目 次 ● ●● ● ● ●アメリカ文学 名作と主人公 11 アメリカ文学◉名作と主人公 Ⅰ 世紀 誕生と独立 スケッチ・ブック アーヴィング リップ=村中の人気者だが家では女房の尻に敷かれる好人物の典型 モヒカン族の最後 クーパー ナッティー・バンポー=「鷹の目」と呼ばれる射撃のうまい白人斥候 黒猫 ポー プルートー=殺された夫人と共に壁に塗り込められた片目の怪猫 アッシャー家の崩壊 ポー マデリン=地下の穴ぐらから双生児の兄を死の世界に誘う血まみれ女 緋文字 ホーソーン ヘスター=不義の相手の名を秘めて迫害に耐えけなげに生きる姦通女性 メルヴィル 白鯨 エイハブ=運命と悪に敢然と挑戦し、ついに自らを滅す執念の男 アンクル・トムの小屋 ストウ夫人 トム=白人に卑屈に迎合する一九世紀米国の典型的黒人奴隷の象徴 ソロー ウォールデン/森の生活 ソロー=精神の堕落を排し価値ある人生・真理の発見に励む森の哲人 ハックルベリー・フィンの冒険 マーク・トウェイン ハック=正直に生きていく正義感を秘めた憎めない悪童 Ⅱ アメリカの経験と失われた世代 ハーグレイヴズの一人二役 O・ヘンリー ハーグレイヴズ=迫真の扮装で退役軍人へ恩返しをした俳優 よみがえった改心 O・ヘンリー ジミー・ヴァレンタイン=少女を救うため平穏を捨てる決意をする元金庫破り 最後の一葉 O・ヘンリー ベアマン老人=芸術の底辺と芸術の未来を支える芸術の守護神的人間 野生の呼び声 ロンドン バック=北国の大自然に忘れかけていた野獣の本能を回復する飼犬 私のアントニーア キャザー アントニーア=開拓期アメリカの辺境の地に生きる逞しき女性の典型 本町通り S・ルイス キャロル=俗悪な田舎町の改革に努力し敗北する近代的女性の嚆矢 楡の木陰の欲望 オニール エベン=物欲と色欲に悩み義母と関係し悲劇の引き金をひく業深き男 アメリカの悲劇 ドライサー クライド=貧しい境遇から「アメリカの夢」を求めて破滅する青年 偉大なギャツビー フィッツジェラルド ギャツビー=ロマンチストでナイーブなお人好しのアメリカ人の典型 赤い収穫 ハメット オプ=毒の町の浄化にいどむ名もなき調査員 響きと怒り フォークナー キャディ=身をもちくずし不義の子を出産する滅びゆく名門の娘 アブサロム、アブサロム! フォークナー トマス・サトペン=語り手によって浮かび上がる悲劇的生涯の農園主 目次 12 13 アメリカ文学◉名作と主人公 20 23 26 26 29 34 39 42 45 52 52 56 59 62 65 68 71 76 79 83 86 19 武器よさらば ヘミングウェイ ヘンリー=「死」の戦争を捨てて「生」の恋愛に身を投じる脱走兵士 誰がために鐘は鳴る ヘミングウェイ ジョーダン=スペイン内乱に理想を掲げて闘い抜く青年 天使よ故郷を見よ トマス・ウルフ ユージーン=失恋や挫折を経て新しい時代に夢を燃やし自立する青年 花咲くユダの木 ポーター ローラ=革命運動に協力しながら徹しきれず安住の世界を失う女教師 U・S・A ドス・パソス 民衆=産業資本主義機構に疎外され放浪する個人としての孤独な民衆 パール・バック 大地 王龍=貧しい百姓出身で死ぬまでに土地に限りなく執着する大地主 神の小さな土地 コールドウェル タイ・タイ老人=信心深いくせに物欲の強い矛盾だらけの人間の典型 ミッチェル 風と共に去りぬ スカーレット=頑固で自惚れも強いが魅力にあふれた激情型の女性 怒りのぶどう スタインベック トム・ジョード=体験から物事を学びとり人間愛の実現に邁進する男 ヘンリー・ミラー ミラー=冒険の可能性を信じ真の自己発見と個性形成に努める人 南回帰線 アメリカの息子 ライト ビガー・トマス=白人殺しによって運命を狂わせた黒人青年の一典型 災厄の町 エラリー・クイーン クイーン=田舎町での悲劇の殺人事件を究明する名探偵 Ⅲ 戦後の風景 結婚式のメンバー マッカラーズ フランキー=所属するところを持たず疎外感に悩む孤独な思春期の娘 欲望という名の電車 テネシー・ウィリアムズ フランチ=崩れゆく過去の栄光にすがって生きる没落貴族の姉娘 裸者と死者 メイラー ハーン少尉=権力に反抗し自由主義思想を表明して戦死する米軍兵士 セールスマンの死 アーサー・ミラー ウィリー・ローマン=自分自身を売り渡し消えていったセールスマン ライ麦畑でつかまえて サリンジャー ホールテン=厭世的だが無垢な世界に憧れている心優しき孤独な少年 闇の中に横たわりて スタイロン ペイトン・ロフティス=家族や夫の愛すらも得られず投身自殺する娘 ソフィーの選択 スタイロン ソフィー=罪を告白する呪縛のポーランド人女性 見えない人間 エリソン 「ぼく」=現代アメリカ社会における黒人の境遇を代弁する無名の男 ロング・グッドバイ チャンドラー フィリップ・マーロウ=上流社会の闇に目を光らせるタフな私立探偵 目次 14 15 アメリカ文学◉名作と主人公 90 95 98 101 104 107 112 115 120 125 128 131 136 139 142 145 148 151 154 158 161 華氏451度 ブラッドベリ ガイ・モンターグ=書物の消却に疑念を持ち逃亡する男 ナボコフ ロリータ ハンバート=十二歳の美少女への愛におぼれた中年男 蜘蛛の家 ポール・ボールズ 動乱に揺れるモロッコの古都フェズを異なる視点から描き出す ギンズバーグ 吠える アメリカ社会の病理をあばく痛烈な批判詩 ティファニーで朝食を カポーティ ホリー=自由奔放な性格で幸福な結婚を夢見る野性的プレーガール 冷血 カポーティ 田舎町での一家惨殺事件を取材し描き上げたノンフィクション 旅路の果て バース ジェーコフ=一事が万事ヘマばかり繰り返すアンチ・ヒーローの原型 さようなら、コロンバス ロス ニール=性的自由と肉体の謳歌の果て、愛の不毛に苦しむ青年 走れウサギ アップダイク ハリー=平凡な生活を捨て人世に何かを求め走りまわる本能的探求者 もう一つの国 ボールドウィン ルーファス=愛の不毛に苦しみ「性」の重みに耐えかねて自殺する 〝ヴァージニア・ウルフなんかこわくない〟 オールビー ジョージとマーサ=互いに傷つけ合うことにしか愛を確認できぬ夫婦 ロス・マクドナルド さむけ リュウ・アーチャー=質問者に徹する静かな私立探偵 ハーツォグ ベロー ハーツォグ=妻を友人に寝取られ家庭の崩壊に苦悩する知識人の典型 帰れ、カルガリ博士 バーセルミ ジャンクでオシャレなポップアートとしての短編集 ヴォネガット ビリー・ピルグリム=戦争の不条理を目撃し宇宙人に誘拐される男 完訳マルコムX自伝 マルコムX マルコムX=黒人革命をめざした指導者であり殉教者 修理屋 マラマッド ヤーコブ=無実の殺人事件で捕らわれ獄中で苦闘する受難のユダヤ人 Ⅳ 想像力と現実と ユニヴァーサル野球協会 ロバート・クーヴァー ヘンリー=架空の野球ゲームで空想を遊ばせる冴えない中年男 スローターハウス エドウィン・マルハウス ミルハウザー エドウィン・マルハウス=壮絶な死をとげた早熟の天才児 重力の虹 ピンチョン スローステップ=追跡される迷走の怠け者主人公 シャイニング キング ダニー=雪に閉ざされたホテルの惨劇を予期する少年 ミザリー キング アニー・ウィルクス=作品への執着から作家を監禁する熱狂的ファン 詩人と女たち ブコウスキー ヘンリー・チナスキー=数々の女性遍歴を自虐的に語る中年詩人 ガープの世界 ジョン・アーヴィング ガープ=数奇な人生を歩んだ性の殉教者 目次 16 17 アメリカ文学◉名作と主人公 165 169 173 176 181 184 188 191 194 197 200 208 203 211 215 219 228 224 232 236 240 244 248 252 5 ビラヴィド トニ・モリソン ビラヴィド=封印した子殺しの過去に向き合わせようとする娘の霊 ムーンパレス オースター マーコ・フォッグ=旅することを宿命づけられた天涯孤独の青年 本当の戦争の話をしよう ティム・オブライエン ティム・オブライエン=ベトナム戦争の真実を語る作者の代弁者 墜ちてゆく男 デリーロ キース=9・ に遭遇し家族よりも刹那を生きることに目覚めた男 停電の夜に ジュンパ・ラヒリ インド系作家の異文化体験がつめ込まれた鮮烈デビュー短編集 エクスタシーの湖 スティーヴ・エリクソン 年代のテキサスを舞台とした現代版西部劇小説 256 260 264 268 272 276 280 11 クリスティン=近未来のアメリカで時をこえて語らう女性 ノーカントリー マッカーシー 80 目次 18 ホーソーン 緋文字 The Scarlet Letter 姦通した男女とその夫、三人の「罪」をめぐる物語 一八五〇年刊 あがな 不義の子を産んだへスターの罪、真実を告白でき ない牧師の偽善の罪、人の魂を破滅させようとし き ぜん た医師の罪。へスターは毅然と生きることでその 像』など。 『七破風の家』、短編集『雪の 呪いが消えさるまでを描いた めた。作品はほかに、過去の 『緋文字』により成功をおさ の短編集で評価をえ、五〇年 るが不遇だった。一八三二年 卒業後、故郷で執筆をはじめ の名門一家に生まれる。大学 セッツ州セイラムの、清教徒 ホーソーン ナサニエル Nathaniel Hawthorne 一八〇四~六四。マサチュー 罪を贖うが、他の二人は死にいたる。戒律のきび しい清教徒社会を背景に、信仰と自由を精神の奥 深くまでさぐった心理小説。ホーソーンの代表作 で、アメリカ文学史上の白眉。 民後まもないボストンの刑務所から、ヘスター・プリンは市場の絞首刑台へさらし 植 * かんつう ひ 者として立つために連れだされる。生後三か月の赤子を抱き、胸には姦通女を示す「緋 文字」A( Adultery )が縫いつけてあった。総督、老牧師、若き聖職者アーサー・ディ ムズデールの詰問にもかかわらず、彼女は不義の相手の名を言うことをかたくなにこば む。群衆のなかに、遅れてアメリカに来た、へスターの夫の医師がいた。彼はロジャー・ チリングワースと名を変え、さっそくヘスターと会って自分が夫であることを秘密にさ わら せ、相手の男への復讐を誓う。 ぶき小屋に住み、花嫁衣装以外の衣服の針仕事で生計をたてる。 ヘスターは、郊外の藁 パ ー ル 三歳の娘パール(マタイ伝の「いと高価な真珠」から)は友もなく、自由奔放に育てら れた。 19世紀 誕生と独立 28 29 緋文字◉ホーソーン むち 打ち、断食、徹夜など、は オックスフォード大学出の俊秀ディムズデール牧師は、鞭 げしい修行でこの世の人とは思えないほど衰弱していた。彼こそがへスターの愛人だっ た。たくみに近づいて健康相談役となったチリングワースと、牧師は共同生活にはいる。 ディムズデールの説教には絶大な人気が湧くが、医師はあるとき、心の病を告白しよう た としない彼の、牧師服にかくされた胸の緋文字を目撃する。 ゆる った。ある五月の夜ふけ、ディムズデールは家へ帰るヘスター母子をよびとめ、 七年経 三人で手を組んで絞首刑台に立とうという。真実を告げられずにいる彼の苦悩を知った ヘスターは、前夫に彼を赦すよう懇願する。しかし、復讐の鬼と化した夫から拒絶され、 森でふたたび牧師と会って前夫の正体をあばく。 き けん 二人はイギリスあるいはヨーロッパ大陸への逃亡をくわだてるが、チリングワースの 妨害にあって頓挫する。折から町は新総督任命の祝典でにぎわい、楽隊にみちびかれた 聖人貴顕の行列がすすみ、つづいて牧師ディムズデールの説教が教会から流れる。その あと牧師は、ヘスター母子をよんで共に絞首刑台に立ち、聴衆の前で罪を告白して胸の 文字を開示し、そのまま死ぬ。 後日談で、チリングワースも一年以内に死に、パールは外国で結婚。故郷で生涯を全 うしたヘスターは、牧師ディムズデールの墓に葬られる。 冒頭によ長い序文「税関」がおかれ、物語はセイラムの税関吏ジョナサン・ピューの古 『緋文字』は十七世紀中葉のボストン 文書に依るとある。脇役にも実在の人物を配し、 に展開される歴史物語の体裁をとっている。しかし、これは「現実世界と架空の国のど こか、 ﹁事実﹂と﹁空想﹂とが出合う、中立的領域」(「税関」)を描きだそうとした、す ぐれてアメリカ的な小説である。 『緋文字』によって、そのパロディーでもあるアップ ダイクの『一か月の休日』 (一九七五年)にいたるアメリカ姦通小説の伝統が確立され たといえよう。 「緋文字」を罪から誇りへと変質させた女性へスター ヘスター・プリンは「背が高く、申し分なくエレガントな容姿」の女性で、「あり余 る黒髪」 、 「秀でた額とどこまでも黒い瞳」が印象的。針仕事をしても、「豊満で、あで やかな、オリエント人の特徴 豪華にも美しいものを好む本性」を発揮する。そして 胸の緋文字がしだいに自信をつけさせ、彼女は他人のかくされた罪科に感応(シンパ シー)する能力までおびる。今や自由思想家となり、物心両面で悩める者に救いの手を 伸べ、共同社会の模範的女性とあおがれる。 「女の強さ」を身につけたヘスターの緋文 )のAとまで解釈されるようになる。 字Aは、姦通ではなく「有能な」 ( Able 作中の男性が精神(ハート)のディムズデールと、知性(マインド)のチリングワー スにいわば分裂し、はじめから終わりまで滅ぼしあうのとは対照的に、ヘスター・プリ ンはアメリカの大地に根ざした強い女の原型となっている。『緋文字』が、単なる三角 関係の物語をこえているゆえんでもある。 税関吏の仕事を解かれ、妻に励まされて執筆に専念 ホーソーンは一八〇四年七月四日、映画「サレムの魔女」で有名なマサチューセッツ 州セイラムに生まれた。父は商船の船長、三歳のときに死去し、彼と姉と妹は母の実家 さらし者 姦通の罰として、 へスターは人々の前で三時間 さらし者となり、生涯、胸に 緋色のA文字をつけて生きる ことが科せられた。 19世紀 誕生と独立 30 31 緋文字◉ホーソーン で育てられる。 * で予審判事を務めた 父方の先祖に異教徒迫害者ウィリアムや、一六九二年の魔女裁判 たた ジョンなどがおり、 「税関」で「彼らは小説書きとは神の栄光をいかにして讃えるもの なりや。さような堕落者など旅芸人になったがましと話し合っていよう」と書いている。 母方マニング家も同じくニューイングランドの名家で、ホーソーンは父方から孤独癖を、 母方から繊細な感受性をうけついだ。 メイン州ボードン大学で可もなく不可もない四年間をおくり、生涯の友のひとりに、 のちの大統領フランクリン・ピアスがいた。ホーソーンはノンポリの文学青年で、たい へんな美男子だったという。 (一八二八年)をだしたが注目されな 卒業後故郷へもどり、第一作『ファンショー』 かった。雑誌の編集や児童向けの執筆をしながら、きびしい文学修業にはげみ、「ウェ イクフィールド」や「若きグッドマン・ブラウン」(ともに三五年)など珠玉の短編小 説をひとつひとつ生みだし、 『トワイス・トールド・テールズ』(三七年)に結実させた。 作者三十三歳、 「いかに不承不承とはいえ、私はわがフクロウの巣から出て、ささやか ながら文士を気取るよう余儀なくされた」と後年記している。 一八四二年、ソフィア・ピーボディと結婚。二人の幸福な生活は、のちにイタリアで 知りあう詩人ロバート・ブラウニング夫妻とならんで有名である。しかし、生活苦をみ かねた友人知人の世話でセイラムの税関吏を三年間務める。四九年、解任の知らせをも せき ち帰った夫に、ソフィアは「あら、それではいよいよご本が書けますね」と言ってなぐ しち は ふう さめた。堰を切ったように秋から執筆にかかり、翌五〇年三月『緋文字』を発表、名声 * を確立する。五一年に『七破風の家』 、五二年には、彼が四一年に参加したブルック・ ファームでの理想主義者たちの実験村の経験をもとにした『ブライズデール・ロマンス』 を発表、短編集なども続々と刊行していった。 一八五三年、領事に任命されてイギリスに渡り、リヴァプールに四年間滞在する。そ の後、イギリス、フランスを旅し、五七~五八年はイタリアに滞在、そこで書きはじめ た『大理石の牧神』を帰国後の六〇年に発表する。六四年五月十九日、旅先のプリマス で死去した。 この一言 暗い必然 (第一四章) チリングワースがヘスターに語る、人間の力ではどうすることもできない宿命観。 ホーソーンだけでなくアメリカ文学の主流に脈打つカルヴィニズムの思想である。 悪が人間の本性である。悪が唯一の幸福でなければならない。 ( 「若きグッドマン・ブラウン」から) 深夜の森で開かれた魔女集会に参加し、悪魔からこう聞かされたブラウンは徹底 した人間嫌いにおちいる。 (メルヴィルがホーソーンに宛てた手紙から) 彼は断固として「否!」を言う。 彼とはホーソーンのことで、メルヴィルはアメリカ文学屈指の名作『白鯨』(一 鈴木道雄 八五一年)を「その天才に対するわが称賛のしるしに」ホーソーンに捧げるほど 心酔していた。 一六九二年の魔女裁判 セイ ラムで同年三月から行われた 裁判。魔女として二〇〇名余 が告発され、二〇名以上が処 刑・獄死した。集団暴走の例 として有名。 ブルック・ファーム 文芸評 論家ジョージ・リプリーが、 自然や宇宙との関係を重んじ る超絶主義に共鳴してマサ チューセッツ州ウェストロク スベリーではじめた実験農場。 ブックガイド 『完訳緋文字』八木敏雄訳 (岩波文庫、一九九二年) 文庫、改版一九九五年) 『 緋 文 字 』 鈴 木 重 吉 訳( 新 潮 19世紀 誕生と独立 32 33 緋文字◉ホーソーン チャンドラー ロング・グッドバイ The Long Goodbye らんじゆく 爛熟したロサンゼルス上流社会で起こった殺人事件 一九五三年刊 プライベート・アイ ダシール・ハメットとならんでハードボイルド推 理小説を代表するチャンドラーの傑作で、主人公 フィリップ・マーロウはハメットのサム・スペイ 年に帰国してカリフォルニア パリで教育を受け、一九一二 母とともにイギリスに渡り、 に生まれ、両親の離婚のため チャンドラー レイモンド Raymond Chandler 一八八八~一九五九。シカゴ ド と と も に、 い わ ば タ フ な 私 立 探 偵 の 代 名 詞 に なっている。マーロウは上流社会の暗黒面に潜入 し、富裕層の絶望に驚異の眼を向け、美女たちの えんさ 怨嗟の声に耳をかたむける。 語り手の私立探偵フィリップ・マーロウは、泥酔した男がロールスロイスから路上に 転げ落ちるところに遭遇し、彼を自宅にはこんで介抱してやる。テリー・レノックスと 名のる、総白髪で顔に傷跡があるが若くて礼儀正しいこの男に、マーロウは不思議な友 へ 移 り 住 む。 四 十 代 半 ば か ら、ロサンゼルスの暗黒面に 情をおぼえる。レノックスは妻である富豪ハーランの娘シルヴィアにいったん離婚され て貧窮するが、すぐまた復縁する。 などの長編や短編集を残した ほか、映画台本も執筆した。 じめる。『さらば愛しき女よ』 眼を向けた推理小説を書きは 事件は、ある早朝レノックスが殺気だった様子でやってきて、メキシコのティファナ まで車で送ってほしい、そこから飛行機に乗りたいのだが、と哀願したときにはじまる。 ほうじよ 飛行機に乗るのを見届けて帰宅すると二人の刑事が待ちかまえていて、マーロウは、妻 殺害で指名手配されたレノックスの逃亡を幇助した容疑で逮捕される。シルヴィアの全 裸死体が自宅の別館で発見されたのだ。だがやがて、突然レノックス事件は解決ずみと 戦後の風景 160 161 ロング・グッドバイ◉チャンドラー いうことになって、彼は釈放される。レノックスは妻を殺してメキシコに逃亡し、ホテ ルで自殺したという。 マーロウに、決着ずみの事件を詮索するなという圧力があちこちからかかってくる。 たとえば、ラスヴェガスのクラブ経営者とギャングのボスから。この二人はレノックス の戦友で、かつてノルウェーの戦場で彼の英雄的行為によって命を助けられたのだ。レ ノックスは行方不明になり戦死したと思われたが、じつは重傷をおってドイツ軍の捕虜 となり、ひどい傷跡が残ってしまったのだという。 * いったん落着したレノックス事件は意外な方向に展開をみせる。ある日探偵事務所に アイリーン・ウェイドという女性が訪ねてきて、行方不明の夫ロジャーを探してほしい と依頼する。彼はアイドル・ヴァレーに広壮な屋敷をかまえる、いまをときめくベスト セラー作家だが、好色ものしか書けず、敬愛するフィッツジェラルドに遠くおよばない 自分への不満から酒びたりになっていた。マーロウは、いかがわしい精神科医に監禁さ れていたロジャーを救出して連れもどす。アイリーンは、夫を愛しています、でも娘時 代のような、身も世もない愛し方ではありません、とマーロウに打ち明ける。「その当 時私が愛した人は戦争で亡くなりました。その人のイニシャルは偶然の一致ですが、あ なたと同じです。……死体は最後まで発見されませんでした」。そしてこのウェイド邸 で事件が起こる。湖水を見晴らす書斎でロジャーが拳銃自殺をとげたのだ。他殺の可能 性も排除できなかった。 マーロウは、アイリーンの告白のなかの「あなたと同じイニシャル」をもつ人物とは、 調査機関を通じて調べのついていたポール・マーストンに相違ないと直感する。戦後 ニューヨークでこの名前で人に知られていた、顔に傷跡のある総白髪の男は、やがて西 部に渡ってテリー・レノックスと名を変え、富豪の娘シルヴィアの夫におさまったのだ。 これはアイリーンにとって受け入れがたい現実だった。しかも、シルヴィアは彼女の理 想の恋人をうばったばかりか、現在の夫ロジャーをも誘惑していた。「(フィリップ、あ なたは)私の記憶を今一度暴いています。些細な嘘をついたことで私を罰しようとして いる……」 。そう叫んだのち、彼女は自殺する。 物語の最後に、メキシコ人の姿に変装したテリー・レノックスが探偵事務所に現れて、 事の次第を語る。彼は偽装自殺によってハーラン家の体面を救ったのだが、これは彼と しては人生第二の犠牲的行為だった。さて、シルヴィア殺しとロジャー殺しの犯人は誰 でしょう。 タフな 探 偵 、 フ ィ リ ッ プ ・ マ ー ロ ウ の 魅 力 * たしな この私立探偵は、謎解きよりも事件の渦中にある人物の人間像を想像することに、よ り多くの関心をもっている。潔癖で無欲で審美的。それゆえ清貧だが、手料理を客にふ * るまうことができ、ギムレットを嗜み、ユーモアを解する。テリー・レノックスから五 千ドル紙幣を送られても一幅の絵画のようにあつかい、犯人かもしれない男との友情を けっして裏切らない。 繊細な 文 体 を も っ た ハ ー ド ボ イ ル ド 推 理 作 家 チャンドラーは推理作家のなかにあってきわめて純文学的な志向の強い人物であり、 アイドル・ヴァレー サン・ フェルナンド・ヴァレーのど こかの地域をモデルにしたら しい架空の土地。ロサンゼル スの最富裕層専用の住宅地と される。 ギムレット レノックスは物 語の冒頭近くでマーロウにそ の作り方を教えている。ジン を半分とローズ社のライム・ ジュースを半分まぜるのが本 式の製法だという。 五千ドル紙幣 第四代大統領 マディソンの肖像画が入った 高 額 紙 幣。 「全米でもせいぜ い千枚くらいしか流通してな いだろう」とマーロウは憶測 する。 戦後の風景 162 163 ロング・グッドバイ◉チャンドラー * 『ロング・グッドバイ』のなかでロジャーの筆を借り、フィッツジェラルドへの傾倒を 表明している。一読してあきらかなように、本作品は『偉大なギャツビー』とよく似た 一人称小説になっている。 し いと ーロウものとしてほかに、処女長編『大いなる眠り』(一九三九年)、『さらば愛 マ ひと (四〇年) 、 『プレイバック』 (五八年)などがある。 き女よ』 この一言 請求するものはありません、ミセス・ウェイド。……そのぶんはすでに支払ってい ただきました。 キスによって支払いはもうすんでいるという意味の、フィリップ・マーロウの粋 な言葉。 寺門泰彦 人生で最も切ないものは、美しいものごとが若いうちに命脈を絶たれることではな く、年老いて穢れていくことなのです。 アイリーン・ウェイドの遺書にあった言葉。 →偉大なギャツビー ブックガイド 清水俊二訳(早川書房、ハヤ 『長いお別れ』 カワ・ミステリー文庫、一九 七六年) 村上春樹訳(早川書房、軽装 『ロング・グッドバイ』 版、二〇〇九年) 戦後の風景 164 165 華氏451度◉ブラッドベリ
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