六〇年代前半の実験映画 - PLEXUSサイトへ

金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
飯村隆彦はドナルド・リチー、大林宣彦、高林陽一とならび日本の実験映画
の草分けである。他の三人がその後、文学研究者や劇映画の監督など、実験
映像以外の道へ進んでいったのに対し、飯村隆彦は60年代以降もビデオ・ア
ート、メディアアート、映像インスタレーションを発表し続け、一貫して実験映像
の道を探求している。国内での評価だけではなく、海外の映画祭、美術館、大
学、シネマテークにおいて数知れぬほどの上映、パフォーマンス、講演活動を
こなしている。日本が生んだ世界的な実験映像作家として、海外の研究者たち
からも熱い視線を送られている。
飯村隆彦は60年代に盛んであった赤瀬川原平、小杉武久、土方巽らネオ・
ダダ文化のなかから颯爽と登場し、詩と美術への関心に裏打ちされた実験映
画を制作していった。60年代半ばに、アメリカのアンダーグラウンド映画の洗
礼を浴びて、本場のニューヨークへ渡った。オノ・ヨーコ、ナム・ジュン・パイク、
フルクサスのメンバーら前衛芸術家と親交を結び、ジョナス・メカス、アンディ・
ウォーホル、スタン・ブラッケージ、ジャック・スミスら世界的な実験映画作家た
ちと交流して、アンダーグラウンド・シーンのなかで自身の実験映画を次々に
発表していった。70年代以降はビデオ・アート、メディアアートの主導的な作家
として活動し、ニューヨークと東京を拠点としながら文字通り世界中で上映、パ
フォーマンス、講演活動を精力的に行っている。
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六〇年代前半の実験映画
―― 飯村隆彦さんの著書『実験映像のために』や『パリ=東京 映画日記』によれば、
飯村さんは大学を出た後、就職をせずに、ニュース映画会社でアルバイトを経験し、
PR映画の助監督をやっていたそうですね。映画のプロではなく、個人的で芸術的な
映画へと向かわれたきっかけは何かあったのですか。
僕が慶應高校へ通っていた頃、ダダイストの高橋新吉や萩原恭次郎の詩に興味が
ありました。そこにはただの活字ではなく、視覚的に詩を見せるという行為があったの
です。自分でも詩を書いていました。最初の詩は「目」というタイトルで、飛び降り自殺
をテーマにしたものでした。ページの上に「目」というタイトルがあって、その下は全く
の空白で、ページの一番下に「目」が横向きに倒れている、これは漢字の数字の四で、
死を意味したものです。普通の詩ではなく、具体詩(コンクレート・ポエム)のように視
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
覚的な効果(と音読による意味の転換)に興味を覚えたのです。高校のときは日吉キ
ャンパスに通っていましたが、隣接する大学の社研について行って、共産党の山村工
作隊に加わって田植作業を手伝ったこともあります。
慶應の大学生になってからは視覚的なものに興味が出、廃物彫刻やアクション・ペ
インティング(フランス語ではアンフォルメル)など、ネオ・ダダや新しい潮流の現代美
術に興味を持ちました。実際に三点ほど絵画作品を描いてみたこともあります。僕は
詩や現代美術の方から映画や映像へ向かったので、最初から物語的な映画の方向
には興味がなかったのです。
――まだ六〇年代前半ですと、ヨーロッパの前衛映画やアメリカの実験映画は日本
に紹介されてなかったんですよね。
まだ紹介されてない。ただニュースでは六二、三年に、ニューヨークにアンダーグラ
ウンド映画が、アンディ・ウォーホルがエンパイア・ステイト・ビルを延々と撮ったとかそ
ういう話題が入ってきて、友人のドナルド・リチーが向こうの雑誌を見せてくれた。
――社会へ出るまでは映画を撮っていなかったのですか。
ええ。映画に携わるようになったのは、大学を卒業してからです。記録映画作家・野
田新吉さんの紹介で、月給一万円で日映新社という朝日新聞系のニュース映画やP
R映画を製作している会社に入りました。演出部の雑用をこなすアシスタントの仕事
でした。最初から会社の映画には何の幻想もなかったので、自分で八ミリフィルムの
カメラと映写機を買い、好きなものを撮りはじめたのが六二年のことです。
最初から実験映画に興味を持っていました。六〇年代前後では、まだヨーロッパの
昔の前衛映画や当時のアメリカのアンダーグラウンド映画は日本に紹介されていま
せんが、雑誌などを通じてニュースとしての情報は入っていました。実験映画は僕に
とって詩と絵画の中間にある、もう一つのメディアだと思えたんですね。
『くず』
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
――最初に撮った『くず』(62、レギュラー八ミリ、一六ミリブローアップ、一二分、音楽:
小杉武久)[DVD『60s Experiments』に収録]という映画には、何かお手本にできるよう
な実験映画があったわけではないんですね
六二年に撮った『くず』が、一種の映画詩ですけど、処女作にあたります。特にお手
本となるような前衛映画や実験映画はありませんが、映画よりは当時の美術シーン
で流行していたジャンクアートの影響はありました。『くず』は東京の晴海海岸に転が
る、無数の廃棄物や動物の死骸にカメラを向けた作品です。それと同時に、死んでし
まった物体を、映像のなかで甦らせるというアニミズムのような観点もあります。今で
言えば、エコロジーのようなものです。晴海埠頭へは七日間ほど通い、八ミリフィルム
で撮影して編集しました。『くず』には子供たちが何人も登場しますが、あれは晴海周
辺にあったバタヤ部落の子供たちで、海岸に打ち捨てられた廃棄物、動物の死骸、
部落の子供たちをただ単に風景として記録するのではなく、その風景のなかにカメラ
を持って「自分もジャンクにすぎない」という観点から、その一部として参加していくと
いうことを考えていました。
エルモのカメラを使っていましたが、レギュラー八ミリで、カメラはゼンマイ式だった
ので、一カットは最大で一五秒くらいしか撮れませんでした。映画のなかでは、海岸の
砂浜を走ったり、フレームのなかに自分の足を出したり、廃棄物を引っ張って動かし
てみたり、砂に埋もれたズボンを立ち上がる人間のように見せかけたりしました。それ
らが一見、シュールにみえますが、私にとっての参加の方法であり、映像にとってそ
れらは「もの」として立ち現れます。シュールレアリスティックな幻想を使うのではなく、
現実のなかにある「もの」たちの唄を歌いあげようとしました。
――詩という観点と同時に、飯村さんの特徴は同時代の美術シーンに強く反応してい
るところですね。
六二年には身のまわりでハイレッドセンターの様々な前衛的な美術運動やハプニン
グなどが起きていました。当時のネオ・ダダというと赤瀬川原平、荒川修作、篠原有司
男らが参加していた「読売アンデパンダン展」もありました。僕自身はそこには参加し
なかったけど、よく彼らとは会って、特に美術家の中西夏之と仲良くなりました。彼と
は『ONAN』(62、一六ミリ、モノクロ、七分、音楽:刃根康尚)という映画を撮っています。
映画のなかで本人が出演し、彼が作った卵のオブジェを使いました。これは六四年の
ブリュッセル国際実験映画祭で、特別賞をもらいました。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
中西がたまたま現像所で、アメリカの子供のための性教育映画のぼろぼろのフィル
ムを見つけて、僕に見せてくれました。これを『視姦について』(62、モノクロ、十分、サ
イレント)[DVD『60s Experiments』に収録]という映画に二人で仕立て上げました。教
育映画のフィルムに直接パンチで穴を開け、悪戯書きをし、フィルムをスクラッチして
色々な手法を加えていきました。まだ日本でファウンド・フッテージの利用などなかっ
た時に、ダダ的な手法を映画でやったわけです。また、パンチで開けた穴のところに、
日本のポルノ写真を入れて陰部を黒く塗られたものを瞬間挿入して、サブリミナルの
実験もしています。それが僕のパンチとね、ポジネガの関係にあるわけだけど、当時
の国家権力による検閲へのプロテスト行動という意味合いをこめました。つまり、一度
検閲された写真を、こちらで検閲し直す、パンチの穴を開けるという行為です。また、
植物が勾配するセックスにあたる部分や、生物が細胞分裂するシーンなど、顕微鏡
の丸い穴にあわせて性に関わるところにパンチで穴を開けています。六二年は、いろ
いろアイデアがあふれて、五、六本撮っています。
『視姦について』
―― その年には、男女の性行為をどこか写っているか分からないほどクローズ・アッ
プして撮った『LOVE』(62、レギュラー八ミリ、一六ミリブローアップ、モノクロ、一五分、
音楽:オノ・ヨーコ)[DVD『60s Experiments』に収録]という映画も作っていますね。この
映画を気に入ったオノ・ヨーコが、ニューヨークへ行ってジョナス・メカスへ見せたら絶
賛されて、「飯村の『Love』は美しさとオリジナリティと、ありきたりのニセのシュール・
レアリズムの映像ではない映画詩において際立っている。詩的で、肉体の感覚的な
冒険であり、流れるようで、直載であり、美しい」とメカスが書いたそうですね。
僕はまだクロースアップ・レンズが買えなかったので、虫眼鏡を自分で取りつけて撮
影しました。一センチ四方の範囲の身体の一部が、スクリーンに拡大されます。人間
の身体というものを即物的に扱い、具体的な映像だけれど同時に、抽象的な表現に
なります。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
もう一つには、前に実際に経験してるんですけど、完全なヌードだと、検閲に引っか
かり、陰部が写っていると現像所からフィルムが返ってこないのです。そんな権限どこ
にあるんだと思うんですけど。しかし、あれだけクローズ・アップしてしまえば、実際に
何が写っているか分からないという戦術でした。それ以上に男女の区別なく、部分と
部分が自由に出会い、交わるという、アンドレ・ブルトンの「自由な結合」の詩に同感し
ていました。局所信仰のポルノには反対で、あえて実際の性行為のシーンはありませ
ん。後年、ニューヨークへ渡ってから八ミリフィルムでは上映しづらいという問題があり、
一六ミリフィルムへブローアップしました。その結果、劇的なまでに黒と白のコントラス
トが強調されて、粒子が荒れるというグラフィカルな効果が出ました。
――オノ・ヨーコさんが『LOVE』のサウンドトラックにノイズ音のような音楽をつけてい
ますね。
その頃、オノ・ヨーコが草月ホールでジョン・ケージたちとパフォーマンス(当時はハ
プニング)をやるということで、帰国したんですね。そのときにサイレントだったこの作
品を見て、一度で彼女は気に入り、ニューヨークで上映した方がいいと言ってくれまし
た。当時、彼女は渋谷のマンションの一三階にキョウコちゃんという娘と暮らしていま
した。そこへ訪ねていき、音をつけてくれるように頼んだら、その部屋の窓からいきな
りマイクを突き出して風の音やノイズを録音したんです。「これ、あなたにあげる」って
言って。ところどころ、自動車のサイレンとかが入ってるんですけどね。それが『LOV
E』に使われている不可思議なノイズ音のようなサウンドトラックとなりました。
『LOVE』
ネオ・ダダと暗黒舞踏
―― 当時のネオ・ダダの美術運動というと、あらゆる作品を同列に扱う「読売アンデ
パンダン展」が開かれていた頃ですね。また飯村さんは六〇年代前半に大林宣彦、
高林陽一、ドナルド・リチー、石崎浩一郎と「ジャパン・フィルム・アンデパンダン」を組
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
織しています。これらの経緯を教えてください。またゲリラ的な自主上映をしていたそ
うですが、具体的にはどのような上映形態だったのですか。
荻窪にVAN映画研究所があって、若手の日大出身の映画人の溜まり場になってお
り、僕が住んでいる高円寺からも自転車で行ける距離でした。そこに赤瀬川、中西、
高松次郎、僕なんかも出入りしていました。まだ赤瀬川の千円札事件の前です。中西
とはアンデパンダンのときに会って、銀座で道路清掃をするハプニングなど、彼のパ
フォーマンスを見ていました。自分のアート作品としては「読売アンデパンダン」でドキ
ュメントした『ダダ 62』(六二年)という映画を撮っています。イベントの紹介や記録とい
うよりは、全編をクローズ・アップで撮っていき、オブジェとオブジェの境目が分からな
くなるように撮影した作品です。八ミリフィルムでそのような映画を撮ることが、僕のネ
オ・ダダに対する参加の方法でした。
六四年に紀伊国屋ホールで日本最初の実験映画祭「ジャパン・フィルム・アンデパ
ンダン」を組織し、赤瀬川、刀根、大林、リチーなども参加しました。二分映画という形
で作品を募集し、誰でも参加できるようにしました。当時の読書新聞に「一切の商業
的・政治的なものに束縛されない自由な映画」という「自由な映画を!」というマニフェ
ストを発表し、大林宣彦、ドナルド・リチー、高林陽一、佐藤重臣、石崎浩一郎も参加
したのです。足立正生も顔を出していました。そういうグループを作って映画祭を開催
したのですが、私の渡米もあって、一回だけで終りました。
―― その頃の飯村さんには『シネ・ダンス[映像舞踏]:土方巽暗黒舞踏 ―あんま―』
(63-2001、モノクロ、八ミリ、サイレント、二〇分、完成版)[DVD『CINE DANCE: The
Butoh of Tatsumi Hijikata』に収録]というドキュメント作品がありますね。出演は土方
巽、大野一雄、大野慶人、笠井叡といった舞踏界の豪華な顔ぶれです。これはいわ
ゆる記録映像ではなく、飯村作品としか呼びようのない作品になっています。
暗黒舞踏の創始者である土方巽さんの暗黒舞踏に興味を持って、稽古場へ何度か
出入りしました。六三年に草月会館ホールで上演された歴史的な舞台「あんま」と、六
五年に日本青年会館ホールで上演された「バラ色ダンス」の舞台を撮影したんです。
土方巽からどのように、どの部分を撮ってほしいとか、事前の打ち合わせは一切あり
ませんでした。僕が好きなように撮ったんです。
一つの狙いとしては、単なる記録的なドキュメンタリーにするのではなく、僕自身も
暗黒舞踏の作品のなかに参加するということでした。これは後年「シネ・ダンス」という
映画とダンスを結合した言葉で呼ぶようになりました。外側から撮るという客観的な記
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
録に対する疑いがありましたから、その場で自分の目が見ることができたものだけを
撮り、自分の視線を記録するという方法を試みたんです。ダンサーにかなり近づいて
撮るので、その身体は非常に抽象化されて、カメラを手の延長として使ったので、これ
を「カメラ・マッサージ」と名づけました。そのすぐ後に、マーシャル・マクルーハンが「カ
メラは身体の延長である」と言いました。カメラは目の延長であると同時に手の延長で
もあるという意味ですが、今思えば、そのような考え方を先取りしていた映画でもあっ
たのではないか、と思っています。
『シネダンス』
――ジョナス・メカスがリビング・シアターを撮るために、一六ミリの機材を背負って舞
台にあがって撮影した『営倉』という映画が六三年です。ほぼそれと同時期にあたりま
すね。実際に舞台にあがって、お客さんに観られながら撮影している、と。
それに比べたら、『あんま』のとき僕は八ミリのカメラを持って、草月会館ホールのス
テージの上にあがっていたので身軽でした。カメラを振り回して撮っていたから、観客
席から見れば、ダンサーの一人のように見えたことでしょう。ゼンマイ式のカメラでワ
ンカットが一五秒しか撮れないので、常にゼンマイを巻き直していました。踊る舞踏家
たちは、僕のために待ってくれないので、追っかけました。最初から舞台上で起きるす
べてを記録するのは不可能だと分かっていましたから、僕が舞台に参加した身体の
痕跡が映像として残ればいいという考えでした。カット割りやアクション繋ぎは全く無
視して撮っています。いわばカメラによるコレオグラフィー(振付)ということで、自分自
身がダンスをしながら、映像作品を撮るというパフォーマンスの一種です。
『あんま』の後半のシーンでは、大野一雄さんの着物のシーンと洋服のシーンが激
しいカメラの運動のなかで、行ったり来たりフラッシュバックする構成になっています。
それは舞台にはない映画的な効果として作り出したものです。いわゆる劇映画のフラ
ッシュバックではない、物語形式ではない形でその技法を使用しました。「あんま」とい
う舞踏作品は、東北の非常に貧しく、生活の厳しい村落を舞台にしています。大野一
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
雄さんが演じるのは、村落共同体のアウトサイダーの人物で、彼は少年たちがボー
ルに興じるなかで阿呆を演じます。そして村祭りの舞踏を通してのみ、村の人々の仲
間に入れてもらえるという物語なのです。この村祭りのシーンでは、本物の三味線弾
きが演奏し、大衆的な歌謡も使われました。しかし、この舞台の音楽については何も
記録していません。最初のバージョンは六三年に完成しましたが、後に未使用のフィ
ルムを大幅に追加して完成版を二〇〇一年に作りました。
――六五年には『シネ・ダンス[映像舞踏]:土方巽暗黒舞踏 バラ色ダンス』(65-2001、
モノクロ、八ミリ、サイレント、一三分、完成版))[DVD『CINE DANCE: The Butoh of
Tatsumi Hijikata』に収録]を作っていますね。出演は同じく土方巽、大野一雄、大野慶
人、石井満隆、笠井叡など錚々たる顔ぶれです。
『バラ色ダンス』は『あんま』の二年後に撮影しました。土方は映画撮影について無
頓着でした。『バラ色ダンス』は日本青年館という広いホールで行なわれ、舞台の上に
大きな二階席があったので、二階でロングショットを撮ったり、舞台に戻ってきて近接
して撮ったり、撮影に関しては結構忙しかったです。ひとりで八ミリフィルムを回しなが
ら、ロングとアップが行ったり来たりするようにしたのです。ただ、露出過剰などの技術
的な失敗もありましたが、それも使っています。
――それはお一人で撮っていたんですね。舞台の見せ場は土方さん、大野さんのデ
ュエット、ゲイダンスですね。
『バラ色ダンス』は『あんま』よりもずっと西洋的な舞台で、『あんま』のような物語性
もなかった。振付に関しても、より西洋的なモダンダンスに近いものでした。『バラ色ダ
ンス』の見せ場の一つが、土方巽と大野一雄のデュエットであるゲイ・ダンスです。二
人は親密に絡み合いながら、野蛮なゲイと優しいゲイをそれぞれ表現していました。
この頃の暗黒舞踏の舞台は、写真は随分と撮られていましたが、映画は誰も撮って
おらず、映像記録としてもこの二本しかないので非常に貴重なものとなりました。
『あんま』『バラ色ダンス』は度々、細江英公が少し前に撮った『臍と原爆』(六二年)
や、また、僕の提唱した「シネ・ダンス」は、マヤ・デレンがダンスと映画撮影を結合し
ようとした行為と比べられることもあります。確かに細江の『臍と原爆』は見ていました
が、彼はほとんどのショットを静止的なカメラで撮影しました。それが僕のシネ・ダンス
という方法論との大きな違いです。同じことはマヤ・デレンについても言えて、当時は
彼女の映画はまだ見ることができなかったのですが、彼女がカメラを振り付けるという
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
ときも固定したカメラで撮影しています。それは撮影者の身体の運動の痕跡が映る、
僕のシネ・ダンスやカメラ・マッサージとは違うと思っています。シネ・ダンスは単にひ
とつの撮影技法という以上に、イメージと身体を一体化する考えに基づいており、最
近の映像身体論をほぼ半世紀以前に試みたと言えるのではないしょうか。
六〇年代後半のニューヨーク
――飯村さんは六六年にニューヨークへ渡米します。当時の海外では『くず』『ai(love)』
『視姦について』『リリパット王国舞踏会』[いずれもDVD『60s Experiments』に収録]な
ど、ご自身の初期作品はどのように評価されましたか。
当時、まだ僕の実験映画は誰も取り上げないというか、日本ではほとんど評価され
ていませんでした。そこでオノ・ヨーコが『LOVE』をニューヨークへ持っていってくれて、
ジョナス・メカスに見せたのです。彼が僕の映画を見てヴィレッジ・ヴォイス誌やフィル
ム・カルチャー誌で映画評を書いてくれたので、非常に勇気づけられました。それでニ
ューヨークに行きたいという気にもなったんです。僕の先輩に写真家の金坂健二さん
がいて、紹介されて応募してみたら、六六年にボストンのハーバード大学の夏季の国
際セミナーに招待されました。それが初渡米です。このセミナーは芸術分野に限らず、
教育やジャーナリズムなど広い分野から人間を集めていました。僕は自分の実験映
画を持って行ったのですが、性的にきわどい描写が多いので学生には見せられない
と言われ、先生たちだけの会で見せました。
その渡米のときに『LOVE』をイェール大学で上映したことがありました。その頃のイ
ェールはまだ男子校で、興奮した学生たちがこの映画を見せろと言って押し寄せたん
です。翌日のニューヨーク・タイムスの記事は、こんな風に報じました。ぼくもびっくりし
たんですけど。「昨夜興奮した暴徒のために、イェール大学のアートギャラリーで日本
の実験映画の上映が妨害された。警察の発表によると暴徒の数は千人にものぼる。
上映は二〇時半からの予定だったが、一時間前にはギャラリーに通じるストリートの
前に群集が集まりはじめた。二〇時頃には群集の騒ぎは大きくなり、通りに人があふ
れだした。タクシーがクラクションを鳴らして通ると、人々はブーイングで応じますます
殺気立つ。何組かの学生グループは、道を開けろ、ポルノ映画だぞ、と叫ぶ。二〇時
四五分に五人の警官がドアの前に並び、誰もビルの中に入れないようにした。通りは
大混乱になった。紙くず、ビン、ビール缶が辺りに飛び散った」と。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
―― 大変、好評を博したようですね(笑)。その後、ニューヨークに着いて最初の上映
会は、タイムズスクエア近くの地下劇場で、ジョナス・メカスが主催するシネマテークに
て、『くず』『いろ』『LOVE』などの八ミリ作品、一六ミリ作品の『リリパット王国舞踏会』
を本場ニューヨークの観客たちに見せたのですね。観客席は満席で、八万円もの上
映料をもらって驚いたということですが、これはどのような経緯で上映に至ったのです
か?
ニューヨークに着いて、すぐにジョナス・メカスに会いにフィルムメーカーズ・シネマテ
ークを訪ねました。彼はシネマテークを主宰すると同時に、モギリも一緒にやってまし
た。すでにメカスは僕の『LOVE』をオノ・ヨーコの紹介で見ていましたが、その他の作
品も見てもらいました。そして、彼が「近いうちに個展をやろう」と言って握手をしました。
最初は八ミリでやったんですけど、八ミリへの差別があるどころか、積極的に取り上
げていました。その上映の告知がヴィレッジ・ヴォイス誌などにも出たので、彼らから
したら名前を聞いたことのない僕のような作家の映画会に多くの観衆が集まってくれ
たのです。それが最初です。
――その後はずっとニューヨークで活動していたのですか。
そこでジャパン・ソサエティの客員芸術家として二年半を過ごしました。それから本
場のアンダーグラウンド映画をたくさん見て、自分自身の作品も多少は撮影しました。
そういえば、こんなことがありました。最初ニューヨークでイースト・ヴィレッジのロフト
に住んでいるオノ・ヨーコを訪ねたんです。そうしたら、彼女が玄関の前にしゃがみこ
んでいるので、どうしたのかと尋ねました。娘のキョウコちゃんのミルクを買う金がない
ので、日本領事館にかけあったところ、領事館の人がミルクを持ってきてくれることに
なり、それを待っているんだと言いました。どうしてオノさんみたいな金持ちの娘が、ミ
ルクにも困るような生活をしているのか、と驚きましたね。後で聞いたら、親のあらゆ
る援助を断って、そんな生活をしていたということです。その頃のオノ・ヨーコはフルク
サスという伝説的なパフォーマンス・グループの初期からのメンバーでしたが、そんな
芸術活動を続けるために、ヴェジタリアン専用のレストランでウェイトレスをしていたこ
ともあったそうです。
ニューヨークで最初に撮った映画は『ニューヨーク・シーン』(67)です。これは当時の
八ミリフィルムで五〇フィートのワンロールで一本の映画と撮るというコンセプトでした。
なるべくファインダーを覗かずに、目とは別のところで、身体で映像を撮るということを
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
試したのですが、あまりうまくいきませんでしたが、この経験から『フィルムメーカース』
[DVD『Filmmakers』に収録](67-68)ができました。
『フィルムメーカース』
――『フィルムメーカース』は実験映画史の観点から見ても、非常に重要な記録映像
であると言えます。
ええ。『ニューヨーク・シーン』の後で『フィルムメーカース』を撮りました。アメリカの代
表的なアンダーグラウンド映画作家たち、すなわちアンディ・ウォーホル、ジャック・ス
ミス、ジョナス・メカス、スタン・ヴァンダービーク、スタン・ブラッケージ、そして自分自
身を撮りました。一人の作家のポートレートをそれぞれ二百フィ‐ト(約五分)で撮ると
いうコンセプトで、無編集のままで完成しました。各アーティストを撮るときに、その映
画作家のスタイルや特徴の模倣を試みました。たとえば、ヴァンダービークのときは
三六〇度のパンを含む、カメラワークを試み、メカスのときはカメラのスピードを実験
的に変えてコマ撮りを多用し、ウォーホルの場合は長撮りのあとにカット替わりの白い
フラッシュの使用をするといった具合です。これらはインサイダー・ジョークですが、彼
らの撮影スタイルを紹介する効果もあると思います。
ウォーホルに関しては実際に会わずに、というのも、ウォーホルは自分の作品がす
べてであり、その背後には何もないと言っていたので、本人を撮影するより、言葉通り
に彼の映画を映画館へ行って再撮影しました。また、スタン・ブラッケージを撮るため
に、コロラドの山奥にある彼の家へ訪ねました。もちろん『ドッグ・スター・マン』(61-64)
を見ていたので、あの映画と本当に同じ風景のなかに住んでいるのだと実感しました。
森、山、窓、子供たち、ドンキーなどのブラッケージ映画的なキーワードを撮りました。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
サウンドトラックは全編に、英語のレッスンのように、画面に見えるものの単語を発音
しました。言葉による異化作用です。
――スタン・ヴァンダービークにも会いに行ったんですね。
スタン・ヴァンダービークの撮影では、マンハッタンから車で二時間くらい離れた、芸
術家たちが住んでいるコミュニティを訪ねました。彼は家の敷地に大きなドーム状の
「ムービードローム」を自分で建てて、そこで色々な多元映写を試していました。後の
科学万博などで使われたドームでの先駆的な実験で、スタン・ヴァンダービークは数
台の映写機を設置して、機械仕掛けではなく、その間を行ったり来たりしながら手動
で操作し、ドーム状のスクリーンへ自在に映像を投影していました。観客は彼と一緒
にドームのなかに入り、座ってみたり寝転んでみたりしました。特にシナリオがあると
いうわけでもなく、大、小の映像が半ば即興的に演奏されて上映されました。これは
ニューヨーク映画祭でそのようなツアーが行なわれ、参加しました。
ジャック・スミスを撮影したときは、彼のロフトを訪問しました。私の『フィルムメーカー
ス』の映像にあるように、部屋のなかに大きな祭壇があり、ガラクタを集めたようなオ
ブジェが並んでいて、アラビアンナイトのような衣装と花が飾ってあり、火をつけた蝋
燭が複数立っていました。OKをもらって撮ったんですが、「ボクにも少し残して!」と
蚊の泣くような声で言われました。常に自分の世界に陶酔しているようなところがあり
ましたが、声をかければ、ストレートに反応は返ってきました。また、『ニューヨーク・シ
ーン』では彼の代表作である『燃え上がる生物』を撮影したそのロフトで、その映画を
上映しながら、ジャック・スミスにスクリーンの前に座ってもらい撮影しました。彼は居
心地が悪そうで、頭を動かして落ち着きがなかったけれど、忍耐強い人でした。
70年代前半のビデオ・アート
――それから二年半、ニューヨークに住んでいたわけですが、68年にはナム・ジュン・
パイクに出会い、飯村さんはビデオ・アートを手がけられるようになりますね。
ええ。その頃、ちょうどソニーのポータブルのビデオ機材が発売されて、ニューヨーク
の先鋭的なアーティストたちもビデオ・アートに注目しはじめた頃でした。今から見ると、
まだまだ重たい機材でしたが、それを背負って撮影していました。ナム・ジュン・パイク
とはそれ以前にも東京で一回会っていますが、気さくな人だから、ロフトへ遊びに行き
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
ました。パイクのロフトにはテレビモニターがたくさん置いてあり、彼は磁石を使ってモ
ニターに映し出されたニクソンの顔をグシャグシャに歪ませたりして、一種のテレビア
ートというかライヴテレビをやっていました。映画とは違うテレビやビデオの可能性に
刺激されて、僕も日本に帰ってから機材を買ってビデオ・アートを本格的にやるように
なりました。
パイクで思い出すことは、彼が「オペラ・セクストロニク」というパフォーマンスをシネ
マテークでやったときのことです。シャーロット・モーマンという女性が上半身裸になり、
バストのところを「TVブラ」と呼ばれるテレビで隠している。そして、パイク自身も上半
身裸になり、彼女に抱きつく格好をして、チェロになり、背中に弓を弾くというものでし
た。アメリカは女性の胸を出すと結構うるさいので、そこに私服の刑事が来て公序良
俗罪でシャーロットを引っ張っていった。テレビで隠したつもりでも、胸が見えることは
あるわけです。それで彼女が泣いて叫んで抗議したんですが、止められませんでした。
シャーロット・モーマンはパイクのあらゆる要求を受け入れてパフォーマンスをした彼
の芸術上のミューズでした。
69年に、2年半のアメリカ滞在を終えて東京に戻りました。それで早速、二分の一イ
ンチのオープン・リールのビデオレコーダーとカメラを買いました。当時はまだ日本で
ビデオ・アートをやっている人はあまりいなかったと思います。70年にアメリカンセンタ
ーが主催した「クロストーク・インターメディア」というイベントが朝日新聞社ホールであ
り、アメリカの作曲家やブラッケージの映画も参加しましたが、僕はそこでビデオを使
ったライヴの『Outside & Inside』(70)というパフォーマンスを発表しました。当時はまだ
普通の人がテレビに出ることは珍しかった時で、客席にいるお客さんの顔を一人ずつ
撮影して、それをリアルタイムでステージ上に大きなプロジェクターで映しました。また、
有楽町の道端で通りがかりの人にインタビューして、それを同時に同じスクリーンに
映し出すという当時としては、ポスト・モダンな試みをしました。そのときはまだ音声は
リアルタイムで出せませんでしたが。これは、おそらく、日本のビデオ・パフォーマンス
としては最初(のひとつ)になります。
71年には『マン・アンド・ウーマン』[DVD『Early Conceptual Videos』に収録]というイン
スタレーションを毎日新聞が主催した東京都美術館の現代美術展(キュレータ:中原
祐介)でやりました。薄い全身タイツの男性と女性がレオナルド・ダヴィンチの絵にあ
るような、大の字に寝ているところを真上から撮影し、男女が上下に幾通りにも重なっ
たりする、モニター4台と4台のVTRプレーヤを使ったインスタレーションです。ナレー
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
ションは単に男女の上下の位置を示すだけのコンセプチャルなものでした。これも、
日本のビデオ・インスタレーションとしては最初の部類になるでしょう。その頃は本当
に日本のビデオ・アートの黎明期だったんです。
DVD『Early Conceptual Videos』
―― ビデオ・アート作品を作りはじめるのと相前後して、60年代後半にはフィルムを
使ったコンセプチュアル・アートといえる映像作品を作っていますね。たとえば、16ミリ
作品の『ホワイト・カリグラフィ』(67)です。そのようなベースがあったからこそ、飯村さ
んの後のビデオ・アートの独自の展開があるのではないかとも思われます。これは未
現像のクロミのフィルムの一コマ毎に、最初の二、三頁のみですが古事記の文字を
書き写し、つまりはスクラッチして書いたもので、通常の上映ではほとんど解読不可
能なものですね。
古事記を選んだのは、日本で書かれた一番古い文献といわれているからです。写し
たのは漢字とひらがなの要素から成っていますが、光のダンスとして抽象化していま
す。しかし、日本語圏の人が見て目が慣れてくると、古事記のなかに頻出する「神」
「天」「命」などの漢字は判別がつくようになります。また、八ミリフィルム版を作り、パフ
ォーマンスでは判読可能な部分も作って上映しています。古い八ミリ映写機について
いる映写速度変更装置(バリュアブル・シャッター)を使って、速度を変化させたり、コ
マを止めたり、暗転、逆回転映写なども行います。映写機を楽器として演奏するという
方法です。実は63年に新橋の内科画廊でやった最初期の映像個展でも作曲家の刀
根康尚と「フィルム・コンサート」(まだパフォーマンスという言葉はアート用語になって
いなかった)いう試みをやっています。その時初めて八ミリ映写機で、彼のグラフスコ
アで演奏しました。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
最近では09年に、カナダのトロントの八ミリフィルムのフェスティバルで、八ミリ映写
機を自分で抱えて、壁、天井、床、観客などへ上映するパフォーマンスを行ないました。
また03年のロンドンやパリの上演では、初めて声に出して読みました。それまでサイ
レントでやっていたパフォーマンスに、声という異次元の要素を加えたわけです。古事
記のテキストは「光の戯れ」として白い線の重なり合う文字のダンスであったものが、
声によっていきなり意味が発生しました。また、映写機でストップして、その文字をマ
ジックでなぞるというパフォーマンスもやりました。非常に複合的な要素を加えて、声
に出す行為、書く行為、読む行為が重なり、立体的になりました。文字の抽象化いう
モダニズムから、行為をともなった複合的な意味をもったポスト・モダンな展開です。
[DVD『Writing with Light: White Calligraphy』に収録]
『ホワイト・カリグラフィ』
――そのようなコンセプチュアルな系列の作品としては75年から78年にかけて制作し
た『1秒間24コマ』(モノクロ、12分)[DVD『On Time in Film/DVD』に収録]があります
ね。
これはフィルムのクロミ(真っ黒のフィルム)とスヌケ(透明なフィルム)だけで構成し
た作品です。映画の基本的な時間である一秒間24コマを、1/24から24/24までの各パ
ートでごとに構成を変えていきます。それぞれの分数はクロミとスヌケの比率、例えば
1/24と1秒間出ればその後ろには最初の一コマがスヌケで2、3コマがクロミのフィル
ムが一秒現れ、すぐにそのネガ:最初の一コマがクロミで23コマがスヌケ、この一コマ
が二四コマ目まで、ポジ/ネガが一巡すると、2/24と出て、最初の二コマがスヌケ、あ
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
と22コマがクロミのフィルムが一秒現れ、続いてく。映像に合わせてプツップツッ分子
数に同期した音が鳴ります。
ちょっと見分けがつきにくいんですが、24分の一秒ですから。ポジとネガがサンドイ
ッチしたような形で、進行していきます。人間の視覚では判然としないでしょうけれど、
数学的に緻密に作っています。それでいて、ボレロのように段階を踏んで進行してい
き、音楽性を出しています。フィルムの方は数学的に構成しているのですが、人間の
目の視覚は必ずしも数学の法則に従うものではない。そこにはズレが生まれます。
たとえば、数学的にはまるで正反対のはずなのに、実際には1/24と23/24が同じに
見えるんです。それから聴覚の問題でいえば、12/24を境にして、11 /24と13/24は同
じ長さに聞こえる。なぜなら、人間は音の比率では長いほうの音を認識しづらく、短い
音の方として認識しやすいからです。そのように計算されて編集された実際のフィル
ムと、見る側の視覚と聴覚のズレによって、知覚の錯誤によって音楽性が生まれるの
でしょう。プツッという音は、映像と完全にシンクロしています。一般的には視覚の方
が聴覚よりも正確だと考えられていますが、『1秒間24コマ』のように時間という観点か
らみると、必ずしもそうではないということが発見されてきます。人間の目と耳がどこま
で短い光と音を認識できるか、という実験のために作られた作品です。
『1秒間 24コマ』はトニー・コンラッドの『フリッカー』と比べられ、ともにミニマル映画と
呼ばれたりしますが、あちらはランダムにフリッカー現象を見せているのに対し、僕の
作品はきっちりと計算しているところが違います。しかも情報として「1/24」のような単
位を明示しています。そういう単位というものを同時に認識もできる。数字の認識と光
の知覚、その両方を同時にやろうとしたわけだから、そこの違いはコンセプチュアルと
して大きいと思います。
『1秒間24コマ』
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
七〇年代後半のビデオ・アート
――それでは『カメラ、モニター、フレーム』(76)、『オブザーバ/オブザーブド』(75)、
『オブザーバ/オブザーブド/オブザーバ』(76)の難解ともいえる三部作の話に移りま
しょうか。
これを作った理由としては、映画の記号学というものがあるのに、どうしてビデオの
記号学はないのか、という疑問からスタートしています。映画の記号学という場合でも、
劇映画を対象としており、非劇的映画や実験映画を対象としたものではありません。
そのことに不満でした。また、ビデオには映画と違う言語があるだろうと考えた。そこ
でフィードバックというビデオ特有の現象を技術的な土台としながら、そこに文字を読
むという行為を映像的に含めて、ビデオの閉回路サーキットのなかで試みた三部作
なのです。僕の目的はビデオの記号学の論文を書くことではなく、あくまでも作品とし
て制作することでした。ちなみに75年から76年にかけて制作したオリジナルの『カメラ、
モニター、フレーム』『オブザーバ/オブザーブド』『オブザーバ/オブザーブド/オブ
ザーバ』は全部で五九分ありますが、これらを98年にリメイクして、コンセプトもイメー
ジ/言葉も変えずに、途中の静止画面を大幅に短縮した全部で22分のバージョンを
作りました。
――それでは、まず『カメラ、モニター、フレーム』についてお話し下さい。
『カメラ、モニター、フレーム』は年代的には76年に作っていますが、三部作の最初
の作品として位置づけています。カメラ、モニター、フレームというビデオの基本的な
三要素を取り出し、作品化したものです。ここでは映像と言葉の弁証法をやっていま
す。この作品は「これはカメラである1」「これはカメラである2」「これはモニターである
1」「これはモニターである2」「フレームを見ること」の五つの細分化された作品から成
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
っています。今日は時間もないので、そのなかから「これはカメラである1」についてお
話しましょう。
ここには二つの命題を用意しました。「これはカメラである」と「私は飯村隆彦である」
の二つです。実際には英語の文で作られていますが、ここでは日本語を使って説明を
します。前者は「カメラ」という対象(客体)に対する規定であり、後者は「私」という主
体に対する規定です。これら二つの命題を視覚と言語の弁証法によって結合すること
が、この作品の主要なテーマです。最初に「これはカメラである」という文が、カメラ1
の映像に対して語られます。このときにナレーションの話者は画面内に現れず、声の
主は不明です。次に私の顔の映像が現れて「私は飯村隆彦である」と言います。この
場合、私の唇の動きと声がシンクロしているので、映像の人物と声の主が同じである
ことが了解されます。そのように「これはカメラである」「私は飯村隆彦である」という命
題を用意し、それを肯定文と否定文によって交代して見せていきます。そこには実際
にカメラ1と2、何もない白い空間、私の顔が映し出されます。それが最後のシーンで
「私はカメラである」という命題に統合され、カメラのファインダーを覗く私の姿が映像
として示されるわけです。
同じモニターというものでも、それを意味するものは違う、と。これは、有名な記号論
のシニフィアンとシニフィエという考え方でいえば、モニターとその映像というものに対
応するという一つの例でもありますけれど。本当にモニターを見るのか、映像としての
モニターを見るのか、それは現に見ている実物のモニターなのか、どっちを指すのか、
という問題があります。たとえば、ピクチャーノイズが出てくるところでは、そこには実
物のモニターを指すことになります。日本語ではわからないけど、英語でA monitorと
言ったときに、実際、モニターがいっぱいトンネル状に見えるわけです。あれは虚像だ
けど、それをA monitor(一つのモニター)といっていいのか。そういう議論もあります。
虚像と現実という、その辺も出しています。 この結論「私はカメラである」とは、ロシア
のジガ・ヴェルトフが撮った『カメラを持った男』(29)と、その映画を作ることによって彼
が主張した映画眼(カメラアイ)に多くを負っています。ですが、そこには差違もありま
す。ヴェルトフが『カメラを持った男』のなかで、カメラのレンズと見開かれた目のイメー
ジを二重写しにして、修辞的な意味で「私はカメラである」と語ったのに対し、僕はそ
れを弁証法的な論理の帰結として示しました。またヴェルトフのサイレント映画の時代
に不可能であった、映像と音の弁証法という観点も僕の作品では試みられています。
要するに、映画の記号学を継承しながら、新しいメディアのなかで何ができるか、とい
うことをやろうとしたんです。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
――普段、映像を見て、ここまで考えさせられるという経験をしていないので、頭が熱
くなってぼんやりした状態になりました。
ええ、そうでしたか。例えば、映像と音の問題ひとつをとっても、普通は映像を補完
するものとしてナレーションが語られ、あるいはナレーションを補完するものとして映
像が示されます。しかし『カメラ、モニター、フレーム』では、映像と矛盾したり対立した
りする文がナレーションによって読まれます。そのようなことに映像を見る人は慣れて
ないので、頭脳としても身体としても非常に戸惑い、疲れるようなのです。
映画を通して考えるという教育もないわけですけど。そこに「A」という言葉がでると、
映像をその言葉の説明だとしか見ない。そこに、映像というものが言葉と違うものとし
て、あるいは対立するものとして、別のことを言おうとしているところまでは誰も見ない。
そういう考え方がないので、それを僕はやろうとしてるんですけど。
――次の『オブザーバ/オブザーブド』も、ビデオカメラ二台とモニターが二台用意さ
れた、『カメラ、モニター、フレーム』と似たようなセットで撮影されていますね。
『オブザーバ/オブザーブド』は「オブザーバ/オブザーブド#1」「見ること/見な
いこと」「彼女は見る/見られる」の三つの細分化された作品から成っています。ビデ
オでは、カメラのオペレーター(撮影者)である以上にメディエーター(介入者)として問
題となってきます。そこにはジガ・ヴェルトフがサイレント映画で追求しようとした「見る
/見られる」という関係が、ビデオではサイレント映画にはない音声や同期性やリア
ルタイム性を加味して、対象とのパラレルな関係をもつことに気がつきました。そうな
るとビデオでは映画撮影の場合とは違い、見る見られる、主体と客体というものが、
固定したものではなく、変換可能なものとして立ち現れてくるのです。
その例を「オブザーバ/オブザーブド#1」を取りあげて、見てみましょう。二組のカ
メラとモニターがそれぞれ向かい合っており、その一方に女性が付き添っています。
最初の女性の顔がアップで映され、目が上下に移動します。それに続いて、カメラが
パンダウンすると、カメラの下にあるモニターに、カメラに付き添う女性の姿が映って
います。このパンによる上下運動は、最初の女性の眼球の動きに対応しています。こ
の女性は「見る」と同時に「見られる」という状態にあります。カメラとモニターの向かい
合った組み合わせを準備すれば、リアルタイムのメディアではない映画とは違って、ビ
デオは撮影者と被撮影者を同時に被写体として映像化することが可能なのです。さら
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
に、カメラとモニターが同一の回路にあって、そのカメラでモニターを撮影すると、無限
反復というか、無限回廊のようなフィードバック現象の起きた映像になります。これも
興味深い現象です。これが映画では不可能な、見る/見られるの関係が変換可能と
なる、いわばビデオの記号学への導入といえるのです。(尚、現代美術のなかで、「見
る」「見られる」関係をとり上げたアーティストにダン・グラハムの八ミリカメラによる
「Body Press」(70-72)があります。)
『オブザーバ/オブザーブド』
――そうなると『オブザーバ/オブザーブド/オブザーバ』はどうなりますか?
『オブザーバ/オブザーブド/オブザーバ』の場合、同じようなカメラとモニターが向
かい合ったセットですが、今度は僕と女性がそれぞれカメラに付き添っています。映
像的には単なるフィードバックではなく、ダブル・フィードバックを使っています。これを
言語化すると、単なる「撮る/撮られる」の関係ではなく、「私は私を撮影するあなた
を見る」と「私はあなたを撮影する私自身を見る」いう複雑に構造化された関係になっ
てきます。言い換えれば、見る者が見られる者を見ると同時に、見られる者が見る者
を見て、立場を入れ替えるということになります。哲学的にいえば、ビデオの閉回路サ
ーキットのなかでは、主体と客体が循環して、相互に交換可能なものとして扱われる
ということなのです。要するに、確固たる主体があるのではなく、「私」という主体が関
係性のなかにあるということを示しています。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
独自の領域を探求する
―― 飯村さんはビデオ・アートによって、コンセプチュアルな芸術表現として、映画や
ビデオが生まれる地点の原理を非常にラディカルに問い直しています。その一方で、
フィルム作品を作り続けており、それらは映画が時間芸術のメディアである、というも
う一つのラディカルな問いを浮上させているように見えます。たとえば「間」というシリ
ーズは、完全なる抽象映画である『Ma(Intervals)』(77)と、京都の龍安寺の石庭を撮り、
具体的なイメージを使った『間:竜安寺石庭の時/空間』(89)という両極端の作品があ
り、これらは映画が持つ時間芸術としての面に注目した、非常に興味深いものになっ
ています。
完全なる抽象映画である『Ma(Intervals)』と京都の龍安寺の石庭を撮り、具体的なイ
メージを使った『間:竜安寺石庭の時/空間』は「両極端」に見えるかもしれませんが、
コンセプトではともに「間」を扱っていることでは共通しています。それぞれの作品は、
別々に作られていて、必ずしもシリーズとして作られていませんが、結果的にひとつ
のテーマで、同じDVDに入っています。その中のメイキングのドキュメンタリーも、コマ
撮りではないが、アニメーションもあって、多様です。多様なリアリゼーションの中で
「間」を考えたものです。他にも触れているように、ゆっくりした移動撮影に間を見るも
のもあれば、スクラッチした一本の走る線に間を見る場合もあります。石を叩いてエコ
ーする余韻の音に聞く間も、サウンドトラックにスクラッチした二つの音のあいだに間
を聞くこともできるでしょう。時/空間を切り離せないある時続性、ベルグソンが「デュ
レー」と呼ぶものと共通しているかもしれません。
『Ma(Intervals)』は七五年から七七年にかけて、ニューヨークに長期滞在していたと
きに制作したものです。フィルムのクロミとスヌケを使っている点では、『1秒間24コマ』
と同じですが、この作品ではこれら二種類と、さらにクロミのフィルムに針によって直
線一本の線を引いたものと、その反対に黒い線をスヌケのフィルムに同じように縦に
引いたものの四種類のフィルム素材を使って構成しました。
『MA(INTERVALS)』はタイトルにもあるように、何かが映っている時間ではなく、その
インターバルにあたる時間の休止部分である「間」についての映画です。画面が真っ
黒なときと真っ白なときがあり、さらに画面のほぼ中央にときどき、白や黒の線が走り
ます。それらを一秒、二秒、三秒ずつで組み合わせました。また音の面では、フィルム
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
のサウンドトラックの部分に傷をつけて、一秒ごと、二秒ごと、三秒ごとに断続音を入
れました。また、一秒の継続音を入れることによって画面と音を同期させました。この
映画を見る人は、画面に線が走らず、音もしない「間」の時間を体験することになるの
です。当時はミニマルな映画だとの評価を受けましたが、僕としては光と闇、断続と継
続という四つの様相によって、グラフィカルなスコアとして構成するという狙いがありま
した。
『Ma(Intervals)』
―― 飯村さんのコンセプチュアル・アートと具体的な映像が、ほどよいバランスで調
和した作品が『間:竜安寺石庭の時/空間』(89)ですね。メトロポリタン美術館とゲティ
財団の共同出資する「プログラム・フォー・アート・オブ・フィルム」の委嘱を受けて、飯
村隆彦と磯崎新による共同作品として一六ミリフィルムで完成された作品です。演出
は飯村隆彦、テキストは磯崎新、音楽は小杉武久となっています。
『間:竜安寺石庭の時/空間』のために資金が出たので、贅沢に撮影できた作品で、
プロのスタッフを使っています。磯崎新さんが「間」をテーマに様々な展覧会をやって
いることを知っていたので、この映画のためにテキストを書いてもらいました。また、音
楽の小杉武久とは旧友ですが、久々に音楽で組みました。京都の右京区にある「龍
安寺の石庭」は幅二二メートル、奥行きが十メートルほどの敷地で、白砂を敷きつめ
たなかに一見、無造作に一五個の石が置かれています。いわゆる枯山水の庭ですが、
禅を体現するものとして外国人にもよく知られています。この『間:竜安寺石庭の時/
空間』を撮影するために、早朝の三時間ほどで石庭を借り切って撮影しました。
――これは難解なテーマに見えますが、飯村さんの『間:竜安寺石庭の時/空間』で
は拍子抜けするほど平易且つ明快に「空間が時間である」ということが映像で表現さ
れていますね。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
龍安寺の石庭は動かない対象であり、すでに多くの写真や映画の対象になってき
ました。そこで、自分が作る映画を見ることで「間」を体験できるようにしよう、と考えま
した。その主な方法となったのが、石と石の間を滑らかに移動撮影する台車を使った
ドリー撮影でした。映画では固定撮影によって空間を提示できますし、移動の早い撮
影ではそこに時間を表現することができます。しかし、時間でも空間でもないものを表
現するにはどうしたらいいのかと考えて、思い浮かんだのだが非常にゆっくりとした移
動撮影だったのです。ただし、人の手でカメラの載った移動台を動かしてしまうと、動
きにムラが出てしまいます。そこでコンピュータに移動台の動きを計算させて、石から
石へ一定のゆっくりとしたスピードでの移動撮影を生み出しました。
動かない石に対してカメラの視点が移動することで、継続する「空間」と同時に観察
者の「時間」の経過を示すことができます。そこに磯崎さんが書いた「庭は瞑想のため
の/装置である/空白を感知せよ/静寂の声を/聞け」といったテキストや、「空虚
の浸透を想え/物ではなく/その間に生まれる/距離を/音ではなく/それが埋め
残した/休止部分を」といったテキストを効果的に配置しました。特に「呼吸せよ/こ
の庭をのみこみ/のみこまれ/合一せよ」という一文は、この映画がまさに「間」の体
験であることをよく表していると思います。『間:竜安寺石庭の時/空間』のように時間
そのものを映画のなかで思考しようとする試みは、案外少ないのではないでしょうか。
『間:竜安寺石庭の時/空間』
―― 次は『視覚的論理(と非論理)』(77)について伺いましょう。記号の視覚的論理
(と非論理)をパンやズームのカメらの制限された運動と結合して示しています。「This
is picture A」「This is not picture A」「Camera paned from A」「Where is A located ?」「A
is A」「A is not A」といったフレーズが用意され、「A」という文字が見えること、見えな
いことをめぐって、フィックス・ショットやパンなどカメラ運動が展開されます。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
一見、矛盾したフレーズを扱っている作品です。あれは、一つにはヴィトゲンシュタイ
ンの本を読んで、ピクチャー理論というのがあり、それに興味を持って僕なりに作った
作品です。文字を直接対象として作った映画というのは、そんなにないでしょう。カメラ
の固定ショットとパンだけで、言葉の論理と非論理を使って撮っています。
映画のなかで論理について考えるという行為に、慣れている人はあまりいないでし
ょう。紙の上で書いた論理は活字として残りますが、映像的なもので論理を展開する
と残らない。時間のなかの論理というものはどんどん消えていきます。前と矛盾するこ
とがあり、その矛盾が発見できるということは記憶の範囲に限られます。スクリーンの
なかでは、前に戻って参照することができないわけです。だからこそ、人は時計のよう
に時間の問題を空間に置き換えようとするんです。記憶と論理の関係が、空間と同じ
ように考えられないということが分かりましたね、この作品を作ってみて。
――その記憶の主題は『私自身に話すこと:現象学的作用』(78)において、さらに探
求が進められていますね。ジャック・デリダが「現象学的な作用」と呼ぶ「I hear myself
at same time that I speak(私は私が話すことを同時に聞く)」という文章を、ビデオで多
様な形式で現実化しています。同時に文では自明とされる二つの「私」が、ビデオで
は必ずしも一致しないことを映像と音声の関係で明らかにしています。
それはロラン・バルトが言っていたことでもあるんですけれど。デリダはそれを取り上
げて、本のなかで思考を展開しています。何かを話すということは声をともなった現象
ですから、それをビデオでやってみる価値はあると思いました。哲学的な存在と非存
在とは違い、声は実際に聞こえる現象なので、何か違う対応を発見しようとしました。
やはり声というのは、自分の声を自分で聞いている、というのは確かにそうですが、そ
れは自分の声であると同時に、他者にもその声が聞こえて、さらにイメージも一緒に
ある。そのなかで言っている「私」と、ビデオ映像を見ている「私」の違いが出てきます。
ビデオに記録されている「私」には、「私」と言っていることを聞く能力はないわけです
から、それを認識できるのはそれを見ている観客としての「私」でしかない。それは常
に見ている観客に返ってくるわけで、そこにしか聞くという体験はあらわれません。そ
れは文章上で言われている「見る私」や「聞く私」と違うものです。読書する私と、現に
映像を見て聞いている私がそれぞれいるわけです。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
『SEEING/HEARING/SPEAKING』
――聞くという行為は他者から見て、本当に聞いているのか分からないところがあり
ますが、話すという行為には他者からもはっきりと分かる行為ですよね。
話すという行為はシンクロしている限りでは見えるものですが、シンクロしていないと
また別になります。サイレント・ボイスという、声には出てこない自分のなかの声という
ものもある。デリダの言っていることですが「つぶやき」です。
――作品のなかでも、口だけが動いていて、音がない映像がありますね。
あれが、つぶやきです。同じことをくり返しているので、見ている人は今度は自分で
フレーズを当てはめるということも可能になってきます。
――おもしろいのがデリダのフレーズを英語で無限ループのようにしてしまうところで
すね。「I hear myself at the same time that I speak to myself at the same time that I
hear
」
それはデリダになかったことで、僕が作ったものです。英語だからできたことですが。
そのなかで僕にわかったことは、デリダのなかでは「話す私」と「聞く私」が同一だとい
うことが、それを円環にした場合には必ずしも同一ではない、ということです。というの
は、話すのと同時に私が聞くことと、聞くのと同時に私自身に話すことでは、ちょっと違
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
うでしょう。ズレが出てくるのです。前者は他者が介入できますが、後者は他者が介
入できず、モノローグになります。謂わば、ダイアローグとモノローグが行ったり来たり
しています。それと「同時に」といってますが、体験としては同時でも、話す文章では二
つの「私」には時間差があります。それも円環にして、よりはっきりしました。
――デリダの思想との関連性のなかで、飯村さんが展開している別のビデオ作品に
ついて、お話を伺ってみましょうか。
『SEEING/HEARING/SPEAKING』(03)というマルチメディア/インタラクティブ DVD
についてです。ジャック・デリダの主要な著書「声と現象」(デヴィット・B・アリスンの英
訳)から引用した一文「I hear myself at same time I speak」に基づいて、飯村さんは最
初のビデオ『Talking to Myself』を七八年に制作しました。ビデオの三作品『Talking to
Myself』(78)、『Talking in New York』(81) 、『Talking to Myself at PS1』 (85)は三部作を
成しており、全部で三三分のシリーズになっています。それに加えて、『Seeing/
Hearing / Speaking』(02)という新しい作品がありますね。
ここで扱っているのは現象学が「本質的な作用」と言っていることです。デリダの場
合は聞くことと話すことをやっていますが、僕はそこに見ることを加えました。聞くこと
と話すことが同時にできることはわかりますけど、それと見ることは、また別の機能で
す。見ることが、必ずしも同じ現象ではないことは理解できるのです。したがって、文
章の形式を変えて、見られると同時に私は見る、ということを言い、そこにフィードバッ
クするイメージを見せています。そのようなパラレルな状態に置くことで「話す私」「聞く
私」「見る私」を繋いでみようとしたのです。そのような映像の試みです。
『Talking in New York』
――具象的な映像としては、飯村さんご自身の目、耳、口、後ろ姿がでてきます。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
あれはドゥルーズの「器官なき身体」という言葉を考えていたんですが、私の場合は
逆に「身体なき器官」と言いたい。目、耳、口などが別々にあって、身体が見えない状
態のことです。それぞれ、「見る」[聞く」「話す」の機能がありますが、それらを統一す
る身体が見えていない。クローズ・アップが全体から隔離されて、それぞれ独立して
機能しながらも、繋がっているのです。例えば口を見ることが「話す」ことに、そこから
耳が確認できないにしても「聞く」ことに繋がり(翻って、モニターの発する言葉を自身
の現実の耳が聞く)、そこにイメージと現実との関係が生まれます。全体として不在の
身体が器官を通して、その存在が意識されます。
――哲学者の名前がいろいろと出てきましたが、やはりそういうものを勉強する必要
があるのでしょうか。
それは私の個人的興味から生まれたことで、他の作家にも適応するかは分かりま
せん。確かに、アメリカで七〇年代に、デリダやバルトの英語の翻訳書を読んでいた
こと、さらにそれ以前からビデオでアイデンティティの問題を考えて『SELF IDENTITY』
(72-74)という映像作品などを作っていたことが結びついて、これらの作品になり、一
方で、映画の記号学の研究から、当然、不在のビデオ記号学の制作へと向かいまし
た。
――メタレベルを含む作品を作っているから、構造が見えてくるという話ですよね。
それはいい解釈かもしれないけれど、必ずしもすべてメタレベルというわけではない
ですね。確かにメタレベルで議論することが、映像を活性化しています。特に日本で
は議論不在、批評不在が二〇年から三〇年続いて、映画批評雑誌や本の出版も極
めて少なく、欧米に比べてそのギャップが大きい。最近やっとこのようなネットのサイト
が生まれてきたことが、希望を持たせます。私も自分のサイトに私自身の批評や他人
のエッセイも含めて載せています。まだ反応は少ないですが、一つには個人レベルの
批評の高まりがあって、全体を押し上げていけたらいいですね。私自身、この半年で
インタービュウだけで、数回を数えて、主にイギリスとアメリカですが、すべてブログを
含め、ホームページに載せています。日/英語、両サイトあり、和訳のないものありま
すが、読んでみてください。ネット時代、日本だけではなく、同時に世界を相手に出来
ることは僕らの二〇代では、予想も出来なかったことです。
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金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
――他の映画作家たちの追随を許さずに、飯村さんだけが映画やビデオの原理的な
地平へ降りていき、映画にとっての時間や空間といった本質的な問題を論文ではなく、
映像で示すことができるのは一体なぜなのでしょう。
昔は、批評は批評で作品は別世界でしたが、というのは作品は言葉を持たないと考
えられましたが、コンセプチャルアート以来、言葉が作品の重要な要素となって、批評
性も併せ持つようになりました。実験映画やビデオ・アートでも、視覚だけの映像主義
というモダニズムから、言葉を含めたポスト・モダニズムへの転回があって、僕のビデ
オ記号学の作品や、デリダの言葉を扱った作品が評価されるベースが出来たと言え
るでしょう。コンセプチャルアートはファインアートのなかだけの主張でしたが、私はメ
ディアアートでも可能であるばかりか、メディアアートには固有の問題があり、メディア
アート固有の作品があることを実際の作品で示してきました。(余談になりますが、メ
ディアアートを漫画、アニメ、デジタルアートに限定して、ビデオ・アートや実験映画の
豊富な世界を見失った文化庁のメディアアート・フェスティバルは日本の文化政策とし
ても、ひとつの大きな過ちを犯していないでしょうか。)
※本稿を作成するにあたり、武蔵野美術大学イメージライブラリーの多大な協力を得ま
したので、ここに御礼を記しておきます。(金子)
※このインタビューは、2011年1月初旬に刊行の『個人映画のつくり方』(アー
ツアンドクラフツ刊)に収録される予定です。
http://www.webarts.co.jp/book/menu/forthcoming.htm
Blog(Japanese)
Blog(English)
http://takaiimura.sblo.jp/
http://takahikoiimua.sblo.jp/
HP(English&Japanese)
http://www.takaiimura.com/
※尚、このインタービュウに出てくる映画とビデオの作品の多くはDVDでお求
めになれます。
<DVD作品のリスト>
http://www.takaiimura.com/ 及び
http://www.takaiimura.com/salej.html
28
金子遊編著「フィルムメーカーズ」アートアンドクラフツ
<ご購入出来るお店>
NADiff a/p/a/r/t
NADiff x10
恵比寿本店
写真美術館・恵比寿
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