授受動詞「クレル/クダサル」の意味拡張についての一考察 氏 名:朱秀麗 指導教官:周 年 星 度:2007/2008 要旨 「クレル/クダサル」を対象に日本語の動詞の意味拡張の過程を分析したも のである。意味の拡張分析は文法化の意味論的解明でもある。日本語学習者は 基本的な動詞を習得しても、その意味的に拡張された用法まではすぐに使いこ なせない。言葉ごとに拡張のされ方が違うと考えられるからである。 分析にあたって、認知言語学の意味拡張理論を用いて、授受動詞のプロトタ イプ的な意味を認定して、 「クレル/クダサル」の本動詞用法を基本とし、<与 え手><受け手><移動対象><移動する動作>という授受を構成する四つ の要素を(1)与え手・受け手の意識性(2)与え手・受け手が移動対象に対する 所有権(3)移動対象が空間的に移動する(4)移動対象が目標に到着するなど の問題と関連させて展開した。研究方法として、本動詞と補助動詞用法の意味 を統合的に分析し、用例を各意味に基づいてクラスターに再分類し、それぞれ の意味分析を行い、各意味の関連性を検討するという手順を踏む。 結論として、「クレル/クダサル」は「もの授受」を表す用法が基本的な意 味であると認められる。基本的な意味の「クレル/クダサル」は、<移動対象 >である<もの>は具体性、有意志性などの性質に制約がない、<移動方向> は、「主語である与え手」から「非主語である受け手」へという客観的な方向 である。また、本動詞の「クレル/クダサル」に恩恵の萌芽があることが分か る。 拡張用法として、補助動詞「クレル/クダサル」は、メタファーによる拡張 に「行為授受を表す用法」 「行為支配権授受を表す用法」 「事態授受を表す用法」 「変化授受を表す用法」という四つの用法が認められる。また、行為・動作と 精神との共起同時関係に基づくメトニミーによる拡張に「恩恵を表す用法」 「迷 惑を表す用法」 「願望を表す用法」 「依頼を表す用法」という四つの用法、全体 ―部分関係に基づくメトニミーによる拡張に「移動方向を表す用法」と、「立 場を表す用法」という六つの用法が認められる。このように、「クレル/クダ サル」には本動詞と補助動詞を統合的に分析し、併せて十一の用法が見られる ことになる。 また、《恩恵》という意味カテゴリーは<物・所有権などの移動>からメト ニミーによって拡張されると考えられる。意味拡張のプロセスにおいて、<移 動対象>には抽象化が見られると同時に、<与え手>の意識性が薄くなり、視 点が<与え手>から次第に<受け手>へ、更に<話し手>へと移動する傾向が 見られる。このように、授受を構成する要素が抽象化することによって、「ク レル/クダサル」の意味が拡張されることを明らかにしたものである。 キーワード:意味拡張 プロトタイプー的な意味 授受 多義 摘要 论文以「クレル/クダサル」为研究对象分析其语义扩展的过程。对语义扩展 的分析也可以说是从语义学上对其语法化现象的阐明。日语学习者虽然学习了该 基本动词,却不能很灵活地运用各种用法。因为不同的词,其语义扩展方式也有 所不同。 分析时运用认知语言学的语义扩展理论,确认授受动词的原型义,把「クレル /クダサル」授受动词用法作为基本用法,将四个语义要素(给予者、接受者、 移动对象、移动动作)与(1)给予者、接受者的意识性;(2)给予者、接受者 对给予物的所有权;(3)移动对象在空间的移动(4)移动对象到达目标等问题 相结合展开分析。作为研究方法,把「クレル/クダサル」授受动词和授受助动 词综合起来分析,把例句按照不同用法进行分类,分析各用法的特点和相互间的 关联性。 作为论文结论,认定给予事物义为「クレル/クダサル」的基本义。作为基本 义的「クレル/クダサル」其移动对象是事物,事物的具体性、意识性不受限制, 移动方向为从主语的给予者到非主语的接受者的客观移动方向。同时,发现在授 受本动词上有恩惠意识的萌芽。 在此基础上, 「クレル/クダサル」通过隐喻和转喻机制进行语义扩展。由隐喻 机制引申出四种语义类型:给予行为义、给予行为支配权义、给予事态义、给予 变化义;以行为与精神的共时性为基础转喻引申出四种语义类型:恩惠义、受害 义、愿望义、请求义;以整体与部分的关系为基础转喻引申出两种语义类型:表 移动方向义、表说话者立场义。认为「クレル/クダサル」具有总共十一种语义 类型。 与此同时,认为表恩惠的语义类型由给予事物、给予行为、给予支配权转喻而 来。在语义扩展的过程中,移动对象抽象化,给予者的有意性逐渐减弱,句子的 视点有给予者向接受者、说话者转移。论文进一步明确了随着构成给予行为的四 个语义要素的抽象化,「クレル/クダサル」的语义得到扩展的现象。 关键词:语义扩展 原型义 授受 多义 授受動詞「クレル/クダサル」の意味拡張についての一考 察 目次 目次…………………………………………………………………………………1 第1章 はじめに…………………………………………………………………1 1 研究動機 ………………………………………………………………………1 2 研究目的と研究方法 …………………………………………………………2 第2章 先行研究…………………………………………………………………3 1 意味的特徴に関する研究 ……………………………………………………4 1.1 恩恵型「クレル/クダサル」に関する研究…………………………4 1.1.1 構文的な特徴についての研究 …………………………………4 1.1.2 待遇表現と関わる研究 …………………………………………5 1.2 非恩恵型「クレル/クダサル」に関する研究………………………6 2 各意味の関係に関する研究 …………………………………………………8 2.1 史的な観点からの考察…………………………………………………8 2.2 意味論的な観点からの分析……………………………………………9 第3章 認知言語学的なアプローチ……………………………………………10 1 メタファー・シネクドキー・メトニミーと意味拡張 ……………………10 2 複数の意味を統括するモデル ………………………………………………13 第4章 「クレル/クダサル」の複数の意味用法……………………………16 1 「授受」のプロトタイプ的な意味 …………………………………………16 2 本動詞「クレル/クダサル」の意味用法 …………………………………17 3 補助動詞「テクレル/テクダサル」の意味用法 …………………………20 3.1 メタファーによる拡張 ………………………………………………20 3.1.1 行為授受を表す用法 ……………………………………………20 3.1.2 行為支配権授受を表す用法 ……………………………………23 3.1.3 事態授受を表す用法 ……………………………………………24 3.1.4 変化授受を表す用法 ……………………………………………26 3.2 メトニミーによる拡張①………………………………………………27 3.2.1 恩恵を表す用法 …………………………………………………28 3.2.2 迷惑を表す用法 …………………………………………………29 3.2.3 願望を表す用法 …………………………………………………30 3.2.4 依頼を表す用法 …………………………………………………31 3.3 メトニミーによる拡張②………………………………………………33 3.3.1 移動方向を表す用法 ……………………………………………33 3.3.2 立場を表す用法 …………………………………………………35 第5章 結論………………………………………………………………………37 1 意味拡張のネットワーク ……………………………………………………37 2 意味拡張の過程について ……………………………………………………39 おわりに……………………………………………………………………………41 用例出典……………………………………………………………………………41 参考文献……………………………………………………………………………42 1 授受動詞「クレル/クダサル」の意味拡張についての一考察 第1章 はじめに 1 研究動機 人間は社会的な存在として、日々の共同生活を営むため、諸行為を行っている。 授受という行為はその諸行為において重要な地位を占めることは言を待たない事 実であろう。 日本語の授受動詞には「①a クレル・b クダサル・②a アゲル・b ヤル・c サシア ゲル ③a モラウ・b イタダク」という3系列 7 形式があり、中国語と比べてかな り複雑な形をとっている。そのため、興味ある研究対象であるが、中国人の日本語 学習者にとっては、学習上の難点の一つである。 3系列 7 形式の授受動詞の中で、特に「クレル」系の誤用・脱落が多発している 1 。「クレル/クダサル」の誤用・脱落を次の例で取り上げてみよう。 誤用: (1) *山田さんは弟にこのカメラをあげました。(正しくは「くれました」) (2) *この雰囲気の中で、人々は偏見を捨てて、スポーツを通して他人と競争し つつ、コミュニケートしてから、相手の気持ちも分かってくれる。(正しく は「分かってくる」) (3) *夕べ先生の家で写真を見せていただいたり、いろいろな話をしてくださっ たりしました。(正しくは「していただいたりしました」) 脱落: (4) 爸爸妈妈每年给我寄两次钱。*両親は一年に二回(私に)お金を送(ってく れ)る。 (5) *先生はわたしの意見をとても面白いと言っ(てくれ)た。 (6) *私が勉強で困ったことにあった時、インターネットは先生のように手伝っ て、いろいろな知識を教え(てくれ)る。 (7) *雪がもっと降(ってくれ)るといいと思います。 このような誤用・脱落を招いた原因として、 「くれる」の方向性への理解不足や 1 王燕((2004):《谈“表评价的‘~てくれる’”——“~てくれる”的派生义之一》;中崎温子(2005):『多文化 共生社会の日本語教育―「コミュニケーション」ということの考察を通して』による。 1 日本語の授受動詞を弁別する身内素性や待遇素性2をはっきり認識していないこと が考えられる。 「クレル/クダサル」の使い方をマスターする上で、 「くれる/くだ さる」の方向性・身内素性・待遇素性などを正しく理解することは確かに大切であ るが、 「クレル/クダサル」の方向性・身内素性・待遇素性などをはっきり認識し ていれば、必ず「クレル/クダサル」を正しく使えるとは限らない。「クレル/ク ダサル」の意味用法はかなり複雑な様相を示しているからである。 「クレル/クダ サル」の脱落、特に例(6)のような「無生主語+~(させ)てくれる」の脱落率が 高いのは「クレル/クダサル」の方向性や身内素性への理解不足からだというより、 「クレル/クダサル」の意味用法を十分に把握していないから生じたものではない か。「クレル/クダサル」は本動詞の意味から助動詞用法が派生されて、更に複数 の意味へ拡張した。日本語学習者は基本的な動詞を習得しても、拡張された用法ま ではすぐに使いこなせない。 本動詞の「クレル/クダサル」から補助動詞用法が派生されたことは明白である が、補助動詞が本動詞の意味をどれほど維持しているか、あるいは、失っているか、 つまり、「クレル/クダサル」は本動詞の意味のほかに、どのような拡張的な意味 があるか、または、意味の拡張の過程はどのようなものか。「クレル/クダサル」 の各意味を分析し、各意味ののつながりや意味拡張のメカニズムを解明することは、 日本語学習者の意味習得過程を解明する手掛かりとなり、「クレル/クダサル」の 習得に役立つものと思われる。 2研究の目的と方法 認知言語学的なアプローチでは、言語能力は人間の視点の投影やカテゴリー化な どの認知能力と不可分の関係にあり、メタファー・シネクドキー・メトニミーなど による人間の創造的な認知能力に基づいて言語の意味拡張が生じるとしている。 認知言語学の意味拡張理論に基づき、授受動詞「クレル/クダサル」を対象に、 複数の意味を認定し、各意味の展開、即ち各意味の拡張関係を明らかにすることが 本稿の目的である。また、それぞれの意味についてはどのように使われているかを 探ろうとしている。本稿で分析対象とする「クレル・クダサル」は多義語であり、 複数の意味が存在すると認められる。 2 奥津敬一郎(1984)授受動詞の構造―日本語・中国語対照研究の試みー[A]『金田一春彦博士古稀記念論 文集』第二巻 言語学編 東京:三省堂 2 研究方法としては、認知言語学の意味拡張理論を用いて、「クレル/クダサル」 の本動詞用法(給与動詞のプロトタイプ的な意味)を基本とし、<与え手><受け 手><移動対象><移動する動作>という授受を構成する四つの要素を(1)与え 手・受け手の意識性(2)与え手・受け手が移動対象に対する所有権(3)移動対象が空 間的に移動する(4)移動対象が目標に到着する、などの問題と関連させて展開して いこうと思う。 本動詞と補助動詞用法の意味を統合的に分析し、用例を各意味に基づいてクラス ターに分類し、各意味を認定した上で、各意味の関連性を検討するという手順を踏 む。用例は、主に夏目漱石の『吾輩は猫である』、川端康成の『湖』 『山の音』など の文学作品から収集したものであるが、インターネット、新聞や教科書、辞書類か ら引いたものもある。書類からの用例の後にはその出典を書いてあるが、インター ネットからの用例と学生の誤用例にはその出典を付けていない。 以下は第二章で「クレル/クダサル」に関する従来の研究を概観して、先行研究 の研究成果を整理し、問題点を提出する。第三章で、認知言語学におけるメタファ ー・メトニミー、複数の意味を統括するモデルについて紹介する。第四章、 「授受」 のプロトタイプ的な意味を分析して、「くれる/くださる」の用例を用法に基づい て各意味カテゴリーに再分類し、それぞれの意味特徴を考察し、各意味の関係を検 討する。第五章は、第四章における意味分析を踏まえて、「クレル/クダサル」の 意味拡張メカニズムをネットワークでまとめ、意味拡張の過程における傾向を分析 する。 第2章 先行研究 日本語の授受動詞についての研究は従来、活発に行われている。それらの先行研 究は大きく分けて、恩恵を中心とした意味に関する記述及び考察、格表示やヴォイ ス的な特徴など構文的特徴を扱った考察、更に談話的な特徴を捉えた考察などが見 られる。 アプローチの方法として、史的観点からの考察が見られるほか、構造言語学、意 味論、語用論に基づいた分析も多く見られる。また、英語や中国語との対照研究も 散見される。 本論では、 「クレル/クダサル」の意味に関する主な先行研究を「意味的特徴に 3 関する研究」と「意味関係に関する研究」に分けて、まとめていきたい。 1 意味的特徴に関する研究 「クレル/クダサル」の表す意味について、数多くの研究がなされている。その 主なものとして、鈴木重幸(1972)、鈴木丹士郎(1972)、宮地裕(1975)、大江三 郎(1975)、久野暲(1978)、奥津敬一郎(1984)、堀口純子(1987)、森田良行(1995)、 由井紀久子(1990b、1996)、橋元良明(2001)、井出里咲子(2001)、益岡隆志(2001)、 山田敏弘(2004)などがある。 従来の研究では、「クレル」の恩恵性や待遇表現などに焦点が当てられている。 以下、恩恵型「クレル」に関する研究と非恩恵型「クレル」に関する研究という二 つの部分に分けてまとめる。また、恩恵型「クレル」を構文的な特徴についての研 究と待遇表現と関わる研究に分けて記述する。 1.1 恩恵型「クレル/クダサル」に関する研究 1.1.1 構文的な特徴についての研究 恩恵という意味をもつ受益文に関して、鈴木重幸(1972)、Mosuoka Takashi(1981)、 堀口純子(1987)山田敏弘(2004)では、受益文の含む事態に関する制限、与益者 の自己制御性3、受益者の格表示、主語の有情性などを考察した。 鈴木重幸(1972:397)、堀口(1987:125-126)は「*足がしびれてくれる。」 が不自然であるように、「原則として無意志動詞は補助動詞「ヤル・クレル・モラ ウ」の前には使えない」とする。一方、無意志動詞が使える場合もあると述べ、次 の例を挙げている。 (8) 私の言うことは分かってくれる。 (9) システムがいくつか売れてくれた。 (10) 母親は自分の時間を作るために、まず子どもを外で遊ばせる。たくさん遊 ぶと子どもは疲れてくれる。(以上、堀口 1987:125 より) 堀口(1987)と異なった記述を行うのは Masuoka Takashi(1981)である。Mosuoka 3 仁田義雄(1990:389-390)は動作主の動きの発生・遂行・達成に対する意志的な制限という観点から、動 詞(事態)が、達成の自己制御性をもつ場合、過程の自己制御性を持つ場合、非自己制御性的なものの三つに 分類する。 4 (1981:74)は「(テクレル受益文の)主語」には、どのような名詞句も現れ得る (any kind of noun phrase can appear in the subject of this construction)」 と述べ、次のような例を挙げている。 (11) よい時に雨が降ってくれたことは幸運だった。 (12) 野菜が値下がりしてくれて、我々は大助かりだった。 (13) いっそわが家が全焼してくれたらよかったのに。 (以上、Mosuoka 1981:74 より) しかし、堀口(1987)でも Masuoka(1981)でも例(8)や(9)のような場合に は「クレル」受益文がまったく自然に無意志動詞を含み得る理由が十分には説明さ れていない。 山田(2004)は「テクレル受益文は、与益者が動詞に対して、達成の自己制御性 をもつ事態、過程の自己制御性をもつ事態、非自己制御性的な事態の、いずれの場 合にも用いられる」と述べている。また、与益者の特徴について、有情性を中心に 考え、 「テクレル受益文は与益者として、有情物を取る場合が普通であるが、無情 物、話者自身の身体部位が主語になっているものもある。」と指摘した。しかし、 有情物が与益者になる場合と無情物が与益者になる場合の意味の違いはあまり説 明されていない。 1.1.2 待遇表現と関わる研究 恩恵という意味は、さらに待遇表現に大きく関わっていく。この観点からは奥津 (1984)、橋元良明(2001)、井出里咲子(2001)等一連の研究が優れている。 奥津(1984:77-79)は日本語の授受動詞を<与エ手主語>素性、待遇素性4、 <身内へ>素性で弁別するとして、「クレル」は<与え手>が<目下>で<ヨソモ ノ>で<主語>であり、<受け手>が<目上>で<身内>で<非主語>である場合 に使われる」、 「クダサルは<与え手>が<目上>で<ヨソモノ>で<主語>であり、 <受け手>が<目下>で<身内>で<非主語>である場合に使われる」と述べてい る。 橋元良明(2001:51)は気配り5の原則を参照しながら、語用論的に授受表現を 4 奥津(1984)は<中立><見上げ><主語>という待遇表現に関する三つの素性を待遇素性と呼んでいる。 橋元(2001)によると、 「相手に礼を尽くし良好な関係を維持する」という社会的行為の大前提と一致させる ために、他者に対する負担を最小限にし、あるいは他者に対する利益を最大限にするという配慮を言語上で工 夫することは「気配りの原則」であるということである。 5 5 概観した。 「私に車で送らせてくださいませんか?」の表現では、本来、恩恵は私 から相手に施されると考えられるにもかかわらず、 「クレル」系のクダサルの使用 により、恩恵は相手から私に施されることが表明されている。過剰なまでの気配り である。また、 「よくぞ私の顔に泥を塗ってくださいましたね。」などの場合は相手 からの「恩恵」に言及することによるアイロニー(皮肉)である、と述べている。 井出里咲子(2001)では、「日本語における授受表現は広義には人間関係を規定 する待遇表現としての機能を担っている。」と指摘して、 「テクレル」は人と人との 間を恩恵で繋ぐ機能を果たしている、と述べている。 1.2 非恩恵型「クレル/クダサル」に関する研究 一方、「クレル/クダサル」には、恩恵が含意された用法の他に、恩恵という意 味が必ずしも感じられない用法がいくつかある。非恩恵「クレル」に関する先行研 究はあまり多くなく、鈴木丹士郎(1972)、大江三郎(1977)や森田良行(1995)、 由井紀久子(1996)、山田敏弘(2004)などの考察が挙げられる。 鈴木丹士郎(1972)は、テクレル文が、他に恩恵を与える場合のみならず、不利 益(害)を与える場合があることを述べ、大江三郎(1977)は皮肉という観点から、 英語との対照を通じて非恩恵的な「クレル」について論考している。 森田良行(1995:176-179)では、日本語は事態の中に入っていって、自らの目 で事態と自分との関係を内側からみようとすることを指摘している。「クレル」が いろいろ意志的な動詞に付いて、 「他利」だとか「自利」だとかの意味合いを添え ると言っても、また、 「利」とは必ずしも「利益」ばかりを意味しない、時には「不 利益」もあり、また、聞き手には何らか関わりのない場合すらある」と述べている。 「えらいことをしてくれたよ。これからの後始末が大変だ。」のように、相手側 に発するマイナス行為が一方的・受身的に当方に及ぶことを迷惑がる意識で、困惑 な感情を表す用法がある、と指摘した。 「今忙しいから、早く帰ってくれ。」「うる さいから、やめてくれ。」のように、こちら側から積極的にマイナス状態の排除を 要求している。これは「教えてくれ」「書いてください」のような、こちら側の希 望に従って、他の者を実現へ引き入れる依頼表現の裏返しと言っている。また、こ の能動的な依頼表現のほか、 「今からでも試験を受けさせてくれるといいが」のよ うに、消極的な、相手に意思を伺うという許可・許容の要求もある。 6 このように、同じ「クレル」でも、利益・不利益・恩恵・迷惑といったプラスの 評価とマイナスの評価に分かれる。「一生懸命に働いてくれた」といえば、受益へ の感謝だが、「えらいことをしてくれた」となると相手への迷惑感情が先行する。 「くれる」がプラスだマイナスだというのではなく、内容次第でどちらにも転ぶ、 と述べている。 由井紀久子(1996)は「クレル」における意味の抽象化過程を考察するために、 「クレル」の意味分析を行い、本動詞クレル、恩恵行為の補助動詞、恩恵事態の補 助動詞、行為の影響の補助動詞の四つのクラスターに分けて述べている。その中で、 行為の影響のクラスターとするのは「よく恥をかかせてくれたな」のような皮肉用 法や、 「愛人でいいのと歌う歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う」のような、 プラスとかマイナスとか決めがたく、行為の影響が自分にかかっていることを表す 用法である。 山田(2004)は、非恩恵の「テクレル」について、行為の方向性が話し手(側) から他者に向かう遠心的な方向を持ったものとして表される場合と、他者から話し 手(側)へと向かう求心的な方向を持ったものの2通りが認められると考え、遠心 的非恩恵型「テクレル」は受影者存在型では用いられるが、受影者不在型は許容で きない6と指摘している。また、求心的非恩恵型テクレルを「非恩恵明示型テクレ ル文」 「非恩恵暗示型テクレル文」 「受影表示型テクレル文」という三つの用法に分 けて、考察を行った。 このように、これらの先行研究は、 「クレル/クダサル」には恩恵用法のほかに、 非恩恵な用法があることを認めた上で、非恩恵用法への考察を試みた。非恩恵型の 用法については、 「マイナス利益」 「迷惑」を表す用法が認められる。さらに、山田 (2004)はこの非恩恵型「クレル」を方向性や受影者の存否という構文的特徴から 考察をした。 しかし、これらの非恩恵型「クレル」は一体どんな意味を表しているか、ただ「非 恩恵」「マイナス利益」などでは十分に説明されないだろう。また、由井(1996) が言及した、プラスとかマイナスとか決めがたい用法はどう扱ったらいいのか。そ れに、この非恩恵型「クレル」と恩恵型「クレル」がどんな関係を持っているか。 これらの問題について、なお考察する余地があると考える。 6 山田(2004)では話者の行為によって何らかの影響を受ける人物を「受影者」といい、実際には影響が及ん でいなくても話者が受影を想定もしくは意図していれば、「受影者」という用語を用いることにする。 7 2 各意味の関係に関する研究 「クレル/クダサル」の意味的特徴に関する先行研究と比べて、意味関係に関す る先行研究は、管見の限り、ずっと少ないようである。以下、史的な観点から、歴 史的な過程の中で「クレル/クダサル」の意味変化を考察するものと、意味論的な 観点から意味拡張過程を分析したものに分けてまとめよう。 2.1 史的な観点からの考察 「クレル/クダサル」の意味用法の発展、変化を史的に考察するものには、主に 前田富祺(2001)、荻野千砂子(2007)などがある。 前田富祺(2001)は「クレル」の意味の変遷を歴史的にたどり、そこに働く人間 関係に対する時代の考え方の反映を探る。古代では、「くる(くれる)」は「(舵取 り)よね、酒、しばしばくる」(土佐日記)「人のものをくれ候時は何をもたぶる」 (御伽草子・物くさ太郎))のごとく、現代と同様に相手が自分側に物をくれる場 合にも使われたが、 「此の部屋にこめて物なくれそ」 (落窪物語)のように、下位の 者に物を与える意味でも使われる、と述べている。 また、中世以降、話者のために、主体が何かをしてくれることを依頼する表現と して、 「~てくれ(よ)」を使うことが多くなった。「~てくれる」の主体に恩恵を 感ずることにもなる。下位の相手に対して、 「~てくれん」と意志を表す表現をす る場合もあり、主体を高めて、相手を見下ろす表現となる。その後、「くれる」は 主体を上位、相手を下位とし、話者がどちらの立場にいるかによって好悪のどちら かの感情を伴って与える意味を表すことになる。しかし、非好意的に与えるの意の 「クレル」は使われなくなっており、 「くれてやる」が使われるようになる。 (前田 2001:38) 荻野千砂子(2007)によれば、「テクレル」は 16 世紀に増え始め、17 世紀に一 気に増加していることがわかる。また、十五世紀半ばの「テクレル」の用例を分析 した結果、使用に偏りがあり、特に命令形に偏っていることが考えられる。一方、 本動詞クレルでは命令形に偏りはない。また、テ形+補助動詞で依頼を表す表現が 十五世紀半ばから発達したようで、「テクレル」の命令形は依頼表現が多く、未然 形は意志表現が目立つと指摘した。さらに、 「テクレル」の意志表現の価値が変化 8 して別の意味を持つようになり、新しい意味での使用が増えたと指摘し、十七世紀 までの「テクレウ」は単純な意志を表すのが多いが、十八世紀の「テクレウ」は相 手を脅かすや上位者が下位者に威圧的な言い方をする場面で好んで使用されるよ うになっていると述べている。その上、十七世紀になると威圧的な「テクレウ」以 外の意志表現の割合は少なくなり、依頼の「テクレ」形式の割合が多くなると述べ ている。また、「テクレル」の依頼表現の多用により、授与の方向が一定化し、テ クレルの与格に一人称制約が感じられ、用例数でも本動詞を上回るほど発達すると 指摘した。 史的な観点からの先行考察は実証的に「クレル/クダサル」の意味変化のプロセ スを反映している。最初に「クレル」は相手が自分側に物をくれるや下位の者に物 を与えるという両方向の授受を表す本動詞として用いられていた。それから、遠心 的な方向の授受を表すクレルがなくなり、実質的な物の授受がない「テクレル」が 増え始めた。「テクレル」は意志表現から依頼表現へ発達し、意志表現が単純な意 志を表す意味から威圧的な意味へ変化する過程が見られる。この歴史的な意味変化 のプロセスをまとめてみると、両方向の物の授受を表す本動詞から授受の方向が定 まる実質的なものの授受がない補助動詞へ、更に命令形の意志表現や依頼表現へ偏 るということであるが、この意味拡張の動因は何であろうか。認知的なアプローチ で考察をしようとする。 2.2 意味論的な観点からの分析 益岡隆志(2001)は、授受動詞がもつ恩恵性はどこから来るかということを究明 しようとして、「本動詞構文の中に恩恵性の萌芽があり、本動詞から補助動詞への 拡張において、この「恩恵性」の意味的な特徴が受け継がれる」と述べている。 由井紀久子(1996)は本動詞としての「クレル」の意味を基本とし、各意味成分 の関連を見、本動詞から補助動詞へ意味の抽象化の過程を考察している。 本動詞クレルの意味成分を<移動><起点><着点><方向>と設定して、本動詞 クレルを<移動=具体物・所有権>が<起点=他者・行為者>から<着点=自分 (側)>に<方向=求心>の向きに<移動>する意味と分析した。その上で、 「ク レル」の意味分析を行い、<移動>が<移動=具体物・所有権>から<移動=行為 ><移動=事態><移動=行為の影響>へ抽象化していくと指摘した。また、<移 9 動>の内容が抽象化するとともに、<恩恵>あるいは<起点><着点>が意識され なくなり、抽象化が起こっていると述べている。 本論文は由井(1996)の分析からヒントを得て、「クレル/クダサル」の複数の 意味の拡張過程を考察しようとするものである。 第3章 認知言語学的なアプローチ 「使用頻度の高い語は一般に相互に関連のある複数の意味からなる」7と言われ るように、 「クレル/クダサル」は多義語であり、複数の意味が認められる。この 「複数意味の関連」については広く捉え、人間の認知能力と関わっている。 認知言語学的なアプローチでは、言語における意味拡張は我々の持つ創造的な認 知能力に基づいており、類似性に基づくメタファー、シネクドキー、及び近接性、 隣接性に基づくメトニミーが、言語の創造的な側面や人間の拡張的な認知プロセス において、重要な役割を担っている。我々は、具体的な概念だけでなく、抽象的な 概念を理解する能力がある。この能力には、抽象的な領域にある構造をより具体的 な領域にある構造と関連させることで、メタファー的に理解していく創造的な認知 能力が関わっている(山梨 2000 を参照)。また、我々は伝えようとするもの全てを 言葉にするのではなく、その一部だけを言葉にすることによって簡略化して表現す ることが出来る。これには、認知的に際立ったものを言語化することで、それに関 連する別な要素に焦点を向けるというメトニミー的な理解の能力が関わっている。 「クレル」の複数の意味を分析するにあたって、多義語分析の課題として、複数 の意味の認定、プロトタイプ的意味の認定、複数の意味の相互関係の明示、複数の 意味すべてを統括するモデルの解明といった四つの面から考察を進めたい。そのた め、本稿では、籾山洋介の多義語の複数の意味を統括するモデルを用いて研究を進 めようとし、ここにおいて、メタファー・メトニミー・シネクドキーを紹介した上 で、籾山洋介のモデルを説明しておきたい。 1 メタファー・シネクドキー・メトニミーと意味拡張 籾山(1997:31)は佐藤(1992)瀬戸(1986)などを踏まえて、 「メタファー」 7 Langacker Langacker,Ronald.W. (1987:370)Foundations of Cognitive Grammar,Vol.I.Stanford: Stanford universdsity Press 10 「シネクドキー」「メトニミー」を以下のように定義する。 (1)メタファー:二つの事物・概念の何らかの類似性に基づいて、一方の事物・ 概念を表す形式を用いて、他方の事物・概念を表すという比喩。 (2)シネクドキー:より一般的な意味を持つ形式を用いて、より特殊な意味を 表す、あるいは逆に特殊な意味をもつ形式を用いて、より一般的な意味を表すとい う比喩。 (3)メトニミー:二つの事物の外界における隣接性、あるいは二つの事物・概 念の思考内、概念上の関連性に基づいて、一方の事物・概念を表す形式を用いて、 他方の事物・概念を表すという比喩 ある語が従来の意味から新しい意味に転用されるとき、その従来の意味と新しい 意味との関係として、大きくはこの三つのものに区別できると籾山(2002)が指摘 している。つまり、言葉は最も基本的な意味から、類似したものに意味が拡張した り、より特殊な、個別的な意味を表すようになったり、また、その語が本来指示す るものと隣接するものに指示がずれる場合がある。以下、それぞれの比喩の例を挙 げて説明する。また、特に「クレル」の意味拡張のプロセスにおいて重要な役割を 担っているメタファー・メトニミーについて、詳しく説明する。 まず、メタファーの例として、 「職場の花」における「花」がある。つまり、 「花 瓶に花が活けてある」と「Aさんは職場の花だ」という二つの文において、前者の 文の「花」はおよそ<植物が咲かせる美しく人目を引くもの>という意味であり、 後者の文の「花」はおよそ<美しく人目を引く人>という意味であるが、<植物が 咲かせる美しく人目を引くもの>と<美しく人目を引く人>の類似性に基づき、 「花」が後者の意味も表せるわけである(2001:34)。即ち、メタファーは本質的に、 ある事物・概念を他の事物・概念との関連で理解したり経験したりすることである。 メタファーによる意味拡張の方向は、一般に基礎的で具体的な意味からより抽象 的な意味へと向かうものである(崎田智子 2005:147)。メタファーによる拡張の 例として、次の例を挙げる。 A:先生の見方からいうと、私のやり方は間違っているのかもしれませんが、私は これでいいんです。 B:彼の性格から見れば、その程度のことでくよくよしたりしないでしょう。 ここでは、比較的に具体的な概念である「言う/見る」行為が、比較的に抽象的 な概念である「判断する・考える」行為を表すのに用いられる。また、ここでいう 11 「より基礎的で具体的なもの」だとか「より抽象的なもの」の基準を相対的に示し、 概念領域の拡張の方向性を一般化するのに、Heine et al(1991)は以下のような基 本カテゴリーの階層を提唱している。 人間>もの>プロセス>空間>時間>質 この階層中の各カテゴリーはまず人間を中心に据えて、この人間を起点にして広が る距離に基づいて、左に行く程より基礎的で具体的、逆に右に行く程より抽象的に なっている(崎田智子 2005:148)。我々はこのような基本的な傾向に従って、よ り抽象的で複雑な概念をより具体的な領域にある構造と関連させることでメタフ ァー的に理解するのである。従って、このカテゴリーの左から右へという順序で比 喩的に意味が変化していく。 次に、シネクドキーの例として、「花見」における「花」がある。この「花」は <サクラ(の花)>を表しているが、<サクラ(の花)>は<植物が咲かせる美し く人目を引くもの>の一種である。つまり、より一般的な<植物が咲かせる美しく 人目を引くもの>という意味が、より特殊な<サクラ(の花)>という意味になっ ているわけである(籾山洋介 2001:35)。 最後に、メトニミーについて説明する。メトニミーには、(ア)空間的隣接に基 づくものと(イ)時間的隣接に基づくものがある。 (ア)空間的隣接に基づくメト ニミーを細分して、①空間に接しているもの、②全体―部分関係のものが見られる。 (イ)時間的隣接に基づくメトニミーを細分して、①事と事の相続関係、②事・行 為の同時関係、③行為・動作と精神の共起同時関係がみられる。ここでは、「クレ ル/クダサル」の意味拡張に見られる全体―部分関係に基づくメトニミー、と時間 的隣接性に基づくメトニミーについて、例を挙げて説明する。 全体―部分関係に基づくメトニミーの例として、 「顔を出す」を挙げる。 「顔を出 す」における「顔」は<人の顔>そのものを表しているのではなく、<顔>を部分 として持つ<人>全体を現している。<顔>と<人>全体は空間的に隣接して、< 人>が<顔>を含めている全体―部分関係に基づき、<顔>という語で<人>を表 すことが可能になり、 「顔を出す」で<出席する>という意味を言い表すことがで きる。 時間的隣接性に基づくメトニミーの例として、次の三つの例を挙げる。第一、 「お 手洗い」は<用便>と<手を洗うこと>が時間的に連続して行われることに基づき、 本来の<手を洗うこと>という意味から、時間的に先行する<用便(をするところ) 12
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