹の一人がつぶやいて、ブルブル震えだします。赤い炎を浴びな
がら、大口開けてものを食い散らかす彼らはまさに、地上のあらゆるものを呑みつくす
貪欲なカムイ、ニッネカムイと見えたのでした。わたしたちの尊敬すべきアペ・フチ、
輝ける炎のおばあさんも、これほど大勢のニッネカムイを前になすすべもないようでし
た。
「逃げよう!」「ぼくらも食べられちゃうよ!」弟たち妹たちは騒ぎだしましたが、
わたしはあのチセのごときキキ
が気になっていました。このニッネカムイ、いえ、
シャモたちはあの中にたびたび入っては、食べ物を取り出してくるのです。たくさんの
食糧がチセ・キキ
の腹に詰まっているに違いない。「なにかもらっていこうよ」わた
しは言います。「ちょっとくらいなら構わないよ。なにせシャモたちはポロク
からな
にもかも奪ってしまったんだもの。それを返してもらうだけだよ」
チセ・キキ
の中はどこもかしこも明るくツルツルとして、まるでこの世のものでは
ないようでした。かと言ってカムイの住むカムイモシ
落とされる湿ったテイネモシ
とは違うし、悪いカムイの突き
とも違う。タシロ(刃物)が持つような冷たさや鋭さを
とことんまで押し進めた、胡散臭くも禍々しいものでした。いるだけで息が詰まりそう
です。こんなところに長居は無用です。
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小高いところにある平台の上に、目当てのものは見つかりました。それは大きさと言
い形と言い、まるっきりシト(団子)そのものでした。透明な袋にいっぱい詰まって、
開いた口から二個三個がはみ出ています。わたしたちは山道を何昼夜と歩きづめで、持
参した食べ物もすでに尽きていました。出発前にちょっと腹ごなししておこうと、みん
なでかぶりつきましたが、一口食べた途端に驚愕しました。それはわたしたちの知って
いたシトとはまるっきり別物だったのです。甘い。とてつもなく甘い。これまで味わっ
たどんな食べ物とも比べものにならないくらいに徹底的に甘い。あーっ! わーっ! わたしたちは声を限りと叫びながら、あたりを駆けずりまわりました。舌の上で甘さが
炸裂して頭の中をぐるんぐるんまわるのです。いても立ってもいられなくなるのです。
甘い甘い甘い甘い甘すぎる!
きゃああああっ! シャモの若い女性がチセ・キキ
の尻で叫びます。「なにこれ! 信じらんない! 小人だよ小人! だれか来てえ! 見て見て見て!」
「コロボックルだぞ、これは! 童話で読んだ!」「ドーナッツ食ってやがる!」
「本物かよ?」ほかのシャモも集まってワイワイ騒ぎだします。「やべえ! 酔っぱ
らってんじゃねえのか、おれら!」「本物だよこれは! ちゃんと動いてるし!」「口
きけんのかな? おい、なにかしゃべってみろ!」
そして、シャモたちの唐突な出現で固まってしまったわたしたちを穴を開くほど見つ
めてきます。
見つかったのなら仕方ありません。わたしは気を取り直して、丁重にお願いすること
にしました。「このシト、少し分けてもらえませんか?」
タン・シト、ポンノ、エチ・ウン・コレ、ワ、ウン・コレ、ソモ・キ・ヤ?
「しゃべれねえよ! キイキイ鳴いてるだけじゃねえか!」「こりゃ、新種の虫かな
んかじゃね?」「とにかく捕まえろ! 貴重だぞ!」
「逃げて!」わたしは叫びました。「シトも忘れないで!」
全員が無事に逃げられたのは、一斉に襲いかかってきたシャモたちがたがいにぶつか
りあって自滅してくれたおかげでした。「いてえ!」「どけよ!」「どこ触ってんの
よ!」「どこ行った!」「騒ぐな!」と叫んでもつれあう彼らの間を擦り抜けて、わた
したちはチセ・キキ
を脱出し、黒い帯のむこうの森に辿り着いたところで、ようやく
一息つくことができました。大変な目に遭いましたが、それでも食べ物を手に入れるこ
とができて満足でした。それもこんなに甘いシトなのです。こんなに大きな袋の中に三
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十個も四十個も詰まっているのです。わたしと弟妹たち、七人全員でかろうじて持ち上
げることができるほどの重さなのです。ポロク
の母娘も大喜びでしょう。あとは一刻
も早くこれをチセに持ち帰るだけです。
けれど、その甘い匂いが森に住むけものたちの鼻孔を刺激したのでしょうか。ネズミ
が、カラスが、キツネが次々と近づいてきては、少し置いていけと要求してきます。
「そんなにたくさんあるなら、一個くらいくれてもいいだろ?」「それとも、おまえら
の一人を置いていくか?」「一個くれたら、この先の峠まで送ってやるぞ」「行きはよ
いよい、帰りはこわい! なにがあっても知らないぞ」
「うるさい!」「去れ!」とわたしたちは叫んで、クワを振りまわして抵抗しました
が、こんな重いものを抱えては逃げきれるはずもありません。先へ進むために、シトを
切り崩して分け与えるのも仕方のないことでした。途中、図々しいカラスが突っついた
部分が裂けて、袋からシトが何個もこぼれ落ちました。枝を橋にして川を渡る際、袋ご
と落っことして、相当数のシトを水に濡らしてしまいました。空きっ腹ですごすわけに
もいきませんが、ほかになにか食糧があるでもなく、食べるものはやっぱりシトでし
た。そうやって、二つの山、三つの山を越え、二つの谷、三つの谷を渡り、懐かしいチ
セに戻るころには、あれだけたくさんあったシトはたった一個を残すのみとなりまし
た。
チセの中はすさまじい匂いでした。母親のほうはすでに死んで腐敗が始まっていて、
衰弱が激しい娘さんも生きながらすでに腐りかけていたのです。そばには父さんと母さ
んが、弟三人妹三人とともに、途方に暮れて立ちつくしています。足下には、たくさん
の木の実、花、ミミズ、ゲンゴロウ、カエルの干物などが散らばっていましたが、ポロ
ク
たちはこういったものは口に合わないようです。
「ポロク
のニ
パは死んでたよ」父さんは首を振り振り言いました。「岩盤が崩れ
て下敷きになって死体も見つからないそうだ。息子さんのほうは大陸に渡る前に、練兵
場でしごきにあって死んでしまったらしい」
「いろいろあげてみたんだけどね」母さんがため息をついて言います。「なにも食べ
てくれないの。それはなに?」
わたしたちは必死の思いで持ち帰ったシトを娘さんの口もとに運びました。口を開く
気力すらないようでしたが、かすかに開いた口に無理やり押しこんでやると、途端に目
を輝かせました。「ソンノ・トペン!」ものすごく甘い!
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けれど、それが命の最後の灯だったのです。次の瞬間に娘さんは息を引き取りまし
た。
母娘を弔うことにしましたが、ポロク
二人を埋めるだけの穴を掘ることはわたした
ちには不可能でした。チセごと焼いて祖先の土地ポ
ナモシ
に送り出すしかありませ
ん。むこうの土地ですぐに使えるように、家族が使っていたお椀や鍋釜、晴れ着、小
刀、弓矢、背負い袋、刺繍道具に傷をつけて、母娘に持たせてあげます。盛大に燃え上
がるチセの炎を浴びながら、わたしたちは不安な眠りについたのでした。ポロク
は死
に絶え、コタンは滅びた。この先わたしたちはどうなるんだろう?
その夜、わたしたちの夢の中にポロク
の家族が総出で現れました。全員がきれいな
衣装に身を包み、しばらく見ることのなかった晴れやかな笑顔をしています。
「わたしたちの小さな同居者さんたち」ポロク
のニ
パは懐かしい口調で穏やかに
話しかけてきます。「このたびはわたしの妻と娘のためにいろいろ尽力してくれたこと
を感謝いたします。それがこのつらい日々の終わりにどれだけの慰めになったか知れま
せん」
「ありがたいことです」と言ってポロク
のカッケマッ(奥さん)は頭を下げます。
「この世では生き別れになったわたしたちも、こうしてカムイの土地、ポ
ナモシ
で
再び一緒になることができました。チセや持ち物一切をこちらに送っていただいたの
で、何不自由なく暮らすことができます。本当に助かりました」
「心根の腐った連中のせいで、まったくつまらない死に方をしてしまいました」息子
さんのセンタカイヌが忌々しそうに言います。「恨みに思うことは数知れずあれど、今
は心を落ち着けて、こちらの暮らしを楽しみたいと思います。ここにはあの胸くそ悪い
シャモどももいないことですし。こちらに来ることがありましたら、ぜひ一度お立ち寄
りください。できるだけのおもてなしをいたしましょう」
「あなたがたのことはいつも気にかけていました」娘さんのチピヤ
がうれしそうに
言います。「裏の草やぶで駆けまわっていたところ、梁の上に腰かけてわたしたちのお
話に聞き入っているところを、いつも目の隅で見ていました。お友達になって一緒に遊
びたかったけれど、邪魔をしては悪いからと、そのたびに思いとどまっていました。そ
れだけが心残りです。いつか一緒に遊べるといいですね。最後にもらったシトも大変お
いしかったです。イヤイヤイケレ! みなさんも体に気をつけて元気でお過ごしくださ
い」
19
そして翌朝、日がのぼるのと同時にわたしたちは住み慣れたコタンを離れて、長い旅
に出たのでした。
「だから、今いるコ
ポック
たちよ。世の中なにが起こるかわからないけれど、受
けた恩はしっかり返し、感謝の気持ちを持って生きることが大切だということは変わり
ませんよ」と、かつてアイヌのチセで暮らしていたコ
20
ポック
の娘は語りました。
8 もののけ市街地
「カッパがいたよ」と最初に指摘したのはアチャポだった。「後ろのほうでライブ見
てた」と。「スンケ・ハウェ!」ノンノはすぐに決めつけた。「嘘つけ!」という意味
だ。「あれは頭のてっぺんがはげて、カッパみたいに見えるヒトだったよ」。だが、そ
れは嘘ではなかった。アチャポは大概は身も蓋もない真実を話すのだ。
それはフラグランスと同様、休日の路上でライブを行なっている、カッパの四人組に
よるアコースティック・バンドだった。バンド名は「しりこだま」。小規模なライブハ
ウスが主な活動拠点だったが、路上のみならず、普通はライブをしないような場所で突
発的にライブをすることを好んでいた。
たった今、川から這い上がってきたばかりみたいにみずみずしいカッパ、すぐにも川
に戻りたがって思いつめているような鬱気味のカッパ、いつも頭の皿が干上がっている
かのような浮かれたカッパ、金はなくても洒落者といった風情の没落貴族を思わせる
カッパ。この四人がしりこだまの不動のメンバーだった。全員が作詞作曲でき、リード
ヴォーカルをとれるのが強みで、その歌は現代という薄皮一枚の下に潜んでいる古代の
声にほかならなかった。それは埃にまみれた土蔵や古文書の中に眠っていたわけではな
く、思いがけなく近い場所、そう、ぼくらの近所にあるようなごくありふれた河川、そ
の川底でうたた寝していたらしい。
水を吸ってふやけ、色褪せ、たわんだ楽器を使って、指と指の間に水かきがあるとは
思えないほど達者な演奏を披露するが、テクニックが売りのバンドではなかった。川で
溺れ死んだ子どもたち、川面を漂うジュースの空き瓶、ゲロゲロけたたましく鳴き交わ
すカエルの家族、月夜の橋の上で踊り狂うカッパ娘のことを、時にリリカルに、時にグ
ロテスクに、演劇性たっぷりにパフォーマンスして注目を浴びたが、いざメジャー・デ
ビューとなったシングル曲「さよなら霊長類」でつまずいた。これは地球温暖化をむし
ろ歓迎する内容で、町も山も水没して、陸に住むサルどもはみんな溺れ死んでしまえば
いい、なんなら足を引っ張ってあげましょうか? という衝撃的な展開を見せるもの
だった。プロモーションの段階から「ふざけてる!」「霊長類舐めんな!」「おまえら
が死ね!」といったクレームが相次ぎ、不買運動が繰り広げられた。しりこだまはつい
に所属事務所を解雇されて、表舞台から消えたのだ。
しかし、歌詞には間抜けなオチがついていた。全世界がめでたく水没してしまった
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ら、好物のキュウリが育たなくなるし、そもそも海水は塩辛いので、淡水生物であるぼ
くらには堪え難い。それに今ではニンゲンの友達もたくさんできたことだし、やっぱり
地球温暖化も考えものかな、というものだ。とは言え、該当する三番の歌詞に辿り着く
までには四分ほど曲を聞きこまなければならず、クレーマーたちはそこまで堪え性がな
かったのだ。
フラグランスの三人は最初、このカッパたちを警戒していた。見かけるたびに「ミン
トゥチ!」と叫んで泡食って逃げだし、この大先輩に挨拶するどころか、三メートル以
内に近づくことすら拒否していた。ミントゥチ、つまりカッパとコ
ポック
とは昔か
ら牽制しあう関係だったのだ。カッパは川が主な生活圏であり、コ
ポック
もまた川
で食料を得ることが多かった。沢ガニ、川エビ、小ブナを川べりで取り合いっこしてい
たのだ。
しかし、しりこだまの四人は非常に気のいいカッパたちだった。避けられていると
知ってからはわざわざ帽子をかぶって変装までしてライブを見に来てくれたし、自分た
ちのライブの現場でも「あっちのほうの小さい女の子たちのライブもおもしろいです
よ」と、頼んでもいないのに宣伝してくれた。マシュマロやチーズなどの差し入れに混
ざって、新鮮なキュウリを見つけたとき、フラの三人はすぐにそれがしりこだまからの
ものだとわかった。お返しに、ドングリ山名産のクリ餅を差し入れたが、これが事実上
フラグランス側からの和解の申し出となった。それ以来、路上で出くわすたびに親しく
口をきくようになったし、いったん話しはじめると共通の話題が実に多いのだ。川べり
の珍味や月夜の夕涼み、いやみなブヨについての話で盛り上がると、ほかの者は口を差
しはさむ余地がなかった。
「メジャーはこわいですよ」いつも薄ら笑いを浮かべているカワイシさんが忠告す
る。「あなたがたもいずれはメジャーなレコード会社と契約することになるでしょう
が、ライブの日取りだのテレビの収録だの、もう勝手にがっちりスケジュールを組まれ
ちゃいましてね、いやその日は都合が悪いんでご勘弁ご勘弁、なんて断ろうものなら、
もうテレビには出さねえぞ、二度とチャンスはないからなボケカス低学歴、と恫喝です
よ。連中、何様だと思ってるんでしょうね。ウヒ、ウヒ、ウヒヒ!」
「ぼくらはインディーズで十分なんです」いつも物静かなモトタキさんが独り言のよ
うにつぶやく。「バイトをしないでも、ほどほどに暮らせていますからね。無理する必
要はないんです」
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カッパほどではないにしても、路上は一風変わったヒトたちに事欠かなかった。そん
な意外なものと遭遇するのが路上の醍醐味なのだ。だれにでも平等に開かれた、現在進
行形の文化の実験場であってこそ、そこは天下の大道と呼べるのである。
ブレーメンズは、ロバ、イヌ、ネコ、ニワトリからなる混声ア・カペラ・グループ
で、路上の人気者だった。言葉は非常にたどたどしく、歌もお世辞にもうまいとは言え
ない。ほとんどの部分はただ鳴き、うなり、吠えているにすぎないので、内容を知るに
は事前に配られる歌詞カードに目を通す必要がある。毎日重い荷物を引かされて酷使さ
れる苦しみ、鎖に縛りつけられた自由のない日々、今日は首を切られるか明日はスープ
にされてしまうかと怯えて暮らす寝屋の中、好きでもない主人にさんざんいたぶられる
屈辱を切々と歌い、観衆の同情を誘う。すでにこの時点であちこちからすすり泣きが聞
こえ、それに誘われるようにして、また涙が伝播する。
永遠に続くかと思える苦しみのあと、傷つき、おびえ、打ちひしがれた四匹が出会
い、一緒に旅をする決意を歌った歌は、苦難のうちにありながら思いがけず仲間を得た
喜びにあふれて、これも感動を呼ぶ出来映えだった。しかし、先が見えないことには変
わりがない。音楽隊に加わることに一縷の望みを託して都会を目指すが、旅の終着点は
依然として不透明なままである。
それだけにクライマックスシーンで披露される勝利の凱歌は、大きな感動を呼ぶので
ある。ロバの上にイヌが乗り、イヌの上にネコが乗り、ネコの上にニワトリが乗る場面
では、スタッフの助けを得ながら、それを目に見える形として披露する。足場の悪さと
重みでブルブル震えながら、泥棒たちにむかって吠えたけるシーンでは、客も一緒に
なって声を張り上げ、大きな盛り上がりを見せる。そして、泥棒たちが慌てふためいて
逃げだすと、もう客は爆笑の渦だ。涙を流して腹をかかえて、ここぞとばかりに大笑い
する。テーブルに山盛りの料理を前にしての宴会シーンでは、掛け値なしの祝祭気分に
見る者全員が酔いしれる。おひねりは万札をまじえてバンバン飛ぶし、自主制作のCD
も飛ぶように売れるというものだ。
フラグランスの三人はブレーメンズとはすぐに仲良くなった。言葉を話す動物とは昔
からなじみ深かったのだ。
「これはいい仕事ですよ」ロバの権之助さんは上機嫌に語る。「週一で歌うだけで結
構な現金が手に入りますから。普段はのんびりすごしています。クラシック聞いて、お
花を眺めて」
23
「なにせ暮らしにくいに世の中だ」イヌの万次郎さんはぼやく。「昔は自由な野良犬
暮らしも悪くなかったと聞くが、今はどうだ? 首輪に鎖なしじゃ、外を出歩くことも
許されん。おれらはいつから奴隷になったってんだ? まあ、そんなに出歩く気にもな
れんがね。あの道この道どの道もクソいまいましいコンクリで覆いやがって。ションベ
ン引っかける気にもなれんよ!」
「ネコってのは一見恵まれているように見えるけど」ネコの雪之丞さんは鼻を鳴らし
て言う。「かわいいかわいい言われるのは、かわいいうちだけだよ。年食ったり怪我し
たり醜くなったりしたら、もうかわいがる理由がない。あっさり捨てられてしまうわ
け。年食って野良ネコになったら、路上で暮らすのも楽じゃない。ヒト殺しの練習にネ
コ殺すクソガキだっていることだしね。化けて出ようにも最近のニンゲンは霊さえ見な
いって話じゃない? もう救いようがないね」
ブレーメンズは驚くべき内情も明かしてくれた。
「わたしらは入れ替え制なんだ」ニワトリの十兵衛さんが語る。「時機を見て別のメ
ンバーに交代して、ブレーメンズとして活動を続ける。予備軍はまだまだ大勢いるし、
これからも増え続ける一方だろう。引退したら? あとは死ぬまで悠々自適さ」
飼い主によって捨てられたペットたち、潰される予定だった家畜たち、保健所で薬殺
を待つ動物たちがわが身を守るために設立した団体が本来のブレーメンズであり、その
活動の一環として路上でライブを行っているのだ。おひねりやCD販売で得た収入は団
体と団体メンバーの暮らしを維持するための予算となる。
「大事ですよね。生きのびるってことは」カ
ユケがしみじみと感想を述べる。「自
分一人が生きのびるんじゃなくて、まわりのみんなを生きのびさせることが、自分を生
きのびさせることにもなるんですよね」
路上で歌舞音曲を演じているのは狭義の生き物ばかりではなかった。紛れもない人工
物である人形のグループも存在した。コストパフォーマンスドール、通称「コスパ」
は、七体のマネキン人形からなるアイドル・グループで、熱狂的なファンを有し、すで
にメジャー・デビューも決まっていた。
完璧なプロポーションの肢体を最新流行のファッションで彩り、まったくの無表情で
ぎこちない踊りを披露する。クールな声にはそれなりに魅力がないでもなかったが、全
員が完全に同じ声だった。コスト削減のために七人全員に同じ発声機が埋めこまれてあ
るからだ。やや時代遅れのトランス・ミュージックに乗って、はなから感情移入を拒む
24
ような、限りなく平板なイントネーションで歌う。音のみを聞く分にはおもしろみに欠
けるものの、ショーとして成立しているのは、あまりにも整いすぎた顔立ちと容姿、見
飽きることのない多彩な衣装、どこか神経に障りながらも無視できないギクシャク踊
り、そして固定ファンの熱い声援のゆえだった。
曲ごとに衣装をチェンジするのも目立った特徴だった。曲のイメージに合った衣装を
用意することで、より完璧なショーに近づけるためだというのが公式の見解だったが、
見せたいものはむしろ着替えのシーンだったろう。観客の面前で堂々と着替えを披露
し、その間、音楽も途切れない。たどたどしい手つきでアクセサリー、シャツ、スカー
ト、靴下、下着まで残らず着替えるその時間が、ライブで一番盛り上がる瞬間でもあっ
た。コスパのライブは写真撮影が許可されているどころか、むしろそれが売りなのだ。
熱狂的なファンはわれもわれもと詰めかけて、ステージ前はしばしば修羅場と化す。怒
声が飛び交い、殴り合いが始まって、そのたびに警察や歩行者天国の運営者からお叱り
を受けるが、コスパのスタッフはパフォーマンスの内容を変えるつもりはないようだ。
この形が一番受けることを知っているのだ。握手券つきのCDもあっという間に売り切
れる。CD自体は道端に大量に捨てられる運命だったが、それも仕方のないことだっ
た。
「挨拶しておいたほうがいいと思うんだ」と提案したのは、コスパのファンとも交流
のあるオクタだった。「むこうはこれから上り坂で、あの独特の存在感でもって一世を
風靡するに違いない。きみたちも将来、芸能人と呼ばれる日が来ないとも限らないし、
そんなとき味方がいるといないとじゃ大違いだよ。芸能界は厳しいからね」
フラグランスの三人はまったく気乗りがしなかった。コ
ポック
である彼女たち
は、その師匠筋にあたるアイヌと同様、人形に対する警戒心が強いのだ。
「あのヒトたち、ずっと生きてるつもりかな?」アチャポが不信感たっぷりに尋ね
る。「壊れないかぎり、ずっとそのまま? そんなこと許されると思ってるの?」
「お人形さんは好きだけど」カ
ユケが微妙な表情で言う。「遊ぶのはお日様が出て
いるうちだよ。夜になれば、お人形さんにはウェイスネ(悪い魂)が宿ってしまうも
の。この世に未練たらたらの、恨みのこもったウェイスネが乗り移って、邪悪なものに
なっちゃうの。だから、お日様が落ちたらお人形さんはすぐに壊さなきゃいけないんで
す」
「人形なんぞ世の中にごまんとあるぞ」オクタは心底呆れてしまう。「着せ替え人
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形、ぬいぐるみ、人形劇の人形。ありえないよ。それがみんな邪悪だって言うのか
い?」
「邪悪!」ノンノはキッパリ言いきった。「ヒトでないものがヒトのふりをするんだ
よ。どうして邪悪じゃないわけあるの?」
フラグランスのそんな評価を知ってか知らずか、コスパの態度はつれなかった。
「挨拶? どこのだれが? どこにいるって?」「ああ、このゴミみたいな子た
ち?」「生きてるの? ひとつ潰してみてもいい?」「知ってるよ。オタクたちのマス
コットでしょ?」「ちっちゃい体でバタバタ跳ねまわってウザイのよね、この子たち」
同じ声と平板な口調でコスパのメンバーはフラグランスを攻撃した。これがもし、
もっと感情のこもった調子で言われたら、まだ人間味が感じられて親しみさえ湧いたか
もしれない。
「このたびはメジャー・デビューおめでとうございます」アチャポが恐る恐る言う。
「いろいろご指導ご鞭撻のほどをお願いしたいと思っていましたが、一気に手の届かな
い遠くに行かれるようで残念です」
「あんたも相当心のこもってないセリフだね」「どうせ一所懸命おぼえてきたんで
しょうけど」コスパたちは容赦がない。「小人だもんね。脳味噌がほとんどないのよ」
「わたしたちのしゃべっていることも理解しているかどうか怪しいものだわ」「挨拶し
に来ただけでしょ? 終わったんなら、さっさと帰んなさいよ。わたしたちも暇じゃな
いんだからさ」
「せっかくですので、なにかアドバイスがいただけたらと思いますが」
「ない」「引退しなさい」「出直してきなさい。大きくなってね」
「もうちょっとなにかないですかね」アチャポはさらに促す。「そんなの、アドバイ
スになってないし」
「生意気」「図に乗るな」「わたしたちと対等だなんて思わないことね。あんたらが
やっているのはおままごと。わたしたちはショーを見せてるの」「わかる? 体を張っ
てやってんのよ。役立たずだって思われたら、すぐに廃棄されるんだもの。マネキンは
いくらでも補充がきくからね」「そっちの二人は口きけないの?」
ノンノとカ
ユケはただ愛想笑いするだけだった。
「いやあ、なかなか貴重なアドバイスだったねえ!」大量に汗をかきながら、オクタ
がことさら陽気に言う。「彼女たち、口は相当悪いけど悪気はないと思うんだよ。芸能
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界に足を踏み入れたばかりで、いろいろイヤなことがあるんだろう。面とむかって嫌味
言われたり、陰口をたたかれたり。だから気持ちがギスギスしちゃって素直にアドバイ
スできないというか、ちょっと偽悪的になってしまう。うん、きっとそういうことだ。
そうに違いないさ。アハ、アハ、アハハ!」
「その通りだわ」アチャポが同意する。「わたしたちはまだ駆け出しにすぎないんだ
もの。どんな言葉でもためになる」
最後にもう一人、注目すべき路上パフォーマーを紹介しなくてはならない。そいつは
なんとコロポック
で、しかもフラグランスのライブに行けば、その熱演を漏れなく拝
むことができる。フラがパフォーマンスを終えて小休憩に入ると、ヨーグルトの小さな
容器を両手でかかえておもむろに登場するのだ。客の前をヨロヨロ歩きながら、容器を
これ見よがしに頭上に掲げる。なにを求めているかは火を見るよりも明らかだった。コ
インの一枚二枚を惜しむほど客もケチではない。「あれ見ろよ!」「かわいい!」「笑
える!」と喜んで、次から次と投げ銭するのだ。小さな容器はすぐにコインであふれか
えって、一人では持っていられなくなるほどだ。
「彼もきみらの仲間なの?」これにはハカタが苦言を呈した。「ほかのコ
ポック
とはちょっと違うね。なんかふてぶてしいと言うか」
「ク・ユポ。わたしの兄さん」カ
ユケが答える。本当の兄さんなのか!「ライブで
お金をもらっていないことを話したら、それじゃダメだって言いだしたの。そんなのは
全然ニンゲン的じゃない、世間で通用しないって」
「だけどね、きみたちの芸はまだお金をとれるレベルじゃないと思うんだ」ハカタは
冷静に指摘する。「今はまだ、物珍しいから、かわいいから、お金が投げこまれている
にすぎない。こんな安直な形でお金を稼いだら、きみたちのためにならないよ。きつい
ことを言うようだけど、わかってほしい。ぼくは、ぼくたちは、きみたちがちゃんとし
た歌手になることを望んでいるんだ。スッピンドーを目指してるんだろ? だったら、
安易な道は選ばないことだ」
三人はうなずいた。カ
ユケが話しに行くが、カ
ユケ兄はすぐには納得しないよう
だった。なにやら怒鳴り散らしながら立ち去った。「あの子の兄さんたち、ちょっと問
題あるんだよね」アチャポがつぶやく。兄さんたち! ほかにもいるのか。
27
9 「シ
ヌレメッセージ」
わたしは何人もの兄さんと一緒に、かつてポロク
ンに暮らしている一人のコ
ポック
がたくさん住んでいた寂れたコタ
の娘でした。ポロク
はだいぶ前に姿を消してい
ましたが、いくつかのプウ(倉庫)には食べ物が結構残っていて、わたしたちはそれを
食べて、その日その日を暮らしていました。
とは言え、これらの干し肉、干し魚、ヒエ、マメ、団子には限りがあります。「タン
ネ・ユピ、イワン・ユピ、タ
ネ・ユピ、イワン・ユピ!」わたしはのっぽの兄さん六
人、ちびの兄さん六人に呼びかけました。「このままではいずれ食べるものがなくなっ
てしまいます。今のうちになにかもらいに行ってください。立派なポロク
がしていた
ように、おいしいお肉を持ったカムイたちをお迎えに行ってください」
しかし、兄さんたちは「なにをバカなことを言う妹だ」と、まるで相手にしてくれま
せん。「食べ物はこんなにたくさんあるじゃないか。なんでそんなことする必要があ
る?」
そして、相撲を取ったり、へたな歌を歌ったり、変てこな踊りを踊ったりして、毎日
を遊び暮らすのです。
兄さんたちが暇つぶしに作った弓矢はありましたので、ちびの兄さん三人ばかりにそ
れを持たせて、無理やり山に送り出しましたが、ほどなく泣きべそをかいて戻ってきま
した。兄さんたちを見つけたあらゆるカムイたち、カワウソ、リス、キジバト、カエ
ル、モグラからことごとくバカにされたというのです。「ポンク
が生意気に弓矢を
持ってやがる」「おまえなんかのところにおれたちが客に行くと思うか?」「帰れ! 帰れ!」と言って、砂を浴びせ、水をかけ、くちばしでつつき、後ろ足で蹴飛ばしてき
たのです。
それを聞いて、ほかの兄さんたちは怖じ気づいて、もう狩りという言葉を聞くのもイ
ヤだと言いだしました。
そうこうするうち、コタンの倉庫という倉庫がネズミによって食い荒らされてしまい
ました。高床の倉庫にのぼるには蔓で作った縄梯子を使っていましたが、いちいち片付
けるのが面倒だからと、だれかがそのまま放ったらかしにしてしまったのです。ネズミ
にとっては願ったり叶ったり。思う存分食い散らかして、食べ物はついに底の見えると
ころまで来てしまったのでした。「これは一大事」タンネ・ユピ、タ
28
ネ・ユピ、十二
人の兄さんたちは深刻な顔で相談をはじめます。わたしも加わろうとしましたが、「女
は引っこんでいろ!」と拒まれました。それ自体はおもしろくなかったものの、兄さん
たちがようやくやる気を出してくれたことは頼もしく感じました。
「よし、決めた!」一番のっぽの兄さんが結論を下します。「これまでは相撲をとっ
たり歌ったり踊ったりしたから、その分腹が減ったんだ。これからはずっと寝てればい
い。手足も動かさず口もきかず、いつまでもいつまでも寝ていよう」
「そりゃいい!」「楽だな!」「最高の案だ!」兄さんたちは大喝采で、さっそく
喜々としてその場に寝転がりました。
わたしはすっかり呆れてしまいました。バカな兄さんたちだとは思っていましたが、
まさかこれほどバカだったとは。こんな救いがたい兄さんたちなんかうっちゃって、わ
たし一人だけでもどこかに行ってしまおうかとさえ思いました。このコタンの外には見
知らぬ世界が広がっているのだし、そこには新しい出会いが待っているに違いないので
すから。
チセの戸口からボーッと外を眺めていたときでした。エヘン、エヘンと遠くから咳払
いが聞こえ、少したって戸口に大きな影が現れました。それはまだ年若いキムンカム
イ、黒い毛並みもつややかなヒグマでした。
「なんだ、ポンク
か」わたしには一瞥をくれただけで、再び戸口からチセの中へエ
ヘン、エヘン咳払いします。「どなたかいらっしゃいませんか? ぼくはシリペッ山に
住むペウレ
(子グマ)なんですが。おかしいな。留守なのかな」
「ここにはだれもいませんよ」わたしは教えてやりました。「このコタンにポロク
は一人も残っていないんです」
「なんだって」そのペウレ
は見るからに気落ちした様子です。「もてなし上手なア
イヌが住む、それはそれはすばらしいコタンがあるって聞いて、はるばるやってきたっ
てのに。見ろよ。たくさんのうまそうな脂肪とつやつやした一張羅の毛皮を羽織って来
たんだ。なのに肝心のアイヌがいない? いつからなんだ?」
「少なくとも冬一つ夏一つ前には空っぽでしたね。最初は外から帰ってきたヒトが何
人か、熱を出して寝込んだんです。体じゅうにブツブツがいっぱいできて、何日かする
と死んじゃいました。それがほかのヒトにもどんどん移って、トゥスク
(巫者)が
『パヨカカムイ(疱瘡のカムイ)の仕業だ!』って指摘したら、みんな、もうあたふた
して取る物も取りあえず逃げだしたんです。この病気のせいで全滅したコタンがいっぱ
29
いあるらしくて」
しかし、ペウレ
はわたしの言葉など上の空です。
「本当に本当にいないんだな?」
「おあいにくさまです」
すると、ペウレ
はわたしと、あまりの椿事にビックリして起き上がった兄さんたち
をギロリとにらみつけるのです。
「わかった」意を決したように言います。「それじゃ、おまえらがぼくを送ってくれ
よ」
わたしたちは魂が体から飛び出してしまうほど驚きました。イオマンテ(クマ送り)
はアイヌが行なうことです。コ
ポック
にできるわけがない。このペウレ
はいった
いなにを言っているのか?
「だって、しょうがないだろ? ここにはおまえらしかいないんだもの。おまえらは
ずっとアイヌのチセに居候してきた。アイヌプリ(アイヌ風)の礼儀作法、歌や踊り、
料理、イオマンテの仕方をたっぷり見聞きしてきたはずじゃないか。その通りにやれば
いいんだよ」
わたしと兄さんたちは必死で首を振ります。無理無理無理!
「ぐずぐずしてないで、とっとと始めろ! でないと、みんなまとめて潰しちゃう
ぞ!」
「無茶なことを言うんでないよ」そこへ口をはさむ者がいます。「このチビ助どもに
イオマンテができるものか」
「アペ・フチ!」ペウレ
が叫びます。囲炉裏のかたわらにちょこんと座っているの
は、赤い小袖の衣を身に着けた品のいいおばあさんでした。アペ・フチ・カムイ。モ
シ
・コ
・フチ。このおばあさんは火のカムイなのです。
「どこに隠れていたんだか。アイヌがいなくなっても、ちゃんとばあさんはいるんだ
な」
「眠ってたのさ。分厚い灰の布団をかぶってね。おまえさんのやかましいキイキイ声
で目覚めたのさ」
囲炉裏には昨晩煮炊きをしたときの炎がくすぶっていましたので、アペ・フチはそこ
からわが身を立ち上げたのでしょう。「この子らはチセの隅っこで毎日遊び暮らしてい
ただけだ。たいしたことは知っちゃいないよ」
30
「せっかく来たんだ。このままじゃ帰れないよ。おじさんに叱られるし!」
おじさんとは?
「おじさんは小さい頃、このコタンに客として招かれたことがあったんだ。きれいな
御殿を用意されて、おいしいものをたらふく食べて、それはそれは楽しい毎日だったん
だって。ヘカッタ
(子どもたち)は一緒になって遊んでくれたし、マッネポ(娘)は
きれいな踊りを見せてくれた。フチ(おばあさん)はキツネやウサギ、シャチ、カワウ
ソの出てくるおもしろい話を子守唄がわりに毎晩聞かせてくれた。歌と踊りと食べ物が
あふれた、本当にすばらしいコタンだったんだ! ずっとここにいてもよかったんだけ
ど、カムイモシ
の父さん母さん、兄弟や友達が恋しくなったみたい。それで、イナウ
にシト、トノト(酒)、果物、お菓子、たくさんのお土産をもらって帰ってきたんだ」
「それはそれは」アペ・フチが目を細めます。「むこうではさぞかし盛大な宴を開い
たことだろうね」
アイヌモシ
でもらったものはカムイモシ
「そう!」ペウレ
を呼んで、アイヌモシ
では六倍に増えるのです。
はうれしそうに答えます。「おじさんは毎日たくさんのお客さん
がどんなに居心地よかったか、そこで食べた料理がどんなにお
いしかったか話してくれた。イオマンテの最後に聞いたユカ
も、ものすごくおもしろ
かったって。ただ途中までしか聞かせてもらえなかったから、続きを聞くために一刻も
早くあのコタンに戻りたいって話してたよ」
「だから、おまえも来たくなったんだね。わかるよ」
「だけど、おじさんはダメって言うんだ。あのユカ
の続きを先に聞かれたくないか
らだって。だったら早いとこ行けばいいものを、やれ大人の付き合いがあるだの、やら
なきゃいけない仕事があるだの、女房を置いていけないだの言って、先延ばし先延ばし
してたんだ。ちょっとこわがってたんだと思う。前は歓迎されたけど次は歓迎されな
かったらどうしよう、ユカ
の続きが思っていたよりつまらなかったらどうしようっ
て。だから、ぼくが代わりに来てやった。ああは言ってるけど、ユカ
の続きを聞けた
ら、おじさん、きっと喜ぶと思うんだ。これでもし、手ぶらで帰ろうものなら、なに言
われるかわかんないよ!」
「だけどね」アペ・フチがため息をつきます。「おまえのおじさんにユカ
を話した
アイヌはもういない。残念だけど続きは聞けないよ」
「だったら、ほかのユカ
でいいよ。そこんとこはおじさんもわかってくれる。行く
31
行く言って行かなかったたおじさんが悪いんだもの」
「そのユカ
を話せる者自体がいないんだよ」
「ほかをあたりなさいよ、クマッ子ちゃん」ペウレ
の両隣にはいつの間にか、こ
ざっぱりした衣装をまとった女性が二人立っていました。「もてなし上手なアイヌな
ら、まだほかのところにいるよ。そっちのほうに行けばいい」「すぐには辿り着けない
でしょうけど、焦ることないよ。あんたはまだ若いんだもの」
「なんだ、おまえら」ペウレ
はキッと二人をにらみつけます。「ぼくは今すぐ行き
たいんだ! このコタンじゃないとダメなんだ! 女どもは黙ってろよ!」
「なんて口きくの、この子は」「わたしたちがいないと、あんたは苦しむことになる
んだよ」
この二人の女性はそれぞれ、アイヌが矢毒に用いるトリカブトとマツヤニのカムイ、
ス
ク・カムイとウン・コ・トゥ
・カムイなのでした。
「ならば、男が口を出すか?」唐突に声が上がると、さらにほかの声が続きます。
「男がもう一人、口出すよ」「女だけど、わたしも一言」といった声とともに、チセの
あちらこちらから、いくつもの影が形をとりはじめました。
チセの東の角からむくりと立ち上がったのは豊かな髪をたくわえた男性で、これはド
スナラのイナウに宿った、チセを守るカムイ、チセ・コ
・カムイでした。戸口のとこ
ろから四つ足で起き上がったタヌキは、戸口を守るアパ・サムン・カムイであり、囲炉
裏のまわりを鋭く飛びまわるカケスは、猟と漁を仲立ちするハシナウ・ウ
・カムイで
した。
「ここにはもう、何ヶ月もおまえを養える者などいない。ユカ
を演じる者もいなけ
れば、トノトを醸す者もいないんだ。それで、どうやって送ってもらおうというんだ、
ペウレ
よ?」
「今日のところはお引き取りなさい、おにいさん。住んでた山にお帰んなさい。途中
までなら送ってあげますよ。おいしいスグリがあるところを知ってますから、そこで腹
ごなししてから行きましょうよ」
「いいアイヌを探しとくからさ! あっちに飛んで、こっちに飛んで見つけたげる! 見っかったら、すぐに知らせるよ。だから、それまでおとなしくしてなさい」
「こりゃまたゾロゾロ出てきたな」
ペウレ
が驚くのも無理はありません。ほかにも、梁から片手でぶら下がっているカ
32
ムイがいましたし、戸棚に横たわっているカムイもいました。東のカムイプヤ
(カム
イの窓)には何人ものカムイがひしめいて室内をのぞいていましたし、水滴をしたたら
せながら戸口からのぞくカムイの夫婦者もいました。この、さして大きくもないチセ一
つにこれだけのカムイがいるのです。いえ、実際にはこの数倍、数十倍のカムイがい
て、まだ姿を現わしていないだけなのでしょう。
「それにしても情けないな。こんなにカムイがいたってのに、アイヌの一人も引き止
められなかったなんて」
「大層な口をきく小坊主だな」床をスルスル滑ってきたヘビは、ヌサ(祭壇)を守る
ヌサ・コ
・カムイでした。「やっとよちよち歩きを終えたばかりだというのに、ヒト
を愚弄することだけは一丁前だ。チャランケでもおっぱじめるつもりか? そっちがそ
の気なら、相手をしてやらないでもないぞ」
「おおおおまえは近づくな!」ペウレ
トゥンク
が気弱そうな声をあげます。クマはキナス
、つまりヘビが大の苦手なのです。
「結論は出ている」チセ・コ
・カムイがペウレ
の前に立ちはだかります。「ここ
にはイオマンテできる者はいない。おまえは黙って山に帰れ。おまえを送りたいという
アイヌが見つかったら、知らせに行くから、それまで待っていることだな」
「いやだいやだいやだ!」このペウレ
はとても強情なのでした。「おれは今すぐ行
きたいんだ! 香ばしいトノトを味わいたい! 心躍るリ
ちゃおもしろいユカ
セが見たい! むちゃく
を聞きたい! きれいなイナウとお土産をどっちゃり担いで、
堂々と胸を張って帰りたいんだ!」
「なんてやつだ」「こんな駄々っ子見たことない」居並ぶカムイたちはすっかり呆れ
返っていました。「だれか、大人のキムンペ(クマ)を呼んでこいよ。こいつを力ずく
で連れていってもらおう」「ヘビの旦那に追っ払ってもらったらどうです? お仲間を
何人か呼んでもらって」
「みなさん、お静かに」にわかに低い声が響き渡ったかと思うと、ふわりと風が波
打って、あたりは静まり返りました。屋根裏の暗闇から大きな翼をいっぱいに広げて一
同の真ん中に降り立ったのはシマフクロウ、コタンを守るコタン・コ
た。「アペ・フチ。わたしから提案があります。このペウレ
・カムイでし
の望みを叶えてあげては
いかがですか?」
「なにを言うかと思えば、カムイ・チカ
(カムイの鳥)!」アペ・フチは目をひん
33
むきました。「アイヌがいないのに、そんなことできるわけないでしょうに。イオマン
テはアイヌとカムイとの間で執り行われるものですよ。おたがいの結びつきを確かめあ
う神聖な儀式です」
「けれど、その肝心のアイヌがここにはいない。シサムの拡大に伴ってアイヌは居場
所を失ったのです。パヨカカムイの猛威は意図的なものでなかったとしても、そもそも
シサムがこのヤウンモシ
(われらの土地)にやってこなければ、現れるはずのなかっ
たものです。シサムが大挙して押しかけて刀と鉄砲を振りまわし、山と川を奪うのを、
われわれはただ手をこまねいて見ているしかなかった。われわれの存在を感じ取れない
者に、われわれは力を及ぼしようがないのだから。そう、仕方のないことだった。それ
でも、なにかできなかったものかとわたしは悔やまずにはおられないのです」
「われわれにはわれわれの分があるのだ、カムイ・チカ
よ」ヌサ・コ
・カムイが
細長い舌をちらつかせながら口をはさみます。「それを踏み外すことはできない。日が
西から昇ったり、雨が地から天にのぼることがないように。それこそ悔やんでも仕方の
ないことだ。そもそも悔いを感じること自体がおかしいではないか」
「しかし、感じてしまったのですよ、キナスッ。だから、その気持ちをどうにかした
い。アイヌの手厚いもてなしを求めて、ひたむきな目でやって来たこのペウレ
は、ア
イヌとカムイが分ちがたい関係にあった麗しい時代を思い起こさせてくれます。この子
の望みを叶えることは、二度とここに戻ることのないアイヌたちの供養にもなると思う
んですよ。そして、われわれも少しは気が楽になる」
「ちょっとした罪滅ぼしというわけか」「たしかになにがしかの後ろめたさがなかっ
たと言えばウソになるが」コタン・コ
・カムイの発言で、カムイたちの間にはにわか
に活発な議論が沸き起こりました。「しかし、問題はだれがそれをやるかだ」「われわ
れはできないぞ。カムイがカムイを送るなんてありえない」「では、ポンク
しかいな
いではないか」「このチビッ子たちにイオマンテができるというのか?」「教えればい
いのでは?」「われわれがか? それもまた前例のないことだ!」
この難題をカムイたちはむしろ楽しんでいるようにさえ見えました。アイヌもそうで
すが、カムイも無類の議論好きなのです。怒らず諦めず、あくまでも理詰めで、結論の
出るまで何昼夜でも議論を重ねる。これほどスリル満点の娯楽もないのです。
「もういい!」しかし、一人年若いペウレ
はかんしゃくを起こしてしまいました。
「いつまでグダグダしゃべってんだよ。いいよ、こっちはこっちで勝手にやる。おい、
34
そこのポンク
ども!」ペウレ
はわたしたちに呼びかけました。「トノトを醸せ! イナウを削れ! ぼくに矢を射かけて魂を放て! 適当でいいぞ! とにかく一刻も早
くカムイモシ
に送ってくれよ! このまままじゃ尻に根っこが生えちまう!」
わたしたちはあわてました。カムイたちの登場で、もう自分たちは関係ないやと高見
の見物を決めこんでいたのです。イオマンテは何度か見たことがありましたので、真
似っこくらいはできるでしょう。しかし、その正確な作法や言葉遣いとなると曖昧で
す。第一、こんなに大きなカムイをどうやって解体すればいいというのか。
「ペウレ
よ、お待ちなさい」アペ・フチは言って、わたしたちのほうに優しい笑顔
を向けてきます。「ポンク
よ、コ
ポック
よ。アイヌの邪魔にならないように、い
つも慎ましく生きてきた者たちよ。あなたがたは必要と見なされて作られた生き物では
ないけれども、あなたがたがいることで救われるような気持ちになった者も少なくない
はずです。現にこの場にいるカムイたちも、わたしも含めて、アイヌのいなくなったこ
のコタンで、あなたがたが飲み食いするさま、遊びほうけるさま、なにかをやってはし
くじるさまを、ときには『しょうがないチビスケどもだ!』と思いながらも、ほほえま
しく眺めていたのですから。さて、ここからはお願いです。この利かん坊のペウレ
の
ため、そしてわたしたちのために、ここは一つ力を貸してくれませんか?」
その場に居合わせた全員が息を呑みました。アペ・フチ・カムイは、ペウレ
の望み
を叶えることに決めたのです。
「わたしたちはカムイゆえ、アイヌのことを教えることはできません。仮に知ってい
たとしても、それはあくまでもアイヌに属する知識、知恵であって、無闇に言い触らし
ていいものではない。とは言え、わたしたちもときには独り言をつぶやくものですし、
だれもいないと思いこんで仲間うちで内緒話しないともかぎりません。そのとき、あな
たがたがたまたまその場に居合わせたとしても、それはいたしかたないことです。なに
せ、アイヌモシ
はじまって以来、蕗の下、岩陰、片隅はことごとく、あなたがたの場
所だったのですから。人目につかない小さな場所で、あなたがたはあなたがたのお話を
紡いできたのです。残念ながら今回もそれを防ぐことはできないでしょうね」
首をかしげる兄さんたちに、「盗み聞きしろってことだよ」とタヌキのアパ・サム
ン・カムイがさややきます。「表立っては教えられないからさ。そのくらい察しろよ」
ええーっ! 兄たちはざわめきました。「なんでぼくらが!」「冗談じゃない!」
「そんなのできない!」「絶対無理!」
35
「やってみよう」と言いだしたのは、大きくもない小さくもない、ちょうど真ん中の
兄さんでした。ときに大きいほうにつき、ときに小さいほうにつく、どっちつかずの兄
さんでしたが、このときばかりは思いがけなく頼もしい発言でした。「ペウレ
のカ
(肉)が大量に手に入って、しばらくは食いっぱぐれることがない。カムイをねんごろ
に送ったという噂が流れれば、ほかのカムイもぼくらに送ってもらおうと訪ねてきてく
れるだろう。これはぼくらを生かす(シ
ヌレ)ための、ありがたい提案なんだ」
「やりましょう!」わたしも声を大にして賛成しました。「みんな、おいしいお肉が
食べたいでしょ? トノトで気持ちよく酔っぱらいたいでしょ?」
タンネ・ユピ、イワン・ユピ、タ
ネ・ユピ、イワン・ユピ、全部で十二人の兄さん
の目が一斉に輝きました。決定でした。「やろう!」「がんばろう!」「腹いっぱい食
うぞ!」
そして、わたしと兄さんたちは続く数日間、たくさんのカムイたちのあまりにも大き
すぎる独り言、ときには叱咤激励に導かれながら、いそいそとイオマンテの準備を進め
ました。イナウや花矢を作るための木を集め、トノトやシトを作るために、かき集めた
ヒエとアワを踏みしだき、ペウレ
に呼ばれるたびに檻の前に赴いて、進捗状況を説明
しました。今回はイオマンテの簡略版ということで、ペウレ
せんでしたが、雰囲気だけでも味わいたいのか、ペウレ
のための住まいは作りま
は薪を五本ほど立てて、それ
を檻に見立てました。けれど、待つだけの身はつらいらしく、ちょくちょく手伝いに
やってきます。カムイが自分のイオマンテのために手伝うなど、これまた前代未聞の椿
事でしたが、わたしたちにはありがたいことでした。あまりにも小さすぎるわたしたち
はなにをするのも大仕事なのですから。
問題は山積していました。最大の問題は、魂の解き放たれたあとのペウレ
す。二才の子グマだとは言え、わたしたちコ
ポック
の解体で
にとっては、アイヌにとっての
フンペ(クジラ)に匹敵するぐらい大きいのです。無事に解体できたとしても、次はペ
ウレ
の頭を東の窓、つまりカムイプヤ
からチセに入れなければなりません。窓は当
然高いところにあり、そこを通すのはわたしたちには不可能でした。妥協案としてペウ
レ
は最後の瞬間を戸外ではなく、チセの中で迎えることにしました。仕留め矢を受け
取ることも、二本の丸太で首をへし折られることも、その真似だけをすることとし、ペ
ウレ
は自分の足でチセに入るのです。ペウレ
にとってもチセの窓は高いので、窓の
下をあらかじめその太い腕で壊しておいて、すんなり入れるようにしておきました。解
36
体はチセの中で行なうことになりますが、こればかりはわたしたちでやるしかありませ
ん。マキリの刃をよく研いでおき、せっかくの肉がいたんでしまう前に死にものぐるい
で行なうのです。
一番のっぽの兄さんが祭り主となって、あらゆるカムイに祈りの言葉を述べること
で、わたしたちのイオマンテは始まりました。イクパスイ(酒箸)でトノトを捧げる
と、アペ・フチ・カムイはにこやかに「ハイハイ」とうなずいて、「がんばっておやん
なさいよ」とわたしたちを励ましました。
イナウは粗末な出来でしたし、わずかばかりの食糧で作ることのできる料理も限られ
ていました。トノトもほんの申し訳程度の量で、これでは酔っぱらうのも難しいはず。
それでも、ペウレ
は終始上機嫌でした。カムイたちが口づてで伝えてくれるカムイノ
ミ(お祈り)の文句を、兄さんたちがたどたどしく繰り返すのも、辛抱強くニコニコ聞
いていたし、メノコの踊りを見せるのがわたし一人しかいなくても、一言の文句もあり
ません。兄さんたちが放つ花矢も実に楽しそうに浴びて、偽の仕留め矢を受け取ったと
きは「やられたあっ!」と叫んで、大げさに地面に倒れたくらいです。その足でチセに
入ると、ス
ク・カムイとウン・コトゥ
・カムイが「お待たせ」「いよいよだね」
と、にこやかに出迎えました。いよいよ魂の解き放たれるときです。二人のカムイが仲
睦まじく矢じりに腰掛けた矢を、兄さんたちは力いっぱい引き絞り、ペウレ
て放ちます。ペウレ
トゥ
は両手を広げてそれを受け取ると、ス
にむかっ
ク・カムイとウン・コ
・カムイの二人が「お眠りなさい」「気持ちよくお休み」とささやきながら頭を
なでなでする中、静かに息を引き取りました。そして、次の瞬間、解き放たれたペウ
レ
は自らの耳と耳の間に座っていました。「へえ、こんなふうになるのか!」ひどく
驚いています。「身が軽い! ほっほう! どんどん上にあがる! チセの中が隅々ま
で見えるぞ!」。ともすれば上に舞い上がりそうになるわが身を押さえ、自らの亡骸の
上に落ち着きました。
それからがまた大変でした。わたしたちにとっては山のように巨大なペウレ
です。タンネ・ユピ、タ
の解体
ネ・ユピ、わたしの十二人の兄さんたちは持てる力以上の活
躍を見せたと言っていいでしょう。わたしたちのやるイオマンテの真似事を、どちらか
と言えば冷ややかに眺めていたヌサ・コ
・カムイまでが、身を乗り出して「がんば
れ!」「もう一息!」「よくやった!」と熱い声援を送ってくれたほどでした。
力仕事を免除させてもらったわたしは、知っているかぎりの歌と踊りを披露して、ペ
37
ウレ
を楽しませると同時に、兄さんたちを励ましました。何時間にもわたる重労働を
終え、ようやく食事にありついた兄さんたちは、疲れきっているせいか粗末なトノトで
も酔いがまわって、気持ち良さそうに躍りだします。でたらめな踊りでしたが、そのお
かしいことおかしいこと。カムイたちも腹をかかえて笑いだしました。自分の耳と耳の
間にあって、ペウレ
ももう転げまわって大喜びです。
頭にイナウを飾りつけてもらい、シトや干し魚を包んでもらうと、ペウレ
もうカムイモシ
にむけて旅立つだけとなりました。「いや、まだ」しかし、ペウレ
は渋っています。「やっぱりユカ
ユカ
はあとは
を聞きたいんだけど」
! なんと頭の痛いことか。その力並ぶものなきポイヤウンペが、空飛び、海
を駆け、寄せ来る敵をバッタバッタとなぎ倒す、愉快痛快な冒険活劇。これだけは付け
焼き刃では無理な代物です。
「それは最初から無理だと言っていることだぞ」コタン・コ
・カムイが手厳しく指
摘します。「これだけはあきらめてもらうしかない」
「それじゃユカ
でなくたっていいよ」ペウレ
が折れます。「なにかおもしろい話
を聞かせてよ。帰り道に思い出してニコニコできるようなやつを。ぼくの知らないコ
ポック
のお話とかあるでしょう?」
兄さんたちが引き潮のように後ずさりする中で、わたし一人が残されました。「おま
えの出番だ」「おまえがしゃべれ」とささやきます。なんでわたしが? 「おまえな
ら、なにか知ってるはずだ。いつも遠くを眺めてたじゃないか」「おまえは遠くになに
かを見てたんだろ? そいつを話せばいいんだよ」
「おや、嬢ちゃんが話すのかい?」アペ・フチが驚いています。いいえ! わたしは
お話なんか知りません! ですが、わたしは「エー」とうなずいていました。チセ・
コ
・カムイ、ス
ク・カムイ、アパ・サムン・カムイら、並みいるカムイたちが無言
でうなずいて許してくれたのは、もう背に腹は代えられないということでしょう。
ネコン、イキ、ワ、シコ、クニ
パロ、クニ
、アネ、ナンコラ
「どのようにして、生まれるべき者、育つさだめの者で、わたしはあるのでしょう」
と、わたしはおもむろに話しはじめました。
これから運命的な出会いをするであろう二人のマッカチ(女の子)のこと、三人で手
に手を取って巨大なコタンをさまようこと、多くのポロク
38
やカムイの力を借りて、
歌って踊る歌手を目指すこと。口にするまで、そんなことを話そうとはついぞ思ってい
なかったお話をわたしは語り続けました。実に驚くべきお話でした。山のように大きな
チセが視界を埋めつくし、何百人ものヒトを乗せて地面を突っ走るキキ
(虫)があ
り、もはや数えることも不可能なほどのヒトたちが熱湯のように沸騰するお椀があるの
です。その中で、三人のコ
ポック
のマッカチたちはなんとちっぽけなことか。果た
して三人は自らの宿願をかなえることができるのか? 行く手に待ち受ける危機とはな
にか?
「なんだ、そこで終わり?」お話が佳境に差しかかったところで打ち止めになると、
ペウレ
は鼻を鳴らします。「ちょうどおもしろいとこだったのに!」
「続きが聞きたいなら、また来ればいいですよ」わたしは最高の笑顔を見せて言いま
した。「今度はもう少し丁重にお迎えできると思いますから」
「うん、これがいつもの手なんだよね?」ペウレ
はニヤリとほくそ笑みます。そし
て、「わかった!」と元気よく叫ぶと、たくさんのイナウ、シト、トノトを背にカムイ
モシ
へ旅立ちました。「さいならーっ! また必ず来るからねーっ!」
「やれわれ」わたしたちは胸を撫で下ろしました。カムイたちもそれは同様でした。
「こんなしんどいことはもう二度とゴメンだ」「でも、久しぶりにおもしろかったな」
「笑った笑った」「おチビさんたちはがんばったよ」「とにかくご苦労様!」
その夜、ペウレ
はわたしたちの夢に現われて、改めて感謝の言葉を述べました。
「イナウとシトをみんなに配って、ぼくはもう人気者なんだ!」夢の中のペウレ
は黒
い小袖の服を着た、ふっくらしたほっぺの男の子でした。「おじさんも気持ちよく許し
てくれたよ。最後に聞かせてくれた話もすごく気に入ってくれた。続きを聞きたいって
せがまれて、もう大変。今度行ったとき、ちゃんと聞けるよね?」
「もちろん」夢の中でわたしは答えましたが、続きなんか知りません。口から勝手に
飛び出してきた、海のものとも山のものとも知れないお話なのですから。ですが、カム
イにはこれからもお客さんになってもらわなければならないのです。「来たいときはい
つでもいらっしゃい。わたしたちはいつでも歓迎しますよ」
「だから、今いるコ
ポック
たちよ。生き抜くためにどうすればいいか常に考えて
おくべきだし、終わりのないお話を一つくらい持っておいたほうがいいですよ」と、タ
ンネ・ユピ、イワン・ユピ、タ
ネ・ユピ、イワン・ユピ、全部で十二人の兄と一緒
39
に、アイヌなきコタンに暮らしていたコ
ポック
40
の娘は語りました。
10 ライブスタイル
ライブはいつも唐突に始まる。挨拶もなしにガツンと一発、景気のいい曲から始め
る。なるだけ大きな音量を出して、ひとまず通行人の注意を引く。ステージはいつも小
さかった。フラグランスの三人にとっては十分な広さであっても、世間から見れば小さ
かった。サポユポたちの熱意がどれだけこもっていても、小さいことに変わりはなかっ
た。それでも、このステージで彼女たちはがんばるしかないのだ。それが未来につなが
る道だと信じて、持っているものをすべて出しきるのだ。
この日の最初のナンバーは往年のヒット曲である「学園大国」。明るいダンサブルな
曲調がフラグランスに似つかわしかった。おなじみの「ヘーイヘイヘイ、ヘーイ、ヘー
イ!」というコーラスに合わせて、三人は両手をあげて客を煽った。明るいチアガール
風の衣装もこの曲にマッチしていて、つかみとしては十分だった。
セットリストは常に自分たちで決める。その日の天候、場所柄、客層、上演時間を考
慮して、盛り上がりそうな曲目と順番を考える。音楽プレーヤーのプレイリストにあら
かじめ登録しておくが、ライブの直前でも最中でも臨機応変に変更を加える。この日は
図書館やホールに隣接した、緑の多い公園でのライブだった。サポユポの十人に加え
て、通りすがりの若者、小学生、受験生、親子連れが十人あまり集まっていた。ぽかぽ
か陽気の天候で、お客さんの目線も温かい。時間はたっぷりあったので、できるだけ多
くの曲を披露するつもりだった。一曲目が終わると、伝説のアイドル・デュオであるパ
ンク・レディーの衝撃的なデビュー曲「ペッパー博士」に移る。それでもう一盛り上が
りを作ったら、三曲目はコミカルでテンポのいいテクノ歌謡の名曲「ロースクール・ラ
ラバイ」だ。
ライブは常に全力だった。最初からポップコーンみたいにはじけまくる。自身の身長
の何倍もの高さに飛びあがり、ステージいっぱいに駆けまわる。勢い余ってステージか
ら飛び出すこともあったし、別々の方角に跳ねるときはメンバー同士衝突したりした。
後先顧みない渾身のパフォーマンス。この小さな体のどこにこれだけのパワーが詰まっ
ているのかだれもが首をかしげてしまう。おおむね三曲ごとに休憩に入るが、でなけれ
ば体が持たなかったろう。踊り終えてバッタリ倒れこんだときは一瞬、息絶えてしまっ
たかと勘違いするほどだった。醤油差しの水筒から水をがぶ飲みし、飴玉や角砂糖をボ
リボリかじって、ようやく体力を回復させるのだった。
41
「みなさーん!」お客さんに向き直ると、元気いっぱいの挨拶だ。「こんにち
はー!!!」
「今日はもう天気がピ
うれしいです」カ
カで、お客さんもこんなにポロンノ集まってくれて、ソンノ
ユケがにこやかに語りかける。十回二十回と回を重ねるうちにライ
ブもだいぶこなれてきた。「改めて自己紹介します。カ
ユケです!」
「ノンノです!」
「アチャポです! 三人合わせて」
「フラグランスです!!! よろしくお願いいたします!」
フラグランスのおなじみのオコジョ・ポーズをサポユポが真似するのはすでに恒例と
なっていた。一見の客の目が気にならないと言えばウソになるが、みんなでやればこわ
くない!
「ありがとうございます!」アチャポが笑いながら一礼する。「いや、でも、あなた
がたはフラグランスじゃないだろうって話ですけど、いいんです。うれしいです。今日
も精いっぱいやりますので、どうか最後までおつきあいください!」
だが、「最後までつきあう」。残念ながら、それが存外難しかったのがデビュー前の
フラグランスのライブだった。
音はいつもひどかった。ドングリ山からはるばる運んでくる携帯スピーカーは見るか
らに安物で、低音はまるで出なかったし、高音はキンキン尖って耳障りだった。ボ
リュームを上げると音割れがひどく、なんの音楽が流れているのか時にわからなくなる
ほどだ。
三人の歌もひどかった。携帯音楽プレーヤーに収録されている曲はカラオケではな
く、普通にヴォーカルが入っていた。それに対抗するためには声をめいっぱい張り上げ
なければならなかった。しかし、三人が持っているマイクは飾りでしかない。このとき
はまだ高性能のマイクロ・マイクは手の届かないところにあったのだ。大音量でかき鳴
らされる音楽に生声で対抗するためにはもう、生半可な声の張り上げようでは足りな
かった。結果、甲高い声がさらに強調されて、ほとんど絶叫に近くなる。「いや、もう
可聴域を越えてるね」「黒板を爪を引っ掻いたような声だよ」というサポユポの嘆きも
決して大げさなものではなかったのだ。
本人たちは声が嗄れるほど熱唱して、「やりきった」と言わんばかりの満足そうな表
情だったが、ファンにしてみれば、もう少し心穏やかにライブを楽しみたいところだっ
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た。この三人の前で耳を塞ぐなどという侮辱的な行為はできれば避けたい。「疲れな
い?」「もう少し声を抑えて歌ったほうが効果的だと思うんだ」などと、遠回しに歌唱
の改善をほのめかしたが、三人には通じなかった。「ソモ(いいえ)! 全然疲れちゃ
いませんよ」「まだ新米のパーパーなんで、とにかく全力でやりたいです」「休んだか
ら元気になりましたよ。もういっちょ張り切っていこーっ!」
決して音痴というわけではなかった。ライブ前や休憩時にリラックスして口ずさむ歌
は、音程もリズムも安定している。それは、「ハハフイハフイ」とか「チャチャ、ピー
ヤピーヤ」とか単純な繰り返しが多い歌で、これもコ
ポック
の多くのものと同様、
アイヌからの借り物だという。テーブルを地面に据えつけるために土をほじくっていた
ときにも、「穴掘れ、ホッホ、穴掘れ、ホッホ」とリズミカルに合いの手を打ってい
た。珍しくわかりやすい歌だと指摘したら、三人は手をたたいて笑いだした。「アンナ
ホーレ」は意味のわからないはやし言葉で、少なくとも「穴掘れ」というニホン語とは
関係ないらしい。「ああいった歌を小耳にはさむのが、実はなにげに一番楽しいんだよ
ね」そういう感想を抱くサポユポも一人や二人ではなかった。「のどかな別の時代に迷
いこんだような気がするね」「ものすごい心がほんわかする」「いやいや、これもあの
苦行あってこその楽しみだよ」
そして、苦行の第二部。いやいや!
「ライブの第二部行きまーす!」アチャポが高らかに宣言する。「ここからはピコピ
コした曲が多くなります。踊ってて意外と楽しいんですよ。みなさんもよかったら一緒
にどうぞ!」
フラグランスの携帯音楽プレイヤーは拾い物だった。「本当に拾い物なんです」ア
チャポはしっかり念を押す。「盗んだんじゃないですよ。ゴミ箱を漁ったわけでもな
い。道路に落ちていたんです。そばにゴミの集積所があったから、そこからはみ出たん
だと思います。わたしたち、しばらく待ちましたよ。だれかが取りにくるんじゃないか
と。だけど、収集車が来ちゃったんで、仕方なく拾ったんです。このままゴミになって
しまうよりも、そっちのほうがよっぽどいいですから。このプレーヤーのためにもなり
ますから。そうでしょう?」
「本当に拾い物でしたよ」カ
ユケがうれしそうに話す。「全然普通に使えました
し、曲もいーっぱい入ってたんです! 全部で百曲! しかも同じ曲が一つもない。
スッピンドーさんがなかったのは残念ですけど」
43
四曲目の「電子頭脳おばあちゃん」は、国営テレビ「みんなの歌々」においてパペッ
ト・アニメで放映された、これもテクノ歌謡の名曲だった。携帯音楽プレーヤーの元の
持ち主は往年の歌謡曲、それもテクノ風味の歌謡曲のファンらしい。テクノ歌謡の最大
のヒット曲である「リカもご機嫌ななめ」も当然のように入っていた。この日の五曲目
がまさにその曲だったが、これは歌詞がよろしくなかった。「イチャイチャしあう」だ
の「抱きしめあう」だの、こんな小さな女の子たちに歌わせていいものではない。
よろしくないと言えば、六曲目もそうだった。「ハートブレイク竹の子族」は、スケ
ボー星からやってきた、性差のない宇宙人が歌うという設定のエキセントリックなテク
ノ歌謡で、ピポパ! プポペ! ポペパパパ! と意味の通じない歌詞が延々と続い
て、客はどう反応していいのかわからなくなってしまう。
三人はバッタリ倒れて小休憩に入る。このあたりで一見の客はだいたい消えてしま
う。なにかわけのわからないものを見たという釈然としない思いを抱えながら、それぞ
れの日常に戻る。ここでなお踏みとどまることのできた者は幸いである。あなたはフラ
グランスのファンになれる見込みがあるし、強いては熱心なサポユポになることだって
夢ではないのだ!
「最近ようやく慣れてきましたよ」キンダイチ少年も今では立派なサポユポだった。
「ぼく、音楽は全然わからないですけど、こういうものだと思えばいいんですよね? ギャンギャンやかましくて頭が痛くなって、その頭痛をむしろ楽しむような? 自分な
りに楽しめてますよ。うーん、楽しいんだと思います。でないと、何回も来ないはずで
すし」
フラグランスのライブの魅力はその独特のダンスにあったが、サポユポたちですら最
初はよく理解できなかった。一所懸命なのはわかるにしても、やたらと落ち着きのない
ダンスだと感じていた。ステージを所狭しと駆けずりまわり、見ているだけで疲れてし
まう。「なにもそこまでしなくても」と、だれもが思っていた。もっと適当な踊りで構
わないのだ。こんなに小さな女の子たちが踊れば、どんなに拙いものであってもそこそ
こ絵になるに違いないのだから。
サポユポたちの認識を改めさせたのは、大学生のオオゼキだった。オオゼキはライブ
のたびにホームビデオを持ちこんで、熱心にモニターをのぞくのが常だった。ライブの
間じゅう、「おおっ」「うわっ」「すげっ」などと一人で興奮するものだから、多少敬
遠されていた。しまいには、すぐ目の前にフラの三人がいるのに、「どこだ!」「消え
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た!」「いないいない!」などと騒ぎだす始末だった。
「まあ、だまされたと思って見てみてよ」オオゼキはサポユポ仲間にモニターを示
す。「世の中、視点を変えれば見えるものが違ってくるんです。小さなものを大きく見
る。大きなものを小さく見る。角度を変える。斜めから見る。時間があれば編集もして
みたいですね。つなぎを変えれば、また違ったものが見えるはずです!」
手のひらほどのモニター画面をいっぱいに埋めて、フラグランスの三人は踊ってい
た。一つ一つの仕草は大胆で思い切りがよかった。と同時に、繊細な表情にも事欠かな
い。これほど細かくステップを踏んだり、いろんな方角に手足をひねったり、顔ばかり
か全身で喜怒哀楽を表現していたとは、モニターをのぞくまでわからなかったことだ。
大きくジャンプする場面では一瞬にして画面から消え失せた。なるほど、これではオオ
ゼキ青年が「どこ行った?」とパニックを起こすのも無理はない。
「こんなに細かい振り付けだったのか!」「適当に踊ってたわけじゃないんだな」サ
ポユポたちは押し合いへし合いしながら、小さな画面を凝視する。「歌詞と連動してる
んだ」「歌詞をいろんな仕草で翻訳しているんだよ、これは」「それじゃ手話に近いの
か。体じゅう使うからボディランゲージか」「リズムも細かく刻んでる。せせこましい
けどおもしろいね」
キンダイチ少年はアイヌの伝統的な踊りと共通する部分を指摘した。「ツルとかバッ
タとかウサギとかの踊りをビデオで見たことがありますが、動きがそれと似てますね。
動植物、つまりカムイの身振りを真似たものが多いようです」
「つまり、あの三人の踊りは森羅万象を表現しているんですよ!」オオゼキ青年が拳
を握りしめて力説する。「ぼくらを取り巻くあらゆるもの、生きとし生けるものすべて
を、彼女たちは振り付けを通じてわがものとしている。外部にむかって解き放たれたと
き、そこには天地自然、草木国土、鳥獣虫魚がいきいきとよみがえるんです。世界が踊
りながら立ち現れるんですよ!」
おおげさな! しかし、そういう観点からフラグランスの踊りを見れば、腑に落ちる
部分が多かった。見るたびに新たな発見があり、その認識をもとに見ればなお楽しい。
それだけの複雑さとニュアンスがあり、繰り返しに耐えるだけのクォリティがあった。
三人の練習量が半端でないことも理解できた。同じ曲では毎回変わらないパフォーマン
スを見せたし、同じ振りでは三人の息はいつもピタリと合うのだから。
「踊りのことでは悩みました」アチャポが正直に告白する。「棒立ちして歌うことは
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最初から考えていませんでした。スッピンドーさんがお手本なんで、歌って踊る、そう
でなくちゃいけなかった。でも、具体的にどう踊るかはわからない。だから、リ
セの
先生に頼んだんです」
それは同じコ
ポック
仲間の、伝統的な歌や踊りを教えている先生らしい。
「こんな歌は聴いたことないって、ミケノ先生、頭を抱えてましたよ」ノンノが真面
目くさった顔で言う。「それでも、がんばってくれました。洞窟の中に一人で閉じこ
もって、何回も何十回も繰り返して聞くんです。遠くからでも、『ウキャアッ』『キキ
イッ』って叫び声が聞こえて、ちょっとこわいです。歌がしっかり体に入って、歌と一
体になれれば、踊りは自然と出てくるんだそうです。わたしたちはそんな境地になれな
いんで、いちいち覚えなくちゃいけないですけど。一曲マスターするだけで大変なんで
す」
「正直、こんなややこしいものができるとは思ってなかったですけど」カ
ユケが苦
笑いする。「ちゃんとした形で世に出さないと歌に失礼だって、先生言うんですよ。ど
んな歌だって、なにかしら思うところがあって作られたものだし、どこかしら訴えるも
のがあるから残っている。だから、すぐには共感できなくても、そうできるよう努めな
くちゃいけない、敬意を払わなくちゃいけないって言うんです。それで納得しました。
今じゃ先生を全面的に信頼しています。心を込めて踊っています」
「まだまだ踊るよ!」アチャポが再び客を煽る。「第三部行きまーす! みんな、だ
いぶノッてきたようなんで、ちょっと激しいやつを三曲!」
七曲目の「男は箸を使わない」もフラグランスにはまったく似つかわしくない曲だっ
た。もともとは、箸を使わないで、炊きたての白米、納豆、なめこ汁、マーボー豆腐を
手づかみで食べるという、テレビのバラエティ番組の企画から生まれた下品な歌で、フ
ラグランスの三人が「あっちっち!」「許してください!」などと芸人風のリアクショ
ンをとるのはなんとも痛々しかった。
八曲目「某巨大掲示板でたたいてやる」もひどかった。寂しいネットユーザーが、な
にか些細なことで友人を逆恨みして、某巨大掲示板で誹謗中傷を繰り返すという陰惨な
内容だったが、フラの三人が内容を理解しているとは思えなかった。振り付けの先生も
理解してはいなかったろう。三人は自分の体が隠れるほどの大きな板を振りまわして、
たがいをバシバシたたきあうというシュールなパフォーマンスを演じていたのだから。
そして、ついにライブは最後の九曲目に突入する。曲は南部弁ラップとして名高い
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「わだっきゃトーキョーさ行ぐし」。歌それ自体は、田舎者の都会への憧れを、誇張し
た自虐的なユーモアに乗せてラップする秀逸なものだったが、フラグランスが歌うべき
ものではない。「でも、歌詞には共感するものがありますよ」と三人がいくら主張した
としてもだ。「ネカフェもねえ! ゲーセンもねえ!」「ブルーレイデスクはなんだべ
が!」「わだば、こったら村やだじゃ!」「トーキョーさ行って、イガ釣るし!」
ここまで来ると、さすがのサポユポたちも心が折れて、一刻も早く終わってほしいと
願うようになる。のどかなアウトロが流れだすと、「やっと終わった!」という解放感
で拍手にも熱が入るというものだ。
「みなさん、イヤイヤイケレ!」フラグランスの三人も大喜びだ。「こんなにたくさ
ん拍手をもらって、どんなにうれしいか知りません。それじゃ期待にお応えしてアン
コールに行っちゃおうかな! 今日は『エキゾチック少年ボウイ』という曲を用意して
います。時間があったら『地球の破滅』という曲もやります。どっちもレパートリーに
加えたばかりで、今日が初披露です! いやあ、すごい曲ですよ。盛り上がること間違
いなし!」
ひいいいいっ! 「もう一回休憩はさんでからにしない?」たまらずサポユポが声を
かける。「そんなに続けてやったら今度こそ死んじゃうよ」
フラグランスの三人が、これらの曲を好き好んでやっているのか、かねてから疑わし
いところだった。
「プレーヤーに入っていたからやってるんです」アチャポは胸を張って答えたもの
だ。「与えられた歌はどんな歌だってやります。全力でやります。この歌は好きだ、こ
の歌は嫌いだなんて、贅沢なことは言ってられないんですよ、わたしたちは」
プロ意識だけは一人前なのだ。
それでも、好きな曲はあるはずだ。三人は顔を見合わせて、「元気の出るやつ」「楽
しいもの」「お話みたいな歌」と発言した。よくよく話を聞いてみると、それは国営テ
レビの「みんなの歌々」のようなものらしい。鳥や獣が登場し、草木や山川、器物にも
命が通って、にぎやかに進行する物語性の強い歌が好みなのだ。
サポユポたちはできるだけのことはやったと言っていい。「もう少し趣味のいい音楽
を提供しよう」という提案に、音楽ライターのはしくれであるハカタが応じた。私有の
高性能携帯音楽プレーヤーを「新機種に買い替えるから」と言って提供することにした
のだ。それはこの日のライブが始まる前のことだ。
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「これはワイポッドと言ってね、なかなか使い勝手がいいんだよ。曲は千曲ぐらい
入ってるけど、よかったら聞いてみてよ。いい曲がいっぱいあるから。スッピンドーも
一応入ってるし」
フラグランスの三人は喜びを爆発させた。「スッピンドーさん! うれしい!」
「あ∼の∼そ∼ら∼を♪」「でも千曲? そんなに覚えられないよ! ミケノ先生、死
んじゃうかも」
「全部覚える必要はないんだ。いろいろ聞いてみて、気に入ったものを見つければい
い」
ワイポッドに収録する曲については喧々囂々の議論があった。スッピンドーに代表さ
れる、歌って踊れるアイドル歌謡をメインに選曲することはもちろんだが、もっとほの
ぼのした童謡風の歌を望む声が特に女性のほうに多かった。「激しい曲だったり、アク
の強い曲ばっかりで、正直疲れるんだよね」「そうそう、たまにはほんわかしたいよ。
あの子たちのキャラクターに見合ったものでさ」
「彼女たちの姿勢はパンクだ」逆にギンギンのロックを入れるべきだと主張したの
は、ロック青年のアゲオだった。「血管がぶち切れそうなヴォーカルと、いつぶっ倒れ
ても構わないといった覚悟の爆発ダンス。盛り上げようと思えば、あの子たち、きっと
いくらでも盛り上げられるぞ。一寸の虫にも五分の魂。一・五寸のフラには十分の魂が
ある! 計算が合わない? そう、彼女たちは計算外の不思議な存在なんだよ!」
「お客さんともっとコミュニケーションがとれる曲がほしいと思うんだ」アイドル・
オタクでもあるオクタは主張する。「客とのやり取りといった面じゃ、あの子たち、ま
だ全然物足りないもの。決められたことをやるのが精いっぱいって感じだし。曲で掛け
合いができるなら、いいコミュニケーションの練習になるよ」
ほかにも、「イケイケのユーロビートがいい」「ちょっとダサめの七十年代ディスコ
はどうかな」「ピコピコのテクノポップで決まり。フラのパフォーマンスにも合ってい
る」「マレーシアあたりの中華チャチャ歌謡が意外とフィットするかもよ」といった声
があがり、最終的にワイポッドにはさまざまな傾向の曲が混在することになった。
「前のプレーヤーにも相当いろんな曲が入ってましたが」のちにアチャポは一部のサ
ポユポにこっそり打ち明けたものだ。「これをくれたハカタさんはそれに輪をかけて趣
味がメチャクチャですね。なんでもかんでも入れればいいってもんじゃないし。頭がお
かしいんじゃないでしょうか。あっ、こんなこと本人に言わないでくださいよ!」
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ともかく、これでフラグランスのレパートリーは多少は改善するはずだ。ヒーローも
の特撮番組のパロディ曲だの、アイドル歌謡の範疇を大気圏外まで突き抜けた変態テク
ノ歌謡だの、イカモノくさい曲とは金輪際おさらばだ! 次回からのライブに期待だっ
た。
日が西に傾いて、気温が下がりはじめたころ、すべてのライブは終了する。フラグラ
ンスの三人は帰り支度をはじめ、サポユポは後片付けを開始すると同時に、新たなファ
ンの獲得を目指す。最後まで残っていたヒトに声をかけて、さりげなく仲間に引き入れ
るのだ。相手が十分に乗り気だとわかれば、お茶に誘う。ライブ後に行なわれるサポユ
ポの集まりは、お祭りのあとということで「アフター・フェスティバル」と呼ばれてい
た。アフター・フェスティバルはいつも熱かった。フラグランスがどのようにあるべき
か、どんな衣装と演出を用いてどんなパフォーマンスを見せるべきか、効果的に売り出
すためにどうすべきかを、いつ果てるともなく延々と話し合うのだ。もちろん結論は出
なかった。出るはずがあるものか。限りない可能性を持つフラグランスを単一の結論に
押しこめるわけにはいかないのだ。
この日もサポユポ以外に若干名が残っていた。そのうちの一人は前にもライブ現場に
来たことのある二十代とおぼしい男性だったが、だれも声をかけられないでいた。ス
テージを遠く離れた場所に仏頂面で立って、ライブを楽しんでいるとは到底思えないの
だ。ステージを眺めるのと同じくらいの割合で、あたりをキョロキョロうかがっている
のも怪しかった。
「前にもいらっしゃいましたよね?」思い切って話しかけたのはゴウダだった。自分
の経験から、こういった人物が逆に見込みがあることを知っていたのだ。「こういうの
はお好きなんですか? ぼくらはずっと応援していましてね、よろしかったら、ちょっ
とお話ししませんか?」
男は仏頂面のまま、名詞を一枚取り出した。頭文字の「NAM」がまず目をひく。
「ニホン・アイヌ・ムーヴメント?」ゴウダは正式名称を読みあげる。「モトヤマさん
とおっしゃるんで?」
「危なっかしい三人組が路上をうろついていると聞きましてね」男は静かな口調で話
しだす。「大丈夫なのかと思いまして、ちょっと様子を見にうかがったわけです。NA
Mはコ
ポック
の後見人という立場にありまして、監督責任があるんです。何度か来
させていただいて確認したいと思っております。危険な環境に身を置いていないか、怪
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しい者が近づいてこないか」
「おれは怪しい者じゃないぞ!」ゴウダが思わずそんなことを口走ってしまったの
は、男がずいぶんあけすけにゴウダの顔を見つめるからだ。
「わかってます」モトヤマは唐突にほほ笑んだ。それまでの仏頂面がなにかの冗談で
もあったかのような、実に人なつこい笑みだった。
こいつは! ゴウダは理解する。おれたちを観察してやがったんだ! おれたちがフ
ラのために右に左に駆けずりまわり、なりふり構わずライブを盛り上げ、ああでもない
こうでもないとつかみ合うのを残らず見ていやがった!
「だったら、おたくは用なしですよ」ゴウダは少し意地悪く言う。「あの三人はおれ
たちがしっかり見守っていますからね。そうそう、知ってますか? コ
ポック
の仲
間だって来てるんです。今日はちょっと見当たらないようですけど。まあ、気まぐれな
連中ですからね、あまりあてになりません。おれたちは毎回必ず来ますけどね」
しかし、モトヤマはすでにいない。フラグランスとサポユポが後かたづけをしている
ステージにむかっていた。そこには小太りの見慣れない男が一人いて、フラグランスの
三人になにかを差しだしていた。
「やめろ!」モトヤマが声を張り上げる。「そんなもの出すな!」
男の手からはじき飛ばされた缶が地面を転がる。
ゴウダが拾いあげた空缶にはコ
ポック
のイラストが描かれてあった。「コロボッ
クルも大好き!」と記してあった。「コロボックル印のカントリー・アマム」それが缶
詰の正体だった。
なんだ、これは? 一同は顔を見合わせた。
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