第6回 NPOとNGO ●「電子計算機」なんて誰も言わなくなった…… 前世紀の末頃から、日本語の中に、多量のカタカナ語や英字略語が入り込ん で来た。特に情報技術(IT)の世界では、それが目立つように思われる。コ ンピューターやインターネットは初歩的だとしても、TCP/IP、ストレー ジ、HTML、DNSサーバ、パケット通信などになると、何となく慣らされ てはいるが、私を含め、正確な意味を知る人は少数派であろう。かつては、テ レフォンは電話、ステソスコープは聴診器、ニュースペーパーは新聞、コンピ ューターは電子計算機といった具合に、新しく西洋から渡来した文物には、そ れに対応する日本語訳が多く考案されていた。それに対して、今日では、西洋 語のカタカナ表記や頭文字表記が、非常に多く用いられているのである。 常識的に考えれば、日本語を母語とする者にとって、横文字や英字略語より も、日本語表記の方が分かり易いに違いない。事実。電話や聴診器といった翻 訳語は、すでに日本語としての地位を確立し、誰にでも分かり易い単語となっ ている。しかしながら、原語に相応な日本語訳を考案しさえすれば、どんな西 洋語でも意味が明確に伝わるというわけでない。例えば、コンピューターに対 する電子計算機という訳語は、もはや通用性さえ失っていると言えるだろう。 今日では、電子計算機という訳語よりも、コンピューターというカタカナ語の 方が、むしろ分かり易いのである。古い話で恐縮だが、かつて私が通った大学 の構内には、 「大型計算機センター」という名の施設があった。その後どうなっ たのか知らないが、おそらく名前が変わっているに違いない。平成生まれの大 学生たちにとって、 「計算機」という表現は、いわゆる電卓を連想させるもので しかないと思われるからである。 電子計算機だけではなく、乗合自動車や蓄音機、あるいは西洋将棋(チェス) や亜鈴(ダンベル)や希土類(レアアース)、さらにはPTAやBCGといった 語にしても、事情は似たようなものだろう。つまり、カタカナ語や英字略語は、 必ずしも日本語訳より分かりにくいとは言えないのである。その方が、誤訳を 未然に防止し、訳語の古風化を避けるという点では、むしろ好都合かもしれな い。それでも、CI(コーポレートアイデンティティ)、アドボカシー(権利保 護/政策提起)、コンプライアンス(法令遵守)などの新参語は、ほとんど隠語 1 のように聞こえてしまう。 あらゆる言語は一つの体系をなしており、その中から個別の単語を取り出し て他の言語に取り込むことは、それほど容易なことではない。とりわけ、日本 語と西洋諸語との間では、翻訳し難い単語であればあるほど、その取り込みは 困難になる。実際、 「advocacy」を「アドボカシー」にしたところで、ちっとも 分かり易くなっていないだろう。このような語を真に理解するためには、言葉 だけではなく、その背後にある思想や歴史をも知っていなければならない。そ のことを忘れたままカタカナ語や英字略語を濫用すると、誤訳だけは起こらな いかもしれないが、誤解や理解不足は起こり得るのである。 ●マフィアや暴力団もNGO? ここで、NPO(非営利団体)とNGO(非政府組織)という例を挙げて、 こ の 種 の 問 題 を 考 え て 見 よ う 。 た し か に 、 N G O ( Non-Governmental Organizations)を和訳すると、「非政府組織」になろう。だが、 「非政府組織」 という日本語のみに注目すると、単に政府以外の組織だということになるし、 「反政府組織」との混同も起こりかねない。事実、字義どおりに解釈すれば、 マフィアや暴力団も「非政府組織」であるに違いないのだ。同様に、NPO (Nonprofit Organization)を「非営利団体」と直訳すると、そこに地方公共 団体も含まれることになってしまうだろう。なお、英語圏では「 Nonprofit Organization」をNPOと略すのは稀で、むしろ「Non-profit」と短縮される 場合が多い。 何にせよ、誤訳を防ぐという観点に立てば、「非政府組織」や「非営利団体」 という表現よりも、NGOやNPOといった英字略語も用いる方が、むしろ好 都合だと言えるだろう。しかし、それで中身が正確に理解されるわけではない。 日本語と縁遠い西洋語の単語の場合、とりわけ抽象的な内容を伴う際には、一 つの単語だけを個別に取り出して理解することは難しく、その語の背後にある 歴史や思想に照らして考えることが不可欠なのである。逆もまた、同じかもし れない。極端な話、日本語の全体像や日本の文化を知ることなしに、「水商売」 という語を単純に英訳すれば、「ウォータービジネス」になってしまうだろう。 これは、悪い冗談とは言い切れない。思い起こせば、 「質量作用の法則」にして も、極めて単純な直訳だったのである。 2 ●NPOはアメリカ起源、NGOはヨーロッパ起源 では、NPOやNGOといった英字略語は、どうであろうか。たしかに、N P O ( Nonprofit Organization ) を 「 非 営 利 団 体 」 と 和 訳 し 、 N G O (Non-Governmental Organizations)を「非政府組織」と和訳することは、決 して誤りではない。むしろ、字義に忠実な直訳だと言えよう。だが、両者は具 体的にどう違うのか。非営利の非政府組織など、いくらでもある。例えば、ア ルカイーダはどうであろうか。あれが政府組織であるわけはないし、もちろん 営利活動を旨とする団体でもない。いずれにせよ、日本語を母語とする者は、 横文字でNPOやNGOと言われても分かりにくいし、 「非営利団体」や「非政 府組織」という訳語を示されても、その正確な意味を知ることはできないので ある。そもそも、両者はどう違うのだろうか。 これら両語の違いを理解するにためには、それぞれの語の背後にある諸事情 を知っておくことが不可欠だ。結論から先に述べると、NPOはアメリカ起源 のコミュニティー型団体で、NGOはヨーロッパ起源のソサエティー型組織な のである。つまり、コミュニティー(共同体)とソサエティー(社会)との違 いを抜きにして、NPOとNGOの違いを語ることは出来ないのだ。もちろん、 その背後には、歴史的な事情も存在する。それにもかかわらず、日本では、N POとNGOが、かなり類似したものだと受け取られる傾向が強い。この事例 もまた、日本語を母語とする者の宿命なのであろう。 ●NPOとアソシアシオン まず、 「NPO」という略語の説明から始めよう。朝日新聞社の『知恵蔵』 (冊 子版)に「NPO」という語が登場するようになったのは、一九九五年度版か らである。ただし、このときは巻末の略語一覧に小さく載っただけであった。 つまり、「GDP」が「国内総生産」であるのと同様、「NPO」が「民間非営 利組織」だというわけである。その後、一九九七年版では「最新ホットワード」 という特集で採り上げられたものの、翌年版では再び略語一覧にしか載らなか った。そして、一九九九年度版において、晴れて通常項目の一つにつけ加わっ たのである。ただし、「NPO」という語が載ったのは、「NPO・市民社会」 という部門ではなかった。それは、 「アメリカ」という部門の一項目に含まれて いたのである。要するに、NPOとは、もともと特殊アメリカ的なものなのだ。 だが、いつの間にか、 『知恵蔵』の「NPO」という項目から、アメリカという 3 文字は消えている。ともあれ、一九九九年版にはじめて載った「NPO(非営 利組織)」の項目を読んでみよう。 入植時代、開拓時代以来の自助の精神に立脚した、ボランティア活動を担 う非営利組織。貧困、差別、福祉、環境など、アメリカ社会の抱える問題 に立ち向かい、弱者を支える役割を積極的に担っている非営利組織の活動 は、 「小さな政府」実現の過程で削減されがちな公共サービスを補完する機 能を結果的に果たしていることになる。日本でも、一九九八年一二月より 特定非営利活動促進法(NPO法)が施行されるが、NPOがはたしてア メリカのように、公共サービスに深くかかわり、社会を取りまとめる重要 な役割を担うようになるのかどうか、今後の展開が注目される。 この説明を読めば、 「NPO」がアメリカ起源のコミュニティー型団体である ことが明確に理解できよう。日本のNPOにしても、 「はたしてアメリカのよう に」なれるか否かが注目されていたのである。実際、アメリカでは、古くから NPO型の活動が盛んであった。例えば、フランス人のA.トクヴィルは、一 九世紀前半のアメリカについて、次のように描写していたのである。 アメリカ人は年齢、境遇、考え方の如何を問わず、誰もが常に団体をつく る。商工業の団体に誰もが属しているだけではない。ありとあらゆる結社 が他にもある。……病院や刑務所や学校もまた、同じようにしてつくられ る。……新たな事業の先頭に立つのは、フランスならいつでも政府であり、 イギリスならつねに大領主だが、合衆国ではどんな場合にも間違いなくそ こに結社の姿が見出される。(『アメリカのデモクラシー』題二巻(上)松 本礼二〔訳〕岩波文庫) 上の引用に登場する「団体」および「結社」の原語は、ともに「association (アソシアシオン)」というフランス語である。このアソシアシオンは、非営利 の民間団体で、フランスのNPOと呼ばれることも多い。ただし、トクヴィル がアメリカを訪れた一八三一年〜三二年当時、フランンスでは、アソシアシオ ンの結成が厳しく制限されていた。私的な団結、とりわけ特定の仲間だけの団 結は、国民の間に分裂や対立を生じさせる要因だと見なされていたからである。 一八一〇年のナポレオン刑法でも、 「アソシアシオンを設立すること」は、明確 に禁止されていた。フランスの場合、 「公共サービス」は全員を対象とするもの である以上、あくまでも公が担うのが原則なのである。この原則は、革命期に 端を発するもので、二一世紀に入っても基本的に変わっていない。 4 フランスにおいて、いわゆる「アソシアシオン法(Loi du 1 juillet 1901 relative au contrat d'association)」が成立し、アソシアシオンの存在が法 認されたのは、ようやく一九〇一年七月にことであった。この「アソシアシオ ン法」は、しばしば「フランスNPO法」と“和訳”される。もちろん、それ が誤訳であるというわけではない。実際、アソシアシオンもまた民間の非営利 団体なので、日本語の字義どおりに解釈すれば、それも一種の「NPO」に違 いないのだ。しかしながら、民間かつ非営利という基準だけで判断すると、同 窓会や親族会でもNPOに含まれることになろう。 英語の「NPO(Nonprofit Organization)」にしてもフランス語の「アソシ アシオン(association)」にしても、その意味を日本語で表現することは極め て難しい。これらの西洋語は、それぞれに固有の背景事情や歴史的経緯から切 り離して理解することが出来ないからである。となると、アルファベット略語 やカタカナ語を用いたところで、分かりにくいという点では同じであろう。ま あ、フランス語の「association」をカタカナ語の「アソシアシオン」に置き換 えるだけなら、絶対に誤訳は起こらないだろうが、ただそれだけのことに過ぎ ない。 なお、フランスのアソシアシオンは、 「削減されがちな公共サービスを補完す る」ものではなく、スポーツや芸術や旅行や読書や趣味など、私的な自己充足 を目的とする活動を中核としている。たしかに――とりわけ近年では――環境、 移民、差別、失業、労働、人権などを巡る社会問題に取り組む団体も増えて来 た。それでも、アソシアシオンは、固有の意味での「公共サービス」に取って 代わる存在ではい。むしろ、いちいち国家が取り扱わない事柄や、公的機関の 対応が間に合っていない新しい事柄などに関わることを主眼としているのであ る。この点でも、フランス型のアソシアシオンは、同じ非営利団体でも、アメ リカ型のNPOとはかなり性格が異なっていると言えよう。 ●NGOは国境をも超える 先述の通り、NPOがアメリカ起源のコミュニティー型団体であるのに対し、 NGOの方はヨーロッパ起源のソサエティー型組織である。その代表例として 広く知られているのは、一八六三年に創設された赤十字国際委員会(ICRC) であろう。実際、この組織は、現代のNGOの直接的な原点である。一八五九 年のソルフェリーノの戦いに衝撃を受けたスイス人実業家のアンリ・デュナン 5 が、一八六三年二月にジュネーブで「五人委員会(Comité des cinq)」を開き、 それを元に、翌一八六四年五月、「戦傷兵救済国際委員会(SSBM : Société de secours aux blessés militaires)」が結成され、これが後の赤十字国際委員会 になったのである。 だが、赤十字国際委員会は、スイスの国内法に基づいて設立された団体なの で、今日的な定義から見れば、純然たるNGOとは言い難い面も少しある。む しろ、今日では、国境なき医師団(Médecins sans frontières/ MSF)や国境 なき記者団(Reporters sans frontières/ RSF)、あるいは放射線防護協会 (Gesellschaft für Strahlenschutz/GS)などの方が、典型的なNGOの例と して分かり易いだろう。スイスのローザンヌに本部を置く国際五輪委員会(I OC)もまた、大規模なNGOの一つだ。 なお、NGOの前史的な始祖を特定することは困難だが、一九世紀前半のヨ ーロッパには、その萌芽が既に見られたと言われている。また、現代的なNG Oの先駆的な存在としては、一八七三年にベルギーのヘントで設立された万国 国際法学会(Institut de droit international)、一八八九年にパリで結成さ れた列国議会同盟(Union interparlementaire)、一八九二年にスイスのベル ンで設立された常設国際平和局(Bureau international de la paix)などが挙 げられるだろう。ただし、NGOという語が一般化するのは、一九四五年に制 定された国際連合憲章(第七一条)の中に、その名が登場して以後のことであ る。 フランスの場合、一九〇一年七月に「アソシアシオン法」が制定され、私的 な団結が許可される以前から、NGO的な活動の方は禁止されていなかった。 歴史的に見ても、赤十字国際委員会は、既に普仏戦争(一八七〇年)の際にも 活躍していたのである。つまり、NGO型の団体は、いわゆるコミュニティー を形成する存在だとは見なされていなかったということであろう。実際、赤十 字国際委員会にしても国境なき医師団にしても国際五輪委員会にしても、NP Oとは異なり、 「削減されがちな公共サービスを補完する機能」を担うものでは ない。そうではなくて、まさに――しばしば国境を越えて――赤の他人と連帯 することを主眼に置いているのである。 ●「非営利」「非政府」で正しいのだけれど…… NGOもNPOも、非政府かつ非営利の民間組織であるという点では、ほと 6 んど違いはない。実際、国際連合憲章の公式日本語訳では、NGO (Non-Governmental Organizations)が「民間団体」と表現されている。もち ろん、これが誤訳だというのではない。どう和訳したところで、この語の中身 を日本語で伝えることは不可能なのだ。異言語間の翻訳を困難にする原因は、 言語体系の違いだけにあるのではない。事実、 「Non-Governmental」を「非政府」 と訳し、「Nonprofit」を「非営利」と訳すことは、容易であると同時に極めて 妥当であり、それらの訳語によって、言葉上の意味は充分に伝えることができ る。誰がどう考えても、「Non-Governmental」の訳語は「非政府」で合ってい るだろう。 単に言葉として翻訳するのは容易な単語でも、その意味を異言語で表現する ことは、時として非常に難しい場合がある。NGOやNPOは、その典型的な 事例に属する。しかし、和訳が困難だからといって、アルファベット略語やカ タカナ語を用いたところで、誤訳から逃れるだけで、真の問題は解決しない。 日本語を母語とする我々からすれば、NGOもNPOの違いは、「G」と「P」 だけなのだ。この両語の意味を理解するためには、NPOがアメリカ起源のコ ミュニティー型団体で、NGOがヨーロッパ起源のソサエティー型組織だとい う背景事情を知っていなければならないし、コミュニティーとソサエティーの 違いも知っている必要があるだろう。これもまた、広い意味での日本語の宿命 なのである。 しかし、日本語の宿命は、絶望的なものではない。たしかに、簡単には和訳 できない西洋語、和訳しても意味が伝わらない西洋語は、非常に多く存在する。 それでも、その事実をしっかりと自覚した上で、たとえ長くなろうとも充分な 説明を積み重ねれば、かなりの意味伝達が可能だと思われるのである。少なく とも、その努力だけは放棄してはならないだろう。 7
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