ことを建物としての歌劇場と限定すれば、パリのオペラ座は、数ある欧米の歌劇場のなかでもとび ぬけて有名なものといえるにちがいない。その一八七五年に完成した壮麗な建物は、パリという大都 市のほとんど中央といっていい位置に建っている。パリを訪れて、オペラ座を目にしないですごすこ とは、おそらく不可能である。 かつて、作曲家のドビュッシーは、パリのオペラ座の建物について、 「まるで鉄道の駅のようではな いか」、と悪口をたたいた。しかし、オペラ座正面の威風堂々たる構えなどは、歌劇場をもたない東洋 の島国から訪れた旅人に、ああ、これがオペラハウスというものか、とおもわぜるに充分なものであ る。その意味で、パリのオペラ座は、歌劇場といわれる建物の典型のひとつたりえている、とおもう。 パリのオペラ座は、外部のみならず、内部もまた、壮麗きわまりない。正面から足を踏みいれると、 目の前に、ことのほか大きく、立派な階段があり、それをのぼっていくと、宮殿の一室とみまごうば かりのロビーにたどりつく。昔は、オペラハウスが、ただ単にオペラを楽しむためだけの場所ではな く、社交場としても機能していたということを思い出させずにおかない、パリのオペラ座のロビーで ある。ロビーだけではなく、パリのオペラ座では、考えられるかぎりの場所が、これでもかこれでも かといった感じで飾りたてられている。 パリのオペラ座の内部のあちこちをみてまわり、はじめのうちは、凄い、これぞオペラハウスと感 嘆の声をあげていたものの、やがて、量が多すぎ、しかも脂っこすぎる彼の地の料理に辟易したとき に似た気分になってくる。しかし、そのように過剰に装飾された建物が、他でもないオペラのための 器であることに気づけば、おのずと、オペラという、ヨーロッパだけにはぐくみえた舞台芸術のよっ てたっているものにもおもいがいたるにちがいない。 いずれにしろ、パリのオペラ座は、オペラのための器として出色のものである。しかしながら、歌 劇場というものは、いかに器だけ立派であっても、そこにもられる料理が美味しくなければ、なんの 意味もない。その料理の点で、パリのオペラ座には若干の問題があった。 一九七一年に、スイス出身の作曲家ロルフ・リーバーマンが監督として就任して、パリのオペラ座 は、一時、活況をていした。たしかに、リーバーマン時代のパリのオペラ座では、すべてが成功した とはいいがたかったものの、いくつかの意欲的な公演がおこなわれたりもした。そのために、 「リーバ ーマン時代のパリのオペラ座」、とでもいうべき内容の、当時の舞台写真や上演記録を記載した分厚い 写真集が出版されているほどである。しかし、一九八〇年に、リーバーマンが監督の地位をしりぞき、 パリのオペラ座はふたたび低迷期をむかえた。 そして、一九八九年七月に、バスティーユの新オペラ座がこけらおとしをおこなったことで、パリ のオペラ座は、実質的にオペラハウスとしての生涯をとじた。 舞台機構等でも最新の技術がつかわれていたりするのであろうし、新しい歌劇場には新しい歌劇場 ならではのよさがある。しかし、古い歌劇場の内部には、長い歳月、劇場として生きてきた建物なら ではの、独特の空気がただよっている。古い、由緒のある歌劇場に身をおいていると、かつて、そこ でうたった歌い手のことであるとか、そこでおこなわれた公演のこととか、さまざまなことが頭をよ ぎり、自分も歴史の一頁に参加しているような錯覚をおぼえる。 パリのオペラ座は、そのような楽しみを味わわせてくれる代表的なオペラハウスのひとつであった。 むろん、落成間もないバスティーユの新オペラ座では、過ぎた栄光の過去をしのべるはずもない。 残念なことに、第二次対戦後、多くのオペラ好きは、ウィーンの国立歌劇場やミラノのスカラ座、 あるいはロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場やニューヨークのメトロポリタン歌劇場のことを 頻繁に話題にしても、ごく稀にしかパリのオペラ座には興味をしめさなかった。そして、パリのオペ ラ座は、その壮麗な建物を残したまま、オペラハウスとしての幕を閉じてしまった。 たしかに、パリのオペラ座には、コヴェントガーデン王立歌劇場の二倍にもあたる一一〇〇人もの 労働者をかかえこんでいた、といったような運営面での問題点があったりもした。あれやこれやで、 建物だけを残して、オペラハウスとしては息たえざるをえなかったパリのオペラ座の例は、現代にお けるオペラそのもののあり方の難しさを暗にしめしているようでもある。
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