白州町出身及びゆかりの著名人

白州町出身及びゆかりの著名人
海野庫太郎氏(四十三年間学校教育振興のため貢献)
河西九郎須(初の県会議員)
小林政明氏(大豆博士・大豆使節団長)
桜井義令氏(文人・歌人 省費救民の建白八条 学制改革の建白)
角田静男氏 白州町大坊出身
中山恒明氏千葉医大教授(昭和二十二年)医学博士
中山正俊氏 山梨の高等教育に献身
名取順一氏 早稲田大学理工学部に工業経営学科を創設
名取高三郎氏北海道で大活躍(名取高三郎商店)、郷土への貢献も大
名取礼二氏 東京慈恵会医科大学名誉学長
成沢浪次郎氏 運輸業の先駆者 道路開発 県会議員
原光雄氏 著書二十五・発表した論文五十五余
古屋五郎氏(白州町の創始者)
白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)
宮川義汎 県会議員 電力尽力者(白州町横手「駒の松」所有者)
甲州台ケ原宿と教来石宿が生んだ俳人 北原台眠と塚原圃秋
白州先人伝
海野庫太郎氏
(四十三年間学校教育振興のため貢献)
白州町鳥原 (「白州町誌」)
明治元年(1868)九月八日、旧鳳来村鳥原二、六七二番地海野正富・るいの長
男として生まれる。
温厚篤実で勤勉家、犠牲的精神に富み、他人の面倒をよくみ、人に尽すために
生を受けたような人である。
農業に従事するかたわら、区や村農会の役員を勤め、
明治三十四年県から学務委員に任命されたのをはじめとして、
昭和十九年まで実に四十三年間学校教育振興のため貢献した。
昭和四十三年には推されて村会議員、鳳来小学校校舎建築委員、
昭和四十四年北巨摩郡会議員、
昭和四十五年には鳳来村長に就任し、村・郡政発展のために尽された。
なお鳥原諏訪神杜、往太神杜の氏子総代、石尊神杜の信徒総代、福昌寺、清泰
寺の檀家総代等に選ばれ、神杜、寺の隆盛に献身的に尽くした。
また県下の水害の際や、鳥原水道設置についても多額の金品を寄贈した記録が
数多く残されている。また石尊神社に設置されている狛犬は氏の寄進によるも
のである。このように生涯を通じ物心両面にわたって尽した功績は誠に律大で
ある。
惜しくも昭和三十九年二月、九十六歳の天寿を全うした。
白州町出身及びゆかりの著名人河西九郎須
(初の県会議員)
白州町下教来石出身 江戸で材木屋を経営
文政十二年(一、八二九)五月二十六日、鳳来村下教来石に生まれ、明治十六年
十月一日没す。河西家は維新前代々、江戸深川木場町で「天満屋」という材木
問屋を経営、江戸城の御用材などを扱っていたが、後、甲州教来石宿に移り、
酒造業を営む。
明治六年巨摩郡第十九区長、明治九年に十一区長となり、十年に最初の県会議
員となる。なお、公共事業に力を注ぎ、釜無川流域の治山治水事業をはじめ、
「切り通し」という山道を開発して地元住民の交通の便を図り、地方の発展に
貢献した。
また、明治十三年、明治天皇ご来県の際、当家はお小休み所にあてられた。
末孫、河西泰明氏住所東京都中央区晴美一丁目八-六-四〇三(白州町誌編集時)
白州町出身及びゆかりの著名人
小林政明氏
(大豆博士・大豆使節団長)
白州町鳥原傾斜畑農法の研究
我が国の食料増産に貢献
明治三十九年九月十五日、旧鳳来村烏原(松原)二、二七四に父小林政長、母おか
んの長男として生まれる。
大正二年鳳来小学校入学。生来温厚実にして不言実行。研究心旺盛で勉学に励
む。宇都宮高等農林学校農学科を(昭和二年)卒業し、その後農学博士の学位を取
得。宇都宮高等農林学校教師、農林省熊本農事改良実験所技官、本県立峡北農
学校、取得。県農業試験場次長、農業講習所長を経て山梨学院大学教授、大学
長を歴任した。
大豆博土として活躍。耐虫、多収の農林一号や、耐病、多収の農林二号を育成
するとともに、栽培法の研究を行なって多大の成果を上げ、我が国の食料増産
に貢献した功績は誠に偉大のものがあり、その功が認められ農業技術協会長賞、
農林大臣賞を受賞した。
このような研究業績から、国際的にも認められるところとなり、ブラジルの日
系農業グループの招きにより渡伯、大豆法の提言指導を行ない、一州の未開発
地に約二万ヘクタールに及ぶ大豆作開発達成の端緒を開き、またポーランド及
びブルガリア国の招聴により大豆使節団長として赴き、その国に適した大豆栽
培と大豆食について指導を行なった。
最近我が国に成人病が多発している要因の一つが食生活にあることをつきとめ、
穀類・いも類・大豆・野菜など日本型食生活体系を研究し、長寿村では例外な
く大豆を食生活の柱としていることなどの論証を行ない斯界に寄与した。また
木県には傾斜地が多いので、農林省に働きかけその助成を得て、傾斜畑農法の
研究を推進し成果をおさめた。
著書には「大豆と健康」他十一編、論文には「本邦大豆の増収に関する作物学
的研究」ほか九十三編があり、五十六年間にわたり教職、研究に没頭し現在も
杜会のために尽くしている偉大な人である。
白州町出身及びゆかりの著名人
桜井義令氏
(文人・歌人 省費救民の建白八条 学制改革の建白)
白州町横手出身
嘉永二年(1849)六月二十一日、旧駒城村横手九三番戸に桜井義台(名主)・
伊志子の二男として生まれる。幼少のころから学を志して精進、特に国学に通
じ和歌をよくし、歌の数三万三千、長歌七百首以上。武水と号した。
明治、大正、昭和にかけての大歌人の中に数えられ、また書家としても界隈に
名をなした。
慶応三年(1867)十一月、江戸の国学者平出篤胤の門に入り勉学に励む。
明治三年(1870)、国政活用の建白二十六条、
明治四年(1871)、省費救民の建白八条を県庁に陳情、また甲府徽典館に於い
て郷校取立に尽力したので賞せられた。
明治五年(1872)逸武両筋(逸見、武川筋)学校世話役拝命、
明治六年(1873)小学校訓導に任ぜられる。学制改革の建白を県庁に提出。ま
た郡下の主な神社の神官に任命された。郡下の学校の訓導のみでなく、河口、
野田、そして廉学校の教頭を歴任、
明治十九年(1886)徽典館の教員に擢でられ、
明治二十二年(1889)と四十四年駒城村長に選ばれ、
明治三十五年(1902)に菅原村長(官選)に就任した。
氏は謂謹に富み暇があれば近所の人々を集めて諸謹を交えて杜会学的な話をす
るのが得意であった。また物を大切にし、墨など竹にはさんで使えるまで使い、
紙など裏表に歌や習字を書き、決して無駄にはしなかった。
偉大な国学者であり、教師であり、神官でもあったし、行政者でもあった。庭
先には菅原道真朝臣の祠を建てて敬まっていたのもむべなるかなである。
晩年は風流を友とし詠歌、書道で閑日月を送る。
昭和四年(1929)一月二十九日、八十一歳の生涯を閉じた。辞世の歌あり、
なきがらと世をばおはるかことのはを
いくよろづたびくりかへしつつ
角田静男氏
白州町大坊出身
明治三十五年二月二十三目、旧駒城村字大坊の旧家道村旋次郎・ひさのの三男
として生まれる。
甲府中学校(現二高)を経て、
大正九年千葉医学専門学校に入学して医学の道に精進努力する。
優れた智性をみとめられて、
大正十年角田秀作(医師)と養子縁組し角田静男となる。
大正十三年四月千葉医学専門学校を卒業し、同校第一外科教室に入局。角田秀
作の養女貞子(林疎の妹)と結婚する。
大正十三年十二月から一年間軍隊生活をするも除隊後は、もとの千葉医科大学
第一外科
教室へ復帰し、六年間研究を重ねた。
昭和六年十月には横須賀市立病院外科部長として赴化し、
昭和九年には同病院副院長に昇格した。その間に学位を受与される。
続いて十六年大平洋戦争勃発から終戦まで再度の応召で、東京第一陸軍病院第
十三外科医長、陛軍々医中尉として活躍された。
昭和二十一年九月には神奈川県逗子に角田外科病院を開き院長とたる。
昭和三十二年七月から一ケ月間、ベルギーのブラッセルで開催された国際脳神
径外科学会に出席するとともに、英国の社会保健及び杜会保障制度を学ぶなど
医学の遣の探究と、優れた外科医の手腕は高く評価された。腹部外科患者、戦
傷者、外傷患者の救命治療や、晩年の唇裂、口蓋裂の治療研究などに情熱を注
ぎ、優れた治療成績を残す一方、医療器具や新薬の研究にも力を注いだ。
昭和二年には角田式間接輸血器、
昭和九年には細菌性腸炎に対する新薬(セダン・ツノダ)をそれぞれ発表し、
昭和十年にはドイツ、バイエル社より賞状と賞品を贈呈されるなど、医学の遣
に献身した功績は大きく、まことに偉大な足跡を残している。
一方趣味も多岐にわたっていた。盆栽、古美術鑑賞から、ことに晩年には「能
而制作」に、その芸術的才能を注ぎ、個展を開き、作品写真集を出版したが、
その作品は専門能楽宗家、美術評論家の認めるまでに至った。
臨床における唇裂形成と能面製作は、蓋し「顔面の創造」という共通テーマで
結ばれたにちがいない。このように医師としての業績ばかりでなく、芸術的な
面にも情熱を傾けた。
昭和四十五年十一月二十七日、病のため六十八歳で生涯を終えた。
白州先人伝
中山恒明氏千葉医大教授
(昭和二十二年)医学博士
医療法人中山会湯河原胃腸病院理事長
明治四十三年九月二十五日、白州町松原出身、父中山進(医学博士)と、母「希以」
の長男として生れる。
《学歴》
旧制新潟高校卒(昭和五年三月)
千葉医科歯科大学卒(昭和九年三月)
医学博士を授与される(昭和十三年三月)
千葉医大第二外科助手(昭和十一年十月)、
千葉医大教授(昭和二十二年)
財団法人中山癌研究所(昭和四十年一月)。
同年、東京女子医大客員教授となり同大学消化壁病センター、早期癌センター
所長も兼ねる。
昭和四十四年三月、医療法人中山会湯河原胃腸病院理事長に就任、現在に至る。
《公職》
医師国家試験審議会委員(昭和二十九年二月)。
大学院設置審議会臨時委員(昭和三十年一月)。
日本学術会議第七部長(昭和三十八年一月)。
食道疾患研究会名誉会長(昭和六十年一月)。
日本外科学会名誉会長(同年四月)。
この間、
昭和五十三年三月、国家協力事業団消化器・外科専門家として中南米に派遣さ
れる。
《受賞・叙勲》
昭和三十八年三月、腹部外科最首同貢献賞(米国腹部外科学会)。
昭和三十九年九月、世紀の外科医賞(国際外科学会)。
昭和四十一年十二月、ベルツ賞(消化器癌治療に尽した功績、西独べーリンガー
ゾーソ財団)。
昭和四十二年六月、最高医学器械発明賞(細小血管吻合器の開発、スイスジュネ
ーブ大学)。
昭和五十八年十月、ギソベルナート賞(スペイソ外科学会)。
昭和五十七年十一月三日、勲一等瑞宝賞
現住所東京都千代田区平河町二丁目一一一番地、十八号ノ七〇四
なお生家は現在生井勝男氏の居宅となっており、その宅前に叔父芳定氏(医師・
米国で客死)の石碑が建てられている。
白州先人伝
中山正俊氏
山梨の高等教育に献身
正俊 号は駒峰(または環山楼ともいう。)
安政二年(一八五五)九月二十五日、旧駒城村字横手の旧家中山福俊・いせの長男として生ま
れる。
少年時代より学を志し岡千仭の塾生として学び、その後塾長になり帰省して居を甲府市横
近習町(中央二丁目) 、郷里の徽典館(梨大の前身)で子弟に漢文・倫理の教育をする傍ら、藤
原多魔樹や竹田忠に教えを受けた。
その後上京して岡鹿門について漢学を学び、孔子の論語を懐から離さなかったほど常に精
進努力の人であった。
明治十六年、二十八歳のとき山梨県尋常師範学校の助教諭、
明治三十一年には尋常中学校(現二高の前身)教諭に任ぜられ、三十年間の永きにわたって山
梨の高等教育に献身した功績は大きく帝国教育会より表彰を受け、偉大な足跡を残して大
正三年九月教員生活を終えた。
氏は温厚で、ことば少なく君子の風格を具えていた。特に漢詩文に長じ、各所の碑文を撰
している。
現在甲府市立富士川小学校庭にある「権太翁遺徳碑」の撰文を始め県内に数多く遺ってい
る。
また「正俊会」は氏の徳をたたえるために多くの門弟が集って設立した会である。
大正六年八月二十六日病のため六十二歳で死去、甲府市の信立寺に葬られているが、横手
馬場原の共葬墓地にも分骨されている。
著書『山県大式』(明治三十一年柳正堂発行)がある。なお、正俊の妻、中山貞(てい)は梨本
宮家の女官長をつとめ、朝鮮李王殿下の妃となられた方子殿下のご結婚の取り運びに尽く
され、後には東京九段にある東京家政学院の経営にあたられた。
白州先人伝
名取順一氏
早稲田大学理工学部に工業経営学科を創設
明治一二十四年三月八日、旧鳳来村大武川八一番地(現北杜市)で父名取森蔵・母みよの
次男として生まれる。
少年時代より学を志して精進する。
早稲田大学卒業後渡米し、アーラム大学で学んだ。
その後も引き続き、ハートフォード及びボストンの両大学の大学院で「産業心理学・労務
管理学・行動科学・人間関係論」などの学問の分野について専攻し研究を深めた。
帰国後の昭和十年四月より早稲田大学理工学部兼早稲田国際学院副院長として教職につい
て以来、四十六年三月停年退職するまで三十六年間の長きにわたり早稲田大学教授として
活躍した。この間理工学部工業経営学科主任教授・国際部六長等を歴任した。
特に、わが国にはじめて経営工学を導入して早稲田大学理工学部に工業経営学科を創設し
た功績は、まことに偉大なものである。
退職後は同大学の名誉教授となる。
その後四十六年四月からは東海大学工学部教授に就任し、一貫して経営工学の研究と教育
に専念した。また他方学界においても幅広く活躍され、日本経営工学会々長・インダスト
リアル・エンジニアリング協会理事・行動科学研究所々長なども兼任した。
氏は生涯を通して勤勉実直な人柄で常に読書を好んだが、また自らも書を著した。それは
経営の HR(雇用率)・経営のサイバネティクス(人工頭脳学)・経営杜会・広告心理学・販売
心理学・労働心理・賃金管理・行動科学と労務管理・行動科学と経営・管理杜会への提言
など多数ある。このように学界に貢献した業績は高く評価され、昭和四十八年十一月には
勲三等瑞宝章を受章したほか、六十年七月には正五位の叙位に輝く栄誉に浴し八十四才の
生涯を閉じた。
白州先人伝 名取高三郎氏
北海道で大活躍(名取高三郎商店)郷土への貢献も大
安政五年(一八五八)十月二日、旧鳳来村字山口名取員保・まるの長男として生まれた。
少年時代より学を好み六歳より山口番所二宮為信氏の手習弟子として十二歳まで教を受け
る。
明治八年十八歳の時叔父今井喜七外五名と開発中の北海道へ金物農具等の行商に行く。
明治十年小樽に金物店を開業、二十年ころから小樽港改良工事等にて拓殖移民が続々入道
して景気上昇し、家業も大いに繁昌した。
明治二十三年、店を番頭に任せ、郷里山口に帰省、釜無川堤防工事の村受人を知事より任
命される。
明治二十四年上教来石区長、鳳来村々会議員に選出され就任する。
明治二十七年再度渡道し独立店㊤を商標と定め車業の拡大に努力し金物類のほか砂金等を
東京安田銀行と契約して売捌く。その為、事業益々発展し巨万の富を集め全道届指の財閥
となる。
明治三十五年小樽商業会議所議員に当選。
また小榑区(市会)議員二級より立候し当選。地域発展向上に尽力信望誠に篤かつた。
大正二年小樽集鱗会祉取締役・北海道銀行監査役・北漉道製油会杜取締役等を歴任し、
昭和三年小樽市功労者として功労章を受けた。
郷里の人々の信頼も篤く、常に遠くにあっても愛郷の念深く、昭和三年旧鳳来小学校増築
に際しては金壱万円の巨額の寄付をされた。
ほかにも児童の教材購入のため止数回多額の寄付をされた。
昭和四年紺綬褒章の栄を受ける。
昭和二十四年二月九十二歳で硬せられた。
白州先人伝
名取礼二氏
東京慈恵会医科大学名誉学長
学位論文「筋収縮機構に就いて」
明治四十五年一月二日、白須六、七六一番地(前沢)、名取甚作・志やうの次男と
して生まる。
現住所、東京都杉並区高円寺二丁目三七八番地
主な経歴は次のとおりである。
昭和十一年(一九三六年)四月、東京慈恵医科大学卒業、
昭和二十一年より昭和五十六年まで同大学教授第一生理学教授主任。
昭和四十三年より昭和五十四年まで目本体力医学会理事長。
昭和五十年九月より五十七年十二月まで慈恵医大学長。
昭和五十年より同大学理事長として現在に至る。
昭和五十一年四月より現在まで杜団法人束京慈恵会々長。
昭和五十四年十二月より現在まで、教科用図書検定調査審議会々長。
昭和五十八年四月より理在まで、保健体育審議会々長。
昭和五十八年五月より現在まで財団法人日本私立医科大学協会々長。
主な受賞は次のとおりである。
昭和四十八年十一月紫綬褒章。
昭和五十二年一月、
昭和五十一年度朝日賞受賞。
昭和年四月東京慈恵医大名誉教授。
昭和五十六年六月、日本学士院賞受賞。
昭和五十六年十一月四日、文化功労老顕彰。
昭和五十七年三月、日本生理学会特別会員。
昭和五十七年四月、日本体力医学会名誉会員。
昭和五十七年十月、日本宇宙航空環境医学会名誉会員。
昭和五十七年十二月、東京慈恵会医科大学名誉学長
学位論文「筋収縮機構に就いて」。
著書
「筋生理学」、同二十二年丸善。
「現代スポーツ生理学」、同四十三年日本体育杜。
「最近体力測定法」、昭和四十五年同文書院。
白州先人伝成沢浪次郎氏
道路開発
運輸業の先駆者
県会議員
明治三十一年六月十目、東山梨郡牧丘町字成沢(旧成沢村)で、代々庄屋を勤める
旧家成沢孝作・きんの三男として生まれる。
青春時代は、海軍に籍をおき、機関兵曹で除隊する。
大正十四年旧菅原村白須に分家し、商会を設立、トラツク四台で運輸事業を経
営したが、地域への寄与などから峡北貨物自動車株式会社に組織替えし、家業
の興隆と地域進展に努めた。
この間、旧菅原消防団に入団、のち推されて団長となり町村合併後も引続き白
洲町消防団長として、地域の防災、住民の生命財産の保護のため率先力を致さ
れ、山梨県消防協会副会長(会長は知事)として活躍した。
なお、山梨県交通安全協会長坂支部長、県協会副会長として、交通安全対策に
尽力した。また山梨県トラツク協会長坂支部長としても運輸事業に寄興する。
さらには地域の与望を担い、昭和二十二年五月、山梨県議会議員に当選。日ご
ろ道路の整備が地域振興の基盤であるとの信念を生かし、国道二十号線の改良、
日野春・長坂線の県道編入、笹子トンネル開通など、土木.林務常任委員長とし
て、地域はもとより、県政発表のために、尽力された功績は大なるものである。
ちなみに、昭和二十八年には道路事業に、昭和三十九年には運輸事業に尽され
た功績で、建設大臣、運輸大臣よりそれぞれ表彰をうけた。
また、消防に尽された功績で昭和三十七年藍綬褒賞をうけ、昭和五十九年には
勲五等瑞宝章をうけられたことでも、氏の功績が偲ばれる。なおこの陰に、喜
代子夫人長)の内助の功を附記する。
白州先人伝
原光雄氏
著書二十五・発表した論文五十五余
明治四十二年八月五日、白州町白須、原源吉・さなへの三男として生まれる。
峡北農学校を卒業、
旧制新潟高等学校理科甲類を経て、
京都大学理学部化学科卒
京大理学部専任講師、
大阪市同大学商学部教授となる。
昭和三十七年より二年間商学部長を勤め、同年四月、阪南大学商学部教授兼商
学部長、
昭和四十八年三月退職。
昭和五十五年三月、阪南大学教授を定年退職。
著書
『文化学老ラヴォアジェ』(弘文堂)、
自然弁証法の研究(大雅堂)、科学と民主主義(日本科学杜)、
化学入門(岩波新書)
等主な著書二十五のほかに発表した論文五十五余あり、戦前戦後を通じて、自
然科学史、化学史、自然弁証法などの分野で多数の著書、論文を発表され、白
然科学史の第一人者として学界に確固たる地位を築かれた。
そして、その該博な知識と熱意をもつて学生の教育と教員の指導に当たられ、
敬慕されている。退職後は悠六自適の生活を過しておられる。
現住所大阪府吹田市高野台五-二-六
白州先人伝
古屋五郎氏(白州町の創始者)
明治四十三年一月二日、旧菅原村字竹宇の旧家古屋浜吉・ふじの三男として生
まれる。
甲府中学校(現二高)で勉学するも、兄二人が旧東京帝大に学びながら病魔に倒れ
たので氏も同じ轍をふまないようにとの両親のはからいから、進学をあきらめ
家に帰り農業を継ぐ傍ら、
昭和二年から菅原村役場書記として勤務をはじめる。
昭和十三年には助役になり村政推進の中核として活躍中、
昭和十六年太平洋戦争に応召され満州(綏陽)及び南方(マレー・スマトラ方面)の
戦線で皇軍の一員として活躍すること六ケ年。
とくに南方の戦線においては隊長が職権をかさに看護婦を辱かしめようとして
いるのを見るにしのびず、一兵卒である氏は軍律厳しい当時としては全く無謀
と言うべき、上官に告訴し看護婦を守つたというエピソードは、道義一筋を貫
いた氏の信念として高く評価されている。
昭和二十二年復員、昭和二十六年菅原村長に当選。
昭和三十年の町村合併に伴ない初代白州町長として引き続き就任し、町行政の
要として十六年間敏腕を振われた。それは「町の財産は人作りである」との信
条から教育の面に力を注ぎ、施設及び人的問題を含めて統合巾学校の必要性を
説き、資金賓材の苦難に対応したがら昭和二十九年には県下に誇る白州中学
校々舎を建築した。
さらに地域発展のためにと町村合併を決意し、幾多の難間題をのり越えて今日
の白州町の基盤を整えた。
また昭和三十四年台風襲来による末曽有の大災害の復旧事業には心血を注いで
これに当った。
この間、県町村会長・全国町村会常任理事・県農業構造改善審議会長・県農協
合併促進審議会長・県農林統計協会長・秒防協会長・河川協会長・日本赤十字
山梨支部副支部長・国立公園協会県副支部長をはじめ各種委員など数多くの公
職を通して県政に参画した。
よって昭和三十七年には県政功績者として知事表彰を受けた。
町長退任後も県公安委員長.内水面漁場管理委員長として活躍した。
一方昭和二十二年菅原山岳会を設立して以来会長に推されて現在に至り、県山
岳連盟会長・日本山岳会理事として南アルプスの開発に多くの貢献をなした。
昭和六十年勲五等瑞宝章に叙せられたことは氏の功績を物語っている。
この陰には、よ称子夫人(元白州町婦人会長)の内助の功のあつたことを附記する。
著書『南十字星の下に』新聞春秋杜発行がある。
白州先人伝
(東京松屋創始者
古屋徳兵衛氏
特売日の創始者)
白州町上教来石、古屋長吉の長男として嘉永二年四月十日に生まれ、幼名を徳
太郎という。
東京松屋デパートの前身である呉服反物商鶴屋の創始者である。
氏は文久元年、十三歳で江戸に出て日本橋本石町一丁目にある豊島屋五兵衛と
いう薪炭仲買人の家に身を寄せた。
時あたかも明治維新の大変革に遭遇し、主家が倒産したので郷里に帰る。その
後家産所持品などを売却して金に代え、再び横浜に出て呉服の仲買商を始めた。
慶応四年二十歳の時江戸・横浜問を往復しながら横浜緑町に呉服商を開業した。
明治二年横浜の石川口に鶴屋呉服店を開業し徳兵衛と改名する。誠実と勤勉で
商にあたったので店は大いに発展した。
明治二十三年、東京神田今川橋の松屋呉服店が経営不振になつているのを買収
して立て直し、松屋と名のった。
明治三十六年代には横浜貿易銀行・横浜実業銀行などの取締役に耽任し、また
東小呉服、反物協会頭取として繊物税問題で奔走するなど業界において大活躍
した。
また氏は商道に徹し、華客であるとして客人を大切にしたり、店員を優遇し当
時は年期奉公が普通であつたが給料を与えて、積み立てさせて株金として配当
をつけてやるなど気を配り事業を拡大していったが、その陰には夫人満寿が和
裁などを教えて店員教育に心がけたり、端切れ布の小売りや、それを利用した
紐、袋もの、よだれ掛けを作って客に提供するなど、今日のバーゲンセールに
相当する特売日の創始者として努力したことも松屋デパートの繁米につながっ
ている。
一方氏は郷土愛に燃えており、鳳来小学校の子弟のために多額の金銭や物品な
ど数十回にわたって寄付している。鳳来小学校跡地(現熊本ジユースエ場敷地内)
にはその業績をたたえて顕徳碑が立てられて永くその功績を伝えている。明治
四十四年七月六十二歳で残した。
白州先人伝
宮川義汎
県会議員
電力尽力者
(白州町横手「駒の松」所有者)
慶応元年八月十四日、旧駒域村横手一八九九番地、武川筋の名門宮川伝左衛門・
はんの二男として生れる。
はじめ甲府徴典館に学び、のお上京慶応義塾に学んで帰郷した。
温厚で衆望厚く明治二十八年駒城村長に選ばれ村政に尽し、
明治三十年郡会議員に、
明治三十二年には県会議員に当選。のち県参事会員に推されて功績を上げ、政
友会県支部総務にもなって県政界に貢献した。
その他郡農会長、地方森林会議員、赤十字山梨支部商議員等多くの要職を歴任
した。その問県道改修、穴山橋改築など氏の力にあずかるところ大である。
一方実業界にも敏腕を振い、大正二年七月、高尾水力発電株式会杜を設立、取
締役となり(中巨摩郡榊村上宮地に高尾発電所建設)。
大正十年三月駒電力株式会杜取締役杜長(竹宇大原発電所、同十五年一月青木発
電所建設)に就任、続いて中央電力株式会社監査役も歴任し電力界に偉大な業績
を残したことは特筆すべきことである。また山梨銘醸株式会杜(七賢)、甲斐無尽
などの各会社にも関与して進展に尽した。
このように氏は家を妻「ます」にまかせて日夜東奔西走、社会のため人のため
に尽したことは万人の認めるところである。
惜しくも昭和七年六月六日、八十四歳で逝去したが、有志相図り横手の(駒城小
学校入口)駒の松の敷地内に類徳碑を建立、永くその功績と徳を讃えている。