2016.11.23 配布資料 - 京都大学大学院 ドイツ文芸表象論 奥田研究室

2016 年 11 月 23 日
思想文化論 研究報告会
松波烈(文芸表象論)
博士論文の構成
題 文芸表象における不自然の優位―近現代ドイツ文学の事例研究―
前半 ドイツ語ヘクサメタ
– C・ゲスナー、Cl・クライユス、J・Chr・ゴットシェート、E・Chr・v・クライスト、J・Fr・v・ツァハリエ、
J・P・ウツ、J・Fr・v・クローネク、Fr・v・ゾネンバーク、J・L・ピュルカー、ヘルダー、ヴィーラント、
ゲーテ、シラー、ヘルダーリン、ギュンダーローデ、メーリケ、ヘッベル、M・デニス、L・G・Tr・コーゼ
ガルテン、K・ラッペ、V・W・ノイベック、J・G・ゾイメ、Chr・L・ノイファー、G・ハオプトマン、
等々々々が担ってきた、300 年以上に渡る大ドイツ語 Hexameter の1 傍系研究
第 1 章 人工的な音韻空間におけるヘクサメタ①
ドイツ擬古詩学の意味主義的音律学 + 18~19 世紀ドイツ語音節音量(Quantität)理論
– クロプシュトック(1724–1803)、モーリッツ(1756–1793)、J・H・フォス(1751–1826)、Chr・ガル
ヴェ、Fr・H・ボーテ、Fr・ビュトナーの理論
– „die Rigoristen“:F・A・ヴォルフ(1759–1824)、W・フンボルト(1767–1835)、W・シュレーゲル
(1767–1845)、プラーテン(1796–1835)の詩作
第 2 章 人工的な音韻空間におけるヘクサメタ②
...
⏑ ‒ ⏑語脚)の排撃の歴史、力動的音韻観
弱く且つ頻出する=最も自然な音声リズム(
– クロプシュトック、フォス、G・リーベック、G・Fr・グローテフェント・K・W・L・ハイゼ、Th・ヘンジ
ウスの発言
– „die Rigoristen“の詩作
第 3 章 J・H・フォス(1751–1826)の詩学と実践―「暴力」リズムの構築―不自然な詩学の怪物
– クロプシュトック、W・シュレーゲルとの決別
– ホメロス、ウェルギリウス、ホラティウス、クインティリアヌス、ハリカルナッソスのディオニュシオス
後半 さらなるケーススタディ
第 4 章 H・v・クライスト(1777–1811)の『マリオネット劇場論』の超テキスト性
–
自然 体 不自然の対立を直接直截に論じたテキスト
..
..
.. ..
– 参照枠:日独の研究者として、大衆文芸たる『マリオネット劇場論』として、或る日本の大衆表象文化
第 5 章 現代前衛芸術具体詩①言語の本然(Natur)の臨界突破の事例
ロードスのシンミアス、V・H・C・フォルトゥナトゥス、(フ)ラバヌス・マウルス、Ph・v・ツェーゼン、J・
クラージュ、S・v・ビルケン、グライフェンベルグの C・レギーナ、Th・コルンフェルト、J・ヘルヴィク、
G・ハーバート、F・プレシェーレン、G・アポリネール、Chr・モルゲンシュテルンの描画詩
フォス、D・v・リーリエンクローンの韻律パロディー詩
E・ヤンドル(1925–2000)、G・リューム(1930–)、C・ブレーマー(1924–1996)の具体詩
第 6 章 現代前衛芸術具体詩②思考の本然(Natur)の臨界突破の事例
コンスタンツ大学語学教育研究所、韓国外国語大学校、オーストリアのケルンテン州で行われた教育プロ
ジェクト、プラハでの DaF 授業、ニューデリーのゲーテ・インスティトゥート、ノルトライン=ヴェスト
ファーレン州デュッセルドルフ行政管区フィアゼン郡ジュヒテルンにあるグリム兄弟学校、テュービンゲン
大学の大学病院の「書き方教室」プロジェクト、に見る具体詩の実践
R・O・ヴィーマー(1905–1998)、E・ヤンドル(1925–2000)、E・ゴムリンガー(1925–)の具体詩
2016 年 11 月 23 日
思想文化論 研究報告会
松波烈(文芸表象論)
H・v・クライストの『マリオネット劇場論』 (Über das Marionettentheater)の超テキスト性
(摘要)
『マリオネット劇場論』というテキスト
Marwyck に倣い ÜdM と略記 。
Heinrich von Kleist ……………………………………… de Man に倣い K と略記。
某 C 氏 ………………………………………………………… de Man に倣い C と略記。
マリオネット ……………………………………………… 長すぎるから M と略記。
Über das Marionettentheater ………………………
<ÜdM の内容>
「夕刊ベルリン Berliner Abendblätter」1810 年 12 月 12~15 日号に掲載。
全 272 行の 95%が K と C の 会話。
Oberlin 2007: 281
Allemann 1981/82: 53
Groß 1995: 167
48 もの段落に分化しており、切片集積の印象。
後半では優美は「解剖学的」に考えられており舞踊も関係がない。
Tscholl 2005: 28 「 ÜdM 自体・全体は存在しない … 破砕したテキスト … 読みはバラバラ」
Weigel 1988: 266 前半 が 具体編
12/12 号
で、
||
12/13 号
K と C、1801 年冬、暮方、 義足者の舞踊が
後半 が 一般編。
12/14 号
C は「逆説」を主張、
12/15 号
Cと
の
屋外で散歩、対話。
「優美」、人形
「機械人」が「人体」
剣闘対決。
M の舞踊が「優美」1)
が「虚飾 Ziehrei」
よりも「優美」、を K
C のフェン
だと C が主張、
をしない事、「心」
は疑う。神と物体が
から優美な曲線が
「認識」を知った
した 16 歳頃少年の話
人の意識
生まれる事、運動が
後の「楽園」喪失。
を K がする。少年、
が「無限」
..
シング突が全く
.... .
M 操者 Maschinist の事、 とは vis motrix なり。
円環構造で出会う。 当たらず、フ
.......
M の運動構造の事、
M と違い虚飾に
「創世記」参照。
ェイントが何故
......
自動的・機械的な運動
あふれる俳優たち。 優美な体姿勢を喪失 か見破られる 。
「舞者の心的プロセス Weg
M が「反重力
der Seele Tänzers」である事。 antigrav」。
1)
鏡を見て「棘抜童」模倣、
を経れば
K→少年の注視と哄笑。 楽園に還る事。
ÜdM は„Grazie (resp. gratiös)“と„Amuth“を用いているが、 Greiner 1994: 152–153 は前者の語法を詳論
しつつ、Grazie の語義が ÜdM の議論を支えると考えている。Grazie が用語上は「蠱惑 Reiz」に相当
すると述べ、カント・シラー・ヴィンケルマンらの Grazie 論を振り返り、Gunst としての gratia、授受
としての
に触れる。
-1-
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松波烈(文芸表象論)
<ÜdM の性格>
大前提 *********************************************************************************************************
Tscholl 2005: 21 「クライストの言語には地雷が埋まっている … 文章は平和を乱す」。
******************************************************************************************************************
Lemke 2008/2009: 184, 187, 197
ÜdM は自然と人工 Natürlichkeit und Künstlichkeit の拮抗
関係のテキスト。
Fischer 2009: 69, 83–84
ÜdM は K の最高傑作。
これほど議論を呼んだ K 作品は他 にない。
Heidgen 2013: 39
Kaminski 2013: 109
これほど集中的に哲学的解釈を惹起してきた文学テキストはまずない。
Fricke 1929: 150 Blöcker 1960: 194 Silz 1961: 71
一種の「フェユトン」(大衆娯楽)である。
発表後 100 年間無視され、20 世紀初頭にリバイバル、1967 年に ÜdM 論のアンソロジー
を一旦編み、2013 年になお論集を出している。作中散りばめた重要ターム、含み多い台
詞と思わせぶりな仕草、トーマス・マンやリルケ(ドゥイノ第 4 悲歌) にインスパイアする
程の刺激的考察、発表媒体と当時の言論情勢、等により、際限なく解釈を挑発してきた。
屋上に架した屋が累積し、10 頁足らずの掌篇は解釈が数 100 頁の伽藍を築いている。た
だしあらゆることが考えられてきた訳ではなく2) 、解釈史には一定の型と傾向がある。
<ÜdM の先行研究(個性的)>
ジャンル不定の ÜdM3) のジャンル付け。一種のプラトン対話とする。
Durzak 1969
Herrmann 1998
メイエルホリド生体力学を指示しつつ身体養成の観点を持ち込む。
Blamberger 2000 優美・虚飾の意味をカスティリオーネのテキストから読み解く。
K と C の愛欲的駆け引きとその頓挫を見る。
Földényi 2001
Oberzaucher-Schüller 2004
棘抜 童
19 世紀初頭前後のドイツ・バレエ史に ÜdM を位置
づける。
Rieger 2007
ÜdM における「運動」の「現象的同一」の瓦解を論じる。
Kanzog 2007
C の由来をイタリアの舞踊家で振付師・フランチェスコ・クレ
リコと推定。
また、例えば数学の比喩 Logarithmen を取り上げて語源
,
に「美学と数世界の結合」
を見る Kahrs 2006: 326 などの例外を除けば、テキストのあらゆる箇所を精読してきたわけでもない。
3 ) Kurz 1981/82: 264 Anm. 3
研究 史上 ÜdM は „Essay, Prosadichtung, Aufsatz, Gespräch, Dialog,
Feuilleton, Diskurs, Abhandlung, Plauderei“と呼ばれてきた。
2)
-2-
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『マリオネット劇場論』の解釈史
<ÜdM の先行研究(主流)>
哲学思想系
背景考証系
解析解釈系
Hellmann 1911 ÜdM をロマン
Steig 1901 ÜdM を、ドイツ演
Allemann 1981/82: 52, 54, 55, 62
主義の産物とする。マリオ
劇界の大御所にしてベルリン
マリオネットの「
ネット・人間・神の 3 段階
王立国民劇場監督 A・W・イ
者 C と K がナンセンスな逆
を、F・シュレーゲル、シェ
フラント(1759–1814)への
説の論証に提出する個々の話
リング、ノヴァーリスの歴史
風刺だとする後世の論の元祖。 題は、統一的命題に寄与する
........
風刺すなわち攻撃
のでなくそれ自体でのみ意
3 段階論と合流させ、ライプ
-解釈」
ニツ・ルソー・シラー・カン
Wild 2002: 110 敵は、プロ
味がある。対話シーンは論証
ト4) を動員して気宇壮大な
イセン国家と結託する支配
とは別のものを目指しており、
論を展開、哲学的思想的見方
的劇場に加え、「夕刊ベル
例えば両人が視線を落とす
の源流となり、ÜdM におけ
リン」の検閲者である警察
シーンでは、各々自分だけの
る 3 段階図式を確定し、意
監査官ホルトホフらも含む。 考えにふけっている。混み
識が喪失したものを意識が取
...... .....
合った枠構造の裏に隠れてい
体制への抵抗、組織対個人、
.........
る作者„poeta absconditus“の
弾圧機関対孤軍奮闘。
目的は文面から素朴には読み
り戻すという道程を明示、復
楽園の契機を「自由」と「芸
術」に見る。ÜdM と同時代
の思想系テキストとの間テ
キスト読解を樹立。
Böckmann 1927 ÜdM と K の
主要作品との間テキスト読
解を樹立。ただロマン主義と
ÜdM との決別を示唆。
Daunicht 1973: 306, 310–315 ÜdM
は劇場を痛烈に皮肉る「不
真面目で諧謔的」な風刺で
あり文面と真意が 分離して
いる。C は advocatus diaboli
であって、K は C の奇態な
主張に説得されておらず最後
まで内心では呆れている
〔Durzak 1969: 317–318 と真
4)
これらの思想家らにフィヒテ・
ヴォルフ・ライマールス・ヘル
ダー・レッシングを加える
Kurz 1981/82: 265 によると、
意識の堕罪の前後の対立項は
「無垢-罪悪、自然-文化、子供大人、本能-理性、優美-意識、
無意-恣意、一体-分裂、平和-抗
争とさらに感情-言語」である。
逆の解釈〕。
Heller 1973: 263–264, 270 クラ
イストの「包茎」「手術」の
可能性と重ね合わせて ÜdM
にペニスの象徴を見るような
解釈を取り上げてこれに呆れ
-3-
取れない。
de Man 1984: 272, 275–276, 280,
281, 285 テキストというもの
を「肯定と否定、優美と暴力、
神秘化と明晰化、諧謔と真剣
の不安定な混合体」とした上
で、読者を騙しにかかる作者
を無力にする「
-読者」を
剣闘熊に見、熊との対決を、
「常に突くが決して当たらな
い」言語のメタファーとする。
ÜdM における決闘的色合い
を鮮明にする:「意味と指示
の区別すなわち壇上の暴力と
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松波烈(文芸表象論)
背景考証系
解析解釈系
Braig 1925 「堕罪」を主題化。
果て、ÜdM を文学作品の精
路上の暴力」。熊の怪異を強
Heselhaus 1962: 50–52 W・ハ
神分析的解釈への風刺とする。 調する。
インゼの逆説概念を見た後、
Lixl 1983: 264, 265–266 背景考
Groß 1995: 137, 140 ff., 145 f.,
A・ミュラーの「構成的-形式
証型の最右翼。当時のプロイ
148, 150, 151 f., 154, 157, 163 f.,
的逆説」・ノヴァーリスの
センの社会的困窮から説き起
174, 178 実に 50 余頁を費や
「認識批判逆説」・F・シュ
こす。ナポレオン戦争中のプ
して ÜdM テキストの「自己
レーゲルの「イロニー逆説」
ロイセン、「キリスト教-ド
言及性」を描出しぬく。
らの逆説にクライストの「メ
イツ会」に一時所属していた
ÜdM の文章が「遂行的」だ
タファー逆説」対置。
クライストには、検閲撤廃・
と方々で言われてはいたが、
Bubner 1980: bes. 80, 84 近代
行政改革・国家救済が焦眉で
この観点を異常な執念で貫徹。
に反省の力で人が神=マリオ
あった。時代の診断者たるク
タイトルの über と-thater
ネット操者に下剋上すると
ライストの ÜdM は「機械
(
いう「無限」意識の 解放プ
によって」人的労働が疎外
語句・構文・用字・記号等を
哲学思想系
)の分析から始めて、
ロセス(歴史の「収支決算」) される「資本主義化と工業化」 一字一句解析、「ÜdM テキ
を描く。
の萌芽を可視化している。
スト自体が ÜdM テキストが
Janz 1981: bes. 38, 39–40 「道具
「知行合一の M 劇場が、芸
語ることである」ことを証明
的理性」を問題視。これに替
術という、経済的生産行為の
し尽くす。ÜdM テキストを
わる「新たな意識」の希望
対極を立てる。」優美は民衆
「詩」と見、詩すなわち「芸
を ÜdM に見、法廷モデルを
側に、虚飾は亡命時フリード
術」における自己言及性なら
立てて、不可解な言動を繰り
リヒ・ヴィルヘルム 3 世の
びに「制作」と「受容」の
出す被告 C を K が理性的論
華美な典礼にある。
「コミュニケーション」の絶
証を超えた次元で世界の不可
Lixl にとってクライストが
対必要性、の最醇の表現を
解さごと信じると言う。
理想社会夢想者なら、
ÜdM に見る。
Kurz 1981/82: 268, 271 「堕罪
ÜdM のスチームパンクが
モデル全体」と近代の歴史観
沸騰する’90 以降にあって
への批判を見る。Allemann
は機械技術礼賛者である。
と後の Groß 同様 ÜdM を一
Weigel 1988: 268, 274–275, 279 「虚
種の詩とし、「言われていな
飾」はイフラントの演技を指
い」ことにこそ注意を向けた。 しており、これと対蹠的な
ÜdM のテキストは「脆い」 J・F・F・フレック(1757–
と診断。
1801)に ÜdM の着想源が
Schneider 1998: 161, 162 ÜdM
ある。ただフレックが役に入
-4-
解釈史にそびえるこの威容。
前人未踏の独峰 Groß には
後 人 も な い 。 Schneider
1998: 163 が僅かに似た作
業をした程度だ。Groß に
よって ÜdM の可能性が汲
み尽されたとも、その解体
作業が完膚なきまで遂行さ
れたとも言える。ところ
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松波烈(文芸表象論)
哲学思想系
背景考証系
解析解釈系
の対話は「闘技場」であり、 り込むのとは違い、「重心」
で Silz によると ÜdM の文章
「奇襲」も行われる。
に没入するというのは、操者
は粗雑で不注意である。一方
Strässle 2002: 200–201 驚異的
が人形「からも動かされる」
Groß によると一分の隙もな
な思想的総合術を見せながら、 点 で 相 互 作 用 〔 = 心 - 身
く適材適所である。ÜdM の
しかし de Man 以後にあって
的!〕である。
奇怪なテキスト性格が解釈史
最早 ÜdM の文言をそのまま
Herrmann 1998: 210, 214 ÜdM
というメタ次元にまで
は信じず、C は真理を話すの
はナポレオン戦争を念頭に置
する。
ではなく権威と授-受 gratia
いた「ゲリラによってのみ
Brors 2002: 33 f. ÜdM の対話
の「政治」によって K を丸
行いうる」解放戦争の実験的
は「権力闘争にして殴り合
め込むのだとする。
手引書である。プロイセンで
い」であり、中立的真理・
Bay 2004: 170, 180–181, 182
の「ゲリラ戦争の勃発」を
認識などでなく、言葉の
シュライアマハー解釈学と対
1810 年に希求していたクラ
「武器」で相手を倒し己の
蹠的な、1800 年前後に提起
イストが書いた ÜdM の内容
考えを貫くことのみが目
されていた「理解問題」圏に
が純美学的なのは「みせかけ」 標だ。
身を置くクライストという観
で あり 、「 身体運動 」は
Beil 2006: 95–96 H・ブルーム
点を採り、復楽園の可能性を
「 あらゆる統制と考慮を
の「ケノーシス」を援用しつ
拒絶、ÜdM を「理知的」対
無力化して替わりに統制
つ、ÜdM がシラーのテキス
話とは考えず、「争闘」
なき無意識的なものを即
トから思想を寸刻みに摘出し
「殴り合い」「話戦」とい
位させる例外状態」である。 て「強化・戯画化・滑稽化」
うアスペクトを強調。
Meyer-Sickendiek, 2005: 237 「自
己遮断は、クライストでは
身体運動の美、ヘーゲルで
は思惟上の精神運動の自由を
阻害する」
Schütte 2006: 128 M が人工的
な「精神表現野」で、熊が自
然の「身体表現野」で優美
............
ゲリラすなわち肉体対肉体
.... .......
の白兵戦、体制や機関の隠
............
れみのに逃げることのでき
.. .........
ない、己の力のみが試され
.....
る限界状況。
Peters 2003: 188, 194 ÜdM を
Iffland-Fehde, Theaterfehde の
文書と断定。Fehde = 決闘。
を代表していると確言。
Specht 2010: 391–392 「芸術
作品は悟性と感性を和解・調
和しない。その相互分裂を
-5-
出
しその「超越論的意味の充溢
を空にして」具体性の極限に
まで解体すると述べる。
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思想文化論 研究報告会
松波烈(文芸表象論)
哲学思想系
挑発する」「芸術は解消不
可能の矛盾の産品」と
ÜdM を論じる。
Mandelartz 2008: 25–26, 30 『優
美と尊厳について』のシラー
が美食好酒によるゲーテの中
年太りを揶揄していたと切り
出し、ゲーテと同様クライス
トも当論文に怒りを覚えただ
ろうと推測する。身体的美
醜の見地を ÜdM の議論に入
荷し、キリスト教-ドイツ会
で知り合っていただろうクラ
ウゼヴィツの文章を引用して
まで軍人クライスト像を浮
き彫る肉感的な論調を見せ、
ÜdM の理想に至るために自
....
己意識を「意識的に」排除
せねばならぬと書いた。
超『マリオネット劇場論』
<間テキストから超テキストへ>
Braig 1925 ÜdM 解釈の話の枕にドイツ観念論お歴々の詳述、さらにイエス=キリストと
ショーペンハウアーまで召喚。
Böckmann 1927: 226 ff. 『シュロッフェンシュタイン家』・『アンフィトーリュオン』・
『ペンテジレーア』・『ハイルブロンのケートヒェン』・『ヘルマンの戦い』・『ホンブ
ルクの公子フリードリヒ』・『決闘』を読み解く鍵として ÜdM を位置付ける。以後、他
の種々様々の K 作品の読解の「鍵」として ÜdM が扱われる。
Blöcker 1960: 194 ヴァレリー『テスト氏』・カミュ『裏と表』・ムージルの小品に ÜdM
の類縁を見る 。
-6-
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松波烈(文芸表象論)
Dabcovich 1967: bes. 95 f. 『俳優に関する逆説』のディドロ、『劇場の芸術』における
「
マリオネット」の E・G・クレイグと ÜdM の クライストを並置。’50 代時点ですで
に「無声映画」「ラジオとテレビ」に希望を託す。
Beil 2006: 83–84 ド・ラ・メトリ、J・ヴォーカンソン、B・フォントネルの『世界の複数
性についての対話』、ジャケ・ドロー父子、C・ブラジス、J-G・ノヴェールといった名を
挙げ、ÜdM がこういったフランスの機械論/唯物論にこそ親近を示すと言う。
Fronz 2000: 345, 353 ÜdM を、 レッシング『ミス・サラ・サンプソン』、ノヴァーリス
『ザイスの弟子たち』、Ph・O・ルンゲ書簡、ヘルダーリン『ヒュペリオン』と比較検討。
Groß 1995: 142 Anm. 135 ツェラン『息の転換』を参照する。
Müller 2011. S. 211 ff., 215
J・バトラー『倫理的暴力の批判』、M・フーコー『知の考古学』
を援用。
Hubig 2013: 9, 10–11, 14–15, 18, 19 ff., 22 ÜdM が他のテキストに
次 々 に「
え 出 て い く」 こ とを 確認 、 R・ヴァルザー『タン
ナー兄弟姉妹』、J・クレイス『アルカディア』、Th・マン
『ファウストゥス博士』、 J・パウル『巨人』、デ・キリコ
《ユピテルへの奉納》、O・シュレンマーのトリアディック・
.
バレエ、M・フリッシュ『シュティラー』といった超出先を挙
げている。
Marwyck 2010: 153 Anm. 213 は、Bergermann
に触れながら、 ÜdM が導入した機械的人体
の理想を「漫画」「アクション映画」の
「サイボーグ」に求めつつ「ターミネー
ター」を例に挙げている5) 。
漫画版ターミネータ ー
その Bergermann の講演 1997.11/1 TheaLit でのシンポジウム では、「メ
ディア史」「仮想現実」「J・ラニアー」「機械の中の幽霊」
デカルト心身論を批判したライルの„the dogma of the Ghost in the Machine“から表現と問題意識を受けている漫
画作品(とアニメ作品)『攻殻機動隊』の人口に膾炙したこの絵も、或いはマリオネット的機械人間の理想を
想わせるかも知れない。作中のキーパーソンが「人形使い」と称するのも象徴的だ。
5)
Janz 1981: 33–34 「〔 M が人よりも C 優美において勝るというが〕これは、古代に基礎付いてワイ
マル・クラシックが確定した《人間=美の精髄》則への挑戦である。人間にかわって機械装置が・舞
踊人形が有機的自然の代表となる。 C は、《人為が自然を模倣》という原理にかえて《自然(舞者)
が人為( M の機構)を模倣》と言いたいのだ。〔中略〕一なる主体という人間主義理念をクライスト
もシラー・ゲーテ同様考えてはいる。シラー・ゲーテ同様、芸術の人間主義を司ろうとはしている。
一方、解放主体の理想は、その美的顕現をシラー同様優美と名付けながら、ギリシャ彫刻にも人体に
も見ず、機械仕掛けに見ている。クライストがヴィンケルマン古典主義もワイマル・クラシックも信
じていないことが分かる。」
-7-
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松波烈(文芸表象論)
「N・ネグロポンテ」「電脳空間」「シミュレーション」「火星労働者」「モーション
キャプチャ解析」「遠隔ロボット工学」「クライストの文学アバター」といった語彙、そ
の他情報処理分野の用語が飛び交っている。
Rieger 2007 の ÜdM 論に例えば次のようなページがある。
-8-
2016 年 11 月 23 日
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松波烈(文芸表象論)
<脱テキスト/前半>
ÜdM は M・鏡少年・熊の 3 つの逸話から成ると解釈史が定めてきた。 しかし実際は、暫定
的にでも、1. M 人形/1.1 百姓のロンド/1.2 M 操者/2. 舞踊義足者/3. 俳優某 P と某 F/4. 鏡
少年/5.1 C と某 v・G 兄弟/5.2 熊、と整理できる。 ÜdM にまつわる「3」という Hellmann
以来の呪縛を排除しよう。「3」同様テキストに一切書いていない Braig 以来の「堕罪」も排除
する。 余計な物をテキストに足してはならない。同様に、無駄をテキストから引かねばら
ならない。
............
中心命題:《 M が優美において人間に勝る》。考えてみれば人形が人に勝る特質は優美
.........
ぐらいではないのか 。つまり
《M 優美>人間》=《M>人間》
優美が余計だ。 Heidgen 2013: 43 f. が、喪失した楽園を歴史以前のどこにも存在しない「思考構築
物」とし「優美一点の人間というのは神話なのだ」と言う。
............
そして人形が人間に勝る訳がない 。この命題自体が余計だ。見るべきは、「逆説」命題を
.
........
裏返した・逆から見て見えてくる命題だろう。人形が人間に勝り得る、そうとも考えられ
. ...........
る。しかし考えない方が普通 だから、そう考えるのは不条理だ。諸解釈の言い方をすれば、
........ . . ... ...
「ばかばかしい absurd」。よってこの命題には《どんなばかなこと で も 言うは 言い得
.
る》という一般命題が潜んでいる。故に
《M>人間》=不条理∴¬《 M>人間》
が析出される。進めて、
《人は自分に勝るはずのないものにも劣り得る、そうならぬよう意識を保持せよ、或いは
意識的努力をせよ》
という裏主張が演繹できる、確かに「教育」(de Man)的な主張が。
Halbig 2013: 51 天性の所有者と違い、意識的努力によって技術を身に付ける者は、確かに反省に邪
魔され「優美」を損なう。だが同時に「技術の規則を 意識 」しており、習得過程上の困難をすべ
て言語化することができる。これが「真の能者」である。
以下、詳細は省くが、テキストの様々な文言が削除され、そのばかばかしさから、ばかば
かしさの演出から、「遂行的」に、無意識・反重力の楽園、不具者や人形の優位、「虚飾」
がそもそもできもしない物体の飾り気なさ、等のばかなこと、を憧憬するな、無意味に気
付け、日常を見よというメッセージが導出される。例えば人形の「重心」:
Silz 1961: 73–75 が、マリオネットに重心など存在しないと言う。重心も優美同様減数である。
「反重力」も同じ。
Luckner 2013: 219 「ただの雑談屋」である C の「反重力」の話は「無意味」でありそれを C は
知ってすらいる。
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人は終生重心の確保と逸失の間を右往左往し、重さから“解放”されることはない。 そも
そも無重力状態は廃用性筋萎縮を招く劣悪環境である。
Daunicht 1973: 313 重力は、免れるべき何かではなく単なる条件であって、条件下で人は
「ベスト」を尽くすのが当たり前だ。
Schmidt 2013: 93 ff, bes. 94 Anm. 57 は、全部の石が同時に落下しているが故に崩れないアーチに比す
べき「自分で自分を支える重力」と、「自分で自分を支える網目としての人間の人生への編み込まれ」
........ . .. ...... . ...........
を並置し、これが、クライスト散文の 〔 最大 の魅力である 〕 独特極まりない複雑構文 の特徴でもあると
述べる。
見るべきは、《重心の確保において操り人形にも劣るがごとき非力な人体であってはなら
ぬ》《重力との相克において切磋練磨せよ》という裏主張であろう。
<脱テキスト/後半>
Allemann 1981/82: 56–57 少年の逸話は、ドイツ観念論の Selbstbewußtsein[ ]ではなくてそ
のほぼ逆の self-conciousness を描いている。周囲から見られているという状況下で、対
象化した自分の姿勢を過度に気にしているために阻害が生じるというカフカ的心境だと言
う。 Heidgen 2013: 41, 46 も、ÜdM の主題を近代に「人類学的定数」となった「恥」とし、
「可視という社会的状況」における少年から「恥の焼け焦げる不快感」がほとばしるとす
る。 Strässle 2002: 191 が、異性を意識する「大人」の手前の少年が「女に好かれていた」
点に注目、 Behler 1992: 161 が、少年を取り巻く注視が「無関心」ではなく少年は「欲望
の対象」にして「嫉妬の要因」になると言い、 Földényi 2001: 144 も、少年の逸話部分に
おいて ÜdM のエロティシズムが特段明白になるとする。
人の目が病的に怖く、恥に包まれており、同時に一抹の情欲と虚栄を含む。ここから浮か
...
び上がる像は軟弱者に他ならない。この判断はテキストの性格が支持する。
Marwyck 2010: 151, 152 Anm. 212 C の俳優批判発言に見る「エロティシズム」を Schneider
1998: 163 Wild 2002: 116 と共に確認しつつ優美を女の所有から引き離し、ÜdM における
「ホモソーシャル」・「ホモエロティシズム」を認め、 Wild 2002: 131 と共に対話者の
「ミソジニー」を指摘。
....
鏡少年の逸話は、男になり損ねている一軟弱者の技能習得挫折談と読める。技を体得する
までに気の遠くなる量の反復練習を積み重ねるのは、アスリートや武闘家一般における常
...
套にして必須の道であるが、棘抜童像のポーズを体得するつもりだった少年には、単に練
.. .................
習が・反復が足りなかっただけではないのか 。“根性”が足りなかっただけではないのか。
女々しい軟弱者には、血のにじむような意識的克己努力は無縁だ。
少年の悲劇における大仰な意味は削除した。少年が見る鏡を自己意識と関係づける大仰な
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議論も削除する。
Denana 2014: 37 ÜdM においても鏡は元来練習のための道具である。
Scholze 2015: 60, 61, 62, 63 「戦慄」を催せしめるような「反省媒体」、「現実でなく現実効
果」をもたらす「鏡隠喩論」の端緒、「ユートピアの在所」「ヘテロトピア」
などでなくてよい。そしてそう捉えることを K は「哄笑」し、後世の大仰な解釈を予測
して「〔鏡に〕幽霊 Geister でも見たんだろ」と言っているのではないのか。 さらに、この
発言は少年が最初に棘抜童ポーズを取ってしまった直後にある。考えてみればこれも何気な所作中に成
..........
立した偶然にすぎない。この偶然の成功と後の顛末は、そもそも無関係である 。 大風呂敷を広げて、
無意識下の運動・意識以前の優美から意識による美の悲劇的妨害へと論を拡張す
ることは、いかにも「精神 Geist」偏重の観念論的解釈だ。クライストの真意は自
然天然無為本然の意識なき所作の称揚でこそなく、その正反対であろう。
..... ... .........................................
ここまでで ÜdM の無駄を削除した。無駄が空無で空虚なのは、言葉にすぎないからだ。 少年と我々が喪失し
. .............................. ........ ..........
たという「楽園」について見よう。「楽園は閉鎖 、ケルビムは背後」 とテキストに ある が、諸解釈も楽園帰還
........ .........................................
の可能性を拒否し 出している。 だがそれどころではない。世界一周すれば「後ろから」楽園に再入場できまい
............ ................................ .....
かという テキストの 発言が どこか 「不真面目」である =ばかばかしさを演出しているように見える が、楽園な
..... ..................... .......................
ど始めから 全く無いと言っている のではないのか 。それは 純然夢想物だ。安逸と平穏の園としての楽園を、重
..................................................
圧・困苦という人生の現実において夢見ること、夢でしかないもののばかばかしさ、への批判 が自明でないか 。
Luckner 2013: 208 「無限意識を通じて楽園に後ろ戸から戻れるという語り手と舞踏家の対
話全体が実際は空虚で余計な雑談であろう」。
雑談にも批判風刺という機能は残る。絵に描いた餅としての楽園=「ユートピア」、絵に
描いた餅としての「詩的正義」の如き現代の軟弱な流行トピックにまで届く風刺であろう。
「それは言葉でしかない」という批判を言葉で示す、自己言及法による批判が ÜdM の裏
に見える。空中楼閣が自分からそう名乗って消え、現実に戻れという指示が発掘される。
..
ここに現実が姿を見せる。
.
熊(の逸話)、ÜdM の躓きの石。熊(の逸話):Durzak
1969: 320, 321 存在と仮象の別を知ら
ぬ無意識完全自己同一にして「純粋自然」、 Janz 1981: 37, 39「目的合理理性」を敗北させる「自然」
にして場違いな謎、 Allemann 1981/82: 58 Földényi 2001: 146「ほらふき男爵譚」、 Greiner 1994: 156–
157 テキストに場を占めない抽象的否定体、Roussel 2007: 73 フッサール現象学的エポケー、 Marwyck
2010: 156 優美論の脱構築……usw.。
だがここでも具体的に見て行こう。この熊はまず Ursus arctos arctos であろう。クライス
トが知る身近な猛獣では最も危険だったはずだ。野生の代表ではなく、飼育しているもの
だと明記してある。熊の能力を本能だと解する Fronz 2000: 348 Anm. 26 よりも、剣闘防御
術を仕込まれていると考えるのが自然だ。そう明記する論者もある( Brors 2002: 33, 34,
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松波烈(文芸表象論)
......
144 Marwyck 2010: 156 Kurz 1981/82: 271 )。しかしそれよりも重要な点は、人に近付いて
....
しまった猛獣こそ危険であることだ。ツァボ・チャンパワット・ジェヴォーダン・三毛別
等々を思い起こすまでもない。人形・踊り・優美といった軟弱な談義から一挙に血生臭い
リアリティ
領域へと転変する。熊だけは、血がしたたる 肉感性によって、単なる文字列=テキストの
リアリティ
外へと超出する実在性を得ている。テキストが砕け散った今熊はどこへ行くか。
Gehring 2013: 138 ÜdM の熊を「完全生物」と呼ぶ。
映画『エイリアン』(1979)で異星生物が「完全生物」と呼ばれるのと符合する。どちらもヒト
のように直立し、一見無意識身体であるが実は狡知に長ける。
Blamberger 1999: 32 熊は「プロテウス性格」によりキリスト者を迷わす「悪魔の化身」であったと
いうことをわざわざ記す。
熊が心を読むかのように C の目を見ていたという記述にはおびただしい解釈があるが、素朴に考えれば、
動物が目を合わすのは多く敵対関係にある時だ。つまり 熊はここで明確な意識を持って人間に敵
対しており、かつ人を大きく超えている。そして倒されるべきものという表象であるなら、
一種のドラゴンだ。
Michelini 2013: 42, 43 熊が C と目を合わせて心を読むかのようであるのは、「人間には特
定の意味で動物としての過去が残っている」から、 C と熊が「基本的なものを共有」して
いるからであり、両者は「マングースとコブラ」を想わせる。
言い換えれば、人も熊なのであり、人⇔ドラゴンの地平が開ける。 C が熊に勝てなかった
のは、ほとんどの解釈が言うように、意識が自然に屈することのメタファーだろうか。
de Man 1984: 285 「 C は本気の突きだけを出して熊を真剣にしていれば、泰然自若の熊と渡
り合えていたのではないのか」
...........
..
いやそもそももっと速く突いていれば 攻撃は当たったのではないのか、剣士 C の意識
..................
(的努力過程)がなお足りていなかったのではないのか 。《この熊に勝ってみろ。結局は
自然には勝てない・自然が正しいという議論に安直に逃げるのはやめろ》という指示が
..
ÜdM から聞こえては来ないか。自然を否定するという「逆説」的ベクトル上で人はもっ
...
と獣にならねばならぬのでないか。どのようにか。
Marwyck 2010: 154, 157 この熊は「技術の使用が第二の自然になって」おり、「徒手空拳
の剣士として戦う」。
.
従って熊が構えるのはむしろ拳 闘(bare/bear-knuckle)のそれである。まさに「殴り合
い」が要求されている。事はどこまでも表象にすぎないが、超-熊=超-人をなお超えねば
. .
ならぬ人の努力が、肉弾戦という暴力的な相の下、課されている。答えは無 論 表 象 に
見出す。
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松波烈(文芸表象論)
..
<超テキスト―日独 間>
Hitler 1943: 454–455 ボクシングの効用を僅かに述べている。
Menasse 1996: 42–50 R・メナセの「脱精神 3 部作」第 1 部『感覚的確信』、ÜdM へのオ
マージュを散りばめたこの小説の主人公が、赴任先のサンパウロにて日系人ユキと知り合
いユキ宅に移動、M への熱意と見解をユキが語り、2 人で実際に操る。M は始めた動作
を中断することができず、これに携わっている内に、人間の動作は初動を見ると終動まで
思い描けるようになったとユキは言う。そうして、不可解な動作もその先が読めるから不
可解でなくなった。そういった動作には、「相手の運動圏」に衝迫するものがある。こう
述べるユキも主人公も、意識が所作の美を損なうと考え、 M を 2 人で操っても、意識の
介入により操作が破綻という結末に至る。しかしながら、 M と読心熊を融合させるが如
きユキの発言は注目すべきだ。
Kaminski 2013: 118, 133 Kaminski もこの融合を図っている。
「相手の運動圏」は武道でいう「間合い」と等価である。ユキの果たした融合によって
ÜdM は格闘論となる。そしてこの認識ならば「重心」の意味も平易だ。単に美醜に関わ
る踊りの場合の重心と違い、武道において重心の確保・非確保の影響は直接身体に跳ね返
. .
る、軍人クライストにそれが念頭にないとは考えられない。そしていま日・独の表象領域
に比較材料を求めるに、我が国が世界に誇る表象文化である漫画に突き当たる。
格闘漫画は、近縁にある熱血漫画・不良漫画が団結や情愛等の外的事柄を主題にするのと異なり、 身
体運動を直接主題にすることが多い。とりわけ板垣恵介の「バキ」シリーズは 従来のバト
ルものに付き物の主義信念・友情の助力と欲求・精神性・修練過程・駆け引きといった夾雑物を排除し、
闘争する人体の論理と美学を純粋に追求している。
格闘漫画家がドイツ文学作品、ここでは ÜdM を知っているという直接の証拠はまず見当たらない。
Gelhard 2013: 173 f. Allemann, Földényi と共に熊の逸話を「ミュンヒハウゼン」譚と見る上で、 K の
「本当にあったありえない話 Unwahrscheinliche Wahrhaftigkeiten」を参照している。
..
猿渡 2008: 216–223 その第 1 話における兵士の身に起きる現象と酷似 した現象を、板垣と並ぶ格
闘漫画界最高峰の 1 人猿渡哲也「灘真影流奥義」「弾丸すべり」として描いている
.................
【右図・左図参照】。銃弾が胴の貫通を避けて腹背部を周回
...........................
状に掘削しつつ外に抜けるという非常に独特な身体現象であ
..............
り、偶然の一致とは考え難い。 ニーチェ・シェイクスピア・
ドストエフスキーの名が出る「タフ」シリーズの猿渡がクライス
ト作品を知らないとは言い切れない。 6)
6)
Daunicht 1973: 320 クライストは当時から、怪奇 Bizarrerie をやたらすき好んでいると言われていた。
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松波烈(文芸表象論)
板垣 1994: 98, 104 板垣 1995: 37, 43, 63, 72, 86, 87, 91, 104, 108,
ガイア
168
板垣の『グラップラー刃牙』少年編にお
ける「ガイア」戦は、 ÜdM の熊の逸話
刃牙
をなぞるかの如き内容である。いやこの逸話への板垣からの回答
にすら見える。前哨戦、野生の熊を一瞬で屠る軍人がその皮を
ガイア
被って登場、まさに熊+「技術」を地で行くキャラ
クターである。が、たちまち「刃牙」の腕力に破
.
砕され、刃牙はいわばこの熊を超える。しかし本戦
のガイアはさらに高次の熊であると言えよう。ガイアは対峙する相手の心が
読めてその動きを事前に知ることができるため、刃牙の突き・蹴りが一切当
刃牙
たらない。これは、C が対峙した攻撃の当たらな
い熊、「心を読むかのよう」な熊とまったく同じ
である。窮地に陥る刃牙に対してガイアは、人工
的な鍛錬と血道を上げる実戦の繰り返しの果てに
体得した刃牙の肉体と格闘術を否定し、自然に刃
向かった罰として己に負けるのだと宣告する。そ
して実際ガイアは自然環境にある様々な物を武器
として使用する。ところが、刃牙が「無意識」に出した攻撃だけが当たるというシーンが
途中見られる。ここに勝利がほのめく。しかし板垣は、「無意識」の、肉
体のそのまま自然な動作などと
いった契機は拒否、この方向で
の勝利の可能性を棄却する。刃
牙がガイアを破るのは、ただ
もっぱら、克己努力によって造
り上げた肉体の力すべてを駆使
.........
して、十全の意識をもって
(「ただ全力」)己を出し尽くした時である。こうして、自然を代表する
...
勇次郎
闘者が、「不自然に発達させた」力を存分に振るう者に打ちのめされる。
板垣 1992: 134 板垣 1998: 94 板垣 2005(5 月): 65, 68, 72 f., 84, 162
f., 167, 179 板垣 2005(8 月): 8 f., 18, 20, 24 f., 34, 36 f., 41, 48, 50, 141
板垣はなお高次のレベルで同じ主題を取り上げる。刃牙そ
の他の登場人物の力を遥かに超える「勇次郎」は、現存
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郭海皇
松波烈(文芸表象論)
する最大の猛獣・北極熊を素手で難なく殺害する。この勇次
郎と対峙する「郭海皇」は、若き日「力に憧れ」「力」を
「身を焦がすほど欲し」、「考えつく限りの筋力鍛錬により」
「高密度の筋肉を搭載」、「亜細亜一」の「腕力」を手にし
ていたが、約 100 年かけて一切の力を手放し、「己の体重をも消し去る程の脱力を生み
出す消力」という武術の奥義に達する。意識的なただならぬ努力の果てに獲得した肉体を、
こうではないと否定し、さらに果てしない意識的な努力を
郭海皇
積み重ね、肉体の不自然すべてをこそぎ落とすことで、一
層さらなる強大な力、力を完全に消すことによって可能と
なる巨大な力という「逆説」そのものの力
勇次郎
を得る。これは、「無限」のメタファーとしての悠久の時を経
て「楽園」に戻り、「反重力」的優美、力(人)を超えた力
(無意識人形)に到達したことを比喩的に表現しているよう
にしか見えない。そしてこのロジックが勇次郎には果てしな
くばかばかしい。郭海皇の全プロセス、意識の最蘊奥のロ
ジック、この究極の自然体を勇次郎は、力こそすべ
てとして頭から否定し、「力み」に力んだ力の暴走
的解放以外の何も認めず、肉体に備わる剛力のみによって最強の
拳法家・郭海皇を死闘の果てに下す。正確には、
郭海皇は仮死状態になって無効試合にし、「死
に勝る護身なし」との(まさに)イロニーを口
にする。 ÜdM の熊の逸話への板垣の回答は、
力にはそれを超える力で立ち向かうことがすべて、ということである 7)。
近年例えば『マトリックス』3 部作(1999–2003)
を 読 み 解 く 目 的 で ÜdM を 援 用 す る 論 稿 van
Marwyck 2013 などがある中で、本章は、ドイツ文
学の作品を、現代日本の一表象領域をたよりに解釈
し、またこの一表象領域に ÜdM へのつながりを見、
両作品相互の意味付けを図った。
7)
板垣 2006: 110 ff. なお板垣は別の格闘漫画作品『餓狼伝』北辰館トーナメント編で、熊を超えるに
は熊になるという主題をもっとさらに直截的に表現している。
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松波烈(文芸表象論)
<ÜdM を清算する>
クライストの文学は世間的価値と親和的でない。己を焼き尽くす憤怒の炎を具現化したか
の如くのコールハースの焦土戦術、古典文学中最強の英雄アキレスをたやすく仕留めた上
カニバリズムに及ぶペンテジレアの狂愛と怨念、そこには Böckmann 1927: 232 「責負うべ
.
き法律など無く良俗など無い」。このような作品の作者にとって美というのは、本来、な
...
よなよした「優美」などでなく、ニーチェが Nietzsche 2013: 226 「もっと強く・悪く・深
く・しかも美しく」と述べる意味での強靭な美、或いは血みどろの地獄の美である他ない。
ÜdM が危険なテキストであること、テキストの裏の本体が危険物そのものであることを
を理解したい。
M 操作を人心操作の意に解する Müller 2011: 208, 209, 215–218 は、ÜdM を支配的高次者
への帰依の問題を扱うテキストとし、「堕罪」を人間の人間支配の出発点と考え、「自分
の在り方を捨てて」「別様に成る」ことを人間の「潜在力」と見、人は死の危険を冒して
「ラディカルに別様に成る〔=根源的に変わる〕」ために、承認されざる「騒擾分子」、
一般の価値・公準を脅かす「逸脱としての〔中略〕自己」となり、それは「無意義、不道
徳、失敗と欠陥と矛盾だらけ、何をしでかすかわからず、余剰なやつ」であると言う。
....................... ........
ÜdM から読み取るものが、 他対己、己対己の絶頂に達しており、人生を賭けた 孤高の戦争が眼前
...
に迫る 。 この解釈は、人類史上最も危険な「個」の思想家 M・シュティルナーに通じる。
Stirner 1845: 269 「俺を超えるいかなる力に対しても俺は金輪際性懲りぬ犯罪者だ」と言う
シュティルナーにおける Stirner 1845: 164 「非人」としての「エゴイスト」とは、 Stirner
1845: 148–149 既定の枠組みを「
出する」「規格外の浮浪人」であり、「不定で不穏な
移り気の連中すなわちプロレタリア」を成す。「自身と他人を破滅させる」「遊戯家」で
あり、固定した社会的立場を持たない「詐欺師・不倫者・泥棒・強盗・殺人犯・無産者・
浮薄者」「娼婦」を指す。 Stirner 1845: 239 「自我はすべてを破壊する」という時の「個人」
は、「自分でないときにだけ存在し、さもなくば終わって死ぬ」。 Stirner 1845: 279–280
このような個人は、敵対者に「タイマン Mann gegen Mann」で立ち向かい(「肉体ある
....
敵だけを」)、「制限」されるのは「外の力」によってでなく「己の無力による」(強調
原文)のみである。この位相からすれば、 ÜdM が意識していた「検閲」とは、生身の闘
争・破壊的肉体・独力独戦という物騒な主題をいつでもたちまち嗅ぎ付け、可能な限りの
抑圧を加える世間という高次の検閲に他ならないとも考えられる。発表から 200 余年、
検閲も社会的背景の枷もなき現代日本の読者の眼前、 ÜdM の拘束具=テキストが朽ち果
て、その生身が獣臭を放つ。
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2016 年 11 月 23 日
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文芸表象論 松波烈
参考文献
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板垣恵介『グラップラー刃牙』第 16 巻 秋田書店、1994。
板垣恵介『グラップラー刃牙』第 17 巻 秋田書店、1995。
板垣恵介『グラップラー刃牙』第 35 巻 秋田書店、1998。
板垣恵介『バキ』第 26 巻 秋田書店、2005(5 月)。
板垣恵介『バキ』第 27 巻 秋田書店、2005(8 月)。
板垣恵介(漫画)・夢枕獏(原作)『餓狼伝』第 18 巻 講談社、2006。
猿渡哲也『タフ外伝 OTON』第 2 巻、集英社、2008。
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1981/82. S. 50–65.
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Neumann GmbH, 2004. S. 169–190.
Behler, Constantin: „Eine unsichtbare und unbegreifliche Gewalt“? Kleist, Schiller, de Man und die Ideologie der
Ästhetik. In: Athenäum. Jahrbuch für Romantik 2 (1992). S. 131–164.
Beil, Ulrich Johannes: ›Kenosis‹ der idealistischen Ästhetik. Kleists ›Über das Marionettentheater‹ als chillerréécriture. In: Kleist-Jahrbuch 2006. S. 75–99.
Bergermann, Ulrike: Bewegung und Geschlecht in Kleists Marionettentheater und in Bildern von Virtueller
Realität. (GEBÄRDEN IM COMPUTER aus dem Reader zu einem Vortrag von Ulrike Bergermann.)
(http://www.thealit.de/lab/LIFE/LIFEfiles/r_08_8.htm) (Vortrag beim Symposium im TheaLit
„Künstliches Leben; Mediengeschichten“ (1.–2.11.97.)
Blamberger, Günter: Agonalität und Theatralität. Kleists Gedankenfigur des Duells im Kontext der europäischen
Moralistik. In: Kleist-Jahrbuch 1999. S. 25–40.
Blamberger, Günter: Ars et Mars. Grazie als Schlüsselbegriff der ästhetischen Erziehung von Aristokraten.
Anmerkungen zu Castiglione und Kleist. In: Sabine Doering / Waltraud Maierhofer / Peter Philipp Riedl
(hrsg.): Resonanzen. Festschrift für Hans Joachim Kreutzer zum 65. Geburtstag. Würzburg: Verlag
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