オリンピック会議(1905 年、ブリュッセル)への招待状と日本

体育史専門分科会 2006 年度春の定例研究会(2006 年5月 27 日、立命館大学)
オリンピック会議(1905 年、ブリュッセル)への招待状と日本
和田 浩一(神戸松蔭女子学院大学)
I.問題の所在
日本の外務大臣が駐日ベルギー公使からオリンピック会議(1905 年、ブリュッセル)への招
待状を受け取っていたことは、これまでのオリンピック史研究において指摘されたことはない。
本発表では、この招待状がいかなる経緯で日本に届いたのかを明らかにし、この事実をオリ
ンピック史上に位置づける。
オリンピック会議に関する主な先行研究は、以下の通り。
1.Müller, Norbert (1994). Cent ans de Congrès Olympiques 1894-1994, Lausanne : CIO.
2.CIO (Ed.) (1994). Un siècle du Comité International Olympique : l'idée, les présidents,
l'oeuvres, vol. I, Lausanne : CIO, pp. 92-95.
II.史料
この研究で注目すべき主な史料は、以下の2点である。
1.フランス外務省ロベール・ド・ビリーのピエール・ド・クーベルタン宛書簡:1905 年2月
6日付、IOC史料館所蔵 【7】
【 】は画像の番号
2.駐日ベルギー公使アルベール・ダヌタンの外務大臣小村寿太郎宛書簡:1905 年5月
29 日付、外務省外交史料館所蔵 【1】
III.オリンピック会議(1905 年、ブリュッセル)と日本の参加
オリンピック会議(Congrès Olympique)は、ピエール・ド・クーベルタン(Pierre de Coubertin,
1863-1937)のイニシアチブによって不定期に企画・運営されたオリンピック運動推進のため
の私的会議であり、毎年定期的に開かれたIOC総会(Réunion, Session)とは区別される。
1905 年6月9日から 14 日までブリュッセルで開かれたオリンピック会議のテーマは、「スポー
ツと体育に関する諸問題の検討」であった【表1】。クーベルタン
1) 2)
とミュラー3) は、会議に
は「21 ヶ国 205 名」が参加したと述べているが、この中に日本(人)は含まれていない。
オリンピック会議への参加者は五つのグループ――1)政府関係、2)スポーツ連盟関係、
3)スポーツ協会関係、4)大学関係、5)小学校・中学校関係――に分類される。ベルギー
外務省はこのうちの「1)政府関係」について、招待状の送付を担当した。
会議への「参加者」とは、「ブリュッセルに集まった」者とテーマに関する報告書を提出した
1
者とを指している。クーベルタンは 21 ヶ国の具体的な名前を挙げていない。
クーベルタンは二つの回想録
4) 5)
で、会議への招待状がベルギー公使館を経由して各
国政府に届けられるようになったことを記しているが、そのいきさつと日本への言及はない。
4) 「ベルギー外務省の配慮により、公式招待状は(各政府に)届けられた」
5) 「1904 年 10 月7日、個人的に知り合いだったベルギー首相ド・スメ伯爵は、外務担
当の同僚がベルギー公使館を通して招待状を届けさせることに同意したと伝えて
きた」
外務大臣小村寿太郎(1855-1911)は、駐日ベルギー公使アルベール・ダヌタン(Albert
d'Anethan, 1849-1910)からブリュッセル・オリンピック会議への招待状(1905 年5月 29 日付書
簡に同封)を受け取っており、これはまさにクーベルタンが記したルートを通じてであった。
小村は文部大臣久保田譲(1847-1936)に6月 13 日付書簡を送り、「右(オリンピック会議)ハ
既ニ開会中ニ有之此度委員派遣ノ運ニ難重トハ存候」【2】と伝えた。
IV.招待状発送までの経緯
オリンピック会議(1905 年、ブリュッセル)関係ファイル(IOC史料館)に保存されている史
料の分析によって、次の2点が明らかになった。
1.招待状の各国政府への発送は、クーベルタンの依頼によりベルギー外務省が各国
の公使館を通して行った。
2.発送先はクーベルタンと個人的な人脈がある国の政府ではなく、公教育省をもつ国
の政府であった。1871 年以来、文部省をもっていた日本は、これに該当した。
1904. 9. 5
クーベルタン、ベルギー首相ド・スメ・ド・ナイエ(de Smet de Naeyer)に「招待状
をベルギー公使館を通して各国公教育省に送付するよう」依頼する。
9.14
ナイエ首相、クーベルタンに「自分としては、問題ない」こと、この件について外
務大臣に同意を求めることを知らせる。
9.19
10. 5
ナイエ首相、外相に書簡を送り、クーベルタンの要望を彼に委ねる。
ベルギー内務大臣兼公教育大臣(外務大臣は休暇中)、ナイエ首相にクーベ
ルタンの要望を承諾したこと、招待状を送付する各国政府のリストの作成をク
ーベルタンに求めることを書簡で伝える。
10. 7
ナイエ首相、クーベルタンに 10 月5日付書簡のコピーを送る。
?.?
クーベルタン、フランス外務省に公教育省をもつ外国政府のリストを求める。
1905. 2. 6
フランス外務省ロベール・ド・ビリー(Robert de Bily[?])、依頼されていた発送先
リストをクーベルタンに送付する。
2
2.25
?.?
4. 6
クーベルタン、各国政府首相宛の招待状を作成する。
クーベルタンベルギー外務省に招待状の送付先リストを送る。
ベルギー外務大臣、クーベルタンから提出されたリストに従い、オリンピック会
議への招待状とプログラムを各国政府に送るように指示する書簡を各公使館
に送付する。
5.19.
駐日ベルギー公使ダヌタン、夫人と尾道・宮島への旅行に出発する。
5.25. ダヌタン、夫人とともに宮島から京都に移動する。
5.27. 日本海海戦(−5.28.)。 ダヌタン、夫人とともに京都から横浜に移動する。
5.29. ダヌタン、東京に到着する。外務大臣の小村に書簡を送り、オリンピック会議へ
の招待状を同封する。2点の添付書類(2 annexes)は、おそらくクーベルタン作
成の招待状とプログラム。
5.31. 小村、駐米公使へ訓令する。「ルーズベルトによる日露講和の斡旋願い」
6. 6. 小村、駐日アメリカ公使からルーズベルトの公文章を受け取る。
6.13. オリンピック会議に関する小村の久保田宛文章が起草される。
史料
1.ベルギー首相ド・スメ・ド・ナイエのクーベルタン宛書簡(1904 年9月 14 日付)【3、4】
2.ベルギー内務大臣兼公教育大臣フルーのナイエ宛書簡のコピー(1904 年 10 月5日
付)【5、6】
3.ナイエのクーベルタン宛書簡(1904 年 10 月7日付)
4.フランス外務省ロベール・ド・ビリー[?] のクーベルタン宛書簡(1905 年2月6日付)【7】
5.クーベルタンの各国首相宛招待状の下書き(1905 年2月 25 日付)【8、9】
6.ベルギー公使館(ローマ)ナイエのベルギー外務大臣ファヴロー宛書簡(1905 年5月
25 日付)【10】
※.史料1∼6: IOC史料館(ローザンヌ)所蔵
7.駐日ベルギー公使アルベール・ダヌタンの小村寿太郎宛書簡(1905 年5月 29 日付)
【1】
8.外務大臣小村寿太郎の文部大臣久保田譲宛書簡の下書き(1905 年6月 13 日付)【2】
※.史料7∼8: 外交史料館(東京)所蔵
参考.エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著、長岡祥三訳『ベルギー公使夫人の明治日記』中
央公論社、1992 年、pp. 365-371.
V.各国政府のオリンピック会議(1905 年)への対応
発送先リストへの掲載の有無(A)、クーベルタンまたはベルギー外務省への返答(上記フ
ァイルに所蔵)の有無(B)、ならびに報告書の参加者名簿
3
6)
(C)から、各国政府のオリンピ
ック会議への対応状況を以下の5通りにまとめた。
(1)A:掲載あり、B:返答あり、C:出席
=
13 政府
(2)A:掲載あり、B:返答あり、C:欠席
=
8政府
(3)A:掲載あり、B:返答なし、C:出席
=
8政府
(4)A:掲載あり、B:返答なし、C:欠席
=
14 政府
(5)A:掲載なし、B:返答なし、C:出席
=
2政府
【 → 表2】
日本は(4)に該当する。確定的な証拠はないが、(4)の他の 13 政府にも日本と同様に招
待状が送付されていたと推測できる。その根拠は、クーベルタンが、オリンピック運動との関
わりをその後ももつことがなかったシャム政府――クーベルタンの生存中(−1937 年)にIOC
委員を出すことがなかった――にまで、招待状を送っていたという事実である。
「……ブリュッセルで開かれるスポーツ・体育国際会議にシャム政府からの代表を招待
するという、貴殿の先の2月 25 日付書簡にお答えして……」 【12】
(シャム外務大臣のクーベルタン宛書簡:1905 年6月8日付、IOC史料館所蔵)
VI.結論
アテネ中間大会(1906 年)への招待状が日本体育会に届く半年以上前に小村外相が受
け取ったオリンピック会議(1905 年)への招待状は、クーベルタンの依頼によりベルギー外務
省が公使館を通して送付したものであった。招待状の送付先はフランス外務省が作成した
「公教育省をもつ国」のリストに掲載された政府であり、日本への招待状にクーベルタンの特
別な意図はなかった。
◎ アテネ中間大会(1906 年4月 22 日∼5月2日)への招待状とプログラム:
・ SPYR. P. Lambros の山根正次(日本体育会監事)宛書簡(1905 年 11 月 24 日付)
→ 「「アラン」に於る萬國「オリンピア」の遊戯」『體育』第 147 号、1906 年2月 25 日、
pp. 47-51.
VII.文献
1.CIO (Ed.) (1905). Congrès International de Sport et d'Education physique, Textes Choisis,
tome-II, p. 215.
2.Coubertin, Pierre de (1909). Une campagne de vingt-et-un ans. Textes Choisis, tome-II, p.
207-208.
3.Müller, Norbert (1994). Cent ans de Congrès Olympiques 1894-1994, p. 69.
4.Coubertin (1909). op. cit., Textes Choisis, tome-II, p. 208.
5.Coubertin, Pierre de (1931). Mémoires olympiques, p. 74.
6.CIO (1905). op. cit., pp. 10-14.
4
1
2
3
4
5
6
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8
9
10
11
12
1
表1.オリンピック会議の開催年・開催場所・テーマ・参加者数
月 日
場 所
参 加 者 数
テ ー マ
アマチュアリズムの原則の研究と普及
オリンピック協議会の復興
9ヶ国
IOC加盟国
78名
1
1894年6月 パリ
2
1897年7月 ル・アーブル 身体訓練と結びつく衛生・教育学・歴史ほか
10ヶ国 約60名
13ヶ国
3
1905年6月 ブリュッセル スポーツと体育に関する諸問題の検討
21ヶ国
205名
18ヶ国
4
1906年5月 パリ
芸術と文学とスポーツの融合
10ヶ国 約60名
21ヶ国
5
1913年5月 ローザンヌ
スポーツ心理学とスポーツ生理学
9ヶ国 約100名
31ヶ国
6
1914年6月 パリ
オリンピック・プログラムの統一と参加資格
29ヶ国 約140名
32ヶ国
7
1921年6月 ローザンヌ
オリンピックのスポーツ・プログラムの変更と参加資格 23ヶ国
78名
調査中
8
1925年6月 プラハ
オリンピック教育学会議
62名
調査中
21ヶ国
(12ヶ国)
下記の資料から和田が作成した。
1. Müller, Norbert (1994). Cent ans de Congrès Olympiques 1894-1994, Lausanne : CIO.
2. CIO (Ed.)(1994). Un siècle du Comité International Olympique : l'idée, les présidents, l'oeuvres, vol. I,
Lausanne : CIO, pp. 92-95.
2
表2.オリンピック会議(1905年、ブリュッセル)への招待に対する各国政府の対応
返 出
答 欠
Bily 作成のリスト(公教育省をもつ国、1905年2月6日付)への掲載
あり
なし
(1) 13政府
(5a) 1政府
出
ベルギー、アメリカ、フランス、ギリシャ、イタリア、メキシコ、オランダ、スェーデン、
席
カナダ
アルゼンチン、ボリビア、モンテネグロ、ノルウェー、ルーマニア
あ
り
(2) 8政府
欠
席 ザクセン、ヴュルテンベルグ、デンマーク、スペイン、セルビア、シャム、ブルガリ
ア、エジプト
な
し
(3) 8政府
出
イギリス、クイーンズランド、ヴィクトリア、ハンガリー、ニュージーランド、南アフリ
席
カ、トルコ、スコットランド
43 政府
IOC史料館所蔵の以下の史料から和田が作成した。
1.フランス外務省官房 Robert de Bily [?] のクーベルタン宛書簡(1905年2月6日)
2.カナダ(差出人不明)のクーベルタン宛書簡(1905年3月25日)
22政府
(5b) 1政府
アルジェリア
23政府
(4) 14政府
欠 バイエルン、プロイセン、南オーストラリア、ニューサウスウェールズ、タスマニア、
席 西オーストラリア、オーストリア、ブラジル、チリ、インド、日本、ペルー、ポルトガ
ル、アイルランド
計
計
2 政府
※.ゴチック体はIOC加盟国
注1.(ザクセン、ヴェルテン
ベルグ、バイエルン、プロイ
セン)をドイツと見なす。
3.モンテネグロ外務大臣 N. G. Noucovity [?] のクーベルタン宛書簡(1905年4月1/14日) 注2.(クイーンズランド、ヴィ
クトリア、南オーストラリア、
4.アメリカ教育審議官 W. T. Harris のクーベルタン宛書簡(1905年5月11日)
ニューサウスウェールズ、タ
5.ベルギー外相 Favereau のクーベルタン宛書簡(1905年6月5、6、9、10、19、23日付)【11】 スマニア、西オーストラリア)
6.シャム外務大臣 Darwongse [?] のクーベルタン宛書簡(1905年6月8日)
7.CIO (Ed.) (1905). Congrès International de Sport et d'Education physique, pp. 10-14.
をオーストラリアと見なす。