2007、2,10 マッカーサーに マッカーサーに NOー NOーを言った男 った男・白洲次郎 前坂 俊之( 俊之(静岡県立大学国際関係学部教授) 静岡県立大学国際関係学部教授) 『シラス・ シラス・ジロー』 ジロー』が遅すぎるブーム すぎるブームを ブームを呼んでいる。 んでいる。 「クール・ クール・ジャパニーズ」「 ジャパニーズ」「昭和 」「昭和の 昭和の快男子」「 快男子」「GHQ, 」「GHQ,マッカーサー GHQ,マッカーサーと マッカーサーと戦った男 った男」- さまざまな形容詞 形容詞がつけられているが がつけられているが、「 、「サムライ サムライ精神 精神」 英国紳士道」 さまざまな 形容詞 がつけられているが 、「 サムライ 精神 」と「英国紳士道 」を ブレンドしたその したその無類 無類の ダンディズム、 かっこよさは、 日本近代おとこ おとこ史上 史上に ブレンド したその 無類 のダンディズム 、かっこよさは 、日本近代 おとこ 史上 に めて登場 登場した した颯爽 颯爽とした とした国際人 国際人であり であり、 成熟した した大人 大人の 魅力にあふれ 初めて 登場 した 颯爽 とした 国際人 であり 、成熟 した 大人 の魅力 にあふれ ている。 ている 。 1902年 1902年(明治35 明治35)、 35)、兵庫県芦屋 )、兵庫県芦屋で 兵庫県芦屋で貿易商・ 貿易商・白洲文平の 白洲文平の二男に 二男に生まれる。 まれる。文平は 文平は米ハー バード大卒 大卒で ドイツで 貿易商で 成功をおさめるが をおさめるが、 その後 倒産する する。 バード 大卒 で、ドイツ で学び、貿易商 で成功 をおさめるが 、その 後、倒産 する 。 御曹司の 御曹司の次郎は 次郎は1919年 1919年(大正9 大正9)、17 )、17歳 17歳で第一神戸中を 第一神戸中を卒業後、 卒業後 、英国ケンブリッジ 英国ケンブリッジ大 ケンブリッジ大 番目に 歴史の ケンブリッジ大 クレア・ カレッジ』( 』(全寮制 全寮制) 留学、 青春の で 2 番目 に歴史 の古い『ケンブリッジ 大・クレア ・カレッジ 』( 全寮制 )に留学 、青春 の 最も 多 年間を ごす。 感な 10 年間 を過ごす 。 180Cm の長身で 長身で、石原慎太郎に 石原慎太郎に似たハンサム。 ハンサム。英国貴族の 英国貴族の子弟に 子弟にコンプレックスを コンプレックスを持つど ころか、 金持ちの ちの親 から毎月 毎月1 千万年以上という という仕送 仕送り があり、 英国車ベントレー ベントレーや ころか 、金持 ちの 親から 毎月 1千万年以上 という 仕送 りがあり 、英国車 ベントレー やレイシン グカーなど って乗 すというカーマニア カーマニアぶり ぶり。 グカー など 2 台を買って 乗り回すという カーマニア ぶり 。 不良、 不良、野生児だった 野生児だった次郎 だった次郎はここで 次郎はここで英国紳士 はここで英国紳士の 英国紳士のマナー、 マナー、生活スタイル 生活スタイル 徹底して して叩 まれた。 を徹底 して 叩き込まれた 。 28年 28年(昭和3 昭和3)に、父経営の 父経営の「白洲商店」 白洲商店」は倒産し 倒産し、次郎も 次郎も帰国。 帰国。 英字新聞に めながら、 華族の から米国 米国に 留学していた 英字新聞 に 勤めながら 、華族 の娘 で 4歳から 米国 に 留学 していた 樺山正子( 18歳 結婚する する。 黄金の カップルの 誕生である である。 樺山正子 (18 歳)と結婚 する 。黄金 のカップル の誕生 である 。 太平洋戦争前年の 太平洋戦争前年の1940年 1940年(昭和15 昭和15)、 15)、日米戦争 )、日米戦争の 日米戦争の不可避と 不可避とその敗北 その敗北を 敗北を予測して 予測して会社 して会社 サッサと めて、 町田市旧鶴川村のわらぶき のわらぶき農家 農家を 購入して して引 んだ。 ここが生涯 生涯の をサッサ と辞めて 、町田市旧鶴川村 のわらぶき 農家 を購入 して 引っ込んだ 。ここが 生涯 の住 武相荘』( 』(無愛想 無愛想の 意味) となった。 処『武相荘 』( 無愛想 の意味 )となった 。 1 「戦争になれば 戦争になれば必 になれば必ず日本は 日本は敗れ、空襲で 空襲で東京は 東京は焼け野原になる 野原になる。 になる。食料がなくなるから 食料がなくなるから、 がなくなるから、俺 田舎で 農業をやる をやる」。 田舎 で農業 をやる 」。 その体験 その体験から 体験から両国 から両国の 両国のケタ違 ケタ違いの国力差 いの国力差、 国力差、英米人の 英米人のジョンブル気質 ジョンブル気質を 気質を知っていたのである。 っていたのである。英 貴族階級が 田園生活を 国の貴族階級 が田園生活 を楽しむ「 しむ「カントリー・ カントリー・ゼントルマン( ゼントルマン(田舎紳士)」 田舎紳士)」に )」に転進し 転進し、本気 農業に んだ。 で農業 に取り組んだ 。 案の定、敗戦、 敗戦、東京は 東京は廃墟に 廃墟に。国難に 国難に白洲の 白洲の出番がやってくる 出番がやってくる。 がやってくる。旧知の 旧知の外相、 外相、その後首相 その後首相 となる吉田茂 吉田茂から から懇願 懇願され され、 終戦連絡事務局参与となり となり、 GHQ( 連合国総司令部) となる 吉田茂 から 懇願 され 、終戦連絡事務局参与 となり 、GHQ ( 連合国総司令部 ) と英 理解の 知識を かしキングス キングス・ イングリッシュを 駆使して して、 対等に 勝負した した。 米理解 の知識 を生かし キングス ・イングリッシュ を駆使 して 、GHQ と対等 に勝負 した 。 マッカーサーの マッカーサーの参謀で 参謀で GHQ ナンバー2 ナンバー2であったホイットニー であったホイットニー民政局長 ホイットニー民政局長と 民政局長と初対面の 初対面の際には、 には、見 した態度 態度の 白州さんは さんは大変 大変うまい うまい英語 英語ですね ですね」 ったのに、 即座に あなたも、 もう少 下した 態度 の「白州 さんは 大変 うまい 英語 ですね 」と言ったのに 、即座 に「あなたも 、もう 少し 英語を 勉強すれば すれば、 うまくなりますよ」 した。 英語 を勉強 すれば 、うまくなりますよ 」と切り返した 。 GHQ はホ局長が 局長が中心となって 中心となって憲法草案 となって憲法草案をわずか 憲法草案をわずか1 をわずか1週間で 週間で作り、 日本側に けてきた。 日本側は これを徹夜 徹夜で 翻訳して して日本 日本側 に押し付けてきた 。日本側 はこれを 徹夜 で翻訳 して 日本 提出するが するが、 白洲は いを『 ジープ・ ウエイ・ 案を提出 するが 、白洲 は日米の考え方の違いを 『ジープ ・ウエイ ・ レター』 という英文 英文の 反論書に げて突 きつけた。 レター 』という 英文 の反論書 に書き上げて 突きつけた 。 白洲は 白洲 は 「 プリンシプル( プリンシプル ( 原則、 原則 、 哲学)」 哲学 )」をもった )」 をもった男 をもった 男 であり、 であり 、それは、 それは 、 日本精神と 日本精神 と英国紳士の 英国紳士のモラルで モラルで磨き上げられたハイブリッド げられたハイブリッド性 ハイブリッド性で あった。 あった 。 大部分の 大部分の日本人が 日本人が敗戦によってそれまでの 敗戦によってそれまでの「 によってそれまでの「鬼畜米英」 鬼畜米英」から一転 から一転して 一転して、 して、意気疎そうして 意気疎そうして卑屈 そうして卑屈 になり、 ペコペコする する中 白洲は 毅然として として交渉 交渉に たり「 従順ならざる ならざる唯一 唯一の になり 、GHQ にペコペコ する 中で、白洲 は毅然 として 交渉 に当たり 「従順 ならざる 唯一 の日 本人」 された。 本人 」と評された 。 その苦闘 その苦闘ぶり 苦闘ぶりは ぶりは一切家族にも 一切家族にも口 にも口にしなかったが、 にしなかったが、寝言でよく 寝言でよく「 でよく「Shut up!」「 up!」「Get !」「Get out!」 out!」など !」など 大声でどなるのを でどなるのを正子 正子は 何度も にした、 という。 大声 でどなるのを 正子 は何度 も耳にした 、という 。 1948年 1948年 (昭和23 昭和 23) 23) 年 、白洲は 白洲は 貿易庁長官( 貿易庁長官 (今の 通商産業省の 通商産業省の 前身) 前身 )となり、 となり 、その後 その後の 日本の 貿易立国の 基礎を くと同時 同時に 吉田首相の 外交顧問役を けた。 日本 の貿易立国 の基礎 を築くと 同時 に、吉田首相 の外交顧問役 を続けた 。 51年 51年((昭和 ((昭和26 昭和26) 26)9月、サンフランシスコ講和会議 サンフランシスコ講和会議には 講和会議には特別顧問 には特別顧問として 特別顧問として吉田全権一行 として吉田全権一行に 吉田全権一行に わった。 渡米の 飛行機では では全員 全員スーツ スーツ姿 加わった 。渡米 の飛行機 では 全員 スーツ 姿だったが、 だったが、唯一、 唯一、白州は 白州は機内では 機内ではT ではTシャツ、 シャツ、ジー 2 パンスタイルで パンスタイルで、「アメリカ 、「アメリカはたかだか アメリカはたかだかT はたかだかTシャツ、 シャツ、ジーンズの ジーンズの国。たいしたことないよ」 たいしたことないよ」と笑っていた。 っていた。 サンフランシスコ講和条約 サンフランシスコ 講和条約では 講和条約 では、 では、吉田は 吉田は 当初、 当初 、英語で 英語 で受諾スピーチ 受諾スピーチをする スピーチ をする予定 をする予定だったが 予定だったが、 だったが、 白洲は 講和条約は 対等の 白洲 は「講和条約 は対等 の関係だ 関係だ。日本語で 日本語で演説をすべきだ 演説をすべきだ」 をすべきだ」と急きょ変更 きょ変更させ 変更させ、 させ、市内の 市内の 中華街に 巻紙を いに行 かせ、 日本語に させた。 スピーチの 巻紙は 30㍍ 中華街 に筆 と 巻紙 を買いに 行かせ 、日本語 に 書き直 させた 。スピーチ の 巻紙 は 30 ㍍ もの さになった。 長さになった 。 GHQ の占領期間中、 占領期間中、白洲は 白洲は「吉田の 吉田の黒幕」、「 黒幕」、「悪 」、「悪しき側近政治 しき側近政治」、「 側近政治」、「財界 」、「財界の 財界の裏の実力者」 実力者」 とさんざん悪口 悪口をいわれたが をいわれたが、 マスコミに らは登場 登場しなかった しなかった。 昭和34 34年 57歳 となった白 とさんざん 悪口 をいわれたが 、マスコミ に自らは 登場 しなかった 。昭和 34 年、57 歳となった 白 政財界の 第一線から から完全 完全に 、「カントリー カントリー・ ゼントルマン」 にもどって、 ゴルフ三 洲は 政財界 の 第一線 から 完全 に 身を引き、「 カントリー ・ ゼントルマン 」にもどって 、ゴルフ 三 カーマニア、 趣味に 没頭の たる晩年 晩年をすご をすごした した。 昧とカーマニア 、趣味 に没頭 の悠々たる 晩年 をすご した 。 寡黙な 寡黙な白洲らしく 白洲らしく遺言 らしく遺言は 遺言は「葬式無用、 葬式無用、戒名不用」 戒名不用」のわずか2 のわずか2行であった。 であった。 (前坂 俊之) 俊之) 3
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